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シャルル・ボードレール

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ボードレールから転送てんそう
シャルル・ボードレール
Charles Pierre Baudelaire
1863ねんナダール撮影さつえい
誕生たんじょう (1821-04-09) 1821ねん4がつ9にち
フランス王国おうこく パリ
死没しぼつ (1867-08-31) 1867ねん8がつ31にち(46さいぼつ
フランスの旗 フランス帝国ていこく パリ
職業しょくぎょう 詩人しじん美術びじゅつ評論ひょうろん
国籍こくせき フランスの旗 フランス
活動かつどう期間きかん 1844 – 1866ねん
文学ぶんがく活動かつどう 象徴しょうちょう主義しゅぎ, モダニズム
代表だいひょうさくあくはな』(1857ねん
パリの憂鬱ゆううつ』(1869ねん
署名しょめい
ウィキポータル 文学ぶんがく
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シャルル=ピエール・ボードレールフランス語ふらんすご: Charles-Pierre Baudelaire発音はつおんれい)、1821ねん4がつ9にち - 1867ねん8がつ31にち[1])は、フランス詩人しじん評論ひょうろんである。

フランス近代詩きんだいし象徴しょうちょう主義しゅぎ創始そうししゃ。6さいちち死別しべつ翌年よくねん母親ははおや再婚さいこんしたのをなやみ、文学ぶんがくこころざした。詩集ししゅうあくはな』は出版しゅっぱん直後ちょくご風俗ふうぞく壊乱かいらん起訴きそされた。一方いっぽう芸術げいじゅつたちは、その独創どくそうせい芸術げいじゅつてき完成かんせいを「あたらしい戦慄せんりつ創造そうぞう」ととなえた。に『パリの憂鬱ゆううつ』などがある。

生涯しょうがい

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自画像じがぞう

1821ねん4がつ9にち、ジョゼフ・フランソワ・ボードレールの息子むすことしてパリまれる。ちちジョゼフはパリ大学だいがく哲学てつがく神学しんがくまなんだ司祭しさいであったが、のちしょくし、芸術げいじゅつまじわるなど、芸術げいじゅつふか関心かんしんっていた。だいいち帝政ていせいした上院じょういん議長ぎちょうつとめた人物じんぶつでもあった。晩婚ばんこんのジョゼフはボードレールが6さいのときにくなり、その1ねんはんははカロリーヌは、将来しょうらい有望ゆうぼう軍人ぐんじんオーピックと再婚さいこんする。ボードレールははは再婚さいこんふかきずつき、生涯しょうがいエディプス・コンプレックスたる鬱屈うっくつとした感情かんじょうかかえることになる。

ボードレールはリセ中等ちゅうとう教育きょういく機関きかん)まで、養父やぶオーピックののぞみにかな優等生ゆうとうせいとして努力どりょくしていた。実際じっさいかれとおったリセ・ルイ=ル=グランは、高等こうとう師範しはん学校がっこう合格ごうかくしゃおお排出はいしゅつするエリートこうであった。同校どうこうではけっして劣等れっとうせいではなく、しばしば成績せいせき上位じょういしゃにもはいったことがクロード・ピショワらの評伝ひょうでんによって確認かくにんされているが、リセ哲学てつがくきゅう最終さいしゅう学年がくねん教員きょういん問題もんだいこし、中退ちゅうたいした。そのべつのリセでリセ卒業そつぎょう認定にんていけ、パリ大学だいがく法学部ほうがくぶ入学にゅうがくするが、法律ほうりつ勉強べんきょうした気配けはいはなく、文学ぶんがくしゃになるとしょうし、上昇じょうしょう志向しこうつよ中流ちゅうりゅう階級かいきゅう家族かぞく失望しつぼうさせる。なお、ボードレールは国立こくりつ古文書こもんじょ学校がっこう試験しけん失敗しっぱいしている。

ボードレールは20さいになると亡父ぼうふ遺産いさんぎ、中流ちゅうりゅう家庭かていにとって身分みぶん不相応ふそうおう散財さんざいおこなう。財産ざいさん使つかたすことをおそれた親族しんぞくらによって、1841ねん6がつ、ボードレールはなか強制きょうせいてき遠洋えんよう航海こうかいされる。アフリカ南端なんたんもちほう経由けいゆし、インド洋いんどようからアジアにかうというものであったが、嫌気いやけがさしたボードレールは途中とちゅう下船げせんし、たびなかばでもどってくる。以後いご晩年ばんねんのベルギー旅行りょこうをのぞけば、かれ海外かいがいあしばすことはなかった。これはゴーティエネルヴァルといった当時とうじ文学ぶんがくしゃらのおおくが旅行りょこうであったことをかんがえるとおどろくべきことである。

ボードレールの詩作しさくは、20だい大半たいはんかれたとわれる。しかし、かれ最初さいしょ文壇ぶんだん登場とうじょうしたのは、1845ねんかんてん(サロン)の美術びじゅつ批評ひひょうとしてである。『1845ねんのサロン』から『1846ねんのサロン』にかけて、かれは、ロマン主義しゅぎ画家がかドラクロワを、しん古典こてんからの攻撃こうげきたいして擁護ようごする。もっとも「擁護ようご」という表現ひょうげんかならずしも事実じじつではない。厳密げんみつえば、その当時とうじすでにロマンしん古典こてん対立たいりつ下火したびになっていたのであり、ドラクロワはアングルなら巨匠きょしょうなされていた。近年きんねん研究けんきゅうしゃらはボードレールがドラクロワに庇護ひごしてもらうことを期待きたいしたのではないかとみている。以後いご美術びじゅつ評論ひょうろんは『1855ねん万国博覧会ばんこくはくらんかい』『1859ねんのサロン』とつづくが、最大さいだい功績こうせきはコンスタンタン・ギースをろんじた『現代げんだい生活せいかつ画家がか』において「モデルニテ」の概念がいねん提唱ていしょうしたことである。ボードレール以前いぜんにも詩人しじん美術びじゅつ評論ひょうろんくということはあいだ々あったが、かれ美術びじゅつ評論ひょうろん後年こうねん詩人しじんらに影響えいきょうあたえ「詩人しじんによる美術びじゅつ批評ひひょう」はラフォルグアポリネールへの系譜けいふれんるとみなされる。またエドガー・アラン・ポー翻訳ほんやく、フランスに紹介しょうかいした。

ダンディとしてられ、亡父ぼうふ遺産いさんをもとに散財さんざいかぎりをくし、じゅん禁治産者きんちさんしゃあつかいをけ、ぬまで貧窮ひんきゅうくるしむこととなる。

ルイ・オーギュスト・ブランキ中央ちゅうおう共和きょうわ協会きょうかい入会にゅうかいし、がつ革命かくめいにはあかいネクタイをいて参加さんかレアリスト画家がかクールベらと友好ゆうこうむすび、プルードンう。

生前せいぜん発表はっぴょうした唯一ゆいいつ詩集ししゅうあくはな』が摘発てきはつされ、そのうちの6へん公序良俗こうじょりょうぞくはんするとして罰金ばっきんけいける。のちだい2はん増補ぞうほばんとして出版しゅっぱんし、詩人しじんとしての地位ちい確立かくりつした。その卑猥ひわいてき耽美たんびてき背教はいきょうてき内容ないようは、世代せだい絶大ぜつだい影響えいきょうあたえることとなる。とく現実げんじつ理想りそうみぞからしょうじる、作品さくひんあふれる絶望ぜつぼうかん倦怠けんたいは、一種いっしゅ退廃たいはいてき時代じだいやまい表徴ひょうちょうしている。

韻文いんぶん詩集ししゅう発表はっぴょうかれ散文詩さんぶんしばれるジャンルにあらたな詩的してき可能かのうせい目指めざし、執筆しっぴつつづける。生前せいぜん作品さくひんしゅうとしてはなかったものの、のちに『パリの憂鬱ゆううつ』(『しょう散文詩さんぶんし』)として出版しゅっぱんされた。いまなおおおくの示唆しさにあふれる内容ないようとなっている。

評価ひょうか

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ボードレールはという文学ぶんがく空間くうかん可能かのうせいもっとはや時期じき提示ていじした詩人しじんであり、かれのちつづランボーヴェルレーヌ、そしてマラルメらに決定的けっていてき影響えいきょうあたえたことから「近代詩きんだいしちち」としょうされる。また、批評ひひょう活動かつどうでもすぐれた功績こうせきのこしている。とくに『現代げんだい生活せいかつ画家がかフランス語ふらんすごばん』(Le Peintre de la vie moderne)のなか展開てんかいされるモデルニテフランス語ふらんすごばん(modernité 近代きんだいせい現代げんだいせい)の理論りろんは19世紀せいきフランスのキータームであり、かれ以降いこう詩人しじんたちは、それぞれのモデルニテをさぐることとなる。

年譜ねんぷ

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1848ねん肖像しょうぞう(ギュスターヴ・クールベ)
肖像しょうぞう(エミール・デロイ)
  • 1821ねん4がつ9にちパリまれる。ちちは、ジョセフ・フランソワ・ボードレール(Joseph François Baudelaire)(1759-1827)、ははは、カロリーヌ・アルシャンボー=デュフェー(Caroline Archimbaut-Dufays)(1793-1871)。父方ちちかた富裕ふゆう農家のうか。このとしナポレオン・ボナパルト死亡しぼう
  • 1827ねん(6さい)、ちちフランソワ死亡しぼう
  • 1828ねん(7さい)、はは陸軍りくぐん軍人ぐんじん再婚さいこん。シャルルはこの義父ぎふきらう。3にんもなくリヨンうつみ、シャルルはドローム私塾しじゅく(Pension Delorme)からロワイヤル中学ちゅうがく(Collège Royal)にすすむ。
  • 1836ねん(15さい)、一家いっかはパリにもどり、シャルルはリセ・ルイ=ル=グラン転校てんこうする。
  • 1839ねん(18さい)、リセ・ルイ=ル=グランから放校ほうこうされる。大学だいがく入学にゅうがく資格しかく試験しけん(baccalauréat)に合格ごうかくする。
  • 1839ねん-1841ねんパンテオンちかくのバイイ私塾しじゅく(Pension Bailly)にれられる。オクターヴ・フイエネルヴァルシャルル=マリ=ルネ・ルコント・ド・リールらをる。文芸ぶんげい新聞しんぶん寄稿きこうする。バルザックもんをたたく。
  • 1841ねん4月(20さい)、シャルルの行状ぎょうじょうあんじた義父ぎふにより、インドきのふねせられる。
  • 1842ねん2月(21さい)、モーリシャスとうからパリにもどる。乗船じょうせんちゅう詩作しさくする(のち「あくはな」に収録しゅうろく)。4月、成年せいねんたっし、亡父ぼうふ遺産いさん分与ぶんよされ、転居てんきょかえしたのち、サン・ルイとうのオテル・ピモダン(Hôtel Pimodan)にく。以後いご年間ねんかんに、のちに『あくはな』へ収録しゅうろくされる詩編しへん大半たいはんつづる。ヴィクトル・ユーゴーサント・ブーヴテオフィル・ゴーティエる。黒人こくじん混血こんけつおんなジャンヌ・デュヴァル(Jeanne Duval)と関係かんけいつ。
  • 1844ねん(23さい)、禁治産者きんちさんしゃとして弁護士べんごし監視かんしかれ、売文ばいぶん必要ひつようせまられる。
  • 1845ねん(24さい)、このころ自殺じさつ未遂みすいこす。美術びじゅつ批評ひひょう文芸ぶんげい批評ひひょうふでる。
  • 1846ねん(25さい)、批評ひひょうとしてたかめる。このころからエドガー・アラン・ポーむ。
  • 1847ねん(26さい)、シャルル・ドゥファイスの筆名ひつめいで『ラ・ファンファルロ』を発表はっぴょう
  • 1848ねん(27さい)、政治せいじねつにかられる。ポーの翻訳ほんやくつづける。このとしがつ革命かくめいこり、ナポレオン・ボナパルトのおいシャルル・ルイ=ナポレオン大統領だいとうりょうになる。
  • 1851ねん(30さい)、政治せいじねつめる。
  • 1852ねん(31さい)、年末ねんまつ以降いこう、サバティエ夫人ふじん(Madame Sabatier)の文学ぶんがくサロンに出入でいりし、彼女かのじょすうへんささげる。このとし、シャルル・ルイ=ナポレオンがナポレオン3せいとして皇帝こうてい即位そくいする。
  • 1853ねん(32さい)、「玩具おもちゃのモラル(Morale du joujou)」、「わらいの本質ほんしつについて(De l'essence du rire)」をく。後者こうしゃ論考ろんこうは、昨今さっこんわらについての哲学てつがくにおいて使つかわれる「有意義ゆういぎてき滑稽こっけい」と「絶対ぜったいてき滑稽こっけい」という言葉ことば提唱ていしょうしたものである。
  • 1855ねん(34さい)、ドラクロワ賛美さんび美術びじゅつ評論ひょうろんき、また、詩篇しへんじゅうはち発表はっぴょうして、はじめて詩人しじんみとめられる。
  • 1857ねん(36さい)、詩集ししゅうあくはな』を出版しゅっぱんする。これはゴーティエにささげられている。治安ちあん裁判さいばんろくへん削除さくじょされ、罰金ばっきんされる。散文詩さんぶんしろくへん発表はっぴょうし、サント・ブーヴに激賞げきしょうされる。義父ぎふぼっし、ははカロリーヌと関係かんけい修復しゅうふく
  • 1858ねん(37さい)、『人工じんこう楽園らくえん』(Les paradis artificielsだい一部いちぶ公表こうひょうする。
  • 1859ねん(38さい)、評論ひょうろん活動かつどうつづける。
墓碑ぼひ 義父ぎふ、シャルル、ははカロリーヌのじゅんに、なまぼつ年月日ねんがっぴきざんでいる。
  • 1861ねん(40さい)、35へん追加ついかした『あくはなだいはん出版しゅっぱんする。アカデミー・フランセーズ会員かいいんになろうとしてあきらめ、世評せひょうそこねる。
  • 1863ねん(42さい)、梅毒ばいどくによるからだ不調ふちょうなやはじめる。
  • 1864ねん(43さい)、負債ふさいわれて4がつまつにパリからブリュッセルのがれる。時折ときおりははカロリーヌや後見人こうけんにんおとずれ、かね無心むしんする。
  • 1865ねん(44さい)、ブリュッセルから痛烈つうれつ論陣ろんじんる。なつ帰国きこくしてはは見舞みまい、旧友きゅうゆうとうと款語する。散文詩さんぶんししゅう『パリの憂鬱ゆううつ』(Petits poèmes en prose, Spleen de Paris)をすすめるが、病勢びょうせいすすむ。
  • 1866ねん(45さい)、3月、ブリュッセル南東なんとうのナミュール(Namur)にあそんでたおれる。脳神経のうしんけい変調へんちょうあらわれ、言葉ことばうしない、ブリュッセルの病院びょういん収容しゅうようされる。7がつはつははカロリーヌにわれてパリに転院てんいんする。
  • 1867ねん(46さい)、8がつ31にち病没びょうぼつ9月2にち葬儀そうぎモンパルナス墓地ぼちほうむられる。
  • 1869ねん散文詩さんぶんししゅう『パリの憂鬱ゆううつ』が出版しゅっぱんされる。

おも作品さくひん

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散文さんぶん

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  • あくはな"Les Fleurs du mal"
    • 初版しょはん1857ねん):101へん収録しゅうろく。うち6へん禁断きんだん詩篇しへん)が風紀ふうき紊乱びんらんとがめ有罪ゆうざい判決はんけつけ、削除さくじょめいぜられる。
    • だいはん1861ねん):禁断きんだん詩篇しへん6へんのぞき、わりに35へん増補ぞうほしたほかに配列はいれつ変更へんこうし、ぜん127へん収録しゅうろく現在げんざいおもにこのだいはんを『あくはな』の底本ていほんとしてあつかう。
    • だいさんはん1869ねん):死後しご刊行かんこうされた決定けっていばん全集ぜんしゅうだいいちかんだいはん以降いこう発表はっぴょうされた詩篇しへん(『漂着ひょうちゃくぶつ』とだいして1866ねん刊行かんこう)をふくめ152へん収録しゅうろく
  • パリの憂鬱ゆううつ"Le Spleen de Paris"1869ねん副題ふくだいに『しょう散文詩さんぶんし』):決定けっていばん全集ぜんしゅうだいよんかんに、生前せいぜん単行本たんこうぼんされなかった散文詩さんぶんし50へん収録しゅうろく
  • 人工じんこう楽園らくえん"Les Paradis artificiels":アヘン体験たいけんしるした散文さんぶん作品さくひん
    • 「ハシッシュの"Le Poème du haschisch"1858ねん
    • 阿片あへん吸引きゅういんしゃ"Un Mangeur d'opium"1860ねん
    • さけとハシッシュの比較ひかく"Du vin et du haschisch"1851ねん):単行本たんこうぼん上記じょうき2へん収録しゅうろくしたものだが、決定けっていばん全集ぜんしゅうにおいて追加ついかされた。
  • 『ラ・ファンファルロ』"La Fanfarlo"1847ねん):ボードレール唯一ゆいいつ小説しょうせつ
  • 火箭かせん』、『赤裸あかはだかしん』:生前せいぜん発表はっぴょうのアフォリズムしゅう

美術びじゅつ批評ひひょう音楽おんがく批評ひひょう

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  • 「1845ねんのサロン」
  • 「1846ねんのサロン」
  • わらいの本質ほんしつについて」
  • 「1855ねん万国博覧会ばんこくはくらんかい美術びじゅつ
  • 「1859ねんのサロン現代げんだい生活せいかつ画家がか
  • ウージェーヌ・ドラクロア作品さくひん生涯しょうがい
  • リヒャルト・ヴァーグナーと『タンホイザー』のパリ公演こうえん

文芸ぶんげい批評ひひょう

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おも日本語にほんごやく

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作家さっかろん評伝ひょうでん

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  • テオフィル・ゴーティエ『ボードレール』(井村いむらみのる名子なごわけ国書刊行会こくしょかんこうかい、2011ねん)-「あくはな序文じょぶん[2]新訳しんやくばん
  • ヴァルター・ベンヤミン『パリろん/ボードレールろん集成しゅうせい』(浅井あさい健二郎けんじろうへん久保くぼ哲司てつし土合どあい文夫ふみおやく、ちくま学芸がくげい文庫ぶんこ、2015ねん
    • 『パサージュろん2 ボードレールのパリ』[3]今村いまむら仁司ひとしほかやく新版しんぱん岩波いわなみ文庫ぶんこ、2021ねん解説かいせつよこちょうまこと[4])- 断章だんしょうでの作家さっかろん
  • 阿部あべ良雄よしお『シャルル・ボードレール 現代げんだいせい成立せいりつ』(河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ、1995ねん
    • 群衆ぐんしゅうなか芸術げいじゅつ ボードレールとじゅうきゅう世紀せいきフランス絵画かいが中公ちゅうこう文庫ぶんこ新版しんぱん・ちくま学芸がくげい文庫ぶんこ
  • 小倉おぐらかんひろし 『ボードレールの自己じこ演出えんしゅつ 『あくはな』におけるおんな彫刻ちょうこく自意識じいしき』(みすず書房しょぼう、2019ねん
  • かわもりこうぞう 『パリの憂愁ゆうしゅう ボードレールとその時代じだい』(河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ新版しんぱん1991ねん)- かく評伝ひょうでん大著たいちょ
  • アンリ・トロワイヤ 『ボードレールでん』(沓掛くつかけ良彦よしひこ中島なかじま淑恵よしえやく水声すいせいしゃ、2003ねん
  • クロード・ピショワ/ジャン・ジーグレール 『シャルル・ボードレール』(渡辺わたなべ邦彦くにひこやく作品社さくひんしゃ、2003ねん

関連かんれん人物じんぶつ

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参考さんこう文献ぶんけん

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  • 集英社しゅうえいしゃ世界せかい文学ぶんがくだい事典じてん』、「ボードレール」の項目こうもく集英社しゅうえいしゃ、2002ねん

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ Charles Baudelaire French author Encyclopædia Britannica
  2. ^ 没後ぼつごかんだいさんはん序文じょぶんで、ボードレールろん古典こてん
  3. ^ 「ボードレール」が最大さいだい断章だんしょう項目こうもく、ボードレールろん作品さくひんのドイツ訳者やくしゃでもある)はおお日本語にほんごやくがある
  4. ^ へんやく『ボードレール語録ごろく』(岩波いわなみ現代げんだい文庫ぶんこ、2013ねん)がある

外部がいぶリンク

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