芸術げいじゅつアカデミー

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芸術げいじゅつアカデミー(げいじゅつアカデミー、Académie des Beaux-Artsアカデミー・デ・ボザール〉)は、フランス学士がくしいん (Institut de France) を構成こうせいするいつつのアカデミーひとつ。

沿革えんかく[編集へんしゅう]

もともとアカデミーは、徒弟とていせいのもとで工房こうぼう職人しょくにん組合くみあいなどぞくしていた画家がか彫刻ちょうこく、あるいは音楽家おんがくかいたるが、芸術げいじゅつ知的ちてき学問がくもん分野ぶんやであり旧弊きゅうへい制度せいどはいされるべきだとして結成けっせいした自由じゆうあつまりであった。やがてかれらは国王こくおう直属ちょくぞく機関きかんとなり、ヨーロッパにかんたる芸術げいじゅつ国家こっかつくろうという国家こっか芸術げいじゅつ政策せいさくのもと、芸術げいじゅつ育成いくせい表彰ひょうしょう展示てんじといった特権とっけん独占どくせんする。フランス革命かくめいまえに、芸術げいじゅつ関係かんけいではつぎの3つの王立おうりつアカデミーがあった。

フランス革命かくめい議会ぎかいにより、1791ねん王立おうりつアカデミーは廃止はいしされたが、1795ねん再興さいこうした。王政おうせい復古ふっこ1816ねんに「芸術げいじゅつアカデミー」に統合とうごうされた。

アカデミー制度せいど中心ちゅうしんになるのは、修業しゅうぎょう方式ほうしきでない方法ほうほう芸術げいじゅつそだてる教育きょういく機関きかんエコール・デ・ボザール)、若手わかて芸術げいじゅつから優秀ゆうしゅうものえらびイタリアなどへの学習がくしゅう旅行りょこうおくコンクール(ローマ大賞たいしょう)、自分じぶんたち発表はっぴょう自分じぶんたち確保かくほする展覧てんらんかいサロン)の3つである。

エコール・デ・ボザール[編集へんしゅう]

17世紀せいきのフランス王立おうりつアカデミーの付属ふぞく学校がっこう起源きげんである。1819ねんに、絵画かいが彫刻ちょうこく建築けんちく部門ぶもん統合とうごうされ、国立こくりつ美術びじゅつ学校がっこうエコール・デ・ボザール)となった。1968ねんの5がつ革命かくめい組織そしき再編さいへんおこなわれた。

ローマ大賞たいしょう[編集へんしゅう]

1803ねん創設そうせつ絵画かいが彫刻ちょうこく建築けんちく音楽おんがくかく分野ぶんやから毎年まいとし1めいえらばれ、ローマ留学りゅうがく資格しかくる。現在げんざい廃止はいしされている。

サロン[編集へんしゅう]

フランス王立おうりつ絵画かいが彫刻ちょうこくアカデミーは、1667ねんにパレ・ロワイヤル(パリ)で作品さくひんてんおこない、これが美術びじゅつてんはじまりとされる。ルーヴルみやサロン・カレ(方形ほうけいあいだ)で開催かいさいされる展覧てんらんかいかんてん)をサロンんだ。

フランス革命かくめい絵画かいが彫刻ちょうこくアカデミーは廃止はいしされるが、王政おうせい復古ふっこのもとで芸術げいじゅつアカデミーに統合とうごうされる。革命かくめい、サロンはアカデミー会員かいいんによる審査しんさのもと、アカデミーにぞくしない一般いっぱん画家がかにもひらかれた(公募こうぼてんはじまり)。サロンへの出展しゅってんまることが若手わかて美術家びじゅつか目標もくひょうでありサロンは登竜門とうりゅうもんになった。アカデミーの審査しんさいんは、しん古典こてん主義しゅぎてき美学びがくっており、また旧来きゅうらい貴族きぞく新興しんこうブルジョワたちの趣味しゅみ迎合げいごうする傾向けいこうがあったため、保守ほしゅ傾向けいこうにあった(アカデミズム)。サロンではあたらしい傾向けいこう作品さくひんれられず、次第しだいわか作家さっかたちのあいだ不満ふまんたかまっていった。これらあたらしい傾向けいこうは、欧州おうしゅうおお自由じゆう主義しゅぎもとめる政治せいじ運動うんどう科学かがく急速きゅうそく発展はってんとも密接みっせつにつながっていた。

サロンへの反抗はんこう[編集へんしゅう]

だい帝政ていせい皇帝こうていナポレオン3せい独自どくじ芸術げいじゅつ政策せいさくすすめてアカデミーと対立たいりつする。1863ねんには例年れいねんになくきびしい審査しんさに、落選らくせんさせられた作家さっかたちの不満ふまんたかまると、皇帝こうてい美術びじゅつ愛好あいこうしゃ大衆たいしゅう判断はんだんまかせるため、落選らくせん作品さくひんあつめた展覧てんらんかいひらくことをアカデミーにめいじた。この「落選らくせんてん」で、マネの「くさじょう昼食ちゅうしょく」が日常にちじょう生活せいかつはだかえがいたことでスキャンダルをこし話題わだいになった。1881ねんフランス芸術げいじゅつ協会きょうかい設立せつりつされ、サロンの運営うんえいおこなうことになった(民営みんえい)。

1874ねんにはのちに印象派いんしょうはばれるグループが独自どくじ展覧てんらんかいだい1かい印象派いんしょうはてん)をひらいた。1884ねんには審査しんさ出品しゅっぴん制限せいげんアンデパンダンてん(Salon des Indépendants)、また、1890ねんにはべつ国民こくみん美術びじゅつ協会きょうかい(ソシエテ・ナショナル・デ・ボザール)主催しゅさいのサロンも開催かいさいされるようになった。1903ねんサロン・ドートンヌてん開催かいさい以降いこうおおくのサロンが誕生たんじょうするようになっていく。

印象派いんしょうはなど、のち近代きんだい美術びじゅつとなった芸術げいじゅつたちはそれぞれの美学びがくって、アカデミーの美術びじゅつ学校がっこうエコール・デ・ボザール)がおしえるような技巧ぎこう優先ゆうせん保守ほしゅてき美術びじゅつを「アカデミーてきアカデミック)」とんで攻撃こうげきした。アカデミーにぞくさずサロンにもさない美術家びじゅつかえ、かれらは独自どくじのグループや結社けっしゃみ、個展こてん独自どくじのグループてんおこなうようになった。20世紀せいきはいだいいち世界せかい大戦たいせん以後いご、これら19世紀せいきなかばの近代きんだい美術びじゅつ画家がかたち評価ひょうかされるようになると、ぎゃくかれらを攻撃こうげきした芸術げいじゅつアカデミーのアカデミックな作風さくふう大家たいかたちはわすれられるようになった。

かんてんながれをむサロン(ル・サロン、フランス芸術げいじゅつ協会きょうかいてん)は現在げんざいでも毎年まいとしおこなわれているが、近年きんねんはこれまで使用しようしていたグラン・パレ1900ねんパリ万博ばんぱくさいてられたガラスと鉄骨てっこつだい展覧てんらん会場かいじょう)が老朽ろうきゅう修理しゅうりのためなが閉鎖へいさはいったため、だい規模きぼ会場かいじょうでサロンをおこなっていた。また、だい世界せかい大戦たいせんこう芸術げいじゅつ中心ちゅうしんがパリからニューヨーク移動いどうしたこともあり、サロンが芸術げいじゅつかいアート・ワールド)におよぼす影響えいきょうも、かつてほどおおきくなくなっている。2006ねん以降いこうグラン・パレでのサロンてん再開さいかいともない、複数ふくすうのサロンが合同ごうどう開催かいさいされるSalon EN CAPITAL開催かいさいされるようになり、今後こんごのフランス・サロンかいかえしが期待きたいされている。また、2008ねんにはフランス学士がくしいん総裁そうさいである、Prince Gabriel de BROGLIE (Chancelier de l'institut de France) により、LA SECTION DE GRAVURE DE L'ACADEMIE -DES BEAUX-ARTS EXPOSE ET RECOIT SES INVITESが、グーテンベルクから変容へんようつづける版画はんが印刷いんさつじゅつ書誌しょしがく)をテーマに4にんのアカデミシャンへのオマージュてんとして、現代げんだい活躍かつやくする版画はんがまね開催かいさいされた。

これまでの日本人にっぽんじん会員かいいん[編集へんしゅう]

フランスの芸術げいじゅつ寄与きよしたことにより、会員かいいん正会員せいかいいんじゅん会員かいいん)に選出せんしゅつされた日本人にっぽんじんがいる。たとえば氏家うじいえひとし一郎いちろうは、日本にっぽんでのフランス美術びじゅつ展覧てんらんかい主催しゅさいブル美術館ぶるびじゅつかんモナ・リザあいだ出資しゅっしするなどの功績こうせきにより選出せんしゅつされた。ほん会員かいいんは、毎週まいしゅう木曜日もくようびのアカデミーの会議かいぎとうへの出席しゅっせき義務付ぎむづけられている。

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]