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ガブリエル・ユルバン・フォーレ (Gabriel Urbain Fauré , フランス語 ふらんすご 発音 はつおん : ['gabʁjɛl 'yʁbɛ̃ 'fɔʁe] , 1845年 ねん 5月12日 にち [注 ちゅう 1] - 1924年 ねん 11月4日 にち )は、フランス の作曲 さっきょく 家 か 、オルガニスト 、ピアニスト 、教育 きょういく 者 しゃ 。フランス語 ふらんすご による実際 じっさい の発音 はつおん はフォレ に近 ちか い[3] 。
同 どう 時代 じだい のフランスを代表 だいひょう する作曲 さっきょく 家 か の一人 ひとり であり、その作曲 さっきょく スタイルは20世紀 せいき の作曲 さっきょく 家 か の多 おお くに影響 えいきょう を与 あた えた。彼 かれ の作品 さくひん の中 なか でも有名 ゆうめい なものに『パヴァーヌ 』、レクイエム 、『シシリエンヌ』、ピアノのための夜想曲 やそうきょく 、歌曲 かきょく 「夢 ゆめ のあとに」、「月 つき の光 ひかり 」などがある。よく知 し られて親 した しみやすい楽曲 がっきょく は概 がい して初期 しょき に書 か かれているが、後年 こうねん になると和声 わせい 的 てき 、旋律 せんりつ 的 てき に複雑 ふくざつ 性 せい を増 ま してくる。傑作 けっさく として評価 ひょうか の高 たか い作品 さくひん の多 おお くは、この後期 こうき に生 う み出 だ されている。
フォーレの家庭 かてい は文化 ぶんか 的 てき 素養 そよう が高 たか かったが音楽 おんがく 一家 いっか ではなかった。彼 かれ の才能 さいのう は幼 おさな い頃 ころ から明 あき らかであった。9歳 さい でパリのニデルメイエール音楽 おんがく 学校 がっこう へ送 おく られると、教会 きょうかい オルガニスト、合唱 がっしょう 指揮 しき 者 しゃ になるべく指導 しどう を受 う けた。教師 きょうし 陣 じん の中 なか にいたカミーユ・サン=サーンス とは生涯 しょうがい にわたる親交 しんこう を結 むす ぶ。1865年 ねん に同校 どうこう を卒業 そつぎょう したフォーレがオルガニスト、教師 きょうし として得 え た賃金 ちんぎん はさほど多 おお いとは言 い えず、作曲 さっきょく のために取 と れる時間 じかん は少 すく なくなってしまった。壮年 そうねん 期 き になって成功 せいこう を見 み せ始 はじ めると、マドレーヌ寺院 じいん のオルガニストやパリ音楽 おんがく 院 いん の学長 がくちょう という重職 じゅうしょく に就 つ き、依然 いぜん として作曲 さっきょく に時間 じかん を充 あ てることができなかった。そのため、夏季 かき 休暇 きゅうか には田舎 いなか へと逃 のが れて作曲 さっきょく に集中 しゅうちゅう した。晩年 ばんねん にはフランスで当代 とうだい を代表 だいひょう する作曲 さっきょく 家 か として認 みと められる。1922年 ねん のパリ ではフランス共和 きょうわ 国 こく 宰相 さいしょう が音頭 おんど を取 と り、彼 かれ に敬意 けいい を表 あらわ して過去 かこ に例 れい のない国家 こっか 的 てき 音楽 おんがく 祭 さい が開催 かいさい された。フランス国外 こくがい ではフォーレの音楽 おんがく が広 ひろ く受 う け入 い れられるには数 すう 十 じゅう 年 ねん の時間 じかん を要 よう したが、唯一 ゆいいつ イギリスでは生前 せいぜん より多 おお くのファンがいた。
フォーレの音楽 おんがく はロマン派 は の終焉 しゅうえん と20世紀 せいき 半 なか ば前半 ぜんはん の近代 きんだい 音楽 おんがく を繋 つな ぐものと評 ひょう される。彼 かれ が生 う まれた時 とき にはショパン がまだ作曲 さっきょく を行 おこな っており、最 さい 晩年 ばんねん にはジャズ や、新 しん ウィーン楽 らく 派 は の無 む 調 しらべ 音楽 おんがく が聴 き かれるようになっていた。『ニューグローヴ世界 せかい 音楽 おんがく 大 だい 事典 じてん 』は彼 かれ を同 どう 時代 じだい のフランスで最 もっと も進歩 しんぽ 的 てき な作曲 さっきょく 家 か であったと述 の べ、その和声 わせい と旋律 せんりつ の革命 かくめい が後 こう の世代 せだい への和声 わせい 教育 きょういく に影響 えいきょう を与 あた えたことを特筆 とくひつ している。フォーレは最後 さいご の20年間 ねんかん 、悪化 あっか していく難聴 なんちょう に悩 なや まされた。初期 しょき の音楽 おんがく がたたえる魅力 みりょく とは対照 たいしょう 的 てき に、この時期 じき の彼 かれ の作品 さくひん はときに捉 とら えどころのなく内向 ないこう 的 てき な性格 せいかく を呈 てい しており、またときには荒々 あらあら しく情熱 じょうねつ 的 てき な表情 ひょうじょう を見 み せる。
フランス南部 なんぶ のアリエージュ県 けん 、パミエ に生 う まれた。父 ちち のトゥサントノレ・フォーレ(Toussaint-Honoré Fauré, 1810年 ねん -1885年 ねん )、母 はは のマリー=アントワネット=エレーヌ・ラレーヌ=ラプラード(Marie-Antoinette-Hélène Lalène-Laprade, 1809年 ねん -1887年 ねん )の間 あいだ の6人 にん 兄弟 きょうだい のうち末 すえ っ子 こ 、五 ご 男 なん だった[4] 。伝記 でんき 作家 さっか のジャン=ミシェル・ネクトゥー によると、フォーレ家 か は13世紀 せいき にフランスの同地 どうち を発祥 はっしょう としているという[5] 。一族 いちぞく はあるときには大 だい 地主 じぬし であったが、19世紀 せいき までにその財力 ざいりょく は衰 おとろ えていた。父方 ちちかた の祖父 そふ のガブリエルは精肉 せいにく 店 てん を営 いとな み、その息子 むすこ である父 ちち は学校 がっこう 教員 きょういん となった[6] 。フォーレの両親 りょうしん が結婚 けっこん したのは1829年 ねん である。母 はは は小 しょう 貴族 きぞく の娘 むすめ だった。6人 にん の子 こ どものうちで音楽 おんがく の才能 さいのう を示 しめ したのはガブリエルだけであった。4人 にん の兄 あに たちはジャーナリズム、政治 せいじ 、軍隊 ぐんたい 、そして役所 やくしょ 勤 つと めの道 みち へ進 すす み、姉 あね は公務員 こうむいん の妻 つま として普通 ふつう の人生 じんせい を歩 あゆ んだ[4] 。
幼 おさな いフォーレは4歳 さい になるまで養母 ようぼ のもとへ預 あづ けられて、そこで暮 く らした[7] 。1849年 ねん に父 ちち がフォワ 近郊 きんこう のモンゴージー (Montgauzy) にある教員 きょういん 養成 ようせい 校 こう であるÉcole Normale d'Instituteursの学長 がくちょう に就任 しゅうにん すると、フォーレは家族 かぞく のもとへ帰 き された[8] 。同校 どうこう にはチャペルが併設 へいせつ されており、フォーレは人生 じんせい 最後 さいご の年 とし にこう述懐 じゅっかい している。
かなり
大人 おとな しく
行儀 ぎょうぎ の
良 よ い
子供 こども だった
私 わたし は、
風光 ふうこう 明媚 めいび な
地域 ちいき で
育 そだ ちました。(
中略 ちゅうりゃく )しかし、
唯一 ゆいいつ 私 わたし が
本当 ほんとう に
明瞭 めいりょう に
思 おも い
出 だ せるのはその
小 ちい さなチャペルにあった
ハーモニウム このとです。
抜 ぬ け
出 だ せるときには
毎度 まいど そこへ
駆 か けていきました - そして
楽 たの しく
過 す ごしました。(
中略 ちゅうりゃく )
滅茶苦茶 めちゃくちゃ に
弾 ひ き(
中略 ちゅうりゃく )なんの
秩序 ちつじょ もなく、
少 すこ しの
技術 ぎじゅつ もなく、ですが
幸 しあわ せだったことを
思 おも い
出 だ します。もしそれが
天職 てんしょく を
持 も つことを
意味 いみ するところなのであれば、それは
大変 たいへん に
喜 よろこ ばしいことです
[9] 。
学生 がくせい 時代 じだい のフォーレ、1864年 ねん 。
盲目 もうもく の老婆 ろうば が聴 き きに来 き て少年 しょうねん に助言 じょげん を与 あた えており、彼女 かのじょ はフォーレの父 ちち に彼 かれ の音楽 おんがく の才能 さいのう のことを伝 つた えた[7] 。1853年 ねん には国民 こくみん 議会 ぎかい のシモン=リュシアン・ドゥフォール・ド・ソビアック (Simon-Lucien Dufaur de Saubiac) がフォーレの演奏 えんそう を聴 き き[注 ちゅう 2] 、パリにルイ・ニデルメイエール が設立 せつりつ した古典 こてん ・宗教 しゅうきょう 音楽 おんがく 学校 がっこう 、ニデルメイエール音楽 おんがく 学校 がっこう としてよく知 し られる学校 がっこう へ彼 かれ を入学 にゅうがく させるべきだと、トゥサントノレに助言 じょげん した[14] 。1年間 ねんかん の熟考 じゅっこう の末 すえ 、父 ちち は彼 かれ に同意 どうい して1854年 ねん 10月 がつ に9歳 さい になる息子 むすこ をパリへ連 つ れて行 い ったのである[15] [16] 。
地元 じもと 教区 きょうく の司祭 しさい から奨学 しょうがく 金 きん の援助 えんじょ を受 う け、フォーレは同校 どうこう で11年 ねん の寄宿 きしゅく 生活 せいかつ を送 おく る[17] 。校風 こうふう は厳格 げんかく で、教室 きょうしつ は暗 くら く、食事 しょくじ は平凡 へいぼん であり、精巧 せいこう に作 つく られた制服 せいふく が必要 ひつよう だった[10] [注 ちゅう 3] 。しかし、音楽 おんがく 教育 きょういく は優 すぐ れた内容 ないよう だった[10] 。資質 ししつ のあるオルガニスト、合唱 がっしょう 指揮 しき 者 しゃ を育成 いくせい することを目標 もくひょう とするニデルメイエールは、教会 きょうかい 音楽 おんがく に焦点 しょうてん を当 あ てていた。フォーレの教授 きょうじゅ 陣 じん はオルガンのクレマン・ロレ 、和声 わせい 学 がく のピエール=ルイ・ディーチュ 、対位法 たいいほう とフーガ のクサヴィエ・ヴァッケンターラー、そしてピアノ、単 たん 旋聖歌 か 、作曲 さっきょく を担当 たんとう するニデルメイエールだった[15] 。
1861年 ねん 3月 がつ にニデルメイエールが他界 たかい し、カミーユ・サン=サーンス がピアノを受 う け持 も つようになると、シューマン 、リスト 、ワーグナー といった同 どう 時代 じだい の音楽 おんがく が導入 どうにゅう されていった[19] 。後年 こうねん のフォーレは次 つぎ のように回想 かいそう している。「授業 じゅぎょう を終 お わらせると彼 かれ はピアノに向 む かい、巨匠 きょしょう たちの作品 さくひん を聴 き かせた。そうした人々 ひとびと は我々 われわれ の厳格 げんかく に古典 こてん 的 てき な教育 きょういく 課程 かてい では遠 とお いところに位置 いち し、加 くわ えて遥 はる か昔 むかし である当時 とうじ にはほとんど知 し られていなかった。(中略 ちゅうりゃく )そのとき私 わたし は15か16で、私 わたし が生涯 しょうがい を通 つう じて彼 かれ に対 たい して抱 だ い[てき]た、ほとんど子 こ どものような愛着 あいちゃく (中略 ちゅうりゃく )計 はか り知 し れぬ称賛 しょうさん 、尽 つ きることにない感謝 かんしゃ はこの時点 じてん に遡 さかのぼ るのである[20] 。」
サン=サーンスは教 おし え子 ご の成長 せいちょう に大 おお きな喜 よろこ びを見出 みいだ し、出来 でき る時 とき にはいつでもそのために手 て を差 さ し伸 の べた。ネクトゥーはフォーレのキャリアの各 かく 段階 だんかい において「サン=サーンスの影 かげ があったことは事実 じじつ 上 じょう 当然 とうぜん のことと看做 みな し得 え る[21] 」と述 の べている。彼 かれ らの近 ちか しい交友 こうゆう 関係 かんけい は、サン=サーンスが60年 ねん 後 ご にこの世 よ を去 さ るまで続 つづ いたのであった[1] 。
フォーレは在学 ざいがく 中 ちゅう に多数 たすう の賞 しょう を受賞 じゅしょう しており、レパートリーの常連 じょうれん 入 い りした最初 さいしょ 期 き の合唱 がっしょう 作品 さくひん である『ラシーヌの雅 みやび 歌 か 』作品 さくひん 11で獲得 かくとく した作曲 さっきょく のプルミエ・プリ(1等 とう 賞 しょう )もその一 ひと つである[15] 。1865年 ねん 7月 がつ に卒業 そつぎょう する際 さい にはオルガン、ピアノ、和声 わせい 、作曲 さっきょく で「受賞 じゅしょう 者 しゃ 」(Laureat)となり、「楽長 がくちょう 」(Maître de chapelle) の修了 しゅうりょう 証書 しょうしょ を授与 じゅよ された[22] 。
オルガニスト、作曲 さっきょく 家 か [ 編集 へんしゅう ]
ニデルメイエール音楽 おんがく 学校 がっこう を後 のち にして間 あいだ もなく、フォーレはブルターニュ 、レンヌ にあるサン=ソヴァールの教会 きょうかい でオルガニストに任用 にんよう された。1866年 ねん 1月 がつ に着任 ちゃくにん している[23] 。レンヌでの4年間 ねんかん には個人 こじん 的 てき な教 おし え子 ご を取 と ることで収入 しゅうにゅう の足 た しとしており、「数 かぞ えきれないほどのピアノレッスン」を行 おこな った[24] 。常 つね となっていたサン=サーンスからの催促 さいそく に応 おう じて作曲 さっきょく を続 つづ けてはいたが、この時期 じき の作品 さくひん は一 ひと つも現存 げんそん していない[25] 。レンヌに退屈 たいくつ すると同時 どうじ に、フォーレの信心 しんじん の浅 あさ さを正 まさ しく見抜 みぬ いた教区 きょうく の司祭 しさい との関係 かんけい も思 おも わしくなかった[26] 。フォーレが日頃 ひごろ から説教 せっきょう の最中 さいちゅう に煙草 たばこ のために抜 ぬ け出 だ す姿 すがた が目撃 もくげき されており、1870年 ねん の初 はじ めのある日曜 にちよう のミサに舞踏 ぶとう 開場 かいじょう で夜 よる を明 あ かしたその夜会 やかい 服 ふく のまま姿 すがた を現 あらわ すに至 いた り、退職 たいしょく を求 もと められてしまった[26] 。サン=サーンスの陰 かげ の助 たす けもあり、ほとんど間 あいだ を置 お かずにパリ北部 ほくぶ に位置 いち するノートルダム・ド・クリニャンクール教会 きょうかい (英語 えいご 版 ばん ) の副 ふく オルガニストの職 しょく を得 え た[27] 。しかし、彼 かれ がそこに居 お られたのはわずか数 すう か月 げつ であった。1870年 ねん の普 ひろし 仏 ふつ 戦争 せんそう 勃発 ぼっぱつ を受 う け、従軍 じゅうぐん を志願 しがん したからである。パリ包囲 ほうい を起 お こす戦 たたか いに加 くわ わったほか、ル・ブルジェ 、シャンピニー (英語 えいご 版 ばん ) 、クレテイユ での戦闘 せんとう に加 くわ わった[28] 。彼 かれ は「クロワ・ド・ゲール勲章 くんしょう 」を授与 じゅよ されている[29] 。
フォーレが職 しょく を得 え たサン=シュルピス教会 きょうかい の教会堂 きょうかいどう 内部 ないぶ
フランスがプロイセン に敗北 はいぼく すると、パリ市内 しない では1871年 ねん の3月 がつ から5月 がつ にかけてのコミューン の一時期 いちじき 、血 ち なまぐさい抗 こう 争 そう が起 お こった[29] 。フォーレは兄 あに の一人 ひとり が住 す んでいたランブイエ へ避難 ひなん し、次 つ いでスイス へ赴 おもむ くと、そこで暴力 ぼうりょく 沙汰 ざた を避 さ けて一時 いちじ 移転 いてん していたニデルメイエール音楽 おんがく 学校 がっこう の教員 きょういん の職 しょく を得 え ることができた[29] 。彼 かれ が最初 さいしょ に教 おし えた学生 がくせい はアンドレ・メサジェ であり、フォーレは彼 かれ と終生 しゅうせい の交友 こうゆう 関係 かんけい を持 も つとともに時 とき に仕事 しごと 上 じょう でも協力 きょうりょく し合 あ った[30] 。この時期 じき のフォーレの作品 さくひん は動乱 どうらん や流血 りゅうけつ の情勢 じょうせい を過度 かど に反映 はんえい するものではない。サン=サーンス、グノー 、フランク ら、作曲 さっきょく 家 か 仲間 なかま の一部 いちぶ はエレジーや愛国 あいこく 的 てき 頌歌を生 う み出 だ しているが、フォーレはそうしたものに手 て を付 つ けなかった。しかし、伝記 でんき 作家 さっか のジェシカ・デュシェンによると、彼 かれ の音楽 おんがく には「陰鬱 いんうつ さ、悲劇 ひげき が暗 くら く影 かげ を落 お とす感覚 かんかく 」が付 つ け加 くわ わり、「主 しゅ としてこの時期 じき の歌曲 かきょく である "L'Absent", "Seule!", "La Chanson du pêcheur" などにはっきりと現 あらわ れている」という[31] 。
1871年 ねん 10月 がつ にパリへ戻 もど ったフォーレは、サン=シュルピス教会 きょうかい で作曲 さっきょく 家 か 兼 けん オルガニストのシャルル=マリー・ヴィドール の下 した 、合唱 がっしょう 指揮 しき 者 しゃ に任用 にんよう された[30] 。この職務 しょくむ にあたる間 あいだ に彼 かれ はカンティクム やモテット を作曲 さっきょく しているが、それらはわずかしか現存 げんそん していない[32] 。礼拝 れいはい 中 ちゅう には、ヴィドールとフォーレは教会 きょうかい の2台 だい のオルガンで同時 どうじ に即興 そっきょう 演奏 えんそう を行 おこな うこともあり、双方 そうほう が相手 あいて の突如 とつじょ の転調 てんちょう を捉 とら えようとし合 あ っていた[31] 。フォーレは定期 ていき 的 てき にサン=サーンスの音楽 おんがく サロン や、サン=サーンスに紹介 しょうかい されたポーリーヌ・ガルシア=ヴィアルド のサロンに顔 かお を出 だ していた[15] 。
1871年 ねん 2月 がつ にフランスの音楽 おんがく を普及 ふきゅう すべく、ロマン・ビュシーヌ とサン=サーンスが共同 きょうどう 総裁 そうさい となって国民 こくみん 音楽 おんがく 協会 きょうかい が設立 せつりつ され、フォーレもその創設 そうせつ メンバーに加 くわ わった[33] 。会員 かいいん にはジョルジュ・ビゼー 、エマニュエル・シャブリエ 、ヴァンサン・ダンディ 、アンリ・デュパルク 、セザール・フランク、エドゥアール・ラロ 、ジュール・マスネ らが名 な を連 つら ねた[34] 。フォーレは1874年 ねん に協会 きょうかい の書記 しょき となっている[35] 。フォーレの作品 さくひん の多 おお くが同 どう 協会 きょうかい の演奏 えんそう 会 かい で初演 しょえん されることになる[35] 。
フォーレ、1875年 ねん 。
フォーレは1874年 ねん にサン=シュルピス教会 きょうかい からマドレーヌ寺院 じいん へと移 うつ り、たびたび演奏 えんそう 旅行 りょこう に出 で かける首席 しゅせき オルガニストのサン=サーンスが不在 ふざい の間 あいだ 、副 ふく オルガニストとしての任 にん に就 つ いた[36] 。フォーレを賞賛 しょうさん する者 もの の中 なか には、彼 かれ が40年 ねん もの間 あいだ オルガンのプロとして演奏 えんそう を行 おこな っていたにもかからわず、この楽器 がっき のために独奏 どくそう 曲 きょく を一 ひと つも残 のこ さなかったことを残念 ざんねん がる向 む きもある[37] 。彼 かれ は即興 そっきょう 演奏 えんそう で高 たか い評価 ひょうか を得 え ており[38] 、サン=サーンスの言 げん によれば彼 かれ は「自分 じぶん がそうなりたいときには第 だい 一 いち 級 きゅう のオルガニスト」であったという[39] 。フォーレは定収入 ていしゅうにゅう が得 え られるが故 ゆえ にオルガンを弾 ひ いていたに過 す ぎず、ピアノの方 ほう をより好 この んでいたのである[39] 。デュシェンは彼 かれ が能動 のうどう 的 てき にオルガンを嫌悪 けんお していたのではないかと推測 すいそく するが、なぜなら「これほどのニュアンスの精緻 せいち さ、そして官能 かんのう 性 せい を持 も つ作曲 さっきょく 家 か には、単純 たんじゅん にオルガンでは繊細 せんさい さが不十分 ふじゅうぶん であった」可能 かのう 性 せい があるからである[40] 。
1877年 ねん はフォーレにとって、公的 こうてき にも私的 してき にも重要 じゅうよう な年 とし となった[41] 。1月に国民 こくみん 音楽 おんがく 協会 きょうかい の演奏 えんそう 会 かい で演奏 えんそう されたヴァイオリンソナタ第 だい 1番 ばん が大 だい 成功 せいこう を収 おさ め、彼 かれ の作曲 さっきょく 家 か としてのキャリアは31歳 さい にして転換 てんかん 点 てん を迎 むか えた[41] 。ネクトゥーはこの作品 さくひん を、作曲 さっきょく 者 しゃ 初 はつ の大 だい 傑作 けっさく に数 かぞ えている[42] 。3月にはサン=サーンスがマドレーヌ寺院 じいん の職 しょく を辞 じ し、合唱 がっしょう 指揮 しき 者 しゃ であったテオドール・デュボワ がオルガニストを引 ひ き継 つ いだ。フォーレはデュボワの後任 こうにん に任命 にんめい される[41] 。7月にはポーリーヌ・ガルシア=ヴィアルドの娘 むすめ であったマリアンヌと婚約 こんやく 、彼女 かのじょ は彼 かれ が深 ふか く愛 あい する女性 じょせい だった[41] 。しかし理由 りゆう は不明 ふめい ながら彼女 かのじょ は同年 どうねん 11月 がつ に婚約 こんやく を破談 はだん としてしまい、フォーレは大 おお きな悲 かな しみに沈 しず んだ[43] 。気晴 きば らしのためにサン=サーンスは彼 かれ をヴァイマル へ連 つ れていき、フランツ・リスト に引 ひ き合 あ わせている。この旅 たび をきっかけにフォーレは外遊 がいゆう を好 この むようになり、以降 いこう 生涯 しょうがい にわたって旅行 りょこう に耽 ふけ るようになる[43] 。1878年 ねん から、彼 かれ はメサジェと連 つ れ立 だ ってワーグナーの楽劇 がくげき を観 み るため国外 こくがい 旅行 りょこう に繰 く り出 だ していく。2人 ふたり はケルン歌劇 かげき 場 じょう で『ラインの黄金 おうごん 』、『ワルキューレ 』を観劇 かんげき 、ミュンヘン のバイエルン国立 こくりつ 歌劇 かげき 場 じょう とロンドン のハー・マジェスティーズ劇場 げきじょう で『ニーベルングの指 ゆび 環 たまき 』全 ぜん 夜 よる 、ミュンヘンとバイロイト で『ニュルンベルクのマイスタージンガー 』、バイロイトではさらに『パルジファル 』も鑑賞 かんしょう している[44] 。彼 かれ らは合作 がっさく した不遜 ふそん な『バイロイトの想 おも い出 で 』を、催 もよお し用 よう の楽曲 がっきょく として頻繁 ひんぱん に演奏 えんそう していた。この4手 て ピアノのための小規模 しょうきぼ でテンポの速 はや い作品 さくひん では、『指 ゆび 環 たまき 』の主題 しゅだい 群 ぐん がパロディー化 か されている[45] 。フォーレはワーグナーを賞賛 しょうさん してその音楽 おんがく を熟知 じゅくち していたが[46] 、同 どう 時代 じだい ではワーグナー音楽 おんがく の影響 えいきょう 下 か に入 はい らなかった数少 かずすく ないの作曲 さっきょく 家 か のうちの一人 ひとり であった[注 ちゅう 4] 。
フォーレの肖像 しょうぞう 。ジョン・シンガー・サージェント 画 が 、1889年 ねん 。
1883年 ねん 、フォーレは一流 いちりゅう 彫刻 ちょうこく 家 か エマニュエル・フレミエ の娘 むすめ であるマリー・フレミエと結婚 けっこん した[48] 。ネクトゥーはマリーについて「美 うつく しさも、機知 きち も、運 うん もない(中略 ちゅうりゃく )狭量 きょうりょう で冷淡 れいたん [49] 」と述 の べつつ、「それら全 すべ てがありながらも[フォーレは]彼女 かのじょ に向 む ける優 やさ しさを感 かん じていた」と書 か き留 と めている。結婚 けっこん は愛 あい に溢 あふ れたものだったが、ネクトゥーの表現 ひょうげん を借 か りるならマリーは「家 いえ に籠 こも りっきり」で、一緒 いっしょ に夜会 やかい に出 で て欲 ほ しいという夫 おっと の願 ねが いを共有 きょうゆう することはなかった[50] 。さらに、彼 かれ が頻繁 ひんぱん に留守 るす にすること、家庭 かてい 生活 せいかつ を毛嫌 けぎら いすること (horreur du domicile)、そして自分 じぶん が家 いえ にいる間 あいだ に彼 かれ が不貞 ふてい を働 はたら くことに憤 いきどお るようになっていった[48] 。フォーレはマリーを友人 ゆうじん 、仲間 なかま として買 か っており、家 いえ を離 はな れる際 さい にはまめに - 毎日 まいにち となることもあった - 手紙 てがみ をしたためていたが、彼女 かのじょ の側 がわ はそうした彼 かれ の情熱 じょうねつ 的 てき な性分 しょうぶん を分 わ かち合 あ わず、情熱 じょうねつ は別所 べっしょ へとはけ口 ぐち を見出 みいだ していったのである[51] 。夫妻 ふさい は2人 ふたり の息子 むすこ を授 さず かった。1人 ひとり 目 め はエマニュエル・フォーレ=フレミエ (1883年 ねん -1971年 ねん 、マリーが自分 じぶん の姓 せい との複 ふく 合 あい 姓 せい にするよう強 つよ く主張 しゅちょう した)で[50] 、国際 こくさい 的 てき に名声 めいせい を集 あつ める生物 せいぶつ 学者 がくしゃ となった[52] 。次男 じなん のフィリップ(1889年 ねん -1954年 ねん )は作家 さっか となった。彼 かれ の作品 さくひん には歴史 れきし 、演劇 えんげき 、父 ちち や祖父 そふ の伝記 でんき などがある[53] 。
同 どう 時代 じだい の証言 しょうげん はフォーレが女性 じょせい にとって極 きわ めて魅力 みりょく 的 てき であったと認 みと めている[注 ちゅう 5] 。デュシェンの表現 ひょうげん では「パリのサロンでは彼 かれ が口説 くど き落 お とした相手 あいて が多数 たすう に上 のぼ った」とされる[55] 。1892年 ねん 頃 ごろ から歌手 かしゅ のエンマ・バルダック と浮名 うきな を流 なが した後 のち [56] 、作曲 さっきょく 家 か のアディーラ・マディソン と親密 しんみつ になり[57] 、1900年 ねん にはアルフォンス・アッセルマン の娘 むすめ でピアニストのマルグリット・アッセルマンとの出会 であ いが訪 おとず れる。これはフォーレが没 ぼっ するまで続 つづ く関係 かんけい となっていく。彼 かれ はアッセルマンにパリのマンションを用意 ようい し、彼女 かのじょ は公然 こうぜん と彼 かれ の同伴 どうはん 者 しゃ として行動 こうどう した[58] 。
マドレーヌ寺院 じいん の大 だい オルガン
家族 かぞく を養 やしな うため、フォーレはほとんどの時間 じかん をマドレーヌ寺院 じいん での日々 ひび の礼拝 れいはい 、ピアノと和声 わせい のレッスンに費 つい やした[59] 。作曲 さっきょく で得 え られる対価 たいか は雀 すずめ の涙 なみだ ほどであった。というのも、出版 しゅっぱん 社 しゃ は作品 さくひん を即金 そっきん で買 か い上 あ げ、歌曲 かきょく であれば1曲 きょく 60フラン が支払 しはら われた後 のち 、フォーレは印税 いんぜい を受 う け取 と ることもなかったからである[60] 。この時期 じき に彼 かれ は多 おお くのピアノ曲 きょく や歌曲 かきょく に加 くわ えて大 だい 規模 きぼ 作品 さくひん を複数 ふくすう 書 か いているが、数 すう 回 かい の演奏 えんそう の後 のち にその大半 たいはん を破棄 はき してしまっており、モチーフを再 さい 利用 りよう するためにいくつかの楽章 がくしょう を手元 てもと に残 のこ したのみであった[15] 。この時期 じき の作品 さくひん で現存 げんそん するものの中 なか にはレクイエム がある。1887年 ねん に着手 ちゃくしゅ すると何 なん 年 ねん もかけて改訂 かいてい と加筆 かひつ が行 おこな われ、1901年 ねん に最終 さいしゅう 版 ばん の脱 だつ 稿 こう に至 いた った[61] [注 ちゅう 6] 。1888年 ねん の初演 しょえん 後 ご に担当 たんとう 司祭 しさい はフォーレにこう述 の べたという。「我々 われわれ はこの新作 しんさく を必要 ひつよう としません。マドレーヌのレパートリーは十分 じゅうぶん に豊 ゆた かです[63] 。」
若 わか い頃 ころ のフォーレは非常 ひじょう に陽気 ようき だった。友人 ゆうじん の一人 ひとり は「若 わか い、いくらかは子供 こども じみてすらいる愉快 ゆかい さ」と書 か いていた[64] 。30代 だい からは鬱 うつ の発作 ほっさ に苦 くる しむようになり、彼 かれ 自身 じしん はこれを「脾臓 ひぞう (「癇癪 かんしゃく 」の意 い )」と表現 ひょうげん していた。その始 はじ まりは婚約 こんやく の破断 はだん 、そして作曲 さっきょく 家 か としての成功 せいこう を得 え られないことにあったのではなかろうか[15] 。1890年 ねん にはポール・ヴェルレーヌ の詞 し によりオペラを書 か くという栄 さか えある、そして割 わり のいい委嘱 いしょく の話 はなし が持 も ち上 あ がったが、当 とう の詩人 しじん が飲 の んだくれてリブレット が届 とど かず頓挫 とんざ してしまった。フォーレは友人 ゆうじん たちが彼 かれ の健康 けんこう を真剣 しんけん に心配 しんぱい するほどの抑 そもそも 鬱 うつ 状態 じょうたい へと一気 いっき に落 お ち込 こ んでしまう[65] 。常 つね にフォーレの善 よ き友人 ゆうじん だったウィナレッタ・シンガー は、カナル・グランデ に「宮殿 きゅうでん 」を所有 しょゆう していたヴェネツィア へと彼 かれ を招 まね いた[66] 。精神 せいしん を回復 かいふく させた彼 かれ は再 ふたた び作曲 さっきょく の筆 ふで を執 と り、ヴェルレーヌのテクストを基 もと に『5つのヴェネツィアの歌 うた 』の第 だい 1曲 きょく を書 か き上 あ げた。オペラの件 けん では散々 さんざん な目 め に遭 あ ったが、フォーレは彼 かれ の詩 し を賞賛 しょうさん し続 つづ けていたのである[67] 。
エンマ・バルダック
この時期 じき 、もしくはすぐ後 ご の時期 じき にフォーレとエンマ・バルダックの情事 じょうじ が始 はじ まっている。デュシェンの言 げん によると「40代 だい 終盤 しゅうばん に差 さ し掛 か かっていた彼 かれ は初 はじ めての充足 じゅうそく した、情熱 じょうねつ 的 てき な関係 かんけい 性 せい を経験 けいけん し、これが数 すう 年 ねん にわたり拡大 かくだい していく」のである[68] 。主要 しゅよう なフォーレの伝記 でんき 作家 さっか は誰 だれ もが、この密通 みっつう により創作 そうさく 力 りょく の爆発 ばくはつ と、連作 れんさく 歌曲 かきょく 『優 やさ しい歌 うた 』の例 れい に現 あらわ れているような彼 かれ の音楽 おんがく の新 あら たな独自 どくじ 性 せい がもたらされたという見解 けんかい で一致 いっち している[69] 。フォーレは1894年 ねん から1897年 ねん にかけてピアノ連弾 れんだん のための組曲 くみきょく 『ドリー 』を作曲 さっきょく し、「ドリー」として知 し られたバルダックの娘 むすめ のエレーヌへと献呈 けんてい した。フォーレがドリーの父親 ちちおや なのではないかと疑 うたが う者 もの もいたが、ネクトゥーやデュシェンらの伝記 でんき 作家 さっか たちはその可能 かのう 性 せい は低 ひく いと考 かんが えている。フォーレとエンマ・バルダックの不倫 ふりん 関係 かんけい はドリーの誕生 たんじょう 後 ご に始 はじ まったと考 かんが えられているからであるが、いずれの説 せつ にも決定的 けっていてき な証拠 しょうこ は存在 そんざい しない[70] 。
1890年代 ねんだい にフォーレの運勢 うんせい は好転 こうてん した。パリ音楽 おんがく 院 いん で作曲 さっきょく の教授 きょうじゅ を務 つと めたエルネスト・ギロー が1892年 ねん に他界 たかい すると、空席 くうせき となったポストに応募 おうぼ するようサン=サーンスがフォーレに勧 すす めたのである。音楽 おんがく 院 いん の教授 きょうじゅ 陣 じん はフォーレを危険 きけん なほど現代 げんだい 的 てき であると看做 みな しており、学長 がくちょう であったアンブロワーズ・トマ は「フォーレだと?あり得 え ない!もし彼 かれ が採用 さいよう されるようなら私 わたし は辞任 じにん する」と宣言 せんげん して任用 にんよう を阻止 そし した[71] 。しかし、フォーレはギローの別 べつ の役職 やくしょく であったフランス各地 かくち の音楽 おんがく 院 いん の調査 ちょうさ 員 いん として採用 さいよう されることになった[72] 。彼 かれ はこの仕事 しごと につきものの国 くに 中 ちゅう を巡 めぐ る長旅 ながたび を嫌 いや がりはしたが、この職 しょく では安定 あんてい した収入 しゅうにゅう が得 え られ、それによってアマチュアの生徒 せいと を教 おし えなくてもよくなった[73] 。
フォーレが教鞭 きょうべん を執 と った当時 とうじ の、パリ9区 く に位置 いち するパリ音楽 おんがく 院 いん 校舎 こうしゃ
1896年 ねん にアンブロワーズ・トマがこの世 よ を去 さ り、テオドール・デュボワが音楽 おんがく 院 いん の学長 がくちょう を引 ひ き継 つ いだ。フォーレはデュボワの後任 こうにん としてマドレーヌ寺院 じいん の首席 しゅせき オルガニストとなる。この人事 じんじ にはさらなる余波 よは があった。音楽 おんがく 院 いん で作曲 さっきょく の教授 きょうじゅ をしていたマスネ はトマの後釜 あとがま に収 おさ まるものと期待 きたい を膨 ふく らませていたが、終身 しゅうしん の任期 にんき を主張 しゅちょう して強 つよ く出過 です ぎてしまった[74] 。選 せん に漏 も れた彼 かれ は、デュボワが代 か わりに任命 にんめい を受 う けると怒 いか りのままに教授 きょうじゅ 職 しょく を辞 じ したのである[75] 。そうして空 あ いた職位 しょくい にフォーレが収 おさ まった[76] 。フォーレは多 おお くの若 わか い作曲 さっきょく 家 か を育 そだ てた。モーリス・ラヴェル 、フローラン・シュミット 、シャルル・ケクラン 、ルイ・オベール 、ジャン・ロジェ=デュカス 、ジョルジェ・エネスク 、ポール・ラドミロー 、アルフレード・カゼッラ 、ナディア・ブーランジェ などである[15] 。フォーレは門弟 もんてい たちに基本 きほん 的 てき 技能 ぎのう のしっかりした基礎 きそ 訓練 くんれん が必要 ひつよう だと考 かんが えており、有能 ゆうのう なアシスタントだったアンドレ・ジェダルジュ にその役割 やくわり を委任 いにん することを厭 いと わなかった[77] 。彼 かれ 自身 じしん の役割 やくわり は、各々 おのおの の学生 がくせい がそうした技能 ぎのう を各人 かくじん の才能 さいのう に沿 そ った形 かたち で行使 こうし することを手助 てだす けすることにあった。ロジェ=デュカスは後 のち にこう記 しる している。「彼 かれ は生徒 せいと たちが取 と り組 く んでいるものは何 なん でも拾 ひろ い上 あ げ、手許 てもと で形式 けいしき の規則 きそく を生 う み出 だ してしまう(中略 ちゅうりゃく )そして用例 ようれい を参照 さんしょう するのだが、それはいつでも巨匠 きょしょう のものから引 ひ かれるのであった[78] 。」ラヴェルはいつも教師 きょうし としてのフォーレの寛容 かんよう さを思 おも い起 お こしていた。ラヴェルの弦楽 げんがく 四 よん 重奏 じゅうそう 曲 きょく を受 う け取 と ったフォーレは平素 へいそ よりも熱意 ねつい に欠 か ける様子 ようす だったが、もう一度 いちど 原稿 げんこう を見 み せて欲 ほ しいと言 い った後 のち 、数日 すうじつ 経 た って「私 わたし が間違 まちが っていたのかもしれない」と言 い ってきた[79] 。音楽 おんがく 学者 がくしゃ のアンリ・プルニエーレ (Henry Prunières) は次 つぎ のように書 か いている。「フォーレが生徒 せいと の中 なか に育 そだ てていたのは、和声 わせい の感受性 かんじゅせい 、純粋 じゅんすい な旋律 せんりつ 線 せん 、予想 よそう 外 がい で色彩 しきさい 豊 ゆた かな転調 てんちょう への愛 あい であった。しかし、彼 かれ は決 けっ して自身 じしん のスタイルに則 のっと った作曲 さっきょく のための秘訣 ひけつ を与 あた えることはなく、そのおかげで全員 ぜんいん が様々 さまざま に異 こと なった、しばしば反対 はんたい の方向 ほうこう へと自分 じぶん の道 みち を求 もと め、見出 みいだ していったのであった[80] 。」
世紀 せいき の終 お わりにかけて書 か かれた作品 さくひん にはモーリス・メーテルリンク の『ペレアスとメリザンド 』の英語 えいご 版 ばん 初演 しょえん のために書 か かれた付随 ふずい 音楽 おんがく (1898年 ねん )や、ベジエ の円形 えんけい 劇場 げきじょう のために作曲 さっきょく された抒情 じょじょう 悲劇 ひげき 『プロメテ 』がある。野外 やがい 上演 じょうえん を念頭 ねんとう に作 つく られたため、『プロメテ』には大 だい 規模 きぼ な管弦楽 かんげんがく と声楽 せいがく が用 もち いられている。1900年 ねん 8月 がつ の初演 しょえん は大 おお きな成功 せいこう を収 おさ め、翌年 よくねん にベジエ、そして1907年 ねん にはパリでも再演 さいえん された。一般 いっぱん 的 てき な歌劇 かげき 場 じょう 向 む きのオーケストレーション に書 か き直 なお した版 はん も制作 せいさく され、1917年 ねん 5月 がつ にオペラ座 ざ で上演 じょうえん された後 のち にパリで40回 かい を超 こ える公演 こうえん を重 かさ ねた[注 ちゅう 7] 。
1903年 ねん から1921年 ねん にかけて、フォーレは定期 ていき 的 てき に『フィガロ 』紙上 しじょう で音楽 おんがく 評論 ひょうろん を行 おこな っていたが、彼 かれ はこの仕事 しごと に難儀 なんぎ していた。生来 せいらい の親切心 しんせつしん と寛容 かんよう さから、彼 かれ は作品 さくひん の良 よ い面 めん を強調 きょうちょう する傾向 けいこう があったとネクトゥーは書 か いている[15] 。
パリ音楽 おんがく 院 いん の学長 がくちょう [ 編集 へんしゅう ]
モーリス・ラヴェル
1905年 ねん のフランス音楽 おんがく 界 かい に、国内 こくない 最高 さいこう の音楽 おんがく 賞 しょう であったローマ賞 しょう にまつわるスキャンダルが発生 はっせい した。フォーレ門下 もんか のラヴェル が賞 しょう への6度目 どめ の応募 おうぼ で予選 よせん 落 お ちを喫 きっ し、これに音楽 おんがく 院 いん の保守 ほしゅ 的 てき 土壌 どじょう が一 いち 枚 まい 噛 か んでいると多 おお くの人々 ひとびと が考 かんが えたのである[82] 。大 おお きな非難 ひなん の的 まと となったデュボワは、直 ただ ちに辞意 じい を表明 ひょうめい して職責 しょくせき を離 はな れることとなった[83] 。後任 こうにん に選 えら ばれたフォーレはフランス政府 せいふ の後押 あとお しを得 え て、同校 どうこう の運営 うんえい とカリキュラムに抜本 ばっぽん 的 てき な改革 かいかく を行 おこな った。入試 にゅうし 、試験 しけん 、大会 たいかい での評決 ひょうけつ に独立 どくりつ した外部 がいぶ 審査 しんさ 員 いん を登用 とうよう するという変革 へんかく に対 たい し、それまで自分 じぶん の個人 こじん 的 てき な教 おし え子 ご に贔屓 ひいき な取 と り計 はか らいをしていた教員 きょういん らは激怒 げきど した。副 ふく 収入 しゅうにゅう が大 おお きく損 そこ なわれたと感 かん じた彼 かれ らの多 おお くが、音楽 おんがく 院 いん を去 さ っていった[84] 。学内 がくない で教 おし えられる音楽 おんがく の幅 はば を広 ひろ げ、現代 げんだい 化 か した彼 かれ は、不満 ふまん を持 も つ保守 ほしゅ 派 は のメンバーからは「ロベスピエール 」とあだ名 な されていた。ネクトゥーが述 の べるように、「オベール 、アレヴィ 、そしてわけてもマイアベーア が最高 さいこう とされていたその場所 ばしょ で(中略 ちゅうりゃく )いまやラモー や、音楽 おんがく 院 いん の壁 かべ の内側 うちがわ ではこれまで禁 きん じられた名前 なまえ であったワーグナーのアリアですら、歌 うた うことが可能 かのう となったのだ[85] 。」カリキュラムはルネサンス の多 た 声 こえ 音楽 おんがく からドビュッシー の作品 さくひん にまで拡大 かくだい された[85] 。
新 あたら しい役職 やくしょく の給与 きゅうよ 面 めん はこれまでよりも好 この ましいものだった。しかし、せっかく作曲 さっきょく 家 か としてよりも広 ひろ く知 し られるようになっていたにもかかわらず、音楽 おんがく 院 いん の運営 うんえい をしているとオルガニスト、ピアノ教師 きょうし として生活 せいかつ 費 ひ を稼 かせ ぎだすのに奮闘 ふんとう していた頃 ころ ほどのわずかな時間 じかん しか、作曲 さっきょく のためには残 のこ されていなかった[86] 。7月 がつ 最後 さいご に年度 ねんど が終了 しゅうりょう すると、パリを離 はな れた彼 かれ は通常 つうじょう スイス 湖畔 こはん に立 た つホテルに逗留 とうりゅう し、10月 がつ 初 はじ めまでの2か月 げつ 間 あいだ に集中 しゅうちゅう して作曲 さっきょく を行 おこな うのだった[87] 。この時期 じき の作品 さくひん には抒情 じょじょう オペラ『ペネロープ 』(1913年 ねん )、個性 こせい が強 つよ く発揮 はっき された後期 こうき 歌曲 かきょく (1910年 ねん に完成 かんせい した連作 れんさく 歌曲 かきょく 『イヴの唄 うた 』など)、ピアノ曲 きょく (舟歌 ふなうた 第 だい 9-11番 ばん 、夜想曲 やそうきょく 第 だい 7-11番 ばん )などがある[15] 。
世紀 せいき の変 か わり目 め のフォーレ
フォーレは1909年 ねん に選出 せんしゅつ されてフランス学士 がくし 院 いん 入 い りを果 は たす。その裏 うら には強 つよ く彼 かれ への投票 とうひょう を呼 よ び掛 か けた、長老 ちょうろう 会員 かいいん であった義父 ぎふ とサン=サーンスの存在 そんざい があった。16票 ひょう が対立 たいりつ 候補 こうほ であったヴィドール へ投 とう じられる中 なか 、18票 ひょう を得 え て辛 から くも選挙 せんきょ 戦 せん を制 せい することになった[88] [注 ちゅう 8] 。同年 どうねん にラヴェルとケクランが率 ひき いる若 わか き作曲 さっきょく 家 か の一団 いちだん が国民 こくみん 音楽 おんがく 協会 きょうかい と袂 たもと を分 わ かち、新 あたら しく独立 どくりつ 音楽 おんがく 協会 きょうかい を旗揚 はたあ げした。ダンディ を会長 かいちょう に据 す えた国民 こくみん 音楽 おんがく 協会 きょうかい は、極端 きょくたん に保守 ほしゅ 的 てき な組織 そしき へと変質 へんしつ してしまっていたのである。独立 どくりつ 音楽 おんがく 協会 きょうかい の会長 かいちょう 職 しょく を引 ひ き受 う けたフォーレであったが、国民 こくみん 音楽 おんがく 協会 きょうかい にも籍 せき を置 お いたままにしてダンディとは親密 しんみつ な関係 かんけい を保 たも った。彼 かれ の唯一 ゆいいつ の関心 かんしん は新 あたら しい音楽 おんがく を育 はぐく むことであったのだ[88] 。1911年 ねん には音楽 おんがく 院 いん のマドリッド通 どお り (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) の新 しん 校舎 こうしゃ への移転 いてん を取 と り仕切 しき った[87] 。
この頃 ころ から、フォーレの聴力 ちょうりょく には深刻 しんこく な問題 もんだい が生 しょう じてくる。聞 き こえが悪 わる くなるばかりでなく、音 おと が歪 いが むようになり、高音 こうおん と低音 ていおん が彼 かれ の耳 みみ には酷 ひど く外 はず れた音 おと に聞 き こえるようになり始 はじ めたのである[90] 。
20世紀 せいき へ入 はい って、フォーレの音楽 おんがく はイギリスで人気 にんき を獲得 かくとく し、さらにドイツ 、スペイン 、ロシア での人気 にんき も遅 おく れて後 ご を追 お う形 かたち となっていた[91] 。彼 かれ は頻繁 ひんぱん にイングランドを訪 おとず れており、1908年 ねん にバッキンガム宮殿 きゅうでん に招 まね かれて演奏 えんそう を披露 ひろう したことがきっかけとなり、ロンドンをはじめ各地 かくち へ活躍 かつやく の場 ば を広 ひろ げていった[92] 。1908年 ねん にはロンドンでエルガー の交響 こうきょう 曲 きょく 第 だい 1番 ばん の初演 しょえん を聴 き き、作曲 さっきょく 者 しゃ と食事 しょくじ を共 とも にしている[93] 。エルガーは後 のち に共通 きょうつう の知人 ちじん であるフランク・シュスター へ宛 あ てて、フォーレは「そうした本物 ほんもの の紳士 しんし だった - 最高 さいこう のフランス人 じん 、私 わたし は彼 かれ を大 おお いに称賛 しょうさん した」と書 か き送 おく っている[94] 。エルガーはスリー・クワイア・フェスティバル でフォーレのレクイエムを取 と り上 あ げようとしたが叶 かな わず、最終 さいしゅう 的 てき にイングランド初演 しょえん はフランス初演 しょえん に遅 おく れること約 やく 50年 ねん 後 ご の1937年 ねん まで待 ま たねばならなかった[94] 。その他 た 各国 かっこく の作曲 さっきょく 家 か もフォーレを愛 あい し、賛辞 さんじ を述 の べた。1880年代 ねんだい にはチャイコフスキー が彼 かれ を「崇敬 すうけい すべき」と考 かんが えており[95] 、アルベニス は1909年 ねん にこの世 よ を去 さ るまでフォーレと交友 こうゆう があり手紙 てがみ のやり取 と りを続 つづ けた[96] 。リヒャルト・シュトラウス は彼 かれ に助言 じょげん を求 もと め[97] 、フォーレの晩年 ばんねん にはアメリカ の若 わか い作曲 さっきょく 家 か アーロン・コープランド が熱心 ねっしん に支持 しじ した[1] 。
第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の火蓋 ひぶた が切 き って落 お とされ、フォーレは毎年 まいとし 作曲 さっきょく のために籠 こも りに行 い っていたドイツで立 た ち往生 おうじょう してしまった。どうにかドイツを脱 だっ してスイスへ入 はい り、そこからパリへと帰 かえ り着 つ く[98] 。戦時 せんじ 中 ちゅう はフランスに留 と まり続 つづ けた。サン=サーンスを筆頭 ひっとう にフランスの音楽家 おんがくか がドイツ音楽 おんがく のボイコットへ乗 の り出 だ しても、フォーレとメサジェはその思想 しそう からは距離 きょり を置 お いていた。この意見 いけん の不一致 ふいっち がサン=サーンスとの友情 ゆうじょう に疵 きず をつけることはなかった[注 ちゅう 9] 。フォーレは音楽 おんがく に国民 こくみん 性 せい を見出 みいだ しておらず、自 みずか らの芸術 げいじゅつ は「あらゆる国家 こっか からあまりに彼方 かなた の上 うえ の方 ほう に位置 いち するある国 くに に属 ぞく するものなので、どこか特定 とくてい の国家 こっか にまつわる感情 かんじょう や個別 こべつ の特性 とくせい を表現 ひょうげん せねばならない場合 ばあい は引 ひ きずりおろしてくる」のだと考 かんが えていた[101] 。そうではありながらも、彼 かれ は自分 じぶん の音楽 おんがく がドイツでは愛 あい されるというより敬 うやま われているということを認識 にんしき していた。1905年 ねん 1月 がつ に自作 じさく の演奏 えんそう 会 かい のためにフランクフルト とケルン を巡 めぐ ったフォーレは、こう記 しる している。「私 わたし の音楽 おんがく に対 たい する批評 ひひょう は少 すこ し冷 つめ たい、そして上手 うま く出来 でき 過 す ぎているというものだ!疑問 ぎもん は出 で てきていないが、フランス人 じん とドイツ人 じん は2つの異 こと なる生 い き物 もの だな[102] 。」
1920年 ねん 、75歳 さい となっていたフォーレは進行 しんこう する聴覚 ちょうかく と体力 たいりょく の衰 おとろ えを理由 りゆう に音楽 おんがく 院 いん の職務 しょくむ を退 しりぞ いた[15] 。同年 どうねん には音楽家 おんがくか には珍 めずら しく、レジオンドヌール勲章 くんしょう のグランクロワを授与 じゅよ された。1922年 ねん には共和 きょうわ 国 こく 首相 しゅしょう のアレクサンドル・ミルラン の計 はか らいにより、フォーレへの公開 こうかい 式典 しきてん 、国民 こくみん 的 てき 「オマージュ」(hommage) が催 もよお された。『ミュージカル・タイムズ 』誌 し は次 つぎ のように報 ほう じた。「ソルボンヌで開催 かいさい された大 だい 祝典 しゅくてん はフランスの高名 こうみょう な芸術 げいじゅつ 家 か の大半 たいはん を集 あつ め、[そのことが]彼 かれ には大 おお きな喜 よろこ びとなった。実 み のところ、心 しん の痛 いた む光景 こうけい だった。自 みずか らの作品 さくひん によるコンサートに出席 しゅっせき した男 おとこ は、1音 おん たりとも聴 き くことができなかったのだ。着席 ちゃくせき して物思 ものおも いに沈 しず むように前方 ぜんぽう を見 み つめた彼 かれ は、そうした中 なか ではありながらも、ありがたく満足 まんぞく したのであった[90] 。」
1922年 ねん 、フォーレのために開催 かいさい された国民 こくみん 的 てき 「オマージュ」の様子 ようす 。2つの彫像 ちょうぞう に挟 はさ まれた貴賓 きひん 席 せき にフォーレとミルラン 首相 しゅしょう がいる。
晩年 ばんねん のフォーレは多量 たりょう の喫煙 きつえん 習慣 しゅうかん にも由来 ゆらい するところのある、健康 けんこう 状態 じょうたい の悪化 あっか に苦 くる しめられた。しかしながら、彼 かれ は若 わか い作曲 さっきょく 家 か の求 もと めには応 おう じ続 つづ けており、その中 なか にはメンバーの多 おお くが彼 かれ に忠実 ちゅうじつ だった「フランス6人組 にんぐみ 」もいた[90] [注 ちゅう 10] 。ネクトゥーはこう記 しる している。「晩年 ばんねん の彼 かれ は卓越 たくえつ した精神 せいしん の活力 かつりょく を少 すこ しも失 うしな うことなく、一方 いっぽう で1875年 ねん から1895年 ねん にかけて書 か かれた作品 さくひん の官能 かんのう 性 せい や情熱 じょうねつ からはむしろ距離 きょり を置 お き、ある種 しゅ の静穏 せいおん へと至 いた った[15] 。」
人生 じんせい 最後 さいご の数 すう か月 げつ 間 あいだ 、フォーレは弦楽 げんがく 四 よん 重奏 じゅうそう 曲 きょく の完成 かんせい を目指 めざ して奮闘 ふんとう していた。20年 ねん 前 まえ にラヴェルから弦楽 げんがく 四 よん 重奏 じゅうそう 曲 きょく の献呈 けんてい を受 う け、ラヴェルらからはあなたも書 か くべきだと強 つよ く勧 すす められていた。弦楽 げんがく 四 よん 重奏 じゅうそう 曲 きょく は難 むずか しすぎるという理由 りゆう で、彼 かれ は長年 ながねん これを拒 こば んでいたのであった。ついに作曲 さっきょく の決心 けっしん をした際 さい にも恐 おそ る恐 おそ るの様相 ようそう で、妻 つま にこう述 の べている。「弦楽 げんがく のための四重奏 しじゅうそう を、ピアノなしで開始 かいし しました。これはとりわけベートーヴェン が有名 ゆうめい にし、またベートーヴェン以外 いがい の全 すべ ての者 もの に『恐怖 きょうふ 』を抱 いだ かせるようにしてしまったジャンルです[104] 。」丸 まる 一 いち 年 ねん をかけてこの作品 さくひん に取 と り組 く んだ彼 かれ は、完成 かんせい を前 まえ に長 なが い時間 じかん をこれに費 つい やし、人生 じんせい の終 お わりまであと2か月 げつ を切 き った1924年 ねん 9月 がつ 11日 にち に全曲 ぜんきょく を書 か き上 あ げた[105] 。曲 きょく の初演 しょえん は彼 かれ の死後 しご に行 おこな われた[106] 。彼 かれ は最期 さいご の時間 じかん に私的 してき に曲 きょく を演奏 えんそう しようという申 もう し出 で を断 た っている。聴力 ちょうりょく の悪化 あっか が進 すす み、彼 かれ の耳 みみ には楽音 がくおん がひどく歪 いが んで聞 き こえるまでになっていたからである[107] 。
フォーレは1924年 ねん 11月4日 にち 、肺炎 はいえん によりパリで79年 ねん の生涯 しょうがい に幕 まく を下 お ろした。マドレーヌ寺院 じいん で国葬 こくそう が営 いとな まれ、パリのパッシー墓地 ぼち に葬 ほうむ られた[108] 。
フォーレの死後 しご 、音楽 おんがく 院 いん は彼 かれ の急進 きゅうしん 性 せい を廃 はい し、音楽 おんがく の新 あたら しい潮流 ちょうりゅう に抵抗 ていこう するようになった。フォーレ自身 じしん が実践 じっせん した和声 わせい が現代 げんだい 音楽 おんがく の最 さい 遠 とお の限界 げんかい として維持 いじ され、学生 がくせい はそれ以上 いじょう に進 すす んではいけないことになった[109] 。フォーレの跡 あと を継 つ いだアンリ・ラボー は1922年 ねん から1941年 ねん まで学長 がくちょう を務 つと め、「モダニズムは敵 てき である」と宣言 せんげん した[110] 。戦 せん 間 あいだ 期 き 生 う まれの学生 がくせい たちはこの時代遅 じだいおく れの学 まな び舎 や を拒絶 きょぜつ し、バルトーク 、新 しん ウィーン楽 らく 派 は 、そしてストラヴィンスキー の新作 しんさく へと霊感 れいかん を求 もと めるようになっていった[109] 。
1945年 ねん の生誕 せいたん 100周年 しゅうねん に寄 よ せて、音楽 おんがく 学者 がくしゃ のレスリー・オーリーが『ミュージカル・タイムズ』に次 つぎ のように書 か いている。「『サン=サーンスより深 ふか みを持 も ち、ラロよりも変化 へんか に富 と み、ダンディよりも自発 じはつ 的 てき で、ドビュッシーよりも古典 こてん 的 てき 、ガブリエル・フォーレはフランス音楽 おんがく の《とびっきり》の巨匠 きょしょう であり、我 われ らが音楽 おんがく 的 てき 天才 てんさい を映 うつ す完璧 かんぺき な鏡 かがみ である。』イングランドの音楽家 おんがくか が彼 かれ の作品 さくひん への知見 ちけん を深 ふか めた折 おり には、おそらくこのロジェ=デュカスの言葉 ことば は過度 かど な称賛 しょうさん ではなく、当然 とうぜん の賛辞 さんじ に過 す ぎないと思 おも われることだろう[111] 。」
音楽 おんがく 的 てき 特徴 とくちょう [ 編集 へんしゅう ]
音楽 おんがく 史 し 的 てき な位置 いち [ 編集 へんしゅう ]
フォーレは、リスト 、ベルリオーズ 、ブラームス らが成熟 せいじゅく 期 き の作品 さくひん を生 う み出 だ していたころに青年 せいねん 期 き を過 す ごし、古典 こてん 的 てき 調 ちょう 性 せい が崩壊 ほうかい し、多 た 調 ちょう 、無 む 調 しらべ の作品 さくひん が数多 かずおお く書 か かれ、微分 びぶん 音 おん 、十 じゅう 二 に 音 おと 技法 ぎほう などが試 こころ みられていた頃 ころ に晩年 ばんねん を迎 むか えている。なかでも、調 しらべ 性 せい 崩壊 ほうかい の引 ひ き金 がね を引 ひ いたワーグナー の影響 えいきょう 力 りょく は絶大 ぜつだい で、同 どう 時代 じだい の作曲 さっきょく 家 か は多 おお かれ少 すく なかれ、ワーグナーにどう対処 たいしょ するかを迫 せま られた。
こうした流 なが れのなかで、フォーレの音楽 おんがく は折衷 せっちゅう 的 てき な様相 ようそう を見 み せる。ドビュッシー はワーグナーの影響 えいきょう を拒否 きょひ したが、フォーレは歌劇 かげき 『ペネロープ 』でライトモティーフ を採用 さいよう するなど一定 いってい の影響 えいきょう を受 う けつつも、その亜流 ありゅう とはならなかった。形式 けいしき 面 めん では、サン=サーンス の古典 こてん 主義 しゅぎ には留 と まらなかった。一方 いっぽう で、その作品 さくひん 形態 けいたい は当時 とうじ の流行 りゅうこう を追 お うこともせず、採用 さいよう したのは古典 こてん 主義 しゅぎ 的 てき な楽曲 がっきょく 形式 けいしき であった。調 しらべ 性 せい においては、頻繁 ひんぱん な転調 てんちょう の中 なか にときとして無 む 調 しらべ 的 てき な響 ひび きも挿入 そうにゅう されるが、旋律 せんりつ や調 しらべ 性 せい から離 はな れることはなかった。音階 おんかい においては、旋法 せんぽう 性 せい やドビュッシーが打 う ち立 た てた全音 ぜんおん 音階 おんかい を取 と り入 い れているが、これらに支配 しはい されたり、基 もと づくことはなかった。
フォーレの音楽 おんがく は劇的 げきてき 表現 ひょうげん を目指 めざ すものではなかったので、必然 ひつぜん 的 てき に大 だい 規模 きぼ 管弦楽 かんげんがく を擁 よう する大作 たいさく は少 すく ない。ただし、和声 わせい の領域 りょういき においてはシャブリエ とともに、ドビュッシー、ラヴェル への橋渡 はしわた しといえる存在 そんざい であり、19世紀 せいき と20世紀 せいき をつなぐ役割 やくわり を果 は たしている。
フォーレの音楽 おんがく の変遷 へんせん [ 編集 へんしゅう ]
フォーレの音楽 おんがく は、便宜 べんぎ 的 てき に初期 しょき ・中期 ちゅうき ・晩年 ばんねん の3期 き に分 わ けられることが多 おお い。初期 しょき の代表 だいひょう 作 さく として、ヴァイオリン・ソナタ第 だい 1番 ばん (作品 さくひん 13)やピアノ四 よん 重奏 じゅうそう 曲 きょく 第 だい 1番 ばん (作品 さくひん 15)がある。夜想曲 やそうきょく では第 だい 1番 ばん から第 だい 5番 ばん 、舟歌 ふなうた では第 だい 1番 ばん から第 だい 4番 ばん が相当 そうとう する。初期 しょき の作品 さくひん では、明確 めいかく な調 しらべ 性 せい と拍 はく 節 ぶし 感 かん に支 ささ えられた清新 せいしん な旋律 せんりつ 線 せん が際立 きわだ っている。旋律 せんりつ を歌 うた わせる際 さい にはユニゾン 、伴奏 ばんそう 形 がた には装飾 そうしょく 的 てき かつ流動的 りゅうどうてき なアルペジオ が多用 たよう される。ユニゾンとアルペジオはフォーレの生涯 しょうがい にわたって特徴 とくちょう 的 てき に見 み られるが、この時期 じき のそれは音色 ねいろ の効果 こうか や装飾 そうしょく 性 せい の域 いき を脱 だっ するものではない。
フォーレの中期 ちゅうき あるいは第 だい 2期 き は、ピアノ四 よん 重奏 じゅうそう 曲 きょく 第 だい 2番 ばん (作品 さくひん 45)、『レクイエム 』(作品 さくひん 48)、『パヴァーヌ 』(作品 さくひん 50)などが作曲 さっきょく された1880年代 ねんだい の後半 こうはん から、ピアノ五 ご 重奏 じゅうそう 曲 きょく 第 だい 1番 ばん (作品 さくひん 89)が完成 かんせい した1900年代 ねんだい 前半 ぜんはん までと見 み られる。同 どう 時期 じき には『主題 しゅだい と変奏 へんそう 』(作品 さくひん 73)、『ペレアスとメリザンド 』(作品 さくひん 80)なども生 う まれているほか、夜想曲 やそうきょく では第 だい 6番 ばん から第 だい 8番 ばん 、舟歌 ふなうた では第 だい 5番 ばん から第 だい 7番 ばん が該当 がいとう する。初期 しょき の曲 きょく に見 み られた輝 かがや かしく外面 がいめん 的 てき な要素 ようそ は、年 とし を経 へ るに従 したが って次第 しだい に影 かげ を潜 ひそ め、より息 いき の長 なが い、求心 きゅうしん 的 てき で簡素 かんそ 化 か された語法 ごほう へと変化 へんか していく。また、一 ひと つ一 ひと つの音 おと を保 たも ちながら和声 わせい をより流動的 りゅうどうてき に扱 あつか うことにより、拍 はく 節 ぶし 感 かん は崩 くず れ、内 うち 声 こえ 部 ぶ は半音 はんおん 階 かい 的 てき で曖昧 あいまい な調 しらべ 性 せい で進行 しんこう するようになる。こうした微妙 びみょう な内 うち 声 こえ の変化 へんか の上 うえ に、調 しらべ 性的 せいてき ・旋法 せんぽう 的 てき で簡素 かんそ でありながら流麗 りゅうれい なメロディをつけて歌 うた わせるというのが、フォーレの音楽 おんがく の特色 とくしょく となっている。
歌劇 かげき 『ペネロープ』やヴァイオリン・ソナタ第 だい 2番 ばん (作品 さくひん 108)が作曲 さっきょく された1900年代 ねんだい 後半 こうはん からは、晩年 ばんねん と見 み られる。夜想曲 やそうきょく では第 だい 9番 ばん 以降 いこう 、舟歌 ふなうた では第 だい 8番 ばん 以降 いこう の時期 じき である。この頃 ころ には耳 みみ の障害 しょうがい が始 はじ まり、扱 あつか う音域 おんいき も狭 せま くなり、半音 はんおん 階 かい 的 てき な動 うご きが支配 しはい 的 てき で調 しらべ 性感 せいかん はより希薄 きはく になっていく。ピアノ五 ご 重奏 じゅうそう 曲 きょく 第 だい 2番 ばん (作品 さくひん 115)やピアノ三 さん 重奏 じゅうそう 曲 きょく (作品 さくひん 120)では冒頭 ぼうとう にピアノによるアルペジオが見 み られるが、もはや華 はな やかさとは無縁 むえん の単純 たんじゅん 化 か された音 おと 型 がた であり、また弦 つる のユニゾンも抽象 ちゅうしょう 的 てき な高 たか みへの追求 ついきゅう あるいは収斂 しゅうれん 性 せい として働 はたら いている。
アール・ヌーヴォーとの関連 かんれん [ 編集 へんしゅう ]
フォーレ研究 けんきゅう 家 か として知 し られるジャン=ミシェル・ネクトゥーは、著書 ちょしょ 『ガブリエル・フォーレ』の中 なか で、同 どう 時代 じだい の文学 ぶんがく 者 しゃ マルセル・プルースト がフォーレの音楽 おんがく に魅了 みりょう されていたとし、プルーストとフォーレをともにアール・ヌーヴォー に属 ぞく する芸術 げいじゅつ 家 か として位置 いち づけた上 うえ で、「そのまがりくねり互 たが いに絡 から み合 あ った長 なが いフレーズと常時 じょうじ 現 あらわ れる花 はな にまつわる主題 しゅだい は、まさに1900年 ねん の芸術 げいじゅつ を象徴 しょうちょう するものである。」と述 の べている。
一般 いっぱん に、アール・ヌーヴォーは19世紀 せいき 末 まつ から20世紀 せいき 初頭 しょとう の装飾 そうしょく 美術 びじゅつ ・デザインに適用 てきよう される様式 ようしき 概念 がいねん であり、ネクトゥーの説 せつ はこれを文学 ぶんがく 、音楽 おんがく に敷衍 ふえん させたものといえる。この指摘 してき は、アール・ヌーヴォーのもつ装飾 そうしょく 性 せい や、コントラストでなく曲線 きょくせん 重視 じゅうし といった表現 ひょうげん 性 せい をフォーレの音楽 おんがく 性 せい と通 つう じるものとしてみている。この観点 かんてん からは、フォーレの別 べつ の側面 そくめん が見 み えてくることも事実 じじつ である。装飾 そうしょく 的 てき な音 おと 型 がた がメロディーに同化 どうか している点 てん では、初期 しょき の歌曲 かきょく 『夢 ゆめ のあとに』がまず挙 あ げられる。さらに、「舟歌 ふなうた 」をはじめとする作品 さくひん でのアルペジオへの傾斜 けいしゃ は、晩年 ばんねん まで見 み られる特徴 とくちょう である。ただし「装飾音 そうしょくおん 」であっても、その効果 こうか あるいは意図 いと するところが初期 しょき と晩年 ばんねん では相当 そうとう に違 ちが っているという点 てん は、上述 じょうじゅつ の通 とお りである。
フォーレは「サロン音楽 おんがく 」の作曲 さっきょく 家 か か [ 編集 へんしゅう ]
フォーレは当時 とうじ のサロン で受 う け入 い れられたため、ドビュッシーを初 はじ めとしてフォーレの作品 さくひん を「サロン音楽 おんがく 」と矮小 わいしょう 化 か して受 う けとめる風潮 ふうちょう も現在 げんざい まで存在 そんざい する。とはいえ、特 とく に中期 ちゅうき から晩年 ばんねん にかけてのフォーレの音楽 おんがく は、規模 きぼ の小 ちい さな作品 さくひん においても、ただ柔 やわ らかく上品 じょうひん で洗練 せんれん されているというだけで終 お わってはいない。伝統 でんとう 的 てき なあらゆる手法 しゅほう を駆使 くし し、ごく自然 しぜん に流 なが れる音 おと の流 なが れが独自 どくじ の緻密 ちみつ な構成 こうせい でまとめられている。
1906年 ねん に、フォーレは妻 つま に宛 あ てた手紙 てがみ でピアノ四 よん 重奏 じゅうそう 曲 きょく 第 だい 2番 ばん のアダージョ楽章 がくしょう について触 ふ れ、「存在 そんざい しないものへの願望 がんぼう は、おそらく音楽 おんがく の領域 りょういき に属 ぞく するものなのだろう」と書 か いている。また、1908年 ねん には次男 じなん フィリップに「私 わたし にとって芸術 げいじゅつ 、とりわけ音楽 おんがく とは、可能 かのう な限 かぎ り人間 にんげん をいまある現実 げんじつ から引 ひ き上 あ げてくれるものなのだ」と書 か き残 のこ している。
フォーレは死 し の2日 にち 前 まえ 、二人 ふたり の息子 むすこ に次 つぎ のような言葉 ことば を残 のこ している。「私 わたし がこの世 よ を去 さ ったら、私 わたし の作品 さくひん が言 い わんとすることに耳 みみ を傾 かたむ けてほしい。結局 けっきょく 、それがすべてだったのだ……」
以下 いか 「Op.」以下 いか の数字 すうじ は作品 さくひん 番号 ばんごう を示 しめ す。全曲 ぜんきょく リストはフォーレの楽曲 がっきょく 一覧 いちらん を参照 さんしょう 。
管弦楽 かんげんがく 曲 きょく [ 編集 へんしゅう ]
カリギュラ Op.52(Caligula , 1888年 ねん )
舞台 ぶたい 音楽 おんがく の最初 さいしょ の作品 さくひん 。大 だい デュマ の同名 どうめい の悲劇 ひげき 再演 さいえん のために小 しょう デュマ から依頼 いらい を受 う け、わずか数 すう か月 げつ で書 か き上 あ げた。劇 げき 付随 ふずい 音楽 おんがく としての初演 しょえん は1888年 ねん 11月8日 にち 。その後 ご 、演奏 えんそう 会 かい 用 よう の版 はん をフォーレ自身 じしん が作成 さくせい し、翌年 よくねん の4月 がつ 6日 にち に国民 こくみん 音楽 おんがく 協会 きょうかい の演奏 えんそう 会 かい で初演 しょえん された。
ペレアスとメリザンド Op.80(Pelléas et Mélisande , 1898年 ねん )
別項 べっこう 参照 さんしょう
マスクとベルガマスク Op.112(Masques et Bergamasques , 1919年 ねん )
【1. 序曲 じょきょく / 2. パストラール / 3. マドリガル / 4. いちばん楽 たの しい道 みち / 5. メヌエット / 6. 月 つき の光 ひかり / 7. ガヴォット / 8. パヴァーヌ 】
舞台 ぶたい 音楽 おんがく としては最後 さいご の作品 さくひん 。ただし、8曲 きょく 中 ちゅう 4曲 きょく はすでに作曲 さっきょく されていた他 ほか の作品 さくひん を取 と り込 こ んだもので、新 あら たに作曲 さっきょく されたのは第 だい 1, 2, 5, 7曲 きょく のみ。旧作 きゅうさく の第 だい 6曲 きょく 、第 だい 8曲 きょく は単独 たんどく で演奏 えんそう され親 した しまれている。ルネ・フォーショワ の台本 だいほん による。初演 しょえん は1919年 ねん 4月 がつ 10日 とおか モンテカルロ 。
ピアノと管弦楽 かんげんがく のためのバラード Op.19(1880年 ねん )
全体 ぜんたい は3部 ぶ からなる。(Andante cantabile - Allegro moderato - Andante ただし第 だい 2部 ぶ は出版 しゅっぱん 譜 ふ によりAllegretto moderato)主調 しゅちょう は嬰ヘ長調 ちょうちょう 。全曲 ぜんきょく を通 とお して三 みっ つの主題 しゅだい が執拗 しつよう に反復 はんぷく されるだけの形式 けいしき をとっている。
室内楽 しつないがく 曲 きょく [ 編集 へんしゅう ]
ピアノ五 ご 重奏 じゅうそう 曲 きょく 第 だい 1番 ばん ニ短調 たんちょう Op.89(1903年 ねん - 1906年 ねん )
【1. Molto moderato / 2. Adagio / 3. Allegretto moderato】
この作品 さくひん を作曲 さっきょく していた当時 とうじ 、フォーレは聴覚 ちょうかく 範囲 はんい が狭 せば まり高音 こうおん と低音 ていおん がピッチの違 ちが う音 おと として聞 き こえるという聴覚 ちょうかく 障害 しょうがい に悩 なや まされるようになった。1906年 ねん 3月 がつ 、作曲 さっきょく 者 しゃ のピアノ、イザイ の弦楽 げんがく 四 よん 重奏 じゅうそう 団 だん の演奏 えんそう で初演 しょえん され、イザイに献呈 けんてい された。作曲 さっきょく 者 しゃ の手紙 てがみ によると、イザイはこの曲 きょく の若々 わかわか しさ、純粋 じゅんすい に音楽 おんがく 的 てき であることに狂喜 きょうき したという。
ピアノ五 ご 重奏 じゅうそう 曲 きょく 第 だい 2番 ばん ハ短調 たんちょう Op.115(1919年 ねん - 1921年 ねん )
【1. Allegro moderato / 2. Allegro vivo / 3. Andante moderato / 4. Allegro molto】
1920年 ねん にフォーレは音楽 おんがく 院 いん を辞職 じしょく した。これにより作曲 さっきょく に充 あ てられる時間 じかん は増 ふ えたものの、経済 けいざい 的 てき な不安 ふあん を抱 かか え込 こ むことになった。ロベール・ロルタのピアノとエッキャン四 よん 重奏 じゅうそう 団 だん により行 おこな われた初演 しょえん は大 だい 成功 せいこう で聴衆 ちょうしゅう 全員 ぜんいん のスタンディング・オベーションで迎 むか えられ、批評 ひひょう 家 か からも支持 しじ された。この作品 さくひん は後輩 こうはい のポール・デュカス に献呈 けんてい された。
弦楽 げんがく 四 よん 重奏 じゅうそう 曲 きょく ホ短調 たんちょう Op.121(1924年 ねん )
【1. Allegro moderato / 2. Andante / 3. Allegro】
フォーレ最後 さいご の作品 さくひん 。ピアノを含 ふく まない唯一 ゆいいつ の室内楽 しつないがく 作品 さくひん でもある。フォーレはこの作品 さくひん を弟子 でし に見 み せ、「君 きみ がよく見 み て、おかしいところがなければ発表 はっぴょう してくれ」と頼 たの んだといわれる。初演 しょえん は作曲 さっきょく 者 しゃ の死後 しご 1925年 ねん 6月12日 にち にフランス国立 こくりつ 音楽 おんがく ・演劇 えんげき 学校 がっこう で行 おこな われた。
ピアノ四 よん 重奏 じゅうそう 曲 きょく 第 だい 1番 ばん ハ短調 たんちょう Op.15(1879年 ねん )
【1. Allegro molto moderato / 2. Scherzo / 3. Adagio / 4. Allegro molto】
マリアンヌ・ヴィアルドとの婚約 こんやく が一方 いっぽう 的 てき に破棄 はき され傷心 しょうしん の時期 じき に書 か かれた作品 さくひん 。長 なが いユニゾンや突然 とつぜん の転調 てんちょう といった音色 ねいろ や調 しらべ 性 せい 上 じょう の実験 じっけん 的 てき な試 こころ みが多 おお くなされている。初演 しょえん は1880年 ねん 2月 がつ 14日 にち に国民 こくみん 音楽 おんがく 協会 きょうかい のコンサートで行 おこな われた。
ピアノ四 よん 重奏 じゅうそう 曲 きょく 第 だい 2番 ばん ト短調 とたんちょう Op.45(1886年 ねん )
【1. Allegro molto moderato / 2. Allegro molto / 3. Adagio non troppo / 4. Allegro molto】
フォーレが円熟 えんじゅく 期 き を迎 むか えた時期 じき の作品 さくひん で、『レクイエム 』の直前 ちょくぜん に書 か かれている。1886年 ねん 1月 がつ 22日 にち 国民 こくみん 音楽 おんがく 協会 きょうかい のコンサートで初演 しょえん された。
ピアノ三 さん 重奏 じゅうそう 曲 きょく ニ短調 たんちょう Op.120(1922年 ねん - 1923年 ねん )
【1. Allegro ma non troppo / 2. Andantino / 3. Allegro vivo】
フォーレ自身 じしん はこの作品 さくひん を「小 ちい さなトリオ」と呼 よ んだが、弟子 でし のフローラン・シュミット は「これこそが音楽 おんがく だ。そして音楽 おんがく 以外 いがい の何者 なにもの でもない。」と評 ひょう している。公開 こうかい での初演 しょえん は1923年 ねん 6月 がつ 、アルフレッド・コルトー 、ジャック・ティボー 、パブロ・カザルス により行 おこな われた。モーリス・ルーヴィエ夫人 ふじん に献呈 けんてい された。
ヴァイオリン・ソナタ第 だい 1番 ばん イ長調 いちょうちょう Op.13(1876年 ねん )
【1. Allegro molto / 2. Andante / 3. Allegro vivo / 4. Allegro quasi presto】
歌曲 かきょく ・ピアノ曲 きょく 以外 いがい で初 はじ めての本格 ほんかく 的 てき な作品 さくひん 。マリアンヌ・ヴィアルドとの恋愛 れんあい が反映 はんえい された幸福 こうふく な作品 さくひん 。マリアンヌの弟 おとうと ポール・ヴィアルドに献呈 けんてい されている。初演 しょえん は、1877年 ねん 1月 がつ 27日 にち に国民 こくみん 音楽 おんがく 協会 きょうかい の演奏 えんそう 会 かい でマリー・タヨーのヴァイオリン、作曲 さっきょく 者 しゃ のピアノで初演 しょえん された。さらに翌年 よくねん パリ万博 ばんぱく の催 もよお し物 もの としても演奏 えんそう されたが、当時 とうじ はあまり評判 ひょうばん にならなかった。しかし、サン=サーンス は手紙 てがみ でフォーレの才能 さいのう を賞賛 しょうさん している。
ヴァイオリン・ソナタ第 だい 2番 ばん ホ短調 たんちょう Op.108(1916年 ねん - 1917年 ねん )
【1. Allegro non troppo / 2. Andante / 3. Allegro non troppo】
1916年 ねん 8月 がつ 16日 にち 付 づ けの手紙 てがみ で、この作品 さくひん に着手 ちゃくしゅ したことを妻 つま に知 し らせている。第 だい 1番 ばん とは40年 ねん を隔 へだ てて作曲 さっきょく されたこの作品 さくひん は、第 だい 1番 ばん とは対照 たいしょう 的 てき にフォーレ晩年 ばんねん の書法 しょほう で書 か かれている。1917年 ねん 11月10日 にち 、国民 こくみん 音楽 おんがく 協会 きょうかい の演奏 えんそう 会 かい でリュシアン・カペー のヴァイオリン、アルフレッド・コルトーのピアノで初演 しょえん された。
チェロ・ソナタ第 だい 1番 ばん ニ短調 たんちょう Op.109(1917年 ねん )
【1. Allegro / 2. Andante / 3. allegro commodo】
ヴァイオリンソナタ第 だい 2番 ばん の完成 かんせい に引 ひ き続 つづ いて作曲 さっきょく され、1918年 ねん 1月 がつ にアンドレ・エッキングとアルフレッド・コルトーにより初演 しょえん された。第 だい 1楽章 がくしょう ではアクセントが多用 たよう される。子守 こもり 唄 うた 調 ちょう の旋律 せんりつ の音 おと 形 がた が繰 く り返 かえ される第 だい 2楽章 がくしょう を経 へ て、第 だい 3楽章 がくしょう ではピアノに寄 よ り添 そ いつつチェロが歌 うた う。
チェロ・ソナタ第 だい 2番 ばん ト短調 とたんちょう Op.117(1921年 ねん )
【1. Allegro / 2. Andante / 3. Allegro vivo】
1921年 ねん にフォーレはナポレオン1世 せい 没後 ぼつご 100年 ねん 記念 きねん 式典 しきてん のための『葬送 そうそう 歌 か 』を吹奏楽 すいそうがく 用 よう に作曲 さっきょく 、これをチェロ・ソナタ第 だい 2番 ばん の中 なか 間 あいだ 楽章 がくしょう に転用 てんよう した。1922年 ねん 5月、ジェラール・エッキングとアルフレッド・コルトーによって初演 しょえん された。ヴァンサン・ダンディ は、初演 しょえん の翌日 よくじつ 「一 いち 晩 ばん たったいまでも、君 きみ の美 うつく しいチェロソナタに魅了 みりょう されつづけている。アンダンテは表現 ひょうげん 力 りょく に富 と み、真 しん の傑作 けっさく だ」とフォーレに書 か き送 おく っている。第 だい 1番 ばん より演奏 えんそう 機会 きかい が多 おお い。
シシリエンヌ ト短調 とたんちょう Op.78(Sicilienne , 1898年 ねん )
チェロとピアノのための作品 さくひん 。後 のち に『ペレアスとメリザンド 』に転用 てんよう 。
『塔 とう の中 なか の奥方 おくがた 』(Une châtelaine en sa tour ) イ短調 たんちょう Op.110(1918年 ねん )
ハープ 独奏 どくそう 曲 きょく 。
『主題 しゅだい と変奏 へんそう 』(Thème et Variations ) 嬰ハ短調 たんちょう Op.73(1895年 ねん )
主題 しゅだい と11の変奏 へんそう からなる。1896年 ねん 12月、レオン・ドゥラフォスによって初演 しょえん された。夜想曲 やそうきょく 第 だい 6番 ばん 、舟歌 ふなうた 第 だい 5番 ばん と同 どう 時期 じき の作品 さくひん であり、これらとともに、フォーレの最 もっと も充実 じゅうじつ したピアノ作品 さくひん とされる。コルトーは、「音楽 おんがく 的 てき な豊 ゆた かさ、表現 ひょうげん の深 ふか さ、器楽 きがく 的 てき 内容 ないよう の質 しつ の高 たか さからして、あらゆる時代 じだい のピアノ音楽 おんがく のうち、希有 けう で最 もっと も高貴 こうき な記念 きねん 碑 ひ の一 ひと つ」と激賞 げきしょう している。
ピアノ組曲 くみきょく 『ドリー 』(Dolly ) Op.56(1893年 ねん - 1896年 ねん )
【1. 子守 こもり 歌 か / 2. ミ-ア-ウ / 3. ドリーの庭 にわ / 4. キティー・ヴァルス / 5. 優 やさ しさ / 6. スペインの踊 おど り】
4手 て ピアノ のための作品 さくひん 。「ドリー」とは、フォーレが可愛 かわい がっていた子供 こども で、この作品 さくひん を献呈 けんてい されたエレーヌ・バルダックの愛称 あいしょう である。ちなみにドビュッシーが『子供 こども の領分 りょうぶん 』を書 か いた時 とき に題材 だいざい にしたシュウシュウという愛称 あいしょう の子供 こども は、エレーヌの母親 ははおや エンマがドビュッシーと再婚 さいこん してもうけた子供 こども であった。管弦楽 かんげんがく 版 ばん (アンリ・ラボー 編曲 へんきょく )、ピアノ独奏 どくそう 版 ばん などの編曲 へんきょく でも親 した しまれている。
ヴァルス=カプリス 全 ぜん 4曲 きょく
【1. イ長調 いちょうちょう Op.30 / 2. 変 へん ニ長調 ちょうちょう Op.38 / 3. 変 へん ト長調 とちょうちょう Op.59 / 4. 変 へん イ長調 いちょうちょう Op.62】
即興 そっきょう 曲 きょく 全 ぜん 5曲 きょく
【1. 変 へん ホ長調 ちょうちょう Op.25 / 2. ヘ短調 たんちょう Op.31 / 3. 変 へん イ長調 いちょうちょう Op.34 / 4. 変 へん ニ長調 ちょうちょう Op.91 / 5. 嬰ヘ短調 たんちょう Op.102】
上述 じょうじゅつ の5曲 きょく にハープのために書 か き下 お ろされピアノに編曲 へんきょく された1曲 きょく (変 へん ニ長調 ちょうちょう 、Op.86bis)を含 ふく め6曲 きょく とカウントすることもある。第 だい 3番 ばん までと後期 こうき に書 か かれた2曲 きょく との間 あいだ にはそのスタイルに大 おお きな隔 へだ たりがある。第 だい 3番 ばん までの3曲 きょく はサン=サーンスの手 て により初演 しょえん されている。
夜想曲 やそうきょく 全 ぜん 13曲 きょく
【1. 変 へん ホ短調 たんちょう Op.33-1 / 2. ロ長調 ちょうちょう Op.33-2 / 3. 変 へん イ長調 いちょうちょう Op.33-3 / 4. 変 へん ホ長調 ちょうちょう Op.36 / 5. 変 へん ロ長調 ちょうちょう Op.37 / 6. 変 へん ニ長調 ちょうちょう Op.63 / 7. 嬰ハ短調 たんちょう Op.74 / 8. 変 へん ニ長調 ちょうちょう Op.84-8 / 9. ロ短調 たんちょう Op.97 / 10. ホ短調 たんちょう Op.99 / 11. 嬰ヘ短調 たんちょう Op.104-1 / 12. ホ短調 たんちょう Op.107 / 13. ロ短調 たんちょう Op.119 】
夜想曲 やそうきょく の作曲 さっきょく 時期 じき はフォーレの活動 かつどう 時期 じき のすべてにわたっている。第 だい 13番 ばん はピアノ作品 さくひん の掉尾 ちょうび を飾 かざ る曲 きょく である。ピアニストのマルグリット・ロン は第 だい 6番 ばん を「フォーレの最 もっと も美 うつく しいインスピレーション」と評 ひょう している。
舟歌 ふなうた 全 ぜん 13曲 きょく
【1. イ短調 たんちょう Op.26 / 2. ト長調 とちょうちょう Op.41 / 3. 変 へん ト長調 とちょうちょう Op.42 / 4. 変 へん イ長調 いちょうちょう Op.44 / 5. 嬰ヘ短調 たんちょう Op.66 / 6. 変 へん ホ長調 ちょうちょう Op.70 / 7. ニ短調 たんちょう Op.90 / 8. 変 へん ニ長調 ちょうちょう Op.96 / 9. イ短調 たんちょう Op.101 / 10. イ短調 たんちょう Op.104-2 / 11. ト短調 とたんちょう Op.105-1 /12. 変 へん ホ長調 ちょうちょう Op.105-2 / 13. ハ長調 ちょうちょう Op.116】
第 だい 4番 ばん まではヴェネツィアを訪 おとず れる前 まえ に作曲 さっきょく されており、フォーレの憧 あこが れとしてのイタリアを描 えが き出 だ したものといわれている。
前奏 ぜんそう 曲 きょく 集 しゅう Op.103 全 ぜん 9曲 きょく (1910年 ねん )
【1. 変 へん ニ長調 ちょうちょう / 2. 嬰ハ短調 たんちょう / 3. ト短調 とたんちょう / 4. ヘ長調 ちょうちょう / 5. ニ短調 たんちょう / 6. 変 へん ホ短調 たんちょう / 7. イ長調 いちょうちょう / 8. ハ短調 たんちょう / 9. ホ短調 たんちょう 】
フォーレがこの前奏 ぜんそう 曲 きょく 集 しゅう を作曲 さっきょく した時期 じき は、ドビュッシーが前奏 ぜんそう 曲 きょく 集 しゅう 第 だい 1巻 かん を作曲 さっきょく した時期 じき と重 かさ なっている。ドビュッシーの作品 さくひん と異 こと なり、フォーレは作曲 さっきょく 意図 いと の手 て がかりを残 のこ していない。フォーレは1910年 ねん の1月 がつ に最初 さいしょ 3曲 きょく の前奏 ぜんそう 曲 きょく を出版 しゅっぱん 者 しゃ に渡 わた しており、同 おな じ年 ねん の秋 あき にかけて残 のこ りの6曲 きょく を作曲 さっきょく した。
夢 ゆめ のあとで Op.7-1(Après un rêve , 1865年 ねん 頃 ごろ )
歌曲 かきょく 集 しゅう 『3つの歌 うた 』Op.7の第 だい 1曲 きょく 。ロマン・ビュシーヌ によるイタリア詩 し からの訳詩 やくし による作品 さくひん 。フォーレの歌曲 かきょく 中 ちゅう 最 もっと も有名 ゆうめい な作品 さくひん 。様々 さまざま な編曲 へんきょく で演奏 えんそう される。
イスパハーンの薔薇 ばら Op.39-4(Les Roses d'Ispahan , 1884年 ねん )
歌曲 かきょく 集 しゅう 『4つの歌 うた 』Op.39の第 だい 4曲 きょく 。ルコント・ド・リール の詩 し による作品 さくひん 。
月 つき の光 ひかり Op.46-2(Clair de lune , 1887年 ねん )
歌曲 かきょく 集 しゅう 『2つの歌 うた 』Op.46の第 だい 2曲 きょく 。ポール・ヴェルレーヌ の詩 し による作品 さくひん 。これ以後 いご の7年間 ねんかん 、フォーレはヴェルレーヌの詩 し に集中 しゅうちゅう 的 てき に作曲 さっきょく するようになる。
5つのヴェネツィアの歌 うた Op.58(Cinq mélodies de Venise , 1891年 ねん )
【1. マンドリン / 2. ひそやかに / 3. グリーン /4. クリメーヌに / 5. 恍惚 こうこつ 】
ヴェルレーヌの詩 し による、フォーレの最初 さいしょ の連作 れんさく 歌曲 かきょく 集 しゅう 。1891年 ねん 5月にイタリアのヴェネツィア、フィレンツェに旅行 りょこう したときに「マンドリン」が書 か かれ、その夏 なつ に全曲 ぜんきょく が完成 かんせい している。
歌曲 かきょく 集 しゅう 『優 やさ しい歌 うた 』 Op.61(La bonne chanson , 1891年 ねん - 1892年 ねん )
【1. 後光 ごこう を背負 せお った聖女 せいじょ / 2. 暁 あかつき の光 ひかり は広 ひろ がり / 3. 白 しろ い月影 つきかげ は森 もり に照 て り /4. 私 わたし はつれない道 みち を歩 あゆ む / 5. 私 わたし は本当 ほんとう に恐 おそ ろしいほど / 6. 暁 あかつき の星 ほし よ、おまえが消 き える前 まえ に / 7. それはある夏 なつ の明 あか るい日 ひ / 8. そうでしょう / 9. 冬 ふゆ が終 お わって】
ヴェルレーヌの詩 し による歌曲 かきょく 集 しゅう 。全曲 ぜんきょく を通 つう じていくつかの共通 きょうつう した動機 どうき が確認 かくにん され、統一 とういつ 性 せい がもたらされている。作曲 さっきょく 当時 とうじ 、親密 しんみつ であったエンマ・バルダック(歌手 かしゅ でもあった)との交際 こうさい とその助言 じょげん に大 おお いに触発 しょくはつ され、後年 こうねん フォーレは「『優 やさ しい歌 うた 』ほど自発 じはつ 的 てき に書 か けた作品 さくひん はなかった。少 すく なくとも、最 もっと も感動 かんどう 的 てき な歌手 かしゅ が備 そな えていた自発 じはつ 性 せい によって、自然 しぜん と明快 めいかい な表現 ひょうげん が生 う み出 だ されていったことは付 つ け加 くわ えておかねばならない。」と述懐 じゅっかい している。この作品 さくひん を聴 き いたサン=サーンスが「フォーレは完全 かんぜん に気 き が狂 くる ってしまった」と叫 さけ んだことが知 し られている。フォーレ自身 じしん による、伴奏 ばんそう をピアノと弦楽 げんがく 五 ご 重奏 じゅうそう のために編曲 へんきょく した版 はん がある。
九 きゅう 月 がつ の森 もり で Op.85-1(Dans la forêt de septembre , 1902年 ねん )
歌曲 かきょく 集 しゅう 『3つの歌 うた 』Op.85の第 だい 1曲 きょく 。カチュール・マンデス の詩 し による作品 さくひん 。
歌曲 かきょく 集 しゅう 『イヴの歌 うた 』 Op.95(La chanson d'Ève , 1906年 ねん - 1910年 ねん )
【1. 楽園 らくえん / 2. 最初 さいしょ の言葉 ことば / 3. 燃 も えるバラ / 4. 神 かみ の輝 かがや きのように / 5. 夜明 よあ け / 6. 流 なが れる水 みず / 7. 目覚 めざ めているか、太陽 たいよう の香 かお り / 8. 白 しろ いバラの香 かお りの中 なか で / 9. たそがれ / 10. おお死 し よ、星 ほし くずよ】
シャルル・ファン・レルベルグの詩 し による歌曲 かきょく 集 しゅう 。1910年 ねん 4月 がつ 、ジャンヌ・ロネーのソプラノ(献呈 けんてい も)、フォーレのピアノによって初演 しょえん された。『優 やさ しい歌 うた 』のような統一 とういつ 性 せい は見 み られない。これについてフォーレは「異 こと なった性格 せいかく の二 ふた つの詩 し からは必然 ひつぜん 的 てき に二 ふた つの異 こと なった音楽 おんがく が生 う まれる」と語 かた っている。
歌曲 かきょく 集 しゅう 『閉 と ざされた庭 にわ 』 Op.106(Le jardin clos , 1914年 ねん )
【1. 聴許 ちょうきょ / 2. あなたが私 わたし の目 め を見入 みい るとき / 3. 使 つか い女 おんな / 4. 私 わたし はおまえの心 しん に身 み を委 ゆだ ねよう / 5. ニンフの神殿 しんでん で / 6. 薄暗 うすくら がりで / 7. 私 わたし には大切 たいせつ なのです、愛 あい の神 かみ よ / 8. 砂 すな の上 うえ の墓碑銘 ぼひめい 】
ファン・レルベルグの詩 し による2つめの連作 れんさく 歌曲 かきょく 集 しゅう 。より簡潔 かんけつ で透明 とうめい な後期 こうき の様式 ようしき が現 あらわ れている。
歌曲 かきょく 集 しゅう 『幻影 げんえい 』 Op.113(Mirages , 1919年 ねん )
【1. 水 みず の上 うえ の白鳥 はくちょう / 2. 水 みず に映 うつ る影 かげ / 3. 夜 よる の庭 にわ /4. 踊 おど り子 こ 】
ルネ・ド・ブリモン男爵 だんしゃく 夫人 ふじん の詩 し による歌曲 かきょく 集 しゅう 。1919年 ねん 7月 がつ から8月 がつ にかけて一 いち 月 がつ 足 た らずで作曲 さっきょく された。同年 どうねん 12月 がつ 、マドレーヌ・グレー のソプラノ(献呈 けんてい も)、フォーレのピアノによって初演 しょえん された。
歌曲 かきょく 集 しゅう 『幻想 げんそう の水平 すいへい 線 せん 』 Op.118(L'horizon chimérique , 1921年 ねん )
【1. 海 うみ は果 は てしなく / 2. 私 わたし は乗 の った / 3. ディアーヌよ、セレネよ /4. 船 ふね たちよ、我々 われわれ はおまえたちと】
第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん で若 わか くして散 ち った詩人 しじん 、ジャン・ド・ラ・ヴィル・ド・ミルモンの詩 し による、フォーレ最後 さいご の歌曲 かきょく 集 しゅう 。1921年 ねん 秋 あき 、チェロソナタ第 だい 2番 ばん の完成 かんせい 後 ご に作曲 さっきょく された。翌 よく 1922年 ねん 5月、シャルル・パンゼラ (献呈 けんてい も)の独唱 どくしょう とフォーレのピアノによって初演 しょえん された。初演 しょえん 者 しゃ のパンゼラは、その著書 ちょしょ のなかで「ガブリエル・フォーレよ、あなたの最後 さいご の曲 きょく 集 しゅう は一人 ひとり の詩人 しじん の最後 さいご の作品 さくひん と交 まじ わった」と書 か いている。ネクトゥーは「貴族 きぞく 的 てき な慎 つつし みをそなえた『幻影 げんえい 』とは対照 たいしょう 的 てき に、直 ただ ちに魅了 みりょう する直接的 ちょくせつてき な調子 ちょうし を持 も つ」力強 ちからづよ く輝 かがや かしい作品 さくひん としている。
宗教 しゅうきょう 曲 きょく ・合唱 がっしょう 曲 きょく [ 編集 へんしゅう ]
ラシーヌの雅 みやび 歌 か Op.11(Cantique de Jean Racine , 1863年 ねん - 1864年 ねん )
ハルモニウム またはピアノ伴奏 ばんそう による合唱 がっしょう 曲 きょく 。
レクイエム Op.48(1887年 ねん )
別項 べっこう 参照 さんしょう 。
パヴァーヌ Op. 50(Pavane , 1887年 ねん )
合唱 がっしょう と管弦楽 かんげんがく のための作品 さくひん 。合唱 がっしょう は省 はぶ かれることもある。2種 しゅ の編曲 へんきょく 版 ばん が存在 そんざい 。
小 しょう ミサ曲 きょく (Messe basse )
アンドレ・メサジェ との共 とも 作 さく の『ヴィレルヴィルの漁師 りょうし のミサ』(Messe des pêcheurs de Villerville , 1881年 ねん - 1882年 ねん )を改作 かいさく 。
現在 げんざい ではほとんど上演 じょうえん されないが、フォーレには以下 いか の2曲 きょく の大作 たいさく がある。
悲歌 ひか 劇 げき 『プロメテ 』(Prométhée ) 全 ぜん 3幕 まく Op.82(1900年 ねん )
アイスキュロス のギリシア悲劇 ひげき に基 もと づく、ジャン・ロランおよびアンドレ=フェルディナン・エロルドの台本 だいほん 。吹奏楽 すいそうがく 編曲 へんきょく はシャルル・ユスタースによる。1900年 ねん 8月 がつ 、ベジエの野外 やがい 円 えん 戯場 ぎじょう において、300名 めい の吹奏楽 すいそうがく 団 だん 、100名 めい の弦楽 げんがく 、13名 めい のハープ、30名 めい の舞台 ぶたい 上 じょう のトランペット、200名 めい の合唱 がっしょう など、総勢 そうぜい 800人 にん に上 のぼ る演奏 えんそう 者 しゃ とフォーレ自身 じしん の指揮 しき によって初演 しょえん された。聴衆 ちょうしゅう は1万 まん 人 にん といわれる。フォーレの弟子 でし ロジェ=デュカス による通常 つうじょう のオーケストラによる演奏 えんそう 会 かい 用 よう の編曲 へんきょく がある。
歌劇 かげき 『ペネロープ 』(Pénélope ) 全 ぜん 3幕 まく (1907年 ねん - 1912年 ねん )
ギリシア叙事詩 じょじし 『オデュッセイア 』に基 もと づく、ルネ・フォーショワの台本 だいほん による。1913年 ねん 3月、レオン・ジェアン指揮 しき によりモンテカルロで初演 しょえん 、同年 どうねん 5月 がつ のパリ初演 しょえん で大 おお きな成功 せいこう を収 おさ めた。フォーレは1905年 ねん にフランス国立 こくりつ 音楽 おんがく ・演劇 えんげき 学校 がっこう の学長 がくちょう に就任 しゅうにん しており、以降 いこう 年 ねん 2か月 げつ 間 あいだ の休暇 きゅうか 中 ちゅう に集中 しゅうちゅう して作曲 さっきょく している。このため『ペネロープ』の作曲 さっきょく 期間 きかん は実質 じっしつ 10か月 げつ 程度 ていど と見 み られる。初演 しょえん に間 ま に合 あ わせるために、第 だい 2幕 まく の第 だい 2場 じょう 以降 いこう および第 だい 3幕 まく の最後 さいご の場面 ばめん のオーケストレーション について、フェルナン・ペクー(ヴァンサン・ダンディ の弟子 でし )の手 て を借 か りたことが認 みと められる。
注釈 ちゅうしゃく
^ コープランドなどの初期 しょき の文献 ぶんけん はフォーレが5月13日 にち 生 う まれであったとしている[1] 。出生 しゅっしょう 記録 きろく のその日付 ひづけ は「昨日 きのう 生 う まれ」と読 よ めることから、ネクトゥー、ジョーンズ、デュシェンらの専門 せんもん 家 か は5月12日 にち を出生 しゅっしょう 日 び としている[2] 。
^ ドゥフォール・ド・ソビアックの議会 ぎかい での立場 たちば については、文献 ぶんけん により異 こと なっている。ジョーンズは彼 かれ を「département(県 けん や省 しょう )の議会 ぎかい 代議士 だいぎし 」と特定 とくてい しており[10] 、ジョンソンも同様 どうよう である[11] 。オーリッジは同 おな じく彼 かれ は「アリエージュ県議会 けんぎかい の議員 ぎいん 」であったと述 の べ[12] 、ネクトゥーは「代議 だいぎ 院 いん の上級 じょうきゅう 公務員 こうむいん 」(第 だい 二 に 帝政 ていせい ではPalais législatifとして知 し られていた議会 ぎかい )であると記載 きさい する[7] 。デュシェンは議会 ぎかい には言及 げんきゅう せず、ドゥフォール・ド・ソビアックについて「パリでアーキビスト として働 はたら く地元 じもと の男性 だんせい 」と述 の べている[13] 。
^ 後世 こうせい の書 か き手 て はこう評 ひょう する。「学校 がっこう 制服 せいふく を着用 ちゃくよう したフォーレ少年 しょうねん の写真 しゃしん はチャペル・ロイヤル の少年 しょうねん 隊 たい の一人 ひとり であったアーサー・サリヴァン に似 に ていなくもない[18] 。」
^ フォーレはワーグナーの楽劇 がくげき では一部 いちぶ を他 た に比 くら べて好 この んでいた。『マイスタージンガー』、『パルジファル』、『指 ゆび 環 たまき 』を愛 あい する一方 いっぽう 、『タンホイザー 』と『ローエングリン 』には生暖 なまあたた かい目 め を向 む けており、『トリスタンとイゾルデ 』のことは忌 い み嫌 きら っていた。デュシェンが推測 すいそく するに、『トリスタンとイゾルデ』の「感情 かんじょう 面 めん と長 なが さ - その過剰 かじょう ぶり」がフォーレの美的 びてき 感性 かんせい と根本 こんぽん 的 てき に相容 あいい れなかったのではないかということである[47] 。
^ 彼 かれ の弟子 でし であったアルフレード・カゼッラ はフォーレが「性懲 しょうこ りのないカサノヴァ の大 おお きな、物憂 ものう げで官能 かんのう 的 てき な目 め 」を有 ゆう していたと記 しる している。パリの音楽 おんがく 界 かい ではフォーレの門下生 もんかせい のうち、最 もっと も優 すぐ れた才能 さいのう を持 も つ数 すう 名 めい は彼 かれ の婚 こん 外子 そとこ なのではないかと噂 うわさ されたほどである。この噂 うわさ の内容 ないよう が裏付 うらづ けられたことはない[54] 。
^ フォーレ自身 じしん はこの作品 さくひん についてこう述 の べている。「私 わたし の『レクイエム』について言 い うならば、恐 おそ らく本能 ほんのう 的 てき に慣習 かんしゅう から逃 のが れようと試 こころ みたのであり、長 なが い間 あいだ 画 が 一 いち 的 てき な葬儀 そうぎ のオルガン伴奏 ばんそう をつとめた結果 けっか がここに現 あらわ れている。私 わたし はうんざりして何 なに かほかのことをしてみたかったのだ[62] 。」
^ 1907年 ねん のパリ初演 しょえん はヴァンセンヌ競馬 けいば 場 じょう で行 おこな われたものの音響 おんきょう が極 きわ めて悪 わる かったため、2回 かい 目 め の公演 こうえん はオペラ座 ざ へ場所 ばしょ を移 うつ しての開催 かいさい だった。1917年版 ねんばん の管弦楽 かんげんがく 改訂 かいてい 版 ばん はフォーレの依頼 いらい により、ロジェ=デュカスが担当 たんとう した[81] 。
^ ヴィドールはこの翌年 よくねん に選出 せんしゅつ されている[89] 。
^ フォーレとメサジェは、行 い き過 す ぎた愛国心 あいこくしん から旧友 きゅうゆう が愚 おろ かに見 み られる危機 きき に直面 ちょくめん していることを懸念 けねん していた[99] 。また、台頭 たいとう する若手 わかて 作曲 さっきょく 家 か の作品 さくひん を非難 ひなん する傾向 けいこう が強 つよ まっていることについても同様 どうよう である。サン=サーンスはドビュッシーの『白 しろ と黒 くろ で 』をこき下 お ろし、「こたる暴虐 ぼうぎゃく を働 はたら きうる男 おとこ に対 たい してはいかなる代償 だいしょう をもってしても学士 がくし 院 いん の門 もん を閉 と ざさねばならない。こんなものはキュビスト の絵画 かいが の隣 となり にでも飾 かざ っておけ」と述 の べていた[100] 。
^ プーランク のみが6人組 にんぐみ で例外 れいがい 的 てき にフォーレの音楽 おんがく を毛嫌 けぎら いしていた。ネクトゥーはこれは奇妙 きみょう なことであると述 の べているが、なぜなら6人組 にんぐみ のうちでもプーランク「は澄 す んだ清明 せいめい さと、彼 かれ 自身 じしん が書 か く作品 さくひん の歌唱 かしょう 的 てき な特性 とくせい 、彼 かれ の魅力 みりょく において、フォーレに最 もっと も近 ちか い」からである[103] 。
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