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小林秀雄 (批評家) - Wikipedia コンテンツにスキップ

小林こばやし秀雄ひでお (批評ひひょう)

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小林こばやしこばやし 秀雄ひでおひでお
1951ねん小林こばやし秀雄ひでお
誕生たんじょう 1902ねん明治めいじ35ねん4がつ11にち
大日本帝国の旗 大日本帝国だいにっぽんていこく東京とうきょう東京とうきょう神田かんだ猿楽さるがくまち
現在げんざい東京とうきょう千代田ちよだ神田かんだ猿楽さるがくまち
死没しぼつ (1983-03-01) 1983ねん3月1にち(80さいぼつ
日本の旗 日本にっぽん東京とうきょう新宿しんじゅく信濃しなのまち慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく病院びょういん
墓地ぼち 東慶寺とうけいじ
職業しょくぎょう 文芸ぶんげい評論ひょうろん
言語げんご 日本語にほんご
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
教育きょういく 文学ぶんがく東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく
最終さいしゅう学歴がくれき 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく文学部ぶんがくぶ仏文ふつぶん卒業そつぎょう
活動かつどう期間きかん 1929ねん - 1983ねん
ジャンル 文芸ぶんげい評論ひょうろん
代表だいひょうさく様々さまざまなる意匠いしょう』(1929ねん
私小説ししょうせつろん』(1935ねん
ドストエフスキイの生活せいかつ
(1935ねん - 1937ねん
無常むじょうといふこと』(1946ねん
モオツァルト』(1946ねん
かんがえるヒント』(1974ねん
ほんきょ宣長のりなが』(1965ねん - 1976ねん
おも受賞じゅしょうれき 日本にっぽん芸術げいじゅついんしょう1951ねん
読売よみうり文学ぶんがくしょう1953ねん
野間のま文芸ぶんげいしょう1958ねん
文化ぶんか功労こうろうしゃ1963ねん
文化ぶんか勲章くんしょう1967ねん
日本にっぽん文学ぶんがく大賞たいしょう1978ねん
デビューさく様々さまざまなる意匠いしょう』(1929ねん
配偶はいぐうしゃ 小林こばやし喜代美きよみ
子供こども 白洲しらす明子あきこ
ウィキポータル 文学ぶんがく
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小林こばやし 秀雄ひでお(こばやし ひでお、1902ねん明治めいじ35ねん4がつ11にち[注釈ちゅうしゃく 1] - 1983ねん昭和しょうわ58ねん3月1にち)は、日本にっぽん文芸ぶんげい評論ひょうろん編集へんしゅうしゃ作家さっか美術びじゅつ美術びじゅつ収集しゅうしゅう鑑定かんてい日本にっぽん芸術げいじゅついん会員かいいん文化ぶんか功労こうろうしゃ文化ぶんか勲章くんしょう受章じゅしょうしゃ

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

日本にっぽん文芸ぶんげい評論ひょうろん確立かくりつしゃであり、晩年ばんねん保守ほしゅ文化ぶんかじん代表だいひょうしゃであった。[よう出典しゅってん]アルチュール・ランボーシャルル・ボードレールなどフランス象徴しょうちょう詩人しじんたち、ドストエフスキー幸田こうだ露伴ろはんいずみ鏡花きょうか志賀しが直哉なおやらの作品さくひんベルクソンアラン哲学てつがく思想しそう影響えいきょうける。ほんきょ宣長のりなが著作ちょさくなど近代きんだい以前いぜん日本にっぽん文学ぶんがくなどにも造詣ぞうけい鑑識かんしきっていた。[よう出典しゅってん]

いもうと高見沢たかみざわ潤子じゅんこ[注釈ちゅうしゃく 2]は、作家さっか随筆ずいひつおっとは『のらくろ』でられる漫画まんがかわ水泡すいほう

長女ちょうじょ明子あきこおっとは、白洲しらす次郎じろう正子まさこ次男じなんけんせい従弟じゅうてい英文えいぶん学者がくしゃ西村にしむら孝次たかじ西洋せいよう学者がくしゃ西村にしむら貞二ていじ文藝ぶんげい評論ひょうろん平野ひらのけんまた従弟じゅうてい[注釈ちゅうしゃく 3]

経歴けいれき[編集へんしゅう]

1902ねん明治めいじ35ねん)4がつ11にち東京とうきょう神田かんだ現在げんざい東京とうきょう千代田ちよだ猿楽さるがくまち小林こばやし豊造とよぞう精子せいし長男ちょうなんとしてまれた。本籍ほんせき兵庫ひょうごけん出石いずしぐん出石いずしまち鉄砲てっぽうまちちち豊造とよぞう[注釈ちゅうしゃく 4]ベルギーアントワープダイヤモンド加工かこう研磨けんま技術ぎじゅつまなび、日本にっぽんにその技術ぎじゅつ機械きかいとをかえり、「洋風ようふう装身具そうしんぐ製作せいさく」の先駆せんくしゃとなった[1]。また日本にっぽん最初さいしょ蓄音機ちくおんきようのルビーはりつくるなど、数々かずかず技術ぎじゅつ開発かいはつしている。1915ねん大正たいしょう4ねん)3がつ白金はっきん尋常じんじょう小学校しょうがっこう卒業そつぎょう同年どうねん4がつ東京とうきょう府立ふりつだいいち中学校ちゅうがっこう入学にゅうがく同期どうき迫水さこみず久常ひさつね西にし竹一たけいちら、いちじょうには富永とみなが太郎たろう蔵原くらはらおもんみじん河上かわかみ徹太郎てつたろう神戸こうべいちちゅうから編入へんにゅう)らが在学ざいがくしていた。1920ねん大正たいしょう9ねん)3がつ府立ふりついちちゅう卒業そつぎょう第一高等学校だいちこうとうがっこう受験じゅけん合格ごうかく1921ねん大正たいしょう10ねん)3がつちち豊造とよぞうぼつ同年どうねん4がつ第一高等学校だいちこうとうがっこう文科ぶんかへいるい入学にゅうがく

1925ねん大正たいしょう14ねん)4がつ東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく文学部ぶんがくぶ仏蘭西ふらんす文学ぶんがく入学にゅうがく同級生どうきゅうせいいま日出海ひでみ中島なかじま健蔵けんぞう三好みよし達治たつじらがいた。同月どうげつ富永とみなが太郎たろうつうじて中原なかはら中也ちゅうやを識る。同年どうねん11がつ長谷川はせがわ泰子やすこ同棲どうせい1928ねん昭和しょうわ3ねん)2がつ富永とみながおとうと次郎じろうつうじて大岡おおおか昇平しょうへいを識る[注釈ちゅうしゃく 5]同年どうねん3がつ東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく卒業そつぎょう同年どうねん5がつ単身たんしん大阪おおさかく。のち奈良ならみ、志賀しが直哉なおやいえ出入でいりする。長谷川はせがわ泰子やすことの同棲どうせい関係かんけい解消かいしょう1929ねん昭和しょうわ4ねん)9がつ、『様々さまざまなる意匠いしょう』が『改造かいぞう懸賞けんしょう評論ひょうろんだいとう入選にゅうせんさくとして発表はっぴょうされた。なお一等いっとう宮本みやもと顕治けんじ『「敗北はいぼく」の文学ぶんがく』であった[注釈ちゅうしゃく 6]1930ねん昭和しょうわ5ねん)4がつ、『アシルとかめ』を『文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう』に発表はっぴょう以後いご翌年よくねん3がつまで文芸ぶんげい時評じひょう連載れんさい批評ひひょうとしての地位ちい確立かくりつした。1932ねん昭和しょうわ7ねん)4がつ明治大学めいじだいがく文芸ぶんげい創設そうせつされ、講師こうし就任しゅうにんし、日本にっぽん文化ぶんか、ドストエフスキー作品さくひんろんなどをこうじた。

1933ねん昭和しょうわ8ねん)10がつ文化ぶんか公論こうろんしゃより宇野うの浩二こうじ武田たけだ麟太郎りんたろうはやし房雄ふさお川端かわばた康成やすなりらと『文學ぶんがくかい』を創刊そうかん1935ねん昭和しょうわ10ねん)1がつ、『文學ぶんがくかい』の編輯へんしゅう責任せきにんしゃとなり、『ドストエフスキイの生活せいかつ』を連載れんさいはじめる。

1938ねん昭和しょうわ13ねん)3がつ、「文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう特派とくはいんとして中国ちゅうごく大陸たいりくわたり、上海しゃんはいて27にち杭州こうしゅう火野ひの葦平あしへいだいろくかい芥川賞あくたがわしょうわたす。小林こばやし秀雄ひでおは6がつ明治大学めいじだいがく文芸ぶんげい教授きょうじゅ昇格しょうかくした[3]

1940ねん昭和しょうわ15ねん)4がつ、『文學ぶんがくかい』の編輯へんしゅう委員いいん辞任じにんする。

1946ねん昭和しょうわ21ねん)2がつ、 「近代きんだい文学ぶんがく」で座談ざだんかい「コメディ・リテレール-小林こばやし秀雄ひでおかこんで」[注釈ちゅうしゃく 7]同月どうげつ無常むじょうといふこと』をそうもとしゃより刊行かんこう同年どうねん5がつはは精子せいしぼつ同年どうねん8がつ明治大学めいじだいがく教授きょうじゅ辞任じにん同年どうねん12がつ青山あおやま二郎じろう石原いしはら龍一りゅういちと『そうもと』を編集へんしゅう、「だいいち輯 梅原うめはら龍三郎りゅうさぶろう特集とくしゅう」で『モオツアルト』を、「だい輯 幸田こうだ露伴ろはん特集とくしゅう」で『「つみばち」について』を発表はっぴょう1948ねん昭和しょうわ23ねん)4がつ - つくもとしゃ取締役とりしまりやく就任しゅうにん1951ねん昭和しょうわ26ねん)3がつだいいち小林こばやし秀雄ひでお全集ぜんしゅう』により日本にっぽん芸術げいじゅついんしょう受賞じゅしょう[4]1953ねん昭和しょうわ28ねん)1がつ、『ゴッホ手紙てがみ』により読売よみうり文学ぶんがくしょう受賞じゅしょう1958ねん昭和しょうわ33ねん)12月、『近代きんだい絵画かいが』により野間のま文芸ぶんげいしょう受賞じゅしょう1959ねん昭和しょうわ34ねん)12月、日本にっぽん芸術げいじゅついん会員かいいんとなる。1961ねん昭和しょうわ36ねん)10がつはじめもとしゃ取締役とりしまりやく辞任じにん1963ねん昭和しょうわ38ねん)11月、文化ぶんか功労こうろうしゃ顕彰けんしょう1965ねん昭和しょうわ40ねん)6がつ、『ほんきょ宣長のりなが』を「新潮しんちょう」に連載れんさい開始かいし1976ねん昭和しょうわ51ねん)まで)。1967ねん昭和しょうわ42ねん)11月、文化ぶんか勲章くんしょう受章じゅしょう1978ねん昭和しょうわ53ねん)6がつ、『ほんきょ宣長のりなが』により日本にっぽん文学ぶんがく大賞たいしょう受賞じゅしょう

1982ねん昭和しょうわ57ねん)3がつ尿道にょうどうつう血尿けつにょうのため川崎かわさき市立しりつ川崎かわさき病院びょういん入院にゅういん膀胱ぼうこう腫瘍しゅよう診断しんだんされる。7月、慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく病院びょういん膀胱ぼうこうぜん摘出てきしゅつ手術しゅじゅつける。9月まつ退院たいいん自宅じたく静養せいよう。1983ねん昭和しょうわ58ねん)1がつ腎不全じんふぜんこしたとられる。慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく病院びょういんさい入院にゅういんしたが2がつまつ容体ようだい悪化あっかし、1983ねん昭和しょうわ58ねん)3がつ1にち午前ごぜん140ふん腎不全じんふぜんによる尿毒症にょうどくしょう呼吸こきゅう循環じゅんかん不全ふぜんのため慶応義塾大学けいおうぎじゅくだいがく病院びょういん死去しきょ[5]

業績ぎょうせき[編集へんしゅう]

学生がくせい時代じだい[編集へんしゅう]

ちち豊造とよぞう洋行ようこう土産みやげレコード蓄音機ちくおんき影響えいきょう小林こばやしわかころから音楽おんがくファンとなる。学生がくせい時代じだい友人ゆうじんあいだ流行りゅうこうしたレコードのたけはり否定ひていてきであり、蓄音機ちくおんきはりのテストのためにちちしたレコードをガリガリにされて憤慨ふんがいしたといった記録きろくのこっている[6]豊造とよぞう洋行ようこう土産みやげであるバイオリンのレッスンをけていた時期じきもあり(後年こうねん小林こばやしは「ノコギリき」とひょうしている)、府立ふりついちちゅう時代じだいには、河上かわかみ徹太郎てつたろうと「ブーブーガンガン」モーツァルト合奏がっそうをするために楽器がっきらしていた[7]学生がくせい時代じだいにはマンドリンクラブに所属しょぞくし、演奏えんそうかいなどももよおしている。ちち豊造とよぞう小林こばやし19さいときぼっしており、以後いご小林こばやし家長かちょうとしての責任せきにんうことになる。同年どうねん神経症しんけいしょう第一高等学校だいちこうとうがっこう休学きゅうがく初期しょき文章ぶんしょうには、当時とうじ自分じぶんへの記述きじゅつられる。小林こばやしは、どう世代せだい若者わかものたちに人気にんきのあった新劇しんげきよりも歌舞伎かぶきなどの旧劇きゅうげきこのんだ。後年こうねんの「平家ひらか物語ものがたり」の評論ひょうろんにその影響えいきょうることができる[注釈ちゅうしゃく 8]青年せいねん時代じだいには、美術びじゅつ学校がっこうにある彫刻ちょうこく公開こうかいされている参考さんこうしつで、ギリシアルネサンス彫刻ちょうこく模造もぞうしたしんだということをいている[8]府立ふりついちちゅう時代じだいから文芸ぶんげい同人どうじん活動かつどう開始かいししており[9]いちだか時代じだい雑誌ざっし跫音きょうおん』に発表はっぴょうした「だこ自殺じさつ」で志賀しが直哉なおやの、『山繭やままゆ』に発表はっぴょうした短編たんぺん「ポンキンのわらいひ」にたいし、武者小路むしゃのこうじ実篤さねあつ賞賛しょうさんけるなどしていた[10]

詩人しじんランボーとの出会であいと文学ぶんがくてき青春せいしゅん[編集へんしゅう]

1924ねん大正たいしょう13ねんはる第一高等学校だいちこうとうがっこう在学ざいがくちゅう神田かんだ書店しょてんがいフランス象徴しょうちょう詩人しじんアルチュール・ランボー詩集ししゅう地獄じごくぶし』の「メルキュウルばん豆本まめほん」と出会であ[注釈ちゅうしゃく 9][11]1947ねん昭和しょうわ22ねん)3がつ展望てんぼう』にいた「ランボオの問題もんだい」(現行げんこうタイトル「ランボオⅢ」)で、「むこうからやって見知みしらぬおとこが、いきなりぼくはたきのめしたのである」といている[12]。しかし以後いご、20だい小林こばやしにおいて、ランボーは、やく4ねんののちには回復かいふくしようもなくうしなわれてしまう[注釈ちゅうしゃく 10][注釈ちゅうしゃく 11]

一方いっぽう訳業やくぎょうにおいては、1929ねん昭和しょうわ4ねん)10がつ同人どうじん雑誌ざっし文學ぶんがく創刊そうかんごうよりよく1930ねん昭和しょうわ5ねん)2がつごうにランボオ「地獄じごく一季いっきぶし」の9へん翻訳ほんやく掲載けいさい同年どうねん10がつあらたにやくしたくわえ、「ランボオⅠ」「ランボオⅡ」とあわせて、『地獄じごくぶし』を白水しろみずしゃより刊行かんこう。のち、1938ねん昭和しょうわ13ねん)には改訳かいやくほどこしたうえで岩波いわなみ文庫ぶんこより『地獄じごくぶし』を刊行かんこうした[13]。『地獄じごくぶし』のランボーとの出会であいは、ここに袖珍しゅうちんほんによる普及ふきゅうという具体ぐたいてき成果せいかたのである。

そら、科學かがくだ。どいつもこいつもまたいた。

肉體にくたいためにもたましいためにも、―― 醫學いがくもあれば哲學てつがくもある、―― たかが萬病まんびょう妙藥みょうやく恰好かっこうけた俗謡ぞくようさ。
それに王子おうじさまとうなぐさみかそれとも御法度ごはっとおどけれか、やれ地理ちりがく、やれ天文學てんもんがく機械きかいがく化學かがく・・・・・・
科學かがくしん貴族きぞく進歩しんぽ世界せかいすすむ。何故なぜ逆戻ぎゃくもどりはいけないのだらう。これが大衆たいしゅうゆめである。
おれたち行手ゆくては『聖靈せいれい』だ。おれ言葉ことば神託しんたくだ、うそいつわりもない。

おれにはほどけつている、たゞ、わからせようにも外道げどう言葉ことばしからないのだ。あゝ、しゃべるまい。 — 『地獄じごくぶし小林こばやし秀雄ひでおやく[14]

大正たいしょう末期まっきから昭和しょうわ初期しょき時期じきは、世界せかいにおいては、だいいち世界せかい大戦たいせん混乱こんらんからしょうじた西洋せいよう進歩しんぽ主義しゅぎにゆらぎがしょうじた時期じきでもあった[注釈ちゅうしゃく 12]。このころ詩人しじんポール・ヴァレリーテュービンゲン大学だいがくにおける講演こうえんで、「諸君しょくんあらしわった。にもかかわらず、われわれは、あたかもあらしころうとしている矢先やさきのように、不安ふあんである。」とった。また、大戦たいせん末期まっきにロシア革命かくめい成立せいりつしていた。このような時代じだいぜん段階だんかいである19世紀せいきに、ランボーは、早々そうそうと、科学かがくによる学問がくもん進歩しんぽとそれとはことなる逆戻ぎゃくもどりの志向しこうなかともましまることをなかしめしている。

小林こばやしは、学生がくせい時代じだいはしばしば講義こうぎやす学生がくせいで、乱読らんどくであり、1926ねん大正たいしょう15ねん)、24さいとき東大とうだい仏文ふつぶん研究けんきゅうしつの『仏蘭西ふらんす文学ぶんがく研究けんきゅう』に発表はっぴょうした「人生じんせい斫断アルチュル・ランボオ」(現行げんこうタイトル「ランボオI」)をんだ指導しどう教官きょうかん鈴木すずき信太郎しんたろうらが「これほど優秀ゆうしゅうなら」と卒業そつぎょう認可にんかした。

1927ねん昭和しょうわ2ねん)「芥川あくたがわ龍之介りゅうのすけ美神びしん宿命しゅくめい」を『だい調和ちょうわ』9がつごう[注釈ちゅうしゃく 13]、「『あくはないちめん」を同年どうねん11がつ発行はっこうの『仏蘭西ふらんす文学ぶんがく研究けんきゅう』に発表はっぴょう[注釈ちゅうしゃく 14][注釈ちゅうしゃく 15]。さらに、1930ねん昭和しょうわ5ねん)より、文藝春秋ぶんげいしゅんじゅうにおいて文芸ぶんげい時評じひょうはじめる。「一番いちばんはじめに文藝春秋ぶんげいしゅんじゅうに」いたときは、「学校がっこうてから、きむがなくっておふくろやしなわなきゃならない、そのために文芸ぶんげい時評じひょういた。それが、一番いちばんたしかな動機どうき」であった。「おも悪口わるぐちえば、評判ひょうばんるだろうとおもってやった」もの[15]小林こばやしわか時代じだいかえりみて「評判ひょうばんるだろうとおもってやったんだ。はたして評判ひょうばんったよ」というむねのことをっている[15]。この時期じき小林こばやしらは同人どうじん作品さくひん』をげ、小林こばやしはランボーの『イルミナション』を掲載けいさいしている[注釈ちゅうしゃく 16]

初期しょき小林こばやし批評ひひょうは、翌年よくねん1931ねん昭和しょうわ6ねん)の『文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう』1がつごう「マルクスのさとるたち[注釈ちゅうしゃく 17]、2がつごう文芸ぶんげい時評じひょう」、3がつごう心理しんり小説しょうせつ」で一区切ひとくぎりをける。そして、同年どうねん7がつ文藝ぶんげい評論ひょうろん』を白水しろみずしゃより刊行かんこうする。
なお、後年こうねん小林こばやし文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう創立そうりつしゃ菊池きくちひろし回顧かいこする文章ぶんしょうなか[16]菊池きくち1921ねん大正たいしょう10ねん)にいた「社会しゃかい主義しゅぎについて」では、「日本にっぽん社会しゃかい主義しゅぎしてこと問題もんだいであり、ただ手段しゅだんあやまり、過激かげきことで、そこにすすもうとすると、かえって反動はんどうをまねくおそれがあるのが心配しんぱいであるというかんがえ」を表明ひょうめいし、1947ねん昭和しょうわ22ねん)にいた「はん自叙伝じじょでん」では、「いまになってってもえきもないことだが、自分じぶん予想よそう不幸ふこうにして的中てきちゅうし、大正たいしょうまつからおこった共産きょうさん主義しゅぎ弾圧だんあつのとばっちりをけて、自由じゆう主義しゅぎてきなものから社会しゃかい主義しゅぎてきなものへの健全けんぜん発展はってんがはばまれてりょうった」としるしていることに注目ちゅうもくしている。

当時とうじ世界せかいだい恐慌きょうこうにさしかかり、日本にっぽん統帥とうすいけん問題もんだいはしはっした軍部ぐんぶ暴走ぼうそう、その延長えんちょうとしてきた満州まんしゅう事変じへん5.15事件じけんによる立憲りっけん政治せいじ中断ちゅうだん特別とくべつ高等こうとう警察けいさつ設置せっちなどによる緊迫きんぱくした情勢じょうせいにあった。この時期じき1932ねん昭和しょうわ7ねん)『中央公論ちゅうおうこうろん』9がつごうかれた小林こばやしの「Xへの手紙てがみ」は、サント・ブウヴボードレールニイチェゲエテの4しゃぶのみの小説しょうせつであり、以後いご小林こばやしによるランボーへの言及げんきゅう機会きかいらしていく。評論ひょうろんにあっては、海外かいがい思潮しちょう分野ぶんやでは、ランボーとの出会であ以前いぜん小林こばやし影響えいきょうあたえ、ランボー並行へいこうして翻訳ほんやくおこなったフランスの象徴しょうちょう詩人しじんボードレールやおなじくフランスの哲学てつがくものベルクソンたいする言及げんきゅうあらわれてくる[注釈ちゅうしゃく 18][注釈ちゅうしゃく 19][注釈ちゅうしゃく 20]

また、小林こばやしドストエフスキーろんがこの時期じき以後いごはじまる。ときはファシズム興隆こうりゅう戦前せんぜん昭和しょうわ時代じだいであった[注釈ちゅうしゃく 21]。ドストエフスキーろん小林こばやしは、帝政ていせいロシア反動はんどう体制たいせいにおいて西欧せいおう進歩しんぽ主義しゅぎ世界せかいとお憧憬どうけいげるわかいインテリゲンチャについて「どれもこれもつらすぎるゆめ」というドストエフスキーの青年せいねん書簡しょかんでの言葉ことばきつつ、「青年せいねんたち西欧せいおう理想りそうかれながら、この理想りそうをはぐぐむ社會しゃかい條件じょうけんを、むなしく周圍しゅういさがもとめた」としるした[17]

1933ねん昭和しょうわ8ねん)10がつより発刊はっかんされた『文學ぶんがくかい』の同人どうじんとなり、1936ねん昭和しょうわ11ねん)1がつには、高齢こうれい同人どうじん退しりぞいてもらい[注釈ちゅうしゃく 22]あらたな同人どうじんれ、自分じぶんたちの世代せだい文学ぶんがくてき理想りそう実現じつげん確保かくほし、また同年どうねん自身じしんによる翻訳ほんやくしょアラン精神せいしん情熱じょうねつとにかんするはちじゅういちしょう』の刊行かんこうとともにつくもとしゃ編集へんしゅう顧問こもんとして参加さんか同社どうしゃではさらに自身じしん著作ちょさくである『ランボオ詩集ししゅう』、『ドストエフスキイの生活せいかつ』などを出版しゅっぱんし、しゃ貢献こうけんしつつ、自分じぶんぶんぎょうひろめることとなる。

小林こばやしは、戦後せんごだい東亜とうあ戦争せんそう肯定こうていろん』をあらわし、論壇ろんだん論議ろんぎこすこととなるはやし房雄ふさおが、戦前せんぜん入獄にゅうごく転向てんこうする以前いぜん作品さくひん青年せいねん』を評価ひょうか紹介しょうかいしていた[18][注釈ちゅうしゃく 23]1936ねん昭和しょうわ11ねん)1がつ同人どうじん改組かいそ前後ぜんこうには、小林こばやし左翼さよく作家さっか標榜ひょうぼうする島木しまき健作けんさく中野なかの重治しげはる参加さんかはたらきかけ、島木しまき参入さんにゅう。しかし、中野なかの拒絶きょぜつした[19]敗戦はいせん直前ちょくぜん獄中ごくちゅうした唯物ゆいぶつろん哲学てつがくしゃで、同年どうねん12がつ小林こばやしが『東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん』に発表はっぴょうした「文学ぶんがく伝統でんとうせい近代きんだいせい」をめぐって論争ろんそうした相手あいて一人ひとり[注釈ちゅうしゃく 24]だった戸坂とさかじゅんさそいをけて唯物ゆいぶつろん研究けんきゅうかいつらねてもいる[注釈ちゅうしゃく 25]以後いご1937ねん昭和しょうわ12ねんにちちゅう戦争せんそう開始かいしになっても小林こばやしは、河上かわかみとともに『文學ぶんがくかい』の編集へんしゅう関与かんよつづけ、雑誌ざっし同人どうじん拡大かくだいしながら文学ぶんがく社会しゃかいなかにおける機能きのう継続けいぞくさせようとはか[注釈ちゅうしゃく 26]

思想しそう実生活じっせいかつ論争ろんそう[編集へんしゅう]

にちちゅう戦争せんそうはじまる前年ぜんねん1936ねん昭和しょうわ11ねん)に、小林こばやし正宗まさむね白鳥しらとりとのあいだで、ロシアの文豪ぶんごうレフ・トルストイさい晩期ばんき家出いえでめぐって、後年こうねん思想しそう実生活じっせいかつ論争ろんそう」とばれることになる論争ろんそうおこな[20]小林こばやしが『讀賣新聞よみうりしんぶん』1がつ24にち-25にち掲載けいさいした論文ろんぶん作家さっかかお」のなかで、正宗まさむね白鳥しらとり家出いえでしたうえ野垂のたにしたトルストイについて自己流じこりゅう感慨かんがいべた、『読売新聞よみうりしんぶん』1がつ11にち-12にち文章ぶんしょう抜粋ばっすいし、これを批判ひはん。この論文ろんぶん白鳥はくちょう反駁はんばくした。さらに小林こばやしは、『文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう』4がつごう白鳥はくちょうにこたえるかたち論文ろんぶん思想しそう実生活じっせいかつ」をせる。トルストイがつまこわがって家出いえでした。天才てんさいも竟に細君さいくんのヒステリイにはてきわなかった。抽象ちゅうしょうてき思想しそうでなく実生活じっせいかつ退屈たいくつ凡庸ぼんよう瑣事さじ偉大いだい思想家しそうか命運めいうんけっした。これはどういうことか。白鳥はくちょうはそこに、⦅卑小ひしょう実生活じっせいかつじょう瑣事さじ⦆に「人生じんせい真相しんそうかがみけてるが如」き感慨かんがいおぼえ、小林こばやし巨大きょだい精神せいしんわねばならぬ「実生活じっせいかつ」というくずにく退屈たいくつかんじた。論争ろんそう発端ほったんはこの認識にんしきである。

その1948ねん昭和しょうわ23ねん)の正宗まさむねとの対談たいだん(「だい作家さっかろん」)で小林こばやし以下いかのようにべ、意見いけん相違そうい表面ひょうめんじょうぎなかったとの認識にんしきしめした。

小林こばやしぼくいまにしてあのとき論戦ろんせん意味いみがよくわかるんですよ。というのは、あのときあなたのおっしゃった実生活じっせいかつというものは、ひとつの言葉ことばひとつの思想しそうなんですな、あなたに非常ひじょう大切たいせつな……。ぼくはトルストイの晩年ばんねんければいてみたいとおもっているのですけど、けば、きっときゅうきつね殺生せっしょうせきくでしょうよ。思想しそうなんてきませんよ。

また、1963ねん昭和しょうわ38ねん)の河上かわかみ徹太郎てつたろうとの対談たいだん(「白鳥はくちょう精神せいしん」)でも同様どうよう見解けんかいべた河上かわかみ賛意さんいしめしている。

河上かわかみ理想りそう主義しゅぎ合理ごうり主義しゅぎ……、ぼくは今度こんどきみと正宗まさむねさんとの有名ゆうめいなトルストイ家出いえで論争ろんそうというのをまたなおしてみたよ。そうしたら、当時とうじかんじたのとちょっとちがったものをかんじたな。当時とうじぼくは間違まちがえて批評ひひょうしていたんだ。きみは理想りそう主義しゅぎで、こうがリアリズムだというふうにぼくは簡単かんたんにさばいていたけれども、そうじゃないな。こうもリアリズムじゃないよ。あれは一種いっしゅ理想りそう主義しゅぎだ。

小林こばやし:うん、そうだ。

河上かわかみ:だからおなじことなんだ。きみとおなじことをいっているのだ。

ささえ事変じへんはじまり[編集へんしゅう]

詩人しじん中原なかはら中也ちゅうやとは、みかど大時代おおじだい1925ねん大正たいしょう14ねん)4がつ富永とみなが太郎たろうかいしてった[21]同年どうねん11がつ富永とみながはや逝。初期しょき小林こばやし文章ぶんしょうには、ささえ事変じへんにちちゅう戦争せんそう)のはじまった1937ねん昭和しょうわ12ねんはるわか小林こばやし中原なかはら鎌倉かまくらみょう本寺ほんじ境内けいだいならんで腰掛こしかけているとき無言むごんのまま無数むすうちていく海棠かいどうはなびらを異常いじょう集中しゅうちゅうりょくううちにきゅういやいや気持きもちになり、我慢がまん出来できなくなって小林こばやしだまってていた中原なかはら突然とつぜん「もういいよ、かえろうよ」とい、小林こばやしがそのいにたいして中原なかはらの「相変あいかわらずの千里眼せんりがん」とひょうしたという回顧かいこがある[22]中原なかはらはそのとしの10がつ病没びょうぼつ小林こばやしいち週間しゅうかん病院びょういんめた。小林こばやしの「戦争せんそうについて」は、中原なかはらによる小林こばやし青春せいしゅんわりを宣言せんげんするように同年どうねん改造かいぞう』11がつごう発表はっぴょうされた。この小林こばやし文章ぶんしょうひびきは、どう時期じきろんじていたドストエフスキーの「作家さっか日記にっき」における戦争せんそうへのドストエフスキーの肯定こうてい宣言せんげんている。この文章ぶんしょう小林こばやしは「人生じんせい斫断アルチュル・ランボオ」以来いらい宿命しゅくめいろんして以下いかのようにいている。

日本にっぽんまれたといふことぼくとう宿命しゅくめいだ。だれだつて運命うんめいかんする知恵ちえつてゐる。大事だいじなのはこの知恵ちえ着々ちゃくちゃくそだてることであつて、運命うんめいをこの知恵ちえ犠牲ぎせいにするためにあわてることではない。

この時期じき以後いご戦時せんじちゅう小林こばやし文章ぶんしょうには口癖くちぐせのように「あらたな」といういいまわしが登場とうじょうする。これは小林こばやしによって翻訳ほんやくされたランボーの『かざり』(イルミナシオン)終章しゅうしょう天才てんさい」における、

世界せかいよ、あらたな不幸ふこうんだ歌声うたごえよ。

という一句いっく連想れんそうさせるものである。

津田つだ左右吉そうきち自由じゆう主義しゅぎてき歴史れきし研究けんきゅう弾圧だんあつされたころには、1939ねん昭和しょうわ14ねん)5がつに、ベルクソンにふか影響えいきょうけた歴史れきし哲学てつがく随想ずいそう歴史れきしについて」を序文じょぶんに『ドストエフスキイの生活せいかつ』を出版しゅっぱんしている。これについて小林こばやしめずらしく素直すなおよろこびの感想かんそうのこしているのは、この出版しゅっぱん戦争せんそう協力きょうりょくたいする対価たいかであった可能かのうせいにおわせる。ドストエフスキーろんつかわしくない歴史れきし哲学てつがく序文じょぶんされているのもカモフラージュとえなくもない。戦時せんじちゅう小林こばやしは、哲学てつがくしゃカント空気くうきのない空間くうかんばたくばとをしばしばして、政治せいじてき不自由ふじゆう不満ふまんいだ自由じゆう主義しゅぎしゃ非難ひなんしている[注釈ちゅうしゃく 27]

小林こばやし戦争せんそう協力きょうりょく講演こうえんで、「主義しゅぎ(イデオロギー)」の不毛ふもうき、「これはぼく勝手かってせつではない」と前置まえおきし二宮にのみや尊徳そんとく名前なまえすなどしている。

小林こばやし戦時せんじちゅう、6にわたり中華民国ちゅうかみんこく大陸たいりく本土ほんど)を訪問ほうもんしている。最初さいしょ訪問ほうもん1938ねん昭和しょうわ13ねん)3がつで、日本にっぽんぐんから文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう特派とくはいんとして招聘しょうへいしょうへいされ、満州まんしゅうまわった。1939ねん昭和しょうわ14ねん)にはいり、『文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう』11がつごう雑誌ざっし思想しそう』10がつごう掲載けいさい論文ろんぶん批判ひはんする「学者がくしゃ官僚かんりょう」を掲載けいさい。これにたいして、『思想しそう』の編集へんしゅうしゃ一人ひとりであったはやし達夫たつおが「開店かいてん休業きゅうぎょう必要ひつよう」を1940ねん昭和しょうわ15ねん)1がつ執筆しっぴつ[注釈ちゅうしゃく 28]同年どうねん4がつ小林こばやしは『文學ぶんがくかい編輯へんしゅう委員いいん辞任じにん。さらに6がつより、菊池きくちひろしらによる文芸ぶんげい銃後じゅうご運動うんどう一員いちいんとして、戦争せんそう支援しえんするため川端かわばた康成やすなり横光よこみつ利一としかずほか 52にん小説しょうせつとともに日本にっぽん国内こくない朝鮮ちょうせんおよび満州まんしゅうこく訪問ほうもんいくつかの文章ぶんしょうのこしている。1938ねん昭和しょうわ13ねん)の訪問ほうもんは、従軍じゅうぐんちゅう火野ひの葦平あしへいたいする芥川賞あくたがわしょう陣中じんちゅう授与じゅよしきねており、火野ひのは『むぎ兵隊へいたい』でそのときのことをいている[注釈ちゅうしゃく 29]

真珠湾しんじゅわん攻撃こうげき[編集へんしゅう]

小林こばやし1941ねん昭和しょうわ16ねん)12月、太平洋戦争たいへいようせんそう開戦かいせんについて「みっつの放送ほうそう」でつぎのようにしるしている。

帝国ていこく陸海りくかいぐんは、いまはちにち未明みめい西太平洋にしたいへいよういてアメリカイギリスぐん戦闘せんとう状態じょうたいれり」

いかにも、なりほどなあ、といふつよかんじの放送ほうそうであつた。一種いっしゅ名文めいぶんである。日米にちべい会談かいだんといふ便秘べんぴ患者かんじゃが、下剤げざいをかけられたようなあんばいなのだとおもえつた。(中略ちゅうりゃく)そのためぼくとう空費くうひした時間じかん莫大ばくだいなものであらうとおもはれる。それが、「戦闘せんとう状態じょうたいれり」のたつた一言ひとことで、雲散霧消うんさんむしょうしたのである。それみたことか、とわれとわがしんげんひきかすようそうひであつた。
なんにない清々すがすがしい気持きもち上京じょうきょう文藝春秋ぶんげいしゅんじゅうしゃで、宣戦せんせん詔勅しょうちょく捧読ほうどく放送ほうそう拝聴はいちょうした。ぼくとうみなあたましだれ、直立ちょくりつしてゐた。あたまねっし、しんしずかであつた。畏多おそれおおことながら、ぼく拝聴はいちょうしてゐて、比類ひるいのないうつくしさをかんじた。やはりぼくとうには、日本にっぽん国民こくみんであるといふ自信じしん一番いちばんおおきくつよいのだ。それは、日常にちじょうたりしつつたりする様々さまざま種類しゅるい自信じしんとはまった性質せいしつなつたものである。たりしつつたりするにはあまりおおきくあたまえ自信じしんであり、またそのため平常へいじょうとくけぬよう自信じしんである。ぼくは、さわやかな気持きもちで、そんなことこうへ乍らがいあるいた。

やがて、真珠湾しんじゅわんばくげきはじまる帝国ていこく海軍かいぐん戦果せんか発表はっぴょうが、ぼくおどろかした。ぼくは、こんなごとかんがへた。ぼくとうみなおどろいてゐるのだ。まるで馬鹿ばかように、子供こどもようおどろいてゐるのだ。だが、だれ本当ほんとうおどろくことが出来できるだらうか。何故なぜなら、ぼくとう経験けいけん知識ちしきにとつては、あまり高級こうきゅう理解りかいおよばぬ仕事しごとがなしげられたといふことうごかせぬではないか。名人めいじん至芸しげいすこしもことなるところはあるまい。名人めいじん至芸しげい驚嘆きょうたん出来できるのは、名人めいじん苦心くしんについておおかれすくなかれつうじていればこそだ。しょいまは、名人めいじん至芸しげい突如とつじょとしてなん用意よういもないぼくとう眼前がんぜんげんはれたようなものである。偉大いだいなる専門せんもんとみぢめな素人しろうとぼくは、さういふ印象いんしょうた。

開戦かいせん翌年よくねん1942ねん昭和しょうわ17ねん)には、小林こばやし編集へんしゅうしゃとしてなが関係かんけいしてた「文學ぶんがくかい[注釈ちゅうしゃく 30]での盟友めいゆう河上かわかみ徹太郎てつたろう司会しかいによる「近代きんだい超克ちょうこく座談ざだんにオブザーバーてき参加さんかしている。ここで小林こばやしは、近代きんだい科学かがく形而上学けいじじょうがく分離ぶんりくなどする京都きょうと学派がくは下村しもむら寅太郎とらたろう中心ちゅうしんにした科学かがくろんくちはさみ、下村しもむら言葉ことばけて、以下いか言葉ことばいている。

下村しもむら 自然しぜんがく形而上学けいじじょうがくとが一応いちおうはつきり区別くべつされること、独立どくりつすることが必要ひつようだとおもひますね。それは科学かがく形而上学けいじじょうがく各々おのおの純粋じゅんすいになる、純化じゅんかされるといふことですから。聯関れんかんはこの区別くべつ予想よそうしたうえでのことでなければならぬとおもひます。これは近代きんだい超克ちょうこく問題もんだいおい重要じゅうようです。
小林こばやし 自然しぜん拷問ごうもんにかけてくちらせるといふ、近代きんだい科学かがくをそんなにたくみげんつたじんにあるかね。[24]

また小林こばやしはこの時期じき自然しぜん征服せいふくするとは、自然しぜん上手じょうずけること」であると、仏教ぶっきょう学者がくしゃ鈴木すずき大拙だいせつおもわせる言葉ことばのこしている。

だが小林こばやし戦争せんそう協力きょうりょく姿勢しせいっていきおいをうしない、戦争せんそう末期まっきには小林こばやしくちひらくのがおっくうそうであったとわれ、仲間なかまないでは「小林こばやしなにをやってっているのか」が話題わだいになるほどであったという。この時期じき小林こばやし目立めだ仕事しごと時局じきょくがら、「当麻とうま」、「じつあさ」、「平家ひらか物語ものがたり」、「無常むじょうといふこと」など日本にっぽん古典こてんについての文章ぶんしょうおおい。

一方いっぽうで、小林こばやし敗戦はいせんねんまえ1943ねん昭和しょうわ18ねん)12月、旅行りょこうちゅう南京なんきんで『モオツアルト』をはじめた。これはモーツァルト中心ちゅうしんてた一種いっしゅ天才てんさいろんであると同時どうじに、わりのかんきざはじめたひとつの時代じだいへの「レクイエム」でもあった。こののち、しばらくのあいだ小林こばやしわか時期じきからの音楽おんがく習慣しゅうかん途絶とぜつさせた[25]

敗戦はいせん[編集へんしゅう]

GHQ公職こうしょく追放ついほうれい発布はっぷしてあいだもない1946ねん昭和しょうわ21ねん)1がつ12にち雑誌ざっし近代きんだい文学ぶんがく』の座談ざだんかい「コメディ・リテレール 小林こばやし秀雄ひでおかこんで」[注釈ちゅうしゃく 31]で、出席しゅっせきしゃ本多ほんだあきより小林こばやし戦時せんじちゅう姿勢しせいへの言及げんきゅうがあった[26]

本多ほんだ はなしすこかわりますが、小林こばやしさんの自由じゆううもののかんがかたですね、必然ひつぜん抵抗ていこうがなければ自由じゆうというものがない……。

小林こばやし そういうふうにかんがえています。

本多ほんだ 大野おおのみちけん吉田よしだ松陰しょういんれいなどをいて、自由じゆうとはこういうものだとおっしゃっていたことは、それは非常ひじょう同感どうかんするのですが、それだけに、なに自由じゆうというものをそういうふうにかんがえただけではりないんじゃないかというがするんです。というのは……。

小林こばやし 自由じゆう必然ひつぜん。これは哲学てつがくしゃ弁証法べんしょうほう餌食えじきがね。じつ面白おもしろろんじられるでしょうがね。だけれどもぼくは、自由じゆうとか必然ひつぜんとかいう実生活じっせいかつふかむすびついた観念かんねんは、これはデイアレクチックではけっしてけぬとおもう。けてもつまらぬ。それはそのひと実践じっせんにあるんだ。そのひとさとりにあるんだよ。ぼくはそうだとおもう。

本多ほんだ それで、それぞれのさとりをつうじて出来できた、それぞれの自由じゆう感覚かんかくというものがあるとおもうんです。戦争せんそうたいする小林こばやしさんの発言はつげんからて、日本にっぽんがこんなになっているのに、この戦争せんそう正義せいぎかどうかというようなことをいうのはどうだとか、国民こくみんだまって事態じたいしょした、それが事変じへん特色とくしょくである、そういうことをながめているのがたのしい、あとはなじらぬ、というふうにおっしゃったのですが、事変じへん必然ひつぜんみとめておられたんですね。

そして、以下いかのような発言はつげんおこなった。

小林こばやし ぼく政治せいじてきにはさとしいち国民こくみんとして事変じへんしょした。だまってしょした。それについていまなん後悔こうかいもしていない。

だい事変じへんおわったときには、かならわかしかくかくだったら事変じへんおこらなかったろう、事変じへんはこんなふうにはならなかったろうという議論ぎろんおこる。
必然ひつぜんというものにたいする人間にんげん復讐ふくしゅうだ。はかない復讐ふくしゅうだ。この大戦たいせんそう一部いちぶ人達ひとたちさとし野心やしんとからおこったか、それさえなければ、こらなかったか。
どうもぼくにはそんなお目出度めでた歴史れきしかんてないよ。ぼく歴史れきし必然ひつぜんせいというものをもっとこわしいものとかんがえている。

ぼくさとしだから反省はんせいなぞしない。利巧りこうやつはたんと反省はんせいしてみるがいいじゃないか。

そのあとは、以下いかとおり。

本多ほんだ それで小林こばやしさんは、これからは古典こてんとかうつくしいものを尊重そんちょうしてくとおっしゃったんですが、先輩せんぱいとして、からものたいしてどうかんがえるかというおかんがえもあるとおもいます。小林こばやしさんは戦争せんそうたいしては原始げんしてき自由じゆう信念しんねんというものを適用てきようなさった。適用てきよう範囲はんいがいところにまで適用てきようなさったのではないですか。あるい必然ひつぜんというものをあまりはやあきらめてしまって、そのまま肯定こうていされすぎたとうようなことはないですか。

小林こばやしさんも戦争せんそうちゅう自由じゆうだった。徳田とくた球一きゅういち自由じゆうだったといえるでしょう。そのようにかんがえるつぎのジェネレーションがる、それをどうおもわれますか。つまり「近代きんだい文学ぶんがく」をどうおかんがえになるかということなんですが……。

小林こばやし きみのいう意味いみがはっきりしないが、――必然ひつぜんせいというものは図式ずしきではない。ぼく否応いやおうなくふりかかってくる、そのものです。ぼくはいつもそれを受入うけいれる。どうにもならんものとして受入うけいれる。受入うけいれたそのなかで、そうしょすべきか工夫くふうする。その工夫くふう自由じゆうです。ぼくいたものは戦争せんそうちゅう禁止きんしされた。しょいまだってせるかどうかあやしいものだ。ないものはないで一向いっこうかまわぬ。

一部いちぶには、これを敗戦はいせん戦前せんぜんとはうってかわって、「右翼うよくてき文化ぶんかじん」から「左翼さよくてき文化ぶんかじん」に変貌へんぼうした当時とうじだい多数たすう知識ちしきじんらとして立派りっぱであると評価ひょうかするこえもあるが、「反省はんせいしない」と言葉ことばもちいて、戦前せんぜん言動げんどうただしかったとか、わるかったとか戦後せんご世間せけん一般いっぱん価値かちかんでもって自分じぶん自身じしん肯定こうてい否定ひていしているわけではなく、戦争せんそうけたとたんにその立場たちばを180転換てんかんした戦後せんご世間せけん一般いっぱん価値かちかんでしかおのれ立場たちば決定けっていできない人々ひとびと小林こばやしは「あたまがいいじん」と揶揄やゆし、批判ひはんしたのである[27]

村松むらまつつよしに「吉本よしもと戦争せんそうちゅう天皇てんのう主義しゅぎしゃだったのに、いまさい左翼さよくのようなかおをしている」と批判ひはんされたことがあるとみずかべる吉本よしもと隆明たかあきは、「戦争せんそうちゅうもいい加減かげんなことをいていた連中れんちゅう」が「戦後せんごも、すぐに「文化ぶんか国家こっか建設けんせつ」とかはじめる始末しまつ」と対比たいひしながら、敗戦はいせん放心ほうしん状態じょうたいにあって小林こばやしのこの発言はつげん一貫いっかんせいについてひざったというむねのことをだい小林こばやし秀雄ひでお全集ぜんしゅうによせたインタビューべている。「事変じへんだまってしょする」というのは小林こばやし事変じへん当初とうしょから強調きょうちょうした表現ひょうげんだった。また、吉本よしもと小林こばやしの「マルクスのさとるたち」にいたるまでの文章ぶんしょうげてマルクスを一番いちばん理解りかいしていたのは小林こばやしだったと評価ひょうかしている[28]吉本よしもとは、戦前せんぜんおよび敗戦はいせん小林こばやしについてはたか評価ひょうかしている。[よう出典しゅってん]

このとしなかば、小林こばやし実母じつぼである小林こばやし精子せいしが5月にぼっ、6月『しん日本にっぽん文学ぶんがく』による「戦争せんそう責任せきにんしゃ指名しめい、8がつ戦時せんじちゅうからの明治大学めいじだいがく教授きょうじゅしょく辞職じしょく[注釈ちゅうしゃく 32]などが連続れんぞくしてき、酩酊めいてい状態じょうたい水道すいどうきょうえきホームからがけ転落てんらくして奇跡きせきてき軽傷けいしょうむというようなこともきている。小林こばやしはこの転落てんらく事件じけんつよがりをせながられているが、小林こばやしむすめ回想かいそうでは帰宅きたくには生気せいきけたような青白あおじろかおをしていたとのことである[29]

この座談ざだんかい「コメディ・リテレール」で、小林こばやし文芸ぶんげい時評じひょうへのやや乱暴らんぼう決別けつべつ宣言せんげんをしている。(「サント・ブウヴの発明はつめいした、あの文芸ぶんげい時評じひょうという溌剌はつらつたる形式けいしき、これも頂点ちょうてんたっしてしまった批評ひひょう形式けいしきではないのかね。だれでもやれるようになった。たとえば、匿名とくめい批評ひひょうというような形式けいしき盛大せいだいになれば、もうだれれがやってもいいのだ。だい一流いちりゅう批評ひひょうかならあたらしい形式けいしき発明はつめいするだろう。まあ、そんなたしかな自信じしん勿論もちろんあったわけではないが、なにあたらしい批評ひひょう形式けいしきというものをかんがえるようになった。そして、ジャーナリズムからいてしまったのだ。」「コメディ・リテレール」より)

同年どうねん12がつ青山あおやま二郎じろう石原いしはら隆一りゅういちらと季刊きかんそうもと』を創刊そうかんし、「モオツァルト」を発表はっぴょう

こののちもなく1947ねん昭和しょうわ22ねん)3がつ展望てんぼう』にいた「ランボオの問題もんだい」(現行げんこうタイトル「ランボオⅢ」)で、小林こばやしは「マルクスのさとるたち以後いごほとんれることのなかったランボーについてのろんあらたに発表はっぴょうし、1948ねん昭和しょうわ23ねん)11月季刊きかんそうもと』2輯にドストエフスキーの『つみばっ』についてのふた作品さくひんろん「『つみばち』についてⅡ」を発表はっぴょうするが、全体ぜんたいとして戦後せんご小林こばやし文筆ぶんぴつ活動かつどうにおける近代きんだい文学ぶんがく評論ひょうろんのウェイトは低下ていかしてくことになる。

ラスコーリニコフの悪夢あくむ[編集へんしゅう]

ツアーリ秘密ひみつ警察けいさつ跳梁ちょうりょうする帝政ていせいロシアにおいて、ドストエフスキー人道じんどう主義しゅぎてき作品さくひんによって新進しんしん作家さっかとして華々はなばなしいデビューかざった。もなく社会しゃかい主義しゅぎサークル活動かつどうのかどで流刑りゅうけいにあったドストエフスキーが、ペテルスブルク帰還きかんしたのは1858ねんである。翌年よくねんダーウィンが「たね起源きげん」を発表はっぴょうし、西洋せいようキリスト教きりすときょう世界せかい伝統でんとうてき世界せかいかん合理ごうり主義しゅぎ号令ごうれいとも激変げきへんはじめる。日本にっぽんでは幕末ばくまつ相当そうとうし、アメリカを先頭せんとうとする西洋せいよう列強れっきょう江戸えど幕府ばくふとのあいだ通商つうしょう条約じょうやく締結ていけつおこなわれている。この時期じき、ドストエフスキーは西欧せいおう視察しさつ良好りょうこうかけ、帰国きこく地下ちかしつ手記しゅき』を皮切かわきりに『カラマーゾフの兄弟きょうだい』にいた一連いちれん問題もんだいさく著作ちょさく開始かいしする。『つみばっ』はそのさくたり、発表はっぴょうされた1866ねん日本にっぽんでは明治維新めいじいしんの2ねんまえたる。

つみばち』の主人公しゅじんこうラスコーリニコフは選良せんりょう主義しゅぎてき超人ちょうじん思想しそうにとりつかれたノイローゼ気味ぎみ青年せいねんである。ラスコーリニコフは運命うんめい歯車はぐるまきずられて哲学てつがくてき殺人さつじんこし、みずからの挑戦ちょうせん敗北はいぼくして自首じしゅし、流刑りゅうけいおくられる。この作品さくひんわりさいに、主人公しゅじんこうやまいにうなされて黙示録もくしろくてき悪夢あくむるという、一見いっけんするとストーリーとは直接ちょくせつかかわりのない不思議ふしぎ場面ばめん唐突とうとつはさめられている。「アジアの奥地おくち」で発生はっせいした意志いし知性ちせい魔性ましょう微生物びせいぶつがヨーロッパに蔓延まんえんし、人類じんるい傲慢ごうまん孤独こどく狂気きょうきかれて世界せかい崩壊ほうかいしてしまうというのが悪夢あくむ内容ないようである。

1948ねん昭和しょうわ23ねん)に発表はっぴょうされた「『つみばち』についてⅡ」で、小林こばやし以下いかのような言葉ことばのこしている。

だれに、あたらしい旋毛せんもうちゅうわらいへようか。理性りせいがこの発生はっせいしたのが、偶然ぐうぜんアジアの奥地おくちであつたとしても、だれ文句もんくけようがあらう。

つみばち』で主人公しゅじんこうキリスト教きりすときょうてき救済きゅうさいされるが、この悪夢あくむについて作者さくしゃドストエフスキーはそれ以上いじょうなん解説かいせつもせずに物語ものがたりえる。ドストエフスキー作品さくひんでは唯一ゆいいつ終末しゅうまつろんあつかわれ、冒頭ぼうとう日本人にっぽんじん風習ふうしゅう話題わだいになるつぎさく白痴はくち』が発表はっぴょうされたのは、日本にっぽんでは明治維新めいじいしんとしたる1868ねんである。

ゴッホと近代きんだい絵画かいが[編集へんしゅう]

1948ねん昭和しょうわ23ねん)11月の「『つみばち』についてⅡ」発表はっぴょう前後ぜんごして、小林こばやし1947ねん昭和しょうわ22ねん)3がつにたまたまおとずれた上野うえの東京とうきょう美術館びじゅつかんにおける読売新聞社よみうりしんぶんしゃ主催しゅさい泰西たいせい名画めいが展覧てんらんかい出会であった「カラスのいる麦畑むぎばたけ」をまえにして「ゴッホの巨大きょだい目玉めだま」に見据みすえられているような衝撃しょうげきける[30]

ゴッホの手紙てがみ』は、精神せいしんでゴッホ研究けんきゅうしゃでもあった式場しきば隆三郎りゅうざぶろうから、原書げんしょ書簡しょかんしゅう提供ていきょうけ『文体ぶんたい[注釈ちゅうしゃく 33]3ごう:1948ねん昭和しょうわ23ねん)12月、4ごう1949ねん昭和しょうわ24ねん)7がつでの掲載けいさい皮切かわきりに、創刊そうかんまもない『藝術げいじゅつ新潮しんちょう』で連載れんさいつづけた。

書簡しょかんより引用いんよう多用たようしながらも、戦後せんご小林こばやし孤独こどく苛立いらだちのにじむものとなっている。昭和しょうわ20年代ねんだいから30年代ねんだいなかばまでの期間きかんはゴッホを中心ちゅうしんとしたフランス印象派いんしょうは絵画かいが関心かんしんけることになる。1958ねん昭和しょうわ33ねん)には『近代きんだい絵画かいが[31]人文書院じんぶんしょいん刊行かんこうした。

ある普遍ふへんてきなものが、かれ脅迫きょうはくしてゐるのであつて、告白こくはくすべきある個性こせいてきなものが問題もんだいだつたごとはない。
あるおそろしいきょきなものがかれちいさな肉体にくたい無理むりにでも通過つうかしようとするので、かれくるしく、むをず、その触覚しょっかくについてかたるのである。 — 「ゴッホの手紙てがみ

ゴッホは読書どくしょであり、その書簡しょかんにはドストエフスキーの名前なまえなどもえる。

一見いっけん乱読らんどくした文学ぶんがくしょ影響えいきょうされて、議論ぎろんをしてゐるようえるが、じつかれには告白こくはくといふものしか出来できない。
ようするにかういふことだ、この画家がかは、はたらやすめると、自分じぶんうらにじつとすわつてゐる憂鬱ゆううつ詩人しじん出会であいはなければならない。 — 「ゴッホの手紙てがみ

岩波いわなみ文庫ぶんこでも1955ねん昭和しょうわ30ねん)より長年ながねんかけ、はざま伊之助いのすけわけ『ゴッホの手紙てがみ』が刊行かんこうしたが、書簡しょかん引用いんようおお小林こばやしの『ゴッホの手紙てがみ』はそれらの先駆せんくてき意味いみがあるとえる[注釈ちゅうしゃく 34]

なお小林こばやしは、瀧口たきぐち修造しゅうぞう富永とみなが惣一そういちともに、1963ねん昭和しょうわ38ねん)よりみすず書房しょぼう出版しゅっぱんされた「ゴッホ書簡しょかんしゅう」の監修かんしゅうしゃとなった。この書簡しょかんしゅうは、小林こばやしぼつはじまった80年代ねんだいバブル絵画かいがひまわり購入こうにゅう騒動そうどうころ新訳しんやくえられるまで日本人にっぽんじんのゴッホ信仰しんこうのバイブルでもあった。

プロテスタントとかカソリックとか其他なに教会きょうかいとかげん組織そしきのなかで提供ていきょうされる、みなにあんなにしやぶられたキリストより、ルナン[注釈ちゅうしゃく 35]のキリストのほうが、どれほどなぐさめになるか。

恋愛れんあいだつておなごとではないか。ルナンの『アンティ・キリスト』は出来できるだけはやみたい。

どんなものかは見当けんとうはつかぬが、ひとふたつは不滅ふめつなものが見付みつかるにたがえひないと、ぜん以つてしんじてゐる。 — 「ゴッホの手紙てがみ書簡しょかんからの引用いんよう

1960ねん安保あんぽまで[編集へんしゅう]

ゴルフをたしな小林こばやし(1954ねん

知的ちてき障害しょうがい画家がか山下やましたきよし話題わだいになった時期じきには、かれ感性かんせいについては評価ひょうかしつつも、るものにうったえかける精神せいしんせい欠如けつじょ指摘してきし、山下やました描画びょうが金閣寺きんかくじ放火ほうか犯人はんにん放火ほうかになぞらえることで退しりぞけている[32]。これは山下やました放浪ほうろうはじめる以前いぜんのことである。小林こばやし態度たいどを「大人おとなげない」とるか、「知的ちてき障害しょうがいしゃさくなのであるから」という態度たいどとするかは意見いけんかれるであろう[よう出典しゅってん]

この時期じき小林こばやし文章ぶんしょうには、ゴッホなどの絵画かいがろん並行へいこうして日本にっぽん古典こてん小林こばやし特有とくゆう音楽おんがくてき関心かんしんからのニーチェろんなどがある一方いっぽう[33]緊張きんちょうかんけた随筆ずいひつあらわれる。またジークムント・フロイトについての言及げんきゅうえるのも戦後せんご時流じりゅう影響えいきょう無縁むえんではないであろう[よう出典しゅってん]

また、当時とうじ最先端さいせんたん娯楽ごらくであった映画えいが活動かつどう写真しゃしん)についてのすくなからぬかず論考ろんこうもこの時期じきのこしている。戦後せんごには、1951ねん昭和しょうわ26ねん)5がつ黒澤くろさわあきらのドストエフスキー映画えいが白痴はくち公開こうかい、『中央公論ちゅうおうこうろん1952ねん昭和しょうわ27ねん)5がつごうから1953ねん昭和しょうわ28ねん)1がつごうに「『白痴はくち』についてⅡ」をあらわし、のち対談たいだんおこなっている。また小林こばやし周辺しゅうへんから、戦後せんご小津おつあん二郎じろう作品さくひんかかわった文学ぶんがくしゃている。

小林こばやしは1952ねん昭和しょうわ27ねん)12月から翌年よくねん7がつまでヨーロッパ旅行りょこうする途中とちゅうギリシャエジプトなどの古代こだい遺跡いせきめぐり、紀行きこうぶんのこしている。この時期じき以後いご小林こばやしプラトン著作ちょさくへの関心かんしんふかめる。ただし、小林こばやしのプラトンへの関心かんしんはむしろソクラテスたいする関心かんしんであり、これをもとにソクラテスのダイモニオンろんじた「悪魔あくまてきなもの」を[注釈ちゅうしゃく 36][注釈ちゅうしゃく 37]、60ねん安保あんぽ前後ぜんごする時期じきの『かんがえるヒント』につながる[34]

感想かんそう』(ベルクソンろん[編集へんしゅう]

ベルクソン哲学てつがく時代じだい背景はいけい[編集へんしゅう]

1859ねんにダーウィンが『たね起源きげん』を公表こうひょうした当時とうじ、イギリス(だいえい帝国ていこく)ではダーウィンにさきんじジャーナリストのロバート・チェンバース匿名とくめい[注釈ちゅうしゃく 38]出版しゅっぱんした、万物ばんぶつ進化しんかろん[注釈ちゅうしゃく 39]主張しゅちょうする『創造そうぞう自然しぜん痕跡こんせき』が話題わだいとなっていた。これについてダーウィンは「下等かとう」、「高等こうとう」という概念がいねん人間にんげん主観しゅかんてき価値かちかん産物さんぶつであって科学かがくてき概念がいねんとはえないとして、その科学かがくてき価値かちには否定ひていてき評価ひょうかくだしている。一方いっぽうで、その影響えいきょうみずからの学説がくせつ普及ふきゅうするために一役ひとやくったことについては一定いってい評価ひょうかくだしている。このような、「下等かとう」な生物せいぶつが「高等こうとう」な生物せいぶつ変化へんかするという形式けいしきの「進化しんかろん」は、ダーウィンの指摘してきするとおり近代きんだい科学かがく水準すいじゅんいたっていない疑似ぎじ科学かがくであるがゆえに、ダーウィン以前いぜんから存在そんざいしていたが充分じゅうぶん影響えいきょうりょくつにはいたらなかった。ダーウィン自身じしん当初とうしょみずからの自然しぜん選択せんたくせつ疑似ぎじ科学かがく代名詞だいめいしたる「進化しんかろん」の範疇はんちゅうれることを拒否きょひしていた。疑似ぎじ科学かがくとしての「進化しんかろん」の本質ほんしつはそのせつ生命せいめいなぞあるいはその究極きゅうきょくてき目的もくてき説明せつめいすることであり、これは本質ほんしつてき科学かがくてき証明しょうめい不可能ふかのう形而上学けいじじょうがくである。一方いっぽう、ダーウィンの学説がくせつはそれが近代きんだい科学かがく枠組わくぐみにあるかぎり「生命せいめいとはなにか」という哲学てつがくてきには関心かんしんであり、「たね起源きげん」というとおりに生命せいめい多様たような「たね」がいかにして発生はっせいしたかについての理論りろんであり、「生命せいめいはいかにして誕生たんじょうしたか」といういには無力むりょくである。それが社会しゃかいのダーウィン学説がくせつたいするイメージからいかにへだたっていようとも、これはうごかしがたい真理しんりである。ダーウィンの有力ゆうりょく協力きょうりょくしゃであり、現代げんだいでは疑似ぎじ科学かがくてき進化しんかろんしゃ見本みほんられているトマス・ヘンリー・ハクスリーは、自然しぜん選択せんたくせつおしえられた当時とうじ感想かんそうを「なんでこんな簡単かんたんなことにづかなかったんだ」というものだったとっている。これは、ハクスリーの思索しさく態度たいど哲学てつがくてきであって、科学かがくてきでなかったことによるものであろう。「ラマルク主義しゅぎ」で有名ゆうめいな、19世紀せいき初頭しょとうジャン=バティスト・ラマルクによる『動物どうぶつ哲学てつがく以来いらい近代きんだい科学かがく水準すいじゅんたさない進化しんかろん学説がくせつのバリエーションは豊富ほうふであり、それぞれの理論りろん特徴とくちょうについての議論ぎろんはあるが、そのうちにはダーウィンの祖父そふエラズマスや、ハクスリーとともにダーウィンの有力ゆうりょく協力きょうりょくしゃであったハーバート・スペンサー、また小林こばやしろんじたフランスの哲学てつがくしゃベルクソンれられるであろう。ベルクソンは著作ちょさくちゅう、スペンサーへの敬意けいいかくしていない。

伝統でんとうてきキリスト教会きょうかい神学しんがくでは、世界せかいかみが7にちつくり、人間にんげん祖先そせんちりちりからつくられたアダムと、アダムの肋骨あばらぼねからつくられたエバであるとしてた。このような世界せかいかん批判ひはんれるかぎり、人間にんげん存在そんざいする意味いみ我々われわれあらためて必要ひつようはない。一方いっぽう、ダーウィンの学説がくせつ主張しゅちょうするのは「人間にんげん先祖せんぞサルである」という事実じじつだけであり、しかもこの事実じじつだけで伝統でんとうてきキリスト教きりすときょう神学しんがく権威けんい無効むこうするには充分じゅうぶんである。しかしダーウィンの学説がくせつ神学しんがくではなく、かりキリスト教きりすときょう神学しんがく抛棄ほうきするならば、人間にんげん存在そんざいする意味いみあらためて規定きていするあたらしい神学しんがく必要ひつようになる。それが、疑似ぎじ科学かがくてき進化しんかろん意義いぎであったとえる。ダーウィン学説がくせつについての科学かがくてき厳格げんかくさをともなった論争ろんそうでは、ハクスリーやスペンサーのような疑似ぎじ科学かがくてき進化しんかろんからのダーウィン学説がくせつ擁護ようごしゃもなく排除はいじょされることになった。しかし、教会きょうかい権威けんいわるあらたな神学しんがく必要ひつようとする世俗せぞく社会しゃかいでは、ハクスリーやスペンサーの権威けんい不要ふようになることはなかった。かくて現代げんだいいたるまで、科学かがくとしてのダーウィン学説がくせつ疑似ぎじ科学かがくとしての進化しんかろんの、社会しゃかいにおける混同こんどうおおかれすくなかれつづいており、小林こばやしもまたこの混同こんどうから完全かんぜんのがれきっているとはえない[注釈ちゅうしゃく 40]

19世紀せいきなか以後いご、ダーウィン学説がくせつとも西欧せいおう中心ちゅうしんとした自由じゆう主義しゅぎてき世俗せぞく社会しゃかいは、原罪げんざいろん最後さいご審判しんぱんもない楽観らっかん主義しゅぎ哲学てつがくれた。この楽観らっかん主義しゅぎはしかし、20世紀せいき初頭しょとうだいいち世界せかい大戦たいせん惨禍さんかさんかによってくだかれた。(参照さんしょう実存じつぞん主義しゅぎ#不安ふあん時代じだいだいいち世界せかい大戦たいせん西欧せいおう社会しゃかい知的ちてき潮流ちょうりゅうは、このわばあたらしい神学しんがく崩壊ほうかい乃至ないし解体かいたいからはじまる。西洋せいよう哲学てつがくにおけるこの時代じだいのランドマークとなる、ドイツの哲学てつがくしゃハイデッガーの『存在そんざい時間じかん』、オーストリア出身しゅっしん哲学てつがくしゃウィトゲンシュタイン論理ろんり哲学てつがく論考ろんこう』は、いずれも楽観らっかん主義しゅぎ哲学てつがくにおける形而上学けいじじょうがく解体かいたい主眼しゅがんとして展開てんかいされている。また、大戦たいせん以前いぜんから進化しんかろん哲学てつがく主導しゅどうしてたベルクソンのような哲学てつがくしゃ自身じしんみずか路線ろせん変更へんこういられた時代じだいでもあった[注釈ちゅうしゃく 41]

ベルクソンの4さつ主著しゅちょで、最後さいご発表はっぴょうされた『道徳どうとく宗教しゅうきょうふたつの源泉げんせん』(1932ねん)をのぞいたほかの3ちょは、だいいち世界せかい大戦たいせん1914ねん - 1918ねん以前いぜん1889ねんから1907ねんにかけ公刊こうかんされた。最終さいしゅうの「源泉げんせん刊行かんこうまでのあいだひらいているのは、戦後せんごのベルクソンが賢人けんじん会議かいぎ参加さんかするなど、思索しさくよりも大戦たいせん平和へいわ活動かつどう熱心ねっしんだったせいである。また3ちょがそれぞれ意識いしき現象げんしょう生理せいり現象げんしょう生物せいぶつ現象げんしょうあつかった進化しんかろん哲学てつがくであるのにたいし、最終さいしゅうの「源泉げんせん」は、どちらかとえば社会しゃかいがくてき考察こうさつである[35]進化しんかろん哲学てつがくしゃとしてのベルクソン哲学てつがくようとなる部分ぶぶんは、小林こばやし文筆ぶんぴつ活動かつどうはじめただいいち世界せかい大戦たいせんまえ刊行かんこうされていたのである。

ベルクソン哲学てつがく特徴とくちょう[編集へんしゅう]

ダーウィン学説がくせつ普及ふきゅうともさかんになった進化しんかろん哲学てつがくは、科学かがく発展はってん大前提だいぜんていとするがゆえ人間にんげん理性りせい絶対ぜったいする「自然しぜんひかり」、あるいは主知しゅち主義しゅぎ哲学てつがくであり、ベルクソンの哲学てつがく例外れいがいではない。ベルクソンをアリストテレスに象徴しょうちょうされるような伝統でんとうてき理性りせい哲学てつがく区別くべつするのは、その直観ちょっかん主義しゅぎであるとわれる。しかしベルクソンは、だいいち世界せかい大戦たいせんまえ1903ねん明治めいじ36ねん)に発表はっぴょうした『形而上学けいじじょうがく入門にゅうもん』で知的ちてき直観ちょっかん」“intuition intellectuelle”いた箇所かしょを、大戦たいせん ―― つまり思想しそう背景はいけいとしての進化しんかろん抛棄ほうきしたのちおもわれる時期じき発表はっぴょうした論文ろんぶんしゅう転載てんさいするにあたり心的しんてき直観ちょっかん」“intuition spirituelle”なおしている[36]。この戦前せんぜんのベルクソンの直観ちょっかん主義しゅぎは、我々われわれ日本人にっぽんじんぜん仏教ぶっきょう歴史れきしてきしたしんでいるような宗教しゅうきょうてき直観ちょっかん主義しゅぎとはことなるベルクソン哲学てつがく特徴とくちょうてきなものであろう。また、この知的ちてき直観ちょっかん主義しゅぎたいをなしてベルクソン思想しそう特徴付とくちょうづけるものにイマージュろんがある。ベルクソンにとって、「イマージュ」とはたんなる心的しんてき表象ひょうしょうとはことなる、一種いっしゅ観念かんねん実在じつざいろんである。このベルクソンのイマージュろん影響えいきょうは、小林こばやしにおいてはそのドストエフスキーつて序文じょぶんをなす「歴史れきしについて」でられるような、(ややグロテスクな)実在じつざいろんてき歴史れきし哲学てつがくとなる。ベルクソンのイマージュろんは、かれ一時期いちじき会長かいちょうつとめた英国えいこく心霊しんれい現象げんしょう研究けんきゅう協会きょうかい研究けんきゅう対象たいしょうにしたエクトプラズム連想れんそうさせるものがある。また、ベルクソンの宗教しゅうきょうかんもこれにならったものであり、後年こうねん英国えいこく国教こっきょうかい心霊しんれい主義しゅぎ内偵ないていして秘密ひみつ提出ていしゅつし、暴露ばくろされたとわれる報告ほうこくしょにおける心霊しんれい主義しゅぎ宗教しゅうきょうかんについての批判ひはんは、ベルクソンの宗教しゅうきょう思想しそう非常ひじょう連想れんそうさせる。

 あい崇高すうこうさについても、新約しんやく聖書せいしょの「かみあいなり」という主張しゅちょう匹敵ひってきするものがられることは事実じじつだが、キリストの贖罪しょくざいせいについての叙述じょじゅつなどは、人間にんげんつみ重荷おもに背負せおってくれるという根本こんぽんてきな(キリストしゃの)受容じゅよう信仰しんこうならびに十字架じゅうじかじょうでの勝利しょうりではなく、どうやら(復活ふっかつにおける)物質ぶっしつ現象げんしょうという奇跡きせきしょうじさせるあるしゅのエネルギーのことであるらしく、キリストきょうてき福音ふくいんおしえにはとおおよばないことがしばしばである。 「英国えいこく国教こっきょうかいスピリチュアリズム調査ちょうさ委員いいんかい多数たすう意見いけん報告ほうこくしょ

ベルクソンは、いずれ科学かがく発展はってん死後しごせいなぞをもかすことを期待きたいする。

未完みかんの『感想かんそう[編集へんしゅう]

1958ねん昭和しょうわ33ねん)5がつには、いずれ未完みかんわることになるベルクソンろん感想かんそう』の連載れんさいを『新潮しんちょう誌上しじょう開始かいしする。この連載れんさい契機けいきとなったのはなによりこの時期じき小林こばやしのギリシャ哲学てつがくへの傾斜けいしゃであろうが、当時とうじ内外ないがい論壇ろんだんにぎわしたコリン・ウィルソンの『アウトサイダー』[注釈ちゅうしゃく 42]神秘しんぴ主義しゅぎてき進化しんかろん影響えいきょうかんがえられる。おなじころ、河上かわかみ徹太郎てつたろうが『日本にっぽんのアウトサイダー』という評論ひょうろんあらわした[37]河上かわかみはアウトサイダーの定義ていぎを「異端いたん」あるいは「まぼろし(ヴィジョン)をひと」として、中原なかはら中也ちゅうや内村うちむら鑑三かんぞうなどすうにん人物じんぶつ思想しそう行動こうどうとを解析かいせきし、インサイダーすなわち正統せいとう主義しゅぎ、オーソドクシイのありべきかたち個所かしょ獲得かくとくのためのヒントを呈示ていじした。小林こばやしは、この河上かわかみ一連いちれん作業さぎょう保持ほじする意味いみのうち、人物じんぶつの「列伝れつでん」という歴史れきし表現ひょうげん側面そくめんにスポットライトをてて[注釈ちゅうしゃく 43]、『かんがえるヒント』で紹介しょうかいしている[38][注釈ちゅうしゃく 44]

また、現代げんだいでは牧歌ぼっかてきぎる態度たいどわざるをないが、小林こばやしの『感想かんそう冒頭ぼうとうにおける小林こばやし自身じしんちょう自然しぜんてき体験たいけんだんには、ベルクソンの俗流ぞくりゅう神秘しんぴ主義しゅぎ影響えいきょうみとめられるかもれない。

戦前せんぜんのカントをろんじた小林こばやし初期しょき文章ぶんしょうでは、カントの人倫じんりん重視じゅうし形而上学けいじじょうがくを「窮余きゅうよ一策いっさく」とひょうしたものがある。この小林こばやし形而上学けいじじょうがくかんはベルクソンをろんじるにあたってみずからの姿勢しせいあん表明ひょうめいしているものとおもわれる。しかし、がいしてベルクソンの進化しんかろん哲学てつがく体系たいけいは、小林こばやしがそれとしんじた(しんじたがった)ほどには精神せいしんてきでも芸術げいじゅつてきでもなく、小林こばやし文筆ぶんぴつ活動かつどうにおいて我々われわれろんじる価値かちのあると分野ぶんや比較ひかくして素朴そぼくであり、楽天的らくてんてきぎるのであって、そこから小林こばやし期待きたいするものをげるのは困難こんなんであったとえるであろう。

ベルクソンは生命せいめい活動かつどう砲弾ほうだん戦争せんそうのようなイマージュによって提示ていじする。事実じじつ歴史れきしはそのようになったのであって、戦後せんごのベルクソンの平和へいわ活動かつどうにもかかわらず、生物せいぶつがくてき民族みんぞく主義しゅぎ進化しんかろん哲学てつがくほうじるナチス・ドイツユダヤひと哲学てつがくしゃベルクソンのパリ占拠せんきょすることになったのである。ベルクソンは遺稿いこう公開こうかいきんじてナチス占領せんりょうのパリでひっそりと最期さいごむかえ、ベルクソンの膨大ぼうだい遺稿いこう期待きたいしながら戦後せんごむかえた小林こばやしはそれをり「ずかしかった」と告白こくはくしている[注釈ちゅうしゃく 45]

1963ねん昭和しょうわ38ねん)に、小林こばやしソ連それん作家さっか同盟どうめいまねきでほうソしたのをに、5ねん歳月さいげつをかけたベルクソンろん中断ちゅうだんした[注釈ちゅうしゃく 46]のち小林こばやし数学すうがくしゃおかきよしとの対談たいだんで、中断ちゅうだん理由りゆうとして「無学むがくりきることが出来できなかったから」とべている[39]

小林こばやし封印ふういんしたベルクソンろん感想かんそう』は本人ほんにん意志いしとは無関係むかんけいに、生誕せいたんひゃくねん記念きねんした小林こばやし秀雄ひでお全集ぜんしゅうだい5)・別巻べっかんとして公刊こうかんされた。


1960ねん安保あんぽ前後ぜんこう[編集へんしゅう]

1951ねん昭和しょうわ26ねん)、アメリカとの片面かためん講和こうわきゅう日米にちべい安保あんぽ条約じょうやくによっていちおう区切くぎりのいた戦後せんご日本にっぽんには、戦後せんごニューヨーク本部ほんぶうつしてしん体制たいせいとして再建さいけんされた国連こくれんへの参加さんかたいする、常任じょうにん理事りじこくソ連それん拒否きょひけんという障碍しょうがい存在そんざいした。1956ねん昭和しょうわ31ねん)の鳩山はとやま一郎いちろう内閣ないかくによる戦後せんご国交こっこう回復かいふくは、このような状況じょうきょうおこなわれた。にち共同きょうどう宣言せんげんは、戦後せんごしん日本にっぽん再建さいけんけた国際こくさい社会しゃかいへの本格ほんかく復帰ふっきはじまりとして、国内こくない世論せろん歓迎かんげいムードにいた。しかし、つづ1960ねん昭和しょうわ35ねん)のしん安保あんぽ条約じょうやくは、冷戦れいせん構造こうぞうでのアメリカにたいする日本にっぽん一方いっぽうてき従属じゅうぞく決定けっていづけるものであり、戦後せんご日本にっぽん独立どくりつこくとしての将来しょうらいへの期待きたいまった裏切うらぎるものとして国内こくない世論せろんはげしい抵抗ていこうにもかかわらず強行きょうこうてき締結ていけつされた[注釈ちゅうしゃく 47]

1960ねん昭和しょうわ35ねん安保あんぽ前後ぜんご小林こばやしは、NHKラジオ新年しんねん放送ほうそうに、吉田よしだしげる[40][注釈ちゅうしゃく 48]や、南原なんばらしげる鈴木すずき大拙だいせつ手塚てづか富雄とみお[41]とも参加さんかしている[注釈ちゅうしゃく 49]

戦前せんぜんからつくもとしゃ顧問こもんとして関係かんけいしてきた小林こばやしは、こうせんあいだもない1948ねん昭和しょうわ23ねん取締役とりしまりやくとなり、東京とうきょう支社ししゃはのれんけされべつ法人ほうじんとなった。1951ねん昭和しょうわ26ねん)に現代げんだい社会しゃかい科学かがく叢書そうしょ刊行かんこうされ、だいいちかい配本はいほんフロム自由じゆうからの逃走とうそう』はベストセラーとなる[42]1954ねん昭和しょうわ29ねん)にいち倒産とうさん東京とうきょうそうもとしゃ」として再開さいかいしたが、1961ねん昭和しょうわ36ねん)に再度さいど倒産とうさんし、小林こばやし取締役とりしまりやく辞任じにんする。

このとし小林こばやしは、「かんがえるヒント」として、評論ひょうろん忠臣蔵ちゅうしんぐらI・II」を発表はっぴょう[43]。ここで結語けつごなかで、「……現代げんだいじんには、現実げんじつ世界せかいは、自由じゆう批判ひはんくっし、現状げんじょう維持いじにも革新かくしんにもおうずるとった姿すがたえいずる傾向けいこうがあるが、当時とうじ武士ぶしたちには、勿論もちろん、そんな心理しんり傾向けいこう無縁むえんであって、彼等かれらは、ただ退すさきならぬ転変てんぺんをそのままおさめれて、これにもだしてしょした」とき、みずからを仮託かたくしているようにめなくもない。「これは、原理げんりてきには簡明かんめいことで、行動こうどうじんから知識ちしきじんへの転向てんこうであった」とつづいている。他方たほうで、どう時期じき講演こうえん現代げんだい思想しそう」では、本題ほんだいをそれて「て」をろんじており、そのこえ調子ちょうしおもしずっている。小林こばやしの「て」についての見方みかたは、中国ちゅうごく古典こてんいにした「てて市場いちばにいる」というものである。これは、かつて「西行さいぎょう」においてげ、重視じゅうししながらも「馬鹿ばか正直しょうじきつたなうた」とひょうしたさくている[44]

てたれどかくれてまぬひとになればなお(なほ)にあるにたるなりけり

晩年ばんねん[編集へんしゅう]

1963ねん昭和しょうわ38ねん)のほうソで、小林こばやしドストエフスキーはかおとずれるなどし、ソ連それんロシアについてのいくつかの文章ぶんしょうのこしている。「ネヴァかわ」では、前年ぜんねんぼっした正宗まさむね白鳥しらとりの、『つみばち』の最後さいご登場とうじょうするネヴァかわとお姿すがた回想かいそうとしていている[45]。このほうソで『感想かんそう』を中断ちゅうだんしてしばらくすると、小林こばやしは『ほんきょ宣長のりなが』の連載れんさいはじめる。小林こばやしには戦時せんじちゅうから日本にっぽん古典こてん文学ぶんがく芸能げいのう絵画かいが骨董こっとうについての文章ぶんしょう数多かずおおいが、日本にっぽん古典こてんについてのまとまった仕事しごとはこれが最初さいしょ最後さいごのものとなる。

吉本よしもと隆明たかあきは、戦後せんご小林こばやしについては「ぼく左傾さけいし、熱心ねっしんとはえない読者どくしゃになったころ小林こばやし秀雄ひでおは、「無常むじょうということ」の延長線えんちょうせんじょうの、あるじられた領域りょういきなかでくるくる巡回じゅんかいしているだけではないか、とおもえてきたんですね。左翼さよくからると尚更なおさらそうなのですが、いい文章ぶんしょういてはいるんだけれども、思想しそうてき停滞ていたいかんじざるをない。」小林こばやし秀雄ひでお晩年ばんねん作品さくひんほんきょ宣長のりなが』についても「宣長のりながろん勘所かんどころは、ふたつあるとおもいます」、「記紀きき神話しんわかれたことをそのまま素直すなおればいいという宣長のりながかんがえ」「かんでいやに正確せいかく古典こてん日本語にほんご読解どっかいをやっているなという国学こくがくしゃとしての宣長のりなが」「そのてん考察こうさつけているとともに、停滞ていたいかんだけはいかんともしがたく、その論旨ろんし書評しょひょうきました」とべている[46]

小林こばやしにおける通常つうじょう心理しんりがくえるしょ問題もんだいについての関心かんしんは、『モオツァルト』、『感想かんそう』、『ほんきょ宣長のりなが』に後続こうぞくする、さい晩年ばんねん未完みかんとなった『正宗まさむね白鳥しらとりさくについて』(1981ねん昭和しょうわ56ねん) - 1983ねん昭和しょうわ58ねん))までにいたる。ここで小林こばやしは、フロイトとユング師弟してい共同きょうどう作業さぎょう言及げんきゅうし、ユングの『自伝じでん』をめぐる逸話いつわなかで、「しん現実げんじつつねにまつわる説明せつめいしがたい要素ようそなぞ神秘しんぴのままにとどめくのが賢明けんめい・・・」とある文章ぶんしょう引用いんようしかけた地点ちてんで、絶筆ぜっぴつとなった[注釈ちゅうしゃく 50]

東慶寺とうけいじにある小林こばやし秀雄ひでおはか

逸話いつわとう[編集へんしゅう]

小林こばやし批評ひひょう個性こせいてき文体ぶんたい詩的してき表現ひょうげんち、さまざまな分野ぶんや評論ひょうろん知識ちしきじん影響えいきょうあたえた。小林こばやしがもたらしたしん時代じだい批評ひひょう形式けいしきたいして、創造そうぞうてき批評ひひょう、という評語ひょうご文学ぶんがくかいあらわれた[注釈ちゅうしゃく 51][47][48][49]文学ぶんがく批評ひひょうまらず、西洋せいよう絵画かいが評論ひょうろんがけ、ランボー、アラン、アンドレ・ジッドサント・ブーヴジャック・リヴィエールひとし翻訳ほんやくおこなった[50]酒癖さけぐせわるく、深酔ふかよいすると周囲しゅういひとにからみはじめ、相手あいてすかいかすまでやめなかったという。日本語にほんごつうじないアメリカへいまでかせたという伝説でんせつ周囲しゅういささやかれていた[51]鎌倉かまくら在住ざいじゅう[注釈ちゅうしゃく 52]し、文化ぶんか遺産いさん風致ふうち地区ちく保存ほぞん運動うんどうにも影響えいきょうりょくをもっていた。

系譜けいふ[編集へんしゅう]

小林こばやし祖先そせん信州しんしゅう上田うえだである。1705ねん宝永ほうえい2ねん信州しんしゅう上田うえだはんから仙石せんごく政明まさあき但馬たじま出石いずしはん入部にゅうぶし、1871ねん明治めいじ4ねん)の廃藩置県はいはんちけんまで出石いずしはん仙石せんごく支配しはいした。小林こばやしはその仙石せんごく家臣かしんだった。小林こばやし秀雄ひでおちち豊造とよぞう兵庫ひょうごけん出石いずしまちざいははむら東里とうり農家のうか清水しみずまれ、7代目だいめ小林こばやし友右衛門ともえもん富子とみこ夫妻ふさい養嗣子ようししとなった。 — 郡司ぐんじ勝義まさよし[注釈ちゅうしゃく 53]小林こばやし秀雄ひでおおも その世界せかいをめぐって』(文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう1993ねん平成へいせい5ねん))、107 - 108ぺーじ

                            (清水しみず小林こばやしみぎ衛門えもん重秋しげあき小林こばやし友右衛門ともえもん…(中略ちゅうりゃく)…小林こばやし友右衛門ともえもん……小林こばやし豊造とよぞう小林こばやし秀雄ひでお
                              ┃
                      清水しみず甚兵衛じんべえ━━━┛

おも著作ちょさく[編集へんしゅう]

  • 様々さまざまなる意匠いしょう
  • 『Xへの手紙てがみ
  • 志賀しが直哉なおや
  • 私小説ししょうせつろん
  • 『ドストエフスキイの生活せいかつ』(最初さいしょ長編ちょうへん評論ひょうろん
  • 無常むじょうといふこと
  • わたし人生じんせいかん
  • モオツァルト
  • ゴッホの手紙てがみ
  • 近代きんだい絵画かいが
  • かんがへるヒント』
  • 真贋しんがん』(美術びじゅつろん
  • 感想かんそう』(未完みかんベルクソンろん
  • ほんきょ宣長のりなが

著作ちょさくしゅう現行げんこう[編集へんしゅう]

対談たいだん現行げんこう[編集へんしゅう]

  • 人間にんげん建設けんせつ』(おかきよしと、新潮しんちょう文庫ぶんこ、2010ねん解説かいせつ茂木もき健一郎けんいちろう))
  • 小林こばやし秀雄ひでお対話たいわしゅう』(講談社こうだんしゃ文芸ぶんげい文庫ぶんこ、2005ねん)、ワイドばん2017ねん(12めいとの対話たいわ
  • 直観ちょっかんみがくもの 小林こばやし秀雄ひでお対話たいわしゅう』(新潮しんちょう文庫ぶんこ、2014ねん) ※ 12めいとの対話たいわ講談社こうだんしゃばんとはことなる収録しゅうろく

おも翻訳ほんやく[編集へんしゅう]

DVD・CD[編集へんしゅう]

関連かんれん書籍しょせき[編集へんしゅう]

  • しんてい 小林こばやし秀雄ひでお全集ぜんしゅう 別巻べっかんII 批評ひひょうへのみち づけ 年譜ねんぷ書誌しょし』(新潮社しんちょうしゃ、1979ねん
    • 『このひと小林こばやし秀雄ひでお全集ぜんしゅう月報げっぽう集成しゅうせい』(新潮しんちょう文庫ぶんこ、2014ねん)。上記じょうき文庫ぶんこ一部いちぶ
  • 小林こばやし秀雄ひでおぜん作品さくひん 別巻べっかんIII 無私むしみちうえ)』(新潮社しんちょうしゃ、2005ねん
  • 『レクイエム小林こばやし秀雄ひでお』(吉田よしだ熈生へん講談社こうだんしゃ、1983ねん記事きじ追悼ついとう論集ろんしゅう
  • 小林こばやし秀雄ひでお 群像ぐんぞう日本にっぽん作家さっか 14』(小学館しょうがくかん、1991ねん
  • 小林こばやし秀雄ひでお 鑑賞かんしょう日本にっぽん現代げんだい文学ぶんがく 16』(清水しみずたかしじゅんへん角川書店かどかわしょてん、1981ねん
  • 文芸ぶんげい読本とくほん 小林こばやし秀雄ひでお』(河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ、1983ねん
  • KAWADEゆめムック そう特集とくしゅう小林こばやし秀雄ひでお』(河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ、2003ねん
  • 小林こばやし秀雄ひでお必携ひっけい』(吉田よしだ熈生へんがくとうしゃ新版しんぱん1993ねん) ※ 以上いじょう年譜ねんぷおも参考さんこう文献ぶんけん目録もくろく収録しゅうろく
  • 郡司ぐんじ勝義まさよし『わが小林こばやし秀雄ひでおノート 向日性こうじつせい時代じだい』(未知みちだに、2000ねん
  • 郡司ぐんじ勝義まさよし批評ひひょう出現しゅつげん わが小林こばやし秀雄ひでおノート だい』(未知みちだに、2000ねん
  • 郡司ぐんじ勝義まさよし歴史れきし探究たんきゅう わが小林こばやし秀雄ひでおノート だいさん』(未知みちだに、2001ねん
  • 神山かみやま睦美むつみ小林こばやし秀雄ひでお昭和しょうわ』(思潮しちょうしゃ、2010ねん
  • 廣木ひろきやすし小林こばやし秀雄ひでお夏目なつめ漱石そうせき―その経験けいけん主義しゅぎうちはつてきせい』(総和そうわしゃ、2013ねん
  • 若松わかまつ英輔えいすけ小林こばやし秀雄ひでお うつくしいはな』(文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、2017ねん文春ぶんしゅん文庫ぶんこ、2021ねん
  • 学生がくせいとの対話たいわ』(国民こくみん文化ぶんか研究けんきゅうかいへん新潮社しんちょうしゃ、2014ねん新潮しんちょう文庫ぶんこ、2017ねん
    九州きゅうしゅうでの研修けんしゅう講義こうぎ質疑しつぎ応答おうとう(1961ねん昭和しょうわ36ねん) - 1978ねん昭和しょうわ53ねんなつに、けい5おこなった)
  • 小林こばやし秀雄ひでお 江藤えとうあつしぜん対話たいわ』(中公ちゅうこう文庫ぶんこ、2019ねん平山ひらやま周吉しゅうきち解説かいせつ

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 高見澤たかみざわ潤子じゅんこの『あに小林こばやし秀雄ひでお』によると、実際じっさい誕生たんじょうは3がつまつだったという。
  2. ^ 本名ほんみょう高見澤たかみざわ 富士子ふじこ(たかみざわ ふじこ、1904‐2004)。牛込うしごめ現在げんざい新宿しんじゅく牛込うしごめ出身しゅっしん東京女子大学とうきょうじょしだいがく英語えいご専攻せんこうそつ高見澤たかみざわ潤子じゅんこのぶこうペンネーム戯曲ぎきょく小説しょうせつ随筆ずいひつ執筆しっぴつクリスチャン荻窪おぎくぼ教会きょうかい長老ちょうろうとしても活動かつどうした。あに秀雄ひでお関係かんけい著作ちょさくに『あに小林こばやし秀雄ひでおとの対話たいわ講談社こうだんしゃ現代新書げんだいしんしょ、1970ねん昭和しょうわ45ねん)、新版しんぱん講談社こうだんしゃ文芸ぶんげい文庫ぶんこ。『あに 小林こばやし秀雄ひでお新潮社しんちょうしゃ、1985ねん昭和しょうわ60ねん)。かく海竜かいりゅうしゃで『きることかされること あに小林こばやし秀雄ひでお心情しんじょう』1987ねん、『きることはあいすること あに小林こばやし秀雄ひでお実践じっせん哲学てつがく』1993ねん、『人間にんげんかたかた けい小林こばやし秀雄ひでお足跡あしあと』1995ねん がある。「年譜ねんぷ――小林こばやし秀雄ひでお小林こばやし秀雄ひでおぐり講談社こうだんしゃ文芸ぶんげい文庫ぶんこ1990ねん平成へいせい2ねん) p.367、吉田よしだ凞生「小林こばやし秀雄ひでお年譜ねんぷ」『群像ぐんぞう 日本にっぽん作家さっか14 小林こばやし秀雄ひでお小学館しょうがくかん1991ねん平成へいせい3ねん) p.336
  3. ^ 平野ひらのけん母方ははかた祖父そふ千葉ちば小林こばやし秀雄ひでお母方ははかた祖母そぼしろたにやす(旧姓きゅうせい千葉ちば)とは、兄妹きょうだい関係かんけいにある。
  4. ^ 東京とうきょう高等こうとう工業こうぎょう学校がっこう機械きかい卒業そつぎょう東京とうきょうだかこう助教授じょきょうじゅとなり、文部省もんぶしょうから派遣はけんされて、欧米おうべい貴金属ききんぞくかい視察しさつ帰国きこく御木本みきもと貴金属ききんぞく工場こうじょう工場こうじょうちょうとなる。さらに欧米おうべい各国かっこく装身具そうしんぐ工場こうじょう見学けんがく
  5. ^ 1928ねん昭和しょうわ3ねん)2がつ成城せいじょう高校こうこう国語こくご教師きょうし村井むらい康男やすお紹介しょうかいで、東大とうだい在学ざいがくちゅう小林こばやし秀雄ひでおからフランス語ふらんすご教授きょうじゅける」大岡おおおか昇平しょうへいりゃく年譜ねんぷ」『わが文学ぶんがく生活せいかつ中公ちゅうこう文庫ぶんこ1981ねん昭和しょうわ56ねん) p.7という資料しりょうもある。富永とみなが大岡おおおか村井むらい門下もんか
  6. ^ 編集へんしゅう部員ぶいん箕輪みのわいち立教りっきょう)、鈴木すずき一意いちい早大そうだい)、水島みずしま治男はるお早大そうだい)、佐藤さとう績(早大そうだい)、上林うえばやしあきら東大とうだい)とわたしろくにんで、鈴木すずきのぞけば、みな学校がっこうあいだのない若手わかてだった。わたし一番いちばん新参しんざんであった。かずひゃくへんたかったなかから最後さいごへんのこった。宮本みやもと顕治けんじの『敗北はいぼく文学ぶんがく』と小林こばやしの『様々さまざまな〔ママ意匠いしょう』である。一等いっとういちへんきんせんえんとういちへんきんひゃくえんという規定きていだったが、どちらを一等いっとうにすべきか編集へんしゅうまよった。いろいろ議論ぎろんしたがケリがつかないので投票とうひょうということになった。結果けっかさんたいさん。そこでまたまよった。小林こばやしのは新風しんぷうちがいないが難解なんかいであった。それにはん宮本みやもとのは左翼さよく立場たちばから芥川あくたがわ龍之介りゅうのすけろんじたもので、議論ぎろん単純たんじゅん明快めいかい言葉ことばちからがこもっていた。結局けっきょく左翼さよく文学ぶんがくいきおいをふるっていた当時とうじ文壇ぶんだん形勢けいせいからしても、『敗北はいぼく文学ぶんがく』を一等いっとうすのが至当しとうということにきまった。」[2]
  7. ^ このあと『世界せかい文學ぶんがく1946ねん昭和しょうわ21ねん)10がつごう近代きんだい文學ぶんがく同人どうじんによる座談ざだんかい近代きんだい文學ぶんがく反省はんせい」が掲載けいさいされている。
  8. ^ のちに、チェーホフイプセンなどの西洋せいようげき機会きかいて、戯曲ぎきょく舞台ぶたいじょうにあってきることについて感嘆かんたんし、西洋せいよう戯曲ぎきょくろんじた文章ぶんしょう対談たいだん発言はつげんのこしている。小林こばやし秀雄ひでお「チェホフ」『批評ひひょう』1948ねん11がつごう所収しょしゅう、『作家さっかかお新潮しんちょう文庫ぶんこ1961ねん昭和しょうわ36ねん) pp.240 - 248、小林こばやし秀雄ひでお「『ヘッダ・ガブラー』」『新潮しんちょう1950ねん昭和しょうわ25ねん)12がつ所収しょしゅう、『作家さっかかお新潮しんちょう文庫ぶんこ1961ねん昭和しょうわ36ねん) pp.263 - 275、「悲劇ひげきについて」『演劇えんげき1951ねん昭和しょうわ26ねん)6がつ創刊そうかんごう pp.38 - 41、小林こばやし加藤かとう周一しゅういち対談たいだん演劇えんげき理想りそうぞう」『演劇えんげき』1951ねん7がつごう pp.16 - 24、久保田くぼた万太郎まんたろう今日きょう出海でうみ永井ながい龍男たつお小林こばやし座談ざだんかい「オスロ土産みやげばなし」『演劇えんげき』1951ねん8がつごう pp.60 - 67、福田ふくだひさしそん小林こばやし対談たいだん芝居しばい問答もんどう」『演劇えんげき』1951ねん11がつごう pp.32 - 44
  9. ^ ただし、ランボーを象徴しょうちょう詩人しじんなすかかについて、小林こばやしにおいてはじゅうだい評価ひょうかと、それ以後いごでは変化へんかする。
  10. ^ 「だが、もはやわたしには、かれかんするどんな分析ぶんせききょうない。」「アルチュル・ランボオⅡ」『地獄じごくぶし白水しろみずしゃ1930ねん昭和しょうわ5ねん所収しょしゅう。(現行げんこうタイトル「ランボオⅡ」)小林こばやし秀雄ひでおかんがえるヒント4 ランボオ・中原なかはら中也ちゅうや文春ぶんしゅん文庫ぶんこ1980ねん昭和しょうわ55ねん) p.27
  11. ^ 江藤えとうあつしによる判断はんだんは、「よんねんまえなつにはかれ内外ないがいに「現存げんそん」していたランボオが、このときはもう回復かいふくしようもなくうしなわれているのである」となる。江藤えとうあつし小林こばやし秀雄ひでおろんよん)」『こえだい9ごう 丸善まるぜん1960ねん昭和しょうわ35ねん) p.59
  12. ^ 実存じつぞん主義しゅぎ#歴史れきし参照さんしょう
  13. ^ 武者小路むしゃのこうじ実篤さねあつ主宰しゅさい雑誌ざっし武藤むとう康史やすし小林こばやし秀雄ひでお交遊こうゆうみどり」『小林こばやし秀雄ひでおひゃくねんのヒント』『新潮しんちょう』2001ねん4がつ臨時りんじ増刊ぞうかん p.299
  14. ^ 小林こばやし年少ねんしょう知人ちじんであった大岡おおおか昇平しょうへい言葉ことばりる。「わたし人生じんせい大正たいしょう文壇ぶんだんいやわるしていたが、芥川あくたがわは、人生じんせいはたしてきるにあたいするものか、自殺じさつすべきか、についてかんがなおしをいるものだった。(中略ちゅうりゃく)そんなとき村井むらいさんがしてくれた『だい調和ちょうわ』の「芥川あくたがわ龍之介りゅうのすけ美神びしん宿命しゅくめい」は、これらの青春せいしゅんなやみを解放かいほうしてくれたものだった。芥川あくたがわ文学ぶんがく神経しんけい文学ぶんがくとして相対そうたいしてくれた。芥川あくたがわ遺稿いこうで、イエスをき、ヴォルテール、ボードレールを引用いんようして、思想しそう文学ぶんがくめかしていた。小林こばやしさんは「芥川あくたがわ]を「逆説ぎゃくせつというものがなにであるかをらなかった逆説ぎゃくせつ」とこきろして、ヴォルテールをらない少年しょうねん安心あんしんさせた」大岡おおおか昇平しょうへいおしえられたこと」『新潮しんちょう』4がつ臨時りんじ増刊ぞうかんごう1983ねん昭和しょうわ58ねん) p.89
  15. ^ 村井むらいさんは、村井むらい康男やすお当時とうじ旧制きゅうせい成城せいじょう高等こうとう学校がっこう教師きょうし東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく文学部ぶんがくぶ国文学こくぶんがくそつ。1929ねん昭和しょうわ4ねん同人どうじん雑誌ざっし白痴はくちぐん』に参加さんか同人どうじんは、中原なかはら中也ちゅうや富永とみなが次郎じろう大岡おおおか昇平しょうへい河上かわかみ徹太郎てつたろう阿部あべ六郎ろくろう内海うつみちかい一郎いちろう古谷ふるや綱武つなたけ安原やすはら喜弘よしひろ村井むらい。『天上てんじょう大風おおかぜ村井むらい康男やすお遺文いぶんしゅう 村井むらい福子ふくこ1984ねん昭和しょうわ59ねん) pp.202 - 203
  16. ^ 小林こばやしは、『かざり』の前半ぜんはん21へんを『作品さくひん』1930ねん5がつ創刊そうかんごうから同年どうねん10がつごうまでに訳載やくさい
  17. ^ ランボーのいわゆる「しゃ書簡しょかん」には進行しんこうちゅうパリ・コミューンへのつよ共感きょうかんせ、将来しょうらい労働ろうどうしゃとしてきる決意けついべた箇所かしょがある。ただし、詩作しさくちゅうのランボーはコミューンのたたかいにはみずか参加さんかするつもりはないといている。パリ・コミューンにはマルクスも関与かんよしていた。
  18. ^ 1931ねん昭和しょうわ6ねん)ボードレールの『あくはな』5へんを3かいにわたり『作品さくひん』1931ねん7がつごうから9がつごう翻訳ほんやくぶん。なお、ランボオ『酩酊めいていせん』を同年どうねん11がつ白水しろみずしゃより刊行かんこう堀内ほりうち達夫たつお小林こばやし秀雄ひでお年譜ねんぷ」『文芸ぶんげい読本とくほん 小林こばやし秀雄ひでお河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ1983ねん昭和しょうわ58ねん) p.263
  19. ^ 初期しょき小林こばやし評論ひょうろんには「批評ひひょうとは対象たいしょうをダシにしてみずからをかたること」という言及げんきゅうえるが、「マルクスのさとるたち小林こばやしのひらをかえすように「批評ひひょうとはなにとしてもみずからを棚上たなあげすること」といている。
  20. ^ 「Xへの手紙てがみ」がかれた段階だんかいでは、すで卒業そつぎょうしたこととして「書物しょもつ傍点ぼうてんしてなか理解りかいしようとするような小癪こしゃくこしゃく真似まね」というような自己じこ告白こくはくがある。周辺しゅうへん人物じんぶつによる戦後せんご小林こばやしへの回想かいそうでは、ベルクソンの著作ちょさく傍線ぼうせんだらけにして、愛着あいちゃくもっせっする小林こばやし姿すがたがある。
  21. ^ 1933ねん昭和しょうわ8ねん)『文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう』1がつごうに「『永遠えいえん良人りょうじん』」を掲載けいさい
  22. ^ 1936ねん昭和しょうわ11ねん)1がつ高齢こうれい旧人きゅうじん里見さとみ宇野うの浩二こうじ豐島としま與志雄よしお廣津ひろつ和郎かずお排除はいじょし、『文學ぶんがくかい同人どうじん改組かいそことわりにやく小林こばやしたした。あらたに加入かにゅうしたのは、村山むらやま知義ともよし島木しまき健作けんさく森山もりやまあきら舟橋ふなばし聖一せいいち阿部あべ知二ともじ河上かわかみ徹太郎てつたろう江藤えとうあつし小林こばやし秀雄ひでおろんかん)」『こえだい10ごう 丸善まるぜん、1961ねん昭和しょうわ36ねん) p.70、74
  23. ^ 青年せいねん』では、長州ちょうしゅう高杉たかすぎ晋作しんさく井上いのうえ聞多伊藤いとう俊輔しゅんすけ、さらにアーネスト・サトウといった幕末ばくまつ青年せいねんぐんぞう姿すがた描写びょうしゃされている。
  24. ^ 検挙けんきょされた戸坂とさか仮釈放かりしゃくほうされた時期じきには、小林こばやし哲学てつがくしゃ三木みききよしともに、あきらかに戸坂とさかへの共感きょうかん意識いしきさせるような対談たいだんおこなっている。三木みきもまた共産きょうさん党員とういん逃亡とうぼう手助てだすけしたかどで検挙けんきょされ、拘留こうりゅう状態じょうたいのまま戦後せんごあいだもなく獄中ごくちゅうした。
  25. ^ このとき中野なかの重治しげはる論争ろんそう相手あいてであった。
  26. ^ 1937ねん6がつごう大岡おおおか昇平しょうへいが「チャーチル『世界せかい大戦たいせん』の書評しょひょう」を発表はっぴょう。このころ小林こばやし河上かわかみは『文學ぶんがくかい』を総合そうごう雑誌ざっしちかづけようという編輯へんしゅう方針ほうしんっていた。大岡おおおか昇平しょうへい・ききて『わが文学ぶんがく生活せいかつ中公ちゅうこう文庫ぶんこ1981ねん昭和しょうわ56ねん) p.81
  27. ^ 戦後せんごになって小林こばやしは、キルケゴール影響えいきょうけたとわれるノルウェー戯曲ぎきょくイプセンについての作家さっかろん「ヘッダ・ガプラー」において、その作品さくひん人民じんみんてきちゅうの「自由じゆう主義しゅぎしゃとは、自由じゆうじんむかつべきもっと狡猾こうかつてきだ」という台詞せりふいている。
  28. ^ 初出しょしゅつしょう。のちに1946ねん昭和しょうわ21ねんはやしちょ歴史れきし暮方くれがた』におさめられる。小林こばやしはやし応酬おうしゅう1969ねん昭和しょうわ44ねん)、高橋たかはし英夫ひでおが『中央公論ちゅうおうこうろん』1がつごうに「はやし達夫たつお」として対象たいしょうさいろく
  29. ^ 60ねん安保あんぽ締結ていけつ直後ちょくご1960ねん昭和しょうわ35ねん)に火野ひのたっするが、小林こばやし取締役とりしまりやくつとめる東京とうきょうそうもとしゃ自身じしんの「全集ぜんしゅう刊行かんこう最中さいちゅうであった。
  30. ^ 小林こばやし全集ぜんしゅう収録しゅうろくされている「文學ぶんがくかい」の小林こばやしによる編集へんしゅう後記こうき岡本おかもとかのについてれたつきわっている[23]
  31. ^ 出席しゅっせきは、あら正人まさと小田切おだぎり秀雄ひでお佐々木ささき基一きいち埴谷はにやゆうだか平野ひらのけん本多ほんだあきなど、「近代きんだい文学ぶんがく創立そうりつメンバー。
  32. ^ 資格しかく審査しんさ煩雑はんざつなため」とわれる。小林こばやし当初とうしょ講師こうしとして明大めいだい勤務きんむはじめたが、戦争せんそう協力きょうりょくはじめた時期じき教授きょうじゅ昇格しょうかくしている。
  33. ^ 小林こばやしに「カラスのいる麦畑むぎばたけ複製ふくせい提供ていきょうもした宇野うの千代ちよ経営けいえい編集へんしゅうし、その所縁しょえんもあり「ゴッホの手紙てがみ」ほか小林こばやし原稿げんこうおおくを宇野うの千代ちよ所蔵しょぞうした。
  34. ^ 小林こばやし自身じしんは『ゴッホの手紙てがみ』を書簡しょかんしゅうの「しょうやく」とんでいる。[よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう]
  35. ^ 近代きんだい合理ごうり主義しゅぎてき聖書せいしょがくちちであるフランスのエルネスト・ルナンは、ダーウィンの「たね起源きげん公表こうひょうまもない時期じきに、キリストの「人間にんげん宣言せんげん」をおこなって物議ぶつぎかもした。
  36. ^ 小林こばやしはプラトンの著作ちょさくにおいて、どこまでがソクラテスで、どこからがプラトンであるのかという問題もんだいについてのみずからの見解けんかい表明ひょうめいしている。「悪魔あくまてきなもの」『講座こうざ現代げんだい倫理りんり2』筑摩書房ちくましょぼう1958ねん昭和しょうわ33ねん所収しょしゅう小林こばやし秀雄ひでおぐり講談社こうだんしゃ文芸ぶんげい文庫ぶんこ1990ねん平成へいせい2ねん) pp.220 - 221
  37. ^
    プラトンは、どこまでソクラテスという実在じつざい人物じんぶつ勝手かって創作そうさくしたか、というような問題もんだいほとん無意味むいみであろう。ソクラテスの登場とうじょうしないプラトンの「対話たいわへん」などかんがえられないし、「対話たいわへん」のうらよみがえらなければ、このいちぎょうのこすことをしなかった賢人けんじんは、風変ふうがわりないち政治せいじはんとしてんでいただろう。ともあれ、「対話たいわへん」にあらわれるソクラテスの姿すがたには、こうがた魅力みりょくがある。おそらく、この人物じんぶつたいするプラトンの感嘆かんたんじょうが、そのまま人間にんげんかたちをとったものであろうか。この人間にんげんかたち分析ぶんせき拒絶きょぜつしてきている。プラトンはソクラテスの思想しそうかたろうとしているのか、ソクラテスを利用りようして自分じぶん思想しそうかたろうとしているのか、そういうことは、プラトン自身じしんにもわからなかったことではあるまいか。プラトンはソクラテスの弟子でしだったとわれるが、このおそれるべき実行じっこうに、青年せいねんプラトンが、その思想家しそうか詩人しじんとしてのぜん未来みらいけたということには、なに不思議ふしぎなものがかんじられる。かれは、そう決意けついしたのか、そう自分じぶん自身じしんちかったのか。それとも、かれにもかれのダイモンがあって、そう合図あいずされたのか。――「悪魔あくまてきなもの」
  38. ^ 西欧せいおうキリスト教きりすときょう宗教しゅうきょう裁判さいばん消滅しょうめつするのは、19世紀せいきなかばの「たね起源きげん」からしばらくしてからのことである。ダーウィン学説がくせつこした論争ろんそう影響えいきょうによる「自由じゆう以前いぜん大学だいがくとは、すなわち神学校しんがっこう意味いみした。ダーウィン自身じしんも『たね起源きげん』について尋問じんもんけるためにしをされた。
  39. ^ たん生物せいぶつだけにとどまらず、宇宙うちゅうそのものが進化しんかするという形而上学けいじじょうがくせつ
  40. ^ 今時いまどき、ハクスリーやスペンサー、ベルクソンのような古色こしょく蒼然そうぜんたる哲学てつがくしゃ言挙ことあげするのは「むちつ」ようなものであるという見方みかたはある。これについて科学かがくジャーナリストのアーサー・ケストラーが『機械きかいなか幽霊ゆうれい』で、以下いかのような問題もんだい指摘してきしている。
    ―― SPCDHという頭文字かしらもじは「愛護あいご協会きょうかい(Society for the Prevention of Cruely to Dead Horses)」のりゃくである。これは世界中せかいじゅう支部しぶをもつ秘密ひみつ結社けっしゃであって、わたしたちの現代げんだい知的ちてき気候きこうにかなりの影響えいきょうおよぼしている。その活動かつどうすうれいをあげておかなくてはならない。

    大戦たいせんのあいだ、ドイツ政府せいふろく〇〇まんにん戦闘せんとういん工場こうじょうころした。これは最初さいしょ秘密ひみつにしておかれた。事実じじつれるとSPCDHはかれらのためにいちせきべんじて、責任せきにんしゃたちを裁判さいばんにかけるのは公正こうせいでありよくないことだとろんずる方針ほうしんした。それはむちうつものだというわけである。
    ソヴェイエト政府せいふも、スターリン統治とうち時代じだいに、やりかたこそちがうがそれに匹敵ひってきする規模きぼで、野蛮やばん行為こういおこなった。西欧せいおう進歩しんぽ仲間なかまなかでそれにたいするおおやけ注意ちゅういこうとするものは、冷戦れいせん中傷ちゅうしょう気違きちがいと非難ひなんされた。スターリンの後継こうけいしゃがこの事実じじつ正式せいしきみとめると、それがまだ北京ぺきんからベルリンまで国々くにぐにらしまわつづけていたにもかかわらず、SPCDHはこのけんをただちにであると分類ぶんるいした。

    イギリスの島国根性しまぐにこんじょう階級かいきゅう差別さべつ社会しゃかいてき俗物ぞくぶつ主義しゅぎ言葉ことばのなまりでひと品定しなさだめしてしまうことなどはすべてであると宣言せんげんされ、空中くうちゅうをみたすうつろないななきは亡霊ぼうれいはっするものにちがいないとされた。アメリカのドル崇拝すうはい物質ぶっしつ主義しゅぎ大勢おおぜい順応じゅんのう主義しゅぎについてもおなじことがいえる。客間きゃくまあそびに、この一覧いちらんひょうをもっとつづけていくこともできるだろう。 — (アーサー・ケストラー機械きかいなか幽霊ゆうれい』pp.530 - 531)
  41. ^ 路線ろせん変更へんこうをした哲学てつがくしゃ現象げんしょうがく主導しゅどうしゃであり、戦後せんごに『危機ききしょ』をあらわしたエドムント・フッサールなどもいる。ベルクソンとフッサールはともにダーウィンが『たね起源きげん』を公表こうひょうした1859ねんまれである。
  42. ^ 前年ぜんねん福田ふくだひさしそん中村なかむら保男やすおともやく出版しゅっぱんしている。
  43. ^ 出版しゅっぱん事情じじょうについては言葉ことばにごしている。ウィルソンの評価ひょうかつぎさく以後いご急速きゅうそくんでいる。
  44. ^ なお、ここでは、河上かわかみ著作ちょさくのもうひとつの主軸しゅじくたる各個かっこによるインサイダー追究ついきゅうのためのダイナミズムは度外視どがいしされている。河上かわかみ徹太郎てつたろう日本にっぽんのアウトサイダー』中公ちゅうこう文庫ぶんこ1978ねん昭和しょうわ53ねん) pp.228 - 229、p.245
  45. ^
    ――先日せんじつわたしがベルグソンのほんさがしてゐることつてゐる友人ゆうじんが、“Écrits et Paroles”といふ新刊しんかんをとゞけてくれた。それは、いままで、單行本たんこうぼんおさめられてゐなかつた講演こうえん論文ろんぶんるいあつめたものであつたが、序文じょぶんんで、はじめて事情じじょうが、わたしにはあきらかになつた。かれは、よんねんまえいちきゅうさんななねんいちがつに、遺書いしょいてゐるのであつた。
    世人せじんんでもらいひたいとおもえつたすべてのものは、今日きょうまでにすんですで出版しゅっぱんしたこと聲明せいめいする。將來しょうらいわたし書類しょるいほかのうちに發見はっけんされる、あらゆる原稿げんこう斷片だんぺん、の公表こうひょうをこゝに、はつきりと禁止きんししてく。わたしすべての講義こうぎ授業じゅぎょう講演こうえんにして、聽講ちょうこうしゃのノート、あるいわたし自身じしんのノートのそんするかぎり、その公表こうひょうきんずる。わたし書簡しょかん公表こうひょう禁止きんしする。J.ラシュリエ場合ばあいには、かれ書簡しょかん公表こうひょう禁止きんしされてゐたにもかかりはらず、學士がくしいん圖書館としょかんの閱覧しゃあいだでは、自由じゆうな閱覧がゆるされてゐた。わたし禁止きんしがさういふふうほぐされることにも反對はんたいする」 — 「感想かんそう」(いち
    感想かんそう」(いち)『新潮しんちょう』1958ねん5がつごう p.33
  46. ^ 「ベルグソンの仕事しごとは、この經驗けいけん一貫いっかんせい(ユニテ)の直觀ちょっかんもとづくのであり、かれ世界せかいぞうじくはそこにある。『哲學てつがくは、ユニテに到着とうちゃくするのではない。ユニテからおこすのだ』」が最終さいしゅうかい結語けつご
  47. ^ 日米にちべいあいだ通貨つうかレートが変動へんどう相場そうばせい移行いこうしたのは70ねん安保あんぽのちで、60ねん安保あんぽ前後ぜんこうからの高度こうど経済けいざい成長せいちょうはアメリカへの輸出ゆしゅつ産業さんぎょうによって一方いっぽうてきささえられていた。
  48. ^ 戦後せんごあいだもなく小林こばやし吉田よしだみつる太平洋戦争たいへいようせんそうばん平家へいけ物語ものがたりともうべき『戦艦せんかん大和やまと最期さいご』の出版しゅっぱん尽力じんりょくし、そのえん吉田よしだしげる片腕かたうでだった白洲しらす次郎じろう知己ちきることになった。吉田よしだみつるのちに、ぎゃくコースで「名誉めいよ挽回ばんかい」したきゅうぐん関係かんけいしゃからその作品さくひん戦争せんそうへの反省はんせい態度たいどについて様々さまざまクレームけることになる。
  49. ^ 高度こうど経済けいざい成長せいちょうともにテレビが普及ふきゅうする以前いぜん時代じだいであった。
  50. ^ フロイトの『ゆめ判断はんだん』に、「読者どくしゃはどうぞわたししょ関心かんしん読者どくしゃ自身じしんのものとされて、わたし一緒いっしょになってわたし生活せいかつ細々こまごましたことなかはいっていただきたい。何故なぜなら、ゆめかくれた意味いみろうとする興味きょうみは、断乎だんことしてそういう転身てんしん要求ようきゅうするものだからである」との記載きさいがあった。この「断乎だんこたる転身てんしん」が、ユングの場合ばあい具体ぐたいてきにはフロイトからどのようなことをもとめられるやりとりになったのかを、小林こばやしはユングの『自伝じでん』の記述きじゅつから引用いんようしながら説明せつめいした。「そこには、わたしをひどくおどろかすものがあった」と小林こばやしきした。フロイトとユングは訣別けつべつし、そのあとで、ユングの『自伝じでん』をアニエラ・ヤッフェが編纂へんさんすることになるが、自伝じでん編纂へんさん作業さぎょう進行しんこうするにしたがって、ユングがその出版しゅっぱん難色なんしょくしめはじめた。ユングによる友人ゆうじんあての書簡しょかん資料しりょうとしたが、そこには、ユングがみずか強調きょうちょう追求ついきゅうしてきた内的ないてき経験けいけん純粋じゅんすいせいくるしむさまが克明こくめいしめされていた。それをまざるをえないヤッフェもめられてきた。そこで、この中断ちゅうだんしている引用いんようぶんかれた。小林こばやし秀雄ひでお正宗まさむね白鳥しらとりさくについて」- 『白鳥しらとり宣長のりなが言葉ことば文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、1983ねん昭和しょうわ58ねん) pp.102 - 107
  51. ^ 作家さっか三島みしま由紀夫ゆきおは、『文章ぶんしょう読本とくほん』(中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ)で、「日本にっぽんにおける批評ひひょう文章ぶんしょう樹立じゅりつした」と評価ひょうかしている。また、「独創どくそうてきなスタイル(文体ぶんたい)をさくつた作家さっか」としてもり鷗外ほり辰雄たつおとも小林こばやし秀雄ひでおげている。三島みしまは、「文体ぶんたいをもたない批評ひひょう文体ぶんたい批評ひひょうする資格しかくがなく、文体ぶんたいをもつた批評ひひょうは(小林こばやし秀雄ひでおのやうに)芸術げいじゅつ作品さくひんになつてしまふ。なぜかといふと文体ぶんたいをもつかぎり、批評ひひょう創造そうぞう無限むげんちかづくからである」とべ、小林こばやし秀雄ひでおたんなる批評ひひょうではなく、芸術げいじゅつとみている。
  52. ^ 長年ながねん在住ざいじゅうした鎌倉かまくらやまうえ邸宅ていたくは、晩年ばんねんふか交流こうりゅうがあった「吉井よしい画廊がろう」が、長年ながねん管理かんり保存ほぞんしていた[52]
  53. ^ 郡司ぐんじ勝義まさよしは、全集ぜんしゅうなどおおくの著書ちょしょ編集へんしゅう担当たんとうし、小林こばやし実質じっしつてき助手じょしゅ秘書ひしょだった。『小林こばやし秀雄ひでおおも』は「文春ぶんしゅん学藝がくげいライブラリー」で再刊さいかん文庫ぶんこばん2014ねん平成へいせい26ねん))。
  54. ^ 全集ぜんしゅう現行げんこうばんだい42001ねん平成へいせい13ねん)から2002ねん平成へいせい14ねん)に刊行かんこう過去かこ1950年代ねんだいつくもとしゃで、1960年代ねんだい - 1970年代ねんだい新潮社しんちょうしゃで3刊行かんこうされた。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 高見沢たかみざわ潤子じゅんこあに小林こばやし秀雄ひでお新潮社しんちょうしゃ1985ねん昭和しょうわ60ねん) p.11
  2. ^ 深田ふかた久弥ひさや小林こばやし秀雄ひでおくんのこと」『しんてい小林こばやし秀雄ひでお全集ぜんしゅう別巻べっかんII』「印象いんしょうII(だい小林こばやし秀雄ひでお全集ぜんしゅう新潮社しんちょうしゃはん月報げっぽうより」。
  3. ^ 小林こばやし秀雄ひでお全集ぜんしゅう別巻べっかん2』新潮社しんちょうしゃかんなかの「年譜ねんぷ
  4. ^ 朝日新聞あさひしんぶん1951ねん昭和しょうわ26ねん)4がつ1にち東京とうきょう本社ほんしゃ発行はっこう朝刊ちょうかん、p.2
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  51. ^ りゅう慶一郎けいいちろう 『時代じだい小説しょうせつたのしみ』 講談社こうだんしゃ文庫ぶんこ1994ねん平成へいせい6ねん)、p.23
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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • James Dorsey, Critical Aesthetics: Kobayashi Hideo, Modernity, and the War. Cambridge, MA: Center for East Asian Studies, Harvard University Press, 2009.
  • 小林こばやし秀雄ひでおぜん作品さくひん 別巻べっかんIII 無私むしみちした)』(新潮社しんちょうしゃ、2005ねん)- 年譜ねんぷ書誌しょし
  • 新潮しんちょう日本にっぽん文学ぶんがくアルバム 小林こばやし秀雄ひでお』(新潮社しんちょうしゃ、1986ねん)- 吉田よしだ熈生へん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

関連かんれん人物じんぶつ[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]