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オルタナティヴ・ロック

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オルタナティヴ・ロック
げん地名ちめい alternative rock
様式ようしきてき起源きげん
文化ぶんかてき起源きげん 1970年代ねんだいすえから1980年代ねんだい初頭しょとうアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくイギリス
使用しよう楽器がっき
サブジャンル
融合ゆうごうジャンル
関連かんれん項目こうもく
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オルタナティヴ・ロック英語えいご: alternative rock)は、ロックいちジャンルである。オルタナティヴ、オルタナ、オルト・ロックなどの略称りゃくしょうがある。

オルタナティヴ(Alternative)とは、「もうひとつの選択せんたくわりとなる、代替だいたい手段しゅだん」という意味いみ英語えいご形容詞けいようし。オルタナ・ロックは、大手おおてレコード会社かいしゃ主導しゅどう商業しょうぎょう主義しゅぎてき産業さんぎょうロックポピュラー音楽おんがくとは一線いっせんかくし、アンダーグラウンドの精神せいしんつロックのジャンルである。イギリス、アメリカだけでなく、世界せかいおおくのくに存在そんざいする。

ジャンルの傾向けいこうは、1970年代ねんだい後半こうはんから80年代ねんだい前半ぜんはん隆盛りゅうせいきわめた産業さんぎょうロックへの反発はんぱつから、1960ねんだいなか以降いこうのロックへの回帰かいき音楽おんがくめん思想しそうめん両方りょうほう)を志向しこうし、ジャンルないインディー・ロックふくんでいる。

概要がいよう

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オルタナティヴ・ロックの前身ぜんしんは1960年代ねんだいのプロト・パンクのシーンに存在そんざいしていた[2]起源きげんヴェルヴェット・アンダーグラウンドの『ヴェルヴェット・アンダーグラウンド・アンド・ニコ 』('67ねん)にさかのぼり、おおくのオルタナティヴ・ロックのバンドに影響えいきょうあたえた[3]

1978ねん、イギリスでは前年ぜんねんロンドン・パンク・ムーブメントわるようにニュー・ウェイヴ勃興ぼっこうした。いっぽうで、ポストパンク先鋭せんえいてきなグループとしては、パブリック・イメージ・リミテッド(PIL)、ポップ・グループキャバレー・ヴォルテールらの名前なまえげられる。かれらはパンクがけた風穴かざあなをさらにひろげ、より自由じゆう実験じっけんてき音楽おんがく演奏えんそうした。資本しほんてきにもメジャーなレコード会社かいしゃから独立どくりつしたインディーズ・レーベルのアーティストがおおく、イギリスの音楽おんがくメディアからはオルタナティヴな選択肢せんたくしられた。イギリスのラフ・トレード・レコードファクトリーミュート[4][ちゅう 1] などのレーベルは、初期しょきのオルタナティヴ・ロックのレーベルとして活動かつどうした。

アメリカにおいては、オムニバスばんノー・ニューヨーク』('78ねん)がオルタナティヴ・ロックの佳作かさくであった。どうアルバムにはジェームス・チャンスらのきょく収録しゅうろくされている。デッド・ケネディーズは1979ねん独立どくりつけいレコードレーベル「オルタナティブ・テンタクルズ」を設立せつりつし、バットホール・サーファーズなどのアンダーグラウンドの音楽おんがくをリリースしていた。

アメリカ各地かくち大学だいがく学生がくせい自主じしゅ運営うんえいしていたカレッジ・ラジオは、イギリスやアメリカのパンク・ロックやポスト・パンク、ニュー・ウェイヴやギターポップノイズロックなど、アメリカの音楽おんがくシーンの主流しゅりゅうからはずれた音楽おんがくさかんにげた。かれらのラジオきょくは、当時とうじ音楽おんがくかい主流しゅりゅうであった産業さんぎょうロック[ちゅう 2]ポップヘヴィメタルなどを「収益しゅうえきせいだいいちとし、産業さんぎょうてき芸能げいのうてきアートとしての進歩しんぽせいけ、聴衆ちょうしゅうにおもねったもの」と批判ひはんし、みずからが支持しじする音楽おんがくを「主流しゅりゅうでない音楽おんがく真剣しんけん音楽おんがく」と定義ていぎして、自分じぶんたちの応援おうえんする地元じもと、および全米ぜんべいやイギリスのインディーズ・アーテイストのきょくをオンエアした。全米ぜんべい大学だいがくラジオごとのチャートをあわせた「カレッジ・チャート」では、産業さんぎょうロックや商業しょうぎょうてきポップス主体しゅたいのビルボード・チャートとはことなるオルタナティヴ(もうひとつの選択せんたく)なバンドやソロ・アーティストがつらねていた。R.E.M.U2は、カレッジ・ラジオが応援おうえんつづけたバンドとしてとく有名ゆうめいである[ちゅう 3]。U2は、音楽おんがくしょう受賞じゅしょうしたさいには「応援おうえんしてくれたカレッジ・ラジオに感謝かんしゃする」とコメントしていた。

特徴とくちょう

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広義こうぎ解釈かいしゃくはクラッシュ、ディーヴォ[5] など、メジャー・レーベルから発表はっぴょうされた作品さくひんも、オルタナティヴ・ロックにふくかんがかた。オルタナティヴ・ロックの考察こうさつ記事きじ読本とくほんなどでは、これを「オルタナティヴ・ロックにぞくするバンド」を選考せんこうするさい基準きじゅんにすることがおお[ちゅう 4]

狭義きょうぎ解釈かいしゃくとしては、メジャー・レーベルから発表はっぴょうされているソロ、バンドは、オルタナティヴ・ロックにふくまれないとするかんがかたである。このかんがかた場合ばあいインディー・ロックおな集合しゅうごうとなる。オルタナティヴ・ロックは、そもそもが1970年代ねんだいすえにイギリスで発生はっせいしたのは前述ぜんじゅつとおり。えいべいメジャーシーンの産業さんぎょうロック、ポップにたいするオルタナティヴとして誕生たんじょうしたジャンルであるため、音楽おんがくせいは1970年代ねんだいなか以降いこう産業さんぎょうロックや、トップ40もの(MTVてきなもの)、ヘヴィメタル、保守ほしゅてき主流しゅりゅうカントリーとはせい反対はんたい方向ほうこうせいつ。これらはそのおおくが音楽おんがくてき挑戦ちょうせんち、メジャーシーンへのアンチを志向しこうしている。また1980年代ねんだいのポピュラー・ミュージック、産業さんぎょうロックにくらべると、ききてにとっての耳触みみざわりのよさやキャッチーさを否定ひていしている。このまれた機材きざいとしてはフェンダーしゃジャガージャズマスタームスタングなどを一部いちぶのギタリストが使用しようしていた。ゆがようのエフェクターは、きめのこまかいヘヴィメタル・タイプのディストーションよりもRATなどのあらいタイプのものが多用たようされた。ニルヴァーナカート・コバーンはフェンダーのジャガーを使用しようした[6]。また、変形へんけいギターなど、1980年代ねんだいメインストリームの楽器がっきこのんで使用しようするバンドはすくない。

1980年代ねんだいUSオルタナ・シーン

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アンダーグラウンドな音楽おんがく活動かつどう地域ちいき時代じだいわず存在そんざいしたとかんがえられるが、1980年代ねんだいきたアメリカしょ都市としにおけるパンク由来ゆらい音楽おんがく活動かつどう特徴とくちょうを、カナダの音楽おんがく社会しゃかい学者がくしゃウィル・ストロー (Will Straw) は、「シーン (scene)」という概念がいねんで、従来じゅうらいの(エスニックな)「コミュニティー」にざしてアンダーグラウンドにまでつらなる(たとえば)ダンス音楽おんがく対比たいひしてろんじている[ちゅう 5]。ウィル・ストローはカナダのトロント、モントリオール、アメリカのロサンゼルス、デトロイト、イギリスのロンドンなどのオルタナティヴ・ロック・シーンを綿密めんみつ調査ちょうさした。1980年代ねんだいなかばまでに、カナダ、アメリカの都市としにはローカルなカレッジ/オルタナ・シーンが成立せいりつし、地域ちいきのレコードリリースやラジオ放送ほうそう利用りようした音楽おんがく活動かつどうおこなわれ、音楽おんがくてき多様たようせい担保たんぽされていた。この論文ろんぶん出版しゅっぱんされた1991ねんごろには、これらのシーンからまれた音楽おんがくが、メインストリームにまれていった。若者わかものにとっては、グランジなどがそれまで主流しゅりゅうだったポップ音楽おんがくよりも魅力みりょくのあるものとられるようになっていった。

1980年代ねんだい登場とうじょうしたR.E.M.やソニック・ユースといったオルタナティヴ・ロック勃興ぼっこう旗手きしゅとなったバンドぐんは、その人気にんきにより1990年代ねんだいはいってメジャーシーンに参加さんかすることになる。1980年代ねんだいヘヴィメタル・ロックとはちがった抽象ちゅうしょうせい・アートせいは、音楽おんがく雑誌ざっしローリング・ストーン』や『NME』などをはじめ、おおくの音楽おんがくメディアで評価ひょうかされた。サウンドてきにははん産業さんぎょうロック、オルタナティヴ志向しこうだった。

西海岸にしかいがん

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300まん都市としロサンゼルスは、ニューヨークとなら音楽おんがく産業さんぎょう中心ちゅうしんであり、1970年代ねんだい以前いぜんからアンダーグラウンドの規模きぼおおきかった。1970年代ねんだい後半こうはんの、ニューヨークやロンドンとくらべてローカルであったニュー・ウェイヴ・パンク・シーンから、さらにロサンゼルス郊外こうがいのハードコア・パンク・シーンが枝分えだわかれしていく過程かていは、1977ねん高校生こうこうせいのファンジンとして創刊そうかんされた『フリップサイド』(Flipside)に記録きろくされている。当初とうしょはニューヨークやロンドンのバンド公演こうえん合間あいま登場とうじょうするだけだった地元じもとバンドがえていった。「サーフパンク」などは、ロサンゼルスのサウスベイオレンジ・カウンティなど郊外こうがい未成年みせいねんしゃし、これらのライブハウスの客層きゃくそう人気にんきブラック・フラッグ[7] らのバンドは郊外こうがいのライブ会場かいじょう拠点きょてんとして「ハードコア・シーン」が形成けいせいした。ミニットメンレッドクロス、あるいはTSOLといったバンド自体じたい音楽おんがくは、ニュー・ウェイヴ、ポスト・パンクやメタルなどさまざまな要素ようそふくんでいた、というてんである。あらたに参入さんにゅうしたディセンデンツはサーフロックのメロディーをこの地域ちいきのハードコアにんだ。

ロサンゼルスでは、ブラック・フラッグやミニットメンが頻繁ひんぱんにツアーをおこない、アメリカのかく地域ちいきにハードコアシーンが形成けいせいされるきっかけをつくった。ブラック・フラッグの自主じしゅレーベルSSTレコード[8] は、LAで親交しんこうのあったバンドだけでなく、これらのツアー活動かつどうつうじてったアリゾナのミート・パペッツ、ミネアポリスのハスカー・ドゥ、ニューヨークのバッド・ブレインズ、ソニック・ユース、ダイナソーJr.といったバンドの作品さくひんをリリースし、1980年代ねんだい代表だいひょうてきなUSオルタナティヴ・インディー・レーベルとしてられる。

1980年代ねんだい初期しょきのハードコア・シーンをよくつたえる映画えいがとしては、オレンジ・カウンティ[ちゅう 6] のハードコアバンド、ソーシャル・ディストーションとユースブリゲードが1982ねんスクールバスを改造かいぞうしたツアーバスでこころみた全米ぜんべいツアーを中心ちゅうしんとする映画えいが『アナザー・ステート・オブ・マインド』や、1984ねんのフィクション『サバービア』がある。

1980年代ねんだいなかばにロサンゼルスは、スラッシュ・メタル中心ちゅうしんにLAメタルブームが発生はっせいした。しかし、それに対抗たいこうして1980年代ねんだいまつからバッド・レリジョンとそのレーベルエピタフ・レコードメロディック・ハードコアなど、パンク・バンドによるインディペンデントなしょうブームがきた。

シアトルもロックの中心ちゅうしんとして、1980年代ねんだいからオルタナ・バンドが活躍かつやくしていた[9][10]。また、サンフランシスコ・ベイエリアは、ロサンゼルスと密接みっせつ関係かんけいにある地域ちいきであり、パンク、ニュー・ウェイヴのライブハウスとしてマブヘイ・ガーデンズられ、ブラック・フラッグやサークル・ジャークスといったバンドがはや時期じきから頻繁ひんぱんにツアーをおこなっている。1978ねん結成けっせい地元じもとのバンドデッド・ケネディーズ[11] は、自主じしゅレーベルオルタナティヴ・テンタクルズげ、東海岸ひがしかいがんへのツアーをおこなうなど、はやくから知名度ちめいどをあげ世界せかいてきられるようになり、ジェロ・ビアフラはパンクのはん体制たいせいてき主張しゅちょう代弁だいべんしゃとして積極せっきょくてき発言はつげんする。バークリーの公共こうきょう放送ほうそうKPFA音楽おんがく番組ばんぐみマクシマム・ロックンロール』のティム・ヨハナン (Tim Yohannan)は、オルタナティヴ・テンタクルズからカリフォルニア北部ほくぶのパンクバンドのサンプラーをリリース、この48ページのライナーがパンク『マクシマム・ロックンロール』の創刊そうかんごうとなる。当初とうしょからこの雑誌ざっしのカラーとして、オルタナティヴな価値かちかんったパンク思想しそう記事きじとして掲載けいさいされていた。

1986ねんにはオルタナティヴ・ミュージック・ファウンデーションを設立せつりつし、自主じしゅ運営うんえいライブハウス・ギルマンをオープンする。ギルマンは、ベイエリアのパンクシーンの中心ちゅうしんとして、グリーン・デイジョーブレーカーサマイアムといったバンドの活動かつどう拠点きょてんとなった。ただし、『マキシマム・ロックンロール』をたんにパンク音楽おんがくとみなすことはできない。その大量たいりょうのレビューにはハードコア・パンク全盛期ぜんせいき草創そうそうから、ポスト・パンク、サイケデリック、ノイズ、あるいはヴェルヴェット・アンダーグラウンド再発さいはつなど、典型てんけいてきなパンク以外いがい音楽おんがくもしばしば好意こういてきひょうされている。白人はくじんのラップが評価ひょうかされたことは、黒人こくじんラップが中心ちゅうしんのR&Bチャートとはことなっていた。1984ねんからは日本にっぽんのバンドも登場とうじょうし、少年しょうねんナイフなども紹介しょうかいされている。

東海岸ひがしかいがん

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最大さいだい都市としニューヨークでは、パティ・スミステレヴィジョンらをルーツとし、ジェームス・チャンス・アンド・ザ・コントーションズらが参加さんかした『ノー・ニューヨーク』というオルタナティヴ・ロックらしいアルバムが発表はっぴょうされた。

ワシントンD.C.は、黒人こくじん人口じんこう比率ひりつ圧倒的あっとうてきたかく、オルタナ・シーンはちいさい。地元じもとレコード店主てんしゅのスキップ・グロフにより1978ねん自主じしゅ制作せいさくされた、ハーフ・ジャパニーズ[12]ふくニュー・ウェイヴ・バンドのコンピレーション・アルバム『30 Seconds over D.C.:Here Comes the New Wave!』が、地元じもとバンドの作品さくひんである。グロフが設立せつりつたすけたティーン・パンクスによるディスコード・レコードも、D.C.を地図ちずせることがテーマとなった。このティーンパンクスにおおきな影響えいきょうあたえたのが、ジャズから転向てんこうしたアフリカけいアメリカじんパンク・バンド、バッドブレインズである。バッドブレインズはのちにニューヨークに本拠ほんきょうつし、東部とうぶのハードコア・パンク・バンドとしてははじめて全米ぜんべいツアーをおこなってパンクスのあいだ知名度ちめいどげた。さらにマイナー・スレット[ちゅう 7] をはじめとするティーンパンクスがハードコアをのり、『フリップサイド』や『マクシマム・ロックンロール』(ラジオ番組ばんぐみ、パンク雑誌ざっし名称めいしょう)をつうじてDCシーンはパンクシーンでられるようになった。しかし、バッドブレインズはボーカルH.R.がレゲエへの傾倒けいとうつよめ、また、1983ねんにマイナースレットは解散かいさんした。

1990年代ねんだい以降いこう

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1990年代ねんだい初頭しょとうのアメリカでは、ニルヴァーナダイナソーJr.パール・ジャムサウンドガーデンなどがライブハウスやカレッジ・チャートなどを中心ちゅうしんに、人気にんき獲得かくとくしていった。かれらはグランジ・ロックばれた。すでに1970年代ねんだいまつにはオルタナティヴ・ロックという呼称こしょう存在そんざいしていたが、ジャンルめいがアメリカの音楽おんがくジャーナリズムで拡大かくだいしていったのは、この時期じきである。グランジは、過去かこ全米ぜんべいチャート上位じょうい独占どくせんした既存きそんの1980年代ねんだいてき産業さんぎょうロック、ハードロックヘヴィメタルポップ・ロックなどとはちがうロックのジャンルとして浸透しんとうしていった。そのほかにも、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンレッド・ホット・チリ・ペッパーズといった、ロックにラップの要素ようそれたオルタナであるミクスチャー・ロック登場とうじょうした。

そのカート・コバーン自殺じさつ[13] や、その音楽おんがく状況じょうきょう変化へんか要因よういんとなって、グランジ・ムーブメントは終焉しゅうえんむかえた。

2000年代ねんだい以降いこうのオルタナティヴ・ロックかいでは、ホワイト・ストライプスストロークスアークティック・モンキーズアーケード・ファイアリンキン・パークなどが活躍かつやくした。

オルタナティヴ・ロックに分類ぶんるいされるアーティストの一覧いちらん

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 初期しょきにはキャバレー・ヴォルテール、ポップ・グループなどが所属しょぞくした英国えいこくのインディーズ・レーベル。
  2. ^ えいべいではコーポレート・ロックとばれた。
  3. ^ ソニック・ユースリプレイスメンツハスカー・ドゥなどもカレッジ・ラジオで人気にんきのバンドだった。
  4. ^ 2003ねんの『ローリング・ストーンにおける特集とくしゅう、『NME』『SPIN』などおおくの世界せかいてきロック雑誌ざっし記事きじ傾向けいこうなどもこれに該当がいとう
  5. ^ Straw, Will (1991). "Systems of Articulation, Logics of Change: Communities and Scenes in Popular Music", Cultural Studies, 5, 3, pp.368-88。マクシマム・ロックンロールのScene Reportsを例示れいじしており、「シーン」はこの用法ようほうもとづく概念がいねんであるとみられる。これより創刊そうかんはやロサンゼルスのファンジン『Flipside』は1978ねんには「L.A.Scene」という表現ひょうげんもちいており、1979ねんには「オレンジ・カウンティの2つの'scenes'」というような用法ようほうあらわれている。
  6. ^ 郡部ぐんぶながらTSOLなど、おおくのオルタナ・バンドが登場とうじょうした。
  7. ^ きんドラッグ、きんアルコール、きんフリーセックスという、おかたいストレージエッジ思想しそう主張しゅちょうしたバンド。

出典しゅってん

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  1. ^ Grunge - オールミュージック. 2020ねん9がつ19にち閲覧えつらん
  2. ^ The Top 100 Alternative Albums of the 1960s” (英語えいご). SPIN (2013ねん3がつ28にち). 2020ねん2がつ1にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2022ねん2がつ28にち閲覧えつらん
  3. ^ Kot, Greg. “The Velvet Underground: As influential as The Beatles?” (英語えいご). www.bbc.com. 2022ねん2がつ28にち閲覧えつらん
  4. ^ http://www.jstor.org/stable/853045
  5. ^ ワーナー・レーベル所属しょぞく
  6. ^ http://rittor-music.jp/products/2011/10/2583
  7. ^ 「USオルタナティブロック1978-99」村尾むらお泰郎やすお
  8. ^ http://www.furious.com/perfect/sst1.html
  9. ^ http://alt965.iheart.com/
  10. ^ http://rock.about.com/od/top10lists/tp/Most-Influential-Seattle-Bands.htm
  11. ^ http://www.allmusic.com/artist/dead-kennedys
  12. ^ http://www.allmusic.com/artist/half-japanese-mn0000555654
  13. ^ http://www.nytimes.com/topic/person/kurt-cobain

参考さんこう文献ぶんけん

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  • BURRN! 1992.4がつごう
  • アメリカン・オルタナティヴ・ロック・ガイド(鈴木すずき善之よしゆきちょ
  • Punk Zine Archive! FlipsideやMaximum Rocknroll がめる。
  • Flipside Fanzine Memorial Website LAの初期しょきパンクGIGのデータベース作成さくせいちゅう
  • Hüsker Dü Database Hüsker Düのライブデータ、インタビュー、文献ぶんけんリストなど。
  • Mark Anderson & Mark Jenkins Dance od Days: Two Decades of Punk in the Nation's Capital 2001. Soft Skull Press.

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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