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サロン・ド・パリ - Wikipedia コンテンツにスキップ

サロン・ド・パリ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

サロン・ド・パリフランス語ふらんすご: Salon de Paris)は、フランス王立おうりつ絵画かいが彫刻ちょうこくアカデミーが18世紀せいきパリ開催かいさいするようになった公式こうしき美術びじゅつ展覧てんらんかい。その、フランスの政体せいたいわりながらも1880ねんまでアカデミーまたは政府せいふによって開催かいさいされたのでかんてんともいう。1881ねん以降いこうは、フランス芸術げいじゅつ協会きょうかい開催かいさいする民間みんかんサロンがれた。

概要がいよう

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サロンの起源きげんは、王立おうりつ絵画かいが彫刻ちょうこくアカデミーが、会員かいいん作品さくひん展示てんじする展覧てんらんかいひらいたことにあり、1737ねん以降いこうほぼ定期ていきてきに、ルーヴル宮殿きゅうでんのサロン・カレ(方形ほうけいあいだ)で展覧てんらんかい開催かいさいしたことから名付なづけられた。当時とうじロココ美術びじゅつ全盛ぜんせい時代じだいであり、フランソワ・ブーシェらが活躍かつやくしていた。1745ねん、ロココ美術びじゅつあまりに官能かんのうてき描写びょうしゃ氾濫はんらんたいする危惧きぐもあって、アカデミーの改革かいかくおこなわれ、不適切ふてきせつ作品さくひん投票とうひょう排除はいじょするというサロンの審査しんさ制度せいど明確めいかくされた。18世紀せいき後半こうはんになると、徐々じょじょしん古典こてん主義しゅぎてき作品さくひん奨励しょうれいされるようになり、1785ねんのサロンにジャック=ルイ・ダヴィッドが『ホラティウス兄弟きょうだいちか』を出品しゅっぴんしたことで、しん古典こてん主義しゅぎ完成かんせいいきたっした。

1789ねんにフランス革命かくめいきると、サロンに出品しゅっぴんできるのはアカデミーの正会員せいかいいんじゅん会員かいいんかぎられないことになり、公募こうぼせいがとられた。当初とうしょ審査しんさ自由じゆうサロンであったが、出品しゅっぴんすう激増げきぞうによって運営うんえい困難こんなんになったことから、1798ねんから審査しんさ制度せいどおこなわれた。審査しんさ制度せいどおこなわれたことによって、画家がかたちはアカデミーの主流しゅりゅうであるしん古典こてん主義しゅぎ沿った作品さくひん提出ていしゅつしようとし、19世紀せいきつうじて、しん古典こてん主義しゅぎはサロンの規範きはんとなった。しん古典こてん主義しゅぎ正統せいとういだのが、1824ねんのサロンで『ルイ13せいちかい』が成功せいこうしたドミニク・アングルであった。これにたいし、テオドール・ジェリコー1819ねんのサロンに『メデューズごういかだ』を出品しゅっぴんし、ウジェーヌ・ドラクロワ1824ねんのサロンに『キオスとう虐殺ぎゃくさつ』を出品しゅっぴんするなど、しん古典こてん主義しゅぎ対立たいりつするロマン主義しゅぎ潮流ちょうりゅうまれた。

ルイ・フィリップによる7がつ王政おうせいで、1833ねんから、しばらく隔年かくねん開催かいさいとなっていたサロンは毎年まいとし開催かいさいとなり、展示てんじ作品さくひんを3000てんちょうまでやすといった改革かいかくおこなわれ、芸術げいじゅつ大衆たいしゅうすすんだ。サロンは、新興しんこう市民しみん階級かいきゅう買手かいてもとめる画家がかにとっての商品しょうひん展示てんじじょうとしての性格せいかくつよめた。しん古典こてん主義しゅぎとロマン主義しゅぎ中庸ちゅうようオラース・ヴェルネポール・ドラローシュ活躍かつやくした。

2がつ革命かくめいみじかだい共和きょうわせいでは、サロンの民主みんしゅおこなわれ、1848ねんのサロンは審査しんさとされたが、玉石混交ぎょくせきこんこうまねき、1849ねんから審査しんさ制度せいど復活ふっかつした。そうしたなかギュスターヴ・クールベジャン=フランソワ・ミレーといった、庶民しょみん生活せいかつえが写実しゃじつ主義しゅぎ(レアリスム)の画家がかがサロンに登場とうじょうしてきた。

ナポレオン3せいだい帝政ていせい時期じきには、ジョルジュ・オスマンによるパリだい改造かいぞうによって、パリはヨーロッパ最先端さいせんたん文化ぶんか都市としとなり、サロンが社会しゃかいてき行事ぎょうじとして定着ていちゃくし、美術びじゅつ批評ひひょうもさかんになった。画家がか作品さくひんるためには、サロンでの成功せいこう不可欠ふかけつであった。サロンの審査しんさ委員いいんは、画家がかによる選挙せんきょ美術びじゅつ行政ぎょうせいによる任命にんめいによってえらばれていたが、結局けっきょくはアカデミー会員かいいんおおくをめたため、審査しんさしん古典こてん主義しゅぎ規範きはんとする保守ほしゅてきなアカデミズムにのっとっておこなわれた。1855ねんのサロンは、パリ万国博覧会ばんこくはくらんかい吸収きゅうしゅうされたが、このときから、シャンゼリゼどおりの産業さんぎょうかん開催かいさいされるようになった。ただ、すで定着ていちゃくしていた「サロン」という名称めいしょうのこった。1863ねんのサロンの審査しんさとく厳格げんかくで、落選らくせんしゃ続出ぞくしゅつしたが、ナポレオン3せい命令めいれい落選らくせんてんひらかれた。エドゥアール・マネがその落選らくせんてん出品しゅっぴんした『くさじょう昼食ちゅうしょく』と、1865ねんのサロンに出品しゅっぴんした『オランピア』は美術びじゅつかいにスキャンダルをこし、あらたな絵画かいがおとずれをげた。このころパリにあつまったクロード・モネピエール=オーギュスト・ルノワールといったバティニョールばれる若手わかて画家がかたちもサロンに応募おうぼしたが、審査しんさ委員いいんにバルビゾン画家がかはいって審査しんさ寛容かんようになったとしは、入選にゅうせんたものの、審査しんさ厳格げんかくとしは、おおくが落選らくせんいられた。

ひろしふつ戦争せんそうだいさん共和きょうわせいしたでも、サロンの審査しんさ保守ほしゅてきであった。これに不満ふまんいたバティニョール画家がかたちは、1874ねん以降いこう、サロンから独立どくりつしたグループてん印象派いんしょうはてん)をひらくようになった。サロンは、依然いぜんとしておおきな集客しゅうきゃくりょく社会しゃかいてき影響えいきょうつづけていたが、1880ねん最後さいごに、美術びじゅつ行政ぎょうせいとアカデミーとの対立たいりつに、国家こっか主催しゅさいのサロンはりやめられた。

そのは、フランス芸術げいじゅつ協会きょうかいがサロンを開催かいさいしたほか、複数ふくすう団体だんたいがサロンを開催かいさいするようになったが、徐々じょじょにサロンやアカデミーの権威けんい低下ていかしていった。

ブルボンあさ

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起源きげん

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フランスで王立おうりつ絵画かいが彫刻ちょうこくアカデミー設立せつりつされたのは、ブルボンあさアンヌ・ドートリッシュ摂政せっしょう時代じだい1648ねんであった。これを主導しゅどうしたのは画家がかシャルル・ルブランであり、それまでのどう業者ぎょうしゃ組合くみあいわり、作品さくひん受注じゅちゅう制作せいさく職業しょくぎょう養成ようせいおこなおうとするもので、絵画かいが彫刻ちょうこく社会しゃかいてき地位ちい向上こうじょう目指めざしていた。1651ねんにアカデミーはどう業者ぎょうしゃ組合くみあいとの合併がっぺい余儀よぎなくされたが、1655ねんジュール・マザラン保護ほごしたふたた独立どくりつし、国王こくおうルイ14せいから公的こうてき教育きょういく講演こうえん独占どくせん権利けんりなど、特権とっけんあたえられた[1]。アカデミーは、1667ねんパレ=ロワイヤル中庭なかにわはじめて公式こうしき展覧てんらんかい開催かいさいし、以後いご1687ねんまで断続だんぞくてきおこなわれてしばらく中断ちゅうだんした。1699ねんフランソワ・ジラルドンの『ルイ14せい騎馬きばぞう除幕じょまく式典しきてん関連かんれん事業じぎょうとして、ルーヴル宮殿きゅうでんだいギャラリーで展覧てんらんかい開催かいさいされたことをに、再開さいかいされた[2]

1737ねん、アカデミーが、ルーヴル宮殿きゅうでんのサロン・カレ(方形ほうけいあいだ当時とうじはグラン・サロンとばれていた)で、一般いっぱん市民しみん無料むりょう観覧かんらんできる展覧てんらんかいひらき、以後いご、ほぼ毎年まいとし開催かいさいするようになった。そのことからサロンとばれるようになった。サロンに出品しゅっぴんできるのは、アカデミーの正会員せいかいいんじゅん会員かいいんだけであった。1751ねんからは隔年かくねん開催かいさいとなった[3]当時とうじ王侯おうこう貴族きぞく以外いがいにも美術びじゅつたのしむそう拡大かくだいしており、公衆こうしゅう美術びじゅつ鑑賞かんしょうできるとしてサロンがもとめられ、また、美術家びじゅつかがわも、自分じぶん作品さくひん公開こうかいすることで顧客こきゃくこすことができるというメリットがあった。また、サロンの定期ていきてき開催かいさいによって、美術びじゅつ専門せんもんではない文学ぶんがくしゃ思想家しそうかによる美術びじゅつ批評ひひょうひろがっていき、美術家びじゅつかはそれを無視むしできなくなっていった[4]

1737ねん

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18世紀せいきのフランスは、アントワーヌ・ヴァトーのちロココ美術びじゅつ全盛ぜんせい時代じだいであり、フランソワ・ブーシェシャルル=ジョゼフ・ナトワールシャルル=アンドレ・ヴァン・ロー(カルル・ヴァン・ロー)といった画家がか活躍かつやくしていた[5]。その背景はいけいには、ルイ15せい時代じだい国王こくおう権力けんりょく絶対ぜったいせいよわまり、貴族きぞくがパリのブルジョワてき生活せいかつしたしんだ結果けっか感性かんせい恋愛れんあい重視じゅうしする美術びじゅつこのまれたことがある[6]

シャルル=アンドレ・ヴァン・ロー
恋人こいびとにコンサートをかせるトルコの太守たいしゅ
1737ねん油彩ゆさい、キャンバス、72.5 × 91 cm。ウォレス・コレクション[7]

1738ねん

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18世紀せいき肖像しょうぞうは、歴史れきしいでかくたかいジャンルとされており、ジャン=マルク・ナティエルイ・トッケ英語えいごばんモーリス・カンタン・ド・ラ・トゥールジョセフ・アヴェドといった肖像しょうぞう画家がか活躍かつやくした[8]

ジャン=マルク・ナティエ
Mathilde de Canisy, Marquise d'Antinの肖像しょうぞう
1738ねん油彩ゆさい、キャンバス、118 × 96 cm。
ジャックマール=アンドレ美術館びじゅつかん

1739ねん

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1740ねん

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ジャン・シメオン・シャルダンは、享楽きょうらくてきなブーシェの作品さくひんとは対照たいしょうてきに、きびしい造形ぞうけい静物せいぶつ肖像しょうぞう制作せいさくした。1737ねん以降いこうのサロンにも毎回まいかい出品しゅっぴんし、展覧てんらんかい展示てんじがかりまかされていた[9]

ジャン・シメオン・シャルダン
食前しょくぜんいの
油彩ゆさい、キャンバス、49 × 41 cm。
ルーヴル美術館びじゅつかん[10]

1741ねん

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ジョセフ・アヴェドは、1734ねん肖像しょうぞう画家がかとしてアカデミー会員かいいんとなり、1741ねんのサロンに出品しゅっぴんした『クロザ婦人ふじん』の肖像しょうぞうなど、緻密ちみつ表現ひょうげんられる[11]

ジョセフ・アヴェド
『クロザ夫人ふじん
油彩ゆさい、キャンバス、138.5 × 105 cm。ファーブル美術館びじゅつかん
シャルダン
あさ身繕みづくろい』
油彩ゆさい、キャンバス、49 × 39 cm。スウェーデン国立こくりつ美術館びじゅつかん[12]

1742ねん

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フランソワ・ブーシェ
水浴すいよくのディアナ』1742ねん
57 × 73 cm。
ルーヴル美術館びじゅつかん[13]
ジャン=バティスト・ピガール英語えいごばん
『メルクリウス』1744ねん
大理石だいりせき、58 × 35 × 33 cm。
ルーヴル美術館びじゅつかん[14]
(1742ねんサロンに展示てんじされたのはこのテラコッタぞう)。

1743ねん

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1745ねん

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18世紀せいきなかば、ルノルマン・ド・トゥルヌエム英語えいごばんによるアカデミーの改革かいかくおこなわれ、1745ねん以降いこう、サロンの審査しんさ制度せいど明確めいかくされた。アカデミー院長いんちょう以下いか15にん歴史れきし画家がか中心ちゅうしんとする19にん委員いいんが、ルーヴル宮殿きゅうでんのアポロンのあいだ出品しゅっぴんさく審査しんさをし、不適切ふてきせつ作品さくひん投票とうひょう排除はいじょするというものであった[15]

審査しんさ制度せいどはじまった背景はいけいには、ロココ美術びじゅつ頂点ちょうてんむかえるなかぎた官能かんのうてき描写びょうしゃ氾濫はんらんしていることへの危惧きぐがあったとかんがえられる[16]

ジャン=マルク・ナティエ
『ヘベにふんしたショーヌ公爵こうしゃく夫人ふじん
1744ねん油彩ゆさい、キャンバス、144 × 110 cm。
ルーヴル美術館びじゅつかん[17]

1746ねん

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1746ねんのサロンをに、文芸ぶんげい愛好あいこうラ・フォン・ド・サン=チエンヌ英語えいごばんが『フランス絵画かいが現状げんじょうかんする考察こうさつおよび1746ねんのサロン出品しゅっぴんさく検証けんしょう』という書物しょもつ発表はっぴょうし、おおきな議論ぎろんこした。ラ・フォンは、フランソワ・ブーシェやシャルル=アンドレ・ヴァン・ロー(カルル・ヴァン・ロー)といったロココ美術びじゅつ主導しゅどうしゃを、古典こてん主義しゅぎから逸脱いつだつするものとして批判ひはんし、シャルダンやヴェルネにおくった。アカデミーにぞくさない専門せんもんによるこうした美術びじゅつ批評ひひょうたいしては、アカデミー関係かんけいしゃからつよ反発はんぱつがあった[18]

1747ねん

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フランソワ・ブーシェ
『エウロペの掠奪りゃくだつ』1747ねん
油彩ゆさい、キャンバス、160.5 × 193.5 cm。
ルーヴル美術館びじゅつかん[19]
シャルル=アンドレ・ヴァン・ロー
王妃おうひマリー・レクザンスカ
274 × 193 cm。
ヴェルサイユ宮殿きゅうでん[20]

1748ねん

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1750ねん

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1751ねん

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1753ねん

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モーリス・カンタン・ド・ラ・トゥール
ジャン・ル・ロン・ダランベール肖像しょうぞう
1753ねん。パステル、55 × 45.8 cm。
ルーヴル美術館びじゅつかん[21]

1755ねん

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ジャン=バティスト・グルーズは、ロココからしん古典こてん主義しゅぎてき世界せかい移行いこうする時代じだい脚光きゃっこうびた画家がかであり、1755ねんのサロンで『聖書せいしょ説明せつめいする父親ちちおや』などの作品さくひん賞賛しょうさんされた[22]

モーリス・カンタン・ド・ラ・トゥール
『ポンパドゥール夫人ふじん肖像しょうぞう』1755ねん
パステル、177 × 130 cm。
ルーヴル美術館びじゅつかん[23]
ジャン=バティスト・グルーズ
聖書せいしょ説明せつめいする父親ちちおや』1755ねん
ルーヴル美術館びじゅつかん[24]


1757ねん

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フランソワ・ブーシェ
『ウルカヌスの鍛冶たんやじょう
1757ねん油彩ゆさい、キャンバス、320 × 320 cm。
ルーヴル美術館びじゅつかん[25]

1759ねん

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1761ねん

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グルーズは、イタリア留学りゅうがくから帰国きこく1761ねんのサロンで、『むら花嫁はなよめ』によって名声めいせい確立かくりつした[22]

ジャン=バティスト・グルーズ
むら花嫁はなよめ』1761ねん
油彩ゆさい、キャンバス、92 × 117 cm。
ルーヴル美術館びじゅつかん[26]

1763ねん

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1763ねんのサロンでは、ジョセフ=マリー・ヴィアンが、古代こだいギリシャ趣味しゅみの『アモルをおんな』を出品しゅっぴんして注目ちゅうもくびた。18世紀せいき前半ぜんはんからはじまったヘルクラネウムポンペイ発掘はっくつ古代こだいへの関心かんしんたかまるなか、ヴィアンのギリシャ趣味しゅみは、しん古典こてん主義しゅぎ先取さきどりするものであった[27]。『アルトワはくとクロティルド王女おうじょ』は、ポンパドゥール夫人ふじんのおりであった肖像しょうぞう画家がかドルーエが制作せいさくした宮廷きゅうてい趣味しゅみ作品さくひんである[28]

クロード・ジョセフ・ヴェルネ
アルプスのひつじいのむすめ
1763ねん油彩ゆさい、キャンバス。
トゥール美術館びじゅつかん[29]
ジョセフ=マリー・ヴィアン
アモルをおんなbr>1763ねん油彩ゆさい、キャンバス、117 × 140 cm。
フォンテーヌブロー宮殿きゅうでん美術館びじゅつかん
フランソワ=ユベール・ドルーエ
『アルトワはくとクロティルド王女おうじょ
1763ねん油彩ゆさい、キャンバス、129.5 × 97.5 cm。
ルーヴル美術館びじゅつかん[30]

1765ねん

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1765ねんのサロンには、ローマ留学りゅうがくから帰国きこくしたフラゴナールが、アカデミーじゅん会員かいいんとなるため、『コレシュスとカリロエ』を出品しゅっぴんした。この作品さくひんは、ディドロから賞賛しょうさんされた。しかし、フラゴナールは、1767ねんのサロンを最後さいご出品しゅっぴんをやめた[31]。ノエル・アレの歴史れきしでは、ブーシェのようなはなやかな女神めがみたちはあらわれず、うごきがすくなく、安定あんていした画面がめん構成こうせいかっていることがうかがえる[32]

ジャン・オノレ・フラゴナール
『コレシュスとカリロエ』1765ねん
ルーヴル美術館びじゅつかん[33]
ノエル・アレ
『トラヤヌスみかど正義せいぎ』1765ねん
油彩ゆさい、キャンバス、265 × 302 cm。
マルセイユ美術館びじゅつかん[34]

1767ねん

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1767ねんのサロンの様子ようす

1767ねんのサロンには、ローマから帰国きこくしたユベール・ロベールが『ローマのみなと』を出品しゅっぴんした。ロベールは、この作品さくひんで、一気いっきにアカデミーのじゅん会員かいいん正会員せいかいいんとなるという異例いれい待遇たいぐうけ、サロンでも好評こうひょうはくした。ディドロは、この作品さくひんについて、色彩しきさい技巧ぎこう賞賛しょうさんする一方いっぽうたましいちからはないと手厳てきびしい批評ひひょうをしている[35]

1769ねん

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1769ねんのサロンでは、ジャン=バティスト・グルーズ歴史れきし画家がかとしての承認しょうにんもとめて『セプティミウス・セウェルスみかどとカラカラ』を出品しゅっぴんしたが、歴史れきし画家がかとしてのアカデミー入会にゅうかいみとめられず、風俗ふうぞく画家がかとしての入会にゅうかいとなった。ドゥニ・ディドロからは、サロンひょうで「グルーズは自分じぶん領分りょうぶん放棄ほうきした。自然しぜん熱心ねっしん研究けんきゅうしゃであるかれは、歴史れきし必要ひつようとする誇張こちょういきたっすることができなかった」と批判ひはんされた[37]。これ以後いご、グルーズは、フランス革命かくめいまでの時期じきにはサロンに出品しゅっぴんしなくなった。すで名声めいせいていたグルーズにとっては、市民しみんそうのために制作せいさくつづければ経済けいざいてきつため、名誉めいよられないのであればサロンに出品しゅっぴんする必要ひつようはなかった[38]

ジャン=バティスト・グルーズ
『セプティミウス・セウェルスみかどとカラカラ』1869ねん
油彩ゆさい、キャンバス、124 × 160 cm。
ルーヴル美術館びじゅつかん[39]


1771ねん

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1773ねん

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ニコラ・ベルナール・レピシエは、歴史れきし画家がかとしてみとめられていたが、『ファンションの起床きしょう』のようなしん古典こてん主義しゅぎつうじる秩序ちつじょった風俗ふうぞくえがいた[40]

ニコラ・ベルナール・レピシエ
『ファンションの起床きしょう』1773ねん
油彩ゆさい、キャンバス、74 × 93 cm。
オテル・サンドラン美術館びじゅつかん[41]

1775ねん

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1774ねんルイ16せい即位そくいした。このころから、啓蒙けいもう主義しゅぎ合理ごうり主義しゅぎ潮流ちょうりゅういきおいをし、美術びじゅつかいにおいても、ロココから、古代こだいギリシャを模範もはん普遍ふへんてき理想りそう追求ついきゅうするしん古典こてん主義しゅぎへの転換てんかん本格ほんかくてきこってきた[42]

1777ねん

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王室おうしつ建造けんぞうぶつきょく総監そうかんいだダンジヴィレ伯爵はくしゃく英語えいごばん国王こくおう首席しゅせき画家がか・アカデミー院長いんちょうジャン=バティスト・マリー・ピエールは、「だい様式ようしき」とばれる古典こてん主義しゅぎてき歴史れきし再興さいこうはかった。1775ねん、アカデミーで、歴史れきし偉人いじん大理石だいりせき彫像ちょうぞう制作せいさく奨励しょうれいし、完成かんせいさくるとともにサロンに展示てんじするという方針ほうしん発表はっぴょうされた。これをけて、1777ねんから1789ねんにかけてのサロンで奨励しょうれい制作せいさく作品さくひん発表はっぴょうされた[43]

1779ねん

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1779ねんのサロンには、ダヴィッドのライバルであるフランソワ=アンドレ・ヴァンサンが、だい2かい奨励しょうれい制作せいさくとして、フロンドのらん母后ぼこうアンヌ・ドートリッシュ高等法院こうとうほういんとの和解わかいつとめたモレの愛国あいこくてき行為こういえがいた作品さくひん提出ていしゅつし、賞賛しょうさんびた[44]

フランソワ=アンドレ・ヴァンサン
高等法院こうとうほういんちょうモレとはんたち』
1779ねん油彩ゆさい、キャンバス、325 × 325 cm。
ブルボン宮殿きゅうでん


1781ねん

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ジャック=ルイ・ダヴィッドは、1780ねんのローマ留学りゅうがくから帰国きこくし、『ほどこしをけるベリサリウス』でアカデミーじゅん会員かいいんになって、1781ねんのサロンにこれを出展しゅってんした。この作品さくひんは、「フランスでしんしん古典こてん主義しゅぎべる最初さいしょ大作たいさく」だと賞賛しょうさんされた[45]。メナジョの『レオナルドの』は、だい3かい奨励しょうれい制作せいさくによる作品さくひんであり、レオナルド・ダ・ヴィンチ庇護ひごしたフランソワ1せい称揚しょうようするものである[46]

1783ねん

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ダヴィッドは、1783ねんのサロンで、奨励しょうれい制作せいさくよりもアカデミー入会にゅうかい作品さくひん優先ゆうせんさせ、『アンドロマケの悲嘆ひたん』を出展しゅってんしてアカデミー正会員せいかいいんになった[49]

1785ねん

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ジャック=ルイ・ダヴィッド1785ねんのサロンに展示てんじした『ホラティウス兄弟きょうだいちか』は、しん古典こてん主義しゅぎ理念りねん結晶けっしょうといえる作品さくひんである[52]。ダヴィッドのライバル、ピエール・ペイロンも、だい5かい奨励しょうれい制作せいさくとして『アルケスティスの』を展示てんじし、サロンで賞賛しょうさんびた[44]

1787ねん

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1787ねんのサロンの様子ようす

女性じょせい画家がかエリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブランは、王妃おうひマリー・アントワネットきの画家がかとしておおくの肖像しょうぞう制作せいさくした[56]

1789ねん

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フランス革命かくめい

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1791ねん

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1791ねんフランス革命かくめいの「自由じゆう平等びょうどう」のスローガンのした審査しんさだれもが出品しゅっぴんできる自由じゆうサロンが開催かいさいされ、1798ねんふたた審査しんさ制度せいどがとられるまでつづいた[61]。アンシャン・レジームことなり、サロンに出品しゅっぴんすることができるのはアカデミーの正会員せいかいいんじゅん会員かいいんかぎられるわけではなく、公募こうぼせいになった[62]

1793ねん

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1793ねん国民こくみん公会こうかいで、王立おうりつ絵画かいが彫刻ちょうこくアカデミーきゅう体制たいせい特権とっけん階級かいきゅうとみなされ、その廃止はいし決定けっていされた。サロンの審査しんさ不満ふまんいていたダヴィッドも、アカデミーの廃止はいし運動うんどう主導しゅどうした[61]。このとしのサロンでは、ダヴィッドの弟子でしアンヌ=ルイ・ジロデ=トリオゾンが、5ねんのイタリア留学りゅうがく時代じだい制作せいさくした『エンデュミオーンのねむり』を出品しゅっぴんし、反響はんきょうんだ[63]

1795ねん

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1795ねん廃止はいしされたアカデミーにわって、フランス学士がくしいん設置せっちされ、ダヴィッド、フランソワ=アンドレ・ヴァンサンジャン=バプティスト・ルニョーらが終身しゅうしん会員かいいんいた[65]

1796ねん

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1798ねん

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審査しんさ自由じゆうサロンは、出品しゅっぴんすう激増げきぞうによって運営うんえい困難こんなんになり、1798ねん審査しんさ制度せいど採用さいようされた[61]。このことで、画家がかたちは、審査しんさとおるため、アカデミーの主流しゅりゅうであるしん古典こてん主義しゅぎ沿った作品さくひん制作せいさくしようという傾向けいこうつよまった[62]。このとしのサロンでは、ダヴィッドの弟子でしフランソワ・ジェラール出品しゅっぴんした『アモーレとプシュケ』が議論ぎろんこした[68]

1799ねん

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1799ねんのサロンには、ダヴィッドの弟子でしゲランが、古代こだいローマのマルクス・セクストゥスが帰郷ききょうしてつま直面ちょくめんする場面ばめんえがいた『マルクス・セクストゥスの帰還きかん』を出品しゅっぴんした。執政しっせい政府せいふ時代じだいに、亡命ぼうめいさきから帰国きこくしてきたフランスの貴族きぞくたちは、この作品さくひん自分じぶんたちをかさわせた。ゲランは、この作品さくひん評判ひょうばんによって、ダヴィッドをしのぐ名声めいせい[70]

1800ねん

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1801ねん

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ダヴィッドの弟子でし1人ひとりアントワーヌ=ジャン・グロは、すめらぎジョゼフィーヌ・ド・ボアルネつうじてナポレオンの寵愛ちょうあいけるようになり、ナポレオンの武勲ぶくんつたえる作品さくひん数々かずかず制作せいさくした[72]

1802ねん

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ジロデが、戦死せんししたナポレオンの将軍しょうぐんたちのれい天国てんごく詩人しじんオシアンにむかえられるという場面ばめんえがいた『自由じゆうもとめるたたかいにおいて祖国そこくのためにんだフランスの英雄えいゆうたちの称揚しょうよう』を出品しゅっぴんした[63]

だいいち帝政ていせい

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ナポレオン・ボナパルトは、1804ねん皇帝こうていき、フランスだいいち帝政ていせいはじめた。この時代じだいは、美術びじゅつあたらしい皇帝こうてい帝国ていこくのための政治せいじてきプロパガンダに利用りようされたことが特徴とくちょうである[75]

1804ねん

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1806ねん

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ダヴィッドにまなんだドミニク・アングルは、1806ねんのサロンに『玉座ぎょくざのナポレオン』を出展しゅってんしたが、当時とうじたか評価ひょうかられなかった[77]

1808ねん

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ナポレオン戴冠たいかんしき直後ちょくごジャック=ルイ・ダヴィッド皇帝こうてい首席しゅせき画家がか就任しゅうにんし、1805ねんまつ着手ちゃくしゅした『ナポレオン一世いっせい戴冠たいかんしきすめらぎジョゼフィーヌの戴冠たいかん』を1808ねんのサロンで発表はっぴょうした。画面がめんなか空間くうかん完結かんけつせずに視線しせん列席れっせきしゃたちに次々つぎつぎ誘導ゆうどうされる構図こうずは、伝統でんとうてき歴史れきしからははずれるものであったが、ナポレオンは、その迫真はくしんせいよろこんだ[80]

プリュードンは、『プシュケーの誘拐ゆうかい』で、ロココの優美ゆうびさをぎながら、ロマンにつながる感情かんじょう表現ひょうげんしめしている[81]

1810ねん

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1812ねん

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このとしテオドール・ジェリコー力動りきどうかんあふれる『近衛このえ騎兵隊きへいたい士官しかん』でサロンにデビューしている[87]

復古ふっこ王政おうせい

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1814ねん

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1814ねん、ナポレオンが皇帝こうてい退位たいいし、ルイ18せい即位そくいしてフランス復古ふっこ王政おうせいはじまった。ダヴィッドは亡命ぼうめい余儀よぎなくされたが、かれ弟子でしたちが古典こてん主義しゅぎ美学びがく堅持けんじしていた。ルイ18せいは、1816ねん学士がくしいん改組かいそして美術びじゅつアカデミーの名称めいしょう復活ふっかつさせた[89]

1817ねん

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1819ねん

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テオドール・ジェリコーが、1816ねん発生はっせいしたフランス海軍かいぐんのメデュースごう難破なんぱ事件じけん題材だいざいとした『メデューズごういかだ』を出品しゅっぴんし、おおきな議論ぎろんこした。どう時代じだい社会しゃかいてき事件じけんおおきな画面がめんえが姿勢しせいは、ロマン主義しゅぎ産声うぶごえといえる[92]

1822ねん

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1822ねんのサロンには、ウジェーヌ・ドラクロワが『ダンテの小舟こぶね』をはつ出品しゅっぴんし、そのられるようになった。ダンテの『かみきょく地獄じごくへん題材だいざいをとった劇的げきてき内容ないようと、はげしい色彩しきさい表現ひょうげんのため、はげしい非難ひなんびたが、グロはドラクロワの才能さいのう評価ひょうかした[98]

このとしオラース・ヴェルネは、納得なっとくがた政治せいじてき理由りゆう落選らくせんした作品さくひんをまとめて、自分じぶんのアトリエで展示てんじした。これは19世紀せいき最初さいしょ個展こてん先駆さきがけといえる[99]


1824ねん

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1824ねんのサロンの様子ようす

ウジェーヌ・ドラクロワが『キオスとう虐殺ぎゃくさつ』を出品しゅっぴんした。ギリシャ独立どくりつ戦争せんそうなか1822ねんキオスとうオスマン・トルコにより実行じっこうされた虐殺ぎゃくさつ事件じけんえがいた作品さくひんで、1824ねんのサロンでは『キオスとう虐殺ぎゃくさつからのいち場面ばめん――、あるいは奴隷どれいとなる運命うんめい家族かぞく――数々かずかず解説かいせつ今日きょう新聞しんぶんよ』という時事じじてき見出みだしがけられ、ギリシャへの救援きゅうえんうったえるメッセージにおおくの観衆かんしゅう共感きょうかんした。他方たほうで、グロからは「絵画かいが虐殺ぎゃくさつ」と批判ひはんされ、ドラクロワは失望しつぼうした。このとしのサロンには、オラース・ヴェルネの『モンミライユのたたかい』も出品しゅっぴんされた。スタンダールは、サロンひょうで、ダヴィッドの一派いっぱわった、現代げんだいあたらしい絵画かいがたましい表現ひょうげんし、ひと感情かんじょううったえるべきだといた。こうした1824ねんのサロンは、「ロマン主義しゅぎのサロン」とわれる[101]

一方いっぽうドミニク・アングルは、1806ねん以来いらいイタリアに滞在たいざいしていたが、4ねんをかけて『ルイ13せい誓願せいがん』を完成かんせいさせ、サロンに出品しゅっぴんした。この作品さくひんたか評価ひょうかけたことから、アングルは1825ねん、パリにアトリエをひらいた[102]以後いご、アングルは、プッサンとダヴィッドの後継こうけいしゃとして、しん古典こてん主義しゅぎ指導しどうてき立場たちばった[103]

ジョン・コンスタブルリチャード・パークス・ボニントンコプリー・フィールディングおおくのイギリスじん画家がか作品さくひん出品しゅっぴんされ、この3にんはサロンで金賞きんしょう授与じゅよされた。このことから、1824ねんのサロンは「イギリスじんのサロン」ともばれた[104]

1827ねん

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しん古典こてん主義しゅぎのリーダーとして期待きたいあつめるドミニク・アングルが、大作たいさく『ホメロス礼賛らいさん』を出品しゅっぴんした。古代こだいギリシャの詩人しじんホメーロス頂点ちょうてんに、17世紀せいき古典こてん主義しゅぎ代表だいひょうてき画家がかニコラ・プッサンはいするなど、古代こだいからルネサンス、古典こてん主義しゅぎがれてきた正統せいとう芸術げいじゅつ継承けいしょうすることをしめした作品さくひんである[107]

ドラクロワは、イギリス旅行りょこうから帰国きこく、1827ねんのサロンに『サルダナパールの』など7てん出品しゅっぴんして、ロマン中心ちゅうしんてき画家がかとみなされるようになった[108]

一方いっぽう風景ふうけい画家がかジャン=バティスト・カミーユ・コローがイタリア留学りゅうがくちゅうに『ナルニのはし』と『ローマ近郊きんこう田園でんえん』をサロンにおくり、はつ入選にゅうせんたした[109]

7がつ王政おうせい

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1830ねん7がつシャルル10せい議会ぎかい解散かいさんとうめいずるみことのりれいはっしたことをきっかけに、フランス7がつ革命かくめい勃発ぼっぱつし、ブルボン王朝おうちょうふたたたおれた。共和きょうわ、ボナパルトおう党派とうは妥協だきょう産物さんぶつとして、ルイ・フィリップ王位おうい7がつ王政おうせいとなった。ルイ・フィリップは、美術びじゅつめんでは、自由じゆう主義しゅぎしゃであることをしめそうとして、公的こうてき注文ちゅうもんやサロンでの政府せいふ買上かいあげにおいて、幅広はばひろ流派りゅうは採用さいようした。また、かれは、1833ねん芸術げいじゅつらの要望ようぼうけ、アカデミーの反対はんたいにかかわらず、サロンを毎年まいとし開催かいさいとし、さらに、展示てんじ作品さくひんすうも3000てんちょうまでやした。そのことも芸術げいじゅつ大衆たいしゅうすすめる要因よういんとなった。歴史れきし大作たいさくより、新興しんこうブルジョワジーの家庭かていかざるのにてきした風景ふうけい風俗ふうぞく肖像しょうぞうこのまれるようになってきた。おおくの美術びじゅつ批評ひひょうまれ、文芸ぶんげいにサロンひょう掲載けいさいするようになった[114]。サロンは、画家がかと、絵画かいがあたらしいパトロンである新興しんこう市民しみん階級かいきゅう出会であうほとんど唯一ゆいいつのまとまった展覧てんらんかいであったため、商品しょうひん展示てんじじょうとしての性格せいかくつよめた[115]

こうした8がつ王政おうせいのサロンのかたについて、オノレ・ド・バルザックは、つぎのように批判ひはんしている[116]

1830ねん革命かくめい以後いごひらかれた絵画かいが彫刻ちょうこく展覧てんらんかい真面目まじめようとおとずれたものは、そのたびに、雑多ざった作品さくひんまれたあのなが展示てんじじょうて、不安ふあんと、嫌悪けんおと、悲哀ひあいねんにとらわれたのではないだろうか。1830ねん以来いらい、もはや「サロン」は存在そんざいしない。ルーヴルは、芸術げいじゅつという民衆みんしゅうによってふたた攻略こうりゃくされ、かれらはそこに居座いすわってしまった。 — オノレ・ド・バルザック、『ピエール・グラッスー』

1831ねん

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ルイ・フィリップは、1831ねんのサロンに出品しゅっぴんされたドラクロワの『民衆みんしゅうみちび自由じゆう女神めがみ』を政府せいふ買上かいあげにし、共和きょうわ期待きたいこたえた[117]

1820年代ねんだいから1830年代ねんだい登場とうじょうした、異国いこく趣味しゅみ画家がか(オリエンタリスト)の1人ひとりアレクサンドル=ガブリエル・ドゥカンは、しょうアジア旅行りょこう経験けいけんもとに、1831ねんのサロンに『スミルナの夜警やけい』を出品しゅっぴんして好評こうひょう[118]。バルビゾンテオドール・ルソーは、このとし、『オーヴェルニュ風景ふうけい』ではつ入選にゅうせんしている[119]

1833ねん

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1833ねん以降いこう、サロンは毎年まいとし開催かいさいとなっている。画壇がだんでは、オラース・ヴェルネが、ルイ・フィリップの庇護ひごけて地位ちいきずいた。『パリ市庁舎しちょうしゃかうためにパレ・ロワイヤルをのちにするオルレアンこう、1830ねん7がつ31にち』のように、どう時代じだい事件じけん中世ちゅうせい歴史れきし題材だいざいとしながら、様式ようしきてきにはロマン主義しゅぎ画家がかことなりつめたい仕上しあげをおこなったヴェルネは、しん古典こてん主義しゅぎとロマン主義しゅぎ中庸ちゅうよう妥協だきょう)という立場たちばつことで、政府せいふ大衆たいしゅうからの支持しじることができた[123]

テオドール・ルソーは、初期しょき代表だいひょうさくといえる『グランヴィル近郊きんこうながめ』で、わか風景ふうけい画家がかやテオフィル・トレらの批評ひひょうから賞賛しょうさんけた[124]

1834ねん

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1834ねんのサロンでは、ドラクロワがモロッコ旅行りょこう成果せいかとして『アルジェのおんなたち』を出品しゅっぴんし、政府せいふ買上かいあげとなった[130]

また、中庸ちゅうようポール・ドラローシュ出品しゅっぴんした『レディ・ジェーン・グレイの処刑しょけい』が評判ひょうばんとなった。ドラローシュは、1832ねんにアカデミー会員かいいん国立こくりつ美術びじゅつ学校がっこう教授きょうじゅとなっており、アカデミーがしん古典こてん主義しゅぎ一辺倒いっぺんとうではなくなってきたことをしめしている[131]他方たほう、アングルは、1834ねんのサロンで『サンフォリアンの殉教じゅんきょう』が不評ふひょうだったのを最後さいごに、サロンへの出品しゅっぴんをやめ、パリをった[132]

1835ねん

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1836ねん

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バルビゾンテオドール・ルソーは、1836ねんのサロンに大作たいさく『ジュラ山脈さんみゃくやまくだり』を出品しゅっぴんしたが、落選らくせんし、その落選らくせんつづけて「偉大いだいなる落選らくせん画家がか」とばれるようになる[137]

このとしオラース・ヴェルネポール・ドラローシュが、首尾しゅび一貫いっかんしない審査しんさ抗議こうぎして審査しんさ委員いいん辞任じにんした。これは、テオドール・ルソーの落選らくせん関係かんけいがあるようである[99]

1837ねん

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1838ねん

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1839ねん

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1840ねん

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1840ねんのサロンでは、ジャン=フランソワ・ミレーが、親友しんゆう父親ちちおやえがいた『ルフラン肖像しょうぞう』を提出ていしゅつしてはつ入選にゅうせんした[139]

1841ねん

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8がつ王政おうせいには、壮大そうだい神話しんわ歴史れきしよりも、身近みぢか肖像しょうぞう風景ふうけい静物せいぶつこのまれた。1841ねんのサロンでは、出品しゅっぴん絵画かいがやく2000てんのうち、やく500てん肖像しょうぞうであった。アカデミーの美学びがく依然いぜん権威けんいほこっていたが、有産ゆうさん階級かいきゅう市民しみん趣味しゅみ写実しゃじつてき表現ひょうげんかたむいていったことがかる[140]

1842ねん

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1843ねん

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1844ねん

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1845ねん

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1846ねん

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コローは、1846ねん、『フォンテーヌブローのもり』を出品しゅっぴんした。画面がめんからくろ追放ついほうされ、あかるい色彩しきさい柔和にゅうわひかり大気たいきえがいており、テオフィル・ゴーティエボードレールからたか評価ひょうかされた[147]

1847ねん

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1847ねんのサロンでは、ジャン=レオン・ジェロームが『闘鶏とうけい闘鶏とうけいをするわかいギリシャじんたち)』でデビューした。かれは、古代こだい世界せかい舞台ぶたい現代げんだいてき風俗ふうぞくえがしんギリシャ代表だいひょうしゃである[150]

ミレーは、ギリシャ神話しんわ主題しゅだいにした歴史れきし挑戦ちょうせんし、『からろされるエディプス』を入選にゅうせんさせた[151]

だい共和きょうわせい

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1848ねん2がつ、パリで、ルイ・フィリップ国王こくおう立憲りっけん君主くんしゅせいたいし、共和きょうわ主義しゅぎかかげた民衆みんしゅう武装ぶそう蜂起ほうきこり、ルイ・フィリップは亡命ぼうめいした(1848ねんのフランス革命かくめい、2がつ革命かくめい)。さらに、保守ほしゅした共和きょうわたい労働ろうどうしゃ六月ろくがつ蜂起ほうきこして鎮圧ちんあつされるなど、政治せいじてき混乱こんらんつづいた。12月、ルイ・ナポレオンフランスだい共和きょうわせい大統領だいとうりょう当選とうせんした。だい共和きょうわせいでは、内務ないむ大臣だいじんルドリュ=ロラン英語えいごばん国立こくりつ美術館びじゅつかんそう局長きょくちょうフィリップ=オーギュスト・ジャンロン美術びじゅつ長官ちょうかんシャルル・ブランの3にん中心ちゅうしんに、民主みんしゅすすめられた[155]

1848ねん

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1848ねんのサロンは、民主みんしゅ結果けっかとして、審査しんさで、ぜん応募おうぼ作品さくひん5180てん入選にゅうせんさせるという画期的かっきてき措置そちがとられた[156]

国立こくりつ美術館びじゅつかんそう局長きょくちょうジャンロンがこのとしのサロンで重視じゅうししたのが、庶民しょみん貧困ひんこん労働ろうどうえがくレアリスム(写実しゃじつ主義しゅぎ)の画家がかたちであり、ミレーも『をふるうひと』でみとめられ、政府せいふ注文ちゅうもんけることができ、その報酬ほうしゅうでバルビゾン移住いじゅうがかなった。これがミレーの農民のうみん出発しゅっぱつてんとなった。他方たほうで、ミレーが同時どうじ出品しゅっぴんした歴史れきし『バビロンしゅう』は評判ひょうばんわるかった[157]

1849ねん

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1849ねんのサロンは、前年ぜんねんのサロンが審査しんさとしたことで玉石混交ぎょくせきこんこうまねいたという反省はんせいから、審査しんさ委員いいんかいもうけることにした。しかし、美術びじゅつアカデミー会員かいいんによる審査しんさではなく、これまでのサロン出品しゅっぴんしゃ選挙せんきょによって決定けっていされた。その結果けっか入選にゅうせん作品さくひんすうは2586てんまでしぼられた[156]テオドール・ルソーは、なが落選らくせん時代じだいし、1とうしょう[162]ギュスターヴ・クールベは、『オルナンの食休しょくやすみ』が2とうしょう政府せいふ買上かいあげとなり、自信じしんふかめた[163]

1850ねん-51ねん

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1850ねん1851ねんは、2ねんにまたがってサロンが開催かいさいされた。入選にゅうせん作品さくひんすうやく4000てんのぼった。サロンの会場かいじょうは、はじめて、ルーヴル美術館びじゅつかんからパレ・ロワイヤルうつされた[156]。1850ねんのサロンの開催かいさい時期じきおくれ、1851ねん1がつされたのは、1849ねんにとられた投票とうひょう審査しんさ制度せいど混乱こんらんまねいたためであった[164]

1とうしょう獲得かくとくしたのは、アレクサンドル・アンティーニャの『火災かさい』であった。このように、民衆みんしゅう現実げんじつ劇的げきてきえが作品さくひんが、一般いっぱん市民しみんしたしまれ、評価ひょうかけた。そのほか、オクターヴ・タサエールの『不幸ふこう家族かぞく自殺じさつ)』、イジドール・ピルスの『あいとく修道しゅうどうおんな』、ジュール・ブルトンの『飢餓きが』などが注目ちゅうもくびた[165]

しかし、このときのサロンでもっと革新かくしんてきだったのは、ギュスターヴ・クールベの『オルナンの埋葬まいそう』であり、レアリスム(写実しゃじつ主義しゅぎ絵画かいが代表だいひょうさくといえる。本来ほんらい歴史れきしもちいられる特大とくだいサイズのキャンバスに、平凡へいぼん地方ちほうブルジョワの埋葬まいそう場面ばめんえがしたのにたいし、世間せけんからは、卑俗ひぞくみにくいという非難ひなんせられた[166]。さらに、|ジャン=フランソワ・ミレー出品しゅっぴんした『たねまくひと』もおおきな議論ぎろんこした。保守ほしゅ・ブルジョワからは、労働ろうどうしゃ悲惨ひさん生活せいかつうったえる社会しゃかい主義しゅぎてき主張しゅちょうふくむものとられ、拒絶きょぜつ反応はんのうがあった[167]。クールベやミレーの登場とうじょうによって、1851ねんのサロンはのちに「レアリスムの最初さいしょのサロン」とばれる[168]

だい帝政ていせい

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だい共和きょうわせいのフランスで有産ゆうさん階級かいきゅう無産むさん階級かいきゅう対立たいりつはげしくなるなか、ルイ・ナポレオンが1851ねん12月にクーデターをこし、1852ねん12月に皇帝こうてい即位そくいしてナポレオン3せいとなった(フランスだい帝政ていせい)。ナポレオン3せいは、ジョルジュ・オスマンセーヌけん知事ちじ任命にんめいし、パリ市街しがいだい改造かいぞうおこなわせた。これによって中産ちゅうさん階級かいきゅう市民しみん生活せいかつ大幅おおはば近代きんだいされ、パリはヨーロッパ最先端さいせんたん文化ぶんか都市としとなった。サロンも社会しゃかいてき行事ぎょうじとして定着ていちゃくした。この時期じき絵画かいがかい支配しはいしたのはしん古典こてん主義しゅぎアカデミズム絵画かいがであった。画家がか出世しゅっせコースは、まずエコール・デ・ボザール教育きょういくけ、ローマしょう大賞たいしょうをとればローマのフランス・アカデミーに国費こくひ留学りゅうがくができ、さらにサロンで入選にゅうせんすれば画家がかとしてみとめられ、評価ひょうかたかまれば政府せいふ買上かいあげの対象たいしょうとなり、最終さいしゅうてきには芸術げいじゅつアカデミー会員かいいん絵画かいが部門ぶもんは14めい)にえらばれるというものであった。ローマしょうコンクールやサロンの審査しんさ委員いいんつとめたのも、保守ほしゅてき芸術げいじゅつアカデミー会員かいいんであった。もっとも、だい帝政ていせい政府せいふ帝室ていしつ美術館びじゅつかん総局そうきょくちょう(のち美術びじゅつ総監そうかんエミリアン・ド・ニューウェルケルク仕切しき美術びじゅつ行政ぎょうせいがわは、芸術げいじゅつアカデミーのあまりの保守ほしゅせいこのまず、芸術げいじゅつアカデミーの弱体じゃくたいはか政策せいさくしていった[175]

1852ねん

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だい帝政ていせい初期しょき、サロンの審査しんさ委員いいんは、半数はんすう画家がかによる選挙せんきょえらばれ、のこりの半数はんすう美術びじゅつ行政ぎょうせいによってえらばれた。画家がかによる選出せんしゅつ委員いいんのほとんどがアカデミー会員かいいんであり、美術びじゅつ行政ぎょうせいしん古典こてん主義しゅぎ規範きはんとしていたため、審査しんさもそうした規範きはんのっとったものとなった[164]

1853ねん

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1853ねんから、作品さくひんしつたかめるという目的もくてきで、サロンは隔年かくねん開催かいさいになった[178]帝室ていしつ美術館びじゅつかんそう局長きょくちょうニューウェルケルクのかんがかた反映はんえいして、しん古典こてん主義しゅぎてき作品さくひんのみが入選にゅうせんした[164]

ミレーは『旧約きゅうやく聖書せいしょ』の「ルツ」から題材だいざいをとった『刈入かりいじんたちの昼食ちゅうしょく(ルツとボアズ)』が2とうしょうけ、1859ねんまでのあいだ鑑査かんさ資格しかくることができた[179]

1855ねん

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1855ねん以降いこうサロンの会場かいじょうとなった産業さんぎょうかん

1855ねんのサロンは、パリ万国博覧会ばんこくはくらんかい美術びじゅつ展覧てんらんかい吸収きゅうしゅうされた[184]会場かいじょうは、博覧はくらんかいのためにシャンゼリゼどおりにめんして建設けんせつされた産業さんぎょうかん英語えいごばんであり、以降いこうのサロンも、恒常こうじょうてき産業さんぎょうかん開催かいさいされるようになった。ただ、すで定着ていちゃくしていた「サロン」という名称めいしょうのこった[185]博覧はくらんかいでは、コローが、『ディアナの水浴すいよく』など6てん出品しゅっぴんし、ドラクロワやアングルをおさえてグランプリを獲得かくとくし、注文ちゅうもん殺到さっとうするようになった[186]。トロワイヨンは、最高さいこう傑作けっさくともいえる『耕作こうさくかううしあさ印象いんしょう』を出品しゅっぴんし、たか評価ひょうか[187]。クールベは、博覧はくらんかいのために大作たいさく画家がかのアトリエ』を制作せいさくしたが、拒否きょひされ、博覧はくらんかい会場かいじょうちかくに小屋こやてて個展こてんひらくという革新かくしんてき取組とりくみをした[188]

1857ねん

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1857ねんからは、サロンの審査しんさ委員いいんはアカデミーの会員かいいん独占どくせんされるようになった。サロンの審査しんさは、ますます保守ほしゅせいしていった[192]

ジャン・レオン・ジェロームの小品しょうひん仮面かめん舞踏ぶとうかいのち決闘けっとう』は1857ねんのサロンのもっと人気にんきある絵画かいがの1つとなった[193]ジャン=フランソワ・ミレー最下さいかそう農民のうみんえがいた『落穂おちぼひろ』を出品しゅっぴんしたが、保守ほしゅてき批評ひひょうからは、社会しゃかい不安ふあんをあおるものとして批判ひはんされた[194]

1859ねん

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1859ねんのサロンは、3894てん(うち絵画かいがは3045てん)の応募おうぼがあったが、落選らくせんしゃおおく、ニューウェルケルクにたいする抗議こうぎ運動うんどうきた。アングルとドラクロワはもはやサロンを重視じゅうししていなかったが、ボードリー、ジェローム、ブーグローといったアカデミズムの画家がかがサロンの中心ちゅうしんてき存在そんざいであった。また、ルソー、コロー、トロワイヨン、ドービニーなどのバルビゾン大衆たいしゅうからたか人気にんきていた。クールベは、作品さくひん期限きげんわず、提出ていしゅつしなかった。カミーユ・ピサロがこのとしサロンにはつ入選にゅうせんしたほか、将来しょうらい印象派いんしょうは画家がかおおくはこのころパリにあつまってきていた[198]

1861ねん

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1861ねんのサロンには、エドゥアール・マネが『スペインの歌手かしゅ』と『オーギュスト・マネ夫妻ふさい肖像しょうぞう』ではつ入選にゅうせんし、『スペインの歌手かしゅ』は優秀ゆうしゅうしょう受賞じゅしょうした。このころ、マネ、アルフォンス・ルグロアンリ・ファンタン=ラトゥールカロリュス=デュランフェリックス・ブラックモンジェームズ・マクニール・ホイッスラーといったポスト・レアリスムといえる画家がかたちのグループが形成けいせいされてきて、造形ぞうけい表現ひょうげん革命かくめいこしていくことになる[202]

1863ねん

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1863ねんのサロンの審査しんさはとりわけ厳格げんかくで、絵画かいが入選にゅうせんさくはわずか1915てんであった。このとしのサロンで絶賛ぜっさんされたのは、カバネルの『ヴィーナスの誕生たんじょう』であり、だい帝政ていせいにおける享楽きょうらくせい女性じょせいヌードの氾濫はんらん象徴しょうちょうしている。ジェロームの『囚人しゅうじん』にられるようなオリエンタリズムもこの時期じき流行りゅうこうである[205]

同年どうねん11がつには、それまで芸術げいじゅつアカデミーが管轄かんかつしていたエコール・デ・ボザール校長こうちょう帝室ていしつ美術びじゅつ大臣だいじん任命にんめいすることとなるなど、美術びじゅつ教育きょういく権限けんげん芸術げいじゅつアカデミーから美術びじゅつ行政ぎょうせいうつ改革かいかく断行だんこうされた。ローマしょうコンクールも美術びじゅつ総監そうかんニューウェルケルクをちょうとする評議ひょうぎかい管理かんりすることになった[178]。サロンは、帝室ていしつ美術びじゅつしょうによる美術びじゅつ行政ぎょうせい管轄かんかつはいり、ニューウェルケルクは部下ぶかのフィリップ・ド・シェヌヴィエールをサロンの運営うんえいたらせた[206]。カバネル、ジェローム、ピルスといったアカデミズムの画家がかは、次々つぎつぎアカデミー会員かいいんとなるとともに、このとしエコール・デ・ボザールのアトリエ主任しゅにん教授きょうじゅにも任命にんめいされた。かれらは、画家がかたちによる選挙せんきょによってサロンの審査しんさ委員いいんえらばれることがおおく、サロンの保守ほしゅせい維持いじする役割やくわりたした[207]

落選らくせんてん

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1863ねんのサロンの審査しんさあまりにいかめしかったことから、審査しんさ委員いいんかいたいして芸術げいじゅつたちの非難ひなんこえたかまった。これをけて、ナポレオン3せいは、サロンとはべつに、落選らくせんさくのみを展示てんじする落選らくせんてん開催かいさい決定けっていした。このとし落選らくせんてんには、すくなくとも687てん展示てんじされたが、なかでもエドゥアール・マネの『くさじょう昼食ちゅうしょく』がだいスキャンダルをこした[212]。ホイッスラーの『しろのシンフォニー』もはげしい批判ひはんびた[213]

1864ねん

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サロンは、1864ねんから、ふたた毎年まいとし開催かいさいとなった。このとしのサロンは、それ以前いぜんのサロン受賞じゅしょうしゃレジオンドヌール勲章くんしょう受章じゅしょうしゃ審査しんさ委員いいんの4ぶんの3を選挙せんきょし、美術びじゅつ行政ぎょうせいのこりの4ぶんの1を任命にんめいする方式ほうしきあらためられ、アカデミーの権限けんげん後退こうたいいられた。それでも、審査しんさ委員いいん選出せんしゅつにアカデミー会員かいいん影響えいきょうおおきかったため、審査しんさはそれほど緩和かんわされず、再度さいど落選らくせんてん開催かいさいもとめるこえがった[216]。また、このとしのサロンから、審査しんさ部門ぶもんが、絵画かいが素描そびょう彫刻ちょうこく建築けんちく版画はんがの4部門ぶもんけられた[217]

ミレーの『ひつじいの少女しょうじょ』が1とうしょうをとり、政府せいふ買上かいあげのさるがされるなど、ミレーにたいする評価ひょうかたかまった[218]。コローは晩期ばんき代表だいひょうさく『モルトフォンテーヌのおも』を出品しゅっぴんし、政府せいふ買上かいあげとなった[219]。このとしギュスターヴ・モローは『オイディプスとスフィンクス』で画壇がだん復帰ふっきたした。作品さくひんたか評価ひょうかナポレオン・ジョゼフ・シャルル・ポール・ボナパルトによって購入こうにゅうされた。一方いっぽうピエール=オーギュスト・ルノワールが『おどるエスメラルダ』で入選にゅうせんたしている[220]ベルト・モリゾも、コローの影響えいきょうけた『オーヴェルのふるみち』ではつ入選にゅうせんした[221]

1865ねん

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1865ねんのサロンでは、絵画かいが素描そびょう部門ぶもん審査しんさ委員いいん12にんのうち、選挙せんきょによる委員いいんが9にん美術びじゅつ行政ぎょうせいによる任命にんめい委員いいんが3にんであった[217]

カバネルがナポレオン3せい肖像しょうぞう大賞たいしょう受賞じゅしょうした1865ねん[228]マネが『オランピア』を出品しゅっぴんし、1863ねんの『くさじょう昼食ちゅうしょく』を上回うわまわるスキャンダルをこした。娼婦しょうふ顧客こきゃくから花束はなたばおくられている場面ばめんをあからさまにえがしたことが不道徳ふどうとく非難ひなんされたうえ平面へいめんせいつよ造形ぞうけい手法しゅほう批判ひはんされた[229]クロード・モネは『オンフルールのセーヌ河口かこう』ほか1てんうみけい[230]、またエドガー・ドガも『中世ちゅうせい戦争せんそう場面ばめん』でそれぞれはつ入選にゅうせんたした[231]

ギュスターヴ・モローは前年ぜんねんつづいて『イアソン』を出品しゅっぴんしてメダルを獲得かくとくした。またジェームズ・マクニール・ホイッスラーはジャポニズム影響えいきょうつよい『バラとぎん陶磁とうじくに姫君ひめぎみ英語えいごばん』を出品しゅっぴんした[228]

1866ねん

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1866ねんのサロンでは、絵画かいが素描そびょう部門ぶもん審査しんさ委員いいんは24にんとなり、選挙せんきょによる委員いいんが18にん美術びじゅつ行政ぎょうせいによる任命にんめい委員いいんが6にんであった。選挙せんきょによる委員いいん上位じょうい3にんはジェローム、カバネル、ピルスであったが、コローとドービニーも選挙せんきょえらばれた[217]。コローとドービニーがはいったこともあり、前衛ぜんえいてき画家がか寛容かんよう審査しんさとなった。エミール・レヴィギュスターヴ・モローはいずれもギリシア神話しんわのオルペウスを主題しゅだいとする絵画かいが『オルフェウスの』と『オルフェウスのくびはこぶトラキアのむすめ』が好評こうひょうはくして国家こっかげとなったが[238][239]、モローのべつ出品しゅっぴんさくみずからのうまころされるディオメデス』はきびしく批判ひはんされた[240]クロード・モネピエール=オーギュスト・ルノワールフレデリック・バジールといったバティニョール画家がかたちは入選にゅうせんした。他方たほう、マネ、ポール・セザンヌ落選らくせんした[241]。セザンヌは、このとし美術びじゅつ総監そうかんニューウェルケルクにたいし、落選らくせんてん開催かいさいもとめる手紙てがみおくっている[241]

モネは、マネの作品さくひん着想ちゃくそうた『くさじょう昼食ちゅうしょく』を出品しゅっぴんしようとしたが、断念だんねんし、そのわりに『みどりころもおんな』ほか1てん出品しゅっぴんして入選にゅうせんした。スペイン趣味しゅみつよかった当時とうじ審査しんさ委員いいん批評ひひょうからは好評こうひょう[242]

1867ねん

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1867ねんのサロンは、パリ万国博覧会ばんこくはくらんかい並行へいこうして開催かいさいされた[248]。そのため、サロンは補助ほじょてき役割やくわりにとどまった[217]絵画かいが部門ぶもん審査しんさ委員いいんは15にんるとともに、画家がか選挙せんきょによる審査しんさ委員いいんが3ぶんの2(10にん)、美術びじゅつ行政ぎょうせいによる任命にんめいが3ぶんの1(5にん)という制度せいどあらためられた。その結果けっかは、画家がか選出せんしゅつ委員いいん上位じょうい3めいはカバネル、ジェローム、ピルスがめ、美術びじゅつ行政ぎょうせい任命にんめい委員いいん構成こうせい前回ぜんかいとほとんどわらなかった。そのこともあって、前衛ぜんえいてき画家がかにはきびしいサロンとなった。落選らくせんてん開催かいさい要望ようぼうもあったが、美術びじゅつ総監そうかんニューウェルケルクはそれを拒否きょひした[249]エドガー・ドガベルト・モリゾ入選にゅうせんしたが、モネ、ルノワール、シスレー、バジールは落選らくせんした。そのため、かれらのあいだでは、独自どくじ展覧てんらんかい開催かいさいしようというあんたが、資金しきん不足ふそくのためえとなった[242]

ミレーは、『がらすのいるふゆ景色けしき』と『鵞鳥がちょうばん少女しょうじょ』で1とうしょうあたえられ、絶頂ぜっちょうむかえた[250]他方たほう、クールベとマネはサロンに応募おうぼせず、それぞれ万国博覧会ばんこくはくらんかい会場かいじょうちかくで個展こてんひらいた[251]

1868ねん

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1868ねんのサロンからは、過去かこのサロン(審査しんさであった1848ねんのぞく)で入選にゅうせん経験けいけんのある画家がかであればだれでも審査しんさ委員いいん投票とうひょうくわわることができるようになった。これを反映はんえいして、コローやドービニーが審査しんさ委員いいんはいり、前衛ぜんえいてき画家がかたちにとって寛容かんよう審査しんさとなった[254]。ルノワールも『日傘ひがさのリーズ』で好意こういてき評価ひょうかることができた[255]

1869ねん

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1869ねん審査しんさ委員いいん選出せんしゅつ方法ほうほう前年ぜんねんおなじであったが、ジェローム、ボードリー、ピルス、ボナといったアカデミーの画家がか審査しんさ委員いいん上位じょういめた[260]

1870ねん

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1870ねんのサロンからは、美術びじゅつ行政ぎょうせいによる審査しんさ委員いいん任命にんめいがなくなり、過去かこのサロン(審査しんさであった1848ねんのぞく)で入選にゅうせん経験けいけんのあるすべての画家がかなかからすべての審査しんさ委員いいん選挙せんきょする仕組しくみとなり、民主みんしゅすすんだ[263]。ドービニー、コロー、ミレーが審査しんさ委員いいんはいり、バティニョール画家がかたちを擁護ようごしたが、モネは『ラ・グルヌイエール』などが落選らくせんしてしまった。ドービニーは、モネの落選らくせん抗議こうぎして、審査しんさ委員いいん辞任じにんした[264]。ファンタン=ラトゥールの『バティニョールのアトリエ』は、当時とうじマネを中心ちゅうしんとする前衛ぜんえいてき画家がかあつまりが成立せいりつしていたことを物語ものがた作品さくひんである[265]

だいさん共和きょうわせい

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1870ねん7がつ、ナポレオン3せいプロイセン王国おうこくとのあいだひろしふつ戦争せんそう勃発ぼっぱつし、9月にフランスぐんセダンのたたか敗北はいぼくしたことでだい帝政ていせい崩壊ほうかいした。その1871ねん1がつにパリがプロイセンぐん占領せんりょうされたが、3月に徹底てってい抗戦こうせんもとめるパリ市民しみんパリ・コミューン宣言せんげんし、内戦ないせんすえ5がつ鎮圧ちんあつされた。こうした混乱こんらんすえフランスだいさん共和きょうわせい誕生たんじょうした。だいさん共和きょうわせいしたでも、サロンは画家がかたちの重要じゅうよう発表はっぴょうとして権威けんいたもっていたが、徐々じょじょ商品しょうひん展示てんじじょうという様相ようそうつよくなり、作品さくひんしつ劣化れっか懸念けねんされるようになった[272]。サロンの審査しんさは、そのとし審査しんさ委員いいんにコローやドービニーがはいれば寛容かんようになり、そうでないとしきびしくなるなど一定いっていせず、若手わかて前衛ぜんえい画家がかたちは翻弄ほんろうされた[254]。そうしたなかから、モネ、ルノワール、ピサロ、バジールといったバティニョール画家がかたちが、1874ねん以降いこう、サロンから独立どくりつしたグループてん開催かいさいするようになり、印象派いんしょうはばれるようになる。

1872ねん

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1872ねん再開さいかいされたサロンは、美術びじゅつ長官ちょうかんシャルル・ブランした、アカデミーの権限けんげんふたたつよめられ、保守ほしゅせいした[273]。シャルル・ブランとおおやけ教育きょういくしょう大臣だいじんジュール・シモン英語えいごばんは、合理ごうりてき普遍ふへんてきというフランス革命かくめい以来いらい共和きょうわ主義しゅぎしゃ理念りねんぐとともに、中央ちゅうおう集権しゅうけんした国家こっか機関きかんによる芸術げいじゅつ統制とうせいはかるため、芸術げいじゅつアカデミーの権威けんいたかめる方針ほうしんをとった[274]

マネは『キアサージごうとアラバマごう海戦かいせん』が入選にゅうせんし、ルノワールは落選らくせんした。モネ、ピサロ、シスレー、ドガは応募おうぼしていない[275]

1873ねん

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1873ねんのサロンは、審査しんささら厳格げんかくになり、落選らくせんしゃ続出ぞくしゅつした[277]。このとしには、10ねんぶりとなる落選らくせんてんひらかれた[278]。マネは『ル・ボン・ボック』と『休息きゅうそく(ベルト・モリゾの肖像しょうぞう)』が入選にゅうせんし、『ル・ボン・ボック』はサロンで好評こうひょうた。ベルト・モリゾ、メアリー・カサットも入選にゅうせんしたが、ルノワールは落選らくせんし、『ブーローニュのもりあさ乗馬じょうば』を落選らくせんてん出展しゅってんした。モネ、ピサロ、シスレー、ドガは、サロンに応募おうぼせず、独自どくじのグループてん開催かいさいけてうごした[279]

1874ねん

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1873ねん12月、おう党派とうはから大統領だいとうりょういたパトリス・ド・マクマオン美術びじゅつ長官ちょうかんシャルル・ブランを解任かいにんし、後任こうにんフィリップ・ド・シェヌヴィエール=ポワンテル英語えいごばん侯爵こうしゃく指名しめいした。シェヌヴィエールは、サロン改革かいかく着手ちゃくしゅし、偉大いだい物語ものがたり復興ふっこう目指めざして、ほとんどアカデミー会員かいいんから美術びじゅつ委員いいんかい設立せつりつしたり、サロンしょうもうけたりした[282]

1874ねんのサロンは5月1にちからやく1かげつはんひらかれたが、このとしの4がつ15にちから5がつ15にちまでのあいだ、モネ、ルノワール、ピサロ、バジール、ベルト・モリゾなどの前衛ぜんえいてき画家がかたちが、グループてん開催かいさいした(だい1かい印象派いんしょうはてん)。サロンから独立どくりつしたグループてんという画期的かっきてき取組とりくみであったが、世間せけんからは嘲笑ちょうしょう酷評こくひょうびた。他方たほう、マネは、グループてんへの参加さんか拒絶きょぜつし、サロンでの成功せいこう追求ついきゅうした[283]

当時とうじ、サロンの作品さくひんすうは3657てん絵画かいが1852てん素描そびょう1776てん)、入場にゅうじょうしゃは、平日へいじつが4000にん日曜にちよう祭日さいじつはその10ばいで、40日間にちかん合計ごうけいは50まんにんえていたと推定すいていされている。一方いっぽうだい1かい印象派いんしょうはてん入場にゅうじょうしゃは30日間にちかんやく3500にんであり、サロンの影響えいきょうりょくおおきさがあらわれている[284]

1875ねん

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1876ねん

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1876ねんのサロンはおな技法ぎほう制作せいさくされた作品さくひん出品しゅっぴんは2つまでにかぎられたが、総数そうすう4033てんものエントリーがあった。このとし出品しゅっぴんさくについてエミール・ゾラ批評ひひょうしており、ゾラの注意ちゅういいた作品さくひんほかにもあったにせよ、偉大いだい画家がかとして評価ひょうかしたのはピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌだけだった[287]。7ねんぶりにサロンに参加さんかしたギュスターヴ・モローは2つの大作たいさく『ヘロデおうまえおどるサロメ』と『ヘラクレスとレルネのヒュドラ』、水彩すいさい出現しゅつげん』など4作品さくひん出品しゅっぴんした。1876ねんだい2かい印象派いんしょうはてんひらかれたとしであり、印象派いんしょうはのメンバーはサロンに出展しゅってんしていない。ポール・ゴーギャン風景ふうけいでサロンにはつ入選にゅうせんした[288]

1877ねん

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1878ねん

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だい3かいまでの印象派いんしょうはてん参加さんかしていたルノワールは、1878ねんから、サロンへの応募おうぼ再開さいかいするようになった。印象派いんしょうはてんは、作品さくひんるというてんでは成功せいこうしておらず、経済けいざいてききびしいことが理由りゆうであった。このとしのサロンには、ルノワールの『いちはいのショコラ』が入選にゅうせんしている。しかし、ドガは、印象派いんしょうはてん参加さんかしゃはサロンに応募おうぼすべきでないという主張しゅちょうっており、印象派いんしょうはグループのなかでの意見いけん対立たいりつまねくことになった[293]

1879ねん

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1879ねんのサロンでは、ルノワールの『シャルパンティエ夫人ふじんとそのどもたち』が評判ひょうばんになり、経済けいざいてき成功せいこうにするようになっていった[296]。シスレーとセザンヌも、ルノワールに触発しょくはつされてサロンに応募おうぼしたが、落選らくせんした。モネもサロン応募おうぼかんがえたが、カミーユ・ピサロギュスターヴ・カイユボット説得せっとくおもいとどまった[297]

このとしのサロンの授賞じゅしょうしきで、共和きょうわジュール・グレヴィ政権せいけんおおやけ教育きょういくしょう大臣だいじんジュール・フェリーは、アカデミーが美術びじゅつ形骸けいがいしたヒエラルキーと伝統でんとうてき手法しゅほうしたがわせようとしていると批判ひはんした[298]

1880ねん

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1880ねんのサロンの様子ようす

1879ねん以来いらいだいさん共和きょうわせい美術びじゅつ行政ぎょうせいは、サロン審査しんさ委員いいんかい審査しんさかた批判ひはんし、サロン会場かいじょう電気でんき照明しょうめいもちいること、審査しんさ委員いいん範囲はんいひろげること、絵画かいが部門ぶもんをジャンルによってけることなどの改革かいかくしめした。これにたいし、審査しんさ委員いいんかい反対はんたいし、ブーグローとボードリーが相次あいついで委員いいん辞任じにんする事態じたいになった。のこった審査しんさ委員いいんたちは、7289てんという大量たいりょう作品さくひん入選にゅうせんさせる措置そちて、サロンは混乱こんらんした[298]

モネは、長年ながねんサロンへの出品しゅっぴんをしていなかったが、経済けいざいてき逼迫ひっぱくするなか前年ぜんねんにルノワールがサロンで成功せいこうしたこともあって、1880ねんのサロンに応募おうぼした。当時とうじも、経済けいざいてき成功せいこう目指めざうえではサロンはたか権威けんいつものであった。モネは、サロン審査しんさ基準きじゅんうよう妥協だきょうしたうえで2てん提出ていしゅつしたが、その結果けっかは、『ラヴァクール』1てんのみが入選にゅうせんというものであった[302]。このころには、印象派いんしょうはたいする肯定こうていてき評価ひょうか徐々じょじょえており、かんてん画家がかなかにも、印象派いんしょうは影響えいきょうけた折衷せっちゅうてき作品さくひんてきた[303]

民営みんえい

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1880ねん美術びじゅつ行政ぎょうせいは、サロンの国家こっか主催しゅさいりやめ、民営みんえいすることを決定けっていした。サロン改革かいかくかんする美術びじゅつ行政ぎょうせいとアカデミーとの意見いけん対立たいりつ背景はいけいとするものであった[305]1881ねんからは、フランス芸術げいじゅつ協会きょうかいがサロンを開催かいさいしたほか、1884ねんからは独立どくりつ芸術げいじゅつ協会きょうかいによるサロン(アンデパンダンてん)が、1890ねんには国民こくみん美術びじゅつ協会きょうかいによるサロンが分離ぶんり独立どくりつし、政府せいふ1883ねん1886ねんにトリエンナーレてん開催かいさいするなど、美術びじゅつ展覧てんらんかい乱立らんりつしていった[272]

次第しだいに、サロンやアカデミーの権威けんい低下ていかし、画家がかがサロン入選にゅうせんによって作品さくひんみとめられ、顧客こきゃくることができるというシステム自体じたい機能きのうしなくなり、わって画商がしょう批評ひひょう画家がか顧客こきゃくをつなぐ役割やくわりたしていくことになる[306]

現在げんざい

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現在げんざいも「サロン・ド・パリ」から分離ぶんりしたかくサロンのなかのいくつかはつづ開催かいさいされている。2006ねん以降いこう、パリに拠点きょてんく4つ(2006ねん開始かいし当時とうじは5つ)のサロンてん合同ごうどうおこなう「Salon ART CAPITAL」[307]グラン・パレのLe Nefホールにて開催かいさい[308]されるようになり、「ル・サロンてん」としてられるフランス芸術げいじゅつ協会きょうかいサロンてんなどが参加さんかしている。一方いっぽうで、国民こくみん美術びじゅつ協会きょうかいサロンてんルーヴル美術館びじゅつかん隣接りんせつしたカルーゼル・ルーブル展示てんじじょうにて、サロン・ドートンヌてんはシャンゼリゼどお特設とくせつ会場かいじょうにて、現在げんざい単独たんどくでの開催かいさい各々おのおの継続けいぞくしている。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ ボストン美術館びじゅつかん所蔵しょぞうさくとほぼどういち構図こうずどう一寸いっすんほうの『たねまくひと』が山梨やまなし県立けんりつ美術館びじゅつかん収蔵しゅうぞうされており、どちらがサロン出品しゅっぴんさっかは議論ぎろんかれている(井出いで (2014: 44-46))。

出典しゅってん

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  • 高階たかしな秀爾ひでじ『フランス絵画かいが――ルネサンスから世紀せいきまつまで』講談社こうだんしゃ講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ〉、1990ねんISBN 4-06-158894-X 
  • 新関にいぜき公子きみこ『セザンヌとゾラ――その芸術げいじゅつ友情ゆうじょう』ブリュッケ、2000ねんISBN 4-7952-1679-7 
  • シルヴィ・パタン『モネ――印象派いんしょうは誕生たんじょう渡辺わたなべ隆司たかし村上むらかみ伸子のぶこやく高階たかしな秀爾ひでじ監修かんしゅうつくもとしゃさい発見はっけん双書そうしょ〉、1997ねん原著げんちょ1991ねん)。ISBN 4-422-21127-7 
  • マリナ・フェレッティ『印象派いんしょうは新版しんぱん]』武藤むとう剛史たけしやく白水しろみずしゃ文庫ぶんこクセジュ〉、2008ねんISBN 978-4-560-50920-3 
西洋せいよう美術びじゅつ歴史れきし

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