フレンスブルク政府せいふ

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ドイツこく
Deutsches Reich (ドイツ)
ナチス・ドイツ 1945ねん
5月2にち - 5月23にち
連合軍軍政期
ドイツの国旗 ドイツの国章
国旗こっきくにあきら
国歌こっか: Das Lied der Deutschen(ドイツ
ドイツじんうた(1ばんのみ)[1]
Die Fahne hoch(ドイツ
はたたかかかげよ
ドイツの位置
青色あおいろ領域りょういきは1945ねん5がつ時点じてんにおいて連合れんごうこく占領せんりょうされていない地域ちいき
首都しゅと フレンスブルク事実じじつじょう
ベルリン法令ほうれいじょう
大統領だいとうりょう
1945ねん4がつ30にち - 5月23にち カール・デーニッツ
筆頭ひっとう閣僚かくりょう首相しゅしょう代行だいこう
1945ねん5がつ1にち - 5月23にちルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージク
変遷へんせん
ヒトラー自殺じさつ 1945ねん4がつ30にち
設立せつりつ1945ねん5がつ1にち
降伏ごうぶく文書ぶんしょ英語えいごばん調印ちょういん1945ねん5がつ7にち
降伏ごうぶく文書ぶんしょ批准ひじゅん1945ねん5がつ8にち
政府せいふ要人ようじん逮捕たいほ1945ねん5がつ23にち
ベルリン宣言せんげん
(ドイツこく消滅しょうめつ
1945ねん6がつ5にち
通貨つうかライヒスマルク
現在げんざいドイツの旗 ドイツ
  1. ^ ナチの指導しどうは、「ドイツじんうただいいちせつせつ演奏えんそう禁止きんし)を最初さいしょうたい、つづけて突撃とつげきたい戦闘せんとうである「はたたかかかげよ」を歌唱かしょうするよう指導しどうした。
    ドイツ連邦れんぽう共和きょうわこく国歌こっか”. ドイツ連邦れんぽう共和きょうわこく大使館たいしかん総領事館そうりょうじかん. 2022ねん3がつ14にち閲覧えつらん
ドイツの歴史れきし
ドイツの国章
あずまフランク王国おうこく
かみきよしマ帝国まていこく
プロイセン王国おうこく ライン同盟どうめい諸国しょこく
ドイツ連邦れんぽう
きたドイツ連邦れんぽう 南部なんぶ諸国しょこく
ドイツ帝国ていこく
ヴァイマル共和きょうわせい
ナチス・ドイツ
連合れんごうぐん軍政ぐんせい
ドイツ民主みんしゅ共和きょうわこく
ひがしドイツ)
ドイツ連邦れんぽう共和きょうわこく
西にしドイツ)
ドイツ連邦れんぽう共和きょうわこく

フレンスブルク政府せいふ(フレンスブルクせいふ、どく: Flensburger Regierung, えい: Flensburg Government)は、だい世界せかい大戦たいせん末期まっきドイツこく設立せつりつされた臨時りんじ政府せいふで、同国どうこく最後さいご政治せいじ体制たいせいであるが、同盟どうめいこくである大日本帝国だいにっぽんていこく連合れんごうこく政府せいふとしての承認しょうにんおこなわなかった[1]

概要がいよう[編集へんしゅう]

総統そうとうアドルフ・ヒトラー自殺じさつした1945ねん4がつすえ赤軍せきぐんとのたたかいでベルリンが陥落かんらくしたため首都しゅとベルリンにおける統治とうち軍事ぐんじ指揮しき不可能ふかのうとなり、ヒトラーから後継こうけいしゃ指名しめいされていた海軍かいぐんそう司令しれいかんカール・デーニッツ海軍かいぐん元帥げんすいナチスとう政府せいふ要人ようじんプロイセンしゅうぞくしゅうとなっていたシュレースヴィヒ=ホルシュタインしゅうにあるフレンスブルク行政ぎょうせい機能きのう移転いてんし、疎開そかい政府せいふ機関きかんとして無条件むじょうけん降伏ごうぶくまでの敗戦はいせん処理しょりおこなった。大統領だいとうりょうをとってデーニッツ政府せいふどく: Regierung Dönitz)ともばれる。 この政府せいふでは「総統そうとう」に該当がいとうするしょく大統領だいとうりょう首相しゅしょう分離ぶんりされており存在そんざいしなかった。

くにあきら国旗こっきはヒトラー時代じだい同様どうようであり、「ハイル・ヒトラー」の挨拶あいさつ当初とうしょ維持いじされていた。

連合れんごう国軍こくぐんとのあいだでドイツぐん無条件むじょうけん降伏ごうぶくけた敗戦はいせん処理しょり交渉こうしょう権威けんいおよ範囲はんい有力ゆうりょくなナチ党員とういん親衛隊しんえいたい(SS)隊員たいいん要職ようしょくからの解任かいにんおも執務しつむとしたが、ドイツ全土ぜんどには連合れんごうぐんによって占領せんりょう統治とうちおこなわれており、その影響えいきょうりょく限定げんていされていた。また同盟どうめいこくである日本にっぽん連合れんごうこく政府せいふとしての承認しょうにんおこなわなかった[1]

5月23にちにはぜん閣僚かくりょう連合れんごうこく逮捕たいほされ[1]、その機能きのううしなった。その6がつ5にちベルリン宣言せんげんにより中央ちゅうおう政府せいふがドイツに存在そんざいしないことが確認かくにんされ、1871ねん1がつからつづいたドイツこく歴史れきし終止符しゅうしふたれた。敗戦はいせん中央ちゅうおう政府せいふがドイツに存在そんざいしないてんは、ポツダム宣言せんげん受諾じゅだくにより、敗戦はいせん占領せんりょうにも中央ちゅうおう政府せいふ存在そんざいつづけた日本にっぽんとのおおきなであった。

成立せいりつ[編集へんしゅう]

政府せいふ機能きのう疎開そかい[編集へんしゅう]

1945ねん4がつ総統そうとうアドルフ・ヒトラーはベルリンの総統そうとう官邸かんてい地下ちかごう作戦さくせん指揮しきおこなっていた。ベルリンはすで赤軍せきぐん攻撃こうげきにあり、包囲ほうい陥落かんらく時間じかん問題もんだいであった。親衛隊しんえいたい全国ぜんこく指導しどうしゃ内相ないしょうハインリヒ・ヒムラーはかねてから画策かくさくしていた首都しゅと機能きのう移転いてん実行じっこうするべく、その戦災せんさい被害ひがい比較的ひかくてきすくなかったドイツ北部ほくぶシュレースヴィヒ=ホルシュタインしゅう[2]めていた。

国防こくぼうぐん最高さいこう司令しれいミュルヴィクドイツばんへの疎開そかい経路けいろ

4がつ20日はつか総統そうとう誕生たんじょうにヒトラーは国防こくぼうぐん最高さいこう司令しれい(OKW)陸軍りくぐんそう司令しれい(OKH)空軍くうぐんそう司令しれい(OKL)、そして閣僚かくりょう避難ひなん許可きょかし、ドイツが戦線せんせんによって分断ぶんだんされたときそなえて、ドイツ北部ほくぶにいるドイツぐん統帥とうすい海軍かいぐんそう司令しれいかんカール・デーニッツ海軍かいぐん元帥げんすい委任いにんした。ヒトラーから全権ぜんけん委任いにんされたデーニッツはベルリンを脱出だっしゅつし、キールちかオイティンプレーン(Plön)海軍かいぐんそう司令しれい(OKM)うつり、そこで、海軍かいぐん全般ぜんぱん指揮しきほかきたドイツでの難民なんみん輸送ゆそう補給ほきゅう作業さぎょう指揮しきすることになった。

4がつ21にち、ヒトラー、宣伝せんでんしょうヨーゼフ・ゲッベルスナチとう官房かんぼうちょうマルティン・ボルマンのぞおも閣僚かくりょう避難ひなんし、OKW総長そうちょうヴィルヘルム・カイテル陸軍りくぐん元帥げんすい、OKW作戦さくせん部長ぶちょうアルフレート・ヨードル上級じょうきゅう大将たいしょうふく国防こくぼうぐん最高さいこう司令しれい陸軍りくぐんそう司令しれい一部いちぶはデーニッツに合流ごうりゅうするためプレーンへ、空軍くうぐんそう司令しれいかんヘルマン・ゲーリング帝国ていこく元帥げんすいふく空軍くうぐんそう司令しれい国防こくぼうぐん最高さいこう司令しれい陸軍りくぐんそう司令しれい大半たいはん総統そうとう官房かんぼう長官ちょうかんハンス・ハインリヒ・ラマースはヒトラー総統そうとう専用せんようベルクホーフ山荘さんそうのあるオーバーザルツベルク疎開そかいした。避難ひなんした閣僚かくりょうおおくはオイティンにうつり、4がつ23にちには移転いてんはつ閣僚かくりょう会議かいぎ地方ちほう議会ぎかい議事堂ぎじどうおこなわれた。閣僚かくりょう会議かいぎ議長ぎちょう閣僚かくりょう最年長さいねんちょう財務ざいむ大臣だいじんフォン・クロージク伯爵はくしゃくつとめている。

ヒトラーの[編集へんしゅう]

一方いっぽうのヒムラーはプレーンにちかリューベックうつり、スウェーデン外交がいこうかんベルナドッテ伯爵はくしゃくつうじたべい英軍えいぐんとの停戦ていせん交渉こうしょう極秘ごくひっていた。しかし、この交渉こうしょう失敗しっぱいわった。4月28にち、ヒムラーの和平わへい交渉こうしょう存在そんざいBBC放送ほうそうぜん世界せかい公表こうひょうされた。ヒムラーの和平わへい交渉こうしょうったヒトラーは激怒げきどし、ヒムラーの解任かいにん逮捕たいほ命令めいれいした。さらにヒトラーは4がつ29にち未明みめい総統そうとう秘書官ひしょかんトラウデル・ユンゲ作成さくせいさせた政治せいじてき遺書いしょ英語えいごばんでデーニッツを後継こうけいしゃ指名しめいした。

ただし、デーニッツの地位ちい総統そうとうではなく、ヒトラーが1934ねん制定せいていした国家こっか元首げんしゅほうドイツばんにより権限けんげん吸収きゅうしゅうして以来いらい空位くういとなっていた大統領だいとうりょうに、政権せいけんにぎった1933ねん以来いらいのポストだった首相しゅしょうにはゲッベルスを指名しめいしていた[3]。また、この遺書いしょではゲーリング、ヒムラーを裏切うらぎものとして非難ひなんし、かれらをとうから追放ついほうするとしるしてあった[4]。そのとき、ゲーリングはすですべてのポストから解任かいにんされてオーバーザルツベルク駐在ちゅうざいのSS部隊ぶたい身柄みがら拘束こうそくされ、監視かんしにあった[5]一方いっぽう、ヒムラーはデーニッツのもとにいたが、かれはヒトラーにこのような宣告せんこくをされていたことをらされていなかった[4]

4がつ30にち午後ごご3時半じはんごろ、ヒトラーはベルリンの総統そうとう官邸かんてい地下ちかごう夫人ふじんエヴァ・ブラウンとともに自殺じさつした。しかし、このときのベルリンはソ連それんぐん猛攻もうこうにあり、総統そうとう官邸かんてい地下ちかごうはほとんど孤立こりつしていたため、ヒトラーのはすぐに外部がいぶれることはなかった。

政府せいふ成立せいりつ[編集へんしゅう]

フレンスブルク政府せいふ閣議かくぎおこなわれたミュルヴィク海軍兵学校かいぐんへいがっこううち海軍かいぐんスポーツ学校がっこうドイツばん

4がつ30にち早朝そうちょう、デーニッツは総統そうとう官房かんぼうから無線むせんで「ヒムラーがスウェーデンを経由けいゆして連合れんごうぐん交渉こうしょうする反逆はんぎゃくざいおかしたため、迅速じんそくかつ冷厳れいげんにSS全国ぜんこく指導しどうしゃ対処たいしょすべし」との指令しれいけた[4]。しかし、すべての権限けんげんはヒムラーが掌握しょうあくしており、地上ちじょうでの戦闘せんとうりょくのない海軍かいぐんそう司令しれいかん指令しれい実行じっこうするのは容易よういではなかった。また、てきがわのラジオ放送ほうそう根拠こんきょにしたてんからも懐疑かいぎてきであり、午後ごごにリューベックでヒムラーと会見かいけんした[4]。ヒムラーはてきとの接触せっしょく完全かんぜん否定ひてい[4]、デーニッツも実行じっこうむずかしい「反逆はんぎゃくしゃ処罰しょばつ」よりも、ヒムラーが後継こうけいしゃから除外じょがいされた事実じじつだけをつたえるとともに、「みずからは海軍かいぐん降伏ごうぶくさせるが、海軍かいぐん軍人ぐんじんとして最後さいご戦闘せんとうぬ」と海軍かいぐん軍人ぐんじんとしての決意けついかためた。

同日どうじつ午後ごごにボルマンから特別とくべつ暗号あんごう解読かいどく認証にんしょうけたドイツ海軍かいぐん通信つうしん部隊ぶたい経由けいゆで「総統そうとうはゲーリングぜん国家こっか元帥げんすいえてデーニッツ元帥げんすい後継こうけいしゃさだめられた[6]今後こんご現状げんじょうにて可能かのうすべての処置しょちられたし」(だい1ごう電報でんぽう)という電文でんぶんとどけられた[6]。これにより、デーニッツはヒトラーがすで死亡しぼうしたか、または目前もくぜんにしているとかんがえた。デーニッツは湖畔こはんあるき、副官ふっかんノイラートに「国家こっか形態けいたいをどうするべきか」とつぶやいた。これはのち発表はっぴょうした「さんほんはしらをもつ憲法けんぽうせい元首げんしゅ行動こうどう政府せいふ主席しゅせき国民こくみん意思いし代表だいひょうする議会ぎかい)」の原案げんあん[7]についてくちにした最初さいしょであった。デーニッツは「ヒトラーの後継こうけいしゃとなることを義務ぎむとみなした。国民こくみん軍隊ぐんたい最良さいりょうしんずるみちあゆむしかない。」「(軍人ぐんじんとしての決意けついひるがえすことが)かりにそれが自分じぶんのためには不名誉ふめいよなものであっても」と副官ふっかんノイラートはのち回想かいそうしている[8]

5月1にち午前ごぜん0国内こくない最大さいだい実力じつりょくしゃのヒムラーがじゅう武装ぶそうのSS隊員たいいんともにデーニッツのもとおとずれた[9]。デーニッツがだい1ごう電報でんぽうしめすと、ヒムラーは狼狽ろうばいし、デーニッツの地位ちい承認しょうにんするわりとして首相しゅしょう地位ちい要求ようきゅうした[10]。デーニッツはヒムラーがSS組織そしき権力けんりょくっていたことから回答かいとう明言めいげんしなかったが、ヒムラーは一旦いったんがった[10]

同日どうじつ午前ごぜん1053ふん、デーニッツのもとにボルマン署名しょめいの「遺書いしょ発効はっこうす。自分じぶんすみやかにそちらにおもむ予定よてい。それまでは公表こうひょうひかえられるべし」との、ヒトラーの死去しきょという重大じゅうだい事実じじつについては曖昧あいまいにしたままのだい2ごう電報でんぽう入電にゅうでんした[11]。これはボルマンがヒトラーのという事実じじつ隠蔽いんぺいすることによって自身じしん権力けんりょく延長えんちょうしようとはかったものであった[11]。ただ、この電報でんぽうではヒトラーのについて明確めいかくべられていなかったため、デーニッツはその真意しんいはかりかね、しばらくは行動こうどうこすことができなかった[11]

同日どうじつ午後ごご318ふん、ゲッベルスとボルマンの共同きょうどう署名しょめいになる明確めいかく内容ないようだい3ごう電報でんぽうがデーニッツのところに到着とうちゃくした[3]。ここではヒトラーの事実じじつはじめてあきらかにされるとともに、ヒトラーの遺言ゆいごん概要がいようつたえられていた[3]。デーニッツはここでヒトラーがに、自身じしん大統領だいとうりょう就任しゅうにん発効はっこうしたことをった[3]。このだい3ごう電報でんぽうではヒトラーの遺言ゆいごん首相しゅしょうにゲッベルス、ナチとう担当たんとうしょう(ナチとう党首とうしゅ)にボルマン、外相がいしょうオランダ総督そうとくザイス=インクヴァルト指名しめいされていることも通知つうちされた[3]。そして、ボルマンがデーニッツのところかう予定よていともかれていたため、デーニッツは、ボルマンとゲッベルスがプレーンにたら拘束こうそくするよう指示しじした[3]

デーニッツはだい3ごう電報でんぽうけて、ドイツ国民こくみんにヒトラーのみずからの後継こうけいしゃ就任しゅうにん公表こうひょうすることにした[12]午後ごご9から1025ぶんのハンブルク放送ほうそう特別とくべつ報道ほうどうでヒトラーの発表はっぴょうされ、デーニッツ自身じしんがラジオ演説えんぜつおこない、ヒトラーがベルリンで戦死せんししたこと、自分じぶんにヒトラーから国家こっか元首げんしゅ国防こくぼうぐん最高さいこう司令しれいかんとしての職責しょくせきたくされたことを報告ほうこくする[12]。デーニッツはボルシェヴィズムからドイツぐんならびにドイツ国民こくみんまもるためにたたかつづけること、イギリスぐんとアメリカぐんとはこれらの行動こうどう妨害ぼうがいするときにのみ交戦こうせんすると宣言せんげんした[12]。デーニッツの署名しょめい肩書かたがきは海軍かいぐん元帥げんすいだい提督ていとく)とだけしるされた。なお、ヒトラーは実際じっさいには自殺じさつであって戦死せんしではないし、デーニッツはヒトラーの様子ようす詳細しょうさいらされてはいなかったけれども、あえて「戦死せんし」としたのは、総統そうとうヒトラーが軍人ぐんじんらしいげたと脚色きゃくしょくすることによってドイツぐん忠誠ちゅうせいしんをつなぎとめるねらいがあったとかんがえられている。

ヒトラーの遺書いしょは3つうつくられて総統そうとう地下ちかごうから外部がいぶ(デーニッツあて陸軍りくぐんそう司令しれいかん任命にんめいされた中央ちゅうおうぐん集団しゅうだん司令しれいかんフェルディナント・シェルナー陸軍りくぐん元帥げんすいあてミュンヘンのナチとう文書ぶんしょかんあて)におくられたものの、いずれもとどかなかった[13]。デーニッツはだい3ごう電報でんぽうらされたヒトラーの遺言ゆいごんによる閣僚かくりょう任命にんめい(ただし、デーニッツはぜん閣僚かくりょうのリストはらなかった)におどろいたが、出来できるだけ沢山たくさん人間にんげんすくいつつ戦争せんそうをできるだけはや終結しゅうけつさせるための交渉こうしょうきわめて重荷おもにになる人事じんじを「ヒトラーの死後しご命令めいれい」として無視むしすることを決意けついし、ルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージク財務ざいむしょう閣僚かくりょう首班しゅはん首相しゅしょう代行だいこう)に指名しめいし、組閣そかく依頼いらいした[14]。なお、デーニッツの身辺しんぺん警護けいごたいとしてフォン・ビューロとアリ・クレーマー指揮しきかんとして、水兵すいへいによる陸戦りくせんたい編成へんせいされたほか、潜水せんすい艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかんフォン・フリーデブルク大将たいしょうを2がつ1にちづけ遡及そきゅうして海軍かいぐんそう司令しれいかんにんじた。

一方いっぽう、5月1にちにゲッベルスはベルリンの総統そうとう地下ちかごうにおいて自殺じさつした。デーニッツの政府せいふ合流ごうりゅうすることによってみずからの権力けんりょく維持いじすることをねらっていたボルマンは2にち未明みめい総統そうとう地下ちかごうから脱出だっしゅつしたものの、逃亡とうぼう失敗しっぱいしてベルリン市内しない自殺じさつした。

5月3にちしん政府せいふ拠点きょてんをフレンスブルク郊外こうがいミュルヴィクドイツばんにあったミュルヴィク海軍兵学校かいぐんへいがっこううつした[15]。このさい軍需ぐんじゅしょうアルベルト・シュペーアとヒムラーはともに、ハンブルクのきた位置いちし、まだ連合れんごうぐん影響えいきょうおよんでいなかったバート・ブラムシュテットドイツばん一時いちじ移動いどうして会談かいだん、そのヒムラーは国防こくぼうぐん将校しょうこうからぐん動向どうこう確認かくにんしている。

5月5にち、「フレンスブルク政府せいふ」ははつ閣議かくぎひらいた。また、同日どうじつにヒムラーも150にんあまりの側近そっきんれて合流ごうりゅうし、ゲシュタポ解体かいたいをつけたが、このさいにSS隊員たいいんとう身分みぶん偽証ぎしょう工作こうさくおこなったとされる。前日ぜんじつのオランダのドイツぐん降伏ごうぶくしたのをけて脱出だっしゅつしたザイス=インクヴァルトはデーニッツと会談かいだんし、焦土しょうど作戦さくせん中止ちゅうしおよびオランダ総督そうとくとしての留任りゅうにん確認かくにんした(その、ザイス=インクヴァルトはハンブルクへ逃亡とうぼうしたところで逮捕たいほされた)。

5月6にち、デーニッツはシュレスヴィヒ=ホルシュタインしゅう最高さいこう責任せきにんしゃとしてのだい管区かんく指導しどうしゃヒンリヒ・ローゼ解任かいにん、17には入閣にゅうかくのぞんでいたヒムラーと、東部とうぶ占領せんりょう地域ちいきしょうアルフレート・ローゼンベルクすべての職務しょくむから解任かいにんしたほか、ヒトラー内閣ないかく司法しほうしょうオットー・ティーラック(この時点じてんでは消息しょうそく不明ふめい)、生死せいし不明ふめいであったゲッベルスを解任かいにんした[16][17]。これらの解任かいにんは、フレンスブルク政府せいふ連合れんごうこくによって容認ようにんされやすくするためとも、きのとう幹部かんぶ在任ざいにんしん政府せいふ障害しょうがいとなったことなどが理由りゆうであるとされる。

降伏ごうぶく交渉こうしょう[編集へんしゅう]

カールスホルストで調印ちょういんされたドイツぐん降伏ごうぶく文書ぶんしょ

大統領だいとうりょうとなったデーニッツは、すでにドイツがその体制たいせい維持いじできず、もはや降伏ごうぶく以外いがいみちがないことを承知しょうちしていた。そして、デーニッツはドイツの最高さいこう指導しどうしゃ地位ちい継承けいしょうが「ヒトラーには出来できなかったことをすこと」と了知りょうちしていた。しかしソ連それん降伏ごうぶくした国防こくぼうぐん兵士へいし難民なんみんソ連それんぐん兵士へいしからの虐殺ぎゃくさつなど容認ようにんしがたい被害ひがいけているとの事実じじつつかんでもいた。難民なんみんらからのききとりとソ連それんぐん占領せんりょうしていたむらなどをドイツぐん奪還だっかんしてからの実地じっち調査ちょうさから、「殺人さつじん放火ほうか拷問ごうもん暴行ぼうこう略奪りゃくだつ」の報告ほうこく海軍かいぐん法務局ほうむきょくからすでけていたのである。このため、デーニッツは西方せいほうイギリスぐんアメリカぐん占領せんりょう)での投降とうこうれられるが、東方とうほうソ連それんぐん)では戦闘せんとう継続けいぞくし、ソ連それんがわのこされている市民しみん兵士へいし本国ほんごく西方せいほう占領せんりょう地区ちくへの避難ひなんのルートと時間じかん確保かくほするべきだとかんがえ、部分ぶぶんてき降伏ごうぶく東部とうぶ地域ちいきでの戦闘せんとう継続けいぞく画策かくさくした。

かれ意向いこうけたOKW総長そうちょうヴィルヘルム・カイテル元帥げんすいおよびOKW作戦さくせん部長ぶちょうアルフレート・ヨードル上級じょうきゅう大将たいしょうは、西側にしがわから侵入しんにゅうするべい英軍えいぐんほうへドイツぐん残存ざんそんへい移動いどうするよう命令めいれいした[18]

5月6にち、デーニッツはヨードルに連合れんごうぐんたいする国防こくぼうぐん降伏ごうぶく文書ぶんしょ署名しょめいする許可きょかあたえた。よく5がつ7にちたいべいえいふつ連合れんごうぐんへの降伏ごうぶくフランスランスにおいて調印ちょういんされ、5月8にち午後ごご111ふん停戦ていせん発効はっこう時間じかんであるとさだめられた。しかし連合れんごうぐんがベルリンで降伏ごうぶく文書ぶんしょ批准ひじゅんする調印ちょういんしき要求ようきゅうしたため[19]国防こくぼうぐん代表だいひょうのカイテル元帥げんすい海軍かいぐん代表だいひょうフォン・フリーデブルク大将たいしょう空軍くうぐん代表だいひょうシュトゥムプフ上級じょうきゅう大将たいしょうらを派遣はけんした。ベルリン時間じかんで5がつ9にち午前ごぜん015ふんロンドン時間じかん5月8にち午後ごご1115ふんモスクワ時間じかん5月9にち215ふん[20]、ベルリンのカールスホルストにおいて降伏ごうぶく批准ひじゅん文書ぶんしょ調印ちょういんされた。これらの文書ぶんしょ署名しょめいしたのは国防こくぼうぐん軍人ぐんじんのみであり、政府せいふ代表だいひょうしゃ署名しょめいおこなわれなかった[1]

解散かいさん[編集へんしゅう]

連行れんこうされるフレンスブルク政府せいふ首脳しゅのう
まえ軍服ぐんぷく姿すがたがデーニッツ、そのにいるのはヨードルとシュペーア。

国防こくぼうぐん無条件むじょうけん降伏ごうぶく軍需ぐんじゅしょうシュペーアはフレンスブルク政府せいふ自体じたい解散かいさんしなければならないと提案ていあんした。一方いっぽう、デーニッツとその大臣だいじんたちは臨時りんじ政府せいふとして戦後せんごのドイツを統治とうちできるという希望きぼうっていた。イギリス国民こくみん勝利しょうり宣言せんげんするウィンストン・チャーチルのスピーチ「あきらかな国家こっか元首げんしゅであるデーニッツ元帥げんすい」という部分ぶぶん事実じじつじょうすくなくとも無条件むじょうけん降伏ごうぶく瞬間しゅんかんまでフレンスブルク政府せいふを「ドイツの当局とうきょく」として認識にんしきしていたことの証拠しょうこであった。しかし、連合れんごうこくはフレンスブルク政府せいふ即座そくざ解体かいたいすることを決定けっていした。

5がつ20日はつかソ連それん政府せいふはそれまでのフレンスブルク政府せいふについてかんがえられていたことを白紙はくしにした。かれらはデーニッツ政府せいふかれらは「デーニッツ・ギャング」とんだ)がどんな権力けんりょくつこともゆるさず、どんなかんがえでもきびしく批判ひはん、これを攻撃こうげきした。『プラウダ』には以下いかとお記述きじゅつされた。

デーニッツ周辺しゅうへんのファシストギャングどもの威信いしんについての議論ぎろんはまだつづいており、いくつかの目立めだった連合れんごうぐん集団しゅうだんはデーニッツとその協力きょうりょくしゃの「活動かつどう」を利用りようすることを必要ひつようかんがえている。イギリス議会ぎかいでこのギャングどもは「デーニッツ政府せいふ」とばれている。(中略ちゅうりゃく反動はんどうてき新聞しんぶんハースト』の記者きしゃはデーニッツの兵籍へいせき編入へんにゅうを「政治せいじてき賢明けんめい行為こうい」としょうした。このように、ファシストの物書ものかきどもはヒトラーの弟子でしたる略奪りゃくだつしゃ協力きょうりょくすることをただしいとかんがえている。同時どうじに、ドイツの右翼うよくせまった混乱こんらんたおとぎばなしつくしたとき、1918ねんのドイツが条件付じょうけんづけたことを大西洋たいせいよう両側りょうがわのファシスト報道ほうどう機関きかんひろめようとしている。その降伏ごうぶく直後ちょくご無傷むきずのドイツぐん部隊ぶたい東方とうほうあらたな冒険ぼうけん使つかわれた。現在げんざい政治せいじ活動かつどうにもたようなものが存在そんざいし、連合れんごうぐんおおくの反動はんどうてきあつまりはクリミア会議かいぎもとづいたあらたなヨーロッパをつくることに反対はんたいしている。これらのあつまりはファシスト体制たいせい維持いじかんがえており、すべての自由じゆうあいする国々くにぐに民主みんしゅ主義しゅぎ成長せいちょう阻害そがいする手段しゅだんろうとしている。・・・(後略こうりゃく — Dollinger, Hans. The Decline and Fall of Nazi Germany and Imperial Japan, Library of Congress Catalogue Card # 67-27047, Page 239

5月13にち国防こくぼうぐん最高さいこう司令しれい総長そうちょうカイテルが連合れんごうぐん逮捕たいほされた。5月23にち、イギリスぐん連絡れんらく将校しょうこうはデーニッツの本部ほんぶかい、デーニッツ政府せいふ解散かいさんすべての要員よういん逮捕たいほめいじているアイゼンハワー将軍しょうぐん連合れんごうこく遠征えんせいぐん最高さいこう司令しれいかん)の命令めいれいげた。これによってデーニッツ以下いか政府せいふ要員よういんすべ連合れんごうこく拘束こうそくされ、フレンスブルク政府せいふ解体かいたいされた。

閣僚かくりょう構成こうせい(1945ねん5がつ23にち時点じてん[編集へんしゅう]

降伏ごうぶく直前ちょくぜんという事情じじょうから、航空こうくうしょう東部とうぶ占領せんりょう地域ちいきしょう国民こくみん啓蒙けいもう宣伝せんでんしょう廃止はいしされた。[よう出典しゅってん]

役職やくしょく 氏名しめい 備考びこう
大統領だいとうりょう・ドイツ国防こくぼうぐん最高さいこう司令しれいかん国防こくぼう大臣だいじん カール・デーニッツ 海軍かいぐん元帥げんすい
筆頭ひっとう閣僚かくりょう(首相しゅしょう代行だいこう)・外務がいむ大臣だいじん財務ざいむ大臣だいじん ルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージク 財務ざいむ大臣だいじんとしては留任りゅうにん
内務ないむ大臣だいじん文化ぶんか大臣だいじん(科学かがく教育きょういく国民こくみん文化ぶんか大臣だいじん) ヴィルヘルム・シュトゥッカート ぜん内務ないむ次官じかん
司法しほう大臣だいじん ヘルベルト・クレム(Herbert Klemm) ぜん司法しほう次官じかん
OKW総長そうちょう アルフレート・ヨードル 国防こくぼうぐん最高さいこう司令しれい総長そうちょうヴィルヘルム・カイテルが1945ねん5がつ13にち逮捕たいほされたため、その後任こうにん
海軍かいぐんそう司令しれいかん ハンス=ゲオルク・フォン・フリーデブルク 海軍かいぐん大将たいしょう、5月1にちづけ海軍かいぐんそう司令しれいかん就任しゅうにん(2がつ1にちづけ遡及そきゅう)
軍需ぐんじゅ大臣だいじん経済けいざい大臣だいじん アルベルト・シュペーア 軍需ぐんじゅ大臣だいじんとしては留任りゅうにん
農業のうぎょう大臣だいじん食糧しょくりょう大臣だいじん ヘルベルト・バッケ 食糧しょくりょう大臣だいじんとしては留任りゅうにん
労働ろうどう大臣だいじん フランツ・ゼルテ 留任りゅうにん
運輸うんゆ大臣だいじん郵政ゆうせい大臣だいじん ユリウス・ドルプミュラー 留任りゅうにん
行政ぎょうせい長官ちょうかん民生みんせい国防こくぼう委員いいんちょう パウル・ヴェーゲナー(Paul Wegener)

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d 松村まつむら昌廣まさひろ無条件むじょうけん降伏ごうぶく」とハーグ陸戦りくせん法規ほうき 日本にっぽんにドイツしき基本きほんほう制定せいてい可能かのうであったか」『桃山ももやま法学ほうがくだい17ごう、2011ねん3がつ
  2. ^ シュレースヴィヒ=ホルシュタインしゅう当時とうじプロイセン自由じゆうしゅうぞくしゅうとなっていた。
  3. ^ a b c d e f フォルカー(2022ねん、57ぺーじ
  4. ^ a b c d e フォルカー(2022ねん、43ぺーじ
  5. ^ フォルカー(2022ねん、42ぺーじ
  6. ^ a b フォルカー(2022ねん、40-41ぺーじ
  7. ^ W.フランク『デーニッツと灰色はいいろおおかみ』フジ出版しゅっぱん、527ぺーじ 
  8. ^ W.フランク『デーニッツと灰色はいいろおおかみ』フジ出版しゅっぱん、491ぺーじ 
  9. ^ フォルカー(2022ねん、46-47ぺーじ
  10. ^ a b フォルカー(2022ねん、47ぺーじ
  11. ^ a b c フォルカー(2022ねん、56ぺーじ
  12. ^ a b c フォルカー(2022ねん、61ぺーじ
  13. ^ フォルカー(2022ねん、41ぺーじ
  14. ^ フォルカー(2022ねん、57-59ぺーじ
  15. ^ フォルカー(2022ねん、148-149ぺーじ
  16. ^ ヒュー・トレヴァー=ローパーしる 橋本はしもと福夫ふくおわけ『ヒトラー最期さいご』(筑摩書房ちくましょぼう、1975ねん)230・231ページ
  17. ^ 当時とうじ、ゲッベルスは総統そうとう地下ちかごう滞在たいざいしており、連絡れんらくをとることができなかったうえ、5月1にち午後ごご815ふん総統そうとう官邸かんてい中庭なかにわ夫人ふじんマクダ子供こどもたち道連みちづれに自殺じさつしていた。
  18. ^ The German Surrender Documents - Wwii:
  19. ^ 井上いのうえ(2006:241-242)
  20. ^ 井上いのうえ(2006:242)

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]