竹田 たけだ の子守 こもり 唄 うた (たけだのこもりうた)は、京都 きょうと 府 ふ の民謡 みんよう 、およびそれを元 もと にしたポピュラー音楽 おんがく の歌曲 かきょく 。「竹田 たけだ の子守 こもり 歌 か 」とも[注釈 ちゅうしゃく 1] 。1970年代 ねんだい にフォークグループ「赤 あか い鳥 とり 」が歌 うた ってヒットし、日本 にっぽん のフォーク 歌手 かしゅ たちなどによって数多 かずおお く演奏 えんそう されている。
1960年代 ねんだい の後半 こうはん 、うたごえ運動 うんどう の展開 てんかい を背景 はいけい として京都 きょうと の伏見 ふしみ 区 く で採譜 さいふ ・編曲 へんきょく され、初 はじ めは合唱 がっしょう 曲 きょく として歌 うた われた。その後 ご 関西 かんさい フォーク の歌手 かしゅ たちのレパートリーとして取 と り上 あ げられ、「赤 あか い鳥 とり 」の歌唱 かしょう によってその叙情 じょじょう 的 てき なメロディーと歌詞 かし とが評判 ひょうばん になる。
しかし、歌詞 かし と被 ひ 差別 さべつ 部落 ぶらく との関係 かんけい が取 と り沙汰 ざた されるようになると、放送 ほうそう 自粛 じしゅく の動 うご きが広 ひろ まり、「放送 ほうそう で流 なが されることのない歌 うた としてはもっとも有名 ゆうめい なヒット曲 きょく の一 ひと つ」となった。
採譜 さいふ から合唱 がっしょう 曲 きょく へ[ 編集 へんしゅう ]
『竹田 たけだ の子守 こもり 唄 うた 』を採譜 さいふ したのは、作曲 さっきょく 家 か の尾上 おがみ 和彦 かずひこ である。1960年代 ねんだい 半 なか ば、うたごえ運動 うんどう が広 ひろ まる中 なか で大学 だいがく や労働 ろうどう 団体 だんたい には合唱 がっしょう 団 だん や合唱 がっしょう サークルが立 た ち上 あ げられており、尾上 おのえ は「多 た 泉 いずみ 和人 かずと (おおいずみ かずと)」のペンネームで作曲 さっきょく 活動 かつどう や民謡 みんよう 採譜 さいふ のかたわら、これらのサークルに講師 こうし として招 まね かれていた。尾上 おのえ は1962年 ねん 12月から京都 きょうと 伏見 ふしみ 区 く の竹田 たけだ 地区 ちく を訪 おとず れており、1964年 ねん 2月 がつ からは部落 ぶらく 解放 かいほう 同盟 どうめい 竹田 たけだ 深草 ふかくさ 支部 しぶ (当時 とうじ )の文化 ぶんか サークルとして組織 そしき された「はだしの子 こ グループ」へのレッスンを開始 かいし していた。
この年 とし 、東京 とうきょう 芸術座 げいじゅつざ による公演 こうえん 『橋 はし のない川 かわ 』の舞台 ぶたい 音楽 おんがく を担当 たんとう することになった尾上 おのえ は、12月になっても楽曲 がっきょく を完成 かんせい できずにいた。翌 よく 1965年 ねん 1月 がつ の公演 こうえん が近 ちか づく中 なか 、尾上 おのえ は創作 そうさく のヒントを得 え るために、彼 かれ の下宿 げしゅく に居候 いそうろう していた「はだしの子 こ 」のメンバーである野口 のぐち 貢 みつぐ [注釈 ちゅうしゃく 2] の実母 じつぼ 、岡本 おかもと ふく(1914年 ねん - 1983年 ねん )[注釈 ちゅうしゃく 3] を竹田 たけだ 地区 ちく に訪 たず ねた。岡本 おかもと ふくは三味線 しゃみせん を弾 ひ きながら尾上 おのえ のために「長持 ながも ち歌 か 」など約 やく 20曲 きょく を歌 うた い、これを尾上 おのえ が録音 ろくおん した。ふくが歌 うた った「守 まも りもいやがる、盆 ぼん からさきにゃあ、雪 ゆき もちらつくし、子 こ もなくし、コイコイ」という「コイコイ節 ぶし 」に強烈 きょうれつ な印象 いんしょう を受 う けた尾上 おのえ は、この歌 うた の旋律 せんりつ をほぼ一 いち 晩 ばん で作 つく り直 なお し、1月 がつ 5日 にち に関西 かんさい テレビ でスタジオ録音 ろくおん 、12日 にち からの東京 とうきょう 芸術座 げいじゅつざ の公演 こうえん にこぎつけた。
尾上 おのえ は依頼 いらい を受 う け、この曲 きょく を女声 じょせい のための合唱 がっしょう 曲 きょく として編曲 へんきょく し、歌詞 かし を付 つ け直 なお した。これが「竹田 たけだ の子守 こもり 唄 うた 」である。「はだしの子 こ 」では1965年 ねん 1月 がつ 29日 にち にこの歌 うた の初 はつ レッスンがあったが、それ以前 いぜん に、尾上 おのえ が指導 しどう する他 ほか の団体 だんたい でもこの曲 きょく が採 と り上 あ げられていたと考 かんが えられる。合唱 がっしょう 曲 きょく の依頼 いらい 者 しゃ については、同志社大学 どうししゃだいがく の合唱 がっしょう 団 だん 「むぎ」、京都 きょうと 電通 でんつう 合唱 がっしょう 団 だん 、全日本 ぜんにほん 自治 じち 団体 だんたい 労働 ろうどう 組合 くみあい (自治労 じちろう )京都 きょうと 合唱 がっしょう 団 だん のいずれかはっきりしない。藤田 ふじた によれば、合唱 がっしょう 団 だん 「むぎ」のメンバーだったとする
「はだしの子 こ 」のレッスンで尾上 おのえ は、これは「五木 いつき の子守 こもり 唄 うた 」に匹敵 ひってき するすごい曲 きょく だと言 い い、メンバーたちに曲 きょく の内容 ないよう について話 はな し合 あ いをさせた。尾上 おのえ は同年 どうねん 3月 がつ に開 ひら かれた部落 ぶらく 開放 かいほう 第 だい 10回 かい 全国 ぜんこく 婦人 ふじん 集会 しゅうかい の記念 きねん 文化 ぶんか 祭 さい に向 む けてこの曲 きょく を歌唱 かしょう 指導 しどう し、その後 ご は「日本 にっぽん のうたごえ」祭典 さいてん への出場 しゅつじょう をめざして練習 れんしゅう を続 つづ けた。その過程 かてい で10月 がつ に「はだしの子 こ 」は合唱 がっしょう 団 だん 「はだし」に発展 はってん 的 てき 解消 かいしょう を遂 と げている。神戸 こうべ での予選 よせん を通過 つうか し、11月東京 とうきょう での本選 ほんせん で合唱 がっしょう 団 だん 「はだし」は「竹田 たけだ の子守 こもり 唄 うた 」と「こぶしかためて」[注釈 ちゅうしゃく 4] の2曲 きょく を歌 うた って地域 ちいき の部 ぶ の激励 げきれい 賞 しょう を受賞 じゅしょう した。
関西 かんさい フォークからの広 ひろ がり[ 編集 へんしゅう ]
フォーク 歌手 かしゅ の大塚 おおつか 孝彦 たかひこ が「竹田 たけだ の子守 こもり 唄 うた 」を知 し ったのは、1965年 ねん か1966年 ねん 、尾上 おのえ が指導 しどう する同志社大学 どうししゃだいがく の合唱 がっしょう 団 だん 「むぎ」の演奏 えんそう 会 かい だった。大塚 おおつか は合唱 がっしょう 曲 きょく の楽譜 がくふ を入手 にゅうしゅ すると、ギター 伴奏 ばんそう に合 あ うようにアレンジを施 ほどこ し、高田 たかだ 恭子 きょうこ (1948年 ねん -)と二人 ふたり で歌 うた い始 はじ めた。「竹田 たけだ の子守 こもり 唄 うた 」の初 はつ 録音 ろくおん は、この二 に 人 にん によるものである[注釈 ちゅうしゃく 5] 。
1969年 ねん には高石 たかいし ともや (1941年 ねん -)がアルバム『坊 ぼう や大 おお きくならないで 高石 たかいし 友也 ともや フォーク・アルバム第 だい 3集 しゅう 』(ビクター )でこの歌 うた を録音 ろくおん している。
また、高石 たかいし に先立 さきだ つ1968年 ねん 9月 がつ には、森山 もりやま 良子 りょうこ (1948年 ねん -)の3枚 まい 目 め のアルバム『良子 りょうこ の子守 こもり 歌 か 』(フィリップス )に「竹田 たけだ の子守 こもり 唄 うた 」が収録 しゅうろく され、これが大手 おおて レーベルでの初 はつ 録音 ろくおん となった。森山 もりやま によって、この歌 うた は関西 かんさい から東京 とうきょう のフォーク・歌謡 かよう 界 かい にも伝 つた わった。
大塚 おおつか と高田 たかだ のデュエットによる「竹田 たけだ の子守 こもり 唄 うた 」を聴 き いて、感銘 かんめい を受 う けたのが後藤 ごとう 悦治 えつじ 郎 ろう である。後藤 ごとう は関西 かんさい フォーク の定例 ていれい コンサートで二 に 人 にん の歌 うた を聴 き き、後 のち に結婚 けっこん する平山 ひらやま 泰代 やすよ と二人 ふたり で歌 うた い始 はじ めた。1969年 ねん 3月 がつ 、後藤 ごとう 悦治 えつじ 郎 ろう は5人 にん グループ「赤 あか い鳥 とり 」を結成 けっせい する。
同年 どうねん 11月 がつ に開催 かいさい された第 だい 3回 かい ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト に出場 しゅつじょう した「赤 あか い鳥 とり 」は、「竹田 たけだ の子守 こもり 唄 うた 」と「COME AND GO WITH ME」を歌 うた い、小田 おだ 和正 かずまさ が在籍 ざいせき するジ・オフ・コース(後 ご のオフコース )や財津 ざいつ 和夫 かずお が率 ひき いるザ・フォーシンガーズ(後 ご のチューリップ )らを抑 おさ えてグランプリを獲得 かくとく する。
当時 とうじ 、メッセージ性 せい の強 つよ い歌 うた が主流 しゅりゅう だったフォーク・シーンにおいて、純粋 じゅんすい に音楽 おんがく を追求 ついきゅう する「赤 あか い鳥 とり 」は異色 いしょく の存在 そんざい であり、コーラスワークにも定評 ていひょう があった。
「赤 あか い鳥 とり 」のデビュー・シングル盤 ばん は「お父 ちち 帰 かえ れや/竹田 たけだ の子守 こもり 唄 うた 」(1969年 ねん 10月 がつ 、URC )だが、URCはインディーズレーベルの先駆 さきが け的 てき 存在 そんざい であり、メンバーたちにプロになる気 き はなかった。しかし、作曲 さっきょく 家 か で音楽 おんがく プロデューサー の村井 むらい 邦彦 くにひこ (1945年 ねん - f)からアルバム1枚 まい だけでもレコーディングしないかと請 こ われ、シングル「人生 じんせい /赤 あか い花 はな 白 しろ い花 はな 」(1970年 ねん 6月 がつ 、同 どう )とアルバム『FLY WITH THE RED BIRDS』(1970年 ねん 8月 がつ 、日本 にほん コロムビア )を制作 せいさく する。この2枚 まい が「赤 あか い鳥 とり 」のメジャー・デビューとなった。
シングルA面 めん の「人生 じんせい 」とアルバム『FLY WITH THE RED BIRDS』の収録 しゅうろく 曲 きょく である「JINSEI」は同 どう 一 いち 音源 おんげん で、「竹田 たけだ の子守 こもり 唄 うた 」のメロディに山上 さんじょう 路 ろ 夫 おっと による歌詞 かし を載 の せたものである[注釈 ちゅうしゃく 6] 。村井 むらい によれば、「竹田 たけだ の子守 こもり 唄 うた 」の歌詞 かし が何 なに を言 い っているのかよくわからないことがその理由 りゆう だった。しかし、元 もと の歌詞 かし ほどの訴求 そきゅう 力 りょく はなく、納得 なっとく がいかない後藤 ごとう はもう一度 いちど 元 もと の歌詞 かし で出 だ したいと強 つよ く要望 ようぼう した。ディレクターの新田 にった 和 かず 長 ちょう からも原曲 げんきょく が良 よ いという意見 いけん があり、1971年 ねん 2月 がつ に通算 つうさん 4枚 まい 目 め のシングル盤 ばん となる「竹田 たけだ の子守 こもり 唄 うた /翼 つばさ をください 」を東芝 とうしば 音楽 おんがく 工業 こうぎょう (後 ご のEMIミュージック・ジャパン )からリリースした。これが発売 はつばい 後 ご 約 やく 3年 ねん で100万 まん 枚 まい のセールスを超 こ える大 だい ヒットとなった[注釈 ちゅうしゃく 7] 。
1960年代 ねんだい の終 お わりから1970年代 ねんだい の数 すう 年 ねん にかけて、「竹田 たけだ の子守 こもり 唄 うた 」はジローズ 、由紀 ゆき さおり 、ダークダックス 、上月 こうづき 晃 あきら 、水前寺 すいぜんじ 清子 きよこ ら多 おお くの歌 うた い手 て によって録音 ろくおん されるようになっていた。このころ広告 こうこく 代理 だいり 店 てん の主導 しゅどう によって美 うつく しい日本 にっぽん の再 さい 発見 はっけん を提唱 ていしょう するキャンペーン「ディスカバー・ジャパン 」が展開 てんかい されており、歌謡 かよう 界 かい では「竹田 たけだ の子守 こもり 唄 うた 」と同 おな じ1971年 ねん に「わたしの城下町 じょうかまち 」や「知床 しれとこ 旅情 りょじょう 」がヒットしている。音楽 おんがく 評論 ひょうろん 家 か で『竹田 たけだ の子守 こもり 唄 うた 名曲 めいきょく に隠 かく された真実 しんじつ 』の著者 ちょしゃ である藤田 ふじた 正 ただし は、当時 とうじ 各地 かくち で公害 こうがい が社会 しゃかい 問題 もんだい 化 か しながらも日本 にっぽん が経済 けいざい 的 てき な急 きゅう 成長 せいちょう を止 と めようとしなかったことに対 たい し、これらの流行 りゅうこう 歌 か はある種 しゅ の免罪 めんざい 符 ふ ・目隠 めかく しのような役割 やくわり を果 は たしたとする。
歌 うた の出所 しゅっしょ と歌詞 かし をめぐって[ 編集 へんしゅう ]
「竹田 たけだ の子守 こもり 唄 うた 」が合唱 がっしょう 曲 きょく として歌 うた われていた時点 じてん では、この歌 うた が被 ひ 差別 さべつ 部落 ぶらく から生 う まれたことが伝 つた えられていたが、フォーク歌手 かしゅ たちの間 あいだ で歌 うた われ、広 ひろ がっていくにつれて、「竹田 たけだ 」がどこなのかはわからなくなっていた。京都 きょうと ではなく大分 おおいた 県 けん 竹田 たけだ 市 し だと考 かんが えられていたこともある。
シングル盤 ばん が大 だい ヒットした1971年 ねん 4月 がつ 、伝承 でんしょう 歌 か はその文化 ぶんか 背景 はいけい を学 まな んだ上 じょう で歌 うた うべきと考 かんが えていた後藤 ごとう は、「赤 あか い鳥 とり 」の原点 げんてん ともいえる「竹田 たけだ の子守 こもり 唄 うた 」の出所 しゅっしょ が不明 ふめい なことに後 うし ろめたさを感 かん じ、友人 ゆうじん で作家 さっか 志望 しぼう の橋本 はしもと 正樹 まさき と共同 きょうどう してこの歌 うた について調 しら べ始 はじ めた。橋本 はしもと は、ある女性 じょせい から歌詞 かし にある「在所 ざいしょ 」が京都 きょうと では被 ひ 差別 さべつ 部落 ぶらく を意味 いみ すると教 おし えられ、1970年 ねん に出版 しゅっぱん された『京都 きょうと の民謡 みんよう 』(音楽之友社 おんがくのともしゃ )に「竹田 たけだ の子守 こもり 唄 うた 」が紹介 しょうかい されており、京都 きょうと 市 し 伏見 ふしみ 区 く 竹田 たけだ で採譜 さいふ されたものだと知 し った。
後藤 ごとう は、『京都 きょうと の民謡 みんよう 』に掲載 けいさい されていた「久世 くぜ の大根 だいこん めし、吉祥 きっしょう の菜 さい めし、またも竹田 たけだ のもんばめし」という歌詞 かし に注目 ちゅうもく し、シングル盤 ばん の2番 ばん の歌詞 かし 「盆 ぼん がきたとて なにうれしかろ……」の代 か わりに差 さ し替 か えてライヴで歌 うた い、ステージでこの歌 うた の出所 しゅっしょ について詳 くわ しく語 かた るようになった。なお、この歌詞 かし で「竹田 たけだ の子守 こもり 唄 うた 」を歌 うた って最初 さいしょ に録音 ろくおん したのは、加藤 かとう 登紀子 ときこ である。
一方 いっぽう 、橋本 はしもと は日本 にっぽん 音楽 おんがく 研究 けんきゅう 会 かい のメンバーでもあった採譜 さいふ 者 しゃ の尾上 おがみ 和彦 かずひこ と会 あ い、尾上 おのえ の紹介 しょうかい で野口 のぐち 貢 みつぐ とその母親 ははおや の岡本 おかもと ふくとも面識 めんしき を得 え た。1972年 ねん 1月 がつ 、橋本 はしもと は岡本 おかもと ふくを伴 ともな い、京都 きょうと 勤労 きんろう 会館 かいかん で開 ひら かれたフォーク・コンサートに出演 しゅつえん した「赤 あか い鳥 とり 」と彼女 かのじょ を引 ひ き合 あ わせた。
このとき岡本 おかもと ふくは、「ええかったがナァ」と感想 かんそう をもらしつつも、メンバーたちに対 たい し「久世 くぜ の大根 だいこん めし……」の歌詞 かし を歌 うた わないでほしいと強 つよ く頼 たの み込 こ んだ。「寝 ね た子 こ を起 お こす」ようなことをしてくれるな、というのが彼女 かのじょ の意思 いし だった。野口 のぐち によれば、母親 ははおや は鹿 か の子絞 こしぼ り の仕事 しごと 仲間 なかま から、誰 だれ がこんな歌 か を教 おし えたのかと苦情 くじょう を言 い われていた。橋本 はしもと によれば、岡本 おかもと ふくは恥 はじ といっても竹田 たけだ だけならまだしも、久世 くぜ や吉祥 きっしょう の名前 なまえ まで出 だ してしまったことを一生 いっしょう の悔 く いだと語 かた ったという。
しかし後藤 ごとう は迷 まよ いながらも、積年 せきねん の部落 ぶらく 問題 もんだい を見据 みす えてこの歌詞 かし を積極 せっきょく 的 てき に歌 うた い続 つづ けることにした。これに対 たい し、美 うつく しい歌 うた は美 うつく しく、それで十分 じゅうぶん とする意見 いけん があり、グループ内 ない に対立 たいりつ が生 う まれた。「赤 あか い鳥 とり 」の知名度 ちめいど が上 あ がり、「竹田 たけだ の子守 こもり 唄 うた 」が有名 ゆうめい になるにつれて、両者 りょうしゃ の溝 みぞ は深 ふか まっていった。
また、この話 はなし は橋本 はしもと を通 つう じて尾上 おのえ にも伝 つた わった。尾上 おのえ はこのころ「竹田 たけだ の子守 こもり 唄 うた 」の補作 ほさく 者 しゃ として認可 にんか されるよう日本音楽著作権協会 にほんおんがくちょさくけんきょうかい に働 はたら きかけていた。しかし彼 かれ は、この歌 うた がさまざまな人 ひと に親 した しまれたのは、主義 しゅぎ 主張 しゅちょう を越 こ えた作品 さくひん だからだと考 かんが えており、板挟 いたばさ みになった岡本 おかもと ふくの苦境 くきょう を知 し ると、以降 いこう 「竹田 たけだ の子守 こもり 唄 うた 」についての自分 じぶん の関 かか わりなどについて沈黙 ちんもく した。
1970年代 ねんだい に入 はい り、「竹田 たけだ の子守 こもり 唄 うた 」が有名 ゆうめい になるにつれて、ちまたではこの曲 きょく と被 ひ 差別 さべつ 部落 ぶらく の関係 かんけい が囁 ささや かれるようになった。例 たと えば、竹田 たけだ 地区 ちく 出身 しゅっしん の作家 さっか 土方 ひじかた 鐵 てつ (1927年 ねん - 2005年 ねん )は、1971年 ねん に「竹田 たけだ の子守 こもり 唄 うた 」の竹田 たけだ が京都 きょうと 伏見 ふしみ であることを『朝日 あさひ ジャーナル 』誌 し に投稿 とうこう している。放送 ほうそう メディアは、歌 うた に部落 ぶらく が出 で てくる(らしい)から、歌 うた が部落 ぶらく を歌 うた っている(らしい)から、というだけの理由 りゆう でこの歌 うた を忌避 きひ するようになった。
「赤 あか い鳥 とり 」の後藤 ごとう 悦治 えつじ 郎 ろう によれば、ラジオ やテレビ で「竹田 たけだ の子守 こもり 唄 うた 」を演奏 えんそう してはいけないとは言 い われないが、はっきりした根拠 こんきょ を示 しめ すことなく、できれば外 はず してもらいたい、ほかにいい曲 きょく があるからそっちをやってくださいという断 ことわ られ方 かた が多 おお かった。
「赤 あか い鳥 とり 」のデビュー・アルバム『FLY WITH THE RED BIRD』は、1975年 ねん に日本 にほん コロムビアから再 さい 発売 はつばい されたが、この時点 じてん では収録 しゅうろく 曲 きょく に変 か わりはない。ところが、1998年 ねん にアルファミュージック /東芝 とうしば EMI からCD発売 はつばい されたときには、それまで収録 しゅうろく されていた全 ぜん 12曲 きょく から「JINSEI」が除 のぞ かれて11曲 きょく となっている。
全国 ぜんこく 地域 ちいき 人権 じんけん 運動 うんどう 総 そう 連合 れんごう (人権 じんけん 連 れん )竹田 たけだ 深草 ふかくさ 支部 しぶ の川部 かわべ 昇 のぼる は、この歌 うた が十 じゅう 数 すう 年 ねん もの間 あいだ メディアから消 き えていったことにより、「うたごえ運動 うんどう 」や多 おお くの歌手 かしゅ ・グループによって歌 うた われ築 きず かれた人 ひと の輪 わ が壊 こわ されたと述 の べている。
関係 かんけい 者 しゃ への取材 しゅざい [ 編集 へんしゅう ]
ノンフィクション 作家 さっか ・映画 えいが 監督 かんとく の森 もり 達也 たつや (1956年 ねん - )が入手 にゅうしゅ した1986年 ねん 7月 がつ 4日 にち 付 づ けフジテレビ 番組 ばんぐみ 考査 こうさ 部 ぶ の資料 しりょう のコピーがあり、文面 ぶんめん には「竹田 たけだ の子守 こもり 唄 うた 」について、「同和 どうわ がらみでOA不可 ふか 。京都 きょうと 府 ふ 同和 どうわ 研 けん でもOA不可 ふか 。解 かい 同 どう の見解 けんかい によれば、歌 うた の作 つく られ唄 うた われた理由 りゆう 、背景 はいけい などをよく理解 りかい してくれればOA可 か とのことなれど、実際 じっさい は理解 りかい することは不可能 ふかのう なので、現実 げんじつ 的 てき にはNO」とあり、その下 した には「在所 ざいしょ =未 み 解放 かいほう 部落 ぶらく 」という走 はし り書 が きがあった。
これについて森 もり は、被 ひ 差別 さべつ 部落 ぶらく でこの唄 うた が生 う まれたこと、そして被 ひ 差別 さべつ 部落 ぶらく に生 う まれたがゆえにいわれのない差別 さべつ を受 う け、子守 こも り奉公 ほうこう で最 さい 底辺 ていへん の貧 まず しい生活 せいかつ を支 ささ えていた少女 しょうじょ の悲 かな しみと怒 いか りの唄 うた なのだと理解 りかい することは、そう難 むずか しいことではないはずだが、あっさり「理解 りかい することは不可能 ふかのう 」という結論 けつろん に結 むす びついてしまっていると指摘 してき している。
フジテレビ番組 ばんぐみ 審議 しんぎ 室 しつ への取材 しゅざい では、差別 さべつ 表現 ひょうげん に関 かか わる問題 もんだい で部落 ぶらく 解放 かいほう 同盟 どうめい から厳 きび しい抗議 こうぎ や糾弾 きゅうだん を受 う けていたとはいえ、放送 ほうそう 局 きょく 側 がわ が「クサいものには蓋 ぶた 」式 しき の思考 しこう を無自覚 むじかく にしてきたことで、過去 かこ に汚点 おてん を残 のこ したことは事実 じじつ だと認 みと めた。対応 たいおう 者 しゃ は、これはシステムの問題 もんだい ではなく制作 せいさく 者 しゃ 一 いち 人 にん ひとりの覚悟 かくご の問題 もんだい だが、彼 かれ らは物分 ものわか りが良 よ すぎ、異論 いろん を唱 とな えるという発想 はっそう 自体 じたい がないと述 の べている。
日本民間放送連盟 にほんみんかんほうそうれんめい (民放連 みんぽうれん )が指定 してい していた「要注意 ようちゅうい 歌謡 かよう 曲 きょく 一覧 いちらん 」に「竹田 たけだ の子守 こもり 唄 うた 」が掲載 けいさい されたという事実 じじつ は確認 かくにん されていない。
民放連 みんぽうれん への取材 しゅざい では、「要注意 ようちゅうい 歌謡 かよう 曲 きょく 一覧 いちらん 」は1983年度 ねんど 版 ばん を最後 さいご に刷新 さっしん していない。要注意 ようちゅうい 歌謡 かよう 曲 きょく 指定 してい は1959年 ねん から始 はじ まったが、これはガイドラインであって最終 さいしゅう 的 てき な判断 はんだん は各 かく 放送 ほうそう 局 きょく に任 まか される。しかし、この部分 ぶぶん が一人 ひとり 歩 ある きしてしまい、民放連 みんぽうれん が規制 きせい 主体 しゅたい だと誤解 ごかい されていることが多 おお いとの回答 かいとう だった。
森 もり は教科書 きょうかしょ 出版 しゅっぱん 会社 かいしゃ にも電話 でんわ 取材 しゅざい し、「竹田 たけだ の子守 こもり 唄 うた 」、「かごめかごめ 」、「通 とお りゃんせ 」が教科書 きょうかしょ から掲載 けいさい されなくなった背景 はいけい に部落 ぶらく 差別 さべつ 問題 もんだい があるのかと尋 たず ねたところ、非常 ひじょう にナイーブな問題 もんだい であり、教科書 きょうかしょ から消 き えた曲 きょく はほかにも数多 かずおお く、理由 りゆう を断定 だんてい することで差別 さべつ を再 さい 生産 せいさん するおそれもあるとの回答 かいとう だった。
森 もり の取材 しゅざい を受 う けた当時 とうじ の部落 ぶらく 解放 かいほう 同盟 どうめい 京都 きょうと 府 ふ 連合 れんごう 会 かい 書記 しょき 長 ちょう ・中央 ちゅうおう 本部 ほんぶ 教 きょう 宣 せん 部長 ぶちょう 西島 にししま 藤彦 ふじひこ は、「手紙 てがみ 」、「チューリップのアップリケ 」、「竹田 たけだ の子守 こもり 唄 うた 」を知 し っているかと聞 き かれて、「どれもよく知 し っています」、「若 わか い頃 ころ 、ムラの中 なか ではよく皆 みな で歌 うた っていましたよ。だからどうしてこんなにいい歌 うた が、世 よ に広 ひろ まらないのか私 わたし も不思議 ふしぎ に思 おも っていたのだけど…」と答 こた え、過去 かこ に解放 かいほう 同盟 どうめい が抗議 こうぎ したことはなく、これらの曲 きょく が放送 ほうそう 禁止 きんし 歌 か に指定 してい されている[注釈 ちゅうしゃく 8] ことさえ今 いま まで知 し らなかったと述 の べた。
「はだしの子 こ 」のメンバーだった野口 のぐち も、実際 じっさい にこの歌 うた に関 かん して運動 うんどう 側 がわ からの抗議 こうぎ などはなかったと述 の べている。
藤田 ふじた によれば、当時 とうじ 、部落 ぶらく 問題 もんだい にかかわると痛 いた い目 め に遭 あ う、避 さ けた方 ほう が得策 とくさく だという偏見 へんけん やイメージが持 も たれており、「竹田 たけだ の子守 こもり 唄 うた 」の歌詞 かし にある地名 ちめい が歌 うた われることによって、どこに被 ひ 差別 さべつ 部落 ぶらく があるか知 し らしめてしまい、厳 きび しい抗議 こうぎ を受 う けるのではないかという危惧 きぐ があったとする。
人権 じんけん 連 れん の川部 かわべ はこれについて、1974年 ねん の「八鹿 ようか 高校 こうこう 事件 じけん 」における集団 しゅうだん リンチ や翌 よく 75年 ねん の「特殊 とくしゅ 部落 ぶらく 地名 ちめい 総 そう 鑑 かん 」問題 もんだい などを通 つう じて「同和 どうわ タブー」が形成 けいせい され、部落 ぶらく の地名 ちめい の使用 しよう について解 かい 同 どう が「差別 さべつ 」だといえば、使用 しよう 者 しゃ の意図 いと に関係 かんけい なく「差別 さべつ 」と断定 だんてい される(朝田 あさだ 理論 りろん )ようになっていったことが背景 はいけい にあると指摘 してき している。
元 もと 唄 うた の伝承 でんしょう [ 編集 へんしゅう ]
「赤 あか い鳥 とり 」解散 かいさん 後 ご 、後藤 ごとう 悦治 えつじ 郎 ろう と平山 ひらやま 泰代 やすよ は「紙 かみ ふうせん 」を結成 けっせい した。1981年 ねん 12月 がつ 10日 とおか に朝日放送 あさひほうそう で放送 ほうそう された報道 ほうどう 特別 とくべつ 番組 ばんぐみ 「そして明日 あした は」は、歌 うた と被 ひ 差別 さべつ 部落 ぶらく の関係 かんけい を正面 しょうめん から扱 あつか ったドキュメントであり、これに出演 しゅつえん した「紙 かみ ふうせん」の二人 ふたり は「竹田 たけだ の子守 こもり 唄 うた 」を「久世 くぜ の大根 だいこん めし」の歌詞 かし を含 ふく めて歌 うた っている。
「そして明日 あした は」の放送 ほうそう は竹田 たけだ 地区 ちく でも話題 わだい となった。これをきっかけとして、武村 たけむら やすが歌 うた う録音 ろくおん された「元 もと 唄 うた 」が記録 きろく され、「こいこい節 ふし 」などとともに伝承 でんしょう する取 と り組 く みが始 はじ まった。部落 ぶらく 解放 かいほう 同盟 どうめい 改 あらため 進 しん 支部 しぶ 女性 じょせい 部 ぶ では、元 もと 唄 うた と「竹田 たけだ こいこい節 ふし 」をレパートリーとした活動 かつどう を始 はじ め、2001年 ねん 2月 がつ の「第 だい 6回 かい ふしみ人権 じんけん の集 つど い」において元 もと 唄 うた を披露 ひろう している。この集 つど いには「紙 かみ ふうせん」の二人 ふたり も参加 さんか して彼 かれ らの「竹田 たけだ の子守 こもり 唄 うた 」を歌 うた った。その後 ご 、メンバーの高齢 こうれい 化 か により活動 かつどう を休止 きゅうし していたが、2022年 ねん に部落 ぶらく 解放 かいほう 同盟 どうめい 府 ふ 連合 れんごう 会 かい 女性 じょせい 部 ぶ によって再開 さいかい している[32] 。
なお、1960年代 ねんだい 後半 こうはん に部落 ぶらく 解放 かいほう 運動 うんどう が分裂 ぶんれつ し、かつての竹田 たけだ 深草 ふかくさ 支部 しぶ は全国 ぜんこく 部落 ぶらく 解放 かいほう 運動 うんどう 連合 れんごう 会 かい (全 ぜん 解 かい 連 れん )に所属 しょぞく した。一方 いっぽう 、部落 ぶらく 解放 かいほう 同盟 どうめい は1970年代 ねんだい に合唱 がっしょう 運動 うんどう を積極 せっきょく 化 か させたが、その活動 かつどう は合唱 がっしょう 団 だん 「はだし」と断絶 だんぜつ がある。
とはいえ野口 のぐち によれば、分裂 ぶんれつ した全 ぜん 解 かい 連 れん と部落 ぶらく 解放 かいほう 同盟 どうめい の間 あいだ でもこの歌 うた について問題 もんだい になったことはないと述 の べている。
1990年代 ねんだい の終 おわ りに、ロックバンドソウル・フラワー・ユニオン (『マージナル・ムーン 』(1998年 ねん ))、ヒートウェイヴ が「竹田 たけだ の子守 こもり 唄 うた 」をメジャー録音 ろくおん した。2000年 ねん 末 まつ にはサザン・オールスターズ の桑田 くわた 佳祐 けいすけ がステージでこの歌 うた を歌 うた う映像 えいぞう がNHK-BS で放送 ほうそう された。その後 ご 、「赤 あか い鳥 とり 」のメンバーだった山本 やまもと 潤子 じゅんこ が2001年 ねん 8月 がつ にNHK「思 おも い出 で のメロディー 」で歌 うた い、2002年 ねん 5月 がつ には高田 たかだ 恭子 きょうこ がNHK-BS「あの人 ひと この歌 うた 」で、同月 どうげつ 、山本 やまもと 潤子 じゅんこ と坂崎 さかざき 幸之助 こうのすけ が「フォーク大 だい 集合 しゅうごう 」で歌 うた っている。山本 やまもと 潤子 じゅんこ はこの年 とし 12月 がつ にもこの歌 うた で森山 もりやま 良子 りょうこ と共演 きょうえん した。
藤田 ふじた は、「歌 うた は、21世紀 せいき に入 はい って、そっとではあるがドアの向 む こう側 がわ から顔 かお を覗 のぞ かせている。」と述 の べている。
守 まも り子 こ 唄 うた について[ 編集 へんしゅう ]
明治 めいじ の写真 しゃしん 家 か 日下部 くさかべ 金 きむ 兵衛 ひょうえ が撮影 さつえい した子守 こも り娘 むすめ たち
藤田 ふじた によれば、子守 こもり 唄 うた には大 おお きく三 みっ つの流 なが れがある。「寝 ね かせ唄 うた 」、「遊 あそ ばせ唄 うた 」、「守 まも り子 こ 唄 うた 」である。「竹田 たけだ の子守 こもり 唄 うた 」はこのうち「守 まも り子 こ 唄 うた 」に相当 そうとう する。
「守 まも り子 こ 唄 うた 」の成立 せいりつ はさして古 ふる いものではなく、森 もり によれば明治 めいじ の中 なか ごろと推察 すいさつ され、民謡 みんよう や童謡 どうよう の多 おお くがこのころに成立 せいりつ している。これには、江戸 えど 末期 まっき から明治 めいじ にかけて、封建 ほうけん 社会 しゃかい から近代 きんだい 資本 しほん 主義 しゅぎ 社会 しゃかい へと急速 きゅうそく に変化 へんか していく過程 かてい で、裕福 ゆうふく な商家 しょうか や農家 のうか が安 やす い労働 ろうどう 力 りょく を求 もと めたことに背景 はいけい がある。貧 まず しい家庭 かてい に生 う まれた少年 しょうねん 少女 しょうじょ が、期間 きかん を定 さだ めて丁稚 でっち や小僧 こぞう などの下働 したばたら きや茶 ちゃ つみなどの季 き 節 ぶし 労働 ろうどう 、野良 のら 仕事 しごと 、家事 かじ などの仕事 しごと をこなす「奉公 ほうこう 」と呼 よ ばれる労働 ろうどう 形態 けいたい が生 う まれた。守 まも り子 こ もそのひとつである。したがって、守 まも り子 こ 唄 うた には労働 ろうどう 歌 か としての性格 せいかく がある。
守 まも り子 こ の奉公 ほうこう がなくなれば、守 まも り子 こ 唄 うた は歌 うた われなくなるため、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 のち には各地 かくち の子守 こもり 唄 うた はほとんどなくなっていた。しかし、被 ひ 差別 さべつ 部落 ぶらく では就職 しゅうしょく の困難 こんなん 性 せい から歌 うた の消滅 しょうめつ に20年 ねん 程度 ていど の時間 じかん 差 さ があった。「竹田 たけだ の子守 こもり 唄 うた 」が発見 はっけん された1960年代 ねんだい 半 なか ばは、日本 にっぽん の子守 こもり 唄 うた にとって節目 ふしめ だったとも考 かんが えられる。
日本 にっぽん 音楽 おんがく 研究 けんきゅう 会 かい 『京都 きょうと の民謡 みんよう 』(1970年 ねん )[ 編集 へんしゅう ]
音楽之友社 おんがくのともしゃ から出版 しゅっぱん された『京都 きょうと の民謡 みんよう 』(1970年 ねん )には、日本 にっぽん 音楽 おんがく 研究 けんきゅう 会 かい 採譜 さいふ として「竹田 たけだ の子守 こもり 唄 うた 」が掲載 けいさい されている。タイトルの下 した には「―京都 きょうと 市 し ・伏見 ふしみ 区 く ・竹田 たけだ ―」とあり、「原曲 げんきょく 編 へん 」では次 つぎ のような楽譜 がくふ 、歌詞 かし となっている[注釈 ちゅうしゃく 9] 。
一 いち 、もりもいやがる 盆 ぼん から先 さき にゃ
雪 ゆき もちらつくし 子 こ も泣 な くし
二 に 、早 はや (はよ)も行 い きたい この在所 ざいしょ こえて
向 む こうに見 み えるは 親 おや のうち
三 さん 、来 こ いよ来 こ いよと こまものうりに
来 き たら見 み もする(し) 買 か いもする
四 よん 、久世 くぜ の大根 だいこん めし 吉祥 きっしょう の菜 さい めし
またも竹田 たけだ の もんばめし
五 ご 、この子 こ よう泣 な く もりをばいじる
もりも一 いち 日 にち やせるやら
また、同書 どうしょ には4パートに分 わ かれた「編曲 へんきょく 編 へん 」も掲載 けいさい されており、これらのメロディと歌詞 かし を載 の せたのは、尾上 おがみ 和彦 かずひこ である。なお、合唱 がっしょう 団 だん 「はだし」の野口 のぐち が所有 しょゆう するこの歌 うた の譜面 ふめん は2種類 しゅるい あり、低音 ていおん パートや音程 おんてい などに修正 しゅうせい が見 み られる。合唱 がっしょう 指導 しどう の中 なか で尾上 おのえ はその後 ご も曲 きょく に手 て を入 い れていたことがうかがえる。
尾上 おのえ は、岡本 おかもと ふくの歌 うた は速 はや く、16分 ふん 音符 おんぷ で書 か くところを拍子 ひょうし を変 か えて8分 ふん 音符 おんぷ で処理 しょり し、ちゃんとした歌 うた の形 かたち になっていないものをまとめたと述 の べている。
赤 あか い鳥 とり による歌唱 かしょう (1971年 ねん )[ 編集 へんしゅう ]
※メロディーについては、下記 かき 右田 みぎた 伊佐雄 いさお による比較 ひかく を参照 さんしょう のこと。
赤 あか い鳥 とり 「竹田 たけだ の子守 こもり 唄 うた 」歌詞 かし
一 いち 、守 まも りも嫌 いや がる 盆 ぼん から先 さき にゃ
雪 ゆき もちらつくし 子 こ も泣 な くし
二 に 、盆 ぼん が来 き たとて 何 なに うれしかろ
帷子 かたびら (かたびら)はなし 帯 たい はなし
三 さん 、この子 こ よう泣 な く 守 まも りをばいじる
守 まも りも一 いち 日 にち やせるやら
四 よん 、早 はや もゆきたや この在所 ざいしょ 越 こ えて
向 む こうに見 み えるは 親 おや の家 いえ
2番 ばん 「盆 ぼん が来 き たとて」の歌詞 かし は、森 もり 、藤田 ふじた らによれば高石 たかいし ともやが『日本 にっぽん の子守 こもり 唄 うた 』(松永 まつなが 伍一 ごいち 著 しる 、紀伊國屋 きのくにや 書店 しょてん )で見 み つけた愛知 あいち 県 けん の子守 こもり 唄 うた から組 く み入 い れたものである。
「赤 あか い鳥 とり 」の後藤 ごとう 悦治 えつじ 郎 ろう は、当初 とうしょ 歌 うた っていたこの歌詞 かし を外 はず し、『京都 きょうと の民謡 みんよう 』に掲載 けいさい されていた「久世 くぜ の大根 だいこん めし」の歌詞 かし と入 い れ替 か えて歌 うた うようになった。
右田 みぎた 伊佐雄 いさお による旋律 せんりつ の比較 ひかく (1978年 ねん )[ 編集 へんしゅう ]
民謡 みんよう 研究 けんきゅう 家 か で『大阪 おおさか の民謡 みんよう 』(1978年 ねん )の著者 ちょしゃ 右田 みぎた 伊佐雄 いさお (1928年 ねん - 1992年 ねん )は、「竹田 たけだ の子守 こもり 歌 か 」について、原曲 げんきょく 、尾上 おがみ 和彦 かずひこ の作曲 さっきょく 、「赤 あか い鳥 とり 」らによる歌唱 かしょう による旋律 せんりつ を次 つぎ のように比較 ひかく している。
なお、下記 かき B. よりも上記 じょうき 『京都 きょうと の民謡 みんよう 』の掲載 けいさい 楽譜 がくふ が半音 はんおん 高 たか いキーとなっているのは、合唱 がっしょう 団 だん での歌唱 かしょう を考慮 こうりょ した尾上 おのえ が調 しらべ 性 せい を変更 へんこう したためである。
A. 原曲 げんきょく
B. 尾上 おがみ 和彦 かずひこ による『橋 はし のない川 かわ 』のテーマ音楽 おんがく (1964年 ねん 12月 がつ )
C. 「赤 あか い鳥 とり 」らフォーク歌手 かしゅ たちの歌唱 かしょう
右田 みぎた によると、日本 にっぽん の民謡 みんよう の大半 たいはん は旋律 せんりつ の頂点 ちょうてん を前半 ぜんはん に置 お く形 かたち を取 と っている。これは祝祭 しゅくさい の歌 うた であれ仕事 しごと の歌 うた であれ、神霊 しんれい を鎮撫 ちんぶ することが目的 もくてき で歌 うた われた「神守 かもり 歌 か 」が日本 にっぽん 民謡 みんよう の基本 きほん になっているためであり、子守 こもり 歌 か の中 なか でもとくに「寝 ね させ歌 うた 」の場合 ばあい は赤 あか 児 じ を興奮 こうふん させないためにほとんど例外 れいがい なしに頂点 ちょうてん 前半 ぜんはん 形 がた であるとする。逆 ぎゃく に、西洋 せいよう 音楽 おんがく では後半 こうはん を盛 も り上 あ げて終結 しゅうけつ に導 みちび く。尾上 おのえ は原曲 げんきょく から後半 こうはん 部 ぶ を高揚 こうよう させており、西洋 せいよう のスタイルに従 したが った手法 しゅほう といえる。
歌 うた の後半 こうはん に頂点 ちょうてん を持 も っていくことについて、尾上 おがみ 自身 じしん は、自分 じぶん のつらいものを心 しん の中 なか に押 お し込 こ まず外 そと へ向 む けていく姿勢 しせい を音 おと に込 こ めており、そうした前向 まえむ きな主張 しゅちょう がこの歌 うた を歌 うた った若者 わかもの たちの中 なか にもあったと思 おも うと語 かた っている。彼 かれ が旋律 せんりつ を作 つく る際 さい に心 しん に抱 だ いていた音楽 おんがく として、ロシア民謡 みんよう の「赤 あか いサラファン 」、シベリウス の「フィンランディア 」、黒人 こくじん 霊歌 れいか の「深 ふか き河 かわ 」、アイルランド の民謡 みんよう 「ロンドンデリーの歌 うた 」などを挙 あ げている。
また、B. で尾上 おのえ は原曲 げんきょく の四 よん 度 ど 音程 おんてい が持 も つ力強 ちからづよ さを意識 いしき して、後半 こうはん 部 ぶ にも四 よん 度 ど 上昇 じょうしょう を用 もち いているが、C. では、上昇 じょうしょう を半 はん 拍 はく ずらして遅 おく らせ(10小節 しょうせつ 目 め 、13小節 しょうせつ 目 め )、四 よん 度 ど の幅 はば を短 たん 三 さん 度 ど に縮 ちぢ める(13小節 しょうせつ 目 め )という変更 へんこう を加 くわ えている。これは耳 みみ で聴 き いた曲 きょく を再現 さいげん する際 さい に無意識 むいしき 的 てき に歌 うた い変 か えられたものである。
尾上 おのえ が作 つく った旋律 せんりつ を、フォーク歌手 かしゅ たちはギターに乗 の せるためにアレンジしていったが、もともと四 よん 度 ど の跳躍 ちょうやく 音 おん 型 がた は北日本 きたにっぽん や日本海 にほんかい 側 がわ の地域 ちいき に多 おお く、関西 かんさい では少 すく ないため、主 おも に京都 きょうと を中心 ちゅうしん とした彼 かれ らにとってより自然 しぜん な形 かたち に変 か えられたと考 かんが えられる。この結果 けっか 、原曲 げんきょく の力強 ちからづよ さよりも関西 かんさい の民謡 みんよう らしい滑 なめ らかさと歌 うた いよさが特徴 とくちょう づけられることになった。
高橋 たかはし 美智子 みちこ 『京都 きょうと のわらべ歌 うた 』(1979年 ねん )[ 編集 へんしゅう ]
1979年 ねん に『京都 きょうと のわらべ歌 うた 』を著 あらわ した声楽 せいがく 家 か の高橋 たかはし 美智子 みちこ は、「竹田 たけだ の子守 こもり 唄 うた 」について、まったく異 こと なった二 に 系統 けいとう の旋律 せんりつ があるとする。高橋 たかはし は計 けい 5種類 しゅるい の旋律 せんりつ を紹介 しょうかい しており、そのうち〔A〕から〔D〕までを下記 かき に示 しめ す。〔E〕は「作曲 さっきょく 尾上 おがみ 和彦 かずひこ 」とされており、上記 じょうき 右田 みぎた の「B. 『橋 はし のない川 かわ 』のテーマ音楽 おんがく 」と同 おな じであるため、省略 しょうりゃく した。
〔A〕
〔B〕
〔C〕
〔D〕
一 いち 、守 まも りもいやがる 盆 ぼん からさきにゃ
雪 ゆき もちらつくし 子 こ も泣 な くし
二 に 、この子 こ よう泣 な く 守 まも りをばいじる
守 まも りも一 いち 日 にち やせるやら
三 さん 、はよも行 い きたい この在所 ざいしょ こえて
向 む こうに見 み えるは 親 おや のうち
四 よん 、来 こ いよ来 こ いよ 小 しょう 間 あいだ 物売 ものう りに
来 き たら見 み もする 買 か いもする
五 ご 、久世 くぜ の大根 だいこん めし 吉祥 きっしょう に菜 さい めし
またも竹田 たけだ の もんばめし
六 ろく 、盆 ぼん が来 き たとて なにうれしかろ
かたびらはなし 帯 たい はなし
〔類歌 るいか 〕として掲載 けいさい されている歌詞 かし
一 いち 、ねんねねんねと ねた子 こ はかわい
おきて泣 な く子 こ は つらにくい
二 に 、見 み ても見 み あきぬ お月 つき とお人 ひと
たてた鏡 かがみ と わが親 おや と
〔A〕と〔B〕は、高橋 たかはし が採譜 さいふ した当時 とうじ も歌 うた える人 ひと が多 おお く、京都 きょうと 特有 とくゆう の節回 ふしまわ しであり、旋律 せんりつ の後半 こうはん は乙訓 おとくに 郡 ぐん の子守 こもり 歌 か と同一 どういつ であることから、昔 むかし から竹田 たけだ の里 さと に伝承 でんしょう されているものとする。一方 いっぽう 尾上 おのえ が作曲 さっきょく する基 もと となった〔C〕と〔D〕は、この節 ふし を知 し っているものが他 た におらず、歌 うた い手 て は戦後 せんご 10年 ねん 近 ちか く竹田 たけだ を離 はな れ地方 ちほう を巡業 じゅんぎょう していたらしいとして、この節 ふし はいったいどこから来 き たのかと疑問 ぎもん を呈 てい している[注釈 ちゅうしゃく 10] 。
また、歌詞 かし の5番 ばん 「久世 くぜ の大根 だいこん めし 吉兆 きっちょう の菜 さい めし」、6番 ばん 「盆 ぼん が来 き たとて なにうれしかろ」を並 なら べて掲載 けいさい している。すでに述 の べたように、「盆 ぼん が来 き たとて」の歌詞 かし は、高石 たかいし 友也 ともや が愛知 あいち 県 けん の子守 こもり 唄 うた から組 く み入 い れたものとされており、後 のち に「赤 あか い鳥 とり 」の後藤 ごとう 悦治 えつじ 郎 ろう がこれを外 はず して代 か わりに歌 うた ったのが「久世 くぜ の大根 だいこん めし」の歌詞 かし である。
これに対 たい して藤田 ふじた は、「竹田 たけだ の子守 こもり 唄 うた 」は竹田 たけだ 地域 ちいき にある被 ひ 差別 さべつ 部落 ぶらく だけで生 う まれ育 そだ ったわけではなく、少 すく なくとも関西 かんさい 地方 ちほう のいくつかの部落 ぶらく との文化 ぶんか 交流 こうりゅう のなかで成長 せいちょう した歌 うた だとする。
例 たと えば「竹田 たけだ の子守 こもり 唄 うた 」に似 に た歌 うた は、尼崎 あまがさき の被 ひ 差別 さべつ 部落 ぶらく でも「チーコイターコイの唄 うた 」として伝 つた わっていた。チーコターコイとは、「父 ちち 恋 こい し、母 はは 恋 こい し」の意味 いみ ではないかとされている。森 もり によれば、大阪 おおさか の被 ひ 差別 さべつ 部落 ぶらく でもよく似 に た歌 うた が歌 うた われているという。
世代 せだい によっても唄 うた のメロディが違 ちが い、新 あたら しい地域 ちいき とのつながりができるとその地区 ちく の唄 うた が持 も ち込 こ まれ、以前 いぜん の節 ふし が捨 す てられるということがあった。伝承 でんしょう 者 しゃ 各人 かくじん によって歌詞 かし の一部 いちぶ 、メロディラインが異 こと なり、歌詞 かし の順序 じゅんじょ も決 き まったものではない。
また右田 みぎた は、農作業 のうさぎょう 歌 か や地固 じがた め歌 か などの場合 ばあい 、大勢 おおぜい でときには斉唱 せいしょう になってもピタリと合 あ うのに対 たい し、子守 こもり 歌 か の中 なか でも寝 ね させ歌 うた だけは、各人 かくじん のフシが必 かなら ずといっていいほど違 ちが っていて最後 さいご まで歌 うた えないという。赤 あか 児 じ を静 しず かに寝 ね かせる歌 うた は集団 しゅうだん でなく単独 たんどく で歌 うた うため、どうしても個別 こべつ のフシになってゆくのだろうと推測 すいそく している。
さらに、民謡 みんよう には地域 ちいき 性 せい と個人 こじん 性 せい があり、同 おな じ地域 ちいき でも時代 じだい により歌 うた のフシ、リズム、テンポが変 か わる。同 おな じ歌 うた い手 て であってもそのときの気分 きぶん によって歌詞 かし を適宜 てきぎ 歌 うた い変 か える自由 じゆう さがあり、そこに歌 うた い手 て の個性 こせい が出 で る。各 かく 歌 うた はそれぞれの地 ち で、いつも記 き 譜 ふ どおりに歌 うた われてきたわけではなく、記 き 譜 ふ を固定 こてい 的 てき に考 かんが えてはならないと述 の べている。
録音 ろくおん された「元 もと 唄 うた 」(1981年 ねん )[ 編集 へんしゅう ]
「竹田 たけだ の子守 こもり 唄 うた 」の元 もと 唄 うた とされるものとして、武村 たけむら やす(1900年 ねん - 1985年 ねん )がその晩年 ばんねん に近 ちか しい人 ひと に紹介 しょうかい した歌詞 かし とメロディーが残 のこ されている。武村 たけむら やすが守 まも り子 こ として働 はたら いていたのは、明治 めいじ の終 お わりごろから大正 たいしょう にかけてであり、1910年 ねん (明治 めいじ 43年 ねん )前後 ぜんこう と推定 すいてい される。森 もり によれば、彼女 かのじょ が最後 さいご の世代 せだい であり、元 もと 唄 うた はすでに歌 うた われていないという。
武村 たけむら やすの元 もと 唄 うた は、江戸 えど 時代 じだい 後期 こうき に広 ひろ まった俗謡 ぞくよう である都々逸 どどいつ と同 おな じ「七 なな ・七 なな ・七 なな ・五 ご 」の音律 おんりつ に従 したが った短 みじか い歌詞 かし と「どしたいこりゃ きこえたか」というリフレインで構成 こうせい されている。歌詞 かし の内容 ないよう には、長唄 ながうた など大人 おとな の遊 あそ び唄 うた に由来 ゆらい するものがあり、守 まも り子 こ たちが労働 ろうどう 中 ちゅう に歌 うた う中 なか で取 と り入 い れられて定着 ていちゃく したと考 かんが えられる。
部落 ぶらく 解放 かいほう 同盟 どうめい 京都 きょうと 府 ふ 連合 れんごう 会 かい 改 あらため 進 しん 支部 しぶ 採譜 さいふ による元 もと 唄 うた 。
この子 こ よう泣 な く 守 まも りをばいじる
守 まも りも一 いち 日 にち やせるやら
どしたいこりゃ きこえたか
ねんねしてくれ 背中 せなか の上 うえ で
守 まも りも楽 らく なし 子 こ も楽 らく な
どしたいこりゃ きこえたか
ねんねしてくれ おやすみなされ
親 おや の御飯 ごはん が すむまでは
どしたいこりゃ きこえたか
ないてくれよな 背中 せなか の上 うえ で
守 まも りがどんなと 思 おも われる
どしたいこりゃ きこえたか
この子 こ よう泣 な く 守 まも りしょというたか
泣 な かぬ子 こ でさえ 守 まも りゃいやや
どしたいこりゃ きこえたか
寺 てら の坊 ぼう さん 根性 こんじょう が悪 わる い
守 まも り子 こ いなして 門 もん しめる
どしたいこりゃ きこえたか
守 まも りが憎 にく いとて 破 やぶ れ傘 かさ きせて
かわいがる子 こ に 雨 あめ やかかる
どしたいこりゃ きこえたか
来 こ いよ来 こ いよと こま物売 ものう りに
来 き たら見 み もする 買 か いもする
どしたいこりゃ きこえたか
久世 くぜ の大根 だいこん めし 吉祥 きっしょう の菜 さい めし
またも竹田 たけだ の もんば飯 めし
どしたいこりゃ きこえたか
足 あし が冷 つめ たい 足袋 たび 買 か うておくれ
お父 とう さん帰 かえ ったら 買 か うてはかす
どしたいこりゃ きこえたか
カラス鳴 な く声 こえ わしゃ気 き にかかる
お父 とう さん病気 びょうき で 寝 ね てござる
どしたいこりゃ きこえたか
盆 ぼん が来 き たかて 正月 しょうがつ が来 き たかて
難儀 なんぎ な親 おや もちゃ うれしない
どしたいこりゃ きこえたか
見 み ても見飽 みあ きぬ お月 つき とお日 ひ と
立 た てた鏡 かがみ と わが親 おや と
どしたいこりゃ きこえたか
早 はや よもいにたい あの在所 ざいしょ こえて
向 む こうに見 み えるは 親 おや のうち
どしたいこりゃ きこえたか
また、武村 たけむら やすよりも若 わか い世代 せだい では、別 べつ の歌 うた が歌 うた われていた。「竹田 たけだ こいこい節 ふし 」は、「ねんねんころりよ ねた子 こ はかわいい おきて泣 な く子 こ は つらにくい こいこい」という歌詞 かし で、元 もと 唄 うた よりもテンポが速 はや く、「どしたいこりゃ」に代 か えて「こいこい」という短 みじか いフレーズが繰 く り返 かえ される。このフレーズは岡本 おかもと ふくが尾上 おがみ 和彦 かずひこ に歌 うた って聴 き かせた中 なか にも含 ふく まれていたものである。
明治 めいじ 40年 ねん ごろの高瀬川 たかせがわ 。かつて竹田 たけだ 地区 ちく には高瀬舟 たかせぶね に従事 じゅうじ する人々 ひとびと が遠 とお くは四国 しこく から出稼 でかせ ぎに来 き ており、「高瀬 たかせ の船頭 せんどう 」という古 こ 謡 うたい も採譜 さいふ されている。
森 もり によれば、被 ひ 差別 さべつ 部落 ぶらく の少女 しょうじょ たちは家計 かけい を助 たす けるために10歳 さい 前後 ぜんこう から遠 とお く離 はな れた家 いえ に奉公 ほうこう に出 だ され、学校 がっこう に通 かよ う余裕 よゆう もない中 なか で友達 ともだち と遊 あそ ぶこともかなわず、奉公 ほうこう 先 さき で子供 こども を背負 せお いながら労働 ろうどう をこなした。守 まも り子 こ 歌 か には、そうした少女 しょうじょ たちがおかれた境遇 きょうぐう への悲憤 ひふん と恨 うら みが綴 つづ られているとする。
京都教育大学 きょうときょういくだいがく の武 たけ 島 とう 良成 よしなり は、歌詞 かし の中 なか で「この在所 ざいしょ こえて」と「竹田 たけだ のもんば飯 めし 」の二 ふた つの節 ふし をこの歌 うた の核心 かくしん 部分 ぶぶん としており、その解釈 かいしゃく について以下 いか に触 ふ れる。
(『京都 きょうと の民謡 みんよう 』より歌詞 かし を再掲 さいけい )
早 はや (はよ)も行 い きたい この在所 ざいしょ こえて
向 む こうに見 み えるは 親 おや のうち
「この在所 ざいしょ こえて」の「在所 ざいしょ 」が被 ひ 差別 さべつ 部落 ぶらく を指 さ し、メディアがこれに気 き づいたことにより「竹田 たけだ の子守 こもり 唄 うた 」は放送 ほうそう されなくなったと考 かんが えられていたが、歌 うた い手 て と「在所 ざいしょ 」の関係 かんけい はあいまいである。歌詞 かし を素直 すなお に読 よ めば、「在所 ざいしょ 」を越 こ えたところに親 おや の家 いえ があるとすれば、歌 うた い手 て は部落 ぶらく に住 す んでいるとは限 かぎ らない。
では歌 うた い手 て はどこで歌 うた っているのかについても、はっきりしない。森 もり 達也 たつや は整合 せいごう 性 せい のある解釈 かいしゃく を求 もと めて、部落 ぶらく の守 まも り子 こ がたまたま地域 ちいき の外 そと に出 で たところで歌 うた っているという状況 じょうきょう もあると聞 き かされている。
これに対 たい して、橋本 はしもと 正樹 まさき は歌 うた い手 て が「竹田 たけだ に子守 こも りに来 き ていた」情景 じょうけい とし、「在所 ざいしょ 」を越 こ えるという部分 ぶぶん を「人間 にんげん の誇 ほこ りを主張 しゅちょう し奪還 だっかん するすべての行動 こうどう 」という意味 いみ と捉 とら えた。藤田 ふじた 正 ただし もまた竹田 たけだ で子守 こも りしている情景 じょうけい であり、「脱出 だっしゅつ 」を歌 うた い込 ご めていると述 の べている。高橋 たかはし 美智子 みちこ も同 おな じく「この里 さと へ子守 こも り奉公 ほうこう にきた守 まも り子 こ の歌 うた である」としているが、「在所 ざいしょ 」の解釈 かいしゃく については触 ふ れていない。
採譜 さいふ 者 しゃ の尾上 おがみ 和彦 かずひこ は、岡本 おかもと ふくが宇治 うじ に働 はたら きに出 で かけていたことをふまえ、帰路 きろ に当 あ たる桃山 ももやま 丘陵 きゅうりょう から竹田 たけだ を望 のぞ んでいる情景 じょうけい を思 おも い描 えが いていた。武 たけ 島 とう は、竹田 たけだ を見下 みお ろせる山 やま としては桃山 ももやま 丘陵 きゅうりょう を想定 そうてい できることから尾上 おのえ の解釈 かいしゃく には普遍 ふへん 性 せい があると述 の べている。一方 いっぽう で「はだしの子 こ 」の団員 だんいん たちは、歌 うた い手 て が吉祥院 きっしょういん や久世 くぜ など竹田 たけだ から西 にし に位置 いち する場所 ばしょ から竹田 たけだ を見 み ている状況 じょうきょう をイメージしていた。このように、さまざまな解釈 かいしゃく が可能 かのう である。
また、「在所 ざいしょ 」の意味 いみ についても、部落 ぶらく を指 さ すのかどうか明確 めいかく ではない。この言葉 ことば は京都 きょうと では部落 ぶらく を意味 いみ することもあるが、関西 かんさい では一般 いっぱん に生 う まれ故郷 こきょう や国許 くにもと 、田舎 いなか を指 さ す。森 もり の取材 しゅざい では、京都 きょうと では「在所 ざいしょ 」は被 ひ 差別 さべつ 部落 ぶらく を指 さ すが、大阪 おおさか では一般 いっぱん の地域 ちいき を在所 ざいしょ と呼 よ ぶのだという。さらに、上記 じょうき 武村 たけむら やすの「元 もと 唄 うた 」のように、「この在所 ざいしょ 」を「あの在所 ざいしょ 」と歌 うた う例 れい もあり、歌詞 かし の解釈 かいしゃく を特定 とくてい することはいっそう困難 こんなん である。
豆乳 とうにゅう の絞 しぼ り粕 かす おから
(『京都 きょうと の民謡 みんよう 』より歌詞 かし を再掲 さいけい )
久世 くぜ の大根 だいこん めし 吉祥 きっしょう の菜 さい めし
またも竹田 たけだ の もんばめし
この節 ふし は「赤 あか い鳥 とり 」のシングルでは歌 うた われておらず、後 のち に後藤 ごとう 悦治 えつじ 郎 ろう によって「盆 ぼん が来 き たとて」の歌詞 かし と入 い れ替 か えられた。この歌 うた を歌 うた って採譜 さいふ された岡本 おかもと ふくは「ムラの恥 はじ をさらした」と後悔 こうかい し、後藤 ごとう にこの節 ふし を歌 うた ってくれるなと申 もう し入 い れた経緯 けいい がある。
久世 くぜ や吉祥院 きっしょういん は、竹田 たけだ の周辺 しゅうへん に所在 しょざい する被 ひ 差別 さべつ 部落 ぶらく であり、京都 きょうと の子守 こもり 唄 うた には、伏見 ふしみ 周辺 しゅうへん の地名 ちめい をふんだんに盛 も り込 こ んだ歌詞 かし が他 ほか にも伝 つた わっていることから、藤田 ふじた はこのような言葉 ことば の掛 か け合 あ いの形式 けいしき がこの節 せつ の元 もと になったのではないかと推測 すいそく している。
当時 とうじ の被 ひ 差別 さべつ 部落 ぶらく において、大根 だいこん や菜 な っ葉 ぱ は日常 にちじょう 的 てき な食材 しょくざい であり、それらを炊 た き込 こ んだかて飯 めし が主食 しゅしょく だった。「もんば飯 めし 」の「もんば」とは、おから のことであり、おからを炊 た き込 こ んだかて飯 めし がもんば飯 めし である。
「もんば飯 めし 」の解釈 かいしゃく については、「竹田 たけだ の子守 こもり 唄 うた CD制作 せいさく 委員 いいん 会 かい 」では、久世 くぜ や吉祥院 きっしょういん のような大根 だいこん 飯 めし や菜飯 なめし ならまだしもという意味 いみ だと説明 せつめい されている。橋本 はしもと は「もんば飯 めし 」をもっとも劣悪 れつあく なものと捉 とら えており、それをなぜわざわざ歌 うた うのかといえば、守 まも り子 こ たちの「どん底 ぞこ の楽天 らくてん 性 せい 」からだとしていた。藤田 ふじた も同様 どうよう であり、もっとひどいことをさらりと流 なが したものとした。
しかし、「またも」を「まだも」と濁音 だくおん で歌 うた われる例 れい があり、これは「まだしも」が竹田 たけだ にかかるために、意味 いみ としてはもっとも劣悪 れつあく ではなかったことになりうる。採譜 さいふ 者 しゃ の尾上 おのえ は、初期 しょき の段階 だんかい では「またも」と「まだも」の両方 りょうほう を構想 こうそう していたが、それをやや意味 いみ をぼかした「またも」に統一 とういつ したとしており、どちらにしても「もんば飯 めし 」が最悪 さいあく という意味 いみ ではなかったと述 の べている。また、「はだしの子 こ 」のメンバーたちは、竹田 たけだ の結婚式 けっこんしき に山盛 やまも りのおからが出 だ される風習 ふうしゅう があり、おからは手間 てま をかけて絞 しぼ ったもので優越 ゆうえつ の意味 いみ が込 こ められていると解 かい していた者 もの もあれば、残飯 ざんぱん のように劣悪 れつあく だと考 かんが えていた者 もの など多様 たよう であった。
「赤 あか い鳥 とり 」のその後 ご [ 編集 へんしゅう ]
後藤 ごとう 悦治 えつじ 郎 ろう への取材 しゅざい [ 編集 へんしゅう ]
1974年 ねん の「赤 あか い鳥 とり 」解散 かいさん 後 ご 、メンバーだった後藤 ごとう 悦治 えつじ 郎 ろう と平山 ひらやま 泰代 やすよ は「紙 かみ ふうせん」を結成 けっせい した。1981年 ねん 12月 がつ 10日 とおか に朝日放送 あさひほうそう で放送 ほうそう された報道 ほうどう 特別 とくべつ 番組 ばんぐみ 「そして明日 あした は」に出演 しゅつえん した紙 かみ ふうせんの二人 ふたり は、「久世 くぜ の大根 だいこん めし」の歌詞 かし を2番 ばん として「竹田 たけだ の子守 こもり 唄 うた 」を歌 うた っている。
歌 うた い終 お えた後藤 ごとう は、「この唄 うた が生 う まれた地域 ちいき を、長 なが く大分 おおいた 県 けん の竹田 たけだ 市 し と勘違 かんちが いしながら歌 うた っていました」、「自分 じぶん はこの唄 うた の本質 ほんしつ を長 なが く理解 りかい していなかった」と語 かた った。
それから20年 ねん ほど経 た ち、森 もり からの電話 でんわ インタビューに応 こた えた後藤 ごとう は「もんば飯 めし 」の歌詞 かし について、レコーディングの時点 じてん ではこの歌詞 かし があることを知 し らず、その後 ご ライヴで歌 うた い始 はじ めたという。原曲 げんきょく を採譜 さいふ された竹田 たけだ の老女 ろうじょ がこの歌詞 かし を歌 うた ったことを後悔 こうかい していると聞 き き、後藤 ごとう は彼女 かのじょ に直接 ちょくせつ 会 あ って歌 うた わせてほしいと説得 せっとく したが、最後 さいご まで応 おう じてくれなかった。しかし後藤 ごとう はこの歌詞 かし が絶対 ぜったい に必要 ひつよう と考 かんが え、コンサートでは歌詞 かし の背景 はいけい や歴史 れきし を説明 せつめい した上 うえ で歌 うた っている。また、この歌 うた が放送 ほうそう されなくなった経緯 けいい については知 し っていたが、後藤 ごとう や「赤 あか い鳥 とり 」に対 たい して圧力 あつりょく は一切 いっさい なかったという。なぜ圧力 あつりょく がなかったのかという問 と いに対 たい して、後藤 ごとう は「自信 じしん を持 も って歌 うた っていたからだと思 おも う」と述 の べ、次 つぎ のように締 し めくくっている。
部落 ぶらく にはいい歌 うた がたくさんあります。抑圧 よくあつ されればされるほど、その土地 とち や人 ひと びとの間 あいだ で、僕 ぼく らの心 しん を打 う つ本当 ほんとう に素晴 すば らしい歌 うた が生 う まれるんです。歌 うた とはそういうものです。僕 ぼく はそう確信 かくしん しています。でもそんな歌 うた のほとんどに、今 いま では誰 だれ も手 て をつけようとしない。誰 だれ もが見 み て見 み ないふりをしている。だからせめて僕 ぼく くらいは、これからもそんな歌 うた を発掘 はっくつ して、しっかりと歴史 れきし や背景 はいけい も見 み つめながら、ライフワークとして歌 うた いつづけてゆきたい。
山本 やまもと 潤子 じゅんこ への取材 しゅざい [ 編集 へんしゅう ]
「赤 あか い鳥 とり 」でリードボーカルを担当 たんとう していた山本 やまもと 潤子 じゅんこ (旧姓 きゅうせい :新居 しんきょ )は「赤 あか い鳥 とり 」解散 かいさん 後 ご 、ハイ・ファイ・セット を結成 けっせい するが、ハイ・ファイ・セットが「竹田 たけだ の子守 こもり 唄 うた 」を取 と り上 あ げることはなかった。2003年 ねん 4月 がつ に藤田 ふじた からの取材 しゅざい を受 う けた山本 やまもと は、この歌 うた の背景 はいけい や放送 ほうそう 局 きょく の自粛 じしゅく については知 し っていたが、歌 うた わなかったのはそのような理由 りゆう からではなく、この曲 きょく がハイ・ファイ・セットの方向 ほうこう 性 せい とまったく合 あ わなかったからだと答 こた えている。また、「赤 あか い鳥 とり 」は後藤 ごとう 悦治 えつじ 郎 ろう と平山 ひらやま 泰代 やすよ の「紙 かみ ふうせん」に引 ひ き継 つ がれたと考 かんが えていたため、「赤 あか い鳥 とり 」時代 じだい の歌 うた は「翼 つばさ をください 」にしてもステージで一 いち 度 ど だけ歌 うた った程度 ていど だった。しかし、1994年 ねん にハイ・ファイ・セットが解散 かいさん してソロ活動 かつどう となり、翌年 よくねん の阪神 はんしん ・淡路 あわじ 大震災 だいしんさい のためのチャリティ・コンサートの際 さい に、伊勢 いせ 正三 しょうさん からなぜ歌 うた わないのかと聞 き かれたことがきっかけとなり、「竹田 たけだ の子守 こもり 唄 うた 」を再 ふたた び歌 うた い始 はじ めたという。そして彼女 かのじょ は次 つぎ のように語 かた った。
私 わたし は
歌手 かしゅ ですから、
美 うつく しいメロディや
詞 し を
歌 うた としてちゃんと
伝 つた えたいだけなんです。かつて「
赤 あか い
鳥 とり 」はフォーク・ブームの
真 ま ん
中 なか にいたグループでしたが、
私 わたし は
最初 さいしょ からフォークだ
何 なに だというような
区別 くべつ は
全 まった く
意識 いしき していませんでした。
歌 うた をうたいたかった、それだけです。
き手 きて の藤田 ふじた は、山本 やまもと が歌手 かしゅ としての明確 めいかく なポリシーを持 も っていることを認 みと め、「私 わたし は山本 やまもと さんのような、どんな考 かんが えであれ自己 じこ の立場 たちば をはっきりと言 い える歌手 かしゅ 、そして、それを取 と り巻 ま く関係 かんけい 者 しゃ ばかりであったなら、『竹田 たけだ の子守 こもり 唄 うた 』はいわゆる『放送 ほうそう 禁止 きんし 歌 か 』にならなかったと思 おも う。」と述 の べている。
中華 ちゅうか 圏 けん における替 か え歌 うた [ 編集 へんしゅう ]
中華 ちゅうか 圏 けん ではこの曲 きょく に、世界 せかい の平和 へいわ を願 ねが う内容 ないよう の歌詞 かし がつけられ『祈祷 きとう 』というタイトルで歌 うた われている[68] 。全 まった く異 こと なる歌詞 かし が付 つ けられているため、元 もと の歌 うた が日本 にっぽん の子守 こもり 唄 うた であることすら知 し られていない[68] 。
ジュディ・オング の父親 ちちおや が、自身 じしん の50歳 さい の誕生 たんじょう 日 び に中国 ちゅうごく 語 ご 詞 し をつけて娘 むすめ に贈 おく ったのが最初 さいしょ で、1975年 ねん に作 つく られたとされる[68] 。後 のち に王 おう 傑 すぐる や卓 たく 依 よ 婷ら台湾 たいわん 人 じん 歌手 かしゅ によってカバーされ、広 ひろ く普及 ふきゅう した[68] 。
録音 ろくおん した歌手 かしゅ 、音楽家 おんがくか [ 編集 へんしゅう ]
1974年 ねん 12月 - 1975年 ねん 1月 がつ には、NHKの『みんなのうた 』でペドロ&カプリシャス によって唄 うた われたこともある(編曲 へんきょく はヘンリー広瀬 ひろせ )[69] 。唄 うた は大幅 おおはば にアレンジされ、2番 ばん の歌詞 かし とコーダ部分 ぶぶん が省略 しょうりゃく された。同 どう 時期 じき 放送 ほうそう の『北風 きたかぜ 小僧 こぞう の寒 さむ 太郎 たろう 』が何 なん 度 ど も再 さい 放送 ほうそう され、また他 た の楽曲 がっきょく [注釈 ちゅうしゃく 11] も再 さい 放送 ほうそう されたが、本 ほん 曲 きょく の再 さい 放送 ほうそう は1981年 ねん 9月 がつ 23日 にち にNHK総合 そうごう テレビ で放送 ほうそう された特別 とくべつ 番組 ばんぐみ 『みんなのうた20年 ねん 』で放送 ほうそう された(4番 ばん 以外 いがい )のみで、定時 ていじ 番組 ばんぐみ での放送 ほうそう は長期 ちょうき にわたって行 おこな われなかったものの、2015年 ねん 10月 がつ - 11月にラジオのみで41年 ねん ぶりに再 さい 放送 ほうそう された。
ライブ、単発 たんぱつ 放送 ほうそう のみの演奏 えんそう や歌唱 かしょう は除 のぞ く
^ 武 たけ 島 しま 良成 よしなり や高橋 たかはし 美智子 みちこ は「子守 こもり 歌 か 」表記 ひょうき を使 つか っているが、本 ほん 項目 こうもく では「子守 こもり 唄 うた 」に統一 とういつ した。
^ 野口 のぐち は後 ご の合唱 がっしょう 団 だん 「はだし」の第 だい 2代 だい 団長 だんちょう となる人物 じんぶつ 。
^ 川部 かわべ や武 たけ 島 とう の表記 ひょうき では「岡本 おかもと フク」だが、ここでは藤田 ふじた の表記 ひょうき に合 あ わせた。
^ 「こぶしかためて」は、1963年 ねん に尾上 おのえ が「はだし」のメンバーと作 つく った歌 うた 。
^ 『THE FIRST & LAST/大塚 おおつか 孝彦 たかひこ とそのグループ』(1967年 ねん 、キングレコード )に収録 しゅうろく 。グループ解散 かいさん 記念 きねん として、ザ・フォーク・クルセダーズ の加藤 かとう 和彦 かずひこ を招 まね いて自主 じしゅ 制作 せいさく された限定 げんてい 300枚 まい のLP盤 ばん 。
^ 「人生 じんせい 」・「JINSEI」の編曲 へんきょく は大野 おおの 雄二 ゆうじ 。
^ シングルB面 めん の「翼 つばさ をください」は、山上 さんじょう 路 ろ 夫 おっと 作詞 さくし 、村井 むらい 邦彦 くにひこ 作曲 さっきょく 。
^ 編集 へんしゅう 者 しゃ 注 ちゅう :「放送 ほうそう 禁止 きんし 歌 か 」は森 もり が使用 しよう した用語 ようご であり指定 してい 制度 せいど ではない。
^ 編集 へんしゅう 者 しゃ 註:掲載 けいさい された楽譜 がくふ の拍子 ひょうし 指定 してい は3/4だが、旋律 せんりつ は2/4拍子 ひょうし で書 か かれており、校正 こうせい ミスかと思 おも われる。3/4拍子 ひょうし ではスコア表示 ひょうじ が困難 こんなん なため、便宜上 べんぎじょう ここでは2/4拍子 ひょうし とした。
^ 川部 かわべ によれば、岡本 おかもと ふくは若 わか い頃 ころ から全国 ぜんこく を転々 てんてん とする生活 せいかつ だったという。
^ 『みんなのマーチ』『鳩笛 はとぶえ 』『なかよしファミリー 』。なお同 どう 時期 じき の『みんなのうた』は、「本 ほん 放送 ほうそう 4曲 きょく ・再 さい 放送 ほうそう 3曲 きょく 」構成 こうせい だったが、この時 とき は特別 とくべつ に「本 ほん 放送 ほうそう 5曲 きょく ・再 さい 放送 ほうそう 2曲 きょく 」だった。
橋本 はしもと 正樹 まさき 『竹田 たけだ の子守 こもり 唄 うた 』1973年 ねん - 後藤 ごとう 悦治 えつじ 郎 ろう の友人 ゆうじん である著者 ちょしゃ が唄 うた の起源 きげん を探 さが した出来事 できごと をまとめたもの。自費 じひ 出版 しゅっぱん 。