竹田たけだ子守こもりうた

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竹田たけだ子守こもりうた
あかとりシングル
Bめんつばさをください
リリース
規格きかく シングルレコード
ジャンル 民謡みんよう
フォークソング
レーベル リバティ(東芝とうしば音楽おんがく工業こうぎょう
作詞さくし作曲さっきょく日本にっぽん民謡みんよう
チャート最高さいこう順位じゅんい
あかとり シングル 年表ねんぴょう
だれのために
1970ねん
竹田たけだ子守こもりうた
1971ねん
うつくしいあさ
(1971ねん
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みんなのうた
竹田たけだ子守こもりうた
歌手かしゅ ペドロ&カプリシャス
作詞さくししゃ 京都きょうと竹田たけだ地方ちほう子守こもりうた
作曲さっきょくしゃ 同上どうじょう
編曲へんきょくしゃ ヘンリー広瀬ひろせ
映像えいぞう 実写じっしゃ
はつ放送ほうそうがつ 1974ねん12月 - 1975ねん1がつ
さい放送ほうそうがつ 2015ねん10月 - 11月(ラジオのみ)
その 1981ねん9月23にちの『みんなのうた20ねん』で放送ほうそう(4ばんのぞく)。
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竹田たけだ子守こもりうた(たけだのこもりうた)は、京都きょうと民謡みんよう、およびそれをもとにしたポピュラー音楽おんがく歌曲かきょく。「竹田たけだ子守こもり」とも[注釈ちゅうしゃく 1]。1970年代ねんだいにフォークグループ「あかとり」がうたってヒットし、日本にっぽんフォーク歌手かしゅたちなどによって数多かずおお演奏えんそうされている[1]

1960年代ねんだい後半こうはんうたごえ運動うんどう展開てんかい背景はいけいとして京都きょうと伏見ふしみ採譜さいふ編曲へんきょくされ、はじめは合唱がっしょうきょくとしてうたわれた。その関西かんさいフォーク歌手かしゅたちのレパートリーとしてげられ[2]、「あかとり」の歌唱かしょうによってその叙情じょじょうてきなメロディーと歌詞かしとが評判ひょうばんになる[3]。 しかし、歌詞かし差別さべつ部落ぶらくとの関係かんけい沙汰ざたされるようになると、放送ほうそう自粛じしゅくうごきがひろまり、「放送ほうそうながされることのないうたとしてはもっとも有名ゆうめいなヒットきょくひとつ」となった[4]

経緯けいい[編集へんしゅう]

採譜さいふから合唱がっしょうきょく[編集へんしゅう]

竹田たけだ子守こもりうた』を採譜さいふしたのは、作曲さっきょく尾上おがみ和彦かずひこである。1960年代ねんだいなかば、うたごえ運動うんどうひろまるなか大学だいがく労働ろうどう団体だんたいには合唱がっしょうだん合唱がっしょうサークルがげられており[5][2]尾上おのえは「いずみ和人かずと(おおいずみ かずと)」のペンネームで作曲さっきょく活動かつどう民謡みんよう採譜さいふのかたわら、これらのサークルに講師こうしとしてまねかれていた[6]尾上おのえは1962ねん12月から京都きょうと伏見ふしみ竹田たけだ地区ちくおとずれており、1964ねん2がつからは部落ぶらく解放かいほう同盟どうめい竹田たけだ深草ふかくさ支部しぶ当時とうじ)の文化ぶんかサークルとして組織そしきされた「はだしのグループ」へのレッスンを開始かいししていた[7][8]

このとし東京とうきょう芸術座げいじゅつざによる公演こうえんはしのないかわ』の舞台ぶたい音楽おんがく担当たんとうすることになった尾上おのえは、12月になっても楽曲がっきょく完成かんせいできずにいた。よく1965ねん1がつ公演こうえんちかづくなか尾上おのえ創作そうさくのヒントをるために、かれ下宿げしゅく居候いそうろうしていた「はだしの」のメンバーである野口のぐちみつぐ[注釈ちゅうしゃく 2]実母じつぼ岡本おかもとふく(1914ねん - 1983ねん[注釈ちゅうしゃく 3]竹田たけだ地区ちくたずねた。岡本おかもとふくは三味線しゃみせんきながら尾上おのえのために「長持ながも」などやく20きょくうたい、これを尾上おのえ録音ろくおんした。ふくがうたった「まもりもいやがる、ぼんからさきにゃあ、ゆきもちらつくし、もなくし、コイコイ」という「コイコイぶし」に強烈きょうれつ印象いんしょうけた尾上おのえは、このうた旋律せんりつをほぼいちばんつくなおし、1がつ5にち関西かんさいテレビでスタジオ録音ろくおん、12にちからの東京とうきょう芸術座げいじゅつざ公演こうえんにこぎつけた[7][8]

尾上おのえ依頼いらいけ、このきょく女声じょせいのための合唱がっしょうきょくとして編曲へんきょくし、歌詞かしなおした。これが「竹田たけだ子守こもりうた」である。「はだしの」では1965ねん1がつ29にちにこのうたはつレッスンがあったが、それ以前いぜんに、尾上おのえ指導しどうするほか団体だんたいでもこのきょくげられていたとかんがえられる。合唱がっしょうきょく依頼いらいしゃについては、同志社大学どうししゃだいがく合唱がっしょうだん「むぎ」、京都きょうと電通でんつう合唱がっしょうだん全日本ぜんにほん自治じち団体だんたい労働ろうどう組合くみあい自治労じちろう京都きょうと合唱がっしょうだんのいずれかはっきりしない[8]藤田ふじたによれば、合唱がっしょうだん「むぎ」のメンバーだったとする[9] 「はだしの」のレッスンで尾上おのえは、これは「五木いつき子守こもりうた」に匹敵ひってきするすごいきょくだとい、メンバーたちにきょく内容ないようについてはないをさせた。尾上おのえ同年どうねん3がつひらかれた部落ぶらく開放かいほうだい10かい全国ぜんこく婦人ふじん集会しゅうかい記念きねん文化ぶんかさいけてこのきょく歌唱かしょう指導しどうし、そのは「日本にっぽんのうたごえ」祭典さいてんへの出場しゅつじょうをめざして練習れんしゅうつづけた。その過程かていで10がつに「はだしの」は合唱がっしょうだん「はだし」に発展はってんてき解消かいしょうげている。神戸こうべでの予選よせん通過つうかし、11月東京とうきょうでの本選ほんせん合唱がっしょうだん「はだし」は「竹田たけだ子守こもりうた」と「こぶしかためて」[注釈ちゅうしゃく 4]の2きょくうたって地域ちいき激励げきれいしょう受賞じゅしょうした[8]

関西かんさいフォークからのひろがり[編集へんしゅう]

フォーク歌手かしゅ大塚おおつか孝彦たかひこが「竹田たけだ子守こもりうた」をったのは、1965ねんか1966ねん尾上おのえ指導しどうする同志社大学どうししゃだいがく合唱がっしょうだん「むぎ」の演奏えんそうかいだった。大塚おおつか合唱がっしょうきょく楽譜がくふ入手にゅうしゅすると、ギター伴奏ばんそううようにアレンジをほどこし、高田たかだ恭子きょうこ(1948ねん -)と二人ふたりうたはじめた。「竹田たけだ子守こもりうた」のはつ録音ろくおんは、このにんによるものである[9][注釈ちゅうしゃく 5]。 1969ねんには高石たかいしともや(1941ねん -)がアルバム『ぼうおおきくならないで 高石たかいし友也ともやフォーク・アルバムだい3しゅう』(ビクター)でこのうた録音ろくおんしている[11]

また、高石たかいし先立さきだつ1968ねん9がつには、森山もりやま良子りょうこ(1948ねん -)の3まいのアルバム『良子りょうこ子守こもり』(フィリップス)に「竹田たけだ子守こもりうた」が収録しゅうろくされ、これが大手おおてレーベルでのはつ録音ろくおんとなった。森山もりやまによって、このうた関西かんさいから東京とうきょうのフォーク・歌謡かようかいにもつたわった[11]

あかとり[編集へんしゅう]

大塚おおつか高田たかだのデュエットによる「竹田たけだ子守こもりうた」をいて、感銘かんめいけたのが後藤ごとう悦治えつじろうである。後藤ごとう関西かんさいフォーク定例ていれいコンサートでにんうたき、のち結婚けっこんする平山ひらやま泰代やすよ二人ふたりうたはじめた[11]。1969ねん3がつ後藤ごとう悦治えつじろうは5にんグループ「あかとり」を結成けっせいする[11]同年どうねん11がつ開催かいさいされただい3かいヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト出場しゅつじょうした「あかとり」は、「竹田たけだ子守こもりうた」と「COME AND GO WITH ME」をうたい、小田おだ和正かずまさ在籍ざいせきするジ・オフ・コース(オフコース)や財津ざいつ和夫かずおひきいるザ・フォーシンガーズ(チューリップ)らをおさえてグランプリを獲得かくとくする[11]

当時とうじ、メッセージせいつようた主流しゅりゅうだったフォーク・シーンにおいて、純粋じゅんすい音楽おんがく追求ついきゅうする「あかとり」は異色いしょく存在そんざいであり[12]、コーラスワークにも定評ていひょうがあった[3]

録音ろくおん[編集へんしゅう]

あかとり」のデビュー・シングルばんは「おちちかえれや/竹田たけだ子守こもりうた」(1969ねん10がつURC)だが、URCはインディーズレーベルの先駆さきがてき存在そんざいであり、メンバーたちにプロになるはなかった。しかし、作曲さっきょく音楽おんがくプロデューサー村井むらい邦彦くにひこ(1945ねん - f)からアルバム1まいだけでもレコーディングしないかとわれ、シングル「人生じんせいあかはなしろはな」(1970ねん6がつどう)とアルバム『FLY WITH THE RED BIRDS』(1970ねん8がつ日本にほんコロムビア)を制作せいさくする。この2まいが「あかとり」のメジャー・デビューとなった[13][12]

シングルAめんの「人生じんせい」とアルバム『FLY WITH THE RED BIRDS』の収録しゅうろくきょくである「JINSEI」はどういち音源おんげんで、「竹田たけだ子守こもりうた」のメロディに山上さんじょうおっとによる歌詞かしせたものである[注釈ちゅうしゃく 6]村井むらいによれば、「竹田たけだ子守こもりうた」の歌詞かしなにっているのかよくわからないことがその理由りゆうだった。しかし、もと歌詞かしほどの訴求そきゅうりょくはなく、納得なっとくがいかない後藤ごとうはもう一度いちどもと歌詞かししたいとつよ要望ようぼうした[14]。ディレクターの新田にったかずちょうからも原曲げんきょくいという意見いけんがあり[15]、1971ねん2がつ通算つうさん4まいのシングルばんとなる「竹田たけだ子守こもりうたつばさをください」を東芝とうしば音楽おんがく工業こうぎょうEMIミュージック・ジャパン)からリリースした[14]。これが発売はつばいやく3ねんで100まんまいのセールスをえるだいヒットとなった[4][注釈ちゅうしゃく 7]

1960年代ねんだいわりから1970年代ねんだいすうねんにかけて、「竹田たけだ子守こもりうた」はジローズ由紀ゆきさおりダークダックス上月こうづきあきら水前寺すいぜんじ清子きよこおおくのうたによって録音ろくおんされるようになっていた[4]。このころ広告こうこく代理だいりてん主導しゅどうによってうつくしい日本にっぽんさい発見はっけん提唱ていしょうするキャンペーン「ディスカバー・ジャパン」が展開てんかいされており、歌謡かようかいでは「竹田たけだ子守こもりうた」とおなじ1971ねんに「わたしの城下町じょうかまち」や「知床しれとこ旅情りょじょう」がヒットしている。音楽おんがく評論ひょうろんで『竹田たけだ子守こもりうた 名曲めいきょくかくされた真実しんじつ』の著者ちょしゃである藤田ふじたただしは、当時とうじ各地かくち公害こうがい社会しゃかい問題もんだいしながらも日本にっぽん経済けいざいてききゅう成長せいちょうめようとしなかったことにたいし、これらの流行りゅうこうはあるしゅ免罪めんざい目隠めかくしのような役割やくわりたしたとする[4]

うた出所しゅっしょ歌詞かしをめぐって[編集へんしゅう]

竹田たけだ子守こもりうた」が合唱がっしょうきょくとしてうたわれていた時点じてんでは、このうた差別さべつ部落ぶらくからまれたことがつたえられていたが、フォーク歌手かしゅたちのあいだうたわれ、ひろがっていくにつれて、「竹田たけだ」がどこなのかはわからなくなっていた。京都きょうとではなく大分おおいたけん竹田たけだだとかんがえられていたこともある[16]

シングルばんだいヒットした1971ねん4がつ伝承でんしょうはその文化ぶんか背景はいけいまなんだじょううたうべきとかんがえていた後藤ごとうは、「あかとり」の原点げんてんともいえる「竹田たけだ子守こもりうた」の出所しゅっしょ不明ふめいなことにうしろめたさをかんじ、友人ゆうじん作家さっか志望しぼう橋本はしもと正樹まさき共同きょうどうしてこのうたについて調しらはじめた。橋本はしもとは、ある女性じょせいから歌詞かしにある「在所ざいしょ」が京都きょうとでは差別さべつ部落ぶらく意味いみするとおしえられ、1970ねん出版しゅっぱんされた『京都きょうと民謡みんよう』(音楽之友社おんがくのともしゃ)に「竹田たけだ子守こもりうた」が紹介しょうかいされており、京都きょうと伏見ふしみ竹田たけだ採譜さいふされたものだとった[16]後藤ごとうは、『京都きょうと民謡みんよう』に掲載けいさいされていた「久世くぜ大根だいこんめし、吉祥きっしょうさいめし、またも竹田たけだのもんばめし」という歌詞かし注目ちゅうもくし、シングルばんの2ばん歌詞かしぼんがきたとて  なにうれしかろ……」のわりにえてライヴでうたい、ステージでこのうた出所しゅっしょについてくわしくかたるようになった[17]。なお、この歌詞かしで「竹田たけだ子守こもりうた」をうたって最初さいしょ録音ろくおんしたのは、加藤かとう登紀子ときこである[18]

一方いっぽう橋本はしもと日本にっぽん音楽おんがく研究けんきゅうかいのメンバーでもあった採譜さいふしゃ尾上おがみ和彦かずひこい、尾上おのえ紹介しょうかい野口のぐちみつぐとその母親ははおや岡本おかもとふくとも面識めんしきた。1972ねん1がつ橋本はしもと岡本おかもとふくをともない、京都きょうと勤労きんろう会館かいかんひらかれたフォーク・コンサートに出演しゅつえんした「あかとり」と彼女かのじょわせた[18]。 このとき岡本おかもとふくは、「ええかったがナァ」と感想かんそうをもらしつつ[19]も、メンバーたちにたいし「久世くぜ大根だいこんめし……」の歌詞かしうたわないでほしいとつよたのんだ。「こす」ようなことをしてくれるな、というのが彼女かのじょ意思いしだった[18]野口のぐちによれば、母親ははおや鹿子絞こしぼ仕事しごと仲間なかまから、だれがこんなおしえたのかと苦情くじょうわれていた[20]橋本はしもとによれば、岡本おかもとふくははじといっても竹田たけだだけならまだしも、久世くぜ吉祥きっしょう名前なまえまでしてしまったことを一生いっしょういだとかたったという[4]。 しかし後藤ごとうまよいながらも、積年せきねん部落ぶらく問題もんだい見据みすえてこの歌詞かし積極せっきょくてきうたつづけることにした。これにたいし、うつくしいうたうつくしく、それで十分じゅうぶんとする意見いけんがあり[17]、グループない対立たいりつまれた[18]。「あかとり」の知名度ちめいどがり、「竹田たけだ子守こもりうた」が有名ゆうめいになるにつれて、両者りょうしゃみぞふかまっていった[17]

また、このはなし橋本はしもとつうじて尾上おのえにもつたわった。尾上おのえはこのころ「竹田たけだ子守こもりうた」の補作ほさくしゃとして認可にんかされるよう日本音楽著作権協会にほんおんがくちょさくけんきょうかいはたらきかけていた。しかしかれは、このうたがさまざまなひとしたしまれたのは、主義しゅぎ主張しゅちょうえた作品さくひんだからだとかんがえており、板挟いたばさみになった岡本おかもとふくの苦境くきょうると、以降いこう竹田たけだ子守こもりうた」についての自分じぶんかかわりなどについて沈黙ちんもくした[20]

放送ほうそう自粛じしゅく[編集へんしゅう]

1970年代ねんだいはいり、「竹田たけだ子守こもりうた」が有名ゆうめいになるにつれて、ちまたではこのきょく差別さべつ部落ぶらく関係かんけいささやかれるようになった[21][4]たとえば、竹田たけだ地区ちく出身しゅっしん作家さっか土方ひじかたてつ(1927ねん - 2005ねん)は、1971ねんに「竹田たけだ子守こもりうた」の竹田たけだ京都きょうと伏見ふしみであることを『朝日あさひジャーナル投稿とうこうしている[4]放送ほうそうメディアは、うた部落ぶらくてくる(らしい)から、うた部落ぶらくうたっている(らしい)から、というだけの理由りゆうでこのうた忌避きひするようになった[21][4][22]

あかとり」の後藤ごとう悦治えつじろうによれば、ラジオテレビで「竹田たけだ子守こもりうた」を演奏えんそうしてはいけないとはわれないが、はっきりした根拠こんきょしめすことなく、できればはずしてもらいたい、ほかにいいきょくがあるからそっちをやってくださいということわられかたおおかった[4]。 「あかとり」のデビュー・アルバム『FLY WITH THE RED BIRD』は、1975ねん日本にほんコロムビアからさい発売はつばいされたが、この時点じてんでは収録しゅうろくきょくわりはない。ところが、1998ねんアルファミュージック東芝とうしばEMIからCD発売はつばいされたときには、それまで収録しゅうろくされていたぜん12きょくから「JINSEI」がのぞかれて11きょくとなっている[23]

全国ぜんこく地域ちいき人権じんけん運動うんどうそう連合れんごう人権じんけんれん竹田たけだ深草ふかくさ支部しぶ川部かわべのぼるは、このうたじゅうすうねんものあいだメディアからえていったことにより、「うたごえ運動うんどう」やおおくの歌手かしゅ・グループによってうたわれきずかれたひとこわされたとべている[24]

関係かんけいしゃへの取材しゅざい[編集へんしゅう]

ノンフィクション作家さっか映画えいが監督かんとくもり達也たつや(1956ねん - )が入手にゅうしゅした1986ねん7がつ4にちフジテレビ番組ばんぐみ考査こうさ資料しりょうのコピーがあり、文面ぶんめんには「竹田たけだ子守こもりうた」について、「同和どうわがらみでOA不可ふか京都きょうと同和どうわけんでもOA不可ふかかいどう見解けんかいによれば、うたつくられうたわれた理由りゆう背景はいけいなどをよく理解りかいしてくれればOAとのことなれど、実際じっさい理解りかいすることは不可能ふかのうなので、現実げんじつてきにはNO」とあり、そのしたには「在所ざいしょ解放かいほう部落ぶらく」というはしきがあった[21]

これについてもりは、差別さべつ部落ぶらくでこのうたまれたこと、そして差別さべつ部落ぶらくまれたがゆえにいわれのない差別さべつけ、子守こも奉公ほうこうさい底辺ていへんまずしい生活せいかつささえていた少女しょうじょかなしみといかりのうたなのだと理解りかいすることは、そうむずかしいことではないはずだが、あっさり「理解りかいすることは不可能ふかのう」という結論けつろんむすびついてしまっていると指摘してきしている[21]。 フジテレビ番組ばんぐみ審議しんぎしつへの取材しゅざいでは、差別さべつ表現ひょうげんかかわる問題もんだい部落ぶらく解放かいほう同盟どうめいからきびしい抗議こうぎ糾弾きゅうだんけていたとはいえ、放送ほうそうきょくがわが「クサいものにはぶたしき思考しこう無自覚むじかくにしてきたことで、過去かこ汚点おてんのこしたことは事実じじつだとみとめた。対応たいおうしゃは、これはシステムの問題もんだいではなく制作せいさくしゃいちにんひとりの覚悟かくご問題もんだいだが、かれらは物分ものわかりがすぎ、異論いろんとなえるという発想はっそう自体じたいがないとべている[25]

日本民間放送連盟にほんみんかんほうそうれんめい民放連みんぽうれん)が指定していしていた「要注意ようちゅうい歌謡かようきょく一覧いちらん」に「竹田たけだ子守こもりうた」が掲載けいさいされたという事実じじつ確認かくにんされていない[21]民放連みんぽうれんへの取材しゅざいでは、「要注意ようちゅうい歌謡かようきょく一覧いちらん」は1983年度ねんどばん最後さいご刷新さっしんしていない。要注意ようちゅうい歌謡かようきょく指定していは1959ねんからはじまったが、これはガイドラインであって最終さいしゅうてき判断はんだんかく放送ほうそうきょくまかされる。しかし、この部分ぶぶん一人ひとりあるきしてしまい、民放連みんぽうれん規制きせい主体しゅたいだと誤解ごかいされていることがおおいとの回答かいとうだった[26]

もり教科書きょうかしょ出版しゅっぱん会社かいしゃにも電話でんわ取材しゅざいし、「竹田たけだ子守こもりうた」、「かごめかごめ」、「とおりゃんせ」が教科書きょうかしょから掲載けいさいされなくなった背景はいけい部落ぶらく差別さべつ問題もんだいがあるのかとたずねたところ、非常ひじょうにナイーブな問題もんだいであり、教科書きょうかしょからえたきょくはほかにも数多かずおおく、理由りゆう断定だんていすることで差別さべつさい生産せいさんするおそれもあるとの回答かいとうだった[21]

もり取材しゅざいけた当時とうじ部落ぶらく解放かいほう同盟どうめい京都きょうと連合れんごうかい書記しょきちょう中央ちゅうおう本部ほんぶきょうせん部長ぶちょう西島にししま藤彦ふじひこは、「手紙てがみ」、「チューリップのアップリケ」、「竹田たけだ子守こもりうた」をっているかとかれて、「どれもよくっています」、「わかころ、ムラのなかではよくみなうたっていましたよ。だからどうしてこんなにいいうたが、ひろまらないのかわたし不思議ふしぎおもっていたのだけど…」とこたえ、過去かこ解放かいほう同盟どうめい抗議こうぎしたことはなく、これらのきょく放送ほうそう禁止きんし指定していされている[注釈ちゅうしゃく 8]ことさえいままでらなかったとべた[27]。 「はだしの」のメンバーだった野口のぐちも、実際じっさいにこのうたかんして運動うんどうがわからの抗議こうぎなどはなかったとべている[28]

藤田ふじたによれば、当時とうじ部落ぶらく問題もんだいにかかわるといたう、けたほう得策とくさくだという偏見へんけんやイメージがたれており[4]、「竹田たけだ子守こもりうた」の歌詞かしにある地名ちめいうたわれることによって、どこに差別さべつ部落ぶらくがあるからしめてしまい、きびしい抗議こうぎけるのではないかという危惧きぐがあったとする[23]人権じんけんれん川部かわべはこれについて、1974ねんの「八鹿ようか高校こうこう事件じけん」における集団しゅうだんリンチよく75ねんの「特殊とくしゅ部落ぶらく地名ちめいそうかん問題もんだいなどをつうじて「同和どうわタブー」が形成けいせいされ、部落ぶらく地名ちめい使用しようについてかいどうが「差別さべつ」だといえば、使用しようしゃ意図いと関係かんけいなく「差別さべつ」と断定だんていされる(朝田あさだ理論りろん)ようになっていったことが背景はいけいにあると指摘してきしている[24]

もとうた伝承でんしょう[編集へんしゅう]

あかとり解散かいさん後藤ごとう悦治えつじろう平山ひらやま泰代やすよは「かみふうせん」を結成けっせいした[29]。1981ねん12がつ10日とおか朝日放送あさひほうそう放送ほうそうされた報道ほうどう特別とくべつ番組ばんぐみ「そして明日あしたは」は、うた差別さべつ部落ぶらく関係かんけい正面しょうめんからあつかったドキュメントであり、これに出演しゅつえんした「かみふうせん」の二人ふたりは「竹田たけだ子守こもりうた」を「久世くぜ大根だいこんめし」の歌詞かしふくめてうたっている[29]

「そして明日あしたは」の放送ほうそう竹田たけだ地区ちくでも話題わだいとなった。これをきっかけとして、武村たけむらやすがうた録音ろくおんされた「もとうた」が記録きろくされ、「こいこいふし」などとともに伝承でんしょうするみがはじまった。部落ぶらく解放かいほう同盟どうめいあらためしん支部しぶ女性じょせいでは、もとうたと「竹田たけだこいこいふし」をレパートリーとした活動かつどうはじめ、2001ねん2がつの「だい6かいふしみ人権じんけんつどい」においてもとうた披露ひろうしている[30]。このつどいには「かみふうせん」の二人ふたり参加さんかしてかれらの「竹田たけだ子守こもりうた」をうたった[31]。その、メンバーの高齢こうれいにより活動かつどう休止きゅうししていたが、2022ねん部落ぶらく解放かいほう同盟どうめい連合れんごうかい女性じょせいによって再開さいかいしている[32]

なお、1960年代ねんだい後半こうはん部落ぶらく解放かいほう運動うんどう分裂ぶんれつし、かつての竹田たけだ深草ふかくさ支部しぶ全国ぜんこく部落ぶらく解放かいほう運動うんどう連合れんごうかいぜんかいれん)に所属しょぞくした。一方いっぽう部落ぶらく解放かいほう同盟どうめいは1970年代ねんだい合唱がっしょう運動うんどう積極せっきょくさせたが、その活動かつどう合唱がっしょうだん「はだし」と断絶だんぜつがある[33]。 とはいえ野口のぐちによれば、分裂ぶんれつしたぜんかいれん部落ぶらく解放かいほう同盟どうめいあいだでもこのうたについて問題もんだいになったことはないとべている[28]

変化へんかのきざし[編集へんしゅう]

1990年代ねんだいおわりに、ロックバンドソウル・フラワー・ユニオン(『マージナル・ムーン』(1998ねん))、ヒートウェイヴが「竹田たけだ子守こもりうた」をメジャー録音ろくおんした。2000ねんまつにはサザン・オールスターズ桑田くわた佳祐けいすけがステージでこのうたうた映像えいぞうNHK-BS放送ほうそうされた。その、「あかとり」のメンバーだった山本やまもと潤子じゅんこが2001ねん8がつにNHK「おものメロディー」でうたい、2002ねん5がつには高田たかだ恭子きょうこがNHK-BS「あのひとこのうた」で、同月どうげつ山本やまもと潤子じゅんこ坂崎さかざき幸之助こうのすけが「フォークだい集合しゅうごう」でうたっている。山本やまもと潤子じゅんこはこのとし12がつにもこのうた森山もりやま良子りょうこ共演きょうえんした[34]

藤田ふじたは、「うたは、21世紀せいきはいって、そっとではあるがドアのこうがわからかおのぞかせている。」とべている[34]

メロディーと歌詞かし[編集へんしゅう]

まもうたについて[編集へんしゅう]

明治めいじ写真しゃしん日下部くさかべきむ兵衛ひょうえ撮影さつえいした子守こもむすめたち

藤田ふじたによれば、子守こもりうたにはおおきくみっつのながれがある。「かせうた」、「あそばせうた」、「まもうた」である。「竹田たけだ子守こもりうた」はこのうち「まもうた」に相当そうとうする[35]。 「まもうた」の成立せいりつはさしてふるいものではなく、もりによれば明治めいじなかごろと推察すいさつされ、民謡みんよう童謡どうようおおくがこのころに成立せいりつしている[36]。これには、江戸えど末期まっきから明治めいじにかけて、封建ほうけん社会しゃかいから近代きんだい資本しほん主義しゅぎ社会しゃかいへと急速きゅうそく変化へんかしていく過程かていで、裕福ゆうふく商家しょうか農家のうかやす労働ろうどうりょくもとめたことに背景はいけいがある。まずしい家庭かていまれた少年しょうねん少女しょうじょが、期間きかんさだめて丁稚でっち小僧こぞうなどの下働したばたらきやちゃつみなどのぶし労働ろうどう野良のら仕事しごと家事かじなどの仕事しごとをこなす「奉公ほうこう」とばれる労働ろうどう形態けいたいまれた。まももそのひとつである[35]。したがって、まもうたには労働ろうどうとしての性格せいかくがある[36]

まも奉公ほうこうがなくなれば、まもうたうたわれなくなるため、だい世界せかい大戦たいせんのちには各地かくち子守こもりうたはほとんどなくなっていた。しかし、差別さべつ部落ぶらくでは就職しゅうしょく困難こんなんせいからうた消滅しょうめつに20ねん程度ていど時間じかんがあった。「竹田たけだ子守こもりうた」が発見はっけんされた1960年代ねんだいなかばは、日本にっぽん子守こもりうたにとって節目ふしめだったともかんがえられる[37]

日本にっぽん音楽おんがく研究けんきゅうかい京都きょうと民謡みんよう』(1970ねん[編集へんしゅう]

音楽之友社おんがくのともしゃから出版しゅっぱんされた『京都きょうと民謡みんよう』(1970ねん)には、日本にっぽん音楽おんがく研究けんきゅうかい採譜さいふとして「竹田たけだ子守こもりうた」が掲載けいさいされている。タイトルのしたには「―京都きょうと伏見ふしみ竹田たけだ―」とあり、「原曲げんきょくへん」ではつぎのような楽譜がくふ歌詞かしとなっている[38][注釈ちゅうしゃく 9]


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 \relative f' { \key f \minor \time 2/4 | es4 f8 as8 | bes4 es | c2 | bes4 as | f bes | as as8( f) | f2( | f) }\addlyrics { ゆ き も | ち ら | つ | く し | こ も | な く- | し-}


いち、もりもいやがる ぼんからさきにゃ

ゆきもちらつくし くし

はや(はよ)もきたい この在所ざいしょこえて

こうにえるは おやのうち

さんいよいよと こまものうりに

たらもする(し) いもする

よん久世くぜ大根だいこんめし 吉祥きっしょうさいめし

またも竹田たけだの もんばめし

、このようく もりをばいじる

もりもいちにち やせるやら


また、同書どうしょには4パートにかれた「編曲へんきょくへん」も掲載けいさいされており、これらのメロディと歌詞かしせたのは、尾上おがみ和彦かずひこである[39][16]。なお、合唱がっしょうだん「はだし」の野口のぐち所有しょゆうするこのうた譜面ふめんは2種類しゅるいあり、低音ていおんパートや音程おんていなどに修正しゅうせいられる。合唱がっしょう指導しどうなか尾上おのえはそのきょくれていたことがうかがえる[39]

尾上おのえは、岡本おかもとふくのうたはやく、16ふん音符おんぷくところを拍子ひょうしえて8ふん音符おんぷ処理しょりし、ちゃんとしたうたかたちになっていないものをまとめたとべている[40]

あかとりによる歌唱かしょう(1971ねん[編集へんしゅう]

※メロディーについては、下記かき右田みぎた伊佐雄いさおによる比較ひかく参照さんしょうのこと。

あかとり竹田たけだ子守こもりうた歌詞かし[41]

いちまもりもいやがる ぼんからさきにゃ

ゆきもちらつくし くし

ぼんたとて なにうれしかろ

帷子かたびら(かたびら)はなし たいはなし

さん、このようまもりをばいじる

まもりもいちにち やせるやら

よんはやもゆきたや この在所ざいしょえて

こうにえるは おやいえ

2ばんぼんたとて」の歌詞かしは、もり藤田ふじたらによれば高石たかいしともやが『日本にっぽん子守こもりうた』(松永まつなが伍一ごいちしる紀伊國屋きのくにや書店しょてん)でつけた愛知あいちけん子守こもりうたかられたものである[42][43][39]。 「あかとり」の後藤ごとう悦治えつじろうは、当初とうしょうたっていたこの歌詞かしはずし、『京都きょうと民謡みんよう』に掲載けいさいされていた「久世くぜ大根だいこんめし」の歌詞かしえてうたうようになった[17]

右田みぎた伊佐雄いさおによる旋律せんりつ比較ひかく(1978ねん[編集へんしゅう]

民謡みんよう研究けんきゅうで『大阪おおさか民謡みんよう』(1978ねん)の著者ちょしゃ右田みぎた伊佐雄いさお(1928ねん - 1992ねん)は、「竹田たけだ子守こもり」について、原曲げんきょく尾上おがみ和彦かずひこ作曲さっきょく、「あかとり」らによる歌唱かしょうによる旋律せんりつつぎのように比較ひかくしている[44]。 なお、下記かきB. よりも上記じょうき京都きょうと民謡みんよう』の掲載けいさい楽譜がくふ半音はんおんたかいキーとなっているのは、合唱がっしょうだんでの歌唱かしょう考慮こうりょした尾上おのえ調しらべせい変更へんこうしたためである[39]


A. 原曲げんきょく

 \relative f' { \key e \minor \time 1/2 | d e8 g | a4 b | a g8( d) | e e g a | b4 b8( a) | a2( | a4) r | e4 g8 a | b4 b8( a) | a4 g8( d) | e a4. | g4 g8( e) | e2( | e4) r | }


B. 尾上おがみ和彦かずひこによる『はしのないかわ』のテーマ音楽おんがく(1964ねん12がつ

 \relative f' { \key e \minor \time 2/4 | d e8 g | a4 b | a2 | g4( d) | e8 e g a | b4 b8( a) | a2( | a) | d,4 e8 g | a4 d | b2 | a4 g | e a | g g8( e) | e2( | e)| }


C. 「あかとり」らフォーク歌手かしゅたちの歌唱かしょう

 \relative f' { \key e \minor \time 2/4 | d e8 g | a4 a8 b | a2 | g4( e) | e8 e g a | b4 b8( a) | a2( | a) | d,4 e8 g | a4 a8( d) | b2 | a4 g | e e8( g) | g4 g8( e) | e2( | e)| }


右田みぎたによると、日本にっぽん民謡みんよう大半たいはん旋律せんりつ頂点ちょうてん前半ぜんはんかたちっている。これは祝祭しゅくさいうたであれ仕事しごとうたであれ、神霊しんれい鎮撫ちんぶすることが目的もくてきうたわれた「神守かもり」が日本にっぽん民謡みんよう基本きほんになっているためであり、子守こもりなかでもとくに「させうた」の場合ばあいあか興奮こうふんさせないためにほとんど例外れいがいなしに頂点ちょうてん前半ぜんはんがたであるとする。ぎゃくに、西洋せいよう音楽おんがくでは後半こうはんげて終結しゅうけつみちびく。尾上おのえ原曲げんきょくから後半こうはん高揚こうようさせており、西洋せいようのスタイルにしたがった手法しゅほうといえる[44]うた後半こうはん頂点ちょうてんっていくことについて、尾上おがみ自身じしんは、自分じぶんのつらいものをしんなかまずそとけていく姿勢しせいおとめており、そうした前向まえむきな主張しゅちょうがこのうたうたった若者わかものたちのなかにもあったとおもうとかたっている[19]かれ旋律せんりつつくさいしんいていた音楽おんがくとして、ロシア民謡みんようの「あかいサラファン」、シベリウスの「フィンランディア」、黒人こくじん霊歌れいかの「ふかかわ」、アイルランド民謡みんようロンドンデリーのうた」などをげている[45]

また、B. で尾上おのえ原曲げんきょくよん音程おんてい力強ちからづよさを意識いしきして、後半こうはんにもよん上昇じょうしょうもちいているが、C. では、上昇じょうしょうはんはくずらしておくらせ(10小節しょうせつ、13小節しょうせつ)、よんはばたんさんちぢめる(13小節しょうせつ)という変更へんこうくわえている。これはみみいたきょく再現さいげんするさい無意識むいしきてきうたえられたものである[44]尾上おのえつくった旋律せんりつを、フォーク歌手かしゅたちはギターにせるためにアレンジしていった[39]が、もともとよん跳躍ちょうやくおんがた北日本きたにっぽん日本海にほんかいがわ地域ちいきおおく、関西かんさいではすくないため、おも京都きょうと中心ちゅうしんとしたかれらにとってより自然しぜんかたちえられたとかんがえられる。この結果けっか原曲げんきょく力強ちからづよさよりも関西かんさい民謡みんようらしいなめらかさとうたいよさが特徴とくちょうづけられることになった[44]

高橋たかはし美智子みちこ京都きょうとのわらべうた』(1979ねん[編集へんしゅう]

1979ねんに『京都きょうとのわらべうた』をあらわした声楽せいがく高橋たかはし美智子みちこは、「竹田たけだ子守こもりうた」について、まったくことなった系統けいとう旋律せんりつがあるとする。高橋たかはしけい5種類しゅるい旋律せんりつ紹介しょうかいしており、そのうち〔A〕から〔D〕までを下記かきしめ[46]。〔E〕は「作曲さっきょく 尾上おがみ和彦かずひこ」とされており、上記じょうき右田みぎたの「B. 『はしのないかわ』のテーマ音楽おんがく」とおなじであるため、省略しょうりゃくした。

〔A〕

 \relative f' { \key c \minor \time 4/4 | \times 2/3 {c8 c d} \times 2/3 {es g4} \times 2/3 { es8 d c}( c4) | c16 c d es \times 2/3 {g8 g es} g2 | \times 2/3 {g8 as c} \times 2/3 {as g4} \times 2/3 {es8 d( c)} c4 | \times 2/3 {es8 g4} \times 2/3 {es8 d c} d2 }\addlyrics { も り も い や が ー る | ぼ ん か ら さ き ー にゃ | ゆ き も ち ら つ く ー | こ も な く ー し |}

〔B〕

 \relative f' { \key c \major \time 4/4 | \times 2/3 {c8 c d} \times 2/3 {e g4} \times 2/3 { e8 d c}( c4) | c16 c d e \times 2/3 {g8 g e} g2 | \times 2/3 {e8 g a} \times 2/3 {c a g} \times 2/3 {g e( d)} c4 | e8 g \times 2/3 {e d c} d2 }\addlyrics { ね ん ね ね ん ね ー と | ね た こ は か わ ー い | お き て な く ー こ ー は | つ ら に ー く い |}

〔C〕

 \relative f' { \key e \minor \time 2/4 | r8 d e g | a4 b | a g8( e) | e e g a | b4 b8( a) | a2 | e4 g8 a | b8 b4 a8 | a4 g8( e) | e a4. | g8 g4 e8 | e2 |}\addlyrics { ね ん ね | ね ん | ね と | ね た こ は | か わ | い | お き て | な く ー | こ は | つ ら | に く ー | い |}

〔D〕

 \relative f' { \key e \minor \time 2/4 | e4 g8 a | b4 d | b a8( g) | e4 g8 a | b4 b8( a) | a2 | d,4 e8 g | a4 b | b4 a8( g) | e4 a | g4 g8( e) | e2 |}\addlyrics { も り も | い や | が る | ぼん か ら | む こう | にゃ | ゆ き も | ち ら | つ く | こ も | な く | し |}


いちまもりもいやがる ぼんからさきにゃ

ゆきもちらつくし くし

、このようまもりをばいじる

まもりもいちにち やせるやら

さん、はよもきたい この在所ざいしょこえて

こうにえるは おやのうち

よんいよいよ しょうあいだ物売ものうりに

たらもする いもする

久世くぜ大根だいこんめし 吉祥きっしょうさいめし

またも竹田たけだの もんばめし

ろくぼんたとて なにうれしかろ

かたびらはなし たいはなし


類歌るいか〕として掲載けいさいされている歌詞かし

いち、ねんねねんねと ねたはかわい

おきては つらにくい

てもあきぬ おつきとおひと

たてたかがみと わがおや


〔A〕と〔B〕は、高橋たかはし採譜さいふした当時とうじうたえるひとおおく、京都きょうと特有とくゆう節回ふしまわしであり、旋律せんりつ後半こうはん乙訓おとくにぐん子守こもり同一どういつであることから、むかしから竹田たけださと伝承でんしょうされているものとする。一方いっぽう尾上おのえ作曲さっきょくするもととなった〔C〕と〔D〕は、このふしっているものがにおらず、うた戦後せんご10ねんちか竹田たけだはな地方ちほう巡業じゅんぎょうしていたらしいとして、このふしはいったいどこからたのかと疑問ぎもんていしている[46][注釈ちゅうしゃく 10]

また、歌詞かしの5ばん久世くぜ大根だいこんめし 吉兆きっちょうさいめし」、6ばんぼんたとて なにうれしかろ」をならべて掲載けいさいしている[46]。すでにべたように、「ぼんたとて」の歌詞かしは、高石たかいし友也ともや愛知あいちけん子守こもりうたかられたものとされており[42][43][39]のちに「あかとり」の後藤ごとう悦治えつじろうがこれをはずしてわりにうたったのが「久世くぜ大根だいこんめし」の歌詞かしである[17]

これにたいして藤田ふじたは、「竹田たけだ子守こもりうた」は竹田たけだ地域ちいきにある差別さべつ部落ぶらくだけでまれそだったわけではなく、すくなくとも関西かんさい地方ちほうのいくつかの部落ぶらくとの文化ぶんか交流こうりゅうのなかで成長せいちょうしたうただとする[22]たとえば「竹田たけだ子守こもりうた」にうたは、尼崎あまがさき差別さべつ部落ぶらくでも「チーコイターコイのうた」としてつたわっていた。チーコターコイとは、「ちちこいし、ははこいし」の意味いみではないかとされている[47]もりによれば、大阪おおさか差別さべつ部落ぶらくでもよくうたうたわれているという[48]世代せだいによってもうたのメロディがちがい、あたらしい地域ちいきとのつながりができるとその地区ちくうたまれ、以前いぜんふしてられるということがあった[49]伝承でんしょうしゃ各人かくじんによって歌詞かし一部いちぶ、メロディラインがことなり、歌詞かし順序じゅんじょまったものではない[50]

また右田みぎたは、農作業のうさぎょう地固じがたなどの場合ばあい大勢おおぜいでときには斉唱せいしょうになってもピタリとうのにたいし、子守こもりなかでもさせうただけは、各人かくじんのフシがかならずといっていいほどちがっていて最後さいごまでうたえないという。あかしずかにかせるうた集団しゅうだんでなく単独たんどくうたうため、どうしても個別こべつのフシになってゆくのだろうと推測すいそくしている[51]。 さらに、民謡みんようには地域ちいきせい個人こじんせいがあり、おな地域ちいきでも時代じだいによりうたのフシ、リズム、テンポがわる。おなうたであってもそのときの気分きぶんによって歌詞かし適宜てきぎうたえる自由じゆうさがあり、そこにうた個性こせいる。かくうたはそれぞれので、いつもどおりにうたわれてきたわけではなく、固定こていてきかんがえてはならないとべている[52]

録音ろくおんされた「もとうた」(1981ねん[編集へんしゅう]

竹田たけだ子守こもりうた」のもとうたとされるものとして、武村たけむらやす(1900ねん - 1985ねん)がその晩年ばんねんちかしいひと紹介しょうかいした歌詞かしとメロディーがのこされている[53]武村たけむらやすがまもとしてはたらいていたのは、明治めいじわりごろから大正たいしょうにかけてであり、1910ねん明治めいじ43ねん前後ぜんこう推定すいていされる[54]もりによれば、彼女かのじょ最後さいご世代せだいであり、もとうたはすでにうたわれていないという[36]

武村たけむらやすのもとうたは、江戸えど時代じだい後期こうきひろまった俗謡ぞくようである都々逸どどいつおなじ「なななななな」の音律おんりつしたがったみじか歌詞かしと「どしたいこりゃ きこえたか」というリフレインで構成こうせいされている。歌詞かし内容ないようには、長唄ながうたなど大人おとなあそうた由来ゆらいするものがあり、まもたちが労働ろうどうちゅううたなかれられて定着ていちゃくしたとかんがえられる[55]

部落ぶらく解放かいほう同盟どうめい京都きょうと連合れんごうかいあらためしん支部しぶ採譜さいふによるもとうた[50]

 \relative f' { \key g \major \time 2/4 | d e8. g16 | a4 a8. g16 | g8. e16 e4( | e4) g8. a16 | b4 b( | b) a8. g16 | a4 a | r2 | g4 g8. e16 | a4 a8. g16 | g8. e16 e4( | 4) g8. e16 | d4 d8. b16 | b4 r | d d8. b16 | e4 e| d d8. b16 | e4 e }\addlyrics { こ の こ | よ う ー | な ー く | も り | を ば | い じ | ー る | も り も | い ち ー | に ー ち | や せ | る や ー | ら | どし た い | こ りゃ | き こ え | た か |}


このようまもりをばいじる

まもりもいちにち やせるやら
どしたいこりゃ きこえたか

ねんねしてくれ 背中せなかうえ

まもりもらくなし らく
どしたいこりゃ きこえたか

ねんねしてくれ おやすみなされ

おや御飯ごはんが すむまでは
どしたいこりゃ きこえたか

ないてくれよな 背中せなかうえ

まもりがどんなと おもわれる
どしたいこりゃ きこえたか

このようまもりしょというたか

かぬでさえ まもりゃいやや
どしたいこりゃ きこえたか

てらぼうさん 根性こんじょうわる

まもいなして もんしめる
どしたいこりゃ きこえたか

まもりがにくいとて やぶかさきせて

かわいがるあめやかかる
どしたいこりゃ きこえたか

いよいよと こま物売ものうりに

たらもする いもする
どしたいこりゃ きこえたか

久世くぜ大根だいこんめし 吉祥きっしょうさいめし

またも竹田たけだの もんばめし
どしたいこりゃ きこえたか

あしつめたい 足袋たびうておくれ

とうさんかえったら うてはかす
どしたいこりゃ きこえたか

カラスこえ わしゃにかかる

とうさん病気びょうきてござる
どしたいこりゃ きこえたか

ぼんたかて 正月しょうがつたかて

難儀なんぎおやもちゃ うれしない
どしたいこりゃ きこえたか

ても見飽みあきぬ おつきとお

てたかがみと わがおや
どしたいこりゃ きこえたか

はやよもいにたい あの在所ざいしょこえて

こうにえるは おやのうち
どしたいこりゃ きこえたか[36]

また、武村たけむらやすよりもわか世代せだいでは、べつうたうたわれていた。「竹田たけだこいこいふし」は、「ねんねんころりよ ねたはかわいい おきては つらにくい こいこい」という歌詞かし[54]もとうたよりもテンポがはやく、「どしたいこりゃ」にえて「こいこい」というみじかいフレーズがかえされる。このフレーズは岡本おかもとふくが尾上おがみ和彦かずひこうたってかせたなかにもふくまれていたものである[54]

歌詞かし意味いみ[編集へんしゅう]

明治めいじ40ねんごろの高瀬川たかせがわ。かつて竹田たけだ地区ちくには高瀬舟たかせぶね従事じゅうじする人々ひとびととおくは四国しこくから出稼でかせぎにており、「高瀬たかせ船頭せんどう」といううたい採譜さいふされている[56][57]

もりによれば、差別さべつ部落ぶらく少女しょうじょたちは家計かけいたすけるために10さい前後ぜんこうからとおはなれたいえ奉公ほうこうされ、学校がっこうかよ余裕よゆうもないなか友達ともだちあそぶこともかなわず、奉公ほうこうさき子供こども背負せおいながら労働ろうどうをこなした。まもには、そうした少女しょうじょたちがおかれた境遇きょうぐうへの悲憤ひふんうらみがつづられているとする[48]

京都教育大学きょうときょういくだいがくたけとう良成よしなりは、歌詞かしなかで「この在所ざいしょこえて」と「竹田たけだのもんばめし」のふたつのふしをこのうた核心かくしん部分ぶぶんとしており[2]、その解釈かいしゃくについて以下いかれる。

この在所ざいしょこえて[編集へんしゅう]

(『京都きょうと民謡みんよう』より歌詞かし再掲さいけい

はや(はよ)もきたい この在所ざいしょこえて

こうにえるは おやのうち


「この在所ざいしょこえて」の「在所ざいしょ」が差別さべつ部落ぶらくし、メディアがこれにづいたことにより「竹田たけだ子守こもりうた」は放送ほうそうされなくなったとかんがえられていたが、うたと「在所ざいしょ」の関係かんけいはあいまいである。歌詞かし素直すなおめば、「在所ざいしょ」をえたところにおやいえがあるとすれば、うた部落ぶらくんでいるとはかぎらない[58]。 ではうたはどこでうたっているのかについても、はっきりしない。もり達也たつや整合せいごうせいのある解釈かいしゃくもとめて、部落ぶらくまもがたまたま地域ちいきそとたところでうたっているという状況じょうきょうもあるとかされている[58]

これにたいして、橋本はしもと正樹まさきうたが「竹田たけだ子守こもりにていた」情景じょうけいとし、「在所ざいしょ」をえるという部分ぶぶんを「人間にんげんほこりを主張しゅちょう奪還だっかんするすべての行動こうどう」という意味いみとらえた[59]藤田ふじたただしもまた竹田たけだ子守こもりしている情景じょうけいであり、「脱出だっしゅつ」をうためているとべている[60]高橋たかはし美智子みちこおなじく「このさと子守こも奉公ほうこうにきたまもうたである」としているが、「在所ざいしょ」の解釈かいしゃくについてはれていない[61]

採譜さいふしゃ尾上おがみ和彦かずひこは、岡本おかもとふくが宇治うじはたらきにかけていたことをふまえ、帰路きろたる桃山ももやま丘陵きゅうりょうから竹田たけだのぞんでいる情景じょうけいおもえがいていた。たけとうは、竹田たけだ見下みおろせるやまとしては桃山ももやま丘陵きゅうりょう想定そうていできることから尾上おのえ解釈かいしゃくには普遍ふへんせいがあるとべている。一方いっぽうで「はだしの」の団員だんいんたちは、うた吉祥院きっしょういん久世くぜなど竹田たけだから西にし位置いちする場所ばしょから竹田たけだている状況じょうきょうをイメージしていた。このように、さまざまな解釈かいしゃく可能かのうである[59]

また、「在所ざいしょ」の意味いみについても、部落ぶらくすのかどうか明確めいかくではない[58]。この言葉ことば京都きょうとでは部落ぶらく意味いみすることもあるが、関西かんさいでは一般いっぱんまれ故郷こきょう国許くにもと田舎いなか[22]もり取材しゅざいでは、京都きょうとでは「在所ざいしょ」は差別さべつ部落ぶらくすが、大阪おおさかでは一般いっぱん地域ちいき在所ざいしょぶのだという[58]。さらに、上記じょうき武村たけむらやすの「もとうた」のように、「この在所ざいしょ」を「あの在所ざいしょ」とうたれいもあり、歌詞かし解釈かいしゃく特定とくていすることはいっそう困難こんなんである[58]

竹田たけだのもんばめし[編集へんしゅう]

豆乳とうにゅうしぼかすおから

(『京都きょうと民謡みんよう』より歌詞かし再掲さいけい

久世くぜ大根だいこんめし 吉祥きっしょうさいめし

またも竹田たけだの もんばめし


このふしは「あかとり」のシングルではうたわれておらず、のち後藤ごとう悦治えつじろうによって「ぼんたとて」の歌詞かしえられた[17]。このうたうたって採譜さいふされた岡本おかもとふくは「ムラのはじをさらした」と後悔こうかい[62]後藤ごとうにこのふしうたってくれるなともうれた経緯けいいがある[18]久世くぜ吉祥院きっしょういんは、竹田たけだ周辺しゅうへん所在しょざいする差別さべつ部落ぶらくであり[62]京都きょうと子守こもりうたには、伏見ふしみ周辺しゅうへん地名ちめいをふんだんにんだ歌詞かしほかにもつたわっていることから、藤田ふじたはこのような言葉ことばいの形式けいしきがこのせつもとになったのではないかと推測すいそくしている[63]

当時とうじ差別さべつ部落ぶらくにおいて、大根だいこん日常にちじょうてき食材しょくざいであり[62]、それらをんだかてめし主食しゅしょくだった。「もんばめし」の「もんば」とは、おからのことであり[62]、おからをんだかてめしがもんばめしである。 「もんばめし」の解釈かいしゃくについては、「竹田たけだ子守こもりうたCD制作せいさく委員いいんかい」では、久世くぜ吉祥院きっしょういんのような大根だいこんめし菜飯なめしならまだしもという意味いみだと説明せつめいされている。橋本はしもとは「もんばめし」をもっとも劣悪れつあくなものととらえており、それをなぜわざわざうたうのかといえば、まもたちの「どんぞこ楽天らくてんせい」からだとしていた。藤田ふじた同様どうようであり、もっとひどいことをさらりとながしたものとした[64]

しかし、「またも」を「まだも」と濁音だくおんうたわれるれいがあり、これは「まだしも」が竹田たけだにかかるために、意味いみとしてはもっとも劣悪れつあくではなかったことになりうる。採譜さいふしゃ尾上おのえは、初期しょき段階だんかいでは「またも」と「まだも」の両方りょうほう構想こうそうしていたが、それをやや意味いみをぼかした「またも」に統一とういつしたとしており、どちらにしても「もんばめし」が最悪さいあくという意味いみではなかったとべている[64]。また、「はだしの」のメンバーたちは、竹田たけだ結婚式けっこんしき山盛やまもりのおからがされる風習ふうしゅうがあり、おからは手間てまをかけてしぼったもので優越ゆうえつ意味いみめられているとかいしていたものもあれば、残飯ざんぱんのように劣悪れつあくだとかんがえていたものなど多様たようであった[64]

あかとり」のその[編集へんしゅう]

後藤ごとう悦治えつじろうへの取材しゅざい[編集へんしゅう]

1974ねんの「あかとり解散かいさん、メンバーだった後藤ごとう悦治えつじろう平山ひらやま泰代やすよは「かみふうせん」を結成けっせいした。1981ねん12がつ10日とおか朝日放送あさひほうそう放送ほうそうされた報道ほうどう特別とくべつ番組ばんぐみ「そして明日あしたは」に出演しゅつえんしたかみふうせんの二人ふたりは、「久世くぜ大根だいこんめし」の歌詞かしを2ばんとして「竹田たけだ子守こもりうた」をうたっている[29]うたえた後藤ごとうは、「このうたまれた地域ちいきを、なが大分おおいたけん竹田たけだ勘違かんちがいしながらうたっていました」[29]、「自分じぶんはこのうた本質ほんしつなが理解りかいしていなかった」とかたった[65]

それから20ねんほどち、もりからの電話でんわインタビューにこたえた後藤ごとうは「もんばめし」の歌詞かしについて、レコーディングの時点じてんではこの歌詞かしがあることをらず、そのライヴでうたはじめたという。原曲げんきょく採譜さいふされた竹田たけだ老女ろうじょがこの歌詞かしうたったことを後悔こうかいしているとき、後藤ごとう彼女かのじょ直接ちょくせつってうたわせてほしいと説得せっとくしたが、最後さいごまでおうじてくれなかった。しかし後藤ごとうはこの歌詞かし絶対ぜったい必要ひつようかんがえ、コンサートでは歌詞かし背景はいけい歴史れきし説明せつめいしたうえうたっている。また、このうた放送ほうそうされなくなった経緯けいいについてはっていたが、後藤ごとうや「あかとり」にたいして圧力あつりょく一切いっさいなかったという。なぜ圧力あつりょくがなかったのかといういにたいして、後藤ごとうは「自信じしんってうたっていたからだとおもう」とべ、つぎのようにめくくっている[66]

部落ぶらくにはいいうたがたくさんあります。抑圧よくあつされればされるほど、その土地とちひとびとのあいだで、ぼくらのしん本当ほんとう素晴すばらしいうたまれるんです。うたとはそういうものです。ぼくはそう確信かくしんしています。でもそんなうたのほとんどに、いまではだれをつけようとしない。だれもがないふりをしている。だからせめてぼくくらいは、これからもそんなうた発掘はっくつして、しっかりと歴史れきし背景はいけいつめながら、ライフワークとしてうたいつづけてゆきたい[66]

山本やまもと潤子じゅんこへの取材しゅざい[編集へんしゅう]

あかとり」でリードボーカルを担当たんとうしていた山本やまもと潤子じゅんこ旧姓きゅうせい新居しんきょ)は「あかとり解散かいさんハイ・ファイ・セット結成けっせいするが、ハイ・ファイ・セットが「竹田たけだ子守こもりうた」をげることはなかった。2003ねん4がつ藤田ふじたからの取材しゅざいけた山本やまもとは、このうた背景はいけい放送ほうそうきょく自粛じしゅくについてはっていたが、うたわなかったのはそのような理由りゆうからではなく、このきょくがハイ・ファイ・セットの方向ほうこうせいとまったくわなかったからだとこたえている[67]。また、「あかとり」は後藤ごとう悦治えつじろう平山ひらやま泰代やすよの「かみふうせん」にがれたとかんがえていたため、「あかとり時代じだいうたは「つばさをください」にしてもステージでいちだけうたった程度ていどだった。しかし、1994ねんにハイ・ファイ・セットが解散かいさんしてソロ活動かつどうとなり、翌年よくねん阪神はんしん淡路あわじ大震災だいしんさいのためのチャリティ・コンサートのさいに、伊勢いせ正三しょうさんからなぜうたわないのかとかれたことがきっかけとなり、「竹田たけだ子守こもりうた」をふたたうたはじめたという。そして彼女かのじょつぎのようにかたった[67]

わたし歌手かしゅですから、うつくしいメロディやうたとしてちゃんとつたえたいだけなんです。かつて「あかとり」はフォーク・ブームのなかにいたグループでしたが、わたし最初さいしょからフォークだなにだというような区別くべつまった意識いしきしていませんでした。うたをうたいたかった、それだけです[67]

きて藤田ふじたは、山本やまもと歌手かしゅとしての明確めいかくなポリシーをっていることをみとめ、「わたし山本やまもとさんのような、どんなかんがえであれ自己じこ立場たちばをはっきりとえる歌手かしゅ、そして、それを関係かんけいしゃばかりであったなら、『竹田たけだ子守こもりうた』はいわゆる『放送ほうそう禁止きんし』にならなかったとおもう。」とべている[67]

中華ちゅうかけんにおけるうた[編集へんしゅう]

中華ちゅうかけんではこのきょくに、世界せかい平和へいわねが内容ないよう歌詞かしがつけられ『祈祷きとう』というタイトルでうたわれている[68]まったことなる歌詞かしけられているため、もとうた日本にっぽん子守こもりうたであることすらられていない[68]

ジュディ・オング父親ちちおやが、自身じしんの50さい誕生たんじょう中国ちゅうごくをつけてむすめおくったのが最初さいしょで、1975ねんつくられたとされる[68]のちおうすぐるたく婷ら台湾たいわんじん歌手かしゅによってカバーされ、ひろ普及ふきゅうした[68]

録音ろくおんした歌手かしゅ音楽家おんがくか[編集へんしゅう]

1974ねん12月 - 1975ねん1がつには、NHKの『みんなのうた』でペドロ&カプリシャスによってうたわれたこともある(編曲へんきょくヘンリー広瀬ひろせ[69]うた大幅おおはばにアレンジされ、2ばん歌詞かしとコーダ部分ぶぶん省略しょうりゃくされた。どう時期じき放送ほうそうの『北風きたかぜ小僧こぞうさむ太郎たろう』がなんさい放送ほうそうされ、また楽曲がっきょく[注釈ちゅうしゃく 11]さい放送ほうそうされたが、ほんきょくさい放送ほうそうは1981ねん9がつ23にちNHK総合そうごうテレビ放送ほうそうされた特別とくべつ番組ばんぐみ『みんなのうた20ねん』で放送ほうそうされた(4ばん以外いがい)のみで、定時ていじ番組ばんぐみでの放送ほうそう長期ちょうきにわたっておこなわれなかったものの、2015ねん10がつ - 11月にラジオのみで41ねんぶりにさい放送ほうそうされた。

ライブ、単発たんぱつ放送ほうそうのみの演奏えんそう歌唱かしょうのぞ

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ たけしま良成よしなり高橋たかはし美智子みちこは「子守こもり表記ひょうき使つかっているが、ほん項目こうもくでは「子守こもりうた」に統一とういつした。
  2. ^ 野口のぐち合唱がっしょうだん「はだし」のだい2だい団長だんちょうとなる人物じんぶつ[8]
  3. ^ 川部かわべたけとう表記ひょうきでは「岡本おかもとフク」だが、ここでは藤田ふじた表記ひょうきわせた。
  4. ^ 「こぶしかためて」は、1963ねん尾上おのえが「はだし」のメンバーとつくったうた[8]
  5. ^ 『THE FIRST & LAST/大塚おおつか孝彦たかひことそのグループ』(1967ねんキングレコード)に収録しゅうろく。グループ解散かいさん記念きねんとして、ザ・フォーク・クルセダーズ加藤かとう和彦かずひこまねいて自主じしゅ制作せいさくされた限定げんてい300まいのLPばん[10]
  6. ^ 人生じんせい」・「JINSEI」の編曲へんきょく大野おおの雄二ゆうじ
  7. ^ シングルBめんの「つばさをください」は、山上さんじょうおっと作詞さくし村井むらい邦彦くにひこ作曲さっきょく
  8. ^ 編集へんしゅうしゃちゅう:「放送ほうそう禁止きんし」はもり使用しようした用語ようごであり指定してい制度せいどではない。
  9. ^ 編集へんしゅうしゃ註:掲載けいさいされた楽譜がくふ拍子ひょうし指定していは3/4だが、旋律せんりつは2/4拍子ひょうしかれており、校正こうせいミスかとおもわれる。3/4拍子ひょうしではスコア表示ひょうじ困難こんなんなため、便宜上べんぎじょうここでは2/4拍子ひょうしとした。
  10. ^ 川部かわべによれば、岡本おかもとふくはわかころから全国ぜんこく転々てんてんとする生活せいかつだったという[7]
  11. ^ 『みんなのマーチ』『鳩笛はとぶえ』『なかよしファミリー』。なおどう時期じきの『みんなのうた』は、「ほん放送ほうそう4きょくさい放送ほうそう3きょく構成こうせいだったが、このとき特別とくべつに「ほん放送ほうそう5きょくさい放送ほうそう2きょく」だった。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 橋本はしもと正樹まさき竹田たけだ子守こもりうた』1973ねん - 後藤ごとう悦治えつじろう友人ゆうじんである著者ちょしゃうた起源きげんさがした出来事できごとをまとめたもの。自費じひ出版しゅっぱん[1]
  1. ^ 藤田ふじた 2003, p. 159.