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ボブ・マーリー - Wikipedia コンテンツにスキップ

ボブ・マーリー

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
The Honourable
ボブ・マーリー
OM
ボブ・マーリー(1980ねん
基本きほん情報じょうほう
出生しゅっしょうめい ロバート・ネスタ・マーリー
別名べつめい タフ・ゴング
生誕せいたん
死没しぼつ
ジャンル
職業しょくぎょう
担当たんとう楽器がっき
活動かつどう期間きかん 1962ねん - 1981ねん
レーベル
共同きょうどう作業さぎょうしゃ
公式こうしきサイト Bob Marley: The Official Site
著名ちょめい使用しよう楽器がっき

ロバート・ネスタ・マーリー英語えいご: Robert Nesta Marley OM1945ねん2がつ6にち - 1981ねん5月11にち)は、ジャマイカシンガーソングライターミュージシャンレゲエ先駆せんくしゃ一人ひとりであり、スカ時代じだいから活躍かつやくロックステディレゲエ時代じだいまで音楽おんがくかいけた。また洗練せんれんされた歌声うたごえ宗教しゅうきょうてき社会しゃかいてき歌詞かしきょくられた。マーリーは60年代ねんだいから80年代ねんだい初頭しょとうまでレゲエ音楽おんがくカウンターカルチャー活躍かつやくにより、ジャマイカ音楽おんがく世界せかいてき認知にんちたかめることに貢献こうけんした。マーリーはラスタファリ象徴しょうちょう、ジャマイカの文化ぶんかとアイデンティティの世界せかいてきなシンボルともみなされた。マリファナ合法ごうほう支持しじしゃであり、ひろしアフリカ主義しゅぎでもある。音楽おんがくソフトの推定すいてい売上うりあげ枚数まいすう世界中せかいじゅうで7,500まんまいえ、マーリーの音楽おんがく思想しそう後進こうしんのミュージシャンなどに影響えいきょうあたえた。

生涯しょうがい

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マーリーは1945ねん2がつ6にち、ジャマイカのセント・アン教区きょうくのナイン・マイルズでイギリス海軍かいぐん大尉たいいであり、ジャマイカ最大さいだい建設けんせつ会社かいしゃ「マーリー・アンド・カンパニー」を経営けいえいしていた白人はくじんノーヴァル・マーリー英語えいごばん と、アフリカけいジャマイカじんセデラ・ブッカー 英語えいごばんとのあいだまれる[2]父親ちちおやは61さい母親ははおやは16さいだった。両親りょうしんはマーリーの誕生たんじょうすぐにわかれた。ノーヴァルは首都しゅとキングストンみ、マーリーはセデラとその家族かぞくともにナイン・マイルズで幼少ようしょうごした[2]

出生しゅっしょうナインマイルズ。(2007ねん撮影さつえい

1951ねん、キングストンの学校がっこうかよわせるという名目めいもくでノーヴァルによりられ、キングストンむマーリー友人ゆうじんである老婆ろうばのもとにあづけられる。ノーヴァルはマーリーをあづけると、二度にど姿すがたあらわさなかった。

1952ねん行方ゆくえれずになっていたが心配しんぱいしたセデラによってさがされ、ナイン・マイルズへもどる。ナイン・マイルズ近郊きんこうのステプニーでステプニー・オール・エイジ・スクールにかよい、そこでのちともザ・ウェイラーズ結成けっせいする[3]こととなるネヴィル・リヴィングストン(バニー・ウェイラー)と出会であ[2]

1955ねんちち・ノーヴァルが70さいくなった。これによりセデラとマーリーはいえ完全かんぜんえんった。マーリーは「ちち自分じぶんははてたにくむべきおとこだ」「自分じぶん父親ちちおやはいない」というおもいをむね成長せいちょうしていった。このおもいは、マーリーがのちラスタファリ思想しそう傾倒けいとうしていく一因いちいんにもなる。このとし、セデラはマーリーを祖父そふ・オメリア・マルコムにあづけ、しょくもとめキングストンへかう。

1957ねん、マーリーはセデラとともにキングストン郊外こうがいのスラム、トレンチタウン官営かんえいす。マーリーたちが借地しゃくちには、おなじくしてきていたバニー一家いっかんでいた。二人ふたりアメリカのラジオきょくから放送ほうそうされる最新さいしんR&Bあたらしいスカ音楽おんがくなどをき、音楽おんがくへの探求たんきゅうふかめていった。あたらしい学校がっこうにもかようようになり、マーリーはこのころから読書どくしょとく聖書せいしょしたしんでいた。そしてやす時間じかんには友達ともだちとサッカーをしていたという。

1959ねん、マーリーはクイーンズ・シアターのタレント・ショーではじめて正式せいしき大衆たいしゅうまえち、うたいちきょく披露ひろう賞金しょうきん1ポンドを獲得かくとくする。うたではべていけないと心配しんぱいしたセデラのすすめで溶接ようせつこう仕事しごとく。しかし仕事しごとちゅう金属きんぞくへんはいむケガをったことをきっかけに、ゆめであったミュージシャンを目指めざ決意けついかためる。マーリーとバニーは、サード・ストリートにんでいたシンガーのジョー・ヒッグスひら無料むりょう音楽おんがく教室きょうしつ参加さんかし、音楽おんがくてき指導しどうラスタファリ運動うんどうおしえをけた(マーリーたちはセカンド・ストリートにんでいた。)。そのさいウィンストン・マッキントッシュ(ピーター・トッシュ)と出会であう。1961ねん、マーリーはすで作曲さっきょくはじめており、レスリー・コングのビヴァリーズ・レコードのみせみにくも門前払もんぜんばらいをらう。

1962–71ねん初期しょき活動かつどう

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ビヴァリーズ・レコード時代じだい

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マーリーは1962ねんのはじめからふたたてんたずねてオーディションをけ、自身じしん作曲さっきょくした「Judge Not」を披露ひろう。そのビヴァリーズ・レコードから「Judge Not」「Do You Still Love Me?」「Terror」の3きょく発表はっぴょう、ボビー・マーテル(Bobby Martell)名義めいぎでは「One Cup Of Coffee」の1きょく発表はっぴょうした。

1963ねん、セデラがセカンド・ストリートのいえはなれアメリカへくと、マーリーはトレンチタウンで路上ろじょう生活せいかつをするようになった。このとき体験たいけんが1974ねん発表はっぴょうのアルバム『Natty Dread収録しゅうろく名曲めいきょくNo Woman No Cry』をんだ。同年どうねん、マーリーはバニー・ウェイラーピーター・トッシュ[ちゅう 1]、ジュニア・ブレイスウェイト、ビバリー・ケルソ、チェリー・スミスらとともにザ・ティーンエイジャーズを結成けっせいのちかれらは名前なまえをザ・ウェイリング・ルードボーイズ、ザ・ウェイリング・ウェイラーズと変更へんこうしていくが、スタジオ・ワンのレコードプロデューサーであるコクソン・ドッド契約けいやくするころ最終さいしゅうてきザ・ウェイラーズになった。

スタジオ・ワン時代じだい

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1963ねんれにスタジオ・ワンから発表はっぴょうしたシングル「Simmer Down」が、1964ねん2がつにはJBC(ジャマイカ放送ほうそう)などで1獲得かくとくやく80,000げるだいヒットとなった。のちにレゲエの象徴しょうちょうともなる名曲めいきょくOne Love」も、この時期じきにボブによってスカ・バージョンでつくられている。1966ねんまでにブレイスウェイト、ケルソ、スミスがザ・ウェイラーズをり、マーリー、バニー・ウェイラーピーター・トッシュの3にんのこされた。ちなみに「タフ・ゴング」というニックネームがついたのはこのころである。

1964ねん祖父そふオメリア・マルコムが他界たかい農地のうち一部いちぶ相続そうぞくする。1965ねんおなじくスタジオ・ワンで活動かつどうしていたグループ、ザ・ソウルレッツ(リタ・アンダーソンが在籍ざいせき。)の指導しどうまかされた。

1966ねん2がつ10日とおかリタ・アンダーソン(19)と結婚けっこん。そして翌朝よくあさにはしょくもとめ(スタジオ・ワンではきょくがヒットしてもメンバーにかねはいってくることはほとんどなかった。)、デラウェアしゅうウィルミントンははセデラのしたつ。ドナルド・マーリーという名前なまえでクライスラーしゃ自動車じどうしゃ工場こうじょうのライン工員こういん、デュポンしゃ実験じっけん研究けんきゅうしつ助手じょしゅとしてはたらいた。なお、駐車ちゅうしゃじょう係員かかりいんやレストランの皿洗さらあらいなどのパートも経験けいけんしたといわれている。カトリック教徒きょうととしてそだったマーリーだったが、セデラの影響えいきょうからはなれているあいだに「ラスタファリ運動うんどうへの関心かんしんをさらにたかめ」ており、マーリーもこのころからドレッドヘアにするためかみばしはじめた。マーリーのいないやく8ヶ月かげつあいだザ・ウェイラーズはマーリーきで活動かつどうつづけた。同年どうねん10がつにキングストンへもどったのち正式せいしきにラスタファリに改宗かいしゅう

1966ねん、デラウェアしゅうでの仕事しごと資金しきんをもとにバニー、ピーターとともみずからのレーベル「ウェイリン・ソウルム」(Wail 'n' Soul'm)を発足ほっそくする。しかし短期間たんきかん経営けいえいなんになり、ウェイリン・ソウルムも業界ぎょうかいから姿すがたした。

1967ねんから1971ねん活動かつどう

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1968ねんまでに「Bend Down Low」「Mellow Mood」「Nice Time」「Hypocrites」「Stir It Up」「Selassie Is the Chapel」などが発表はっぴょうされている。このころからマーリーも髪形かみがたをドレッドからアフロにえている。

1967ねん、マーリーとバニー・ウェイラーが大麻たいま不法ふほう所持しょじ逮捕たいほ投獄とうごくされた。マーリーは1ヶ月かげつあいだ、バニーはやく12ヶ月かげつあいだ生活せいかつおくることになる。1967ねん8がつ23にちつまのリタがセデラ・マーリーを出産しゅっさんした。マーリーとリタはむすめともに1970ねんまでセント・アンでらす。

1968ねん、ジョニー・ナッシュ、ダニー・シムズと契約けいやくする。ピーター・トッシュが「はんローデシア白人はくじん政権せいけんデモに参加さんか」し逮捕たいほされる。1968ねん10がつ17にち、リタがデヴィッド・マーリー(ジギー・マーリー)を出産しゅっさんした。

1969ねん、レスリー・コングのしたで10きょくレコーディング。これは翌年よくねんにアルバム『The Best of The Wailers』として発表はっぴょうされる。「Stop That Train」「Soul Captives」「Cheer Up」などが収録しゅうろくされている。なお、メンバーは「そのアルバムタイトルはいつわりだ」「もしリリースされるようなことがあれば、おまえことになるだろう」などとい、アルバムの発表はっぴょう反対はんたいしていた(実際じっさいには1970ねん心臓しんぞう発作ほっさくなっている。)。同年どうねんはる家族かぞくともにアメリカへかいあきまでふたたびデラウェアしゅうはたらく。この経験けいけんから「It's Alright」を作曲さっきょく。1976ねんにはこのきょくをアルバムようつくなおし「Night Shift」と改題かいだいしている。

リー・ペリーとそのスタジオ・バンドのザ・アップセッターズに出会であい、1969ねん後半こうはんから1970ねんにかけて数々かずかずのセッションをおこない、レコーディングした(「Duppy Conqueror」「Small Axe」「Corner Stone」「Soul Rebels」「Lively Up Yourself」「Kaya」「400Years」「Stand Alone」「Sun is Shining」など。)。やがてザ・アップセッターズのメンバー、ベースのアストン・バレット(ファミリーマン)とドラマーのカールトン・バレット(カーリー・バレット)はザ・ウェイラーズのメンバーにくわわり、バンドのサウンドにおおきな変化へんかをもたらした。

1970ねんの7がつごろ、アップセッター・レコードからボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ名義めいぎでアルバム『Soul Rebels』を発表はっぴょう、デラウェアしゅうかせいだわずかな資金しきんをもとにキングストンホープロード56番地ばんち自身じしんのスタジオ、レーベルであるタフ・ゴング設立せつりつ同年どうねんれにビヴァリーズ・レコードからアルバム『The Best of The Wailers』を発表はっぴょうする。

1971ねんはじめ(もしくは1970ねんわり)、アップセッター・レコードからボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ名義めいぎでアルバム『Soul Revolution』を発表はっぴょうする。おなごろ、ジョニー・ナッシュとダニー・シムズに映画えいがのサウンド・トラック制作せいさくさそわれスウェーデンへとわたった。

1971ねんはるロンドンにてCBSで「Reggae On Broadway」などをレコーディング。なつにタフ・ゴング・レーベルから発表はっぴょうした「Trenchtown Rock」がだいヒットした。れにはジョニー・ナッシュのイギリスツアーに参加さんか。CBSから「Reggae On Broadway」を発表はっぴょう、しかし不発ふはつわった。

タフ・ゴング・スタジオ外観がいかん(2009ねん撮影さつえい)。

アイランド・レコード時代じだい

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1972ねん、クリス・ブラックウェルのアイランド・レコード契約けいやく、アルバムのレコーディングを開始かいし。ブラックウェルは「レゲエのリズムよりもゆったりとただよ催眠さいみんてき雰囲気ふんいき」をのぞみ、マーリーのミックスとアレンジをさい構築こうちく。マーリーはロンドンへ出向でむき、ジャマイカ音楽おんがく低音ていおんいたおもたいサウンドのミックスを調整ちょうせいし、2トラックを省略しょうりゃくするなどアルバムのオーバーダビングを監督かんとくした。

1973ねんはる、メジャーデビューアルバム『Catch a Fire』を発表はっぴょう(「Concrete Jungle」「Slave Driver」「Stir It Up」「Kinky Reggae」「No More Trouble」)。このころ、トロージャン・レーベルからアルバム『African Herbsman』が発表はっぴょうされた。5月、イギリスのラジオ番組ばんぐみ「トップ・ギア」にて演奏えんそう。6月には厳格げんかくなラスタであるバニーが適切てきせつ自然しぜんしょくることが出来できないなどの理由りゆうから、ツアーへの不参加ふさんか表明ひょうめいした。7月、バニーのわりにジョー・ヒッグスをくわはつのアメリカツアーをおこない、ニューヨークではブルース・スプリングスティーンの前座ぜんざつとめる。デビューアルバム発表はっぴょうからやく半年はんとしの10がつ19にち、アルバム『Burnin'』を発表はっぴょうした。(「Get Up, Stand Up」「I Shot the Sheriff」「Burnin' And Lootin'」「Small Axe」「Rastaman Chant」など。)

1974ねん1がつしんメンバーをむかえアルバム『Natty Dread』のレコーディングを開始かいしする。5月、マーヴィン・ゲイのジャマイカ公演こうえんでオリジナルウェイラーズが復活ふっかつ最後さいご演奏えんそうおこなった。その直後ちょくごタフ・ゴング・レーベルから発表はっぴょうした「Rebel Music (3 O'Clock Roadblock)」がヒット。7月、エリック・クラプトンが「アイ・ショット・ザ・シェリフ」をカバーし、全米ぜんべいビルボードチャート1獲得かくとくする。10月25にち、アルバム『Natty Dread』を発表はっぴょうした。(「Lively Up Yourself」「No Woman No Cry」「Them Belly Full (But We Hungry)」「Natty Dread」「Talkin' Blues」など。)

ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ

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1975ねんバニー・ウェイラーピーター・トッシュ正式せいしき脱退だったい、メンバーをさい編成へんせいしてボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズとしてさい出発しゅっぱつはかる。3月、ジャクソン5のキングストン公演こうえん前座ぜんざつとめる。8月27にち前年ぜんねん9がつ12にちにクーデターにより軟禁なんきんされていたハイレ・セラシエ1せい皇帝こうてい他界たかいした。これをけて9がつに「Jah Live」をレコーディングしリリース。「Jahはきている」というメッセージをおくった。10月11にちスティービー・ワンダーのジャマイカ盲人もうじん協会きょうかいのための慈善じぜんコンサートに出演しゅつえん、アンコールでオリジナルウェイラーズが「Rude Boy」を演奏えんそうした。12月5にち、7がつ19にちのロンドン・ライシアム公演こうえん録音ろくおんしたバンドはつのライブアルバム『Live!』を発表はっぴょうする。

1976ねん

1976ねん4がつ30にち、アルバム『Rastaman Vibration』を発表はっぴょう(「Positive Vibration」「Root, Rock, Reggae」「Crazy Baldhead」「Who The Cap Fit」「War」など)。政治せいじ闘争とうそう軍拡ぐんかく競争きょうそう批判ひはんした「Rat Race」がジャマイカでだいヒットした。ヒットの背景はいけいには、マイケル・マンリーひきいる人民じんみん国家こっかとう(PNP)とエドワード・シアガひきいるジャマイカ労働党ろうどうとう (JLP) のだい政党せいとうによる対立たいりつ激化げきかがあった。

ボブ・マーリー銃撃じゅうげき事件じけんとスマイル・ジャマイカ・コンサート

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マーリーはスティービー・ワンダーの慈善じぜんコンサートに参加さんかして以来いらい自分じぶんたちでも無料むりょうのコンサートを開催かいさいしたいとかんがえていた。そこでPNPに協力きょうりょくびかけ、1976ねん12月5にちに「スマイル・ジャマイカ・コンサート」を開催かいさいすることを計画けいかくした。コンサートのために「Smile Jamaica」というタイトルのきょく種類しゅるいのバージョンで録音ろくおんしている。このマーリーのコンサートの趣旨しゅしは、「だい政党せいとう対立たいりつにより混迷こんめいするジャマイカに微笑ほほえみをあたえよう」というものだった。しかし、コンサートがちかづくにつれ、匿名とくめい警告けいこく脅迫きょうはく相次あいついだ。

1976ねん12月3にち、コンサートのリハーサルちゅうじゅう武装ぶそうした6にんおとこ襲撃しゅうげきけ、マーリーもむねうでたれた。重傷じゅうしょうものもいたものの、さいわ死者ししゃなかった。二日ふつか、コンサートに出演しゅつえん。マーリーはやく80,000にん聴衆ちょうしゅうかって「このコンサートをひらことげつはんまえめたとき政治せいじなんてなかったんだ! ぼく人々ひとびとあいのためだけに演奏えんそうしたかった」とい、やく90ぶん演奏えんそうをやりきった(「War/No More Trouble」「Get Up, Stand Up」「Smile Jamaica」「Keep on Moving」「So Jah Seh」など)。演奏えんそう最後さいごには、ふくをめくりむねうできずゆびさして観客かんきゃくせつけそのった。翌日よくじつ早朝そうちょう、マーリーはジャマイカをバハマへ。のちにコンサートに出演しゅつえんした理由りゆうたずねられたとき、「この世界せかいわるくさせようとしてるやつらはやすみなんかっちゃいない。それなのにぼくやすむなんてことができるかい?」とかたった。

ロンドンで活動かつどう

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1977ねん

1977ねん1がつ、マーリーはしんギタリストジュニア・マーヴィンをむかえロンドンでアルバム2まいぶんレコーディング。亡命ぼうめい生活せいかつおくっていたハイレ・セラシエのまごいえまねかれ、皇帝こうてい形見かたみである指輪ゆびわをもらいけた。マーリーは、これを生涯しょうがいはずすことはなかった。モデルで1976年度ねんどミス・ワールドシンディ・ブレイクスピア交際こうさい開始かいし。6月3にち、アルバム『Exodus』を発表はっぴょうする(「Exodus」「Jamming」「Waiting in Vain」「Three Little Birds」「One Love/People Get Ready」など)。ブルース、ソウル、ブリティッシュ・ロックなどの要素ようそれたマーリーのこのアルバムは、56週間しゅうかん連続れんぞくしてイギリスのチャートにとどまった。

1978ねん3がつ23にち、アルバム『Kaya』を発表はっぴょう。(「Easy Skanking」「Kaya」「Is This Love」「Satisfy My Soul」「Running Away」など。)

ワン・ラブ・ピース・コンサート

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1978ねん、ジャマイカに帰国きこくし4がつ22にちにキングストンで「ワン・ラブ・ピース・コンサート」に出演しゅつえんする(「Lion of Judah」「Natural Mystic」「Trenchtown Rock」「Natty Dread」「Positive Vibration」「War」「Jamming」「One Love / People Get Ready」「Jah Live」)。

「Jamming」の演奏えんそうちゅう、マーリーはコンサートをていたマイケル・マンリーとエドワード・シアガの2人ふたり党首とうしゅをステージじょうまねき、和解わかい握手あくしゅをさせた。

後年こうねん

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1978ねん6がつ15にち、マーリーはアフリカ諸国しょこく国連こくれん代表だいひょう派遣はけんだんからだいさん世界せかい平和へいわ勲章くんしょう授与じゅよされる。7月21にち、シンディがダミアン・マーリー出産しゅっさん。11月10にち、ライブアルバム『Babylon By Bus』を発表はっぴょう。12月、かねてからの念願ねんがんであったラスタファリズムの聖地せいちエチオピアをはじめとするアフリカの国々くにぐに訪問ほうもんした。マーリーも、このときの体験たいけんをもとにアルバム『Survival』を発表はっぴょうしている。

1979ねんには4がつから日本にっぽんオーストラリアニュージーランド公演こうえんおこなった。7月21にちボストン黒人こくじん解放かいほう運動うんどう支援しえんするアマンドラ慈善じぜんコンサートに出演しゅつえんみなみアフリカアパルトヘイトたいするつよ反対はんたいしめした。このころ、シングル「Zimbabwe」がだいヒット。10月2にちにはアルバム『Survival』を発表はっぴょう(「So Much Trouble In The World」「Zimbabwe」「Africa Unite」「Ride Natty Ride」「Wake Up And Live」など)、アフリカのミュージシャンが次々つぎつぎと「Zimbabwe」のカバー・ヴァージョンを発表はっぴょうする。11月13にち、ガーナからアシャンティのオサヘネ(もと救世主きゅうせいしゅ)の称号しょうごうけた。

1980ねん1がつ4にちには西にしアフリカのガボン訪問ほうもん滞在たいざいちゅうはつとなるアフリカでのコンサートを開催かいさいした。2月6にち自宅じたくスタジオのあるホープロードの支援しえんしゃやその子供こどもたちを誕生たんじょうパーティに招待しょうたいする。4月17にち、ジンバブエの独立どくりつ式典しきてん出席しゅっせき演奏えんそう群衆ぐんしゅうがなだれむほどのさわぎとなった。6月10にち、アルバム『Uprising』を発表はっぴょう。(「Coming In From The Cold」「Work」「Zion Train」「Could You Be Love」「Redemption Song」など。)

5月30にち、ヨーロッパ・ツアーを開始かいし。6週間しゅうかんあいだに12ヶ国かこく31都市としまわり、100まんにん動員どういんした。マイアミ休養きゅうようし8がつ体調たいちょうくずす。9月16にちボストンからアメリカ・ツアーを開始かいしし、9月19にちにはマジソン・スクエア・ガーデンでコモドアーズとジョイント・コンサート。9月20にち体調たいちょうこわ休養きゅうよう翌日よくじつニューヨークセントラル・パークでジョギングちゅうたおれた。9月22にち脳腫瘍のうしゅよう診断しんだんされ、9月23にちにはピッツバーグのスタンリー・シアターでラスト・コンサートを決行けっこう、「Get Up, Stand Up」でコンサートをえた。

やまい

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ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームにあるマーリーのプレート。

1977ねん、マーリーはツアーちゅうあし親指おやゆびいため、医師いし悪性あくせいメラノーマ診断しんだんされた。親指おやゆび切断せつだんすることをすすめられたが、宗教しゅうきょうてき理由りゆうでマーリーはこれを拒否きょひした。わりにつめつまゆかのぞかれ、ももから皮膚ひふ移植いしょくした。病気びょうきにもかかわらずマーリーはツアーをつづけ、1980ねんにはワールド・ツアーを予定よていしていた。のうにできていた腫瘍しゅようはやがて全身ぜんしん転移てんいし、もはやけられない状態じょうたいまで悪化あっかした。

1980ねん10がつ7にち、ニューヨークで放射線ほうしゃせん療法りょうほう開始かいし。11月4にちはは・セデラやつま・リタのすすめでセラシエ皇帝こうていぞくしていたエチオピア正教会せいきょうかい洗礼せんれいけた。洗礼せんれいめいベラーネ・セラシエ(三位一体さんみいったいひかり)。11月9にち西にしドイツの病院びょういんうつ自然しぜん療法りょうほうける。集中しゅうちゅう治療ちりょうのためドレッド・ロック(髪型かみがた)もとしてしまう。同月どうげつにエチオピアへ静養せいようかけ、12月にはふたたびドイツで治療ちりょうけた。

1981ねん4がつ、ジャマイカの名誉めいよくんであるメリットくんおくられた。しかし5がつ9にち、チャーターははのいるマイアミにもどりシダーズ・オブ・レバノン病院びょういん入院にゅういん。5月11にち午前ごぜん1130ふんぎ、マーリーはつまはは見守みまもられながらいきった。息子むすこ・ジギーへの最後さいご言葉ことばは、「おかねいのちえない」だったという。マーリーの最終さいしゅうてき死因しいんは、脳腫瘍のうしゅよう腫瘍しゅようはいへの転移てんいによるものとされている。36さいぼつ。14にち、マイアミの自宅じたくでマーリーの葬儀そうぎ追悼ついとうしきおこなわれた。19にち、マーリーの遺体いたいはジャマイカにもどり、21にちにキングストンにてマーリーの国葬こくそうおこなわれた。葬儀そうぎまえには、のこされたザ・ウェイラーズのメンバーによる演奏えんそうおこなわれた(「Rastaman Chant」「Natural Mystic」)。マーリーの葬儀そうぎはエチオピア正教会せいきょうかいとラスタファリの伝統でんとう要素ようそわせたものだった。その、マーリーのかんはセント・アンの生家せいかちかくにおりのデニムジャケットにつつみ、もともどされたドレッド・ロック、ギター、指輪ゆびわ聖書せいしょとも埋葬まいそうされた。当時とうじのジャマイカの首相しゅしょうであったエドワード・シアガはつぎのようにい、追悼ついとうとした。

かれこえは、この電子でんし工学こうがく発達はったつした世界せかいのどこへいってもこえてくるさけびでした。かれするど顔立かおだち、雄大ゆうだいなルックス、そしておど姿すがた、そのひとひとつが我々われわれしんなかあざやかにきざまれています。しかし、我々われわれはもう二度にどとそれをにすることができなくなりました。ボブ・マーリーにはもうえないのです。かれは、出会であうものすべてに、けっしてわすることのできない、神秘しんぴてき印象いんしょうのこしていきました。かれのような人間にんげんしんからることはできません。かれ国家こっか集団しゅうだん意識いしき一部いちぶです。

死後しご

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1983ねん5がつ23にち、アルバム『Confrontation』が発表はっぴょうされた(「Chant Down Babylon」「Buffalo Soldier」「Blackman Redemption」「Stiff Necked Fools」「Rastaman Live Up」など)。だいヒットきょく「Buffalo Soldier」をふく発表はっぴょうきょくとジャマイカさんシングルきょくあつめたタフ・ゴングとアイランドの共同きょうどう制作せいさく作品さくひんとなっている。

1984ねん5がつ、マーリー最大さいだいのヒット・アルバムとなるベストアルバム『Legend』がアイランド・レコードから発売はつばいされた。これは、史上しじょう最高さいこう売上うりあげを記録きろくしているレゲエ・アルバムであり、2014ねん12月の時点じてん世界中せかいじゅうで3,300まんまい以上いじょう販売はんばいされている。2003ねんににはRolling Stone史上しじょう最高さいこうの500アルバムのランキングで46にランクイン、2012ねん改訂かいていリストでも評価ひょうか維持いじした。2020ねん1がつ現在げんざいビルボード 200アルバムチャートで合計ごうけい609週間しゅうかんチャートイン。これは歴史れきしじょう2番目ばんめなが記録きろくである。現在げんざい、このアルバムの販売はんばいすうしゅうやく3,000から5,000まい

2024ねん2がつ14にちえいべい)にて遺族いぞく公式こうしきみとめた伝記でんき映画えいがボブ・マーリー:ONE LOVE』の公開こうかい決定けっていしている(日本にっぽん公開こうかいは2024ねん予定よてい)。[4]

使用しよう楽器がっき

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マーリーの愛用あいようのギターはボディとネックにワンピースマホガニーゆびばんローズウッド使用しようし、ピックアップにP-90を2搭載とうさいしたギブソンLes Paul Specialであるが[5]、1979ねん来日らいにち公演こうえんヤマハ・SG-1000おくられ、日本にっぽんオーストラリアニュージーランドでの公演こうえんにはこれを使用しようした[6]

評価ひょうか

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2011ねんエジプト革命かくめいさい使用しようされたプロパガンダポスター。ウェイラーズの「Get Up, Stand Up」の歌詞かし引用いんようされている。

マーリーは世界せかいてきなシンボルへと進化しんかし、さまざまなメディアをつうじて際限さいげんなく商品しょうひんされてきた。これについてライターのデイブ・トンプソン英語えいごばんがマーリーの著書ちょしょ「レゲエとカリブ海かりぶかい音楽おんがく」のなかで、マーリーのより過激かげきなエッジが商業しょうぎょうされ鎮静ちんせいされたことをなげき、つぎのようにべた。

「ボブ・マーリーは、現代げんだい文化ぶんかなかもっと人気にんきがあり、もっと誤解ごかいされている人物じんぶつ1人ひとりにランクされている...。マシーンがマーリーを完全かんぜん去勢きょせいしたことはうたがいの余地よちがない。おおやけ記録きろくからえたのは、チェ・ゲバラとブラックパンサーとう夢見ゆめみて、かれらのポスターをウェイラーズ・ソウル・シャックのレコードてん固定こていした、ゲットーの子供こどもである。自由じゆうしんじたひと。そしてそれが必要ひつようとしたたたかい、そして初期しょきのアルバム・スリーブにそれをのせた。ヒーローはジェームス・ブラウンとモハメド・アリだった。そのかみはラスタファリであり、その聖餐せいさんはマリファナだった。わりに、今日きょうかれ王国おうこく調査ちょうさしているボブ・マーリーは、笑顔えがお慈悲じひかがや太陽たいようるヤシの、そしてガムボール・マシンからのキャンディーのように丁寧ていねいなラジオからながれる一連いちれんのヒットきょくである。もちろん、それはかれ不死ふし保証ほしょうした」[7]

家族かぞく

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マーリー一族いちぞくは「レゲエかいのロイヤルファミリー」という知名度ちめいど[8]

ボブ・マーリーを題材だいざいとした作品さくひん

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キングストンにあるアルヴィン・マリオット英語えいごばん彫刻ちょうこく作品さくひん

映画えいが

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ボブの映画えいが助監督じょかんとくであるダラス・ロジャーズ(IZABA)が監督かんとくつとめたレゲエ・ドキュメンタリー映画えいが
ボブ・マーリー財団ざいだん公認こうにんのドキュメンタリー映画えいが監督かんとくケヴィン・マクドナルド
2024ねん公開こうかいされたボブ・マーリーの伝記でんき映画えいが監督かんとくはレイナルド・マーカス・グリーン、キングズリー・ベン=アディルがマーリーをえんじ、つまリタ・マーリー子供こどものジギー・マーリー、セデラ・マーリーが製作せいさくつらねている。

その

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かりなであされい原作げんさくたなか亜希あきおっと作画さくがによる漫画まんが主人公しゅじんこう蜂須賀はちすかが、れたかね元手もとでに、武道館ぶどうかんウェイラーズ招聘しょうへいし、くなったボブのわりに自分じぶんうたって、アルバム「ライヴ!」のきょくじゅんでライブをおこなこと計画けいかくする。
  • 『レゲエいちだいおとこ〜ボブ・マーリー物語ものがたり
河内家かわちや菊水丸きくすいまるによるレゲエ河内かわうち音頭おんど[9]

ディスコグラフィ

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関連かんれん書籍しょせき

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  • スティーヴン デイヴィス『ボブ・マーリー レゲエの伝説でんせつ晶文社しょうぶんしゃ1986ねん ISBN 978-4-7949-5066-6
  • 『ボブ・マーリー レジェンド』(2006ねんISBN 978-4-86020-147-0
  • 菅原すがわら光博みつひろ藤田ふじたただし『ボブ・マーリー よみがえるレゲエ・レジェンド』ISBN 978-4-907276-28-7
  • KAWADE ゆめムック 文藝ぶんげい別冊べっさつ『ボブ・マーリー』 ISBN 978-4-309-97768-3
  • イアン・マッキャン&ハリー・ホーク『全曲ぜんきょく解説かいせつシリーズ ボブ・マーリィ』 ISBN 4-401-63023-8

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 解禁かいきんせよ」などのアルバムを発表はっぴょう。78ねんにミック・ジャガーと「ドント・ルック・バック」(テンプテーションズのカバー)を発表はっぴょうした。

出典しゅってん

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  1. ^ a b c Ankeny, Jason. Bob Marley | Biography & History - オールミュージック. 2021ねん7がつ2にち閲覧えつらん
  2. ^ a b c 藤川ふじかわ et al. 1995, p. 40.
  3. ^ Ruhlmann, William. The Wailers Biography & History - オールミュージック. 2021ねん8がつ5にち閲覧えつらん
  4. ^ ボブ・マーリーの生涯しょうがいえが伝記でんき映画えいがが2024ねん公開こうかいつまリタ・マーリーも監修かんしゅう参加さんか”. ナターシャ. 2024ねん1がつ24にち閲覧えつらん
  5. ^ Bob Marley Les Paul Special Guitar - www.zuitar.com
  6. ^ Feud Brewing Over Marley Guitar”. www.riddimjamaica.net (2008ねん12月9にち). 2008ねん12月15にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2008ねん12月15にち閲覧えつらん
  7. ^ Dave Thompson (2001-10-10) (英語えいご). Reggae and Caribbean Music: Third Ear: Essential Listening Companion. Backbeat Books. p. 199. ISBN 978-0879306557 
  8. ^ 山西さんせい絵美えみ (2017ねん7がつ8にち). “モーガン・ヘリテイジ 『Avrakedabra』 グラミー受賞じゅしょうさくから2ねんぶりの新作しんさくはポップにけたレゲエ・フュージョンばん”. Mikiki. 2021ねん8がつ27にち閲覧えつらん
  9. ^ レゲエ河内かわち音頭おんど「ボブ・マーリー物語ものがたり菊水丸きくすいまる日記にっき、2014ねん1がつ25にち

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 藤川ふじかわあつし高橋たかはし瑞穂みずほ五味ごみ俊之としゆき、イアン・ボイス、ヤマン・ジャン・ピエール「ボブ・マーリィ 1945 - 1981 LIFE & HIS MUSIC」『RM レゲエ・マガジン』だい47ごう株式会社かぶしきがいしゃタキオン、1995ねん6がつ 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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