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小林 こばやし 秀雄 ひでお (こばやし ひでお、1902年 ねん 〈明治 めいじ 35年 ねん 〉4月 がつ 11日 にち [注釈 ちゅうしゃく 1] - 1983年 ねん 〈昭和 しょうわ 58年 ねん 〉3月1日 にち )は、日本 にっぽん の文芸 ぶんげい 評論 ひょうろん 家 か 、編集 へんしゅう 者 しゃ 、作家 さっか 、美術 びじゅつ ・古 こ 美術 びじゅつ 収集 しゅうしゅう 鑑定 かんてい 家 か 。日本 にっぽん 芸術 げいじゅつ 院 いん 会員 かいいん 、文化 ぶんか 功労 こうろう 者 しゃ 、文化 ぶんか 勲章 くんしょう 受章 じゅしょう 者 しゃ 。
日本 にっぽん の文芸 ぶんげい 評論 ひょうろん の確立 かくりつ 者 しゃ であり、晩年 ばんねん は保守 ほしゅ 文化 ぶんか 人 じん の代表 だいひょう 者 しゃ であった。[要 よう 出典 しゅってん ] アルチュール・ランボー 、シャルル・ボードレール などフランス 象徴 しょうちょう 派 は の詩人 しじん たち、ドストエフスキー 、幸田 こうだ 露伴 ろはん ・泉 いずみ 鏡花 きょうか ・志賀 しが 直哉 なおや らの作品 さくひん 、ベルクソン やアラン の哲学 てつがく 思想 しそう に影響 えいきょう を受 う ける。本 ほん 居 きょ 宣長 のりなが の著作 ちょさく など近代 きんだい 以前 いぜん の日本 にっぽん 文学 ぶんがく などにも造詣 ぞうけい と鑑識 かんしき 眼 め を持 も っていた。[要 よう 出典 しゅってん ]
妹 いもうと の高見沢 たかみざわ 潤子 じゅんこ [注釈 ちゅうしゃく 2] は、作家 さっか ・随筆 ずいひつ 家 か 。夫 おっと は『のらくろ 』で知 し られる漫画 まんが 家 か の田 た 河 かわ 水泡 すいほう 。
長女 ちょうじょ ・明子 あきこ の夫 おっと は、白洲 しらす 次郎 じろう ・正子 まさこ の次男 じなん ・兼 けん 正 せい 。従弟 じゅうてい は英文 えいぶん 学者 がくしゃ の西村 にしむら 孝次 たかじ 、西洋 せいよう 史 し 学者 がくしゃ の西村 にしむら 貞二 ていじ 。文藝 ぶんげい 評論 ひょうろん 家 か の平野 ひらの 謙 けん は又 また 従弟 じゅうてい [注釈 ちゅうしゃく 3] 。
1902年 ねん (明治 めいじ 35年 ねん )4月 がつ 11日 にち 、東京 とうきょう 市 し 神田 かんだ 区 く (現在 げんざい の東京 とうきょう 都 と 千代田 ちよだ 区 く )猿楽 さるがく 町 まち に小林 こばやし 豊造 とよぞう 、精子 せいし の長男 ちょうなん として生 う まれた。本籍 ほんせき 地 ち は兵庫 ひょうご 県 けん 出石 いずし 郡 ぐん 出石 いずし 町 まち 鉄砲 てっぽう 町 まち 。父 ちち 豊造 とよぞう は[注釈 ちゅうしゃく 4] 、ベルギー アントワープ 市 し でダイヤモンド 加工 かこう 研磨 けんま の技術 ぎじゅつ を学 まな び、日本 にっぽん にその技術 ぎじゅつ と機械 きかい とを持 も ち帰 かえ り、「洋風 ようふう 装身具 そうしんぐ 製作 せいさく 」の先駆 せんく 者 しゃ となった[1] 。また日本 にっぽん で最初 さいしょ に蓄音機 ちくおんき 用 よう のルビー針 はり を作 つく るなど、数々 かずかず の技術 ぎじゅつ を開発 かいはつ している。1915年 ねん (大正 たいしょう 4年 ねん )3月 がつ 、白金 はっきん 尋常 じんじょう 小学校 しょうがっこう を卒業 そつぎょう 。同年 どうねん 4月 がつ 、東京 とうきょう 府立 ふりつ 第 だい 一 いち 中学校 ちゅうがっこう 入学 にゅうがく 。同期 どうき に迫水 さこみず 久常 ひさつね 、西 にし 竹一 たけいち ら、一 いち 期 き 上 じょう には富永 とみなが 太郎 たろう 、蔵原 くらはら 惟 おもんみ 人 じん 、河上 かわかみ 徹太郎 てつたろう (神戸 こうべ 一 いち 中 ちゅう から編入 へんにゅう )らが在学 ざいがく していた。1920年 ねん (大正 たいしょう 9年 ねん )3月 がつ 、府立 ふりつ 一 いち 中 ちゅう 卒業 そつぎょう 。第一高等学校 だいちこうとうがっこう 受験 じゅけん 、不 ふ 合格 ごうかく 。1921年 ねん (大正 たいしょう 10年 ねん )3月 がつ 、父 ちち 豊造 とよぞう 没 ぼつ 。同年 どうねん 4月 がつ 、第一高等学校 だいちこうとうがっこう 文科 ぶんか 丙 へい 類 るい 入学 にゅうがく 。
1925年 ねん (大正 たいしょう 14年 ねん )4月 がつ 、東京 とうきょう 帝国 ていこく 大学 だいがく 文学部 ぶんがくぶ 仏蘭西 ふらんす 文学 ぶんがく 科 か 入学 にゅうがく 。同級生 どうきゅうせい に今 いま 日出海 ひでみ 、中島 なかじま 健蔵 けんぞう 、三好 みよし 達治 たつじ らがいた。同月 どうげつ 富永 とみなが 太郎 たろう を通 つう じて中原 なかはら 中也 ちゅうや を識る。同年 どうねん 11月 がつ 、長谷川 はせがわ 泰子 やすこ と同棲 どうせい 。1928年 ねん (昭和 しょうわ 3年 ねん )2月 がつ 、富永 とみなが の弟 おとうと 次郎 じろう を通 つう じて大岡 おおおか 昇平 しょうへい を識る[注釈 ちゅうしゃく 5] 。同年 どうねん 3月 がつ 、東京 とうきょう 帝国 ていこく 大学 だいがく 卒業 そつぎょう 。同年 どうねん 5月 がつ 、単身 たんしん 家 か を出 で て大阪 おおさか に行 い く。後 のち に奈良 なら に住 す み、志賀 しが 直哉 なおや 家 いえ に出入 でいり する。長谷川 はせがわ 泰子 やすこ との同棲 どうせい 関係 かんけい は解消 かいしょう 。1929年 ねん (昭和 しょうわ 4年 ねん )9月 がつ 、『様々 さまざま なる意匠 いしょう 』が『改造 かいぞう 』懸賞 けんしょう 評論 ひょうろん 第 だい 二 に 等 とう 入選 にゅうせん 作 さく として発表 はっぴょう された。なお一等 いっとう は宮本 みやもと 顕治 けんじ 『「敗北 はいぼく 」の文学 ぶんがく 』であった[注釈 ちゅうしゃく 6] 。1930年 ねん (昭和 しょうわ 5年 ねん )4月 がつ 、『アシルと亀 かめ の子 こ 』を『文藝春秋 ぶんげいしゅんじゅう 』に発表 はっぴょう 、以後 いご 翌年 よくねん 3月 がつ まで文芸 ぶんげい 時評 じひょう を連載 れんさい 、批評 ひひょう 家 か としての地位 ちい を確立 かくりつ した。1932年 ねん (昭和 しょうわ 7年 ねん )4月 がつ 、明治大学 めいじだいがく に文芸 ぶんげい 科 か が創設 そうせつ され、講師 こうし に就任 しゅうにん し、日本 にっぽん 文化 ぶんか 史 し 、ドストエフスキー作品 さくひん 論 ろん などを講 こう じた。
1933年 ねん (昭和 しょうわ 8年 ねん )10月 がつ 、文化 ぶんか 公論 こうろん 社 しゃ より宇野 うの 浩二 こうじ 、武田 たけだ 麟太郎 りんたろう 、林 はやし 房雄 ふさお 、川端 かわばた 康成 やすなり らと『文學 ぶんがく 界 かい 』を創刊 そうかん 。1935年 ねん (昭和 しょうわ 10年 ねん )1月 がつ 、『文學 ぶんがく 界 かい 』の編輯 へんしゅう 責任 せきにん 者 しゃ となり、『ドストエフスキイの生活 せいかつ 』を連載 れんさい し始 はじ める。
1938年 ねん (昭和 しょうわ 13年 ねん )3月 がつ 、「文藝春秋 ぶんげいしゅんじゅう 」特派 とくは 員 いん として中国 ちゅうごく 大陸 たいりく に渡 わた り、上海 しゃんはい を経 へ て27日 にち 、杭州 こうしゅう で火野 ひの 葦平 あしへい に第 だい 六 ろく 回 かい 芥川賞 あくたがわしょう を渡 わた す。小林 こばやし 秀雄 ひでお は6月 がつ に明治大学 めいじだいがく 文芸 ぶんげい 科 か 教授 きょうじゅ に昇格 しょうかく した[3] 。
1940年 ねん (昭和 しょうわ 15年 ねん )4月 がつ 、『文學 ぶんがく 界 かい 』の編輯 へんしゅう 委員 いいん を辞任 じにん する。
1946年 ねん (昭和 しょうわ 21年 ねん )2月 がつ 、 「近代 きんだい 文学 ぶんがく 」で座談 ざだん 会 かい 「コメディ・リテレール-小林 こばやし 秀雄 ひでお を囲 かこ んで」[注釈 ちゅうしゃく 7] 。同月 どうげつ 『無常 むじょう といふ事 こと 』を創 そう 元 もと 社 しゃ より刊行 かんこう 。同年 どうねん 5月 がつ 、母 はは 精子 せいし 没 ぼつ 。同年 どうねん 8月 がつ 、明治大学 めいじだいがく 教授 きょうじゅ 辞任 じにん 。同年 どうねん 12月 がつ 、青山 あおやま 二郎 じろう ・石原 いしはら 龍一 りゅういち と『創 そう 元 もと 』を編集 へんしゅう 、「第 だい 一 いち 輯 梅原 うめはら 龍三郎 りゅうさぶろう 特集 とくしゅう 」で『モオツアルト』を、「第 だい 二 に 輯 幸田 こうだ 露伴 ろはん 特集 とくしゅう 」で『「罪 つみ と罰 ばち 」について』を発表 はっぴょう 。1948年 ねん (昭和 しょうわ 23年 ねん )4月 がつ - 創 つく 元 もと 社 しゃ 取締役 とりしまりやく 就任 しゅうにん 。1951年 ねん (昭和 しょうわ 26年 ねん )3月 がつ 、第 だい 一 いち 次 じ 『小林 こばやし 秀雄 ひでお 全集 ぜんしゅう 』により日本 にっぽん 芸術 げいじゅつ 院 いん 賞 しょう 受賞 じゅしょう [4] 。1953年 ねん (昭和 しょうわ 28年 ねん )1月 がつ 、『ゴッホ の手紙 てがみ 』により読売 よみうり 文学 ぶんがく 賞 しょう 受賞 じゅしょう 。1958年 ねん (昭和 しょうわ 33年 ねん )12月、『近代 きんだい 絵画 かいが 』により野間 のま 文芸 ぶんげい 賞 しょう 受賞 じゅしょう 。1959年 ねん (昭和 しょうわ 34年 ねん )12月、日本 にっぽん 芸術 げいじゅつ 院 いん 会員 かいいん となる。1961年 ねん (昭和 しょうわ 36年 ねん )10月 がつ 、創 はじめ 元 もと 社 しゃ 取締役 とりしまりやく 辞任 じにん 。1963年 ねん (昭和 しょうわ 38年 ねん )11月、文化 ぶんか 功労 こうろう 者 しゃ に顕彰 けんしょう 。1965年 ねん (昭和 しょうわ 40年 ねん )6月 がつ 、『本 ほん 居 きょ 宣長 のりなが 』を「新潮 しんちょう 」に連載 れんさい 開始 かいし (1976年 ねん (昭和 しょうわ 51年 ねん )まで)。1967年 ねん (昭和 しょうわ 42年 ねん )11月、文化 ぶんか 勲章 くんしょう を受章 じゅしょう 。1978年 ねん (昭和 しょうわ 53年 ねん )6月 がつ 、『本 ほん 居 きょ 宣長 のりなが 』により日本 にっぽん 文学 ぶんがく 大賞 たいしょう 受賞 じゅしょう 。
1982年 ねん (昭和 しょうわ 57年 ねん )3月 がつ 、尿道 にょうどう 痛 つう と血尿 けつにょう のため川崎 かわさき 市立 しりつ 川崎 かわさき 病院 びょういん に入院 にゅういん 。膀胱 ぼうこう 腫瘍 しゅよう と診断 しんだん される。7月、慶應義塾大学 けいおうぎじゅくだいがく 病院 びょういん で膀胱 ぼうこう 全 ぜん 摘出 てきしゅつ 手術 しゅじゅつ を受 う ける。9月末 まつ 、退院 たいいん し自宅 じたく 静養 せいよう 。1983年 ねん (昭和 しょうわ 58年 ねん )1月 がつ 、腎不全 じんふぜん を起 お こしたと見 み られる。慶應義塾大学 けいおうぎじゅくだいがく 病院 びょういん に再 さい 入院 にゅういん したが2月 がつ 末 まつ に容体 ようだい が悪化 あっか し、1983年 ねん (昭和 しょうわ 58年 ねん )3月 がつ 1日 にち 午前 ごぜん 1時 じ 40分 ふん 、腎不全 じんふぜん による尿毒症 にょうどくしょう と呼吸 こきゅう 循環 じゅんかん 不全 ふぜん のため慶応義塾大学 けいおうぎじゅくだいがく 病院 びょういん で死去 しきょ [5] 。
父 ちち ・豊造 とよぞう の洋行 ようこう 土産 みやげ のレコード と蓄音機 ちくおんき の影響 えいきょう で小林 こばやし は若 わか い頃 ころ から音楽 おんがく ファンとなる。学生 がくせい 時代 じだい は友人 ゆうじん 間 あいだ で流行 りゅうこう したレコードの竹 たけ 針 はり に否定 ひてい 的 てき であり、蓄音機 ちくおんき の針 はり のテストのために父 ちち に貸 か したレコードをガリガリにされて憤慨 ふんがい したといった記録 きろく も残 のこ っている[6] 。豊造 とよぞう の洋行 ようこう 土産 みやげ であるバイオリン のレッスンを受 う けていた時期 じき もあり(後年 こうねん 、小林 こばやし は「ノコギリ引 び き」と評 ひょう している)、府立 ふりつ 一 いち 中 ちゅう 時代 じだい には、河上 かわかみ 徹太郎 てつたろう と「ブーブーガンガン」モーツァルト の合奏 がっそう をするために楽器 がっき を鳴 な らしていた[7] 。学生 がくせい 時代 じだい にはマンドリンクラブに所属 しょぞく し、演奏 えんそう 会 かい なども催 もよお している。父 ちち 豊造 とよぞう は小林 こばやし 19歳 さい の時 とき に没 ぼっ しており、以後 いご 、小林 こばやし は家長 かちょう としての責任 せきにん を負 お うことになる。同年 どうねん 、神経症 しんけいしょう で第一高等学校 だいちこうとうがっこう を休学 きゅうがく 。初期 しょき の文章 ぶんしょう には、当時 とうじ の自分 じぶん への記述 きじゅつ が見 み られる。小林 こばやし は、同 どう 世代 せだい の若者 わかもの たちに人気 にんき のあった新劇 しんげき よりも歌舞伎 かぶき などの旧劇 きゅうげき を好 この んだ。後年 こうねん の「平家 ひらか 物語 ものがたり 」の評論 ひょうろん にその影響 えいきょう を見 み ることができる[注釈 ちゅうしゃく 8] 。青年 せいねん 時代 じだい には、美術 びじゅつ 学校 がっこう にある彫刻 ちょうこく 科 か の公開 こうかい されている参考 さんこう 室 しつ で、ギリシア やルネサンス 彫刻 ちょうこく の模造 もぞう に親 した しんだということを書 か いている[8] 。府立 ふりつ 一 いち 中 ちゅう 時代 じだい から文芸 ぶんげい 同人 どうじん 誌 し 活動 かつどう を開始 かいし しており[9] 、一 いち 高 だか 時代 じだい に雑誌 ざっし 『跫音 きょうおん 』に発表 はっぴょう した「蛸 だこ の自殺 じさつ 」で志賀 しが 直哉 なおや の、『山繭 やままゆ 』に発表 はっぴょう した短編 たんぺん 「ポンキンの笑 わらい ひ」に対 たい し、武者小路 むしゃのこうじ 実篤 さねあつ の賞賛 しょうさん を受 う けるなどしていた[10] 。
詩人 しじん ランボーとの出会 であ いと文学 ぶんがく 的 てき 青春 せいしゅん [ 編集 へんしゅう ]
1924年 ねん (大正 たいしょう 13年 ねん )春 はる 、第一高等学校 だいちこうとうがっこう 在学 ざいがく 中 ちゅう に神田 かんだ の書店 しょてん 街 がい でフランス の象徴 しょうちょう 派 は 詩人 しじん アルチュール・ランボー の詩集 ししゅう 『地獄 じごく の季 き 節 ぶし 』の「メルキュウル版 ばん の豆本 まめほん 」と出会 であ う[注釈 ちゅうしゃく 9] [11] 。1947年 ねん (昭和 しょうわ 22年 ねん )3月 がつ 『展望 てんぼう 』に書 か いた「ランボオの問題 もんだい 」(現行 げんこう タイトル「ランボオⅢ」)で、「向 むこ うからやって来 き た見知 みし らぬ男 おとこ が、いきなり僕 ぼく を叩 はた きのめしたのである」と書 か いている[12] 。しかし以後 いご 、20代 だい の小林 こばやし において、ランボーは、約 やく 4年 ねん ののちには回復 かいふく しようもなく失 うしな われてしまう[注釈 ちゅうしゃく 10] [注釈 ちゅうしゃく 11] 。
一方 いっぽう 、訳業 やくぎょう においては、1929年 ねん (昭和 しょうわ 4年 ねん )10月 がつ 、同人 どうじん 雑誌 ざっし 『文學 ぶんがく 』創刊 そうかん 号 ごう より翌 よく 1930年 ねん (昭和 しょうわ 5年 ねん )2月 がつ 号 ごう にランボオ「地獄 じごく の一季 いっき 節 ぶし 」の9篇 へん を翻訳 ほんやく 掲載 けいさい 。同年 どうねん 10月 がつ 、新 あら たに訳 やく した詩 し を加 くわ え、「ランボオⅠ」「ランボオⅡ」とあわせて、『地獄 じごく の季 き 節 ぶし 』を白水 しろみず 社 しゃ より刊行 かんこう 。のち、1938年 ねん (昭和 しょうわ 13年 ねん )には改訳 かいやく を施 ほどこ したうえで岩波 いわなみ 文庫 ぶんこ より『地獄 じごく の季 き 節 ぶし 』を刊行 かんこう した[13] 。『地獄 じごく の季 き 節 ぶし 』のランボーとの出会 であ いは、ここに袖珍 しゅうちん 本 ほん による普及 ふきゅう という具体 ぐたい 的 てき 成果 せいか を得 え たのである。
そら、
科學 かがく だ。どいつもこいつも
又 また 飛 と び
附 つ いた。
肉體 にくたい の爲 ため にも魂 たましい の爲 ため にも、―― 醫學 いがく もあれば哲學 てつがく もある、―― たかが萬病 まんびょう の妙藥 みょうやく と恰好 かっこう を附 つ けた俗謡 ぞくよう さ。
それに王子 おうじ 樣 さま 等 とう の慰 なぐさ みかそれとも御法度 ごはっと の戲 おどけ れか、やれ地理 ちり 學 がく 、やれ天文學 てんもんがく 、機械 きかい 學 がく 、化學 かがく ・・・・・・
科學 かがく 。新 しん 貴族 きぞく 。進歩 しんぽ 。世界 せかい は進 すす む。何故 なぜ 逆戻 ぎゃくもど りはいけないのだらう。これが大衆 たいしゅう の夢 ゆめ である。
俺 おれ 達 たち の行手 ゆくて は『聖靈 せいれい 』だ。俺 おれ の言葉 ことば は神託 しんたく だ、嘘 うそ も僞 いつわ りもない。
俺 おれ には
解 ほどけ つている、たゞ、
解 わか らせようにも
外道 げどう の
言葉 ことば しか
知 し らないのだ。あゝ、
喋 しゃべ るまい。
— 『地獄 じごく の季 き 節 ぶし 』小林 こばやし 秀雄 ひでお 訳 やく [14]
大正 たいしょう 末期 まっき から昭和 しょうわ 初期 しょき の時期 じき は、世界 せかい 史 し においては、第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご の混乱 こんらん から生 しょう じた西洋 せいよう 進歩 しんぽ 主義 しゅぎ にゆらぎが生 しょう じた時期 じき でもあった[注釈 ちゅうしゃく 12] 。この頃 ころ 、詩人 しじん ポール・ヴァレリー はテュービンゲン大学 だいがく における講演 こうえん で、「諸君 しょくん 、嵐 あらし は終 お わった。にもかかわらず、われわれは、あたかも嵐 あらし が起 お ころうとしている矢先 やさき のように、不安 ふあん である。」と言 い った。また、大戦 たいせん 末期 まっき にロシア革命 かくめい が成立 せいりつ していた。このような時代 じだい の前 ぜん 段階 だんかい である19世紀 せいき に、ランボーは、早々 そうそう と、科学 かがく による学問 がくもん の進歩 しんぽ とそれとは異 こと なる逆戻 ぎゃくもど りの志向 しこう が世 よ の中 なか に共 とも 在 ましま し得 え ることを詩 し の中 なか に示 しめ している。
小林 こばやし は、学生 がくせい 時代 じだい はしばしば講義 こうぎ を休 やす む学生 がくせい で、乱読 らんどく 家 か であり、1926年 ねん (大正 たいしょう 15年 ねん )、24歳 さい の時 とき に東大 とうだい 仏文 ふつぶん 研究 けんきゅう 室 しつ の『仏蘭西 ふらんす 文学 ぶんがく 研究 けんきゅう 』に発表 はっぴょう した「人生 じんせい 斫断家 か アルチュル・ランボオ」(現行 げんこう タイトル「ランボオI」)を読 よ んだ指導 しどう 教官 きょうかん の鈴木 すずき 信太郎 しんたろう らが「これほど優秀 ゆうしゅう なら」と卒業 そつぎょう 認可 にんか した。
1927年 ねん (昭和 しょうわ 2年 ねん )「芥川 あくたがわ 龍之介 りゅうのすけ の美神 びしん と宿命 しゅくめい 」を『大 だい 調和 ちょうわ 』9月 がつ 号 ごう に[注釈 ちゅうしゃく 13] 、「『悪 あく の華 はな 』一 いち 面 めん 」を同年 どうねん 11月 がつ 発行 はっこう の『仏蘭西 ふらんす 文学 ぶんがく 研究 けんきゅう 』に発表 はっぴょう [注釈 ちゅうしゃく 14] [注釈 ちゅうしゃく 15] 。さらに、1930年 ねん (昭和 しょうわ 5年 ねん )より、文藝春秋 ぶんげいしゅんじゅう において文芸 ぶんげい 時評 じひょう を始 はじ める。「一番 いちばん 初 はじ めに文藝春秋 ぶんげいしゅんじゅう に」書 か いたときは、「学校 がっこう を出 で てから、金 きむ がなくってお袋 ふくろ を養 やしな わなきゃならない、そのために文芸 ぶんげい 時評 じひょう を書 か いた。それが、一番 いちばん 確 たし かな動機 どうき 」であった。「思 おも い切 き り悪口 わるぐち を言 い えば、評判 ひょうばん を取 と るだろうと思 おも ってやった」もの[15] 。小林 こばやし は若 わか い時代 じだい を顧 かえり みて「評判 ひょうばん を取 と るだろうと思 おも ってやったんだ。果 はた して評判 ひょうばん を取 と ったよ」という旨 むね のことを言 い っている[15] 。この時期 じき 、小林 こばやし らは同人 どうじん 誌 し 『作品 さくひん 』を立 た ち上 あ げ、小林 こばやし はランボーの『イルミナション』を掲載 けいさい している[注釈 ちゅうしゃく 16] 。
初期 しょき 小林 こばやし 批評 ひひょう は、翌年 よくねん 1931年 ねん (昭和 しょうわ 6年 ねん )の『文藝春秋 ぶんげいしゅんじゅう 』1月 がつ 号 ごう 「マルクスの悟 さとる 達 たち 」[注釈 ちゅうしゃく 17] 、2月 がつ 号 ごう 「文芸 ぶんげい 時評 じひょう 」、3月 がつ 号 ごう 「心理 しんり 小説 しょうせつ 」で一区切 ひとくぎ りを付 つ ける。そして、同年 どうねん 7月 がつ 『文藝 ぶんげい 評論 ひょうろん 』を白水 しろみず 社 しゃ より刊行 かんこう する。 なお、後年 こうねん 、小林 こばやし は文藝春秋 ぶんげいしゅんじゅう 創立 そうりつ 者 しゃ の菊池 きくち 寛 ひろし を回顧 かいこ する文章 ぶんしょう の中 なか で[16] 、菊池 きくち が1921年 ねん (大正 たいしょう 10年 ねん )に書 か いた「社会 しゃかい 主義 しゅぎ について」では、「日本 にっぽん が社会 しゃかい 主義 しゅぎ 化 か して行 い く事 こと は時 じ の問題 もんだい であり、ただ手段 しゅだん を誤 あやま り、過激 かげき な事 こと で、そこに進 すす もうとすると、却 かえ って反動 はんどう 期 き をまねく恐 おそ れがあるのが心配 しんぱい であるという考 かんが え」を表明 ひょうめい し、1947年 ねん (昭和 しょうわ 22年 ねん )に書 か いた「半 はん 自叙伝 じじょでん 」では、「今 いま になって言 い っても益 えき もない事 こと だが、自分 じぶん の予想 よそう は不幸 ふこう にして的中 てきちゅう し、大正 たいしょう 末 まつ から起 おこ った共産 きょうさん 主義 しゅぎ の弾圧 だんあつ のとばっちりを受 う けて、自由 じゆう 主義 しゅぎ 的 てき なものから社会 しゃかい 主義 しゅぎ 的 てき なものへの健全 けんぜん な発展 はってん がはばまれて了 りょう った」と記 しる していることに注目 ちゅうもく している。
当時 とうじ 、世界 せかい は大 だい 恐慌 きょうこう にさしかかり、日本 にっぽん は統帥 とうすい 権 けん 問題 もんだい を端 はし に発 はっ した軍部 ぐんぶ の暴走 ぼうそう 、その延長 えんちょう として起 お きた満州 まんしゅう 事変 じへん と5.15事件 じけん による立憲 りっけん 政治 せいじ の中断 ちゅうだん 、特別 とくべつ 高等 こうとう 警察 けいさつ の設置 せっち などによる緊迫 きんぱく した情勢 じょうせい 下 か にあった。この時期 じき 1932年 ねん (昭和 しょうわ 7年 ねん )『中央公論 ちゅうおうこうろん 』9月 がつ 号 ごう に書 か かれた小林 こばやし の「Xへの手紙 てがみ 」は、サント・ブウヴ 、ボードレール 、ニイチェ 、ゲエテ の4者 しゃ の名 な を呼 よ ぶのみの小説 しょうせつ であり、以後 いご 、小林 こばやし によるランボーへの言及 げんきゅう は機会 きかい を減 へ らしていく。評論 ひょうろん にあっては、海外 かいがい 思潮 しちょう の分野 ぶんや では、ランボーとの出会 であ い以前 いぜん に小林 こばやし に影響 えいきょう を与 あた え、ランボー詩 し と並行 へいこう して翻訳 ほんやく を行 おこな ったフランスの象徴 しょうちょう 詩人 しじん ボードレールや同 おな じくフランスの哲学 てつがく 者 もの ベルクソン に対 たい する言及 げんきゅう が現 あらわ れてくる[注釈 ちゅうしゃく 18] [注釈 ちゅうしゃく 19] [注釈 ちゅうしゃく 20] 。
また、小林 こばやし のドストエフスキー 論 ろん がこの時期 じき 以後 いご に始 はじ まる。ときはファシズム 興隆 こうりゅう 期 き の戦前 せんぜん 昭和 しょうわ の時代 じだい であった[注釈 ちゅうしゃく 21] 。ドストエフスキー論 ろん で小林 こばやし は、帝政 ていせい ロシア の反動 はんどう 体制 たいせい において西欧 せいおう 進歩 しんぽ 主義 しゅぎ の世界 せかい に遠 とお い憧憬 どうけい の眼 め を投 な げる若 わか いインテリゲンチャについて「どれもこれも辛 つら すぎる夢 ゆめ 」というドストエフスキーの青年 せいねん 期 き の書簡 しょかん での言葉 ことば を引 ひ きつつ、「青年 せいねん 達 たち は西欧 せいおう の理想 りそう に憑 つ かれながら、この理想 りそう をはぐぐむ社會 しゃかい 條件 じょうけん を、空 むな しく周圍 しゅうい に捜 さが し求 もと めた」と記 しる した[17] 。
1933年 ねん (昭和 しょうわ 8年 ねん )10月 がつ より発刊 はっかん された『文學 ぶんがく 界 かい 』の同人 どうじん となり、1936年 ねん (昭和 しょうわ 11年 ねん )1月 がつ には、高齢 こうれい 同人 どうじん に退 しりぞ いてもらい[注釈 ちゅうしゃく 22] 、新 あら たな同人 どうじん を入 い れ、自分 じぶん たちの世代 せだい の文学 ぶんがく 的 てき 理想 りそう の実現 じつげん の場 ば を確保 かくほ し、また同年 どうねん に自身 じしん による翻訳 ほんやく 書 しょ アラン 『精神 せいしん と情熱 じょうねつ とに関 かん する八 はち 十 じゅう 一 いち 章 しょう 』の刊行 かんこう とともに創 つく 元 もと 社 しゃ に編集 へんしゅう 顧問 こもん として参加 さんか 。同社 どうしゃ ではさらに自身 じしん の著作 ちょさく である『ランボオ詩集 ししゅう 』、『ドストエフスキイの生活 せいかつ 』などを出版 しゅっぱん し、社 しゃ に貢献 こうけん しつつ、自分 じぶん の文 ぶん 業 ぎょう を広 ひろ めることとなる。
小林 こばやし は、戦後 せんご 『大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 肯定 こうてい 論 ろん 』を著 あらわ し、論壇 ろんだん に論議 ろんぎ を起 お こすこととなる林 はやし 房雄 ふさお が、戦前 せんぜん 、二 に 度 ど の入獄 にゅうごく を経 へ て転向 てんこう する以前 いぜん の作品 さくひん 『青年 せいねん 』を評価 ひょうか し紹介 しょうかい していた[18] [注釈 ちゅうしゃく 23] 。1936年 ねん (昭和 しょうわ 11年 ねん )1月 がつ の同人 どうじん 改組 かいそ 前後 ぜんこう には、小林 こばやし は左翼 さよく 作家 さっか を標榜 ひょうぼう する島木 しまき 健作 けんさく と中野 なかの 重治 しげはる に参加 さんか を働 はたら きかけ、島木 しまき は参入 さんにゅう 。しかし、中野 なかの は拒絶 きょぜつ した[19] 。敗戦 はいせん 直前 ちょくぜん に獄中 ごくちゅう 死 し した唯物 ゆいぶつ 論 ろん 哲学 てつがく 者 しゃ で、同年 どうねん 12月 がつ に小林 こばやし が『東京 とうきょう 朝日新聞 あさひしんぶん 』に発表 はっぴょう した「文学 ぶんがく の伝統 でんとう 性 せい と近代 きんだい 性 せい 」をめぐって論争 ろんそう した相手 あいて の一人 ひとり [注釈 ちゅうしゃく 24] だった戸坂 とさか 潤 じゅん の誘 さそ いを受 う けて唯物 ゆいぶつ 論 ろん 研究 けんきゅう 会 かい に名 な を連 つら ねてもいる[注釈 ちゅうしゃく 25] 。以後 いご 、1937年 ねん (昭和 しょうわ 12年 ねん )日 にち 中 ちゅう 戦争 せんそう 開始 かいし 後 ご になっても小林 こばやし は、河上 かわかみ とともに『文學 ぶんがく 界 かい 』の編集 へんしゅう に関与 かんよ し続 つづ け、雑誌 ざっし 同人 どうじん を拡大 かくだい しながら文学 ぶんがく の社会 しゃかい の中 なか における機能 きのう を継続 けいぞく させようと図 はか る[注釈 ちゅうしゃく 26] 。
思想 しそう と実生活 じっせいかつ 論争 ろんそう [ 編集 へんしゅう ]
日 にち 中 ちゅう 戦争 せんそう が始 はじ まる前年 ぜんねん の1936年 ねん (昭和 しょうわ 11年 ねん )に、小林 こばやし は正宗 まさむね 白鳥 しらとり との間 あいだ で、ロシアの文豪 ぶんごう レフ・トルストイ の最 さい 晩期 ばんき の家出 いえで を巡 めぐ って、後年 こうねん 「思想 しそう と実生活 じっせいかつ 論争 ろんそう 」と呼 よ ばれることになる論争 ろんそう を行 おこな う[20] 。小林 こばやし が『讀賣新聞 よみうりしんぶん 』1月 がつ 24日 にち -25日 にち に掲載 けいさい した論文 ろんぶん 「作家 さっか の顔 かお 」の中 なか で、正宗 まさむね 白鳥 しらとり が家出 いえで したうえ野垂 のた れ死 じ にしたトルストイについて自己流 じこりゅう の感慨 かんがい を述 の べた、『読売新聞 よみうりしんぶん 』1月 がつ 11日 にち -12日 にち の文章 ぶんしょう を抜粋 ばっすい し、これを批判 ひはん 。この論文 ろんぶん に白鳥 はくちょう が反駁 はんばく した。さらに小林 こばやし は、『文藝春秋 ぶんげいしゅんじゅう 』4月 がつ 号 ごう に白鳥 はくちょう にこたえる形 かたち で論文 ろんぶん 「思想 しそう と実生活 じっせいかつ 」を載 の せる。トルストイが妻 つま を怖 こわ がって家出 いえで した。天才 てんさい も竟に細君 さいくん のヒステリイには敵 てき わなかった。抽象 ちゅうしょう 的 てき な思想 しそう でなく実生活 じっせいかつ の退屈 たいくつ で凡庸 ぼんよう な瑣事 さじ が偉大 いだい な思想家 しそうか の命運 めいうん を決 けっ した。これはどういうことか。白鳥 はくちょう はそこに、⦅卑小 ひしょう な実生活 じっせいかつ 上 じょう の瑣事 さじ ⦆に「人生 じんせい の真相 しんそう を鏡 かがみ に掛 か けて見 み るが如」き感慨 かんがい を覚 おぼ え、小林 こばやし は巨大 きょだい な精神 せいしん が負 お わねばならぬ「実生活 じっせいかつ 」という屑 くず 肉 にく の退屈 たいくつ を感 かん じた。論争 ろんそう の発端 ほったん はこの認識 にんしき の差 さ である。
その後 ご 、1948年 ねん (昭和 しょうわ 23年 ねん )の正宗 まさむね との対談 たいだん (「大 だい 作家 さっか 論 ろん 」)で小林 こばやし は以下 いか のように述 の べ、意見 いけん 相違 そうい は表面 ひょうめん 上 じょう に過 す ぎなかったとの認識 にんしき を示 しめ した。
小林 こばやし :僕 ぼく は今 いま にしてあの時 とき の論戦 ろんせん の意味 いみ がよくわかるんですよ。というのは、あの時 とき あなたのおっしゃった実生活 じっせいかつ というものは、一 ひと つの言葉 ことば 、一 ひと つの思想 しそう なんですな、あなたに非常 ひじょう に大切 たいせつ な……。僕 ぼく はトルストイの晩年 ばんねん を書 か ければ書 か いてみたいと思 おも っているのですけど、書 か けば、きっと九 きゅう 尾 び の狐 きつね と殺生 せっしょう 石 せき を書 か くでしょうよ。思想 しそう なんて書 か きませんよ。
また、1963年 ねん (昭和 しょうわ 38年 ねん )の河上 かわかみ 徹太郎 てつたろう との対談 たいだん (「白鳥 はくちょう の精神 せいしん 」)でも同様 どうよう の見解 けんかい を述 の べた河上 かわかみ に賛意 さんい を示 しめ している。
河上 かわかみ :
理想 りそう 主義 しゅぎ で
合理 ごうり 主義 しゅぎ ……、ぼくは
今度 こんど きみと
正宗 まさむね さんとの
有名 ゆうめい なトルストイ
家出 いえで 論争 ろんそう というのをまた
読 よ み
直 なお してみたよ。そうしたら、
当時 とうじ 感 かん じたのとちょっと
違 ちが ったものを
感 かん じたな。
当時 とうじ ぼくは
間違 まちが えて
批評 ひひょう していたんだ。きみは
理想 りそう 主義 しゅぎ で、
向 む こうがリアリズムだというふうにぼくは
簡単 かんたん にさばいていたけれども、そうじゃないな。
向 む こうもリアリズムじゃないよ。あれは
一種 いっしゅ の
理想 りそう 主義 しゅぎ だ。
小林 こばやし :うん、そうだ。
河上 かわかみ :だから
同 おな じことなんだ。きみと
同 おな じことをいっているのだ。
支 ささえ 那 な 事変 じへん の始 はじ まり[ 編集 へんしゅう ]
詩人 しじん 中原 なかはら 中也 ちゅうや とは、帝 みかど 大時代 おおじだい 1925年 ねん (大正 たいしょう 14年 ねん )4月 がつ に富永 とみなが 太郎 たろう を介 かい して知 し り合 あ った[21] 。同年 どうねん 11月 がつ 富永 とみなが は早 はや 逝。初期 しょき の小林 こばやし の文章 ぶんしょう には、支 ささえ 那 な 事変 じへん (日 にち 中 ちゅう 戦争 せんそう )の始 はじ まった1937年 ねん (昭和 しょうわ 12年 ねん )春 はる 、若 わか き小林 こばやし と中原 なかはら が鎌倉 かまくら 妙 みょう 本寺 ほんじ の境内 けいだい に並 なら んで腰掛 こしか けている時 とき 、無言 むごん のまま無数 むすう の落 お ちていく海棠 かいどう の花 はな びらを異常 いじょう な集中 しゅうちゅう 力 りょく で追 お ううちに急 きゅう に厭 いや ( いや ) な気持 きも ちになり、我慢 がまん が出来 でき なくなって来 き た小林 こばやし を黙 だま って見 み ていた中原 なかはら が突然 とつぜん 「もういいよ、帰 かえ ろうよ」と言 い い、小林 こばやし がその振 ふ る舞 ま いに対 たい して中原 なかはら の「相変 あいかわ らずの千里眼 せんりがん 」と評 ひょう したという回顧 かいこ がある[22] 。中原 なかはら はその年 とし の10月 がつ に病没 びょうぼつ 、小林 こばやし は一 いち 週間 しゅうかん 病院 びょういん に詰 つ めた。小林 こばやし の「戦争 せんそう について」は、中原 なかはら の死 し による小林 こばやし の青春 せいしゅん の終 お わりを宣言 せんげん するように同年 どうねん 『改造 かいぞう 』11月 がつ 号 ごう に発表 はっぴょう された。この小林 こばやし の文章 ぶんしょう の響 ひび きは、同 どう 時期 じき に論 ろん じていたドストエフスキーの「作家 さっか の日記 にっき 」における露 ろ 土 ど 戦争 せんそう へのドストエフスキーの肯定 こうてい 宣言 せんげん に似 に ている。この文章 ぶんしょう で小林 こばやし は「人生 じんせい 斫断家 か アルチュル・ランボオ」以来 いらい の宿命 しゅくめい 論 ろん を持 も ち出 だ して以下 いか のように書 か いている。
日本 にっぽん に
生 う まれたといふ
事 こと は
僕 ぼく 等 とう の
宿命 しゅくめい だ。
誰 だれ だつて
運命 うんめい に
関 かん する
知恵 ちえ は
持 も つてゐる。
大事 だいじ なのはこの
知恵 ちえ を
着々 ちゃくちゃく と
育 そだ てることであつて、
運命 うんめい をこの
知恵 ちえ の
犠牲 ぎせい にする
為 ため にあわてる
事 こと ではない。
この時期 じき 以後 いご 、戦時 せんじ 中 ちゅう の小林 こばやし の文章 ぶんしょう には口癖 くちぐせ のように「日 ひ に新 あら たな」というい回 いまわ しが登場 とうじょう する。これは小林 こばやし の手 て によって翻訳 ほんやく されたランボーの『飾 かざり 画 が 』(イルミナシオン)終章 しゅうしょう 「天才 てんさい 」における、
世界 せかい よ、日 ひ に新 あら たな不幸 ふこう の澄 す んだ歌声 うたごえ よ。
という一句 いっく を連想 れんそう させるものである。
津田 つだ 左右吉 そうきち の自由 じゆう 主義 しゅぎ 的 てき 歴史 れきし 研究 けんきゅう が弾圧 だんあつ された頃 ころ には、1939年 ねん (昭和 しょうわ 14年 ねん )5月 がつ に、ベルクソンに深 ふか く影響 えいきょう を受 う けた歴史 れきし 哲学 てつがく の随想 ずいそう 「歴史 れきし について」を序文 じょぶん に『ドストエフスキイの生活 せいかつ 』を出版 しゅっぱん している。これについて小林 こばやし が珍 めずら しく素直 すなお な喜 よろこ びの感想 かんそう を残 のこ しているのは、この出版 しゅっぱん が戦争 せんそう 協力 きょうりょく に対 たい する対価 たいか であった可能 かのう 性 せい を匂 にお わせる。ドストエフスキー論 ろん に似 に つかわしくない歴史 れきし 哲学 てつがく が序文 じょぶん に付 ふ されているのもカモフラージュと言 い えなくもない。戦時 せんじ 中 ちゅう の小林 こばやし は、哲学 てつがく 者 しゃ カント の空気 くうき のない空間 くうかん で羽 は ばたく鳩 ばと をしばしば持 も ち出 だ して、政治 せいじ 的 てき 不自由 ふじゆう に不満 ふまん を抱 いだ く自由 じゆう 主義 しゅぎ 者 しゃ を非難 ひなん している[注釈 ちゅうしゃく 27] 。
小林 こばやし は戦争 せんそう 協力 きょうりょく 講演 こうえん で、「主義 しゅぎ (イデオロギー)」の不毛 ふもう を説 と き、「これは僕 ぼく の勝手 かって な説 せつ ではない」と前置 まえお きし二宮 にのみや 尊徳 そんとく の名前 なまえ を持 も ち出 だ すなどしている。
小林 こばやし は戦時 せんじ 中 ちゅう 、6度 ど にわたり中華民国 ちゅうかみんこく (大陸 たいりく 本土 ほんど )を訪問 ほうもん している。最初 さいしょ の訪問 ほうもん は1938年 ねん (昭和 しょうわ 13年 ねん )3月 がつ で、日本 にっぽん 軍 ぐん から文藝春秋 ぶんげいしゅんじゅう の特派 とくは 員 いん として招聘 しょうへい ( しょうへい ) され、満州 まんしゅう を回 まわ った。1939年 ねん (昭和 しょうわ 14年 ねん )に入 はい り、『文藝春秋 ぶんげいしゅんじゅう 』11月 がつ 号 ごう に雑誌 ざっし 『思想 しそう 』10月 がつ 号 ごう の掲載 けいさい 論文 ろんぶん を批判 ひはん する「学者 がくしゃ と官僚 かんりょう 」を掲載 けいさい 。これに対 たい して、『思想 しそう 』の編集 へんしゅう 者 しゃ の一人 ひとり であった林 はやし 達夫 たつお が「開店 かいてん 休業 きゅうぎょう の必要 ひつよう 」を1940年 ねん (昭和 しょうわ 15年 ねん )1月 がつ に執筆 しっぴつ [注釈 ちゅうしゃく 28] 。同年 どうねん 4月 がつ 小林 こばやし は『文學 ぶんがく 界 かい 』編輯 へんしゅう 委員 いいん を辞任 じにん 。さらに6月 がつ より、菊池 きくち 寛 ひろし らによる文芸 ぶんげい 銃後 じゅうご 運動 うんどう の一員 いちいん として、戦争 せんそう を支援 しえん するため川端 かわばた 康成 やすなり 、横光 よこみつ 利一 としかず ほか 52人 にん の小説 しょうせつ 家 か とともに日本 にっぽん 国内 こくない 、朝鮮 ちょうせん および満州 まんしゅう 国 こく を訪問 ほうもん し幾 いく つかの文章 ぶんしょう を残 のこ している。1938年 ねん (昭和 しょうわ 13年 ねん )の訪問 ほうもん は、従軍 じゅうぐん 中 ちゅう の火野 ひの 葦平 あしへい に対 たい する芥川賞 あくたがわしょう の陣中 じんちゅう 授与 じゅよ 式 しき も兼 か ねており、火野 ひの は『麦 むぎ と兵隊 へいたい 』でその時 とき のことを書 か いている[注釈 ちゅうしゃく 29] 。
真珠湾 しんじゅわん 攻撃 こうげき 後 ご [ 編集 へんしゅう ]
小林 こばやし は1941年 ねん (昭和 しょうわ 16年 ねん )12月、太平洋戦争 たいへいようせんそう 開戦 かいせん について「三 みっ つの放送 ほうそう 」で次 つぎ のように記 しる している。
「
帝国 ていこく 陸海 りくかい 軍 ぐん は、
今 いま 八 はち 日 にち 未明 みめい 西太平洋 にしたいへいよう に
於 お いて
アメリカ 、
イギリス軍 ぐん と
戦闘 せんとう 状態 じょうたい に
入 い れり」
いかにも、成 なり 程 ほど なあ、といふ強 つよ い感 かん じの放送 ほうそう であつた。一種 いっしゅ の名文 めいぶん である。日米 にちべい 会談 かいだん といふ便秘 べんぴ 患者 かんじゃ が、下剤 げざい をかけられた様 よう なあんばいなのだと思 おもえ つた。(中略 ちゅうりゃく )その為 ため に僕 ぼく 等 とう の空費 くうひ した時間 じかん は莫大 ばくだい なものであらうと思 おも はれる。それが、「戦闘 せんとう 状態 じょうたい に入 い れり」のたつた一言 ひとこと で、雲散霧消 うんさんむしょう したのである。それみた事 こと か、とわれとわが心 しん に言 げん ひきかす様 よう な想 そう ひであつた。
何 なん 時 じ にない清々 すがすが しい気持 きもち で上京 じょうきょう 、文藝春秋 ぶんげいしゅんじゅう 社 しゃ で、宣戦 せんせん の御 ご 詔勅 しょうちょく 捧読 ほうどく の放送 ほうそう を拝聴 はいちょう した。僕 ぼく 等 とう は皆 みな 頭 あたま を垂 しだ れ、直立 ちょくりつ してゐた。眼 め 頭 あたま は熱 ねっ し、心 しん は静 しず かであつた。畏多 おそれおお い事 こと ながら、僕 ぼく は拝聴 はいちょう してゐて、比類 ひるい のない美 うつく しさを感 かん じた。やはり僕 ぼく 等 とう には、日本 にっぽん 国民 こくみん であるといふ自信 じしん が一番 いちばん 大 おお きく強 つよ いのだ。それは、日常 にちじょう 得 え たり失 しつ つたりする様々 さまざま な種類 しゅるい の自信 じしん とは全 まった く性質 せいしつ の異 い なつたものである。得 え たり失 しつ つたりするにはあまり大 おお きく当 あた り前 まえ な自信 じしん であり、又 また その為 ため に平常 へいじょう 特 とく に気 き に掛 か けぬ様 よう な自信 じしん である。僕 ぼく は、爽 さわ やかな気持 きもち で、そんな事 こと を考 こう へ乍ら街 がい を歩 ある いた。
やがて、
真珠湾 しんじゅわん 爆 ばく 撃 げき に
始 はじ まる
帝国 ていこく 海軍 かいぐん の
戦果 せんか 発表 はっぴょう が、
僕 ぼく を
驚 おどろ かした。
僕 ぼく は、こんな
事 ごと を
考 かんが へた。
僕 ぼく 等 とう は
皆 みな 驚 おどろ いてゐるのだ。まるで
馬鹿 ばか の
様 よう に、
子供 こども の
様 よう に
驚 おどろ いてゐるのだ。だが、
誰 だれ が
本当 ほんとう に
驚 おどろ くことが
出来 でき るだらうか。
何故 なぜ なら、
僕 ぼく 等 とう の
経験 けいけん や
知識 ちしき にとつては、あまり
高級 こうきゅう な
理解 りかい の
及 およ ばぬ
仕事 しごと がなし
遂 と げられたといふ
事 こと は
動 うご かせぬではないか。
名人 めいじん の
至芸 しげい と
少 すこ しも
異 ことな るところはあるまい。
名人 めいじん の
至芸 しげい に
驚嘆 きょうたん 出来 でき るのは、
名人 めいじん の
苦心 くしん について
多 おお かれ
少 すく なかれ
通 つう じていればこそだ。
処 しょ が
今 いま は、
名人 めいじん の
至芸 しげい が
突如 とつじょ として
何 なん の
用意 ようい もない
僕 ぼく 等 とう の
眼前 がんぜん に
現 げん はれた
様 よう なものである。
偉大 いだい なる
専門 せんもん 家 か とみぢめな
素人 しろうと 、
僕 ぼく は、さういふ
印象 いんしょう を
得 え た。
開戦 かいせん 翌年 よくねん 1942年 ねん (昭和 しょうわ 17年 ねん )には、小林 こばやし は編集 へんしゅう 者 しゃ として長 なが く関係 かんけい して来 き た「文學 ぶんがく 界 かい 」[注釈 ちゅうしゃく 30] での盟友 めいゆう 河上 かわかみ 徹太郎 てつたろう の司会 しかい による「近代 きんだい の超克 ちょうこく 」座談 ざだん にオブザーバー的 てき に参加 さんか している。ここで小林 こばやし は、近代 きんだい 科学 かがく と形而上学 けいじじょうがく の分離 ぶんり を説 と くなどする京都 きょうと 学派 がくは の下村 しもむら 寅太郎 とらたろう を中心 ちゅうしん にした科学 かがく 論 ろん に口 くち を挟 はさ み、下村 しもむら の言葉 ことば を受 う けて、以下 いか の言葉 ことば を吐 は いている。
下村 しもむら 自然 しぜん 学 がく と
形而上学 けいじじょうがく とが
一応 いちおう はつきり
区別 くべつ されること、
独立 どくりつ することが
必要 ひつよう だと
思 おも ひますね。それは
科学 かがく も
形而上学 けいじじょうがく も
各々 おのおの 純粋 じゅんすい になる、
純化 じゅんか されるといふことですから。
聯関 れんかん はこの
区別 くべつ を
予想 よそう した
上 うえ でのことでなければならぬと
思 おも ひます。これは
近代 きんだい の
超克 ちょうこく の
問題 もんだい に
於 おい て
重要 じゅうよう です。
小林 こばやし 自然 しぜん を
拷問 ごうもん にかけて
口 くち を
割 わ らせるといふ、
近代 きんだい 科学 かがく をそんなに
巧 たくみ く
言 げん つた
人 じん が
他 た にあるかね。
[24]
また小林 こばやし はこの時期 じき 「自然 しぜん を征服 せいふく するとは、自然 しぜん に上手 じょうず に負 ま けること」であると、仏教 ぶっきょう 学者 がくしゃ ・鈴木 すずき 大拙 だいせつ を思 おも わせる言葉 ことば を残 のこ している。
だが小林 こばやし の戦争 せんそう 協力 きょうりょく 姿勢 しせい は時 じ を追 お って勢 いきお いを失 うしな い、戦争 せんそう 末期 まっき には小林 こばやし は口 くち を開 ひら くのがおっくうそうであったと言 い われ、仲間 なかま 内 ない では「小林 こばやし は何 なに をやって食 ぐ っているのか」が話題 わだい になるほどであったという。この時期 じき の小林 こばやし の目立 めだ つ仕事 しごと は時局 じきょく 柄 がら 、「当麻 とうま 」、「実 じつ 朝 あさ 」、「平家 ひらか 物語 ものがたり 」、「無常 むじょう といふ事 こと 」など日本 にっぽん の古典 こてん についての文章 ぶんしょう が多 おお い。
一方 いっぽう で、小林 こばやし は敗戦 はいせん の二 に 年 ねん 前 まえ の1943年 ねん (昭和 しょうわ 18年 ねん )12月、旅行 りょこう 中 ちゅう の南京 なんきん で『モオツアルト』を書 か き始 はじ めた。これはモーツァルト を中心 ちゅうしん に立 た てた一種 いっしゅ の天才 てんさい 論 ろん であると同時 どうじ に、終 お わりの予 よ 感 かん が兆 きざ し始 はじ めた一 ひと つの時代 じだい への「レクイエム 」でもあった。この後 のち 、しばらくの間 あいだ 小林 こばやし は若 わか い時期 じき からの音楽 おんがく を聴 き く習慣 しゅうかん を途絶 とぜつ させた[25] 。
GHQ が公職 こうしょく 追放 ついほう 令 れい を発布 はっぷ して間 あいだ もない1946年 ねん (昭和 しょうわ 21年 ねん )1月 がつ 12日 にち 、雑誌 ざっし 『近代 きんだい 文学 ぶんがく 』の座談 ざだん 会 かい 「コメディ・リテレール 小林 こばやし 秀雄 ひでお を囲 かこ んで」[注釈 ちゅうしゃく 31] で、出席 しゅっせき 者 しゃ の本多 ほんだ 秋 あき 五 ご より小林 こばやし の戦時 せんじ 中 ちゅう の姿勢 しせい への言及 げんきゅう があった[26] 。
本多 ほんだ 話 はなし は
少 すこ し
変 かわ りますが、
小林 こばやし さんの
自由 じゆう と
云 い うものの
考 かんが え
方 かた ですね、
必然 ひつぜん の
抵抗 ていこう がなければ
自由 じゆう というものがない……。
小林 こばやし そういうふうに考 かんが えています。
本多 ほんだ 大野 おおの 道 みち 賢 けん や吉田 よしだ 松陰 しょういん の例 れい などを引 ひ いて、自由 じゆう とはこういうものだとおっしゃっていたことは、それは非常 ひじょう に同感 どうかん するのですが、それだけに、何 なに か自由 じゆう というものをそういうふうに考 かんが えただけでは足 た りないんじゃないかという気 き がするんです。というのは……。
小林 こばやし 自由 じゆう と必然 ひつぜん 。これは哲学 てつがく 者 しゃ の弁証法 べんしょうほう の餌食 えじき がね。実 じつ に面白 おもしろ く論 ろん じられるでしょうがね。だけれども僕 ぼく は、自由 じゆう とか必然 ひつぜん とかいう実生活 じっせいかつ に深 ふか く結 むす びついた観念 かんねん は、これはデイアレクチックでは決 けっ して解 と けぬと思 おも う。解 と けてもつまらぬ。それはその人 ひと の実践 じっせん にあるんだ。その人 ひと の悟 さと りにあるんだよ。僕 ぼく はそうだと思 おも う。
本多 ほんだ それで、それぞれの
悟 さと りを
通 つう じて
出来 でき た、それぞれの
自由 じゆう 感覚 かんかく というものがあると
思 おも うんです。
戦争 せんそう に
対 たい する
小林 こばやし さんの
発言 はつげん から
見 み て、
日本 にっぽん がこんなになっているのに、この
戦争 せんそう が
正義 せいぎ かどうかというようなことをいうのはどうだとか、
国民 こくみん は
黙 だま って
事態 じたい に
処 しょ した、それが
事変 じへん の
特色 とくしょく である、そういうことを
眺 なが めているのが
楽 たの しい、あとは
詰 なじ らぬ、という
風 ふう におっしゃったのですが、
事変 じへん を
必然 ひつぜん と
認 みと めておられたんですね。
そして、以下 いか のような発言 はつげん を行 おこな った。
小林 こばやし 僕 ぼく は
政治 せいじ 的 てき には
無 む 智 さとし な
一 いち 国民 こくみん として
事変 じへん に
処 しょ した。
黙 だま って
処 しょ した。それについて
今 いま は
何 なん の
後悔 こうかい もしていない。
大 だい 事変 じへん が終 おわ った時 とき には、必 かなら ず若 わか しかくかくだったら事変 じへん は起 おこ らなかったろう、事変 じへん はこんな風 ふう にはならなかったろうという議論 ぎろん が起 おこ る。
必然 ひつぜん というものに対 たい する人間 にんげん の復讐 ふくしゅう だ。はかない復讐 ふくしゅう だ。この大戦 たいせん 争 そう は一部 いちぶ の人達 ひとたち の無 む 智 さとし と野心 やしん とから起 おこ ったか、それさえなければ、起 お こらなかったか。
どうも僕 ぼく にはそんなお目出度 めでた い歴史 れきし 観 かん は持 も てないよ。僕 ぼく は歴史 れきし の必然 ひつぜん 性 せい というものをもっと恐 こわ しいものと考 かんが えている。
僕 ぼく は
無 む 智 さとし だから
反省 はんせい なぞしない。
利巧 りこう な
奴 やつ はたんと
反省 はんせい してみるがいいじゃないか。
そのあとは、以下 いか の通 とお り。
本多 ほんだ それで
小林 こばやし さんは、これからは
古典 こてん とか
美 うつく しいものを
尊重 そんちょう して
行 い くとおっしゃったんですが、
先輩 せんぱい として、
後 ご から
来 く る
者 もの に
対 たい してどう
考 かんが えるかというお
考 かんが えもあると
思 おも います。
小林 こばやし さんは
戦争 せんそう に
対 たい しては
原始 げんし 的 てき な
自由 じゆう の
信念 しんねん というものを
適用 てきよう なさった。
適用 てきよう し
得 え る
範囲 はんい 外 がい の
所 ところ にまで
適用 てきよう なさったのではないですか。
或 あるい は
必然 ひつぜん というものをあまり
早 はや く
諦 あきら めてしまって、そのまま
肯定 こうてい されすぎたと
云 い うようなことはないですか。
小林 こばやし さんも戦争 せんそう 中 ちゅう 自由 じゆう だった。徳田 とくた 球一 きゅういち も自由 じゆう だったといえるでしょう。そのように考 かんが える次 つぎ のジェネレーションが出 で て来 く る、それをどう思 おも われますか。つまり「近代 きんだい 文学 ぶんがく 」をどうお考 かんが えになるかということなんですが……。
小林 こばやし 君 きみ のいう
意味 いみ がはっきりしないが、――
必然 ひつぜん 性 せい というものは
図式 ずしき ではない。
僕 ぼく の
身 み に
否応 いやおう なくふりかかってくる、そのものです。
僕 ぼく はいつもそれを
受入 うけい れる。どうにもならんものとして
受入 うけい れる。
受入 うけい れたその
中 なか で、そう
処 しょ すべきか
工夫 くふう する。その
工夫 くふう が
自由 じゆう です。
僕 ぼく の
書 か いたものは
戦争 せんそう 中 ちゅう 禁止 きんし された。
処 しょ が
今 いま だって
出 だ せるかどうかあやしいものだ。
出 で ないものは
出 で ないで
一向 いっこう 構 かま わぬ。
一部 いちぶ には、これを敗戦 はいせん 後 ご に戦前 せんぜん とはうってかわって、「右翼 うよく 的 てき 文化 ぶんか 人 じん 」から「左翼 さよく 的 てき 文化 ぶんか 人 じん 」に変貌 へんぼう した当時 とうじ の大 だい 多数 たすう の知識 ちしき 人 じん らと比 ひ して立派 りっぱ であると評価 ひょうか する声 こえ もあるが、「反省 はんせい しない」と言 い う言葉 ことば を用 もち いて、戦前 せんぜん の言動 げんどう を正 ただ しかったとか、悪 わる かったとか戦後 せんご の世間 せけん 一般 いっぱん の価値 かち 観 かん でもって自分 じぶん 自身 じしん を肯定 こうてい ・否定 ひてい しているわけではなく、戦争 せんそう に負 ま けたとたんにその立場 たちば を180度 ど 転換 てんかん した戦後 せんご の世間 せけん 一般 いっぱん の価値 かち 観 かん でしか己 おのれ の立場 たちば を決定 けってい できない人々 ひとびと を小林 こばやし は「頭 あたま がいい人 じん 」と揶揄 やゆ し、批判 ひはん したのである[27] 。
村松 むらまつ 剛 つよし に「吉本 よしもと は戦争 せんそう 中 ちゅう 天皇 てんのう 主義 しゅぎ 者 しゃ だったのに、今 いま は最 さい 左翼 さよく のような顔 かお をしている」と批判 ひはん されたことがあると自 みずか ら述 の べる吉本 よしもと 隆明 たかあき は、「戦争 せんそう 中 ちゅう もいい加減 かげん なことを書 か いていた連中 れんちゅう 」が「戦後 せんご も、すぐに「文化 ぶんか 国家 こっか の建設 けんせつ 」とか言 い い始 はじ める始末 しまつ 」と対比 たいひ しながら、敗戦 はいせん の放心 ほうしん 状態 じょうたい にあって小林 こばやし のこの発言 はつげん の一貫 いっかん 性 せい について膝 ひざ を打 う ったという旨 むね のことを第 だい 五 ご 次 じ 小林 こばやし 秀雄 ひでお 全集 ぜんしゅう によせたインタビュー で述 の べている。「事変 じへん に黙 だま って処 しょ する」というのは小林 こばやし の事変 じへん 当初 とうしょ から強調 きょうちょう した表現 ひょうげん だった。また、吉本 よしもと は小林 こばやし の「マルクスの悟 さとる 達 たち 」に至 いた るまでの文章 ぶんしょう を挙 あ げてマルクスを一番 いちばん 良 よ く理解 りかい していたのは小林 こばやし だったと評価 ひょうか している[28] 。吉本 よしもと は、戦前 せんぜん および敗戦 はいせん 時 じ の小林 こばやし については高 たか く評価 ひょうか している。[要 よう 出典 しゅってん ]
この年 とし の半 なか ば、小林 こばやし の実母 じつぼ である小林 こばやし 精子 せいし が5月に没 ぼっ し 、6月『新 しん 日本 にっぽん 文学 ぶんがく 』による「戦争 せんそう 責任 せきにん 者 しゃ 」指名 しめい 、8月 がつ に戦時 せんじ 中 ちゅう からの明治大学 めいじだいがく の教授 きょうじゅ 職 しょく の辞職 じしょく [注釈 ちゅうしゃく 32] などが連続 れんぞく して起 お き、酩酊 めいてい 状態 じょうたい で水道 すいどう 橋 きょう の駅 えき のホーム から崖 がけ 下 か に転落 てんらく して奇跡 きせき 的 てき に軽傷 けいしょう で済 す むというようなことも起 お きている。小林 こばやし はこの転落 てんらく 事件 じけん に強 つよ がりを見 み せながら触 ふ れているが、小林 こばやし の娘 むすめ の回想 かいそう では帰宅 きたく 時 じ には生気 せいき の抜 ぬ けたような青白 あおじろ い顔 かお をしていたとのことである[29] 。
この座談 ざだん 会 かい 「コメディ・リテレール」で、小林 こばやし は文芸 ぶんげい 時評 じひょう へのやや乱暴 らんぼう な決別 けつべつ 宣言 せんげん をしている。(「サント・ブウヴの発明 はつめい した、あの文芸 ぶんげい 時評 じひょう という溌剌 はつらつ たる形式 けいしき 、これも頂点 ちょうてん に達 たっ してしまった批評 ひひょう 形式 けいしき ではないのかね。誰 だれ でもやれるようになった。例 たと えば、匿名 とくめい 批評 ひひょう というような形式 けいしき が盛大 せいだい になれば、もう誰 だれ れがやってもいいのだ。第 だい 一流 いちりゅう の批評 ひひょう 家 か は必 かなら ず新 あたら しい形式 けいしき を発明 はつめい するだろう。まあ、そんな確 たし かな自信 じしん が勿論 もちろん あったわけではないが、何 なに か新 あたら しい批評 ひひょう の形式 けいしき というものを考 かんが えるようになった。そして、ジャーナリズム から身 み を引 ひ いてしまったのだ。」「コメディ・リテレール」より)
同年 どうねん 12月 がつ 、青山 あおやま 二郎 じろう 、石原 いしはら 隆一 りゅういち らと季刊 きかん 『創 そう 元 もと 』を創刊 そうかん し、「モオツァルト」を発表 はっぴょう 。
この後 のち 、間 ま もなく1947年 ねん (昭和 しょうわ 22年 ねん )3月 がつ 『展望 てんぼう 』に書 か いた「ランボオの問題 もんだい 」(現行 げんこう タイトル「ランボオⅢ」)で、小林 こばやし は「マルクスの悟 さとる 達 たち 」以後 いご 、殆 ほとん ど触 ふ れることのなかったランボーについての論 ろん を新 あら たに発表 はっぴょう し、1948年 ねん (昭和 しょうわ 23年 ねん )11月季刊 きかん 『創 そう 元 もと 』2輯にドストエフスキーの『罪 つみ と罰 ばっ 』についての二 ふた つ目 め の作品 さくひん 論 ろん 「『罪 つみ と罰 ばち 』についてⅡ」を発表 はっぴょう するが、全体 ぜんたい として戦後 せんご の小林 こばやし の文筆 ぶんぴつ 活動 かつどう における近代 きんだい 文学 ぶんがく 評論 ひょうろん のウェイトは低下 ていか して行 い くことになる。
ラスコーリニコフの悪夢 あくむ [ 編集 へんしゅう ]
ツアーリ の秘密 ひみつ 警察 けいさつ が跳梁 ちょうりょう する帝政 ていせい ロシア において、ドストエフスキー は人道 じんどう 主義 しゅぎ 的 てき 作品 さくひん によって新進 しんしん 作家 さっか として華々 はなばな しいデビュー を飾 かざ った。間 ま もなく社会 しゃかい 主義 しゅぎ サークル活動 かつどう のかどで流刑 りゅうけい の憂 う き目 め にあったドストエフスキーが、ペテルスブルク に帰還 きかん したのは1858年 ねん である。翌年 よくねん 、ダーウィン が「種 たね の起源 きげん 」を発表 はっぴょう し、西洋 せいよう キリスト教 きりすときょう 世界 せかい の伝統 でんとう 的 てき 世界 せかい 観 かん が合理 ごうり 主義 しゅぎ の号令 ごうれい と共 とも に激変 げきへん を始 はじ める。日本 にっぽん では幕末 ばくまつ に相当 そうとう し、アメリカを先頭 せんとう とする西洋 せいよう 列強 れっきょう と江戸 えど 幕府 ばくふ との間 あいだ で通商 つうしょう 条約 じょうやく の締結 ていけつ が行 おこな われている。この時期 じき 、ドストエフスキーは西欧 せいおう へ視察 しさつ 良好 りょうこう へ出 で かけ、帰国 きこく 後 ご 『地下 ちか 室 しつ の手記 しゅき 』を皮切 かわき りに『カラマーゾフの兄弟 きょうだい 』に至 いた る一連 いちれん の問題 もんだい 作 さく の著作 ちょさく を開始 かいし する。『罪 つみ と罰 ばっ 』はその二 に 作 さく 目 め に当 あ たり、発表 はっぴょう された1866年 ねん は日本 にっぽん では明治維新 めいじいしん の2年 ねん 前 まえ に当 あ たる。
『罪 つみ と罰 ばち 』の主人公 しゅじんこう ラスコーリニコフは選良 せんりょう 主義 しゅぎ 的 てき 超人 ちょうじん 思想 しそう にとりつかれたノイローゼ気味 ぎみ の青年 せいねん である。ラスコーリニコフは運命 うんめい の歯車 はぐるま に引 ひ きずられて哲学 てつがく 的 てき 殺人 さつじん を起 お こし、自 みずか らの挑戦 ちょうせん に敗北 はいぼく して自首 じしゅ し、流刑 りゅうけい 地 ち に送 おく られる。この作品 さくひん の終 お わり際 さい に、主人公 しゅじんこう が病 やまい にうなされて黙示録 もくしろく 的 てき な悪夢 あくむ を見 み るという、一見 いっけん するとストーリーとは直接 ちょくせつ 関 かか わりのない不思議 ふしぎ な場面 ばめん が唐突 とうとつ に挿 さ し挟 はさ められている。「アジアの奥地 おくち 」で発生 はっせい した意志 いし と知性 ちせい を持 も つ魔性 ましょう の微生物 びせいぶつ がヨーロッパに蔓延 まんえん し、人類 じんるい は傲慢 ごうまん と孤独 こどく の狂気 きょうき に取 と り憑 つ かれて世界 せかい は崩壊 ほうかい してしまうというのが悪夢 あくむ の内容 ないよう である。
1948年 ねん (昭和 しょうわ 23年 ねん )に発表 はっぴょう された「『罪 つみ と罰 ばち 』についてⅡ」で、小林 こばやし は以下 いか のような言葉 ことば を残 のこ している。
誰 だれ に、
新 あたら しい
旋毛 せんもう 虫 ちゅう が
笑 わらい へようか。
理性 りせい がこの
世 よ に
発生 はっせい したのが、
偶然 ぐうぜん アジアの
奥地 おくち であつたとしても、
誰 だれ に
文句 もんく の
附 つ けようがあらう。
『罪 つみ と罰 ばち 』で主人公 しゅじんこう はキリスト教 きりすときょう 的 てき に救済 きゅうさい されるが、この悪夢 あくむ について作者 さくしゃ ドストエフスキーはそれ以上 いじょう 、何 なん の解説 かいせつ もせずに物語 ものがたり を終 お える。ドストエフスキー作品 さくひん では唯一 ゆいいつ 終末 しゅうまつ 論 ろん が取 と り扱 あつか われ、冒頭 ぼうとう で日本人 にっぽんじん の風習 ふうしゅう が話題 わだい になる次 つぎ 作 さく 『白痴 はくち 』が発表 はっぴょう されたのは、日本 にっぽん では明治維新 めいじいしん の年 とし に当 あ たる1868年 ねん である。
ゴッホと近代 きんだい 絵画 かいが [ 編集 へんしゅう ]
1948年 ねん (昭和 しょうわ 23年 ねん )11月の「『罪 つみ と罰 ばち 』についてⅡ」発表 はっぴょう と前後 ぜんご して、小林 こばやし は1947年 ねん (昭和 しょうわ 22年 ねん )3月 がつ にたまたま訪 おとず れた上野 うえの の東京 とうきょう 都 と 美術館 びじゅつかん における読売新聞社 よみうりしんぶんしゃ 主催 しゅさい の泰西 たいせい 名画 めいが 展覧 てんらん 会 かい で出会 であ った「カラスのいる麦畑 むぎばたけ 」を前 まえ にして「ゴッホの巨大 きょだい な目玉 めだま 」に見据 みす えられているような衝撃 しょうげき を受 う ける[30] 。
『ゴッホの手紙 てがみ 』は、精神 せいしん 科 か 医 い でゴッホ研究 けんきゅう 者 しゃ でもあった式場 しきば 隆三郎 りゅうざぶろう から、原書 げんしょ (書簡 しょかん 集 しゅう )提供 ていきょう を受 う け『文体 ぶんたい 』[注釈 ちゅうしゃく 33] 3号 ごう :1948年 ねん (昭和 しょうわ 23年 ねん )12月、4号 ごう :1949年 ねん (昭和 しょうわ 24年 ねん )7月 がつ での掲載 けいさい を皮切 かわき りに、創刊 そうかん まもない『藝術 げいじゅつ 新潮 しんちょう 』で連載 れんさい を続 つづ けた。
書簡 しょかん より引用 いんよう を多用 たよう しながらも、戦後 せんご の小林 こばやし の孤独 こどく と苛立 いらだ ちのにじむものとなっている。昭和 しょうわ 20年代 ねんだい から30年代 ねんだい 半 なか ばまでの期間 きかん はゴッホを中心 ちゅうしん としたフランス印象派 いんしょうは 絵画 かいが に関心 かんしん を振 ふ り向 む けることになる。1958年 ねん (昭和 しょうわ 33年 ねん )には『近代 きんだい 絵画 かいが 』[31] を人文書院 じんぶんしょいん で刊行 かんこう した。
ある普遍 ふへん 的 てき なものが、彼 かれ を脅迫 きょうはく してゐるのであつて、告白 こくはく すべきある個性 こせい 的 てき なものが問題 もんだい だつた事 ごと はない。
或 ある る恐 おそ ろしい巨 きょ きなものが彼 かれ の小 ちい さな肉体 にくたい を無理 むり にでも通過 つうか しようとするので、彼 かれ は苦 くる しく、止 や むを得 え ず、その触覚 しょっかく について語 かた るのである。 — 「ゴッホの手紙 てがみ 」
ゴッホは読書 どくしょ 家 か であり、その書簡 しょかん にはドストエフスキーの名前 なまえ なども見 み える。
一見 いっけん 、乱読 らんどく した文学 ぶんがく 書 しょ に影響 えいきょう されて、議論 ぎろん をしてゐる様 よう に見 み えるが、実 じつ は彼 かれ には告白 こくはく といふものしか出来 でき ない。
要 よう するにかういふ事 こと だ、この画家 がか は、働 はたら く手 て を休 やす めると、自分 じぶん の裡 うら にじつと坐 すわ つてゐる憂鬱 ゆううつ な詩人 しじん の眼 め に出会 であい はなければならない。 — 「ゴッホの手紙 てがみ 」
岩波 いわなみ 文庫 ぶんこ でも1955年 ねん (昭和 しょうわ 30年 ねん )より長年 ながねん かけ、硲 はざま 伊之助 いのすけ 訳 わけ 『ゴッホの手紙 てがみ 』が刊行 かんこう したが、書簡 しょかん 引用 いんよう の多 おお い小林 こばやし の『ゴッホの手紙 てがみ 』はそれらの先駆 せんく 的 てき な意味 いみ があると言 い える[注釈 ちゅうしゃく 34] 。
なお小林 こばやし は、瀧口 たきぐち 修造 しゅうぞう ・富永 とみなが 惣一 そういち と共 とも に、1963年 ねん (昭和 しょうわ 38年 ねん )よりみすず書房 しょぼう で出版 しゅっぱん された「ゴッホ書簡 しょかん 集 しゅう 」の監修 かんしゅう 者 しゃ となった。この書簡 しょかん 集 しゅう は、小林 こばやし 没 ぼつ 後 ご に始 はじ まった80年代 ねんだい バブル 期 き の絵画 かいが 「ひまわり 」購入 こうにゅう 騒動 そうどう の頃 ころ に新訳 しんやく に置 お き換 か えられるまで日本人 にっぽんじん のゴッホ信仰 しんこう のバイブルでもあった。
プロテスタントとかカソリックとか其他
何 なに 々
教会 きょうかい とか
言 げん ふ
組織 そしき のなかで
提供 ていきょう される、
皆 みな にあんなにしやぶられたキリストより、
ルナン [注釈 ちゅうしゃく 35] のキリストの
方 ほう が、どれほど
慰 なぐさ めになるか。
恋愛 れんあい だつて同 おな じ事 ごと ではないか。ルナンの『アンティ・キリスト』は出来 でき るだけ早 はや く読 よ みたい。
どんなものかは
見当 けんとう はつかぬが、
一 ひと つ
二 ふた つは
不滅 ふめつ なものが
見付 みつ かるに
違 たがえ ひないと、
前 ぜん 以つて
信 しん じてゐる。
— 「ゴッホの手紙 てがみ 」書簡 しょかん からの引用 いんよう
1960年 ねん 安保 あんぽ まで [ 編集 へんしゅう ]
ゴルフを嗜 たしな む小林 こばやし (1954年 ねん )
知的 ちてき 障害 しょうがい を持 も つ画家 がか 山下 やました 清 きよし が話題 わだい になった時期 じき には、彼 かれ の画 が の感性 かんせい については評価 ひょうか しつつも、見 み るものに訴 うった えかける精神 せいしん 性 せい の欠如 けつじょ を指摘 してき し、山下 やました の描画 びょうが を金閣寺 きんかくじ 放火 ほうか の犯人 はんにん の放火 ほうか になぞらえることで退 しりぞ けている[32] 。これは山下 やました が放浪 ほうろう を始 はじ める以前 いぜん のことである。小林 こばやし の態度 たいど を「大人 おとな げない」と取 と るか、「知的 ちてき 障害 しょうがい 者 しゃ の作 さく なのであるから」という態度 たいど を是 ぜ とするかは意見 いけん が分 わ かれるであろう[要 よう 出典 しゅってん ] 。
この時期 じき の小林 こばやし の文章 ぶんしょう には、ゴッホなどの絵画 かいが 論 ろん と並行 へいこう して日本 にっぽん の古典 こてん 、小林 こばやし 特有 とくゆう の音楽 おんがく 的 てき 関心 かんしん からのニーチェ 論 ろん などがある一方 いっぽう で[33] 、緊張 きんちょう 感 かん の抜 ぬ けた随筆 ずいひつ も現 あらわ れる。またジークムント・フロイト についての言及 げんきゅう が増 ふ えるのも戦後 せんご の時流 じりゅう の影響 えいきょう と無縁 むえん ではないであろう[要 よう 出典 しゅってん ] 。
また、当時 とうじ の最先端 さいせんたん の娯楽 ごらく であった映画 えいが (活動 かつどう 写真 しゃしん )についての少 すく なからぬ数 かず の論考 ろんこう もこの時期 じき に残 のこ している。戦後 せんご には、1951年 ねん (昭和 しょうわ 26年 ねん )5月 がつ の黒澤 くろさわ 明 あきら のドストエフスキー映画 えいが 『白痴 はくち 』公開 こうかい 後 ご 、『中央公論 ちゅうおうこうろん 』1952年 ねん (昭和 しょうわ 27年 ねん )5月 がつ 号 ごう から1953年 ねん (昭和 しょうわ 28年 ねん )1月 がつ 号 ごう に「『白痴 はくち 』についてⅡ」を著 あらわ し、後 のち に対談 たいだん も行 おこな っている。また小林 こばやし 周辺 しゅうへん から、戦後 せんご の小津 おつ 安 あん 二郎 じろう 作品 さくひん に関 かか わった文学 ぶんがく 者 しゃ が出 で ている。
小林 こばやし は1952年 ねん (昭和 しょうわ 27年 ねん )12月から翌年 よくねん 7月 がつ までヨーロッパ へ旅行 りょこう する途中 とちゅう 、ギリシャ ・エジプト などの古代 こだい 遺跡 いせき を巡 めぐ り、紀行 きこう 文 ぶん を遺 のこ している。この時期 じき 以後 いご 、小林 こばやし はプラトン の著作 ちょさく への関心 かんしん を深 ふか める。但 ただ し、小林 こばやし のプラトンへの関心 かんしん はむしろソクラテス に対 たい する関心 かんしん であり、これを元 もと にソクラテスのダイモニオン を論 ろん じた「悪魔 あくま 的 てき なもの」を書 か き[注釈 ちゅうしゃく 36] [注釈 ちゅうしゃく 37] 、60年 ねん 安保 あんぽ を前後 ぜんご する時期 じき の『考 かんが えるヒント』に繋 つな がる[34] 。
『感想 かんそう 』(ベルクソン論 ろん ) [ 編集 へんしゅう ]
ベルクソン哲学 てつがく の時代 じだい 背景 はいけい [ 編集 へんしゅう ]
1859年 ねん にダーウィンが『種 たね の起源 きげん 』を公表 こうひょう した当時 とうじ 、イギリス(大 だい 英 えい 帝国 ていこく )ではダーウィンに先 さき んじジャーナリストのロバート・チェンバース が匿名 とくめい [注釈 ちゅうしゃく 38] で出版 しゅっぱん した、万物 ばんぶつ 進化 しんか 論 ろん [注釈 ちゅうしゃく 39] を主張 しゅちょう する『創造 そうぞう の自然 しぜん 史 し の痕跡 こんせき 』が話題 わだい となっていた。これについてダーウィンは「下等 かとう 」、「高等 こうとう 」という概念 がいねん を人間 にんげん の主観 しゅかん 的 てき 価値 かち 観 かん の産物 さんぶつ であって科学 かがく 的 てき な概念 がいねん とは言 い えないとして、その科学 かがく 的 てき 価値 かち には否定 ひてい 的 てき な評価 ひょうか を下 くだ している。一方 いっぽう で、その影響 えいきょう が自 みずか らの学説 がくせつ の普及 ふきゅう するために一役 ひとやく 買 か ったことについては一定 いってい の評価 ひょうか を下 くだ している。このような、「下等 かとう 」な生物 せいぶつ が「高等 こうとう 」な生物 せいぶつ に変化 へんか するという形式 けいしき の「進化 しんか 論 ろん 」は、ダーウィンの指摘 してき するとおり近代 きんだい 科学 かがく の水準 すいじゅん に至 いた っていない疑似 ぎじ 科学 かがく であるが故 ゆえ に、ダーウィン以前 いぜん から存在 そんざい していたが充分 じゅうぶん な影響 えいきょう 力 りょく を持 も つには至 いた らなかった。ダーウィン自身 じしん 、当初 とうしょ は自 みずか らの自然 しぜん 選択 せんたく 説 せつ を疑似 ぎじ 科学 かがく の代名詞 だいめいし たる「進化 しんか 論 ろん 」の範疇 はんちゅう に入 い れることを拒否 きょひ していた。疑似 ぎじ 科学 かがく としての「進化 しんか 論 ろん 」の本質 ほんしつ はその説 せつ が生命 せいめい の謎 なぞ 、或 ある いはその究極 きゅうきょく 的 てき な目的 もくてき を説明 せつめい することであり、これは本質 ほんしつ 的 てき に科学 かがく 的 てき な証明 しょうめい の不可能 ふかのう な形而上学 けいじじょうがく である。一方 いっぽう 、ダーウィンの学説 がくせつ はそれが近代 きんだい 科学 かがく の枠組 わくぐ みにある限 かぎ り「生命 せいめい とは何 なに か」という哲学 てつがく 的 てき な問 と い には無 む 関心 かんしん であり、「種 たね の起源 きげん 」という名 な の通 とお りに生命 せいめい の多様 たよう な「種 たね 」がいかにして発生 はっせい したかについての理論 りろん であり、「生命 せいめい はいかにして誕生 たんじょう したか」という問 と いには無力 むりょく である。それが社会 しゃかい のダーウィン学説 がくせつ に対 たい するイメージからいかに隔 へだ たっていようとも、これは動 うご かしがたい真理 しんり である。ダーウィンの有力 ゆうりょく な協力 きょうりょく 者 しゃ であり、現代 げんだい では疑似 ぎじ 科学 かがく 的 てき な進化 しんか 論 ろん 者 しゃ の見本 みほん と見 み られているトマス・ヘンリー・ハクスリー は、自然 しぜん 選択 せんたく 説 せつ を教 おし えられた当時 とうじ の感想 かんそう を「何 なん でこんな簡単 かんたん なことに気 き づかなかったんだ」というものだったと言 い っている。これは、ハクスリーの思索 しさく 態度 たいど が哲学 てつがく 的 てき であって、科学 かがく 的 てき でなかったことによるものであろう。「ラマルク主義 しゅぎ 」で有名 ゆうめい な、19世紀 せいき 初頭 しょとう のジャン=バティスト・ラマルク による『動物 どうぶつ 哲学 てつがく 』以来 いらい 、近代 きんだい 科学 かがく の水準 すいじゅん を満 み たさない進化 しんか 論 ろん 学説 がくせつ のバリエーションは豊富 ほうふ であり、それぞれの理論 りろん の特徴 とくちょう についての議論 ぎろん はあるが、その内 うち にはダーウィンの祖父 そふ エラズマスや、ハクスリーと共 とも にダーウィンの有力 ゆうりょく な協力 きょうりょく 者 しゃ であったハーバート・スペンサー 、また小林 こばやし が論 ろん じたフランスの哲学 てつがく 者 しゃ ベルクソン も入 い れられるであろう。ベルクソンは著作 ちょさく 中 ちゅう 、スペンサーへの敬意 けいい を隠 かく していない。
伝統 でんとう 的 てき キリスト教会 きょうかい の神学 しんがく では、世界 せかい は神 かみ が7日 にち で創 つく り、人間 にんげん の祖先 そせん は塵 ちり ( ちり ) から創 つく られたアダム と、アダムの肋骨 あばらぼね から創 つく られたエバであるとして来 き た。このような世界 せかい 観 かん を無 む 批判 ひはん に受 う け入 い れる限 かぎ り、人間 にんげん の存在 そんざい する意味 いみ を我々 われわれ が改 あらた めて問 と う必要 ひつよう はない。一方 いっぽう 、ダーウィンの学説 がくせつ が主張 しゅちょう するのは「人間 にんげん の先祖 せんぞ がサル である」という事実 じじつ だけであり、しかもこの事実 じじつ だけで伝統 でんとう 的 てき なキリスト教 きりすときょう 神学 しんがく の権威 けんい を無効 むこう 化 か するには充分 じゅうぶん である。しかしダーウィンの学説 がくせつ は神学 しんがく ではなく、仮 かり にキリスト教 きりすときょう の神学 しんがく を抛棄 ほうき するならば、人間 にんげん の存在 そんざい する意味 いみ を改 あらた めて規定 きてい する新 あたら しい神学 しんがく が必要 ひつよう になる。それが、疑似 ぎじ 科学 かがく 的 てき 進化 しんか 論 ろん の意義 いぎ であったと言 い える。ダーウィン学説 がくせつ についての科学 かがく 的 てき 厳格 げんかく さを伴 ともな った論争 ろんそう では、ハクスリーやスペンサーのような疑似 ぎじ 科学 かがく 的 てき 進化 しんか 論 ろん からのダーウィン学説 がくせつ の擁護 ようご 者 しゃ は間 ま もなく排除 はいじょ されることになった。しかし、教会 きょうかい の権威 けんい に代 か わる新 あら たな神学 しんがく を必要 ひつよう とする世俗 せぞく 社会 しゃかい では、ハクスリーやスペンサーの権威 けんい が不要 ふよう になることはなかった。かくて現代 げんだい に至 いた るまで、科学 かがく としてのダーウィン学説 がくせつ と疑似 ぎじ 科学 かがく としての進化 しんか 論 ろん の、社会 しゃかい における混同 こんどう は多 おお かれ少 すく なかれ続 つづ いており、小林 こばやし もまたこの混同 こんどう から完全 かんぜん に逃 のが れきっているとは言 い えない[注釈 ちゅうしゃく 40] 。
19世紀 せいき 半 なか ば以後 いご 、ダーウィン学説 がくせつ と共 とも に西欧 せいおう を中心 ちゅうしん とした自由 じゆう 主義 しゅぎ 的 てき な世俗 せぞく 社会 しゃかい は、原罪 げんざい 論 ろん も最後 さいご の審判 しんぱん もない楽観 らっかん 主義 しゅぎ の哲学 てつがく を受 う け入 い れた。この楽観 らっかん 主義 しゅぎ はしかし、20世紀 せいき 初頭 しょとう の第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の惨禍 さんか ( さんか ) によって打 う ち砕 くだ かれた。(参照 さんしょう :実存 じつぞん 主義 しゅぎ #不安 ふあん の時代 じだい )第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご の西欧 せいおう 社会 しゃかい の知的 ちてき 潮流 ちょうりゅう は、この言 い わば新 あたら しい神学 しんがく の崩壊 ほうかい 、乃至 ないし は解体 かいたい から始 はじ まる。西洋 せいよう 哲学 てつがく 史 し におけるこの時代 じだい のランドマークとなる、ドイツの哲学 てつがく 者 しゃ ハイデッガー の『存在 そんざい と時間 じかん 』、オーストリア出身 しゅっしん の哲学 てつがく 者 しゃ ウィトゲンシュタイン 『論理 ろんり 哲学 てつがく 論考 ろんこう 』は、いずれも楽観 らっかん 主義 しゅぎ の哲学 てつがく における形而上学 けいじじょうがく の解体 かいたい を主眼 しゅがん として展開 てんかい されている。また、大戦 たいせん 以前 いぜん から進化 しんか 論 ろん 哲学 てつがく を主導 しゅどう して来 き たベルクソンのような哲学 てつがく 者 しゃ 自身 じしん 、自 みずか ら路線 ろせん 変更 へんこう を強 し いられた時代 じだい でもあった[注釈 ちゅうしゃく 41] 。
ベルクソンの4冊 さつ の主著 しゅちょ で、最後 さいご に発表 はっぴょう された『道徳 どうとく と宗教 しゅうきょう の二 ふた つの源泉 げんせん 』(1932年 ねん )を除 のぞ いた他 ほか の3著 ちょ は、第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん (1914年 ねん - 1918年 ねん )以前 いぜん の1889年 ねん から1907年 ねん にかけ公刊 こうかん された。最終 さいしゅう の「二 に 源泉 げんせん 」刊行 かんこう までの間 あいだ が開 ひら いているのは、戦後 せんご のベルクソンが賢人 けんじん 会議 かいぎ に参加 さんか するなど、思索 しさく よりも大戦 たいせん 後 ご の平和 へいわ 活動 かつどう に熱心 ねっしん だったせいである。また3著 ちょ がそれぞれ意識 いしき 現象 げんしょう 、生理 せいり 現象 げんしょう 、生物 せいぶつ 現象 げんしょう を扱 あつか った進化 しんか 論 ろん 哲学 てつがく であるのに対 たい し、最終 さいしゅう の「二 に 源泉 げんせん 」は、どちらかと言 い えば社会 しゃかい 学 がく 的 てき 考察 こうさつ である[35] 。進化 しんか 論 ろん 哲学 てつがく 者 しゃ としてのベルクソン哲学 てつがく の要 よう となる部分 ぶぶん は、小林 こばやし が文筆 ぶんぴつ 活動 かつどう を始 はじ めた第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 前 まえ に刊行 かんこう されていたのである。
ベルクソン哲学 てつがく の特徴 とくちょう [ 編集 へんしゅう ]
ダーウィン学説 がくせつ の普及 ふきゅう と共 とも に盛 さか んになった進化 しんか 論 ろん 哲学 てつがく は、科学 かがく の発展 はってん を大前提 だいぜんてい とするが故 ゆえ に人間 にんげん の理性 りせい を絶対 ぜったい 視 し する「自然 しぜん の光 ひかり 」、或 ある いは主知 しゅち 主義 しゅぎ の哲学 てつがく であり、ベルクソンの哲学 てつがく も例外 れいがい ではない。ベルクソンをアリストテレスに象徴 しょうちょう されるような伝統 でんとう 的 てき な理性 りせい の哲学 てつがく と区別 くべつ するのは、その直観 ちょっかん 主義 しゅぎ であると言 い われる。しかしベルクソンは、第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 前 まえ の1903年 ねん (明治 めいじ 36年 ねん )に発表 はっぴょう した『形而上学 けいじじょうがく 入門 にゅうもん 』で「知的 ちてき 直観 ちょっかん 」“intuition intellectuelle” と書 か いた箇所 かしょ を、大戦 たいせん 後 ご ―― つまり思想 しそう 背景 はいけい としての進化 しんか 論 ろん を抛棄 ほうき した後 のち と思 おも われる時期 じき に発表 はっぴょう した論文 ろんぶん 集 しゅう に転載 てんさい するにあたり「心的 しんてき 直観 ちょっかん 」“intuition spirituelle” と書 か き直 なお している[36] 。この戦前 せんぜん のベルクソンの直観 ちょっかん 主義 しゅぎ は、我々 われわれ 日本人 にっぽんじん が禅 ぜん 仏教 ぶっきょう で歴史 れきし 的 てき に親 した しんでいるような宗教 しゅうきょう 的 てき 直観 ちょっかん 主義 しゅぎ とは異 こと なるベルクソン哲学 てつがく の特徴 とくちょう 的 てき なものであろう。また、この知的 ちてき 直観 ちょっかん 主義 しゅぎ と対 たい をなしてベルクソン思想 しそう を特徴付 とくちょうづ けるものにイマージュ論 ろん がある。ベルクソンにとって、「イマージュ」とは単 たん なる心的 しんてき 表象 ひょうしょう とは異 こと なる、一種 いっしゅ の観念 かんねん 実在 じつざい 論 ろん である。このベルクソンのイマージュ論 ろん の影響 えいきょう は、小林 こばやし においてはそのドストエフスキー 伝 つて の序文 じょぶん をなす「歴史 れきし について」で見 み られるような、(ややグロテスクな)実在 じつざい 論 ろん 的 てき な歴史 れきし 哲学 てつがく となる。ベルクソンのイマージュ論 ろん は、彼 かれ が一時期 いちじき 会長 かいちょう を務 つと めた英国 えいこく 心霊 しんれい 現象 げんしょう 研究 けんきゅう 協会 きょうかい が研究 けんきゅう 対象 たいしょう にしたエクトプラズム を連想 れんそう させるものがある。また、ベルクソンの宗教 しゅうきょう 観 かん もこれに倣 なら ったものであり、後年 こうねん 、英国 えいこく 国教 こっきょう 会 かい が心霊 しんれい 主義 しゅぎ を内偵 ないてい して秘密 ひみつ 提出 ていしゅつ し、暴露 ばくろ されたと言 い われる報告 ほうこく 書 しょ における心霊 しんれい 主義 しゅぎ の宗教 しゅうきょう 観 かん についての批判 ひはん は、ベルクソンの宗教 しゅうきょう 思想 しそう を非常 ひじょう に連想 れんそう させる。
愛 あい の
崇高 すうこう さについても、
新約 しんやく 聖書 せいしょ の「
神 かみ は
愛 あい なり」という
主張 しゅちょう に
匹敵 ひってき するものが
見 み られることは
事実 じじつ だが、キリストの
持 も つ
贖罪 しょくざい 性 せい についての
叙述 じょじゅつ などは、
人間 にんげん の
罪 つみ の
重荷 おもに を
背負 せお ってくれるという
根本 こんぽん 的 てき な(キリスト
者 しゃ の)
受容 じゅよう の
信仰 しんこう ならびに
十字架 じゅうじか 上 じょう での
勝利 しょうり ではなく、どうやら(
復活 ふっかつ における)
物質 ぶっしつ 化 か 現象 げんしょう という
奇跡 きせき を
生 しょう じさせるある
種 しゅ のエネルギーのことであるらしく、キリスト
教 きょう 的 てき 福音 ふくいん の
教 おし えには
遠 とお く
及 およ ばないことがしばしばである。
「
英国 えいこく 国教 こっきょう 会 かい “
スピリチュアリズム 調査 ちょうさ 委員 いいん 会 かい ”
多数 たすう 意見 いけん 報告 ほうこく 書 しょ 」
ベルクソンは、いずれ科学 かがく の発展 はってん が死後 しご 生 せい の謎 なぞ をも解 と き明 あ かすことを期待 きたい する。
未完 みかん の『感想 かんそう 』[ 編集 へんしゅう ]
1958年 ねん (昭和 しょうわ 33年 ねん )5月 がつ には、いずれ未完 みかん に終 お わることになるベルクソン論 ろん 『感想 かんそう 』の連載 れんさい を『新潮 しんちょう 』誌上 しじょう に開始 かいし する。この連載 れんさい の契機 けいき となったのは何 なに よりこの時期 じき の小林 こばやし のギリシャ哲学 てつがく への傾斜 けいしゃ であろうが、当時 とうじ 内外 ないがい 論壇 ろんだん を賑 にぎ わしたコリン・ウィルソン の『アウトサイダー』[注釈 ちゅうしゃく 42] の神秘 しんぴ 主義 しゅぎ 的 てき 進化 しんか 論 ろん の影響 えいきょう も考 かんが えられる。同 おな じころ、河上 かわかみ 徹太郎 てつたろう が『日本 にっぽん のアウトサイダー』という評論 ひょうろん を著 あらわ した[37] 。河上 かわかみ はアウトサイダーの定義 ていぎ を「異端 いたん 」あるいは「幻 まぼろし (ヴィジョン)を見 み る人 ひと 」として、中原 なかはら 中也 ちゅうや 、内村 うちむら 鑑三 かんぞう など数 すう 人 にん の人物 じんぶつ の思想 しそう と行動 こうどう とを解析 かいせき し、インサイダーすなわち正統 せいとう 主義 しゅぎ 、オーソドクシイのあり得 え べき形 かたち や個所 かしょ の獲得 かくとく のためのヒントを呈示 ていじ した。小林 こばやし は、この河上 かわかみ の一連 いちれん の作業 さぎょう の保持 ほじ する意味 いみ のうち、人物 じんぶつ の「列伝 れつでん 」という歴史 れきし 表現 ひょうげん の側面 そくめん にスポットライトを当 あ てて[注釈 ちゅうしゃく 43] 、『考 かんが えるヒント』で紹介 しょうかい している[38] [注釈 ちゅうしゃく 44] 。
また、現代 げんだい では牧歌 ぼっか 的 てき に過 す ぎる態度 たいど と言 い わざるを得 え ないが、小林 こばやし の『感想 かんそう 』冒頭 ぼうとう における小林 こばやし 自身 じしん の超 ちょう 自然 しぜん 的 てき 体験 たいけん 談 だん には、ベルクソンの俗流 ぞくりゅう 神秘 しんぴ 主義 しゅぎ の影響 えいきょう が認 みと められるかも知 し れない。
戦前 せんぜん のカントを論 ろん じた小林 こばやし の初期 しょき 文章 ぶんしょう では、カントの人倫 じんりん 重視 じゅうし の形而上学 けいじじょうがく を「窮余 きゅうよ の一策 いっさく 」と評 ひょう したものがある。この小林 こばやし の形而上学 けいじじょうがく 観 かん はベルクソンを論 ろん じるにあたって自 みずか らの姿勢 しせい を暗 あん に表明 ひょうめい しているものと思 おも われる。しかし、概 がい してベルクソンの進化 しんか 論 ろん 哲学 てつがく の体系 たいけい は、小林 こばやし がそれと信 しん じた(信 しん じたがった)程 ほど には精神 せいしん 的 てき でも芸術 げいじゅつ 的 てき でもなく、小林 こばやし の文筆 ぶんぴつ 活動 かつどう において我々 われわれ が論 ろん じる価値 かち のあると見 み る分野 ぶんや に比較 ひかく して素朴 そぼく であり、楽天的 らくてんてき に過 す ぎるのであって、そこから小林 こばやし が期待 きたい するものを汲 く み上 あ げるのは困難 こんなん であったと言 い えるであろう。
ベルクソンは生命 せいめい 活動 かつどう を砲弾 ほうだん の飛 と び交 か う戦争 せんそう のようなイマージュ によって提示 ていじ する。事実 じじつ 、歴史 れきし はそのようになったのであって、戦後 せんご のベルクソンの平和 へいわ 活動 かつどう にも関 かか わらず、生物 せいぶつ 学 がく 的 てき 民族 みんぞく 主義 しゅぎ と進化 しんか 論 ろん 哲学 てつがく を奉 ほう じるナチス・ドイツ がユダヤ 人 ひと 哲学 てつがく 者 しゃ ベルクソンの住 す むパリ を占拠 せんきょ することになったのである。ベルクソンは遺稿 いこう の公開 こうかい を禁 きん じてナチス占領 せんりょう 下 か のパリでひっそりと最期 さいご を迎 むか え、ベルクソンの膨大 ぼうだい な遺稿 いこう を期待 きたい しながら戦後 せんご を迎 むか えた小林 こばやし はそれを知 し り「恥 は ずかしかった」と告白 こくはく している[注釈 ちゅうしゃく 45] 。
1963年 ねん (昭和 しょうわ 38年 ねん )に、小林 こばやし はソ連 それん 作家 さっか 同盟 どうめい の招 まね きで訪 ほう ソしたのを期 き に、5年 ねん の歳月 さいげつ をかけたベルクソン論 ろん を中断 ちゅうだん した[注釈 ちゅうしゃく 46] 。後 のち に小林 こばやし は数学 すうがく 者 しゃ 岡 おか 潔 きよし との対談 たいだん で、中断 ちゅうだん の理由 りゆう として「無学 むがく を乗 の りきることが出来 でき なかったから」と述 の べている[39] 。
小林 こばやし が封印 ふういん したベルクソン論 ろん 『感想 かんそう 』は本人 ほんにん の意志 いし とは無関係 むかんけい に、生誕 せいたん 百 ひゃく 年 ねん を記念 きねん した小林 こばやし 秀雄 ひでお 全集 ぜんしゅう (第 だい 5次 じ )・別巻 べっかん として公刊 こうかん された。
1960年 ねん 安保 あんぽ 前後 ぜんこう [ 編集 へんしゅう ]
1951年 ねん (昭和 しょうわ 26年 ねん )、アメリカ との片面 かためん 講和 こうわ と旧 きゅう 日米 にちべい 安保 あんぽ 条約 じょうやく によって一 いち 応 おう の区切 くぎ りの付 つ いた戦後 せんご の日本 にっぽん には、戦後 せんご にニューヨーク に本部 ほんぶ を移 うつ して新 しん 体制 たいせい として再建 さいけん された国連 こくれん への参加 さんか に対 たい する、常任 じょうにん 理事 りじ 国 こく ソ連 それん の拒否 きょひ 権 けん という障碍 しょうがい が存在 そんざい した。1956年 ねん (昭和 しょうわ 31年 ねん )の鳩山 はとやま 一郎 いちろう 内閣 ないかく による戦後 せんご の日 ひ ソ国交 こっこう 回復 かいふく は、このような状況 じょうきょう 下 か で行 おこな われた。日 にち ソ共同 きょうどう 宣言 せんげん は、戦後 せんご の新 しん 日本 にっぽん 再建 さいけん に向 む けた国際 こくさい 社会 しゃかい への本格 ほんかく 復帰 ふっき の始 はじ まりとして、国内 こくない 世論 せろん は歓迎 かんげい ムードに沸 わ いた。しかし、続 つづ く1960年 ねん (昭和 しょうわ 35年 ねん )の新 しん 安保 あんぽ 条約 じょうやく は、冷戦 れいせん 構造 こうぞう 下 か でのアメリカに対 たい する日本 にっぽん の一方 いっぽう 的 てき 従属 じゅうぞく を決定 けってい づけるものであり、戦後 せんご 日本 にっぽん の独立 どくりつ 国 こく としての将来 しょうらい への期待 きたい を全 まった く裏切 うらぎ るものとして国内 こくない 世論 せろん の激 はげ しい抵抗 ていこう にもかかわらず強行 きょうこう 的 てき に締結 ていけつ された[注釈 ちゅうしゃく 47] 。
1960年 ねん (昭和 しょうわ 35年 ねん )安保 あんぽ の前後 ぜんご に小林 こばやし は、NHKラジオ新年 しんねん 放送 ほうそう に、吉田 よしだ 茂 しげる [40] [注釈 ちゅうしゃく 48] や、南原 なんばら 繁 しげる 、鈴木 すずき 大拙 だいせつ 、手塚 てづか 富雄 とみお [41] と共 とも に参加 さんか している[注釈 ちゅうしゃく 49] 。
戦前 せんぜん から創 つく 元 もと 社 しゃ に顧問 こもん として関係 かんけい してきた小林 こばやし は、後 こう 戦 せん 間 あいだ もない1948年 ねん (昭和 しょうわ 23年 ねん )取締役 とりしまりやく となり、東京 とうきょう 支社 ししゃ はのれん分 わ けされ別 べつ 法人 ほうじん となった。1951年 ねん (昭和 しょうわ 26年 ねん )に現代 げんだい 社会 しゃかい 科学 かがく 叢書 そうしょ が刊行 かんこう され、第 だい 一 いち 回 かい 配本 はいほん のフロム 『自由 じゆう からの逃走 とうそう 』はベストセラーとなる[42] 。1954年 ねん (昭和 しょうわ 29年 ねん )に一 いち 度 ど 倒産 とうさん 「東京 とうきょう 創 そう 元 もと 社 しゃ 」として再開 さいかい したが、1961年 ねん (昭和 しょうわ 36年 ねん )に再度 さいど 倒産 とうさん し、小林 こばやし は取締役 とりしまりやく を辞任 じにん する。
この年 とし 小林 こばやし は、「考 かんが えるヒント」として、評論 ひょうろん 「忠臣蔵 ちゅうしんぐら I・II」を発表 はっぴょう [43] 。ここで結語 けつご の中 なか で、「……現代 げんだい 人 じん には、現実 げんじつ 世界 せかい は、自由 じゆう な批判 ひはん に屈 くっ し、現状 げんじょう 維持 いじ にも革新 かくしん にも応 おう ずると言 い った姿 すがた に映 えい ずる傾向 けいこう があるが、当時 とうじ の武士 ぶし たちには、勿論 もちろん 、そんな心理 しんり 傾向 けいこう は無縁 むえん であって、彼等 かれら は、ただ退 すさ 引 ひ きならぬ世 よ の転変 てんぺん をそのまま受 う け納 おさめ れて、これに黙 もだ して処 しょ した」と説 と き、自 みずか らを仮託 かたく しているように読 よ めなくもない。「これは、原理 げんり 的 てき には簡明 かんめい な事 こと で、行動 こうどう 人 じん から知識 ちしき 人 じん への転向 てんこう であった」と続 つづ いている。他方 たほう で、同 どう 時期 じき の講演 こうえん 「現代 げんだい の思想 しそう 」では、本題 ほんだい をそれて「世 よ 捨 す て」を論 ろん じており、その声 こえ の調子 ちょうし は重 おも く沈 しず み切 き っている。小林 こばやし の「世 よ 捨 す て」についての見方 みかた は、中国 ちゅうごく 古典 こてん を引 ひ き合 あ いに出 だ した「世 よ を捨 す てて市場 いちば にいる」というものである。これは、かつて「西行 さいぎょう 」において取 と り上 あ げ、重視 じゅうし しながらも「馬鹿 ばか 正直 しょうじき な拙 つたな い歌 うた 」と評 ひょう した作 さく に似 に ている[44] 。
捨 す てたれど隠 かく れて住 す まぬ人 ひと になれば猶 なお (なほ)世 よ にあるに似 に たるなりけり
1963年 ねん (昭和 しょうわ 38年 ねん )の訪 ほう ソで、小林 こばやし はドストエフスキー の墓 はか を訪 おとず れるなどし、ソ連 それん ・ロシア についての幾 いく つかの文章 ぶんしょう を残 のこ している。「ネヴァ河 かわ 」では、前年 ぜんねん に没 ぼっ した正宗 まさむね 白鳥 しらとり の、『罪 つみ と罰 ばち 』の最後 さいご に登場 とうじょう するネヴァ河 かわ を遠 とお い目 め に見 み る姿 すがた を回想 かいそう として引 ひ いている[45] 。この訪 ほう ソで『感想 かんそう 』を中断 ちゅうだん してしばらくすると、小林 こばやし は『本 ほん 居 きょ 宣長 のりなが 』の連載 れんさい を始 はじ める。小林 こばやし には戦時 せんじ 中 ちゅう から日本 にっぽん の古典 こてん 文学 ぶんがく 、芸能 げいのう 、絵画 かいが 、骨董 こっとう についての文章 ぶんしょう は数多 かずおお いが、日本 にっぽん の古典 こてん についてのまとまった仕事 しごと はこれが最初 さいしょ で最後 さいご のものとなる。
吉本 よしもと 隆明 たかあき は、戦後 せんご の小林 こばやし については「僕 ぼく が左傾 さけい 化 か し、熱心 ねっしん とは言 い えない読者 どくしゃ になった頃 ころ 、小林 こばやし 秀雄 ひでお は、「無常 むじょう という事 こと 」の延長線 えんちょうせん 上 じょう の、ある閉 と じられた領域 りょういき の中 なか でくるくる巡回 じゅんかい しているだけではないか、と思 おも えてきたんですね。左翼 さよく から見 み ると尚更 なおさら そうなのですが、いい文章 ぶんしょう を書 か いてはいるんだけれども、思想 しそう 的 てき な停滞 ていたい を感 かん じざるを得 え ない。」小林 こばやし 秀雄 ひでお 晩年 ばんねん の作品 さくひん 『本 ほん 居 きょ 宣長 のりなが 』についても「宣長 のりなが 論 ろん の勘所 かんどころ は、二 ふた つあると思 おも います」、「記紀 きき 神話 しんわ に書 か かれたことをそのまま素直 すなお に受 う け取 と ればいいという宣長 のりなが の考 かんが え」「勘 かん でいやに正確 せいかく な古典 こてん 日本語 にほんご の読解 どっかい をやっているなという国学 こくがく 者 しゃ としての宣長 のりなが 」「その二 に 点 てん の考察 こうさつ が欠 か けているとともに、停滞 ていたい 感 かん だけはいかんともしがたく、その論旨 ろんし で書評 しょひょう を書 か きました」と述 の べている[46] 。
小林 こばやし における通常 つうじょう の心理 しんり 学 がく を越 こ える諸 しょ 問題 もんだい についての関心 かんしん は、『モオツァルト』、『感想 かんそう 』、『本 ほん 居 きょ 宣長 のりなが 』に後続 こうぞく する、最 さい 晩年 ばんねん の未完 みかん となった『正宗 まさむね 白鳥 しらとり の作 さく について』(1981年 ねん (昭和 しょうわ 56年 ねん ) - 1983年 ねん (昭和 しょうわ 58年 ねん ))までに至 いた る。ここで小林 こばやし は、フロイトとユング の師弟 してい の共同 きょうどう 作業 さぎょう に言及 げんきゅう し、ユングの『自伝 じでん 』をめぐる逸話 いつわ の中 なか で、「心 しん の現実 げんじつ に常 つね にまつわる説明 せつめい しがたい要素 ようそ は謎 なぞ や神秘 しんぴ のままにとどめ置 お くのが賢明 けんめい ・・・」とある文章 ぶんしょう を引用 いんよう しかけた地点 ちてん で、絶筆 ぜっぴつ となった[注釈 ちゅうしゃく 50] 。
東慶寺 とうけいじ にある小林 こばやし 秀雄 ひでお の墓 はか
小林 こばやし の批評 ひひょう は個性 こせい 的 てき な文体 ぶんたい と詩的 してき な表現 ひょうげん を持 も ち、さまざまな分野 ぶんや の評論 ひょうろん 家 か 、知識 ちしき 人 じん に影響 えいきょう を与 あた えた。小林 こばやし がもたらした新 しん 時代 じだい の批評 ひひょう 形式 けいしき に対 たい して、創造 そうぞう 的 てき 批評 ひひょう 、という評語 ひょうご が文学 ぶんがく 界 かい に現 あらわ れた[注釈 ちゅうしゃく 51] [47] [48] [49] 。文学 ぶんがく の批評 ひひょう に留 と まらず、西洋 せいよう 絵画 かいが の評論 ひょうろん も手 て がけ、ランボー 、アラン、アンドレ・ジッド 、サント・ブーヴ 、ジャック・リヴィエール 等 ひとし の翻訳 ほんやく も行 おこな った[50] 。酒癖 さけぐせ は悪 わる く、深酔 ふかよ いすると周囲 しゅうい の人 ひと にからみ始 はじ め、相手 あいて が泣 な き出 だ すか怒 いか り出 だ すまでやめなかったという。日本語 にほんご の通 つう じないアメリカ兵 へい まで泣 な かせたという伝説 でんせつ が周囲 しゅうい で囁 ささや かれていた[51] 。鎌倉 かまくら 市 し に在住 ざいじゅう [注釈 ちゅうしゃく 52] し、文化 ぶんか 遺産 いさん や風致 ふうち 地区 ちく の保存 ほぞん 運動 うんどう にも影響 えいきょう 力 りょく をもっていた。
(清水 しみず )
小林 こばやし 市 し 右 みぎ 衛門 えもん 重秋 しげあき ━小林 こばやし 友右衛門 ともえもん …(中略 ちゅうりゃく )…小林 こばやし 友右衛門 ともえもん ……小林 こばやし 豊造 とよぞう ━小林 こばやし 秀雄 ひでお
┃
清水 しみず 甚兵衛 じんべえ ━━━┛
『様々 さまざま なる意匠 いしょう 』
『Xへの手紙 てがみ 』
『志賀 しが 直哉 なおや 』
『私小説 ししょうせつ 論 ろん 』
『ドストエフスキイの生活 せいかつ 』(最初 さいしょ の長編 ちょうへん 評論 ひょうろん )
『無常 むじょう といふ事 こと 』
『私 わたし の人生 じんせい 観 かん 』
『モオツァルト 』
『ゴッホの手紙 てがみ 』
『近代 きんだい 絵画 かいが 』
『考 かんが へるヒント』
『真贋 しんがん 』(美術 びじゅつ 論 ろん )
『感想 かんそう 』(未完 みかん のベルクソン 論 ろん )
『本 ほん 居 きょ 宣長 のりなが 』
著作 ちょさく 集 しゅう (現行 げんこう )[ 編集 へんしゅう ]
対談 たいだん (現行 げんこう )[ 編集 へんしゅう ]
『人間 にんげん の建設 けんせつ 』(岡 おか 潔 きよし と、新潮 しんちょう 文庫 ぶんこ 、2010年 ねん (解説 かいせつ 茂木 もき 健一郎 けんいちろう ))
『小林 こばやし 秀雄 ひでお 対話 たいわ 集 しゅう 』(講談社 こうだんしゃ 文芸 ぶんげい 文庫 ぶんこ 、2005年 ねん )、ワイド版 ばん 2017年 ねん (12名 めい との対話 たいわ )
『直観 ちょっかん を磨 みが くもの 小林 こばやし 秀雄 ひでお 対話 たいわ 集 しゅう 』(新潮 しんちょう 文庫 ぶんこ 、2014年 ねん ) ※ 12名 めい との対話 たいわ ・講談社 こうだんしゃ 版 ばん とは異 こと なる収録 しゅうろく
『新 しん 訂 てい 小林 こばやし 秀雄 ひでお 全集 ぜんしゅう 別巻 べっかん II 批評 ひひょう への道 みち 付 づけ 年譜 ねんぷ ・書誌 しょし 』(新潮社 しんちょうしゃ 、1979年 ねん )
『この人 ひと を見 み よ 小林 こばやし 秀雄 ひでお 全集 ぜんしゅう 月報 げっぽう 集成 しゅうせい 』(新潮 しんちょう 文庫 ぶんこ 、2014年 ねん )。上記 じょうき を文庫 ぶんこ 化 か (一部 いちぶ )
『小林 こばやし 秀雄 ひでお 全 ぜん 作品 さくひん 別巻 べっかん III 無私 むし を得 え る道 みち (上 うえ )』(新潮社 しんちょうしゃ 、2005年 ねん )
『レクイエム小林 こばやし 秀雄 ひでお 』(吉田 よしだ 熈生編 へん 、講談社 こうだんしゃ 、1983年 ねん )記事 きじ ・追悼 ついとう 論集 ろんしゅう
『小林 こばやし 秀雄 ひでお 群像 ぐんぞう 日本 にっぽん の作家 さっか 14』(小学館 しょうがくかん 、1991年 ねん )
『小林 こばやし 秀雄 ひでお 鑑賞 かんしょう 日本 にっぽん 現代 げんだい 文学 ぶんがく 16』(清水 しみず 孝 たかし 純 じゅん 編 へん 、角川書店 かどかわしょてん 、1981年 ねん )
『文芸 ぶんげい 読本 とくほん 小林 こばやし 秀雄 ひでお 』(河出書房新社 かわでしょぼうしんしゃ 、1983年 ねん )
『KAWADE夢 ゆめ ムック 総 そう 特集 とくしゅう 小林 こばやし 秀雄 ひでお 』(河出書房新社 かわでしょぼうしんしゃ 、2003年 ねん )
『小林 こばやし 秀雄 ひでお 必携 ひっけい 』(吉田 よしだ 熈生編 へん 、学 がく 燈 とう 社 しゃ 、新版 しんぱん 1993年 ねん ) ※ 以上 いじょう は年譜 ねんぷ ・主 おも な参考 さんこう 文献 ぶんけん 目録 もくろく を収録 しゅうろく
郡司 ぐんじ 勝義 まさよし 『わが小林 こばやし 秀雄 ひでお ノート 向日性 こうじつせい の時代 じだい 』(未知 みち 谷 だに 、2000年 ねん )
郡司 ぐんじ 勝義 まさよし 『批評 ひひょう の出現 しゅつげん わが小林 こばやし 秀雄 ひでお ノート 第 だい 二 に 』(未知 みち 谷 だに 、2000年 ねん )
郡司 ぐんじ 勝義 まさよし 『歴史 れきし の探究 たんきゅう わが小林 こばやし 秀雄 ひでお ノート 第 だい 三 さん 』(未知 みち 谷 だに 、2001年 ねん )
神山 かみやま 睦美 むつみ 『小林 こばやし 秀雄 ひでお の昭和 しょうわ 』(思潮 しちょう 社 しゃ 、2010年 ねん )
廣木 ひろき 寧 やすし 『小林 こばやし 秀雄 ひでお と夏目 なつめ 漱石 そうせき ―その経験 けいけん 主義 しゅぎ と内 うち 発 はつ 的 てき 生 せい 』(総和 そうわ 社 しゃ 、2013年 ねん )
若松 わかまつ 英輔 えいすけ 『小林 こばやし 秀雄 ひでお 美 うつく しい花 はな 』(文藝春秋 ぶんげいしゅんじゅう 、2017年 ねん /文春 ぶんしゅん 文庫 ぶんこ 、2021年 ねん )
『学生 がくせい との対話 たいわ 』(国民 こくみん 文化 ぶんか 研究 けんきゅう 会 かい 編 へん 、新潮社 しんちょうしゃ 、2014年 ねん /新潮 しんちょう 文庫 ぶんこ 、2017年 ねん )
九州 きゅうしゅう での研修 けんしゅう 講義 こうぎ と質疑 しつぎ 応答 おうとう (1961年 ねん (昭和 しょうわ 36年 ねん ) - 1978年 ねん (昭和 しょうわ 53年 ねん )夏 なつ に、計 けい 5度 ど 行 おこな った)
『小林 こばやし 秀雄 ひでお 江藤 えとう 淳 あつし 全 ぜん 対話 たいわ 』(中公 ちゅうこう 文庫 ぶんこ 、2019年 ねん 、平山 ひらやま 周吉 しゅうきち 解説 かいせつ )
^ 高見澤 たかみざわ 潤子 じゅんこ の『兄 あに 小林 こばやし 秀雄 ひでお 』によると、実際 じっさい の誕生 たんじょう 日 び は3月 がつ 末 まつ だったという。
^ 本名 ほんみょう は高見澤 たかみざわ 富士子 ふじこ (たかみざわ ふじこ、1904‐2004)。牛込 うしごめ 区 く (現在 げんざい の新宿 しんじゅく 区 く 牛込 うしごめ )出身 しゅっしん 。東京女子大学 とうきょうじょしだいがく 英語 えいご 専攻 せんこう 部 ぶ 卒 そつ 。高見澤 たかみざわ 潤子 じゅんこ 、矗 のぶ 江 こう のペンネーム で戯曲 ぎきょく 、小説 しょうせつ 、随筆 ずいひつ を執筆 しっぴつ 。クリスチャン で荻窪 おぎくぼ 教会 きょうかい 長老 ちょうろう としても活動 かつどう した。兄 あに ・秀雄 ひでお 関係 かんけい の著作 ちょさく に『兄 あに 小林 こばやし 秀雄 ひでお との対話 たいわ 』講談社 こうだんしゃ 現代新書 げんだいしんしょ 、1970年 ねん (昭和 しょうわ 45年 ねん )、新版 しんぱん ・講談社 こうだんしゃ 文芸 ぶんげい 文庫 ぶんこ 。『兄 あに 小林 こばやし 秀雄 ひでお 』新潮社 しんちょうしゃ 、1985年 ねん (昭和 しょうわ 60年 ねん )。他 た に各 かく ・海竜 かいりゅう 社 しゃ で『生 い きること生 い かされること 兄 あに 小林 こばやし 秀雄 ひでお の心情 しんじょう 』1987年 ねん 、『生 い きることは愛 あい すること 兄 あに 小林 こばやし 秀雄 ひでお の実践 じっせん 哲学 てつがく 』1993年 ねん 、『人間 にんげん の老 お い方 かた 死 し に方 かた 兄 けい 小林 こばやし 秀雄 ひでお の足跡 あしあと 』1995年 ねん がある。「年譜 ねんぷ ――小林 こばやし 秀雄 ひでお 」小林 こばやし 秀雄 ひでお 『栗 ぐり の樹 き 』講談社 こうだんしゃ 文芸 ぶんげい 文庫 ぶんこ 、1990年 ねん (平成 へいせい 2年 ねん ) p.367、吉田 よしだ 凞生「小林 こばやし 秀雄 ひでお 年譜 ねんぷ 」『群像 ぐんぞう 日本 にっぽん の作家 さっか 14 小林 こばやし 秀雄 ひでお 』小学館 しょうがくかん 、1991年 ねん (平成 へいせい 3年 ねん ) p.336
^ 平野 ひらの 謙 けん の母方 ははかた の祖父 そふ の千葉 ちば 實 み と小林 こばやし 秀雄 ひでお の母方 ははかた の祖母 そぼ の城 しろ 谷 たに やす(旧姓 きゅうせい ・千葉 ちば )とは、兄妹 きょうだい の関係 かんけい にある。
^ 東京 とうきょう 高等 こうとう 工業 こうぎょう 学校 がっこう 機械 きかい 科 か 卒業 そつぎょう 。東京 とうきょう 高 だか 工 こう 助教授 じょきょうじゅ となり、文部省 もんぶしょう から派遣 はけん されて、欧米 おうべい の貴金属 ききんぞく 界 かい を視察 しさつ 、帰国 きこく 後 ご 御木本 みきもと 貴金属 ききんぞく 工場 こうじょう の工場 こうじょう 長 ちょう となる。さらに欧米 おうべい 各国 かっこく の装身具 そうしんぐ 工場 こうじょう を見学 けんがく 。
^ 「1928年 ねん (昭和 しょうわ 3年 ねん )2月 がつ 、成城 せいじょう 高校 こうこう の国語 こくご 教師 きょうし 村井 むらい 康男 やすお の紹介 しょうかい で、東大 とうだい 在学 ざいがく 中 ちゅう の小林 こばやし 秀雄 ひでお からフランス語 ふらんすご の教授 きょうじゅ を受 う ける」大岡 おおおか 昇平 しょうへい 「略 りゃく 年譜 ねんぷ 」『わが文学 ぶんがく 生活 せいかつ 』中公 ちゅうこう 文庫 ぶんこ 、1981年 ねん (昭和 しょうわ 56年 ねん ) p.7という資料 しりょう もある。富永 とみなが も大岡 おおおか も村井 むらい 門下 もんか 。
^ 「編集 へんしゅう 部員 ぶいん は箕輪 みのわ 錬 ね 一 いち (立教 りっきょう 出 で )、鈴木 すずき 一意 いちい (早大 そうだい 出 で )、水島 みずしま 治男 はるお (早大 そうだい 出 で )、佐藤 さとう 績(早大 そうだい 出 で )、上林 うえばやし 曉 あきら (東大 とうだい 出 で )と私 わたし の六 ろく 人 にん で、鈴木 すずき を除 のぞ けば、みな学校 がっこう を出 で て間 あいだ のない若手 わかて だった。私 わたし が一番 いちばん 新参 しんざん であった。数 かず 百 ひゃく 篇 へん 集 たか った中 なか から最後 さいご に二 に 編 へん 残 のこ った。宮本 みやもと 顕治 けんじ の『敗北 はいぼく の文学 ぶんがく 』と小林 こばやし の『様々 さまざま な〔ママ 〕意匠 いしょう 』である。一等 いっとう 一 いち 篇 へん 金 きん 千 せん 円 えん 、二 に 等 とう 一 いち 篇 へん 金 きん 五 ご 百 ひゃく 円 えん という規定 きてい だったが、どちらを一等 いっとう にすべきか編集 へんしゅう 部 ぶ は迷 まよ った。いろいろ議論 ぎろん したがケリがつかないので投票 とうひょう ということになった。結果 けっか は三 さん 対 たい 三 さん 。そこで又 また 迷 まよ った。小林 こばやし のは新風 しんぷう に違 ちが いないが難解 なんかい であった。それに反 はん し宮本 みやもと のは左翼 さよく の立場 たちば から芥川 あくたがわ 龍之介 りゅうのすけ を論 ろん じたもので、議論 ぎろん は単純 たんじゅん 明快 めいかい 、言葉 ことば に力 ちから がこもっていた。結局 けっきょく 、左翼 さよく 文学 ぶんがく の勢 いきおい をふるっていた当時 とうじ の文壇 ぶんだん 形勢 けいせい からしても、『敗北 はいぼく の文学 ぶんがく 』を一等 いっとう に推 お すのが至当 しとう ということにきまった。」[2]
^ このあと『世界 せかい 文學 ぶんがく 』1946年 ねん (昭和 しょうわ 21年 ねん )10月 がつ 号 ごう に近代 きんだい 文學 ぶんがく 同人 どうじん による座談 ざだん 会 かい 「近代 きんだい 文學 ぶんがく の反省 はんせい 」が掲載 けいさい されている。
^ 後 のち に、チェーホフ やイプセン などの西洋 せいよう 劇 げき を見 み る機会 きかい を得 え て、戯曲 ぎきょく の舞台 ぶたい 上 じょう にあって生 い きることについて感嘆 かんたん し、西洋 せいよう 戯曲 ぎきょく を論 ろん じた文章 ぶんしょう 、対談 たいだん 時 じ の発言 はつげん を残 のこ している。小林 こばやし 秀雄 ひでお 「チェホフ」『批評 ひひょう 』1948年 ねん 11月 がつ 号 ごう 所収 しょしゅう 、『作家 さっか の顔 かお 』新潮 しんちょう 文庫 ぶんこ 、1961年 ねん (昭和 しょうわ 36年 ねん ) pp.240 - 248、小林 こばやし 秀雄 ひでお 「『ヘッダ・ガブラー』」『新潮 しんちょう 』1950年 ねん (昭和 しょうわ 25年 ねん )12月 がつ 所収 しょしゅう 、『作家 さっか の顔 かお 』新潮 しんちょう 文庫 ぶんこ 、1961年 ねん (昭和 しょうわ 36年 ねん ) pp.263 - 275、「悲劇 ひげき について」『演劇 えんげき 』1951年 ねん (昭和 しょうわ 26年 ねん )6月 がつ 創刊 そうかん 号 ごう pp.38 - 41、小林 こばやし 、加藤 かとう 周一 しゅういち 対談 たいだん 「演劇 えんげき の理想 りそう 像 ぞう 」『演劇 えんげき 』1951年 ねん 7月 がつ 号 ごう pp.16 - 24、久保田 くぼた 万太郎 まんたろう 、今日 きょう 出海 でうみ 、永井 ながい 龍男 たつお 、小林 こばやし 座談 ざだん 会 かい 「オスロ土産 みやげ 話 ばなし 」『演劇 えんげき 』1951年 ねん 8月 がつ 号 ごう pp.60 - 67、福田 ふくだ 恆 ひさし 存 そん 、小林 こばやし 対談 たいだん 「芝居 しばい 問答 もんどう 」『演劇 えんげき 』1951年 ねん 11月 がつ 号 ごう pp.32 - 44
^ 但 ただ し、ランボーを象徴 しょうちょう 派 は 詩人 しじん と見 み なすか否 ひ かについて、小林 こばやし においては二 に 十 じゅう 代 だい の評価 ひょうか と、それ以後 いご では変化 へんか する。
^ 「だが、もはや私 わたし には、彼 かれ に関 かん するどんな分析 ぶんせき
も興 きょう ない。」「アルチュル・ランボオⅡ」『地獄 じごく の季 き 節 ぶし 』白水 しろみず 社 しゃ 、1930年 ねん (昭和 しょうわ 5年 ねん )所収 しょしゅう 。(現行 げんこう タイトル「ランボオⅡ」)小林 こばやし 秀雄 ひでお 『考 かんが えるヒント4 ランボオ・中原 なかはら 中也 ちゅうや 』文春 ぶんしゅん 文庫 ぶんこ 、1980年 ねん (昭和 しょうわ 55年 ねん ) p.27
^ 江藤 えとう 淳 あつし による判断 はんだん は、「四 よん 年 ねん 前 まえ の夏 なつ には彼 かれ の内外 ないがい に「現存 げんそん 」していたランボオが、この時 とき はもう回復 かいふく しようもなく失 うしな われているのである」となる。江藤 えとう 淳 あつし 「小林 こばやし 秀雄 ひでお 論 ろん (四 よん )」『聲 こえ 』第 だい 9号 ごう 丸善 まるぜん 、1960年 ねん (昭和 しょうわ 35年 ねん ) p.59
^ 実存 じつぞん 主義 しゅぎ #歴史 れきし を参照 さんしょう 。
^ 武者小路 むしゃのこうじ 実篤 さねあつ 主宰 しゅさい の雑誌 ざっし 。武藤 むとう 康史 やすし 「小林 こばやし 秀雄 ひでお 交遊 こうゆう 緑 みどり 」『小林 こばやし 秀雄 ひでお 百 ひゃく 年 ねん のヒント』『新潮 しんちょう 』2001年 ねん 4月 がつ 臨時 りんじ 増刊 ぞうかん p.299
^ 小林 こばやし の年少 ねんしょう の知人 ちじん であった大岡 おおおか 昇平 しょうへい の言葉 ことば を借 か りる。「私 わたし は人生 じんせい も大正 たいしょう 文壇 ぶんだん も厭 いや 悪 わる していたが、芥川 あくたがわ の死 し は、人生 じんせい は果 はた して生 い きるに値 あたい するものか、自殺 じさつ すべきか、について考 かんが え直 なお しを強 し いるものだった。(中略 ちゅうりゃく )そんな時 とき 、村井 むらい さんが貸 か してくれた『大 だい 調和 ちょうわ 』の「芥川 あくたがわ 龍之介 りゅうのすけ の美神 びしん と宿命 しゅくめい 」は、これらの青春 せいしゅん の悩 なや みを解放 かいほう してくれたものだった。芥川 あくたがわ の文学 ぶんがく を神経 しんけい の文学 ぶんがく として相対 そうたい 化 か してくれた。芥川 あくたがわ は遺稿 いこう で、イエスを書 か き、ヴォルテール 、ボードレールを引用 いんよう して、思想 しそう の文学 ぶんがく めかしていた。小林 こばやし さんは「芥川 あくたがわ ]を「逆説 ぎゃくせつ というものが何 なに であるかを知 し らなかった逆説 ぎゃくせつ 家 か 」とこき降 お ろして、ヴォルテールを知 し らない少年 しょうねん を安心 あんしん させた」大岡 おおおか 昇平 しょうへい 「教 おし えられたこと」『新潮 しんちょう 』4月 がつ 臨時 りんじ 増刊 ぞうかん 号 ごう 、1983年 ねん (昭和 しょうわ 58年 ねん ) p.89
^ 村井 むらい さんは、村井 むらい 康男 やすお 。当時 とうじ 旧制 きゅうせい 成城 せいじょう 高等 こうとう 学校 がっこう 教師 きょうし 。東京 とうきょう 帝国 ていこく 大学 だいがく 文学部 ぶんがくぶ 国文学 こくぶんがく 科 か 卒 そつ 。1929年 ねん (昭和 しょうわ 4年 ねん )同人 どうじん 雑誌 ざっし 『白痴 はくち 群 ぐん 』に参加 さんか 。同人 どうじん は、中原 なかはら 中也 ちゅうや 、富永 とみなが 次郎 じろう 、大岡 おおおか 昇平 しょうへい 、河上 かわかみ 徹太郎 てつたろう 、阿部 あべ 六郎 ろくろう 、内海 うつみ 誓 ちかい 一郎 いちろう 、古谷 ふるや 綱武 つなたけ 、安原 やすはら 喜弘 よしひろ 、村井 むらい 。『天上 てんじょう 大風 おおかぜ 』村井 むらい 康男 やすお 遺文 いぶん 集 しゅう 村井 むらい 福子 ふくこ 、1984年 ねん (昭和 しょうわ 59年 ねん ) pp.202 - 203
^ 小林 こばやし は、『飾 かざり 画 が 』の前半 ぜんはん 21篇 へん を『作品 さくひん 』1930年 ねん 5月 がつ 創刊 そうかん 号 ごう から同年 どうねん 10月 がつ 号 ごう までに訳載 やくさい 。
^ ランボーのいわゆる「見 み 者 しゃ の書簡 しょかん 」には進行 しんこう 中 ちゅう のパリ・コミューン への強 つよ い共感 きょうかん を寄 よ せ、将来 しょうらい 、労働 ろうどう 者 しゃ として生 い きる決意 けつい を述 の べた箇所 かしょ がある。但 ただ し、詩作 しさく 中 ちゅう のランボーはコミューンの戦 たたか いには自 みずか ら参加 さんか するつもりはないと書 か いている。パリ・コミューンにはマルクスも関与 かんよ していた。
^ 1931年 ねん (昭和 しょうわ 6年 ねん )ボードレールの『悪 あく の華 はな 』5篇 へん を3回 かい にわたり『作品 さくひん 』1931年 ねん 7月 がつ 号 ごう から9月 がつ 号 ごう に翻訳 ほんやく 分 ぶん 載 の 。なお、ランボオ『酩酊 めいてい 船 せん 』を同年 どうねん 11月 がつ に白水 しろみず 社 しゃ より刊行 かんこう 。堀内 ほりうち 達夫 たつお 「小林 こばやし 秀雄 ひでお 年譜 ねんぷ 」『文芸 ぶんげい 読本 とくほん 小林 こばやし 秀雄 ひでお 』河出書房新社 かわでしょぼうしんしゃ 、1983年 ねん (昭和 しょうわ 58年 ねん ) p.263
^ 初期 しょき の小林 こばやし の評論 ひょうろん には「批評 ひひょう とは対象 たいしょう をダシにして自 みずか らを語 かた ること」という言及 げんきゅう が見 み えるが、「マルクスの悟 さとる 達 たち 」後 ご で小林 こばやし は手 て のひらを返 かえ すように「批評 ひひょう とは何 なに としても自 みずか らを棚上 たなあ げすること」と書 か いている。
^ 「Xへの手紙 てがみ 」が書 か かれた段階 だんかい では、既 すで に卒業 そつぎょう したこととして「書物 しょもつ に傍点 ぼうてん を附 ふ して世 よ の中 なか を理解 りかい しようとするような小癪 こしゃく ( こしゃく ) な真似 まね 」というような自己 じこ 告白 こくはく がある。周辺 しゅうへん 人物 じんぶつ による戦後 せんご の小林 こばやし への回想 かいそう では、ベルクソンの著作 ちょさく を傍線 ぼうせん だらけにして、愛着 あいちゃく を以 もっ て接 せっ する小林 こばやし の姿 すがた がある。
^ 1933年 ねん (昭和 しょうわ 8年 ねん )『文藝春秋 ぶんげいしゅんじゅう 』1月 がつ 号 ごう に「『永遠 えいえん の良人 りょうじん 』」を掲載 けいさい 。
^ 1936年 ねん (昭和 しょうわ 11年 ねん )1月 がつ 、高齢 こうれい の旧人 きゅうじん 、里見 さとみ 弴 、宇野 うの 浩二 こうじ 、豐島 としま 與志雄 よしお 、廣津 ひろつ 和郎 かずお を排除 はいじょ し、『文學 ぶんがく 界 かい 』同人 どうじん を改組 かいそ 。断 ことわ りに行 い く役 やく は小林 こばやし が果 は たした。新 あら たに加入 かにゅう したのは、村山 むらやま 知義 ともよし 、島木 しまき 健作 けんさく 、森山 もりやま 啓 あきら 、舟橋 ふなばし 聖一 せいいち 、阿部 あべ 知二 ともじ 、河上 かわかみ 徹太郎 てつたろう 。江藤 えとう 淳 あつし 「小林 こばやし 秀雄 ひでお 論 ろん (完 かん )」『聲 こえ 』第 だい 10号 ごう 丸善 まるぜん 、1961年 ねん (昭和 しょうわ 36年 ねん ) p.70、74
^ 『青年 せいねん 』では、長州 ちょうしゅう の高杉 たかすぎ 晋作 しんさく 、井上 いのうえ 聞多 、伊藤 いとう 俊輔 しゅんすけ 、さらにアーネスト・サトウ といった幕末 ばくまつ の青年 せいねん 群 ぐん 像 ぞう の姿 すがた が描写 びょうしゃ されている。
^ 検挙 けんきょ された戸坂 とさか が仮釈放 かりしゃくほう された時期 じき には、小林 こばやし は哲学 てつがく 者 しゃ 三木 みき 清 きよし と共 とも に、明 あき らかに戸坂 とさか への共感 きょうかん を意識 いしき させるような対談 たいだん を行 おこな っている。三木 みき もまた共産 きょうさん 党員 とういん の逃亡 とうぼう を手助 てだす けしたかどで検挙 けんきょ され、拘留 こうりゅう 状態 じょうたい のまま戦後 せんご 間 あいだ もなく獄中 ごくちゅう 死 し した。
^ このとき中野 なかの 重治 しげはる も論争 ろんそう 相手 あいて であった。
^ 1937年 ねん 6月 がつ 号 ごう に大岡 おおおか 昇平 しょうへい が「チャーチル『世界 せかい 大戦 たいせん 』の書評 しょひょう 」を発表 はっぴょう 。この頃 ころ 、小林 こばやし 、河上 かわかみ は『文學 ぶんがく 界 かい 』を総合 そうごう 雑誌 ざっし に近 ちか づけようという編輯 へんしゅう 方針 ほうしん を持 も っていた。大岡 おおおか 昇平 しょうへい ・き手 きて 『わが文学 ぶんがく 生活 せいかつ 』中公 ちゅうこう 文庫 ぶんこ 、1981年 ねん (昭和 しょうわ 56年 ねん ) p.81
^ 戦後 せんご になって小林 こばやし は、キルケゴール に影響 えいきょう を受 う けたと言 い われるノルウェー の戯曲 ぎきょく 家 か イプセン についての作家 さっか 論 ろん 「ヘッダ・ガプラー」において、その作品 さくひん 『人民 じんみん の敵 てき 』中 ちゅう の「自由 じゆう 主義 しゅぎ 者 しゃ とは、自由 じゆう 人 じん が迎 むか え撃 う つべき最 もっと も狡猾 こうかつ な敵 てき だ」という台詞 せりふ を引 ひ いている。
^ 初出 しょしゅつ 誌 し 不 ふ 詳 しょう 。のちに1946年 ねん (昭和 しょうわ 21年 ねん )林 はやし 著 ちょ 『歴史 れきし の暮方 くれがた 』に収 おさ められる。小林 こばやし ・林 はやし の応酬 おうしゅう を1969年 ねん (昭和 しょうわ 44年 ねん )、高橋 たかはし 英夫 ひでお が『中央公論 ちゅうおうこうろん 』1月 がつ 号 ごう に「林 はやし 達夫 たつお 」として対象 たいしょう 化 か し再 さい 録 ろく 。
^ 60年 ねん 安保 あんぽ 締結 ていけつ 直後 ちょくご 1960年 ねん (昭和 しょうわ 35年 ねん )に火野 ひの は自 じ 裁 たっ するが、小林 こばやし が取締役 とりしまりやく を務 つと める東京 とうきょう 創 そう 元 もと 社 しゃ で自身 じしん の「全集 ぜんしゅう 」刊行 かんこう の最中 さいちゅう であった。
^ 小林 こばやし 全集 ぜんしゅう に収録 しゅうろく されている「文學 ぶんがく 界 かい 」の小林 こばやし による編集 へんしゅう 後記 こうき は岡本 おかもと かの子 こ の死 し について触 ふ れた月 つき で終 お わっている[23] 。
^ 出席 しゅっせき は、荒 あら 正人 まさと 、小田切 おだぎり 秀雄 ひでお 、佐々木 ささき 基一 きいち 、埴谷 はにや 雄 ゆう 高 だか 、平野 ひらの 謙 けん 、本多 ほんだ 秋 あき 五 ご など、「近代 きんだい 文学 ぶんがく 」創立 そうりつ メンバー。
^ 「資格 しかく 審査 しんさ が煩雑 はんざつ なため」と言 い われる。小林 こばやし は当初 とうしょ 、講師 こうし として明大 めいだい に勤務 きんむ を始 はじ めたが、戦争 せんそう 協力 きょうりょく を始 はじ めた時期 じき に教授 きょうじゅ に昇格 しょうかく している。
^ 小林 こばやし に「カラスのいる麦畑 むぎばたけ 」複製 ふくせい 画 が の提供 ていきょう もした宇野 うの 千代 ちよ が経営 けいえい 編集 へんしゅう し、その所縁 しょえん もあり「ゴッホの手紙 てがみ 」ほか小林 こばやし の原稿 げんこう の多 おお くを宇野 うの 千代 ちよ が所蔵 しょぞう した。
^ 小林 こばやし 自身 じしん は『ゴッホの手紙 てがみ 』を書簡 しょかん 集 しゅう の「抄 しょう 訳 やく 」と呼 よ んでいる。[要 よう 文献 ぶんけん 特定 とくてい 詳細 しょうさい 情報 じょうほう ]
^ 近代 きんだい の合理 ごうり 主義 しゅぎ 的 てき 聖書 せいしょ 学 がく の父 ちち であるフランスのエルネスト・ルナンは、ダーウィンの「種 たね の起源 きげん 」公表 こうひょう まもない時期 じき に、キリストの「人間 にんげん 宣言 せんげん 」を行 おこな って物議 ぶつぎ を醸 かも した。
^ 小林 こばやし はプラトンの著作 ちょさく において、どこまでがソクラテスで、どこからがプラトンであるのかという問題 もんだい についての自 みずか らの見解 けんかい を表明 ひょうめい している。「悪魔 あくま 的 てき なもの」『講座 こうざ 現代 げんだい 倫理 りんり 2』筑摩書房 ちくましょぼう 、1958年 ねん (昭和 しょうわ 33年 ねん )所収 しょしゅう 、小林 こばやし 秀雄 ひでお 『栗 ぐり の樹 き 』講談社 こうだんしゃ 文芸 ぶんげい 文庫 ぶんこ 、1990年 ねん (平成 へいせい 2年 ねん ) pp.220 - 221
^ プラトンは、どこまでソクラテスという実在 じつざい の人物 じんぶつ を勝手 かって に創作 そうさく したか、というような問題 もんだい は殆 ほとん ど無意味 むいみ であろう。ソクラテスの登場 とうじょう しないプラトンの「対話 たいわ 篇 へん 」など考 かんが えられないし、「対話 たいわ 篇 へん 」の裡 うら で甦 よみがえ らなければ、この一 いち 行 ぎょう も書 か き遺 のこ すことをしなかった賢人 けんじん は、風変 ふうが わりな一 いち 政治 せいじ 犯 はん として死 し んでいただろう。ともあれ、「対話 たいわ 篇 へん 」に現 あらわ れるソクラテスの姿 すがた には、抗 こう し難 がた い魅力 みりょく がある。恐 おそ らく、この人物 じんぶつ に対 たい するプラトンの感嘆 かんたん の情 じょう が、そのまま人間 にんげん の形 かたち をとったものであろうか。この人間 にんげん の形 かたち は分析 ぶんせき を拒絶 きょぜつ して生 い きている。プラトンはソクラテスの思想 しそう を語 かた ろうとしているのか、ソクラテスを利用 りよう して自分 じぶん の思想 しそう を語 かた ろうとしているのか、そういうことは、プラトン自身 じしん にもわからなかったことではあるまいか。プラトンはソクラテスの弟子 でし だったと言 い われるが、この恐 おそれ るべき実行 じっこう 家 か に、青年 せいねん プラトンが、その思想家 しそうか 、詩人 しじん としての全 ぜん 未来 みらい を賭 か けたということには、何 なに か不思議 ふしぎ なものが感 かん じられる。彼 かれ は、そう決意 けつい したのか、そう自分 じぶん 自身 じしん に誓 ちか ったのか。それとも、彼 かれ にも彼 かれ のダイモンがあって、そう合図 あいず されたのか。――「悪魔 あくま 的 てき なもの」
^ 西欧 せいおう キリスト教 きりすときょう の宗教 しゅうきょう 裁判 さいばん が消滅 しょうめつ するのは、19世紀 せいき 半 なか ばの「種 たね の起源 きげん 」からしばらくしてからのことである。ダーウィン学説 がくせつ が引 ひ き起 お こした論争 ろんそう の影響 えいきょう による「自由 じゆう 化 か 」以前 いぜん の大学 だいがく とは、すなわち神学校 しんがっこう を意味 いみ した。ダーウィン自身 じしん も『種 たね の起源 きげん 』について尋問 じんもん を受 う けるために呼 よ び出 だ しをされた。
^ 単 たん に生物 せいぶつ だけにとどまらず、宇宙 うちゅう そのものが進化 しんか するという形而上学 けいじじょうがく 説 せつ 。
^ 今時 いまどき 、ハクスリーやスペンサー、ベルクソンのような古色 こしょく 蒼然 そうぜん たる哲学 てつがく 者 しゃ を言挙 ことあ げするのは「死 し 馬 ば に鞭 むち を打 う つ」ようなものであるという見方 みかた はある。これについて科学 かがく ジャーナリストのアーサー・ケストラー が『機械 きかい の中 なか の幽霊 ゆうれい 』で、以下 いか のような問題 もんだい を指摘 してき している。
―― SPCDHという
頭文字 かしらもじ は「
死 し 馬 ば 愛護 あいご 協会 きょうかい (Society for the Prevention of Cruely to Dead Horses)」の
略 りゃく である。これは
世界中 せかいじゅう に
支部 しぶ をもつ
秘密 ひみつ 結社 けっしゃ であって、
私 わたし たちの
現代 げんだい の
知的 ちてき 気候 きこう にかなりの
影響 えいきょう を
及 およ ぼしている。その
活動 かつどう の
数 すう 例 れい をあげておかなくてはならない。
大戦 たいせん のあいだ、ドイツ政府 せいふ は六 ろく 〇〇万 まん 人 にん の非 ひ 戦闘 せんとう 員 いん を死 し の工場 こうじょう で殺 ころ した。これは最初 さいしょ は秘密 ひみつ にしておかれた。事実 じじつ が漏 も れるとSPCDHは彼 かれ らのために一 いち 席 せき 弁 べん じて、責任 せきにん 者 しゃ たちを裁判 さいばん にかけるのは不 ふ 公正 こうせい でありよくないことだと論 ろん ずる方針 ほうしん を打 う ち出 だ した。それは死 し 馬 ば を鞭 むち うつものだというわけである。
ソヴェイエト政府 せいふ も、スターリン統治 とうち 時代 じだい に、やり方 かた こそ違 ちが うがそれに匹敵 ひってき する規模 きぼ で、野蛮 やばん 行為 こうい を行 おこな った。西欧 せいおう の進歩 しんぽ 派 は 仲間 なかま の中 なか でそれに対 たい する公 おおやけ の注意 ちゅうい を引 ひ こうとする者 もの は、冷戦 れいせん 屋 や 、中傷 ちゅうしょう 家 か 、気違 きちが いと非難 ひなん された。スターリンの後継 こうけい 者 しゃ がこの事実 じじつ を正式 せいしき に認 みと めると、それがまだ北京 ぺきん からベルリンまで他 た の国々 くにぐに を荒 あ らし回 まわ り続 つづ けていたにもかかわらず、SPCDHはこの件 けん をただちに死 し 馬 ば であると分類 ぶんるい した。
イギリスの
島国根性 しまぐにこんじょう 、
階級 かいきゅう 差別 さべつ 、
社会 しゃかい 的 てき 俗物 ぞくぶつ 主義 しゅぎ 、
言葉 ことば のなまりで
人 ひと を
品定 しなさだ めしてしまうことなどはすべて
死 し 馬 ば であると
宣言 せんげん され、
空中 くうちゅう をみたすうつろないななきは
亡霊 ぼうれい が
発 はっ するものに
違 ちが いないとされた。アメリカのドル
崇拝 すうはい 、
物質 ぶっしつ 主義 しゅぎ 、
大勢 おおぜい 順応 じゅんのう 主義 しゅぎ についても
同 おな じことがいえる。
客間 きゃくま の
遊 あそ びに、この
一覧 いちらん 表 ひょう をもっと
続 つづ けていくこともできるだろう。
— (アーサー・ケストラー 『機械 きかい の中 なか の幽霊 ゆうれい 』pp.530 - 531)
^ 他 た に路線 ろせん 変更 へんこう をした哲学 てつがく 者 しゃ に現象 げんしょう 学 がく の主導 しゅどう 者 しゃ であり、戦後 せんご に『危機 きき 書 しょ 』を著 あらわ したエドムント・フッサール などもいる。ベルクソンとフッサールは共 とも にダーウィンが『種 たね の起源 きげん 』を公表 こうひょう した1859年 ねん 生 う まれである。
^ 前年 ぜんねん に福田 ふくだ 恆 ひさし 存 そん が中村 なかむら 保男 やすお と共 とも 訳 やく 出版 しゅっぱん している。
^ 出版 しゅっぱん 事情 じじょう については言葉 ことば を濁 にご している。ウィルソンの評価 ひょうか は次 つぎ 作 さく 以後 いご 、急速 きゅうそく に落 お ち込 こ んでいる。
^ なお、ここでは、河上 かわかみ の著作 ちょさく のもう一 ひと つの主軸 しゅじく たる各個 かっこ によるインサイダー追究 ついきゅう のためのダイナミズムは度外視 どがいし されている。河上 かわかみ 徹太郎 てつたろう 『日本 にっぽん のアウトサイダー』中公 ちゅうこう 文庫 ぶんこ 、1978年 ねん (昭和 しょうわ 53年 ねん ) pp.228 - 229、p.245
^ ――
先日 せんじつ 、
私 わたし がベルグソンの
本 ほん を
捜 さが してゐる
事 こと を
知 ち つてゐる
友人 ゆうじん が、“Écrits et Paroles”といふ
新刊 しんかん をとゞけてくれた。それは、
今 いま まで、
單行本 たんこうぼん に
收 おさ められてゐなかつた
講演 こうえん や
論文 ろんぶん の
類 るい を
集 あつ めたものであつたが、
序文 じょぶん を
讀 よ んで、はじめて
事情 じじょう が、
私 わたし には
明 あき らかになつた。
彼 かれ は、
死 し ぬ
四 よん 年 ねん 前 まえ 、
一 いち 九 きゅう 三 さん 七 なな 年 ねん の
一 いち 月 がつ に、
遺書 いしょ を
書 か いてゐるのであつた。
「
世人 せじん に
讀 よ んで
貰 もらい ひたいと
思 おもえ つた
凡 すべ てのものは、
今日 きょう までに
旣 すんで ( すで ) に
出版 しゅっぱん した
事 こと を
聲明 せいめい する。
將來 しょうらい 、
私 わたし の
書類 しょるい 其 そ の
他 ほか のうちに
發見 はっけん される、あらゆる
原稿 げんこう 、
斷片 だんぺん 、の
公表 こうひょう をこゝに、はつきりと
禁止 きんし して
置 お く。
私 わたし の
凡 すべ ての
講義 こうぎ 、
授業 じゅぎょう 、
講演 こうえん にして、
聽講 ちょうこう 者 しゃ のノート、
或 あるい は
私 わたし 自身 じしん のノートの
存 そん するかぎり、その
公表 こうひょう を
禁 きん ずる。
私 わたし の
書簡 しょかん の
公表 こうひょう も
禁止 きんし する。
J.ラシュリエ の
場合 ばあい には、
彼 かれ の
書簡 しょかん の
公表 こうひょう が
禁止 きんし されてゐたにも
係 かかり はらず、
學士 がくし 院 いん 圖書館 としょかん の閱覧
者 しゃ の
間 あいだ では、
自由 じゆう な閱覧が
許 ゆる されてゐた。
私 わたし の
禁止 きんし がさういふ
風 ふう に
解 ほぐ される
事 こと にも
反對 はんたい する」
— 「感想 かんそう 」(一 いち ) 「感想 かんそう 」(一 いち )『新潮 しんちょう 』1958年 ねん 5月 がつ 号 ごう p.33
^ 「ベルグソンの仕事 しごと は、この經驗 けいけん の一貫 いっかん 性 せい (ユニテ)の直觀 ちょっかん に基 もと づくのであり、彼 かれ の世界 せかい 像 ぞう の軸 じく はそこにある。『哲學 てつがく は、ユニテに到着 とうちゃく するのではない。ユニテから身 み を起 おこ すのだ』」が最終 さいしゅう 回 かい の結語 けつご 。
^ 日米 にちべい 間 あいだ の通貨 つうか レートが変動 へんどう 相場 そうば 制 せい に移行 いこう したのは70年 ねん 安保 あんぽ の後 のち で、60年 ねん 安保 あんぽ 前後 ぜんこう からの高度 こうど 経済 けいざい 成長 せいちょう はアメリカへの輸出 ゆしゅつ 産業 さんぎょう によって一方 いっぽう 的 てき に支 ささ えられていた。
^ 戦後 せんご 間 あいだ もなく小林 こばやし は吉田 よしだ 満 みつる の太平洋戦争 たいへいようせんそう 版 ばん 平家 へいけ 物語 ものがたり とも言 い うべき『戦艦 せんかん 大和 やまと ノ最期 さいご 』の出版 しゅっぱん に尽力 じんりょく し、その縁 えん で吉田 よしだ 茂 しげる の片腕 かたうで だった白洲 しらす 次郎 じろう の知己 ちき を得 え ることになった。吉田 よしだ 満 みつる は後 のち に、逆 ぎゃく コース で「名誉 めいよ 挽回 ばんかい 」した旧 きゅう ・軍 ぐん 関係 かんけい 者 しゃ からその作品 さくひん の戦争 せんそう への反省 はんせい の態度 たいど について様々 さまざま なクレーム を受 う けることになる。
^ 高度 こうど 経済 けいざい 成長 せいちょう と共 とも にテレビが普及 ふきゅう する以前 いぜん の時代 じだい であった。
^ フロイトの『夢 ゆめ 判断 はんだん 』に、「読者 どくしゃ はどうぞ私 わたし の諸 しょ 関心 かんしん を読者 どくしゃ 自身 じしん のものとされて、私 わたし と一緒 いっしょ になって私 わたし の生活 せいかつ の細々 こまごま した事 こと の中 なか に分 わ け入 はい って戴 いただ きたい。何故 なぜ なら、夢 ゆめ の隠 かく れた意味 いみ を知 し ろうとする興味 きょうみ は、断乎 だんこ としてそういう転身 てんしん を要求 ようきゅう するものだからである」との記載 きさい があった。この「断乎 だんこ たる転身 てんしん 」が、ユングの場合 ばあい 、具体 ぐたい 的 てき にはフロイトからどのようなことを求 もと められるやりとりになったのかを、小林 こばやし はユングの『自伝 じでん 』の記述 きじゅつ から引用 いんよう しながら説明 せつめい した。「そこには、私 わたし をひどく驚 おどろ かすものがあった」と小林 こばやし は書 か きした。フロイトとユングは訣別 けつべつ し、そのあとで、ユングの『自伝 じでん 』をアニエラ・ヤッフェが編纂 へんさん することになるが、自伝 じでん 編纂 へんさん の作業 さぎょう が進行 しんこう するにしたがって、ユングがその出版 しゅっぱん に難色 なんしょく を示 しめ し始 はじ めた。ユングによる友人 ゆうじん あての書簡 しょかん を資料 しりょう としたが、そこには、ユングが自 みずか ら強調 きょうちょう し追求 ついきゅう してきた内的 ないてき 経験 けいけん の純粋 じゅんすい 性 せい に苦 くる しむさまが克明 こくめい に示 しめ されていた。それを読 よ まざるをえないヤッフェも追 お い詰 つ められてきた。そこで、この中断 ちゅうだん している引用 いんよう 文 ぶん が書 か かれた。小林 こばやし 秀雄 ひでお 「正宗 まさむね 白鳥 しらとり の作 さく について」- 『白鳥 しらとり ・宣長 のりなが ・言葉 ことば 』文藝春秋 ぶんげいしゅんじゅう 、1983年 ねん (昭和 しょうわ 58年 ねん ) pp.102 - 107
^ 作家 さっか 三島 みしま 由紀夫 ゆきお は、『文章 ぶんしょう 読本 とくほん 』(中央公論社 ちゅうおうこうろんしゃ )で、「日本 にっぽん における批評 ひひょう の文章 ぶんしょう を樹立 じゅりつ した」と評価 ひょうか している。また、「独創 どくそう 的 てき なスタイル(文体 ぶんたい )を作 さく つた作家 さっか 」として森 もり 鷗外 、堀 ほり 辰雄 たつお と共 とも に小林 こばやし 秀雄 ひでお を挙 あ げている。三島 みしま は、「文体 ぶんたい をもたない批評 ひひょう は文体 ぶんたい を批評 ひひょう する資格 しかく がなく、文体 ぶんたい をもつた批評 ひひょう は(小林 こばやし 秀雄 ひでお 氏 し のやうに)芸術 げいじゅつ 作品 さくひん になつてしまふ。なぜかといふと文体 ぶんたい をもつかぎり、批評 ひひょう は創造 そうぞう に無限 むげん に近 ちか づくからである」と述 の べ、小林 こばやし 秀雄 ひでお を単 たん なる批評 ひひょう 家 か ではなく、芸術 げいじゅつ 家 か とみている。
^ 長年 ながねん 在住 ざいじゅう した鎌倉 かまくら 市 し 山 やま の上 うえ の邸宅 ていたく は、晩年 ばんねん 深 ふか い交流 こうりゅう があった「吉井 よしい 画廊 がろう 」が、長年 ながねん 管理 かんり 保存 ほぞん していた[52] 。
^ 郡司 ぐんじ 勝義 まさよし は、全集 ぜんしゅう など多 おお くの著書 ちょしょ の編集 へんしゅう を担当 たんとう し、小林 こばやし の実質 じっしつ 的 てき な助手 じょしゅ ・秘書 ひしょ だった。『小林 こばやし 秀雄 ひでお の思 おも ひ出 で 』は「文春 ぶんしゅん 学藝 がくげい ライブラリー」で再刊 さいかん (文庫 ぶんこ 判 ばん 、2014年 ねん (平成 へいせい 26年 ねん ))。
^ 「全集 ぜんしゅう 」現行 げんこう 版 ばん は第 だい 4次 じ で2001年 ねん (平成 へいせい 13年 ねん )から2002年 ねん (平成 へいせい 14年 ねん )に刊行 かんこう 。過去 かこ は1950年代 ねんだい に創 つく 元 もと 社 しゃ で、1960年代 ねんだい - 1970年代 ねんだい に新潮社 しんちょうしゃ で3度 ど 刊行 かんこう された。
^ 高見沢 たかみざわ 潤子 じゅんこ 『兄 あに 小林 こばやし 秀雄 ひでお 』新潮社 しんちょうしゃ 、1985年 ねん (昭和 しょうわ 60年 ねん ) p.11
^ 深田 ふかた 久弥 ひさや 「小林 こばやし 秀雄 ひでお 君 くん のこと」『新 しん 訂 てい 小林 こばやし 秀雄 ひでお 全集 ぜんしゅう ・別巻 べっかん II』「印象 いんしょう II(第 だい 二 に 次 じ 小林 こばやし 秀雄 ひでお 全集 ぜんしゅう (新潮社 しんちょうしゃ 版 はん )月報 げっぽう より」。
^ 『小林 こばやし 秀雄 ひでお 全集 ぜんしゅう 別巻 べっかん 2』新潮社 しんちょうしゃ 刊 かん の中 なか の「年譜 ねんぷ 」
^ 『朝日新聞 あさひしんぶん 』1951年 ねん (昭和 しょうわ 26年 ねん )4月 がつ 1日 にち (東京 とうきょう 本社 ほんしゃ 発行 はっこう )朝刊 ちょうかん 、p.2
^ 岩井 いわい 寛 ひろし 『作家 さっか の臨終 りんじゅう ・墓碑 ぼひ 事典 じてん 』(東京 とうきょう 堂 どう 出版 しゅっぱん 、1997年 ねん (平成 へいせい 9年 ねん ))p.144
^ 小林 こばやし 秀雄 ひでお 「蓄音機 ちくおんき 」『芸術 げいじゅつ 新潮 しんちょう 』1958年 ねん 9月 がつ 号 ごう 所収 しょしゅう 、小林 こばやし 秀雄 ひでお 『栗 ぐり の樹 き 』講談社 こうだんしゃ 文芸 ぶんげい 文庫 ぶんこ 、1990年 ねん (平成 へいせい 2年 ねん ) pp.169 - 170
^ 江藤 えとう 淳 あつし 「小林 こばやし 秀雄 ひでお 論 ろん 」『聲 こえ 』第 だい 6号 ごう 丸善 まるぜん 、1960年 ねん (昭和 しょうわ 35年 ねん ) p.74
^ 小林 こばやし 秀雄 ひでお 「ゴッホの手紙 てがみ (序 ついで )」『ゴッホの手紙 てがみ 』角川 かどかわ 文庫 ぶんこ 、1957年 ねん (昭和 しょうわ 32年 ねん ) p.9
^ 「小林 こばやし 秀雄 ひでお 氏 し を囲 かこ んで 偉大 いだい なる魂 たましい に就て 座談 ざだん 會 かい 」『世界 せかい 文學 ぶんがく 』第 だい 3号 ごう 世界 せかい 文學 ぶんがく 社 しゃ 、1946年 ねん (昭和 しょうわ 21年 ねん )7月 がつ p.84
^ 江藤 えとう 淳 あつし 「小林 こばやし 秀雄 ひでお 論 ろん (二 に )」『聲 こえ 』第 だい 7号 ごう 丸善 まるぜん 、1960年 ねん (昭和 しょうわ 35年 ねん ) pp.61 - 62、高見澤 たかみざわ 潤子 じゅんこ 『兄 あに 小林 こばやし 秀雄 ひでお 』新潮社 しんちょうしゃ 、p.201
^ 大岡 おおおか 昇平 しょうへい 「富永 とみなが 太郎 たろう の手紙 てがみ 」『聲 こえ 』第 だい 7号 ごう 丸善 まるぜん 、1960年 ねん (昭和 しょうわ 35年 ねん ) p.7
^ 『考 かんが えるヒント4 ランボオ・中原 なかはら 中也 ちゅうや 』文春 ぶんしゅん 文庫 ぶんこ 、1980年 ねん (昭和 しょうわ 55年 ねん ) p.31
^ 堀内 ほりうち 達夫 たつお 「小林 こばやし 秀雄 ひでお 年譜 ねんぷ 」『文芸 ぶんげい 読本 とくほん 小林 こばやし 秀雄 ひでお 』河出書房新社 かわでしょぼうしんしゃ 、1983年 ねん (昭和 しょうわ 58年 ねん ) pp.263 - 264
^ 「悪 あく 胤 たね 」より ランボオ『地獄 じごく の季 き 節 ぶし 』小林 こばやし 秀雄 ひでお 訳 やく 、岩波 いわなみ 文庫 ぶんこ 、1938年 ねん (昭和 しょうわ 13年 ねん ) p.11
^ a b 座談 ざだん 会 かい 「コメディ・リテレール 小林 こばやし 秀雄 ひでお を囲 かこ んで」『近代 きんだい 文学 ぶんがく 』1946年 ねん 2月 がつ 号 ごう 、『文芸 ぶんげい 読本 とくほん 小林 こばやし 秀雄 ひでお 』河出書房新社 かわでしょぼうしんしゃ 、1983年 ねん (昭和 しょうわ 58年 ねん ) p.51
^ 小林 こばやし 秀雄 ひでお 「菊池 きくち 寛 ひろし ――リアリストといふもの」『文藝春秋 ぶんげいしゅんじゅう 臨時 りんじ 増刊 ぞうかん ・風雪 ふうせつ 人物 じんぶつ 読本 とくほん 』1955年 ねん (昭和 しょうわ 30年 ねん )6月刊 げっかん 所収 しょしゅう
^ 小林 こばやし 秀雄 ひでお 『ドストエフスキイの生活 せいかつ 』創 そう 元 もと 文庫 ぶんこ 、1951年 ねん (昭和 しょうわ 26年 ねん ) pp.25 - 26
^ 小林 こばやし 秀雄 ひでお 「文芸 ぶんげい 時評 じひょう 「林 はやし 房雄 ふさお の『青年 せいねん 』」『文藝春秋 ぶんげいしゅんじゅう 』1934年 ねん 6月 がつ 号 ごう 、『小林 こばやし 秀雄 ひでお 初期 しょき 文芸 ぶんげい 論集 ろんしゅう 』岩波 いわなみ 文庫 ぶんこ 、1980年 ねん (昭和 しょうわ 55年 ねん ) pp.335 - 348
^ 「文学 ぶんがく 界 かい 二 に 十 じゅう 年 ねん のあゆみ」座談 ざだん 会 かい 『文學 ぶんがく 界 かい 』1952年 ねん 4月 がつ 号 ごう 、江藤 えとう 淳 あつし 『小林 こばやし 秀雄 ひでお 』講談社 こうだんしゃ 文庫 ぶんこ 、1973年 ねん (昭和 しょうわ 48年 ねん ) pp.302 - 303
^ 平野 ひらの 謙 けん ・小田切 おだぎり 秀雄 ひでお ・山本 やまもと 健吉 けんきち 『現代 げんだい 日本 にっぽん 文学 ぶんがく 論争 ろんそう 史 し 下巻 げかん 』未来社 みらいしゃ 、1957年 ねん (昭和 しょうわ 32年 ねん ) pp.117 - 142
^ 江藤 えとう 淳 あつし 「小林 こばやし 秀雄 ひでお 論 ろん 」『聲 こえ 』第 だい 6号 ごう 丸善 まるぜん 、1960年 ねん (昭和 しょうわ 35年 ねん ) p.72
^ 小林 こばやし 秀雄 ひでお 「中原 なかはら 中也 ちゅうや の思 おも ひ出 で 」『文藝 ぶんげい 』1949年 ねん 8月 がつ 号 ごう 所収 しょしゅう 、現代 げんだい かな遣 づか い採用 さいよう 文 ぶん 『考 かんが えるヒント4 ランボオ・中原 なかはら 中也 ちゅうや 』文春 ぶんしゅん 文庫 ぶんこ 、1980年 ねん (昭和 しょうわ 55年 ねん ) pp.67 - 68
^ 編集 へんしゅう 後記 こうき 『文學 ぶんがく 界 かい 』1939年 ねん 4月 がつ 号 ごう 、『小林 こばやし 秀雄 ひでお 全 ぜん 作品 さくひん 11 ドストエフスキイの生活 せいかつ 』2003年 ねん (平成 へいせい 15年 ねん ) pp.107 - 108
^ 「座談 ざだん 会 かい 」河上 かわかみ 徹太郎 てつたろう 、竹内 たけうち 好 こう 他 た 『近代 きんだい の超克 ちょうこく 』冨山 とやま 房 ぼう 百科 ひゃっか 文庫 ぶんこ 、1979年 ねん (昭和 しょうわ 54年 ねん ) p.194
^ 小林 こばやし 秀雄 ひでお 「蓄音機 ちくおんき 」『芸術 げいじゅつ 新潮 しんちょう 』1958年 ねん 9月 がつ 号 ごう 所収 しょしゅう 、小林 こばやし 秀雄 ひでお 『栗 ぐり の樹 き 』講談社 こうだんしゃ 文芸 ぶんげい 文庫 ぶんこ 、1990年 ねん (平成 へいせい 2年 ねん ) p.171
^ 『近代 きんだい 文学 ぶんがく 』1946年 ねん 2月 がつ 号 ごう
^ 小林 こばやし 秀雄 ひでお 「読者 どくしゃ 」『文藝春秋 ぶんげいしゅんじゅう 』1959年 ねん 9月 がつ 号 ごう 所収 しょしゅう 、『考 かんが えるヒント』文春 ぶんしゅん 文庫 ぶんこ 、1974年 ねん (昭和 しょうわ 49年 ねん ) pp.37 - 45
^ 吉本 よしもと 隆明 たかあき インタビュー「絶対 ぜったい に違 ちが うことを言 い いたかった」2001年 ねん (平成 へいせい 13年 ねん )3月 がつ 12日 にち 談話 だんわ 『小林 こばやし 秀雄 ひでお 百 ひゃく 年 ねん のヒント』『新潮 しんちょう 』2001年 ねん 4月 がつ 臨時 りんじ 増刊 ぞうかん p.199
^ 白洲 しらす 明子 あきこ 氏 し インタビュー「父 ちち ・小林 こばやし 秀雄 ひでお 」『小林 こばやし 秀雄 ひでお 百 ひゃく 年 ねん のヒント』『新潮 しんちょう 』2001年 ねん (平成 へいせい 13年 ねん )4月 がつ 臨時 りんじ 増刊 ぞうかん p.147
^ 小林 こばやし 秀雄 ひでお 『ゴッホの手紙 てがみ 』角川 かどかわ 文庫 ぶんこ 、1957年 ねん (昭和 しょうわ 32年 ねん ) p.5
^ 前 まえ 篇 へん は「新潮 しんちょう 」に1954年 ねん 3月 がつ 号 ごう から翌 よく 55年 ねん 12月 がつ 号 ごう まで連載 れんさい 。後編 こうへん は「藝術 げいじゅつ 新潮 しんちょう 」に1956年 ねん 1月 がつ 号 ごう から1958年 ねん 2月 がつ 号 ごう まで連載 れんさい した。普及 ふきゅう 版 ばん を新潮社 しんちょうしゃ で刊行 かんこう した
^ 「金 きむ 閣 かく 焼亡 しょうぼう 」第 だい 4次 じ 小林 こばやし 秀雄 ひでお 全集 ぜんしゅう 第 だい 8巻 かん 、新潮社 しんちょうしゃ 、1978年 ねん (昭和 しょうわ 53年 ねん ) p.242、青山 あおやま 二郎 じろう 、小林 こばやし 秀雄 ひでお 「『形 かたち 』を見 み る眼 め 」『藝術 げいじゅつ 新潮 しんちょう 』1950年 ねん 4月 がつ 号 ごう 、『文学 ぶんがく と人生 じんせい について 小林 こばやし 秀雄 ひでお 対談 たいだん 集 しゅう Ⅲ』文春 ぶんしゅん 文庫 ぶんこ 、1982年 ねん (昭和 しょうわ 57年 ねん ) p.126
^ 「ニイチェ雑感 ざっかん 」『新潮 しんちょう 』1950年 ねん (昭和 しょうわ 25年 ねん )10月 がつ 、『作家 さっか の顔 かお 』新潮 しんちょう 文庫 ぶんこ 、1961年 ねん (昭和 しょうわ 36年 ねん ) pp.249 - 262
^ 「プラトンの『国家 こっか 』」文藝春秋 ぶんげいしゅんじゅう 1959年 ねん 7月 がつ 号 ごう 、小林 こばやし 秀雄 ひでお 『考 かんが えるヒント』文春 ぶんしゅん 文庫 ぶんこ 、1974年 ねん (昭和 しょうわ 49年 ねん ) pp.18 - 28
^ 『世界 せかい の名著 めいちょ 53 ベルクソン』 澤瀉 おもだか 久 ひさ 敬 けい 責任 せきにん 編集 へんしゅう (中央公論社 ちゅうおうこうろんしゃ 、1969年 ねん (昭和 しょうわ 44年 ねん ))の解説 かいせつ 。
^ 『世界 せかい の名著 めいちょ 53 ベルクソン』(中央公論社 ちゅうおうこうろんしゃ )での、澤瀉 おもだか 久 ひさ 敬 けい 解説 かいせつ 。
^ 『中央公論 ちゅうおうこうろん 』1958年 ねん 8月 がつ 号 ごう - 1959年 ねん 1月 がつ 号 ごう 連載 れんさい 記事 きじ 、『日本 にっぽん のアウトサイダー』中央公論社 ちゅうおうこうろんしゃ 、1959年 ねん (昭和 しょうわ 34年 ねん )刊行 かんこう 。
^ 小林 こばやし 秀雄 ひでお 「歴史 れきし 」『文藝春秋 ぶんげいしゅんじゅう 』1959年 ねん 12月 がつ 号 ごう 、『考 かんが えるヒント』文春 ぶんしゅん 文庫 ぶんこ 、1974年 ねん (昭和 しょうわ 49年 ねん ) pp.60 - 70
^ 岡 おか 潔 きよし 、小林 こばやし 秀雄 ひでお 「人間 にんげん の建設 けんせつ 」第 だい 4次 じ 小林 こばやし 秀雄 ひでお 全集 ぜんしゅう 別巻 べっかん 1、新潮社 しんちょうしゃ 、1979年 ねん (昭和 しょうわ 54年 ねん ) p.237
^ 「新春 しんしゅん 放談 ほうだん 」『NHK』第 だい 一 いち 放送 ほうそう 、1958年 ねん (昭和 しょうわ 33年 ねん )1月 がつ 3日 にち
^ 「現代 げんだい 人 じん の心 しん 」『NHK』第 だい 二 に 放送 ほうそう 、1963年 ねん (昭和 しょうわ 38年 ねん )1月 がつ 1日 にち
^ “年譜 ねんぷ |東京 とうきょう 創 そう 元 もと 社 しゃ ”. 東京 とうきょう 創 そう 元 もと 社 しゃ . 2020年 ねん 10月 がつ 5日 にち 閲覧 えつらん 。
^ 『考 かんが えるヒント2』文春 ぶんしゅん 文庫 ぶんこ 、1975年 ねん (昭和 しょうわ 50年 ねん ) pp.10 - 33
^ 『文學 ぶんがく 界 かい 』1942年 ねん 11月 がつ 号 ごう ・12月号 ごう 、『モオツァルト・無常 むじょう という事 こと 』新潮 しんちょう 文庫 ぶんこ 、1961年 ねん (昭和 しょうわ 36年 ねん ) pp.71 - 86のp.75
^ 『考 かんが えるヒント』文春 ぶんしゅん 文庫 ぶんこ 、1974年 ねん (昭和 しょうわ 49年 ねん ) p.184
^ 吉本 よしもと 隆明 たかあき インタビュー「絶対 ぜったい に違 ちが うことを言 い いたかった」2001年 ねん (平成 へいせい 13年 ねん )3月 がつ 12日 にち 談話 だんわ 『小林 こばやし 秀雄 ひでお 百 ひゃく 年 ねん のヒント』『新潮 しんちょう 』2001年 ねん 4月 がつ 臨時 りんじ 増刊 ぞうかん p.198
^ 三島 みしま 由紀夫 ゆきお 『文章 ぶんしょう 読本 とくほん 』中公 ちゅうこう 文庫 ぶんこ 、1973年 ねん (昭和 しょうわ 48年 ねん ) p.111
^ 三島 みしま 由紀夫 ゆきお 『横光 よこみつ 利一 としかず と川端 かわばた 康成 やすなり 』-『文章 ぶんしょう 講座 こうざ 6河出 かわで 書房 しょぼう 、1955年 ねん (昭和 しょうわ 30年 ねん ) p.193
^ 三島 みしま 由紀夫 ゆきお 「批評 ひひょう 家 か に小説 しょうせつ がわかるか」- 『文学 ぶんがく 的 てき 人生 じんせい 論 ろん 』知恵 ちえ の森 もり 文庫 ぶんこ 、2004年 ねん (平成 へいせい 16年 ねん ) p.31(初刊 しょかん は中央公論 ちゅうおうこうろん 「文芸 ぶんげい 特集 とくしゅう 」 1951年 ねん 6月 がつ 号 ごう に掲載 けいさい )
^ 『小林 こばやし 秀雄 ひでお 全 ぜん 翻訳 ほんやく 』(講談社 こうだんしゃ 、1981年 ねん (昭和 しょうわ 56年 ねん ))
^ 隆 りゅう 慶一郎 けいいちろう 『時代 じだい 小説 しょうせつ の愉 たの しみ』 講談社 こうだんしゃ 文庫 ぶんこ 、1994年 ねん (平成 へいせい 6年 ねん )、p.23
^ 吉井 よしい 長三 ちょうぞう 『銀座 ぎんざ 画廊 がろう 物語 ものがたり 日本一 にっぽんいち の画商 がしょう 人生 じんせい 』 角川書店 かどかわしょてん 、2008年 ねん (平成 へいせい 20年 ねん ) pp.168 - 172
James Dorsey, Critical Aesthetics: Kobayashi Hideo, Modernity, and the War . Cambridge, MA: Center for East Asian Studies, Harvard University Press, 2009.
『小林 こばやし 秀雄 ひでお 全 ぜん 作品 さくひん 別巻 べっかん III 無私 むし を得 え る道 みち (下 した )』(新潮社 しんちょうしゃ 、2005年 ねん )- 年譜 ねんぷ ・書誌 しょし
『新潮 しんちょう 日本 にっぽん 文学 ぶんがく アルバム 小林 こばやし 秀雄 ひでお 』(新潮社 しんちょうしゃ 、1986年 ねん )- 吉田 よしだ 熈生編 へん
太字 ふとじ は恩賜 おんし 賞 しょう 受賞 じゅしょう 者 しゃ 。名跡 みょうせき は受賞 じゅしょう 時 じ のもの。表記 ひょうき 揺 ゆ れによる混乱 こんらん を避 さ けるため漢字 かんじ は便宜上 べんぎじょう すべて新 しん 字体 じたい に統一 とういつ した。
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