「公益 こうえき は私益 しえき に優先 ゆうせん する」(Gemeinnutz vor Eigennutz)の言葉 ことば がきざまれた1ライヒスマルク 貨幣 かへい (1937年 ねん 発行 はっこう )
ナチス・ドイツの経済 けいざい (ナチス・ドイツのけいざい)では、1933年 ねん から1945年 ねん までのドイツ 、いわゆるナチス・ドイツ 時代 じだい のドイツ経済 けいざい について記述 きじゅつ する。
ヴァイマル共和 きょうわ 政 せい 時代 じだい のドイツ経済 けいざい は、一時 いちじ 好調 こうちょう であったものの1929年 ねん の世界 せかい 恐慌 きょうこう と1931年 ねん の金融 きんゆう 恐慌 きょうこう によって壊滅 かいめつ 的 てき な状況 じょうきょう に陥 おちい った。失業 しつぎょう 率 りつ は40%に達 たっ し、社会 しゃかい 情勢 じょうせい も不安定 ふあんてい となった。この情勢 じょうせい 下 か で政権 せいけん を握 にぎ ったのがアドルフ・ヒトラー 率 ひき いる国家 こっか 社会 しゃかい 主義 しゅぎ ドイツ労働 ろうどう 者 しゃ 党 とう (ナチ党 とう )であった。ヒトラー政権 せいけん は前 ぜん 政権 せいけん からの雇用 こよう 増加 ぞうか 政策 せいさく と、経済 けいざい 相 しょう 兼 けん ライヒスバンク(ドイツ中央 ちゅうおう 銀行 ぎんこう ) 総裁 そうさい ヒャルマル・シャハト の指導 しどう による新規 しんき の計画 けいかく 等 とう によって失業 しつぎょう を改善 かいぜん し、1937年 ねん にはほぼ完全 かんぜん 雇用 こよう を達成 たっせい した。恐慌 きょうこう からの回復 かいふく に関 かん しては、同 どう 時期 じき にアメリカで行 おこな われたニューディール政策 せいさく よりも効率 こうりつ 的 てき であったという仮説 かせつ も近年 きんねん 有力 ゆうりょく になってきているが、ドイツの回復 かいふく は賃金 ちんぎん の増大 ぞうだい や民間 みんかん 消費 しょうひ 拡大 かくだい をともなわなかった。しかもドイツ経済 けいざい の足 あし かせであった外貨 がいか 不足 ふそく や、輸入 ゆにゅう 困難 こんなん による資源 しげん 不足 ふそく は解決 かいけつ されず、軍備 ぐんび 拡大 かくだい のために膨大 ぼうだい な国家 こっか 債務 さいむ も抱 かか えることになった。1936年 ねん からは自給自足 じきゅうじそく 経済 けいざい の成立 せいりつ を唱 とな えた第 だい 二 に 次 じ 四 よん カ年 かねん 計画 けいかく を開始 かいし するが、資源 しげん 難 なん と労働 ろうどう 力 りょく 不足 ふそく は改善 かいぜん されなかった。1938年 ねん には軍備 ぐんび 生産 せいさん を3倍 ばい にするという計画 けいかく が立 た てられたが、実務 じつむ において一貫 いっかん 性 せい はなく、財政 ざいせい 危機 きき で破綻 はたん した。こうして軍拡 ぐんかく も不完全 ふかんぜん なまま第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の開始 かいし を迎 むか えた。
戦争 せんそう が始 はじ まると戦争 せんそう 経済 けいざい 体制 たいせい に移行 いこう し、1940年 ねん に創設 そうせつ された軍需 ぐんじゅ 省 しょう [注釈 ちゅうしゃく 1] が指導 しどう する体制 たいせい になった。またポーランド人 じん やユダヤ人 じん の強制 きょうせい 労働 ろうどう による占領 せんりょう 地 ち からの搾取 さくしゅ も始 はじ まった。1942年 ねん にアルベルト・シュペーア が軍需 ぐんじゅ 大臣 だいじん となると、ドイツの軍需 ぐんじゅ 生産 せいさん は拡大 かくだい されて総 そう 力戦 りきせん 体制 たいせい の構築 こうちく が進 すす んだ。しかし戦局 せんきょく の悪化 あっか とともにドイツ経済 けいざい は悪化 あっか の一途 いっと をたどり、敗戦 はいせん を迎 むか えた。
経済 けいざい におけるナチズム のイデオロギーは不鮮明 ふせんめい である。結党 けっとう 時 じ からのメンバーで25カ条 かじょう 綱領 こうりょう の策定 さくてい にも携 たずさ わり、党 とう の経済 けいざい 委員 いいん 会 かい の座長 ざちょう を務 つと めていたゴットフリート・フェーダー は利子 りし 奴隷 どれい 制 せい の打破 だは や企業 きぎょう の国有 こくゆう 化 か 、国際 こくさい 金融 きんゆう 資本 しほん との戦 たたか いを持論 じろん としていた。ヒトラー自身 じしん も『我 わ が闘争 とうそう 』においてフェーダーの主張 しゅちょう を一部 いちぶ 取 と り入 い れているが、同時 どうじ に「国家 こっか は民族 みんぞく 的 てき な組織 そしき であって経済 けいざい 組織 そしき ではない」「国家 こっか は特定 とくてい の経済 けいざい 観 かん または経済 けいざい 政策 せいさく とは全 まった く無関係 むかんけい である」とも述 の べており、統一 とういつ 的 てき なナチス経済 けいざい 政策 せいさく というものは存在 そんざい しなかった。
一方 いっぽう で経済 けいざい 政策 せいさく について熱心 ねっしん であったのはグレゴール・シュトラッサー を中心 ちゅうしん とするナチス左派 さは と呼 よ ばれる社会 しゃかい 主義 しゅぎ 的 てき 改革 かいかく を求 もと める派閥 はばつ であった。しかしヒトラーが政権 せいけん 獲得 かくとく のために保守 ほしゅ 派 は や財界 ざいかい に接近 せっきん すると、左派 さは は猛 もう 反発 はんぱつ した。ヒトラーは1926年 ねん のバンベルク会議 かいぎ で左派 さは を押 お さえこんだが、その後 ご も一定 いってい の勢力 せいりょく は保持 ほじ していた。1932年 ねん 7月 がつ にナチ党 とう が公表 こうひょう した経済 けいざい 振興 しんこう 策 さく はシュトラッサーが起草 きそう したものであった。この振興 しんこう 策 さく には道路 どうろ 網 もう 計画 けいかく などの一部 いちぶ は後 ご のナチス時代 じだい において実行 じっこう されるが、この計画 けいかく の実質 じっしつ 的 てき な発案 はつあん 者 しゃ はユダヤ人 じん のロベルト・フリートレンダー=プレヒトル (ドイツ語 ご 版 ばん ) であった。また5月 がつ にはフェーダーの持論 じろん に基 もと づく、全 ぜん 銀行 ぎんこう ・信用 しんよう 供給 きょうきゅう 機関 きかん の国有 こくゆう 化 か を提案 ていあん している。政権 せいけん 獲得 かくとく 後 ご にはこれらの計画 けいかく は白紙 はくし に戻 もど され、フェーダーや左派 さは の思想 しそう がそのまま実行 じっこう されることはなかった。
ヒトラーは1933年 ねん 2月 がつ 8日 にち の閣議 かくぎ において、「あらゆる公的 こうてき な雇用 こよう 創出 そうしゅつ 措置 そち 助成 じょせい は、ドイツ民族 みんぞく の再 さい 武装 ぶそう 化 か にとって必要 ひつよう か否 ひ かという観点 かんてん から判断 はんだん されるべきであり、この考 かんが えが、いつでもどこでも、中心 ちゅうしん にされねばならない」「すべてを国防 こくぼう 軍 ぐん へということが、今後 こんご 4~5年間 ねんかん の至上 しじょう 原則 げんそく であるべきだ」と言明 げんめい するなど、ヒトラー内閣 ないかく 時代 じだい の経済 けいざい 政策 せいさく はすべて軍備 ぐんび 増強 ぞうきょう を念頭 ねんとう に置 お かれたものであった。
経済 けいざい 政策 せいさく の基本 きほん には、民族 みんぞく 共同 きょうどう 体 たい の構築 こうちく 、東方 とうほう への侵略 しんりゃく と植民 しょくみん による生存 せいぞん 圏 けん (レーベンスラウム)の拡大 かくだい 、そのための軍拡 ぐんかく があった。個別 こべつ 政策 せいさく では、経済 けいざい 団体 だんたい 統制 とうせい に用 もち いられた指導 しどう 者 しゃ 原理 げんり 、農業 のうぎょう 政策 せいさく における独立 どくりつ 小 しょう 農民 のうみん 保護 ほご 政策 せいさく 、労働 ろうどう 環境 かんきょう からの女性 じょせい 排除 はいじょ 、そして経済 けいざい の脱 だつ ユダヤ化 か などはナチズムの思想 しそう に基 もと づくものであった。
政権 せいけん 獲得 かくとく から第 だい 二 に 次 じ 大戦 たいせん まで[ 編集 へんしゅう ]
ヴァイマル共和 きょうわ 政 せい 時代 じだい のハイパーインフレーション
第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご のヴェルサイユ条約 じょうやく によって莫大 ばくだい な賠償金 ばいしょうきん を負 お わされたドイツは経済 けいざい 的 てき にとっても不安定 ふあんてい であった。フランス のルール占領 せんりょう に対 たい する抵抗 ていこう が引 ひ き起 お こしたインフレーション は天文学 てんもんがく 的 てき な規模 きぼ におよんだが、ライヒスマルク (以下 いか 、マルク と表記 ひょうき )の新規 しんき 発行 はっこう で終息 しゅうそく した。その後 ご は黄金 おうごん の20年代 ねんだい (ドイツ語 ご 版 ばん ) と呼 よ ばれる好景気 こうけいき 期 き を実現 じつげん したが、1928年 ねん 頃 ごろ から次第 しだい に景気 けいき は後退 こうたい し、1928年 ねん 半 なか ば頃 ごろ には159万 まん 人 にん だった失業 しつぎょう 者 しゃ が、1929年 ねん 半 なか ば頃 ごろ までに20万 まん 人 にん 増加 ぞうか した。1929年 ねん 10月 がつ に世界 せかい 恐慌 きょうこう が始 はじ まると、アメリカをはじめとする外資 がいし によって支 ささ えられていたドイツ経済 けいざい はたちまち破綻 はたん した。国内 こくない の需要 じゅよう は極端 きょくたん に減少 げんしょう し、財 ざい ・サービスの輸出入 ゆしゅつにゅう は落 お ち込 こ んだ。産業 さんぎょう 構造 こうぞう は第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 期 き からの重工業 じゅうこうぎょう ・化学 かがく 製品 せいひん 重視 じゅうし 政策 せいさく が継続 けいぞく されていた。
1930年 ねん に首相 しゅしょう となったハインリヒ・ブリューニング 首相 しゅしょう は金融 きんゆう 安定 あんてい 化 か 策 さく で不 ふ 況 きょう に対応 たいおう しようとした。景気 けいき 悪化 あっか 状 じょう 況 きょう での経済 けいざい 対策 たいさく には財源 ざいげん が必要 ひつよう であり、増税 ぞうぜい が不可避 ふかひ であった。しかし増税 ぞうぜい 策 さく は議会 ぎかい の反対 はんたい で否決 ひけつ され、ブリューニングは大統領 だいとうりょう 緊急 きんきゅう 令 れい や複数 ふくすう 化 か の選挙 せんきょ による強行 きょうこう 突破 とっぱ で予算 よさん や金融 きんゆう 政令 せいれい を成立 せいりつ させた。ブリューニングが選択 せんたく した政策 せいさく は税収 ぜいしゅう 増加 ぞうか ・福祉 ふくし 予算 よさん 等 とう の政府 せいふ 支出 ししゅつ の削減 さくげん ・物価 ぶっか の抑制 よくせい を主眼 しゅがん としたデフレ政策 せいさく であり、彼 かれ は「飢餓 きが の首相 しゅしょう 」と国内 こくない から批判 ひはん を受 う けた。一方 いっぽう でハインリヒ・ブラウンス (ドイツ語 ご 版 ばん ) 前 ぜん 労相 ろうしょう の指揮 しき の元 もと 、外国 がいこく 融資 ゆうし を資金 しきん として大 だい 規模 きぼ な公共 こうきょう 事業 じぎょう 計画 けいかく を立案 りつあん した。
1931年 ねん 3月 がつ 23日 にち にはオーストリア との関税 かんぜい 同盟 どうめい (独 どく 墺 おう 関税 かんぜい 同盟 どうめい )を結 むす んだ。しかしこれはヴェルサイユ条約 じょうやく の「ドイツ・オーストリア合邦 がっぽう 禁止 きんし 」規定 きてい に抵触 ていしょく するとして連合 れんごう 国 こく 諸国 しょこく から強 つよ い反発 はんぱつ を受 う け、フランスは制裁 せいさい としてオーストリアの資本 しほん を引 ひ き揚 あ げた。これを受 う けてオーストリア最大 さいだい の銀行 ぎんこう クレジット・アンシュタルト (ドイツ語 ご 版 ばん ) が破綻 はたん し、ヨーロッパの金融 きんゆう 危機 きき を招 まね いた。1931年 ねん 7月 がつ にはドイツ第 だい 2位 い の大 だい 銀行 ぎんこう ダナート銀行 ぎんこう (ドイツ語 ご 版 ばん ) が支払 しはら い停止 ていし で閉鎖 へいさ され、大統領 だいとうりょう 令 れい で8月 がつ までドイツ全土 ぜんど の銀行 ぎんこう が閉鎖 へいさ されたものの金融 きんゆう 危機 きき は収 おさ まらず、不 ふ 況 きょう はさらに悪化 あっか した。外資 がいし もあてに出来 でき ない状況 じょうきょう となり、インフレの再来 さいらい を恐 おそ れる世論 せろん やライヒスバンクが大 だい 規模 きぼ な財政 ざいせい 出動 しゅつどう に反対 はんたい したため、公共 こうきょう 事業 じぎょう 計画 けいかく は縮小 しゅくしょう された上 うえ に実施 じっし されなかった。1932年 ねん 2月 がつ には登録 とうろく 失業 しつぎょう 者 しゃ が600万 まん 人 にん 、非 ひ 登録 とうろく 失業 しつぎょう 者 しゃ を加 くわ えた推計 すいけい が778万 まん 人 にん に達 たっ してピークを迎 むか えた。産業 さんぎょう 総 そう 失業 しつぎょう 者 しゃ 割合 わりあい は40%を超 こ え、同 どう 時期 じき のイギリスやアメリカの2倍 ばい 近 ちか くに達 たっ している。金 きむ ・外貨 がいか 準備 じゅんび も減少 げんしょう が止 と まらず、すべての金 かね ・外貨 がいか 管理 かんり をライヒスバンクが監督 かんとく するよう制限 せいげん を行 おこな ったが、1932年 ねん 2月 がつ には10億 おく マルクを割 わ り込 こ んでいる。
5月にはブリューニングが失脚 しっきゃく し、フランツ・フォン・パーペン 内閣 ないかく が成立 せいりつ した。パーペン政権 せいけん では租税 そぜい 証券 しょうけん による実質 じっしつ 的 てき な企業 きぎょう 減税 げんぜい 策 さく が策定 さくてい され、新規 しんき 雇用 こよう を行 おこな った企業 きぎょう には一人 ひとり につき年 とし 400マルクの租税 そぜい 証券 しょうけん を公布 こうふ することで雇用 こよう を増大 ぞうだい させようとした。またブリューニング内 ない 閣 かく 時代 じだい の公共 こうきょう 事業 じぎょう 計画 けいかく を拡大 かくだい し、総額 そうがく 3億 おく マルクに及 およ ぶ公共 こうきょう 事業 じぎょう 計画 けいかく (パーペン計画 けいかく )を開始 かいし した。また同年 どうねん 12月 がつ 3日 にち に首相 しゅしょう となったシュライヒャー も雇用 こよう 創出 そうしゅつ 国家 こっか 弁務 べんむ 官 かん にギュンター・ゲーレケ (ドイツ語 ご 版 ばん ) を任 にん じ、雇用 こよう 創出 そうしゅつ 委員 いいん 会 かい を発足 ほっそく させた。この委員 いいん 会 かい は総額 そうがく 5億 おく マルクにおよぶ雇用 こよう 創出 そうしゅつ 公共 こうきょう 事業 じぎょう 、緊急 きんきゅう 計画 けいかく を決定 けってい し、ライヒスバンクによる部分 ぶぶん 的 てき な同意 どうい も行 おこな われたが、翌 よく 1933年 ねん 1月 がつ にシュライヒャー内 ない 閣 かく が倒 たお れたため実行 じっこう されなかった。この両 りょう 内閣 ないかく はブリューニング内 ない 閣 かく のデフレ政策 せいさく を転換 てんかん し、景気 けいき も反転 はんてん ないし底入 そこい れした。
政局 せいきょく はきわめて不安定 ふあんてい であり、ドイツ共産党 きょうさんとう と国家 こっか 社会 しゃかい 主義 しゅぎ ドイツ労働 ろうどう 者 しゃ 党 とう (ナチ党 とう ) は勢力 せいりょく を拡張 かくちょう した。特 とく に企業 きぎょう 経営 けいえい 者 しゃ などには右派 うは が多 おお く、共産党 きょうさんとう に対抗 たいこう するためナチスに対 たい する資金 しきん 援助 えんじょ を行 おこな った。1932年 ねん 11月19日 にち にライヒスバンク元 もと 総裁 そうさい ヒャルマル・シャハト 、合同 ごうどう 製鋼 せいこう 社長 しゃちょう フリッツ・ティッセン 、ヴィルヘルム・クーノ 元 もと 首相 しゅしょう らケップラー・グループ (ドイツ語 ご 版 ばん ) の政財界 せいざいかい 人 じん が連名 れんめい でヒトラーを首相 しゅしょう にするよう請願 せいがん 書 しょ (ドイツ語 ご 版 ばん ) を送 おく っている[注釈 ちゅうしゃく 2] 。
1933年 ねん 1月 がつ 30日 にち にはヒトラー内閣 ないかく が成立 せいりつ した。経済 けいざい 対策 たいさく に当 あ たる経済 けいざい 相 しょう ・農業 のうぎょう 食糧 しょくりょう 相 しょう にはナチ党 とう と連立 れんりつ を組 く んだドイツ国家 こっか 人民 じんみん 党 とう のアルフレート・フーゲンベルク が就任 しゅうにん した。ライヒスバンク総裁 そうさい ハンス・ルター 、ルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージク 財務 ざいむ 相 しょう はパーペン内 ない 閣 かく 、シュライヒャー内 ない 閣 かく と続 つづ けて留任 りゅうにん した。
経済 けいざい 分野 ぶんや の強制 きょうせい 的 てき 同一 どういつ 化 か [ 編集 へんしゅう ]
政権 せいけん 獲得 かくとく 後 ご の1933年 ねん 2月 がつ 1日 にち にヒトラーは国民 こくみん へのラジオ放送 ほうそう で「二 ふた つの偉大 いだい な四 よん カ年 かねん 計画 けいかく 」として第 だい 一 いち 次 じ 四 よん カ年 かねん 計画 けいかく の開始 かいし を発表 はっぴょう し、失業 しつぎょう 者 しゃ の削減 さくげん と自動車 じどうしゃ 産業 さんぎょう の拡大 かくだい を訴 うった えた。しかし、その後 ご にナチ党 とう は国会 こっかい 議事堂 ぎじどう 放火 ほうか 事件 じけん (2月 がつ 27日 にち )後 ご の二 ふた つの大統領 だいとうりょう 緊急 きんきゅう 令 れい 、全権 ぜんけん 委任 いにん 法 ほう によってきわめて強力 きょうりょく な独裁 どくさい 権力 けんりょく を確立 かくりつ した(ナチ党 とう の権力 けんりょく 掌握 しょうあく )。ナチ党 とう がまず行 い った経済 けいざい 政策 せいさく は、ナチ党 とう の思想 しそう に基 もと づくよう政治 せいじ ・経済 けいざい ・産業 さんぎょう 界 かい を再 さい 構成 こうせい する強制 きょうせい 的 てき 同一 どういつ 化 か であった。失業 しつぎょう 対策 たいさく は前 ぜん 政権 せいけん のパーペン計画 けいかく ・緊急 きんきゅう 計画 けいかく を踏襲 とうしゅう するのみで、労働 ろうどう 政策 せいさく のとりまとめが開始 かいし されたのは5月1日 にち になってからだった。3月にはライヒスバンク総裁 そうさい ルターがナチ党 とう と対立 たいりつ して更迭 こうてつ され、ナチ党 とう の支持 しじ 者 しゃ であったシャハトが再任 さいにん された。シャハトは8月 がつ からは経済 けいざい 相 しょう も兼 か ね、1935年 ねん 5月 がつ 21日 にち には戦争 せんそう 経済 けいざい 全権 ぜんけん にも就任 しゅうにん 、この後 のち の経済 けいざい 政策 せいさく を主導 しゅどう することになる。
5月2日 にち にはすべての労働 ろうどう 組合 くみあい は解散 かいさん され、ロベルト・ライ が率 ひき いるドイツ労働 ろうどう 戦線 せんせん に一本 いっぽん 化 か された。これにより労使 ろうし 関係 かんけい 調整 ちょうせい はナチ党 とう の手中 しゅちゅう に落 お ちた。7月15日 にち には強制 きょうせい カルテル法 ほう が施行 しこう され、新規 しんき 企業 きぎょう 設立 せつりつ の禁止 きんし 、同業 どうぎょう 企業 きぎょう によるカルテル 設立 せつりつ の強制 きょうせい と、国家 こっか による監視 かんし と規制 きせい が行 おこな われる体制 たいせい が始 はじ まった。9月13日 にち には帝国 ていこく 食糧 しょくりょう 団体 だんたい 暫定 ざんてい 設立 せつりつ 法 ほう によって分野 ぶんや 別 べつ の経済 けいざい 団体 だんたい が設立 せつりつ され、国 くに がその指導 しどう 者 しゃ を任命 にんめい することで経済 けいざい 活動 かつどう を統制 とうせい する仕組 しく みが定 さだ められた。指導 しどう 者 しゃ 制度 せいど はナチズム の基本 きほん 概念 がいねん である指導 しどう 者 しゃ 原理 げんり に基 もと づくものであり、経済 けいざい 団体 だんたい は国家 こっか の下部 かぶ 機構 きこう として動 うご くようになった。11月16日 にち には価格 かかく 停止 ていし 令 れい が布告 ふこく され、商品 しょうひん の価格 かかく と原価 げんか の管理 かんり を国 くに が行 おこな うこととになった。
1934年 ねん 2月 がつ には経済 けいざい 有機 ゆうき 的 てき 構成 こうせい 準備 じゅんび 法 ほう が施行 しこう され、企業 きぎょう は各 かく 分野 ぶんや の経済 けいざい 集団 しゅうだん (Wirtschaftsgruppe)もしくはライヒ工業 こうぎょう 集団 しゅうだん (ドイツ語 ご 版 ばん ) の地方 ちほう 組織 そしき に入 はい ることが義務 ぎむ づけられた。7月、シャハトは経済 けいざい 措置 そち 法 ほう によってから9月 がつ までの間 あいだ 、既存 きそん の法律 ほうりつ の枠 わく を超 こ える権限 けんげん を手 て に入 い れた。この権限 けんげん に基 もと づき8月 がつ 20日 はつか には商工 しょうこう 会議 かいぎ 所 しょ 令 れい が発 はっ せられ、商工 しょうこう 会議 かいぎ 所 しょ の権限 けんげん が拡大 かくだい された上 うえ で、経済 けいざい 大臣 だいじん が会頭 かいとう ・副 ふく 会頭 かいとう の任免 にんめん 権 けん を含 ふく む監督 かんとく 権 けん を持 も つこととなった。これによって商工 しょうこう 会議 かいぎ 所 しょ の主要 しゅよう 人事 じんじ の大半 たいはん はナチ党 とう 関連 かんれん の人物 じんぶつ が占 し めることとなり、全国 ぜんこく の中小 ちゅうしょう 企業 きぎょう もナチ党 とう 体制 たいせい に組 く み込 こ まれた。こうした企業 きぎょう 統制 とうせい 化 か の影響 えいきょう で、株式会社 かぶしきがいしゃ 数 すう は1933年 ねん の9148社 しゃ から1934年 ねん 8618社 しゃ 、1935年 ねん 7840社 しゃ 、1936年 ねん 7204社 しゃ と明確 めいかく に減少 げんしょう し、資本 しほん 集中 しゅうちゅう が顕著 けんちょ となった。
シャハト(左端 ひだりはし )とエミール・ポール (ドイツ語 ご 版 ばん ) らライヒスバンク首脳 しゅのう 。1934年 ねん
5月31日 にち にヒトラーは指導 しどう 的 てき 経済 けいざい 人 じん と会議 かいぎ を行 おこな い、この席 せき で道路 どうろ 網 もう 整備 せいび と住宅 じゅうたく 増加 ぞうか が雇用 こよう 増大 ぞうだい の出発 しゅっぱつ 点 てん であるとした。また大 だい 企業 きぎょう からの要請 ようせい に基 もと づき、租税 そぜい の5年間 ねんかん 据 す え置 お きと、社会 しゃかい 政策 せいさく 支出 ししゅつ 削減 さくげん によって予算 よさん を均整 きんせい 化 か する方針 ほうしん を固 かた めた。これ以降 いこう 6月 がつ 1日 にち には第 だい 一 いち 次 じ 失業 しつぎょう 減少 げんしょう 法 ほう (ラインハルト計画 けいかく )、9月21日 にち には第 だい 二 に 次 じ 失業 しつぎょう 減少 げんしょう 法 ほう (第 だい 二 に 次 じ ラインハルト計画 けいかく )、9月23日 にち からはアウトバーン の建設 けんせつ といった半 はん 奉仕 ほうし 活動 かつどう 的 てき な雇用 こよう による失業 しつぎょう 抑制 よくせい 策 さく がとられた。また結婚 けっこん 奨励 しょうれい 金 きん や家事 かじ 手伝 てつだ いの奨励 しょうれい により、女性 じょせい を労働 ろうどう から家庭 かてい に送 おく り込 こ むことを奨励 しょうれい したが、生活 せいかつ 消費 しょうひ を増加 ぞうか させる効果 こうか もあった。これらの政策 せいさく によって登録 とうろく 労働 ろうどう 者 しゃ は1933年 ねん のうちに200万 まん 人 にん 減少 げんしょう したが、奉仕 ほうし 活動 かつどう 的 てき な雇用 こよう や統計 とうけい 操作 そうさ を含 ふく むものであり、再 さい 軍備 ぐんび や軍需 ぐんじゅ 拡大 かくだい による雇用 こよう 創出 そうしゅつ が行 おこな われるまでの時間 じかん 稼 かせ ぎ的 てき な性質 せいしつ のものであった。一方 いっぽう で企業 きぎょう に対 たい して租税 そぜい 減免 げんめん 措置 そち がとられ、自動車 じどうしゃ 産業 さんぎょう に対 たい する保護 ほご 育成 いくせい 策 さく もとられた。また低調 ていちょう であった民間 みんかん 投資 とうし を集中 しゅうちゅう するため、重点的 じゅうてんてき 事業 じぎょう でない繊維 せんい ・紙 し パルプ・ラジオ・自動車 じどうしゃ 部品 ぶひん 製造 せいぞう などの分野 ぶんや には投資 とうし 禁止 きんし 措置 そち がとられた。
1934年 ねん 3月 がつ をピークとして雇用 こよう 創出 そうしゅつ での雇用 こよう は減少 げんしょう しはじめ、1935年 ねん には20万 まん 人 にん 程度 ていど まで低下 ていか した。この間 あいだ に生産 せいさん 財 ざい 製造 せいぞう 業 ぎょう や建築 けんちく 業 ぎょう 、自動車 じどうしゃ 産業 さんぎょう での雇用 こよう が進 すす んだ。また1935年 ねん 3月 がつ 16日 にち には正式 せいしき に再 さい 軍備 ぐんび が開始 かいし され(ドイツ再 さい 軍備 ぐんび 宣言 せんげん )、徴兵 ちょうへい 制 せい が再開 さいかい されたことで国防 こくぼう 軍 ぐん に86万 まん 人 にん が吸収 きゅうしゅう されたこともあって失業 しつぎょう 問題 もんだい は解決 かいけつ され、ほぼ完全 かんぜん 雇用 こよう が達成 たっせい された。
また大 だい 規模 きぼ な公共 こうきょう 投資 とうし は直接的 ちょくせつてき な雇用 こよう だけではなく、関連 かんれん 企業 きぎょう の投資 とうし を促 うなが して景気 けいき 回復 かいふく を促 うなが した。1936年 ねん には国民総生産 こくみんそうせいさん が1932年 ねん 比 ひ で50%増加 ぞうか し、1936年 ねん には国民 こくみん 所得 しょとく が42%、工 こう 商業 しょうぎょう 各 かく 指数 しすう 生産 せいさん 指数 しすう が88%、財 ざい ・サービスへの公共 こうきょう 支出 ししゅつ が130%、民間 みんかん 消費 しょうひ 指数 しすう が16%増加 ぞうか した。しかし各種 かくしゅ 政策 せいさく への出資 しゅっし にともない、1933年 ねん から1937年 ねん の期間 きかん で国家 こっか 債務 さいむ が110億 おく マルク増大 ぞうだい していた。産業 さんぎょう 面 めん では公共 こうきょう 事業 じぎょう に直結 ちょっけつ する生産 せいさん 財 ざい 製造 せいぞう 業 ぎょう や建築 けんちく 業 ぎょう の活況 かっきょう が景気 けいき を支 ささ えた。特 とく に自動車 じどうしゃ 産業 さんぎょう の成長 せいちょう が目立 めだ ち、1934年 ねん の生産 せいさん 額 がく は過去 かこ 最高 さいこう の1928年 ねん 比 ひ で148%、1935年 ねん には200%を超 こ えた。さらに雇用 こよう 数 すう は1934年 ねん には過去 かこ 最高 さいこう の1928年 ねん の水準 すいじゅん に達 たっ し、1935年 ねん にはこの水準 すいじゅん をも超過 ちょうか した。さらに石炭 せきたん ・冶金 やきん ・機械 きかい 工業 こうぎょう 企業 きぎょう では総 そう 利益 りえき が2倍 ばい になっている。この一方 いっぽう でヴァイマル時代 じだい からの外貨 がいか 不足 ふそく 状 じょう 況 きょう は変 か わっておらず、原材料 げんざいりょう である生糸 きいと や綿 めん の輸入 ゆにゅう が進 すす まなかったため、消費 しょうひ 財 ざい 分野 ぶんや の主力 しゅりょく である繊維 せんい 工業 こうぎょう は停滞 ていたい し、消費 しょうひ 財 ざい 分野 ぶんや 全体 ぜんたい の雇用 こよう 者 しゃ もほとんど増加 ぞうか しなかった。また、統制 とうせい による賃金 ちんぎん 抑制 よくせい は国内 こくない 消費 しょうひ 水準 すいじゅん 回復 かいふく の遅滞 ちたい を招 まね いた。また、同 どう 時期 じき には食糧 しょくりょう 相 しょう リヒャルト・ヴァルター・ダレ が推進 すいしん した血 ち と土 ど のイデオロギーに基 もと づく農本主義 のうほんしゅぎ 的 てき 農業 のうぎょう 政策 せいさく が行 おこな われたが、自立 じりつ 小 しょう 農民 のうみん を保護 ほご する政策 せいさく は経営 けいえい 合理 ごうり 化 か を妨 さまた げ、増産 ぞうさん につながらなかった。また農地 のうち の長子 ちょうし 単独 たんどく 相続 そうぞく を定 さだ めたために次男 じなん 以下 いか の離農 りのう が進 すす み、農業 のうぎょう 振興 しんこう とは逆行 ぎゃっこう する事態 じたい が発生 はっせい した。このことと天候 てんこう 不順 ふじゅん が重 かさ なり、食料 しょくりょう 輸入 ゆにゅう が1936年代 ねんだい の課題 かだい となる。
帝国 ていこく アウトバーン会社 かいしゃ の設立 せつりつ に関 かん する法律 ほうりつ によって、6月30日 にち にドイツ国営 こくえい 鉄道 てつどう の子会社 こがいしゃ である帝国 ていこく アウトバーン会社 かいしゃ (ドイツ語 ご 版 ばん ) が設立 せつりつ され、技術 ぎじゅつ 者 しゃ であったフリッツ・トート が「ドイツ道路 どうろ 総監 そうかん 」に任命 にんめい された。アウトバーン関連 かんれん には1935年 ねん 6月 がつ までに4億 おく マルクが投資 とうし され、最大 さいだい 12万 まん 人 にん の雇用 こよう が行 おこな われた。ただし、アウトバーン関連 かんれん 労働 ろうどう 者 しゃ の一部 いちぶ に対 たい しては少額 しょうがく の手当 てあて と衣食住 いしょくじゅう の支給 しきゅう が行 おこな われたのみであり、賃金 ちんぎん と呼 よ べるほどのものは受 う け取 と っていなかった。
自動車 じどうしゃ 税法 ぜいほう 改定 かいてい により、自動車 じどうしゃ ・オートバイの購入 こうにゅう には免税 めんぜい 措置 そち が行 おこな われた。また第 だい 一 いち 次 じ ラインハルト計画 けいかく では設備 せつび 投資 とうし に対 たい する各種 かくしゅ 税 ぜい の免除 めんじょ 、租税 そぜい 軽減 けいげん 法 ほう では工場 こうじょう 建物 たてもの 改修 かいしゅう 費用 ひよう の一 いち 割 わり が減免 げんめん された。第 だい 二 に 次 じ ラインハルト計画 けいかく では住宅 じゅうたく 建設 けんせつ 促進 そくしん のため、住宅 じゅうたく 補修 ほしゅう や改築 かいちく に資金 しきん 援助 えんじょ を行 おこな ったほか、借 か り入 い れを行 おこな った際 さい の利子 りし 肩代 かたが わりも行 おこな った。このため1934年 ねん の住宅 じゅうたく 建築 けんちく 数 すう は新築 しんちく の割合 わりあい が少 すく ないとはいえ、1929年 ねん の水準 すいじゅん に戻 もど っている。重工業 じゅうこうぎょう ・化学 かがく 分野 ぶんや の産業 さんぎょう 育成 いくせい も継続 けいぞく された。
ライヒスバンクの建物 たてもの (1903年 ねん )
財源 ざいげん は、ヒトラーが増税 ぞうぜい を否定 ひてい し、公債 こうさい 発行 はっこう も困難 こんなん であったため、割引 わりびき 手形 てがた という手段 しゅだん にたよるほかはなかった。雇用 こよう 創出 そうしゅつ に関 かん しては国 くに が支払 しはら いを保証 ほしょう する3ヶ月 かげつ の雇用 こよう 創出 そうしゅつ 手形 てがた が創出 そうしゅつ された。この手形 てがた は3ヶ月 かげつ 期限 きげん であったが、借 か り換 か えによって最大 さいだい 5年 ねん までの割 わ り引 び き期限 きげん 延長 えんちょう が可能 かのう であった。しかし雇用 こよう 創出 そうしゅつ 以外 いがい の公共 こうきょう 事業 じぎょう や軍需 ぐんじゅ 面 めん でも資金 しきん が必要 ひつよう であったが、公然 こうぜん たる多額 たがく の公債 こうさい 発行 はっこう は破滅 はめつ 的 てき なインフレを招 まね く危険 きけん 性 せい があり、シャハトは一種 いっしゅ の抜 ぬ け穴 あな を利用 りよう することにした。1933年 ねん 4月 がつ に政府 せいふ は軍 ぐん に対 たい する通常 つうじょう の予算 よさん 監督 かんとく の免除 めんじょ を決定 けってい し、6月 がつ に特別 とくべつ 財務局 ざいむきょく を設立 せつりつ して軍 ぐん への予算 よさん 外 がい 資金 しきん を管理 かんり することにした。1933年 ねん 5月 がつ 、国防省 こくぼうしょう とライヒスバンクは有限 ゆうげん 会社 かいしゃ 冶金 やきん 研究 けんきゅう 協会 きょうかい (ドイツ語 ご 版 ばん ) (Metallurgische Forschungsgesellschaft、略称 りゃくしょう MEFO)を設立 せつりつ した。同社 どうしゃ は国防省 こくぼうしょう とライヒスバンクによって手形 てがた 引受 ひきうけ 機関 きかん として作成 さくせい されたペーパーカンパニー であり、資本 しほん 金 きん はクルップ 、ティッセン (ドイツ語 ご 版 ばん ) 、シーメンス 、グーテホフヌングスヒュッテ (ドイツ語 ご 版 ばん ) 、ドイツ工業 こうぎょう 企業 きぎょう (ドイツ語 ご 版 ばん ) が20万 まん マルクずつ拠出 きょしゅつ している。公共 こうきょう 事業 じぎょう や軍需 ぐんじゅ の発注 はっちゅう を受 う けた会社 かいしゃ は有限 ゆうげん 会社 かいしゃ 冶金 やきん 研究 けんきゅう 協会 きょうかい に3ヶ月 かげつ 期限 きげん の手形 てがた (メフォ手形 てがた )を振 ふ り出 だ し、この手形 てがた をライヒスバンクが割 わ り引 び くことで支払 しはら いにあてた。この手形 てがた も雇用 こよう 創出 そうしゅつ 手形 てがた と同様 どうよう 支払 しはらい 期間 きかん は延長 えんちょう 可能 かのう であったが、割引 わりび き機関 きかん はライヒスバンクのみであった。また支払 しはらい 保証 ほしょう や予算 よさん に対 たい する償還 しょうかん 計上 けいじょう も行 おこな われなかった。
ナチス政府 せいふ にとって、金融 きんゆう 恐慌 きょうこう の再来 さいらい を防 ふせ ぐ金融 きんゆう システム構築 こうちく と、軍事 ぐんじ 費 ひ 捻出 ねんしゅつ の両方 りょうほう の政策 せいさく の鍵 かぎ が国内 こくない 預金 よきん 量 りょう の半分 はんぶん を占 し める全国 ぜんこく の貯蓄 ちょちく 銀行 ぎんこう であった。貯蓄 ちょちく 銀行 ぎんこう は1931年 ねん の改革 かいかく によって独立 どくりつ 公法人 こうほうじん となっており、政府 せいふ にとって利用 りよう しやすい存在 そんざい であった。政府 せいふ は国民 こくみん 貯蓄 ちょちく 会議 かいぎ を設立 せつりつ し、「貯蓄 ちょちく は労働 ろうどう とパンをもたらす。浪費 ろうひ は国家 こっか 建設 けんせつ のサボタージュ」と喧伝 けんでん した。また労働 ろうどう 戦線 せんせん 傘下 さんか の歓喜 かんき 力行 りっこう 団 だん による旅行 りょこう 貯蓄 ちょちく ・オリンピック貯蓄 ちょちく ・ヒトラーユーゲント貯蓄 ちょちく など特別 とくべつ 貯蓄 ちょちく 制度 せいど も貯蓄 ちょちく 熱 ねつ をあおった。全国 ぜんこく の預金 よきん 量 りょう に対 たい する貯蓄 ちょちく 銀行 ぎんこう の割合 わりあい は1930年 ねん には42.4%、1933年 ねん には53.5%で115億 おく マルク、1935年 ねん には58.1%、1939年 ねん には57.4%と増加 ぞうか し、開戦 かいせん 後 ご の1939年 ねん 年末 ねんまつ には193億 おく マルクに達 たっ した。貯蓄 ちょちく 銀行 ぎんこう はこの膨大 ぼうだい な資金 しきん 力 りょく で公債 こうさい を買 か い支 ささ え、静 しず かな戦時 せんじ 貯蓄 ちょちく と呼 よ ばれるもう一 ひと つの戦争 せんそう 財源 ざいげん となった。
1936年 ねん 夏 なつ 頃 ごろ には外貨 がいか 不足 ふそく と2年 ねん 連続 れんぞく の農業 のうぎょう 不振 ふしん が重 かさ なって、ドイツ経済 けいざい は深刻 しんこく な原料 げんりょう 危機 きき を迎 むか えており、景気 けいき 失速 しっそく の危険 きけん があった。この危機 きき を乗 の り越 こ える方策 ほうさく としては協調 きょうちょう 外交 がいこう と軍拡 ぐんかく の減速 げんそく に政策 せいさく を切 き り替 か えるか、軍備 ぐんび 拡大 かくだい を続 つづ けて領土 りょうど 拡大 かくだい によって占領 せんりょう 地 ち から収奪 しゅうだつ するかという二 ふた つの道 みち があったが、ヒトラーとナチ党 とう にとっては後者 こうしゃ 以外 いがい の選択 せんたく はあり得 え なかった。このため前者 ぜんしゃ の路線 ろせん を志向 しこう するシャハトは放逐 ほうちく される運命 うんめい であった。さらに食糧 しょくりょう 輸入 ゆにゅう への外貨 がいか 割当 わりあて 拡充 かくじゅう をめぐってシャハトと食糧 しょくりょう 相 しょう ダレが深刻 しんこく な対立 たいりつ を開始 かいし した。ヒトラーの命令 めいれい でナチ党 とう No2の航空 こうくう 相 しょう ヘルマン・ゲーリング が仲介 ちゅうかい に入 はい り、彼 かれ は外貨 がいか ・原料 げんりょう 問題 もんだい の全権 ぜんけん を掌握 しょうあく した。
8月 がつ の夏期 かき 休暇 きゅうか の最中 さいちゅう 、ヒトラーはオーバーザルツベルク のベルクホーフ において、「第 だい 二 に 次 じ 四 よん カ年 かねん 計画 けいかく 」の秘密 ひみつ 覚書 おぼえがき を書 か き上 あ げた。この覚書 おぼえがき には、4年 ねん 以内 いない に戦争 せんそう を可能 かのう ならしめるための国防 こくぼう 経済 けいざい 体制 たいせい への移行 いこう 計画 けいかく が書 か かれていた。9月9日 にち 、ヒトラーはニュルンベルク党 とう 大会 たいかい において、覚書 おぼえがき に基 もと づいた自給 じきゅう 経済 けいざい 体制 たいせい (ドイツ語 ご : Autarkie 、アウタルキー)の確立 かくりつ を目指 めざ す第 だい 二 に 次 じ 四 よん カ年 かねん 計画 けいかく の開始 かいし を発表 はっぴょう した。10月18日 にち には四 よん カ年 かねん 計画 けいかく 施行 しこう 令 れい が発令 はつれい され、ゲーリングが四 よん カ年 かねん 計画 けいかく 受託 じゅたく 官 かん として、計画 けいかく 遂行 すいこう のための全権 ぜんけん を付与 ふよ された。シャハトはゲーリングと対立 たいりつ し、11月に経済 けいざい 相 しょう を辞任 じにん した。以降 いこう ゲーリングが経済 けいざい 相 しょう も兼 か ねることとなり、経済 けいざい 分野 ぶんや の全権 ぜんけん を掌握 しょうあく することとなった。
計画 けいかく が進展 しんてん する1938年 ねん 頃 ごろ には過剰 かじょう な通貨 つうか 供給 きょうきゅう と軍需 ぐんじゅ 拡大 かくだい によってさらに景気 けいき が過熱 かねつ し、インフレの危機 きき と外貨 がいか 不足 ふそく がいっそう深刻 しんこく 化 か した。このため1936年 ねん 11月の物価 ぶっか ストップ令 れい など物価 ぶっか 抑制 よくせい 措置 そち が相次 あいつ いでとられた。また資本 しほん 集中 しゅうちゅう もいっそう進 すす み、ドイツ企業 きぎょう の12.5%を占 し める500万 まん マルク以上 いじょう の大 だい 株式会社 かぶしきがいしゃ が、全 ぜん 企業 きぎょう の資本 しほん 金 きん 総額 そうがく の78.5%を占 し めるようになっていた。
カール・クラウホ。1942年 ねん
四 よん カ年 かねん 計画 けいかく による自給 じきゅう 経済 けいざい 構築 こうちく とは、外貨 がいか 不足 ふそく により輸入 ゆにゅう が困難 こんなん であるため、資源 しげん の国内 こくない 自給 じきゅう を高 たか めるものである。ゲーリングが12月17日 にち の演説 えんぜつ で「政治 せいじ の必要 ひつよう に応 おう じて採算 さいさん を無視 むし した生産 せいさん を行 おこな わねばならない。どのくらい費用 ひよう がかかってもかまわない。戦争 せんそう に勝利 しょうり すれば十分 じゅうぶん に償 つぐな いがつくからだ。」と語 かた ったように、計画 けいかく の実行 じっこう は経済 けいざい 性 せい を無視 むし したものであった。1937年 ねん 2月 がつ にはヴァルター・フンク が経済 けいざい 相 しょう と戦争 せんそう 経済 けいざい 特命 とくめい 委員 いいん に就任 しゅうにん したが、フンクはゲーリングの腹心 ふくしん であり、大 おお きな路線 ろせん 変更 へんこう は行 おこな われなかった。この四 よん カ年 かねん 計画 けいかく で実権 じっけん を握 にぎ ったのは、最終 さいしゅう 的 てき にはゲーリングに次 つ ぐナンバー2となったIG・ファルベン のカール・クラウホ (英語 えいご 版 ばん ) であった。
四 よん カ年 かねん 計画 けいかく では戦時 せんじ の輸入 ゆにゅう 途絶 とぜつ を前提 ぜんてい として、化学 かがく 繊維 せんい や人造 じんぞう 石油 せきゆ ・合成 ごうせい ゴム などの代 だい 用品 ようひん 開発 かいはつ が推進 すいしん された。また1937年 ねん 7月 がつ には国営 こくえい 企業 きぎょう としてヘルマン・ゲーリング国家 こっか 工場 こうじょう が設立 せつりつ され、これまで不 ふ 採算 さいさん のため放棄 ほうき されてきた国内 こくない 資源 しげん の開発 かいはつ にあたった。四 よん カ年 かねん 計画 けいかく のために投 とう じられた資金 しきん は、ドイツ全体 ぜんたい の設備 せつび 投資 とうし 金額 きんがく の半分 はんぶん 以上 いじょう を占 し める莫大 ばくだい なものであった。また四 よん カ年 かねん 計画 けいかく の技術 ぎじゅつ 者 しゃ はIG・ファルベンの関係 かんけい 者 しゃ が多 おお く、1939年 ねん の段階 だんかい で20%、戦時 せんじ には30%がIG・ファルベン出身 しゅっしん 者 しゃ であった。また10月 がつ 29日 にち の執行 しっこう 令 れい により四 よん カ年 かねん 計画 けいかく 局 きょく にライヒ価格 かかく 形成 けいせい 監理 かんり 局 きょく が設置 せっち され、経済 けいざい 集団 しゅうだん と連携 れんけい して全国 ぜんこく の価格 かかく を監視 かんし した。
しかしドイツ国内 こくない の資源 しげん 類 るい は偏 かたよ っており、また軍需 ぐんじゅ 産業 さんぎょう への労働 ろうどう 力 りょく 集中 しゅうちゅう は農業 のうぎょう 人口 じんこう の減少 げんしょう を招 まね き、食糧 しょくりょう 自給 じきゅう が困難 こんなん になった。1937年 ねん 11月5日 にち の秘密 ひみつ 会議 かいぎ でヒトラー自身 じしん も完全 かんぜん な自給 じきゅう 経済 けいざい 体制 たいせい 構築 こうちく は不可能 ふかのう であると述 の べ、自給 じきゅう が可能 かのう であるのは石炭 せきたん ・鉄鉱 てっこう 石 せき ・軽金属 けいきんぞく ・食用 しょくよう 油 ゆ にすぎず、食糧 しょくりょう にいたっては「まったく無理 むり 」であるとした。ヒトラーは食糧 しょくりょう 自給 じきゅう のためにはヨーロッパ内 ない での領土 りょうど 獲得 かくとく が不可欠 ふかけつ であると述 の べ、近 ちか い将来 しょうらい における戦争 せんそう 準備 じゅんび 推進 すいしん を要求 ようきゅう した(ホスバッハ覚書 おぼえがき )。
1938年 ねん になると四 よん カ年 かねん 計画 けいかく の軍備 ぐんび への傾斜 けいしゃ がいっそう鮮明 せんめい となった。7月 がつ 以降 いこう いくつかの部分 ぶぶん 計画 けいかく が追加 ついか されたが、四 よん カ年 かねん 計画 けいかく としてのまとまりを欠 か くようになった。12月にはアウトバーン総監 そうかん であったフリッツ・トートが建設 けんせつ 経済 けいざい 統制 とうせい 特命 とくめい 委員 いいん に任 にん ぜられ、彼 かれ の指揮 しき 下 か にあるトート機関 きかん が、アウトバーンの他 ほか に西部 せいぶ 国境 こっきょう の要塞 ようさい 線 せん ジークフリート線 せん などの軍事 ぐんじ 施設 しせつ 建設 けんせつ を開始 かいし している。1939年 ねん 頃 ごろ には四 よん カ年 かねん 計画 けいかく の機構 きこう すらも統一 とういつ 性 せい を失 うしな っていった。これらの政策 せいさく で石炭 せきたん は8000万 まん トンの増産 ぞうさん に成功 せいこう し[注釈 ちゅうしゃく 3] 、鉄鉱 てっこう 石 せき 生産 せいさん 高 だか は1932年 ねん の260万 まん トンから1938年 ねん の1500万 まん トンへ急 きゅう 成長 せいちょう した。しかし自給 じきゅう の努力 どりょく にもかかわらず、物資 ぶっし 備蓄 びちく ははかばかしく進展 しんてん せず、1939年 ねん 10月 がつ の時点 じてん でガソリン 、ゴム 、鉄鉱 てっこう 石 せき 、銅 どう 、ボーキサイト の備蓄 びちく 量 りょう はわずか半年 はんとし 分 ぶん に過 す ぎなかった。1938年 ねん 秋 あき からライヒスバンクは不動産 ふどうさん 抵当 ていとう 融資 ゆうし を禁止 きんし したため、公的 こうてき 資金 しきん による住宅 じゅうたく の建設 けんせつ が停止 ていし した。ドイツはすでに深刻 しんこく な住宅 じゅうたく 不足 ふそく に陥 おちい っていたため、失望 しつぼう を招 まね いた。
通貨 つうか であるマルクの切 き り下 さ げはたびたび検討 けんとう されたが、マルクの切 き り下 さ げは再 さい 軍備 ぐんび と両立 りょうりつ しないために実現 じつげん しなかった。1936年 ねん 、前 ぜん 帝国 ていこく 価格 かかく 監視 かんし 管理 かんり 官 かん のカール・ゲルデラー はドイツの通貨 つうか 政策 せいさく を検討 けんとう し、国際 こくさい 経済 けいざい でドイツの悪化 あっか を防 ふせ ぐにはマルクの切 き り下 さ げと変動 へんどう 相場 そうば 制 せい が必要 ひつよう だと述 の べた。ライヒスバンクの職員 しょくいん はゲルデラーに賛成 さんせい し、企業 きぎょう 人 じん もシャハトに通貨 つうか 調整 ちょうせい のための輸出 ゆしゅつ 課税 かぜい 制度 せいど を廃止 はいし するよう提案 ていあん した。しかし、ヒトラーやシャハトはマルク切 き り下 さ げの議論 ぎろん を拒否 きょひ した。
とにかく歴史 れきし から学 まな びたまえ、これまで借金 しゃっきん で亡 ほろ びた民族 みんぞく など一 ひと つもありはしないのだから — 1942年 ねん 5月 がつ 4日 にち のヒトラー談話 だんわ
1937年 ねん の時点 じてん でメフォ手形 てがた の発行 はっこう 額 がく は120億 おく マルクに達 たっ していた。シャハトはこれ以上 いじょう の増発 ぞうはつ は国家 こっか の支払 しはら い能力 のうりょく を超 こ えるとして、1938年 ねん にメフォ手形 てがた を発行 はっこう 停止 ていし にした。1938年 ねん 2月 がつ 以降 いこう 、ドイツのマネーサプライ はそれまでの5年 ねん 分 ぶん を超 こ える増加 ぞうか となった。公共 こうきょう 事業 じぎょう と再 さい 軍備 ぐんび が主 おも な原因 げんいん であり、賃金 ちんぎん 格差 かくさ が激 はげ しくなった。ライヒスバンクは各 かく 産業 さんぎょう の賃金 ちんぎん と価格 かかく 水準 すいじゅん の乖離 かいり を指摘 してき し、賃金 ちんぎん と物価 ぶっか の構造 こうぞう が崩壊 ほうかい したと表現 ひょうげん した。
しかしメフォ手形 てがた 及 およ びライヒスバンク・政府 せいふ が発行 はっこう した手形 てがた の債務 さいむ は短期 たんき 金融 きんゆう 市場 いちば を圧迫 あっぱく し、さらにヒトラーの拡張 かくちょう 政策 せいさく による軍備 ぐんび 費 ひ の増大 ぞうだい もあった[注釈 ちゅうしゃく 4] 。1938年 ねん 9月 がつ にはドイツ国営 こくえい 鉄道 てつどう やライヒスポスト の資金 しきん を流用 りゅうよう して乗 の り切 き ったものの、10月のライヒスバンクによる国債 こくさい 発行 はっこう は30%近 ちか くが売 う れ残 のこ って失敗 しっぱい し、12月には20億 おく マルクの不足 ふそく が出 で た。長期 ちょうき 借入 かりいれ による資金 しきん 調達 ちょうたつ が不可能 ふかのう となった政府 せいふ は、インフレーションを容認 ようにん するか、増税 ぞうぜい かの選択 せんたく を迫 せま られた。
軍拡 ぐんかく のためにはさらなる資金 しきん が必要 ひつよう であり、ゲーリングらはメフォ手形 てがた の償還 しょうかん を行 おこな わず、中長期 ちゅうちょうき 債 さい による資金 しきん 調達 ちょうたつ を開始 かいし した。シャハトらライヒスバンク首脳 しゅのう はこれに抗議 こうぎ し、1939年 ねん 1月 がつ 7日 にち に債券 さいけん 増発 ぞうはつ の危険 きけん 性 せい を警告 けいこく する書簡 しょかん をヒトラーに送 おく った。これは経済 けいざい 面 めん から進路 しんろ を変更 へんこう しようとするライヒスバンク側 がわ の説得 せっとく だったが、ヒトラーは激怒 げきど してシャハトらを更迭 こうてつ し、フンクをライヒスバンク総裁 そうさい に据 す えて人事 じんじ を一新 いっしん した。6月15日 にち にはライヒスバンク法 ほう が制定 せいてい され、独立 どくりつ 性 せい を失 うしな ったライヒスバンクは国家 こっか に従属 じゅうぞく する一 いち 官庁 かんちょう に位置 いち づけられた。
1939年 ねん 5月 がつ 、国防 こくぼう 軍 ぐん は二 に 種類 しゅるい の租税 そぜい 証券 しょうけん を発行 はっこう して軍事 ぐんじ 費 ひ 調達 ちょうたつ にあたった。この増発 ぞうはつ は証券 しょうけん の相場 そうば 下落 げらく や受 う け取 と り拒否 きょひ を招 まね いたために発行 はっこう は11月に停止 ていし され、ライヒスバンクが引 ひ き取 と る形 かたち となった。また政府 せいふ はライヒスバンクから無制限 むせいげん に信用 しんよう 供与 きょうよ を受 う け、それで政府 せいふ 財政 ざいせい をやりくりする事態 じたい となっていた。ライヒスバンクの対 たい 政府 せいふ 信用 しんよう はさらに増加 ぞうか し、インフレ圧力 あつりょく が強 つよ まった。
1935年 ねん にザールラント がドイツに復帰 ふっき し、ドイツの石炭 せきたん 収入 しゅうにゅう は飛躍 ひやく 的 てき に増加 ぞうか した。1938年 ねん 3月 がつ 13日 にち にはオーストリア が併合 へいごう され(アンシュルス )、ドイツ経済 けいざい 域 いき に組 く み込 こ まれた。オーストリアには60万 まん 人 にん の失業 しつぎょう 者 しゃ が存在 そんざい するなど不 ふ 況 きょう のまっただ中 なか であったが、ドイツは7億 おく 8200万 まん マルク相当 そうとう の金 かね ・外貨 がいか 準備 じゅんび と水力 すいりょく 発電 はつでん を含 ふく む膨大 ぼうだい な資源 しげん も獲得 かくとく した。工業 こうぎょう 生産 せいさん 高 だか が8%追加 ついか され、鉄鉱 てっこう 石 せき を産 さん するアルピネ鉱業 こうぎょう はヘルマン・ゲーリング国家 こっか 工場 こうじょう が獲得 かくとく した。3月23日 にち にはオーストリア経済 けいざい 復興 ふっこう 令 れい が発令 はつれい され、公共 こうきょう 事業 じぎょう による雇用 こよう 拡充 かくじゅう が行 おこな われた。同年 どうねん 11月 がつ には継続 けいぞく して失業 しつぎょう している者 もの は10万 まん 人 にん に減少 げんしょう したと発表 はっぴょう されている。しかし、オーストリアは食糧 しょくりょう と鉱業 こうぎょう 原材料 げんざいりょう を輸入 ゆにゅう しているため、国際 こくさい 収支 しゅうし には長期 ちょうき 的 てき にはマイナスの影響 えいきょう となった。オーストリア貿易 ぼうえき が加 くわ わることで、ハンガリーやポーランドはドイツに対 たい する貿易 ぼうえき 依存 いぞん 率 りつ が増 ふ えたため、貿易 ぼうえき 条約 じょうやく 締結 ていけつ につながった。
同年 どうねん 10月 がつ にはミュンヘン会談 かいだん の結果 けっか 、チェコスロバキア からズデーテン地方 ちほう を獲得 かくとく した。政府 せいふ はこれによって同地 どうち の繊維 せんい ・ガラス・陶磁器 とうじき 工業 こうぎょう を手 て に入 い れた。さらに翌 よく 1939年 ねん 3月 がつ にはチェコをベーメン・メーレン保護 ほご 領 りょう として支配 しはい 下 か に置 お き、同地 どうち の鉱山 こうざん や当時 とうじ 世界 せかい 有数 ゆうすう の武器 ぶき 工場 こうじょう を手 て に入 い れた。また、外貨 がいか 不足 ふそく にあえぐドイツにとって、保護 ほご 領 りょう の外国 がいこく 貿易 ぼうえき は貴重 きちょう な外貨 がいか 供給 きょうきゅう 源 げん であった。
ナチスは発足 ほっそく 時 じ から反 はん ユダヤ主義 しゅぎ を掲 かか げており、政権 せいけん 獲得 かくとく 後 ご にはユダヤ人 じん 商店 しょうてん に対 たい するボイコットなどを扇動 せんどう していた。しかしシャハトは経済 けいざい 分野 ぶんや を阻害 そがい する反 はん ユダヤ主義 しゅぎ には反対 はんたい の立場 たちば を取 と り、1935年 ねん 11月に全国 ぜんこく の商工 しょうこう 会議 かいぎ 所 しょ 会頭 かいとう にユダヤ人 じん の自由 じゆう な経済 けいざい 活動 かつどう を保障 ほしょう する必要 ひつよう 性 せい を説 と く書簡 しょかん を送 おく った。しかし1937年 ねん 後半 こうはん 以降 いこう 、経済 けいざい の脱 だつ ユダヤ化 か 政策 せいさく が加速 かそく し始 はじ めた[注釈 ちゅうしゃく 5] 。
オーストリア併合 へいごう 後 ご の1938年 ねん 3月 がつ 11日 にち は、オーストリアでユダヤ人 じん への暴力 ぼうりょく と略奪 りゃくだつ が起 お きた。オーストリアでユダヤ人 じん が経営 けいえい する企業 きぎょう は、ナチ党員 とういん の長官 ちょうかん の管理 かんり 下 か となった。4月26日 にち には、ドイツとオーストリアのユダヤ人 じん は5000マルク以上 いじょう の資産 しさん の報告 ほうこく が義務 ぎむ 化 か され、四 よん カ年 かねん 計画 けいかく の組織 そしき はユダヤ人 じん の資産 しさん を利用 りよう できるようになった。6月14日 にち には経営 けいえい 陣 じん に一人 ひとり でもユダヤ人 じん がいる経営 けいえい をユダヤ経営 けいえい と見 み なし、諸 しょ 官庁 かんちょう のリストに登録 とうろく された。
ライヒスバンクは、非 ひ アーリア系 けい 企業 きぎょう への融資 ゆうし を中止 ちゅうし する指示 しじ を出 だ した。ユダヤ人 じん 企業 きぎょう は原材料 げんざいりょう 配分 はいぶん の最下位 さいかい とされた。アーリア化 か 業務 ぎょうむ としてユダヤ系 けい 施設 しせつ の売却 ばいきゃく も行 おこな われ、繊維 せんい 関連 かんれん 工場 こうじょう 340カ所 かしょ 、卸売 おろしうり 企業 きぎょう 370カ所 かしょ があり、民間 みんかん 銀行 ぎんこう 22カ所 かしょ の中 なか には有名 ゆうめい 銀行 ぎんこう も含 ふく まれていた。ドイツ系 けい 企業 きぎょう は、元 もと ユダヤ人 じん の資産 しさん を破格 はかく の安 やす さで購入 こうにゅう した。ユダヤ人 じん が受 う けた略奪 りゃくだつ で最 もっと も利益 りえき を得 え たのは、ドイツ国家 こっか とドイツの納税 のうぜい 者 しゃ だった。親衛隊 しんえいたい はドイツ国内 こくない からのユダヤ人 じん 追放 ついほう を意図 いと していたが、ドイツでは外貨 がいか 不足 ふそく の影響 えいきょう で出国 しゅっこく 費用 ひよう が高 たか くなっており、ユダヤ人 じん の国外 こくがい 移住 いじゅう が少 すく ない理由 りゆう にもなっていた。ライヒスバンクの試算 しさん によれば、ユダヤ系 けい ドイツ人 じん の国外 こくがい 移住 いじゅう には22億 おく から51億 おく 5000万 まん マルクに達 たっ するとされ、この金額 きんがく はライヒスバンクの外貨 がいか 準備 じゅんび の数 すう 倍 ばい であった。ユダヤ人 じん に移住 いじゅう をすすめながら、資本 しほん を国外 こくがい へ持 も ち出 だ すユダヤ人 じん を非難 ひなん するという状況 じょうきょう になり、ユダヤ人 じん への差別 さべつ は悪循環 あくじゅんかん を起 お こした。
11月9日 にち には国内 こくない 各地 かくち でユダヤ人 じん が虐殺 ぎゃくさつ され、商店 しょうてん のガラスが割 わ られて道路 どうろ に飛 と び散 ち ったために水晶 すいしょう の夜 よる と呼 よ ばれた。11月12日 にち にはユダヤ経営 けいえい の営業 えいぎょう や、ユダヤ人 じん が経営 けいえい を行 おこな うことが禁止 きんし され、同日 どうじつ に施行 しこう された資本 しほん 税 ぜい は3年間 ねんかん に112億 おく 7000万 まん マルクの税収 ぜいしゅう があった。さらにドイツから出国 しゅっこく するユダヤ人 じん から資本 しほん 逃避 とうひ 税 ぜい として数 すう 億 おく マルクを得 え た。12月3日 にち にはユダヤ人 じん 資産 しさん 税 ぜい (ドイツ語 ご 版 ばん ) でユダヤ経営 けいえい 資産 しさん や有価 ゆうか 証券 しょうけん の譲渡 じょうと が定 さだ められ、ユダヤ人 じん の土地 とち 取得 しゅとく が禁止 きんし された。またこうして譲渡 じょうと された経営 けいえい に勤務 きんむ していたユダヤ人 じん は解雇 かいこ が厳命 げんめい された。1938年 ねん のうちにユダヤ経営 けいえい の大半 たいはん はドイツから姿 すがた を消 け し、ユダヤ人 じん の9割 わり が経済 けいざい 基盤 きばん を失 うしな った。このためこの年 とし はヴォルフガング・ヴィッパーマン (ドイツ語 ご 版 ばん ) によって「ドイツユダヤ人 じん の財政 ざいせい の死 し 」と表現 ひょうげん されている。さらに1939年 ねん にはユダヤ人 じん 保有 ほゆう の金 かね ・銀 ぎん ・プラチナ や宝飾 ほうしょく 品 ひん の供出 きょうしゅつ が義務 ぎむ づけられるなど、迫害 はくがい はますます進行 しんこう した。大 だい 規模 きぼ な迫害 はくがい にも関 かか わらず、ユダヤ人 じん からの収奪 しゅうだつ で得 え たものは国内 こくない の資金 しきん 移転 いてん であり、ドイツ経済 けいざい 全体 ぜんたい の改善 かいぜん にはならなかった。
1938年 ねん 6月 がつ 2日 にち 、国防 こくぼう 軍 ぐん 国防 こくぼう 経済 けいざい 局 きょく とライヒスバンクの共催 きょうさい で会議 かいぎ が開 ひら かれた。ライヒスバンク、国防 こくぼう 軍 ぐん の軍事 ぐんじ 経済 けいざい スタッフ、権威 けんい ある経済 けいざい 学 がく 教授 きょうじゅ たちが出席 しゅっせき して議論 ぎろん が行 おこな われ、ドイツ経済 けいざい について以下 いか のような問題 もんだい 点 てん があげられた。
財政 ざいせい 的 てき なその場 ば しのぎの手法 しゅほう (メフォ手形 てがた など)
一元化 いちげんか されていないドイツ負債 ふさい の危険 きけん 性 せい
公的 こうてき 債務 さいむ の限界 げんかい
さらなる消費 しょうひ 制限 せいげん の可能 かのう 性 せい
ライヒスバンクによるお金 かね と信用 しんよう 創造 そうぞう の管理 かんり
将来 しょうらい 的 てき な企業 きぎょう 部門 ぶもん からの信用 しんよう 要求 ようきゅう の増加 ぞうか を満 み たす可能 かのう 性 せい
政府 せいふ 発注 はっちゅう が一時 いちじ 的 てき に緩和 かんわ した場合 ばあい デフレ兆候 ちょうこう の危険 きけん 性 せい
公的 こうてき 部門 ぶもん 以外 いがい のバブル経済 けいざい の危険 きけん 性 せい
誤 あやま ったうわべだけの資金 しきん 流動 りゅうどう 性 せい が広 ひろ がることの危険 きけん 性 せい
企業 きぎょう の自己 じこ 資金繰 しきんぐ りによる危険 きけん 性 せい
議事 ぎじ 録 ろく には、出席 しゅっせき 者 しゃ は重要 じゅうよう な点 てん について合意 ごうい したので目的 もくてき を達成 たっせい したと記録 きろく されている。
アメリカが英 えい 仏 ふつ に協力 きょうりょく した場合 ばあい にドイツが不利 ふり になるという予測 よそく は、広 ひろ く共有 きょうゆう されていた。1939年 ねん 5月 がつ 24日 にち 、国防 こくぼう 軍 ぐん の主任 しゅにん エコノミストであるゲオルク・トーマス (英語 えいご 版 ばん ) は、外務省 がいむしょう 職員 しょくいん に軍事 ぐんじ 経済 けいざい の課題 かだい を講義 こうぎ した。英 えい 仏 ふつ 米 べい の3カ国 かこく は1940年 ねん 以降 いこう の防衛 ぼうえい 予算 よさん でドイツを20億 おく マルク上回 うわまわ り、国民 こくみん 所得 しょとく における軍備 ぐんび の負担 ふたん は、ドイツの23%に対 たい してイギリス12%・フランス17%・アメリカ2%だった。一連 いちれん の分析 ぶんせき は、時間 じかん の経過 けいか によってドイツがより不利 ふり になることを表 あらわ していた。トーマスはヴィルヘルム・カイテル とヒトラーに開戦 かいせん をとどまるよう説得 せっとく を試 こころ みたが、失敗 しっぱい に終 お わった[注釈 ちゅうしゃく 6] 。
1930年代 ねんだい のドイツ人 じん の時給 じきゅう は、マルク単位 たんい ではなくペニヒ 単位 たんい だった(1ドイツマルク=100ペニヒ)。時給 じきゅう 1マルクを超 こ えるのは工作 こうさく 機械 きかい 熟練工 じゅくれんこう ・植字 しょくじ 工 こう などであり、男性 だんせい で最 もっと も低 ひく いのは製材 せいざい 所 しょ ・繊維 せんい 工場 こうじょう で59ペニヒだった。1936年 ねん の完全 かんぜん 雇用 こよう 時点 じてん では、全 ぜん 納税 のうぜい 者 しゃ の62%の1450万 まん 人 にん は年収 ねんしゅう 1500マルク以下 いか で週給 しゅうきゅう 30マルク・時給 じきゅう 約 やく 60ペニヒにあたる。ブルーカラー労働 ろうどう 者 しゃ の年収 ねんしゅう は1500から2400マルク、ホワイトカラー労働 ろうどう 者 しゃ は3000マルクだった。所得 しょとく は職業 しょくぎょう の他 ほか に性別 せいべつ によって大 おお きく格差 かくさ があった[注釈 ちゅうしゃく 7] 。
支出 ししゅつ では、飲食 いんしょく 物 ぶつ ・タバコ・コーヒーなどが生活 せいかつ 費 ひ の43%から50%であり、家賃 やちん に12%、公共 こうきょう 料金 りょうきん に5%かかった。4人 にん 家族 かぞく の場合 ばあい は残 のこ りが月額 げつがく 67マルクとなり、これで衣服 いふく 、住宅 じゅうたく 設備 せつび 、交通 こうつう 費 ひ 、医療 いりょう 保険 ほけん 費 ひ 、教育 きょういく 費 ひ などの出費 しゅっぴ をやりくりする必要 ひつよう があった[注釈 ちゅうしゃく 8] 。
アメリカやイギリスとの経済 けいざい 格差 かくさ は大 おお きく、同 どう 時代 じだい のアメリカのデトロイトと同 どう 水準 すいじゅん の生活 せいかつ をベルリンやフランクフルトでするには5380マルクから6055マルクが必要 ひつよう だった。1930年代 ねんだい 後半 こうはん にラジオを購入 こうにゅう できたのは半数 はんすう の世帯 せたい であり、イギリスは68%、アメリカは80%だった。
年 とし 平均 へいきん 登録 とうろく 失業 しつぎょう 者 しゃ 数 すう 推移 すいい (単位 たんい 千 せん )[注釈 ちゅうしゃく 9] と賃金 ちんぎん 推移 すいい (1932年 ねん =100)[注釈 ちゅうしゃく 10]
年 とし
失業 しつぎょう 者 しゃ 数 すう
名目 めいもく 時間 じかん 賃金 ちんぎん 率 りつ
名目 めいもく 週 しゅう 賃金 ちんぎん 収入 しゅうにゅう
1929年 ねん
1,898,6
122.4
149.4
1930年 ねん
3,075,5
-
-
1931年 ねん
4,519,7
-
-
1932年 ねん
5,575,4
100
100
1933年 ねん
4,804,4
97.0
102.2
1934年 ねん
2,718,3
96.8
109.7
1935年 ねん
2,151,0
96.8
122.3
1936年 ねん
1,592,6
96.8
116.6
1937年 ねん
912,3
97.0
120.6
1938年 ねん
429.4
97.4
126.5
1939年 ねん
104,2
-
-
1940年 ねん
43,1
-
-
ヴァイマル共和 きょうわ 国 こく 時代 じだい からの重要 じゅうよう な政治 せいじ 課題 かだい が膨大 ぼうだい な失業 しつぎょう 者 しゃ 問題 もんだい であった。1927年 ねん から機械 きかい 力 りょく より人力 じんりき を優先 ゆうせん させる公共 こうきょう 事業 じぎょう (緊急 きんきゅう 事業 じぎょう 、ドイツ語 ご : Notstandsarbeit )で雇用 こよう を創出 そうしゅつ しようという雇用 こよう 創出 そうしゅつ 計画 けいかく が策定 さくてい され、パーペン・シュライヒャー政権 せいけん 時代 じだい に決定 けってい されていた。
ナチス政府 せいふ はパーペン計画 けいかく と緊急 きんきゅう 計画 けいかく を継承 けいしょう した上 うえ で、主要 しゅよう な雇用 こよう 創出 そうしゅつ 計画 けいかく を1933年 ねん 中 ちゅう に策定 さくてい した。組閣 そかく 後 ご の2月 がつ 1日 にち にヒトラーは農民 のうみん 救済 きゅうさい と失業 しつぎょう 問題 もんだい 解決 かいけつ を公約 こうやく し、ヒトラーを議長 ぎちょう 、財務 ざいむ 相 しょう クロージク、経済 けいざい ・農業 のうぎょう 相 しょう フーゲンベルク、労相 ろうしょう フランツ・ゼルテ 、労働 ろうどう 担当 たんとう 国家 こっか 弁務 べんむ 官 かん ゲーレケによる雇用 こよう 創出 そうしゅつ 委員 いいん 会 かい を再 さい スタートさせた。しかしナチ党 とう を無視 むし した政策 せいさく を取 と ろうとしたゲーレケは3月 がつ に横領 おうりょう の疑 うたが いで逮捕 たいほ され、ナチ党 とう 主導 しゅどう による雇用 こよう 政策 せいさく があらためて開始 かいし されることになった。6月1日 にち には第 だい 一 いち 次 じ 失業 しつぎょう 減少 げんしょう 法 ほう 、通称 つうしょう 第 だい 一 いち 次 じ ラインハルト計画 けいかく がスタートした[注釈 ちゅうしゃく 11] 。
ラインハルト計画 けいかく は宣伝 せんでん を意図 いと しており、東 ひがし プロイセン の長官 ちょうかん であるエーリヒ・コッホ は雇用 こよう 闘争 とうそう (Arbeitsshclacht)と呼 よ ばれる運動 うんどう を展開 てんかい し、13万 まん 人 にん の失業 しつぎょう 者 しゃ を6ヶ月 かげつ で農業 のうぎょう 入植 にゅうしょく 地 ち で雇用 こよう することに成功 せいこう したと報告 ほうこく した。実際 じっさい には、全 ぜん 人口 じんこう の1.89%にあたる東 ひがし プロイセンに対 たい して不 ふ 釣 つ り合 あ いな予算 よさん を雇用 こよう 創出 そうしゅつ 資金 しきん から投入 とうにゅう して成立 せいりつ したイベントであり、より失業 しつぎょう が深刻 しんこく だった大都市 だいとし 圏 けん には恩恵 おんけい が少 すく なかった。6月27日 にち には、帝国 ていこく アウトバーン 会社 かいしゃ の設立 せつりつ に関 かん する法律 ほうりつ (Gesetz über die Errichtung eines Unternehmens Reichsautobahnen)が公布 こうふ され、7月 がつ 15日 にち には租税 そぜい 軽減 けいげん 法 ほう 、9月21日 にち には第 だい 二 に 次 じ 失業 しつぎょう 減少 げんしょう 法 ほう 、通称 つうしょう 第 だい 二 に 次 じ ラインハルト計画 けいかく がスタートした。
雇用 こよう 創出 そうしゅつ の一方 いっぽう で、ナチス・ドイツ政府 せいふ は追加 ついか 雇用 こよう (ドイツ語 ご : Zusätzliche Beschäftigung )と呼 よ ばれる失業 しつぎょう 者 しゃ 数 すう の削減 さくげん 政策 せいさく を取 と った。これは工業 こうぎょう 生産 せいさん 過程 かてい 外 がい で失業 しつぎょう 労働 ろうどう 力 りょく を吸収 きゅうしゅう し、労働 ろうどう 市場 いちば の過密 かみつ を緩和 かんわ させるものであった。
この追加 ついか 雇用 こよう には緊急 きんきゅう 事業 じぎょう や1931年 ねん から始 はじ まった労働 ろうどう 奉仕 ほうし などがある。これらの事業 じぎょう に参加 さんか した労働 ろうどう 者 しゃ は衣食住 いしょくじゅう は現物 げんぶつ 支給 しきゅう されたものの、賃金 ちんぎん と呼 よ べるほどのものは受 う け取 と っておらず、期間 きかん も短 みじか かった。また大卒 だいそつ の若者 わかもの を一 いち 年間 ねんかん 農業 のうぎょう 年季 ねんき 奉仕 ほうし (ドイツ語 ご 版 ばん ) に出 だ し、労働 ろうどう 市場 いちば への労働 ろうどう 力 りょく 供給 きょうきゅう を延期 えんき させた。
さらに女子 じょし 労働 ろうどう 力 りょく の削減 さくげん 政策 せいさく も行 おこな われた。第 だい 一 いち 次 じ ラインハルト計画 けいかく では結婚 けっこん 奨励 しょうれい と女子 じょし 家事 かじ 手伝 てつだ い に対 たい する優遇 ゆうぐう 措置 そち が盛 も り込 こ まれ、女性 じょせい の労働 ろうどう 市場 いちば から家庭 かてい への移動 いどう が促進 そくしん された。
労働 ろうどう 者 しゃ はドイツ労働 ろうどう 戦線 せんせん (DAF)に加盟 かめい し、その指導 しどう に従 したが うようになった。労働 ろうどう 戦線 せんせん の組織 そしき 歓喜 かんき 力行 りっこう 団 だん は労働 ろうどう 者 しゃ に余暇 よか ・スポーツ・演奏 えんそう 会 かい ・祭典 さいてん を提供 ていきょう し、その中 なか でナチズムの浸透 しんとう を図 はか った。
一方 いっぽう で賃金 ちんぎん 抑制 よくせい 策 さく のため、景気 けいき が回復 かいふく しても労働 ろうどう 者 しゃ の時間 じかん 当 あ たりの収益 しゅうえき は伸 の びなかった。原則 げんそく 的 てき に一 いち 日 にち 8時 じ 間 あいだ 、週 しゅう 40時 じ 間 あいだ 労働 ろうどう が定 さだ められていたが、労働 ろうどう 力 りょく 不足 ふそく が深刻 しんこく になると労働 ろうどう 時間 じかん を延 の ばすことで対応 たいおう した。また失業 しつぎょう 保険 ほけん の保険 ほけん 料 りょう も引 ひ き下 さ げられることはなく、支払 しはら い条件 じょうけん も厳格 げんかく 化 か された。集 あつ められた資金 しきん は本来 ほんらい の役割 やくわり ではなく、公共 こうきょう 投資 とうし のための基金 ききん となった。
諸 しょ 計画 けいかく を合計 ごうけい するとドイツ国家 こっか は1933年 ねん から1935年 ねん にかけて雇用 こよう 創出 そうしゅつ 費 ひ として50億 おく マルク投 とう じ、うち30億 おく マルクは雇用 こよう 創出 そうしゅつ 手形 てがた によって調達 ちょうたつ された。この手形 てがた 償還 しょうかん は1938年 ねん までに終了 しゅうりょう したが、財源 ざいげん は不 ふ 明確 めいかく である。また、雇用 こよう に関 かん する減免 げんめん 税 ぜい は1933~1934年 ねん にかけて7億 おく 9000万 まん マルク、租税 そぜい 証券 しょうけん 発行 はっこう も12億 おく 790万 まん マルクに達 たっ した。
政府 せいふ は雇用 こよう 創出 そうしゅつ のため、機械 きかい 力 りょく などによる経済 けいざい 合理 ごうり 化 か を制限 せいげん することで、人手 ひとで を増加 ぞうか させる方策 ほうさく をとった。第 だい 一 いち 次 じ ラインハルト計画 けいかく や1933年 ねん 7月 がつ 15日 にち の「タバコ産業 さんぎょう における機械 きかい 使用 しよう の制限 せいげん に関 かん する法 ほう 」には機械 きかい 力 りょく 制限 せいげん が明記 めいき されており、事業 じぎょう 資金 しきん 中 ちゅう の賃金 ちんぎん 費用 ひよう の割合 わりあい が増大 ぞうだい した。事業 じぎょう 資金 しきん 全体 ぜんたい に占 し める賃金 ちんぎん 割合 わりあい はパーペン計画 けいかく では43.8%、緊急 きんきゅう 計画 けいかく では38.0%、アウトバーン建設 けんせつ では46%、第 だい 一 いち 次 じ ラインハルト計画 けいかく に至 いた っては70%であった。
パーペン計画 けいかく 、緊急 きんきゅう 計画 けいかく 、第 だい 一 いち 次 じ ラインハルト計画 けいかく の三 さん 計画 けいかく によって1935年 ねん までに50万 まん 人 にん の雇用 こよう が生 う み出 だ され、さらにドイツ国鉄 こくてつ も4万 まん 人 にん の職員 しょくいん を雇用 こよう した上 うえ に6万 まん 人 にん を短期 たんき 雇用 こよう し、さらに発注 はっちゅう によって工業 こうぎょう ・手工業 しゅこうぎょう 界 かい に25万 まん 人 にん の雇用 こよう を生 う み出 だ した。また郵便 ゆうびん 事業 じぎょう などの公社 こうしゃ も個別 こべつ に雇用 こよう を増大 ぞうだい させている。
1933年 ねん の一 いち 年間 ねんかん で失業 しつぎょう 者 しゃ は200万 まん 人 にん 減少 げんしょう したが、工業 こうぎょう 雇用 こよう の回復 かいふく よりも失業 しつぎょう 者 しゃ 数 すう の減少 げんしょう が大 おお きいなど、再 ふたた び生産 せいさん 過程 かてい に吸収 きゅうしゅう されたのはその7割 わり ほどであった。また従来 じゅうらい 失業 しつぎょう 者 しゃ にカウントされていた失 しつ 対 たい 労働 ろうどう 者 しゃ 、農業 のうぎょう 補助 ほじょ 者 しゃ 、勤労 きんろう 奉仕 ほうし 者 しゃ を労働 ろうどう 者 しゃ として数 かぞ えるという統計 とうけい 操作 そうさ も行 おこな われていた。しかし失業 しつぎょう 者 しゃ を減少 げんしょう させるという社会 しゃかい 政策 せいさく 的 てき には大 おお きな意味 いみ があり、ナチス政権 せいけん の安定 あんてい 化 か に寄与 きよ した。1935年 ねん 以降 いこう の再 さい 軍備 ぐんび による軍 ぐん の雇用 こよう もあり、1937年 ねん には失業 しつぎょう 者 しゃ 数 すう を求人 きゅうじん 者 しゃ 数 すう が上回 うわまわ り、ほぼ完全 かんぜん 雇用 こよう が達成 たっせい された。
完全 かんぜん 雇用 こよう は達成 たっせい されたものの、業種 ぎょうしゅ 間 あいだ の労働 ろうどう 者 しゃ 需要 じゅよう に偏 かたよ りがあり、特 とく に建築 けんちく ・金属 きんぞく の分野 ぶんや では熟練工 じゅくれんこう が不足 ふそく していた。またヒトラーの志向 しこう する自給自足 じきゅうじそく 経済 けいざい には、労働 ろうどう 力 りょく の再 さい 配置 はいち が不可欠 ふかけつ であった。このため政府 せいふ は1934年 ねん 12月29日 にち の「熟練 じゅくれん 金属 きんぞく 労働 ろうどう 者 しゃ 配置 はいち 令 れい 」、1935年 ねん 2月 がつ 26日 にち の「労働 ろうどう 手帳 てちょう 導入 どうにゅう に関 かん する法律 ほうりつ 」、1936年 ねん 6月 がつ 26日 にち の「公共 こうきょう 建築 けんちく 事業 じぎょう 実施 じっし に際 さい しての労働 ろうどう 力 りょく 需要 じゅよう の届 とど け出 で に関 かん する命令 めいれい 」など、労働 ろうどう 力 りょく 需給 じゅきゅう を国 くに が調整 ちょうせい するための法律 ほうりつ を次々 つぎつぎ と制定 せいてい し始 はじ めた。
軍需 ぐんじゅ 産業 さんぎょう の活況 かっきょう にともない景気 けいき が上昇 じょうしょう することで、民間 みんかん における労働 ろうどう 力 りょく 需要 じゅよう はますます高 たか まった。政府 せいふ は賃金 ちんぎん を上昇 じょうしょう させない政策 せいさく を取 と っていたが、企業 きぎょう は残業 ざんぎょう 時間 じかん を増 ふ やしたり、手当 てあて を増額 ぞうがく することで給与 きゅうよ を上 あ げ、労働 ろうどう 力 りょく の争奪 そうだつ に走 はし った。このため政府 せいふ の監視 かんし にもかかわらずじわじわと給与 きゅうよ 水準 すいじゅん は上昇 じょうしょう した。
1938年 ねん 5月 がつ からは西部 せいぶ 国境 こっきょう の要塞 ようさい 線 せん ジークフリート線 せん の建設 けんせつ が始 はじ まったが、総 そう 工費 こうひ 35億 おく マルクにのぼるこの要塞 ようさい 線 せん の構築 こうちく には10万 まん 人 にん の工兵 こうへい 隊 たい と、トート機関 きかん による35万 まん 人 にん の労働 ろうどう 奉仕 ほうし 者 しゃ が参加 さんか し、国内 こくない の労働 ろうどう 市場 いちば はさらに逼迫 ひっぱく した。6月22日 にち 、政府 せいふ は労働 ろうどう 力 りょく の確保 かくほ のため、国策 こくさく 上 じょう 特 とく に重要 じゅうよう なる任務 にんむ の為 ため の労働 ろうどう 力 りょく 需要 じゅよう 確保 かくほ 令 れい を発令 はつれい し、国民 こくみん に政府 せいふ が求 もと める職場 しょくば での労働 ろうどう 、もしくは職業 しょくぎょう 訓練 くんれん を受 う ける義務 ぎむ を課 か した。これにより、国民 こくみん の職業 しょくぎょう 選択 せんたく の自由 じゆう は失 うしな われた。国民 こくみん を最 もっと も生産 せいさん 的 てき な場所 ばしょ に配置 はいち するために、国防 こくぼう 評議 ひょうぎ 会 かい は全 ぜん 国民 こくみん に国民 こくみん カード目録 もくろく への登録 とうろく を義務 ぎむ づけた。国民 こくみん カードは親衛隊 しんえいたい 秩序 ちつじょ 警察 けいさつ のクルト・ダリューゲ により管理 かんり された。行政 ぎょうせい では法務 ほうむ と税務 ぜいむ を簡素 かんそ 化 か して人員 じんいん を異動 いどう させ、全 すべ ての製造 せいぞう 工場 こうじょう は査察 ささつ を受 う けることとなった。
食糧 しょくりょう 問題 もんだい の解決 かいけつ は、200年 ねん ほど前 まえ からのヨーロッパの関心事 かんしんじ であった。ヒトラー政権 せいけん が自給自足 じきゅうじそく や農業 のうぎょう に関心 かんしん をもったのも、この流 なが れに含 ふく まれる[注釈 ちゅうしゃく 12] 。1933年 ねん の国勢調査 こくせいちょうさ では人口 じんこう の約 やく 29%が農業 のうぎょう 従事 じゅうじ 者 しゃ であったが、輸入 ゆにゅう 食糧 しょくりょう への依存 いぞん が大 おお きいことに加 くわ えて農地 のうち の不足 ふそく で人口 じんこう 密度 みつど が高 たか く、アメリカ、イギリス、フランスに比 くら べて問題 もんだい が深刻 しんこく だった。農業 のうぎょう 省 しょう は保護 ほご 主義 しゅぎ によってドイツの農業 のうぎょう を世界 せかい から隔離 かくり し、生産 せいさん 者 しゃ には最低 さいてい 価格 かかく を保証 ほしょう し、農家 のうか の債務 さいむ 者 しゃ を完全 かんぜん に保護 ほご した[注釈 ちゅうしゃく 13] 。
農地 のうち 不足 ふそく の解決 かいけつ のために、政府 せいふ は東欧 とうおう への入植 にゅうしょく を計画 けいかく した。農業 のうぎょう 省 しょう は世襲 せしゅう 農地 のうち 法 ほう (ドイツ語 ご 版 ばん ) によって自作農 じさくのう の土地 とち 保有 ほゆう を永久 えいきゅう に保証 ほしょう し、入植 にゅうしょく 問題 もんだい と農家 のうか の債務 さいむ 問題 もんだい を解決 かいけつ しようとした[注釈 ちゅうしゃく 14] 。農業 のうぎょう 省 しょう は帝国 ていこく 食糧 しょくりょう 団 だん (ドイツ語 ご 版 ばん ) (RNS)を組織 そしき し、農産物 のうさんぶつ の価格 かかく と生産 せいさん を統制 とうせい した。これによって農業 のうぎょう 関連 かんれん 産業 さんぎょう も統制 とうせい し、RNSはGDPの25%、ドイツ生産 せいさん 者 しゃ 600万 まん 人 にん 、労働 ろうどう 人口 じんこう の40%を管理 かんり 下 か に置 お いた。飲食 いんしょく 物 ぶつ の価格 かかく を統制 とうせい することで、食費 しょくひ が生活 せいかつ 費 ひ の平均 へいきん 50%を占 し める各 かく 家庭 かてい への影響 えいきょう 力 りょく も増 ま した。RNSは数々 かずかず の統制 とうせい を行 おこな ったが、1936年 ねん には領土 りょうど 内 ない での食糧 しょくりょう 自給 じきゅう が不可能 ふかのう だと判明 はんめい した。国内 こくない 農地 のうち の3400万 まん ヘクタールでは足 た りず、さらに700万 まん から800万 まん ヘクタールが必要 ひつよう だった。この事実 じじつ がヒトラーや農業 のうぎょう 省 しょう が望 のぞ む東欧 とうおう 侵略 しんりゃく の計画 けいかく を後押 あとお しした。
国内 こくない リソースの争奪 そうだつ が激 はげ しくなるにつれて、農業 のうぎょう では1938時 じ 点 てん で作男 さくおとこ が40万 まん 人 にん 減少 げんしょう し、労働 ろうどう 力 りょく 不足 ふそく が深刻 しんこく となった。農家 のうか の女性 じょせい は地方 ちほう において最 もっと も過労 かろう が激 はげ しい集団 しゅうだん となり、1世代 せだい あたりの子供 こども の数 かず が33%減少 げんしょう した。
ドイツ国内 こくない のIGファルベン施設 しせつ 。1932年 ねん
IGファルベンは世界 せかい 有数 ゆうすう の巨大 きょだい 企業 きぎょう であり、1920年代 ねんだい からIGは石油 せきゆ の枯渇 こかつ を予想 よそう して石炭 せきたん 液化 えきか による合成 ごうせい 燃料 ねんりょう を開発 かいはつ したが、新 あら たな油田 ゆでん の発見 はっけん で損失 そんしつ をこうむった。IGは合成 ごうせい 燃料 ねんりょう を売 う り込 こ むために、自給自足 じきゅうじそく を求 もと めるヒトラー政権 せいけん に協力 きょうりょく した。財務省 ざいむしょう は、IGに対 たい する資本 しほん 投資 とうし の最低 さいてい 5%を国 くに が保証 ほしょう し、代 か わりにIGが年間 ねんかん 生産 せいさん 量 りょう を35万 まん トンに拡大 かくだい する条件 じょうけん をつけた。石炭 せきたん 液化 えきか の設備 せつび は原油 げんゆ に比 くら べると高価 こうか だったため、経済 けいざい 省 しょう のシャハトは石炭 せきたん 業 ぎょう をはじめとするエネルギー産業 さんぎょう 全体 ぜんたい に協力 きょうりょく を強要 きょうよう し、合成 ごうせい 燃料 ねんりょう 工場 こうじょう を増設 ぞうせつ した。計画 けいかく を予定 よてい 通 どお り進 すす めるためにIGのクラウホが専門 せんもん 家 か を派遣 はけん し、フリック・コンツェルン (ドイツ語 ご 版 ばん ) のハインリヒ・コッペンベルク (ドイツ語 ご 版 ばん ) が工場 こうじょう 建設 けんせつ を監督 かんとく した。1930年 ねん 末 まつ にはIGは20万 まん 人 にん を雇用 こよう し、16億 おく マルクを保有 ほゆう した。
四 よん カ年 かねん 計画 けいかく によって、IGと政権 せいけん の関係 かんけい はより緊密 きんみつ になり、IGの売 う り上 あ げのほとんどを国防 こくぼう 軍 ぐん が保証 ほしょう した。ドイツは4年間 ねんかん で燃料 ねんりょう の自給自足 じきゅうじそく を実現 じつげん するために合成 ごうせい 燃料 ねんりょう の生産 せいさん 量 りょう が540万 まん トン必要 ひつよう だったが、1936年 ねん 時点 じてん では国内 こくない 必要 ひつよう 量 りょう の34%にとどまっていた。同年 どうねん には合成 ごうせい ゴム製造 せいぞう の増産 ぞうさん が進 すす んだ。年間 ねんかん 投資 とうし 額 がく は1930年代 ねんだい 不況 ふきょう 期 き の1000万 まん から1200万 まん マルクから、1940年代 ねんだい 初頭 しょとう の5億 おく マルクにまで増 ふ えた。
1933年 ねん 以降 いこう のヒトラー政権 せいけん には、クルップ、フェスタクの2社 しゃ が大 おお きく関 かか わった[注釈 ちゅうしゃく 15] 。フェスタクの会長 かいちょう であるアルベルト・フェーグラー (ドイツ語 ご 版 ばん ) は、石炭 せきたん 産業 さんぎょう の再編 さいへん 計画 けいかく をヒトラーに提案 ていあん しつつ、競争 きょうそう 相手 あいて の排除 はいじょ を狙 ねら った。フェーグラーの計画 けいかく によって、ユダヤ人 じん のパウル・ジルヴァーベルク は経営 けいえい するラインブラウンを奪 うば われて亡命 ぼうめい に追 お いやられた。この功績 こうせき でフェスタクは鋳造 ちゅうぞう や鉱業 こうぎょう において指導 しどう 的 てき な位置 いち につき、子会社 こがいしゃ は軍需 ぐんじゅ の恩恵 おんけい を得 え た。その他 た の主 おも な企業 きぎょう としてフリック、GHH (ドイツ語 ご 版 ばん ) 、クレックナー 、マンネスマン (ドイツ語 ご 版 ばん ) 、ヘッシュ 、レヒリング (ドイツ語 ご 版 ばん ) がある。国内 こくない の鉄鋼 てっこう 各社 かくしゃ は独自 どくじ 技術 ぎじゅつ や関連 かんれん 産業 さんぎょう をもち、競争 きょうそう も激 はげ しく複雑 ふくざつ な状況 じょうきょう だった。
四 よん カ年 かねん 計画 けいかく では鋼鉄 こうてつ の確保 かくほ が重要 じゅうよう な問題 もんだい となり、1936年 ねん 11月には供給 きょうきゅう 危機 きき によって生産 せいさん 量 りょう 15%カットが命 めい じられた。輸入 ゆにゅう 原材料 げんざいりょう の不足 ふそく がインフレにつながることを防 ふせ ぐために、価格 かかく 統制 とうせい を担当 たんとう する大 だい 管区 かんく 指導 しどう 者 しゃ のアドルフ・ヴァーグナー は全 すべ ての値上 ねあ げを禁止 きんし した。そして1937年 ねん には市場 いちば メカニズムに代 か わって政府 せいふ による配給 はいきゅう 制 せい が導入 どうにゅう された。1937年 ねん には、鉄鋼 てっこう 生産 せいさん を1930万 まん トンから2400万 まん トンに増産 ぞうさん する目標 もくひょう が立 た てられた。目標 もくひょう のためにフェスタクと同 どう 規模 きぼ の製鋼 せいこう 所 しょ を国有 こくゆう 企業 きぎょう として建設 けんせつ する計画 けいかく も進 すす められた。これがヘルマン・ゲーリング国家 こっか 工場 こうじょう であり、国内 こくない の鉄鋼 てっこう 脈 みゃく が全 すべ て国家 こっか の管理 かんり 下 か に置 お かれた。国家 こっか 工場 こうじょう は東欧 とうおう への侵攻 しんこう とともに多数 たすう の企業 きぎょう 買収 ばいしゅう を繰 く り返 かえ し、世界 せかい 最大 さいだい 規模 きぼ のコングロマリットになる。しかし、買収 ばいしゅう によって得 え た企業 きぎょう は鉄鋼 てっこう 業 ぎょう への貢献 こうけん は少 すく なく、1941年 ねん には多 おお くが売却 ばいきゃく された。国家 こっか 工場 こうじょう が主導 しゅどう 的 てき になったのは石炭 せきたん 産業 さんぎょう であり、当初 とうしょ の目的 もくてき だった鋼鉄 こうてつ 不足 ふそく は解決 かいけつ されなかった。
国民 こくみん ラジオ VE301W
ヒトラー内閣 ないかく では国民 こくみん 製品 せいひん が構想 こうそう され、主 おも なものとしてラジオと自動車 じどうしゃ がある。宣伝 せんでん 省 しょう はラジオをプロパガンダ のための重要 じゅうよう な手段 しゅだん とみなし、ラジオメーカーに働 はたら きかけて製造 せいぞう を主導 しゅどう した。ラジオ・カルテルが形成 けいせい され、1933年 ねん に国民 こくみん ラジオ VE301と命名 めいめい された製品 せいひん が発売 はつばい された。VE301の価格 かかく は76マルクと平均 へいきん 世帯 せたい にとって高価 こうか であり、分割払 ぶんかつばら いを可能 かのう にして普及 ふきゅう を推進 すいしん した。さらに1938年 ねん には35マルクの小型 こがた ラジオDKが発売 はつばい され、普及 ふきゅう 率 りつ は急増 きゅうぞう した[注釈 ちゅうしゃく 16] 。
ヒトラーは、一家 いっか が一 いち 台 だい 乗用車 じょうようしゃ を保有 ほゆう できるという国民 こくみん 車 しゃ 構想 こうそう を1934年 ねん に発表 はっぴょう し、価格 かかく を1200マルクとした。しかし、当時 とうじ のドイツにとって自動車 じどうしゃ は高級 こうきゅう 品 ひん であり、輸入 ゆにゅう に頼 たよ っている燃料 ねんりょう も高価 こうか だった。もっとも低 てい 価格 かかく を実現 じつげん したオペル のP4も1450マルクであり、1200マルクという構想 こうそう は自動車 じどうしゃ 業界 ぎょうかい の反発 はんぱつ を招 まね いた[注釈 ちゅうしゃく 17] 。営利 えいり 目的 もくてき では国民 こくみん 車 しゃ は不可能 ふかのう だったが、ヒトラーはフェルディナンド・ポルシェ のチームに研究 けんきゅう させ、ドイツ国民 こくみん 車 しゃ 準備 じゅんび 会社 かいしゃ で製造 せいぞう した。フォルクスワーゲン・タイプ1 は990マルクを目標 もくひょう 価格 かかく として予 よ 約 やく 販売 はんばい を始 はじ めたが、大半 たいはん のドイツ人 じん には依然 いぜん として高価 こうか であり、ヒトラーが目標 もくひょう としたブルーカラー労働 ろうどう 者 しゃ の見込 みこ み顧客 こきゃく は5%にとどまった。さらに1939年 ねん の開戦 かいせん によって民間 みんかん 車 しゃ の生産 せいさん は止 と まり、ナチス・ドイツ時代 じだい にフォルクスワーゲンを得 え た者 もの はいなかった。
ヒトラー政権 せいけん 下 か において最 もっと も急 きゅう 成長 せいちょう した産業 さんぎょう 部門 ぶもん が航空機 こうくうき 産業 さんぎょう だった。1932年 ねん は航空機 こうくうき 産業 さんぎょう の雇用 こよう 者 しゃ は3200人 にん 、航空機 こうくうき の年間 ねんかん 製造 せいぞう 数 すう は100機 き 未満 みまん だった。その後 ご 約 やく 10年 ねん で、雇用 こよう 者 しゃ 数 すう は25万 まん 人 にん 、年間 ねんかん 製造 せいぞう 数 すう は1万 まん 機 き 以上 いじょう となった。航空機 こうくうき を製造 せいぞう したのはユンカース 、アラド 、ハインケル 、ドルニエ 、フォッケウルフ 、メッサーシュミット の6社 しゃ で、いずれも1933年 ねん 以降 いこう に急 きゅう 成長 せいちょう した。ユンカースの他 ほか は航空 こうくう 省 しょう と次官 じかん のエアハルト・ミルヒ が主導 しゅどう して国家 こっか 資金 しきん で作 つく られた企業 きぎょう であり、民間 みんかん 企業 きぎょう ではあったが軍備 ぐんび 以外 いがい の需要 じゅよう はなかった。ユンカースの創設 そうせつ 者 しゃ であるフーゴー・ユンカース は反逆 はんぎゃく 罪 ざい で逮捕 たいほ され、国家 こっか がユンカースを収用 しゅうよう することを同意 どうい させられた。他 た に直接 ちょくせつ 製造 せいぞう に関与 かんよ した企業 きぎょう として、フリック・コンツェルン、ドイツ船舶 せんぱく 機械 きかい 工学 こうがく (ドイツ語 ご 版 ばん ) 、ヘンシェル 、ブローム・ウント・フォス がある[注釈 ちゅうしゃく 18] 。航空機 こうくうき の増産 ぞうさん においては、アメリカで考案 こうあん された科学 かがく 的 てき 管理 かんり 法 ほう が導入 どうにゅう された。
ドイツの貿易 ぼうえき 収支 しゅうし (単位 たんい :百 ひゃく 万 まん マルク)[注釈 ちゅうしゃく 19]
年 とし
四半期 しはんき
輸入 ゆにゅう
輸出 ゆしゅつ
貿易 ぼうえき 収支 しゅうし
1929年 ねん
1
3,354.9
3,054.7
-300.2
2
3,465.1
3,476.6
11.5
3
3,338.8
3,487.3
148.5
4
3,288.0
3,464.4
276.4
1930年 ねん
1
3,171.0
3,222.0
51.0
2
2,533.0
2,983.0
450.0
3
2,440.0
2,923.0
483.0
4
2,249.0
2,908.0
659.0
1931年 ねん
1
1,919.0
2,420.0
501.0
2
1,885.0
2,348.0
463.0
3
1,464.0
2,465.0
1001.0
4
1,459.0
2,366.0
907.0
1932年 ねん
1
1,251.7
1,605.4
353.7
2
1,142.7
1,382.4
239.7
3
1,057.0
1,302.6
244.7
4
1,214.1
1,448.0
233.9
1933年 ねん
1
1,077.0
1,190.0
113.0
2
1,011.0
1,188.0
177.0
3
1,044.0
1,230.0
186.0
4
1,072.1
1,263.0
191.0
1934年 ねん
1
1,147.4
1,094.3
-53.1
2
1,152.8
991.9
-160.9
3
1,056.7
1,005.4
-51.3
4
1,094.1
1,075.3
-18.8
1935年 ねん
1
1,139.7
967.0
-162.7
2
1,008.7
995.0
-13.7
3
965.3
1,099.7
134.4
4
1,055.0
1,208.0
153.0
1936年 ねん
1
1,052.9
1,134.2
81.3
2
1,058.4
1,107.7
49.3
3
1,027.6
1,215.8
188.2
4
1,079.2
1,310.5
231.3
1937年 ねん
1
1,092.7
1,285.2
192.5
2
1,433.7
1,431.3
-2.4
3
1,443.4
1,565.8
122.4
4
1,498.5
1,628.8
130.3
1938年 ねん
1
1,399.0
1,360.0
-39.0
2
1,482.0
1,354.0
-128.0
3
1,476.0
1,375.0
-101.0
4
1,592.0
1,449.0
-143.0
1939年 ねん
1
1,445.8
1,333.4
-112.4
2
1,285.5
1,459.9
174.4
世界 せかい 恐慌 きょうこう 以降 いこう の貿易 ぼうえき 低調 ていちょう により、ナチス・ドイツ時代 じだい を通 つう じて貿易 ぼうえき 額 がく は恐慌 きょうこう 以前 いぜん より低 ひく い水準 すいじゅん であった。ナチス・ドイツ時代 じだい を通 つう じて輸入 ゆにゅう は1938年 ねん 第 だい 四 よん 四半期 しはんき の15.92億 おく マルク、輸出 ゆしゅつ は1937年 ねん 第 だい 四 よん 四半期 しはんき の16.288億 おく マルクが最高 さいこう であり、いずれも1930年 ねん の水準 すいじゅん の半分 はんぶん 以下 いか であった。ただし世界 せかい 貿易 ぼうえき に占 し めるドイツ貿易 ぼうえき の割合 わりあい は1929年 ねん とほぼ変 か わりない水準 すいじゅん を維持 いじ している。
ドイツが必要 ひつよう とする輸入 ゆにゅう 品 ひん には、食料 しょくりょう となる豚 ぶた や牛 うし などの家畜 かちく や飼料 しりょう 、繊維 せんい 産業 さんぎょう の輸入 ゆにゅう 綿 めん ・羊毛 ようもう 、そして再 さい 軍備 ぐんび に欠 か かせない鉄鉱 てっこう 石 せき 、石油 せきゆ 、ゴムなどだった。これらを輸入 ゆにゅう するために堅調 けんちょう な輸出 ゆしゅつ が必要 ひつよう だったが、金本位 きんほんい 制 せい 崩壊 ほうかい と保護 ほご 主義 しゅぎ によって貿易 ぼうえき は不振 ふしん であり、1933年 ねん のドイツの外貨 がいか 保有 ほゆう 高 だか は1ヶ月 かげつ 分 ぶん の輸入 ゆにゅう 量 りょう にすぎない4億 おく マルクまで減 へ っていた。
ドイツ最大 さいだい の貿易 ぼうえき 相手 あいて は恐慌 きょうこう 以前 いぜん からアメリカ であったが、1930年代 ねんだい 以降 いこう その割合 わりあい は急速 きゅうそく に低下 ていか した。1938年 ねん の時点 じてん で対 たい 米 べい 輸出 ゆしゅつ はわずか2.8%まで低下 ていか している。同様 どうよう にイギリス・フランスとの通商 つうしょう 関係 かんけい も悪化 あっか していき、かわって北欧 ほくおう (特 とく にスウェーデン)、東 ひがし 南欧 なんおう 、中南米 ちゅうなんべい の比重 ひじゅう が高 たか まった。特 とく にルーマニアは産油 さんゆ 国 こく として重要 じゅうよう だった[注釈 ちゅうしゃく 20] 。シャハトは二 に 国 こく 間 あいだ 主義 しゅぎ によってこれらの国 くに との通商 つうしょう 関係 かんけい を構築 こうちく したが、それはアメリカのコーデル・ハル 国務 こくむ 長官 ちょうかん の多国 たこく 間 あいだ 主義 しゅぎ 的 てき 貿易 ぼうえき 自由 じゆう 化 か 政策 せいさく と対立 たいりつ するものであった。しかしシャハトの貿易 ぼうえき 拡大 かくだい 路線 ろせん はヒトラーやゲーリングが志向 しこう する自給自足 じきゅうじそく 経済 けいざい と異 こと なっており、シャハトの失脚 しっきゃく にもつながった。1939年 ねん にはドイツはヨシフ・スターリン 政権 せいけん のソヴィエト連邦 れんぽう とヒトラー=スターリン条約 じょうやく を結 むす び、ソ連 それん はドイツの主要 しゅよう な輸入 ゆにゅう 先 さき となり、貿易 ぼうえき 額 がく は6億 おく から7億 おく マルクと定 さだ められて独 どく ソ開戦 かいせん まで続 つづ いた[注釈 ちゅうしゃく 21] 。
1930年代 ねんだい 末 まつ には、マルクは貿易 ぼうえき の指標 しひょう となる価値 かち を失 うしな い、貿易 ぼうえき レートは市場 いちば システムではなく政治 せいじ 判断 はんだん で決 き められるようになった。貿易 ぼうえき におけるマルクの購買 こうばい 力 りょく は、商品 しょうひん と地域 ちいき によって決 き められた[注釈 ちゅうしゃく 22] 。このためマルクの切 き り下 さ げ論 ろん 争 そう も混乱 こんらん した。イギリスとフランスは、アメリカからの支援 しえん が得 え られるという保証 ほしょう によってドイツと対立 たいりつ した。1938年 ねん には英 えい 米 べい 貿易 ぼうえき 協定 きょうてい が結 むす ばれ、アメリカのフランクリン・ルーズヴェルト 政権 せいけん はイギリスやフランスへの武器 ぶき 供与 きょうよ も可能 かのう とした。1939年 ねん のドイツによるチェコスロバキア占領 せんりょう を受 う けて、アメリカはドイツからの輸入 ゆにゅう 品 ひん に25%の関税 かんぜい を課 か し、政府 せいふ はこれを宣戦 せんせん 布告 ふこく に等 ひと しいとみなした。
外貨 がいか
ドイツは金本位 きんほんい 制 せい を保持 ほじ していたが、海外 かいがい でのマルクの実勢 じっせい レートはかなり低下 ていか していた。外貨 がいか 不足 ふそく は健全 けんぜん な貿易 ぼうえき を大 おお きく阻害 そがい した。さらに世界 せかい 恐慌 きょうこう 以降 いこう の世界 せかい 的 てき な貿易 ぼうえき 停滞 ていたい は外貨 がいか 獲得 かくとく の機会 きかい を減少 げんしょう させた。外資 がいし 不足 ふそく を改善 かいぜん するため、ヴァイマル政府 せいふ は外貨 がいか 管理 かんり 、輸入 ゆにゅう 制限 せいげん 、外国 がいこく 債務 さいむ の元利 がんり 支払 しはら い停止 ていし などの政策 せいさく を打 う っていたが、外貨 がいか 増収 ぞうしゅう には至 いた らなかった。このため輸出 ゆしゅつ 振興 しんこう 策 さく として1932年 ねん に追加 ついか 的 てき 輸出 ゆしゅつ 手続 てつづき (ZAV)制度 せいど を採用 さいよう した。これは輸出 ゆしゅつ 業者 ぎょうしゃ が輸出 ゆしゅつ 代金 だいきん の一部 いちぶ として、ドイツの対外 たいがい 債権 さいけん を外国 がいこく 市場 いちば から買 か い入 い れ、国内 こくない の債務 さいむ 者 しゃ に売 う り渡 わた すことを認 みと めたものである。対外 たいがい 債権 さいけん は海外 かいがい で安 やす く取引 とりひき されており、債務 さいむ 者 しゃ に売 う ることで輸出 ゆしゅつ 業者 ぎょうしゃ は利益 りえき を得 え ることが出来 でき た。この他 ほか にも様々 さまざま な外貨 がいか 使用 しよう 削減 さくげん の方策 ほうさく がとられており、シャハトの証言 しょうげん によると、ドイツ貿易 ぼうえき の80%は交換 こうかん ・清算 せいさん ・補償 ほしょう などで決済 けっさい されており、自由 じゆう な貿易 ぼうえき は20%以下 いか であった。
外貨 がいか 不足 ふそく を補 おぎな うため、外債 がいさい の利子 りし 送金 そうきん を停止 ていし する計画 けいかく を建 た てた。これに債権 さいけん 国 こく は反発 はんぱつ し、輸出 ゆしゅつ 超過 ちょうか 再建 さいけん の差 さ し押 お さえを行 おこな うなど、貿易 ぼうえき 関係 かんけい でも摩擦 まさつ が続 つづ いていた。また軍備 ぐんび 拡大 かくだい に伴 ともな って原料 げんりょう 輸入 ゆにゅう が増大 ぞうだい することで工業 こうぎょう 製品 せいひん の生産 せいさん コストが上 あ がり、輸出 ゆしゅつ が不振 ふしん となったため、ヴァイマル時代 じだい からの外貨 がいか 不足 ふそく はますます深刻 しんこく となった。1934年 ねん 1月 がつ 時点 じてん での貿易 ぼうえき 赤字 あかじ は2200万 まん マルク、12月には4500万 まん マルク、翌 よく 1935年 ねん 1月 がつ には1億 おく 500マルクと増加 ぞうか する一 いち 方 ぽう であった。外貨 がいか 準備 じゅんび もこれに伴 ともな って減少 げんしょう し、1934年 ねん 6月 がつ には1億 おく マルクを割 わ り込 こ む危険 きけん 水域 すいいき に突入 とつにゅう した。1934年 ねん 9月 がつ にシャハトが状況 じょうきょう を打開 だかい する貿易 ぼうえき 管理 かんり 政策 せいさく として新 しん 計画 けいかく (ドイツ語 ご 版 ばん ) を策定 さくてい したが、あくまで一時 いちじ 的 てき なものであった。新 しん 計画 けいかく の骨子 こっし である補助 ほじょ 金 きん による輸出 ゆしゅつ 奨励 しょうれい はダンピングととられる恐 おそ れがあり、食糧 しょくりょう 事情 じじょう が逼迫 ひっぱく する中 なか で輸入 ゆにゅう の抑制 よくせい を長 なが く続 つづ けられるものではなかった。
1935年 ねん 3月 がつ にシャハトは、ZAVの手続 てつづ きを簡略 かんりゃく 化 か するかわりに輸出 ゆしゅつ 促進 そくしん 補助 ほじょ 金 きん の資金 しきん を経済 けいざい 集団 しゅうだん から「自発 じはつ 的 てき に」拠出 きょしゅつ させる法律 ほうりつ を制定 せいてい したが、拠出 きょしゅつ 金 きん を負担 ふたん する企業 きぎょう は価格 かかく に転嫁 てんか することも出来 でき ずに苦 くる しんだ。シャハトは国庫 こっこ から拠出 きょしゅつ するよう望 のぞ んだが、クロージク財務 ざいむ 相 しょう が拒否 きょひ した。しかしこの補助 ほじょ 金 きん 政策 せいさく によって、輸出 ゆしゅつ 価格 かかく を安 やす く抑 おさ えることが出来 でき たため、輸出 ゆしゅつ 増加 ぞうか に一定 いってい の効果 こうか があった。
外貨 がいか 準備 じゅんび は1935年 ねん に一時 いちじ 的 てき に1億 おく マルクを超 こ えたものの、概 がい して低 てい 水準 すいじゅん であった。また1936年 ねん 秋 あき に金 きむ ブロック(英語 えいご 版 ばん ) 諸国 しょこく が金本位 きんほんい 制 せい から離脱 りだつ したこともあって、ドイツの交易 こうえき 条件 じょうけん はさらに悪化 あっか した。さらに四 よん カ年 かねん 計画 けいかく の産業 さんぎょう 保護 ほご 政策 せいさく により、国内 こくない 製造 せいぞう 業 ぎょう がリスクのない国内 こくない 取引 とりひき を選択 せんたく し、輸出 ゆしゅつ を志向 しこう しないという事態 じたい も発生 はっせい した。さらに四 よん カ年 かねん 計画 けいかく の責任 せきにん 者 しゃ ゲーリングは自給自足 じきゅうじそく 体制 たいせい を重視 じゅうし したため、外貨 がいか 獲得 かくとく に熱心 ねっしん ではなかった。このためドイツの外貨 がいか 準備 じゅんび は改善 かいぜん されず、平均 へいきん 7600万 まん マルクの低 てい 水準 すいじゅん であった[注釈 ちゅうしゃく 23] 。1938年 ねん には外貨 がいか 準備 じゅんび の枯渇 こかつ が予想 よそう され、1939年 ねん 1月 がつ にはライヒスバンクは外貨 がいか 準備 じゅんび や外国 がいこく 為替 かわせ 準備 じゅんび が存在 そんざい しないとヒトラーに報告 ほうこく した。政府 せいふ は再 さい 軍備 ぐんび を一部 いちぶ 放棄 ほうき して鋼鉄 こうてつ などを輸出 ゆしゅつ し、軍 ぐん への配給 はいきゅう 量 りょう を削減 さくげん した。
輸入 ゆにゅう に占 し める地域 ちいき 別 べつ 比重 ひじゅう (単位 たんい :%)[注釈 ちゅうしゃく 24]
南東 なんとう 欧 おう
エジプト トルコ中近東 ちゅうきんとう
中南米 ちゅうなんべい
北欧 ほくおう
計 けい
西欧 せいおう
イギリス
アメリカ
その他 た
計 けい
1929年 ねん
3.8
1.4
11.4
7.3
23.9
15.7
6.4
13.3
40.7
76.1
1932年 ねん
5.0
2.5
9.6
6.4
23.5
15.1
5.5
12.7
43.2
76.5
1935年 ねん
7.7
3.8
13.1
9.9
34.5
14.1
6.2
5.8
39.4
65.5
1938年 ねん
9.8
3.8
14.9
11.4
39.3
11.9
5.2
7.4
35.8
60.1
輸出 ゆしゅつ に占 し める地域 ちいき 別 べつ 比重 ひじゅう (単位 たんい :%)
南東 なんとう 欧 おう
エジプト トルコ中近東 ちゅうきんとう
中南米 ちゅうなんべい
北欧 ほくおう
計 けい
西欧 せいおう
イギリス
アメリカ
その他 た
計 けい
1929年 ねん
4.3
1.4
7.3
10.2
23.2
26.2
9.7
7.4
33.5
76.8
1932年 ねん
3.5
1.3
4.1
9.4
18.3
31.9
7.8
4.9
37.1
81.7
1935年 ねん
5.9
3.4
9.1
11.4
29.8
26.1
8.8
4.0
31.3
70.2
1938年 ねん
10.3
5.4
11.7
12.9
40.3
20.8
6.7
2.8
29.4
59.7
財務 ざいむ 相 しょう クロージクはナチス・ドイツの租税 そぜい 政策 せいさく として、税 ぜい の社会 しゃかい 的 てき 公平 こうへい ・税 ぜい による人口 じんこう 政策 せいさく の保護 ほご ・租税 そぜい 立法 りっぽう の範囲 はんい 内 ない における人格 じんかく 的 てき 価値 かち ・経済 けいざい 的 てき ・社会 しゃかい 的 てき 関係 かんけい の考慮 こうりょ をあげていた。戦前 せんぜん からドイツでは一人 ひとり あたり税 ぜい 負担 ふたん が高 たか く、個人 こじん 所得 しょとく 税 ぜい の大幅 おおはば な増税 ぞうぜい はなかった。代 か わりに利潤 りじゅん や高 こう 所得 しょとく 者 しゃ への税率 ぜいりつ を引 ひ き上 あ げた。
子女 しじょ 控除 こうじょ
1934年 ねん 10月 がつ 16日 にち に制定 せいてい されたライヒ所得 しょとく 税法 ぜいほう で既婚 きこん 者 しゃ や子女 しじょ を持 も つ家庭 かてい は優遇 ゆうぐう され、8000マルク以上 いじょう の高額 こうがく 所得 しょとく 者 しゃ や独身 どくしん 者 しゃ などには負担 ふたん が増 ふ えることになった。1938年 ねん の改正 かいせい により、既婚 きこん 者 しゃ の所得 しょとく 税 ぜい 緩和 かんわ が行 おこな われる一方 いっぽう で、教会 きょうかい 税 ぜい の控除 こうじょ 制限 せいげん やユダヤ人 じん 家庭 かてい に対 たい する子女 しじょ 控除 こうじょ の除外 じょがい が行 おこな われた。1939年 ねん の改正 かいせい では結婚 けっこん 後 ご 5年 ねん を経 へ ても子女 しじょ を持 も たない既婚 きこん 者 しゃ と独身 どくしん 者 しゃ の差別 さべつ 化 か が果 は たされた。ナチ党 とう の思想 しそう による民族 みんぞく 共同 きょうどう 体内 たいない では民族 みんぞく の平準 へいじゅん 化 か が行 おこな われるが、共同 きょうどう 体 たい に属 ぞく さないユダヤ人 じん やスラブ人 じん に対 たい しては徹底的 てっていてき な差別 さべつ を行 おこな うものであった。このため戦時 せんじ に突入 とつにゅう するとポーランド人 じん 、ロマ に対 たい しては子女 しじょ 控除 こうじょ は認 みと められなくなった。
燃料 ねんりょう 税 ぜい
ドイツはIGファルベンによって合成 ごうせい 燃料 ねんりょう が進 すす められ、輸入 ゆにゅう 石油 せきゆ には課税 かぜい されて重要 じゅうよう な財源 ざいげん となった。1936年 ねん には輸入 ゆにゅう 石油 せきゆ への課税 かぜい は4億 おく 2100万 まん マルクで全 ぜん 税収 ぜいしゅう の30%だった。1936年 ねん 12月 がつ 以降 いこう は、財政 ざいせい の逼迫 ひっぱく によって国内 こくない 生産 せいさん の燃料 ねんりょう にも課税 かぜい されるようになった。
税 ぜい 控除 こうじょ
1939年 ねん の新 しん 財務 ざいむ 計画 けいかく により、政府 せいふ に財 ざい やサービスを納入 のうにゅう する業者 ぎょうしゃ は、支払 しはらい 額 がく の40%以上 いじょう を現金 げんきん の代 か わりに税 ぜい 控除 こうじょ として受 う け取 と ることが定 さだ められた。この控除 こうじょ は実質 じっしつ 的 てき には低利 ていり 融資 ゆうし の強制 きょうせい だったが財政難 ざいせいなん の解決 かいけつ にはならなかった。
当時 とうじ のドイツは債務 さいむ 国 こく であり、公的 こうてき ・民間 みんかん をあわせた対外 たいがい 債務 さいむ は1933年 ねん 2月 がつ 28日 にち の段階 だんかい で187億 おく 2千 せん 万 まん マルクに達 たっ していた。対象 たいしょう 国 こく はアメリカが40%を占 し め、次 つ いでオランダとスイスの順 じゅん であった。この膨大 ぼうだい な債務 さいむ は1931年 ねん のスターリング・ポンド の切 き り下 さ げ と、1933年 ねん 春 はる のアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく ドル切 き り下 さ げによって1933年 ねん 中 ちゅう に42億 おく マルク減少 げんしょう し、1940年 ねん 9月 がつ 末 まつ の時点 じてん では1933年 ねん から比 くら べて96億 おく マルク減少 げんしょう している。
政府 せいふ は1933年 ねん 6月 がつ に対外 たいがい 債務 さいむ 返済 へんさい の停止 ていし を決定 けってい した。対外 たいがい 債務 さいむ はマルクで返済 へんさい は続 つづ けるが、マルクは外貨 がいか に替 か えられなかった。外貨 がいか による返済 へんさい 再開 さいかい はドイツの貿易 ぼうえき 黒字 くろじ が健全 けんぜん になるまで延期 えんき とされ、債権 さいけん 国 こく が返済 へんさい を望 のぞ むならドイツ製品 せいひん を輸入 ゆにゅう しなければならないことを意味 いみ した。この決定 けってい はアメリカ・イギリス・フランスを中心 ちゅうしん とする各国 かっこく や資本 しほん 家 か の反感 はんかん を呼 よ んだが、米 べい 英 えい 仏 ふつ の3ヶ国 かこく は経済 けいざい 政策 せいさく で分裂 ぶんれつ しておりドイツ対策 たいさく で協調 きょうちょう ができなかった。
ナチ党 とう はヴェルサイユ条約 じょうやく の破棄 はき を主張 しゅちょう しており、ヒトラーも1933年 ねん 2月 がつ 3日 にち にハンマーシュタイン=エクヴォルト 兵務 へいむ 局 きょく 長 ちょう 宅 たく で開 ひら かれた会談 かいだん (de:Liebmann-Aufzeichnung )において、国防 こくぼう 軍 ぐん 首脳 しゅのう に再 さい 軍備 ぐんび を約束 やくそく していた。1933年 ねん の予算 よさん では軍事 ぐんじ 費 ひ は激増 げきぞう こそはしなかったものの、ドイツ航空 こうくう 省 しょう を設置 せっち して空軍 くうぐん の創設 そうせつ 準備 じゅんび を開始 かいし していた。また雇用 こよう 計画 けいかく である緊急 きんきゅう 計画 けいかく の費用 ひよう のうち1億 おく 9千 せん 万 まん マルクを始 はじ めとして、雇用 こよう 創出 そうしゅつ 費用 ひよう の一部 いちぶ を再 さい 軍備 ぐんび 費 ひ として流用 りゅうよう することには、ヒトラー自身 じしん の強 つよ いリーダーシップがあった。また自動車 じどうしゃ 産業 さんぎょう の育成 いくせい や、民間 みんかん 施設 しせつ への地下 ちか 防空壕 ぼうくうごう 建設 けんせつ など、軍事 ぐんじ 費 ひ には含 ふく まれないものの準 じゅん 軍事 ぐんじ 的 てき な政策 せいさく も多 おお く見 み られる。8月1日 にち には軍備 ぐんび 計画 けいかく が立 た てられ、1939年 ねん 10月 がつ 1日 にち の時点 じてん で平時 へいじ 軍 ぐん 83万 まん 人 にん 、戦時 せんじ 軍 ぐん 462万 まん 人 にん (野戦 やせん 軍 ぐん 102個 こ 師団 しだん をふくむ)の編成 へんせい を目標 もくひょう としていた。
一方 いっぽう で雇用 こよう 問題 もんだい が一段落 いちだんらく した1935年 ねん 5月 がつ 21日 にち にはシャハトが戦争 せんそう 経済 けいざい 全権 ぜんけん に就任 しゅうにん しているなど、将来 しょうらい の戦争 せんそう 計画 けいかく も明 あき らかにしている。軍事 ぐんじ 費 ひ は1933年度 ねんど の7億 おく 2千 せん 万 まん マルクから1934年度 ねんど には33億 おく マルクと大幅 おおはば に増額 ぞうがく し、以降 いこう も増大 ぞうだい を続 つづ けた。第 だい 二 に 次 じ 四 よん カ年 かねん 計画 けいかく が始 はじ まった1936年 ねん には前年 ぜんねん 比 ひ から倍増 ばいぞう し、一 ひと つの画 が 期 き となった。
これらの事情 じじょう から研究 けんきゅう 者 しゃ での間 あいだ では、雇用 こよう 問題 もんだい が解決 かいけつ されてから軍備 ぐんび 増強 ぞうきょう が本格 ほんかく 化 か されたという二 に 段階 だんかい 説 せつ [注釈 ちゅうしゃく 25] と、政権 せいけん 獲得 かくとく 後 ご から軍備 ぐんび が継続 けいぞく されていたという一 いち 段階 だんかい 説 せつ [注釈 ちゅうしゃく 26] がある。増大 ぞうだい する軍事 ぐんじ 費 ひ で重要 じゅうよう な位置 いち を占 し めたのがメフォ手形 てがた であり、1933年 ねん から1937年 ねん までの軍事 ぐんじ 費 ひ 総計 そうけい 324億 おく マルク の内 うち 、メフォ手形 てがた によって捻出 ひねりだ されたのは3分 ぶん の2に近 ちか い204億 おく マルクであった。1941年 ねん に海軍 かいぐん 財政 ざいせい 局 きょく は1933年 ねん 以降 いこう の状態 じょうたい を回顧 かいこ して、困難 こんなん がなかったわけではないが、「(資金 しきん は)常 つね にほとんど無制限 むせいげん に提供 ていきょう された」としている。
再 さい 軍備 ぐんび 宣言 せんげん が行 おこな われ、第 だい 二 に 次 じ 四 よん カ年 かねん 計画 けいかく 期 き に入 はい ると軍事 ぐんじ 準備 じゅんび は公然 こうぜん 化 か した。1936年 ねん にフロムが作成 さくせい した予測 よそく では、国防 こくぼう 軍 ぐん の支出 ししゅつ は1939年 ねん から1942年 ねん にかけて年間 ねんかん 300億 おく マルク増加 ぞうか する見通 みとお しとなった[注釈 ちゅうしゃく 27] 。1935年 ねん から1938年 ねん までの総 そう 生産 せいさん 増加 ぞうか 分 ぶん の約 やく 47%が軍事 ぐんじ 支出 ししゅつ にあたり、これに再 さい 軍備 ぐんび 優先 ゆうせん の投資 とうし を加 くわ えると67%となる。1935年 ねん の国家 こっか の購入 こうにゅう による財 ざい とサービスの70%は国防 こくぼう 軍 ぐん であり、1938年 ねん には80%に増 ふ えた。
しかしドイツ経済 けいざい の抱 かか える資源 しげん 不足 ふそく や労働 ろうどう 者 しゃ 不足 ふそく は軍備 ぐんび の分野 ぶんや でも問題 もんだい となっていた。四 よん カ年 かねん 計画 けいかく の責任 せきにん 者 しゃ でもあり、空軍 くうぐん 司令 しれい 官 かん であるゲーリングは空軍 くうぐん に対 たい する資源 しげん 割 わ り当 あ てを増 ふ やす傾向 けいこう があり、海軍 かいぐん や陸軍 りくぐん との間 あいだ で熾烈 しれつ な資源 しげん 争奪 そうだつ 戦 せん が行 おこな われた。ヴェルナー・フォン・ブロンベルク 国防 こくぼう 相 しょう はヒトラーの調停 ちょうてい を求 もと め、1937年 ねん 11月3日 にち に軍 ぐん 首脳 しゅのう とヒトラーによる秘密 ひみつ 会議 かいぎ が開催 かいさい された。しかしこの席 せき でヒトラーは、食糧 しょくりょう 問題 もんだい や原料 げんりょう 問題 もんだい を解決 かいけつ するための領土 りょうど 拡張 かくちょう 政策 せいさく を強 つよ く主張 しゅちょう した。具体 ぐたい 的 てき には、1938年 ねん から1945年 ねん の間 あいだ に好機 こうき が訪 おとず れれば、チェコスロバキアやオーストリアに対 たい して軍事 ぐんじ 活動 かつどう を起 お こすことを表明 ひょうめい したが、陸軍 りくぐん や海軍 かいぐん は難色 なんしょく を示 しめ した。この後 のち 、ブロンベルク国防 こくぼう 相 しょう や陸軍 りくぐん 総 そう 司令 しれい 官 かん ヴェルナー・フォン・フリッチュ はナチ党 とう の策動 さくどう によるスキャンダルで失脚 しっきゃく させられ(ブロンベルク罷免 ひめん 事件 じけん )、国防 こくぼう 軍 ぐん も完全 かんぜん にナチ党 とう 勢力 せいりょく 下 か に入 はい った。その後 ご も党 とう 機関 きかん や各 かく 軍 ぐん の資源 しげん ・労働 ろうどう 力 りょく 争奪 そうだつ 戦 せん はやまず、効率 こうりつ 的 てき な軍拡 ぐんかく は行 おこな われなかった。1938年 ねん になると財政 ざいせい 状態 じょうたい が危機 きき を迎 むか えたため、予定 よてい されていた予算 よさん が初 はじ めて実行 じっこう されないという事態 じたい を迎 むか え、12月には国防 こくぼう 軍 ぐん 最高 さいこう 司令 しれい 部 ぶ が軍事 ぐんじ 費 ひ の抑制 よくせい を各 かく 軍 ぐん に呼 よ びかけている。第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 開始 かいし 時 じ の航空機 こうくうき 生産 せいさん はイギリスと同 どう 程度 ていど 、戦車 せんしゃ にいたってはイギリス以下 いか であった。
ドイツの軍備 ぐんび 支出 ししゅつ (単位 たんい :百 ひゃく 万 まん マルク、会計 かいけい 年度 ねんど )[注釈 ちゅうしゃく 28]
軍需 ぐんじゅ 省 しょう
陸軍 りくぐん
海軍 かいぐん
空軍 くうぐん
計 けい
メフォ手形 てがた
計 けい
国民 こくみん 所得 しょとく 中 ちゅう の軍備 ぐんび 支出 ししゅつ 割合 わりあい
1932年 ねん
-
457
173
-
630
-
630
1.3%
1933年 ねん
-
478
192
76
746
-
746
1.5%
1934年 ねん
3
1,010
297
642
1,952
2,145
4,097
7.8%
1935年 ねん
5
1,392
339
1,036
2,772
2,715
5,487
9.3%
1936年 ねん
128
3,020
448
2,225
5,821
4,452
10,273
15.7%
1937年 ねん
346
3,990
679
3,258
8,273
2,688
10,961
15.0%
1938年 ねん
452
9,137
1,632
6,926
17,247
-
17,247
21.0%
1939年 ねん
258
5,611
2,095
3,942
11,906
-
11,906
-
1934-1938合計 ごうけい
1,192
24,160
5,491
17,128
47,971
12,000
59,971
-
各国 かっこく の国家 こっか 財政 ざいせい に占 し める軍事 ぐんじ 費 ひ 割合 わりあい (%)[注釈 ちゅうしゃく 29]
ドイツ
イギリス
フランス
イタリア
日本 にっぽん
1929-1930年 ねん
6.5
14.6
22.0
25.2
36.1
1933-1934年 ねん
12.6
13.9
22.7
21.4
38.7
1936-1937年 ねん
67.0
24.1
29.9
53.6
48.7
1928年 ねん から1938年 ねん の工業 こうぎょう 生産 せいさん 指数 しすう (1929年 ねん =100)[注釈 ちゅうしゃく 30]
総 そう 生産 せいさん
投資 とうし 財 ざい
消費 しょうひ 財 ざい
機械 きかい
乗用車 じょうようしゃ
紡績 ぼうせき
銑鉄 せんてつ
粗鋼 そこう
石炭 せきたん
1928年 ねん
98.6
97.1
103.1
99.1
109.8
108.2
89.0
89.0
92.1
1929年 ねん
100
100
100
100
100
100
100
100
100
1930年 ねん
85.9
81.6
94.0
82.4
72.4
97.4
73.0
71.0
87.0
1931年 ねん
67.6
52.6
89.2
59.0
51.3
94.9
45.7
51.0
72.5
1932年 ねん
53.3
34.4
76.3
39.2
31.4
86.6
29.6
35.5
64.0
1933年 ねん
60.7
43.6
82.6
46.8
65.5
98.1
39.7
46.6
67.0
1934年 ねん
79.8
72.6
92.4
62.5
104.9
106.8
65.9
73.0
76.3
1935年 ねん
94.0
99.4
88.2
82.1
149.4
98.5
91.2
101.1
87.5
1936年 ねん
106.3
113.2
98.7
98.7
177.6
106.5
115.2
118.1
96.6
1937年 ねん
117.2
124.4
104.6
119.6
214.4
108.1
120.2
122.1
112.9
1938年 ねん
127.6
142.3
114.9
138.3
187.3
115.8
143.5
148.0
116.5
国家 こっか 財政 ざいせい 収支 しゅうし と公債 こうさい 残高 ざんだか (単位 たんい :億 おく マルク)[注釈 ちゅうしゃく 31] 表 ひょう 中 ちゅう ()内 ない は増減 ぞうげん 。
租税 そぜい 収入 しゅうにゅう
財政 ざいせい 支出 ししゅつ
赤字 あかじ
公債 こうさい 残高 ざんだか
短期 たんき 債 さい 残高 ざんだか
雇用 こよう 創出 そうしゅつ 債 さい 残高 ざんだか
メフォ手形 てがた 残高 ざんだか
中長期 ちゅうちょうき 債 さい 残高 ざんだか
1932年 ねん
64.2
73.2
9.0
123.9
11.0
-
-
112.9
1933年 ねん
59.9
84.3
24.4
139.5(+15.7)
29.6(+18.6)
14.4(+14.4)
-
110.0(-2.9)
1934年 ねん
80.6
106.6
26.0
159.8(+20.3)
56.2(+26.7)
14.9(+10.5)
21.5(+21.5)
103.6(-6.4)
1935年 ねん
90.7
139.0
42.0
201.8(+42.0)
84.7(+28.5)
11.3(-3.6)
48.6(+27.2)
117.1(+13.5)
1936年 ねん
115.5
173.5
58.0
258.9(+57.1)
120.4(+35.7)
7.6(-3.7)
93.1(+44.5)
138.5(+21.4)
1937年 ねん
140.3
194.3
54.0
312.8(+53.9)
143.0(+22.7)
3.8(-3.8)
120.0(+26.9)
169.8(+31.3)
1938年 ねん
177.3
283.3
105.0
417.8(+105.0)
180.2(+37.2)
0(-3.8)
119.0(-1.0)
237.7(+67.9)
国民 こくみん 総 そう 支出 ししゅつ (単位 たんい :億 おく マルク)[注釈 ちゅうしゃく 32] 表 ひょう 中 ちゅう ()内 ない は総 そう 支出 ししゅつ に対 たい する割合 わりあい 。
国民 こくみん 総 そう 支出 ししゅつ
個人 こじん 消費 しょうひ
政府 せいふ 部門 ぶもん
軍事 ぐんじ 支出 ししゅつ
道路 どうろ 鉄道 てつどう 投資 とうし
その他 た 公共 こうきょう 投資 とうし
民間 みんかん 設備 せつび 投資 とうし
工業 こうぎょう 投資 とうし
住宅 じゅうたく 建築 けんちく
1928年 ねん
894
639(71.5)
103(11.5)
8.3
22.3
41.8
71.6(8.0)
26.2
15.0
1932年 ねん
568
471(82.9)
56(9.9)
6.2
8.1
11.7
22.0(3.9)
4.4
6.1
1933年 ねん
587
475(80.9)
63(10.7)
7.2
12.4
11.9
25.7(4.4)
5.6
6.9
1934年 ねん
661
500(75.6)
92(13.9)
33.0
16.9
17.7
36.7(5.6)
10.6
10.8
1935年 ねん
733
521(71.1)
125(17.1)
51.5
18.8
20.1
47.4(6.5)
16.4
13.4
1936年 ねん
814
523(64.3)
169(20.8)
90.0
21.4
20.8
61.9(7.6)
21.6
20.3
1937年 ねん
915
571(62.4)
204(22.3)
108.5
24.0
22.2
69.1(7.6)
28.4
19.2
1938年 ねん
1,020
606(59.4)
262(25.7)
155.0
33.8
21.5
80.8(7.9)
36.9
19.0
1944年 ねん 発行 はっこう の寄附 きふ 金 きん 付 づけ 切手 きって 。54ペニヒの額面 がくめん に対 たい し、96ペニヒが寄付 きふ 金 きん となる。
1939年 ねん 8月 がつ 30日 にち 、戦時 せんじ 総動員 そうどういん 体制 たいせい の最高 さいこう 中枢 ちゅうすう 機関 きかん として国防 こくぼう 閣僚 かくりょう 会議 かいぎ (ドイツ語 ご 版 ばん ) が設置 せっち された。しかし基本 きほん 的 てき な経済 けいざい 政策 せいさく は第 だい 二 に 次 じ 四 よん ヵ年 かねん 計画 けいかく 期 き の継続 けいぞく であり、経済 けいざい 計画 けいかく の統一 とういつ 性 せい がより失 うしな われていった。しかしそれは一 いち 面 めん では変化 へんか する状況 じょうきょう に応 おう じやすいということでもあり、戦況 せんきょう や占領 せんりょう 地 ち の変化 へんか に適合 てきごう した政策 せいさく が取 と れるということでもあった。
1939年 ねん 9月 がつ のポーランド侵攻 しんこう から1940年 ねん 5月 がつ のフランス侵攻 しんこう にいたる一連 いちれん の勝利 しょうり によって、ドイツはヨーロッパを横断 おうだん する経済 けいざい 圏 けん を確保 かくほ した。経済 けいざい ブロックにするとGDP合計 ごうけい はアメリカやイギリスよりも大 おお きく、影響 えいきょう 下 か の人口 じんこう は2.9億 おく 人 にん 、面積 めんせき はアメリカより若干 じゃっかん 小 ちい さい規模 きぼ となる。ドイツが奪 うば った財 ざい は、フランスから77億 おく マルク相当 そうとう の財 ざい や130億 おく マルク相当 そうとう の原材料 げんざいりょう 、フランス・ベルギー・オランダから銅 どう 8万 まん トンや錫 すず ・ニッケルなどがあり、当面 とうめん の備蓄 びちく 問題 もんだい は解消 かいしょう された。
ドイツは広大 こうだい な経済 けいざい 圏 けん と戦利 せんり 品 ひん を得 え たものの、ヒトラーが目標 もくひょう とした自給自足 じきゅうじそく による生存 せいぞん 圏 けん は実現 じつげん しなかった。イギリスのウィンストン・チャーチル 政権 せいけん は戦争 せんそう の維持 いじ を決 き めており、アメリカも対 たい ドイツ戦 せん のために軍備 ぐんび を進 すす め、1940年 ねん 12月にはアメリカで武器 ぶき 貸与 たいよ 法 ほう が成立 せいりつ した。ドイツ圏 けん と英 えい 米 べい には依然 いぜん として経済 けいざい 格差 かくさ があり、特 とく にドイツ圏 けん では食糧 しょくりょう 、石炭 せきたん 、石油 せきゆ が不足 ふそく していた。石油 せきゆ はルーマニアからの輸入 ゆにゅう に依存 いぞん しており、占領 せんりょう 地 ち が拡大 かくだい すると石油 せきゆ 消費 しょうひ は増加 ぞうか して1941年 ねん から各地 かくち で逼迫 ひっぱく した[注釈 ちゅうしゃく 33] 。
ヒトラーは、アメリカ参戦 さんせん の前 まえ にソ連 それん を制圧 せいあつ するためにバルバロッサ作戦 さくせん を行 おこな った。ウクライナの穀倉 こくそう 地帯 ちたい やコーカサスの油田 ゆでん などの資源 しげん を確保 かくほ するという経済 けいざい 的 てき な目的 もくてき だったが、フランツ・ハルダー などの将軍 しょうぐん は作戦 さくせん の成功 せいこう について悲観 ひかん 的 てき だった。ソ連 それん は当時 とうじ のアメリカとドイツに次 つ ぐ経済 けいざい 規模 きぼ であり、消耗 しょうもう 戦 せん になればドイツの不利 ふり になることが明 あき らかだった[注釈 ちゅうしゃく 34] 。フランス戦 せん と同様 どうよう に、ソ連 それん 戦 せん も短期間 たんきかん で終 お わらせることが目標 もくひょう になったが、1941年 ねん までにソ連 それん を制圧 せいあつ するという目標 もくひょう は達成 たっせい されなかった。
ドイツでは全面 ぜんめん 勝利 しょうり が実現 じつげん するまでは講和 こうわ 条約 じょうやく を締結 ていけつ する予定 よてい はなかった。そのため占領 せんりょう 地 ち に対 たい する賠償金 ばいしょうきん はなく、占領 せんりょう 費用 ひよう という名目 めいもく で占領 せんりょう 地 ち から定期 ていき 的 てき に支払 しはら われた。占領 せんりょう 費用 ひよう は、ドイツが中央 ちゅうおう 決済 けっさい システム(貿易 ぼうえき を参照 さんしょう )で積 つ み上 あ げる赤字 あかじ を超 こ える額 がく であり、基地 きち の建設 けんせつ 、闇 やみ 市場 いちば での原材料 げんざいりょう や消費 しょうひ 財 ざい の購入 こうにゅう などにもあてられた。フランスに対 たい しては、占領 せんりょう 費用 ひよう の代 か わりにフランス企業 きぎょう の株式 かぶしき でも支払 しはら いを認 みと めると交渉 こうしょう したが、実現 じつげん しなかった。
戦費 せんぴ 調達 ちょうたつ は債券 さいけん 増発 ぞうはつ でまかなわれることになり、債務 さいむ は1944年 ねん 11月 がつ までの間 あいだ に3091億 おく マルク増加 ぞうか した。ライヒスバンクの対 たい 政府 せいふ 信用 しんよう 供与 きょうよ も倍増 ばいぞう 以上 いじょう となり、1941年 ねん の時点 じてん で200億 おく マルクを突破 とっぱ した。開戦 かいせん 前 まえ の数ヶ月 すうかげつ 間 あいだ には、貯蓄 ちょちく 銀行 ぎんこう で巨額 きょがく の預金 よきん が引 ひ き出 だ され、人々 ひとびと が必需 ひつじゅ 品 ひん を備蓄 びちく するために使 つか われた。1940年 ねん 以降 いこう の配給 はいきゅう 制 せい や商店 しょうてん での品薄 しなうす の影響 えいきょう が広 ひろ がると、今度 こんど は預金 よきん が集 あつ まるようになり、1941年 ねん は月額 げつがく 10億 おく マルク以上 いじょう が預金 よきん された。各地 かくち の貯蓄 ちょちく 銀行 ぎんこう の預金 よきん は、ライヒスバンクが資金 しきん 調達 ちょうたつ のために利用 りよう した。政府 せいふ は株式 かぶしき 市場 いちば での投資 とうし を規制 きせい し、民間 みんかん 投資 とうし 家 か が国債 こくさい を買 か うように誘導 ゆうどう した。
税制 ぜいせい では、法人 ほうじん 税率 ぜいりつ が1941年 ねん に40%から50%、1942年 ねん からは55%に引 ひ き上 あ げられた。これによって1941年 ねん から1943年 ねん にかけて合計 ごうけい 30億 おく マルク以上 いじょう 税収 ぜいしゅう が増 ふ えた。さらに家賃 やちん 税 ぜい の10年 ねん 分 ぶん 前払 まえばら いによって80億 おく マルクを徴収 ちょうしゅう した。
開戦 かいせん から数ヶ月 すうかげつ で輸入 ゆにゅう 量 りょう が80%減少 げんしょう し、大 だい 恐慌 きょうこう 時代 じだい (1932年 ねん )の30%ほどまで下 さ がった。銅 どう と石油 せきゆ の輸入 ゆにゅう はほぼゼロとなった。1940年 ねん には占領 せんりょう 地 ち や中立 ちゅうりつ 国 こく を加 くわ えると大 だい 規模 きぼ な経済 けいざい 圏 けん となったため、8月 がつ から占領 せんりょう 地 ち に対 たい して中央 ちゅうおう 決済 けっさい システムが導入 どうにゅう され、ヨーロッパ経済 けいざい へのドイツの影響 えいきょう 力 りょく を強 つよ めた。このシステムはグスタフ・シュロッサーによって考案 こうあん され、ドイツが貿易 ぼうえき 赤字 あかじ をため込 こ む代 か わりに各国 かっこく からの輸入 ゆにゅう を容易 ようい にする目的 もくてき があった。各国 かっこく の輸出 ゆしゅつ 業者 ぎょうしゃ は支払 しはら いを受 う けるときに、ドイツの輸入 ゆにゅう 業者 ぎょうしゃ からではなく自国 じこく の中央 ちゅうおう 銀行 ぎんこう から自国 じこく 通貨 つうか で受 う け取 と った。そして各国 かっこく の中央 ちゅうおう 銀行 ぎんこう は、負債 ふさい をベルリンの決済 けっさい 口座 こうざ につけた。これによってドイツは輸入 ゆにゅう 品 ひん を受 う け取 と り、輸出 ゆしゅつ 業者 ぎょうしゃ は支払 しはら いを受 う けるが、ベルリンにある口座 こうざ は清算 せいさん されなかった。他方 たほう でドイツは輸出 ゆしゅつ も続 つづ けており、同盟 どうめい 国 こく (ルーマニア、イタリア、フィンランド、クロアチア等 とう )や中立 ちゅうりつ 国 こく (スウェーデン、トルコ等 とう )に対 たい しては貿易 ぼうえき 収支 しゅうし の均衡 きんこう を維持 いじ した。
貿易 ぼうえき とともに、ドイツ資本 しほん の進出 しんしゅつ も行 おこな われた。アルザス・ロレーヌ 地方 ちほう の重工業 じゅうこうぎょう はドイツ企業 きぎょう が接収 せっしゅう し、信託 しんたく 運用 うんよう 権 けん を使 つか ってノルウェーのアルミ産業 さんぎょう や発電 はつでん 産業 さんぎょう を支配 しはい 下 か に置 お いた。オランダでは、多 た 国籍 こくせき 企業 きぎょう のフィリップス ・ロイヤル・ダッチ・シェル ・ユニリーバ は所有 しょゆう 権 けん を移転 いてん して逃 のが れた。ドイツの影響 えいきょう 下 か に置 お かれたのはNVヴェルクシュポール やシュタートリッヒェン・アーティリエ・インリヒティンゲン 、合成 ごうせい 繊維 せんい 業 ぎょう のアルゲメネ・クンツトツィデ・ウニー (AKU)などだった。フランス、ベルギー、ルクセンブルクでのドイツ資本 しほん は影響 えいきょう 力 りょく が小 ちい さかった。一連 いちれん の接収 せっしゅう や買収 ばいしゅう で主 おも に利益 りえき を得 え たのはドイツの民間 みんかん 企業 きぎょう ではなく、ヘルマン・ゲーリング国家 こっか 工場 こうじょう のような半官半民 はんかんはんみん 企業 きぎょう だった。
インフラ面 めん では、鉄道 てつどう の劣化 れっか が輸送 ゆそう の障害 しょうがい となった。国営 こくえい 鉄道 てつどう は1929年 ねん から劣化 れっか が進 すす んでいたことに加 くわ えて、収益 しゅうえき はアウトバーンの建設 けんせつ やバス・トラックの拡張 かくちょう に使 つか われており、貨物 かもつ 車両 しゃりょう は1920年代 ねんだい 末 まつ の67万 まん 両 りょう から1937年 ねん には57万 まん 両 りょう まで減少 げんしょう していた。兵士 へいし の輸送 ゆそう が滞 とどこお り、石炭 せきたん の供給 きょうきゅう も遅 おく れて軍備 ぐんび 企業 きぎょう の10%が影響 えいきょう を受 う けた。1940年 ねん 以降 いこう は占領 せんりょう 地 ち の貨車 かしゃ を接収 せっしゅう して80万 まん 両 りょう となったが、占領 せんりょう 地 ち のフランスで貨車 かしゃ が不足 ふそく したために石炭 せきたん 生産 せいさん や製造 せいぞう 業 ぎょう の生産 せいさん が減少 げんしょう する結果 けっか となった。
食糧 しょくりょう 調達 ちょうたつ は海外 かいがい 輸入 ゆにゅう が途絶 とぜつ したが、非 ひ 制圧 せいあつ 諸国 しょこく からの移入 いにゅう により状況 じょうきょう は悪化 あっか しなかった。他方 たほう 、ポーランドをはじめ占領 せんりょう された地域 ちいき は食糧 しょくりょう 不足 ふそく となった。食糧 しょくりょう 配給 はいきゅう では、ドイツ人 じん が1人 ひとり あたり2600キロカロリーで、ポーランド人 じん は609キロカロリー、ユダヤ人 じん は503キロカロリーだった。軍 ぐん 以外 いがい の食糧 しょくりょう 消費 しょうひ 額 がく は1942年 ねん までに20%減少 げんしょう したが、これは肉類 にくるい が減少 げんしょう してジャガイモや豆 まめ が増加 ぞうか するといった質 しつ の悪化 あっか によるもので、カロリー ベースではほとんど変化 へんか はなかった。
消費 しょうひ 財 ざい 生産 せいさん は1940年 ねん を100とすると44年 ねん には食糧 しょくりょう が88、皮革 ひかく ・繊維 せんい ・被服 ひふく の分野 ぶんや は79にまで減少 げんしょう した。また穀倉 こくそう 地 ち であったウクライナやポーランドを奪還 だっかん されて以降 いこう は、食糧 しょくりょう 調達 ちょうたつ を国内 こくない 生産 せいさん に頼 たよ らざるを得 え なくなった。ヒトラーは総 そう 力戦 りきせん によって国民 こくみん 生活 せいかつ に負担 ふたん をかけることを躊躇 ちゅうちょ しており、戦局 せんきょく が一時 いちじ 的 てき に好転 こうてん すると1942年 ねん 1月 がつ の布告 ふこく を後悔 こうかい する言動 げんどう を見 み せたり、1943年 ねん 4月 がつ に民需 みんじゅ 品 ひん 購入 こうにゅう の無用 むよう な制限 せいげん を望 のぞ まない旨 むね を言明 げんめい していたが、1944年 ねん 以降 いこう は食料 しょくりょう 品 ひん の不足 ふそく が明 あき らかになった。また1943年 ねん からは連合 れんごう 軍 ぐん の戦略 せんりゃく 爆撃 ばくげき が盛 さか んになり、1944年 ねん 9~10月 がつ の爆 ばく 撃 げき ではダイムラー・ベンツ の工場 こうじょう が操業 そうぎょう 停止 ていし に追 お い込 こ まれるなど多大 ただい な損害 そんがい を与 あた えた。政府 せいふ は空爆 くうばく の被害 ひがい を抑 おさ えるため、生産 せいさん 拠点 きょてん の移転 いてん ・疎開 そかい ・分散 ぶんさん 化 か を図 はか ったが、すでに戦後 せんご を考 かんが えていた企業 きぎょう 経営 けいえい 者 しゃ による消極 しょうきょく 的 てき 抵抗 ていこう も見 み られた。
1940年 ねん 3月 がつ には軍需 ぐんじゅ 省 しょう が設置 せっち され、トートが軍需 ぐんじゅ 大臣 だいじん となった。戦争 せんそう 開始 かいし 後 ご には軍事 ぐんじ 費 ひ と軍需 ぐんじゅ 生産 せいさん が増加 ぞうか したが、フランス とポーランド を支配 しはい 下 か においてなお、1940年 ねん から1941年 ねん にかけては軍需 ぐんじゅ 物資 ぶっし 増産 ぞうさん は停滞 ていたい した。独 どく ソ戦 せん 開始 かいし 後 ご の1941年 ねん 6月23日 にち にゲーリングは特別 とくべつ 軍備 ぐんび 計画 けいかく いわゆる「ゲーリング計画 けいかく 」を発 はっ した。空軍 くうぐん 力 りょく を2年 ねん から2年 ねん 半 はん の間 あいだ に4倍 ばい 拡張 かくちょう するほか、軽金属 けいきんぞく ・航空 こうくう 燃料 ねんりょう ・火薬 かやく ・爆薬 ばくやく の大 だい 増産 ぞうさん を行 おこな う大 だい 規模 きぼ な計画 けいかく であったが、空軍 くうぐん 偏重 へんちょう に対 たい する陸軍 りくぐん や軍需 ぐんじゅ 企業 きぎょう の強 つよ い抵抗 ていこう を招 まね いた。一方 いっぽう で損耗 そんこう も増加 ぞうか し、軍需 ぐんじゅ 生産 せいさん の先行 さきゆ きが悲観 ひかん 的 てき であると感 かん じた軍需 ぐんじゅ 相 しょう トートは、早期 そうき 終戦 しゅうせん をヒトラーに進言 しんげん していた。
独 どく ソ戦 せん が停滞 ていたい の様相 ようそう を見 み せ始 はじ めた1942年 ねん 1月 がつ にヒトラーは総統 そうとう 布告 ふこく を出 だ し、消費 しょうひ 生活 せいかつ を犠牲 ぎせい にしてでも軍需 ぐんじゅ 、とくにUボート や東部 とうぶ 戦線 せんせん 用 よう の戦車 せんしゃ に代表 だいひょう される兵器 へいき の生産 せいさん 拡大 かくだい を命令 めいれい した。2月にトートが航空機 こうくうき 事故 じこ で死亡 しぼう すると、後任 こうにん には建築 けんちく 家 か アルベルト・シュペーア が任 にん じられた。シュペーアはトートの敷 し いた軍需 ぐんじゅ 省 しょう 機構 きこう 改革 かいかく 路線 ろせん を引 ひ き継 つ ぎ、4月 がつ には軍需 ぐんじゅ 省 しょう 傘下 さんか の中央 ちゅうおう 計画 けいかく 庁 ちょう が設置 せっち された。軍需 ぐんじゅ 省 しょう への権限 けんげん 集中 しゅうちゅう は進 すす み、3月には航空機 こうくうき を除 のぞ く空軍 くうぐん 兵器 へいき と軍艦 ぐんかん の生産 せいさん 権限 けんげん 、5月には国防省 こくぼうしょう の経済 けいざい 軍需 ぐんじゅ 局 きょく を吸収 きゅうしゅう し、国防省 こくぼうしょう の発言 はつげん 力 りょく は低下 ていか した。シュペーアは兵器 へいき 生産 せいさん に関 かか わる戦車 せんしゃ をはじめとする13の分野 ぶんや の中央 ちゅうおう 委員 いいん 会 かい と、ボールベアリング など部品 ぶひん ごとに産業 さんぎょう リングを組織 そしき した。シュペーア自身 じしん によれば、これによって兵器 へいき 発注 はっちゅう に関 かん する固定 こてい 価格 かかく 制度 せいど 、一 いち 工場 こうじょう 一 いち 製品 せいひん 大量 たいりょう 生産 せいさん の原則 げんそく が普及 ふきゅう し、兵器 へいき 類 るい の大 だい 増産 ぞうさん につながったとする。しかし、シュペーアの施策 しさく の多 おお くは前任 ぜんにん 者 しゃ のトート時代 じだい に作 つく られていた。また、シュペーアが改革 かいかく する前 まえ のシステムは戦争 せんそう 初期 しょき の大量 たいりょう 動員 どういん には適 てき したシステムだった。大 だい 増産 ぞうさん を可能 かのう にしたのは弾薬 だんやく 生産 せいさん 用 よう の鋼鉄 こうてつ の配分 はいぶん 増加 ぞうか が理由 りゆう で、合理 ごうり 化 か ではなかった。中央 ちゅうおう 計画 けいかく 委員 いいん 会 かい のメンバーはシュペーア方式 ほうしき を破綻 はたん させないために国内 こくない 消費 しょうひ 者 しゃ への石炭 せきたん 割当 わりあて を減 へ らす方策 ほうさく を取 と っていた[注釈 ちゅうしゃく 35] 。原材料 げんざいりょう の供給 きょうきゅう 不足 ふそく により、シュペーア方式 ほうしき は1942年 ねん には破綻 はたん しかけていた。イギリス軍 ぐん がドイツ本土 ほんど の爆 ばく 撃 げき を始 はじ まると、コークスと鋼鉄 こうてつ ・中間 なかま 部品 ぶひん の供給 きょうきゅう 地 ち だったルール地方 ちほう も標的 ひょうてき となった。1943年 ねん のルール地方 ちほう への爆 ばく 撃 げき で鋼鉄 こうてつ 生産 せいさん は20万 まん トン減 へ り、部品 ぶひん の不足 ふそく が起 お きて軍需 ぐんじゅ 産業 さんぎょう 全 すべ てが打撃 だげき を受 う け、シュペーアによる増産 ぞうさん 計画 けいかく は予定 よてい 段階 だんかい で失敗 しっぱい した。
1942年 ねん から1944年 ねん の間 あいだ に工業 こうぎょう 純 じゅん 生産 せいさん 額 がく が10%伸 の びたが、軍需 ぐんじゅ 物資 ぶっし 生産 せいさん 額 がく は3倍 ばい に増加 ぞうか し、全体 ぜんたい の40%を占 し めることになった。軍需 ぐんじゅ 生産 せいさん のピークは1944年 ねん 7月 がつ であり、自動車 じどうしゃ と戦艦 せんかん が減少 げんしょう したほかはいずれも増大 ぞうだい したが、特 とく に戦車 せんしゃ の増産 ぞうさん が大 おお きかった。1945年 ねん の春 はる には石炭 せきたん 不足 ふそく で稼働 かどう する工場 こうじょう が激減 げきげん したため、ライン川 がわ が清流 せいりゅう になったという記録 きろく がある。
ポーランド侵攻 しんこう が開始 かいし された9月1日 にち には「労働 ろうどう 移動 いどう 制限 せいげん 令 れい 」が発令 はつれい され、労働 ろうどう 力 りょく の戦時 せんじ 配置 はいち が開始 かいし された。1939年 ねん 9月 がつ 1日 にち から1940年 ねん 9月 がつ 1日 にち までの間 あいだ に314万 まん 人 にん の男子 だんし が国防 こくぼう 軍 ぐん に徴兵 ちょうへい され、国防 こくぼう 軍 ぐん が動員 どういん した労働 ろうどう 力 りょく 総計 そうけい は1940年 ねん に570万 まん 人 にん 、1942年 ねん 5月 がつ には940万 まん 人 にん に達 たっ した。このため国防 こくぼう 軍 ぐん を除 のぞ く労働 ろうどう 人口 じんこう は1942年 ねん までに3910万 まん 人 にん から3130万 まん 人 にん へと減少 げんしょう していた。
1939年 ねん 3月 がつ に施行 しこう されていた「ヒトラーユーゲント法 ほう 第 だい 二 に 施行 しこう 令 れい 」によって勤労 きんろう 奉仕 ほうし 義務 ぎむ を持 も つ10歳 さい から18歳 さい の男女 だんじょ 青少年 せいしょうねん を徴用 ちょうよう した。しかし一方 いっぽう で、女子 じょし 労働 ろうどう 者 しゃ は出征 しゅっせい 前 まえ の兵士 へいし と結婚 けっこん する事例 じれい が増 ふ えた事 こと 、さらに既婚 きこん 者 しゃ は夫 おっと の労働 ろうどう 時間 じかん が増 ふ えて収入 しゅうにゅう は増 ふ えたが、商品 しょうひん を買 か う機会 きかい が減少 げんしょう したこともあり、女子 じょし 労働 ろうどう 者 しゃ は30万 まん 人 にん 減少 げんしょう している。また、軍需 ぐんじゅ 工場 こうじょう によっては労働 ろうどう 力 りょく を過剰 かじょう に確保 かくほ し、一種 いっしゅ の飼 か い殺 ごろ し状態 じょうたい にすることもあった。
ドイツ国内 こくない で働 はたら くポーランド労働 ろうどう 者 しゃ が着用 ちゃくよう を義務 ぎむ づけられた「P」マーク。
政府 せいふ はこれを補 おぎな うため、戦争 せんそう 捕虜 ほりょ や囚人 しゅうじん の労働 ろうどう 力 りょく を利用 りよう した。対 たい ポーランド戦 せん 勝利 しょうり によって35万 まん 人 にん の戦争 せんそう 捕虜 ほりょ と、その他 た 外国 がいこく 人 じん 労働 ろうどう 者 しゃ 29万 まん 5千 せん 人 にん が戦争 せんそう 遂行 すいこう 上 じょう の重要 じゅうよう 産業 さんぎょう に追加 ついか 供給 きょうきゅう された(第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 時 じ のドイツによる強制 きょうせい 労働 ろうどう (英語 えいご 版 ばん ) )。1940年 ねん には20万 まん 人 にん のポーランド人 じん がドイツ国内 こくない で労働 ろうどう に従事 じゅうじ させられた。ドイツ国内 こくない のポーランド人 じん は公共 こうきょう 交通 こうつう 機関 きかん の利用 りよう やドイツ人 じん との接触 せっしょく を禁止 きんし され、「P」の文字 もじ がついた札 さつ を身 み につける必要 ひつよう があった。
独 どく ソ戦 せん 開始 かいし 準備 じゅんび のため労働 ろうどう 力 りょく はさらに逼迫 ひっぱく したため、1941年 ねん 2月 がつ にはゲーリングの布告 ふこく で軍需 ぐんじゅ 省 しょう に労働 ろうどう 力 りょく 配置 はいち を監督 かんとく する「軍需 ぐんじゅ 大臣 だいじん 点検 てんけん 委員 いいん 会 かい 」(通称 つうしょう ・隘路 あいろ 委員 いいん 会 かい 、トート委員 いいん 会 かい )が設置 せっち された。6月20日 にち には委員 いいん 会 かい の権限 けんげん はさらに強化 きょうか され、軍需 ぐんじゅ 産業 さんぎょう への労働 ろうどう 力 りょく 配置 はいち 転換 てんかん をすすめたが、1941年 ねん 末 まつ までに38万 まん 4千 せん 人 にん と、当初 とうしょ の目標 もくひょう を10万 まん 人 にん 下回 したまわ った。独 どく ソ戦 せん の開始 かいし はさらに労働 ろうどう 力 りょく の逼迫 ひっぱく を招 まね き、ユダヤ人 じん が軍需 ぐんじゅ 工場 こうじょう から追放 ついほう されたことによってより悪化 あっか した。
1942年 ねん 5月 がつ までに420万 まん 人 にん の外国 がいこく 人 じん が投入 とうにゅう されたが、それを含 ふく めても非 ひ 国防 こくぼう 軍 ぐん 労働 ろうどう 力 りょく は10%減少 げんしょう している。これら労働 ろうどう 者 しゃ は人種 じんしゅ によって格付 かくづ けされ、西欧 せいおう 人 じん (フランス、オランダ、ベルギー)・東欧 とうおう 人 じん (枢軸 すうじく 国 こく 国民 こくみん [注釈 ちゅうしゃく 36] はドイツ人 じん とほぼ同 おな じ待遇 たいぐう を受 う けたものの、チェコスロバキア人 じん やポーランド人 じん やソ連 それん 人 じん (ロシア、ウクライナなど)は冷遇 れいぐう された。労働 ろうどう 者 しゃ の中 なか でもロシア人 じん に対 たい する待遇 たいぐう は悪 わる く、1941年 ねん 11月には彼 かれ らの「自給 じきゅう 」が要求 ようきゅう された。この際 さい に食糧 しょくりょう 次官 じかん ヘルベルト・バッケ はわらくずや木 こ の葉 は を混 ま ぜたパンのみを支給 しきゅう することを提案 ていあん している。この提案 ていあん 自体 じたい は通 とお らなかったものの、食糧 しょくりょう 事情 じじょう は劣悪 れつあく であり、1942年 ねん 4月 がつ 2日 にち のフリードリヒ・クルップ社 しゃ の報告 ほうこく では12%のロシア人 じん 捕虜 ほりょ が死亡 しぼう 、生存 せいぞん している捕虜 ほりょ も30%以上 いじょう は労働 ろうどう 不能 ふのう 状態 じょうたい である上 うえ に、移送 いそう されてきたロシア人 じん 労働 ろうどう 者 しゃ にはすでに飢餓 きが 浮腫 ふしゅ が見 み られたという。さらに過酷 かこく な条件 じょうけん の労働 ろうどう 者 しゃ としてはユダヤ人 じん がいたが、彼 かれ らに関 かん しては労働 ろうどう を通 つう じた絶滅 ぜつめつ が行 おこな われた(ホロコースト )。
ユダヤ人 じん の強制 きょうせい 労働 ろうどう 者 しゃ の行進 こうしん
1942年 ねん 5月 がつ にはシュペーアの主導 しゅどう でフリッツ・ザウケル が労働 ろうどう 力 りょく 配置 はいち 総監 そうかん に任 にん じられ、労働 ろうどう 力 りょく 調整 ちょうせい の全 ぜん 責任 せきにん 者 しゃ となった。ザウケルはソ連 それん 領 りょう を含 ふく む東部 とうぶ 占領 せんりょう 地域 ちいき から150万 まん 人 にん のソ連 それん 人 じん 男女 だんじょ をドイツに連行 れんこう するなど、徴用 ちょうよう による労働 ろうどう 力 りょく 確保 かくほ をさらに推 お し進 すす めた。このため強制 きょうせい 労働 ろうどう 者 しゃ 数 すう はさらに増加 ぞうか し、1944年 ねん 5月 がつ には750万 まん 人 にん と、国防 こくぼう 軍 ぐん を除 のぞ くドイツ総 そう 労働 ろうどう 力 りょく 数 すう の五 ご 分 ぶん の一 いち を占 し めるまでになった。また、強制 きょうせい 労働 ろうどう 者 しゃ の待遇 たいぐう 改善 かいぜん も行 おこな われたが、党 とう や政府 せいふ 関係 かんけい 者 しゃ による横流 よこなが しが頻発 ひんぱつ したため、根本 こんぽん 的 てき な解決 かいけつ にはならなかった。一方 いっぽう で1942年 ねん には女子 じょし 労働 ろうどう 力 りょく の徴用 ちょうよう が開始 かいし されたが、前線 ぜんせん 兵士 へいし への悪影響 あくえいきょう が考慮 こうりょ され、1944年 ねん の時点 じてん でもほとんど伸 の びなかった。
1943年 ねん 12月には西欧 せいおう 占領 せんりょう 地 ち 労働 ろうどう 者 しゃ のドイツ国内 こくない への移送 いそう を優先 ゆうせん させるザウケルと、現地 げんち で労働 ろうどう させるべきとするシュペーアの関係 かんけい が悪化 あっか した。1944年 ねん になるとイタリア・フランスでは労働 ろうどう 力 りょく 徴用 ちょうよう が「完全 かんぜん な失敗 しっぱい 」と認 みと めざるを得 え ない状況 じょうきょう になり、さらに占領 せんりょう 地 ち 失陥 しっかん によって国外 こくがい 労働 ろうどう 力 りょく 確保 かくほ はさらに困難 こんなん になった。この経緯 けいい によってザウケルの権力 けんりょく は失墜 しっつい し、シュペーアの軍需 ぐんじゅ 省 しょう によって権限 けんげん が吸収 きゅうしゅう されていった。
占領 せんりょう 地 ち においては外国 がいこく 為替 かわせ 事務所 じむしょ (ドイツ語 ご 版 ばん ) の傘下 さんか にあった通貨 つうか 保護 ほご 部隊 ぶたい (ドイツ語 ご 版 ばん ) よって、ユダヤ人 じん 等 とう が所有 しょゆう する外貨 がいか ・貴金属 ききんぞく ・ダイヤモンド・銀行 ぎんこう 預金 よきん 等 とう の押収 おうしゅう を行 おこな った。
1944年 ねん 6月 がつ にはソ連 それん 軍 ぐん のバグラチオン作戦 さくせん の開始 かいし 、米 べい 英軍 えいぐん によるノルマンディー上陸 じょうりく 作戦 さくせん による西部 せいぶ 戦線 せんせん の再 さい 構築 こうちく とフランス失陥 しっかん によって、ドイツは戦時 せんじ 経済 けいざい の基盤 きばん としてきた占領 せんりょう 地 ち の多 おお くを失 うしな った。そして8月 がつ にはドイツの主要 しゅよう な石油 せきゆ 供給 きょうきゅう 源 げん であったルーマニアのプロイェシュティ 油田 ゆでん を喪失 そうしつ し、燃料 ねんりょう 不足 ふそく はさらに深刻 しんこく になった。1945年 ねん には戦局 せんきょく がさらに悪化 あっか し、ドイツ国民 こくみん の平均 へいきん 摂取 せっしゅ カロリーは2100キロカロリー、外国 がいこく 人 じん は2000キロカロリー、強制 きょうせい 労働 ろうどう 者 しゃ にいたっては生存 せいぞん も維持 いじ できない量 りょう であった。3月20日 にち 、ヒトラーは通称 つうしょう ネロ指令 しれい と呼 よ ばれる命令 めいれい を出 だ し、退却 たいきゃく 地 ち の生産 せいさん 施設 しせつ をすべて破壊 はかい するよう命 めい じた。この命令 めいれい はシュペーアの判断 はんだん によって実行 じっこう されなかったが、すでにドイツ経済 けいざい は末期 まっき 状態 じょうたい となっており、5月に終戦 しゅうせん を迎 むか えた。
各国 かっこく 軍需 ぐんじゅ 生産 せいさん の推移 すいい (1944年 ねん =100)[注釈 ちゅうしゃく 37]
1939年 ねん
1940年 ねん
1941年 ねん
1942年 ねん
1943年 ねん
1944年 ねん
ドイツ
20
35
35
51
80
100
日本 にっぽん
10
16
32
49
72
100
アメリカ
2
5
11
47
91
100
イギリス
10
34
59
83
100
100
ソ連 それん
20
30
53
71
87
100
ドイツ工業 こうぎょう 純 じゅん 生産 せいさん に占 し める各 かく 産業 さんぎょう 分野 ぶんや の比率 ひりつ (%) [注釈 ちゅうしゃく 38]
産業 さんぎょう 分野 ぶんや
1938年 ねん
1939年 ねん
1940年 ねん
1941年 ねん
1942年 ねん
1943年 ねん
1944年 ねん
原料 げんりょう
21
21
22
25
25
24
21
兵器 へいき
7
9
16
16
22
31
40
建物 たてもの
25
23
15
13
9
6
6
その他 た の投資 とうし 財 ざい
16
18
18
18
19
16
11
消費 しょうひ 財 ざい
31
29
29
28
25
23
22
^ 創設 そうせつ 当時 とうじ は兵器 へいき ・弾薬 だんやく 省 しょう 、1943年 ねん 以降 いこう は軍需 ぐんじゅ ・軍事 ぐんじ 生産 せいさん 省 しょう
^ ただし、この時点 じてん においても政財界 せいざいかい からの政治 せいじ 献金 けんきん の圧倒的 あっとうてき な量 りょう は反 はん ナチ勢力 せいりょく に流 なが れており、この時点 じてん でのナチ党 とう 財政 ざいせい の大半 たいはん は党費 とうひ 収入 しゅうにゅう によるものであったとヘンリー・アシュベイ・ターナー (英語 えいご 版 ばん ) は指摘 してき している。ジョン・トーランド 著 しる 、永井 ながい 淳 あつし 訳 わけ 『アドルフ・ヒトラー』(集英社 しゅうえいしゃ 文庫 ぶんこ )2巻 かん ISBN 978-4087601817 、95p
^ 1933年 ねん から1938年 ねん 比 ひ 。ただし、この間 あいだ 有数 ゆうすう の石炭 せきたん 産出 さんしゅつ 地 ち ザール地方 ちほう とオーストリアが領土 りょうど に加 くわ わっている。
^ 1938年度 ねんど の軍備 ぐんび 費 ひ 支出 ししゅつ は、1937年度 ねんど の1.58倍 ばい 、政府 せいふ 支出 ししゅつ の50%に達 たっ していた。
^ 当初 とうしょ は「経済 けいざい のアーリア化 か 」という語 かたり が主 おも に使 つか われていたが、1939年 ねん 3月 がつ 以降 いこう には脱 だつ ユダヤ化 か に統一 とういつ された。
^ ヒトラーやカイテルは、時間 じかん がたつほどドイツが不利 ふり になる事実 じじつ を理解 りかい していたが、その事実 じじつ は開戦 かいせん を早 はや める根拠 こんきょ として使 つか われた。
^ 女性 じょせい で最 もっと も低 ひく い時給 じきゅう は繊維 せんい や食品 しょくひん 工業 こうぎょう の42-45ペニヒで、ホワイトカラー女性 じょせい の年収 ねんしゅう は男性 だんせい の約 やく 半分 はんぶん だった。
^ 飲食 いんしょく 物 ぶつ は、必需 ひつじゅ 品 ひん の黒 くろ パン1キログラムが31ペニヒ、ジャガイモが5キログラム50ペニヒ、ベーコン1キログラムは2マルク14ペニヒ、乳製品 にゅうせいひん はいずれも高価 こうか だった。
^ R.J.Overy, War and Economy in the Third Reich(Oxford/New York,1994)のP.39よりの引用 いんよう 。
^ Bry,G.,Wages in Germany P239、327、塚本 つかもと 健 けん 『ナチス経済 けいざい 』273pよりの引用 いんよう 。
^ ラインハルトは当時 とうじ の財務省 ざいむしょう 次官 じかん フリッツ・ラインハルト (英語 えいご 版 ばん ) からとられたものである。
^ 世界 せかい 各地 かくち からの食糧 しょくりょう 輸入 ゆにゅう によってヨーロッパでは飢餓 きが が減 へ りつつあったが、第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん では経済 けいざい 封鎖 ふうさ が原因 げんいん の栄養失調 えいようしっちょう によってドイツとオーストリアで60万 まん 人 にん が死亡 しぼう した。
^ 1933年 ねん には農相 のうしょう にナチ党 とう 農業 のうぎょう 組織 そしき 長 ちょう のリヒャルト・ヴァルター・ダレ、次官 じかん にヘルベルト・バッケが就任 しゅうにん した。農業 のうぎょう 省 しょう は経済 けいざい 政策 せいさく 省庁 しょうちょう の中 なか でナチ党員 とういん が長 ちょう をつとめる唯一 ゆいいつ の省庁 しょうちょう となり、バッケは1940年代 ねんだい にヒムラーに協力 きょうりょく して虐殺 ぎゃくさつ を指導 しどう する。
^ 世襲 せしゅう 農地 のうち を持 も てるのは、ドイツ人 じん かそれに類似 るいじ した血統 けっとう とされ、財産 ざいさん 法 ほう に人種 じんしゅ 差別 さべつ が含 ふく まれていた。また、世襲 せしゅう 農地 のうち の相続 そうぞく 権 けん では女性 じょせい が最下位 さいかい に置 お かれた。
^ クルップ社 しゃ のグスタフ・クルップ はナチ党 とう から自社 じしゃ を守 まも るために、ドイツ労働 ろうどう 組合 くみあい との協力 きょうりょく も検討 けんとう したが、労働 ろうどう 運動 うんどう はナチ党 とう によって解体 かいたい された。フェスタクのフリッツ・ティッセン は熱心 ねっしん なヒトラー支持 しじ 者 しゃ で、イタリアのファシスト党 とう による協調 きょうちょう 組合 くみあい 主義 しゅぎ にも感化 かんか されていた。
^ 国民 こくみん ラジオと同 どう 性能 せいのう のアメリカ製 せい ラジオはより低 てい 価格 かかく であり、国民 こくみん ラジオには国際 こくさい 的 てき な競争 きょうそう 力 りょく はなかった
^ オペルはゼネラルモーターズ の子会社 こがいしゃ であり、アメリカのフォード社 しゃ が確立 かくりつ した科学 かがく 的 てき 管理 かんり 法 ほう によるフォーディズム を最初 さいしょ にドイツに導入 どうにゅう した。
^ ユンカース、ドルニエ、ハインケルが爆 ばく 撃 げき 機 き 、アラドとハインケルが戦闘 せんとう 機 き ・偵察 ていさつ 機 き ・対地 たいち 攻撃 こうげき 機 き ・練習 れんしゅう 機 き 、メッサーシュミットが戦闘 せんとう 機 き を供給 きょうきゅう した。
^ German Exchange Control 1931-1939 in ; TheQuarterly of Economics, Vol.54,No.4,Part 2,1940,p.140よりの引用 いんよう 。
^ 1939年 ねん 3月 がつ にはドイツ=ルーマニア貿易 ぼうえき 協定 きょうてい が結 むす ばれ、ドイツ国内 こくない では絶賛 ぜっさん された。しかしルーマニア側 がわ はドイツを警戒 けいかい しており、安全 あんぜん 保障 ほしょう をフランスに交渉 こうしょう していた。
^ ソ連 それん は主 おも な飼料 しりょう の輸入 ゆにゅう 先 さき となった。1940年 ねん のソ連 それん は、リン鉱石 こうせき (47%)、アスベスト(67%)、クロム鉱石 こうせき (65%)、マンガン(55%)、ニッケル(40%)、石油 せきゆ (34%)をドイツから得 え た。
^ たとえば綿花 めんか 輸入 ゆにゅう は、エジプトからは市場 いちば 価格 かかく に近 ちか く、英 えい 領 りょう インドからは15%増 ま し、アメリカからは28%増 ま しだったが、ブラジルとペルーには47%と72%のプレミアムをつけた。
^ イギリスの歴史 れきし 家 か ティモシー・メイソン (英語 えいご 版 ばん ) などは、外貨 がいか 不足 ふそく がアンシュルスやズデーテン併合 へいごう 、ポーランド侵攻 しんこう などの冒険 ぼうけん 的 てき 政策 せいさく の決定的 けっていてき 要因 よういん になったという見方 みかた をしている。この結果 けっか 、ライヒスバンク保持 ほじ 分 ぶん 以外 いがい にオーストリアやチェコスロバキアの政府 せいふ 、さらに個人 こじん 備蓄 びちく 分 ぶん を接収 せっしゅう したため、1930年代 ねんだい 末 まつ のドイツ外貨 がいか 準備 じゅんび は危機 きき 的 てき な状況 じょうきょう ではなかったとするアルブレヒト・リッチェル) (ドイツ語 ご 版 ばん ) やラルフ・バンケン (Ralf Banken)の説 せつ もある。
^ V.z.K. 14 Jahrg 1939/40 Heft 1,S.75,S.77 塚本 つかもと 健 けん 『ナチス経済 けいざい 』230pよりの引用 いんよう 。
^ 主 おも な論者 ろんしゃ にゲルハルト・クロル (ドイツ語 ご 版 ばん ) 、アブラハム・バルカイ (英語 えいご 版 ばん ) 、ミハエル・ウォルフゾーン (英語 えいご 版 ばん ) 、ユルゲン・シュテルツナー (Jürgen Stelzner)、リチャード・オーバリー (英語 えいご 版 ばん ) 、バートン・クライン(Burton Klein)、後藤 ごとう 俊明 としあき 、原 はら 信芳 のぶよし 。またニュルンベルク裁判 さいばん でシャハトもこの路線 ろせん の発言 はつげん をしている。
^ 主 おも な論者 ろんしゃ にヴォルフガング・ザウアー (ドイツ語 ご 版 ばん ) 、ヴォルフラム・フィッシャー (ドイツ語 ご 版 ばん ) 、ロッテ・ツムベ(Lotte Zumpe)、大島 おおしま 通義 みちよし がいる。
^ 内訳 うちわけ は、陸軍 りくぐん が4年 ねん で490億 おく マルク、空軍 くうぐん が4年 ねん で600億 おく マルク、海軍 かいぐん が10年 ねん で330億 おく マルクだった。
^ Kroll,G.,ibid S 571.(Europa Archiv, 20. 6. 1951, S 4129)塚本 つかもと 健 けん 『ナチス経済 けいざい 』250pよりの引用 いんよう 。
^ Schnejerson,A.I., Die Unterordung des bürgerlichen Staates unter die Monopole, S. 50.塚本 つかもと 健 けん 『ナチス経済 けいざい 』250pよりの引用 いんよう 。
^ L.o.N Monthly Bulletim Statistics 1938, No12 p.584-588、塚本 つかもと 健 けん 『ナチス経済 けいざい 』297pよりの引用 いんよう 。
^ Erbe,a.a.O.,S.34,48,51,54. P239、327、戸 と 原 はら 四郎 しろう 『恐慌 きょうこう 論 ろん 』323pよりの引用 いんよう 。。短期 たんき 債 さい 残高 ざんだか には雇用 こよう 創出 そうしゅつ 債 さい の金額 きんがく も含 ふく む。
^ Erbe,a.a.O.,S.100,109、戸 と 原 はら 四郎 しろう 『恐慌 きょうこう 論 ろん 』322pよりの引用 いんよう 。。政府 せいふ 部門 ぶもん 支出 ししゅつ は軍事 ぐんじ 支出 ししゅつ 、民間 みんかん 設備 せつび 投資 とうし は工業 こうぎょう 投資 とうし も含 ふく む
^ 占領 せんりょう 地 ち のフランスでは自動車 じどうしゃ が使 つか われなくなり、同盟 どうめい 国 こく のイタリア海軍 かいぐん はドイツとルーマニアからの石油 せきゆ に依存 いぞん していた。ドイツ空軍 くうぐん はパイロットの教練 きょうれん が不足 ふそく し、陸軍 りくぐん では走行 そうこう 経験 けいけん の少 すく ない兵士 へいし の運転 うんてん が増 ふ えて損傷 そんしょう 率 りつ が高 たか まった。
^ スターリンの五 ご カ年 かねん 計画 けいかく によってソ連 それん は工業 こうぎょう 化 か を進 すす め、生産 せいさん 力 りょく はドイツの2300万 まん トンにつぐ1800万 まん トンでイギリスよりも多 おお かった。人口 じんこう は1億 おく 7000万 まん 人 にん でドイツの(8376万 まん 人 にん )の2倍 ばい 近 ちか く、兵員 へいいん 数 すう で上回 うわまわ っていた。加 くわ えて国土 こくど が広 ひろ く、進軍 しんぐん が困難 こんなん だった。
^ 合理 ごうり 化 か が成功 せいこう したのは、シュペーアではなくエアハルト・ミルヒが担当 たんとう する航空 こうくう 省 しょう であり、航空機 こうくうき 生産 せいさん は1942年 ねん から1943年 ねん にかけて倍増 ばいぞう した。
^ ただし、イタリア休戦 きゅうせん 後 ご のイタリア人 じん はソ連 それん 人 じん とほぼ同 おな じ扱 あつか いを受 う けた。
^ Das Militärgeschichtliche Forschungsamt (Hrsg.),Das Deutsche Reich und der Zweite Weltkrieg, Bd.5, Organisation und Mobilisierung des deutschen Machtbereichs, Erster Halbband Kriegsverwaltung, Wirtschaft und personelle Ressouren 1939-1941 von B.R.Kroener, R.F.Müller, H.Umbreit, Stuttgart 1988, S.523.よりの引用 いんよう 。
^ 毎年 まいとし ごとにその時点 じてん でドイツ領土 りょうど とされていた地域 ちいき 内 ない で達成 たっせい されたものを基礎 きそ とする。Das Militärgeschchilice Forshungsamt, a.a.O., S.582.よりの引用 いんよう 。
参考 さんこう 文献 ぶんけん (著者 ちょしゃ 五十音 ごじゅうおん 順 じゅん )[ 編集 へんしゅう ]
歴史 れきし
人物 じんぶつ
政治 せいじ
ナチ党 とう 組織 そしき 政府 せいふ 組織 そしき 国民 こくみん 組織 そしき 思想 しそう 用語 ようご
分野 ぶんや 別 べつ 項目 こうもく 軍事 ぐんじ 国際 こくさい 関係 かんけい 関連 かんれん 項目 こうもく 迫害 はくがい 反 はん ナチ運動 うんどう
ドイツ語 ご 圏 けん の社会 しゃかい ・経済 けいざい 思想 しそう