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世界せかい恐慌きょうこう

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だい恐慌きょうこうから転送てんそう
1936ねん3がつドロシア・ラングFSAプロジェクト一環いっかんとしてカリフォルニアにおいて撮影さつえいした『移民いみんはは』。7にん子供こどもかかえて極貧ごくひん生活せいかつおくっていたこの32さい母親ははおや[1]後年こうねんフローレンス・オーウェンズ・トンプソン英語えいごばん判明はんめいした。
1910ねんから1960ねんまでの米国べいこく年間ねんかん実質じっしつGDP(世界せかい恐慌きょうこう(1929ねん~1939ねん)をハイライト表示ひょうじ
1910-60ねんのアメリカの失業しつぎょうりつ世界せかい恐慌きょうこう(1929-39ねん)のとしをハイライト表示ひょうじ

世界せかい恐慌きょうこう(せかいきょうこう)またはだい恐慌きょうこう(だいきょうこう、えい: The Great Depression)とは、1930年代ねんだいアメリカ皮切かわきりに世界せかいてきこった深刻しんこく経済けいざい恐慌きょうこうのことである。世界せかい恐慌きょうこう時期じきくにによってことなるが、ほとんどのくにでは1929ねんはじまり、1930年代ねんだい後半こうはんまでつづいた[2]。それは20世紀せいきなかもっとながく、もっとふかく、もっと広範こうはんきょうであった[3]世界せかい恐慌きょうこうにより日本にっぽん国内こくないきたきょうのことを昭和しょうわ恐慌きょうこうという。世界せかい恐慌きょうこうは、世界せかい経済けいざいがいかにはげしく衰退すいたいするかのれいとして一般いっぱんてき使つかわれている[4]

概要がいよう

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世界せかい恐慌きょうこうは、1929ねん9がつ4にちごろからはじまったアメリカの株価かぶかだい暴落ぼうらくはしはっし、1929ねん10がつ24にち株式かぶしき市場いちば暴落ぼうらく通称つうしょう暗黒あんこく木曜日もくようび)で世界せかいてきにニュースになった。1929ねんから1932ねんあいだに、世界せかい国内こくないそう生産せいさん (GDP) は推定すいてい15%減少げんしょうした。それにくらべて、2008ねんから2009ねんにかけてのだい不況ふきょう (えい: Great Recession) では世界せかいのGDP減少げんしょうは1%未満みまんであった[5]一部いちぶ経済けいざいは1930年代ねんだいなかばまでに回復かいふくはじめた。しかし、おおくのくにでは、世界せかい恐慌きょうこう悪影響あくえいきょうだい世界せかい大戦たいせん終結しゅうけつするまでつづいた[6]

世界せかい恐慌きょうこうは、ゆたかなくにまずしいくに両方りょうほう壊滅かいめつてき影響えいきょうあたえた。個人こじん所得しょとく税収ぜいしゅう利益りえき物価ぶっか下落げらくし、国際こくさい貿易ぼうえきは50%以上いじょう減少げんしょうした。アメリカの失業しつぎょうりつは23%に上昇じょうしょうし、一部いちぶくにでは33%にまで上昇じょうしょうした[7]

世界中せかいじゅう都市としとく重工業じゅうこうぎょう依存いぞんしている都市としおおきな打撃だげきけた。おおくのくに建設けんせつ事実じじつじょう停止ていしされた。農村のうそん地域ちいきは、農作物のうさくもつ価格かかくやく65%下落げらくしたためにくるしんだ[8][9][10]鉱業こうぎょう伐採ばっさいなどのだいいち産業さんぎょう依存いぞんしている地域ちいきもっと被害ひがいけたのであった[11]

世界せかい恐慌きょうこう以前いぜん世界せかい情勢じょうせい

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アメリカの好景気こうけいき投機とうきブーム

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ダウ平均へいきん株価かぶか指数しすうあらわすグラフ

1920年代ねんだい、アメリカは住宅じゅうたく耐久たいきゅう消費しょうひざい需要じゅよう背景はいけいとして、空前くうぜんこうきょうにあった[12][13]。これらの需要じゅようは1927ねんにピークをむかえたが、1924ねん以降いこう流入りゅうにゅうした投資とうし資金しきんによって株価かぶか上昇じょうしょうつづけ、ダウ平均へいきん株価かぶかは1924-29ねんの5年間ねんかんで5ばい高騰こうとうした[14]

この時期じき投機とうきねつ象徴しょうちょうするもののひとつに、中小ちゅうしょう投資とうし増加ぞうかがある。複数ふくすう小規模しょうきぼ資金しきんをまとめて大口おおぐちできる投資とうし信託しんたくという仕組しくみは、それまでよりもひろそう人々ひとびと投資とうし世界せかいんだ[15]

また、1920年代ねんだいなかばの、フロリダ不動産ふどうさんバブルもそのひとつである。気候きこういリゾートであるフロリダの地価ちか上昇じょうしょうともない、ひとむにはてきさない土地とちまでが取引とりひきされ、さらに値上ねあがりはつづいていった。なお、この土地とちバブルは1926ねんのハリケーン上陸じょうりく崩壊ほうかいしたが、ニューヨークの株価かぶかあたえた影響えいきょう限定げんていてきだった[16]

アメリカとヨーロッパとの関係かんけい

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だいいち世界せかい大戦たいせんとおして、アメリカは連合れんごうこく多額たがく貸付かしつけおこない、貿易ぼうえきがく黒字くろじあいまって、じゅん債務さいむこくからじゅん債権さいけんこくてんじていた[17]。また、1920年代ねんだいもアメリカはヨーロッパへの投資とうし拡大かくだいしており、主要しゅよう資金しきん提供ていきょうこくとなっていた[18]。1927ねん合衆国がっしゅうこくでのしん外国がいこく普通ふつうかぶ発行はっこうがくはおよそ183おくドルであったが、翌年よくねん688おくドルにねあがっている[19]。しかし、アメリカのバブルによる国内こくない利回りまわりの上昇じょうしょう影響えいきょうにより、資本しほん流出りゅうしゅつ減少げんしょうし、しん外国がいこく普通ふつうかぶ発行はっこうがくは1929ねんには50おくドルきょうんでしまう[18][19]

なお、1927ねんジュネーブおこなわれた世界せかい経済けいざい会議かいぎでは[20]恐慌きょうこうそなえて商業しょうぎょう工業こうぎょう農業のうぎょうかんするおおくの決議けつぎ審議しんぎ採択さいたくされている。商業しょうぎょうでは関税かんぜいげ、工業こうぎょうではコストダウン目的もくてき産業さんぎょう国有こくゆう独占どくせん禁止きんし生産せいさん調整ちょうせい国際こくさい協定きょうてい農業のうぎょうでは方法ほうほう改良かいりょう資金しきん貸付かしつけについて議論ぎろんされた。しかし、決議けつぎそのものは各国かっこく議会ぎかいから無視むしされてしまっていた。

1929ねん10がつ

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1929ねん6がつからヤングあん成立せいりつけてハーグ国際こくさい会議かいぎがスタートした。

1929ねん7がつ30にち報道ほうどうによると、ニコライ2せい親族しんぞくらが、保有ほゆうする財産ざいさん600まんドルを返還へんかんさせるためにアメリカちゅう銀行ぎんこううったえるかまえだという。ほかにもロシア貴族きぞくについて何人なんにんもの遺族いぞくたちが、総額そうがくで1おくドルほどを保有ほゆうし、返還へんかん請求せいきゅうしているという見出みだしであった。記事きじによると請求せいきゅうされている資産しさんのうち、およそ500まんドルがギャランティ・トラスト・カンパニーに、また100まんドルがナショナル・シティー銀行ぎんこうに、ロシア革命かくめいのときから不法ふほうあづけられているものである[21]

1929ねん8がつ9にち連邦れんぽう準備じゅんび制度せいど公定歩合こうていぶあい(政策せいさく金利きんり)を6%にげた。同年どうねん9月3にちにはダウ平均へいきん株価かぶか381ドル17セントという最高さいこう価格かかく記録きろくした。市場いちばはこのときから調整ちょうせい局面きょくめんむかえ、つづく1かげつあいだで17%下落げらくしたのち、つぎの1週間しゅうかん下落げらくぶん半分はんぶんきょうほどなおし、その直後ちょくごにまた上昇じょうしょうぶん下落げらくするという神経質しんけいしつうごきをせた。それでも投機とうきねつおさまらず、のちにジョセフ・P・ケネディは、ウォうぉル街るがい有名ゆうめいくつみがきの少年しょうねんが、投資とうしすすめたことからきょうはいちかいと予測よそくし、暴落ぼうらくまえ株式かぶしき投資とうしからいたとべた[注釈ちゅうしゃく 1]

1929ねん9がつ26にちイングランド銀行いんぐらんどぎんこう金利きんりげ、アメリカの資金しきんがイギリスへながれた。

ニューヨークウォうぉル街るがい群衆ぐんしゅう

そのような状況じょうきょうした1929ねん10がつ24にち木曜日もくようび)1025ふんゼネラルモーターズ株価かぶかが80セント下落げらくした。下落げらく直後ちょくごきは平穏へいおんだったが、もなくりがふくらみ株式かぶしき市場いちばは11ごろまでに一色いっしょくとなり、株価かぶかだい暴落ぼうらくした。このだけで1289まん4650かぶりにた。ウォうぉル街るがい周囲しゅうい不穏ふおん空気くうきつつまれ、400めい警官けいかんたい出動しゅつどうして警戒けいかいにあたらなければならなかった。

シカゴバッファロー市場いちば閉鎖へいさされ、投機とうき業者ぎょうしゃ自殺じさつしたしゃはこのだけで11にんおよんだ。この木曜日もくようびだったため、のちにこのは「暗黒あんこく木曜日もくようび(Black Thursday)」とばれた。よく25にち金曜日きんようび)の13ウォうぉル街るがい大手おおてかぶ仲買人なかがいにん銀行ぎんこうたちが協議きょうぎし、ささえをおこなうことで合意ごういした。このニュースでその相場そうば平静へいせいもどしたが、効果こうか一時いちじてきなものだった。

週末しゅうまつ全米ぜんべい新聞しんぶん暴落ぼうらく大々的だいだいてきほうじたこともあり、28にちには921まん2800かぶ出来高できだかでダウ平均へいきんが1にちで13%がるという暴落ぼうらくこり、さらに10月29にち、24にち以上いじょうだい暴落ぼうらく発生はっせいした。この取引とりひき開始かいし直後ちょくごから急落きゅうらくこした。最初さいしょの30分間ふんかんで325まん9800かぶられ、午後ごご取引とりひき開始かいし早々そうそうには市場いちば閉鎖へいさする事態じたいとなった。当日とうじつ出来高できだかは1638まん3700かぶたっ[注釈ちゅうしゃく 2]株価かぶか平均へいきん43ポイント[注釈ちゅうしゃく 3]がり、9月のやく半分はんぶんになった。1にち時価じか総額そうがく140おくドルがび、週間しゅうかんでは300おくドルがうしなわれた計算けいさんになった[注釈ちゅうしゃく 4]

10月29にち火曜日かようび)はのちに「悲劇ひげき火曜日かようび (英語えいご: Tragedy Tuesday)」とばれた。投資とうしはパニックにおちいり、かぶ損失そんしつめるため様々さまざま地域ちいき分野ぶんやから資金しきんはじめた。1928ねんアメリカ市場いちば投信とうしんかぶ取引とりひきだかは1まんかぶしかなかったが、翌年よくねんに11まんかぶえた[15]。そして、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく経済けいざいへの依存いぞんふかめていた脆弱ぜいじゃく各国かっこく経済けいざいも、連鎖れんさてき破綻はたんすることになる。

過剰かじょう生産せいさんによる、アメリカ工業こうぎょうセクターの設備せつび投資とうし縮小しゅくしょうはじまったきょう金融きんゆう恐慌きょうこう拍車はくしゃをかけ、強烈きょうれつ景気けいき後退こうたいこされた。産業さんぎょう革命かくめい以後いご工業こうぎょうこくでは10ねんに1のペース恐慌きょうこう発生はっせいしていた。しかし1930年代ねんだいにおける世界せかい恐慌きょうこう規模きぼ影響えいきょう範囲はんい絶大ぜつだいで、自律じりつてき回復かいふく目処めどたないほど困難こんなんであった。

証券しょうけんパニックから世界せかい恐慌きょうこう

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1930ねん9がつ国際こくさい連盟れんめいきむ委員いいんかいによる報告ほうこくしょ公表こうひょうされた。

1930ねん10がつ、ブラジルでカフェ・コン・レイテたいする暴動ぼうどうとクーデターがこり、ヴァルガス時代じだい到来とうらいした。

1930ねん12月、フランス植民しょくみん金融きんゆうしゃSociété financière française et coloniale (SFFC)倒産とうさん危機ききひんした。政府せいふインドシナ銀行ぎんこうラザール・フレール、それにベルギー総合そうごう会社かいしゃそだてたユニオン・パリジェンヌフランス語ふらんすごばん英語えいごばん[注釈ちゅうしゃく 5]、そしてオリエンタル・バンクをセイロンでくるしめた200家族かぞくウォルムズ銀行ぎんこうフランス語ふらんすごばんドイツばん救済きゅうさい融資ゆうしうごいた[22][注釈ちゅうしゃく 6]。 フランス植民しょくみん金融きんゆうしゃは1920ねんオクタヴ・オンベルグ (1876-1941)[注釈ちゅうしゃく 7]とラザール・フレールがつくった[23]。 これの子会社こがいしゃには太平洋戦争たいへいようせんそう勃発ぼっぱつ2週間しゅうかんほどまえデュポン、BPERE で2016ねんさわがせているエドモン・ロチルド、そしてヴァレリー・ジスカール・デスタン父親ちちおやエドモンが参加さんかした。1949ねんまつにフランス植民しょくみん金融きんゆうしゃSociété financière pour la France et les pays d'Outre-Mer (SOFFO)えて、アフリカのフラン基軸きじく通貨つうかけんにおけるインドシナ銀行ぎんこう系列けいれつ基金ききんとして活動かつどうした[22][注釈ちゅうしゃく 8]

1931ねん1がつボリビアデフォルトした。そして南米なんべい諸国しょこく次々つぎつぎ債務さいむ不履行ふりこうおちいった。

同年どうねん5月11にちオーストリアだい銀行ぎんこうクレジットアンシュタルト[25]破綻はたんした。この銀行ぎんこう1855ねんロスチャイルド男爵だんしゃくにより設立せつりつされた。クレジットアンシュタルトは株価かぶか暴落ぼうらくともな信用しんよう収縮しゅうしゅくなか突然とつぜん閉鎖へいさしたという。東欧とうおう諸国しょこく輸出ゆしゅつ激減げきげん経常けいじょう収支しゅうし赤字あかじとなり、きゅうオーストリア帝国ていこくりょうへの融資ゆうしいたこと、くわえて政府せいふによる救済きゅうさい措置そち適切てきせつおこなわれなかったことが破綻はたん原因げんいんとなった。3月のどくおう関税かんぜい同盟どうめい暴露ばくろたいするフランス経済けいざい制裁せいさいにより、オーストリア経済けいざい弱体じゃくたいしていた。

クレジットアンシュタルトの破綻はたん契機けいきとして、5月にドイツだい2だい銀行ぎんこうダナート銀行ぎんこう(「ダルムシュテッター・ウント・ナティオナール」)が倒産とうさんし、7がつ13にちにダナート銀行ぎんこう閉鎖へいさすると、大統領だいとうりょうれいでドイツのぜん銀行ぎんこう8がつ5にちまで閉鎖へいさされた。ドイツでは金融きんゆう危機ききこり、結果けっかおおくの企業きぎょう倒産とうさんし、影響えいきょうはドイツ国内こくないにとどまらず東欧とうおう諸国しょこく世界せかいおよんだ。金本位きんほんいせいもとで、経済けいざい危機ききはそのまま経済けいざい根幹こんかん正貨せいかかね)の流出りゅうしゅつにつながる。7月のドイツからの流出りゅうしゅつは10おくマルクイギリスからの流出りゅうしゅつは3000まんポンドだった。さらにすうせんまんポンドをうしなったイングランド銀行いんぐらんどぎんこう1931ねん9月11にち金本位きんほんいせい停止ていしし、だいいち世界せかい大戦たいせん復興ふっこうでやっと金本位きんほんいせい復帰ふっきしたばかりの各国かっこく衝撃しょうげきあたえた。イギリスは自国じこく産業さんぎょう保護ほごのため輸入ゆにゅう関税かんぜいげ、チープマネー政策せいさく採用さいようした。ポンド相場そうばは$4.86から$3.49にげられた。ブロック経済けいざい政策せいさく世界中せかいじゅう波及はきゅうし、だい世界せかい大戦たいせん素地そじつくった[注釈ちゅうしゃく 9]

一般いっぱんてきには米国べいこく株価かぶか暴落ぼうらくがそのまま世界せかい恐慌きょうこうにつながったとされている。しかし、ベン・バーナンキをはじめとする経済けいざい学者がくしゃことなる見解けんかいしめしている[26]以下いかわくない内容ないようであり、その事実じじつ認識にんしき国際こくさい連盟れんめいからの報告ほうこく依拠いきょしている。

1929ねんウォうぉル街るがい暴落ぼうらく米国べいこく経済けいざいおおきな打撃だげきあたえた。しかし当時とうじ株式かぶしき市場いちば役割やくわりちいさかったために被害ひがいおおくはアメリカ国内こくないにとどまっており、当時とうじ米国べいこく経済けいざい循環じゅんかんてき不況ふきょうえてきた実績じっせきもあった。きょう世界せかい恐慌きょうこうつながったのは、その銀行ぎんこう倒産とうさん連続れんぞくによる金融きんゆうシステムの停止ていしに、連邦れんぽう準備じゅんび制度せいど理事りじかい (FRB) の金融きんゆう政策せいさくあやまりがかさなったためであった。(中略ちゅうりゃく暴落ぼうらくのち米国べいこくにはかね流入りゅうにゅうしていたが、FRBはこれを胎化させ、国内こくないマネーサプライ増大ぞうだいとはむすけようとしなかった。これにより米国べいこくではかね流入りゅうにゅうしているにもかかわらずマネーサプライが減少げんしょうつづけた。そのため金本位きんほんいせいをとる各国かっこくかね流出りゅうしゅつおさえるために金利きんりげざるをなかった。こうした国々くにぐにはマネーサプライをやすことができずに次々つぎつぎきょうおちいった。とく金本位きんほんいせいっていたドイツやオーストリアや東欧とうおう諸国しょこく十分じゅうぶんきむ準備じゅんびたず、まただいいち世界せかい大戦たいせんとそのインフレにより金融きんゆうシステムがきわめて脆弱ぜいじゃく状態じょうたいであった。そのため、米国べいこくやフランスへのかね流出りゅうしゅつによりきむ準備じゅんびそこをついてしまい、金融きんゆう危機きき発生はっせいした。

当時とうじ米国べいこく大統領だいとうりょうハーバート・フーヴァーの「株価かぶか暴落ぼうらく経済けいざいのしっぽであり、ファンダメンタルズ健全けんぜん生産せいさん活動かつどうがしっかりおこなわれている(ので大丈夫だいじょうぶ)」という発言はつげんは、一定いってい程度ていど真実しんじつであったがときおそすくいにはならなかった[注釈ちゅうしゃく 10]

アメリカの経済けいざい政策せいさく

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世界せかい恐慌きょうこう初期しょきさわときにニューヨークのアメリカ連合れんごう銀行ぎんこうあつまった群衆ぐんしゅう

古典こてん経済けいざいがくとペコラ委員いいんかい

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共和党きょうわとうフーヴァー大統領だいとうりょう古典こてん経済けいざいがく信奉しんぽうしゃであり、国内こくない経済けいざいにおいて自由じゆう放任ほうにん政策せいさく財政ざいせい均衡きんこう政策せいさくった。その一方いっぽう1930ねんにはスムート・ホーリーほうさだめて保護ほご貿易ぼうえき政策せいさくり、世界せかい各国かっこく恐慌きょうこう悪化あっかさせた。1931ねんクレディタンシュタルト倒産とうさんけて6がつからフーヴァーモラトリアム施行しこうした。合衆国がっしゅうこくない銀行ぎんこうは9月に305ぎょうが、10月に522ぎょう閉鎖へいさした。9月中旬ちゅうじゅんから10がつまつにかけてヨーロッパへかね流出りゅうしゅつしたが、連邦れんぽう準備じゅんび制度せいどからていったかね総額そうがく7おく5500まんドル相当そうとうであった。このとしじゅん輸出ゆしゅつ5おくドルちょういての結果けっかであった。流出りゅうしゅつふせぐために連邦れんぽう準備じゅんび制度せいど公定歩合こうていぶあいを10月9にちに1.5%から2.5%に、16にちには3.5%にげた。

1932ねん3がつにペコラ委員いいんかい発足ほっそくし、やがてジャック・モルガンのインサイダー取引とりひきあばいた。同年どうねん後半こうはんから1933ねんはるにかけてが恐慌きょうこう底辺ていへんであり1933ねん名目めいもくGDPは1919ねんから45%減少げんしょうし、株価かぶかは80%以上いじょう下落げらくし、工業こうぎょう生産せいさん平均へいきんで1/3以上いじょう低落ていらく[27]、1200まんにんたっする失業しつぎょうしゃ[28]失業しつぎょうりつは25%にたっした[29]閉鎖へいさされた銀行ぎんこうは1まんぎょうおよび、1933ねん2がつにはとうとうぜん銀行ぎんこう業務ぎょうむ停止ていしした[30][28]いえうしなれでつくった集落しゅうらくうらみをめて「フーバーむら」とばれ、路上ろじょう生活せいかつしゃのかぶる新聞しんぶんは「フーバー毛布もうふ」とわれた[31]景気けいきそこって、クローズド・エンドがたもとい財閥ざいばつ投信とうしん会社かいしゃは、電力でんりょく・ガス事業じぎょうから資本しほん引揚ひきあげ、その保有ほゆう銘柄めいがら一般いっぱん産業さんぎょう分散ぶんさんし、結果けっかとして保有ほゆう銘柄めいがらすうやした[15]

住宅じゅうたく所有しょゆうしゃ貸付かしつけ公社こうしゃ

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連邦れんぽう準備じゅんび制度せいど成立せいりつから、中央ちゅうおう準備じゅんび銀行ぎんこうのバンカーズ・バランスはたい預金よきん総額そうがくつづけていたが、よこばいとなる1920年代ねんだいでも3わり維持いじした。1920年代ねんだい不動産ふどうさん抵当ていとう貸付かしつけ積極せっきょくてきった地方銀行ちほうぎんこう準備じゅんび銀行ぎんこうは、1933ねん2がつけにおうじるためニューヨークのコルレス銀行ぎんこうから銀行ぎんこうあいだ預金よきん大量たいりょうした。ニューヨーク銀行ぎんこう一般いっぱん預金よきんしゃによる預金よきんはらもどしにくわえて、銀行ぎんこうあいだしもこうむったのである。この金融きんゆうシステムに沿って、不動産ふどうさん抵当ていとう貸付かしつけげつかせた銀行ぎんこうからニューヨークへ倒産とうさん連鎖れんさした。貯蓄ちょちく貸付かしつけ組合くみあい保有ほゆうする資産しさん流動りゅうどうせいひくかったので、組合くみあい商業しょうぎょう銀行ぎんこうからのコールマネーでおぎなっていた。1929ねん後半こうはんと1930年代ねんだいはじめ、商業しょうぎょう銀行ぎんこう組合くみあいへの短資たんし供与きょうよことわるようになった。むしろ組合くみあいからしはがそうとした。組合くみあいはどんどん倒産とうさんした。相互そうご貯蓄ちょちく銀行ぎんこう銀行ぎんこうあいだ預金よきんをあてにしなかったので小規模しょうきぼ倒産とうさんにとどまった。連邦れんぽう住宅じゅうたく貸付かしつけ銀行ぎんこう設立せつりつされても不動産ふどうさん市場いちば崩壊ほうかいまらなかった。そこで住宅じゅうたく所有しょゆうしゃ貸付かしつけ公社こうしゃ (Home Owners' Loan Corporation) が創設そうせつされた。寛大かんだいにも、公社こうしゃ自社じしゃさいげついたモーゲージと交換こうかんした。もっとも債務さいむしゃにとっては依然いぜんとして毎期まいきはらいらない方式ほうしきであった。まさにこのころが農地のうち不動産ふどうさん抵当流ていとうながれのピークであった[32]

各地かくちのスタンプ貨幣かへい

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1932ねん10がつ、ハワーデン (Hawarden, Iowa) が代用だいよう通貨つうか発行はっこうした。これは取引とりひきするたび3セントの印紙いんしるスタンプ貨幣かへいであった。モデルとなった本来ほんらい自由じゆう貨幣かへい周期しゅうきてきなスタンピングで減価げんか流通りゅうつう促進そくしんするものであった。しかしハワーデンの代用だいよう貨幣かへいなが保有ほゆうしても減価げんかしないので消費しょうひさせる仕組しくみをいていた。それでもアメリカで発行はっこうされたスタンプ貨幣かへいは、使つかうときまで減価げんかしないハワーデン方式ほうしき踏襲とうしゅうすることがおおかった。実施じっし短期間たんきかんであったが、担保たんぽ貨幣かへいでも信用しんよう次第しだい流通りゅうつうすることを証明しょうめいした。本来ほんらい自由じゆう貨幣かへいロングアイランドのフリーポート (Freeport, New York) で失業しつぎょう対策たいさく委員いいんかいが3種類しゅるい通貨つうか単位たんいで5まんドルぶん発行はっこうした。元来がんらい自由じゆう貨幣かへい導入どうにゅうすることはカンザス・アイオワのしゅう議会ぎかいでも検討けんとうされ、法律ほうりつ整備せいびされた[33]

1933ねん2がつ18にち、アラバマ出身しゅっしんのバンクヘッド上院じょういん議員ぎいん (John H. Bankhead II) は、緊急きんきゅうのとき連邦れんぽう政府せいふ代用だいよう通貨つうか発行はっこうみとめる法案ほうあん提出ていしゅつした。4にちインディアナしゅう下院かいん議員ぎいんピーテンヒル (Petenhill) も提出ていしゅつした。これらは実施じっしされることがなかった。自由じゆう貨幣かへい年金ねんきん基金ききん再建さいけんする計画けいかくもあったが (Ham and Eggs Movement)、しゅう議会ぎかい否決ひけつされた。本来ほんらい自由じゆう貨幣かへい支払しはらうときだけスタンプがされる貨幣かへいおよびそのをふくむ緊急きんきゅう通貨つうかを、アーヴィング・フィッシャー理論りろんてきささえていた。かれディーン・アチソン緊急きんきゅう通貨つうか後押あとおしするよう打診だしんした。しかしアチソンは地方ちほう分権ぶんけんにつながることを危惧きぐし、後述こうじゅつのルーズベルト大統領だいとうりょう協議きょうぎした。1933ねん3がつ4にち、ルーズベルトは緊急きんきゅう通貨つうか禁止きんしした[33]

ニューディール政策せいさく

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ニューディール政策せいさくによりアメリカの経済けいざい一時いちじてきではあるが回復かいふく傾向けいこうてんじた。写真しゃしん活気かっきもどりつつある1935ねんのニューヨーク

民主党みんしゅとうフランクリン・ルーズヴェルトは、現職げんしょく大統領だいとうりょうフーヴァーの財政ざいせい政策せいさく批判ひはんし、ニューディール政策せいさくしょうする財政ざいせい拡大かくだい政策せいさく主張しゅちょうして1932ねん選挙せんきょ当選とうせん大統領だいとうりょうとなった。大統領だいとうりょう就任しゅうにんただちにルーズベルトは公約こうやくひるがえし、修正しゅうせい資本しほん主義しゅぎもとづき、テネシーがわ流域りゅういき開発かいはつ公社こうしゃ設立せつりつ、さらに農業のうぎょう調整ちょうせいほう全国ぜんこく産業さんぎょう復興ふっこうほう制定せいていした。この今日きょうてき意味いみのニューディール政策せいさくはその労使ろうし双方そうほう反発はんぱつがあり、規模きぼ縮小しゅくしょうされるなどした。それでも記録きろくてきなものとなり、フーバー政権せいけんの1930会計かいけい年度ねんど歳出さいしゅつ予算よさんたいGDP3.4%程度ていどだったが、1934ねんにルーズベルト政権せいけんは10.7%までげた[34][35]

農業のうぎょう調整ちょうせいほうトマス附属ふぞくしょは、大統領だいとうりょうがマネーサプライをやそうとするとき連邦れんぽう準備じゅんび制度せいど連邦れんぽう公開こうかい市場いちば委員いいんかいに30おくドルまで米国べいこくさいわせることができるようにした。資金しきん財務省ざいむしょう発行はっこうするグリーンバックという政府せいふ紙幣しへいであった (greenbacks)。これは金銀きんぎん比価ひかにルーズな金銀きんぎん複本位ふくほんいせいであった。欧州おうしゅう各国かっこくだいいち世界せかい大戦たいせん合衆国がっしゅうこくった債務さいむ一定いっていがく銀貨ぎんか弁済べんさいする便宜べんぎはかられたのである。

1930年代ねんだい後半こうはんにはふたた危機ききてき状況じょうきょうとなった。おおくの労働ろうどう組合くみあい賃金ちんぎんげを要求ようきゅう実質じっしつ賃金ちんぎんげ(ワグナーほう)は大勢おおぜい労働ろうどうしゃ解雇かいこにつながった。1936ねん、すでにインフレ傾向けいこうにあったことを警戒けいかいしたFRBは金融きんゆうめにてん預金よきん準備じゅんびりつを2ばいげた。米国べいこく債務さいむ残高ざんだかはGDP40%という前代未聞ぜんだいみもん水準すいじゅんたっしたため、ルーズベルト大統領だいとうりょうとヘンリー・モーゲンソー財務ざいむ長官ちょうかん財政ざいせい均衡きんこうかじをきった。1936-38ねんにはGDP5.5%の財政ざいせい赤字あかじ解消かいしょうした。しかしこの1937ねん財政ざいせい支出ししゅつ大幅おおはば削減さくげん予算よさんにより1938ねんきょうになり、実質じっしつGDPは11%がり失業しつぎょうりつは4%上昇じょうしょう[35]、「ルーズベルトきょう」とばれることになる。アメリカのGDPは1936ねん恐慌きょうこうまえ水準すいじゅん回復かいふくしたものの37ねん不況ふきょうによりふたたび34ねん水準すいじゅんまで逆戻ぎゃくもどりして、1941ねんまで恐慌きょうこうまえ水準すいじゅん回復かいふくすることができなかった[36]。ニューディール期間きかんちゅう財政ざいせい支出ししゅつ赤字あかじたいGNPが10%をえたとしは2である。アメリカ経済けいざい本格ほんかくてき回復かいふくはそのだい世界せかい大戦たいせん参戦さんせんによる莫大ばくだい軍需ぐんじゅ景気けいきつこととなる。太平洋戦争たいへいようせんそうこり、連邦れんぽう政府せいふはようやく見境みさかいのない財政ざいせい支出ししゅつ開始かいしし、また国民こくみん戦費せんぴ国債こくさい購入こうにゅう積極せっきょく財政ざいせい強力きょうりょく支援しえんした。1943ねんには赤字あかじが30%をえたが失業しつぎょうりつは41ねんの9.1%から44ねんには1.2%にがった[37]。しかしダウ平均へいきん株価かぶかは1954ねん11がつまで1929ねん水準すいじゅんもどらなかった。

会計かいけい監査かんさ

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投資とうし保護ほごのために公開こうかい基準きじゅん収益しゅうえきせい重視じゅうしされ、1934ねん証券しょうけん取引とりひきしょほう制定せいていされて証券しょうけん取引とりひき委員いいんかい (SEC) が設置せっちされた。公認こうにん会計士かいけいし法的ほうてき監査かんさ制度せいどされて、監査かんさ基準きじゅんとなる米国べいこく会計かいけい基準きじゅん制定せいてい決定けっていする。会計かいけい原則げんそく制定せいていするために会計かいけい手続てつづき委員いいんかい英語えいごばん (CAP) が設立せつりつされ、アメリカ会計士かいけいし協会きょうかい英語えいごばん (AAPA) とアメリカ会計かいけい学会がっかい積極せっきょくてき関与かんよした[38]

株価かぶか暴落ぼうらく原因げんいんとして、金融きんゆう商品しょうひん資産しさん恣意しいてきさい評価ひょうかがあったという分析ぶんせきがなされた。このためにアメリカの会計かいけい資産しさんさい評価ひょうかみとめられず、1970年代ねんだいまで取得しゅとく原価げんか基準きじゅん採用さいようされた[39]

恐慌きょうこう発生はっせい以降いこう各国かっこくでの通貨つうか問題もんだい解決かいけつするためのおおくのこころみがなされたが恒常こうじょうてき協調きょうちょう体制たいせい構築こうちくされたわけではなく、結局けっきょく外為がいため相場そうば国際こくさいてき調整ちょうせいだい世界せかい大戦たいせんIMF設立せつりつめぐ議論ぎろんなかおくまれることとなった[40]だいいち世界せかい大戦たいせん世界せかい恐慌きょうこうまでつづいていた軍縮ぐんしゅく国際こくさい平和へいわ協調きょうちょう路線ろせん一気いっきくずれ、だい世界せかい大戦たいせんへのおおきないちすこととなった。

世界せかい経済けいざいへの波及はきゅう

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イギリス

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世界せかい恐慌きょうこうのあおりでシティ・オブ・ロンドン債権さいけんげついた。即座そくざ短資たんしげ、イングランド銀行いんぐらんどぎんこうには兌換だかんのためひと殺到さっとうした。ここで2つの報告ほうこくしょ提出ていしゅつされ、ポンドの安定あんていとシティの権威けんいさぶったのである。報告ほうこくしょひとつをマクミラン報告ほうこくという。1929ねん金融きんゆう産業さんぎょう委員いいんかい通称つうしょうマクミラン委員いいんかい)が設置せっちされた。スコットランド出身しゅっしんもと裁判官さいばんかんであるマクミランきょう (Hugh Macmillan) が座長ざちょうとなり、英国えいこく経済けいざい実態じったい精査せいさして、ジョン・メイナード・ケインズ主筆しゅひつ報告ほうこくしょ作成さくせいした。マクミラン報告ほうこくは、シティの資本しほんがイギリス国内こくない産業さんぎょうけられず海外かいがい投資とうしかたむいていたことを糾弾きゅうだんした。もうひとつをメイ報告ほうこくしょという。1931ねん2がつにメイ委員いいんかい設置せっちされた。保険ほけん業界ぎょうかい重鎮じゅうちんであったジョージ・メイ (George May) が座長ざちょうとなり、財政ざいせい収支しゅうし展望てんぼう歳出さいしゅつ削減さくげんあん提示ていじすることになったのである。作成さくせいされたメイ報告ほうこくしょが「抜本ばっぽんてきな」歳出さいしゅつ削減さくげんあん必要ひつようせいとなえた。世界せかい投資とうし内外ないがい世論せろん報告ほうこくしょ解釈かいしゃくあたえた。ポンドは国内こくない投下とうかされないから、この価格かかく伝統でんとうてきなデフレ政策せいさくささえても財政ざいせい赤字あかじまぬかれないというのである。金本位きんほんいせい瓦解がかい時間じかん問題もんだいとなり、空前くうぜんかね流出りゅうしゅつこった[41]

労働党ろうどうとうマクドナルド内閣ないかく失業しつぎょう保険ほけん削減さくげんなど緊縮きんしゅく財政ざいせいくがその政策せいさくから労働党ろうどうとう除名じょめいされ、わりに保守党ほしゅとう自由党じゆうとう援助えんじょけてマクドナルド挙国一致きょこくいっちないかく組閣そかくする。それとほぼどう時期じきの1931ねん9月21にち、ポンドとかね兌換だかん停止ていし、いわゆる金本位きんほんいせい放棄ほうきおこなった。なおイギリスが金本位きんほんいせい放棄ほうきおこなったのをきっかけに金本位きんほんいせい放棄ほうきするくに続出ぞくしゅつ1937ねん6がつにフランスが放棄ほうきしたのを最後さいご国際こくさいてき信用しんよう秩序ちつじょとしての金本位きんほんいせい停止ていしした。

勢力せいりょくにかなりのかげりがていたイギリスでは広大こうだい植民しょくみん維持いじしていくことができずウェストミンスター憲章けんしょうにより自治領じちりょう対等たいとう関係かんけいち、あらたにイギリス連邦れんぽう形成けいせいした。イギリスはこれを母体ぼたいブロック経済けいざい政策せいさく推進すいしんしていくことになる。ただしインド帝国ていこくはブロック経済けいざいでもひがしアジア密接みっせつ経済けいざい関係かんけいにあったことがられる。

イタリア

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イタリアは元々もともとだいいち世界せかい大戦たいせん直後ちょくごから経済けいざい混乱こんらんおちいりミラノ株式かぶしき取引とりひきしょ不振ふしんつづいていたため、ぎゃく世界せかい恐慌きょうこう影響えいきょうはほとんどけず、おおくのイタリアじん株価かぶかだい暴落ぼうらくらせをいても、「ああそうか」というだけでいままでどおりらしていたと[42]

1861ねん統一とういつされたばかりのイタリアはだいいち世界せかい大戦たいせん領土りょうど獲得かくとくできると期待きたいしていたが徒労とろうわった。イタリアでは共産きょうさん主義しゅぎ国粋こくすい主義しゅぎ対立たいりつ長引ながびいていたが、ムッソリーニ組閣そかくによりファシストとういちとう独裁どくさいはじまって以降いこう、イタリアでは共産きょうさん主義しゅぎしゃ大半たいはん国外こくがい逃亡とうぼうし、ストライキによる鉄道てつどう遅延ちえん解消かいしょうされた。ファシストは古代こだいローマの栄光えいこうもどすことを目指めざしていたが、現実げんじつのイタリアは荒廃こうはいしており、国民こくみんゆたかになるためのチャンスは他国たこく移民いみんすることであった。ファシスト政権せいけん公共こうきょう土木どぼく工事こうじ産業さんぎょう統制とうせいによる中小ちゅうしょう企業きぎょう整理せいり統廃合とうはいごう注力ちゅうりょくし、政権せいけん独身どくしんしゃへの課税かぜい母親ははおやへの褒賞ほうしょうにより出生しゅっしょうりつ向上こうじょうした。

フランス

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フランスはだいいち大戦たいせん賠償金ばいしょうきんとして1320おくきんマルク[注釈ちゅうしゃく 11]をドイツに請求せいきゅうし、やく200おくきんマルクに相当そうとうする現物げんぶつ給付きゅうふけていた[注釈ちゅうしゃく 12]が、現金げんきんでの支払しはらいをもとめ1923ねん1がつ11にちにルール地方ちほう占領せんりょうしていた[43]。フランス政府せいふはドイツからの賠償ばいしょう支払しはらいを前提ぜんてい大幅おおはば赤字あかじ財政ざいせいをとっており、賠償金ばいしょうきん支払しはらいが期待きたいできないことがあきらかになりはじめた1923ねん以降いこう、フランスは為替かわせ相場そうば下落げらくしインフレが昂進こうしんした[44]。1924ねん6がつガストン・ドゥメルグ大統領だいとうりょうとなった。1926ねんから翌年よくねんにかけて景気けいき後退こうたいしめすようなしょ指標しひょうられたが、1927ねんはる以降いこう改善かいぜんかい、フランスの工業こうぎょう生産せいさんは1930ねんまで上昇じょうしょうした[45]

1928ねんにはきむ為替かわせ本位ほんいせい復帰ふっきしたがイギリスがきゅう平価へいか復帰ふっきしたのにたいし、フランスはフランやすしん平価へいか復帰ふっきしたため経常けいじょう収支しゅうし黒字くろじし、またかね為替かわせ本位ほんいせい否定ひていてき立場たちばからかね流入りゅうにゅう政策せいさくをとり、対外たいがい投資とうしげ、経常けいじょう収支しゅうし黒字くろじかねることをもとめた。このフランスのかね吸収きゅうしゅうはとりわけロンドンのかね準備じゅんびへの圧力あつりょくとなった[46]

フランス経済けいざい世界せかい恐慌きょうこう影響えいきょうを1931ねんまでのがれることに成功せいこうした[47]。すなわち、フランス植民しょくみん金融きんゆうしゃ経営けいえい危機ききまで堅調けんちょうだった。1931ねん9月21にちにイギリスが金本位きんほんいからいちはやく離脱りだつしポンドの平価へいか切下きりさげ(チープマネー政策せいさく)を実施じっしして以降いこう、フランス経済けいざい明確めいかく下降かこうし、すべての指標しひょう恐慌きょうこう進行しんこうしめした。外国がいこく貿易ぼうえきちこたえフランス銀行ぎんこうかね準備じゅんびはなおつづけたが、失業しつぎょう増大ぞうだい物価ぶっか卸売おろしうり物価ぶっか小売こうり物価ぶっかいちじるしく低下ていかした。労働ろうどう時間じかんきゅうはゆるやかに下降かこうはじめ、株式かぶしき相場そうば崩壊ほうかい顕著けんちょであった。1931ねん7がつはじめられた原料げんりょう食料しょくりょうひんたいする輸入ゆにゅう数量すうりょう割当わりあて制度せいどが、イギリスの金本位きんほんい離脱りだつつづく6かげつあいだにさらに拡大かくだいされ、1932ねん2がつにはフランスで小麦粉こむぎこ使用しようされる小麦こむぎの90%が国内産こくないさんであることを義務付ぎむづける法案ほうあん成立せいりつした[48]

1935ねん5がつふつ相互そうご援助えんじょ条約じょうやく締結ていけつ。そしてコミンテルン指導しどうけたレオン・ブルム人民戦線じんみんせんせんないかく組閣そかくする。人民戦線じんみんせんせんないかく当初とうしょ平価へいかげをしぶったが、やがて物価ぶっか不安定ふあんていなまま実施じっしして国際こくさい連盟れんめいから失策しっさく指摘してきされた[45]

世界せかい恐慌きょうこう国民こくみん生活せいかつがどんぞこたたおとされたドイツでは、アドルフ・ヒトラーひきいるナチズム台頭たいとうまねく。

ヴァイマル共和きょうわせい時代じだいのドイツはだいいち世界せかい大戦たいせん敗戦はいせん連合れんごうこくから巨額きょがく賠償金ばいしょうきん請求せいきゅうされ、フランスルール占領せんりょうともなハイパーインフレーションにより、従来じゅうらい賠償金ばいしょうきん徴収ちょうしゅう体制たいせい崩壊ほうかいしたことはあきらかとなった。このためアメリカを賠償金ばいしょうきん支払しはらいプロセスに参加さんかさせることで円滑えんかつ支払しはらいが可能かのうになり、またアメリカをはじめとする外国がいこく資本しほんがドイツに導入どうにゅうされ、ドイツ経済けいざい回復かいふく傾向けいこうつづいていた。

しかしだい恐慌きょうこうによってドイツ経済けいざい深刻しんこく状態じょうたいおちいった。アメリカ資本しほん次々つぎつぎ撤退てったいし、復興ふっこうしかけていた経済けいざい一気いっきにどんぞことされた。失業しつぎょうりつは40パーセント以上いじょうたっ銀行ぎんこう有力ゆうりょく企業きぎょう次々つぎつぎ倒産とうさん大量たいりょう失業しつぎょうしゃまちあふ国内こくない経済けいざい破綻はたん状態じょうたいとなる。さらに1931ねん3がつ23にちに、ドイツがオーストリアと締結ていけつした関税かんぜい同盟どうめいヴェルサイユ条約じょうやく違反いはんだと非難ひなんしたフランスが、制裁せいさいとしてオーストリアから資本しほんげたことがきっかけとなりオーストリア最大さいだい銀行ぎんこうクレジット・アンシュタットが破綻はたんしたことは欧州おうしゅう全体ぜんたい深刻しんこく金融きんゆう危機ききをもたらした。さらに賠償ばいしょう問題もんだい解決かいけつするため、あらたに検討けんとうされたヤングあんたいする反発はんぱつは、国家こっか社会しゃかい主義しゅぎドイツ労働ろうどうしゃとう(ナチス)の躍進やくしんをもたらした。ハインリヒ・ブリューニング首相しゅしょうはこの危機ききデフレーション政策せいさく対応たいおうしようとしたため、かえって経済けいざい危機きき深刻しんこくとなった。ブリューニングが解任かいにんされたのちフランツ・フォン・パーペン内閣ないかくクルト・フォン・シュライヒャー内閣ないかくでは、雇用こよう拡大かくだい政策せいさくによる経済けいざい安定あんていはかろうとしたが、政権せいけん基盤きばん不安定ふあんていであったために十分じゅうぶん成果せいかげられないまま退陣たいじんした。

1933ねん、1がつ30にちヒンデンブルク大統領だいとうりょうヒトラー首相しゅしょう任命にんめいした。ヒトラーらとナチとうは、ドイツ国会こっかい議事堂ぎじどう放火ほうか事件じけん口実こうじつドイツ共産党きょうさんとうドイツ社会しゃかい民主党みんしゅとう弾圧だんあつし、ドイツ国内こくない権力けんりょく掌握しょうあくした(ナチとう権力けんりょく掌握しょうあく)。このあいだぜん内閣ないかく採用さいようされた雇用こよう拡大かくだい政策せいさくと、6がつからのだいいちラインハルト計画けいかく、9月からのアウトバーン建設けんせつ秘密ひみつさい軍備ぐんびなどで失業しつぎょうしゃ急速きゅうそく減少げんしょうした。ドイツの恐慌きょうこうからの回復かいふくはイギリスやアメリカにくらべてもきわめてはやく、どう時代じだいじん注目ちゅうもくあつめた[49]。これらの資金しきんメフォ手形てがたなどの手形てがた利用りようする特殊とくしゅなものであった。しかしヒトラーにとって経済けいざい政策せいさくは「すべてをぐんに」かわせるためのものであり(ナチス・ドイツの経済けいざい[50]、1936ねんから開始かいしされただい2よんカ年かねん計画けいかくでは自給自足じきゅうじそく経済けいざい閉鎖へいさ経済けいざい体制たいせいと、さらなる軍備ぐんび拡大かくだい継続けいぞくされた。チェコスロバキア問題もんだいなどの軍事ぐんじ行動こうどう政府せいふ債務さいむふくらみ、1938ねんには2支払しはら不能ふのうになる事態じたいとなった[51]。インフレ圧力あつりょくふたたつよまるなか拡張かくちょう政策せいさく継続けいぞくされることになる[51]

日本にっぽん

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1929ねん2がつ金本位きんほんいせい復帰ふっきしたばかりの日本にっぽん色々いろいろ思惑おもわくから、世界せかい経済けいざい混乱こんらんなか正貨せいか流出りゅうしゅつさせた[注釈ちゅうしゃく 13]

だいいち世界せかい大戦たいせん戦勝せんしょうこくの1こくとなり、大戦たいせん景気けいき日本にっぽん経済けいざい安定あんていしてたものの、戦後せんご恐慌きょうこう震災しんさい恐慌きょうこう昭和しょうわ金融きんゆう恐慌きょうこうによって弱体じゃくたいしていた日本にっぽん経済けいざいは、世界せかい恐慌きょうこう昭和しょうわ恐慌きょうこう)の発生はっせいとほぼどう時期じきったきむ解禁かいきん影響えいきょう直撃ちょくげきされ、それまでおもにアメリカけにたよっていた生糸きいと輸出ゆしゅつ急激きゅうげきみ、危機ききてき状況じょうきょうおちいる。かぶ暴落ぼうらくにより、都市としではおおくの会社かいしゃ倒産とうさん就職しゅうしょくできないもの失業しつぎょうしゃがあふれた(『大学だいがくたけれど』)。恐慌きょうこう発生はっせい当初とうしょかね解禁かいきん影響えいきょうから深刻しんこくなデフレが発生はっせいし、農作物のうさくもつとくまゆ)はきが価格かかく低下ていかした。1935ねんまでつづいた冷害れいがい凶作きょうさく昭和しょうわ三陸さんりく津波つなみのために疲弊ひへいした農村のうそんではむすめ身売みう欠食けっしょく児童じどう急増きゅうぞうした。1935ねん公共こうきょう土木どぼく事業じぎょうられ、生活せいかつできなくなり大陸たいりくわた人々ひとびとえた。

高橋たかはし是清これきよ蔵相ぞうしょうによる積極せっきょくてき歳出さいしゅつ拡大かくだい一時いちじてき軍拡ぐんかくふくむ)や1932ねんよりはじまるのうやま漁村ぎょそん経済けいざい更生こうせい運動うんどう自力じりき更生こうせい運動うんどう)、1931ねん12月17にちかね兌換だかん停止ていしによるえん相場そうば下落げらくもあり、インドなどアジア地域ちいき中心ちゅうしんとした輸出ゆしゅつにより1932ねんには欧米おうべい諸国しょこく先駆さきがけて景気けいき回復かいふくげたが、欧米おうべい諸国しょこくとの貿易ぼうえき摩擦まさつこった。1932ねん8がつにはイギリス連邦れんぽうのブロック政策せいさく(イギリス連邦れんぽう経済けいざい会議かいぎによるオタワ協定きょうてい)によるこう関税かんぜい政策せいさく開始かいしされインド・イギリスブロックから事実じじつじょうされたことから、日本にっぽん統治とうちとなっていた台湾たいわんや、日本にっぽん支援しえん建国けんこくされたばかりの満州まんしゅうこくなどアジア(えんブロック)が貿易ぼうえき対象たいしょうとなり、重工業じゅうこうぎょうけた官民かんみん一体いったい経済けいざい体制たいせい転換てんかんす。にちちゅう戦争せんそうだい東亜とうあ戦争せんそう)がはじまった1937ねんには重工業じゅうこうぎょう比率ひりつ軽工業けいこうぎょう上回うわまわった。さらには1940ねんには鉱工業こうこうぎょう生産せいさん国民こくみん所得しょとく恐慌きょうこうまえの2ばい以上いじょうとなり、太平洋戦争たいへいようせんそうにおけるイギリスやアメリカ、オーストラリアなどにたいする優勢ゆうせいつづいていた1942ねんなつまで景気けいき拡大かくだいつづいた。ただし戦時せんじ統制とうせい経済けいざいであり、生活せいかつ物資ぶっし不足ふそくとなっていた。

1931ねん12月の高橋たかはし蔵相ぞうしょう就任しゅうにん以来いらい積極せっきょくてき財政ざいせい支出ししゅつ政策せいさくケインズ政策せいさく)により日本にっぽん経済けいざい活動かつどう順調じゅんちょう回復かいふくせたが1935ねんごろには赤字あかじ国債こくさい増発ぞうはつともなうインフレ傾向けいこう明確めいかくになりはじめ、昭和しょうわ11ねん(1936ねん年度ねんど予算よさん編成へんせい財政ざいせい史上しじょうでも特筆とくひつされる異様いようなものとなった。高橋たかはし岡田おかだ内閣ないかく)は公債こうさい漸減ぜんげん政策せいさく基本きほん方針ほうしんとした予算よさん編成へんせい方針ほうしんを1935ねん6がつ25にち閣議かくぎ了解りょうかいけたものの、軍部ぐんぶ熾烈しれつ反発はんぱつにあい、大蔵省おおくらしょう公債こうさい追加ついか発行はっこうはしないとの方針ほうしん維持いじされたものの特別とくべつ会計かいけいそのえで大幅おおはば軍備ぐんび増強ぞうきょう予算よさんとなった。結局けっきょくこの予算よさん議会ぎかい提出ていしゅつされたものの、よく1936ねん1がつ21にち内閣ないかく不信任ふしんにんあん提出ていしゅつされ議会ぎかい解散かいさん不成立ふせいりつとなった。実行じっこう予算よさん準備じゅんびちゅうの2がつ26にち二・二六事件ににろくじけん発生はっせい高橋たかはし公債こうさい漸減ぜんげん主義しゅぎ放棄ほうきされることになった[52]

経済けいざい政策せいさくでは1931ねん昭和しょうわ6ねん7がつ公布こうふ)の重要じゅうよう産業さんぎょう統制とうせいほうによるきょうカルテルにより、中小ちゅうしょう産業さんぎょうによる業界ぎょうかい団体だんたい設立せつりつ助成じょせいし、購買こうばいりょく付与ふよすることで企業きぎょう存続そんぞく雇用こよう安定あんていをはかった。まただい企業きぎょう中心ちゅうしん合理ごうり統廃合とうはいごうすすんだ。重要じゅうよう産業さんぎょう統制とうせいほうはドイツの「経済けいざい統制とうせいほう」(1919ねん)をもと包括ほうかつてき立法りっぽうとして制定せいていされ、同様どうよう政策せいさくはイタリアの「強制きょうせいカルテル設立せつりつほう」(1932ねん)、ドイツの「カルテルほう」(1933ねん)、米国べいこくの「全国ぜんこく産業さんぎょう復興ふっこうほう」(1933ねん)などがある。1930年代ねんだいにはすうおおくのだい規模きぼプロジェクトが実施じっしされた[53][54][55][56][57][58][59][60][61][62]

中国ちゅうごく

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中国ちゅうごく当時とうじ南京なんきん国民こくみん政府せいふ成立せいりつ(1928ねん当初とうしょであり、清朝せいちょう以来いらいぬさりょうせいもとせい移行いこうさせつつある段階だんかいであった。中華民国ちゅうかみんこく主要しゅよう港湾こうわんはすべてイギリスにより支配しはいされており、関税かんぜい自主権じしゅけんたない状況じょうきょうにあった。

中華民国ちゅうかみんこくぎんもともちいる最後さいご銀本位ぎんほんいせい採用さいようこくであった。世界せかい恐慌きょうこうぎん価格かかく暴落ぼうらく輸入ゆにゅう商品しょうひん価格かかく騰貴とうきさせたが、世界せかいではぎん需要じゅようこくとしてぎん相場そうば比較的ひかくてきたかかったので世界中せかいじゅうぎん中国ちゅうごくながみ(1929ねんから1931ねんに3.4おくげん)さらに物価ぶっか上昇じょうしょうさせ、農村のうそんから経済けいざい破壊はかいしてゆき、やがて工業こうぎょう製品せいひんれなくなっていった[63]

1931ねん9がつつづけに発生はっせいした満州まんしゅう事変じへんとイギリスの金本位きんほんい制度せいど離脱りだつ中華民国ちゅうかみんこく経済けいざいにとってまけであり、国際こくさい交易こうえきではそれまでのぎん流入りゅうにゅう傾向けいこう流出りゅうしゅつてんじ、物価ぶっか下落げらくしょう工業こうぎょう海外かいがい貿易ぼうえき縮小しゅくしょう見舞みまわれた。

ここでアメリカのトマス附属ふぞくしょ影響えいきょうする。アメリカがぎん法定ほうてい備蓄びちく開始かいしすると (Silver Purchase Act of 1934)、国際こくさい市場いちばでのぎん価格かかく急騰きゅうとうした。中国ちゅうごくから大量たいりょうぎん流出りゅうしゅつし、国内こくない金利きんり高騰こうとうした。そして物価ぶっか下落げらくしたり、銀行ぎんこう倒産とうさんしたりした。

ソ連それん

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ソ連それん社会しゃかい主義しゅぎ国家こっかだったため、主要しゅようこくなかでただいちこく世界せかい恐慌きょうこう影響えいきょうまったけず非常ひじょうたか経済けいざい成長せいちょうつづけ、1930ねんにはGDP2523.3おくドルでイギリスをえて世界せかいだい2の経済けいざい大国たいこくになった[64]以後いごスターリン推進すいしんするカ年かねん計画けいかく着々ちゃくちゃく工業こうぎょうすすめていった。ソビエトのプロパガンダもあり、自由じゆう主義しゅぎ諸国しょこく研究けんきゅうしゃなかには社会しゃかい主義しゅぎがた計画けいかく経済けいざい希望きぼう見出みいだものおおたが、実際じっさいにはホロドモール食糧しょくりょう徴発ちょうはつポーランド脱出だっしゅつするロシアじん漸次ぜんじ増加ぞうかきていた。極東きょくとう・シベリア開発かいはつには政権せいけんにより意図いとてきつくげられた「にわか囚人しゅうじん」が大量たいりょう動員どういんされた[65]

世界せかい各国かっこくだい恐慌きょうこうくるしむなか計画けいかく経済けいざい経済けいざい発展はってんつづけるソ連それんソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく連邦れんぽう)とヨシフ・スターリン書記しょきちょう神格しんかく傾向けいこうすすんだ。だい恐慌きょうこうすくいをもとめる人々ひとびと一部いちぶ共産きょうさん主義しゅぎ希望きぼうてき経済けいざい体制たいせい夢見ゆめみた。とく英国えいこく上流じょうりゅう階級かいきゅう裏切うらぎりが続出ぞくしゅつし、スパイになる人材じんざい輩出はいしゅつされたことは冷戦れいせん時代じだいおおきな意味いみった[66]

世界せかい恐慌きょうこう各国かっこく工業こうぎょう生産せいさん推移すいい

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とし アメリカ イギリス フランス ドイツ 日本にっぽん ソ連それん
1928ねん 93 94 91 99 90 79
1929ねん 100 100 100 100 100 100
1930ねん 81 92 100 86 95 131
1931ねん 68 84 89 68 92 161
1932ねん 54 84 69 53 98 183
1933ねん 64 88 77 61 113 198
1934ねん 66 99 71 80 129 238
1935ねん 76 106 67 94 142 293

(1929ねん=100)

[9][よう出典しゅってん]

世界せかい恐慌きょうこう前後ぜんこう各国かっこく貨幣かへい用金ようきん分布ぶんぷじょうきょう推移すいい

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とし アメリカ イギリス フランス ドイツ 日本にっぽん 世界せかい総計そうけい
1925ねんすえ 4,399 814 978 316 576 10,244
1926ねんすえ 4,492 845 978 464 562 10,496
1927ねんすえ 4,379 842 977 471 542 10,602
1928ねんすえ 4,141 836 1,271 676 541 11,052
1929ねんすえ 4,284 791 1,641 569 542 11,272
1930ねんすえ 4,593 792 2,099 552 412 11,756
1931ねん6がつ 4,956 865 2,212 359 424 12,078

単位たんい:100まんドル、イギリスは連合れんごう王国おうこくおよびアイルランドふくむ。(出典しゅってん:League of Nations,Statistical Year Book,1931-2,pp.266-9)[67]

社会しゃかい科学かがくにおける解釈かいしゃくとその影響えいきょう

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政治せいじ経済けいざいがく

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世界せかい恐慌きょうこうは「基軸きじく通貨つうか交替こうたい」「覇権はけん国交こっこうがえ」にともな当然とうぜんの、あるいは必然ひつぜんてき事態じたいかんがえられる。えいふつ中心ちゅうしんとする世界せかい体制たいせいだいいち世界せかい大戦たいせんくずれ、米国べいこく覇権はけんこくになる途中とちゅう出来事できごとであった。世界せかいとみあつめた結果けっかとして世界せかいてき通貨つうか必要ひつようであったが、金本位きんほんいせいのもとで通貨つうか創造そうぞう出来できない各国かっこく米国べいこくからの資金しきん還流かんりゅうつしかなかった。しかし米国べいこくには覇権はけんこく責任せきにんける準備じゅんび出来できておらず、国際こくさい連盟れんめいには参加さんかせず、ドイツなどの経済けいざいてき苦境くきょう放置ほうちした。さらに「真正しんしょう手形てがた原理げんりによるデフレ政策せいさく」をり、米国べいこく繁栄はんえい世界せかい各国かっこくかちうことがなかったため、世界せかい各国かっこく経済けいざいてき苦境くきょう結局けっきょく米国べいこく自身じしんかえった。貨幣かへい収縮しゅうしゅくによって米国べいこく生産せいさんりょう見合みあうだけの支払しはらうべき資金しきん有効ゆうこう需要じゅよう)がどこにもないからである。米国べいこくはインフレを受容じゅようして、その本位ほんいきん保有ほゆうだか以上いじょう資金しきん創造そうぞう海外かいがい投資とうしすることで国際こくさい分業ぶんぎょう促進そくしんしなければならない立場たちばにありながら、むしろ投資とうし資金しきんげることで世界せかい各国かっこく流動りゅうどうせい枯渇こかつさせた。モンロー主義しゅぎ孤立こりつ主義しゅぎ)が優勢ゆうせいで、ウッドロウ・ウィルソン国際こくさい主義しゅぎではなかった。だいいち世界せかい大戦たいせん参戦さんせんも、ルシタニアごう事件じけんツィンメルマン電報でんぽう事件じけん必要ひつようであった。だいいち世界せかい大戦たいせんうしろでさえ、ウィルソンが設立せつりつ尽力じんりょくした平和へいわのための国際こくさい組織そしき国際こくさい連盟れんめい」には上院じょういん反対はんたい参加さんかできなかった。

レンテンマルク発行はっこうしドイツの天文学てんもんがくてきインフレ(レンテンマルク発行はっこう直前ちょくぜんで1$=4ちょう2000おくマルク)を収束しゅうそくさせたワイマール共和きょうわこくグスタフ・シュトレーゼマン功績こうせき結局けっきょくかれとともに水泡すいほうかえし、国家こっか社会しゃかい主義しゅぎドイツ労働ろうどうしゃとう(ナチス)の勃興ぼっこううながした。

軍事ぐんじケインズ主義しゅぎったドイツ・イタリア・日本にっぽんなどが急速きゅうそく復興ふっこうし、米国べいこくニューディール政策せいさく景気けいき回復かいふくむすくにはちいさすぎたため、状況じょうきょう好転こうてんさせたが完全かんぜんいやすにはいたらなかった。ニューディールはケインズ主義しゅぎ需要じゅよう喚起かんきさく成功せいこうかんがえられ、事実じじつ状況じょうきょう好転こうてんさせたが、「真正しんしょう手形てがた原理げんり」のFRBが貨幣かへい発行はっこうかね準備じゅんびにあわせて、はげしくマネーサプライをけずった悪影響あくえいきょう完全かんぜん消去しょうきょするに充分じゅうぶんな、財政ざいせい金融きんゆう拡張かくちょう政策せいさくまれなかった。ケインズ自身じしん自覚じかくしていたように、戦争せんそう戦時せんじ国債こくさい発行はっこうによるマネーサプライが強力きょうりょく余剰よじょう生産せいさんりょく解消かいしょうしたのである。そういう意味いみでも「デフレてき」な「真正しんしょう手形てがたせつ論者ろんしゃ」によって1929ねんはじまった世界せかい恐慌きょうこうだい世界せかい大戦たいせん素地そじつくったとえる。事実じじつ、ニューディールは世界せかい経済けいざい需給じゅきゅうギャップめるにはあまりにもちいさく、財政ざいせい出動しゅつどう慎重しんちょうでありすぎ、期間きかん十分じゅうぶんではなかった。アメリカはだい世界せかい大戦たいせんによってようやく後先あとさきかんがえない政府せいふ支出ししゅつはじめ、国民こくみんもまた強力きょうりょく政策せいさく支持しじしたことによりようやくきょうから脱却だっきゃくし、飛躍ひやくするのである(参照さんしょう軍事ぐんじケインズ主義しゅぎ)。

経済けいざいがく

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マルクス経済けいざいがくでは、資本しほん主義しゅぎ諸国しょこく経済けいざい有機ゆうきてき連関れんかんによって、資本しほん主義しゅぎ経済けいざい矛盾むじゅん世界せかいてき爆発ばくはつてきひろがる危険きけんせいつという[68]当時とうじは「市場いちば自身じしん調整ちょうせいおこな機能きのうっており、政府せいふ介入かいにゅう極力きょくりょくすべきではない」という自由じゆう放任ほうにん主義しゅぎかんがかた主流しゅりゅうであった。また、オーストリア学派がくはなどによってだい恐慌きょうこう蓄積ちくせきした市場いちばゆがみを調整ちょうせいするための不可避ふかひ現象げんしょうであるという見方みかたもなされた。しかし、このようなかんがかたでは1930年代ねんだい世界せかい直面ちょくめんしただい恐慌きょうこう説明せつめい世界せかい経済けいざいすくげる手立てだてを提供ていきょうすることができず、あたらしい経済けいざい理論りろんもとめられた。

行政府ぎょうせいふによる財政ざいせい出動しゅつどうによる経済けいざい刺激しげきさくはフランス革命かくめい前後ぜんこう啓蒙けいもう思想しそうころからさかんに議論ぎろんされてきた論題ろんだいであったが、古典こてん経済けいざいがく過少かしょう消費しょうひせつへの勝利しょうり以降いこう政府せいふ介入かいにゅう民間みんかん経済けいざい活動かつどう圧迫あっぱくするだけであるとのかんがえが通説つうせつとなった(クラウディングアウト)。だい恐慌きょうこう発生はっせい以降いこうふたたびこの論題ろんだいがアメリカおよびイギリスでさかんに論議ろんぎされ、アメリカでは共和党きょうわとうのフーバー政権せいけん赤字あかじ財政ざいせい国債こくさい発行はっこう反対はんたいし、均衡きんこう予算よさん主義しゅぎのためにクラウディングアウトの議論ぎろん援用えんようした。また、イギリスでは保守党ほしゅとう政権せいけん財務省ざいむしょう同様どうよう理論りろんジョン・メイナード・ケインズ立案りつあんになる自由党じゆうとう提案ていあん対立たいりつした。

ケインズは『雇用こよう利子りしおよび貨幣かへい一般いっぱん理論りろん』(1936ねん)のなかで、政府せいふによる財政ざいせい出動しゅつどうによって、うしなわれた雇用こよう創出そうしゅつ有効ゆうこう需要じゅよう創出そうしゅつ可能かのうであり、投資とうし増加ぞうか所得しょとく増加ぞうかりょう決定けっていするという乗数じょうすう理論りろんもとづき、減税げんぜい公共こうきょう投資とうしなどの政策せいさくにより投資とうし増大ぞうだいさせるように仕向しむけることで、回復かいふく可能かのうであることをしめした。また経済けいざいがくてきにより重要じゅうよう貢献こうけんは、通貨つうか価値かち金塊きんかいからはなし、物価ぶっか金融きんゆう市場いちば需給じゅきゅう名目めいもく金利きんり)に通貨つうか価値かち直接ちょくせつむすける管理かんり通貨つうか制度せいど有効ゆうこうせい論証ろんしょうしてせたてんにある。後者こうしゃ理論りろんてき価値かちについてはアメリカ議会ぎかい国際こくさい会議かいぎでは十分じゅうぶん理解りかいされず、ケインズの提唱ていしょうするバンコール採用さいようされず、戦後せんご国際こくさい通貨つうか体制たいせい金塊きんかいとの兌換だかん保証ほしょうされたドルを機軸きじくとし各国かっこく通貨つうかがそれにリンクするブレトンウッズ体制たいせい採用さいようされる。

はんケインジアン筆頭ひっとうとされるマネタリストミルトン・フリードマンは、ニューディール政策せいさく直接ちょくせつ雇用こよう創出そうしゅつおこなったことは緊急きんきゅう対応たいおうとして評価ひょうかするものの、物価ぶっか賃金ちんぎん固定こていしたことは適切てきせつではなかったとしている[69]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ くつみがきの少年しょうねん名前なまえはパット・ボローニャという。このエピソードはバブルの本質ほんしつあらわしているが、事実じじつ関係かんけいあきらかでない。ジョセフがいつどこでべたかも不明ふめいである。株価かぶか暴落ぼうらくには仕掛しかじんがおりジョセフが関係かんけいしゃであるというせつ根強ねづよい。息子むすこであり大統領だいとうりょうであるJFKつまジャクリーヌの実家じっかブビエだい恐慌きょうこうまえけた証券しょうけん取引とりひきじんであり、これがこの疑惑ぎわく強化きょうかしている。のちにジョセフが初代しょだい証券しょうけん取引とりひき委員いいんかい (SEC) 委員いいんちょうとなって辣腕らつわん証券しょうけん業界ぎょうかいまり、政界せいかい進出しんしゅつたしたこともうたがいをふかめている。なお、ケネディとなら当時とうじ投機とうきとしてジェシー・リバモアられている。
  2. ^ これは5にちまえつづ記録きろく更新こうしんであり、以後いご1969ねんまでやぶられなかった。
  3. ^ ダウ平均へいきんで12%
  4. ^ これは当時とうじアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく連邦れんぽう政府せいふ年間ねんかん予算よさんの10ばい相当そうとうし、アメリカがだいいち世界せかい大戦たいせんついやしたそう戦費せんぴをもはるかに上回うわまわった。
  5. ^ パリ連合れんごう銀行ぎんこうとも。1906-1910ねんあいだしん銀行ぎんこう合併がっぺいした北方ほっぽう銀行ぎんこう資本しほん参加さんかしていた。戦後せんご、ロスチャイルドと原子力げんしりょく企業きぎょうCOFINATOME を支配しはいした。1970年代ねんだいスエズ金融きんゆう商工しょうこう信用しんよう銀行ぎんこうフランス語ふらんすごばん英語えいごばん支配しはいするわりに、パリバ自身じしん傘下さんかとなったばかりのクレディ・デュ・ノルフランス語ふらんすごばん英語えいごばんへユニオン・パリジェンヌを吸収きゅうしゅうした。クレディ・デュ・ノルは元々もともとソシエテ・ジェネラル支配しはいしていた。1997ねんからふたたびソシエテ・ジェネラルが支配しはいしている。
  6. ^ ウォルムズ銀行ぎんこう英名えいめいフランス語ふらんすごではヴォルム銀行ぎんこうだい世界せかい大戦たいせんなかヴィシー政権せいけん癒着ゆちゃくした。戦後せんごミッテランるまで国有こくゆうされなかった。
  7. ^ 同名どうめい父親ちちおや (1844-1907) は、オスマン銀行ぎんこう監査かんさ(1874-1877) とソシエテ・ジェネラル重役じゅうやく (1880-1890) をつとめた。
  8. ^ 名前なまえがSOFFOとSociete Financiere pour les Pays d'Outre-mer (SFOM)スイス銀行ぎんこうのシンジケートで、15のアフリカけい銀行ぎんこう傘下さんかおさめた。SFOM には、ランベールコメルツ銀行ぎんこうバンカメなどが参加さんかしている。ランベールの参加さんか事実じじつ出典しゅってんせる。[24]
  9. ^ ブロック経済けいざい自前じまえ植民しょくみん経済けいざいけん保持ほじしていた大国たいこくった対応たいおうさくひとつ。帝国ていこく主義しゅぎろんによれば「植民しょくみん獲得かくとく競争きょうそうおくれをっていたドイツ・イタリア・日本にっぽん対外たいがい拡張かくちょう主義しゅぎ暴発ぼうはつ要因よういんとなる」と説明せつめいされナチスの生存せいぞんけん理論りろんいにされるが、時間じかんじくじょうでは枢軸すうじくこく海外かいがい進出しんしゅつ政策せいさくとブロック経済けいざいかならずしも因果いんが関係かんけい前後ぜんご関係かんけいにない。
  10. ^ 当時とうじだい経済けいざい学者がくしゃアーヴィング・フィッシャーエール大学だいがく教授きょうじゅ所論しょろんでもあった
  11. ^ 金本位きんほんいせいによる通貨つうか現在げんざい価値かちやく40ちょう5せんおくえん
  12. ^ 家畜かちく農産物のうさんぶつ工業こうぎょう製品せいひんなどで、ドイツはやく450おくきんマルクと算定さんていしていた。
  13. ^ きむ解禁かいきん1930ねん1がつから1931ねん12月10にちまで。当時とうじきん価格かかくは1トロイオンス$20.67、4.25スターリングポンドであった。戦後せんごニクソンショックまで1トロイオンスあたり$35の固定こてい相場そうばである。いま1トロイオンス地金じがねやく8まんえんなので、$1おく現在げんざいきん価値かちやく4000おくえん相当そうとうかんがえられる(2008ねん10がつ現在げんざい)。ただし、当時とうじ経済けいざい規模きぼかんがえると10ばい以上いじょうのインパクトがあったとおもわれる。

出典しゅってん

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    記事きじのメインページ
    CZAR'S KIN DEMAND $6,000,000 HELD HERE; Counsel for Dowager and 32 Others Prepares Legal Action Against Banks.OTHER MILLIONS SOUGHTSome Contend $100,000,000 inThis Country Belongs toRussian Ruler's Heirs.
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  64. ^ OECD『Monitoring The World Economy 1820 - 1992』1995ねん8がつ17にち
  65. ^ 倉田くらた有佳ゆかトランスボーダーのひとりゅう: 1930年代ねんだい初頭しょとうロシア極東きょくとうから北海道ほっかいどう避難ひなん脱出だっしゅつした事件じけん中心ちゅうしん」(PDF)『「スラブ・ユーラシアがく構築こうちく研究けんきゅう報告ほうこくしゅうだい17ごう北海道大学ほっかいどうだいがくスラブ研究けんきゅうセンター、2006ねん9がつ、67-80ぺーじNAID 40015138030 
  66. ^ アンドリュー・ボイルちょ裏切うらぎりのぶし」 Climate of Treason
  67. ^ 直接ちょくせつ引用いんようは「現代げんだい経済けいざいがく全集ぜんしゅうだい28かん金本位きんほんいせい世界せかい恐慌きょうこう 高垣たかがき虎次郎とらじろう日本にっぽん評論ひょうろんしゃ 昭和しょうわ7ねん10がつ25にち発行はっこう
  68. ^ 有斐閣ゆうひかく経済けいざい辞典じてん』p.414
  69. ^ The Boston Globe "Nobel laureate economist Milton Friedman dies at 94" 2006-11-16

参考さんこう文献ぶんけん

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日本語にほんご文献ぶんけん五十音ごじゅうおんじゅん

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単行本たんこうぼん

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  • 秋元あきもと英一ひでかず世界せかいだい恐慌きょうこう - 1929ねんなにがおこったか』講談社こうだんしゃ講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ〉、2009ねん 
  • ポール・アードマンしる 竹内たけうちひろし監訳かんやく『ポール・アードマンのマネーだい予言よげん東洋経済新報社とうようけいざいしんぽうしゃ、1984ねん
  • F・L・アレンしる 藤久ふじきゅうミネやく『オンリーイエスタディ--1920年代ねんだい・アメリカ』(原著げんちょ1931ねん)ちくま文庫ぶんこ、1993ねん。(ハーパーズ編集へんしゅうしゃ実地じっちルポと分析ぶんせき米国べいこくでの古典こてん
  • 石ノ森いしのもり章太郎しょうたろう日本にっぽん経済けいざい入門にゅうもん日本経済新聞社にほんけいざいしんぶんしゃ、1986ねん。(だい恐慌きょうこうについてはうえ掲『アメリカのんだ』からの引用いんようがあり、昭和しょうわ恐慌きょうこうについては中村本なかむらほんから引用いんようしている。)
  • ジョン・ケネス・ガルブレイスしる 鈴木すずき哲太郎てつたろうやく『バブルの物語ものがたりダイヤモンド社だいやもんどしゃ、1991ねん。(世界せかい最古さいこのバブルといわれるオランダの「チューリップ投機とうき」や英国えいこくだい事件じけん南海なんかい泡沫うたかた (southsea bubble) 会社かいしゃ事件じけん」の記述きじゅつがある。)
  • J・K・ガルブレイスちょ 村井むらい章子あきこやくだい暴落ぼうらく1929』(原著げんちょ1954ねん日経にっけいBP、1997年初ねんしょやく、2008ねん新訳しんやく
  • ジョン・ケネス・ガルブレイスちょ 村井むらい章子あきこやくだい暴落ぼうらく 1929』日経にっけいBPしゃ 2008ねん
  • ティモシー・S・グリーンちょ 氷川ひかわ秀男ひでお 石川いしかわ博文ひろぶみやくかね世界せかい金融きんゆう財政ざいせい事情じじょう研究けんきゅうかい、1968ねん
  • D.A.シャノンちょ玉野井たまのい芳郎よしお清水しみず知久ともひさやくだい恐慌きょうこう―1929ねん記録きろく」(中公新書ちゅうこうしんしょ 23)- 1963/10
  • エドワード・チャンセラーちょ 山岡やまおか洋一よういちやく『バブルの歴史れきし日経にっけいBP、2000ねん
  • ゴードン・トマス、マックス・モーガン=ウィッツちょ 常盤ひたち新平しんぺい監訳かんやく『アメリカのんだ』(改題かいだいウォうぉル街るがい崩壊ほうかい』)講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ、1979ねん。(英国えいこくじん記者きしゃチームによる歴史れきし検証けんしょうシリーズのいちさつ中心ちゅうしん人物じんぶつ世界せかい最大さいだい銀行ぎんこうだったバンクオブアメリカ創始そうししゃA・P・ジャンニーニ (en:Amadeo Giannini) など。)
  • 高橋たかはし亀吉かめきち 森垣もりがいよし昭和しょうわ金融きんゆう恐慌きょうこう講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ、1993ねん。(原本げんぽん清明せいめいかい出版しゅっぱん、1968ねん発行はっこう。)
  • ピーター・テミンちょ 猪木いのき武徳たけのり ばんさわあゆみ 山本やまもと貴之たかゆきやくだい恐慌きょうこう教訓きょうくん東洋経済新報社とうようけいざいしんぽうしゃ、1994ねん。(米国べいこくだい恐慌きょうこう原因げんいん株価かぶか暴落ぼうらくではないなど多角たかくてき検証けんしょうした。)
  • 中野なかの常男つねお; 清水しみず泰洋やすひろ へん近代きんだい会計かいけい入門にゅうもん』(だい2はん同文どうぶんだて出版しゅっぱん、2019ねん 
  • 中村なかむら政則まさのり昭和しょうわ恐慌きょうこう小学館しょうがくかん、1982ねん。(昭和しょうわ恐慌きょうこう多角たかくてき分析ぶんせき。)
  • 関岡せきおか正弘まさひろ『「1929ねんだい恐慌きょうこう」のなぞ』(PHP研究所けんきゅうじょ (2009/1/31) ダイヤモンド社だいやもんどしゃから1989ねん刊行かんこうされたものを再版さいはん
  • ミルトン・フリードマン アンナ・シュウォーツちょ米国べいこく金融きんゆう 7しょう だい収縮しゅうしゅく1929~1933」
  • C.P.キンドルバーガーしる 石崎いしざき明彦あきひこ木村きむら一朗いちろうわけだい不況ふきょう世界せかい 1929-1939」東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい発行はっこう 1982ねん
  • 奥西おくにしたかしいたり・鴋澤堀田ほった隆司たかし山本やまもとせんうつ西洋せいよう経済けいざい有斐閣ゆうひかく 2010ねん
  • しゅくさこ得夫とくお「1920年代ねんだいのアメリカ経済けいざい構造こうぞう変化へんかだい恐慌きょうこう」『経済けいざい研究けんきゅう 57ごういちきょう経済けいざい研究所けんきゅうじょ 2006ねん7がつ
  • ロンド・キャメロン、ラリー・ニールちょ 速水はやみとおるやく概説がいせつ世界せかい経済けいざい工業こうぎょう展開てんかいから現代げんだいまで』東洋経済新報社とうようけいざいしんぽうしゃ 2013ねん
  • 安保あぼ哲夫てつおせんあいだアメリカの対外たいがい投資とうし東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい 1984ねん

論文ろんぶん記事きじ

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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