セザール=オーギュスト=ジャン=ギヨーム=ユベール・フランク (César-Auguste-Jean-Guillaume-Hubert Franck 、1822年 ねん 12月10日 にち - 1890年 ねん 11月8日 にち )は、ベルギー 出身 しゅっしん 、フランス で活躍 かつやく した作曲 さっきょく 家 か 、オルガニスト 。
ネーデルラント連合 れんごう 王国 おうこく のリエージュ に生 う まれ、この町 まち で1834年 ねん には最初 さいしょ のコンサートを開 ひら いている。弟 おとうと のジョゼフ(1825年 ねん - 1891年 ねん )とともに幼 おさな くしてピアノの才能 さいのう を示 しめ し、父 ちち は彼 かれ らをリスト のような大 だい ピアニストにすべく英才 えいさい 教育 きょういく を行 おこな った。1834年 ねん にリエージュ王立 おうりつ 音楽 おんがく 院 いん を卒業 そつぎょう し、1835年 ねん に一家 いっか でパリ に移住 いじゅう するとアントニーン・レイハ などに教 おし えを受 う けた。1837年 ねん にパリ音楽 おんがく 院 いん に入学 にゅうがく し作曲 さっきょく 、ピアノ 、オルガン などを学 まな んだ。
1842年 ねん に退学 たいがく し帰郷 ききょう したが、1844年 ねん には再 ふたた びパリに戻 もど って活動 かつどう した。その後 ご 作曲 さっきょく 家 か 志望 しぼう を固 かた め、また父 ちち の意 い に沿 そ わぬ結婚 けっこん をしたことなどから父 ちち とは決別 けつべつ した。リストやショパン にも才能 さいのう を注目 ちゅうもく されたが、ピアノ教師 きょうし として、またその後 ご は教会 きょうかい オルガニストとしてつましい生活 せいかつ を送 おく った。この間 あいだ 作曲 さっきょく 家 か としてはオラトリオ など宗教 しゅうきょう 音楽 おんがく を中心 ちゅうしん に手 て がけている。また、フランス国内 こくない を広 ひろ く旅 たび してオルガン製造 せいぞう 者 しゃ のアリスティド・カヴァイエ=コル が設置 せっち したオルガンを紹介 しょうかい して回 まわ った。
1858年 ねん に就任 しゅうにん したサント・クロチルド聖堂 せいどう のオルガニストの職 しょく には、その後 ご 生涯 しょうがい にわたってとどまった。1871年 ねん にはサン=サーンス 、フォーレ らとともにフランス国民 こくみん 音楽 おんがく 協会 きょうかい の設立 せつりつ に加 くわ わり、1872年 ねん にパリ音楽 おんがく 院 いん の教授 きょうじゅ に迎 むか えられた。最 さい 晩年 ばんねん の1885年 ねん ごろからヴァイオリン・ソナタ イ長調 いちょうちょう 、交響曲 こうきょうきょく ニ短調 たんちょう など、現在 げんざい よく知 し られる代表 だいひょう 作 さく を次々 つぎつぎ に作曲 さっきょく し、にわかに注目 ちゅうもく された。彼 かれ の弟子 でし のヴァンサン・ダンディ 、エルネスト・ショーソン 、ガブリエル・ピエルネ 、アンリ・デュパルク 、ギー・ロパルツ や、その影響 えいきょう を受 う けたアルベリク・マニャール らは“フランキスト”と呼 よ ばれ、のちにドビュッシー らの印象 いんしょう 主義 しゅぎ 音楽 おんがく と対抗 たいこう することになる。
幼少 ようしょう 期 き と学生 がくせい 期 き (1822年 ねん –1842年 ねん )[ 編集 へんしゅう ]
リエージュ にあるフランクの生家 せいか
フランクはネーデルラント連合 れんごう 王国 おうこく (現 げん ベルギー、1830年 ねん からワロン語 ご 圏 けん ベルギーとなっていた)のリエージュ で生 う まれた。元来 がんらい ドイツ系 けい の家系 かけい で、父 ちち のニコラ=ジョゼフ・フランク(Nicolas-Joseph)は銀行 ぎんこう 家 か でベルギー国境 こっきょう 付近 ふきん の出身 しゅっしん 、母 はは のマリー=カテリーヌ=バルブ・フランク(Marie-Catherine-Barbe 旧姓 きゅうせい フリンクス Frings)はアーヘン の出身 しゅっしん であった。セザールは幼 おさな い頃 ころ から絵画 かいが と音楽 おんがく の才能 さいのう を示 しめ しており、父 ちち のニコラ=ジョゼフは息子 むすこ がフランツ・リスト やジギスモント・タールベルク のような若 わか き神童 しんどう ピアニスト兼 けん 作曲 さっきょく 家 か となって、一家 いっか に富 とみ と名声 めいせい をもたらすことを夢見 ゆめみ ていた[ 1] 。父 ちち によってリエージュ王立 おうりつ 音楽 おんがく 院 いん に送 おく られたフランクはソルフェージュ 、ピアノ 、オルガン 、和声 わせい 学 がく をジョゼフ・ドーソワーニュ=メユール ら他 た の下 した で学 まな んだ。フランクの演奏 えんそう 会 かい デビューは1834年 ねん のことで、建国 けんこく 間 あいだ もないベルギー王国 おうこく の国王 こくおう レオポルド1世 せい も臨席 りんせき していた[ 2] 。
1835年 ねん 、息子 むすこ をより広 ひろ い聴衆 ちょうしゅう の前 まえ に出 だ す時 とき が来 き たと決意 けつい した父 ちち ニコラ=ジョゼフは、彼 かれ と弟 おとうと のジョゼフを引 ひ き連 つ れてパリ へと赴 おもむ き、彼 かれ らにアントニーン・レイハ による対位法 たいいほう の、またピエール・ジメルマン によるピアノの個人 こじん 的 てき なレッスンを受 う けさせた。レイハとジメルマンはパリ音楽 おんがく 院 いん の教授 きょうじゅ も務 つと めていた。10か月 げつ 後 ご にレイハがこの世 よ を去 さ ると、ニコラ=ジョゼフは2人 ふたり の息子 むすこ の音楽 おんがく 院 いん 入学 にゅうがく の方策 ほうさく を模索 もさく するようになった。しかしながら音楽 おんがく 院 いん は国外 こくがい の学生 がくせい を受 う け入 い れていなかったため、ニコラ=ジョゼフはフランス国籍 こくせき の取得 しゅとく に向 む けて動 うご くことになり、1837年 ねん には帰化 きか が認 みと められた[ 3] 。この間 あいだ ニコラ=ジョゼフはパリで息子 むすこ らが単独 たんどく で、もしくは2人 ふたり が同時 どうじ に出演 しゅつえん するような演奏 えんそう 会 かい やリサイタルを企画 きかく した。こうした場 ば で彼 かれ らは主 おも に当時 とうじ の流行 りゅうこう 音楽 おんがく を演奏 えんそう し、おおむね好評 こうひょう を得 え ていた。
1911年 ねん まで使 つか われていた旧 きゅう パリ音楽 おんがく 院 いん 校舎 こうしゃ
セザールとジョゼフは1837年 ねん 10月 がつ にパリ音楽 おんがく 院 いん に入学 にゅうがく を果 は たした。セザールはジメルマンの下 した で引 ひ き続 つづ きピアノの修行 しゅぎょう を積 つ むと同時 どうじ に、エメ・ルボルン(Aimé Leborn)に作曲 さっきょく を師事 しじ するようになった[ 4] 。彼 かれ は1838年 ねん 、初年度 しょねんど の終 お わりにピアノの1等 とう 賞 しょう を獲得 かくとく し、以降 いこう も高 たか い水準 すいじゅん の演奏 えんそう を維持 いじ していった。一方 いっぽう で対位法 たいいほう の成績 せいせき はそこまで目覚 めざ ましいものではなく、1838年 ねん から1840年 ねん まで1年 ねん ごとに3等 とう 賞 しょう 、2等 とう 賞 しょう 、1等 とう 賞 しょう と順位 じゅんい を伸 の ばしていった。フランクはフランソワ・ブノワ のオルガンの指導 しどう も受 う けるようになり、演奏 えんそう と即興 そっきょう 演奏 えんそう を学 まな んで1841年 ねん には2等 とう 賞 しょう を獲得 かくとく した。その翌年 よくねん には作曲 さっきょく でローマ大賞 たいしょう への出品 しゅっぴん を目指 めざ していたものの、理由 りゆう は不確 ふたし かながら1842年 ねん 4月 がつ 22日 にち に音楽 おんがく 院 いん を「自主 じしゅ 」退学 たいがく してしまう[ 5] 。
父 ちち ニコラ=ジョゼフがフランクに音楽 おんがく 院 いん を去 さ るよう命 めい じたのではないかと考 かんが えられる。フランクは学問 がくもん の習得 しゅうとく に励 はげ む傍 かたわ ら、父 ちち の要請 ようせい により個人 こじん 的 てき な音楽 おんがく 指導 しどう を行 おこな い演奏 えんそう 会 かい もこなしていた。「それは彼 かれ にとっては辛 つら い日々 ひび で(中略 ちゅうりゃく )気性 きしょう が荒 あら く執念深 しゅうねんぶか くさえあった彼 かれ の父 ちち の振 ふ る舞 ま いにより、毎日 まいにち が楽 らく になるようなことはなかった(略 りゃく )[ 6] 」若 わか いフランクが時 とき にヴァイオリン を演奏 えんそう する弟 おとうと を伴 ともな って、自作 じさく 曲 きょく を交 まじ えながら披露 ひろう する演奏 えんそう 会 かい は最初 さいしょ こそ好意 こうい 的 てき に受 う け入 い れられたものの、次第 しだい にニコラ=ジョゼフの商業 しょうぎょう 的 てき な息子 むすこ の売 う り出 だ し方 かた がパリの音楽 おんがく 雑誌 ざっし や批評 ひひょう 家 か の反感 はんかん を買 か うようになった。フランクのピアニストとしての技量 ぎりょう は認 みと められていたが、この時点 じてん では公正 こうせい に判断 はんだん するならば彼 かれ の作曲 さっきょく 家 か としての腕前 うでまえ は未熟 みじゅく なものだった。状況 じょうきょう は、ニコラ=ジョゼフとRevue et Gazette musicale 誌 し で首席 しゅせき 評論 ひょうろん 家 か を務 つと めるアンリ・ブランシャール(Henri Blanchard)の間 あいだ で確執 かくしつ が生 しょう じたことでさらに悪化 あっか した。ブランシャールはニコラ=ジョゼフがひどく気取 きど っていることを酷評 こくひょう し、上 うえ の息子 むすこ の「荘厳 そうごん な」名前 なまえ を嘲 あざけ った。こうした敵意 てきい は「疑 うたが いなく個人 こじん 的 てき なもの[ 7] 」であったが、ニコラ=ジョゼフにベルギー帰国 きこく が必要 ひつよう だと思 おも わせるには十分 じゅうぶん だったようで、1842年 ねん に「有無 うむ を言 い わせぬ命令 めいれい [ 5] 」が下 くだ されたフランクは音楽 おんがく 院 いん を後 のち にして父 ちち に付 つ き従 したがえ がわざるを得 え なかったのである。
教師 きょうし 、オルガニスト時代 じだい (1842年 ねん –1858年 ねん )[ 編集 へんしゅう ]
フランツ・リスト 、1843年 ねん
ベルギーへ帰国 きこく したフランクだったが、祖国 そこく には2年 ねん と留 と まらなかった。収入 しゅうにゅう 源 げん となるような演奏 えんそう 会 かい を開 ひら くことは出来 でき ず、批評 ひひょう 家 か 達 たち は無 む 関心 かんしん か軽蔑 けいべつ 的 てき かのいずれかであり、ベルギーの宮廷 きゅうてい からの援助 えんじょ は得 え られそうになかった(もっとも、国王 こくおう は後 のち になってフランクにゴールドメダルを授与 じゅよ することになる)[ 8] 。資金 しきん を得 え る術 じゅつ はなかったのである。ニコラ=ジョゼフに関 かん する限 かぎ りは、帰郷 ききょう が失敗 しっぱい に終 お わったため息子 むすこ をパリでの音楽 おんがく 指導 しどう と家庭 かてい 向 む け演奏 えんそう 会 かい の生活 せいかつ に引 ひ き戻 もど そうとしていた。この演奏 えんそう 会 かい についてローレンス・デイヴィス(Laurence Davies)は、過酷 かこく で実入 みい りの少 すく ないものだったとしている[ 9] 。しかし、長 なが い目 め で見 み ると若 わか きフランクにとってこの経験 けいけん は有益 ゆうえき な側面 そくめん も持 も ち合 あ わせていた。なぜならこの時期 じき にパリへ戻 もど れたことで、彼 かれ は音楽 おんがく 院 いん に復学 ふくがく して最後 さいご の数 すう 年 ねん 及 およ びその後 ご の時間 じかん を過 す ごすことが出来 でき たからである。また、彼 かれ の最初 さいしょ の成熟 せいじゅく した楽曲 がっきょく となるピアノ三 さん 重奏 じゅうそう 曲 きょく 集 しゅう が完成 かんせい したことにもこの期間 きかん の役割 やくわり が大 おお きい。これらの作品 さくひん はフランク自身 じしん が初 はじ めて自作 じさく と認 みと め得 え たものであり、作品 さくひん を見 み たリストは激励 げきれい と建設 けんせつ 的 てき 批判 ひはん を与 あた えた上 うえ で自 みずか らも数 すう 年 ねん 後 ご にヴァイマル で演奏 えんそう している[ 10] 。1843年 ねん 、フランクは室内楽 しつないがく 作品 さくひん 以外 いがい では初 はつ の挑戦 ちょうせん となるオラトリオ 『ルツ』の作曲 さっきょく に取 と り掛 か かった。この作品 さくひん はリスト、マイアベーア をはじめ他 た の有名 ゆうめい 音楽家 おんがくか を招 まね いて1845年 ねん に私的 してき に初演 しょえん され、ほどほどの賛辞 さんじ と前向 まえむ きな提案 ていあん を得 え た[ 11] 。しかしながら、1846年 ねん 初頭 しょとう に行 おこな われた公開 こうかい 初演 しょえん においては聴衆 ちょうしゅう が関心 かんしん を示 しめ さず、オラトリオの芸術 げいじゅつ 性 せい の欠落 けつらく と単純 たんじゅん さには冷 つめ たい批判 ひはん が浴 あ びせられた[ 12] 。この作品 さくひん が次 つぎ に上演 じょうえん されたのは1872年 ねん 、大 だい 改訂 かいてい を加 くわ えた後 のち のことであった。
これにともない、フランクは公 おおやけ の活動 かつどう からは実質 じっしつ 的 てき に身 み を引 ひ き、教師 きょうし と伴奏 ばんそう 者 しゃ として陽 ひ の当 あ たらない生活 せいかつ をするようになった。彼 かれ の父 ちち もしぶしぶこれを認 みと めた。フランクはパリとオルレアン の両方 りょうほう で、こうした仕事 しごと や歌曲 かきょく や小規模 しょうきぼ な作品 さくひん の作曲 さっきょく の依頼 いらい を受 う けていた。彼 かれ の元 もと には1848年 ねん の第 だい 二 に 共和 きょうわ 政 せい の成立 せいりつ を祝 しゅく し、これを強固 きょうこ にするような作品 さくひん の依頼 いらい が舞 ま い込 こ んでおり、そうした作品 さくひん には聴衆 ちょうしゅう が関心 かんしん を示 しめ すようなものもあったが、ルイ・ナポレオン の下 した で第 だい 二 に 帝政 ていせい が立 た ち上 あ げられたことで演奏 えんそう の機会 きかい を失 うしな ってしまった。1851年 ねん にはオペラ『頑固 がんこ な召使 めしつか い』に取 と り組 く んだものの、リブレット は「最低 さいてい の文学 ぶんがく 的 てき 出来 でき [ 13] 」であり、曲 きょく は慌 あわ てて書 か きつけられたようなものだった。フランク自身 じしん も終生 しゅうせい 「印刷 いんさつ する価値 かち のないものだった[ 14] 。」と言 い い続 つづ けることになる。しかし、概 がい していえばこうした隠遁 いんとん 生活 せいかつ はそれまで脚光 きゃっこう を浴 あ び続 つづ けてきたフランクには休息 きゅうそく となったと考 かんが えられる。「フランクは神 かみ の思召 おぼしめ しに従 したが い、いまだ全 まった くの闇 やみ の中 なか にいた[ 15] 。」そして、この期間 きかん に生 しょう じた2つの大 おお きな変化 へんか が、彼 かれ のその後 ご の人生 じんせい を形作 かたちづく ることになっていく。
まず1点 てん 目 め は、フランクが両親 りょうしん とほぼ完全 かんぜん に縁 えん を切 き ってしまったことである。直接 ちょくせつ の原因 げんいん となったのは、彼 かれ がピアノの教 おし え子 ご であったウジェニー=フェリシテ=カロリーヌ・セイヨ(Eugénie-Félicité-Caroline Saillot; 1824年 ねん -1918年 ねん )と親密 しんみつ となり後 ご に恋人 こいびと 関係 かんけい となったことであった。彼女 かのじょ の両親 りょうしん はデムソー(Desmousseaux)という芸名 げいめい で活動 かつどう するコメディ・フランセーズ 会社 かいしゃ の一員 いちいん であった。フランクは彼女 かのじょ と音楽 おんがく 院 いん 時代 じだい からの知 し り合 あ いであり、若 わか いフランクにとってフェリシテ・デムソーの家庭 かてい は威圧 いあつ 的 てき な実 み の父 ちち からの避難 ひなん 所 しょ のような存在 そんざい となっていた。1846年 ねん にニコラ=ジョゼフは息子 むすこ の書類 しょるい の中 なか から「喜 よろこ ばしい記憶 きおく の中 なか のF.デムソー嬢 じょう 」への献辞 けんじ が付 ふ された楽曲 がっきょく を発見 はっけん し、本人 ほんにん の目 め の前 まえ でそれを破 やぶ り捨 す てたこともあった。フランクはそのままデムソー家 か へと向 む かい、記憶 きおく を頼 たよ りに曲 きょく を書 か き起 お こして献辞 けんじ と共 とも にフェリシテへと贈 おく った。ニコラ=ジョゼフとの関係 かんけい は、彼 かれ が息子 むすこ の婚約 こんやく や結婚 けっこん の意志 いし を一切 いっさい 認 みと めようとしなかったことでさらに悪化 あっか した[ 注 ちゅう 1] 。ニコラ=ジョゼフはさらに母 はは を苦痛 くつう に陥 おとしい れたとしてフランクを非難 ひなん し[ 注 ちゅう 2] 、フランクのいかなる縁談 えんだん も夫婦 ふうふ 間 あいだ の毒殺 どくさつ 事件 じけん という醜聞 しゅうぶん に繋 つな がるに違 ちが いないと怒鳴 どな りつけたのである[ 16] 。7月 がつ のある日曜日 にちようび 、フランクは持 も てるものだけを持 も って両親 りょうしん の家 いえ を後 のち にすると、そのまま歩 ある いてデムソー家 か に向 む かって移 うつ り住 す んだ。デムソー家 か で歓迎 かんげい を受 う けた彼 かれ は二度 にど と実家 じっか には戻 もど らなかった。この時 とき 以来 いらい 、若 わか いフランクは名乗 なの る際 さい や書類 しょるい や作品 さくひん への署名 しょめい を「César Franck 」もしくは単 たん に「C. Franck 」とするようになった。「これは彼 かれ が父 ちち ときっぱり決別 けつべつ し、かつ周囲 しゅうい にそれを知 し らせようとする意志 いし の現 あらわ れであった。(中略 ちゅうりゃく )彼 かれ は元 もと の自分 じぶん とは出来 でき るだけ違 ちが った、新 あたら しい人間 にんげん になろうと決意 けつい したのである[ 17] 。」
カヴァイエ=コル 、1855年 ねん 頃 ごろ
フェリシテの両親 りょうしん の注意深 ちゅういぶか くも友好 ゆうこう 的 てき な眼差 まなざ しの中 なか 、フランクは彼女 かのじょ へ求婚 きゅうこん し続 つづ けた。1847年 ねん に彼 かれ が25歳 さい となるや否 いな や、彼 かれ は父 ちち にフェリシテとの結婚 けっこん の意志 いし を伝 つた え、実際 じっさい に二 に 月 がつ 革命 かくめい が勃発 ぼっぱつ したのと同月 どうげつ の1848年 ねん 2月 がつ 22日 にち に念願 ねんがん を成就 じょうじゅ させた。教会 きょうかい にたどり着 つ くまでに一向 いっこう は革命 かくめい 群 ぐん が築 きず いたバリケードを乗 の り越 こ えなければならなかったが、ダンディ が伝 つた えるところでは「この仮設 かせつ の要塞 ようさい の後方 こうほう に集 あつ まっていた大勢 おおぜい の蜂起 ほうき 民 みん が進 すす んで手助 てだす けをした[ 18] 。」結婚 けっこん にあたってはフランクの両親 りょうしん も和解 わかい の上 うえ 、式典 しきてん に出席 しゅっせき するとともに登記 とうき 簿 ぼ への署名 しょめい を行 おこな った。この時 とき のノートル=ダム=ド=ロレット教会 きょうかい (Notre-Dame-de-Lorette)がフランクの教区 きょうく 教会 きょうかい となった。
2点 てん 目 め は上記 じょうき のように、ノートル=ダム=ド=ロレット教会 きょうかい がフランクの教区 きょうく 教会 きょうかい となったことであった。1847年 ねん にこの教会 きょうかい のオルガニスト 補佐 ほさ となったフランクであったが、これを契機 けいき として次々 つぎつぎ とより重要 じゅうよう で影響 えいきょう 力 りょく の高 たか いオルガニストの職 しょく を歴任 れきにん していくことになる。フランクは音楽 おんがく 院 いん 時代 じだい にピアニストとして異彩 いさい を放 はな ったのと同 おな じようにオルガニストとして輝 かがや きを見 み せたわけではなかったが、彼 かれ はオルガニストの職 しょく を嘱望 しょくぼう しており、そこには安定 あんてい した収入 しゅうにゅう が望 のぞ めるという理由 りゆう が少 すく なからずあった。こうして彼 かれ は人々 ひとびと の礼拝 れいはい に必要 ひつよう な技術 ぎじゅつ を学 まな ぶという形 かたち でローマ・カトリック へと帰依 きえ する機会 きかい を得 え て、時 とき おり上司 じょうし にあたるアルフォンス・ギルバ(Alphonse Gilbat)の代役 だいやく をこなすこともあった。この教会 きょうかい におけるフランクの働 はたら きが、1851年 ねん に新 あたら しく建立 こんりゅう されたサン=ジャン=サン=フランソワゾー=マレ教会 きょうかい (Saint-Jean-Saint-François-au-Marais)に牧師 ぼくし (curé )として移 うつ ってきたダンセル牧師 ぼくし (Abbé Dancel)の目 め に留 とど まった。2年 ねん 後 ご 、牧師 ぼくし はフランクを「titulaire 」の地位 ちい 、すなわち第 だい 1オルガニストへと誘 さそ う。フランクの新 あたら しい教会 きょうかい にはアリスティド・カヴァイエ=コル が設置 せっち した優 すぐ れた新式 しんしき のオルガン(1846年 ねん 製 せい )が備 そな えられていた。カヴァイエ=コルは芸術 げいじゅつ 性 せい に恵 めぐ まれ、機能 きのう 的 てき には革新 かくしん 的 てき な大 だい オルガンの制作 せいさく で名 な を馳 は せていた。フランクは「私 わたし の新 あたら しいオルガンはまるでオーケストラのようだ![ 19] 」と述 の べていた。フランクの即興 そっきょう 演奏 えんそう の能力 のうりょく は非常 ひじょう に必要 ひつよう とされるようになっていた。というのも、当時 とうじ の礼拝 れいはい の慣習 かんしゅう においてはミサや礼拝 れいはい で歌 うた われる単 たん 旋律 せんりつ 聖歌 せいか の伴奏 ばんそう を行 おこな った上 うえ で、そこから楽想 がくそう を派生 はせい させて聖歌 せいか 隊 たい による歌唱 かしょう や神父 しんぷ の説教 せっきょう との間 あいだ を繋 つな がねばならなかったからである。さらにフランクの演奏 えんそう 能力 のうりょく とカヴァイエ=コルの楽器 がっき への愛情 あいじょう が合 あ わさったことで、彼 かれ はカヴァイエ=コルと協力 きょうりょく 関係 かんけい を結 むす ぶことになる。フランクはフランス中 ちゅう を訪 たず ねて回 まわ って古 ふる い楽器 がっき を引 ひ き立 た てるとともに、新 あたら しい楽器 がっき の除幕 じょまく 式 しき で演奏 えんそう する役割 やくわり を担 にな った。
ノートル=ダム=ド=ロレット教会 きょうかい のオルガン
期 き を同 おな じくして、フランスにおけるオルガン演奏 えんそう には革命 かくめい が起 お こっていた。バッハの伝記 でんき 作家 さっか として知 し られるヨハン・ニコラウス・フォルケル [ 20] 門下 もんか でドイツのオルガニストであるアドルフ・フリードリヒ・ヘッセ は、1844年 ねん のパリにおいて、バッハ作品 さくひん の演奏 えんそう が可能 かのう となるような足 あし 鍵盤 けんばん の技巧 ぎこう とドイツ式 しき の足 あし 鍵盤 けんばん を披露 ひろう した。これはフランクがブノワから音楽 おんがく 院 いん で学 まな んだ奏法 そうほう の範疇 はんちゅう からは全 まった く外 はず れたものだった。大抵 たいてい のフランスのオルガンにはそうした作品 さくひん に用 もち いられている足 あし 鍵盤 けんばん の音 おと がなく、クープラン の時代 じだい から続 つづ くフランスの由緒 ゆいしょ ある古典 こてん 的 てき なオルガンの伝統 でんとう も、その当時 とうじ は即興 そっきょう 演奏 えんそう を重視 じゅうし するあまりないがしろにされていたのである。ヘッセの演奏 えんそう もまばゆい超絶 ちょうぜつ 技巧 ぎこう によって一過 いっか 性 せい の騒 さわ ぎになったに過 す ぎないと思 おも われる。続 つづ いて1852年 ねん から1854年 ねん にかけては、当時 とうじ ブリュッセル王立 おうりつ 音楽 おんがく 院 いん のオルガン科 か で教授 きょうじゅ を務 つと めていたジャック=ニコラ・レメンス がパリを訪 おとず れた。レメンスは技巧 ぎこう 的 てき なバッハ演奏 えんそう 家 か であるにとどまらず、全 すべ てのオルガニストが正確 せいかく に、音 おと を濁 にご らせず、レガートのフレージングをもって演奏 えんそう できるようになるオルガン指導 しどう 法 ほう を開発 かいはつ した人物 じんぶつ だった。フランクは1854年 ねん にレメンスが出演 しゅつえん したのと同 おな じ就任 しゅうにん 記念 きねん 演奏 えんそう 会 かい に出席 しゅっせき しており[ 21] 、レメンスの古典 こてん 的 てき なバッハの解釈 かいしゃく を高 たか く評価 ひょうか するのみならず、その素早 すばや くかつ均質 きんしつ な足 あし 鍵盤 けんばん さばきにも称賛 しょうさん を惜 お しまなかった。ヴァラ(Vallas)によればオルガニストになる前 まえ にピアニストであったフランクは「生涯 しょうがい 自分 じぶん 自身 じしん でレガートの様式 ようしき を確立 かくりつ するには至 いた らなかった[ 22] 」ものの、そのような技術 ぎじゅつ を取 と り入 い れることでオルガン演奏 えんそう の幅 はば を広 ひろ げることが出来 でき るということは認識 にんしき しており、技術 ぎじゅつ の習得 しゅうとく に向 む けた取 と り組 く みを開始 かいし していたという[ 23] 。
サン=クロチルド教会 きょうかい の正 せい オルガニスト期 き (1858年 ねん –1872年 ねん )[ 編集 へんしゅう ]
サント・クロチルド聖堂 せいどう のオルガン
フランクは彼 かれ の3つ目 め かつ最後 さいご となるオルガニスト職 しょく に刺激 しげき され、活気 かっき づいていた。1858年 ねん 1月 がつ 22日 にち 、彼 かれ は奉献 ほうけん 間 あいだ もないサント・クロチルド聖堂 せいどう のメートル・ド・シャペル(maître de chapelle )のオルガニストに就任 しゅうにん した。この職 しょく は彼 かれ がその後 ご 生涯 しょうがい にわたって留 と まるものである。7か月 げつ 後 ご 、この教会 きょうかい に新設 しんせつ されたカヴァイエ=コルのオルガンは3段 だん の手 て 鍵盤 けんばん を備 そな えるもので[ 24] 、フランクがこの楽器 がっき の正 せい 奏者 そうしゃ になるとともにテオドール・デュボワ が合唱 がっしょう 指揮 しき 者 しゃ と副 ふく オルガニストを務 つと めることになった。このオルガンがフランクの演奏 えんそう と作曲 さっきょく に与 あた えた影響 えいきょう は最初 さいしょ 期 き のピアニストとしての経験 けいけん 同様 どうよう に、彼 かれ のその後 ご の作曲 さっきょく 活動 かつどう を考 かんが えるにあたって無視 むし することはできない。ノルベール・デュフォルク(Norbert Dufourcq)はこの楽器 がっき について「疑 うたが いなく制作 せいさく 者 しゃ のこの時期 じき までの傑作 けっさく として位置付 いちづ けられる」と記 しる している[ 25] 。フランク自身 じしん はサント・クロチルド教会 きょうかい の司祭 しさい にこう述 の べている。「私 わたし がどれほどこの楽器 がっき を愛 あい しているのか、あなたがご存知 ぞんち だったなら(中略 ちゅうりゃく )指 ゆび の下 した でのしなやかさ、そして私 わたし の思 おも いに従順 じゅうじゅん なことといったら![ 26] 」フランク自身 じしん も30鍵 かぎ の足 あし 鍵盤 けんばん を持 も つこのオルガンの性能 せいのう に負 ま けじとプレイエル 社 しゃ から購入 こうにゅう した練習 れんしゅう 用 よう の足 あし 鍵盤 けんばん を自宅 じたく に置 お き、教会 きょうかい のオルガンの前 まえ で何 なん 時 じ 間 あいだ も過 す ごすのに加 くわ えて足 あし 鍵盤 けんばん の技術 ぎじゅつ 向上 こうじょう に勤 いそ しんだ。このオルガンが持 も つ響 ひび きの美 うつく しさと注 そそ がれた優 すぐ れた技術 ぎじゅつ により、彼 かれ は即興 そっきょう 演奏 えんそう 家 か として、またオルガンはもちろん他 た のジャンルの作曲 さっきょく 家 か としても名声 めいせい を得 え るようになっていった。オルガン曲 きょく 、声楽 せいがく 曲 きょく 、そしてハーモニウム 曲 きょく が順繰 じゅんぐ りに作曲 さっきょく されるようになり、そうした中 なか で生 う まれた楽曲 がっきょく では『3声 こえ のミサ曲 きょく 』(1859年 ねん )が最 もっと もよく知 し られる。この作品 さくひん は何 なん 年 ねん もかけて作曲 さっきょく されたために楽章 がくしょう 間 あいだ で出来 でき が不揃 ふぞろ いであるが、ここからフランクの作品 さくひん 中 ちゅう でも最 もっと も長 なが く愛 あい される曲 きょく の1つである『天使 てんし の糧 かて 』が生 う まれている。これ以上 いじょう に注目 ちゅうもく されるのが、1860年 ねん から1862年 ねん にかけて書 か かれた[ 注 ちゅう 3] オルガンのための『6曲 きょく 集 しゅう 』である。この曲 きょく 集 しゅう は今日 きょう でも演奏 えんそう 機会 きかい の多 おお いオルガンであり、ローリン・スミス(Rollin Smith)によれば100年 ねん 以上 いじょう にわたるフランスのオルガン芸術 げいじゅつ 史 し における初 はじ めての傑作 けっさく 、そして「メンデルスゾーン 以降 いこう に書 か かれた最 もっと も重要 じゅうよう なオルガン音楽 おんがく 」である[ 27] 。フランクは各 かく 曲 きょく をサン=サーンス などの同僚 どうりょう のピアニストやオルガニスト、師 し であるブノワ、そしてカヴァイエ=コルに献呈 けんてい している。曲 きょく 集中 しゅうちゅう の『前奏 ぜんそう 曲 きょく 、フーガと変奏曲 へんそうきょく 』Op.18と『交響 こうきょう 的 てき 大曲 おおまがり 』Op.17はフランクのオルガン作品 さくひん の中 なか でも最 もっと もよく知 し られるものである。
オルガンを演奏 えんそう するフランク
オルガニスト、即興 そっきょう 演奏 えんそう 家 か としての名声 めいせい が高 たか まるにつれ、フランクはますますカヴァイエ=コルが新設 しんせつ または改修 かいしゅう したオルガンの除幕 じょまく 式 しき や奉献 ほうけん 式 しき での演奏 えんそう を任 まか されるようになっていった。彼 かれ はルイ・ルフェビュール=ヴェリー がオルガニストとなったサン=シュルピス教会 きょうかい の新 あたら しいオルガン(1862年 ねん )をはじめ、以降 いこう ノートル=ダム教会 きょうかい 、サンテチエンヌ・デュ・モン聖堂 せいどう (英語 えいご 版 ばん ) 、サントトリニテ教会 きょうかい などで演奏 えんそう した。これらの楽器 がっき の中 なか には彼 かれ が単独 たんどく 、もしくはサン=サーンスと共 とも に助言 じょげん を行 おこな ったものもある。フランクが担当 たんとう するサント・クロチルド聖堂 せいどう では、彼 かれ の即興 そっきょう 演奏 えんそう を聴 き くために人々 ひとびと がミサや礼拝 れいはい に訪 おとず れ始 はじ めていた。さらに、フランクは自作 じさく や他 た の作曲 さっきょく 家 か の作品 さくひん を取 と り上 あ げて聖堂 せいどう でのオルガン演奏 えんそう 会 かい を開催 かいさい するようになっていた。そうした中 なか でおそらく最 もっと も知 し られる演奏 えんそう 会 かい は1866年 ねん 4月 がつ にリスト が出席 しゅっせき した日曜 にちよう ミサだろう。聖歌 せいか 隊 たい 席 せき に腰 こし かけてフランクの即興 そっきょう 演奏 えんそう を聴 き いたリストはこう述 の べた。「あの時 とき のピアノ三 さん 重奏 じゅうそう 曲 きょく 集 しゅう を書 か いた人物 じんぶつ のことを、これまでに私 わたし が忘 わす れてしまうことなどあり得 え るだろうか。」これに対 たい してフランクはこう不平 ふへい をもらしたのではないかと思 おも われる。「あれ以降 いこう 、もっといい仕事 しごと をしてきたと思 おも うのだが[ 28] 。」そのひと月 がつ 後 ご にリストはサント・クロチルド聖堂 せいどう においてフランクのオルガン作品 さくひん を紹介 しょうかい する演奏 えんそう 会 かい を企画 きかく し、聴衆 ちょうしゅう から好評 こうひょう を得 え るとともに音楽 おんがく 雑誌 ざっし にも好意 こうい 的 てき に報 ほう じられた。フランクはリストだけでなく、活動 かつどう の主軸 しゅじく をドイツに置 お くハンス・フォン・ビューロー の演奏 えんそう が聴 き けることを喜 よろこ んだ。また、フランクは1869年 ねん にノートル=ダム聖堂 せいどう でアントン・ブルックナー の演奏 えんそう を耳 みみ にし、ドイツのオルガン音楽 おんがく とそれらをいかに演奏 えんそう すべきかという点 てん について理解 りかい を深 ふか めている。彼 かれ は定期 ていき 的 てき に門下生 もんかせい の集 あつ まりを催 もよお すようになり、オルガンには建前 たてまえ から関 かか わっていたに過 す ぎなかった弟子 でし たちもフランクの作曲 さっきょく 技法 ぎほう に関心 かんしん を示 しめ すようになっていった。
フランクはこの時期 じき にも合唱 がっしょう を用 もち いた作品 さくひん を作曲 さっきょく し続 つづ けたが、大半 たいはん は出版 しゅっぱん されないままとなった。当時 とうじ は音楽 おんがく 院 いん を修了 しゅうりょう した音楽家 おんがくか でも皆 みな がそうであったように、フランクは過去 かこ の多 た 声 こえ 音楽 おんがく に詳 くわ しくなかった。フランクは礼拝 れいはい 音楽 おんがく をその当時 とうじ の様式 ようしき に沿 そ って作曲 さっきょく し、デイヴィスはこれを「宗教 しゅうきょう 的 てき な偏 かたよ りを持 も つ世俗 せぞく 音楽 おんがく 」と表現 ひょうげん した[ 29] 。そうした状況 じょうきょう ではあったがフランクは1869年 ねん から主要 しゅよう な合唱 がっしょう 作品 さくひん となるオラトリオ 『至福 しふく 』の作曲 さっきょく にとりかかり、普 ひろし 仏 ふつ 戦争 せんそう の勃発 ぼっぱつ による中断 ちゅうだん 等 とう を経 へ て10年 ねん 余 あま りをかけて完成 かんせい させた。1848年 ねん の革命 かくめい の際 さい と同様 どうよう に、この戦争 せんそう によって彼 かれ の弟子 でし の多 おお くがパリを離 はな れ、もしくは戦闘 せんとう で落命 らくめい するか障害 しょうがい を負 お うなどして彼 かれ の元 もと から去 さ っていった。彼 かれ は再 ふたた び愛国 あいこく 的 てき な楽曲 がっきょく をいくつか作曲 さっきょく したが、当時 とうじ は時代 じだい の厳 きび しい状況 じょうきょう の下 した では演奏 えんそう されることはなかった。収入 しゅうにゅう が減少 げんしょう するとともに食料 しょくりょう 品 ひん や燃料 ねんりょう の価格 かかく が高騰 こうとう し、フランクとその一家 いっか は経済 けいざい 的 てき な苦境 くきょう に陥 おちい った。音楽 おんがく 院 いん も1870年 ねん から1871年 ねん の年度 ねんど は開校 かいこう しなかった[ 30] 。こうした中 なか 、フランスの音楽家 おんがくか の間 あいだ には自 みずか らの音楽 おんがく に対 たい する認識 にんしき の変化 へんか が生 しょう じていた。とりわけ戦後 せんご からは確固 かっこ たるフランスの音楽 おんがく として「ガリアの芸術 げいじゅつ Ars Gallica [ 31] 」を追 お い求 もと めるようになったのである。この言葉 ことば は新 あら たに結成 けっせい された国民 こくみん 音楽 おんがく 協会 きょうかい の標語 ひょうご として掲 かか げられた。フランクは協会 きょうかい の最 さい 古参 こさん の会員 かいいん となり、1871年 ねん 11月に開 ひら かれた最初 さいしょ の演奏 えんそう 会 かい のプログラムにはフランク作品 さくひん が取 と り上 あ げられた。
「ペール・フランク」 音楽 おんがく 院 いん の教授 きょうじゅ 、作曲 さっきょく 家 か 期 き (1872年 ねん –1888年 ねん )[ 編集 へんしゅう ]
有力 ゆうりょく なフランクの門弟 もんてい だったヴァンサン・ダンディ
フランクの名声 めいせい は今 いま や演奏 えんそう 家 か として、国民 こくみん 音楽 おんがく 協会 きょうかい の会員 かいいん として、そして少 すく ないながらも忠実 ちゅうじつ な弟子 でし たちの存在 そんざい によって広 ひろ く知 し れ渡 わた っていた。1872年 ねん に授業 じゅぎょう を再開 さいかい したパリ音楽 おんがく 院 いん でブノワがオルガン科 か の教授 きょうじゅ から退官 たいかん すると、フランクが後任 こうにん として推 お されることになる。誰 だれ が推薦人 すいせんにん であったのかについては不確 ふたし かな点 てん がある。サン=サーンスとテオドール・デュボワはそれぞれ異 こと なる時期 じき に自 みずか らの関与 かんよ を認 みと めており、それはカヴァイエ=コルも同様 どうよう である[ 32] 。確実 かくじつ なのはフランクの名前 なまえ が候補者 こうほしゃ 一覧 いちらん の一番 いちばん 上 じょう に記載 きさい されていたということ、そしてこの推薦 すいせん によってフランクが任用 にんよう に必要 ひつよう なフランス国籍 こくせき を有 ゆう していないことが公 おおやけ になってしまったという、きまりの悪 わる い事実 じじつ であった。フランクの父 ちち のニコラ=ジョゼフは息子 むすこ を音楽 おんがく 院 いん へ入学 にゅうがく させるべくフランスへと帰化 きか させていたが、これはフランス政府 せいふ に成人 せいじん として忠誠 ちゅうせい を宣言 せんげん しなければならない21歳 さい までの期限 きげん 付 つ きだったということをフランクは知 し らなかったのである。フランク自身 じしん は父 ちち による国籍 こくせき 変更 へんこう の手続 てつづ き以後 いご 、ずっと自分 じぶん がフランス国民 こくみん であると考 かんが えていたにもかかわらず、実際 じっさい は知 し らぬ間 あいだ に元 もと の国籍 こくせき であるベルギーへと戻 もど されて人生 じんせい の大半 たいはん を過 す ごしていた。すぐさまフランクは再度 さいど 帰化 きか 申請 しんせい の手続 てつづ きに入 はい り、1872年 ねん 2月 がつ 1日 にち に予定 よてい されていた任用 にんよう は1873年 ねん へと変更 へんこう になった。
フランクの下 した に集 たか った弟子 でし の多 おお くは音楽 おんがく 院 いん で学 まな んでいた者 もの か、在籍 ざいせき 中 ちゅう の学生 がくせい であった。中 なか でもヴァンサン・ダンディ 、エルネスト・ショーソン 、ルイ・ヴィエルヌ 、アンリ・デュパルク らはとりわけ有名 ゆうめい である。この集団 しゅうだん は徐々 じょじょ に師弟 してい 間 あいだ で相 あい 通 つう ずる尊敬 そんけい と愛情 あいじょう によって固 かた く結 むす ばれるようになっていった。ダンディはこれを新 あら たな門弟 もんてい が個々 ここ に、しかし誰 だれ もが師 し のことを「ペール・フランク Père Franck 」すなわち「父 ちち フランク」と呼 よ ぶようになったことと関連付 かんれんづ けている[ 33] 。一方 いっぽう 、フランクは教員 きょういん 生活 せいかつ において緊張 きんちょう を強 し いられる場面 ばめん も経験 けいけん していた。彼 かれ はオルガンによる演奏 えんそう や即興 そっきょう の技術 ぎじゅつ と同等 どうとう に作曲 さっきょく の指導 しどう を行 おこな う傾向 けいこう があった。また、音楽 おんがく 院 いん が認可 にんか した公式 こうしき の教科書 きょうかしょ や参考 さんこう 書 しょ を軽視 けいし する姿勢 しせい により、彼 かれ の指導 しどう 方法 ほうほう は合理 ごうり 的 てき でないとみなされていた[ 注 ちゅう 4] 。さらに彼 かれ の一部 いちぶ 学生 がくせい からの人気 にんき に嫉妬 しっと を感 かん じる教員 きょういん も現 あらわ れ、ローマ大賞 たいしょう など各種 かくしゅ の賞 しょう の選考 せんこう においてフランクの教 おし え子 ご はそうした教授 きょうじゅ 陣 じん から偏見 へんけん 交 ま じりの審査 しんさ を受 う けることもあった[ 35] 。ヴァラはフランクが「彼 かれ の信 しん じる単純 たんじゅん な本質 ほんしつ は理解 りかい されなかった(中略 ちゅうりゃく )彼 かれ 自身 じしん が常 つね に親切 しんせつ な雰囲気 ふんいき を向 む けられていると感 かん じていた音楽 おんがく 院 いん の中 なか でさえ、彼 かれ はいかほどの不快 ふかい な類 るい の指摘 してき を受 う けたことだろうか。」と記 しる している[ 36] 。
フランクが1865年 ねん から住 す んだ家 いえ に掲 かか げられた銘 めい 版 ばん
フランクの立場 たちば は長年 ながねん 温 あたた めていた楽曲 がっきょく の構想 こうそう を楽譜 がくふ に起 お こせるようなものとなっていた。彼 かれ は『至福 しふく 』の作曲 さっきょく を中断 ちゅうだん してオラトリオ『贖罪 しょくざい 』(1871年 ねん 作曲 さっきょく 、1874年 ねん 改訂 かいてい )、交響 こうきょう 詩 し 『アイオリスの人々 ひとびと 』(1876年 ねん )、オルガンのための『3つの小品 しょうひん 』(1878年 ねん )、『ピアノ五 ご 重奏 じゅうそう 曲 きょく 』(1879年 ねん )などや他 た の多 おお くの小規模 しょうきぼ 作品 さくひん に取 と り組 く んだ。『至福 しふく 』は最終 さいしゅう 的 てき に1879年 ねん に初演 しょえん を迎 むか えることとなったが、これはフランクの他 ほか の多 おお くの合唱 がっしょう 曲 きょく や管弦楽 かんげんがく 曲 きょく の場合 ばあい と同 おな じく成功 せいこう しなかった。作品 さくひん は全体 ぜんたい としてではなく細分 さいぶん 化 か された上 うえ での抜粋 ばっすい だった上 うえ 、適当 てきとう なオーケストラがなかったためにピアノ伴奏 ばんそう で演奏 えんそう された。さらにダンディでさえ指摘 してき しているのは、フランクがゴスペルの至福 しふく の中 なか に表現 ひょうげん される美徳 びとく と対比 たいひ される罪悪 ざいあく を、音楽 おんがく 的 てき に表現 ひょうげん 出来 でき ていなかったらしいということである。「この《理想 りそう の罪悪 ざいあく 》(もしこのような表現 ひょうげん が可能 かのう であればの話 はなし であるが)の擬人 ぎじん 化 か はフランクの本性 ほんしょう とあまりにかけ離 はな れており、彼 かれ はそうしたものを適切 てきせつ に表現 ひょうげん することができなかった[ 37] 。」その結果 けっか 生 しょう じたヴァラが述 の べるところの「単調 たんちょう な印象 いんしょう 」は[ 38] 、フランクの忠実 ちゅうじつ な門下生 もんかせい にすら『至福 しふく 』の一 ひと つの作品 さくひん としての存続 そんぞく 可能 かのう 性 せい について推測 すいそく させるに及 およ んだ。
1880年代 ねんだい になり、フランクは気 き づくと様式 ようしき 的 てき に主張 しゅちょう の異 こと なる2群 ぐん の板挟 いたばさ みとなっていた。一方 いっぽう は最初 さいしょ に慣 な れ親 した しんだスタイルからの変化 へんか を好 この まなかった妻 つま のフェリシテであり、他方 たほう はおそらく彼 かれ が影響 えいきょう を与 あた えるのと同 おな じように彼 かれ 自身 じしん にも驚 おどろ くべき影響 えいきょう を与 あた えていた弟子 でし たちである。ダンディの次 つぎ のような言葉 ことば が引用 いんよう されている。「(フランクは)どの調 ちょう 性的 せいてき 関係 かんけい を選択 せんたく するのか、展開 てんかい 部 ぶ をどう進行 しんこう させるべきか考 かんが えあぐねた際 さい 、いつも弟子 でし たちに相談 そうだん して彼 かれ らと疑問 ぎもん 点 てん を共有 きょうゆう し、彼 かれ らの意見 いけん を聞 き くことを好 この んだ[ 39] 。」その一方 いっぽう 、フランクの弟子 でし のひとりはフランク夫人 ふじん が次 つぎ のように(一部 いちぶ 的 てき を射 い た)発言 はつげん をしたと物語 ものがた っている。「彼 かれ に向 む けられる敵意 てきい を生 う んでいるのは全部 ぜんぶ あなたたち弟子 でし なのよ[ 40] 。」加 くわ えて、サン=サーンスとフランク及 およ びその一派 いっぱ との反 そ りが合 あ わなくなってきており、国民 こくみん 音楽 おんがく 協会 きょうかい においてもいくらか軋轢 あつれき が生 しょう じていた。
これらのいざこざがフランクの心 しん をどれだけ疲弊 ひへい させたのか、確 たし かなことはわからない。しかし、彼 かれ のより「卓越 たくえつ した」楽曲 がっきょく がこうした時期 じき に生 う み出 だ されたことは確 たし かである。交響 こうきょう 詩 し の『呪 のろ われた狩人 かりゅうど 』(1882年 ねん )と『鬼神 きじん (ジン) 』(1883年 ねん -1884年 ねん )、ピアノのための『前奏 ぜんそう 曲 きょく 、コラールとフーガ 』(1884年 ねん )と『交響 こうきょう 的 てき 変奏曲 へんそうきょく 』(1885年 ねん )、そしてオペラ『ユルダ』(1886年 ねん )である。これらの作品 さくひん の多 おお くは少 すく なくともフランクの生前 せいぜん に行 おこな われた初演 しょえん 時 じ には、並 な みの成功 せいこう となるか否 ひ かといった程度 ていど であった。しかし、1879年 ねん の『ピアノ五 ご 重奏 じゅうそう 曲 きょく 』は注目 ちゅうもく を集 あつ めるとともに思考 しこう を喚起 かんき する作品 さくひん であるとされた。批評 ひひょう 家 か はこの作品 さくひん には「不穏 ふおん な生気 せいき 」が宿 やど り、「劇場 げきじょう 的 てき といってよい程 ほど の不気味 ぶきみ さ」を湛 たた えていると評 ひょう した[ 41] 。ただし、サン=サーンスはこの作品 さくひん を特 とく に嫌悪 けんお していた。
『ヴァイオリンソナタ 』の献呈 けんてい を受 う けたウジェーヌ・イザイ
1886年 ねん の『ヴァイオリンソナタ 』は、ベルギーのヴァイオリニスト であるウジェーヌ・イザイ の結婚 けっこん 祝 いわ いとして作曲 さっきょく されたものだった。この作品 さくひん の成功 せいこう は轟 とどろ きわたることになる。イザイはこれをブリュッセル、パリで演奏 えんそう し、さらに演奏 えんそう 旅行 りょこう に組 く み込 こ んでしばしば弟 おとうと のテオ・イザイ のピアノ伴奏 ばんそう で演奏 えんそう した。彼 かれ がこの作品 さくひん を最後 さいご に演奏 えんそう したのは1926年 ねん のパリで、イヴ・ナット が伴奏 ばんそう を受 う け持 も った[ 42] 。20世紀 せいき 半 なか ばにヴァラはこのソナタについて次 つぎ のように記 しる している。「少 すく なくともフランスではフランクの最 もっと も人気 にんき の作品 さくひん となり、室内楽 しつないがく 曲 きょく のレパートリー全体 ぜんたい から見 み ても最 もっと も一般 いっぱん 的 てき に受容 じゅよう される楽曲 がっきょく である[ 43] 。」
フランクへの評価 ひょうか がはっきり定 さだ まらなかったことは、フランク一派 いっぱ が遅 おそ すぎると考 かんが えたフランクの受章 じゅしょう にも表 あらわ れているかもしれない。1885年 ねん 8月 がつ 4日 にち 、フランクはフランスのレジオン・ドヌール勲章 くんしょう のシェヴァリエに叙 じょ された。彼 かれ の支持 しじ 者 しゃ らは憤 いきどお った。ダンディはこう記 しる している。「この勲章 くんしょう が音楽家 おんがくか 、フランスの芸術 げいじゅつ に名誉 めいよ をもたらす優 すぐ れた作品 さくひん の作曲 さっきょく 者 しゃ に与 あた えられたと考 かんが えることは間違 まちが っているのか。少 すこ しもそんなことはない![ 44] 」表彰 ひょうしょう が、単 たん に10年 ねん 以上 いじょう 勤 つと めた「オルガンの教授 きょうじゅ 」へとなされたものだったからである。ヴァラは「世論 せろん はこの点 てん について同 おな じような過 あやま ちを犯 おか すまい」と続 つづ けて、普段 ふだん はフランクに批判 ひはん 的 てき だった雑誌 ざっし の記述 きじゅつ を引用 いんよう した。それはこの表彰 ひょうしょう が「少 すこ し遅 おそ きに失 しっ したのだとしても、『贖罪 しょくざい 』や『至福 しふく 』を書 か いた傑出 けっしゅつ した作曲 さっきょく 家 か に対 たい して正当 せいとう にもたらされた敬意 けいい のしるし」だというものだった[ 45] 。
フランクが1886年 ねん から1888年 ねん にギリシャ神話 しんわ を基 もと に手 て がけた交響 こうきょう 詩 し 『プシシェ 』を発表 はっぴょう すると、フランクの家庭 かてい と取 と り巻 ま きの弟子 でし たちの間 あいだ の衝突 しょうとつ は新 あら たな局面 きょくめん に突入 とつにゅう した。本人 ほんにん のあずかり知 し らぬ場所 ばしょ でも繰 く り広 ひろ げられたいさかいの内容 ないよう は音楽 おんがく だけに留 と まらず、題材 だいざい の哲学 てつがく 的 てき 、宗教 しゅうきょう 的 てき 側面 そくめん にまで及 およ んだ[ 注 ちゅう 5] 。この作品 さくひん があまりに官能 かんのう 的 てき であると考 かんが えたフランクの妻 つま と息子 むすこ は彼 かれ により広範 こうはん な、もっと大衆 たいしゅう への訴求 そきゅう 力 りょく を持 も つ、そして「全体 ぜんたい としてより商業 しょうぎょう 的 てき な」音楽 おんがく に専念 せんねん するよう希望 きぼう した[ 46] 。一方 いっぽう のダンディはこの楽曲 がっきょく の神話 しんわ 的 てき 重要 じゅうよう 性 せい に触 ふ れ、こう述 の べている。「多神教 たしんきょう 徒 と の精神 せいしん は何 なに も持 も ち合 あ わせていないが(中略 ちゅうりゃく )それどころか、キリスト教徒 きりすときょうと の恩寵 おんちょう と感受性 かんじゅせい を吹 ふ き込 こ まれている(略 りゃく )[ 47] 」このダンディの解釈 かいしゃく は後 のち になって「日曜 にちよう 教室 きょうしつ の新任 しんにん 教師 きょうし が悪童 あくどう に雅 みやび 歌 か を教 おし えるように突然 とつぜん 指示 しじ された場合 ばあい に感 かん じるような、ある種 しゅ の当惑 とうわく であった。」と解説 かいせつ されている[ 48] 。
フランク唯一 ゆいいつ の交響曲 こうきょうきょく となる『交響曲 こうきょうきょく ニ短調 たんちょう 』が出版 しゅっぱん されると、議論 ぎろん はますます勢 いきお いを増 ま した。曲 きょく の評判 ひょうばん は芳 かんば しくなかった。音楽 おんがく 院 いん のオーケストラは非 ひ 協力 きょうりょく 的 てき で[ 49] 、聴衆 ちょうしゅう は冷淡 れいたん 、批評 ひひょう 家 か は態度 たいど を決 き められず[ 注 ちゅう 6] 、仲間 なかま の作曲 さっきょく 家 か の多 おお くは「全体 ぜんたい の形式 けいしき をはじめ細部 さいぶ においても[ 注 ちゅう 7] 形式 けいしき 主義 しゅぎ 者 しゃ の規則 きそく や厳格 げんかく な玄人 くろうと 及 およ び素人 しろうと の慣習 かんしゅう を破壊 はかい した。」として取 と り乱 みだ した[ 50] 。フランク自身 じしん は弟子 でし のルイ・ド・スーレ(-Serres)にこの曲 きょく には基 もと となる私的 してき な着想 ちゃくそう があったのかと問 と われ「いや、ただの音楽 おんがく だ。純粋 じゅんすい な音楽 おんがく 以外 いがい には何 なに もない。」と答 こた えている[ 51] 。ヴァラによれば交響 こうきょう 曲 きょく で用 もち いられた様式 ようしき と技法 ぎほう は良 よ いものもそうでないものも皆 みな 、フランクの思考 しこう と芸術 げいじゅつ 家 か 人生 じんせい の中心 ちゅうしん を占 し めたオルガンに帰 き することが出来 でき るという。また、彼 かれ はフランクがこの経験 けいけん から学 まな んだとも指摘 してき している。「彼 かれ は弟子 でし たちに向 む かって、その時 とき 以降 いこう 同 おな じような作品 さくひん は2度 ど と書 か くまいと述 の べた[ 52] 。」
オーギュスト・ロダン による胸像 きょうぞう が設置 せっち されたフランクの墓 はか
1888年 ねん 、フランクは次 つぎ なるオペラ『ジゼル』に取 と り掛 か かった。しかし、この作品 さくひん は作曲 さっきょく というに至 いた らぬ草稿 そうこう の段階 だんかい までで終 お わり、完成 かんせい されることはなかった。対照 たいしょう 的 てき に大 だい 規模 きぼ な『弦楽 げんがく 四 よん 重奏 じゅうそう 曲 きょく 』は完成 かんせい され、1890年 ねん 4月 がつ の初演 しょえん は聴衆 ちょうしゅう と評論 ひょうろん 家 か から好評 こうひょう をもって迎 むか えられた。これ以外 いがい にも同 おな じ時期 じき には、フランクはパリ及 およ び近隣 きんりん 都市 とし でコンサートピアニストとして活動 かつどう し、2年 ねん 前 まえ には『プシシェ』の再演 さいえん が熱狂 ねっきょう 的 てき に終 お わっており、さらに弟子 でし たちによる数 すう 多 おお くの演奏 えんそう によってフランクは成功 せいこう を手 て にしていた。加 くわ えて、彼 かれ はサント・クロチルド聖堂 せいどう で定例 ていれい の大 おお きな日曜 にちよう 集会 しゅうかい には即興 そっきょう 演奏 えんそう を披露 ひろう し続 つづ けていた。彼 かれ はオルガンのための大 おお きな作品 さくひん 、またチェロソナタの構想 こうそう も温 あたた めていた可能 かのう 性 せい がある。
1890年 ねん 7月 がつ [ 注 ちゅう 8] [ 53] 、フランクが乗車 じょうしゃ していた辻 つじ 馬車 ばしゃ が馬 うま 引 び きの列車 れっしゃ と衝突 しょうとつ 事故 じこ を起 お こす。頭 あたま に損傷 そんしょう を受 う けた彼 かれ は一時 いちじ 意識 いしき を喪失 そうしつ した。ただちに後遺症 こういしょう が見 み られなかったため彼 かれ はそのまま移動 いどう を再開 さいかい し、本人 ほんにん も事故 じこ を重要 じゅうよう 視 し しなかった。しかしながら次第 しだい に歩行 ほこう が苦痛 くつう になり始 はじ め、気 き が付 つ くと彼 かれ は演奏 えんそう 会 かい やリハーサルを休 やす む事 こと を余儀 よぎ なくされ、続 つづ いて音楽 おんがく 院 いん での講義 こうぎ も断念 だんねん せざるを得 え なくなった。できるだけ急 いそ いで休暇 きゅうか を取 と ってヌムール に赴 おもむ いた彼 かれ は、同地 どうち で約束 やくそく していたオルガン作品 さくひん やハーモニウム のための委嘱 いしょく 作品 さくひん を書 か けることを願 ねが った。休暇 きゅうか 中 ちゅう に彼 かれ は両 りょう プロジェクトに着手 ちゃくしゅ することができた。
ハーモニウムの作品 さくひん 集 しゅう よりも早 はや く、オルガン作品 さくひん が1890年 ねん の8月 がつ と9月 がつ に書 か き上 あ げられた。この作品 さくひん はオルガン音楽 おんがく 史 し における珠玉 しゅぎょく の逸品 いっぴん である『3つのコラール 』であり、今日 きょう でも頻繁 ひんぱん に演奏 えんそう されている。ヴァラはこの作品 さくひん について次 つぎ のように述 の べている。「その美 うつく しさと重要 じゅうよう さは、この曲 きょく 集 しゅう を音楽 おんがく による遺書 いしょ もしくは遺言 ゆいごん と考 かんが えてまったく差 さ し支 つか えないほどである[ 54] 。」ヴァラよりも後 ご の時代 じだい の伝記 でんき 作家 さっか も同様 どうよう の表現 ひょうげん を用 もち いている。「全体 ぜんたい を通 とお してフランクの意識 いしき が大 おお きな別 わか れの言葉 ことば となっているのは明 あき らかである(中略 ちゅうりゃく )『コラール』を作曲 さっきょく したフランクが、自 みずか らの身体 しんたい が完全 かんぜん に回復 かいふく する希望 きぼう を持 も ち続 つづ けていたと考 かんが えるのは難 むずか しい、いや、ほとんど不可能 ふかのう に近 ちか い[ 55] 。」
A.F.ルノワール (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) によるフランク像 ぞう
10月から音楽 おんがく 院 いん の新 しん 学期 がっき に入 はい ったフランクであったが、月 つき の半 なか ばに風邪 かぜ を引 ひ いてしまう。この風邪 かぜ をこじらせたことによって胸膜炎 きょうまくえん [ 注 ちゅう 9] にかかった彼 かれ は、みるみるうちに病状 びょうじょう を悪化 あっか させて11月8日 にち に帰 かえ らぬ人 ひと となった。1970年 ねん にある病理 びょうり 学者 がくしゃ が示 しめ した所見 しょけん では、従来 じゅうらい フランクの死 し は交通 こうつう 事故 じこ が原因 げんいん とされるか何 なに かしらの関連 かんれん があるものとされていたが、呼吸 こきゅう 器 き 感染 かんせん 自体 じたい が死 し の病 やまい となることもあり得 え たという。抗生 こうせい 物質 ぶっしつ がまだ知 し られぬ当時 とうじ においては、この病状 びょうじょう は「70代 だい 男性 だんせい の肺炎 はいえん の状態 じょうたい として珍 めずら しいものとは言 い えない[ 56] 。」しかしこの判断 はんだん にはその後 ご 疑問 ぎもん を呈 てい する者 もの が現 あらわ れた。「最 もっと もよく知 し っているだろうと思 おも われる2人 ふたり の人物 じんぶつ 、すなわちフランク本人 ほんにん と彼 かれ の妻 つま が述 の べた《直接 ちょくせつ の原因 げんいん 》には疑 うたが いがない。同様 どうよう に直近 ちょっきん の1890年 ねん の7月 がつ から11月 がつ まで家政 かせい 婦 ふ として彼 かれ の身 み の回 まわ りの世話 せわ をしていた外部 がいぶ の人間 にんげん の言葉 ことば も確 たし からしい(中略 ちゅうりゃく )フランクの数 すう 十 じゅう 年 ねん にわたる《蝋燭 ろうそく を両側 りょうがわ から燃 も やすような》過酷 かこく な労働 ろうどう そのものによって、彼 かれ が軽度 けいど の怪我 けが から回復 かいふく するのに必要 ひつよう な体力 たいりょく さえもが損 そこ なわれていた可能 かのう 性 せい も十分 じゅうぶん にある[ 57] 。」
フランクの葬送 そうそう ミサはサント・クロチルド聖堂 せいどう で執 と り行 おこな われ、音楽 おんがく 院 いん の公式 こうしき 代表 だいひょう だったレオ・ドリーブ をはじめ、サン=サーンス 、ウジェーヌ・ジグー 、ガブリエル・フォーレ 、アレクサンドル・ギルマン 、シャルル=マリー・ヴィドール (フランクの後任 こうにん として音楽 おんがく 院 いん のオルガン科 か 教授 きょうじゅ となった)、エドゥアール・ラロ などの多数 たすう の参列 さんれつ 者 しゃ があった[ 58] 。エマニュエル・シャブリエ がモントルージュ(Montrouge)にあった元 もと の墓地 ぼち の側 がわ でスピーチを行 おこな った[ 59] 。フランクの亡骸 なきがら はその後 ご パリのモンパルナス墓地 ぼち に移 うつ され、友人 ゆうじん で建築 けんちく 家 か のガストン・ルドン (英語 えいご 版 ばん ) が設計 せっけい した墓 はか に納 おさ められた。オーギュスタ・オルメス 率 ひき いるフランクの弟子 でし たちはオーギュスト・ロダン に銅板 どうばん への浮 う き彫 ぼ りを委嘱 いしょく し、完成 かんせい した3/4サイズのフランクの胸像 きょうぞう は1893年 ねん に墓 はか の脇 わき に掲 かか げられた[ 60] 。1904年 ねん 、彫刻 ちょうこく 家 か のアルフレド=シャルル・ルノワール (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) が製作 せいさく した記念 きねん 碑 ひ 「オルガンに向 む かうセザール・フランク」が、サント・クロチルド聖堂 せいどう から通 とお りを挟 はさ んで向 む かい側 がわ のサミュエル=ルソー広場 ひろば に設置 せっち された[ 61] 。フランクは現在 げんざい もモンパルナス墓地 ぼち に眠 ねむ っている。
Tibor Szomora(バイオリン)、Minami Matsunaga(ピアノ)
フランクはベートーヴェン 以降 いこう のドイツロマン派 は 音楽 おんがく 、特 とく に同 どう 時代 じだい のリストやワーグナー から強 つよ い影響 えいきょう を受 う けた。その結果 けっか 彼 かれ の音楽 おんがく の特徴 とくちょう として、半音 はんおん 階 かい 的 てき 和声 わせい 進行 しんこう が目立 めだ つこと、形式 けいしき 的 てき には循環 じゅんかん 形式 けいしき を多用 たよう することが挙 あ げられる。前半 ぜんはん の楽章 がくしょう で登場 とうじょう した主題 しゅだい の一部 いちぶ や全体 ぜんたい が後半 こうはん の楽章 がくしょう で再現 さいげん されることで曲 きょく 全体 ぜんたい の統一 とういつ が図 はか られる。また、フランクは更 さら に進 すす んで独自 どくじ の様式 ようしき を創 つく り上 あ げており、各 かく 楽章 がくしょう で主要 しゅよう な役割 やくわり を演 えん じる主題 しゅだい が単一 たんいつ のモチーフから生成 せいせい される場合 ばあい もある。1888年 ねん の『交響曲 こうきょうきょく ニ短調 たんちょう 』ではこの手法 しゅほう が顕著 けんちょ に示 しめ されている。また、彼 かれ の作品 さくひん では巧 たく みな転調 てんちょう が頻繁 ひんぱん に行 おこな われる。
フランクはJ.S.バッハ を研究 けんきゅう し対位法 たいいほう を巧 たく みに用 もち いている。作曲 さっきょく に際 さい して比較的 ひかくてき 簡明 かんめい な音 おと 価 か を用 もち いる為 ため 、単一 たんいつ の旋律 せんりつ で提示 ていじ される場合 ばあい はいささか空疎 くうそ であるが、循環 じゅんかん 形式 けいしき 内 ない で複数 ふくすう の旋律 せんりつ で提示 ていじ された場合 ばあい は非常 ひじょう に高潔 こうけつ な印象 いんしょう を与 あた えるのが特徴 とくちょう である。多 おお くのフランクの門下生 もんかせい もこの手法 しゅほう にほぼ倣 なら っているが、フランクの高 たか みに触 ふ れたものはいない。
フランクは12度 ど を掴 つか むことが出来 でき る大 おお きな手 て を持 も っていた[ 62] 。これによってフランクのフーガ 作品 さくひん における声 こえ 部 ぶ 連結 れんけつ は通常 つうじょう にない自由 じゆう 度 ど を有 ゆう しており、彼 かれ の鍵盤 けんばん 楽器 がっき 作品 さくひん では和音 わおん の幅 はば の広 ひろ さが特徴 とくちょう の一 ひと つとなっている。『ヴァイオリンソナタ 』の書法 しょほう について、次 つぎ のような指摘 してき がある。「音楽家 おんがくか の手 て が皆 みな 自分 じぶん のように大 おお きくないということを幸 しあわ せにも忘 わす れがちなフランクは、ピアノパート(特 とく に第 だい 4楽章 がくしょう )に長 ちょう 10度 ど の和音 わおん を散 ち りばめている。(中略 ちゅうりゃく )以来 いらい 、ピアニストはこれを演奏 えんそう するために手 て を大 おお きく開 ひら くことを強 し いられてきたのである[ 63] 。」
フランク作品 さくひん を読 よ み解 と く鍵 かぎ は彼 かれ の性格 せいかく に求 もと められるのかもしれない。彼 かれ の友人 ゆうじん たちは彼 かれ について「これ以上 いじょう ないほど謙遜 けんそん し、気取 きど りなく、尊敬 そんけい の情 じょう に溢 あふ れ、勤勉 きんべん であった。」と評 ひょう した。弟子 でし の1人 ひとり で後 のち にノートル=ダム聖堂 せいどう の正 せい オルガニストに就 つ いたルイ・ヴィエルヌ は、フランクに関 かん する記憶 きおく を書 か き留 と めている。「(彼 かれ は)芸術 げいじゅつ の気品 きひん に対 たい する、役割 やくわり の高貴 こうき さに対 たい する、そして音 おと に対 たい して語 かた る際 さい の熱 あつ い真摯 しんし さに対 たい する絶 た え間 ま ない配慮 はいりょ (を見 み せた)。(中略 ちゅうりゃく )歓喜 かんき と陰鬱 いんうつ 、荘厳 そうごん と神秘 しんぴ 、力強 ちからづよ さと天衣無縫 てんいむほう さ。サント・クロチルド聖堂 せいどう でのフランクはこれら全 すべ てを兼 か ね備 そな えていた[ 64] 。」このフランク自身 じしん への賛美 さんび は彼 かれ の作品 さくひん すべてに敷衍 ふえん できるだろう。
管弦楽 かんげんがく 作品 さくひん
ピアノと管弦楽 かんげんがく のための作品 さくひん
ピアノ曲 きょく
室内楽 しつないがく 曲 きょく
オルガン曲 きょく
「アンダンティーノ ト短調 とたんちょう 」(1858年 ねん )
44の小品 しょうひん (1858年 ねん - 1863年 ねん )
6つの作品 さくひん (幻想曲 げんそうきょく ハ長調 ちょうちょう 、交響 こうきょう 的 てき 大曲 おおまがり 、前奏 ぜんそう 曲 きょく 、フーガと変奏曲 へんそうきょく 、パストラール、祈 いの り、終曲 しゅうきょく )(1862年 ねん )
3つの作品 さくひん (幻想曲 げんそうきょく イ長調 いちょうちょう 、カンタービレ、英雄 えいゆう 的 てき 作品 さくひん )(1878年 ねん )
3つのコラール (1890年 ねん )
オラトリオ
『ルツ』(1845年 ねん )
『贖罪 しょくざい 』(1872年 ねん )
『至福 しふく 』(1869年 ねん - 1879年 ねん )
『レベッカ』(1880年 ねん - 1881年 ねん )
歌曲 かきょく
ばらの結婚 けっこん (1871年 ねん )
天使 てんし の糧 かて (天使 てんし のパン)(1872年 ねん ) - 「3声 こえ のミサ曲 きょく イ長調 いちょうちょう 」(1860年 ねん )に後 ご から追加 ついか された楽章 がくしょう
夜想曲 やそうきょく (1884年 ねん )
聖 せい 行列 ぎょうれつ (1888年 ねん )
小惑星 しょうわくせい (4546) Franck はフランクの名前 なまえ にちなんで命名 めいめい された[ 65] 。
^ 当時 とうじ のフランスの法律 ほうりつ では、25歳 さい 未満 みまん の男子 だんし の婚姻 こんいん の場合 ばあい に父親 ちちおや がそれを禁止 きんし することができた。
^ フランクの母 はは の立場 たちば は明 あき らかではない。ある程度 ていど 息子 むすこ の味方 みかた になっていたか、もしくは争 あらそ いからは完全 かんぜん に距離 きょり を置 お いていたかである。
^ ただし、出版 しゅっぱん は1868年 ねん である。
^ 「フランクは決 けっ して固 かた く決 き まりきった規則 きそく や、出来合 できあ いの理論 りろん を使 つか って教 おし えようとはしなかった[ 34] 。」
^ 題材 だいざい はシカール(Sicard)とルイ・ド・フールコー(Louis de Fourcaud)という人物 じんぶつ の詩的 してき スケッチに基 もと づいていた。
^ 反応 はんのう は「率直 そっちょく な熱狂 ねっきょう 」から「型通 かたどお りの軽蔑 けいべつ 」まで幅広 はばひろ いものだった。
^ 例 たと えばイングリッシュ・ホルン の使用 しよう などが挙 あ げられる。
^ かつては5月 がつ と考 かんが えられていた。
^ 腹膜炎 ふくまくえん 、心 こころ 膜 まく 炎 えん などとされる場合 ばあい もある。
^ ダンディはニコラ=ジョゼフを「厳格 げんかく で独裁 どくさい 的 てき 」と評 ひょう していた。(p. 31); ヴァラは明確 めいかく に「経済 けいざい 的 てき 搾取 さくしゅ 」について言及 げんきゅう している。(p. 16)
^ Vallas, p. 15
^ Vallas, p. 22
^ d'Indy, 31
^ a b d'Indy, p. 34
^ Vallas, p. 37
^ Vallas, p. 45
^ Vallas, p. 62
^ Davies, p. 63
^ d'Indy, p. 111
^ Davies, p. 62
^ Vallas, p. 75-6
^ Vallas, p. 105
^ d'Indy, p. 41
^ Davies, p. 72
^ Vallas, p. 84-5
^ Vallas, p. 85
^ d'Indy, p. 39
^ Vallas, p. 102
^ Vallas, p. 100
^ Vallas, p. 103
^ Vallas, p. 104
^ Smith, Toward, p. 31-34
^ Sainte-Clotilde Cavaillé-Coll organ
^ Vallas, p. 112, note
^ quoted in d'Indy, p. 41-42, note
^ Smith, Playing, p. 27
^ Vallas, p. 127
^ Davies, p. 87
^ Smith, Playing, p. 29
^ Vallas, p. 135
^ Vallas, p. 137-8; Smith, Playing, p. 30
^ d'Indy, p.235
^ d'Indy, p. 235
^ d'Indy, p. 247
^ Vallas, p. 152
^ d'Indy, p. 223
^ Vallas, p. 163
^ Vallas, p. 247
^ Vallas, p. 243
^ Vallas, p. 168
^ Stove, p. 260
^ Vallas, p. 198
^ d'Indy, p. 52
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^ d'Indy, p. 173-4
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^ Stove, pp. 279, 295
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