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セザール・フランク

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
セザール・フランク
César Franck
基本きほん情報じょうほう
生誕せいたん 1822ねん12月10にち
ネーデルラント連合れんごう王国おうこくリエージュ
死没しぼつ (1890-11-08) 1890ねん11月8にち(67さいぼつ
フランスの旗 フランス共和きょうわこくパリ
職業しょくぎょう 作曲さっきょくオルガニスト

セザール=オーギュスト=ジャン=ギヨーム=ユベール・フランクCésar-Auguste-Jean-Guillaume-Hubert Franck1822ねん12月10にち - 1890ねん11月8にち)は、ベルギー出身しゅっしんフランス活躍かつやくした作曲さっきょくオルガニスト

概略がいりゃく

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ネーデルラント連合れんごう王国おうこくリエージュまれ、このまち1834ねんには最初さいしょのコンサートをひらいている。おとうとのジョゼフ(1825ねん - 1891ねん)とともにおさなくしてピアノの才能さいのうしめし、ちちかれらをリストのようなだいピアニストにすべく英才えいさい教育きょういくおこなった。1834ねんリエージュ王立おうりつ音楽おんがくいん卒業そつぎょうし、1835ねん一家いっかパリ移住いじゅうするとアントニーン・レイハなどにおしえをけた。1837ねんパリ音楽おんがくいん入学にゅうがく作曲さっきょくピアノオルガンなどをまなんだ。

1842ねん退学たいがく帰郷ききょうしたが、1844ねんにはふたたびパリにもどって活動かつどうした。その作曲さっきょく志望しぼうかため、またちち沿わぬ結婚けっこんをしたことなどからちちとは決別けつべつした。リストやショパンにも才能さいのう注目ちゅうもくされたが、ピアノ教師きょうしとして、またその教会きょうかいオルガニストとしてつましい生活せいかつおくった。このあいだ作曲さっきょくとしてはオラトリオなど宗教しゅうきょう音楽おんがく中心ちゅうしんがけている。また、フランス国内こくないひろたびしてオルガン製造せいぞうしゃアリスティド・カヴァイエ=コル設置せっちしたオルガンを紹介しょうかいしてまわった。

1858ねん就任しゅうにんしたサント・クロチルド聖堂せいどうのオルガニストのしょくには、その生涯しょうがいにわたってとどまった。1871ねんにはサン=サーンスフォーレらとともにフランス国民こくみん音楽おんがく協会きょうかい設立せつりつくわわり、1872ねんにパリ音楽おんがくいん教授きょうじゅむかえられた。さい晩年ばんねん1885ねんごろからヴァイオリン・ソナタ イ長調いちょうちょう交響曲こうきょうきょく短調たんちょうなど、現在げんざいよくられる代表だいひょうさく次々つぎつぎ作曲さっきょくし、にわかに注目ちゅうもくされた。かれ弟子でしヴァンサン・ダンディエルネスト・ショーソンガブリエル・ピエルネアンリ・デュパルクギー・ロパルツや、その影響えいきょうけたアルベリク・マニャールらは“フランキスト”とばれ、のちにドビュッシーらの印象いんしょう主義しゅぎ音楽おんがく対抗たいこうすることになる。

生涯しょうがい

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幼少ようしょう学生がくせい (1822ねん–1842ねん

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リエージュにあるフランクの生家せいか

フランクはネーデルラント連合れんごう王国おうこくげんベルギー、1830ねんからワロンけんベルギーとなっていた)のリエージュまれた。元来がんらいドイツけい家系かけいで、ちちのニコラ=ジョゼフ・フランク(Nicolas-Joseph)は銀行ぎんこうでベルギー国境こっきょう付近ふきん出身しゅっしんははのマリー=カテリーヌ=バルブ・フランク(Marie-Catherine-Barbe 旧姓きゅうせいフリンクス Frings)はアーヘン出身しゅっしんであった。セザールはおさなころから絵画かいが音楽おんがく才能さいのうしめしており、ちちのニコラ=ジョゼフは息子むすこフランツ・リストジギスモント・タールベルクのようなわか神童しんどうピアニストけん作曲さっきょくとなって、一家いっかとみ名声めいせいをもたらすことを夢見ゆめみていた[1]ちちによってリエージュ王立おうりつ音楽おんがくいんおくられたフランクはソルフェージュピアノオルガン和声わせいがくジョゼフ・ドーソワーニュ=メユールしたまなんだ。フランクの演奏えんそうかいデビューは1834ねんのことで、建国けんこくあいだもないベルギー王国おうこく国王こくおうレオポルド1せい臨席りんせきしていた[2]

1835ねん息子むすこをよりひろ聴衆ちょうしゅうまえときたと決意けついしたちちニコラ=ジョゼフは、かれおとうとのジョゼフをれてパリへとおもむき、かれらにアントニーン・レイハによる対位法たいいほうの、またピエール・ジメルマンによるピアノの個人こじんてきなレッスンをけさせた。レイハとジメルマンはパリ音楽おんがくいん教授きょうじゅつとめていた。10かげつにレイハがこのると、ニコラ=ジョゼフは2人ふたり息子むすこ音楽おんがくいん入学にゅうがく方策ほうさく模索もさくするようになった。しかしながら音楽おんがくいん国外こくがい学生がくせいれていなかったため、ニコラ=ジョゼフはフランス国籍こくせき取得しゅとくけてうごくことになり、1837ねんには帰化きかみとめられた[3]。このあいだニコラ=ジョゼフはパリで息子むすこらが単独たんどくで、もしくは2人ふたり同時どうじ出演しゅつえんするような演奏えんそうかいやリサイタルを企画きかくした。こうしたかれらはおも当時とうじ流行りゅうこう音楽おんがく演奏えんそうし、おおむね好評こうひょうていた。

1911ねんまで使つかわれていたきゅうパリ音楽おんがくいん校舎こうしゃ

セザールとジョゼフは1837ねん10がつにパリ音楽おんがくいん入学にゅうがくたした。セザールはジメルマンのしたつづきピアノの修行しゅぎょうむと同時どうじに、エメ・ルボルン(Aimé Leborn)に作曲さっきょく師事しじするようになった[4]かれ1838ねん初年度しょねんどわりにピアノの1とうしょう獲得かくとくし、以降いこうたか水準すいじゅん演奏えんそう維持いじしていった。一方いっぽう対位法たいいほう成績せいせきはそこまで目覚めざましいものではなく、1838ねんから1840ねんまで1ねんごとに3とうしょう、2とうしょう、1とうしょう順位じゅんいばしていった。フランクはフランソワ・ブノワのオルガンの指導しどうけるようになり、演奏えんそう即興そっきょう演奏えんそうまなんで1841ねんには2とうしょう獲得かくとくした。その翌年よくねんには作曲さっきょくローマ大賞たいしょうへの出品しゅっぴん目指めざしていたものの、理由りゆう不確ふたしかながら1842ねん4がつ22にち音楽おんがくいんを「自主じしゅ退学たいがくしてしまう[5]

ちちニコラ=ジョゼフがフランクに音楽おんがくいんるようめいじたのではないかとかんがえられる。フランクは学問がくもん習得しゅうとくはげかたわら、ちち要請ようせいにより個人こじんてき音楽おんがく指導しどうおこな演奏えんそうかいもこなしていた。「それはかれにとってはつら日々ひびで(中略ちゅうりゃく気性きしょうあら執念深しゅうねんぶかくさえあったかれちちいにより、毎日まいにちらくになるようなことはなかった(りゃく[6]わかいフランクがときヴァイオリン演奏えんそうするおとうとともなって、自作じさくきょくまじえながら披露ひろうする演奏えんそうかい最初さいしょこそ好意こういてきれられたものの、次第しだいにニコラ=ジョゼフの商業しょうぎょうてき息子むすこかたがパリの音楽おんがく雑誌ざっし批評ひひょう反感はんかんうようになった。フランクのピアニストとしての技量ぎりょうみとめられていたが、この時点じてんでは公正こうせい判断はんだんするならばかれ作曲さっきょくとしての腕前うでまえ未熟みじゅくなものだった。状況じょうきょうは、ニコラ=ジョゼフとRevue et Gazette musicale首席しゅせき評論ひょうろんつとめるアンリ・ブランシャール(Henri Blanchard)のあいだ確執かくしつしょうじたことでさらに悪化あっかした。ブランシャールはニコラ=ジョゼフがひどく気取きどっていることを酷評こくひょうし、うえ息子むすこの「荘厳そうごんな」名前なまえあざけった。こうした敵意てきいは「うたがいなく個人こじんてきなもの[7]」であったが、ニコラ=ジョゼフにベルギー帰国きこく必要ひつようだとおもわせるには十分じゅうぶんだったようで、1842ねんに「有無うむわせぬ命令めいれい[5]」がくだされたフランクは音楽おんがくいんのちにしてちちしたがえがわざるをなかったのである。

教師きょうし、オルガニスト時代じだい (1842ねん–1858ねん

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フランツ・リスト、1843ねん

ベルギーへ帰国きこくしたフランクだったが、祖国そこくには2ねんまらなかった。収入しゅうにゅうげんとなるような演奏えんそうかいひらくことは出来できず、批評ひひょうたち関心かんしん軽蔑けいべつてきかのいずれかであり、ベルギーの宮廷きゅうていからの援助えんじょられそうになかった(もっとも、国王こくおうのちになってフランクにゴールドメダルを授与じゅよすることになる)[8]資金しきんじゅつはなかったのである。ニコラ=ジョゼフにかんするかぎりは、帰郷ききょう失敗しっぱいわったため息子むすこをパリでの音楽おんがく指導しどう家庭かてい演奏えんそうかい生活せいかつもどそうとしていた。この演奏えんそうかいについてローレンス・デイヴィス(Laurence Davies)は、過酷かこく実入みいりのすくないものだったとしている[9]。しかし、ながるとわかきフランクにとってこの経験けいけん有益ゆうえき側面そくめんわせていた。なぜならこの時期じきにパリへもどれたことで、かれ音楽おんがくいん復学ふくがくして最後さいごすうねんおよびその時間じかんごすことが出来できたからである。また、かれ最初さいしょ成熟せいじゅくした楽曲がっきょくとなるピアノさん重奏じゅうそうきょくしゅう完成かんせいしたことにもこの期間きかん役割やくわりおおきい。これらの作品さくひんはフランク自身じしんはじめて自作じさくみとたものであり、作品さくひんたリストは激励げきれい建設けんせつてき批判ひはんあたえたうえみずからもすうねんヴァイマル演奏えんそうしている[10]1843ねん、フランクは室内楽しつないがく作品さくひん以外いがいでははつ挑戦ちょうせんとなるオラトリオ『ルツ』の作曲さっきょくかった。この作品さくひんはリスト、マイアベーアをはじめ有名ゆうめい音楽家おんがくかまねいて1845ねん私的してき初演しょえんされ、ほどほどの賛辞さんじ前向まえむきな提案ていあん[11]。しかしながら、1846ねん初頭しょとうおこなわれた公開こうかい初演しょえんにおいては聴衆ちょうしゅう関心かんしんしめさず、オラトリオの芸術げいじゅつせい欠落けつらく単純たんじゅんさにはつめたい批判ひはんびせられた[12]。この作品さくひんつぎ上演じょうえんされたのは1872ねんだい改訂かいていくわえたのちのことであった。

これにともない、フランクはおおやけ活動かつどうからは実質じっしつてきき、教師きょうし伴奏ばんそうしゃとしてたらない生活せいかつをするようになった。かれちちもしぶしぶこれをみとめた。フランクはパリとオルレアン両方りょうほうで、こうした仕事しごと歌曲かきょく小規模しょうきぼ作品さくひん作曲さっきょく依頼いらいけていた。かれもとには1848ねんだい共和きょうわせい成立せいりつしゅくし、これを強固きょうこにするような作品さくひん依頼いらいんでおり、そうした作品さくひんには聴衆ちょうしゅう関心かんしんしめすようなものもあったが、ルイ・ナポレオンしただい帝政ていせいげられたことで演奏えんそう機会きかいうしなってしまった。1851ねんにはオペラ『頑固がんこ召使めしつかい』にんだものの、リブレットは「最低さいてい文学ぶんがくてき出来でき[13]」であり、きょくあわててきつけられたようなものだった。フランク自身じしん終生しゅうせい印刷いんさつする価値かちのないものだった[14]。」とつづけることになる。しかし、がいしていえばこうした隠遁いんとん生活せいかつはそれまで脚光きゃっこうつづけてきたフランクには休息きゅうそくとなったとかんがえられる。「フランクはかみ思召おぼしめしにしたがい、いまだまったくのやみなかにいた[15]。」そして、この期間きかんしょうじた2つのおおきな変化へんかが、かれのその人生じんせい形作かたちづくることになっていく。

まず1てんは、フランクが両親りょうしんとほぼ完全かんぜんえんってしまったことである。直接ちょくせつ原因げんいんとなったのは、かれがピアノのおしであったウジェニー=フェリシテ=カロリーヌ・セイヨ(Eugénie-Félicité-Caroline Saillot; 1824ねん-1918ねん)と親密しんみつとなり恋人こいびと関係かんけいとなったことであった。彼女かのじょ両親りょうしんはデムソー(Desmousseaux)という芸名げいめい活動かつどうするコメディ・フランセーズ会社かいしゃ一員いちいんであった。フランクは彼女かのじょ音楽おんがくいん時代じだいからのいであり、わかいフランクにとってフェリシテ・デムソーの家庭かてい威圧いあつてきちちからの避難ひなんしょのような存在そんざいとなっていた。1846ねんにニコラ=ジョゼフは息子むすこ書類しょるいなかから「よろこばしい記憶きおくなかのF.デムソーじょう」への献辞けんじされた楽曲がっきょく発見はっけんし、本人ほんにんまえでそれをやぶてたこともあった。フランクはそのままデムソーへとかい、記憶きおくたよりにきょくこして献辞けんじともにフェリシテへとおくった。ニコラ=ジョゼフとの関係かんけいは、かれ息子むすこ婚約こんやく結婚けっこん意志いし一切いっさいみとめようとしなかったことでさらに悪化あっかした[ちゅう 1]。ニコラ=ジョゼフはさらにはは苦痛くつうおとしいれたとしてフランクを非難ひなん[ちゅう 2]、フランクのいかなる縁談えんだん夫婦ふうふあいだ毒殺どくさつ事件じけんという醜聞しゅうぶんつながるにちがいないと怒鳴どなりつけたのである[16]。7がつのある日曜日にちようび、フランクはてるものだけをって両親りょうしんいえのちにすると、そのままあるいてデムソーかってうつんだ。デムソー歓迎かんげいけたかれ二度にど実家じっかにはもどらなかった。このとき以来いらいわかいフランクは名乗なのさい書類しょるい作品さくひんへの署名しょめいを「César Franck」もしくはたんに「C. Franck」とするようになった。「これはかれちちときっぱり決別けつべつし、かつ周囲しゅういにそれをらせようとする意志いしあらわれであった。(中略ちゅうりゃくかれもと自分じぶんとは出来できるだけちがった、あたらしい人間にんげんになろうと決意けついしたのである[17]。」

カヴァイエ=コル、1855ねんごろ

フェリシテの両親りょうしん注意深ちゅういぶかくも友好ゆうこうてき眼差まなざしのなか、フランクは彼女かのじょ求婚きゅうこんつづけた。1847ねんかれが25さいとなるやいなや、かれちちにフェリシテとの結婚けっこん意志いしつたえ、実際じっさいがつ革命かくめい勃発ぼっぱつしたのと同月どうげつ1848ねん2がつ22にち念願ねんがん成就じょうじゅさせた。教会きょうかいにたどりくまでに一向いっこう革命かくめいぐんきずいたバリケードをえなければならなかったが、ダンディつたえるところでは「この仮設かせつ要塞ようさい後方こうほうあつまっていた大勢おおぜい蜂起ほうきみんすすんで手助てだすけをした[18]。」結婚けっこんにあたってはフランクの両親りょうしん和解わかいうえ式典しきてん出席しゅっせきするとともに登記とうき簿への署名しょめいおこなった。このときのノートル=ダム=ド=ロレット教会きょうかい(Notre-Dame-de-Lorette)がフランクの教区きょうく教会きょうかいとなった。

2てん上記じょうきのように、ノートル=ダム=ド=ロレット教会きょうかいがフランクの教区きょうく教会きょうかいとなったことであった。1847ねんにこの教会きょうかいオルガニスト補佐ほさとなったフランクであったが、これを契機けいきとして次々つぎつぎとより重要じゅうよう影響えいきょうりょくたかいオルガニストのしょく歴任れきにんしていくことになる。フランクは音楽おんがくいん時代じだいにピアニストとして異彩いさいはなったのとおなじようにオルガニストとしてかがやきをせたわけではなかったが、かれはオルガニストのしょく嘱望しょくぼうしており、そこには安定あんていした収入しゅうにゅうのぞめるという理由りゆうすくなからずあった。こうしてかれ人々ひとびと礼拝れいはい必要ひつよう技術ぎじゅつまなぶというかたちローマ・カトリックへと帰依きえする機会きかいて、ときおり上司じょうしにあたるアルフォンス・ギルバ(Alphonse Gilbat)の代役だいやくをこなすこともあった。この教会きょうかいにおけるフランクのはたらきが、1851ねんあたらしく建立こんりゅうされたサン=ジャン=サン=フランソワゾー=マレ教会きょうかい(Saint-Jean-Saint-François-au-Marais)に牧師ぼくしcuré)としてうつってきたダンセル牧師ぼくし(Abbé Dancel)のとどまった。2ねん牧師ぼくしはフランクを「titulaire」の地位ちい、すなわちだい1オルガニストへとさそう。フランクのあたらしい教会きょうかいにはアリスティド・カヴァイエ=コル設置せっちしたすぐれた新式しんしきのオルガン(1846ねんせい)がそなえられていた。カヴァイエ=コルは芸術げいじゅつせいめぐまれ、機能きのうてきには革新かくしんてきだいオルガンの制作せいさくせていた。フランクは「わたしあたらしいオルガンはまるでオーケストラのようだ![19]」とべていた。フランクの即興そっきょう演奏えんそう能力のうりょく非常ひじょう必要ひつようとされるようになっていた。というのも、当時とうじ礼拝れいはい慣習かんしゅうにおいてはミサや礼拝れいはいうたわれるたん旋律せんりつ聖歌せいか伴奏ばんそうおこなったうえで、そこから楽想がくそう派生はせいさせて聖歌せいかたいによる歌唱かしょう神父しんぷ説教せっきょうとのあいだつながねばならなかったからである。さらにフランクの演奏えんそう能力のうりょくとカヴァイエ=コルの楽器がっきへの愛情あいじょうわさったことで、かれはカヴァイエ=コルと協力きょうりょく関係かんけいむすぶことになる。フランクはフランスちゅうたずねてまわってふる楽器がっきてるとともに、あたらしい楽器がっき除幕じょまくしき演奏えんそうする役割やくわりになった。

ノートル=ダム=ド=ロレット教会きょうかいのオルガン

おなじくして、フランスにおけるオルガン演奏えんそうには革命かくめいこっていた。バッハの伝記でんき作家さっかとしてられるヨハン・ニコラウス・フォルケル[20]門下もんかでドイツのオルガニストであるアドルフ・フリードリヒ・ヘッセは、1844ねんのパリにおいて、バッハ作品さくひん演奏えんそう可能かのうとなるようなあし鍵盤けんばん技巧ぎこうとドイツしきあし鍵盤けんばん披露ひろうした。これはフランクがブノワから音楽おんがくいんまなんだ奏法そうほう範疇はんちゅうからはまったはずれたものだった。大抵たいていのフランスのオルガンにはそうした作品さくひんもちいられているあし鍵盤けんばんおとがなく、クープラン時代じだいからつづくフランスの由緒ゆいしょある古典こてんてきなオルガンの伝統でんとうも、その当時とうじ即興そっきょう演奏えんそう重視じゅうしするあまりないがしろにされていたのである。ヘッセの演奏えんそうもまばゆい超絶ちょうぜつ技巧ぎこうによって一過いっかせいさわぎになったにぎないとおもわれる。つづいて1852ねんから1854ねんにかけては、当時とうじブリュッセル王立おうりつ音楽おんがくいんのオルガン教授きょうじゅつとめていたジャック=ニコラ・レメンスがパリをおとずれた。レメンスは技巧ぎこうてきなバッハ演奏えんそうであるにとどまらず、すべてのオルガニストが正確せいかくに、おとにごらせず、レガートのフレージングをもって演奏えんそうできるようになるオルガン指導しどうほう開発かいはつした人物じんぶつだった。フランクは1854ねんにレメンスが出演しゅつえんしたのとおな就任しゅうにん記念きねん演奏えんそうかい出席しゅっせきしており[21]、レメンスの古典こてんてきなバッハの解釈かいしゃくたか評価ひょうかするのみならず、その素早すばやくかつ均質きんしつあし鍵盤けんばんさばきにも称賛しょうさんしまなかった。ヴァラ(Vallas)によればオルガニストになるまえにピアニストであったフランクは「生涯しょうがい自分じぶん自身じしんでレガートの様式ようしき確立かくりつするにはいたらなかった[22]」ものの、そのような技術ぎじゅつれることでオルガン演奏えんそうはばひろげることが出来できるということは認識にんしきしており、技術ぎじゅつ習得しゅうとくけたみを開始かいししていたという[23]

サン=クロチルド教会きょうかいせいオルガニスト (1858ねん–1872ねん

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サント・クロチルド聖堂せいどうのオルガン

フランクはかれの3つかつ最後さいごとなるオルガニストしょく刺激しげきされ、活気かっきづいていた。1858ねん1がつ22にちかれ奉献ほうけんあいだもないサント・クロチルド聖堂せいどうのメートル・ド・シャペル(maître de chapelle)のオルガニストに就任しゅうにんした。このしょくかれがその生涯しょうがいにわたってまるものである。7かげつ、この教会きょうかい新設しんせつされたカヴァイエ=コルのオルガンは3だん鍵盤けんばんそなえるもので[24]、フランクがこの楽器がっきせい奏者そうしゃになるとともにテオドール・デュボワ合唱がっしょう指揮しきしゃふくオルガニストをつとめることになった。このオルガンがフランクの演奏えんそう作曲さっきょくあたえた影響えいきょう最初さいしょのピアニストとしての経験けいけん同様どうように、かれのその作曲さっきょく活動かつどうかんがえるにあたって無視むしすることはできない。ノルベール・デュフォルク(Norbert Dufourcq)はこの楽器がっきについて「うたがいなく制作せいさくしゃのこの時期じきまでの傑作けっさくとして位置付いちづけられる」としるしている[25]。フランク自身じしんはサント・クロチルド教会きょうかい司祭しさいにこうべている。「わたしがどれほどこの楽器がっきあいしているのか、あなたがご存知ぞんちだったなら(中略ちゅうりゃくゆびしたでのしなやかさ、そしてわたしおもいに従順じゅうじゅんなことといったら![26]」フランク自身じしんも30かぎあし鍵盤けんばんつこのオルガンの性能せいのうけじとプレイエルしゃから購入こうにゅうした練習れんしゅうようあし鍵盤けんばん自宅じたくき、教会きょうかいのオルガンのまえなんあいだごすのにくわえてあし鍵盤けんばん技術ぎじゅつ向上こうじょういそしんだ。このオルガンがひびきのうつくしさとそそがれたすぐれた技術ぎじゅつにより、かれ即興そっきょう演奏えんそうとして、またオルガンはもちろんのジャンルの作曲さっきょくとしても名声めいせいるようになっていった。オルガンきょく声楽せいがくきょく、そしてハーモニウムきょく順繰じゅんぐりに作曲さっきょくされるようになり、そうしたなかまれた楽曲がっきょくでは『3こえのミサきょく』(1859ねん)がもっともよくられる。この作品さくひんなんねんもかけて作曲さっきょくされたために楽章がくしょうあいだ出来でき不揃ふぞろいであるが、ここからフランクの作品さくひんちゅうでももっとながあいされるきょくの1つである『天使てんしかて』がまれている。これ以上いじょう注目ちゅうもくされるのが、1860ねんから1862ねんにかけてかれた[ちゅう 3]オルガンのための『6きょくしゅう』である。このきょくしゅう今日きょうでも演奏えんそう機会きかいおおいオルガンであり、ローリン・スミス(Rollin Smith)によれば100ねん以上いじょうにわたるフランスのオルガン芸術げいじゅつにおけるはじめての傑作けっさく、そして「メンデルスゾーン以降いこうかれたもっと重要じゅうようなオルガン音楽おんがく」である[27]。フランクはかくきょくサン=サーンスなどの同僚どうりょうのピアニストやオルガニスト、であるブノワ、そしてカヴァイエ=コルに献呈けんていしている。きょく集中しゅうちゅうの『前奏ぜんそうきょく、フーガと変奏曲へんそうきょく』Op.18と『交響こうきょうてき大曲おおまがり』Op.17はフランクのオルガン作品さくひんなかでももっともよくられるものである。

オルガンを演奏えんそうするフランク

オルガニスト、即興そっきょう演奏えんそうとしての名声めいせいたかまるにつれ、フランクはますますカヴァイエ=コルが新設しんせつまたは改修かいしゅうしたオルガンの除幕じょまくしき奉献ほうけんしきでの演奏えんそうまかされるようになっていった。かれルイ・ルフェビュール=ヴェリーがオルガニストとなったサン=シュルピス教会きょうかいあたらしいオルガン(1862ねん)をはじめ、以降いこうノートル=ダム教会きょうかいサンテチエンヌ・デュ・モン聖堂せいどう英語えいごばんサントトリニテ教会きょうかいなどで演奏えんそうした。これらの楽器がっきなかにはかれ単独たんどく、もしくはサン=サーンスととも助言じょげんおこなったものもある。フランクが担当たんとうするサント・クロチルド聖堂せいどうでは、かれ即興そっきょう演奏えんそうくために人々ひとびとがミサや礼拝れいはいおとずはじめていた。さらに、フランクは自作じさく作曲さっきょく作品さくひんげて聖堂せいどうでのオルガン演奏えんそうかい開催かいさいするようになっていた。そうしたなかでおそらくもっとられる演奏えんそうかい1866ねん4がつリスト出席しゅっせきした日曜にちようミサだろう。聖歌せいかたいせきこしかけてフランクの即興そっきょう演奏えんそういたリストはこうべた。「あのときのピアノさん重奏じゅうそうきょくしゅういた人物じんぶつのことを、これまでにわたしわすれてしまうことなどありるだろうか。」これにたいしてフランクはこう不平ふへいをもらしたのではないかとおもわれる。「あれ以降いこう、もっといい仕事しごとをしてきたとおもうのだが[28]。」そのひとがつにリストはサント・クロチルド聖堂せいどうにおいてフランクのオルガン作品さくひん紹介しょうかいする演奏えんそうかい企画きかくし、聴衆ちょうしゅうから好評こうひょうるとともに音楽おんがく雑誌ざっしにも好意こういてきほうじられた。フランクはリストだけでなく、活動かつどう主軸しゅじくをドイツにハンス・フォン・ビューロー演奏えんそうけることをよろこんだ。また、フランクは1869ねんにノートル=ダム聖堂せいどうアントン・ブルックナー演奏えんそうみみにし、ドイツのオルガン音楽おんがくとそれらをいかに演奏えんそうすべきかというてんについて理解りかいふかめている。かれ定期ていきてき門下生もんかせいあつまりをもよおすようになり、オルガンには建前たてまえからかかわっていたにぎなかった弟子でしたちもフランクの作曲さっきょく技法ぎほう関心かんしんしめすようになっていった。

フランクはこの時期じきにも合唱がっしょうもちいた作品さくひん作曲さっきょくつづけたが、大半たいはん出版しゅっぱんされないままとなった。当時とうじ音楽おんがくいん修了しゅうりょうした音楽家おんがくかでもみながそうであったように、フランクは過去かここえ音楽おんがくくわしくなかった。フランクは礼拝れいはい音楽おんがくをその当時とうじ様式ようしき沿って作曲さっきょくし、デイヴィスはこれを「宗教しゅうきょうてきかたよりを世俗せぞく音楽おんがく」と表現ひょうげんした[29]。そうした状況じょうきょうではあったがフランクは1869ねんから主要しゅよう合唱がっしょう作品さくひんとなるオラトリオ至福しふく』の作曲さっきょくにとりかかり、ひろしふつ戦争せんそう勃発ぼっぱつによる中断ちゅうだんとうて10ねんあまりをかけて完成かんせいさせた。1848ねん革命かくめいさい同様どうように、この戦争せんそうによってかれ弟子でしおおくがパリをはなれ、もしくは戦闘せんとう落命らくめいするか障害しょうがいうなどしてかれもとからっていった。かれふたた愛国あいこくてき楽曲がっきょくをいくつか作曲さっきょくしたが、当時とうじ時代じだいきびしい状況じょうきょうしたでは演奏えんそうされることはなかった。収入しゅうにゅう減少げんしょうするとともに食料しょくりょうひん燃料ねんりょう価格かかく高騰こうとうし、フランクとその一家いっか経済けいざいてき苦境くきょうおちいった。音楽おんがくいん1870ねんから1871ねん年度ねんど開校かいこうしなかった[30]。こうしたなか、フランスの音楽家おんがくかあいだにはみずからの音楽おんがくたいする認識にんしき変化へんかしょうじていた。とりわけ戦後せんごからは確固かっこたるフランスの音楽おんがくとして「ガリアの芸術げいじゅつ Ars Gallica[31]」をもとめるようになったのである。この言葉ことばあらたに結成けっせいされた国民こくみん音楽おんがく協会きょうかい標語ひょうごとしてかかげられた。フランクは協会きょうかいさい古参こさん会員かいいんとなり、1871ねん11月にひらかれた最初さいしょ演奏えんそうかいのプログラムにはフランク作品さくひんげられた。

「ペール・フランク」 音楽おんがくいん教授きょうじゅ作曲さっきょく (1872ねん–1888ねん

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有力ゆうりょくなフランクの門弟もんていだったヴァンサン・ダンディ

フランクの名声めいせいいま演奏えんそうとして、国民こくみん音楽おんがく協会きょうかい会員かいいんとして、そしてすくないながらも忠実ちゅうじつ弟子でしたちの存在そんざいによってひろわたっていた。1872ねん授業じゅぎょう再開さいかいしたパリ音楽おんがくいんでブノワがオルガン教授きょうじゅから退官たいかんすると、フランクが後任こうにんとしてされることになる。だれ推薦人すいせんにんであったのかについては不確ふたしかなてんがある。サン=サーンスとテオドール・デュボワはそれぞれことなる時期じきみずからの関与かんよみとめており、それはカヴァイエ=コルも同様どうようである[32]確実かくじつなのはフランクの名前なまえ候補者こうほしゃ一覧いちらん一番いちばんじょう記載きさいされていたということ、そしてこの推薦すいせんによってフランクが任用にんよう必要ひつようなフランス国籍こくせきゆうしていないことがおおやけになってしまったという、きまりのわる事実じじつであった。フランクのちちのニコラ=ジョゼフは息子むすこ音楽おんがくいん入学にゅうがくさせるべくフランスへと帰化きかさせていたが、これはフランス政府せいふ成人せいじんとして忠誠ちゅうせい宣言せんげんしなければならない21さいまでの期限きげんきだったということをフランクはらなかったのである。フランク自身じしんちちによる国籍こくせき変更へんこう手続てつづ以後いご、ずっと自分じぶんがフランス国民こくみんであるとかんがえていたにもかかわらず、実際じっさいらぬあいだもと国籍こくせきであるベルギーへともどされて人生じんせい大半たいはんごしていた。すぐさまフランクは再度さいど帰化きか申請しんせい手続てつづきにはいり、1872ねん2がつ1にち予定よていされていた任用にんよう1873ねんへと変更へんこうになった。

フランクのしたたかった弟子でしおおくは音楽おんがくいんまなんでいたものか、在籍ざいせきちゅう学生がくせいであった。なかでもヴァンサン・ダンディエルネスト・ショーソンルイ・ヴィエルヌアンリ・デュパルクらはとりわけ有名ゆうめいである。この集団しゅうだん徐々じょじょ師弟していあいだあいつうずる尊敬そんけい愛情あいじょうによってかたむすばれるようになっていった。ダンディはこれをあらたな門弟もんてい個々ここに、しかしだれもがのことを「ペール・フランク Père Franck」すなわち「ちちフランク」とぶようになったことと関連付かんれんづけている[33]一方いっぽう、フランクは教員きょういん生活せいかつにおいて緊張きんちょういられる場面ばめん経験けいけんしていた。かれはオルガンによる演奏えんそう即興そっきょう技術ぎじゅつ同等どうとう作曲さっきょく指導しどうおこな傾向けいこうがあった。また、音楽おんがくいん認可にんかした公式こうしき教科書きょうかしょ参考さんこうしょ軽視けいしする姿勢しせいにより、かれ指導しどう方法ほうほう合理ごうりてきでないとみなされていた[ちゅう 4]。さらにかれ一部いちぶ学生がくせいからの人気にんき嫉妬しっとかんじる教員きょういんあらわれ、ローマ大賞たいしょうなど各種かくしゅしょう選考せんこうにおいてフランクのおしはそうした教授きょうじゅじんから偏見へんけんじりの審査しんさけることもあった[35]。ヴァラはフランクが「かれしんじる単純たんじゅん本質ほんしつ理解りかいされなかった(中略ちゅうりゃくかれ自身じしんつね親切しんせつ雰囲気ふんいきけられているとかんじていた音楽おんがくいんなかでさえ、かれはいかほどの不快ふかいるい指摘してきけたことだろうか。」としるしている[36]

フランクが1865ねんからんだいえかかげられためいばん

フランクの立場たちば長年ながねんあたためていた楽曲がっきょく構想こうそう楽譜がくふこせるようなものとなっていた。かれは『至福しふく』の作曲さっきょく中断ちゅうだんしてオラトリオ『贖罪しょくざい』(1871ねん作曲さっきょく、1874ねん改訂かいてい)、交響こうきょうアイオリスの人々ひとびと』(1876ねん)、オルガンのための『3つの小品しょうひん』(1878ねん)、『ピアノ重奏じゅうそうきょく』(1879ねん)などやおおくの小規模しょうきぼ作品さくひんんだ。『至福しふく』は最終さいしゅうてき1879ねん初演しょえんむかえることとなったが、これはフランクのほかおおくの合唱がっしょうきょく管弦楽かんげんがくきょく場合ばあいおなじく成功せいこうしなかった。作品さくひん全体ぜんたいとしてではなく細分さいぶんされたうえでの抜粋ばっすいだったうえ適当てきとうなオーケストラがなかったためにピアノ伴奏ばんそう演奏えんそうされた。さらにダンディでさえ指摘してきしているのは、フランクがゴスペルの至福しふくなか表現ひょうげんされる美徳びとく対比たいひされる罪悪ざいあくを、音楽おんがくてき表現ひょうげん出来できていなかったらしいということである。「この《理想りそう罪悪ざいあく》(もしこのような表現ひょうげん可能かのうであればのはなしであるが)の擬人ぎじんはフランクの本性ほんしょうとあまりにかけはなれており、かれはそうしたものを適切てきせつ表現ひょうげんすることができなかった[37]。」その結果けっかしょうじたヴァラがべるところの「単調たんちょう印象いんしょう」は[38]、フランクの忠実ちゅうじつ門下生もんかせいにすら『至福しふく』のひとつの作品さくひんとしての存続そんぞく可能かのうせいについて推測すいそくさせるにおよんだ。

1880年代ねんだいになり、フランクはづくと様式ようしきてき主張しゅちょうことなる2ぐん板挟いたばさみとなっていた。一方いっぽう最初さいしょしたしんだスタイルからの変化へんかこのまなかったつまのフェリシテであり、他方たほうはおそらくかれ影響えいきょうあたえるのとおなじようにかれ自身じしんにもおどろくべき影響えいきょうあたえていた弟子でしたちである。ダンディのつぎのような言葉ことば引用いんようされている。「(フランクは)どの調ちょう性的せいてき関係かんけい選択せんたくするのか、展開てんかいをどう進行しんこうさせるべきかかんがえあぐねたさい、いつも弟子でしたちに相談そうだんしてかれらと疑問ぎもんてん共有きょうゆうし、かれらの意見いけんくことをこのんだ[39]。」その一方いっぽう、フランクの弟子でしのひとりはフランク夫人ふじんつぎのように(一部いちぶてきた)発言はつげんをしたと物語ものがたっている。「かれけられる敵意てきいんでいるのは全部ぜんぶあなたたち弟子でしなのよ[40]。」くわえて、サン=サーンスとフランクおよびその一派いっぱとのりがわなくなってきており、国民こくみん音楽おんがく協会きょうかいにおいてもいくらか軋轢あつれきしょうじていた。

これらのいざこざがフランクのしんをどれだけ疲弊ひへいさせたのか、たしかなことはわからない。しかし、かれのより「卓越たくえつした」楽曲がっきょくがこうした時期じきされたことはたしかである。交響こうきょうの『のろわれた狩人かりゅうど』(1882ねん)と『鬼神きじん(ジン)』(1883ねん-1884ねん)、ピアノのための『前奏ぜんそうきょく、コラールとフーガ』(1884ねん)と『交響こうきょうてき変奏曲へんそうきょく』(1885ねん)、そしてオペラ『ユルダ』(1886ねん)である。これらの作品さくひんおおくはすくなくともフランクの生前せいぜんおこなわれた初演しょえんには、みの成功せいこうとなるかかといった程度ていどであった。しかし、1879ねんの『ピアノ重奏じゅうそうきょく』は注目ちゅうもくあつめるとともに思考しこう喚起かんきする作品さくひんであるとされた。批評ひひょうはこの作品さくひんには「不穏ふおん生気せいき」が宿やどり、「劇場げきじょうてきといってよいほど不気味ぶきみさ」をたたえているとひょうした[41]。ただし、サン=サーンスはこの作品さくひんとく嫌悪けんおしていた。

ヴァイオリンソナタ』の献呈けんていけたウジェーヌ・イザイ

1886ねんの『ヴァイオリンソナタ』は、ベルギーのヴァイオリニストであるウジェーヌ・イザイ結婚けっこんいわいとして作曲さっきょくされたものだった。この作品さくひん成功せいこうとどろきわたることになる。イザイはこれをブリュッセル、パリで演奏えんそうし、さらに演奏えんそう旅行りょこうんでしばしばおとうとテオ・イザイのピアノ伴奏ばんそう演奏えんそうした。かれがこの作品さくひん最後さいご演奏えんそうしたのは1926ねんのパリで、イヴ・ナット伴奏ばんそうった[42]20世紀せいきなかばにヴァラはこのソナタについてつぎのようにしるしている。「すくなくともフランスではフランクのもっと人気にんき作品さくひんとなり、室内楽しつないがくきょくのレパートリー全体ぜんたいからてももっと一般いっぱんてき受容じゅようされる楽曲がっきょくである[43]。」

フランクへの評価ひょうかがはっきりさだまらなかったことは、フランク一派いっぱおそすぎるとかんがえたフランクの受章じゅしょうにもあらわれているかもしれない。1885ねん8がつ4にち、フランクはフランスのレジオン・ドヌール勲章くんしょうのシェヴァリエにじょされた。かれ支持しじしゃらはいきどおった。ダンディはこうしるしている。「この勲章くんしょう音楽家おんがくか、フランスの芸術げいじゅつ名誉めいよをもたらすすぐれた作品さくひん作曲さっきょくしゃあたえられたとかんがえることは間違まちがっているのか。すこしもそんなことはない![44]表彰ひょうしょうが、たんに10ねん以上いじょうつとめた「オルガンの教授きょうじゅ」へとなされたものだったからである。ヴァラは「世論せろんはこのてんについておなじようなあやまちをおかすまい」とつづけて、普段ふだんはフランクに批判ひはんてきだった雑誌ざっし記述きじゅつ引用いんようした。それはこの表彰ひょうしょうが「すこおそきにしっしたのだとしても、『贖罪しょくざい』や『至福しふく』をいた傑出けっしゅつした作曲さっきょくたいして正当せいとうにもたらされた敬意けいいのしるし」だというものだった[45]

フランクが1886ねんから1888ねんギリシャ神話しんわもとがけた交響こうきょうプシシェ』を発表はっぴょうすると、フランクの家庭かていきの弟子でしたちのあいだ衝突しょうとつあらたな局面きょくめん突入とつにゅうした。本人ほんにんのあずかりらぬ場所ばしょでもひろげられたいさかいの内容ないよう音楽おんがくだけにまらず、題材だいざい哲学てつがくてき宗教しゅうきょうてき側面そくめんにまでおよんだ[ちゅう 5]。この作品さくひんがあまりに官能かんのうてきであるとかんがえたフランクのつま息子むすこかれにより広範こうはんな、もっと大衆たいしゅうへの訴求そきゅうりょくつ、そして「全体ぜんたいとしてより商業しょうぎょうてきな」音楽おんがく専念せんねんするよう希望きぼうした[46]一方いっぽうのダンディはこの楽曲がっきょく神話しんわてき重要じゅうようせいれ、こうべている。「多神教たしんきょう精神せいしんなにわせていないが(中略ちゅうりゃく)それどころか、キリスト教徒きりすときょうと恩寵おんちょう感受性かんじゅせいまれている(りゃく[47]」このダンディの解釈かいしゃくのちになって「日曜にちよう教室きょうしつ新任しんにん教師きょうし悪童あくどうみやびおしえるように突然とつぜん指示しじされた場合ばあいかんじるような、あるしゅ当惑とうわくであった。」と解説かいせつされている[48]

フランク唯一ゆいいつ交響曲こうきょうきょくとなる『交響曲こうきょうきょく短調たんちょう』が出版しゅっぱんされると、議論ぎろんはますますいきおいをした。きょく評判ひょうばんかんばしくなかった。音楽おんがくいんのオーケストラは協力きょうりょくてき[49]聴衆ちょうしゅう冷淡れいたん批評ひひょう態度たいどめられず[ちゅう 6]仲間なかま作曲さっきょくおおくは「全体ぜんたい形式けいしきをはじめ細部さいぶにおいても[ちゅう 7]形式けいしき主義しゅぎしゃ規則きそく厳格げんかく玄人くろうとおよ素人しろうと慣習かんしゅう破壊はかいした。」としてみだした[50]。フランク自身じしん弟子でしのルイ・ド・スーレ(-Serres)にこのきょくにはもととなる私的してき着想ちゃくそうがあったのかとわれ「いや、ただの音楽おんがくだ。純粋じゅんすい音楽おんがく以外いがいにはなにもない。」とこたえている[51]。ヴァラによれば交響こうきょうきょくもちいられた様式ようしき技法ぎほういものもそうでないものもみな、フランクの思考しこう芸術げいじゅつ人生じんせい中心ちゅうしんめたオルガンにすることが出来できるという。また、かれはフランクがこの経験けいけんからまなんだとも指摘してきしている。「かれ弟子でしたちにかって、そのとき以降いこうおなじような作品さくひんは2くまいとべた[52]。」

晩年ばんねん (1888ねん-1890ねん

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オーギュスト・ロダンによる胸像きょうぞう設置せっちされたフランクのはか

1888ねん、フランクはつぎなるオペラ『ジゼル』にかった。しかし、この作品さくひん作曲さっきょくというにいたらぬ草稿そうこう段階だんかいまででわり、完成かんせいされることはなかった。対照たいしょうてきだい規模きぼな『弦楽げんがくよん重奏じゅうそうきょく』は完成かんせいされ、1890ねん4がつ初演しょえん聴衆ちょうしゅう評論ひょうろんから好評こうひょうをもってむかえられた。これ以外いがいにもおな時期じきには、フランクはパリおよ近隣きんりん都市としでコンサートピアニストとして活動かつどうし、2ねんまえには『プシシェ』の再演さいえん熱狂ねっきょうてきわっており、さらに弟子でしたちによるすうおおくの演奏えんそうによってフランクは成功せいこうにしていた。くわえて、かれはサント・クロチルド聖堂せいどう定例ていれいおおきな日曜にちよう集会しゅうかいには即興そっきょう演奏えんそう披露ひろうつづけていた。かれはオルガンのためのおおきな作品さくひん、またチェロソナタの構想こうそうあたためていた可能かのうせいがある。

1890ねん7がつ[ちゅう 8][53]、フランクが乗車じょうしゃしていたつじ馬車ばしゃうまきの列車れっしゃ衝突しょうとつ事故じここす。あたま損傷そんしょうけたかれ一時いちじ意識いしき喪失そうしつした。ただちに後遺症こういしょうられなかったためかれはそのまま移動いどう再開さいかいし、本人ほんにん事故じこ重要じゅうようしなかった。しかしながら次第しだい歩行ほこう苦痛くつうになりはじめ、くとかれ演奏えんそうかいやリハーサルをやすこと余儀よぎなくされ、つづいて音楽おんがくいんでの講義こうぎ断念だんねんせざるをなくなった。できるだけいそいで休暇きゅうかってヌムールおもむいたかれは、同地どうち約束やくそくしていたオルガン作品さくひんハーモニウムのための委嘱いしょく作品さくひんけることをねがった。休暇きゅうかちゅうかれりょうプロジェクトに着手ちゃくしゅすることができた。

ハーモニウムの作品さくひんしゅうよりもはやく、オルガン作品さくひんが1890ねんの8がつと9がつげられた。この作品さくひんはオルガン音楽おんがくにおける珠玉しゅぎょく逸品いっぴんである『3つのコラール』であり、今日きょうでも頻繁ひんぱん演奏えんそうされている。ヴァラはこの作品さくひんについてつぎのようにべている。「そのうつくしさと重要じゅうようさは、このきょくしゅう音楽おんがくによる遺書いしょもしくは遺言ゆいごんかんがえてまったくつかえないほどである[54]。」ヴァラよりも時代じだい伝記でんき作家さっか同様どうよう表現ひょうげんもちいている。「全体ぜんたいとおしてフランクの意識いしきおおきなわかれの言葉ことばとなっているのはあきらかである(中略ちゅうりゃく)『コラール』を作曲さっきょくしたフランクが、みずからの身体しんたい完全かんぜん回復かいふくする希望きぼうつづけていたとかんがえるのはむずかしい、いや、ほとんど不可能ふかのうちか[55]。」

A.F.ルノワールフランス語ふらんすごばんによるフランクぞう

10月から音楽おんがくいんしん学期がっきはいったフランクであったが、つきなかばに風邪かぜいてしまう。この風邪かぜをこじらせたことによって胸膜炎きょうまくえん[ちゅう 9]にかかったかれは、みるみるうちに病状びょうじょう悪化あっかさせて11月8にちかえらぬひととなった。1970ねんにある病理びょうり学者がくしゃしめした所見しょけんでは、従来じゅうらいフランクの交通こうつう事故じこ原因げんいんとされるかなにかしらの関連かんれんがあるものとされていたが、呼吸こきゅう感染かんせん自体じたいやまいとなることもありたという。抗生こうせい物質ぶっしつがまだられぬ当時とうじにおいては、この病状びょうじょうは「70だい男性だんせい肺炎はいえん状態じょうたいとしてめずらしいものとはえない[56]。」しかしこの判断はんだんにはその疑問ぎもんていするものあらわれた。「もっともよくっているだろうとおもわれる2人ふたり人物じんぶつ、すなわちフランク本人ほんにんかれつまべた《直接ちょくせつ原因げんいん》にはうたがいがない。同様どうよう直近ちょっきんの1890ねんの7がつから11がつまで家政かせいとしてかれまわりの世話せわをしていた外部がいぶ人間にんげん言葉ことばたしからしい(中略ちゅうりゃく)フランクのすうじゅうねんにわたる《蝋燭ろうそく両側りょうがわからやすような》過酷かこく労働ろうどうそのものによって、かれ軽度けいど怪我けがから回復かいふくするのに必要ひつよう体力たいりょくさえもがそこなわれていた可能かのうせい十分じゅうぶんにある[57]。」

フランクの葬送そうそうミサはサント・クロチルド聖堂せいどうおこなわれ、音楽おんがくいん公式こうしき代表だいひょうだったレオ・ドリーブをはじめ、サン=サーンスウジェーヌ・ジグーガブリエル・フォーレアレクサンドル・ギルマンシャルル=マリー・ヴィドール(フランクの後任こうにんとして音楽おんがくいんのオルガン教授きょうじゅとなった)、エドゥアール・ラロなどの多数たすう参列さんれつしゃがあった[58]エマニュエル・シャブリエがモントルージュ(Montrouge)にあったもと墓地ぼちがわでスピーチをおこなった[59]。フランクの亡骸なきがらはそのパリのモンパルナス墓地ぼちうつされ、友人ゆうじん建築けんちくガストン・ルドン英語えいごばん設計せっけいしたはかおさめられた。オーギュスタ・オルメスひきいるフランクの弟子でしたちはオーギュスト・ロダン銅板どうばんへのりを委嘱いしょくし、完成かんせいした3/4サイズのフランクの胸像きょうぞう1893ねんはかわきかかげられた[60]1904ねん彫刻ちょうこくアルフレド=シャルル・ルノワールフランス語ふらんすごばん製作せいさくした記念きねん「オルガンにかうセザール・フランク」が、サント・クロチルド聖堂せいどうからとおりをはさんでかいがわのサミュエル=ルソー広場ひろば設置せっちされた[61]。フランクは現在げんざいもモンパルナス墓地ぼちねむっている。

作風さくふう

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フランクはベートーヴェン以降いこうのドイツロマン音楽おんがくとくどう時代じだいのリストやワーグナーからつよ影響えいきょうけた。その結果けっかかれ音楽おんがく特徴とくちょうとして、半音はんおんかいてき和声わせい進行しんこう目立めだつこと、形式けいしきてきには循環じゅんかん形式けいしき多用たようすることがげられる。前半ぜんはん楽章がくしょう登場とうじょうした主題しゅだい一部いちぶ全体ぜんたい後半こうはん楽章がくしょう再現さいげんされることできょく全体ぜんたい統一とういつはかられる。また、フランクはさらすすんで独自どくじ様式ようしきつくげており、かく楽章がくしょう主要しゅよう役割やくわりえんじる主題しゅだい単一たんいつのモチーフから生成せいせいされる場合ばあいもある。1888ねんの『交響曲こうきょうきょく短調たんちょう』ではこの手法しゅほう顕著けんちょしめされている。また、かれ作品さくひんではたくみな転調てんちょう頻繁ひんぱんおこなわれる。

フランクはJ.S.バッハ研究けんきゅう対位法たいいほうたくみにもちいている。作曲さっきょくさいして比較的ひかくてき簡明かんめいおともちいるため単一たんいつ旋律せんりつ提示ていじされる場合ばあいはいささか空疎くうそであるが、循環じゅんかん形式けいしきない複数ふくすう旋律せんりつ提示ていじされた場合ばあい非常ひじょう高潔こうけつ印象いんしょうあたえるのが特徴とくちょうである。おおくのフランクの門下生もんかせいもこの手法しゅほうにほぼならっているが、フランクのたかみにれたものはいない。

フランクは12つかむことが出来できおおきなっていた[62]。これによってフランクのフーガ作品さくひんにおけるこえ連結れんけつ通常つうじょうにない自由じゆうゆうしており、かれ鍵盤けんばん楽器がっき作品さくひんでは和音わおんはばひろさが特徴とくちょうひとつとなっている。『ヴァイオリンソナタ』の書法しょほうについて、つぎのような指摘してきがある。「音楽家おんがくかみな自分じぶんのようにおおきくないということをしあわせにもわすれがちなフランクは、ピアノパート(とくだい4楽章がくしょう)にちょう10和音わおんりばめている。(中略ちゅうりゃく以来いらい、ピアニストはこれを演奏えんそうするためにおおきくひらくことをいられてきたのである[63]。」

フランク作品さくひんかぎかれ性格せいかくもとめられるのかもしれない。かれ友人ゆうじんたちはかれについて「これ以上いじょうないほど謙遜けんそんし、気取きどりなく、尊敬そんけいじょうあふれ、勤勉きんべんであった。」とひょうした。弟子でし1人ひとりのちにノートル=ダム聖堂せいどうせいオルガニストにいたルイ・ヴィエルヌは、フランクにかんする記憶きおくめている。「(かれは)芸術げいじゅつ気品きひんたいする、役割やくわり高貴こうきさにたいする、そしておとたいしてかたさいあつ真摯しんしさにたいするない配慮はいりょ(をせた)。(中略ちゅうりゃく歓喜かんき陰鬱いんうつ荘厳そうごん神秘しんぴ力強ちからづよさと天衣無縫てんいむほうさ。サント・クロチルド聖堂せいどうでのフランクはこれらすべてをそなえていた[64]。」このフランク自身じしんへの賛美さんびかれ作品さくひんすべてに敷衍ふえんできるだろう。

代表だいひょうてき作品さくひん

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管弦楽かんげんがく作品さくひん
ピアノと管弦楽かんげんがくのための作品さくひん
ピアノきょく
室内楽しつないがくきょく
オルガンきょく
オラトリオ
  • 『ルツ』(1845ねん
  • 贖罪しょくざい』(1872ねん
  • 至福しふく』(1869ねん - 1879ねん
  • 『レベッカ』(1880ねん - 1881ねん
歌曲かきょく
  • ばらの結婚けっこん(1871ねん
  • 天使てんしかて天使てんしのパン)(1872ねん) - 「3こえのミサきょく イ長調いちょうちょう」(1860ねん)にから追加ついかされた楽章がくしょう
  • 夜想曲やそうきょく(1884ねん
  • せい行列ぎょうれつ(1888ねん

その

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小惑星しょうわくせい(4546) Franckはフランクの名前なまえにちなんで命名めいめいされた[65]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 当時とうじのフランスの法律ほうりつでは、25さい未満みまん男子だんし婚姻こんいん場合ばあい父親ちちおやがそれを禁止きんしすることができた。
  2. ^ フランクのはは立場たちばあきらかではない。ある程度ていど息子むすこ味方みかたになっていたか、もしくはあらそいからは完全かんぜん距離きょりいていたかである。
  3. ^ ただし、出版しゅっぱんは1868ねんである。
  4. ^ 「フランクはけっしてかたまりきった規則きそくや、出来合できあいの理論りろん使つかっておしえようとはしなかった[34]。」
  5. ^ 題材だいざいはシカール(Sicard)とルイ・ド・フールコー(Louis de Fourcaud)という人物じんぶつ詩的してきスケッチにもとづいていた。
  6. ^ 反応はんのうは「率直そっちょく熱狂ねっきょう」から「型通かたどおりの軽蔑けいべつ」まで幅広はばひろいものだった。
  7. ^ たとえばイングリッシュ・ホルン使用しようなどがげられる。
  8. ^ かつては5がつかんがえられていた。
  9. ^ 腹膜炎ふくまくえんこころまくえんなどとされる場合ばあいもある。

出典しゅってん

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  1. ^ ダンディはニコラ=ジョゼフを「厳格げんかく独裁どくさいてき」とひょうしていた。(p. 31); ヴァラは明確めいかくに「経済けいざいてき搾取さくしゅ」について言及げんきゅうしている。(p. 16)
  2. ^ Vallas, p. 15
  3. ^ Vallas, p. 22
  4. ^ d'Indy, 31
  5. ^ a b d'Indy, p. 34
  6. ^ Vallas, p. 37
  7. ^ Vallas, p. 45
  8. ^ Vallas, p. 62
  9. ^ Davies, p. 63
  10. ^ d'Indy, p. 111
  11. ^ Davies, p. 62
  12. ^ Vallas, p. 75-6
  13. ^ Vallas, p. 105
  14. ^ d'Indy, p. 41
  15. ^ Davies, p. 72
  16. ^ Vallas, p. 84-5
  17. ^ Vallas, p. 85
  18. ^ d'Indy, p. 39
  19. ^ Vallas, p. 102
  20. ^ Vallas, p. 100
  21. ^ Vallas, p. 103
  22. ^ Vallas, p. 104
  23. ^ Smith, Toward, p. 31-34
  24. ^ Sainte-Clotilde Cavaillé-Coll organ
  25. ^ Vallas, p. 112, note
  26. ^ quoted in d'Indy, p. 41-42, note
  27. ^ Smith, Playing, p. 27
  28. ^ Vallas, p. 127
  29. ^ Davies, p. 87
  30. ^ Smith, Playing, p. 29
  31. ^ Vallas, p. 135
  32. ^ Vallas, p. 137-8; Smith, Playing, p. 30
  33. ^ d'Indy, p.235
  34. ^ d'Indy, p. 235
  35. ^ d'Indy, p. 247
  36. ^ Vallas, p. 152
  37. ^ d'Indy, p. 223
  38. ^ Vallas, p. 163
  39. ^ Vallas, p. 247
  40. ^ Vallas, p. 243
  41. ^ Vallas, p. 168
  42. ^ Stove, p. 260
  43. ^ Vallas, p. 198
  44. ^ d'Indy, p. 52
  45. ^ Vallas, p. 185
  46. ^ Vallas, p. 206
  47. ^ d'Indy, p. 173-4
  48. ^ Stove, p. 262
  49. ^ d'Indy, p. 54
  50. ^ Vallas, p. 211-213
  51. ^ Vallas, p. 212
  52. ^ Vallas, p. 216
  53. ^ Stove, pp. 279, 295
  54. ^ Vallas, p. 232
  55. ^ Stove, pp. 283-284
  56. ^ Ober, p. 83
  57. ^ Stove, p. 296
  58. ^ Vallas, p. 234-235
  59. ^ Stove, p. 300
  60. ^ rodin-web.org, Life(5), 1893
  61. ^ Cesar Franck (1822–1890) – Find A Grave Memorial
  62. ^ Smith, Toward, p. 36, note 87
  63. ^ Stove, p. 257
  64. ^ Vierne, Mes Souvenirs, p. 43, quoted in Smith, Toward, p. 24
  65. ^ (4546) Franck = 1972 GE1 = 1977 RS2 = 1981 RH1 = 1981 WM6 = 1988 RR8 = 1990 EW2”. MPC. 2021ねん10がつ9にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

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  • Smith, Rollin (1997). Playing the Organ Works of César Franck. Series: The Complete Organ No. 1. Hillsdale, NY: Pendragon Press ISBN 0-945193-79-3.
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  • Stove, R. J. (2012). César Franck: His Life and Times. Lanham, Maryland: Scarecrow Press. ISBN 978-0-8108-8207-2.
  • Vallas, Léon (1951). César Franck. Trans. Hubert J. Foss. New York: Oxford University Press. Trans. of La véritable histoire de César Franck (1949)

外部がいぶリンク

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