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ガブリエル・フォーレ

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ガブリエル・ユルバン・フォーレ
Gabriel Urbain Fauré
1905ねん
基本きほん情報じょうほう
生誕せいたん (1845-05-12) 1845ねん5月12にち
フランスの旗 フランス王国おうこくパミエ
死没しぼつ (1924-11-04) 1924ねん11月4にち(79さいぼつ
フランスの旗 フランス共和きょうわこくパリ
ジャンル ロマン音楽おんがく
職業しょくぎょう 作曲さっきょく
活動かつどう期間きかん 1861ねん - 1924ねん

ガブリエル・ユルバン・フォーレGabriel Urbain Fauré, フランス語ふらんすご発音はつおん: ['gabʁjɛl 'yʁbɛ̃ 'fɔʁe], 1845ねん5月12にち[ちゅう 1] - 1924ねん11月4にち)は、フランス作曲さっきょくオルガニストピアニスト教育きょういくしゃフランス語ふらんすごによる実際じっさい発音はつおんフォレちか[3]

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

どう時代じだいのフランスを代表だいひょうする作曲さっきょく一人ひとりであり、その作曲さっきょくスタイルは20世紀せいき作曲さっきょくおおくに影響えいきょうあたえた。かれ作品さくひんなかでも有名ゆうめいなものに『パヴァーヌ』、レクイエム、『シシリエンヌ』、ピアノのための夜想曲やそうきょく歌曲かきょくゆめのあとに」、「つきひかり」などがある。よくられてしたしみやすい楽曲がっきょくがいして初期しょきかれているが、後年こうねんになると和声わせいてき旋律せんりつてき複雑ふくざつせいしてくる。傑作けっさくとして評価ひょうかたか作品さくひんおおくは、この後期こうきされている。

フォーレの家庭かてい文化ぶんかてき素養そようたかかったが音楽おんがく一家いっかではなかった。かれ才能さいのうおさなころからあきらかであった。9さいでパリのニデルメイエール音楽おんがく学校がっこうおくられると、教会きょうかいオルガニスト、合唱がっしょう指揮しきしゃになるべく指導しどうけた。教師きょうしじんなかにいたカミーユ・サン=サーンスとは生涯しょうがいにわたる親交しんこうむすぶ。1865ねん同校どうこう卒業そつぎょうしたフォーレがオルガニスト、教師きょうしとして賃金ちんぎんはさほどおおいとはえず、作曲さっきょくのためにれる時間じかんすくなくなってしまった。壮年そうねんになって成功せいこうはじめると、マドレーヌ寺院じいんのオルガニストやパリ音楽おんがくいん学長がくちょうという重職じゅうしょくき、依然いぜんとして作曲さっきょく時間じかんてることができなかった。そのため、夏季かき休暇きゅうかには田舎いなかへとのがれて作曲さっきょく集中しゅうちゅうした。晩年ばんねんにはフランスで当代とうだい代表だいひょうする作曲さっきょくとしてみとめられる。1922ねんパリではフランス共和きょうわこく宰相さいしょう音頭おんどり、かれ敬意けいいあらわして過去かこれいのない国家こっかてき音楽おんがくさい開催かいさいされた。フランス国外こくがいではフォーレの音楽おんがくひろれられるにはすうじゅうねん時間じかんようしたが、唯一ゆいいつイギリスでは生前せいぜんよりおおくのファンがいた。

フォーレの音楽おんがくロマン終焉しゅうえんと20世紀せいきなか前半ぜんはん近代きんだい音楽おんがくつなぐものとひょうされる。かれまれたときにはショパンがまだ作曲さっきょくおこなっており、さい晩年ばんねんにはジャズや、しんウィーンらく調しらべ音楽おんがくかれるようになっていた。『ニューグローヴ世界せかい音楽おんがくだい事典じてん』はかれどう時代じだいのフランスでもっと進歩しんぽてき作曲さっきょくであったとべ、その和声わせい旋律せんりつ革命かくめいこう世代せだいへの和声わせい教育きょういく影響えいきょうあたえたことを特筆とくひつしている。フォーレは最後さいごの20年間ねんかん悪化あっかしていく難聴なんちょうなやまされた。初期しょき音楽おんがくがたたえる魅力みりょくとは対照たいしょうてきに、この時期じきかれ作品さくひんはときにとらえどころのなく内向ないこうてき性格せいかくていしており、またときには荒々あらあらしく情熱じょうねつてき表情ひょうじょうせる。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

幼年ようねん[編集へんしゅう]

フランス南部なんぶアリエージュけんパミエまれた。ちちのトゥサントノレ・フォーレ(Toussaint-Honoré Fauré, 1810ねん-1885ねん)、ははのマリー=アントワネット=エレーヌ・ラレーヌ=ラプラード(Marie-Antoinette-Hélène Lalène-Laprade, 1809ねん-1887ねん)のあいだの6にん兄弟きょうだいのうちすえなんだった[4]伝記でんき作家さっかジャン=ミシェル・ネクトゥーによると、フォーレは13世紀せいきにフランスの同地どうち発祥はっしょうとしているという[5]一族いちぞくはあるときにはだい地主じぬしであったが、19世紀せいきまでにその財力ざいりょくおとろえていた。父方ちちかた祖父そふのガブリエルは精肉せいにくてんいとなみ、その息子むすこであるちち学校がっこう教員きょういんとなった[6]。フォーレの両親りょうしん結婚けっこんしたのは1829ねんである。ははしょう貴族きぞくむすめだった。6にんどものうちで音楽おんがく才能さいのうしめしたのはガブリエルだけであった。4にんあにたちはジャーナリズム、政治せいじ軍隊ぐんたい、そして役所やくしょつとめのみちすすみ、あね公務員こうむいんつまとして普通ふつう人生じんせいあゆんだ[4]

おさないフォーレは4さいになるまで養母ようぼのもとへあづけられて、そこでらした[7]。1849ねんちちフォワ近郊きんこうのモンゴージー (Montgauzy) にある教員きょういん養成ようせいこうであるÉcole Normale d'Instituteursの学長がくちょう就任しゅうにんすると、フォーレは家族かぞくのもとへされた[8]同校どうこうにはチャペルが併設へいせつされており、フォーレは人生じんせい最後さいごとしにこう述懐じゅっかいしている。

かなり大人おとなしく行儀ぎょうぎ子供こどもだったわたしは、風光ふうこう明媚めいび地域ちいきそだちました。(中略ちゅうりゃく)しかし、唯一ゆいいつわたし本当ほんとう明瞭めいりょうおもせるのはそのちいさなチャペルにあったハーモニウムこのとです。せるときには毎度まいどそこへけていきました - そしてたのしくごしました。(中略ちゅうりゃく滅茶苦茶めちゃくちゃき(中略ちゅうりゃく)なんの秩序ちつじょもなく、すこしの技術ぎじゅつもなく、ですがしあわせだったことをおもします。もしそれが天職てんしょくつことを意味いみするところなのであれば、それは大変たいへんよろこばしいことです[9]
学生がくせい時代じだいのフォーレ、1864ねん

盲目もうもく老婆ろうばきに少年しょうねん助言じょげんあたえており、彼女かのじょはフォーレのちちかれ音楽おんがく才能さいのうのことをつたえた[7]。1853ねんには国民こくみん議会ぎかいのシモン=リュシアン・ドゥフォール・ド・ソビアック (Simon-Lucien Dufaur de Saubiac) がフォーレの演奏えんそう[ちゅう 2]、パリにルイ・ニデルメイエール設立せつりつした古典こてん宗教しゅうきょう音楽おんがく学校がっこうニデルメイエール音楽おんがく学校がっこうとしてよくられる学校がっこうかれ入学にゅうがくさせるべきだと、トゥサントノレに助言じょげんした[14]。1年間ねんかん熟考じゅっこうすえちちかれ同意どういして1854ねん10がつに9さいになる息子むすこをパリへれてったのである[15][16]

地元じもと教区きょうく司祭しさいから奨学しょうがくきん援助えんじょけ、フォーレは同校どうこうで11ねん寄宿きしゅく生活せいかつおく[17]校風こうふう厳格げんかくで、教室きょうしつくらく、食事しょくじ平凡へいぼんであり、精巧せいこうつくられた制服せいふく必要ひつようだった[10][ちゅう 3]。しかし、音楽おんがく教育きょういくすぐれた内容ないようだった[10]資質ししつのあるオルガニスト、合唱がっしょう指揮しきしゃ育成いくせいすることを目標もくひょうとするニデルメイエールは、教会きょうかい音楽おんがく焦点しょうてんてていた。フォーレの教授きょうじゅじんはオルガンのクレマン・ロレ和声わせいがくピエール=ルイ・ディーチュ対位法たいいほうフーガのクサヴィエ・ヴァッケンターラー、そしてピアノ、たん旋聖作曲さっきょく担当たんとうするニデルメイエールだった[15]

1861ねん3がつにニデルメイエールが他界たかいし、カミーユ・サン=サーンスがピアノをつようになると、シューマンリストワーグナーといったどう時代じだい音楽おんがく導入どうにゅうされていった[19]後年こうねんのフォーレはつぎのように回想かいそうしている。「授業じゅぎょうわらせるとかれはピアノにかい、巨匠きょしょうたちの作品さくひんかせた。そうした人々ひとびと我々われわれ厳格げんかく古典こてんてき教育きょういく課程かていではとおいところに位置いちし、くわえてはるむかしである当時とうじにはほとんどられていなかった。(中略ちゅうりゃく)そのときわたしは15か16で、わたし生涯しょうがいつうじてかれたいしてい[てき]た、ほとんどどものような愛着あいちゃく中略ちゅうりゃくはかれぬ称賛しょうさんきることにない感謝かんしゃはこの時点じてんさかのぼるのである[20]。」

サン=サーンスはおし成長せいちょうおおきなよろこびを見出みいだし、出来できときにはいつでもそのためにべた。ネクトゥーはフォーレのキャリアのかく段階だんかいにおいて「サン=サーンスのかげがあったことは事実じじつじょう当然とうぜんのことと看做みな[21]」とべている。かれらのちかしい交友こうゆう関係かんけいは、サン=サーンスが60ねんにこのるまでつづいたのであった[1]

フォーレは在学ざいがくちゅう多数たすうしょう受賞じゅしょうしており、レパートリーの常連じょうれんりした最初さいしょ合唱がっしょう作品さくひんである『ラシーヌのみやび作品さくひん11で獲得かくとくした作曲さっきょくのプルミエ・プリ(1とうしょう)もそのひとつである[15]。1865ねん7がつ卒業そつぎょうするさいにはオルガン、ピアノ、和声わせい作曲さっきょくで「受賞じゅしょうしゃ」(Laureat)となり、「楽長がくちょう」(Maître de chapelle) の修了しゅうりょう証書しょうしょ授与じゅよされた[22]

オルガニスト、作曲さっきょく[編集へんしゅう]

ニデルメイエール音楽おんがく学校がっこうのちにしてあいだもなく、フォーレはブルターニュレンヌにあるサン=ソヴァールの教会きょうかいでオルガニストに任用にんようされた。1866ねん1がつ着任ちゃくにんしている[23]。レンヌでの4年間ねんかんには個人こじんてきおしることで収入しゅうにゅうしとしており、「かぞえきれないほどのピアノレッスン」をおこなった[24]つねとなっていたサン=サーンスからの催促さいそくおうじて作曲さっきょくつづけてはいたが、この時期じき作品さくひんひとつも現存げんそんしていない[25]。レンヌに退屈たいくつすると同時どうじに、フォーレの信心しんじんあささをまさしく見抜みぬいた教区きょうく司祭しさいとの関係かんけいおもわしくなかった[26]。フォーレが日頃ひごろから説教せっきょう最中さいちゅう煙草たばこのために姿すがた目撃もくげきされており、1870ねんはじめのある日曜にちようのミサに舞踏ぶとう開場かいじょうよるかしたその夜会やかいふくのまま姿すがたあらわすにいたり、退職たいしょくもとめられてしまった[26]。サン=サーンスのかげたすけもあり、ほとんどあいだかずにパリ北部ほくぶ位置いちするノートルダム・ド・クリニャンクール教会きょうかい英語えいごばんふくオルガニストのしょく[27]。しかし、かれがそこにられたのはわずかすうげつであった。1870ねんひろしふつ戦争せんそう勃発ぼっぱつけ、従軍じゅうぐん志願しがんしたからである。パリ包囲ほういこすたたかいにくわわったほか、ル・ブルジェシャンピニー英語えいごばんクレテイユでの戦闘せんとうくわわった[28]かれは「クロワ・ド・ゲール勲章くんしょう」を授与じゅよされている[29]

フォーレがしょくサン=シュルピス教会きょうかい教会堂きょうかいどう内部ないぶ

フランスがプロイセン敗北はいぼくすると、パリ市内しないでは1871ねんの3がつから5がつにかけてのコミューン一時期いちじきなまぐさいこうそうこった[29]。フォーレはあに一人ひとりんでいたランブイエ避難ひなんし、いでスイスおもむくと、そこで暴力ぼうりょく沙汰ざたけて一時いちじ移転いてんしていたニデルメイエール音楽おんがく学校がっこう教員きょういんしょくることができた[29]かれ最初さいしょおしえた学生がくせいアンドレ・メサジェであり、フォーレはかれ終生しゅうせい交友こうゆう関係かんけいつとともにとき仕事しごとじょうでも協力きょうりょくった[30]。この時期じきのフォーレの作品さくひん動乱どうらん流血りゅうけつ情勢じょうせい過度かど反映はんえいするものではない。サン=サーンス、グノーフランクら、作曲さっきょく仲間なかま一部いちぶはエレジーや愛国あいこくてき頌歌をしているが、フォーレはそうしたものにけなかった。しかし、伝記でんき作家さっかのジェシカ・デュシェンによると、かれ音楽おんがくには「陰鬱いんうつさ、悲劇ひげきくらかげとす感覚かんかく」がくわわり、「しゅとしてこの時期じき歌曲かきょくである "L'Absent", "Seule!", "La Chanson du pêcheur" などにはっきりとあらわれている」という[31]

1871ねん10がつにパリへもどったフォーレは、サン=シュルピス教会きょうかい作曲さっきょくけんオルガニストのシャルル=マリー・ヴィドールした合唱がっしょう指揮しきしゃ任用にんようされた[30]。この職務しょくむにあたるあいだかれカンティクムモテット作曲さっきょくしているが、それらはわずかしか現存げんそんしていない[32]礼拝れいはいちゅうには、ヴィドールとフォーレは教会きょうかいの2だいのオルガンで同時どうじ即興そっきょう演奏えんそうおこなうこともあり、双方そうほう相手あいて突如とつじょ転調てんちょうとらえようとしっていた[31]。フォーレは定期ていきてきにサン=サーンスの音楽おんがくサロンや、サン=サーンスに紹介しょうかいされたポーリーヌ・ガルシア=ヴィアルドのサロンにかおしていた[15]

1871ねん2がつにフランスの音楽おんがく普及ふきゅうすべく、ロマン・ビュシーヌとサン=サーンスが共同きょうどう総裁そうさいとなって国民こくみん音楽おんがく協会きょうかい設立せつりつされ、フォーレもその創設そうせつメンバーにくわわった[33]会員かいいんにはジョルジュ・ビゼーエマニュエル・シャブリエヴァンサン・ダンディアンリ・デュパルク、セザール・フランク、エドゥアール・ラロジュール・マスネらがつらねた[34]。フォーレは1874ねん協会きょうかい書記しょきとなっている[35]。フォーレの作品さくひんおおくがどう協会きょうかい演奏えんそうかい初演しょえんされることになる[35]

フォーレ、1875ねん

フォーレは1874ねんにサン=シュルピス教会きょうかいからマドレーヌ寺院じいんへとうつり、たびたび演奏えんそう旅行りょこうかける首席しゅせきオルガニストのサン=サーンスが不在ふざいあいだふくオルガニストとしてのにんいた[36]。フォーレを賞賛しょうさんするものなかには、かれが40ねんものあいだオルガンのプロとして演奏えんそうおこなっていたにもかからわず、この楽器がっきのために独奏どくそうきょくひとつものこさなかったことを残念ざんねんがるきもある[37]かれ即興そっきょう演奏えんそうたか評価ひょうかており[38]、サン=サーンスのげんによればかれは「自分じぶんがそうなりたいときにはだいいちきゅうのオルガニスト」であったという[39]。フォーレは定収入ていしゅうにゅうられるがゆえにオルガンをいていたにぎず、ピアノのほうをよりこのんでいたのである[39]。デュシェンはかれ能動のうどうてきにオルガンを嫌悪けんおしていたのではないかと推測すいそくするが、なぜなら「これほどのニュアンスの精緻せいちさ、そして官能かんのうせい作曲さっきょくには、単純たんじゅんにオルガンでは繊細せんさいさが不十分ふじゅうぶんであった」可能かのうせいがあるからである[40]

1877ねんはフォーレにとって、公的こうてきにも私的してきにも重要じゅうようとしとなった[41]。1月に国民こくみん音楽おんがく協会きょうかい演奏えんそうかい演奏えんそうされたヴァイオリンソナタだい1ばんだい成功せいこうおさめ、かれ作曲さっきょくとしてのキャリアは31さいにして転換てんかんてんむかえた[41]。ネクトゥーはこの作品さくひんを、作曲さっきょくしゃはつだい傑作けっさくかぞえている[42]。3月にはサン=サーンスがマドレーヌ寺院じいんしょくし、合唱がっしょう指揮しきしゃであったテオドール・デュボワがオルガニストをいだ。フォーレはデュボワの後任こうにん任命にんめいされる[41]。7月にはポーリーヌ・ガルシア=ヴィアルドのむすめであったマリアンヌと婚約こんやく彼女かのじょかれふかあいする女性じょせいだった[41]。しかし理由りゆう不明ふめいながら彼女かのじょ同年どうねん11がつ婚約こんやく破談はだんとしてしまい、フォーレはおおきなかなしみにしずんだ[43]気晴きばらしのためにサン=サーンスはかれヴァイマルれていき、フランツ・リストわせている。このたびをきっかけにフォーレは外遊がいゆうこのむようになり、以降いこう生涯しょうがいにわたって旅行りょこうふけるようになる[43]。1878ねんから、かれはメサジェとってワーグナーの楽劇がくげきるため国外こくがい旅行りょこうしていく。2人ふたりケルン歌劇かげきじょうで『ラインの黄金おうごん』、『ワルキューレ』を観劇かんげきミュンヘンバイエルン国立こくりつ歌劇かげきじょうロンドンハー・マジェスティーズ劇場げきじょうで『ニーベルングのゆびたまきぜんよる、ミュンヘンとバイロイトで『ニュルンベルクのマイスタージンガー』、バイロイトではさらに『パルジファル』も鑑賞かんしょうしている[44]かれらは合作がっさくした不遜ふそんな『バイロイトのおも』を、もよおよう楽曲がっきょくとして頻繁ひんぱん演奏えんそうしていた。この4ピアノのための小規模しょうきぼでテンポのはや作品さくひんでは、『ゆびたまき』の主題しゅだいぐんがパロディーされている[45]。フォーレはワーグナーを賞賛しょうさんしてその音楽おんがく熟知じゅくちしていたが[46]どう時代じだいではワーグナー音楽おんがく影響えいきょうはいらなかった数少かずすくないの作曲さっきょくのうちの一人ひとりであった[ちゅう 4]

壮年そうねん[編集へんしゅう]

フォーレの肖像しょうぞうジョン・シンガー・サージェント、1889ねん

1883ねん、フォーレは一流いちりゅう彫刻ちょうこくエマニュエル・フレミエむすめであるマリー・フレミエと結婚けっこんした[48]。ネクトゥーはマリーについて「うつくしさも、機知きちも、うんもない(中略ちゅうりゃく狭量きょうりょう冷淡れいたん[49]」とべつつ、「それらすべてがありながらも[フォーレは]彼女かのじょけるやさしさをかんじていた」とめている。結婚けっこんあいあふれたものだったが、ネクトゥーの表現ひょうげんりるならマリーは「いえこもりっきり」で、一緒いっしょ夜会やかいしいというおっとねがいを共有きょうゆうすることはなかった[50]。さらに、かれ頻繁ひんぱん留守るすにすること、家庭かてい生活せいかつ毛嫌けぎらいすること (horreur du domicile)、そして自分じぶんいえにいるあいだかれ不貞ふていはたらくことにいきどおるようになっていった[48]。フォーレはマリーを友人ゆうじん仲間なかまとしてっており、いえはなれるさいにはまめに - 毎日まいにちとなることもあった - 手紙てがみをしたためていたが、彼女かのじょがわはそうしたかれ情熱じょうねつてき性分しょうぶんかちわず、情熱じょうねつ別所べっしょへとはけぐち見出みいだしていったのである[51]夫妻ふさい2人ふたり息子むすこさずかった。1人ひとりエマニュエル・フォーレ=フレミエ(1883ねん-1971ねん、マリーが自分じぶんせいとのふくあいせいにするようつよ主張しゅちょうした)で[50]国際こくさいてき名声めいせいあつめる生物せいぶつ学者がくしゃとなった[52]次男じなんのフィリップ(1889ねん-1954ねん)は作家さっかとなった。かれ作品さくひんには歴史れきし演劇えんげきちち祖父そふ伝記でんきなどがある[53]

どう時代じだい証言しょうげんはフォーレが女性じょせいにとってきわめて魅力みりょくてきであったとみとめている[ちゅう 5]。デュシェンの表現ひょうげんでは「パリのサロンではかれ口説くどとした相手あいて多数たすうのぼった」とされる[55]。1892ねんごろから歌手かしゅエンマ・バルダック浮名うきなながしたのち[56]作曲さっきょくアディーラ・マディソン親密しんみつになり[57]、1900ねんにはアルフォンス・アッセルマンむすめでピアニストのマルグリット・アッセルマンとの出会であいがおとずれる。これはフォーレがぼっするまでつづ関係かんけいとなっていく。かれはアッセルマンにパリのマンションを用意よういし、彼女かのじょ公然こうぜんかれ同伴どうはんしゃとして行動こうどうした[58]

マドレーヌ寺院じいんだいオルガン

家族かぞくやしなうため、フォーレはほとんどの時間じかんをマドレーヌ寺院じいんでの日々ひび礼拝れいはい、ピアノと和声わせいのレッスンについやした[59]作曲さっきょくられる対価たいかすずめなみだほどであった。というのも、出版しゅっぱんしゃ作品さくひん即金そっきんげ、歌曲かきょくであれば1きょく60フラン支払しはらわれたのち、フォーレは印税いんぜいることもなかったからである[60]。この時期じきかれおおくのピアノきょく歌曲かきょくくわえてだい規模きぼ作品さくひん複数ふくすういているが、すうかい演奏えんそうのちにその大半たいはん破棄はきしてしまっており、モチーフをさい利用りようするためにいくつかの楽章がくしょう手元てもとのこしたのみであった[15]。この時期じき作品さくひん現存げんそんするもののなかにはレクイエムがある。1887ねん着手ちゃくしゅするとなんねんもかけて改訂かいてい加筆かひつおこなわれ、1901ねん最終さいしゅうばんだつ稿こういたった[61][ちゅう 6]。1888ねん初演しょえん担当たんとう司祭しさいはフォーレにこうべたという。「我々われわれはこの新作しんさく必要ひつようとしません。マドレーヌのレパートリーは十分じゅうぶんゆたかです[63]。」

わかころのフォーレは非常ひじょう陽気ようきだった。友人ゆうじん一人ひとりは「わかい、いくらかは子供こどもじみてすらいる愉快ゆかいさ」といていた[64]。30だいからはうつ発作ほっさくるしむようになり、かれ自身じしんはこれを「脾臓ひぞう(「癇癪かんしゃく」の)」と表現ひょうげんしていた。そのはじまりは婚約こんやく破断はだん、そして作曲さっきょくとしての成功せいこうられないことにあったのではなかろうか[15]。1890ねんにはポール・ヴェルレーヌによりオペラをくというさかえある、そしてわりのいい委嘱いしょくはなしがったが、とう詩人しじんんだくれてリブレットとどかず頓挫とんざしてしまった。フォーレは友人ゆうじんたちがかれ健康けんこう真剣しんけん心配しんぱいするほどのそもそもうつ状態じょうたいへと一気いっきんでしまう[65]つねにフォーレの友人ゆうじんだったウィナレッタ・シンガーは、カナル・グランデに「宮殿きゅうでん」を所有しょゆうしていたヴェネツィアへとかれまねいた[66]精神せいしん回復かいふくさせたかれふたた作曲さっきょくふでり、ヴェルレーヌのテクストをもとに『5つのヴェネツィアのうた』のだい1きょくげた。オペラのけんでは散々さんざんったが、フォーレはかれ賞賛しょうさんつづけていたのである[67]

エンマ・バルダック

この時期じき、もしくはすぐ時期じきにフォーレとエンマ・バルダックの情事じょうじはじまっている。デュシェンのげんによると「40だい終盤しゅうばんかっていたかれはじめての充足じゅうそくした、情熱じょうねつてき関係かんけいせい経験けいけんし、これがすうねんにわたり拡大かくだいしていく」のである[68]主要しゅようなフォーレの伝記でんき作家さっかだれもが、この密通みっつうにより創作そうさくりょく爆発ばくはつと、連作れんさく歌曲かきょくやさしいうた』のれいあらわれているようなかれ音楽おんがくあらたな独自どくじせいがもたらされたという見解けんかい一致いっちしている[69]。フォーレは1894ねんから1897ねんにかけてピアノ連弾れんだんのための組曲くみきょくドリー』を作曲さっきょくし、「ドリー」としてられたバルダックのむすめのエレーヌへと献呈けんていした。フォーレがドリーの父親ちちおやなのではないかとうたがものもいたが、ネクトゥーやデュシェンらの伝記でんき作家さっかたちはその可能かのうせいひくいとかんがえている。フォーレとエンマ・バルダックの不倫ふりん関係かんけいはドリーの誕生たんじょうはじまったとかんがえられているからであるが、いずれのせつにも決定的けっていてき証拠しょうこ存在そんざいしない[70]

1890年代ねんだいにフォーレの運勢うんせい好転こうてんした。パリ音楽おんがくいん作曲さっきょく教授きょうじゅつとめたエルネスト・ギローが1892ねん他界たかいすると、空席くうせきとなったポストに応募おうぼするようサン=サーンスがフォーレにすすめたのである。音楽おんがくいん教授きょうじゅじんはフォーレを危険きけんなほど現代げんだいてきであると看做みなしており、学長がくちょうであったアンブロワーズ・トマは「フォーレだと?ありない!もしかれ採用さいようされるようならわたし辞任じにんする」と宣言せんげんして任用にんよう阻止そしした[71]。しかし、フォーレはギローのべつ役職やくしょくであったフランス各地かくち音楽おんがくいん調査ちょうさいんとして採用さいようされることになった[72]かれはこの仕事しごとにつきもののくにちゅうめぐ長旅ながたびいやがりはしたが、このしょくでは安定あんていした収入しゅうにゅうられ、それによってアマチュアの生徒せいとおしえなくてもよくなった[73]

フォーレが教鞭きょうべんった当時とうじの、パリ9位置いちするパリ音楽おんがくいん校舎こうしゃ

1896ねんにアンブロワーズ・トマがこのり、テオドール・デュボワが音楽おんがくいん学長がくちょういだ。フォーレはデュボワの後任こうにんとしてマドレーヌ寺院じいん首席しゅせきオルガニストとなる。この人事じんじにはさらなる余波よはがあった。音楽おんがくいん作曲さっきょく教授きょうじゅをしていたマスネはトマの後釜あとがまおさまるものと期待きたいふくらませていたが、終身しゅうしん任期にんき主張しゅちょうしてつよ出過ですぎてしまった[74]せんれたかれは、デュボワがわりに任命にんめいけるといかりのままに教授きょうじゅしょくしたのである[75]。そうしていた職位しょくいにフォーレがおさまった[76]。フォーレはおおくのわか作曲さっきょくそだてた。モーリス・ラヴェルフローラン・シュミットシャルル・ケクランルイ・オベールジャン・ロジェ=デュカスジョルジェ・エネスクポール・ラドミローアルフレード・カゼッラナディア・ブーランジェなどである[15]。フォーレは門弟もんていたちに基本きほんてき技能ぎのうのしっかりした基礎きそ訓練くんれん必要ひつようだとかんがえており、有能ゆうのうなアシスタントだったアンドレ・ジェダルジュにその役割やくわり委任いにんすることをいとわなかった[77]かれ自身じしん役割やくわりは、各々おのおの学生がくせいがそうした技能ぎのう各人かくじん才能さいのう沿ったかたち行使こうしすることを手助てだすけすることにあった。ロジェ=デュカスはのちにこうしるしている。「かれ生徒せいとたちがんでいるものはなんでもひろげ、手許てもと形式けいしき規則きそくしてしまう(中略ちゅうりゃく)そして用例ようれい参照さんしょうするのだが、それはいつでも巨匠きょしょうのものからかれるのであった[78]。」ラヴェルはいつも教師きょうしとしてのフォーレの寛容かんようさをおもこしていた。ラヴェルの弦楽げんがくよん重奏じゅうそうきょくったフォーレは平素へいそよりも熱意ねついける様子ようすだったが、もう一度いちど原稿げんこうせてしいとったのち数日すうじつって「わたし間違まちがっていたのかもしれない」とってきた[79]音楽おんがく学者がくしゃのアンリ・プルニエーレ (Henry Prunières) はつぎのようにいている。「フォーレが生徒せいとなかそだてていたのは、和声わせい感受性かんじゅせい純粋じゅんすい旋律せんりつせん予想よそうがい色彩しきさいゆたかな転調てんちょうへのあいであった。しかし、かれけっして自身じしんのスタイルにのっとった作曲さっきょくのための秘訣ひけつあたえることはなく、そのおかげで全員ぜんいん様々さまざまことなった、しばしば反対はんたい方向ほうこうへと自分じぶんみちもとめ、見出みいだしていったのであった[80]。」

世紀せいきわりにかけてかれた作品さくひんにはモーリス・メーテルリンクの『ペレアスとメリザンド』の英語えいごばん初演しょえんのためにかれた付随ふずい音楽おんがく(1898ねん)や、ベジエ円形えんけい劇場げきじょうのために作曲さっきょくされた抒情じょじょう悲劇ひげきプロメテ』がある。野外やがい上演じょうえん念頭ねんとうつくられたため、『プロメテ』にはだい規模きぼ管弦楽かんげんがく声楽せいがくもちいられている。1900ねん8がつ初演しょえんおおきな成功せいこうおさめ、翌年よくねんにベジエ、そして1907ねんにはパリでも再演さいえんされた。一般いっぱんてき歌劇かげきじょうきのオーケストレーションなおしたはん制作せいさくされ、1917ねん5がつオペラ上演じょうえんされたのちにパリで40かいえる公演こうえんかさねた[ちゅう 7]

1903ねんから1921ねんにかけて、フォーレは定期ていきてきに『フィガロ紙上しじょう音楽おんがく評論ひょうろんおこなっていたが、かれはこの仕事しごと難儀なんぎしていた。生来せいらい親切心しんせつしん寛容かんようさから、かれ作品さくひんめん強調きょうちょうする傾向けいこうがあったとネクトゥーはいている[15]

パリ音楽おんがくいん学長がくちょう[編集へんしゅう]

モーリス・ラヴェル

1905ねんのフランス音楽おんがくかいに、国内こくない最高さいこう音楽おんがくしょうであったローマしょうにまつわるスキャンダルが発生はっせいした。フォーレ門下もんかラヴェルしょうへの6度目どめ応募おうぼ予選よせんちをきっし、これに音楽おんがくいん保守ほしゅてき土壌どじょういちまいんでいるとおおくの人々ひとびとかんがえたのである[82]おおきな非難ひなんまととなったデュボワは、ただちに辞意じい表明ひょうめいして職責しょくせきはなれることとなった[83]後任こうにんえらばれたフォーレはフランス政府せいふ後押あとおしをて、同校どうこう運営うんえいとカリキュラムに抜本ばっぽんてき改革かいかくおこなった。入試にゅうし試験しけん大会たいかいでの評決ひょうけつ独立どくりつした外部がいぶ審査しんさいん登用とうようするという変革へんかくたいし、それまで自分じぶん個人こじんてきおし贔屓ひいきはからいをしていた教員きょういんらは激怒げきどした。ふく収入しゅうにゅうおおきくそこなわれたとかんじたかれらのおおくが、音楽おんがくいんっていった[84]学内がくないおしえられる音楽おんがくはばひろげ、現代げんだいしたかれは、不満ふまん保守ほしゅのメンバーからは「ロベスピエール」とあだされていた。ネクトゥーがべるように、「オベールアレヴィ、そしてわけてもマイアベーア最高さいこうとされていたその場所ばしょで(中略ちゅうりゃく)いまやラモーや、音楽おんがくいんかべ内側うちがわではこれまできんじられた名前なまえであったワーグナーのアリアですら、うたうことが可能かのうとなったのだ[85]。」カリキュラムはルネサンスこえ音楽おんがくからドビュッシー作品さくひんにまで拡大かくだいされた[85]

あたらしい役職やくしょく給与きゅうよめんはこれまでよりもこのましいものだった。しかし、せっかく作曲さっきょくとしてよりもひろられるようになっていたにもかかわらず、音楽おんがくいん運営うんえいをしているとオルガニスト、ピアノ教師きょうしとして生活せいかつかせぎだすのに奮闘ふんとうしていたころほどのわずかな時間じかんしか、作曲さっきょくのためにはのこされていなかった[86]。7がつ最後さいご年度ねんど終了しゅうりょうすると、パリをはなれたかれ通常つうじょうスイス湖畔こはんつホテルに逗留とうりゅうし、10がつはじめまでの2かげつあいだ集中しゅうちゅうして作曲さっきょくおこなうのだった[87]。この時期じき作品さくひんには抒情じょじょうオペラ『ペネロープ』(1913ねん)、個性こせいつよ発揮はっきされた後期こうき歌曲かきょく(1910ねん完成かんせいした連作れんさく歌曲かきょくイヴのうた』など)、ピアノきょく舟歌ふなうただい9-11ばん夜想曲やそうきょくだい7-11ばん)などがある[15]

世紀せいきわりのフォーレ

フォーレは1909ねん選出せんしゅつされてフランス学士がくしいんりをたす。そのうらにはつよかれへの投票とうひょうけた、長老ちょうろう会員かいいんであった義父ぎふとサン=サーンスの存在そんざいがあった。16ひょう対立たいりつ候補こうほであったヴィドールとうじられるなか、18ひょうからくも選挙せんきょせんせいすることになった[88][ちゅう 8]同年どうねんにラヴェルとケクランがひきいるわか作曲さっきょく一団いちだん国民こくみん音楽おんがく協会きょうかいたもとかち、あたらしく独立どくりつ音楽おんがく協会きょうかい旗揚はたあげした。ダンディ会長かいちょうえた国民こくみん音楽おんがく協会きょうかいは、極端きょくたん保守ほしゅてき組織そしきへと変質へんしつしてしまっていたのである。独立どくりつ音楽おんがく協会きょうかい会長かいちょうしょくけたフォーレであったが、国民こくみん音楽おんがく協会きょうかいにもせきいたままにしてダンディとは親密しんみつ関係かんけいたもった。かれ唯一ゆいいつ関心かんしんあたらしい音楽おんがくはぐくむことであったのだ[88]。1911ねんには音楽おんがくいんマドリッドどおフランス語ふらんすごばんしん校舎こうしゃへの移転いてん仕切しきった[87]

このころから、フォーレの聴力ちょうりょくには深刻しんこく問題もんだいしょうじてくる。こえがわるくなるばかりでなく、おといがむようになり、高音こうおん低音ていおんかれみみにはひどはずれたおとこえるようになりはじめたのである[90]

20世紀せいきはいって、フォーレの音楽おんがくはイギリスで人気にんき獲得かくとくし、さらにドイツスペインロシアでの人気にんきおくれてかたちとなっていた[91]かれ頻繁ひんぱんにイングランドをおとずれており、1908ねんバッキンガム宮殿きゅうでんまねかれて演奏えんそう披露ひろうしたことがきっかけとなり、ロンドンをはじめ各地かくち活躍かつやくひろげていった[92]。1908ねんにはロンドンでエルガー交響こうきょうきょくだい1ばん初演しょえんき、作曲さっきょくしゃ食事しょくじともにしている[93]。エルガーはのち共通きょうつう知人ちじんであるフランク・シュスターてて、フォーレは「そうした本物ほんもの紳士しんしだった - 最高さいこうのフランスじんわたしかれおおいに称賛しょうさんした」とおくっている[94]。エルガーはスリー・クワイア・フェスティバルでフォーレのレクイエムをげようとしたがかなわず、最終さいしゅうてきにイングランド初演しょえんはフランス初演しょえんおくれることやく50ねんの1937ねんまでたねばならなかった[94]。その各国かっこく作曲さっきょくもフォーレをあいし、賛辞さんじべた。1880年代ねんだいにはチャイコフスキーかれを「崇敬すうけいすべき」とかんがえており[95]アルベニスは1909ねんにこのるまでフォーレと交友こうゆうがあり手紙てがみのやりりをつづけた[96]リヒャルト・シュトラウスかれ助言じょげんもと[97]、フォーレの晩年ばんねんにはアメリカわか作曲さっきょくアーロン・コープランド熱心ねっしん支持しじした[1]

だいいち世界せかい大戦たいせん火蓋ひぶたってとされ、フォーレは毎年まいとし作曲さっきょくのためにこもりにっていたドイツで往生おうじょうしてしまった。どうにかドイツをだっしてスイスへはいり、そこからパリへとかえ[98]戦時せんじちゅうはフランスにまりつづけた。サン=サーンスを筆頭ひっとうにフランスの音楽家おんがくかがドイツ音楽おんがくのボイコットへしても、フォーレとメサジェはその思想しそうからは距離きょりいていた。この意見いけん不一致ふいっちがサン=サーンスとの友情ゆうじょうきずをつけることはなかった[ちゅう 9]。フォーレは音楽おんがく国民こくみんせい見出みいだしておらず、みずからの芸術げいじゅつは「あらゆる国家こっかからあまりに彼方かなたうえほう位置いちするあるくにぞくするものなので、どこか特定とくてい国家こっかにまつわる感情かんじょう個別こべつ特性とくせい表現ひょうげんせねばならない場合ばあいきずりおろしてくる」のだとかんがえていた[101]。そうではありながらも、かれ自分じぶん音楽おんがくがドイツではあいされるというよりうやまわれているということを認識にんしきしていた。1905ねん1がつ自作じさく演奏えんそうかいのためにフランクフルトケルンめぐったフォーレは、こうしるしている。「わたし音楽おんがくたいする批評ひひょうすこつめたい、そして上手うま出来できぎているというものだ!疑問ぎもんてきていないが、フランスじんとドイツじんは2つのことなるものだな[102]。」

晩年ばんねん遺産いさん[編集へんしゅう]

1920ねん、75さいとなっていたフォーレは進行しんこうする聴覚ちょうかく体力たいりょくおとろえを理由りゆう音楽おんがくいん職務しょくむ退しりぞいた[15]同年どうねんには音楽家おんがくかにはめずらしく、レジオンドヌール勲章くんしょうのグランクロワを授与じゅよされた。1922ねんには共和きょうわこく首相しゅしょうアレクサンドル・ミルランはからいにより、フォーレへの公開こうかい式典しきてん国民こくみんてき「オマージュ」(hommage) がもよおされた。『ミュージカル・タイムズつぎのようにほうじた。「ソルボンヌで開催かいさいされただい祝典しゅくてんはフランスの高名こうみょう芸術げいじゅつ大半たいはんあつめ、[そのことが]かれにはおおきなよろこびとなった。のところ、しんいた光景こうけいだった。みずからの作品さくひんによるコンサートに出席しゅっせきしたおとこは、1おんたりともくことができなかったのだ。着席ちゃくせきして物思ものおもいにしずむように前方ぜんぽうつめたかれは、そうしたなかではありながらも、ありがたく満足まんぞくしたのであった[90]。」

1922ねん、フォーレのために開催かいさいされた国民こくみんてき「オマージュ」の様子ようす。2つの彫像ちょうぞうはさまれた貴賓きひんせきにフォーレとミルラン首相しゅしょうがいる。

晩年ばんねんのフォーレは多量たりょう喫煙きつえん習慣しゅうかんにも由来ゆらいするところのある、健康けんこう状態じょうたい悪化あっかくるしめられた。しかしながら、かれわか作曲さっきょくもとめにはおうつづけており、そのなかにはメンバーのおおくがかれ忠実ちゅうじつだった「フランス6人組にんぐみ」もいた[90][ちゅう 10]。ネクトゥーはこうしるしている。「晩年ばんねんかれ卓越たくえつした精神せいしん活力かつりょくすこしもうしなうことなく、一方いっぽうで1875ねんから1895ねんにかけてかれた作品さくひん官能かんのうせい情熱じょうねつからはむしろ距離きょりき、あるしゅ静穏せいおんへといたった[15]。」

人生じんせい最後さいごすうげつあいだ、フォーレは弦楽げんがくよん重奏じゅうそうきょく完成かんせい目指めざして奮闘ふんとうしていた。20ねんまえにラヴェルから弦楽げんがくよん重奏じゅうそうきょく献呈けんていけ、ラヴェルらからはあなたもくべきだとつよすすめられていた。弦楽げんがくよん重奏じゅうそうきょくむずかしすぎるという理由りゆうで、かれ長年ながねんこれをこばんでいたのであった。ついに作曲さっきょく決心けっしんをしたさいにもおそおそるの様相ようそうで、つまにこうべている。「弦楽げんがくのための四重奏しじゅうそうを、ピアノなしで開始かいししました。これはとりわけベートーヴェン有名ゆうめいにし、またベートーヴェン以外いがいすべてのものに『恐怖きょうふ』をいだかせるようにしてしまったジャンルです[104]。」まるいちねんをかけてこの作品さくひんんだかれは、完成かんせいまえなが時間じかんをこれについやし、人生じんせいわりまであと2かげつった1924ねん9がつ11にち全曲ぜんきょくげた[105]きょく初演しょえんかれ死後しごおこなわれた[106]かれ最期さいご時間じかん私的してききょく演奏えんそうしようというもうっている。聴力ちょうりょく悪化あっかすすみ、かれみみには楽音がくおんがひどくいがんでこえるまでになっていたからである[107]

フォーレは1924ねん11月4にち肺炎はいえんによりパリで79ねん生涯しょうがいまくろした。マドレーヌ寺院じいん国葬こくそういとなまれ、パリのパッシー墓地ぼちほうむられた[108]

フォーレの死後しご音楽おんがくいんかれ急進きゅうしんせいはいし、音楽おんがくあたらしい潮流ちょうりゅう抵抗ていこうするようになった。フォーレ自身じしん実践じっせんした和声わせい現代げんだい音楽おんがくさいとお限界げんかいとして維持いじされ、学生がくせいはそれ以上いじょうすすんではいけないことになった[109]。フォーレのあといだアンリ・ラボーは1922ねんから1941ねんまで学長がくちょうつとめ、「モダニズムはてきである」と宣言せんげんした[110]せんあいだまれの学生がくせいたちはこの時代遅じだいおくれのまな拒絶きょぜつし、バルトークしんウィーンらく、そしてストラヴィンスキー新作しんさくへと霊感れいかんもとめるようになっていった[109]

1945ねん生誕せいたん100周年しゅうねんせて、音楽おんがく学者がくしゃのレスリー・オーリーが『ミュージカル・タイムズ』につぎのようにいている。「『サン=サーンスよりふかみをち、ラロよりも変化へんかみ、ダンディよりも自発じはつてきで、ドビュッシーよりも古典こてんてき、ガブリエル・フォーレはフランス音楽おんがくの《とびっきり》の巨匠きょしょうであり、われらが音楽おんがくてき天才てんさいうつ完璧かんぺきかがみである。』イングランドの音楽家おんがくかかれ作品さくひんへの知見ちけんふかめたおりには、おそらくこのロジェ=デュカスの言葉ことば過度かど称賛しょうさんではなく、当然とうぜん賛辞さんじぎないとおもわれることだろう[111]。」

音楽おんがくてき特徴とくちょう[編集へんしゅう]

音楽おんがくてき位置いち[編集へんしゅう]

フォーレは、リストベルリオーズブラームスらが成熟せいじゅく作品さくひんしていたころに青年せいねんごし、古典こてんてき調ちょうせい崩壊ほうかいし、調ちょう調しらべ作品さくひん数多かずおおかれ、微分びぶんおんじゅうおと技法ぎほうなどがこころみられていたころ晩年ばんねんむかえている。なかでも、調しらべせい崩壊ほうかいがねいたワーグナー影響えいきょうりょく絶大ぜつだいで、どう時代じだい作曲さっきょくおおかれすくなかれ、ワーグナーにどう対処たいしょするかをせまられた。

こうしたながれのなかで、フォーレの音楽おんがく折衷せっちゅうてき様相ようそうせる。ドビュッシーはワーグナーの影響えいきょう拒否きょひしたが、フォーレは歌劇かげきペネロープ』でライトモティーフ採用さいようするなど一定いってい影響えいきょうけつつも、その亜流ありゅうとはならなかった。形式けいしきめんでは、サン=サーンス古典こてん主義しゅぎにはまらなかった。一方いっぽうで、その作品さくひん形態けいたい当時とうじ流行りゅうこううこともせず、採用さいようしたのは古典こてん主義しゅぎてき楽曲がっきょく形式けいしきであった。調しらべせいにおいては、頻繁ひんぱん転調てんちょうなかにときとして調しらべてきひびきも挿入そうにゅうされるが、旋律せんりつ調しらべせいからはなれることはなかった。音階おんかいにおいては、旋法せんぽうせいやドビュッシーがてた全音ぜんおん音階おんかいれているが、これらに支配しはいされたり、もとづくことはなかった。

フォーレの音楽おんがく劇的げきてき表現ひょうげん目指めざすものではなかったので、必然ひつぜんてきだい規模きぼ管弦楽かんげんがくようする大作たいさくすくない。ただし、和声わせい領域りょういきにおいてはシャブリエとともに、ドビュッシー、ラヴェルへの橋渡はしわたしといえる存在そんざいであり、19世紀せいきと20世紀せいきをつなぐ役割やくわりたしている。

フォーレの音楽おんがく変遷へんせん[編集へんしゅう]

フォーレの音楽おんがくは、便宜べんぎてき初期しょき中期ちゅうき晩年ばんねんの3けられることがおおい。初期しょき代表だいひょうさくとして、ヴァイオリン・ソナタだい1ばん作品さくひん13)やピアノよん重奏じゅうそうきょくだい1ばん作品さくひん15)がある。夜想曲やそうきょくではだい1ばんからだい5ばん舟歌ふなうたではだい1ばんからだい4ばん相当そうとうする。初期しょき作品さくひんでは、明確めいかく調しらべせいはくぶしかんささえられた清新せいしん旋律せんりつせん際立きわだっている。旋律せんりつうたわせるさいにはユニゾン伴奏ばんそうがたには装飾そうしょくてきかつ流動的りゅうどうてきアルペジオ多用たようされる。ユニゾンとアルペジオはフォーレの生涯しょうがいにわたって特徴とくちょうてきられるが、この時期じきのそれは音色ねいろ効果こうか装飾そうしょくせいいきだっするものではない。

フォーレの中期ちゅうきあるいはだい2は、ピアノよん重奏じゅうそうきょくだい2ばん作品さくひん45)、『レクイエム』(作品さくひん48)、『パヴァーヌ』(作品さくひん50)などが作曲さっきょくされた1880年代ねんだい後半こうはんから、ピアノ重奏じゅうそうきょくだい1ばん作品さくひん89)が完成かんせいした1900年代ねんだい前半ぜんはんまでとられる。どう時期じきには『主題しゅだい変奏へんそう』(作品さくひん73)、『ペレアスとメリザンド』(作品さくひん80)などもまれているほか、夜想曲やそうきょくではだい6ばんからだい8ばん舟歌ふなうたではだい5ばんからだい7ばん該当がいとうする。初期しょききょくられたかがやかしく外面がいめんてき要素ようそは、としるにしたがって次第しだいかげひそめ、よりいきながい、求心きゅうしんてき簡素かんそされた語法ごほうへと変化へんかしていく。また、ひとひとつのおとたもちながら和声わせいをより流動的りゅうどうてきあつかうことにより、はくぶしかんくずれ、うちこえ半音はんおんかいてき曖昧あいまい調しらべせい進行しんこうするようになる。こうした微妙びみょううちこえ変化へんかうえに、調しらべ性的せいてき旋法せんぽうてき簡素かんそでありながら流麗りゅうれいなメロディをつけてうたわせるというのが、フォーレの音楽おんがく特色とくしょくとなっている。

歌劇かげき『ペネロープ』やヴァイオリン・ソナタだい2ばん作品さくひん108)が作曲さっきょくされた1900年代ねんだい後半こうはんからは、晩年ばんねんられる。夜想曲やそうきょくではだい9ばん以降いこう舟歌ふなうたではだい8ばん以降いこう時期じきである。このころにはみみ障害しょうがいはじまり、あつか音域おんいきせまくなり、半音はんおんかいてきうごきが支配しはいてき調しらべ性感せいかんはより希薄きはくになっていく。ピアノ重奏じゅうそうきょくだい2ばん作品さくひん115)やピアノさん重奏じゅうそうきょく作品さくひん120)では冒頭ぼうとうにピアノによるアルペジオがられるが、もはやはなやかさとは無縁むえん単純たんじゅんされたおとがたであり、またつるのユニゾンも抽象ちゅうしょうてきたかみへの追求ついきゅうあるいは収斂しゅうれんせいとしてはたらいている。

アール・ヌーヴォーとの関連かんれん[編集へんしゅう]

フォーレ研究けんきゅうとしてられるジャン=ミシェル・ネクトゥーは、著書ちょしょ『ガブリエル・フォーレ』のなかで、どう時代じだい文学ぶんがくしゃマルセル・プルーストがフォーレの音楽おんがく魅了みりょうされていたとし、プルーストとフォーレをともにアール・ヌーヴォーぞくする芸術げいじゅつとして位置いちづけたうえで、「そのまがりくねりたがいにからったながいフレーズと常時じょうじあらわれるはなにまつわる主題しゅだいは、まさに1900ねん芸術げいじゅつ象徴しょうちょうするものである。」とべている。

一般いっぱんに、アール・ヌーヴォーは19世紀せいきまつから20世紀せいき初頭しょとう装飾そうしょく美術びじゅつ・デザインに適用てきようされる様式ようしき概念がいねんであり、ネクトゥーのせつはこれを文学ぶんがく音楽おんがく敷衍ふえんさせたものといえる。この指摘してきは、アール・ヌーヴォーのもつ装飾そうしょくせいや、コントラストでなく曲線きょくせん重視じゅうしといった表現ひょうげんせいをフォーレの音楽おんがくせいつうじるものとしてみている。この観点かんてんからは、フォーレのべつ側面そくめんえてくることも事実じじつである。装飾そうしょくてきおとがたがメロディーに同化どうかしているてんでは、初期しょき歌曲かきょくゆめのあとに』がまずげられる。さらに、「舟歌ふなうた」をはじめとする作品さくひんでのアルペジオへの傾斜けいしゃは、晩年ばんねんまでられる特徴とくちょうである。ただし「装飾音そうしょくおん」であっても、その効果こうかあるいは意図いとするところが初期しょき晩年ばんねんでは相当そうとうちがっているというてんは、上述じょうじゅつとおりである。

フォーレは「サロン音楽おんがく」の作曲さっきょく[編集へんしゅう]

フォーレは当時とうじサロンれられたため、ドビュッシーをはじめとしてフォーレの作品さくひんを「サロン音楽おんがく」と矮小わいしょうしてけとめる風潮ふうちょう現在げんざいまで存在そんざいする。とはいえ、とく中期ちゅうきから晩年ばんねんにかけてのフォーレの音楽おんがくは、規模きぼちいさな作品さくひんにおいても、ただやわらかく上品じょうひん洗練せんれんされているというだけでわってはいない。伝統でんとうてきなあらゆる手法しゅほう駆使くしし、ごく自然しぜんながれるおとながれが独自どくじ緻密ちみつ構成こうせいでまとめられている。

1906ねんに、フォーレはつまてた手紙てがみでピアノよん重奏じゅうそうきょくだい2ばんのアダージョ楽章がくしょうについてれ、「存在そんざいしないものへの願望がんぼうは、おそらく音楽おんがく領域りょういきぞくするものなのだろう」といている。また、1908ねんには次男じなんフィリップに「わたしにとって芸術げいじゅつ、とりわけ音楽おんがくとは、可能かのうかぎ人間にんげんをいまある現実げんじつからげてくれるものなのだ」とのこしている。

フォーレはの2にちまえ二人ふたり息子むすこつぎのような言葉ことばのこしている。「わたしがこのったら、わたし作品さくひんわんとすることにみみかたむけてほしい。結局けっきょく、それがすべてだったのだ……」

主要しゅよう作品さくひん[編集へんしゅう]

以下いか「Op.」以下いか数字すうじ作品さくひん番号ばんごうしめす。全曲ぜんきょくリストはフォーレの楽曲がっきょく一覧いちらん参照さんしょう

管弦楽かんげんがくきょく[編集へんしゅう]

カリギュラ Op.52(Caligula, 1888ねん
舞台ぶたい音楽おんがく最初さいしょ作品さくひんだいデュマ同名どうめい悲劇ひげき再演さいえんのためにしょうデュマから依頼いらいけ、わずかすうげつげた。げき付随ふずい音楽おんがくとしての初演しょえん1888ねん11月8にち。その演奏えんそうかいようはんをフォーレ自身じしん作成さくせいし、翌年よくねんの4がつ6にち国民こくみん音楽おんがく協会きょうかい演奏えんそうかい初演しょえんされた。
ペレアスとメリザンド Op.80(Pelléas et Mélisande, 1898ねん
別項べっこう参照さんしょう
マスクとベルガマスク Op.112(Masques et Bergamasques, 1919ねん
【1. 序曲じょきょく / 2. パストラール / 3. マドリガル / 4. いちばんたのしいみち / 5. メヌエット / 6. つきひかり / 7. ガヴォット / 8. パヴァーヌ
舞台ぶたい音楽おんがくとしては最後さいご作品さくひん。ただし、8きょくちゅう4きょくはすでに作曲さっきょくされていたほか作品さくひんんだもので、あらたに作曲さっきょくされたのはだい1, 2, 5, 7きょくのみ。旧作きゅうさくだい6きょくだい8きょく単独たんどく演奏えんそうされしたしまれている。ルネ・フォーショワ台本だいほんによる。初演しょえん1919ねん4がつ10日とおかモンテカルロ

協奏曲きょうそうきょく[編集へんしゅう]

ピアノと管弦楽かんげんがくのためのバラード Op.19(1880ねん
全体ぜんたいは3からなる。(Andante cantabile - Allegro moderato - Andante ただしだい2出版しゅっぱんによりAllegretto moderato)主調しゅちょう嬰ヘ長調ちょうちょう全曲ぜんきょくとおしてみっつの主題しゅだい執拗しつよう反復はんぷくされるだけの形式けいしきをとっている。

室内楽しつないがくきょく[編集へんしゅう]

ピアノ重奏じゅうそうきょくだい1ばん短調たんちょう Op.89(1903ねん - 1906ねん
【1. Molto moderato / 2. Adagio / 3. Allegretto moderato】
この作品さくひん作曲さっきょくしていた当時とうじ、フォーレは聴覚ちょうかく範囲はんいせばまり高音こうおん低音ていおんがピッチのちがおととしてこえるという聴覚ちょうかく障害しょうがいなやまされるようになった。1906ねん3がつ作曲さっきょくしゃのピアノ、イザイ弦楽げんがくよん重奏じゅうそうだん演奏えんそう初演しょえんされ、イザイに献呈けんていされた。作曲さっきょくしゃ手紙てがみによると、イザイはこのきょく若々わかわかしさ、純粋じゅんすい音楽おんがくてきであることに狂喜きょうきしたという。
ピアノ重奏じゅうそうきょくだい2ばん短調たんちょう Op.115(1919ねん - 1921ねん
【1. Allegro moderato / 2. Allegro vivo / 3. Andante moderato / 4. Allegro molto】
1920ねんにフォーレは音楽おんがくいん辞職じしょくした。これにより作曲さっきょくてられる時間じかんえたものの、経済けいざいてき不安ふあんかかむことになった。ロベール・ロルタのピアノとエッキャンよん重奏じゅうそうだんによりおこなわれた初演しょえんだい成功せいこう聴衆ちょうしゅう全員ぜんいんのスタンディング・オベーションでむかえられ、批評ひひょうからも支持しじされた。この作品さくひん後輩こうはいポール・デュカス献呈けんていされた。
弦楽げんがくよん重奏じゅうそうきょく短調たんちょう Op.121(1924ねん
【1. Allegro moderato / 2. Andante / 3. Allegro】
フォーレ最後さいご作品さくひん。ピアノをふくまない唯一ゆいいつ室内楽しつないがく作品さくひんでもある。フォーレはこの作品さくひん弟子でしせ、「きみがよくて、おかしいところがなければ発表はっぴょうしてくれ」とたのんだといわれる。初演しょえん作曲さっきょくしゃ死後しご1925ねん6月12にちにフランス国立こくりつ音楽おんがく演劇えんげき学校がっこうおこなわれた。
ピアノよん重奏じゅうそうきょくだい1ばん短調たんちょう Op.15(1879ねん
【1. Allegro molto moderato / 2. Scherzo / 3. Adagio / 4. Allegro molto】
マリアンヌ・ヴィアルドとの婚約こんやく一方いっぽうてき破棄はきされ傷心しょうしん時期じきかれた作品さくひんながいユニゾンや突然とつぜん転調てんちょうといった音色ねいろ調しらべせいじょう実験じっけんてきこころみがおおくなされている。初演しょえん1880ねん2がつ14にち国民こくみん音楽おんがく協会きょうかいのコンサートでおこなわれた。
ピアノよん重奏じゅうそうきょくだい2ばん ト短調とたんちょう Op.45(1886ねん
【1. Allegro molto moderato / 2. Allegro molto / 3. Adagio non troppo / 4. Allegro molto】
フォーレが円熟えんじゅくむかえた時期じき作品さくひんで、『レクイエム』の直前ちょくぜんかれている。1886ねん1がつ22にち国民こくみん音楽おんがく協会きょうかいのコンサートで初演しょえんされた。
ピアノさん重奏じゅうそうきょく短調たんちょう Op.120(1922ねん - 1923ねん
【1. Allegro ma non troppo / 2. Andantino / 3. Allegro vivo】
フォーレ自身じしんはこの作品さくひんを「ちいさなトリオ」とんだが、弟子でしフローラン・シュミットは「これこそが音楽おんがくだ。そして音楽おんがく以外いがい何者なにものでもない。」とひょうしている。公開こうかいでの初演しょえん1923ねん6がつアルフレッド・コルトージャック・ティボーパブロ・カザルスによりおこなわれた。モーリス・ルーヴィエ夫人ふじん献呈けんていされた。
ヴァイオリン・ソナタだい1ばん イ長調いちょうちょう Op.13(1876ねん
【1. Allegro molto / 2. Andante / 3. Allegro vivo / 4. Allegro quasi presto】
歌曲かきょく・ピアノきょく以外いがいはじめての本格ほんかくてき作品さくひん。マリアンヌ・ヴィアルドとの恋愛れんあい反映はんえいされた幸福こうふく作品さくひん。マリアンヌのおとうとポール・ヴィアルドに献呈けんていされている。初演しょえんは、1877ねん1がつ27にち国民こくみん音楽おんがく協会きょうかい演奏えんそうかいでマリー・タヨーのヴァイオリン、作曲さっきょくしゃのピアノで初演しょえんされた。さらに翌年よくねんパリ万博ばんぱくもよおものとしても演奏えんそうされたが、当時とうじはあまり評判ひょうばんにならなかった。しかし、サン=サーンス手紙てがみでフォーレの才能さいのう賞賛しょうさんしている。
ヴァイオリン・ソナタだい2ばん短調たんちょう Op.108(1916ねん - 1917ねん
【1. Allegro non troppo / 2. Andante / 3. Allegro non troppo】
1916ねん8がつ16にちけの手紙てがみで、この作品さくひん着手ちゃくしゅしたことをつまらせている。だい1ばんとは40ねんへだてて作曲さっきょくされたこの作品さくひんは、だい1ばんとは対照たいしょうてきにフォーレ晩年ばんねん書法しょほうかれている。1917ねん11月10にち国民こくみん音楽おんがく協会きょうかい演奏えんそうかいリュシアン・カペーのヴァイオリン、アルフレッド・コルトーのピアノで初演しょえんされた。
チェロ・ソナタだい1ばん短調たんちょう Op.109(1917ねん
【1. Allegro / 2. Andante / 3. allegro commodo】
ヴァイオリンソナタだい2ばん完成かんせいつづいて作曲さっきょくされ、1918ねん1がつにアンドレ・エッキングとアルフレッド・コルトーにより初演しょえんされた。だい1楽章がくしょうではアクセントが多用たようされる。子守こもりうた調ちょう旋律せんりつおとがたかえされるだい2楽章がくしょうて、だい3楽章がくしょうではピアノにいつつチェロがうたう。
チェロ・ソナタだい2ばん ト短調とたんちょう Op.117(1921ねん
【1. Allegro / 2. Andante / 3. Allegro vivo】
1921ねんにフォーレはナポレオン1せい没後ぼつご100ねん記念きねん式典しきてんのための『葬送そうそう』を吹奏楽すいそうがくよう作曲さっきょく、これをチェロ・ソナタだい2ばんなかあいだ楽章がくしょう転用てんようした。1922ねん5月、ジェラール・エッキングとアルフレッド・コルトーによって初演しょえんされた。ヴァンサン・ダンディは、初演しょえん翌日よくじついちばんたったいまでも、きみうつくしいチェロソナタに魅了みりょうされつづけている。アンダンテは表現ひょうげんりょくみ、しん傑作けっさくだ」とフォーレにおくっている。だい1ばんより演奏えんそう機会きかいおおい。
シシリエンヌ ト短調とたんちょう Op.78(Sicilienne, 1898ねん
チェロとピアノのための作品さくひんのちに『ペレアスとメリザンド』に転用てんよう
とうなか奥方おくがた』(Une châtelaine en sa tour) イ短調たんちょう Op.110(1918ねん
ハープ独奏どくそうきょく

ピアノきょく[編集へんしゅう]

主題しゅだい変奏へんそう』(Thème et Variations) 嬰ハ短調たんちょう Op.73(1895ねん
主題しゅだいと11の変奏へんそうからなる。1896ねん12月、レオン・ドゥラフォスによって初演しょえんされた。夜想曲やそうきょくだい6ばん舟歌ふなうただい5ばんどう時期じき作品さくひんであり、これらとともに、フォーレのもっと充実じゅうじつしたピアノ作品さくひんとされる。コルトーは、「音楽おんがくてきゆたかさ、表現ひょうげんふかさ、器楽きがくてき内容ないようしつたかさからして、あらゆる時代じだいのピアノ音楽おんがくのうち、希有けうもっと高貴こうき記念きねんひとつ」と激賞げきしょうしている。
ピアノ組曲くみきょくドリー』(Dolly) Op.56(1893ねん - 1896ねん
【1. 子守こもり / 2. ミ-ア-ウ / 3. ドリーのにわ / 4. キティー・ヴァルス / 5. やさしさ / 6. スペインのおどり】
4ピアノのための作品さくひん。「ドリー」とは、フォーレが可愛かわいがっていた子供こどもで、この作品さくひん献呈けんていされたエレーヌ・バルダックの愛称あいしょうである。ちなみにドビュッシーが『子供こども領分りょうぶん』をいたとき題材だいざいにしたシュウシュウという愛称あいしょう子供こどもは、エレーヌの母親ははおやエンマがドビュッシーと再婚さいこんしてもうけた子供こどもであった。管弦楽かんげんがくばんアンリ・ラボー編曲へんきょく)、ピアノ独奏どくそうばんなどの編曲へんきょくでもしたしまれている。
ヴァルス=カプリス ぜん4きょく
【1. イ長調いちょうちょう Op.30 / 2. へん長調ちょうちょう Op.38 / 3. へんト長調とちょうちょう Op.59 / 4. へんイ長調いちょうちょう Op.62】
即興そっきょうきょく ぜん5きょく
【1. へん長調ちょうちょう Op.25 / 2. ヘ短調たんちょう Op.31 / 3. へんイ長調いちょうちょう Op.34 / 4. へん長調ちょうちょう Op.91 / 5. 嬰ヘ短調たんちょう Op.102】
上述じょうじゅつの5きょくにハープのためにろされピアノに編曲へんきょくされた1きょくへん長調ちょうちょう、Op.86bis)をふくめ6きょくとカウントすることもある。だい3ばんまでと後期こうきかれた2きょくとのあいだにはそのスタイルにおおきなへだたりがある。だい3ばんまでの3きょくはサン=サーンスのにより初演しょえんされている。
夜想曲やそうきょく ぜん13きょく
1. へん短調たんちょう Op.33-1 / 2. ロ長調ちょうちょう Op.33-2 / 3. へんイ長調いちょうちょう Op.33-3 / 4. へん長調ちょうちょう Op.36 / 5. へん長調ちょうちょう Op.37 / 6. へん長調ちょうちょう Op.63 / 7. 嬰ハ短調たんちょう Op.74 / 8. へん長調ちょうちょう Op.84-8 / 9. ロ短調たんちょう Op.97 / 10. ホ短調たんちょう Op.99 / 11. 嬰ヘ短調たんちょう Op.104-1 / 12. ホ短調たんちょう Op.107 / 13. ロ短調たんちょう Op.119
夜想曲やそうきょく作曲さっきょく時期じきはフォーレの活動かつどう時期じきのすべてにわたっている。だい13ばんはピアノ作品さくひん掉尾ちょうびかざきょくである。ピアニストのマルグリット・ロンだい6ばんを「フォーレのもっとうつくしいインスピレーション」とひょうしている。
舟歌ふなうた ぜん13きょく
【1. イ短調たんちょう Op.26 / 2. ト長調とちょうちょう Op.41 / 3. へんト長調とちょうちょう Op.42 / 4. へんイ長調いちょうちょう Op.44 / 5. 嬰ヘ短調たんちょう Op.66 / 6. へん長調ちょうちょう Op.70 / 7. ニ短調たんちょう Op.90 / 8. へん長調ちょうちょう Op.96 / 9. イ短調たんちょう Op.101 / 10. イ短調たんちょう Op.104-2 / 11. ト短調とたんちょう Op.105-1 /12. へん長調ちょうちょう Op.105-2 / 13. ハ長調ちょうちょう Op.116】
だい4ばんまではヴェネツィアをおとずれるまえ作曲さっきょくされており、フォーレのあこがれとしてのイタリアをえがしたものといわれている。
前奏ぜんそうきょくしゅう Op.103 ぜん9きょく(1910ねん
【1. へん長調ちょうちょう / 2. 嬰ハ短調たんちょう / 3. ト短調とたんちょう / 4. ヘ長調ちょうちょう / 5. ニ短調たんちょう / 6. へん短調たんちょう / 7. イ長調いちょうちょう / 8. ハ短調たんちょう / 9. ホ短調たんちょう
フォーレがこの前奏ぜんそうきょくしゅう作曲さっきょくした時期じきは、ドビュッシーが前奏ぜんそうきょくしゅうだい1かん作曲さっきょくした時期じきかさなっている。ドビュッシーの作品さくひんことなり、フォーレは作曲さっきょく意図いとがかりをのこしていない。フォーレは1910ねんの1がつ最初さいしょ3きょく前奏ぜんそうきょく出版しゅっぱんしゃわたしており、おなねんあきにかけてのこりの6きょく作曲さっきょくした。

歌曲かきょく[編集へんしゅう]

ゆめのあとで Op.7-1(Après un rêve, 1865ねんごろ
歌曲かきょくしゅう『3つのうた』Op.7のだい1きょくロマン・ビュシーヌによるイタリアからの訳詩やくしによる作品さくひん。フォーレの歌曲かきょくちゅうもっと有名ゆうめい作品さくひん様々さまざま編曲へんきょく演奏えんそうされる。
イスパハーンの薔薇ばら Op.39-4(Les Roses d'Ispahan, 1884ねん
歌曲かきょくしゅう『4つのうた』Op.39のだい4きょくルコント・ド・リールによる作品さくひん
つきひかり Op.46-2(Clair de lune, 1887ねん
歌曲かきょくしゅう『2つのうた』Op.46のだい2きょくポール・ヴェルレーヌによる作品さくひん。これ以後いごの7年間ねんかん、フォーレはヴェルレーヌの集中しゅうちゅうてき作曲さっきょくするようになる。
5つのヴェネツィアのうた Op.58(Cinq mélodies de Venise, 1891ねん
【1. マンドリン / 2. ひそやかに / 3. グリーン /4. クリメーヌに / 5. 恍惚こうこつ
ヴェルレーヌのによる、フォーレの最初さいしょ連作れんさく歌曲かきょくしゅう1891ねん5月にイタリアのヴェネツィア、フィレンツェに旅行りょこうしたときに「マンドリン」がかれ、そのなつ全曲ぜんきょく完成かんせいしている。
歌曲かきょくしゅうやさしいうた』 Op.61(La bonne chanson, 1891ねん - 1892ねん
【1. 後光ごこう背負せおった聖女せいじょ / 2. あかつきひかりひろがり / 3. しろ月影つきかげもりり /4. わたしはつれないみちあゆむ / 5. わたし本当ほんとうおそろしいほど / 6. あかつきほしよ、おまえがえるまえに / 7. それはあるなつあかるい / 8. そうでしょう / 9. ふゆわって】
ヴェルレーヌのによる歌曲かきょくしゅう全曲ぜんきょくつうじていくつかの共通きょうつうした動機どうき確認かくにんされ、統一とういつせいがもたらされている。作曲さっきょく当時とうじ親密しんみつであったエンマ・バルダック(歌手かしゅでもあった)との交際こうさいとその助言じょげんおおいに触発しょくはつされ、後年こうねんフォーレは「『やさしいうた』ほど自発じはつてきけた作品さくひんはなかった。すくなくとも、もっと感動かんどうてき歌手かしゅそなえていた自発じはつせいによって、自然しぜん明快めいかい表現ひょうげんされていったことはくわえておかねばならない。」と述懐じゅっかいしている。この作品さくひんいたサン=サーンスが「フォーレは完全かんぜんくるってしまった」とさけんだことがられている。フォーレ自身じしんによる、伴奏ばんそうをピアノと弦楽げんがく重奏じゅうそうのために編曲へんきょくしたはんがある。
きゅうがつもりで Op.85-1(Dans la forêt de septembre, 1902ねん
歌曲かきょくしゅう『3つのうた』Op.85のだい1きょくカチュール・マンデスによる作品さくひん
歌曲かきょくしゅう『イヴのうた』 Op.95(La chanson d'Ève, 1906ねん - 1910ねん
【1. 楽園らくえん / 2. 最初さいしょ言葉ことば / 3. えるバラ / 4. かみかがやきのように / 5. 夜明よあけ / 6. ながれるみず / 7. 目覚めざめているか、太陽たいようかおり / 8. しろいバラのかおりのなかで / 9. たそがれ / 10. おおよ、ほしくずよ】
シャルル・ファン・レルベルグのによる歌曲かきょくしゅう。1910ねん4がつ、ジャンヌ・ロネーのソプラノ(献呈けんていも)、フォーレのピアノによって初演しょえんされた。『やさしいうた』のような統一とういつせいられない。これについてフォーレは「ことなった性格せいかくふたつのからは必然ひつぜんてきふたつのことなった音楽おんがくまれる」とかたっている。
歌曲かきょくしゅうざされたにわ』 Op.106(Le jardin clos, 1914ねん
【1. 聴許ちょうきょ / 2. あなたがわたし見入みいるとき / 3. 使つかおんな / 4. わたしはおまえのしんゆだねよう / 5. ニンフの神殿しんでんで / 6. 薄暗うすくらがりで / 7. わたしには大切たいせつなのです、あいかみよ / 8. すなうえ墓碑銘ぼひめい
ファン・レルベルグのによる2つめの連作れんさく歌曲かきょくしゅう。より簡潔かんけつ透明とうめい後期こうき様式ようしきあらわれている。
歌曲かきょくしゅう幻影げんえい』 Op.113(Mirages, 1919ねん
【1. みずうえ白鳥はくちょう / 2. みずうつかげ / 3. よるにわ /4. おど
ルネ・ド・ブリモン男爵だんしゃく夫人ふじんによる歌曲かきょくしゅう1919ねん7がつから8がつにかけていちがつらずで作曲さっきょくされた。同年どうねん12がつマドレーヌ・グレーのソプラノ(献呈けんていも)、フォーレのピアノによって初演しょえんされた。
歌曲かきょくしゅう幻想げんそう水平すいへいせん』 Op.118(L'horizon chimérique, 1921ねん
【1. うみてしなく / 2. わたしった / 3. ディアーヌよ、セレネよ /4. ふねたちよ、我々われわれはおまえたちと】
だいいち世界せかい大戦たいせんわかくしてった詩人しじん、ジャン・ド・ラ・ヴィル・ド・ミルモンのによる、フォーレ最後さいご歌曲かきょくしゅう1921ねんあき、チェロソナタだい2ばん完成かんせい作曲さっきょくされた。よく1922ねん5月、シャルル・パンゼラ献呈けんていも)の独唱どくしょうとフォーレのピアノによって初演しょえんされた。初演しょえんしゃのパンゼラは、その著書ちょしょのなかで「ガブリエル・フォーレよ、あなたの最後さいごきょくしゅう一人ひとり詩人しじん最後さいご作品さくひんまじわった」といている。ネクトゥーは「貴族きぞくてきつつしみをそなえた『幻影げんえい』とは対照たいしょうてきに、ただちに魅了みりょうする直接的ちょくせつてき調子ちょうしつ」力強ちからづよかがやかしい作品さくひんとしている。

宗教しゅうきょうきょく合唱がっしょうきょく[編集へんしゅう]

ラシーヌのみやび Op.11(Cantique de Jean Racine, 1863ねん - 1864ねん
ハルモニウムまたはピアノ伴奏ばんそうによる合唱がっしょうきょく
レクイエム Op.48(1887ねん
別項べっこう参照さんしょう
パヴァーヌ Op. 50(Pavane, 1887ねん
合唱がっしょう管弦楽かんげんがくのための作品さくひん合唱がっしょうはぶかれることもある。2しゅ編曲へんきょくばん存在そんざい
しょうミサきょく (Messe basse)
アンドレ・メサジェとのともさくの『ヴィレルヴィルの漁師りょうしのミサ』(Messe des pêcheurs de Villerville, 1881ねん - 1882ねん)を改作かいさく

歌劇かげき[編集へんしゅう]

現在げんざいではほとんど上演じょうえんされないが、フォーレには以下いかの2きょく大作たいさくがある。

悲歌ひかげきプロメテ』(Prométhée) ぜん3まく Op.82(1900ねん
アイスキュロスギリシア悲劇ひげきもとづく、ジャン・ロランおよびアンドレ=フェルディナン・エロルドの台本だいほん吹奏楽すいそうがく編曲へんきょくはシャルル・ユスタースによる。1900ねん8がつ、ベジエの野外やがいえん戯場ぎじょうにおいて、300めい吹奏楽すいそうがくだん、100めい弦楽げんがく、13めいのハープ、30めい舞台ぶたいじょうのトランペット、200めい合唱がっしょうなど、総勢そうぜい800にんのぼ演奏えんそうしゃとフォーレ自身じしん指揮しきによって初演しょえんされた。聴衆ちょうしゅうは1まんにんといわれる。フォーレの弟子でしロジェ=デュカスによる通常つうじょうのオーケストラによる演奏えんそうかいよう編曲へんきょくがある。
歌劇かげきペネロープ』(Pénélope) ぜん3まく(1907ねん - 1912ねん
ギリシア叙事詩じょじしオデュッセイア』にもとづく、ルネ・フォーショワの台本だいほんによる。1913ねん3月、レオン・ジェアン指揮しきによりモンテカルロで初演しょえん同年どうねん5がつのパリ初演しょえんおおきな成功せいこうおさめた。フォーレは1905ねんにフランス国立こくりつ音楽おんがく演劇えんげき学校がっこう学長がくちょう就任しゅうにんしており、以降いこうねん2かげつあいだ休暇きゅうかちゅう集中しゅうちゅうして作曲さっきょくしている。このため『ペネロープ』の作曲さっきょく期間きかん実質じっしつ10かげつ程度ていどられる。初演しょえんわせるために、だい2まくだい2じょう以降いこうおよびだい3まく最後さいご場面ばめんオーケストレーションについて、フェルナン・ペクー(ヴァンサン・ダンディ弟子でし)のりたことがみとめられる。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく
  1. ^ コープランドなどの初期しょき文献ぶんけんはフォーレが5月13にちまれであったとしている[1]出生しゅっしょう記録きろくのその日付ひづけは「昨日きのうまれ」とめることから、ネクトゥー、ジョーンズ、デュシェンらの専門せんもんは5月12にち出生しゅっしょうとしている[2]
  2. ^ ドゥフォール・ド・ソビアックの議会ぎかいでの立場たちばについては、文献ぶんけんによりことなっている。ジョーンズはかれを「département(けんしょう)の議会ぎかい代議士だいぎし」と特定とくていしており[10]、ジョンソンも同様どうようである[11]。オーリッジはおなじくかれは「アリエージュ県議会けんぎかい議員ぎいん」であったと[12]、ネクトゥーは「代議だいぎいん上級じょうきゅう公務員こうむいん」(だい帝政ていせいではPalais législatifとしてられていた議会ぎかい)であると記載きさいする[7]。デュシェンは議会ぎかいには言及げんきゅうせず、ドゥフォール・ド・ソビアックについて「パリでアーキビストとしてはたら地元じもと男性だんせい」とべている[13]
  3. ^ 後世こうせいはこうひょうする。「学校がっこう制服せいふく着用ちゃくようしたフォーレ少年しょうねん写真しゃしんチャペル・ロイヤル少年しょうねんたい一人ひとりであったアーサー・サリヴァンていなくもない[18]。」
  4. ^ フォーレはワーグナーの楽劇がくげきでは一部いちぶくらべてこのんでいた。『マイスタージンガー』、『パルジファル』、『ゆびたまき』をあいする一方いっぽう、『タンホイザー』と『ローエングリン』には生暖なまあたたかいけており、『トリスタンとイゾルデ』のことはきらっていた。デュシェンが推測すいそくするに、『トリスタンとイゾルデ』の「感情かんじょうめんながさ - その過剰かじょうぶり」がフォーレの美的びてき感性かんせい根本こんぽんてき相容あいいれなかったのではないかということである[47]
  5. ^ かれ弟子でしであったアルフレード・カゼッラはフォーレが「性懲しょうこりのないカサノヴァおおきな、物憂ものうげで官能かんのうてき」をゆうしていたとしるしている。パリの音楽おんがくかいではフォーレの門下生もんかせいのうち、もっとすぐれた才能さいのうすうめいかれこん外子そとこなのではないかとうわさされたほどである。このうわさ内容ないよう裏付うらづけられたことはない[54]
  6. ^ フォーレ自身じしんはこの作品さくひんについてこうべている。「わたしの『レクイエム』についてうならば、おそらく本能ほんのうてき慣習かんしゅうからのがれようとこころみたのであり、ながあいだいちてき葬儀そうぎのオルガン伴奏ばんそうをつとめた結果けっかがここにあらわれている。わたしはうんざりしてなにかほかのことをしてみたかったのだ[62]。」
  7. ^ 1907ねんのパリ初演しょえんヴァンセンヌ競馬けいばじょうおこなわれたものの音響おんきょうきわめてわるかったため、2かい公演こうえんはオペラ場所ばしょうつしての開催かいさいだった。1917年版ねんばん管弦楽かんげんがく改訂かいていばんはフォーレの依頼いらいにより、ロジェ=デュカスが担当たんとうした[81]
  8. ^ ヴィドールはこの翌年よくねん選出せんしゅつされている[89]
  9. ^ フォーレとメサジェは、ぎた愛国心あいこくしんから旧友きゅうゆうおろかにられる危機きき直面ちょくめんしていることを懸念けねんしていた[99]。また、台頭たいとうする若手わかて作曲さっきょく作品さくひん非難ひなんする傾向けいこうつよまっていることについても同様どうようである。サン=サーンスはドビュッシーの『しろくろ』をこきろし、「こたる暴虐ぼうぎゃくはたらきうるおとこたいしてはいかなる代償だいしょうをもってしても学士がくしいんもんざさねばならない。こんなものはキュビスト絵画かいがとなりにでもかざっておけ」とべていた[100]
  10. ^ プーランクのみが6人組にんぐみ例外れいがいてきにフォーレの音楽おんがく毛嫌けぎらいしていた。ネクトゥーはこれは奇妙きみょうなことであるとべているが、なぜなら6人組にんぐみのうちでもプーランク「はんだ清明せいめいさと、かれ自身じしん作品さくひん歌唱かしょうてき特性とくせいかれ魅力みりょくにおいて、フォーレにもっとちかい」からである[103]
出典しゅってん
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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

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外部がいぶリンク[編集へんしゅう]