エコール・デ・ボザール (フランス語 ふらんすご :École des Beaux-Arts , ENSBA)は、17世紀 せいき パリ に設立 せつりつ されたフランス の高等 こうとう 美術 びじゅつ 学校 がっこう である。
350年間 ねんかん 以上 いじょう にわたる歴史 れきし があり、建築 けんちく 、絵画 かいが 、彫刻 ちょうこく の分野 ぶんや に芸術 げいじゅつ 家 か を輩出 はいしゅつ してきた。現在 げんざい は建築 けんちく がここから切 き り離 はな されている。パリ6区 く マラケ河岸 かわぎし から入 はい ってボナパルト街 がい (ボナパルト通 どお り)に面 めん して構 かま えたパリ・ボザール校 こう の正面 しょうめん には、ニコラ・プッサン とピエール・ビュジエの胸像 きょうぞう を頂 いただき 部 ぶ に載 の せた門柱 もんちゅう が目 め に入 はい り、フランス・ルネサンス建築 けんちく の断片 だんぺん で創造 そうぞう された壮大 そうだい な中庭 なかにわ が目 め の前 まえ に展開 てんかい する。一般 いっぱん 的 てき にボザールと言 い えば、パリ国立 こくりつ 高等 こうとう 美術 びじゅつ 学校 がっこう を指 さ す。
パリ国立 こくりつ 高等 こうとう 美術 びじゅつ 学校 がっこう の入 い り口 くち (2012年 ねん 撮影 さつえい )
ボザールでの教育 きょういく は伝統 でんとう 的 てき 、古典 こてん 主義 しゅぎ 的 てき な作品 さくひん が理想 りそう とされ、これらの理想 りそう 化 か された様式 ようしき を踏襲 とうしゅう させていく、世界 せかい にもまれな教育 きょういく システムであった。この学校 がっこう で研鑽 けんさん に励 はげ んだ有名 ゆうめい 芸術 げいじゅつ 家 か には、ジェリコ、エドガー・ドガ 、ウジェーヌ・ドラクロワ 、ドミニク・アングル 、クロード・モネ 、ギュスターヴ・モロー 、ピエール=オーギュスト・ルノワール 、ジョルジュ・スーラ らがいる。一方 いっぽう でセザンヌは2回 かい 、入学 にゅうがく に失敗 しっぱい している[2] 。また、エミール・ベルナールは、文体 ぶんたい を疑 うたが われ処分 しょぶん された[3] 。
1648年 ねん 、ルイ14世 せい は王立 おうりつ 建築 けんちく 物 ぶつ の各種 かくしゅ 美術 びじゅつ 工芸 こうげい や装飾 そうしょく を担当 たんとう させる人材 じんざい の育成 いくせい を要請 ようせい し、枢機卿 すうききょう ジュール・マザラン がアカデミー・フランセーズ (フランス王立 おうりつ アカデミー)の付属 ふぞく 学校 がっこう として美術 びじゅつ 学校 がっこう を設立 せつりつ した。その後 ご 古典 こてん 主義 しゅぎ 建築 けんちく の母体 ぼたい となる建築 けんちく アカデミーが1671年 ねん に時 とき の宰相 さいしょう ジャン=バティスト・コルベール によって創設 そうせつ された。これらのアカデミーは古典 こてん 主義 しゅぎ 芸術 げいじゅつ の進展 しんてん を促 うなが す母体 ぼたい となっていき、ルイ14世 せい からルイ16世 せい までの旧 きゅう 制度 せいど 化 か においてフランスで絶対 ぜったい 的 てき な地位 ちい を確立 かくりつ するにいたった。また1666年 ねん にはローマにフランス・アカデミーを設置 せっち し、本国 ほんごく から選 え りすぐりの芸術 げいじゅつ 家 か を古典 こてん 文化 ぶんか の発掘 はっくつ と接収 せっしゅう を目的 もくてき に派遣 はけん するようになった。留学 りゅうがく 制度 せいど に対応 たいおう して古代 こだい のギリシア、そしてローマの文化 ぶんか から古典 こてん 芸術 げいじゅつ と建築 けんちく に焦点 しょうてん を合 あ わせているのはこのためで、この毎年 まいとし 各 かく 芸術 げいじゅつ 分野 ぶんや ごとに1名 めい をローマ留学生 りゅうがくせい を選抜 せんばつ し数 すう 年 ねん 滞在 たいざい させる制度 せいど はのちのボザールにも引 ひ き継 つ がれたが、総括 そうかつ する美術 びじゅつ アカデミーの終身 しゅうしん 書記 しょき に就任 しゅうにん したカトルメール・ド・カンシー などは新 しん 古典 こてん 主義 しゅぎ 芸術 げいじゅつ に対 たい して深 ふか い造詣 ぞうけい を発揮 はっき し、とくに古代 こだい 建築 けんちく に関心 かんしん を寄 よ せウィトルウィウス を再 さい 解釈 かいしゃく した大著 たいちょ を著 あらわ し、古代 こだい 建築 けんちく の復元 ふくげん を試 こころ み、後 のち に自身 じしん が主宰 しゅさい して編纂 へんさん した建築 けんちく 辞典 じてん には古代 こだい ギリシャの建築 けんちく に建築 けんちく の原型 げんけい を求 もと め、さらに建築 けんちく 史 し 的 てき な理解 りかい の必要 ひつよう 性 せい を説 と いている。こうしたカンシーの一連 いちれん の作業 さぎょう はパエストゥム の古代 こだい ギリシャ神殿 しんでん の発掘 はっくつ からギリシャ建築 けんちく 再 さい 評価 ひょうか ・グリーク・リバイバル の思潮 しちょう をさらに一段 いちだん と高 たか める。そうした古代 こだい 建築 けんちく を深 ふか く学 まな ぶために大半 たいはん が崩 くず れ落 お ちた古代 こだい の遺跡 いせき を建築 けんちく 家 か が自 みずか らの観念 かんねん に基 もと づいて復元 ふくげん する主張 しゅちょう はのちのフランス・アカデミーにおける留学生 りゅうがくせい の研修 けんしゅう 方法 ほうほう に大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えた。ボザール建築 けんちく アカデミー発足 ほっそく に当 あ たって建築 けんちく 史 し 講座 こうざ の設置 せっち を唱 とな え、J・H・ヌイノーをその教授 きょうじゅ に任命 にんめい したのはそのためとされる。
1789年 ねん に勃発 ぼっぱつ したフランス革命 かくめい によって、革命 かくめい に共鳴 きょうめい した若 わか い芸術 げいじゅつ 家 か たちは旧 きゅう 体制 たいせい のアカデミーに対抗 たいこう して芸術 げいじゅつ コミューンを成立 せいりつ させ、1793年 ねん には王立 おうりつ アカデミーは廃止 はいし されたが、建築 けんちく アカデミーは教授 きょうじゅ をつとめていたジュリアン・ダヴィド・ルロワがコミューンとして主宰 しゅさい することで学校 がっこう は存続 そんぞく する。その後 ご 18世紀 せいき なかばに旧 きゅう アカデミーにかわり学士 がくし 院 いん が発足 ほっそく し、美術 びじゅつ の教育 きょういく 機関 きかん が復活 ふっかつ 。さらにナポレオン 失脚 しっきゃく 後 ご の王政 おうせい 復古 ふっこ にともない、学士 がくし 院 いん の芸術 げいじゅつ 部会 ぶかい はそのまま絵画 かいが ・彫刻 ちょうこく ・建築 けんちく の3分野 ぶんや の、各 かく 芸術 げいじゅつ アカデミーと呼称 こしょう を変更 へんこう し発足 ほっそく する。この王政 おうせい 復古 ふっこ の時期 じき に、フランスではさまざまな組織 そしき や期間 きかん が整理 せいり と統廃合 とうはいごう が行 おこな われ、別々 べつべつ の芸術 げいじゅつ アカデミーであった絵画 かいが ・彫刻 ちょうこく ・建築 けんちく などもひとつに統合 とうごう した教育 きょういく 機関 きかん の創設 そうせつ 、学校 がっこう 名 めい 「エコール・ロワイヤル・エ・スペシアル・デ・ボザール(École royale et spéciale des Beaux-Arts)」が、1816年 ねん 12月18日 にち 国王 こくおう 命令 めいれい により決定 けってい される。こうして1819年 ねん に、名称 めいしょう を国立 こくりつ の美術 びじゅつ 学校 がっこう (エコール・ナシオナル・シュペリウール・デ・ボザール)に改称 かいしょう となった。当初 とうしょ 学生 がくせい は男性 だんせい のみで、女性 じょせい は1897年 ねん から入学 にゅうがく を許可 きょか された。
カリキュラムは画家 がか と彫刻 ちょうこく 家 か 育成 いくせい の「絵 え と彫刻 ちょうこく アカデミー」と建築 けんちく 家 か 育成 いくせい の役割 やくわり を果 は たすセクション「建築 けんちく アカデミー」に分割 ぶんかつ される。両方 りょうほう のプログラムは、留学 りゅうがく 制度 せいど に対応 たいおう して古代 こだい のギリシア、そしてローマの文化 ぶんか から古典 こてん 芸術 げいじゅつ と建築 けんちく に焦点 しょうてん を合 あ わせ、当然 とうぜん のことながら入学 にゅうがく 、その後 ご の学習 がくしゅう に対 たい し学生 がくせい 全員 ぜんいん が古典 こてん 芸術 げいじゅつ の教養 きょうよう と絵画 かいが 表現 ひょうげん の基本 きほん 技量 ぎりょう を求 もと められた。また、年 とし 1回 かい グラン・プリ・ドゥ・ローム(ローマ大賞 たいしょう )というコンクールを主催 しゅさい し、受賞 じゅしょう 者 しゃ にはローマで研究 けんきゅう するために全額 ぜんがく 給与 きゅうよ の奨学 しょうがく 金 きん を与 あた えていた。賞 しょう を入手 にゅうしゅ する3つのトライアルがおよそ3カ月 かげつ に1回 かい 続 つづ く。前身 ぜんしん のアカデミー時代 じだい から実施 じっし されていた制度 せいど である、各 かく 分野 ぶんや の専門 せんもん 家 か がパトロン・担当 たんとう 教育 きょういく 者 しゃ となるアトリエ制 せい を採用 さいよう し、その後 ご 150年 ねん にわたって徒弟 とてい 制度 せいど に似 に せた方式 ほうしき で学生 がくせい を教育 きょういく していった。大 だい 革命 かくめい から第 だい 一 いち 帝政 ていせい にかけてすでにアカデミーを取 と り巻 ま く形 かたち でいくつかのアトリエが存在 そんざい し、入学 にゅうがく を許可 きょか された学生 がくせい らが師匠 ししょう たる芸術 げいじゅつ 家 か のもとで修行 しゅぎょう に励 はげ んだ。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご の改革 かいかく
1960年 ねん 、アカデミー・デ・ボザール会員 かいいん に独占 どくせん されていたローマ大賞 たいしょう の審査 しんさ 委員 いいん 会 かい にボザールのパトロンの参加 さんか が決定 けってい される。続 つづ いて1962年 ねん には文化 ぶんか 省 しょう が建築 けんちく 教育 きょういく の改革 かいかく を検討 けんとう する委員 いいん 会 かい を設立 せつりつ した[4] 。これと平行 へいこう してでボザール卒業生 そつぎょうせい の建築 けんちく 家 か を中心 ちゅうしん として利益 りえき を保護 ほご する同窓会 どうそうかい のような組織 そしき であるグランド・マスも同様 どうよう の目的 もくてき の委員 いいん 会 かい を設置 せっち するが、これはあくまで建築 けんちく 家 か と建築 けんちく の学生 がくせい の利益 りえき を守 まも るための団体 だんたい でありのちに立 た ち消 ぎ えとなるが、この結果 けっか ジョルジュ・キャンディリス やエミール・アヨー ら、集合 しゅうごう 住宅 じゅうたく などを中心 ちゅうしん に活躍 かつやく する建築 けんちく 家 か たちのアトリエ開設 かいせつ につながり、1965年 ねん に建築 けんちく のアトリエがA、B、Cと三 みっ つのグループに分割 ぶんかつ する制度 せいど が取 と り入 い れられる。この中 なか でCグループが住宅 じゅうたく 問題 もんだい を取 と り上 あ げより改革 かいかく 色 しょく 、政治 せいじ 色 しょく の強 つよ いグループと化 か していき、この中 なか からさらにC'グループが分離 ぶんり 、セーヌ右岸 うがん の8区 く グラン・パレ にアトリエを移動 いどう させる。このグループはその後 ご の1967年 ねん には縦割 たてわ り制 せい のアトリエ制度 せいど を廃止 はいし し、同 どう 一 いち 学年 がくねん の横 よこ 割 わ りクラス制 せい を採用 さいよう 、設計 せっけい 演習 えんしゅう も建築 けんちく 家 か とアシスタントとのグループでの合同 ごうどう 審査 しんさ 制 せい となり、パトロンも教授 きょうじゅ グループとして教育 きょういく を行 おこな うことにした。こうした改革 かいかく が進 すす む中 なか 、1968年 ねん 2月 がつ に文化 ぶんか 省 しょう まで次 じ 年度 ねんど からの制度 せいど 変更 へんこう を発表 はっぴょう した。
1968年 ねん の5月 がつ 革命 かくめい をきっかけに、ソルボンヌ大学 そるぼんぬだいがく に続 つづ いて構造 こうぞう 改革 かいかく を要求 ようきゅう して立 た ちあがったボザールも大学 だいがく の改革 かいかく が行 おこな われ、解体 かいたい そして分校 ぶんこう 制 せい といった結果 けっか を招 まね くことになり、エコール・デ・ボザールもパリ、ディジョン 、ブールジュ 、ナンシー 、リヨン と、ロリアン 、レンヌ 、カンペール 、ブレスト というように各地 かくち に分割 ぶんかつ された。この中 なか で最 もっと も有名 ゆうめい なのがパリのエコール・デ・ボザールとして続 つづ いている、ルーヴルからはセーヌの対岸 たいがん にあたるセーヌ左岸 さがん の6区 く に位置 いち しているパリ学校 がっこう で、現在 げんざい の校舎 こうしゃ 、本館 ほんかん は1830年 ねん に、卒業生 そつぎょうせい のフェリックス・デュバン による建築 けんちく 作品 さくひん である。
2009年 ねん 現在 げんざい ではフランス国内 こくない には59の国公立 こっこうりつ の美術 びじゅつ 芸術 げいじゅつ 系 けい の学校 がっこう があり、それらの美術 びじゅつ 学校 がっこう (日本 にっぽん 国内 こくない における芸術 げいじゅつ ・美術 びじゅつ 大学 だいがく )を総称 そうしょう としてボザールと呼 よ ぶ。
建築 けんちく セクションの場合 ばあい 、美術 びじゅつ のアカデミーで実権 じっけん を掌握 しょうあく していたカトルメール・ド・カンシーは、ローマ留学生 りゅうがくせい に対 たい して厳 きび しい制約 せいやく を課 か していて、実測 じっそく はローマ建築 けんちく に限 かぎ らせていた。しかし若手 わかて の建築 けんちく 家 か はより深遠 しんえん なる古代 こだい の歴史 れきし を求 もと めて様々 さまざま の試 こころ みを行 おこな っている。後 ご のポザール建築 けんちく 史 し 教授 きょうじゅ ユイヨーは1817年 ねん からギリシアやアジアにまで足 あし を運 はこ び、数々 かずかず の実測 じっそく 図 ず をき 持 も ち返 がえ り、その後 ご の講義 こうぎ に用 もち いている。この頃 ころ はギリシア建築 けんちく に対 たい する認識 にんしき は一段 いちだん と高 たか まっていたが、そこに新 あら たな論争 ろんそう の種 たね が加 くわ わることになる。古代 こだい ギリシア建築 けんちく が多彩 たさい 色 しょく を用 もち いて派手 はで やかに彩 いろど られていたかいなかったかという問題 もんだい で、ジャック・イニャス・イトルフ のローマから送 おく りつけた実測 じっそく 図 ず はその問題 もんだい を最初 さいしょ に投 な げかけ、古代 こだい 建築 けんちく 彩色 さいしき 論 ろん を登場 とうじょう させた。
フランス建築 けんちく 家 か にとってイタリア に赴 おもむ くということは古典 こてん 古代 こだい の建築 けんちく をじかに観察 かんさつ し直接 ちょくせつ 肌 はだ で感 かん じることができるということにほかならなく、以前 いぜん からローマ留学生 りゅうがくせい 達 たち は古代 こだい の建築 けんちく を丹念 たんねん に実測 じっそく し克明 こくめい に素描 そびょう していた。しかしパエストゥムの発見 はっけん 以降 いこう 、ギリシア 建築 けんちく が現実 げんじつ に建築 けんちく 家 か 達 たち の眼前 がんぜん に晒 さら され、加 くわ えて中近東 ちゅうきんとう のそれや古代 こだい エジプト建築 けんちく もその実像 じつぞう が明 あき らかになってきた。ナポレオン のエジプト遠征 えんせい 軍 ぐん が多数 たすう の考古 こうこ 学者 がくしゃ を引 ひ き連 つ れていったことからも解 ほどけ るとおり、当時 とうじ の人々 ひとびと はそうしたローマ以前 いぜん の古代 こだい 世界 せかい に対 たい して並 な み外 はず れた関心 かんしん を抱 だ いていたのである。実際 じっさい ギリシア やエジプト の建築 けんちく が建築 けんちく 家 か に知 し られるようになってきて従来 じゅうらい 古典 こてん と考 かんが えられてきたローマ建築 けんちく は古典 こてん 期 き の最後 さいご に位置 いち するものと認識 にんしき されるようになったし、古代 こだい 世界 せかい なるものも人々 ひとびと の意識 いしき の中 なか ではるかに奥深 おくふか いものとなり、考古学 こうこがく 的 てき 発掘 はっくつ とあいまって、建築 けんちく 家 か にインスピレーションを汲 く み取 と るべき古代 こだい 建築 けんちく もそのレパートリーを増 ふ やしていた。
建築 けんちく 家 か らが主張 しゅちょう したのはむしろ、同 どう 時代 じだい の作品 さくひん を生 う み出 だ していくにあたってその規準 きじゅん 原理 げんり としての原色 げんしょく 効果 こうか で、古典 こてん 主義 しゅぎ 建築 けんちく 、あるいは世紀 せいき 末 まつ 以降 いこう の新 しん 古典 こてん 主義 しゅぎ の建築 けんちく 家 か が考 かんが えもしなかった様々 さまざま な色彩 しきさい に彩 いろど られた建築 けんちく を生 う み出 だ していくことであり、1830年 ねん 、ジャック・イニャス・イトルフ は碑文 ひぶん アカデミーにて「ギリシア人 じん における多彩 たさい 色 しょく 建築 けんちく に関 かん する論考 ろんこう 」を発表 はっぴょう する。古代 こだい ギリシア人 じん がいかに色彩 しきさい を用 もち いて建築 けんちく を装飾 そうしょく していたかを改 あらた めて世 よ に問 と うたもので、この論考 ろんこう は1851年 ねん になって印刷 いんさつ されるが、彼 かれ が単 たん に古代 こだい 建築 けんちく の復原 ふくげん のみを考 かんが えていたのでなく、その中 なか に新 あたら しい建築 けんちく に用 もちい うべき新 あたら しい原理 げんり をもとめていて、彼 かれ はギリシア建築 けんちく の中 なか に、注目 ちゅうもく すべき形態 けいたい 、たとえば、ポルティコ 、列 れつ 柱 ばしら 、あるいはその平面 へいめん 形式 けいしき といったものを求 もと めていたのではなくむしろ、形態 けいたい ・要素 ようそ は建築 けんちく 家 か の造形 ぞうけい 意欲 いよく に応 おう じて自在 じざい に寄 よ せ集 あつ め、様々 さまざま のモチーフ、色彩 しきさい で建築 けんちく を豊潤 ほうじゅん に装飾 そうしょく していくことが重要 じゅうよう であるとした。
古代 こだい ギリシア建築 けんちく から多 た 彩色 さいしき 効果 こうか を学 まな ぶということは、新 しん 古典 こてん 主義 しゅぎ 的 てき な作風 さくふう を一段 いちだん と躍 おど び越 こ え、19世紀 せいき 前半 ぜんはん の建築 けんちく の新 あたら しい潮流 ちょうりゅう にまで展開 てんかい していく。18世紀 せいき 後半 こうはん から発生 はっせい したグリーク・リバイバルの運動 うんどう から考 かんが えればその最後 さいご の局面 きょくめん といわれ、この多彩 たさい 色 しょく (ポリクロミー)を基調 きちょう とした様式 ようしき 美 び から、ギリシャ やローマ 、中東 ちゅうとう からルネサンス までいろいろな要素 ようそ を混 ま ざり合 あ わせる新 しん 古典 こてん 主義 しゅぎ とはまったく違 ちが った体系 たいけい 、折衷 せっちゅう 様式 ようしき ネオ・グレコは、発足 ほっそく まもないエコール・デ・ボザールの若 わか い建築 けんちく 家 か をことごとく魅了 みりょう したようであるが、19世紀 せいき 末 すえ から20世紀 せいき 初 はじ めにかけて、ヨーロッパでアール・ヌーヴォー などが出現 しゅつげん し、モダン ・デザインへの傾斜 けいしゃ がみられる中 なか で、海 うみ の向 む こうのアメリカ では逆 ぎゃく に建物 たてもの の前面 ぜんめん にオーダー を配 はい し列 れつ 柱 ばしら を並 なら べたデザイン などが流行 りゅうこう していくこれらの古典 こてん 様式 ようしき を施 ほどこ す建築 けんちく がまさにこの建築 けんちく である。建築 けんちく 学 がく でこれをボザール様式 ようしき (アメリカン・ボザール)と呼 よ んでいる。
その背景 はいけい として、MIT の建築 けんちく 学科 がっか でボザール帰 がえ りの建築 けんちく 家 か が教鞭 きょうべん を取 と っていたこと、シカゴ万国博覧会 ばんこくはくらんかい でボザール様式 ようしき が好評 こうひょう だったことなどがある。日本 にっぽん でも大正 たいしょう から昭和 しょうわ 初期 しょき に銀行 ぎんこう 建築 けんちく などに列 れつ 柱 ばしら を並 なら べるデザインが流行 りゅうこう したが、アメリカン・ボザールの影響 えいきょう である(三井 みつい 本館 ほんかん 、明治生命 めいじせいめい 館 かん など)。
ボザール自体 じたい は絵画 かいが 、彫刻 ちょうこく 、建築 けんちく の各 かく 美術 びじゅつ 分野 ぶんや を併 あわ せ持 も った総合 そうごう 美術 びじゅつ 学校 がっこう であるが、そのうち建築 けんちく セクションではほかとはまったく独自 どくじ に別 わか れて、特権 とっけん 的 てき ともいえる独自 どくじ の教育 きょういく 方針 ほうしん を採 と り、その教育 きょういく システムも19世紀 せいき の出発 しゅっぱつ 期 き から1968年 ねん の解体 かいたい にいたるまで、途中 とちゅう 1863年 ねん にナポレオン3世 せい の介入 かいにゅう による大改革 だいかいかく 以外 いがい は、ほとんど変 か わることなく続 つづ けられてくるという、あくまでアカデミーがその教育 きょういく をつかさどるという創立 そうりつ 以来 いらい の方針 ほうしん が堅持 けんじ されてきた。ボザールの基本 きほん はアトリエ制 せい であるが、今日 きょう の大学 だいがく のような講座 こうざ やスタジオ 、研究 けんきゅう 室 しつ などではなく、建築 けんちく であれば建築 けんちく 家 か を招 まね いている学生 がくせい 私塾 しじゅく のようなもので、建築 けんちく 家 か になろうとするものはまずは外国 がいこく 人 じん であってもアトリエに入所 にゅうしょ し、普通 ふつう はその所属 しょぞく するアトリエの建築 けんちく 家 か の推薦 すいせん を得 え てボザールの入学 にゅうがく 志願 しがん 者 しゃ の資格 しかく を得 え ることになる。アトリエのパトロン建築 けんちく 家 か は自身 じしん の建築 けんちく 設計 せっけい 事務所 じむしょ は別 べつ に主宰 しゅさい している。初期 しょき のアトリエパトロンはすべてローマ賞 しょう 受賞 じゅしょう 者 しゃ で占 し められ、建築 けんちく 家 か の特権 とっけん 的 てき 立場 たちば を維持 いじ しながら社会 しゃかい をリードしていく建築 けんちく 形態 けいたい と建築 けんちく を絶 た えず生 う み出 だ していった。
建築 けんちく アカデミーであれば、当時 とうじ はA・L・T・ヴォードワイエやナポレオン の庇護 ひご を得 え たペルシエ+フォンテーヌなどのアトリエがローマ大賞 たいしょう 受賞 じゅしょう 者 しゃ を輩出 はいしゅつ していて人気 にんき が高 たか かった。ペルシエ+フォンテーヌのアトリエからは18人 にん のローマ大賞 たいしょう 受賞 じゅしょう 者 しゃ と17人 にん の次席 じせき を出 だ している。いずれも師匠 ししょう の作風 さくふう を受 う け継 つ ぎつつもより折衷 せっちゅう 的 てき な方向 ほうこう に向 むか っている。彼 かれ らの著作 ちょさく はまたカトルメール・ド・カンシーとは別 べつ の意味 いみ で新 しん 古典 こてん 主義 しゅぎ 的 てき な建築 けんちく 論 ろん を展開 てんかい しているが古典 こてん 主義 しゅぎ における規定 きてい の絶対 ぜったい 性 せい を避 さ け、感性 かんせい にもとづく建築 けんちく 構成 こうせい を主張 しゅちょう するなど、この議論 ぎろん はちょうど17世紀 せいき 末 まつ の建築 けんちく アカデミー創設 そうせつ の際 さい 、フランソワ・ブロンデルとクロード・ペローが繰 く り拡 ひろ げた新旧 しんきゅう 論争 ろんそう にも似 に て建築 けんちく 美 び の基準 きじゅん を何処 どこ に求 もと めるかを追求 ついきゅう したものであったが、彼 かれ らの立場 たちば はそれより少 すこ し前 まえ にヴィジオネールの建築 けんちく 家 か と呼 よ ばれるブレが感性 かんせい を重 おも んじ、古 ふる い意味 いみ での古典 こてん 派 は を斥 しりぞ けたような古代 こだい の建築 けんちく を否定 ひてい するのではなく、古代 こだい の建築 けんちく に顕現 けんげん する一種 いっしゅ の驚 おどろ きにも似 に た美的 びてき 感動 かんどう を新 あたら しい建築 けんちく に実現 じつげん しようとする方向 ほうこう 性 せい をもっていて、その意味 いみ ではきわめてロマン主義 しゅぎ 的 てき な傾向 けいこう にも近 ちか く、ロマン主義 しゅぎ と新 しん 古典 こてん 主義 しゅぎ は裏腹 うらはら の現象 げんしょう であったとみられている。
ボザールで行 おこな われる講義 こうぎ は常 つね に理論 りろん 的 てき な面 めん ばかりで、建築 けんちく アカデミー所属 しょぞく の教授 きょうじゅ たちの中 なか でも、特 とく に建築 けんちく 論 ろん を担当 たんとう するものが最 もっと も権威 けんい であり、かつ学生 がくせい を対象 たいしょう とした課題 かだい 設計 せっけい 競技 きょうぎ のプログラム作成 さくせい の担当 たんとう 責任 せきにん 者 しゃ となっていた。発足 ほっそく 以来 いらい のバルダールやブルーエ、ルシェールなどがその地位 ちい に就 つ いていた。下級 かきゅう を修了 しゅうりょう した学生 がくせい は上級 じょうきゅう に進 すす み、ここでは修業 しゅうぎょう 年限 ねんげん が何 なん 年 ねん という規定 きてい ではなく、入学 にゅうがく から10年間 ねんかん のみの在籍 ざいせき 規定 きてい だけで、学生 がくせい たちは自分 じぶん のペースに合 あ わせて学業 がくぎょう を果 は たし、1867年 ねん までボザールには学科 がっか 制度 せいど は存在 そんざい していなかった。あるのは唯一 ゆいいつ のローマ大賞 たいしょう のみで、しかも年間 ねんかん 1名 めい だけに与 あた えられていた。こうした教育 きょういく システムの中 なか で学生 がくせい たちは適当 てきとう に学校 がっこう を離 はな れて、建築 けんちく 実務 じつむ に就 つ いていたのである。
ニューヨーク近代 きんだい 美術館 びじゅつかん で1975年 ねん から76年 ねん にかけて開催 かいさい されたエコール・デ・ボザールの建築 けんちく 展 てん は、フランスでもめったに公開 こうかい されない図面 ずめん 類 るい までも展示 てんじ され、大変 たいへん な反響 はんきょう を呼 よ んだ。ボザールで建築 けんちく 史 し を講 こう じ、のちに美術 びじゅつ アカデミーの終身 しゅうしん 書記 しょき の役職 やくしょく に就任 しゅうにん したルイ・オートクールはボザールに関 かん する詳 くわ しい記録 きろく を7巻 かん にもおよぶ大著 たいちょ で残 のこ している。
入学 にゅうがく 方法 ほうほう は、所属 しょぞく するアトリエで修行 しゅぎょう をしながら、志願 しがん 者 しゃ は入学 にゅうがく 試験 しけん 準備 じゅんび にとりかかり、めでたく入学 にゅうがく 試験 しけん に合格 ごうかく したものが、ボザール下級 かきゅう の学生 がくせい として登録 とうろく されることになる。学生 がくせい の生活 せいかつ 基盤 きばん は常 つね にアトリエにあって、○○アトリエ所属 しょぞく というかたちで認定 にんてい を受 う けた。アトリエは国 くに や学校 がっこう やアカデミーから費用 ひよう 等 とう が出費 しゅっぴ されているものではなく、学生 がくせい たちがみずから組織 そしき し、上下 じょうげ 関係 かんけい の序列 じょれつ の中 なか に組 く みたてられ、その上 うえ に先生 せんせい を招 まね いているという形式 けいしき で、学生 がくせい の間 あいだ で選出 せんしゅつ された長 ちょう がそのアトリエの管理 かんり 運営 うんえい を行 おこな い、建築 けんちく 家 か に謝礼 しゃれい を支払 しはら っていた。アトリエ主宰 しゅさい 者 しゃ の存在 そんざい は絶対 ぜったい 的 てき 存在 そんざい であり、学生 がくせい 修行 しゅぎょう や教育 きょういく に対 たい して必要 ひつよう な助言 じょげん と指導 しどう を与 あた え、またボザールで講義 こうぎ を行 おこな う教授 きょうじゅ とは区別 くべつ され、アトリエのパトロンと呼 よ ばれる。各 かく アトリエはボザール校舎 こうしゃ 内 ない ではなく町中 まちなか の適当 てきとう な場所 ばしょ 、大体 だいたい はボザールの周辺 しゅうへん に構 かま えて、学生 がくせい たちはそこで修行 しゅぎょう の合間 あいま にボザールに通 かよ って講義 こうぎ を聴 き いていたのである。
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