ローマしょう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ローマ・ボルゲーゼ庭園ていえんないのメディチそう (Villa Medici)。今日きょうでも奨学生しょうがくせい寄宿きしゅくしている。

ローマしょうフランス語ふらんすご:Prix de Rome)は、芸術げいじゅつ専攻せんこうする学生がくせいたいしてフランス国家こっか授与じゅよした奨学しょうがくきんづけ留学りゅうがく制度せいどである。1663ねんルイ14せいによって創設そうせつされ、1968ねん廃止はいしされるまで継続けいぞくした。

概要がいよう[編集へんしゅう]

ルイ14せい治世ちせい1663ねん創設そうせつされた。創設そうせつ当初とうしょのローマしょうでは建築けんちく絵画かいが彫刻ちょうこく版画はんがかくしょうもうけられ、王立おうりつ絵画かいが彫刻ちょうこくアカデミーのち芸術げいじゅつアカデミー審査しんさにより優秀ゆうしゅうしゃ選出せんしゅつされた。このうちだい一等いっとうだいとう受賞じゅしょうしゃが、1666ねん財務ざいむ総監そうかんジャン=バティスト・コルベール筆頭ひっとう宮廷きゅうてい画家がかシャルル・ルブランによって設立せつりつされたローマのざいローマ・フランス・アカデミー(Académie de France à Rome) での3ねんから5ねん留学りゅうがく滞在たいざい権利けんり奨学しょうがくきんあたえられた。留学りゅうがく期間きかんざいローマ・フランス・アカデミーの校長こうちょうみとめれば、延長えんちょうされることもあった。留学生りゅうがくせいはローマで、ルネッサンス巨匠きょしょう作品さくひんなどをまなんだ。1803ねんざいローマ・フランス・アカデミーはナポレオン・ボナパルト命令めいれいヴィラ・メディチうつされた。1803ねん制度せいど改革かいかくにより芸術げいじゅつアカデミー会員かいいん審査しんさという形式けいしき確立かくりつし、また音楽おんがくしょう追加ついかされた。

制度せいど確立かくりつした19世紀せいきにあってローマしょうかく部門ぶもん若手わかて芸術げいじゅつ登竜門とうりゅうもんとして機能きのうした。しかし、終身しゅうしん会員かいいんであるアカデミー会員かいいんがその出身しゅっしん分野ぶんやわずぜん部門ぶもんしょう審査しんさ投票とうひょうけんつことから、「ふる世代せだい」にぞくするかれらの審査しんさ基準きじゅん保守ほしゅてきであり、新奇しんき芸術げいじゅつ傾向けいこうたいして過度かど敵対てきたいてきであることへの批判ひはん建築けんちく絵画かいが音楽おんがくなど芸術げいじゅつ分野ぶんや審査しんさおこなえるのだろうかとの疑問ぎもん、あるいは審査しんさいん愛弟子まなでし優遇ゆうぐうしているのではないかとの疑惑ぎわくがたびたび提起ていきされた。

受賞じゅしょうしゃちゅうにはもちろん後世こうせいめいした芸術げいじゅつおおいが、かならずしも大成たいせいしたものばかりでないこと、一方いっぽう絵画かいが部門ぶもんでのドラクロワマネドガ作曲さっきょく部門ぶもんラヴェルなど、ローマしょうにたびたび挑戦ちょうせんするもみとめられなかったが、のち名声めいせい芸術げいじゅつおおいことが、こうした権威けんい批判ひはん裏付うらづけている。

フランスにおけるはん権威けんい主義しゅぎ運動うんどう頂点ちょうてんとなった1968ねんのいわゆる五月ごがつ革命かくめい、ローマしょうアンドレ・マルロー文化ぶんか大臣だいじんにより廃止はいしされたが、1971ねんからは「奨学しょうがくきん給付きゅうふせい(pensionnaires)の選定せんてい」というかたちでなかば復活ふっかつしており、この奨学しょうがくきん給付きゅうふせいも「ローマしょう受賞じゅしょうしゃ」とばれることがおおい。現在げんざい給付きゅうふせいは18かげつないし2年間ねんかんメディチそうへの滞在たいざいみとめられる。ただし現在げんざい運営うんえい主体しゅたい芸術げいじゅつアカデミーでなく、フランス文化ぶんかしょう管轄かんかつ法人ほうじん組織そしきとして財政ざいせいじょう独立どくりつせい担保たんぽされたざいローマ・フランス・アカデミーである。

このしょう見本みほんに「ローマしょう」の名前なまえで、ベルギーやカナダ、オランダ、スペイン、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくでも、留学りゅうがく奨学しょうがくきん得点とくてんのついた美術びじゅつしょうもうけられたことがある。

音楽おんがくしょう[編集へんしゅう]

音楽おんがくしょうは1803ねん追加ついかされ、だいいちおよびだい世界せかい大戦たいせんによる2中断ちゅうだん1915ねん-1918ねん1940ねん-1941ねん)をのぞけば毎年まいとし開催かいさいされた。

音楽おんがくしょう応募おうぼしゃは30さい以下いかでなければならないとされた。予選よせん段階だんかい(Concours d'Essai)は応募おうぼしゃらく理解りかいしているかどうかを審査しんさするとされ、対位法たいいほう和声わせいほうおよびフーガ課題かだいもうけられた。本選ほんせん(Concours Définitif)は応募おうぼしゃ芸術げいじゅつとしての音楽おんがく体得たいとくしているかを審査しんさするとされた。予選よせん通過つうかしゃには4ないし5週間しゅうかんあたえられ、パリ音楽おんがくいん教授きょうじゅじんによってあらかじめ指定していされたテクストに一声いっせいあるいはこえ歌唱かしょう、およびオーケストラによるきょく[1]けることが課題かだいとされた。本選ほんせん参加さんかしゃ作品さくひんはまずパリ音楽おんがくいん教授きょうじゅじんによる予備よび審査しんさのち芸術げいじゅつアカデミー会員かいいん総員そういんによる投票とうひょう順位じゅんい決定けっていされた。

だい一等いっとう(Premier Grand Prix)受賞じゅしょうしゃは2年間ねんかんだいとう(Second Grand Prix)受賞じゅしょうしゃ[2]はそれより短期間たんきかんローマ・メディチそうごし、毎年まいとし1さく以上いじょう大作たいさく作曲さっきょくおこなうことが要請ようせいされた。政府せいふによる経済けいざい支援しえんはこのローマ留学りゅうがく期間きかんより長期ちょうき典型てんけいてきには5年間ねんかん)にわたったため、その受賞じゅしょうしゃフランス帰国きこくあるいはドイツ遊学ゆうがくすることが可能かのうであった。受賞じゅしょうしゃほか特典とくてんとしては、作品さくひん発表はっぴょう機会きかい保障ほしょう各地かくちへの旅行りょこう費用ひよう補助ほじょ兵役へいえき免除めんじょ、およびパリ市内しないかく文化ぶんか施設しせつ無料むりょうでの利用りようけんなどがあった。

エクトル・ベルリオーズすうかい落選らくせんのち、1830ねんだい一等いっとう受賞じゅしょうしているが、かれはこのしょう審査しんさシステム――とりわけ最終さいしゅう審査しんさ専門せんもんである芸術げいじゅつアカデミー会員かいいんによりおこなわれるというてん――を問題もんだいにした最初さいしょ一人ひとりであった。最終さいしゅう投票とうひょうおこなう40めいちゅう音楽おんがく関係かんけいしゃはわずか5めいだったのである。

モーリス・ラヴェルは1900ねんから1905ねんにかけてけい5かいローマしょう応募おうぼしたが、最後さいごまでだい一等いっとう受賞じゅしょうすることはできなかった。もっとも俗説ぞくせつにいう「かれはローマしょうから完全かんぜんしをくらった」は正確せいかくではなく、1901ねんに「だいとう次席じせき(deuxième Second Grand Prix)」を受賞じゅしょう(このとしだい3相当そうとう)しているのが最高さいこうである。それでも、30さいという年齢ねんれい制限せいげんのため最後さいご応募おうぼとなった1905ねんにラヴェルがだい一等いっとういっしたとき、それはおおきな波紋はもんをよび、最終さいしゅうてきにはパリ音楽おんがくいん院長いんちょうテオドール・デュボワ辞職じしょくガブリエル・フォーレ後任こうにん就任しゅうにん音楽おんがくいん大改革だいかいかくへとつながったのである。

受賞じゅしょうしゃ自筆じひつによる提出ていしゅつ楽譜がくふはかつてはパリ音楽おんがくいんに、現在げんざいではフランス国立こくりつ図書館としょかん収蔵しゅうぞうされている。

音楽おんがくしょうのその[編集へんしゅう]

音楽おんがくかんするローマしょうは1968ねん廃止はいし、「若手わかて作曲さっきょくのためのメディチそう滞在たいざい制度せいど」に変更へんこうされ毎年まいとしいくにんかの若手わかて作曲さっきょく滞在たいざいさせている。この制度せいど利用りようしたジェラール・グリゼートリスタン・ミュライユジャチント・シェルシ自宅じたくせたのちに、スペクトルらく発端ほったんになったという。

建築けんちくしょう[編集へんしゅう]

フランスの建築けんちくにおいてローマ大賞たいしょう制度せいどは、きゅう制度せいど王立おうりつ建築けんちくアカデミー時代じだいにすでにある程度ていど確立かくりつされ、1720ねんから建築けんちく部門ぶもん学生がくせい毎年まいとし1めいずつローマに派遣はけんする原則げんそく出来上できあがらせた。ただし当初とうしょはアカデミーが審査しんさする大賞たいしょう順位じゅんいより、国王こくおうしたかれた王室おうしつ建設けんせつ総監そうかんのほうが決定けっていりょくち、そのためときに実際じっさい大賞たいしょう受賞じゅしょうしゃ以外いがい人物じんぶつがローマに留学りゅうがくしていたこともあった。 その建築けんちくアカデミーの権威けんい確立かくりつし、それとともに、ローマ大賞たいしょう一種いっしゅ絶対ぜったいてき価値かちつものと一般いっぱん理解りかいされてくる。

こうした建築けんちく学徒がくとのローマへの留学りゅうがく制度せいどはフランスのほかに、イギリスのソーンしょうなど同様どうよう制度せいど各国かっこく設置せっちされている。

エコール・デ・ボザール設立せつりつされてからの、1819ねんから1968ねんまでつづいたきゅうボザール時代じだいでも、毎年まいとし1かいもよおされるローマ大賞たいしょう設計せっけい競技きょうぎは、最大さいだい年間ねんかん行事ぎょうじともいえる規模きぼしていた。ポザール自体じたい当然とうぜん美術びじゅつアカデミーからは独立どくりつした教育きょういく機関きかん形態けいたいたもっていたが、ローマ大賞たいしょう審査しんさだけは、アカデミーがおこなっていた。開催かいさいされる設計せっけい競技きょうぎは、ポザールの建築けんちくろん教授きょうじゅ課題かだい審査しんさ決定けっていけんっているが、ローマ大賞たいしょうだけはすべてアカデミーのプログラムに沿ってなされていた。

大賞たいしょうのための設計せっけい競技きょうぎ基本きほんてきに3段階だんかいかれている。 毎年まいとし3がつ応募おうぼしゃすべてにひらかれている最初さいしょ競技きょうぎは12時間じかん以内いない仕上しあげるエスキスで、まず応募おうぼしゃたちはポザール校舎こうしゃないのアトリエ製図せいずとうはいりとりかかる。なか応募おうぼしゃ同士どうし相談そうだんするのはゆるされていたが、中途ちゅうとでの外出がいしゅつみとめられなかったという。製図せいずとうときは、仕上しあげたエスキスを守衛しゅえい手渡てわたし、その審査しんさまわされる。 だいいち競技きょうぎ主旨しゅしは、ファサードデザイン中心ちゅうしんとした表現ひょうげん能力のうりょくをみることで、ぜん応募おうぼしゃなかからまず30にんけられる。

だい設計せっけい競技きょうぎはこの30にん対象たいしょうに、だいいち競技きょうぎから1週間しゅうかん以内いないおこなわれ、ここで建物たてもの全体ぜんたい構成こうせい技法ぎほう表現ひょうげんためされ、製図せいずとうなかで24時間じかん以内いないにエスキスを仕上しあげる。このだい審査しんさによってさらに8にん最終さいしゅう候補者こうほしゃえらび(1864ねんからは10にん)、その本格ほんかくてき大賞たいしょう設計せっけい競技きょうぎはじまるのである。だい審査しんさ結果けっか発表はっぴょうされた瞬間しゅんかんから、最終さいしゅう競技きょうぎ開始かいしされることになり、提出ていしゅつ期限きげん7がつまでのやく4かげつ最終さいしゅう選考せんこうにこのった先鋭せんえいたちは最終さいしゅう目標もくひょうかってひたすらはしつづけるのであるがここでもエスキスの段階だんかいがあり、候補者こうほしゃはまず、通常つうじょう設計せっけい競技きょうぎ同様どうよう製図せいずとう作業さぎょうおこなわねばならない。課題かだいはその時点じてんわたされるので、この12あいだ全体ぜんたい構想こうそう決定けっていするが、これは最終さいしゅう提出ていしゅつ図面ずめんはこのエスキスでしめした構想こうそう合致がっちしていなければならないためで、エスキスを作成さくせいした候補者こうほしゃたちはそのの4かげつ各自かくじ所属しょぞくするアトリエ必死ひっし作業さぎょうおこなうことになる。ローマ大賞たいしょう受賞じゅしょうしゃ輩出はいしゅつするのはアトリエにとっても名誉めいよでもあり、またそのアトリエのかく決定けっていする最大さいだい基準きじゅんでもあったので、あるアトリエでだれかが最終さいしゅう候補こうほまでのこることがあれば大変たいへんさわぎであったという。締切しめき間際まぎわはアトリエのメンバーそうがかりで手伝てつだうこととなり、だい図面ずめんつぎからつぎえがかれていったという。げんはば7mのだてめんのこっていて、コピーなどまったくない時代じだいこの作業さぎょう桁外けたはずれた労力ろうりょく必要ひつようとした。

一度いちどローマ大賞たいしょうれば、基本きほんてきには将来しょうらい公共こうきょう部門ぶもんだい建築けんちく委託いたくされ、またボザールアトリエパトロンみちけ、当然とうぜんアカデミー会員かいいんえらばれる可能かのうせいもある。そのため、学生がくせいたちはこの大賞たいしょう獲得かくとくのために執念しゅうねんやした。1826ねん受賞じゅしょうするレオン・ヴォードワイエは5年間ねんかん、この設計せっけい競技きょうぎつづけ、トニー・ガルニエは6ねんジャン=ルイ・パスカルは7ねん。エドモン=ジャン・ポーランはじつに8年間ねんかんも、設計せっけい競技きょうぎいどんだといわれる。大賞たいしょう受賞じゅしょうしゃ年齢ねんれいもしたがってかなりたかく、ほぼ30さいちかかった。規定きていにより大賞たいしょう応募おうぼ資格しかくは15さいから30さいまでとなっており、この年齢ねんれいを25さいにまでげた1863ねん大改革だいかいかくは、学生がくせい反対はんたいんだ。なおぎゃく初期しょきアンリ・ラブルースト、ルイ・デュグたちは23さい大賞たいしょうかがやき、ネオ・グレコの運動うんどうこし、またシャルル・ガルニエも23さい大賞たいしょう受賞じゅしょうで、周囲しゅうい人々ひとびと期待きたい一身いっしんけたという。

ローマ大賞たいしょう獲得かくとくすると、ローマフランス・アカデミー(Académie de France à Rome、通称つうしょうヴィラ・メディチ) に派遣はけんされる。王立おうりつアカデミー時代じだいは3ねん留学りゅうがく期間きかんだったが、エコール・デ・ポザール設立せつりつとともに5ねんげられた。1863ねん改革かいかくでは、いったん4年間ねんかんとなったが、のちに5年間ねんかんとなる。フランス・アカデミーは、だいいちだい大戦たいせん時期じきのぞいて毎年まいとし留学生りゅうがくせいれ、ローマ大賞たいしょうのなくなった今日きょうでも存続そんぞくしている。近代きんだいてき交通こうつう機関きかん整備せいびされていなかった19世紀せいきなかばまでは、ローマにけるということ自体じたい、きわめて価値かちあることであった。むろん、19世紀せいきまつになって、イタリア旅行りょこうがいともたやすくできるようになってきても、5年間ねんかん日々ひびくに費用ひよう古典こてん建築けんちく研究けんきゅうついやすことのできる留学生りゅうがくせい立場たちば代々だいだい人々ひとびと圧倒的あっとうてきしのいでいた。

1846ねんギリシアアテネにもアカデミーの出先でさきとしてエコール・フランセーヌ・ダテヌフランス語ふらんすごばん(École française d'Athènes)が創立そうりつされ、それ以降いこうローマからアテネまであしをのばす留学生りゅうがくせいえて、とくにギリシア本土ほんど建築けんちく中東ちゅうとう建築けんちくまわるにはこのエコール・フランセーズ・ダテヌは中継ちゅうけいてんだったようである。

ローマ留学生りゅうがくせいは、美術びじゅつアカデミーから年間ねんかん課題かだいせられ、毎年まいとし1かいパリにそれをおくらねばならないことになっている。内容ないようとしては古典こてん建築けんちく実測じっそく復原ふくげん研究けんきゅうとされていたが、テーマ自体じたいはみずからえらぶ。留学生りゅうがくせいからローマからおくられた図面ずめんるい毎年まいとし、ボザールのメルポメーヌのあいだ展示てんじ、これも学校がっこう一大いちだい行事ぎょうじであったが、1829ねんアンリ・ラブルーストのようにパエストゥムのギリシア神殿しんでん実測じっそく研究けんきゅうおくったり、あるいは、1909ねんトニー・ガルニエ古典こてん建築けんちく関係かんけいのない「工業こうぎょう都市とし」の図面ずめんおくりつけたりしたときなど、展覧てんらんかい大騒おおさわぎとなったとつたえられている。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ これは通常つうじょうcantatescène lyrique あるいはpoème lyrique しょうされた。
  2. ^ だい一等いっとうだいとう空位くういであることも、あるいは同等どうとう複数ふくすう受賞じゅしょうしゃがあることもあった。後者こうしゃのケースではだい一等いっとう首席しゅせき(premier Premier Grand Prix)、だい一等いっとう次席じせき(deuxième Premier Grand Prix)などといった区別くべつがなされている場合ばあいも、まったくの同等どうとうである場合ばあいもある。またこのほか栄誉えいよしょう(Mention honorable)がとく授与じゅよされることもあった。

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

  • [1]音楽おんがくしょうかんしての詳細しょうさい歴代れきだい受賞じゅしょうしゃなど(フランス語ふらんすご