エコール・デ・ボザール

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エコール・デ・ボザール
パリ国立こくりつ高等こうとう美術びじゅつ学校がっこう(2010ねん撮影さつえい)
種別しゅべつ 特別とくべつ高等こうとう教育きょういく機関きかんGrands établissements
設立せつりつねん 1682ねんまたは1671ねん[1]
予算よさん 10,6 millions €
校長こうちょう Jean de loisy
学生がくせい総数そうすう 530
所在地しょざいち フランス
パリ6リヨンなどフランス各地かくち
座標ざひょう: 北緯ほくい4851ふん24.16びょう 東経とうけい220ふん0.68びょう / 北緯ほくい48.8567111 東経とうけい2.3335222 / 48.8567111; 2.3335222
キャンパス 都市としがた
公式こうしきサイト Ecole Nationale Supérieure des Beaux-Arts
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エコール・デ・ボザールフランス語ふらんすごÉcole des Beaux-Arts, ENSBA)は、17世紀せいきパリ設立せつりつされたフランス高等こうとう美術びじゅつ学校がっこうである。

350年間ねんかん以上いじょうにわたる歴史れきしがあり、建築けんちく絵画かいが彫刻ちょうこく分野ぶんや芸術げいじゅつ輩出はいしゅつしてきた。現在げんざい建築けんちくがここからはなされている。パリ6マラケ河岸かわぎしからはいってボナパルトがい(ボナパルトどおり)にめんしてかまえたパリ・ボザールこう正面しょうめんには、ニコラ・プッサンとピエール・ビュジエの胸像きょうぞういただきせた門柱もんちゅうはいり、フランス・ルネサンス建築けんちく断片だんぺん創造そうぞうされた壮大そうだい中庭なかにわまえ展開てんかいする。一般いっぱんてきにボザールとえば、パリ国立こくりつ高等こうとう美術びじゅつ学校がっこうす。

歴史れきし[編集へんしゅう]

パリ国立こくりつ高等こうとう美術びじゅつ学校がっこうくち(2012ねん撮影さつえい)

ボザールでの教育きょういく伝統でんとうてき古典こてん主義しゅぎてき作品さくひん理想りそうとされ、これらの理想りそうされた様式ようしき踏襲とうしゅうさせていく、世界せかいにもまれな教育きょういくシステムであった。この学校がっこう研鑽けんさんはげんだ有名ゆうめい芸術げいじゅつには、ジェリコ、エドガー・ドガウジェーヌ・ドラクロワドミニク・アングルクロード・モネギュスターヴ・モローピエール=オーギュスト・ルノワールジョルジュ・スーラらがいる。一方いっぽうでセザンヌは2かい入学にゅうがく失敗しっぱいしている[2]。また、エミール・ベルナールは、文体ぶんたいうたがわれ処分しょぶんされた[3]

1648ねんルイ14せい王立おうりつ建築けんちくぶつ各種かくしゅ美術びじゅつ工芸こうげい装飾そうしょく担当たんとうさせる人材じんざい育成いくせい要請ようせいし、枢機卿すうききょうジュール・マザランアカデミー・フランセーズ(フランス王立おうりつアカデミー)の付属ふぞく学校がっこうとして美術びじゅつ学校がっこう設立せつりつした。その古典こてん主義しゅぎ建築けんちく母体ぼたいとなる建築けんちくアカデミーが1671ねんとき宰相さいしょうジャン=バティスト・コルベールによって創設そうせつされた。これらのアカデミーは古典こてん主義しゅぎ芸術げいじゅつ進展しんてんうなが母体ぼたいとなっていき、ルイ14せいからルイ16せいまでのきゅう制度せいどにおいてフランスで絶対ぜったいてき地位ちい確立かくりつするにいたった。また1666ねんにはローマにフランス・アカデミーを設置せっちし、本国ほんごくからりすぐりの芸術げいじゅつ古典こてん文化ぶんか発掘はっくつ接収せっしゅう目的もくてき派遣はけんするようになった。留学りゅうがく制度せいど対応たいおうして古代こだいのギリシア、そしてローマの文化ぶんかから古典こてん芸術げいじゅつ建築けんちく焦点しょうてんわせているのはこのためで、この毎年まいとしかく芸術げいじゅつ分野ぶんやごとに1めいをローマ留学生りゅうがくせい選抜せんばつすうねん滞在たいざいさせる制度せいどはのちのボザールにもがれたが、総括そうかつする美術びじゅつアカデミーの終身しゅうしん書記しょき就任しゅうにんしたカトルメール・ド・カンシーなどはしん古典こてん主義しゅぎ芸術げいじゅつたいしてふか造詣ぞうけい発揮はっきし、とくに古代こだい建築けんちく関心かんしんウィトルウィウスさい解釈かいしゃくした大著たいちょあらわし、古代こだい建築けんちく復元ふくげんこころみ、のち自身じしん主宰しゅさいして編纂へんさんした建築けんちく辞典じてんには古代こだいギリシャの建築けんちく建築けんちく原型げんけいもとめ、さらに建築けんちくてき理解りかい必要ひつようせいいている。こうしたカンシーの一連いちれん作業さぎょうパエストゥム古代こだいギリシャ神殿しんでん発掘はっくつからギリシャ建築けんちくさい評価ひょうかグリーク・リバイバル思潮しちょうをさらに一段いちだんたかめる。そうした古代こだい建築けんちくふかまなぶために大半たいはんくずちた古代こだい遺跡いせき建築けんちくみずからの観念かんねんもとづいて復元ふくげんする主張しゅちょうはのちのフランス・アカデミーにおける留学生りゅうがくせい研修けんしゅう方法ほうほうおおきな影響えいきょうあたえた。ボザール建築けんちくアカデミー発足ほっそくたって建築けんちく講座こうざ設置せっちとなえ、J・H・ヌイノーをその教授きょうじゅ任命にんめいしたのはそのためとされる。

1789ねん勃発ぼっぱつしたフランス革命かくめいによって、革命かくめい共鳴きょうめいしたわか芸術げいじゅつたちはきゅう体制たいせいのアカデミーに対抗たいこうして芸術げいじゅつコミューンを成立せいりつさせ、1793ねんには王立おうりつアカデミーは廃止はいしされたが、建築けんちくアカデミーは教授きょうじゅをつとめていたジュリアン・ダヴィド・ルロワがコミューンとして主宰しゅさいすることで学校がっこう存続そんぞくする。その18世紀せいきなかばにきゅうアカデミーにかわり学士がくしいん発足ほっそくし、美術びじゅつ教育きょういく機関きかん復活ふっかつ。さらにナポレオン失脚しっきゃく王政おうせい復古ふっこにともない、学士がくしいん芸術げいじゅつ部会ぶかいはそのまま絵画かいが彫刻ちょうこく建築けんちくの3分野ぶんやの、かく芸術げいじゅつアカデミーと呼称こしょう変更へんこう発足ほっそくする。この王政おうせい復古ふっこ時期じきに、フランスではさまざまな組織そしき期間きかん整理せいり統廃合とうはいごうおこなわれ、別々べつべつ芸術げいじゅつアカデミーであった絵画かいが彫刻ちょうこく建築けんちくなどもひとつに統合とうごうした教育きょういく機関きかん創設そうせつ学校がっこうめい「エコール・ロワイヤル・エ・スペシアル・デ・ボザール(École royale et spéciale des Beaux-Arts)」が、1816ねん12月18にち国王こくおう命令めいれいにより決定けっていされる。こうして1819ねんに、名称めいしょう国立こくりつ美術びじゅつ学校がっこう(エコール・ナシオナル・シュペリウール・デ・ボザール)に改称かいしょうとなった。当初とうしょ学生がくせい男性だんせいのみで、女性じょせいは1897ねんから入学にゅうがく許可きょかされた。

カリキュラムは画家がか彫刻ちょうこく育成いくせいの「彫刻ちょうこくアカデミー」と建築けんちく育成いくせい役割やくわりたすセクション「建築けんちくアカデミー」に分割ぶんかつされる。両方りょうほうのプログラムは、留学りゅうがく制度せいど対応たいおうして古代こだいのギリシア、そしてローマの文化ぶんかから古典こてん芸術げいじゅつ建築けんちく焦点しょうてんわせ、当然とうぜんのことながら入学にゅうがく、その学習がくしゅうたい学生がくせい全員ぜんいん古典こてん芸術げいじゅつ教養きょうよう絵画かいが表現ひょうげん基本きほん技量ぎりょうもとめられた。また、とし1かいグラン・プリ・ドゥ・ローム(ローマ大賞たいしょう)というコンクールを主催しゅさいし、受賞じゅしょうしゃにはローマで研究けんきゅうするために全額ぜんがく給与きゅうよ奨学しょうがくきんあたえていた。しょう入手にゅうしゅする3つのトライアルがおよそ3カ月かげつに1かいつづく。前身ぜんしんのアカデミー時代じだいから実施じっしされていた制度せいどである、かく分野ぶんや専門せんもんがパトロン・担当たんとう教育きょういくしゃとなるアトリエせい採用さいようし、その150ねんにわたって徒弟とてい制度せいどせた方式ほうしき学生がくせい教育きょういくしていった。だい革命かくめいからだいいち帝政ていせいにかけてすでにアカデミーをかたちでいくつかのアトリエが存在そんざいし、入学にゅうがく許可きょかされた学生がくせいらが師匠ししょうたる芸術げいじゅつのもとで修行しゅぎょうはげんだ。

  • だい世界せかい大戦たいせん改革かいかく

1960ねん、アカデミー・デ・ボザール会員かいいん独占どくせんされていたローマ大賞たいしょう審査しんさ委員いいんかいにボザールのパトロンの参加さんか決定けっていされる。つづいて1962ねんには文化ぶんかしょう建築けんちく教育きょういく改革かいかく検討けんとうする委員いいんかい設立せつりつした[4]。これと平行へいこうしてでボザール卒業生そつぎょうせい建築けんちく中心ちゅうしんとして利益りえき保護ほごする同窓会どうそうかいのような組織そしきであるグランド・マスも同様どうよう目的もくてき委員いいんかい設置せっちするが、これはあくまで建築けんちく建築けんちく学生がくせい利益りえきまもるための団体だんたいでありのちにえとなるが、この結果けっかジョルジュ・キャンディリスエミール・アヨーら、集合しゅうごう住宅じゅうたくなどを中心ちゅうしん活躍かつやくする建築けんちくたちのアトリエ開設かいせつにつながり、1965ねん建築けんちくのアトリエがA、B、Cとみっつのグループに分割ぶんかつする制度せいどれられる。このなかでCグループが住宅じゅうたく問題もんだいげより改革かいかくしょく政治せいじしょくつよいグループとしていき、このなかからさらにC'グループが分離ぶんり、セーヌ右岸うがんの8グラン・パレにアトリエを移動いどうさせる。このグループはそのの1967ねんには縦割たてわせいのアトリエ制度せいど廃止はいしし、どういち学年がくねんよこりクラスせい採用さいよう設計せっけい演習えんしゅう建築けんちくとアシスタントとのグループでの合同ごうどう審査しんさせいとなり、パトロンも教授きょうじゅグループとして教育きょういくおこなうことにした。こうした改革かいかくすすなか1968ねん2がつ文化ぶんかしょうまで年度ねんどからの制度せいど変更へんこう発表はっぴょうした。

1968ねんの5がつ革命かくめいをきっかけに、ソルボンヌ大学そるぼんぬだいがくつづいて構造こうぞう改革かいかく要求ようきゅうしてちあがったボザールも大学だいがく改革かいかくおこなわれ、解体かいたいそして分校ぶんこうせいといった結果けっかまねくことになり、エコール・デ・ボザールもパリ、ディジョンブールジュナンシーリヨンと、ロリアンレンヌカンペールブレストというように各地かくち分割ぶんかつされた。このなかもっと有名ゆうめいなのがパリのエコール・デ・ボザールとしてつづいている、ルーヴルからはセーヌの対岸たいがんにあたるセーヌ左岸さがん6位置いちしているパリ学校がっこうで、現在げんざい校舎こうしゃ本館ほんかんは1830ねんに、卒業生そつぎょうせいフェリックス・デュバンによる建築けんちく作品さくひんである。

2009ねん現在げんざいではフランス国内こくないには59の国公立こっこうりつ美術びじゅつ芸術げいじゅつけい学校がっこうがあり、それらの美術びじゅつ学校がっこう日本にっぽん国内こくないにおける芸術げいじゅつ美術びじゅつ大学だいがく)を総称そうしょうとしてボザールとぶ。

建築けんちくセクションの場合ばあい美術びじゅつのアカデミーで実権じっけん掌握しょうあくしていたカトルメール・ド・カンシーは、ローマ留学生りゅうがくせいたいしてきびしい制約せいやくしていて、実測じっそくはローマ建築けんちくかぎらせていた。しかし若手わかて建築けんちくはより深遠しんえんなる古代こだい歴史れきしもとめて様々さまざまこころみをおこなっている。のポザール建築けんちく教授きょうじゅユイヨーは1817ねんからギリシアやアジアにまであしはこび、数々かずかず実測じっそくをき がえり、その講義こうぎもちいている。このころギリシア建築けんちくたいする認識にんしき一段いちだんたかまっていたが、そこにあらたな論争ろんそうたねくわわることになる。古代こだいギリシア建築けんちく多彩たさいしょくもちいて派手はでやかにいろどられていたかいなかったかという問題もんだいで、ジャック・イニャス・イトルフのローマからおくりつけた実測じっそくはその問題もんだい最初さいしょげかけ、古代こだい建築けんちく彩色さいしきろん登場とうじょうさせた。

フランス建築けんちくにとってイタリアおもむくということは古典こてん古代こだい建築けんちくをじかに観察かんさつ直接ちょくせつはだかんじることができるということにほかならなく、以前いぜんからローマ留学生りゅうがくせいたち古代こだい建築けんちく丹念たんねん実測じっそく克明こくめい素描そびょうしていた。しかしパエストゥムの発見はっけん以降いこうギリシア建築けんちく現実げんじつ建築けんちくたち眼前がんぜんさらされ、くわえて中近東ちゅうきんとうのそれや古代こだいエジプト建築けんちくもその実像じつぞうあきらかになってきた。ナポレオンエジプト遠征えんせいぐん多数たすう考古こうこ学者がくしゃれていったことからもほどけるとおり、当時とうじ人々ひとびとはそうしたローマ以前いぜん古代こだい世界せかいたいしてはずれた関心かんしんいていたのである。実際じっさいギリシアエジプト建築けんちく建築けんちくられるようになってきて従来じゅうらい古典こてんかんがえられてきたローマ建築けんちく古典こてん最後さいご位置いちするものと認識にんしきされるようになったし、古代こだい世界せかいなるものも人々ひとびと意識いしきなかではるかに奥深おくふかいものとなり、考古学こうこがくてき発掘はっくつとあいまって、建築けんちくにインスピレーションをるべき古代こだい建築けんちくもそのレパートリーをやしていた。

建築けんちくらが主張しゅちょうしたのはむしろ、どう時代じだい作品さくひんしていくにあたってその規準きじゅん原理げんりとしての原色げんしょく効果こうかで、古典こてん主義しゅぎ建築けんちく、あるいは世紀せいきまつ以降いこうしん古典こてん主義しゅぎ建築けんちくかんがえもしなかった様々さまざま色彩しきさいいろどられた建築けんちくしていくことであり、1830ねんジャック・イニャス・イトルフ碑文ひぶんアカデミーにて「ギリシアじんにおける多彩たさいしょく建築けんちくかんする論考ろんこう」を発表はっぴょうする。古代こだいギリシアじんがいかに色彩しきさいもちいて建築けんちく装飾そうしょくしていたかをあらためてうたもので、この論考ろんこうは1851ねんになって印刷いんさつされるが、かれたん古代こだい建築けんちく復原ふくげんのみをかんがえていたのでなく、そのなかあたらしい建築けんちくもちいうべきあたらしい原理げんりをもとめていて、かれはギリシア建築けんちくなかに、注目ちゅうもくすべき形態けいたい、たとえば、ポルティコれつばしら、あるいはその平面へいめん形式けいしきといったものをもとめていたのではなくむしろ、形態けいたい要素ようそ建築けんちく造形ぞうけい意欲いよくおうじて自在じざいあつめ、様々さまざまのモチーフ、色彩しきさい建築けんちく豊潤ほうじゅん装飾そうしょくしていくことが重要じゅうようであるとした。

古代こだいギリシア建築けんちくから彩色さいしき効果こうかまなぶということは、しん古典こてん主義しゅぎてき作風さくふう一段いちだんおどえ、19世紀せいき前半ぜんはん建築けんちくあたらしい潮流ちょうりゅうにまで展開てんかいしていく。18世紀せいき後半こうはんから発生はっせいしたグリーク・リバイバルの運動うんどうからかんがえればその最後さいご局面きょくめんといわれ、この多彩たさいしょく(ポリクロミー)を基調きちょうとした様式ようしきから、ギリシャローマ中東ちゅうとうからルネサンスまでいろいろな要素ようそざりわせるしん古典こてん主義しゅぎとはまったくちがった体系たいけい折衷せっちゅう様式ようしきネオ・グレコは、発足ほっそくまもないエコール・デ・ボザールのわか建築けんちくをことごとく魅了みりょうしたようであるが、19世紀せいきすえから20世紀せいきはじめにかけて、ヨーロッパでアール・ヌーヴォーなどが出現しゅつげんし、モダン・デザインへの傾斜けいしゃがみられるなかで、うみこうのアメリカではぎゃく建物たてもの前面ぜんめんオーダーはいれつばしらならべたデザインなどが流行りゅうこうしていくこれらの古典こてん様式ようしきほどこ建築けんちくがまさにこの建築けんちくである。建築けんちくがくでこれをボザール様式ようしき(アメリカン・ボザール)とんでいる。

その背景はいけいとして、MIT建築けんちく学科がっかでボザールがえりの建築けんちく教鞭きょうべんっていたこと、シカゴ万国博覧会ばんこくはくらんかいでボザール様式ようしき好評こうひょうだったことなどがある。日本にっぽんでも大正たいしょうから昭和しょうわ初期しょき銀行ぎんこう建築けんちくなどにれつばしらならべるデザインが流行りゅうこうしたが、アメリカン・ボザールの影響えいきょうである(三井みつい本館ほんかん明治生命めいじせいめいかんなど)。

ボザール自体じたい絵画かいが彫刻ちょうこく建築けんちくかく美術びじゅつ分野ぶんやあわった総合そうごう美術びじゅつ学校がっこうであるが、そのうち建築けんちくセクションではほかとはまったく独自どくじわかれて、特権とっけんてきともいえる独自どくじ教育きょういく方針ほうしんり、その教育きょういくシステムも19世紀せいき出発しゅっぱつから1968ねん解体かいたいにいたるまで、途中とちゅう1863ねんナポレオン3せい介入かいにゅうによる大改革だいかいかく以外いがいは、ほとんどわることなくつづけられてくるという、あくまでアカデミーがその教育きょういくをつかさどるという創立そうりつ以来いらい方針ほうしん堅持けんじされてきた。ボザールの基本きほんはアトリエせいであるが、今日きょう大学だいがくのような講座こうざスタジオ研究けんきゅうしつなどではなく、建築けんちくであれば建築けんちくまねいている学生がくせい私塾しじゅくのようなもので、建築けんちくになろうとするものはまずは外国がいこくじんであってもアトリエに入所にゅうしょし、普通ふつうはその所属しょぞくするアトリエの建築けんちく推薦すいせんてボザールの入学にゅうがく志願しがんしゃ資格しかくることになる。アトリエのパトロン建築けんちく自身じしん建築けんちく設計せっけい事務所じむしょべつ主宰しゅさいしている。初期しょきのアトリエパトロンはすべてローマしょう受賞じゅしょうしゃめられ、建築けんちく特権とっけんてき立場たちば維持いじしながら社会しゃかいをリードしていく建築けんちく形態けいたい建築けんちくえずしていった。

建築けんちくアカデミーであれば、当時とうじはA・L・T・ヴォードワイエやナポレオン庇護ひごたペルシエ+フォンテーヌなどのアトリエがローマ大賞たいしょう受賞じゅしょうしゃ輩出はいしゅつしていて人気にんきたかかった。ペルシエ+フォンテーヌのアトリエからは18にんのローマ大賞たいしょう受賞じゅしょうしゃと17にん次席じせきしている。いずれも師匠ししょう作風さくふうぎつつもより折衷せっちゅうてき方向ほうこうむかっている。かれらの著作ちょさくはまたカトルメール・ド・カンシーとはべつ意味いみしん古典こてん主義しゅぎてき建築けんちくろん展開てんかいしているが古典こてん主義しゅぎにおける規定きてい絶対ぜったいせいけ、感性かんせいにもとづく建築けんちく構成こうせい主張しゅちょうするなど、この議論ぎろんはちょうど17世紀せいきまつ建築けんちくアカデミー創設そうせつさい、フランソワ・ブロンデルとクロード・ペローがひろげた新旧しんきゅう論争ろんそうにも建築けんちく基準きじゅん何処どこもとめるかを追求ついきゅうしたものであったが、かれらの立場たちばはそれよりすこまえにヴィジオネールの建築けんちくばれるブレが感性かんせいおもんじ、ふる意味いみでの古典こてんしりぞけたような古代こだい建築けんちく否定ひていするのではなく、古代こだい建築けんちく顕現けんげんする一種いっしゅおどろきにも美的びてき感動かんどうあたらしい建築けんちく実現じつげんしようとする方向ほうこうせいをもっていて、その意味いみではきわめてロマン主義しゅぎてき傾向けいこうにもちかく、ロマン主義しゅぎしん古典こてん主義しゅぎ裏腹うらはら現象げんしょうであったとみられている。

ボザールでおこなわれる講義こうぎつね理論りろんてきめんばかりで、建築けんちくアカデミー所属しょぞく教授きょうじゅたちのなかでも、とく建築けんちくろん担当たんとうするものがもっと権威けんいであり、かつ学生がくせい対象たいしょうとした課題かだい設計せっけい競技きょうぎのプログラム作成さくせい担当たんとう責任せきにんしゃとなっていた。発足ほっそく以来いらいのバルダールやブルーエ、ルシェールなどがその地位ちいいていた。下級かきゅう修了しゅうりょうした学生がくせい上級じょうきゅうすすみ、ここでは修業しゅうぎょう年限ねんげんなんねんという規定きていではなく、入学にゅうがくから10年間ねんかんのみの在籍ざいせき規定きていだけで、学生がくせいたちは自分じぶんのペースにわせて学業がくぎょうたし、1867ねんまでボザールには学科がっか制度せいど存在そんざいしていなかった。あるのは唯一ゆいいつのローマ大賞たいしょうのみで、しかも年間ねんかん1めいだけにあたえられていた。こうした教育きょういくシステムのなか学生がくせいたちは適当てきとう学校がっこうはなれて、建築けんちく実務じつむいていたのである。

ニューヨーク近代きんだい美術館びじゅつかんで1975ねんから76ねんにかけて開催かいさいされたエコール・デ・ボザールの建築けんちくてんは、フランスでもめったに公開こうかいされない図面ずめんるいまでも展示てんじされ、大変たいへん反響はんきょうんだ。ボザールで建築けんちくこうじ、のちに美術びじゅつアカデミーの終身しゅうしん書記しょき役職やくしょく就任しゅうにんしたルイ・オートクールはボザールにかんするくわしい記録きろくを7かんにもおよぶ大著たいちょのこしている。

入学にゅうがく方法ほうほうは、所属しょぞくするアトリエで修行しゅぎょうをしながら、志願しがんしゃ入学にゅうがく試験しけん準備じゅんびにとりかかり、めでたく入学にゅうがく試験しけん合格ごうかくしたものが、ボザール下級かきゅう学生がくせいとして登録とうろくされることになる。学生がくせい生活せいかつ基盤きばんつねにアトリエにあって、○○アトリエ所属しょぞくというかたちで認定にんていけた。アトリエはくに学校がっこうやアカデミーから費用ひようとう出費しゅっぴされているものではなく、学生がくせいたちがみずから組織そしきし、上下じょうげ関係かんけい序列じょれつなかみたてられ、そのうえ先生せんせいまねいているという形式けいしきで、学生がくせいあいだ選出せんしゅつされたちょうがそのアトリエの管理かんり運営うんえいおこない、建築けんちく謝礼しゃれい支払しはらっていた。アトリエ主宰しゅさいしゃ存在そんざい絶対ぜったいてき存在そんざいであり、学生がくせい修行しゅぎょう教育きょういくたいして必要ひつよう助言じょげん指導しどうあたえ、またボザールで講義こうぎおこな教授きょうじゅとは区別くべつされ、アトリエのパトロンとばれる。かくアトリエはボザール校舎こうしゃないではなく町中まちなか適当てきとう場所ばしょ大体だいたいはボザールの周辺しゅうへんかまえて、学生がくせいたちはそこで修行しゅぎょう合間あいまにボザールにかよって講義こうぎいていたのである。

書籍しょせき[編集へんしゅう]

  • 三宅みやけ理一りいち・アニー・ジャック 『ボザール建築けんちくしゅうもとめりゅうどう、1987ねんISBN 4-7630-8710-X。ISBN-13: 978-4-7630-8710-2。

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ The New Encyclopaedia Britannica - 15th Edition vol.2. p. 25 
  2. ^ Riviere; Schnerb (10 July 2001). Conversations with Cezanne. UC Press. p. 86. ISBN 0-520-22519-8 
  3. ^ Emile Bernard Visual Arts Cork 6 January 2024閲覧えつらん
  4. ^ エコール・デ・ボザール beauxartsparis.fr 2023ねん1がつ6にち閲覧えつらん

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]