(Translated by https://www.hiragana.jp/)
ナチス・ドイツの経済 - Wikipedia コンテンツにスキップ

ナチス・ドイツの経済けいざい

この記事は良質な記事に選ばれています
出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
公益こうえき私益しえき優先ゆうせんする」(Gemeinnutz vor Eigennutz)の言葉ことばがきざまれた1ライヒスマルク貨幣かへい(1937ねん発行はっこう

ナチス・ドイツの経済けいざい(ナチス・ドイツのけいざい)では、1933ねんから1945ねんまでのドイツ、いわゆるナチス・ドイツ時代じだいのドイツ経済けいざいについて記述きじゅつする。

概要がいよう

[編集へんしゅう]

ヴァイマル共和きょうわせい時代じだいのドイツ経済けいざいは、一時いちじ好調こうちょうであったものの1929ねん世界せかい恐慌きょうこうと1931ねん金融きんゆう恐慌きょうこうによって壊滅かいめつてき状況じょうきょうおちいった。失業しつぎょうりつは40%にたっし、社会しゃかい情勢じょうせい不安定ふあんていとなった。この情勢じょうせい政権せいけんにぎったのがアドルフ・ヒトラーひきいる国家こっか社会しゃかい主義しゅぎドイツ労働ろうどうしゃとう(ナチとう)であった。ヒトラー政権せいけんぜん政権せいけんからの雇用こよう増加ぞうか政策せいさくと、経済けいざいしょうけんライヒスバンク(ドイツ中央ちゅうおう銀行ぎんこう総裁そうさいヒャルマル・シャハト指導しどうによる新規しんき計画けいかくとうによって失業しつぎょう改善かいぜんし、1937ねんにはほぼ完全かんぜん雇用こよう達成たっせいした。恐慌きょうこうからの回復かいふくかんしては、どう時期じきにアメリカでおこなわれたニューディール政策せいさくよりも効率こうりつてきであったという仮説かせつ近年きんねん有力ゆうりょくになってきているが、ドイツの回復かいふく賃金ちんぎん増大ぞうだい民間みんかん消費しょうひ拡大かくだいをともなわなかった[1]。しかもドイツ経済けいざいあしかせであった外貨がいか不足ふそくや、輸入ゆにゅう困難こんなんによる資源しげん不足ふそく解決かいけつされず、軍備ぐんび拡大かくだいのために膨大ぼうだい国家こっか債務さいむかかえることになった。1936ねんからは自給自足じきゅうじそく経済けいざい成立せいりつとなえただいよんカ年かねん計画けいかく開始かいしするが、資源しげんなん労働ろうどうりょく不足ふそく改善かいぜんされなかった。1938ねんには軍備ぐんび生産せいさんを3ばいにするという計画けいかくてられたが、実務じつむにおいて一貫いっかんせいはなく、財政ざいせい危機きき破綻はたんした[2]。こうして軍拡ぐんかく不完全ふかんぜんなままだい世界せかい大戦たいせん開始かいしむかえた。

戦争せんそうはじまると戦争せんそう経済けいざい体制たいせい移行いこうし、1940ねん創設そうせつされた軍需ぐんじゅしょう[注釈ちゅうしゃく 1]指導しどうする体制たいせいになった。またポーランドじんやユダヤじん強制きょうせい労働ろうどうによる占領せんりょうからの搾取さくしゅはじまった。1942ねんアルベルト・シュペーア軍需ぐんじゅ大臣だいじんとなると、ドイツの軍需ぐんじゅ生産せいさん拡大かくだいされてそう力戦りきせん体制たいせい構築こうちくすすんだ。しかし戦局せんきょく悪化あっかとともにドイツ経済けいざい悪化あっか一途いっとをたどり、敗戦はいせんむかえた。

経済けいざいかんするナチスのイデオロギー

[編集へんしゅう]

経済けいざいにおけるナチズムのイデオロギーは不鮮明ふせんめいである。結党けっとうからのメンバーで25カ条かじょう綱領こうりょう策定さくていにもたずさわり、とう経済けいざい委員いいんかい座長ざちょうつとめていたゴットフリート・フェーダー利子りし奴隷どれいせい打破だは企業きぎょう国有こくゆう国際こくさい金融きんゆう資本しほんとのたたかいを持論じろんとしていた。ヒトラー自身じしんも『闘争とうそう』においてフェーダーの主張しゅちょう一部いちぶれているが、同時どうじに「国家こっか民族みんぞくてき組織そしきであって経済けいざい組織そしきではない」「国家こっか特定とくてい経済けいざいかんまたは経済けいざい政策せいさくとはまった無関係むかんけいである」ともべており、統一とういつてきなナチス経済けいざい政策せいさくというものは存在そんざいしなかった[3]

一方いっぽう経済けいざい政策せいさくについて熱心ねっしんであったのはグレゴール・シュトラッサー中心ちゅうしんとするナチス左派さはばれる社会しゃかい主義しゅぎてき改革かいかくもとめる派閥はばつであった。しかしヒトラーが政権せいけん獲得かくとくのために保守ほしゅ財界ざいかい接近せっきんすると、左派さはもう反発はんぱつした。ヒトラーは1926ねんバンベルク会議かいぎ左派さはさえこんだが、その一定いってい勢力せいりょく保持ほじしていた。1932ねん7がつにナチとう公表こうひょうした経済けいざい振興しんこうさくはシュトラッサーが起草きそうしたものであった。この振興しんこうさくには道路どうろもう計画けいかくなどの一部いちぶのナチス時代じだいにおいて実行じっこうされるが、この計画けいかく実質じっしつてき発案はつあんしゃはユダヤじんロベルト・フリートレンダー=プレヒトルドイツばんであった[4]。また5がつにはフェーダーの持論じろんもとづく、ぜん銀行ぎんこう信用しんよう供給きょうきゅう機関きかん国有こくゆう提案ていあんしている[5]政権せいけん獲得かくとくにはこれらの計画けいかく白紙はくしもどされ、フェーダーや左派さは思想しそうがそのまま実行じっこうされることはなかった。

ヒトラーは1933ねん2がつ8にち閣議かくぎにおいて、「あらゆる公的こうてき雇用こよう創出そうしゅつ措置そち助成じょせいは、ドイツ民族みんぞくさい武装ぶそうにとって必要ひつようかという観点かんてんから判断はんだんされるべきであり、このかんがえが、いつでもどこでも、中心ちゅうしんにされねばならない」「すべてを国防こくぼうぐんへということが、今後こんご4~5年間ねんかん至上しじょう原則げんそくであるべきだ」と言明げんめいするなど、ヒトラー内閣ないかく時代じだい経済けいざい政策せいさくはすべて軍備ぐんび増強ぞうきょう念頭ねんとうかれたものであった[6][7]

経済けいざい政策せいさく基本きほんには、民族みんぞく共同きょうどうたい構築こうちく[8]東方とうほうへの侵略しんりゃく植民しょくみんによる生存せいぞんけん(レーベンスラウム)の拡大かくだい、そのための軍拡ぐんかくがあった[9][10]個別こべつ政策せいさくでは、経済けいざい団体だんたい統制とうせいもちいられた指導しどうしゃ原理げんり農業のうぎょう政策せいさくにおける独立どくりつしょう農民のうみん保護ほご政策せいさく労働ろうどう環境かんきょうからの女性じょせい排除はいじょ、そして経済けいざいだつユダヤなどはナチズムの思想しそうもとづくものであった。

政権せいけん獲得かくとくからだい大戦たいせんまで

[編集へんしゅう]

前史ぜんし

[編集へんしゅう]
ヴァイマル共和きょうわせい時代じだいのハイパーインフレーション

だいいち世界せかい大戦たいせんヴェルサイユ条約じょうやくによって莫大ばくだい賠償金ばいしょうきんわされたドイツは経済けいざいてきにとっても不安定ふあんていであった。フランスルール占領せんりょうたいする抵抗ていこうこしたインフレーション天文学てんもんがくてき規模きぼにおよんだが、ライヒスマルク以下いかマルク表記ひょうき)の新規しんき発行はっこう終息しゅうそくした。その黄金おうごんの20年代ねんだいドイツばんばれる好景気こうけいき実現じつげんしたが、1928ねんごろから次第しだい景気けいき後退こうたいし、1928ねんなかごろには159まんにんだった失業しつぎょうしゃが、1929ねんなかごろまでに20まんにん増加ぞうかした[11]。1929ねん10がつ世界せかい恐慌きょうこうはじまると、アメリカをはじめとする外資がいしによってささえられていたドイツ経済けいざいはたちまち破綻はたんした。国内こくない需要じゅよう極端きょくたん減少げんしょうし、ざい・サービスの輸出入ゆしゅつにゅうんだ。産業さんぎょう構造こうぞうだいいち世界せかい大戦たいせんからの重工業じゅうこうぎょう化学かがく製品せいひん重視じゅうし政策せいさく継続けいぞくされていた[12]

1930ねん首相しゅしょうとなったハインリヒ・ブリューニング首相しゅしょう金融きんゆう安定あんていさくきょう対応たいおうしようとした。景気けいき悪化あっかじょうきょうでの経済けいざい対策たいさくには財源ざいげん必要ひつようであり、増税ぞうぜい不可避ふかひであった。しかし増税ぞうぜいさく議会ぎかい反対はんたい否決ひけつされ、ブリューニングは大統領だいとうりょう緊急きんきゅうれい複数ふくすう選挙せんきょによる強行きょうこう突破とっぱ予算よさん金融きんゆう政令せいれい成立せいりつさせた。ブリューニングが選択せんたくした政策せいさく税収ぜいしゅう増加ぞうか福祉ふくし予算よさんとう政府せいふ支出ししゅつ削減さくげん物価ぶっか抑制よくせい主眼しゅがんとしたデフレ政策せいさくであり[13]かれは「飢餓きが首相しゅしょう」と国内こくないから批判ひはんけた[13]一方いっぽうハインリヒ・ブラウンスドイツばんぜん労相ろうしょう指揮しきもと外国がいこく融資ゆうし資金しきんとしてだい規模きぼ公共こうきょう事業じぎょう計画けいかく立案りつあんした[13]

1931ねん3がつ23にちにはオーストリアとの関税かんぜい同盟どうめいどくおう関税かんぜい同盟どうめい)をむすんだ。しかしこれはヴェルサイユ条約じょうやくの「ドイツ・オーストリア合邦がっぽう禁止きんし規定きてい抵触ていしょくするとして連合れんごうこく諸国しょこくからつよ反発はんぱつけ、フランスは制裁せいさいとしてオーストリアの資本しほんげた。これをけてオーストリア最大さいだい銀行ぎんこうクレジット・アンシュタルトドイツばん破綻はたんし、ヨーロッパの金融きんゆう危機ききまねいた。1931ねん7がつにはドイツだい2だい銀行ぎんこうダナート銀行ぎんこうドイツばん支払しはら停止ていし閉鎖へいさされ、大統領だいとうりょうれいで8がつまでドイツ全土ぜんど銀行ぎんこう閉鎖へいさされたものの金融きんゆう危機ききおさまらず、きょうはさらに悪化あっかした。外資がいしもあてに出来できない状況じょうきょうとなり、インフレの再来さいらいおそれる世論せろんやライヒスバンクがだい規模きぼ財政ざいせい出動しゅつどう反対はんたいしたため、公共こうきょう事業じぎょう計画けいかく縮小しゅくしょうされたうえ実施じっしされなかった[14]。1932ねん2がつには登録とうろく失業しつぎょうしゃが600まんにん登録とうろく失業しつぎょうしゃくわえた推計すいけいが778まんにんたっしてピークをむかえた[15]産業さんぎょうそう失業しつぎょうしゃ割合わりあいは40%をえ、どう時期じきのイギリスやアメリカの2ばいちかくにたっしている[11]きむ外貨がいか準備じゅんび減少げんしょうまらず、すべてのかね外貨がいか管理かんりをライヒスバンクが監督かんとくするよう制限せいげんおこなったが[16]、1932ねん2がつには10おくマルクをんでいる[17]

5月にはブリューニングが失脚しっきゃくし、フランツ・フォン・パーペン内閣ないかく成立せいりつした。パーペン政権せいけんでは租税そぜい証券しょうけんによる実質じっしつてき企業きぎょう減税げんぜいさく策定さくていされ、新規しんき雇用こようおこなった企業きぎょうには一人ひとりにつきとし400マルクの租税そぜい証券しょうけん公布こうふすることで雇用こよう増大ぞうだいさせようとした。またブリューニングないかく時代じだい公共こうきょう事業じぎょう計画けいかく拡大かくだいし、総額そうがく3おくマルクにおよ公共こうきょう事業じぎょう計画けいかく(パーペン計画けいかく)を開始かいしした[18]。また同年どうねん12がつ3にち首相しゅしょうとなったシュライヒャー雇用こよう創出そうしゅつ国家こっか弁務べんむかんギュンター・ゲーレケドイツばんにんじ、雇用こよう創出そうしゅつ委員いいんかい発足ほっそくさせた。この委員いいんかい総額そうがく5おくマルクにおよぶ雇用こよう創出そうしゅつ公共こうきょう事業じぎょう緊急きんきゅう計画けいかく決定けっていし、ライヒスバンクによる部分ぶぶんてき同意どういおこなわれたが、よく1933ねん1がつにシュライヒャーないかくたおれたため実行じっこうされなかった。このりょう内閣ないかくはブリューニングないかくのデフレ政策せいさく転換てんかんし、景気けいき反転はんてんないし底入そこいれした[19]

政局せいきょくはきわめて不安定ふあんていであり、ドイツ共産党きょうさんとう国家こっか社会しゃかい主義しゅぎドイツ労働ろうどうしゃとう(ナチとう勢力せいりょく拡張かくちょうした。とく企業きぎょう経営けいえいしゃなどには右派うはおおく、共産党きょうさんとう対抗たいこうするためナチスにたいする資金しきん援助えんじょおこなった。1932ねん11月19にちにライヒスバンクもと総裁そうさいヒャルマル・シャハト合同ごうどう製鋼せいこう社長しゃちょうフリッツ・ティッセンヴィルヘルム・クーノもと首相しゅしょうケップラー・グループドイツばん政財界せいざいかいじん連名れんめいでヒトラーを首相しゅしょうにするよう請願せいがんしょドイツばんおくっている[注釈ちゅうしゃく 2]

1933ねん1がつ30にちにはヒトラー内閣ないかく成立せいりつした。経済けいざい対策たいさくたる経済けいざいしょう農業のうぎょう食糧しょくりょうしょうにはナチとう連立れんりつんだドイツ国家こっか人民じんみんとうアルフレート・フーゲンベルク就任しゅうにんした。ライヒスバンク総裁そうさいハンス・ルタールートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージク財務ざいむしょうはパーペンないかく、シュライヒャーないかくつづけて留任りゅうにんした。

経済けいざい分野ぶんや強制きょうせいてき同一どういつ

[編集へんしゅう]

政権せいけん獲得かくとくの1933ねん2がつ1にちにヒトラーは国民こくみんへのラジオ放送ほうそうで「ふたつの偉大いだいよんカ年かねん計画けいかく」としてだいいちよんカ年かねん計画けいかく開始かいし発表はっぴょうし、失業しつぎょうしゃ削減さくげん自動車じどうしゃ産業さんぎょう拡大かくだいうったえた。しかし、そのにナチとう国会こっかい議事堂ぎじどう放火ほうか事件じけん(2がつ27にちふたつの大統領だいとうりょう緊急きんきゅうれい全権ぜんけん委任いにんほうによってきわめて強力きょうりょく独裁どくさい権力けんりょく確立かくりつした(ナチとう権力けんりょく掌握しょうあく)。ナチとうがまずった経済けいざい政策せいさくは、ナチとう思想しそうもとづくよう政治せいじ経済けいざい産業さんぎょうかいさい構成こうせいする強制きょうせいてき同一どういつであった。失業しつぎょう対策たいさくぜん政権せいけんのパーペン計画けいかく緊急きんきゅう計画けいかく踏襲とうしゅうするのみで、労働ろうどう政策せいさくのとりまとめが開始かいしされたのは5月1にちになってからだった[20]。3月にはライヒスバンク総裁そうさいルターがナチとう対立たいりつして更迭こうてつされ、ナチとう支持しじしゃであったシャハトが再任さいにんされた。シャハトは8がつからは経済けいざいしょうね、1935ねん5がつ21にちには戦争せんそう経済けいざい全権ぜんけんにも就任しゅうにん、こののち経済けいざい政策せいさく主導しゅどうすることになる。

5月2にちにはすべての労働ろうどう組合くみあい解散かいさんされ、ロベルト・ライひきいるドイツ労働ろうどう戦線せんせん一本いっぽんされた。これにより労使ろうし関係かんけい調整ちょうせいはナチとう手中しゅちゅうちた。7月15にちには強制きょうせいカルテルほう施行しこうされ、新規しんき企業きぎょう設立せつりつ禁止きんし同業どうぎょう企業きぎょうによるカルテル設立せつりつ強制きょうせいと、国家こっかによる監視かんし規制きせいおこなわれる体制たいせいはじまった。9月13にちには帝国ていこく食糧しょくりょう団体だんたい暫定ざんてい設立せつりつほうによって分野ぶんやべつ経済けいざい団体だんたい設立せつりつされ、くにがその指導しどうしゃ任命にんめいすることで経済けいざい活動かつどう統制とうせいする仕組しくみがさだめられた[21]指導しどうしゃ制度せいどナチズム基本きほん概念がいねんである指導しどうしゃ原理げんりもとづくものであり、経済けいざい団体だんたい国家こっか下部かぶ機構きこうとしてうごくようになった[21]。11月16にちには価格かかく停止ていしれい布告ふこくされ、商品しょうひん価格かかく原価げんか管理かんりくにおこなうこととになった[22]

1934ねん2がつには経済けいざい有機ゆうきてき構成こうせい準備じゅんびほう施行しこうされ、企業きぎょうかく分野ぶんや経済けいざい集団しゅうだん(Wirtschaftsgruppe)もしくはライヒ工業こうぎょう集団しゅうだんドイツばん地方ちほう組織そしきはいることが義務ぎむづけられた[23]。7月、シャハトは経済けいざい措置そちほうによってから9がつまでのあいだ既存きそん法律ほうりつわくえる権限けんげんれた。この権限けんげんもとづき8がつ20日はつかには商工しょうこう会議かいぎしょれいはっせられ、商工しょうこう会議かいぎしょ権限けんげん拡大かくだいされたうえで、経済けいざい大臣だいじん会頭かいとうふく会頭かいとう任免にんめんけんふく監督かんとくけんつこととなった[24]。これによって商工しょうこう会議かいぎしょ主要しゅよう人事じんじ大半たいはんはナチとう関連かんれん人物じんぶつめることとなり[25]全国ぜんこく中小ちゅうしょう企業きぎょうもナチとう体制たいせいまれた。こうした企業きぎょう統制とうせい影響えいきょうで、株式会社かぶしきがいしゃすうは1933ねんの9148しゃから1934ねん8618しゃ、1935ねん7840しゃ、1936ねん7204しゃ明確めいかく減少げんしょうし、資本しほん集中しゅうちゅう顕著けんちょとなった[26]

シャハトの時代じだい

[編集へんしゅう]
シャハト(左端ひだりはし)とエミール・ポールドイツばんらライヒスバンク首脳しゅのう。1934ねん

5月31にちにヒトラーは指導しどうてき経済けいざいじん会議かいぎおこない、このせき道路どうろもう整備せいび住宅じゅうたく増加ぞうか雇用こよう増大ぞうだい出発しゅっぱつてんであるとした。まただい企業きぎょうからの要請ようせいもとづき、租税そぜいの5年間ねんかんきと、社会しゃかい政策せいさく支出ししゅつ削減さくげんによって予算よさん均整きんせいする方針ほうしんかためた[27]。これ以降いこう6がつ1にちにはだいいち失業しつぎょう減少げんしょうほう(ラインハルト計画けいかく)、9月21にちにはだい失業しつぎょう減少げんしょうほうだいラインハルト計画けいかく)、9月23にちからはアウトバーン建設けんせつといったはん奉仕ほうし活動かつどうてき雇用こようによる失業しつぎょう抑制よくせいさくがとられた。また結婚けっこん奨励しょうれいきん家事かじ手伝てつだいの奨励しょうれいにより、女性じょせい労働ろうどうから家庭かていおくむことを奨励しょうれいしたが、生活せいかつ消費しょうひ増加ぞうかさせる効果こうかもあった[28]。これらの政策せいさくによって登録とうろく労働ろうどうしゃは1933ねんのうちに200まんにん減少げんしょうしたが、奉仕ほうし活動かつどうてき雇用こよう統計とうけい操作そうさふくむものであり、さい軍備ぐんび軍需ぐんじゅ拡大かくだいによる雇用こよう創出そうしゅつおこなわれるまでの時間じかんかせてき性質せいしつのものであった[29]一方いっぽう企業きぎょうたいして租税そぜい減免げんめん措置そちがとられ、自動車じどうしゃ産業さんぎょうたいする保護ほご育成いくせいさくもとられた。また低調ていちょうであった民間みんかん投資とうし集中しゅうちゅうするため、重点的じゅうてんてき事業じぎょうでない繊維せんいパルプ・ラジオ・自動車じどうしゃ部品ぶひん製造せいぞうなどの分野ぶんやには投資とうし禁止きんし措置そちがとられた[26]

1934ねん3がつをピークとして雇用こよう創出そうしゅつでの雇用こよう減少げんしょうしはじめ、1935ねんには20まんにん程度ていどまで低下ていかした[6]。このあいだ生産せいさんざい製造せいぞうぎょう建築けんちくぎょう自動車じどうしゃ産業さんぎょうでの雇用こようすすんだ[30]。また1935ねん3がつ16にちには正式せいしきさい軍備ぐんび開始かいしされ(ドイツさい軍備ぐんび宣言せんげん)、徴兵ちょうへいせい再開さいかいされたことで国防こくぼうぐんに86まんにん吸収きゅうしゅうされたこともあって失業しつぎょう問題もんだい解決かいけつされ、ほぼ完全かんぜん雇用こよう達成たっせいされた[31]

まただい規模きぼ公共こうきょう投資とうし直接的ちょくせつてき雇用こようだけではなく、関連かんれん企業きぎょう投資とうしうながして景気けいき回復かいふくうながした[32]。1936ねんには国民総生産こくみんそうせいさんが1932ねんで50%増加ぞうかし、1936ねんには国民こくみん所得しょとくが42%、こう商業しょうぎょうかく指数しすう生産せいさん指数しすうが88%、ざい・サービスへの公共こうきょう支出ししゅつが130%、民間みんかん消費しょうひ指数しすうが16%増加ぞうかした[33]。しかし各種かくしゅ政策せいさくへの出資しゅっしにともない、1933ねんから1937ねん期間きかん国家こっか債務さいむが110おくマルク増大ぞうだいしていた[34]産業さんぎょうめんでは公共こうきょう事業じぎょう直結ちょっけつする生産せいさんざい製造せいぞうぎょう建築けんちくぎょう活況かっきょう景気けいきささえた。とく自動車じどうしゃ産業さんぎょう成長せいちょう目立めだち、1934ねん生産せいさんがく過去かこ最高さいこうの1928ねんで148%、1935ねんには200%をえた。さらに雇用こようすうは1934ねんには過去かこ最高さいこうの1928ねん水準すいじゅんたっし、1935ねんにはこの水準すいじゅんをも超過ちょうかした[35]。さらに石炭せきたん冶金やきん機械きかい工業こうぎょう企業きぎょうではそう利益りえきが2ばいになっている[36]。この一方いっぽうでヴァイマル時代じだいからの外貨がいか不足ふそくじょうきょうわっておらず、原材料げんざいりょうである生糸きいと綿めん輸入ゆにゅうすすまなかったため、消費しょうひざい分野ぶんや主力しゅりょくである繊維せんい工業こうぎょう停滞ていたいし、消費しょうひざい分野ぶんや全体ぜんたい雇用こようしゃもほとんど増加ぞうかしなかった[37]。また、統制とうせいによる賃金ちんぎん抑制よくせい国内こくない消費しょうひ水準すいじゅん回復かいふく遅滞ちたいまねいた[38]。また、どう時期じきには食糧しょくりょうしょうリヒャルト・ヴァルター・ダレ推進すいしんしたのイデオロギーにもとづく農本主義のうほんしゅぎてき農業のうぎょう政策せいさくおこなわれたが、自立じりつしょう農民のうみん保護ほごする政策せいさく経営けいえい合理ごうりさまたげ、増産ぞうさんにつながらなかった。また農地のうち長子ちょうし単独たんどく相続そうぞくさだめたために次男じなん以下いか離農りのうすすみ、農業のうぎょう振興しんこうとは逆行ぎゃっこうする事態じたい発生はっせいした[39]。このことと天候てんこう不順ふじゅんかさなり、食料しょくりょう輸入ゆにゅうが1936年代ねんだい課題かだいとなる。

インフラ

[編集へんしゅう]

帝国ていこくアウトバーン会社かいしゃ設立せつりつかんする法律ほうりつによって、6月30にちドイツ国営こくえい鉄道てつどう子会社こがいしゃである帝国ていこくアウトバーン会社かいしゃドイツばん設立せつりつされ、技術ぎじゅつしゃであったフリッツ・トートが「ドイツ道路どうろ総監そうかん」に任命にんめいされた。アウトバーン関連かんれんには1935ねん6がつまでに4おくマルクが投資とうしされ、最大さいだい12まんにん雇用こようおこなわれた[40]。ただし、アウトバーン関連かんれん労働ろうどうしゃ一部いちぶたいしては少額しょうがく手当てあて衣食住いしょくじゅう支給しきゅうおこなわれたのみであり、賃金ちんぎんべるほどのものはっていなかった[41]

各種かくしゅ助成じょせい

[編集へんしゅう]

自動車じどうしゃ税法ぜいほう改定かいていにより、自動車じどうしゃ・オートバイの購入こうにゅうには免税めんぜい措置そちおこなわれた。まただいいちラインハルト計画けいかくでは設備せつび投資とうしたいする各種かくしゅぜい免除めんじょ租税そぜい軽減けいげんほうでは工場こうじょう建物たてもの改修かいしゅう費用ひよういちわり減免げんめんされた[42]だいラインハルト計画けいかくでは住宅じゅうたく建設けんせつ促進そくしんのため、住宅じゅうたく補修ほしゅう改築かいちく資金しきん援助えんじょおこなったほか、れをおこなったさい利子りし肩代かたがわりもおこなった。このため1934ねん住宅じゅうたく建築けんちくすう新築しんちく割合わりあいすくないとはいえ、1929ねん水準すいじゅんもどっている[43]重工業じゅうこうぎょう化学かがく分野ぶんや産業さんぎょう育成いくせい継続けいぞくされた[26]

財政ざいせい金融きんゆう

[編集へんしゅう]
ライヒスバンクの建物たてもの(1903ねん)

財源ざいげんは、ヒトラーが増税ぞうぜい否定ひていし、公債こうさい発行はっこう困難こんなんであったため、割引わりびき手形てがたという手段しゅだんにたよるほかはなかった。雇用こよう創出そうしゅつかんしてはくに支払しはらいを保証ほしょうする3ヶ月かげつ雇用こよう創出そうしゅつ手形てがた創出そうしゅつされた。この手形てがたは3ヶ月かげつ期限きげんであったが、えによって最大さいだい5ねんまでの期限きげん延長えんちょう可能かのうであった[44]。しかし雇用こよう創出そうしゅつ以外いがい公共こうきょう事業じぎょう軍需ぐんじゅめんでも資金しきん必要ひつようであったが、公然こうぜんたる多額たがく公債こうさい発行はっこう破滅はめつてきなインフレをまね危険きけんせいがあり、シャハトは一種いっしゅあな利用りようすることにした。1933ねん4がつ政府せいふぐんたいする通常つうじょう予算よさん監督かんとく免除めんじょ決定けっていし、6がつ特別とくべつ財務局ざいむきょく設立せつりつしてぐんへの予算よさんがい資金しきん管理かんりすることにした。1933ねん5がつ国防省こくぼうしょうとライヒスバンクは有限ゆうげん会社かいしゃ冶金やきん研究けんきゅう協会きょうかいドイツばん(Metallurgische Forschungsgesellschaft、略称りゃくしょうMEFO)を設立せつりつした。同社どうしゃ国防省こくぼうしょうとライヒスバンクによって手形てがた引受ひきうけ機関きかんとして作成さくせいされたペーパーカンパニーであり、資本しほんきんクルップティッセンドイツばんシーメンスグーテホフヌングスヒュッテドイツばんドイツ工業こうぎょう企業きぎょうドイツばんが20まんマルクずつ拠出きょしゅつしている[45][46]公共こうきょう事業じぎょう軍需ぐんじゅ発注はっちゅうけた会社かいしゃ有限ゆうげん会社かいしゃ冶金やきん研究けんきゅう協会きょうかいに3ヶ月かげつ期限きげん手形てがたメフォ手形てがた)をし、この手形てがたをライヒスバンクがくことで支払しはらいにあてた。この手形てがた雇用こよう創出そうしゅつ手形てがた同様どうよう支払しはらい期間きかん延長えんちょう可能かのうであったが、割引わりび機関きかんはライヒスバンクのみであった[47]。また支払しはらい保証ほしょう予算よさんたいする償還しょうかん計上けいじょうおこなわれなかった[48]

貯蓄ちょちく奨励しょうれい

[編集へんしゅう]

ナチス政府せいふにとって、金融きんゆう恐慌きょうこう再来さいらいふせ金融きんゆうシステム構築こうちくと、軍事ぐんじ捻出ねんしゅつ両方りょうほう政策せいさくかぎ国内こくない預金よきんりょう半分はんぶんめる全国ぜんこく貯蓄ちょちく銀行ぎんこうであった。貯蓄ちょちく銀行ぎんこうは1931ねん改革かいかくによって独立どくりつ公法人こうほうじんとなっており、政府せいふにとって利用りようしやすい存在そんざいであった[49]政府せいふ国民こくみん貯蓄ちょちく会議かいぎ設立せつりつし、「貯蓄ちょちく労働ろうどうとパンをもたらす。浪費ろうひ国家こっか建設けんせつのサボタージュ」と喧伝けんでんした。また労働ろうどう戦線せんせん傘下さんか歓喜かんき力行りっこうだんによる旅行りょこう貯蓄ちょちく・オリンピック貯蓄ちょちく・ヒトラーユーゲント貯蓄ちょちくなど特別とくべつ貯蓄ちょちく制度せいど貯蓄ちょちくねつをあおった。全国ぜんこく預金よきんりょうたいする貯蓄ちょちく銀行ぎんこう割合わりあいは1930ねんには42.4%、1933ねんには53.5%で115おくマルク、1935ねんには58.1%、1939ねんには57.4%と増加ぞうかし、開戦かいせんの1939ねん年末ねんまつには193おくマルクにたっした[50]貯蓄ちょちく銀行ぎんこうはこの膨大ぼうだい資金しきんりょく公債こうさいささ[51]しずかな戦時せんじ貯蓄ちょちくばれるもうひとつの戦争せんそう財源ざいげんとなった[50]

ゲーリングの時代じだい

[編集へんしゅう]

1936ねんなつごろには外貨がいか不足ふそくと2ねん連続れんぞく農業のうぎょう不振ふしんかさなって、ドイツ経済けいざい深刻しんこく原料げんりょう危機ききむかえており、景気けいき失速しっそく危険きけんがあった[31]。この危機ききえる方策ほうさくとしては協調きょうちょう外交がいこう軍拡ぐんかく減速げんそく政策せいさくえるか、軍備ぐんび拡大かくだいつづけて領土りょうど拡大かくだいによって占領せんりょうから収奪しゅうだつするかというふたつのみちがあったが、ヒトラーとナチとうにとっては後者こうしゃ以外いがい選択せんたくはありなかった。このため前者ぜんしゃ路線ろせん志向しこうするシャハトは放逐ほうちくされる運命うんめいであった[52]。さらに食糧しょくりょう輸入ゆにゅうへの外貨がいか割当わりあて拡充かくじゅうをめぐってシャハトと食糧しょくりょうしょうダレが深刻しんこく対立たいりつ開始かいしした。ヒトラーの命令めいれいでナチとうNo2の航空こうくうしょうヘルマン・ゲーリング仲介ちゅうかいはいり、かれ外貨がいか原料げんりょう問題もんだい全権ぜんけん掌握しょうあくした[53]

8がつ夏期かき休暇きゅうか最中さいちゅう、ヒトラーはオーバーザルツベルクベルクホーフにおいて、「だいよんカ年かねん計画けいかく」の秘密ひみつ覚書おぼえがきげた。この覚書おぼえがきには、4ねん以内いない戦争せんそう可能かのうならしめるための国防こくぼう経済けいざい体制たいせいへの移行いこう計画けいかくかれていた。9月9にち、ヒトラーはニュルンベルクとう大会たいかいにおいて、覚書おぼえがきもとづいた自給じきゅう経済けいざい体制たいせいドイツ: Autarkie、アウタルキー)の確立かくりつ目指めざだいよんカ年かねん計画けいかく開始かいし発表はっぴょうした[54]。10月18にちにはよんカ年かねん計画けいかく施行しこうれい発令はつれいされ、ゲーリングがよんカ年かねん計画けいかく受託じゅたくかんとして、計画けいかく遂行すいこうのための全権ぜんけん付与ふよされた[31]。シャハトはゲーリングと対立たいりつし、11月に経済けいざいしょう辞任じにんした。以降いこうゲーリングが経済けいざいしょうねることとなり、経済けいざい分野ぶんや全権ぜんけん掌握しょうあくすることとなった。

計画けいかく進展しんてんする1938ねんごろには過剰かじょう通貨つうか供給きょうきゅう軍需ぐんじゅ拡大かくだいによってさらに景気けいき過熱かねつし、インフレの危機きき外貨がいか不足ふそくがいっそう深刻しんこくした[55]。このため1936ねん11月の物価ぶっかストップれいなど物価ぶっか抑制よくせい措置そち相次あいついでとられた[56]。また資本しほん集中しゅうちゅうもいっそうすすみ、ドイツ企業きぎょうの12.5%をめる500まんマルク以上いじょうだい株式会社かぶしきがいしゃが、ぜん企業きぎょう資本しほんきん総額そうがくの78.5%をめるようになっていた[36]

よんカ年かねん計画けいかく

[編集へんしゅう]
カール・クラウホ。1942ねん

よんカ年かねん計画けいかくによる自給じきゅう経済けいざい構築こうちくとは、外貨がいか不足ふそくにより輸入ゆにゅう困難こんなんであるため、資源しげん国内こくない自給じきゅうたかめるものである[54]。ゲーリングが12月17にち演説えんぜつで「政治せいじ必要ひつようおうじて採算さいさん無視むしした生産せいさんおこなわねばならない。どのくらい費用ひようがかかってもかまわない。戦争せんそう勝利しょうりすれば十分じゅうぶんつぐないがつくからだ。」[57]かたったように、計画けいかく実行じっこう経済けいざいせい無視むししたものであった。1937ねん2がつにはヴァルター・フンク経済けいざいしょう戦争せんそう経済けいざい特命とくめい委員いいん就任しゅうにんしたが、フンクはゲーリングの腹心ふくしんであり、おおきな路線ろせん変更へんこうおこなわれなかった。このよんカ年かねん計画けいかく実権じっけんにぎったのは、最終さいしゅうてきにはゲーリングにぐナンバー2となったIG・ファルベンカール・クラウホ英語えいごばんであった。

よんカ年かねん計画けいかくでは戦時せんじ輸入ゆにゅう途絶とぜつ前提ぜんていとして、化学かがく繊維せんい人造じんぞう石油せきゆ合成ごうせいゴムなどのだい用品ようひん開発かいはつ推進すいしんされた[31]。また1937ねん7がつには国営こくえい企業きぎょうとしてヘルマン・ゲーリング国家こっか工場こうじょう設立せつりつされ、これまで採算さいさんのため放棄ほうきされてきた国内こくない資源しげん開発かいはつにあたった。よんカ年かねん計画けいかくのためにとうじられた資金しきんは、ドイツ全体ぜんたい設備せつび投資とうし金額きんがく半分はんぶん以上いじょうめる莫大ばくだいなものであった[58]。またよんカ年かねん計画けいかく技術ぎじゅつしゃはIG・ファルベンの関係かんけいしゃおおく、1939ねん段階だんかいで20%、戦時せんじには30%がIG・ファルベン出身しゅっしんしゃであった[59]。また10がつ29にち執行しっこうれいによりよんカ年かねん計画けいかくきょくにライヒ価格かかく形成けいせい監理かんりきょく設置せっちされ、経済けいざい集団しゅうだん連携れんけいして全国ぜんこく価格かかく監視かんしした[60]

しかしドイツ国内こくない資源しげんるいかたよっており、また軍需ぐんじゅ産業さんぎょうへの労働ろうどうりょく集中しゅうちゅう農業のうぎょう人口じんこう減少げんしょうまねき、食糧しょくりょう自給じきゅう困難こんなんになった[52]。1937ねん11月5にち秘密ひみつ会議かいぎでヒトラー自身じしん完全かんぜん自給じきゅう経済けいざい体制たいせい構築こうちく不可能ふかのうであるとべ、自給じきゅう可能かのうであるのは石炭せきたん鉄鉱てっこうせき軽金属けいきんぞく食用しょくようにすぎず、食糧しょくりょうにいたっては「まったく無理むり」であるとした[61]。ヒトラーは食糧しょくりょう自給じきゅうのためにはヨーロッパないでの領土りょうど獲得かくとく不可欠ふかけつであるとべ、ちか将来しょうらいにおける戦争せんそう準備じゅんび推進すいしん要求ようきゅうした(ホスバッハ覚書おぼえがき)。

1938ねんになるとよんカ年かねん計画けいかく軍備ぐんびへの傾斜けいしゃがいっそう鮮明せんめいとなった。7がつ以降いこういくつかの部分ぶぶん計画けいかく追加ついかされたが、よんカ年かねん計画けいかくとしてのまとまりをくようになった[59]。12月にはアウトバーン総監そうかんであったフリッツ・トートが建設けんせつ経済けいざい統制とうせい特命とくめい委員いいんにんぜられ、かれ指揮しきにあるトート機関きかんが、アウトバーンのほか西部せいぶ国境こっきょう要塞ようさいせんジークフリートせんなどの軍事ぐんじ施設しせつ建設けんせつ開始かいししている。1939ねんごろにはよんカ年かねん計画けいかく機構きこうすらも統一とういつせいうしなっていった[59]。これらの政策せいさく石炭せきたんは8000まんトンの増産ぞうさん成功せいこう[注釈ちゅうしゃく 3]鉄鉱てっこうせき生産せいさんだかは1932ねんの260まんトンから1938ねんの1500まんトンへきゅう成長せいちょうした[62]。しかし自給じきゅう努力どりょくにもかかわらず、物資ぶっし備蓄びちくははかばかしく進展しんてんせず、1939ねん10がつ時点じてんガソリンゴム鉄鉱てっこうせきどうボーキサイト備蓄びちくりょうはわずか半年はんとしぶんぎなかった[63]。1938ねんあきからライヒスバンクは不動産ふどうさん抵当ていとう融資ゆうし禁止きんししたため、公的こうてき資金しきんによる住宅じゅうたく建設けんせつ停止ていしした。ドイツはすでに深刻しんこく住宅じゅうたく不足ふそくおちいっていたため、失望しつぼうまねいた[64]

財政ざいせい金融きんゆう

[編集へんしゅう]

通貨つうかであるマルクのげはたびたび検討けんとうされたが、マルクのげはさい軍備ぐんび両立りょうりつしないために実現じつげんしなかった。1936ねんぜん帝国ていこく価格かかく監視かんし管理かんりかんカール・ゲルデラーはドイツの通貨つうか政策せいさく検討けんとうし、国際こくさい経済けいざいでドイツの悪化あっかふせぐにはマルクのげと変動へんどう相場そうばせい必要ひつようだとべた。ライヒスバンクの職員しょくいんはゲルデラーに賛成さんせいし、企業きぎょうじんもシャハトに通貨つうか調整ちょうせいのための輸出ゆしゅつ課税かぜい制度せいど廃止はいしするよう提案ていあんした。しかし、ヒトラーやシャハトはマルクげの議論ぎろん拒否きょひした[65]

とにかく歴史れきしからまなびたまえ、これまで借金しゃっきんほろびた民族みんぞくなどひとつもありはしないのだから — 1942ねん5がつ4にちのヒトラー談話だんわ[66]

1937ねん時点じてんでメフォ手形てがた発行はっこうがくは120おくマルクにたっしていた。シャハトはこれ以上いじょう増発ぞうはつ国家こっか支払しはら能力のうりょくえるとして、1938ねんにメフォ手形てがた発行はっこう停止ていしにした[67]。1938ねん2がつ以降いこう、ドイツのマネーサプライはそれまでの5ねんぶんえる増加ぞうかとなった。公共こうきょう事業じぎょうさい軍備ぐんびおも原因げんいんであり、賃金ちんぎん格差かくさはげしくなった。ライヒスバンクはかく産業さんぎょう賃金ちんぎん価格かかく水準すいじゅん乖離かいり指摘してきし、賃金ちんぎん物価ぶっか構造こうぞう崩壊ほうかいしたと表現ひょうげんした[68]

しかしメフォ手形てがたおよびライヒスバンク・政府せいふ発行はっこうした手形てがた債務さいむ短期たんき金融きんゆう市場いちば圧迫あっぱくし、さらにヒトラーの拡張かくちょう政策せいさくによる軍備ぐんび増大ぞうだいもあった[注釈ちゅうしゃく 4][70]。1938ねん9がつにはドイツ国営こくえい鉄道てつどうライヒスポスト資金しきん流用りゅうようしてったものの、10月のライヒスバンクによる国債こくさい発行はっこうは30%ちかくがのこって失敗しっぱいし、12月には20おくマルクの不足ふそくた。長期ちょうき借入かりいれによる資金しきん調達ちょうたつ不可能ふかのうとなった政府せいふは、インフレーションを容認ようにんするか、増税ぞうぜいかの選択せんたくせまられた[71][72]

軍拡ぐんかくのためにはさらなる資金しきん必要ひつようであり、ゲーリングらはメフォ手形てがた償還しょうかんおこなわず、中長期ちゅうちょうきさいによる資金しきん調達ちょうたつ開始かいしした。シャハトらライヒスバンク首脳しゅのうはこれに抗議こうぎし、1939ねん1がつ7にち債券さいけん増発ぞうはつ危険きけんせい警告けいこくする書簡しょかんをヒトラーにおくった。これは経済けいざいめんから進路しんろ変更へんこうしようとするライヒスバンクがわ説得せっとくだったが、ヒトラーは激怒げきどしてシャハトらを更迭こうてつし、フンクをライヒスバンク総裁そうさいえて人事じんじ一新いっしんした[73]。6月15にちにはライヒスバンクほう制定せいていされ、独立どくりつせいうしなったライヒスバンクは国家こっか従属じゅうぞくするいち官庁かんちょう位置いちづけられた[74]

1939ねん5がつ国防こくぼうぐん種類しゅるい租税そぜい証券しょうけん発行はっこうして軍事ぐんじ調達ちょうたつにあたった。この増発ぞうはつ証券しょうけん相場そうば下落げらく拒否きょひまねいたために発行はっこうは11月に停止ていしされ、ライヒスバンクがかたちとなった[75]。また政府せいふはライヒスバンクから無制限むせいげん信用しんよう供与きょうよけ、それで政府せいふ財政ざいせいをやりくりする事態じたいとなっていた[76]。ライヒスバンクのたい政府せいふ信用しんようはさらに増加ぞうかし、インフレ圧力あつりょくつよまった[77]

領土りょうど編入へんにゅう

[編集へんしゅう]

1935ねんザールラントがドイツに復帰ふっきし、ドイツの石炭せきたん収入しゅうにゅう飛躍ひやくてき増加ぞうかした。1938ねん3がつ13にちにはオーストリア併合へいごうされ(アンシュルス)、ドイツ経済けいざいいきまれた。オーストリアには60まんにん失業しつぎょうしゃ存在そんざいするなどきょうのまっただなかであったが、ドイツは7おく8200まんマルク相当そうとうかね外貨がいか準備じゅんび水力すいりょく発電はつでんふく膨大ぼうだい資源しげん獲得かくとくした。工業こうぎょう生産せいさんだかが8%追加ついかされ、鉄鉱てっこうせきさんするアルピネ鉱業こうぎょうはヘルマン・ゲーリング国家こっか工場こうじょう獲得かくとくした。3月23にちにはオーストリア経済けいざい復興ふっこうれい発令はつれいされ、公共こうきょう事業じぎょうによる雇用こよう拡充かくじゅうおこなわれた。同年どうねん11がつには継続けいぞくして失業しつぎょうしているものは10まんにん減少げんしょうしたと発表はっぴょうされている[78][79]。しかし、オーストリアは食糧しょくりょう鉱業こうぎょう原材料げんざいりょう輸入ゆにゅうしているため、国際こくさい収支しゅうしには長期ちょうきてきにはマイナスの影響えいきょうとなった。オーストリア貿易ぼうえきくわわることで、ハンガリーやポーランドはドイツにたいする貿易ぼうえき依存いぞんりつえたため、貿易ぼうえき条約じょうやく締結ていけつにつながった[79]

同年どうねん10がつにはミュンヘン会談かいだん結果けっかチェコスロバキアからズデーテン地方ちほう獲得かくとくした。政府せいふはこれによって同地どうち繊維せんい・ガラス・陶磁器とうじき工業こうぎょうれた[80]。さらによく1939ねん3がつにはチェコをベーメン・メーレン保護ほごりょうとして支配しはいき、同地どうち鉱山こうざん当時とうじ世界せかい有数ゆうすう武器ぶき工場こうじょうれた。また、外貨がいか不足ふそくにあえぐドイツにとって、保護ほごりょう外国がいこく貿易ぼうえき貴重きちょう外貨がいか供給きょうきゅうげんであった[80]

ユダヤじんからの収奪しゅうだつ

[編集へんしゅう]

ナチスは発足ほっそくからはんユダヤ主義しゅぎかかげており、政権せいけん獲得かくとくにはユダヤじん商店しょうてんたいするボイコットなどを扇動せんどうしていた。しかしシャハトは経済けいざい分野ぶんや阻害そがいするはんユダヤ主義しゅぎには反対はんたい立場たちばり、1935ねん11月に全国ぜんこく商工しょうこう会議かいぎしょ会頭かいとうにユダヤじん自由じゆう経済けいざい活動かつどう保障ほしょうする必要ひつようせい書簡しょかんおくった[81]。しかし1937ねん後半こうはん以降いこう経済けいざいだつユダヤ政策せいさく加速かそくはじめた[注釈ちゅうしゃく 5][83]

オーストリア併合へいごうの1938ねん3がつ11にちは、オーストリアでユダヤじんへの暴力ぼうりょく略奪りゃくだつきた。オーストリアでユダヤじん経営けいえいする企業きぎょうは、ナチ党員とういん長官ちょうかん管理かんりとなった。4月26にちには、ドイツとオーストリアのユダヤじんは5000マルク以上いじょう資産しさん報告ほうこく義務ぎむされ、よんカ年かねん計画けいかく組織そしきはユダヤじん資産しさん利用りようできるようになった[84]。6月14にちには経営けいえいじん一人ひとりでもユダヤじんがいる経営けいえいをユダヤ経営けいえいなし、しょ官庁かんちょうのリストに登録とうろくされた[85]

ライヒスバンクは、アーリアけい企業きぎょうへの融資ゆうし中止ちゅうしする指示しじした。ユダヤじん企業きぎょう原材料げんざいりょう配分はいぶん最下位さいかいとされた。アーリア業務ぎょうむとしてユダヤけい施設しせつ売却ばいきゃくおこなわれ、繊維せんい関連かんれん工場こうじょう340カ所かしょ卸売おろしうり企業きぎょう370カ所かしょがあり、民間みんかん銀行ぎんこう22カ所かしょなかには有名ゆうめい銀行ぎんこうふくまれていた。ドイツけい企業きぎょうは、もとユダヤじん資産しさん破格はかくやすさで購入こうにゅうした。ユダヤじんけた略奪りゃくだつもっと利益りえきたのは、ドイツ国家こっかとドイツの納税のうぜいしゃだった[86]親衛隊しんえいたいはドイツ国内こくないからのユダヤじん追放ついほう意図いとしていたが、ドイツでは外貨がいか不足ふそく影響えいきょう出国しゅっこく費用ひようたかくなっており、ユダヤじん国外こくがい移住いじゅうすくない理由りゆうにもなっていた。ライヒスバンクの試算しさんによれば、ユダヤけいドイツじん国外こくがい移住いじゅうには22おくから51おく5000まんマルクにたっするとされ、この金額きんがくはライヒスバンクの外貨がいか準備じゅんびすうばいであった。ユダヤじん移住いじゅうをすすめながら、資本しほん国外こくがいすユダヤじん非難ひなんするという状況じょうきょうになり、ユダヤじんへの差別さべつ悪循環あくじゅんかんこした[87]

11月9にちには国内こくない各地かくちでユダヤじん虐殺ぎゃくさつされ、商店しょうてんのガラスがられて道路どうろったために水晶すいしょうよるばれた[88]。11月12にちにはユダヤ経営けいえい営業えいぎょうや、ユダヤじん経営けいえいおこなうことが禁止きんしされ、同日どうじつ施行しこうされた資本しほんぜいは3年間ねんかんに112おく7000まんマルクの税収ぜいしゅうがあった。さらにドイツから出国しゅっこくするユダヤじんから資本しほん逃避とうひぜいとしてすうおくマルクを[89][90]。12月3にちにはユダヤじん資産しさんぜいドイツばんでユダヤ経営けいえい資産しさん有価ゆうか証券しょうけん譲渡じょうとさだめられ、ユダヤじん土地とち取得しゅとく禁止きんしされた[91]。またこうして譲渡じょうとされた経営けいえい勤務きんむしていたユダヤじん解雇かいこ厳命げんめいされた[92]。1938ねんのうちにユダヤ経営けいえい大半たいはんはドイツから姿すがたし、ユダヤじんの9わり経済けいざい基盤きばんうしなった[93]。このためこのとしヴォルフガング・ヴィッパーマンドイツばんによって「ドイツユダヤじん財政ざいせい」と表現ひょうげんされている[83]。さらに1939ねんにはユダヤじん保有ほゆうかねぎんプラチナ宝飾ほうしょくひん供出きょうしゅつ義務ぎむづけられるなど、迫害はくがいはますます進行しんこうした[94]だい規模きぼ迫害はくがいにもかかわらず、ユダヤじんからの収奪しゅうだつたものは国内こくない資金しきん移転いてんであり、ドイツ経済けいざい全体ぜんたい改善かいぜんにはならなかった[90]

経済けいざい学者がくしゃ見解けんかい

[編集へんしゅう]

1938ねん6がつ2にち国防こくぼうぐん国防こくぼう経済けいざいきょくとライヒスバンクの共催きょうさい会議かいぎひらかれた。ライヒスバンク、国防こくぼうぐん軍事ぐんじ経済けいざいスタッフ、権威けんいある経済けいざいがく教授きょうじゅたちが出席しゅっせきして議論ぎろんおこなわれ、ドイツ経済けいざいについて以下いかのような問題もんだいてんがあげられた[95]

財政ざいせいてきなそのしのぎの手法しゅほう(メフォ手形てがたなど)
一元化いちげんかされていないドイツ負債ふさい危険きけんせい
公的こうてき債務さいむ限界げんかい
さらなる消費しょうひ制限せいげん可能かのうせい
ライヒスバンクによるおかね信用しんよう創造そうぞう管理かんり
将来しょうらいてき企業きぎょう部門ぶもんからの信用しんよう要求ようきゅう増加ぞうかたす可能かのうせい
政府せいふ発注はっちゅう一時いちじてき緩和かんわした場合ばあいデフレ兆候ちょうこう危険きけんせい
公的こうてき部門ぶもん以外いがいのバブル経済けいざい危険きけんせい
あやまったうわべだけの資金しきん流動りゅうどうせいひろがることの危険きけんせい
企業きぎょう自己じこ資金繰しきんぐりによる危険きけんせい

議事ぎじろくには、出席しゅっせきしゃ重要じゅうようてんについて合意ごういしたので目的もくてき達成たっせいしたと記録きろくされている[95]

アメリカがえいふつ協力きょうりょくした場合ばあいにドイツが不利ふりになるという予測よそくは、ひろ共有きょうゆうされていた。1939ねん5がつ24にち国防こくぼうぐん主任しゅにんエコノミストであるゲオルク・トーマス英語えいごばんは、外務省がいむしょう職員しょくいん軍事ぐんじ経済けいざい課題かだい講義こうぎした。えいふつべいの3カ国かこくは1940ねん以降いこう防衛ぼうえい予算よさんでドイツを20おくマルク上回うわまわり、国民こくみん所得しょとくにおける軍備ぐんび負担ふたんは、ドイツの23%にたいしてイギリス12%・フランス17%・アメリカ2%だった。一連いちれん分析ぶんせきは、時間じかん経過けいかによってドイツがより不利ふりになることをあらわしていた。トーマスはヴィルヘルム・カイテルとヒトラーに開戦かいせんをとどまるよう説得せっとくこころみたが、失敗しっぱいわった[注釈ちゅうしゃく 6][97]

所得しょとく物価ぶっか

[編集へんしゅう]

1930年代ねんだいのドイツじん時給じきゅうは、マルク単位たんいではなくペニヒ単位たんいだった(1ドイツマルク=100ペニヒ)。時給じきゅう1マルクをえるのは工作こうさく機械きかい熟練工じゅくれんこう植字しょくじこうなどであり、男性だんせいもっとひくいのは製材せいざいしょ繊維せんい工場こうじょうで59ペニヒだった。1936ねん完全かんぜん雇用こよう時点じてんでは、ぜん納税のうぜいしゃの62%の1450まんにん年収ねんしゅう1500マルク以下いか週給しゅうきゅう30マルク・時給じきゅうやく60ペニヒにあたる。ブルーカラー労働ろうどうしゃ年収ねんしゅうは1500から2400マルク、ホワイトカラー労働ろうどうしゃは3000マルクだった。所得しょとく職業しょくぎょうほか性別せいべつによっておおきく格差かくさがあった[注釈ちゅうしゃく 7][98]

支出ししゅつでは、飲食いんしょくぶつ・タバコ・コーヒーなどが生活せいかつの43%から50%であり、家賃やちんに12%、公共こうきょう料金りょうきんに5%かかった。4にん家族かぞく場合ばあいのこりが月額げつがく67マルクとなり、これで衣服いふく住宅じゅうたく設備せつび交通こうつう医療いりょう保険ほけん教育きょういくなどの出費しゅっぴをやりくりする必要ひつようがあった[注釈ちゅうしゃく 8][100]

アメリカやイギリスとの経済けいざい格差かくさおおきく、どう時代じだいのアメリカのデトロイトとどう水準すいじゅん生活せいかつをベルリンやフランクフルトでするには5380マルクから6055マルクが必要ひつようだった[101]。1930年代ねんだい後半こうはんにラジオを購入こうにゅうできたのは半数はんすう世帯せたいであり、イギリスは68%、アメリカは80%だった[102]

労働ろうどう政策せいさく

[編集へんしゅう]
とし平均へいきん登録とうろく失業しつぎょうしゃすう推移すいい単位たんいせん[注釈ちゅうしゃく 9]
賃金ちんぎん推移すいい(1932ねん=100)[注釈ちゅうしゃく 10]
とし 失業しつぎょうしゃすう 名目めいもく時間じかん賃金ちんぎんりつ 名目めいもくしゅう賃金ちんぎん収入しゅうにゅう
1929ねん 1,898,6 122.4 149.4
1930ねん 3,075,5
1931ねん 4,519,7
1932ねん 5,575,4 100 100
1933ねん 4,804,4 97.0 102.2
1934ねん 2,718,3 96.8 109.7
1935ねん 2,151,0 96.8 122.3
1936ねん 1,592,6 96.8 116.6
1937ねん 912,3 97.0 120.6
1938ねん 429.4 97.4 126.5
1939ねん 104,2
1940ねん 43,1

雇用こよう創出そうしゅつ

[編集へんしゅう]

ヴァイマル共和きょうわこく時代じだいからの重要じゅうよう政治せいじ課題かだい膨大ぼうだい失業しつぎょうしゃ問題もんだいであった。1927ねんから機械きかいりょくより人力じんりき優先ゆうせんさせる公共こうきょう事業じぎょう緊急きんきゅう事業じぎょうドイツ: Notstandsarbeit)で雇用こよう創出そうしゅつしようという雇用こよう創出そうしゅつ計画けいかく策定さくていされ、パーペン・シュライヒャー政権せいけん時代じだい決定けっていされていた[105]

ナチス政府せいふはパーペン計画けいかく緊急きんきゅう計画けいかく継承けいしょうしたうえで、主要しゅよう雇用こよう創出そうしゅつ計画けいかくを1933ねんちゅう策定さくていした[106]組閣そかくの2がつ1にちにヒトラーは農民のうみん救済きゅうさい失業しつぎょう問題もんだい解決かいけつ公約こうやくし、ヒトラーを議長ぎちょう財務ざいむしょうクロージク、経済けいざい農業のうぎょうしょうフーゲンベルク、労相ろうしょうフランツ・ゼルテ労働ろうどう担当たんとう国家こっか弁務べんむかんゲーレケによる雇用こよう創出そうしゅつ委員いいんかいさいスタートさせた。しかしナチとう無視むしした政策せいさくろうとしたゲーレケは3がつ横領おうりょううたがいで逮捕たいほされ[107]、ナチとう主導しゅどうによる雇用こよう政策せいさくがあらためて開始かいしされることになった。6月1にちにはだいいち失業しつぎょう減少げんしょうほう通称つうしょうだいいちラインハルト計画けいかくがスタートした[注釈ちゅうしゃく 11]

ラインハルト計画けいかく宣伝せんでん意図いとしており、ひがしプロイセン長官ちょうかんであるエーリヒ・コッホ雇用こよう闘争とうそう(Arbeitsshclacht)とばれる運動うんどう展開てんかいし、13まんにん失業しつぎょうしゃを6ヶ月かげつ農業のうぎょう入植にゅうしょく雇用こようすることに成功せいこうしたと報告ほうこくした。実際じっさいには、ぜん人口じんこうの1.89%にあたるひがしプロイセンにたいしていな予算よさん雇用こよう創出そうしゅつ資金しきんから投入とうにゅうして成立せいりつしたイベントであり、より失業しつぎょう深刻しんこくだった大都市だいとしけんには恩恵おんけいすくなかった[108]。6月27にちには、帝国ていこくアウトバーン会社かいしゃ設立せつりつかんする法律ほうりつ(Gesetz über die Errichtung eines Unternehmens Reichsautobahnen)が公布こうふされ、7がつ15にちには租税そぜい軽減けいげんほう、9月21にちにはだい失業しつぎょう減少げんしょうほう通称つうしょうだいラインハルト計画けいかくがスタートした。

供給きょうきゅう削減さくげん

[編集へんしゅう]

雇用こよう創出そうしゅつ一方いっぽうで、ナチス・ドイツ政府せいふ追加ついか雇用こようドイツ: Zusätzliche Beschäftigung)とばれる失業しつぎょうしゃすう削減さくげん政策せいさくった。これは工業こうぎょう生産せいさん過程かていがい失業しつぎょう労働ろうどうりょく吸収きゅうしゅうし、労働ろうどう市場いちば過密かみつ緩和かんわさせるものであった[109]

この追加ついか雇用こようには緊急きんきゅう事業じぎょうや1931ねんからはじまった労働ろうどう奉仕ほうしなどがある。これらの事業じぎょう参加さんかした労働ろうどうしゃ衣食住いしょくじゅう現物げんぶつ支給しきゅうされたものの、賃金ちんぎんべるほどのものはっておらず、期間きかんみじかかった[110]。また大卒だいそつ若者わかものいち年間ねんかん農業のうぎょう年季ねんき奉仕ほうしドイツばんし、労働ろうどう市場いちばへの労働ろうどうりょく供給きょうきゅう延期えんきさせた[111]

さらに女子じょし労働ろうどうりょく削減さくげん政策せいさくおこなわれた。だいいちラインハルト計画けいかくでは結婚けっこん奨励しょうれい女子じょし家事かじ手伝てつだたいする優遇ゆうぐう措置そちまれ、女性じょせい労働ろうどう市場いちばから家庭かていへの移動いどう促進そくしんされた[112]

労働ろうどう環境かんきょう

[編集へんしゅう]

労働ろうどうしゃはドイツ労働ろうどう戦線せんせん(DAF)に加盟かめいし、その指導しどうしたがうようになった。労働ろうどう戦線せんせん組織そしき歓喜かんき力行りっこうだん労働ろうどうしゃ余暇よか・スポーツ・演奏えんそうかい祭典さいてん提供ていきょうし、そのなかでナチズムの浸透しんとうはかった。

一方いっぽう賃金ちんぎん抑制よくせいさくのため、景気けいき回復かいふくしても労働ろうどうしゃ時間じかんたりの収益しゅうえきびなかった。原則げんそくてきいちにち8あいだしゅう40あいだ労働ろうどうさだめられていたが、労働ろうどうりょく不足ふそく深刻しんこくになると労働ろうどう時間じかんばすことで対応たいおうした。また失業しつぎょう保険ほけん保険ほけんりょうげられることはなく、支払しはら条件じょうけん厳格げんかくされた。あつめられた資金しきん本来ほんらい役割やくわりではなく、公共こうきょう投資とうしのための基金ききんとなった[113]

完全かんぜん雇用こよう達成たっせい

[編集へんしゅう]

しょ計画けいかく合計ごうけいするとドイツ国家こっかは1933ねんから1935ねんにかけて雇用こよう創出そうしゅつとして50おくマルクとうじ、うち30おくマルクは雇用こよう創出そうしゅつ手形てがたによって調達ちょうたつされた。この手形てがた償還しょうかんは1938ねんまでに終了しゅうりょうしたが、財源ざいげん明確めいかくである[114]。また、雇用こようかんする減免げんめんぜいは1933~1934ねんにかけて7おく9000まんマルク、租税そぜい証券しょうけん発行はっこうも12おく790まんマルクにたっした[115]

政府せいふ雇用こよう創出そうしゅつのため、機械きかいりょくなどによる経済けいざい合理ごうり制限せいげんすることで、人手ひとで増加ぞうかさせる方策ほうさくをとった。だいいちラインハルト計画けいかくや1933ねん7がつ15にちの「タバコ産業さんぎょうにおける機械きかい使用しよう制限せいげんかんするほう」には機械きかいりょく制限せいげん明記めいきされており、事業じぎょう資金しきんちゅう賃金ちんぎん費用ひよう割合わりあい増大ぞうだいした。事業じぎょう資金しきん全体ぜんたいめる賃金ちんぎん割合わりあいはパーペン計画けいかくでは43.8%、緊急きんきゅう計画けいかくでは38.0%、アウトバーン建設けんせつでは46%、だいいちラインハルト計画けいかくいたっては70%であった[114]

パーペン計画けいかく緊急きんきゅう計画けいかくだいいちラインハルト計画けいかくさん計画けいかくによって1935ねんまでに50まんにん雇用こようされ[116]、さらにドイツ国鉄こくてつも4まんにん職員しょくいん雇用こようしたうえに6まんにん短期たんき雇用こようし、さらに発注はっちゅうによって工業こうぎょう手工業しゅこうぎょうかいに25まんにん雇用こようした[117]。また郵便ゆうびん事業じぎょうなどの公社こうしゃ個別こべつ雇用こよう増大ぞうだいさせている。

1933ねんいち年間ねんかん失業しつぎょうしゃは200まんにん減少げんしょうしたが[118]工業こうぎょう雇用こよう回復かいふくよりも失業しつぎょうしゃすう減少げんしょうおおきいなど[119]ふたた生産せいさん過程かてい吸収きゅうしゅうされたのはその7わりほどであった。また従来じゅうらい失業しつぎょうしゃにカウントされていたしつたい労働ろうどうしゃ農業のうぎょう補助ほじょしゃ勤労きんろう奉仕ほうししゃ労働ろうどうしゃとしてかぞえるという統計とうけい操作そうさおこなわれていた[120]。しかし失業しつぎょうしゃ減少げんしょうさせるという社会しゃかい政策せいさくてきにはおおきな意味いみがあり、ナチス政権せいけん安定あんてい寄与きよした[121]。1935ねん以降いこうさい軍備ぐんびによるぐん雇用こようもあり、1937ねんには失業しつぎょうしゃすう求人きゅうじんしゃすう上回うわまわり、ほぼ完全かんぜん雇用こよう達成たっせいされた[122]

労働ろうどうりょくさい配置はいち

[編集へんしゅう]

完全かんぜん雇用こよう達成たっせいされたものの、業種ぎょうしゅあいだ労働ろうどうしゃ需要じゅようかたよりがあり、とく建築けんちく金属きんぞく分野ぶんやでは熟練工じゅくれんこう不足ふそくしていた[123]。またヒトラーの志向しこうする自給自足じきゅうじそく経済けいざいには、労働ろうどうりょくさい配置はいち不可欠ふかけつであった。このため政府せいふは1934ねん12月29にちの「熟練じゅくれん金属きんぞく労働ろうどうしゃ配置はいちれい」、1935ねん2がつ26にちの「労働ろうどう手帳てちょう導入どうにゅうかんする法律ほうりつ」、1936ねん6がつ26にちの「公共こうきょう建築けんちく事業じぎょう実施じっしさいしての労働ろうどうりょく需要じゅようとどかんする命令めいれい」など、労働ろうどうりょく需給じゅきゅうくに調整ちょうせいするための法律ほうりつ次々つぎつぎ制定せいていはじめた[124]

軍需ぐんじゅ産業さんぎょう活況かっきょうにともない景気けいき上昇じょうしょうすることで、民間みんかんにおける労働ろうどうりょく需要じゅようはますますたかまった。政府せいふ賃金ちんぎん上昇じょうしょうさせない政策せいさくっていたが、企業きぎょう残業ざんぎょう時間じかんやしたり、手当てあて増額ぞうがくすることで給与きゅうよげ、労働ろうどうりょく争奪そうだつはしった。このため政府せいふ監視かんしにもかかわらずじわじわと給与きゅうよ水準すいじゅん上昇じょうしょうした[125]

1938ねん5がつからは西部せいぶ国境こっきょう要塞ようさいせんジークフリートせん建設けんせつはじまったが、そう工費こうひ35おくマルクにのぼるこの要塞ようさいせん構築こうちくには10まんにん工兵こうへいたいと、トート機関きかんによる35まんにん労働ろうどう奉仕ほうししゃ参加さんかし、国内こくない労働ろうどう市場いちばはさらに逼迫ひっぱくした[126]。6月22にち政府せいふ労働ろうどうりょく確保かくほのため、国策こくさくじょうとく重要じゅうようなる任務にんむため労働ろうどうりょく需要じゅよう確保かくほれい発令はつれいし、国民こくみん政府せいふもとめる職場しょくばでの労働ろうどう、もしくは職業しょくぎょう訓練くんれんける義務ぎむした。これにより、国民こくみん職業しょくぎょう選択せんたく自由じゆううしなわれた[126]国民こくみんもっと生産せいさんてき場所ばしょ配置はいちするために、国防こくぼう評議ひょうぎかいぜん国民こくみん国民こくみんカード目録もくろくへの登録とうろく義務ぎむづけた。国民こくみんカードは親衛隊しんえいたい秩序ちつじょ警察けいさつクルト・ダリューゲにより管理かんりされた。行政ぎょうせいでは法務ほうむ税務ぜいむ簡素かんそして人員じんいん異動いどうさせ、すべての製造せいぞう工場こうじょう査察ささつけることとなった[127]

かく産業さんぎょう

[編集へんしゅう]

農業のうぎょう

[編集へんしゅう]

食糧しょくりょう問題もんだい解決かいけつは、200ねんほどまえからのヨーロッパの関心事かんしんじであった。ヒトラー政権せいけん自給自足じきゅうじそく農業のうぎょう関心かんしんをもったのも、このながれにふくまれる[注釈ちゅうしゃく 12]。1933ねん国勢調査こくせいちょうさでは人口じんこうやく29%が農業のうぎょう従事じゅうじしゃであったが、輸入ゆにゅう食糧しょくりょうへの依存いぞんおおきいことにくわえて農地のうち不足ふそく人口じんこう密度みつどたかく、アメリカ、イギリス、フランスにくらべて問題もんだい深刻しんこくだった。農業のうぎょうしょう保護ほご主義しゅぎによってドイツの農業のうぎょう世界せかいから隔離かくりし、生産せいさんしゃには最低さいてい価格かかく保証ほしょうし、農家のうか債務さいむしゃ完全かんぜん保護ほごした[注釈ちゅうしゃく 13][130]

農地のうち不足ふそく解決かいけつのために、政府せいふ東欧とうおうへの入植にゅうしょく計画けいかくした。農業のうぎょうしょう世襲せしゅう農地のうちほうドイツばんによって自作農じさくのう土地とち保有ほゆう永久えいきゅう保証ほしょうし、入植にゅうしょく問題もんだい農家のうか債務さいむ問題もんだい解決かいけつしようとした[注釈ちゅうしゃく 14]農業のうぎょうしょう帝国ていこく食糧しょくりょうだんドイツばん(RNS)を組織そしきし、農産物のうさんぶつ価格かかく生産せいさん統制とうせいした。これによって農業のうぎょう関連かんれん産業さんぎょう統制とうせいし、RNSはGDPの25%、ドイツ生産せいさんしゃ600まんにん労働ろうどう人口じんこうの40%を管理かんりいた。飲食いんしょくぶつ価格かかく統制とうせいすることで、食費しょくひ生活せいかつ平均へいきん50%をめるかく家庭かていへの影響えいきょうりょくした[132]。RNSは数々かずかず統制とうせいおこなったが、1936ねんには領土りょうどないでの食糧しょくりょう自給じきゅう不可能ふかのうだと判明はんめいした。国内こくない農地のうちの3400まんヘクタールではりず、さらに700まんから800まんヘクタールが必要ひつようだった。この事実じじつがヒトラーや農業のうぎょうしょうのぞ東欧とうおう侵略しんりゃく計画けいかく後押あとおしした[133]

国内こくないリソースの争奪そうだつはげしくなるにつれて、農業のうぎょうでは1938てん作男さくおとこが40まんにん減少げんしょうし、労働ろうどうりょく不足ふそく深刻しんこくとなった。農家のうか女性じょせい地方ちほうにおいてもっと過労かろうはげしい集団しゅうだんとなり、1世代せだいあたりの子供こどもかずが33%減少げんしょうした[134]

化学かがく産業さんぎょう

[編集へんしゅう]
ドイツ国内こくないのIGファルベン施設しせつ。1932ねん

IGファルベンは世界せかい有数ゆうすう巨大きょだい企業きぎょうであり、1920年代ねんだいからIGは石油せきゆ枯渇こかつ予想よそうして石炭せきたん液化えきかによる合成ごうせい燃料ねんりょう開発かいはつしたが、あらたな油田ゆでん発見はっけん損失そんしつをこうむった。IGは合成ごうせい燃料ねんりょうむために、自給自足じきゅうじそくもとめるヒトラー政権せいけん協力きょうりょくした。財務省ざいむしょうは、IGにたいする資本しほん投資とうし最低さいてい5%をくに保証ほしょうし、わりにIGが年間ねんかん生産せいさんりょうを35まんトンに拡大かくだいする条件じょうけんをつけた。石炭せきたん液化えきか設備せつび原油げんゆくらべると高価こうかだったため、経済けいざいしょうのシャハトは石炭せきたんぎょうをはじめとするエネルギー産業さんぎょう全体ぜんたい協力きょうりょく強要きょうようし、合成ごうせい燃料ねんりょう工場こうじょう増設ぞうせつした。計画けいかく予定よていどおすすめるためにIGのクラウホが専門せんもん派遣はけんし、フリック・コンツェルンドイツばんハインリヒ・コッペンベルクドイツばん工場こうじょう建設けんせつ監督かんとくした。1930ねんまつにはIGは20まんにん雇用こようし、16おくマルクを保有ほゆうした[135]

よんカ年かねん計画けいかくによって、IGと政権せいけん関係かんけいはより緊密きんみつになり、IGのげのほとんどを国防こくぼうぐん保証ほしょうした。ドイツは4年間ねんかん燃料ねんりょう自給自足じきゅうじそく実現じつげんするために合成ごうせい燃料ねんりょう生産せいさんりょうが540まんトン必要ひつようだったが、1936ねん時点じてんでは国内こくない必要ひつようりょうの34%にとどまっていた。同年どうねんには合成ごうせいゴム製造せいぞう増産ぞうさんすすんだ。年間ねんかん投資とうしがくは1930年代ねんだい不況ふきょうの1000まんから1200まんマルクから、1940年代ねんだい初頭しょとうの5おくマルクにまでえた[136]

鉄鋼てっこう産業さんぎょう

[編集へんしゅう]

1933ねん以降いこうのヒトラー政権せいけんには、クルップ、フェスタクの2しゃおおきくかかわった[注釈ちゅうしゃく 15]。フェスタクの会長かいちょうであるアルベルト・フェーグラードイツばんは、石炭せきたん産業さんぎょう再編さいへん計画けいかくをヒトラーに提案ていあんしつつ、競争きょうそう相手あいて排除はいじょねらった。フェーグラーの計画けいかくによって、ユダヤじんパウル・ジルヴァーベルク経営けいえいするラインブラウンをうばわれて亡命ぼうめいいやられた。この功績こうせきでフェスタクは鋳造ちゅうぞう鉱業こうぎょうにおいて指導しどうてき位置いちにつき、子会社こがいしゃ軍需ぐんじゅ恩恵おんけいた。そのおも企業きぎょうとしてフリック、GHHドイツばんクレックナーマンネスマンドイツばんヘッシュレヒリングドイツばんがある。国内こくない鉄鋼てっこう各社かくしゃ独自どくじ技術ぎじゅつ関連かんれん産業さんぎょうをもち、競争きょうそうはげしく複雑ふくざつ状況じょうきょうだった[138]

よんカ年かねん計画けいかくでは鋼鉄こうてつ確保かくほ重要じゅうよう問題もんだいとなり、1936ねん11月には供給きょうきゅう危機ききによって生産せいさんりょう15%カットがめいじられた。輸入ゆにゅう原材料げんざいりょう不足ふそくがインフレにつながることをふせぐために、価格かかく統制とうせい担当たんとうするだい管区かんく指導しどうしゃアドルフ・ヴァーグナーすべての値上ねあげを禁止きんしした。そして1937ねんには市場いちばメカニズムにわって政府せいふによる配給はいきゅうせい導入どうにゅうされた[139]。1937ねんには、鉄鋼てっこう生産せいさんを1930まんトンから2400まんトンに増産ぞうさんする目標もくひょうてられた。目標もくひょうのためにフェスタクとどう規模きぼ製鋼せいこうしょ国有こくゆう企業きぎょうとして建設けんせつする計画けいかくすすめられた。これがヘルマン・ゲーリング国家こっか工場こうじょうであり、国内こくない鉄鋼てっこうみゃくすべ国家こっか管理かんりかれた[140]国家こっか工場こうじょう東欧とうおうへの侵攻しんこうとともに多数たすう企業きぎょう買収ばいしゅうかえし、世界せかい最大さいだい規模きぼのコングロマリットになる。しかし、買収ばいしゅうによって企業きぎょう鉄鋼てっこうぎょうへの貢献こうけんすくなく、1941ねんにはおおくが売却ばいきゃくされた。国家こっか工場こうじょう主導しゅどうてきになったのは石炭せきたん産業さんぎょうであり、当初とうしょ目的もくてきだった鋼鉄こうてつ不足ふそく解決かいけつされなかった[141]

ラジオ・自動車じどうしゃ産業さんぎょう

[編集へんしゅう]
国民こくみんラジオ VE301W

ヒトラー内閣ないかくでは国民こくみん製品せいひん構想こうそうされ、おもなものとしてラジオと自動車じどうしゃがある。宣伝せんでんしょうはラジオをプロパガンダのための重要じゅうよう手段しゅだんとみなし、ラジオメーカーにはたらきかけて製造せいぞう主導しゅどうした。ラジオ・カルテルが形成けいせいされ、1933ねん国民こくみんラジオVE301と命名めいめいされた製品せいひん発売はつばいされた。VE301の価格かかくは76マルクと平均へいきん世帯せたいにとって高価こうかであり、分割払ぶんかつばらいを可能かのうにして普及ふきゅう推進すいしんした。さらに1938ねんには35マルクの小型こがたラジオDKが発売はつばいされ、普及ふきゅうりつ急増きゅうぞうした[注釈ちゅうしゃく 16]

ヒトラーは、一家いっかいちだい乗用車じょうようしゃ保有ほゆうできるという国民こくみんしゃ構想こうそうを1934ねん発表はっぴょうし、価格かかくを1200マルクとした。しかし、当時とうじのドイツにとって自動車じどうしゃ高級こうきゅうひんであり、輸入ゆにゅうたよっている燃料ねんりょう高価こうかだった。もっともてい価格かかく実現じつげんしたオペルのP4も1450マルクであり、1200マルクという構想こうそう自動車じどうしゃ業界ぎょうかい反発はんぱつまねいた[注釈ちゅうしゃく 17]営利えいり目的もくてきでは国民こくみんしゃ不可能ふかのうだったが、ヒトラーはフェルディナンド・ポルシェのチームに研究けんきゅうさせ、ドイツ国民こくみんしゃ準備じゅんび会社かいしゃ製造せいぞうした。フォルクスワーゲン・タイプ1 は990マルクを目標もくひょう価格かかくとしてやく販売はんばいはじめたが、大半たいはんのドイツじんには依然いぜんとして高価こうかであり、ヒトラーが目標もくひょうとしたブルーカラー労働ろうどうしゃ見込みこ顧客こきゃくは5%にとどまった。さらに1939ねん開戦かいせんによって民間みんかんしゃ生産せいさんまり、ナチス・ドイツ時代じだいにフォルクスワーゲンをものはいなかった[145]

航空機こうくうき産業さんぎょう

[編集へんしゅう]

ヒトラー政権せいけんにおいてもっときゅう成長せいちょうした産業さんぎょう部門ぶもん航空機こうくうき産業さんぎょうだった。1932ねん航空機こうくうき産業さんぎょう雇用こようしゃは3200にん航空機こうくうき年間ねんかん製造せいぞうすうは100未満みまんだった。そのやく10ねんで、雇用こようしゃすうは25まんにん年間ねんかん製造せいぞうすうは1まん以上いじょうとなった。航空機こうくうき製造せいぞうしたのはユンカースアラドハインケルドルニエフォッケウルフメッサーシュミットの6しゃで、いずれも1933ねん以降いこうきゅう成長せいちょうした。ユンカースのほか航空こうくうしょう次官じかんエアハルト・ミルヒ主導しゅどうして国家こっか資金しきんつくられた企業きぎょうであり、民間みんかん企業きぎょうではあったが軍備ぐんび以外いがい需要じゅようはなかった。ユンカースの創設そうせつしゃであるフーゴー・ユンカース反逆はんぎゃくざい逮捕たいほされ、国家こっかがユンカースを収用しゅうようすることを同意どういさせられた。直接ちょくせつ製造せいぞう関与かんよした企業きぎょうとして、フリック・コンツェルン、ドイツ船舶せんぱく機械きかい工学こうがくドイツばんヘンシェルブローム・ウント・フォスがある[注釈ちゅうしゃく 18][147]航空機こうくうき増産ぞうさんにおいては、アメリカで考案こうあんされた科学かがくてき管理かんりほう導入どうにゅうされた[148]

貿易ぼうえき

[編集へんしゅう]
ドイツの貿易ぼうえき収支しゅうし単位たんい:ひゃくまんマルク)[注釈ちゅうしゃく 19]
とし 四半期しはんき 輸入ゆにゅう 輸出ゆしゅつ 貿易ぼうえき収支しゅうし
1929ねん 1 3,354.9 3,054.7 -300.2
2 3,465.1 3,476.6 11.5
3 3,338.8 3,487.3 148.5
4 3,288.0 3,464.4 276.4
1930ねん 1 3,171.0 3,222.0 51.0
2 2,533.0 2,983.0 450.0
3 2,440.0 2,923.0 483.0
4 2,249.0 2,908.0 659.0
1931ねん 1 1,919.0 2,420.0 501.0
2 1,885.0 2,348.0 463.0
3 1,464.0 2,465.0 1001.0
4 1,459.0 2,366.0 907.0
1932ねん 1 1,251.7 1,605.4 353.7
2 1,142.7 1,382.4 239.7
3 1,057.0 1,302.6 244.7
4 1,214.1 1,448.0 233.9
1933ねん 1 1,077.0 1,190.0 113.0
2 1,011.0 1,188.0 177.0
3 1,044.0 1,230.0 186.0
4 1,072.1 1,263.0 191.0
1934ねん 1 1,147.4 1,094.3 -53.1
2 1,152.8 991.9 -160.9
3 1,056.7 1,005.4 -51.3
4 1,094.1 1,075.3 -18.8
1935ねん 1 1,139.7 967.0 -162.7
2 1,008.7 995.0 -13.7
3 965.3 1,099.7 134.4
4 1,055.0 1,208.0 153.0
1936ねん 1 1,052.9 1,134.2 81.3
2 1,058.4 1,107.7 49.3
3 1,027.6 1,215.8 188.2
4 1,079.2 1,310.5 231.3
1937ねん 1 1,092.7 1,285.2 192.5
2 1,433.7 1,431.3 -2.4
3 1,443.4 1,565.8 122.4
4 1,498.5 1,628.8 130.3
1938ねん 1 1,399.0 1,360.0 -39.0
2 1,482.0 1,354.0 -128.0
3 1,476.0 1,375.0 -101.0
4 1,592.0 1,449.0 -143.0
1939ねん 1 1,445.8 1,333.4 -112.4
2 1,285.5 1,459.9 174.4

世界せかい恐慌きょうこう以降いこう貿易ぼうえき低調ていちょうにより、ナチス・ドイツ時代じだいつうじて貿易ぼうえきがく恐慌きょうこう以前いぜんよりひく水準すいじゅんであった。ナチス・ドイツ時代じだいつうじて輸入ゆにゅうは1938ねんだいよん四半期しはんきの15.92おくマルク、輸出ゆしゅつは1937ねんだいよん四半期しはんきの16.288おくマルクが最高さいこうであり、いずれも1930ねん水準すいじゅん半分はんぶん以下いかであった[150]。ただし世界せかい貿易ぼうえきめるドイツ貿易ぼうえき割合わりあいは1929ねんとほぼわりない水準すいじゅん維持いじしている[151]

ドイツが必要ひつようとする輸入ゆにゅうひんには、食料しょくりょうとなるぶたうしなどの家畜かちく飼料しりょう繊維せんい産業さんぎょう輸入ゆにゅう綿めん羊毛ようもう、そしてさい軍備ぐんびかせない鉄鉱てっこうせき石油せきゆ、ゴムなどだった。これらを輸入ゆにゅうするために堅調けんちょう輸出ゆしゅつ必要ひつようだったが、金本位きんほんいせい崩壊ほうかい保護ほご主義しゅぎによって貿易ぼうえき不振ふしんであり、1933ねんのドイツの外貨がいか保有ほゆうだかは1ヶ月かげつぶん輸入ゆにゅうりょうにすぎない4おくマルクまでっていた[152]

ドイツ最大さいだい貿易ぼうえき相手あいて恐慌きょうこう以前いぜんからアメリカであったが、1930年代ねんだい以降いこうその割合わりあい急速きゅうそく低下ていかした。1938ねん時点じてんたいべい輸出ゆしゅつはわずか2.8%まで低下ていかしている。同様どうようにイギリス・フランスとの通商つうしょう関係かんけい悪化あっかしていき、かわって北欧ほくおうとくにスウェーデン)、ひがし南欧なんおう中南米ちゅうなんべい比重ひじゅうたかまった。とくにルーマニアは産油さんゆこくとして重要じゅうようだった[注釈ちゅうしゃく 20][151]。シャハトはこくあいだ主義しゅぎによってこれらのくにとの通商つうしょう関係かんけい構築こうちくしたが、それはアメリカのコーデル・ハル国務こくむ長官ちょうかん多国たこくあいだ主義しゅぎてき貿易ぼうえき自由じゆう政策せいさく対立たいりつするものであった[154]。しかしシャハトの貿易ぼうえき拡大かくだい路線ろせんはヒトラーやゲーリングが志向しこうする自給自足じきゅうじそく経済けいざいことなっており、シャハトの失脚しっきゃくにもつながった[55]。1939ねんにはドイツはヨシフ・スターリン政権せいけんソヴィエト連邦れんぽうヒトラー=スターリン条約じょうやくむすび、ソ連それんはドイツの主要しゅよう輸入ゆにゅうさきとなり、貿易ぼうえきがくは6おくから7おくマルクとさだめられてどく開戦かいせんまでつづいた[注釈ちゅうしゃく 21][155]

1930年代ねんだいまつには、マルクは貿易ぼうえき指標しひょうとなる価値かちうしない、貿易ぼうえきレートは市場いちばシステムではなく政治せいじ判断はんだんめられるようになった。貿易ぼうえきにおけるマルクの購買こうばいりょくは、商品しょうひん地域ちいきによってめられた[注釈ちゅうしゃく 22]。このためマルクのろんそう混乱こんらんした[156]。イギリスとフランスは、アメリカからの支援しえんられるという保証ほしょうによってドイツと対立たいりつした。1938ねんにはえいべい貿易ぼうえき協定きょうていむすばれ、アメリカのフランクリン・ルーズヴェルト政権せいけんはイギリスやフランスへの武器ぶき供与きょうよ可能かのうとした。1939ねんのドイツによるチェコスロバキア占領せんりょうけて、アメリカはドイツからの輸入ゆにゅうひんに25%の関税かんぜいし、政府せいふはこれを宣戦せんせん布告ふこくひとしいとみなした[157]

外貨がいか

ドイツは金本位きんほんいせい保持ほじしていたが、海外かいがいでのマルクの実勢じっせいレートはかなり低下ていかしていた[158]外貨がいか不足ふそく健全けんぜん貿易ぼうえきおおきく阻害そがいした。さらに世界せかい恐慌きょうこう以降いこう世界せかいてき貿易ぼうえき停滞ていたい外貨がいか獲得かくとく機会きかい減少げんしょうさせた。外資がいし不足ふそく改善かいぜんするため、ヴァイマル政府せいふ外貨がいか管理かんり輸入ゆにゅう制限せいげん外国がいこく債務さいむ元利がんり支払しはら停止ていしなどの政策せいさくっていたが、外貨がいか増収ぞうしゅうにはいたらなかった。このため輸出ゆしゅつ振興しんこうさくとして1932ねん追加ついかてき輸出ゆしゅつ手続てつづき(ZAV)制度せいど採用さいようした。これは輸出ゆしゅつ業者ぎょうしゃ輸出ゆしゅつ代金だいきん一部いちぶとして、ドイツの対外たいがい債権さいけん外国がいこく市場いちばかられ、国内こくない債務さいむしゃわたすことをみとめたものである。対外たいがい債権さいけん海外かいがいやす取引とりひきされており、債務さいむしゃることで輸出ゆしゅつ業者ぎょうしゃ利益りえきることが出来でき[159]。このほかにも様々さまざま外貨がいか使用しよう削減さくげん方策ほうさくがとられており、シャハトの証言しょうげんによると、ドイツ貿易ぼうえきの80%は交換こうかん清算せいさん補償ほしょうなどで決済けっさいされており、自由じゆう貿易ぼうえきは20%以下いかであった[160]

外貨がいか不足ふそくおぎなうため、外債がいさい利子りし送金そうきん停止ていしする計画けいかくてた。これに債権さいけんこく反発はんぱつし、輸出ゆしゅつ超過ちょうか再建さいけんさえをおこなうなど、貿易ぼうえき関係かんけいでも摩擦まさつつづいていた[161]。また軍備ぐんび拡大かくだいともなって原料げんりょう輸入ゆにゅう増大ぞうだいすることで工業こうぎょう製品せいひん生産せいさんコストががり、輸出ゆしゅつ不振ふしんとなったため、ヴァイマル時代じだいからの外貨がいか不足ふそくはますます深刻しんこくとなった[31]。1934ねん1がつ時点じてんでの貿易ぼうえき赤字あかじは2200まんマルク、12月には4500まんマルク、よく1935ねん1がつには1おく500マルクと増加ぞうかするいちぽうであった[162]外貨がいか準備じゅんびもこれにともなって減少げんしょうし、1934ねん6がつには1おくマルクを危険きけん水域すいいき突入とつにゅうした[17]。1934ねん9がつにシャハトが状況じょうきょう打開だかいする貿易ぼうえき管理かんり政策せいさくとしてしん計画けいかくドイツばん策定さくていしたが、あくまで一時いちじてきなものであった。しん計画けいかく骨子こっしである補助ほじょきんによる輸出ゆしゅつ奨励しょうれいはダンピングととられるおそれがあり、食糧しょくりょう事情じじょう逼迫ひっぱくするなか輸入ゆにゅう抑制よくせいながつづけられるものではなかった[163]

1935ねん3がつにシャハトは、ZAVの手続てつづきを簡略かんりゃくするかわりに輸出ゆしゅつ促進そくしん補助ほじょきん資金しきん経済けいざい集団しゅうだんから「自発じはつてきに」拠出きょしゅつさせる法律ほうりつ[164]制定せいていしたが、拠出きょしゅつきん負担ふたんする企業きぎょう価格かかく転嫁てんかすることも出来できずにくるしんだ。シャハトは国庫こっこから拠出きょしゅつするようのぞんだが、クロージク財務ざいむしょう拒否きょひした[165]。しかしこの補助ほじょきん政策せいさくによって、輸出ゆしゅつ価格かかくやすおさえることが出来できたため、輸出ゆしゅつ増加ぞうか一定いってい効果こうかがあった[166]

外貨がいか準備じゅんびは1935ねん一時いちじてきに1おくマルクをえたものの、がいしててい水準すいじゅんであった[17]。また1936ねんあききむブロック英語えいごばん諸国しょこく金本位きんほんいせいから離脱りだつしたこともあって、ドイツの交易こうえき条件じょうけんはさらに悪化あっかした[167]。さらによんカ年かねん計画けいかく産業さんぎょう保護ほご政策せいさくにより、国内こくない製造せいぞうぎょうがリスクのない国内こくない取引とりひき選択せんたくし、輸出ゆしゅつ志向しこうしないという事態じたい発生はっせいした[168]。さらによんカ年かねん計画けいかく責任せきにんしゃゲーリングは自給自足じきゅうじそく体制たいせい重視じゅうししたため、外貨がいか獲得かくとく熱心ねっしんではなかった[55]。このためドイツの外貨がいか準備じゅんび改善かいぜんされず、平均へいきん7600まんマルクのてい水準すいじゅんであった[17][注釈ちゅうしゃく 23]。1938ねんには外貨がいか準備じゅんび枯渇こかつ予想よそうされ、1939ねん1がつにはライヒスバンクは外貨がいか準備じゅんび外国がいこく為替かわせ準備じゅんび存在そんざいしないとヒトラーに報告ほうこくした。政府せいふさい軍備ぐんび一部いちぶ放棄ほうきして鋼鉄こうてつなどを輸出ゆしゅつし、ぐんへの配給はいきゅうりょう削減さくげんした[169]

輸入ゆにゅうめる地域ちいきべつ比重ひじゅう単位たんい:%)[注釈ちゅうしゃく 24]
南東なんとうおう エジプト
トルコ
中近東ちゅうきんとう
中南米ちゅうなんべい 北欧ほくおう けい 西欧せいおう イギリス アメリカ その けい
1929ねん 3.8 1.4 11.4 7.3 23.9 15.7 6.4 13.3 40.7 76.1
1932ねん 5.0 2.5 9.6 6.4 23.5 15.1 5.5 12.7 43.2 76.5
1935ねん 7.7 3.8 13.1 9.9 34.5 14.1 6.2 5.8 39.4 65.5
1938ねん 9.8 3.8 14.9 11.4 39.3 11.9 5.2 7.4 35.8 60.1
輸出ゆしゅつめる地域ちいきべつ比重ひじゅう単位たんい:%)
南東なんとうおう エジプト
トルコ
中近東ちゅうきんとう
中南米ちゅうなんべい 北欧ほくおう けい 西欧せいおう イギリス アメリカ その けい
1929ねん 4.3 1.4 7.3 10.2 23.2 26.2 9.7 7.4 33.5 76.8
1932ねん 3.5 1.3 4.1 9.4 18.3 31.9 7.8 4.9 37.1 81.7
1935ねん 5.9 3.4 9.1 11.4 29.8 26.1 8.8 4.0 31.3 70.2
1938ねん 10.3 5.4 11.7 12.9 40.3 20.8 6.7 2.8 29.4 59.7

税制ぜいせい

[編集へんしゅう]

財務ざいむしょうクロージクはナチス・ドイツの租税そぜい政策せいさくとして、ぜい社会しゃかいてき公平こうへいぜいによる人口じんこう政策せいさく保護ほご租税そぜい立法りっぽう範囲はんいないにおける人格じんかくてき価値かち経済けいざいてき社会しゃかいてき関係かんけい考慮こうりょをあげていた[171]戦前せんぜんからドイツでは一人ひとりあたりぜい負担ふたんたかく、個人こじん所得しょとくぜい大幅おおはば増税ぞうぜいはなかった。わりに利潤りじゅんこう所得しょとくしゃへの税率ぜいりつげた[172]

子女しじょ控除こうじょ

1934ねん10がつ16にち制定せいていされたライヒ所得しょとく税法ぜいほう既婚きこんしゃ子女しじょ家庭かてい優遇ゆうぐうされ、8000マルク以上いじょう高額こうがく所得しょとくしゃ独身どくしんしゃなどには負担ふたんえることになった[173]。1938ねん改正かいせいにより、既婚きこんしゃ所得しょとくぜい緩和かんわおこなわれる一方いっぽうで、教会きょうかいぜい控除こうじょ制限せいげんやユダヤじん家庭かていたいする子女しじょ控除こうじょ除外じょがいおこなわれた。1939ねん改正かいせいでは結婚けっこん5ねんても子女しじょたない既婚きこんしゃ独身どくしんしゃ差別さべつたされた[174]。ナチとう思想しそうによる民族みんぞく共同きょうどう体内たいないでは民族みんぞく平準へいじゅんおこなわれるが[8]共同きょうどうたいぞくさないユダヤじんやスラブじんたいしては徹底的てっていてき差別さべつおこなうものであった[175]。このため戦時せんじ突入とつにゅうするとポーランドじんロマたいしては子女しじょ控除こうじょみとめられなくなった[176]

燃料ねんりょうぜい

ドイツはIGファルベンによって合成ごうせい燃料ねんりょうすすめられ、輸入ゆにゅう石油せきゆには課税かぜいされて重要じゅうよう財源ざいげんとなった。1936ねんには輸入ゆにゅう石油せきゆへの課税かぜいは4おく2100まんマルクでぜん税収ぜいしゅうの30%だった。1936ねん12がつ以降いこうは、財政ざいせい逼迫ひっぱくによって国内こくない生産せいさん燃料ねんりょうにも課税かぜいされるようになった[177]

ぜい控除こうじょ

1939ねんしん財務ざいむ計画けいかくにより、政府せいふざいやサービスを納入のうにゅうする業者ぎょうしゃは、支払しはらいがくの40%以上いじょう現金げんきんわりにぜい控除こうじょとしてることがさだめられた。この控除こうじょ実質じっしつてきには低利ていり融資ゆうし強制きょうせいだったが財政難ざいせいなん解決かいけつにはならなかった[178]

対外たいがい債務さいむ

[編集へんしゅう]

当時とうじのドイツは債務さいむこくであり、公的こうてき民間みんかんをあわせた対外たいがい債務さいむは1933ねん2がつ28にち段階だんかいで187おく2せんまんマルクにたっしていた[179]対象たいしょうこくはアメリカが40%をめ、いでオランダとスイスのじゅんであった[180]。この膨大ぼうだい債務さいむは1931ねんスターリング・ポンドと、1933ねんはるアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくドルげによって1933ねんちゅうに42おくマルク減少げんしょうし、1940ねん9がつまつ時点じてんでは1933ねんからくらべて96おくマルク減少げんしょうしている[181]

政府せいふは1933ねん6がつ対外たいがい債務さいむ返済へんさい停止ていし決定けっていした。対外たいがい債務さいむはマルクで返済へんさいつづけるが、マルクは外貨がいかえられなかった。外貨がいかによる返済へんさい再開さいかいはドイツの貿易ぼうえき黒字くろじ健全けんぜんになるまで延期えんきとされ、債権さいけんこく返済へんさいのぞむならドイツ製品せいひん輸入ゆにゅうしなければならないことを意味いみした。この決定けっていはアメリカ・イギリス・フランスを中心ちゅうしんとする各国かっこく資本しほん反感はんかんんだが、べいえいふつの3ヶ国かこく経済けいざい政策せいさく分裂ぶんれつしておりドイツ対策たいさく協調きょうちょうができなかった[152]

軍備ぐんび経済けいざい

[編集へんしゅう]

ナチとうはヴェルサイユ条約じょうやく破棄はき主張しゅちょうしており、ヒトラーも1933ねん2がつ3にちハンマーシュタイン=エクヴォルト兵務へいむきょくちょうたくひらかれた会談かいだんde:Liebmann-Aufzeichnung)において、国防こくぼうぐん首脳しゅのうさい軍備ぐんび約束やくそくしていた[6][7]。1933ねん予算よさんでは軍事ぐんじ激増げきぞうこそはしなかったものの、ドイツ航空こうくうしょう設置せっちして空軍くうぐん創設そうせつ準備じゅんび開始かいししていた。また雇用こよう計画けいかくである緊急きんきゅう計画けいかく費用ひようのうち1おく9せんまんマルクをはじめとして、雇用こよう創出そうしゅつ費用ひよう一部いちぶさい軍備ぐんびとして流用りゅうようすることには、ヒトラー自身じしんつよいリーダーシップがあった[182][183]。また自動車じどうしゃ産業さんぎょう育成いくせいや、民間みんかん施設しせつへの地下ちか防空壕ぼうくうごう建設けんせつなど、軍事ぐんじにはふくまれないもののじゅん軍事ぐんじてき政策せいさくおおられる[184]。8月1にちには軍備ぐんび計画けいかくてられ、1939ねん10がつ1にち時点じてん平時へいじぐん83まんにん戦時せんじぐん462まんにん野戦やせんぐん102師団しだんをふくむ)の編成へんせい目標もくひょうとしていた[185]

一方いっぽう雇用こよう問題もんだい一段落いちだんらくした1935ねん5がつ21にちにはシャハトが戦争せんそう経済けいざい全権ぜんけん就任しゅうにんしているなど、将来しょうらい戦争せんそう計画けいかくあきらかにしている。軍事ぐんじは1933年度ねんどの7おく2せんまんマルクから1934年度ねんどには33おくマルクと大幅おおはば増額ぞうがく[186]以降いこう増大ぞうだいつづけた。だいよんカ年かねん計画けいかくはじまった1936ねんには前年ぜんねんから倍増ばいぞうし、ひとつのとなった[187]

これらの事情じじょうから研究けんきゅうしゃでのあいだでは、雇用こよう問題もんだい解決かいけつされてから軍備ぐんび増強ぞうきょう本格ほんかくされたという段階だんかいせつ[注釈ちゅうしゃく 25]と、政権せいけん獲得かくとくから軍備ぐんび継続けいぞくされていたといういち段階だんかいせつ[注釈ちゅうしゃく 26]がある。増大ぞうだいする軍事ぐんじ重要じゅうよう位置いちめたのがメフォ手形てがたであり、1933ねんから1937ねんまでの軍事ぐんじ総計そうけい324おくマルクうち、メフォ手形てがたによって捻出ひねりだされたのは3ぶんの2にちかい204おくマルクであった[188]。1941ねん海軍かいぐん財政ざいせいきょくは1933ねん以降いこう状態じょうたい回顧かいこして、困難こんなんがなかったわけではないが、「(資金しきんは)つねにほとんど無制限むせいげん提供ていきょうされた」としている[189]

さい軍備ぐんび宣言せんげんおこなわれ、だいよんカ年かねん計画けいかくはいると軍事ぐんじ準備じゅんび公然こうぜんした。1936ねんにフロムが作成さくせいした予測よそくでは、国防こくぼうぐん支出ししゅつは1939ねんから1942ねんにかけて年間ねんかん300おくマルク増加ぞうかする見通みとおしとなった[注釈ちゅうしゃく 27][191]。1935ねんから1938ねんまでのそう生産せいさん増加ぞうかぶんやく47%が軍事ぐんじ支出ししゅつにあたり、これにさい軍備ぐんび優先ゆうせん投資とうしくわえると67%となる。1935ねん国家こっか購入こうにゅうによるざいとサービスの70%は国防こくぼうぐんであり、1938ねんには80%にえた[192]

しかしドイツ経済けいざいかかえる資源しげん不足ふそく労働ろうどうしゃ不足ふそく軍備ぐんび分野ぶんやでも問題もんだいとなっていた。よんカ年かねん計画けいかく責任せきにんしゃでもあり、空軍くうぐん司令しれいかんであるゲーリングは空軍くうぐんたいする資源しげんてをやす傾向けいこうがあり、海軍かいぐん陸軍りくぐんとのあいだ熾烈しれつ資源しげん争奪そうだつせんおこなわれた。ヴェルナー・フォン・ブロンベルク国防こくぼうしょうはヒトラーの調停ちょうていもとめ、1937ねん11月3にちぐん首脳しゅのうとヒトラーによる秘密ひみつ会議かいぎ開催かいさいされた[185]。しかしこのせきでヒトラーは、食糧しょくりょう問題もんだい原料げんりょう問題もんだい解決かいけつするための領土りょうど拡張かくちょう政策せいさくつよ主張しゅちょうした。具体ぐたいてきには、1938ねんから1945ねんあいだ好機こうきおとずれれば、チェコスロバキアやオーストリアにたいして軍事ぐんじ活動かつどうこすことを表明ひょうめいしたが、陸軍りくぐん海軍かいぐん難色なんしょくしめした。こののち、ブロンベルク国防こくぼうしょう陸軍りくぐんそう司令しれいかんヴェルナー・フォン・フリッチュはナチとう策動さくどうによるスキャンダルで失脚しっきゃくさせられ(ブロンベルク罷免ひめん事件じけん)、国防こくぼうぐん完全かんぜんにナチとう勢力せいりょくはいった。そのとう機関きかんかくぐん資源しげん労働ろうどうりょく争奪そうだつせんはやまず、効率こうりつてき軍拡ぐんかくおこなわれなかった。1938ねんになると財政ざいせい状態じょうたい危機ききむかえたため、予定よていされていた予算よさんはじめて実行じっこうされないという事態じたいむか[193]、12月には国防こくぼうぐん最高さいこう司令しれい軍事ぐんじ抑制よくせいかくぐんびかけている[193]だい世界せかい大戦たいせん開始かいし航空機こうくうき生産せいさんはイギリスとどう程度ていど戦車せんしゃにいたってはイギリス以下いかであった[194]

ドイツの軍備ぐんび支出ししゅつ単位たんい:ひゃくまんマルク、会計かいけい年度ねんど[注釈ちゅうしゃく 28]
軍需ぐんじゅしょう 陸軍りくぐん 海軍かいぐん 空軍くうぐん けい メフォ手形てがた けい 国民こくみん所得しょとくちゅう
軍備ぐんび支出ししゅつ割合わりあい
1932ねん 457 173 630 630 1.3%
1933ねん 478 192 76 746 746 1.5%
1934ねん 3 1,010 297 642 1,952 2,145 4,097 7.8%
1935ねん 5 1,392 339 1,036 2,772 2,715 5,487 9.3%
1936ねん 128 3,020 448 2,225 5,821 4,452 10,273 15.7%
1937ねん 346 3,990 679 3,258 8,273 2,688 10,961 15.0%
1938ねん 452 9,137 1,632 6,926 17,247 17,247 21.0%
1939ねん 258 5,611 2,095 3,942 11,906 11,906
1934-1938合計ごうけい 1,192 24,160 5,491 17,128 47,971 12,000 59,971
各国かっこく国家こっか財政ざいせいめる軍事ぐんじ割合わりあい(%)[注釈ちゅうしゃく 29]
ドイツ イギリス フランス イタリア 日本にっぽん
1929-1930ねん 6.5 14.6 22.0 25.2 36.1
1933-1934ねん 12.6 13.9 22.7 21.4 38.7
1936-1937ねん 67.0 24.1 29.9 53.6 48.7

統計とうけい

[編集へんしゅう]
1928ねんから1938ねん工業こうぎょう生産せいさん指数しすう(1929ねん=100)[注釈ちゅうしゃく 30]
そう生産せいさん 投資とうしざい 消費しょうひざい 機械きかい 乗用車じょうようしゃ 紡績ぼうせき 銑鉄せんてつ 粗鋼そこう 石炭せきたん
1928ねん 98.6 97.1 103.1 99.1 109.8 108.2 89.0 89.0 92.1
1929ねん 100 100 100 100 100 100 100 100 100
1930ねん 85.9 81.6 94.0 82.4 72.4 97.4 73.0 71.0 87.0
1931ねん 67.6 52.6 89.2 59.0 51.3 94.9 45.7 51.0 72.5
1932ねん 53.3 34.4 76.3 39.2 31.4 86.6 29.6 35.5 64.0
1933ねん 60.7 43.6 82.6 46.8 65.5 98.1 39.7 46.6 67.0
1934ねん 79.8 72.6 92.4 62.5 104.9 106.8 65.9 73.0 76.3
1935ねん 94.0 99.4 88.2 82.1 149.4 98.5 91.2 101.1 87.5
1936ねん 106.3 113.2 98.7 98.7 177.6 106.5 115.2 118.1 96.6
1937ねん 117.2 124.4 104.6 119.6 214.4 108.1 120.2 122.1 112.9
1938ねん 127.6 142.3 114.9 138.3 187.3 115.8 143.5 148.0 116.5
国家こっか財政ざいせい収支しゅうし公債こうさい残高ざんだか単位たんい:おくマルク)[注釈ちゅうしゃく 31]ひょうちゅう()ない増減ぞうげん
租税そぜい収入しゅうにゅう 財政ざいせい支出ししゅつ 赤字あかじ 公債こうさい残高ざんだか 短期たんきさい残高ざんだか 雇用こよう創出そうしゅつさい残高ざんだか メフォ手形てがた残高ざんだか 中長期ちゅうちょうきさい残高ざんだか
1932ねん 64.2 73.2 9.0 123.9 11.0 - - 112.9
1933ねん 59.9 84.3 24.4 139.5(+15.7) 29.6(+18.6) 14.4(+14.4) - 110.0(-2.9)
1934ねん 80.6 106.6 26.0 159.8(+20.3) 56.2(+26.7) 14.9(+10.5) 21.5(+21.5) 103.6(-6.4)
1935ねん 90.7 139.0 42.0 201.8(+42.0) 84.7(+28.5) 11.3(-3.6) 48.6(+27.2) 117.1(+13.5)
1936ねん 115.5 173.5 58.0 258.9(+57.1) 120.4(+35.7) 7.6(-3.7) 93.1(+44.5) 138.5(+21.4)
1937ねん 140.3 194.3 54.0 312.8(+53.9) 143.0(+22.7) 3.8(-3.8) 120.0(+26.9) 169.8(+31.3)
1938ねん 177.3 283.3 105.0 417.8(+105.0) 180.2(+37.2) 0(-3.8) 119.0(-1.0) 237.7(+67.9)
国民こくみんそう支出ししゅつ単位たんい:おくマルク)[注釈ちゅうしゃく 32]ひょうちゅう()ないそう支出ししゅつたいする割合わりあい
国民こくみんそう支出ししゅつ 個人こじん消費しょうひ 政府せいふ部門ぶもん 軍事ぐんじ支出ししゅつ 道路どうろ鉄道てつどう投資とうし その公共こうきょう投資とうし 民間みんかん設備せつび投資とうし 工業こうぎょう投資とうし 住宅じゅうたく建築けんちく
1928ねん 894 639(71.5) 103(11.5) 8.3 22.3 41.8 71.6(8.0) 26.2 15.0
1932ねん 568 471(82.9) 56(9.9) 6.2 8.1 11.7 22.0(3.9) 4.4 6.1
1933ねん 587 475(80.9) 63(10.7) 7.2 12.4 11.9 25.7(4.4) 5.6 6.9
1934ねん 661 500(75.6) 92(13.9) 33.0 16.9 17.7 36.7(5.6) 10.6 10.8
1935ねん 733 521(71.1) 125(17.1) 51.5 18.8 20.1 47.4(6.5) 16.4 13.4
1936ねん 814 523(64.3) 169(20.8) 90.0 21.4 20.8 61.9(7.6) 21.6 20.3
1937ねん 915 571(62.4) 204(22.3) 108.5 24.0 22.2 69.1(7.6) 28.4 19.2
1938ねん 1,020 606(59.4) 262(25.7) 155.0 33.8 21.5 80.8(7.9) 36.9 19.0

戦時せんじ経済けいざい

[編集へんしゅう]
1944ねん発行はっこう寄附きふきんづけ切手きって。54ペニヒの額面がくめんたいし、96ペニヒが寄付きふきんとなる。

1939ねん8がつ30にち戦時せんじ総動員そうどういん体制たいせい最高さいこう中枢ちゅうすう機関きかんとして国防こくぼう閣僚かくりょう会議かいぎドイツばん設置せっちされた。しかし基本きほんてき経済けいざい政策せいさくだいよんヵ年かねん計画けいかく継続けいぞくであり、経済けいざい計画けいかく統一とういつせいがよりうしなわれていった。しかしそれはいちめんでは変化へんかする状況じょうきょうおうじやすいということでもあり、戦況せんきょう占領せんりょう変化へんか適合てきごうした政策せいさくれるということでもあった[198]

1939ねん9がつポーランド侵攻しんこうから1940ねん5がつフランス侵攻しんこうにいたる一連いちれん勝利しょうりによって、ドイツはヨーロッパを横断おうだんする経済けいざいけん確保かくほした。経済けいざいブロックにするとGDP合計ごうけいはアメリカやイギリスよりもおおきく、影響えいきょう人口じんこうは2.9おくにん面積めんせきはアメリカより若干じゃっかんちいさい規模きぼとなる。ドイツがうばったざいは、フランスから77おくマルク相当そうとうざいや130おくマルク相当そうとう原材料げんざいりょう、フランス・ベルギー・オランダからどう8まんトンやすず・ニッケルなどがあり、当面とうめん備蓄びちく問題もんだい解消かいしょうされた[199]

ドイツは広大こうだい経済けいざいけん戦利せんりひんたものの、ヒトラーが目標もくひょうとした自給自足じきゅうじそくによる生存せいぞんけん実現じつげんしなかった。イギリスのウィンストン・チャーチル政権せいけん戦争せんそう維持いじめており、アメリカもたいドイツせんのために軍備ぐんびすすめ、1940ねん12月にはアメリカで武器ぶき貸与たいよほう成立せいりつした[200]。ドイツけんえいべいには依然いぜんとして経済けいざい格差かくさがあり、とくにドイツけんでは食糧しょくりょう石炭せきたん石油せきゆ不足ふそくしていた。石油せきゆはルーマニアからの輸入ゆにゅう依存いぞんしており、占領せんりょう拡大かくだいすると石油せきゆ消費しょうひ増加ぞうかして1941ねんから各地かくち逼迫ひっぱくした[注釈ちゅうしゃく 33][202]

ヒトラーは、アメリカ参戦さんせんまえソ連それん制圧せいあつするためにバルバロッサ作戦さくせんおこなった。ウクライナの穀倉こくそう地帯ちたいやコーカサスの油田ゆでんなどの資源しげん確保かくほするという経済けいざいてき目的もくてきだったが、フランツ・ハルダーなどの将軍しょうぐん作戦さくせん成功せいこうについて悲観ひかんてきだった。ソ連それん当時とうじのアメリカとドイツに経済けいざい規模きぼであり、消耗しょうもうせんになればドイツの不利ふりになることがあきらかだった[注釈ちゅうしゃく 34]。フランスせん同様どうように、ソ連それんせん短期間たんきかんわらせることが目標もくひょうになったが、1941ねんまでにソ連それん制圧せいあつするという目標もくひょう達成たっせいされなかった[204]

財政ざいせい金融きんゆう

[編集へんしゅう]

ドイツでは全面ぜんめん勝利しょうり実現じつげんするまでは講和こうわ条約じょうやく締結ていけつする予定よていはなかった。そのため占領せんりょうたいする賠償金ばいしょうきんはなく、占領せんりょう費用ひようという名目めいもく占領せんりょうから定期ていきてき支払しはらわれた。占領せんりょう費用ひようは、ドイツが中央ちゅうおう決済けっさいシステム(貿易ぼうえき参照さんしょう)でげる赤字あかじえるがくであり、基地きち建設けんせつやみ市場いちばでの原材料げんざいりょう消費しょうひざい購入こうにゅうなどにもあてられた。フランスにたいしては、占領せんりょう費用ひようわりにフランス企業きぎょう株式かぶしきでも支払しはらいをみとめると交渉こうしょうしたが、実現じつげんしなかった[205]

戦費せんぴ調達ちょうたつ債券さいけん増発ぞうはつでまかなわれることになり、債務さいむは1944ねん11がつまでのあいだに3091おくマルク増加ぞうかした[206]。ライヒスバンクのたい政府せいふ信用しんよう供与きょうよ倍増ばいぞう以上いじょうとなり、1941ねん時点じてんで200おくマルクを突破とっぱした[207]開戦かいせんまえ数ヶ月すうかげつあいだには、貯蓄ちょちく銀行ぎんこう巨額きょがく預金よきんされ、人々ひとびと必需ひつじゅひん備蓄びちくするために使つかわれた。1940ねん以降いこう配給はいきゅうせい商店しょうてんでの品薄しなうす影響えいきょうひろがると、今度こんど預金よきんあつまるようになり、1941ねん月額げつがく10おくマルク以上いじょう預金よきんされた。各地かくち貯蓄ちょちく銀行ぎんこう預金よきんは、ライヒスバンクが資金しきん調達ちょうたつのために利用りようした。政府せいふ株式かぶしき市場いちばでの投資とうし規制きせいし、民間みんかん投資とうし国債こくさいうように誘導ゆうどうした[208]

税制ぜいせいでは、法人ほうじん税率ぜいりつが1941ねんに40%から50%、1942ねんからは55%にげられた。これによって1941ねんから1943ねんにかけて合計ごうけい30おくマルク以上いじょう税収ぜいしゅうえた。さらに家賃やちんぜいの10ねんぶん前払まえばらいによって80おくマルクを徴収ちょうしゅうした[209]

貿易ぼうえき

[編集へんしゅう]

開戦かいせんから数ヶ月すうかげつ輸入ゆにゅうりょうが80%減少げんしょうし、だい恐慌きょうこう時代じだい(1932ねん)の30%ほどまでがった。どう石油せきゆ輸入ゆにゅうはほぼゼロとなった[210]。1940ねんには占領せんりょう中立ちゅうりつこくくわえるとだい規模きぼ経済けいざいけんとなったため、8がつから占領せんりょうたいして中央ちゅうおう決済けっさいシステムが導入どうにゅうされ、ヨーロッパ経済けいざいへのドイツの影響えいきょうりょくつよめた。このシステムはグスタフ・シュロッサーによって考案こうあんされ、ドイツが貿易ぼうえき赤字あかじをためわりに各国かっこくからの輸入ゆにゅう容易よういにする目的もくてきがあった。各国かっこく輸出ゆしゅつ業者ぎょうしゃ支払しはらいをけるときに、ドイツの輸入ゆにゅう業者ぎょうしゃからではなく自国じこく中央ちゅうおう銀行ぎんこうから自国じこく通貨つうかった。そして各国かっこく中央ちゅうおう銀行ぎんこうは、負債ふさいをベルリンの決済けっさい口座こうざにつけた。これによってドイツは輸入ゆにゅうひんり、輸出ゆしゅつ業者ぎょうしゃ支払しはらいをけるが、ベルリンにある口座こうざ清算せいさんされなかった。他方たほうでドイツは輸出ゆしゅつつづけており、同盟どうめいこく(ルーマニア、イタリア、フィンランド、クロアチアとう)や中立ちゅうりつこく(スウェーデン、トルコとう)にたいしては貿易ぼうえき収支しゅうし均衡きんこう維持いじした[211]

貿易ぼうえきとともに、ドイツ資本しほん進出しんしゅつおこなわれた。アルザス・ロレーヌ地方ちほう重工業じゅうこうぎょうはドイツ企業きぎょう接収せっしゅうし、信託しんたく運用うんようけん使つかってノルウェーのアルミ産業さんぎょう発電はつでん産業さんぎょう支配しはいいた。オランダでは、国籍こくせき企業きぎょうフィリップスロイヤル・ダッチ・シェルユニリーバ所有しょゆうけん移転いてんしてのがれた。ドイツの影響えいきょうかれたのはNVヴェルクシュポールシュタートリッヒェン・アーティリエ・インリヒティンゲン合成ごうせい繊維せんいぎょうアルゲメネ・クンツトツィデ・ウニー(AKU)などだった。フランス、ベルギー、ルクセンブルクでのドイツ資本しほん影響えいきょうりょくちいさかった。一連いちれん接収せっしゅう買収ばいしゅうおも利益りえきたのはドイツの民間みんかん企業きぎょうではなく、ヘルマン・ゲーリング国家こっか工場こうじょうのような半官半民はんかんはんみん企業きぎょうだった[212]

インフラ

[編集へんしゅう]

インフラめんでは、鉄道てつどう劣化れっか輸送ゆそう障害しょうがいとなった。国営こくえい鉄道てつどうは1929ねんから劣化れっかすすんでいたことにくわえて、収益しゅうえきはアウトバーンの建設けんせつやバス・トラックの拡張かくちょう使つかわれており、貨物かもつ車両しゃりょうは1920年代ねんだいまつの67まんりょうから1937ねんには57まんりょうまで減少げんしょうしていた。兵士へいし輸送ゆそうとどこおり、石炭せきたん供給きょうきゅうおくれて軍備ぐんび企業きぎょうの10%が影響えいきょうけた[213]。1940ねん以降いこう占領せんりょう貨車かしゃ接収せっしゅうして80まんりょうとなったが、占領せんりょうのフランスで貨車かしゃ不足ふそくしたために石炭せきたん生産せいさん製造せいぞうぎょう生産せいさん減少げんしょうする結果けっかとなった[214]

食糧しょくりょう消費しょうひざい

[編集へんしゅう]

食糧しょくりょう調達ちょうたつ海外かいがい輸入ゆにゅう途絶とぜつしたが、制圧せいあつ諸国しょこくからの移入いにゅうにより状況じょうきょう悪化あっかしなかった[215]他方たほう、ポーランドをはじめ占領せんりょうされた地域ちいき食糧しょくりょう不足ふそくとなった。食糧しょくりょう配給はいきゅうでは、ドイツじん1人ひとりあたり2600キロカロリーで、ポーランドじんは609キロカロリー、ユダヤじんは503キロカロリーだった[216]ぐん以外いがい食糧しょくりょう消費しょうひがくは1942ねんまでに20%減少げんしょうしたが、これは肉類にくるい減少げんしょうしてジャガイモやまめ増加ぞうかするといったしつ悪化あっかによるもので、カロリーベースではほとんど変化へんかはなかった[217]

消費しょうひざい生産せいさんは1940ねんを100とすると44ねんには食糧しょくりょうが88、皮革ひかく繊維せんい被服ひふく分野ぶんやは79にまで減少げんしょうした[218]。また穀倉こくそうであったウクライナやポーランドを奪還だっかんされて以降いこうは、食糧しょくりょう調達ちょうたつ国内こくない生産せいさんたよらざるをなくなった[215]。ヒトラーはそう力戦りきせんによって国民こくみん生活せいかつ負担ふたんをかけることを躊躇ちゅうちょしており、戦局せんきょく一時いちじてき好転こうてんすると1942ねん1がつ布告ふこく後悔こうかいする言動げんどうせたり、1943ねん4がつ民需みんじゅひん購入こうにゅう無用むよう制限せいげんのぞまないむね言明げんめいしていたが、1944ねん以降いこう食料しょくりょうひん不足ふそくあきらかになった[217]。また1943ねんからは連合れんごうぐん戦略せんりゃく爆撃ばくげきさかんになり、1944ねん9~10がつばくげきではダイムラー・ベンツ工場こうじょう操業そうぎょう停止ていしまれるなど多大ただい損害そんがいあたえた[219]政府せいふ空爆くうばく被害ひがいおさえるため、生産せいさん拠点きょてん移転いてん疎開そかい分散ぶんさんはかったが、すでに戦後せんごかんがえていた企業きぎょう経営けいえいしゃによる消極しょうきょくてき抵抗ていこうられた[220]

軍需ぐんじゅ

[編集へんしゅう]

1940ねん3がつには軍需ぐんじゅしょう設置せっちされ、トートが軍需ぐんじゅ大臣だいじんとなった。戦争せんそう開始かいしには軍事ぐんじ軍需ぐんじゅ生産せいさん増加ぞうかしたが、フランスポーランド支配しはいにおいてなお、1940ねんから1941ねんにかけては軍需ぐんじゅ物資ぶっし増産ぞうさん停滞ていたいした[221]どくせん開始かいし1941ねん6月23にちにゲーリングは特別とくべつ軍備ぐんび計画けいかくいわゆる「ゲーリング計画けいかく」をはっした。空軍くうぐんりょくを2ねんから2ねんはんあいだに4ばい拡張かくちょうするほか、軽金属けいきんぞく航空こうくう燃料ねんりょう火薬かやく爆薬ばくやくだい増産ぞうさんおこなだい規模きぼ計画けいかくであったが、空軍くうぐん偏重へんちょうたいする陸軍りくぐん軍需ぐんじゅ企業きぎょうつよ抵抗ていこうまねいた[222]一方いっぽう損耗そんこう増加ぞうかし、軍需ぐんじゅ生産せいさん先行さきゆきが悲観ひかんてきであるとかんじた軍需ぐんじゅしょうトートは、早期そうき終戦しゅうせんをヒトラーに進言しんげんしていた[223]

どくせん停滞ていたい様相ようそうはじめた1942ねん1がつにヒトラーは総統そうとう布告ふこくし、消費しょうひ生活せいかつ犠牲ぎせいにしてでも軍需ぐんじゅ、とくにUボート東部とうぶ戦線せんせんよう戦車せんしゃ代表だいひょうされる兵器へいき生産せいさん拡大かくだい命令めいれいした[224]。2月にトートが航空機こうくうき事故じこ死亡しぼうすると、後任こうにんには建築けんちくアルベルト・シュペーアにんじられた。シュペーアはトートのいた軍需ぐんじゅしょう機構きこう改革かいかく路線ろせんぎ、4がつには軍需ぐんじゅしょう傘下さんか中央ちゅうおう計画けいかくちょう設置せっちされた。軍需ぐんじゅしょうへの権限けんげん集中しゅうちゅうすすみ、3月には航空機こうくうきのぞ空軍くうぐん兵器へいき軍艦ぐんかん生産せいさん権限けんげん、5月には国防省こくぼうしょう経済けいざい軍需ぐんじゅきょく吸収きゅうしゅうし、国防省こくぼうしょう発言はつげんりょく低下ていかした[225]。シュペーアは兵器へいき生産せいさんかかわる戦車せんしゃをはじめとする13の分野ぶんや中央ちゅうおう委員いいんかいと、ボールベアリングなど部品ぶひんごとに産業さんぎょうリングを組織そしきした。シュペーア自身じしんによれば、これによって兵器へいき発注はっちゅうかんする固定こてい価格かかく制度せいどいち工場こうじょういち製品せいひん大量たいりょう生産せいさん原則げんそく普及ふきゅうし、兵器へいきるいだい増産ぞうさんにつながったとする[225]。しかし、シュペーアの施策しさくおおくは前任ぜんにんしゃのトート時代じだいつくられていた。また、シュペーアが改革かいかくするまえのシステムは戦争せんそう初期しょき大量たいりょう動員どういんにはてきしたシステムだった。だい増産ぞうさん可能かのうにしたのは弾薬だんやく生産せいさんよう鋼鉄こうてつ配分はいぶん増加ぞうか理由りゆうで、合理ごうりではなかった。中央ちゅうおう計画けいかく委員いいんかいのメンバーはシュペーア方式ほうしき破綻はたんさせないために国内こくない消費しょうひしゃへの石炭せきたん割当わりあてらす方策ほうさくっていた[注釈ちゅうしゃく 35][227]原材料げんざいりょう供給きょうきゅう不足ふそくにより、シュペーア方式ほうしきは1942ねんには破綻はたんしかけていた。イギリスぐんがドイツ本土ほんどばくげきはじまると、コークスと鋼鉄こうてつ中間なかま部品ぶひん供給きょうきゅうだったルール地方ちほう標的ひょうてきとなった。1943ねんのルール地方ちほうへのばくげき鋼鉄こうてつ生産せいさんは20まんトンり、部品ぶひん不足ふそくきて軍需ぐんじゅ産業さんぎょうすべてが打撃だげきけ、シュペーアによる増産ぞうさん計画けいかく予定よてい段階だんかい失敗しっぱいした[228]

1942ねんから1944ねんあいだ工業こうぎょうじゅん生産せいさんがくが10%びたが、軍需ぐんじゅ物資ぶっし生産せいさんがくは3ばい増加ぞうかし、全体ぜんたいの40%をめることになった[224]軍需ぐんじゅ生産せいさんのピークは1944ねん7がつであり、自動車じどうしゃ戦艦せんかん減少げんしょうしたほかはいずれも増大ぞうだいしたが、とく戦車せんしゃ増産ぞうさんおおきかった[224]。1945ねんはるには石炭せきたん不足ふそく稼働かどうする工場こうじょう激減げきげんしたため、ラインがわ清流せいりゅうになったという記録きろくがある[229]

労働ろうどう政策せいさく

[編集へんしゅう]

ポーランド侵攻しんこう開始かいしされた9月1にちには「労働ろうどう移動いどう制限せいげんれい」が発令はつれいされ、労働ろうどうりょく戦時せんじ配置はいち開始かいしされた[230]。1939ねん9がつ1にちから1940ねん9がつ1にちまでのあいだに314まんにん男子だんし国防こくぼうぐん徴兵ちょうへいされ[231]国防こくぼうぐん動員どういんした労働ろうどうりょく総計そうけいは1940ねんに570まんにん、1942ねん5がつには940まんにんたっした[232]。このため国防こくぼうぐんのぞ労働ろうどう人口じんこうは1942ねんまでに3910まんにんから3130まんにんへと減少げんしょうしていた[232]

1939ねん3がつ施行しこうされていた「ヒトラーユーゲントほうだい施行しこうれい」によって勤労きんろう奉仕ほうし義務ぎむつ10さいから18さい男女だんじょ青少年せいしょうねん徴用ちょうようした[233]。しかし一方いっぽうで、女子じょし労働ろうどうしゃ出征しゅっせいまえ兵士へいし結婚けっこんする事例じれいえたこと、さらに既婚きこんしゃおっと労働ろうどう時間じかんえて収入しゅうにゅうえたが、商品しょうひん機会きかい減少げんしょうしたこともあり、女子じょし労働ろうどうしゃは30まんにん減少げんしょうしている[234]。また、軍需ぐんじゅ工場こうじょうによっては労働ろうどうりょく過剰かじょう確保かくほし、一種いっしゅごろ状態じょうたいにすることもあった[235]

外国がいこくじん労働ろうどうしゃ

[編集へんしゅう]
ドイツ国内こくないはたらくポーランド労働ろうどうしゃ着用ちゃくよう義務ぎむづけられた「P」マーク。

政府せいふはこれをおぎなうため、戦争せんそう捕虜ほりょ囚人しゅうじん労働ろうどうりょく利用りようした。たいポーランドせん勝利しょうりによって35まんにん戦争せんそう捕虜ほりょと、その外国がいこくじん労働ろうどうしゃ29まん5せんにん戦争せんそう遂行すいこうじょう重要じゅうよう産業さんぎょう追加ついか供給きょうきゅうされた(だい世界せかい大戦たいせんのドイツによる強制きょうせい労働ろうどう英語えいごばん[236]。1940ねんには20まんにんのポーランドじんがドイツ国内こくない労働ろうどう従事じゅうじさせられた。ドイツ国内こくないのポーランドじん公共こうきょう交通こうつう機関きかん利用りようやドイツじんとの接触せっしょく禁止きんしされ、「P」の文字もじがついたさつにつける必要ひつようがあった[237]

どくせん開始かいし準備じゅんびのため労働ろうどうりょくはさらに逼迫ひっぱくしたため、1941ねん2がつにはゲーリングの布告ふこく軍需ぐんじゅしょう労働ろうどうりょく配置はいち監督かんとくする「軍需ぐんじゅ大臣だいじん点検てんけん委員いいんかい」(通称つうしょう隘路あいろ委員いいんかい、トート委員いいんかい)が設置せっちされた。6月20にちには委員いいんかい権限けんげんはさらに強化きょうかされ、軍需ぐんじゅ産業さんぎょうへの労働ろうどうりょく配置はいち転換てんかんをすすめたが、1941ねんまつまでに38まん4せんにんと、当初とうしょ目標もくひょうを10まんにん下回したまわった[238]どくせん開始かいしはさらに労働ろうどうりょく逼迫ひっぱくまねき、ユダヤじん軍需ぐんじゅ工場こうじょうから追放ついほうされたことによってより悪化あっかした[239]

1942ねん5がつまでに420まんにん外国がいこくじん投入とうにゅうされたが、それをふくめても国防こくぼうぐん労働ろうどうりょくは10%減少げんしょうしている[232]。これら労働ろうどうしゃ人種じんしゅによって格付かくづけされ、西欧せいおうじん(フランス、オランダ、ベルギー)・東欧とうおうじん枢軸すうじくこく国民こくみん[注釈ちゅうしゃく 36]はドイツじんとほぼおな待遇たいぐうけたものの、チェコスロバキアじんやポーランドじんソ連それんじん(ロシア、ウクライナなど)は冷遇れいぐうされた[240]労働ろうどうしゃなかでもロシアじんたいする待遇たいぐうわるく、1941ねん11月にはかれらの「自給じきゅう」が要求ようきゅうされた。このさい食糧しょくりょう次官じかんヘルベルト・バッケはわらくずやぜたパンのみを支給しきゅうすることを提案ていあんしている。この提案ていあん自体じたいとおらなかったものの、食糧しょくりょう事情じじょう劣悪れつあくであり、1942ねん4がつ2にちフリードリヒ・クルップしゃ報告ほうこくでは12%のロシアじん捕虜ほりょ死亡しぼう生存せいぞんしている捕虜ほりょも30%以上いじょう労働ろうどう不能ふのう状態じょうたいであるうえに、移送いそうされてきたロシアじん労働ろうどうしゃにはすでに飢餓きが浮腫ふしゅられたという[241]。さらに過酷かこく条件じょうけん労働ろうどうしゃとしてはユダヤじんがいたが、かれらにかんしては労働ろうどうつうじた絶滅ぜつめつおこなわれた(ホロコースト)。

ユダヤじん強制きょうせい労働ろうどうしゃ行進こうしん

1942ねん5がつにはシュペーアの主導しゅどう[242]フリッツ・ザウケル労働ろうどうりょく配置はいち総監そうかんにんじられ、労働ろうどうりょく調整ちょうせいぜん責任せきにんしゃとなった。ザウケルはソ連それんりょうふく東部とうぶ占領せんりょう地域ちいきから150まんにんソ連それんじん男女だんじょをドイツに連行れんこうするなど、徴用ちょうようによる労働ろうどうりょく確保かくほをさらにすすめた[243]。このため強制きょうせい労働ろうどうしゃすうはさらに増加ぞうかし、1944ねん5がつには750まんにんと、国防こくぼうぐんのぞくドイツそう労働ろうどうりょくすうぶんいちめるまでになった[244]。また、強制きょうせい労働ろうどうしゃ待遇たいぐう改善かいぜんおこなわれたが、とう政府せいふ関係かんけいしゃによる横流よこながしが頻発ひんぱつしたため、根本こんぽんてき解決かいけつにはならなかった[245]一方いっぽうで1942ねんには女子じょし労働ろうどうりょく徴用ちょうよう開始かいしされたが、前線ぜんせん兵士へいしへの悪影響あくえいきょう考慮こうりょされ[235]、1944ねん時点じてんでもほとんどびなかった[218]

1943ねん12月には西欧せいおう占領せんりょう労働ろうどうしゃのドイツ国内こくないへの移送いそう優先ゆうせんさせるザウケルと、現地げんち労働ろうどうさせるべきとするシュペーアの関係かんけい悪化あっかした[246]。1944ねんになるとイタリア・フランスでは労働ろうどうりょく徴用ちょうようが「完全かんぜん失敗しっぱい」とみとめざるをない状況じょうきょうになり[247]、さらに占領せんりょう失陥しっかんによって国外こくがい労働ろうどうりょく確保かくほはさらに困難こんなんになった。この経緯けいいによってザウケルの権力けんりょく失墜しっついし、シュペーアの軍需ぐんじゅしょうによって権限けんげん吸収きゅうしゅうされていった[248]

略奪りゃくだつ

[編集へんしゅう]

占領せんりょうにおいては外国がいこく為替かわせ事務所じむしょドイツばん傘下さんかにあった通貨つうか保護ほご部隊ぶたいドイツばんよって、ユダヤじんとう所有しょゆうする外貨がいか貴金属ききんぞく・ダイヤモンド・銀行ぎんこう預金よきんとう押収おうしゅうおこなった。

終戦しゅうせん

[編集へんしゅう]

1944ねん6がつにはソ連それんぐんバグラチオン作戦さくせん開始かいしべい英軍えいぐんによるノルマンディー上陸じょうりく作戦さくせんによる西部せいぶ戦線せんせんさい構築こうちくとフランス失陥しっかんによって、ドイツは戦時せんじ経済けいざい基盤きばんとしてきた占領せんりょうおおくをうしなった。そして8がつにはドイツの主要しゅよう石油せきゆ供給きょうきゅうげんであったルーマニアのプロイェシュティ油田ゆでん喪失そうしつし、燃料ねんりょう不足ふそくはさらに深刻しんこくになった[249]。1945ねんには戦局せんきょくがさらに悪化あっかし、ドイツ国民こくみん平均へいきん摂取せっしゅカロリーは2100キロカロリー、外国がいこくじんは2000キロカロリー、強制きょうせい労働ろうどうしゃにいたっては生存せいぞん維持いじできないりょうであった[250]。3月20にち、ヒトラーは通称つうしょうネロ指令しれいばれる命令めいれいし、退却たいきゃく生産せいさん施設しせつをすべて破壊はかいするようめいじた。この命令めいれいはシュペーアの判断はんだんによって実行じっこうされなかったが、すでにドイツ経済けいざい末期まっき状態じょうたいとなっており、5月に終戦しゅうせんむかえた。

統計とうけい

[編集へんしゅう]
各国かっこく軍需ぐんじゅ生産せいさん推移すいい(1944ねん=100)[注釈ちゅうしゃく 37]
1939ねん 1940ねん 1941ねん 1942ねん 1943ねん 1944ねん
ドイツ 20 35 35 51 80 100
日本にっぽん 10 16 32 49 72 100
アメリカ 2 5 11 47 91 100
イギリス 10 34 59 83 100 100
ソ連それん 20 30 53 71 87 100
ドイツ工業こうぎょうじゅん生産せいさんめるかく産業さんぎょう分野ぶんや比率ひりつ(%) [注釈ちゅうしゃく 38]
産業さんぎょう分野ぶんや 1938ねん 1939ねん 1940ねん 1941ねん 1942ねん 1943ねん 1944ねん
原料げんりょう 21 21 22 25 25 24 21
兵器へいき 7 9 16 16 22 31 40
建物たてもの 25 23 15 13 9 6 6
その投資とうしざい 16 18 18 18 19 16 11
消費しょうひざい 31 29 29 28 25 23 22

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく

[編集へんしゅう]
  1. ^ 創設そうせつ当時とうじ兵器へいき弾薬だんやくしょう、1943ねん以降いこう軍需ぐんじゅ軍事ぐんじ生産せいさんしょう
  2. ^ ただし、この時点じてんにおいても政財界せいざいかいからの政治せいじ献金けんきん圧倒的あっとうてきりょうはんナチ勢力せいりょくながれており、この時点じてんでのナチとう財政ざいせい大半たいはん党費とうひ収入しゅうにゅうによるものであったとヘンリー・アシュベイ・ターナー英語えいごばん指摘してきしている。ジョン・トーランドしる永井ながいあつしわけ 『アドルフ・ヒトラー』(集英社しゅうえいしゃ文庫ぶんこ)2かん ISBN 978-4087601817、95p
  3. ^ 1933ねんから1938ねん。ただし、このあいだ有数ゆうすう石炭せきたん産出さんしゅつザール地方ちほうとオーストリアが領土りょうどくわわっている[62]
  4. ^ 1938年度ねんど軍備ぐんび支出ししゅつは、1937年度ねんどの1.58ばい政府せいふ支出ししゅつの50%にたっしていた[69]
  5. ^ 当初とうしょは「経済けいざいのアーリア」というかたりおも使つかわれていたが、1939ねん3がつ以降いこうにはだつユダヤ統一とういつされた[82]
  6. ^ ヒトラーやカイテルは、時間じかんがたつほどドイツが不利ふりになる事実じじつ理解りかいしていたが、その事実じじつ開戦かいせんはやめる根拠こんきょとして使つかわれた[96]
  7. ^ 女性じょせいもっとひく時給じきゅう繊維せんい食品しょくひん工業こうぎょうの42-45ペニヒで、ホワイトカラー女性じょせい年収ねんしゅう男性だんせいやく半分はんぶんだった[98]
  8. ^ 飲食いんしょくぶつは、必需ひつじゅひんくろパン1キログラムが31ペニヒ、ジャガイモが5キログラム50ペニヒ、ベーコン1キログラムは2マルク14ペニヒ、乳製品にゅうせいひんはいずれも高価こうかだった[99]
  9. ^ R.J.Overy, War and Economy in the Third Reich(Oxford/New York,1994)のP.39よりの引用いんよう[103]
  10. ^ Bry,G.,Wages in Germany P239、327、塚本つかもとけん『ナチス経済けいざい』273pよりの引用いんよう[104]
  11. ^ ラインハルトは当時とうじ財務省ざいむしょう次官じかんフリッツ・ラインハルト英語えいごばんからとられたものである。
  12. ^ 世界せかい各地かくちからの食糧しょくりょう輸入ゆにゅうによってヨーロッパでは飢餓きがりつつあったが、だいいち世界せかい大戦たいせんでは経済けいざい封鎖ふうさ原因げんいん栄養失調えいようしっちょうによってドイツとオーストリアで60まんにん死亡しぼうした[128]
  13. ^ 1933ねんには農相のうしょうにナチとう農業のうぎょう組織そしきちょうのリヒャルト・ヴァルター・ダレ、次官じかんにヘルベルト・バッケが就任しゅうにんした。農業のうぎょうしょう経済けいざい政策せいさく省庁しょうちょうなかでナチ党員とういんちょうをつとめる唯一ゆいいつ省庁しょうちょうとなり、バッケは1940年代ねんだいにヒムラーに協力きょうりょくして虐殺ぎゃくさつ指導しどうする[129]
  14. ^ 世襲せしゅう農地のうちてるのは、ドイツじんかそれに類似るいじした血統けっとうとされ、財産ざいさんほう人種じんしゅ差別さべつふくまれていた。また、世襲せしゅう農地のうち相続そうぞくけんでは女性じょせい最下位さいかいかれた[131]
  15. ^ クルップしゃグスタフ・クルップはナチとうから自社じしゃまもるために、ドイツ労働ろうどう組合くみあいとの協力きょうりょく検討けんとうしたが、労働ろうどう運動うんどうはナチとうによって解体かいたいされた。フェスタクのフリッツ・ティッセン熱心ねっしんなヒトラー支持しじしゃで、イタリアのファシストとうによる協調きょうちょう組合くみあい主義しゅぎにも感化かんかされていた[137]
  16. ^ 国民こくみんラジオとどう性能せいのうのアメリカせいラジオはよりてい価格かかくであり、国民こくみんラジオには国際こくさいてき競争きょうそうりょくはなかった[142][143]
  17. ^ オペルはゼネラルモーターズ子会社こがいしゃであり、アメリカのフォードしゃ確立かくりつした科学かがくてき管理かんりほうによるフォーディズム最初さいしょにドイツに導入どうにゅうした[144]
  18. ^ ユンカース、ドルニエ、ハインケルがばくげき、アラドとハインケルが戦闘せんとう偵察ていさつ対地たいち攻撃こうげき練習れんしゅう、メッサーシュミットが戦闘せんとう供給きょうきゅうした[146]
  19. ^ German Exchange Control 1931-1939 in ; TheQuarterly of Economics, Vol.54,No.4,Part 2,1940,p.140よりの引用いんよう[149]
  20. ^ 1939ねん3がつにはドイツ=ルーマニア貿易ぼうえき協定きょうていむすばれ、ドイツ国内こくないでは絶賛ぜっさんされた。しかしルーマニアがわはドイツを警戒けいかいしており、安全あんぜん保障ほしょうをフランスに交渉こうしょうしていた[153]
  21. ^ ソ連それんおも飼料しりょう輸入ゆにゅうさきとなった。1940ねんソ連それんは、リン鉱石こうせき(47%)、アスベスト(67%)、クロム鉱石こうせき(65%)、マンガン(55%)、ニッケル(40%)、石油せきゆ(34%)をドイツから[155]
  22. ^ たとえば綿花めんか輸入ゆにゅうは、エジプトからは市場いちば価格かかくちかく、えいりょうインドからは15%し、アメリカからは28%しだったが、ブラジルとペルーには47%と72%のプレミアムをつけた[156]
  23. ^ イギリスの歴史れきしティモシー・メイソン英語えいごばんなどは、外貨がいか不足ふそくがアンシュルスやズデーテン併合へいごうポーランド侵攻しんこうなどの冒険ぼうけんてき政策せいさく決定的けっていてき要因よういんになったという見方みかたをしている。この結果けっか、ライヒスバンク保持ほじぶん以外いがいにオーストリアやチェコスロバキアの政府せいふ、さらに個人こじん備蓄びちくぶん接収せっしゅうしたため、1930年代ねんだいまつのドイツ外貨がいか準備じゅんび危機ききてき状況じょうきょうではなかったとするアルブレヒト・リッチェル)ドイツばんラルフ・バンケン(Ralf Banken)のせつもある[17]
  24. ^ V.z.K. 14 Jahrg 1939/40 Heft 1,S.75,S.77 塚本つかもとけん『ナチス経済けいざい』230pよりの引用いんよう[170]
  25. ^ おも論者ろんしゃゲルハルト・クロルドイツばんアブラハム・バルカイ英語えいごばんミハエル・ウォルフゾーン英語えいごばんユルゲン・シュテルツナー(Jürgen Stelzner)、リチャード・オーバリー英語えいごばん、バートン・クライン(Burton Klein)、後藤ごとう俊明としあきはら信芳のぶよし。またニュルンベルク裁判さいばんでシャハトもこの路線ろせん発言はつげんをしている。
  26. ^ おも論者ろんしゃヴォルフガング・ザウアードイツばんヴォルフラム・フィッシャードイツばん、ロッテ・ツムベ(Lotte Zumpe)、大島おおしま通義みちよしがいる。
  27. ^ 内訳うちわけは、陸軍りくぐんが4ねんで490おくマルク、空軍くうぐんが4ねんで600おくマルク、海軍かいぐんが10ねんで330おくマルクだった[190]
  28. ^ Kroll,G.,ibid S 571.(Europa Archiv, 20. 6. 1951, S 4129)塚本つかもとけん『ナチス経済けいざい』250pよりの引用いんよう[195]
  29. ^ Schnejerson,A.I., Die Unterordung des bürgerlichen Staates unter die Monopole, S. 50.塚本つかもとけん『ナチス経済けいざい』250pよりの引用いんよう[196]
  30. ^ L.o.N Monthly Bulletim Statistics 1938, No12 p.584-588、塚本つかもとけん『ナチス経済けいざい』297pよりの引用いんよう[197]
  31. ^ Erbe,a.a.O.,S.34,48,51,54. P239、327、はら四郎しろう恐慌きょうこうろん』323pよりの引用いんよう[44]短期たんきさい残高ざんだかには雇用こよう創出そうしゅつさい金額きんがくふくむ。
  32. ^ Erbe,a.a.O.,S.100,109、はら四郎しろう恐慌きょうこうろん』322pよりの引用いんよう[186]政府せいふ部門ぶもん支出ししゅつ軍事ぐんじ支出ししゅつ民間みんかん設備せつび投資とうし工業こうぎょう投資とうしふく
  33. ^ 占領せんりょうのフランスでは自動車じどうしゃ使つかわれなくなり、同盟どうめいこくのイタリア海軍かいぐんはドイツとルーマニアからの石油せきゆ依存いぞんしていた。ドイツ空軍くうぐんはパイロットの教練きょうれん不足ふそくし、陸軍りくぐんでは走行そうこう経験けいけんすくない兵士へいし運転うんてんえて損傷そんしょうりつたかまった[201]
  34. ^ スターリンのカ年かねん計画けいかくによってソ連それん工業こうぎょうすすめ、生産せいさんりょくはドイツの2300まんトンにつぐ1800まんトンでイギリスよりもおおかった。人口じんこうは1おく7000まんにんでドイツの(8376まんにん)の2ばいちかく、兵員へいいんすう上回うわまわっていた。くわえて国土こくどひろく、進軍しんぐん困難こんなんだった[203]
  35. ^ 合理ごうり成功せいこうしたのは、シュペーアではなくエアハルト・ミルヒが担当たんとうする航空こうくうしょうであり、航空機こうくうき生産せいさんは1942ねんから1943ねんにかけて倍増ばいぞうした[226]
  36. ^ ただし、イタリア休戦きゅうせんのイタリアじんソ連それんじんとほぼおなあつかいをけた。
  37. ^ Das Militärgeschichtliche Forschungsamt (Hrsg.),Das Deutsche Reich und der Zweite Weltkrieg, Bd.5, Organisation und Mobilisierung des deutschen Machtbereichs, Erster Halbband Kriegsverwaltung, Wirtschaft und personelle Ressouren 1939-1941 von B.R.Kroener, R.F.Müller, H.Umbreit, Stuttgart 1988, S.523.よりの引用いんよう[251]
  38. ^ 毎年まいとしごとにその時点じてんでドイツ領土りょうどとされていた地域ちいきない達成たっせいされたものを基礎きそとする。Das Militärgeschchilice Forshungsamt, a.a.O., S.582.よりの引用いんよう[230]

出典しゅってん

[編集へんしゅう]
  1. ^ 村上むらかみ 2006, pp. 87, 89.
  2. ^ トゥーズ 2019, pp. 330–334.
  3. ^ 井代いしろ 1973, pp. 145–146.
  4. ^ 井代いしろ 1972, p. 146.
  5. ^ 三ツ石みついし 2006, p. 50.
  6. ^ a b c 川瀬かわせ 2005, p. 30.
  7. ^ a b トゥーズ 2019, p. 233.
  8. ^ a b 高橋たかはし 2010, p. 129.
  9. ^ 後藤ごとう 1982, p. 85.
  10. ^ トゥーズ 2019, p. 44.
  11. ^ a b 中重なかしげ 2006, pp. 54–55.
  12. ^ 村上むらかみ 2006, p. 73.
  13. ^ a b c 中重なかしげ 2006.
  14. ^ 井代いしろ 1972, p. 143.
  15. ^ 中村なかむら 1990, p. 103.
  16. ^ 三ツ石みついし 2009, p. 50.
  17. ^ a b c d e 三ツ石みついし 2009, p. 49.
  18. ^ はら & 1987-5, p. 27.
  19. ^ 村上むらかみ 2006, p. 61.
  20. ^ 中村なかむら 1990, p. 115.
  21. ^ a b 村上むらかみ 1993, p. 64.
  22. ^ 柳澤やなぎさわ 2010, p. 163.
  23. ^ 柳澤やなぎさわ 2010, p. 170.
  24. ^ 柳澤やなぎさわ 2007, pp. 4–5.
  25. ^ 柳澤やなぎさわ 2007, p. 7.
  26. ^ a b c 村上むらかみ 2006, p. 65.
  27. ^ 川瀬かわせ 2005, p. 29-30.
  28. ^ 川瀬かわせ 2005, p. 28.
  29. ^ 中村なかむら 1993, p. 66.
  30. ^ 中村なかむら 1993, pp. 66–68.
  31. ^ a b c d e 中村なかむら 1994, p. 5.
  32. ^ 村上むらかみ 2006, p. 68.
  33. ^ 川瀬かわせ 2005, pp. 33–34.
  34. ^ 中村なかむら 1993, p. 63.
  35. ^ 川瀬かわせ 2005, p. 39.
  36. ^ a b 相沢あいざわ 1982, p. 540.
  37. ^ 中村なかむら 1993, pp. 68–69.
  38. ^ 村上むらかみ 2006, pp. 68–69.
  39. ^ 村上むらかみ 2006, p. 72.
  40. ^ はら & 1987-5, pp. 36–37.
  41. ^ はら & 1987-9, p. 118.
  42. ^ はら & 1987-5, pp. 37–38.
  43. ^ はら & 1987-5, pp. 38–40.
  44. ^ a b 村上むらかみ 2006, p. 76.
  45. ^ 川瀬かわせ泰史やすし 1995, p. 52.
  46. ^ トゥーズ 2019, pp. 61–63.
  47. ^ 村上むらかみ 2006, p. 77.
  48. ^ 大島おおしま 1986, p. 71.
  49. ^ 三ツ石みついし 2006, p. 2.
  50. ^ a b 三ツ石みついし 2006, p. 6.
  51. ^ 三ツ石みついし 2006, p. 14.
  52. ^ a b 堀内ほりうち 2006, p. 49.
  53. ^ 中村なかむら 1994, pp. 5–6.
  54. ^ a b 中村なかむら 1994, p. 4.
  55. ^ a b c 三ツ石みついし 2009, p. 71.
  56. ^ 村上むらかみ 2007, p. 73-74.
  57. ^ 村瀬むらせ 1975, p. 366.
  58. ^ 工藤くどう 2008, p. 63.
  59. ^ a b c 工藤くどう 2008, p. 64.
  60. ^ 柳澤やなぎさわ 2010, p. 4.
  61. ^ 堀内ほりうち 2006, pp. 57–58.
  62. ^ a b 村瀬むらせ 1975, p. 365.
  63. ^ 山口やまぐち 1976, p. 185.
  64. ^ トゥーズ 2019, pp. 291–292.
  65. ^ トゥーズ 2019, pp. 242–246.
  66. ^ 村瀬むらせ 1968, p. 225.
  67. ^ 村瀬むらせ 1975, p. 362.
  68. ^ トゥーズ 2019, pp. 337–338.
  69. ^ 大島おおしま 1986, p. 87.
  70. ^ 大島おおしま 1986, p. 83.
  71. ^ 大島おおしま 1988, pp. 24–25.
  72. ^ トゥーズ 2019, pp. 334–335.
  73. ^ 村瀬むらせ 1975, pp. 362–363.
  74. ^ 加藤かとう 2006, p. 91.
  75. ^ 加藤かとう 2006, p. 90-91.
  76. ^ 大島おおしま 1988, p. 26.
  77. ^ 大島おおしま 1988, p. 29.
  78. ^ 中村なかむら 1994, pp. 10–11.
  79. ^ a b トゥーズ 2019, pp. 278–280.
  80. ^ a b はたけ 1983, p. 12.
  81. ^ 山口やまぐち 1976, pp. 166–167.
  82. ^ 山本やまもと 2002, p. 53.
  83. ^ a b 山本やまもと 2005, p. 26.
  84. ^ トゥーズ 2019, p. 312.
  85. ^ 山本やまもと 2002, p. 60.
  86. ^ トゥーズ 2019, pp. 312–314.
  87. ^ トゥーズ 2019, pp. 310–312.
  88. ^ トゥーズ 2019, pp. 310–314.
  89. ^ 山本やまもと 2003, p. 99.
  90. ^ a b トゥーズ 2019, p. 315.
  91. ^ 山本やまもと 2003, pp. 103–105.
  92. ^ 山本やまもと 2003, p. 118.
  93. ^ 山本やまもと 2005, p. 24.
  94. ^ 山本やまもと 2003, p. 57.
  95. ^ a b トゥーズ 2019, pp. 292–294.
  96. ^ トゥーズ 2019, pp. 381–382.
  97. ^ トゥーズ 2019, pp. 351, 369.
  98. ^ a b トゥーズ 2019, pp. 161–162.
  99. ^ トゥーズ 2019, p. 162.
  100. ^ トゥーズ 2019, pp. 162–162.
  101. ^ トゥーズ 2019, p. 161.
  102. ^ トゥーズ 2019, pp. 169-.
  103. ^ 川瀬かわせ 2005, p. 26.
  104. ^ 村上むらかみ 2006, p. 69.
  105. ^ はら & 1987-5, p. 23-24.
  106. ^ はら & 1987-5, p. 24.
  107. ^ 後藤ごとう 1982, p. 209.
  108. ^ トゥーズ 2019, pp. 50–52.
  109. ^ はら & 1987-5, p. 41.
  110. ^ はら & 1987-5, p. 42.
  111. ^ はら & 1987-5, p. 42-43.
  112. ^ はら & 1987-5, p. 43.
  113. ^ 村上むらかみ 2007, p. 83.
  114. ^ a b はら & 1987-5, p. 32.
  115. ^ はら & 1987-5, p. 30.
  116. ^ はら & 1987-5, p. 34.
  117. ^ はら & 1987-5, p. 35.
  118. ^ はら & 1987-9, p. 109.
  119. ^ はら & 1987-9, p. 111.
  120. ^ 中村なかむら 1990, p. 117.
  121. ^ はら & 1987-9, p. 120.
  122. ^ 川瀬かわせ 2005, p. 25.
  123. ^ 中村なかむら 1994, p. 2.
  124. ^ 中村なかむら 1994, p. 3.
  125. ^ 村上むらかみ 2007, p. 77.
  126. ^ a b 中村なかむら 1994, p. 13.
  127. ^ トゥーズ 2019.
  128. ^ トゥーズ 2019, pp. 189–190.
  129. ^ トゥーズ 2019, pp. 193, 197.
  130. ^ トゥーズ 2019, pp. 190–193.
  131. ^ トゥーズ 2019, pp. 207–208.
  132. ^ トゥーズ 2019, pp. 207–213.
  133. ^ トゥーズ 2019, pp. 222–223.
  134. ^ トゥーズ 2019, pp. 297–299.
  135. ^ トゥーズ 2019, pp. 130–135.
  136. ^ トゥーズ 2019, pp. 255–259.
  137. ^ トゥーズ 2019, p. 137.
  138. ^ トゥーズ 2019, pp. 136–140.
  139. ^ トゥーズ 2019, pp. 260–262.
  140. ^ トゥーズ 2019, pp. 265–268.
  141. ^ トゥーズ 2019, pp. 267–270.
  142. ^ トゥーズ 2019, p. 169.
  143. ^ トゥーズ 2019, pp. 168–169.
  144. ^ トゥーズ 2019, pp. 173.
  145. ^ トゥーズ 2019, pp. 170–178.
  146. ^ トゥーズ 2019, pp. 144–145.
  147. ^ トゥーズ 2019, pp. 142–146.
  148. ^ トゥーズ 2019, p. 284.
  149. ^ 三ツ石みついし 2019, p. 51.
  150. ^ 三ツ石みついし 2009, p. 51.
  151. ^ a b 三ツ石みついし 2009, p. 69-70.
  152. ^ a b トゥーズ 2019, pp. 57–61.
  153. ^ トゥーズ 2019, p. 349.
  154. ^ 三ツ石みついし 2009, p. 70.
  155. ^ a b トゥーズ 2019, pp. 362–363.
  156. ^ a b トゥーズ 2019, pp. 301–302.
  157. ^ トゥーズ 2019, pp. 346–347.
  158. ^ 三ツ石みついし 2008, p. 51.
  159. ^ 三ツ石みついし 2009, pp. 50–51.
  160. ^ 三ツ石みついし 2009, p. 57.
  161. ^ 村上むらかみ 2006, p. 83.
  162. ^ 三ツ石みついし 2009, p. 56.
  163. ^ 三ツ石みついし 2009, pp. 53–54.
  164. ^ 三ツ石みついし 2009, pp. 56–58.
  165. ^ 三ツ石みついし 2009, p. 58.
  166. ^ 三ツ石みついし 2009, p. 69.
  167. ^ 三ツ石みついし 2009, p. 66.
  168. ^ 堀内ほりうち 2006, pp. 48–49.
  169. ^ トゥーズ 2019, pp. 340–342.
  170. ^ 村上むらかみ 2007, p. 92.
  171. ^ 高橋たかはし 2007, p. 186.
  172. ^ トゥーズ 2019, pp. 559.
  173. ^ 高橋たかはし 2007, pp. 186–187.
  174. ^ 高橋たかはし 2007, p. 187.
  175. ^ 高橋たかはし 2007, p. 188.
  176. ^ 高橋たかはし 2010, p. 137.
  177. ^ トゥーズ 2019, p. 172.
  178. ^ トゥーズ 2019, pp. 339–340.
  179. ^ 加藤かとう 2012, p. 26.
  180. ^ 加藤かとう 2012, p. 28.
  181. ^ 加藤かとう 2012, p. 24.
  182. ^ 後藤ごとう & 1982-9, p. 206.
  183. ^ はら & 1987-9, pp. 121, 126.
  184. ^ 川瀬かわせ 2005, p. 34.
  185. ^ a b 堀内ほりうち 2006, p. 52.
  186. ^ a b 村上むらかみ 2006, p. 79.
  187. ^ 村上むらかみ 2006, p. 80.
  188. ^ 大島おおしま 1986, p. 61.
  189. ^ 大島おおしま 1986, p. 68.
  190. ^ トゥーズ 2019, p. 338.
  191. ^ トゥーズ 2019, pp. 338–339.
  192. ^ トゥーズ 2019, pp. 232–233.
  193. ^ a b 大島おおしま 1988, p. 12.
  194. ^ 村瀬むらせ 1975, p. 368.
  195. ^ 村上むらかみ 2007, p. 79.
  196. ^ 村上むらかみ 2007, p. 80.
  197. ^ 村上むらかみ 2007, p. 71.
  198. ^ 工藤くどう 1980, p. 64.
  199. ^ トゥーズ 2019, pp. 434–437.
  200. ^ トゥーズ 2019, p. 446.
  201. ^ トゥーズ 2019, p. 467.
  202. ^ トゥーズ 2019, pp. 466–467.
  203. ^ トゥーズ 2019, pp. 510–514.
  204. ^ トゥーズ 2019, pp. 566-.
  205. ^ トゥーズ 2019, pp. 443–444, 446.
  206. ^ 加藤かとう 2006, p. 92.
  207. ^ 加藤かとう 2006, pp. 92–93.
  208. ^ トゥーズ 2019, pp. 399–401.
  209. ^ トゥーズ 2019, pp. 559–560.
  210. ^ トゥーズ 2019, pp. 376–377.
  211. ^ トゥーズ 2019, pp. 439–441.
  212. ^ トゥーズ 2019, pp. 441–443, 446.
  213. ^ トゥーズ 2019, pp. 388–389.
  214. ^ トゥーズ 2019, pp. 469–470.
  215. ^ a b 鈴木すずき 1985, p. 163.
  216. ^ トゥーズ 2019, pp. 413–414.
  217. ^ a b 工藤くどう 1980, p. 78.
  218. ^ a b 工藤くどう 1980, p. 77.
  219. ^ 川瀬かわせ 1999, p. 42.
  220. ^ 川瀬かわせ 1999, pp. 42–43.
  221. ^ 工藤くどう 1980, p. 65.
  222. ^ 中村なかむら 1997, p. 268.
  223. ^ 中村なかむら 1997, p. 271.
  224. ^ a b c 工藤くどう 1980, p. 72.
  225. ^ a b 工藤くどう 1980, p. 73.
  226. ^ トゥーズ 2019, pp. 655.
  227. ^ トゥーズ 2019, pp. 640–654.
  228. ^ トゥーズ 2019, pp. 678.
  229. ^ トゥーズ 2019, p. 741.
  230. ^ a b 中村なかむら 1995, p. 170.
  231. ^ 中村なかむら 1995, p. 175.
  232. ^ a b c 工藤くどう 1980, p. 68.
  233. ^ 中村なかむら 1995, p. 181.
  234. ^ 中村なかむら 1995, pp. 184–185.
  235. ^ a b 中村なかむら 1999, p. 163.
  236. ^ 中村なかむら 1995, p. 192.
  237. ^ トゥーズ 2019, pp. 410–411.
  238. ^ 中村なかむら 1997, pp. 265–266.
  239. ^ 中村なかむら 1997, pp. 267–268.
  240. ^ 高橋たかはし 2005, p. 28.
  241. ^ 中村なかむら 2002, p. 6).
  242. ^ 中村なかむら 1999, p. 162.
  243. ^ 中村なかむら 2002, pp. 1–2.
  244. ^ 工藤くどう 1980, p. 76.
  245. ^ 中村なかむら 2002, p. 7.
  246. ^ 中村なかむら 2007, p. 91.
  247. ^ 中村なかむら 2007, p. 95.
  248. ^ 中村なかむら 2007, p. 97.
  249. ^ 村瀬むらせ 1975, p. 495.
  250. ^ 村瀬むらせ 1975, p. 496.
  251. ^ 中村なかむら 1995, p. 169.

参考さんこう文献ぶんけん著者ちょしゃ五十音ごじゅうおんじゅん

[編集へんしゅう]

総論そうろん

[編集へんしゅう]

価格かかく税制ぜいせい

[編集へんしゅう]

金融きんゆう

[編集へんしゅう]

貿易ぼうえき外資がいし

[編集へんしゅう]

雇用こよう労働ろうどうりょく

[編集へんしゅう]

戦時せんじ経済けいざい

[編集へんしゅう]

イデオロギー

[編集へんしゅう]

その

[編集へんしゅう]

関連かんれん文献ぶんけん

[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく

[編集へんしゅう]