この項目 こうもく では、フランス国家 こっか が授与 じゅよ した奨学 しょうがく 金 きん 付 づけ 留学 りゅうがく 制度 せいど について説明 せつめい しています。競馬 けいば の競走 きょうそう については「ローマ賞 しょう (競馬 けいば のレース) 」をご覧 らん ください。
ローマ・ボルゲーゼ庭園 ていえん 内 ない のメディチ荘 そう (Villa Medici)。今日 きょう でも奨学生 しょうがくせい が寄宿 きしゅく している。
ローマ賞 しょう (フランス語 ふらんすご :Prix de Rome)は、芸術 げいじゅつ を専攻 せんこう する学生 がくせい に対 たい してフランス 国家 こっか が授与 じゅよ した奨学 しょうがく 金 きん 付 づけ 留学 りゅうがく 制度 せいど である。1663年 ねん 、ルイ14世 せい によって創設 そうせつ され、1968年 ねん 廃止 はいし されるまで継続 けいぞく した。
ルイ14世 せい の治世 ちせい 下 か の1663年 ねん に創設 そうせつ された。創設 そうせつ 当初 とうしょ のローマ賞 しょう では建築 けんちく 、絵画 かいが 、彫刻 ちょうこく 、版画 はんが の各 かく 賞 しょう が設 もう けられ、王立 おうりつ 絵画 かいが 彫刻 ちょうこく アカデミー 、後 のち に芸術 げいじゅつ アカデミー の審査 しんさ により優秀 ゆうしゅう 者 しゃ が選出 せんしゅつ された。このうち第 だい 一等 いっとう 、第 だい 二 に 等 とう 受賞 じゅしょう 者 しゃ が、1666年 ねん に財務 ざいむ 総監 そうかん 、ジャン=バティスト・コルベール と筆頭 ひっとう 宮廷 きゅうてい 画家 がか のシャルル・ルブラン によって設立 せつりつ されたローマの在 ざい ローマ・フランス・アカデミー (Académie de France à Rome) での3年 ねん から5年 ねん の留学 りゅうがく 滞在 たいざい の権利 けんり 、奨学 しょうがく 金 きん が与 あた えられた。留学 りゅうがく 期間 きかん は在 ざい ローマ・フランス・アカデミーの校長 こうちょう が認 みと めれば、延長 えんちょう されることもあった。留学生 りゅうがくせい はローマで、ルネッサンス期 き の巨匠 きょしょう の作品 さくひん などを学 まな んだ。1803年 ねん に在 ざい ローマ・フランス・アカデミーはナポレオン・ボナパルト の命令 めいれい でヴィラ・メディチ に移 うつ された。1803年 ねん の制度 せいど 改革 かいかく により芸術 げいじゅつ アカデミー会員 かいいん の審査 しんさ という形式 けいしき が確立 かくりつ し、また音楽 おんがく 賞 しょう が追加 ついか された。
制度 せいど が確立 かくりつ した19世紀 せいき にあってローマ賞 しょう は各 かく 部門 ぶもん 若手 わかて 芸術 げいじゅつ 家 か の登竜門 とうりゅうもん として機能 きのう した。しかし、終身 しゅうしん 会員 かいいん であるアカデミー会員 かいいん がその出身 しゅっしん 分野 ぶんや を問 と わず全 ぜん 部門 ぶもん 賞 しょう 審査 しんさ の投票 とうひょう 権 けん を持 も つことから、「旧 ふる い世代 せだい 」に属 ぞく する彼 かれ らの審査 しんさ 基準 きじゅん が保守 ほしゅ 的 てき であり、新奇 しんき な芸術 げいじゅつ 傾向 けいこう に対 たい して過度 かど に敵対 てきたい 的 てき であることへの批判 ひはん 、建築 けんちく 、絵画 かいが 、音楽 おんがく など他 た の芸術 げいじゅつ 分野 ぶんや の審査 しんさ を行 おこな えるのだろうかとの疑問 ぎもん 、あるいは審査 しんさ 員 いん は愛弟子 まなでし を優遇 ゆうぐう しているのではないかとの疑惑 ぎわく がたびたび提起 ていき された。
受賞 じゅしょう 者 しゃ 中 ちゅう にはもちろん後世 こうせい 名 めい を成 な した芸術 げいじゅつ 家 か も多 おお いが、必 かなら ずしも大成 たいせい した者 もの ばかりでないこと、一方 いっぽう で絵画 かいが 部門 ぶもん でのドラクロワ 、マネ 、ドガ 、作曲 さっきょく 部門 ぶもん でラヴェル など、ローマ賞 しょう にたびたび挑戦 ちょうせん するも認 みと められなかったが、後 のち に名声 めいせい を得 え た芸術 げいじゅつ 家 か も多 おお いことが、こうした権威 けんい 批判 ひはん を裏付 うらづ けている。
フランスにおける反 はん 権威 けんい 主義 しゅぎ 運動 うんどう の頂点 ちょうてん となった1968年 ねん のいわゆる五月 ごがつ 革命 かくめい 後 ご 、ローマ賞 しょう はアンドレ・マルロー 文化 ぶんか 大臣 だいじん により廃止 はいし されたが、1971年 ねん からは「奨学 しょうがく 金 きん 給付 きゅうふ 生 せい (pensionnaires)の選定 せんてい 」という形 かたち でなかば復活 ふっかつ しており、この奨学 しょうがく 金 きん 給付 きゅうふ 生 せい も「ローマ賞 しょう 受賞 じゅしょう 者 しゃ 」と呼 よ ばれることが多 おお い。現在 げんざい 、給付 きゅうふ 生 せい は18か月 げつ ないし2年間 ねんかん メディチ荘 そう への滞在 たいざい が認 みと められる。ただし現在 げんざい の運営 うんえい 主体 しゅたい は芸術 げいじゅつ アカデミーでなく、フランス文化 ぶんか 省 しょう 管轄 かんかつ 下 か の法人 ほうじん 組織 そしき として財政 ざいせい 上 じょう の独立 どくりつ 性 せい を担保 たんぽ された在 ざい ローマ・フランス・アカデミーである。
この賞 しょう を見本 みほん に「ローマ賞 しょう 」の名前 なまえ で、ベルギーやカナダ、オランダ、スペイン、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく でも、留学 りゅうがく 奨学 しょうがく 金 きん の得点 とくてん のついた美術 びじゅつ 賞 しょう が設 もう けられたことがある。
音楽 おんがく 賞 しょう は1803年 ねん に追加 ついか され、第 だい 一 いち 次 じ および第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん による2度 ど の中断 ちゅうだん (1915年 ねん -1918年 ねん 、1940年 ねん -1941年 ねん )を除 のぞ けば毎年 まいとし 開催 かいさい された。
音楽 おんがく 賞 しょう 応募 おうぼ 者 しゃ は30歳 さい 以下 いか でなければならないとされた。予選 よせん 段階 だんかい (Concours d'Essai)は応募 おうぼ 者 しゃ が楽 らく 理 り を理解 りかい しているかどうかを審査 しんさ する場 ば とされ、対位法 たいいほう 、和声 わせい 法 ほう およびフーガ の課題 かだい が設 もう けられた。本選 ほんせん (Concours Définitif)は応募 おうぼ 者 しゃ が芸術 げいじゅつ としての音楽 おんがく を体得 たいとく しているかを審査 しんさ するとされた。予選 よせん 通過 つうか 者 しゃ には4ないし5週間 しゅうかん が与 あた えられ、パリ音楽 おんがく 院 いん の教授 きょうじゅ 陣 じん によってあらかじめ指定 してい されたテクストに一声 いっせい あるいは多 た 声 こえ の歌唱 かしょう 、およびオーケストラ による曲 きょく [ 1] を付 つ けることが課題 かだい とされた。本選 ほんせん 参加 さんか 者 しゃ の作品 さくひん はまずパリ音楽 おんがく 院 いん 教授 きょうじゅ 陣 じん による予備 よび 審査 しんさ を経 へ た後 のち 、芸術 げいじゅつ アカデミー会員 かいいん の総員 そういん による投票 とうひょう で順位 じゅんい が決定 けってい された。
第 だい 一等 いっとう (Premier Grand Prix)受賞 じゅしょう 者 しゃ は2年間 ねんかん 、第 だい 二 に 等 とう (Second Grand Prix)受賞 じゅしょう 者 しゃ [ 2] はそれより短期間 たんきかん をローマ ・メディチ荘 そう で過 す ごし、毎年 まいとし 1作 さく 以上 いじょう の大作 たいさく の作曲 さっきょく を行 おこな うことが要請 ようせい された。政府 せいふ による経済 けいざい 支援 しえん はこのローマ留学 りゅうがく 期間 きかん より長期 ちょうき (典型 てんけい 的 てき には5年間 ねんかん )にわたったため、その後 ご 、受賞 じゅしょう 者 しゃ はフランス に帰国 きこく あるいはドイツ に遊学 ゆうがく することが可能 かのう であった。受賞 じゅしょう 者 しゃ の他 ほか の特典 とくてん としては、作品 さくひん 発表 はっぴょう 機会 きかい の保障 ほしょう 、各地 かくち への旅行 りょこう 費用 ひよう 補助 ほじょ 、兵役 へいえき 免除 めんじょ 、およびパリ 市内 しない 各 かく 文化 ぶんか 施設 しせつ の無料 むりょう での利用 りよう 権 けん などがあった。
エクトル・ベルリオーズ は数 すう 回 かい の落選 らくせん の後 のち 、1830年 ねん に第 だい 一等 いっとう を受賞 じゅしょう しているが、かれはこの賞 しょう の審査 しんさ システム――とりわけ最終 さいしゅう 審査 しんさ が非 ひ 専門 せんもん 家 か である芸術 げいじゅつ アカデミー会員 かいいん により行 おこな われるという点 てん ――を問題 もんだい にした最初 さいしょ の一人 ひとり であった。最終 さいしゅう 投票 とうひょう を行 おこな う40名 めい 中 ちゅう 、音楽 おんがく 関係 かんけい 者 しゃ はわずか5名 めい だったのである。
モーリス・ラヴェル は1900年 ねん から1905年 ねん にかけて計 けい 5回 かい ローマ賞 しょう に応募 おうぼ したが、最後 さいご まで第 だい 一等 いっとう を受賞 じゅしょう することはできなかった。もっとも俗説 ぞくせつ にいう「彼 かれ はローマ賞 しょう から完全 かんぜん に締 し め出 だ しをくらった」は正確 せいかく ではなく、1901年 ねん に「第 だい 二 に 等 とう 次席 じせき (deuxième Second Grand Prix)」を受賞 じゅしょう (この年 とし の第 だい 3位 い に相当 そうとう )しているのが最高 さいこう 位 い である。それでも、30歳 さい という年齢 ねんれい 制限 せいげん のため最後 さいご の応募 おうぼ となった1905年 ねん にラヴェルが第 だい 一等 いっとう を逸 いっ したとき、それは大 おお きな波紋 はもん をよび、最終 さいしゅう 的 てき にはパリ音楽 おんがく 院 いん 院長 いんちょう テオドール・デュボワ の辞職 じしょく 、ガブリエル・フォーレ の後任 こうにん 就任 しゅうにん と音楽 おんがく 院 いん 大改革 だいかいかく へとつながったのである。
受賞 じゅしょう 者 しゃ の自筆 じひつ による提出 ていしゅつ 楽譜 がくふ はかつてはパリ音楽 おんがく 院 いん に、現在 げんざい ではフランス国立 こくりつ 図書館 としょかん に収蔵 しゅうぞう されている。
音楽 おんがく に関 かん するローマ賞 しょう は1968年 ねん の廃止 はいし 後 ご 、「若手 わかて 作曲 さっきょく 家 か のためのメディチ荘 そう 滞在 たいざい 制度 せいど 」に変更 へんこう され毎年 まいとし 幾 いく 人 にん かの若手 わかて 作曲 さっきょく 家 か を滞在 たいざい させている。この制度 せいど を利用 りよう したジェラール・グリゼー とトリスタン・ミュライユ がジャチント・シェルシ の自宅 じたく へ押 お し寄 よ せたのちに、スペクトル楽 らく 派 は の発端 ほったん になったという。
フランスの建築 けんちく においてローマ大賞 たいしょう の制度 せいど は、旧 きゅう 制度 せいど 下 か の王立 おうりつ 建築 けんちく アカデミー の時代 じだい にすでにある程度 ていど は確立 かくりつ され、1720年 ねん から建築 けんちく 部門 ぶもん の学生 がくせい を毎年 まいとし 1名 めい ずつローマに派遣 はけん する原則 げんそく を出来上 できあ がらせた。ただし当初 とうしょ はアカデミーが審査 しんさ する大賞 たいしょう の順位 じゅんい より、国王 こくおう の下 した に置 お かれた王室 おうしつ 建設 けんせつ 総監 そうかん のほうが決定 けってい 力 りょく を持 も ち、そのためときに実際 じっさい の大賞 たいしょう 受賞 じゅしょう 者 しゃ 以外 いがい の人物 じんぶつ がローマに留学 りゅうがく していたこともあった。
その後 ご 、建築 けんちく アカデミーの権威 けんい が確立 かくりつ し、それとともに、ローマ大賞 たいしょう は一種 いっしゅ の絶対 ぜったい 的 てき 価値 かち を持 も つものと一般 いっぱん に理解 りかい されてくる。
こうした建築 けんちく 学徒 がくと のローマへの留学 りゅうがく 制度 せいど はフランスのほかに、イギリスのソーン 賞 しょう など同様 どうよう の制度 せいど は各国 かっこく で設置 せっち されている。
エコール・デ・ボザール が設立 せつりつ されてからの、1819年 ねん から1968年 ねん まで続 つづ いた旧 きゅう ボザール の時代 じだい でも、毎年 まいとし 1回 かい 催 もよお されるローマ大賞 たいしょう の設計 せっけい 競技 きょうぎ は、最大 さいだい の年間 ねんかん 行事 ぎょうじ ともいえる規模 きぼ と化 か していた。ポザール自体 じたい は当然 とうぜん 美術 びじゅつ アカデミーからは独立 どくりつ した教育 きょういく 機関 きかん の形態 けいたい を保 たも っていたが、ローマ大賞 たいしょう の審査 しんさ だけは、アカデミーが行 おこな っていた。他 た に開催 かいさい される設計 せっけい 競技 きょうぎ は、ポザールの建築 けんちく 論 ろん 教授 きょうじゅ が課題 かだい を決 き め審査 しんさ の決定 けってい 権 けん を持 も っているが、ローマ大賞 たいしょう だけは全 すべ てアカデミーのプログラムに沿 そ ってなされていた。
大賞 たいしょう のための設計 せっけい 競技 きょうぎ は基本 きほん 的 てき に3段階 だんかい に分 わ かれている。 毎年 まいとし 3月 がつ に応募 おうぼ 者 しゃ 全 すべ てに開 ひら かれている最初 さいしょ の競技 きょうぎ は12時間 じかん 以内 いない に仕上 しあ げるエスキス で、まず応募 おうぼ 者 しゃ 達 たち はポザール校舎 こうしゃ 内 ない のアトリエ製図 せいず 棟 とう に入 はい りとりかかる。中 なか で応募 おうぼ 者 しゃ 同士 どうし が相談 そうだん するのは許 ゆる されていたが、中途 ちゅうと での外出 がいしゅつ は認 みと められなかったという。製図 せいず 棟 とう を去 さ る時 とき は、仕上 しあ げたエスキスを守衛 しゅえい に手渡 てわた し、その後 ご 審査 しんさ に回 まわ される。 第 だい 一 いち 次 じ 競技 きょうぎ の主旨 しゅし は、ファサード デザイン を中心 ちゅうしん とした表現 ひょうげん 能力 のうりょく をみることで、全 ぜん 応募 おうぼ 者 しゃ の中 なか からまず30人 にん が選 え り分 わ けられる。
第 だい 二 に 次 じ 設計 せっけい 競技 きょうぎ はこの30人 にん を対象 たいしょう に、第 だい 一 いち 次 じ 競技 きょうぎ から1週間 しゅうかん 以内 いない に行 おこな われ、ここで建物 たてもの 全体 ぜんたい の構成 こうせい 技法 ぎほう と表現 ひょうげん を試 ため され、製図 せいず 棟 とう の中 なか で24時間 じかん 以内 いない にエスキスを仕上 しあ げる。この第 だい 二 に 次 じ 審査 しんさ によってさらに8人 にん の最終 さいしゅう 候補者 こうほしゃ を選 えら び(1864年 ねん からは10人 にん )、その後 ご 本格 ほんかく 的 てき な大賞 たいしょう 設計 せっけい 競技 きょうぎ が始 はじ まるのである。第 だい 二 に 次 じ 審査 しんさ の結果 けっか が発表 はっぴょう された瞬間 しゅんかん から、最終 さいしゅう 競技 きょうぎ が開始 かいし されることになり、提出 ていしゅつ 期限 きげん 7月 がつ までの約 やく 4か月 げつ 最終 さいしゅう 選考 せんこう にこのった先鋭 せんえい たちは最終 さいしゅう 目標 もくひょう に向 む かってひたすら走 はし り続 つづ けるのであるがここでもエスキスの段階 だんかい があり、候補者 こうほしゃ はまず、通常 つうじょう の設計 せっけい 競技 きょうぎ と同様 どうよう 、製図 せいず 棟 とう で作業 さぎょう を行 おこな わねばならない。課題 かだい はその時点 じてん で渡 わた されるので、この12時 じ 間 あいだ が全体 ぜんたい の構想 こうそう を決定 けってい するが、これは最終 さいしゅう 提出 ていしゅつ 図面 ずめん はこのエスキスで示 しめ した構想 こうそう に合致 がっち していなければならないためで、エスキスを作成 さくせい した候補者 こうほしゃ 達 たち はその後 ご の4か月 げつ 、各自 かくじ 所属 しょぞく するアトリエ で必死 ひっし の作業 さぎょう を行 おこな うことになる。ローマ大賞 たいしょう 受賞 じゅしょう 者 しゃ を輩出 はいしゅつ するのはアトリエにとっても名誉 めいよ でもあり、またそのアトリエの格 かく を決定 けってい する最大 さいだい の基準 きじゅん でもあったので、あるアトリエで誰 だれ かが最終 さいしゅう 候補 こうほ まで残 のこ ることがあれば大変 たいへん な騒 さわ ぎであったという。締切 しめき り間際 まぎわ はアトリエのメンバー総 そう がかりで手伝 てつだ うこととなり、大 だい 図面 ずめん が次 つぎ から次 つぎ に描 えが かれていったという。現 げん に幅 はば 7mの立 だて 面 めん 図 ず も残 のこ っていて、コピーなど全 まった くない時代 じだい この作業 さぎょう は桁外 けたはず れた労力 ろうりょく を必要 ひつよう とした。
一度 いちど ローマ大賞 たいしょう を得 え れば、基本 きほん 的 てき には将来 しょうらい 公共 こうきょう 部門 ぶもん の大 だい 建築 けんちく を委託 いたく され、またボザール のアトリエ ・パトロン の道 みち が開 あ け、当然 とうぜん アカデミー会員 かいいん に選 えら ばれる可能 かのう 性 せい もある。そのため、学生 がくせい 達 たち はこの大賞 たいしょう 獲得 かくとく のために執念 しゅうねん を燃 も やした。1826年 ねん に受賞 じゅしょう するレオン・ヴォードワイエ は5年間 ねんかん 、この設計 せっけい 競技 きょうぎ を続 つづ け、トニー・ガルニエ は6年 ねん 、ジャン=ルイ・パスカル は7年 ねん 。エドモン=ジャン・ポーランはじつに8年間 ねんかん も、設計 せっけい 競技 きょうぎ に挑 いど んだといわれる。大賞 たいしょう 受賞 じゅしょう 者 しゃ の年齢 ねんれい もしたがってかなり高 たか く、ほぼ30歳 さい に近 ちか かった。規定 きてい により大賞 たいしょう 応募 おうぼ 資格 しかく は15歳 さい から30歳 さい までとなっており、この年齢 ねんれい を25歳 さい にまで引 ひ き下 さ げた1863年 ねん の大改革 だいかいかく は、学生 がくせい の反対 はんたい を呼 よ んだ。なお逆 ぎゃく に初期 しょき のアンリ・ラブルースト 、ルイ・デュグ達 たち は23歳 さい で大賞 たいしょう に輝 かがや き、ネオ・グレコの運動 うんどう を起 お こし、またシャルル・ガルニエ も23歳 さい で大賞 たいしょう 受賞 じゅしょう で、周囲 しゅうい の人々 ひとびと の期待 きたい を一身 いっしん に受 う けたという。
ローマ大賞 たいしょう を獲得 かくとく すると、ローマ のフランス・アカデミー (Académie de France à Rome、通称 つうしょう :ヴィラ・メディチ ) に派遣 はけん される。王立 おうりつ アカデミー時代 じだい は3年 ねん の留学 りゅうがく 期間 きかん だったが、エコール・デ・ポザール設立 せつりつ とともに5年 ねん に引 ひ き上 あ げられた。1863年 ねん の改革 かいかく では、いったん4年間 ねんかん となったが、のちに5年間 ねんかん となる。フランス・アカデミーは、第 だい 一 いち 次 じ 、第 だい 二 に 次 じ 大戦 たいせん の時期 じき を除 のぞ いて毎年 まいとし 留学生 りゅうがくせい を受 う け入 い れ、ローマ大賞 たいしょう のなくなった今日 きょう でも存続 そんぞく している。近代 きんだい 的 てき な交通 こうつう 機関 きかん の整備 せいび されていなかった19世紀 せいき 半 なか ばまでは、ローマに行 い けるということ自体 じたい 、きわめて価値 かち あることであった。むろん、19世紀 せいき 末 まつ になって、イタリア 旅行 りょこう がいともたやすくできるようになってきても、5年間 ねんかん の日々 ひび を国 くに の費用 ひよう で古典 こてん 建築 けんちく 研究 けんきゅう に費 ついや すことのできる留学生 りゅうがくせい の立場 たちば は代々 だいだい 人々 ひとびと を圧倒的 あっとうてき に凌 しの いでいた。
1846年 ねん 、ギリシア のアテネ にもアカデミーの出先 でさき としてエコール・フランセーヌ・ダテヌ (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) (École française d'Athènes)が創立 そうりつ され、それ以降 いこう 、ローマ からアテネまで足 あし をのばす留学生 りゅうがくせい も増 ふ えて、特 とく にギリシア本土 ほんど の建築 けんちく 、中東 ちゅうとう の建築 けんちく を見 み て回 まわ るにはこのエコール・フランセーズ・ダテヌは良 よ き中継 ちゅうけい 点 てん だったようである。
ローマ留学生 りゅうがくせい は、美術 びじゅつ アカデミー から年間 ねんかん の課題 かだい を課 か せられ、毎年 まいとし 1回 かい パリにそれを送 おく らねばならないことになっている。内容 ないよう としては古典 こてん 建築 けんちく の実測 じっそく 復原 ふくげん 研究 けんきゅう とされていたが、テーマ自体 じたい はみずから選 えら ぶ。留学生 りゅうがくせい からローマから送 おく られた図面 ずめん 類 るい は毎年 まいとし 、ボザールのメルポメーヌの間 あいだ で展示 てんじ 、これも学校 がっこう の一大 いちだい 行事 ぎょうじ であったが、1829年 ねん のアンリ・ラブルースト のようにパエストゥム のギリシア神殿 しんでん の実測 じっそく 研究 けんきゅう を送 おく ったり、あるいは、1909年 ねん のトニー・ガルニエ が古典 こてん 建築 けんちく と関係 かんけい のない「工業 こうぎょう 都市 とし 」の図面 ずめん を送 おく りつけたりした時 とき など、展覧 てんらん 会 かい は大騒 おおさわ ぎとなったと伝 つた えられている。
^ これは通常 つうじょう cantate 、scène lyrique あるいはpoème lyrique と称 しょう された。
^ 第 だい 一等 いっとう 、第 だい 二 に 等 とう が空位 くうい であることも、あるいは同等 どうとう に複数 ふくすう の受賞 じゅしょう 者 しゃ があることもあった。後者 こうしゃ のケースでは第 だい 一等 いっとう 首席 しゅせき (premier Premier Grand Prix)、第 だい 一等 いっとう 次席 じせき (deuxième Premier Grand Prix)などといった区別 くべつ がなされている場合 ばあい も、まったくの同等 どうとう である場合 ばあい もある。またこの他 ほか に栄誉 えいよ 賞 しょう (Mention honorable)が特 とく に授与 じゅよ されることもあった。
エミール・ジルベール - 1820年 ねん 、次席 じせき を受賞 じゅしょう したフランスの建築 けんちく 家 か 。
[1] :音楽 おんがく 賞 しょう に関 かん しての詳細 しょうさい 、歴代 れきだい 受賞 じゅしょう 者 しゃ など(フランス語 ふらんすご )