ドイツ国 こく
Deutsches Reich (ドイツ語 ご )
国歌 こっか : Das Lied der Deutschen (ドイツ語 ご ) ドイツ人 じん の歌 うた (1番 ばん のみ)[1] Die Fahne hoch (ドイツ語 ご ) 旗 はた を高 たか く掲 かか げよ青色 あおいろ の領域 りょういき は1945年 ねん 5月 がつ 時点 じてん において連合 れんごう 国 こく に占領 せんりょう されていない地域 ちいき
^ ナチの指導 しどう 部 ぶ は、「ドイツ人 じん の歌 うた 」第 だい 一 いち 節 せつ (他 た の二 に 節 せつ は演奏 えんそう 禁止 きんし )を最初 さいしょ に歌 うた い、続 つづ けて突撃 とつげき 隊 たい の戦闘 せんとう 歌 か である「旗 はた を高 たか く掲 かか げよ」を歌唱 かしょう するよう指導 しどう した。“ドイツ連邦 れんぽう 共和 きょうわ 国 こく 国歌 こっか ”. ドイツ連邦 れんぽう 共和 きょうわ 国 こく 大使館 たいしかん ・総領事館 そうりょうじかん . 2022年 ねん 3月 がつ 14日 にち 閲覧 えつらん 。
フレンスブルク政府 せいふ (フレンスブルクせいふ、独 どく : Flensburger Regierung , 英 えい : Flensburg Government )は、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 末期 まっき にドイツ国 こく で設立 せつりつ された臨時 りんじ 政府 せいふ で、同国 どうこく 最後 さいご の政治 せいじ 体制 たいせい であるが、同盟 どうめい 国 こく である大日本帝国 だいにっぽんていこく も連合 れんごう 国 こく も政府 せいふ としての承認 しょうにん は行 おこな わなかった[1] 。
総統 そうとう のアドルフ・ヒトラー が自殺 じさつ した1945年 ねん 4月 がつ 末 すえ 、赤軍 せきぐん との戦 たたか いでベルリンが陥落 かんらく したため首都 しゅと ベルリン における統治 とうち や軍事 ぐんじ 指揮 しき が不可能 ふかのう となり、ヒトラーから後継 こうけい 者 しゃ に指名 しめい されていた海軍 かいぐん 総 そう 司令 しれい 官 かん カール・デーニッツ 海軍 かいぐん 元帥 げんすい らナチス党 とう 政府 せいふ の要人 ようじん はプロイセン州 しゅう の属 ぞく 州 しゅう となっていたシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州 しゅう にあるフレンスブルク に行政 ぎょうせい 機能 きのう を移転 いてん し、疎開 そかい 政府 せいふ 機関 きかん として無条件 むじょうけん 降伏 ごうぶく までの敗戦 はいせん 処理 しょり を執 と り行 おこな った。大統領 だいとうりょう の名 な をとってデーニッツ政府 せいふ (独 どく : Regierung Dönitz )とも呼 よ ばれる。
この政府 せいふ では「総統 そうとう 」に該当 がいとう する職 しょく は大統領 だいとうりょう と首相 しゅしょう に分離 ぶんり されており存在 そんざい しなかった。
国 くに 章 あきら ・国旗 こっき はヒトラー時代 じだい と同様 どうよう であり、「ハイル・ヒトラー 」の挨拶 あいさつ も当初 とうしょ は維持 いじ されていた。
連合 れんごう 国軍 こくぐん との間 あいだ でドイツ軍 ぐん の無条件 むじょうけん 降伏 ごうぶく に向 む けた敗戦 はいせん 処理 しょり の交渉 こうしょう 、権威 けんい が及 およ ぶ範囲 はんい で有力 ゆうりょく なナチ党員 とういん ・親衛隊 しんえいたい (SS)隊員 たいいん の要職 ようしょく からの解任 かいにん を主 おも な執務 しつむ としたが、ドイツ全土 ぜんど には連合 れんごう 軍 ぐん によって占領 せんりょう 統治 とうち が行 おこな われており、その影響 えいきょう 力 りょく は限定 げんてい されていた。また同盟 どうめい 国 こく である日本 にっぽん も連合 れんごう 国 こく も政府 せいふ としての承認 しょうにん は行 おこな わなかった[1] 。
5月23日 にち には全 ぜん 閣僚 かくりょう が連合 れんごう 国 こく に逮捕 たいほ され[1] 、その機能 きのう を失 うしな った。その後 ご 6月 がつ 5日 にち のベルリン宣言 せんげん により中央 ちゅうおう 政府 せいふ がドイツに存在 そんざい しないことが確認 かくにん され、1871年 ねん 1月 がつ から続 つづ いたドイツ国 こく の歴史 れきし に終止符 しゅうしふ が打 う たれた。敗戦 はいせん 後 ご に中央 ちゅうおう 政府 せいふ がドイツに存在 そんざい しない点 てん は、ポツダム宣言 せんげん の受諾 じゅだく により、敗戦 はいせん と占領 せんりょう 後 ご にも中央 ちゅうおう 政府 せいふ が存在 そんざい し続 つづ けた日本 にっぽん との大 おお きな差 さ であった。
政府 せいふ 機能 きのう の疎開 そかい [ 編集 へんしゅう ]
1945年 ねん 4月 がつ 、総統 そうとう アドルフ・ヒトラー はベルリンの総統 そうとう 官邸 かんてい 地下 ちか 壕 ごう で作戦 さくせん の指揮 しき を行 おこな っていた。ベルリンは既 すで に赤軍 せきぐん の攻撃 こうげき 下 か にあり、包囲 ほうい ・陥落 かんらく も時間 じかん の問題 もんだい であった。親衛隊 しんえいたい 全国 ぜんこく 指導 しどう 者 しゃ ・内相 ないしょう のハインリヒ・ヒムラー はかねてから画策 かくさく していた首都 しゅと 機能 きのう の移転 いてん を実行 じっこう するべく、その地 ち を戦災 せんさい 被害 ひがい が比較的 ひかくてき 少 すく なかったドイツ北部 ほくぶ のシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州 しゅう [2] に決 き めていた。
国防 こくぼう 軍 ぐん 最高 さいこう 司令 しれい 部 ぶ のミュルヴィク (ドイツ語 ご 版 ばん ) への疎開 そかい 経路 けいろ
4月 がつ 20日 はつか の総統 そうとう 誕生 たんじょう 日 び にヒトラーは国防 こくぼう 軍 ぐん 最高 さいこう 司令 しれい 部 ぶ (OKW) 、陸軍 りくぐん 総 そう 司令 しれい 部 ぶ (OKH) 、空軍 くうぐん 総 そう 司令 しれい 部 ぶ (OKL) 、そして閣僚 かくりょう の避難 ひなん を許可 きょか し、ドイツが戦線 せんせん によって分断 ぶんだん された時 とき に備 そな えて、ドイツ北部 ほくぶ にいるドイツ軍 ぐん の統帥 とうすい を海軍 かいぐん 総 そう 司令 しれい 官 かん カール・デーニッツ 海軍 かいぐん 元帥 げんすい に委任 いにん した。ヒトラーから全権 ぜんけん を委任 いにん されたデーニッツはベルリンを脱出 だっしゅつ し、キール に近 ちか いオイティン を経 へ てプレーン(Plön) の海軍 かいぐん 総 そう 司令 しれい 部 ぶ (OKM) に移 うつ り、そこで、海軍 かいぐん 全般 ぜんぱん の指揮 しき の他 ほか に北 きた ドイツでの難民 なんみん の輸送 ゆそう 、補給 ほきゅう 作業 さぎょう を指揮 しき することになった。
4月 がつ 21日 にち 、ヒトラー、宣伝 せんでん 相 しょう ヨーゼフ・ゲッベルス 、ナチ党 とう 官房 かんぼう 長 ちょう マルティン・ボルマン を除 のぞ く主 おも な閣僚 かくりょう も避難 ひなん し、OKW総長 そうちょう ヴィルヘルム・カイテル 陸軍 りくぐん 元帥 げんすい 、OKW作戦 さくせん 部長 ぶちょう アルフレート・ヨードル 上級 じょうきゅう 大将 たいしょう を含 ふく む国防 こくぼう 軍 ぐん 最高 さいこう 司令 しれい 部 ぶ ・陸軍 りくぐん 総 そう 司令 しれい 部 ぶ の一部 いちぶ はデーニッツに合流 ごうりゅう するためプレーンへ、空軍 くうぐん 総 そう 司令 しれい 官 かん ヘルマン・ゲーリング 帝国 ていこく 元帥 げんすい を含 ふく む空軍 くうぐん 総 そう 司令 しれい 部 ぶ と国防 こくぼう 軍 ぐん 最高 さいこう 司令 しれい 部 ぶ ・陸軍 りくぐん 総 そう 司令 しれい 部 ぶ の大半 たいはん 、総統 そうとう 官房 かんぼう 長官 ちょうかん ハンス・ハインリヒ・ラマース はヒトラー総統 そうとう 専用 せんよう のベルクホーフ山荘 さんそう のあるオーバーザルツベルク へ疎開 そかい した。避難 ひなん した閣僚 かくりょう の多 おお くはオイティンに移 うつ り、4月 がつ 23日 にち には移転 いてん 初 はつ の閣僚 かくりょう 会議 かいぎ が地方 ちほう 議会 ぎかい 議事堂 ぎじどう で行 おこな われた。閣僚 かくりょう 会議 かいぎ の議長 ぎちょう は閣僚 かくりょう の最年長 さいねんちょう で財務 ざいむ 大臣 だいじん のフォン・クロージク伯爵 はくしゃく が務 つと めている。
一方 いっぽう のヒムラーはプレーンに近 ちか いリューベック に移 うつ り、スウェーデン の外交 がいこう 官 かん ベルナドッテ伯爵 はくしゃく を通 つう じた米 べい 英軍 えいぐん との停戦 ていせん 交渉 こうしょう を極秘 ごくひ に行 い っていた。しかし、この交渉 こうしょう は失敗 しっぱい に終 お わった。4月28日 にち 、ヒムラーの和平 わへい 交渉 こうしょう の存在 そんざい がBBC放送 ほうそう で全 ぜん 世界 せかい に公表 こうひょう された。ヒムラーの和平 わへい 交渉 こうしょう を知 し ったヒトラーは激怒 げきど し、ヒムラーの解任 かいにん と逮捕 たいほ を命令 めいれい した。さらにヒトラーは4月 がつ 29日 にち 未明 みめい 、総統 そうとう 秘書官 ひしょかん のトラウデル・ユンゲ に作成 さくせい させた政治 せいじ 的 てき 遺書 いしょ (英語 えいご 版 ばん ) でデーニッツを後継 こうけい 者 しゃ に指名 しめい した。
ただし、デーニッツの地位 ちい は総統 そうとう ではなく、ヒトラーが1934年 ねん に制定 せいてい した国家 こっか 元首 げんしゅ 法 ほう (ドイツ語 ご 版 ばん ) により権限 けんげん を吸収 きゅうしゅう して以来 いらい 空位 くうい となっていた大統領 だいとうりょう に、政権 せいけん を握 にぎ った1933年 ねん 以来 いらい のポスト だった首相 しゅしょう にはゲッベルスを指名 しめい していた[3] 。また、この遺書 いしょ ではゲーリング、ヒムラーを裏切 うらぎ り者 もの として非難 ひなん し、彼 かれ らを党 とう から追放 ついほう すると記 しる してあった[4] 。その時 とき 、ゲーリングは既 すで に全 すべ てのポストから解任 かいにん されてオーバーザルツベルク駐在 ちゅうざい のSS部隊 ぶたい に身柄 みがら を拘束 こうそく され、監視 かんし 下 か にあった[5] 。一方 いっぽう 、ヒムラーはデーニッツの元 もと にいたが、彼 かれ はヒトラーにこのような宣告 せんこく をされていたことを知 し らされていなかった[4] 。
4月 がつ 30日 にち 午後 ごご 3時半 じはん 頃 ごろ 、ヒトラーはベルリンの総統 そうとう 官邸 かんてい 地下 ちか 壕 ごう で夫人 ふじん のエヴァ・ブラウン とともに自殺 じさつ した。しかし、この時 とき のベルリンはソ連 それん 軍 ぐん の猛攻 もうこう 下 か にあり、総統 そうとう 官邸 かんてい 地下 ちか 壕 ごう はほとんど孤立 こりつ していたため、ヒトラーの死 し はすぐに外部 がいぶ に漏 も れることはなかった。
フレンスブルク政府 せいふ の閣議 かくぎ が行 おこな われたミュルヴィク海軍兵学校 かいぐんへいがっこう 内 うち の海軍 かいぐん スポーツ学校 がっこう (ドイツ語 ご 版 ばん )
4月 がつ 30日 にち 早朝 そうちょう 、デーニッツは総統 そうとう 官房 かんぼう から無線 むせん で「ヒムラーがスウェーデンを経由 けいゆ して連合 れんごう 軍 ぐん と交渉 こうしょう する反逆 はんぎゃく 罪 ざい を犯 おか したため、迅速 じんそく かつ冷厳 れいげん にSS全国 ぜんこく 指導 しどう 者 しゃ に対処 たいしょ すべし」との指令 しれい を受 う けた[4] 。しかし、全 すべ ての権限 けんげん はヒムラーが掌握 しょうあく しており、地上 ちじょう での戦闘 せんとう 力 りょく のない海軍 かいぐん 総 そう 司令 しれい 官 かん が指令 しれい を実行 じっこう するのは容易 ようい ではなかった。また、敵 てき 側 がわ のラジオ放送 ほうそう を根拠 こんきょ にした点 てん からも懐疑 かいぎ 的 てき であり、午後 ごご にリューベックでヒムラーと会見 かいけん した[4] 。ヒムラーは敵 てき との接触 せっしょく を完全 かんぜん に否定 ひてい し[4] 、デーニッツも実行 じっこう の難 むずか しい「反逆 はんぎゃく 者 しゃ の処罰 しょばつ 」よりも、ヒムラーが後継 こうけい 者 しゃ から除外 じょがい された事実 じじつ だけを伝 つた えるとともに、「自 みずか らは海軍 かいぐん を降伏 ごうぶく させるが、海軍 かいぐん 軍人 ぐんじん として最後 さいご の戦闘 せんとう で死 し ぬ」と海軍 かいぐん 軍人 ぐんじん としての決意 けつい を固 かた めた。
同日 どうじつ 午後 ごご にボルマンから特別 とくべつ の暗号 あんごう 解読 かいどく 認証 にんしょう を受 う けたドイツ海軍 かいぐん 通信 つうしん 部隊 ぶたい 経由 けいゆ で「総統 そうとう はゲーリング前 ぜん 国家 こっか 元帥 げんすい に換 か えてデーニッツ元帥 げんすい を後継 こうけい 者 しゃ と定 さだ められた[6] 。今後 こんご は現状 げんじょう にて可能 かのう な全 すべ ての処置 しょち を取 と られたし」(第 だい 1号 ごう 電報 でんぽう )という電文 でんぶん が届 とど けられた[6] 。これにより、デーニッツはヒトラーが既 すで に死亡 しぼう したか、または死 し を目前 もくぜん にしていると考 かんが えた。デーニッツは湖畔 こはん を歩 ある き、副官 ふっかん ノイラートに「国家 こっか 形態 けいたい をどうするべきか」とつぶやいた。これは後 のち に発表 はっぴょう した「三 さん 本 ほん の柱 はしら をもつ憲法 けんぽう (静 せい の元首 げんしゅ 、行動 こうどう の政府 せいふ 主席 しゅせき 、国民 こくみん の意思 いし を代表 だいひょう する議会 ぎかい )」の原案 げんあん [7] について口 くち にした最初 さいしょ であった。デーニッツは「ヒトラーの後継 こうけい 者 しゃ となることを義務 ぎむ とみなした。国民 こくみん と軍隊 ぐんたい に最良 さいりょう と信 しん ずる道 みち を歩 あゆ むしかない。」「(軍人 ぐんじん としての決意 けつい を翻 ひるがえ すことが)仮 かり にそれが自分 じぶん のためには不名誉 ふめいよ なものであっても」と副官 ふっかん ノイラートは後 のち に回想 かいそう している[8] 。
5月1日 にち 午前 ごぜん 0時 じ 、国内 こくない 最大 さいだい の実力 じつりょく 者 しゃ のヒムラーが重 じゅう 武装 ぶそう のSS隊員 たいいん と共 とも にデーニッツの元 もと を訪 おとず れた[9] 。デーニッツが第 だい 1号 ごう 電報 でんぽう を示 しめ すと、ヒムラーは狼狽 ろうばい し、デーニッツの地位 ちい を承認 しょうにん する代 か わりとして首相 しゅしょう の地位 ちい を要求 ようきゅう した[10] 。デーニッツはヒムラーがSS組織 そしき の権力 けんりょく を持 も っていたことから回答 かいとう を明言 めいげん しなかったが、ヒムラーは一旦 いったん 引 ひ き下 さ がった[10] 。
同日 どうじつ 午前 ごぜん 10時 じ 53分 ふん 、デーニッツの元 もと にボルマン署名 しょめい の「遺書 いしょ 発効 はっこう す。自分 じぶん は速 すみ やかにそちらに赴 おもむ く予定 よてい 。それまでは公表 こうひょう を控 ひか えられるべし」との、ヒトラーの死去 しきょ という重大 じゅうだい な事実 じじつ については曖昧 あいまい にしたままの第 だい 2号 ごう 電報 でんぽう が入電 にゅうでん した[11] 。これはボルマンがヒトラーの死 し という事実 じじつ を隠蔽 いんぺい することによって自身 じしん の権力 けんりょく を延長 えんちょう しようと図 はか ったものであった[11] 。ただ、この電報 でんぽう ではヒトラーの死 し について明確 めいかく に述 の べられていなかったため、デーニッツはその真意 しんい を量 はか りかね、しばらくは行動 こうどう を起 お こすことができなかった[11] 。
同日 どうじつ 午後 ごご 3時 じ 18分 ふん 、ゲッベルスとボルマンの共同 きょうどう 署名 しょめい になる明確 めいかく な内容 ないよう の第 だい 3号 ごう 電報 でんぽう がデーニッツのところに到着 とうちゃく した[3] 。ここではヒトラーの死 し の事実 じじつ が初 はじ めて明 あき らかにされるとともに、ヒトラーの遺言 ゆいごん の概要 がいよう が伝 つた えられていた[3] 。デーニッツはここでヒトラーが死 し に、自身 じしん の大統領 だいとうりょう 就任 しゅうにん が発効 はっこう したことを知 し った[3] 。この第 だい 3号 ごう 電報 でんぽう ではヒトラーの遺言 ゆいごん で首相 しゅしょう にゲッベルス、ナチ党 とう 担当 たんとう 相 しょう (ナチ党 とう の党首 とうしゅ )にボルマン、外相 がいしょう にオランダ総督 そうとく のザイス=インクヴァルト が指名 しめい されていることも通知 つうち された[3] 。そして、ボルマンがデーニッツの所 ところ へ向 む かう予定 よてい とも書 か かれていたため、デーニッツは、ボルマンとゲッベルスがプレーンに来 き たら拘束 こうそく するよう指示 しじ した[3] 。
デーニッツは第 だい 3号 ごう 電報 でんぽう を受 う けて、ドイツ国民 こくみん にヒトラーの死 し と自 みずか らの後継 こうけい 者 しゃ 就任 しゅうにん を公表 こうひょう することにした[12] 。午後 ごご 9時 じ から10時 じ 25分 ぶん のハンブルク放送 ほうそう の特別 とくべつ 報道 ほうどう でヒトラーの死 し が発表 はっぴょう され、デーニッツ自身 じしん がラジオ演説 えんぜつ を行 おこな い、ヒトラーがベルリンで戦死 せんし したこと、自分 じぶん にヒトラーから国家 こっか 元首 げんしゅ と国防 こくぼう 軍 ぐん 最高 さいこう 司令 しれい 官 かん としての職責 しょくせき が託 たく されたことを報告 ほうこく する[12] 。デーニッツはボルシェヴィズム からドイツ軍 ぐん 並 なら びにドイツ国民 こくみん を守 まも るために戦 たたか い続 つづ けること、イギリス軍 ぐん とアメリカ軍 ぐん とはこれらの行動 こうどう を妨害 ぼうがい する時 とき にのみ交戦 こうせん すると宣言 せんげん した[12] 。デーニッツの署名 しょめい の肩書 かたが きは海軍 かいぐん 元帥 げんすい (大 だい 提督 ていとく )とだけ記 しる された。なお、ヒトラーは実際 じっさい には自殺 じさつ であって戦死 せんし ではないし、デーニッツはヒトラーの死 し の様子 ようす の詳細 しょうさい を知 し らされてはいなかったけれども、あえて「戦死 せんし 」としたのは、総統 そうとう ヒトラーが軍人 ぐんじん らしい死 し を遂 と げたと脚色 きゃくしょく することによってドイツ軍 ぐん の忠誠 ちゅうせい 心 しん をつなぎとめる狙 ねら いがあったと考 かんが えられている。
ヒトラーの遺書 いしょ は3通 つう 作 つく られて総統 そうとう 地下 ちか 壕 ごう から外部 がいぶ (デーニッツ宛 あて 、陸軍 りくぐん 総 そう 司令 しれい 官 かん に任命 にんめい された中央 ちゅうおう 軍 ぐん 集団 しゅうだん 司令 しれい 官 かん フェルディナント・シェルナー 陸軍 りくぐん 元帥 げんすい 宛 あて 、ミュンヘン のナチ党 とう 文書 ぶんしょ 館 かん 宛 あて )に送 おく られたものの、いずれも届 とど かなかった[13] 。デーニッツは第 だい 3号 ごう 電報 でんぽう で知 し らされたヒトラーの遺言 ゆいごん による閣僚 かくりょう 任命 にんめい (ただし、デーニッツは全 ぜん 閣僚 かくりょう のリストは知 し らなかった)に驚 おどろ いたが、出来 でき るだけ沢山 たくさん の人間 にんげん を救 すく いつつ戦争 せんそう をできるだけ早 はや く終結 しゅうけつ させるための交渉 こうしょう に極 きわ めて重荷 おもに になる人事 じんじ を「ヒトラーの死後 しご の命令 めいれい 」として無視 むし することを決意 けつい し、ルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージク財務 ざいむ 相 しょう を閣僚 かくりょう 首班 しゅはん (首相 しゅしょう 代行 だいこう )に指名 しめい し、組閣 そかく を依頼 いらい した[14] 。なお、デーニッツの身辺 しんぺん 警護 けいご 隊 たい としてフォン・ビューロとアリ・クレーマー を指揮 しき 官 かん として、水兵 すいへい による陸戦 りくせん 隊 たい が編成 へんせい されたほか、潜水 せんすい 艦隊 かんたい 司令 しれい 長官 ちょうかん のフォン・フリーデブルク 大将 たいしょう を2月 がつ 1日 にち 付 づけ に遡及 そきゅう して海軍 かいぐん 総 そう 司令 しれい 官 かん に任 にん じた。
一方 いっぽう 、5月1日 にち にゲッベルスはベルリンの総統 そうとう 地下 ちか 壕 ごう において自殺 じさつ した。デーニッツの政府 せいふ に合流 ごうりゅう することによって自 みずか らの権力 けんりょく を維持 いじ することを狙 ねら っていたボルマンは2日 にち 未明 みめい に総統 そうとう 地下 ちか 壕 ごう から脱出 だっしゅつ したものの、逃亡 とうぼう に失敗 しっぱい してベルリン市内 しない で自殺 じさつ した。
5月3日 にち 、新 しん 政府 せいふ は拠点 きょてん をフレンスブルク郊外 こうがい のミュルヴィク (ドイツ語 ご 版 ばん ) にあったミュルヴィク海軍兵学校 かいぐんへいがっこう へ移 うつ した[15] 。この際 さい 、軍需 ぐんじゅ 相 しょう アルベルト・シュペーア とヒムラーは共 とも に、ハンブルクの北 きた に位置 いち し、まだ連合 れんごう 軍 ぐん の影響 えいきょう が及 およ んでいなかったバート・ブラムシュテット (ドイツ語 ご 版 ばん ) へ一時 いちじ 移動 いどう して会談 かいだん 、その後 ご ヒムラーは国防 こくぼう 軍 ぐん 将校 しょうこう から軍 ぐん の動向 どうこう を確認 かくにん している。
5月5日 にち 、「フレンスブルク政府 せいふ 」は初 はつ 閣議 かくぎ を開 ひら いた。また、同日 どうじつ にヒムラーも150人 にん あまりの側近 そっきん を連 つ れて合流 ごうりゅう し、ゲシュタポ の解体 かいたい に手 て をつけたが、この際 さい にSS隊員 たいいん 等 とう の身分 みぶん 偽証 ぎしょう 工作 こうさく を行 おこな ったとされる。前日 ぜんじつ のオランダのドイツ軍 ぐん が降伏 ごうぶく したのを受 う けて脱出 だっしゅつ したザイス=インクヴァルトはデーニッツと会談 かいだん し、焦土 しょうど 作戦 さくせん の中止 ちゅうし 及 およ びオランダ総督 そうとく としての留任 りゅうにん を確認 かくにん した(その後 ご 、ザイス=インクヴァルトはハンブルクへ逃亡 とうぼう したところで逮捕 たいほ された)。
5月6日 にち 、デーニッツはシュレスヴィヒ=ホルシュタイン州 しゅう の最高 さいこう 責任 せきにん 者 しゃ としての大 だい 管区 かんく 指導 しどう 者 しゃ ヒンリヒ・ローゼ を解任 かいにん 、17時 じ には入閣 にゅうかく を望 のぞ んでいたヒムラーと、東部 とうぶ 占領 せんりょう 地域 ちいき 相 しょう のアルフレート・ローゼンベルク を全 すべ ての職務 しょくむ から解任 かいにん したほか、ヒトラー内閣 ないかく の司法 しほう 相 しょう オットー・ティーラック (この時点 じてん では消息 しょうそく 不明 ふめい )、生死 せいし 不明 ふめい であったゲッベルスを解任 かいにん した[16] [17] 。これらの解任 かいにん は、フレンスブルク政府 せいふ が連合 れんごう 国 こく によって容認 ようにん されやすくするためとも、生 は え抜 ぬ きの党 とう 幹部 かんぶ の在任 ざいにん が新 しん 政府 せいふ の障害 しょうがい となった事 こと などが理由 りゆう であるとされる。
降伏 ごうぶく 交渉 こうしょう [ 編集 へんしゅう ]
カールスホルストで調印 ちょういん されたドイツ軍 ぐん の降伏 ごうぶく 文書 ぶんしょ 。
大統領 だいとうりょう となったデーニッツは、既 すで にドイツがその体制 たいせい を維持 いじ できず、もはや降伏 ごうぶく 以外 いがい に道 みち がないことを承知 しょうち していた。そして、デーニッツはドイツの最高 さいこう 指導 しどう 者 しゃ の地位 ちい の継承 けいしょう が「ヒトラーには出来 でき なかったことを成 な すこと」と了知 りょうち していた。しかしソ連 それん に降伏 ごうぶく した国防 こくぼう 軍 ぐん 兵士 へいし や難民 なんみん がソ連 それん 軍 ぐん 兵士 へいし からの虐殺 ぎゃくさつ など容認 ようにん しがたい被害 ひがい を受 う けているとの事実 じじつ を掴 つか んでもいた。難民 なんみん らからのき取 きと りとソ連 それん 軍 ぐん の占領 せんりょう していた村 むら などをドイツ軍 ぐん が奪還 だっかん してからの実地 じっち 調査 ちょうさ から、「殺人 さつじん 、放火 ほうか 、拷問 ごうもん 、暴行 ぼうこう 、略奪 りゃくだつ 」の報告 ほうこく を海軍 かいぐん 法務局 ほうむきょく から既 すで に受 う けていたのである。このため、デーニッツは西方 せいほう (イギリス軍 ぐん やアメリカ軍 ぐん の占領 せんりょう 地 ち )での投降 とうこう は受 う け入 い れられるが、東方 とうほう (ソ連 それん 軍 ぐん )では戦闘 せんとう を継続 けいぞく し、ソ連 それん 側 がわ に取 と り残 のこ されている市民 しみん や兵士 へいし の本国 ほんごく と西方 せいほう 占領 せんりょう 地区 ちく への避難 ひなん のルートと時間 じかん を確保 かくほ するべきだと考 かんが え、部分 ぶぶん 的 てき な降伏 ごうぶく と東部 とうぶ 地域 ちいき での戦闘 せんとう 継続 けいぞく を画策 かくさく した。
彼 かれ の意向 いこう を受 う けたOKW総長 そうちょう ヴィルヘルム・カイテル元帥 げんすい 及 およ びOKW作戦 さくせん 部長 ぶちょう アルフレート・ヨードル上級 じょうきゅう 大将 たいしょう は、西側 にしがわ から侵入 しんにゅう する米 べい 英軍 えいぐん の方 ほう へドイツ軍 ぐん の残存 ざんそん 兵 へい を移動 いどう するよう命令 めいれい した[18] 。
5月6日 にち 、デーニッツはヨードルに連合 れんごう 軍 ぐん に対 たい する国防 こくぼう 軍 ぐん の降伏 ごうぶく 文書 ぶんしょ に署名 しょめい する許可 きょか を与 あた えた。翌 よく 5月 がつ 7日 にち 、対 たい 米 べい 英 えい 仏 ふつ 連合 れんごう 軍 ぐん への降伏 ごうぶく はフランス のランス において調印 ちょういん され、5月8日 にち 午後 ごご 11時 じ 1分 ふん が停戦 ていせん 発効 はっこう 時間 じかん であると定 さだ められた。しかし連合 れんごう 軍 ぐん がベルリンで降伏 ごうぶく 文書 ぶんしょ を批准 ひじゅん する調印 ちょういん 式 しき を要求 ようきゅう したため[19] 、国防 こくぼう 軍 ぐん 代表 だいひょう のカイテル元帥 げんすい 、海軍 かいぐん 代表 だいひょう フォン・フリーデブルク大将 たいしょう 、空軍 くうぐん 代表 だいひょう シュトゥムプフ上級 じょうきゅう 大将 たいしょう らを派遣 はけん した。ベルリン時間 じかん で5月 がつ 9日 にち 午前 ごぜん 0時 じ 15分 ふん (ロンドン時間 じかん 5月8日 にち 午後 ごご 11時 じ 15分 ふん 、モスクワ時間 じかん 5月9日 にち 2時 じ 15分 ふん )[20] 、ベルリンのカールスホルスト において降伏 ごうぶく 批准 ひじゅん 文書 ぶんしょ が調印 ちょういん された。これらの文書 ぶんしょ に署名 しょめい したのは国防 こくぼう 軍 ぐん の軍人 ぐんじん のみであり、政府 せいふ の代表 だいひょう 者 しゃ の署名 しょめい は行 おこな われなかった[1]
連行 れんこう されるフレンスブルク政府 せいふ 首脳 しゅのう 前 まえ の軍服 ぐんぷく 姿 すがた がデーニッツ、その後 ご にいるのはヨードルとシュペーア。
国防 こくぼう 軍 ぐん の無条件 むじょうけん 降伏 ごうぶく 後 ご 、軍需 ぐんじゅ 相 しょう シュペーアはフレンスブルク政府 せいふ 自体 じたい が解散 かいさん しなければならないと提案 ていあん した。一方 いっぽう 、デーニッツとその他 た の大臣 だいじん たちは臨時 りんじ 政府 せいふ として戦後 せんご のドイツを統治 とうち できるという希望 きぼう を持 も っていた。イギリス国民 こくみん に勝利 しょうり を宣言 せんげん するウィンストン・チャーチル のスピーチ「明 あき らかな国家 こっか 元首 げんしゅ であるデーニッツ元帥 げんすい 」という部分 ぶぶん は事実 じじつ 上 じょう 、少 すく なくとも無条件 むじょうけん 降伏 ごうぶく の瞬間 しゅんかん までフレンスブルク政府 せいふ を「ドイツの当局 とうきょく 」として認識 にんしき していたことの証拠 しょうこ であった。しかし、連合 れんごう 国 こく はフレンスブルク政府 せいふ を即座 そくざ に解体 かいたい することを決定 けってい した。
5月 がつ 20日 はつか 、ソ連 それん 政府 せいふ はそれまでのフレンスブルク政府 せいふ について考 かんが えられていたことを白紙 はくし にした。彼 かれ らはデーニッツ政府 せいふ (彼 かれ らは「デーニッツ・ギャング」と呼 よ んだ)がどんな権力 けんりょく を持 も つことも許 ゆる さず、どんな考 かんが えでも厳 きび しく批判 ひはん 、これを攻撃 こうげき した。『プラウダ 』には以下 いか の通 とお り記述 きじゅつ された。
デーニッツ
周辺 しゅうへん のファシストギャングどもの
威信 いしん についての
議論 ぎろん はまだ
続 つづ いており、いくつかの
目立 めだ った
連合 れんごう 軍 ぐん の
集団 しゅうだん はデーニッツとその
協力 きょうりょく 者 しゃ の「
活動 かつどう 」を
利用 りよう することを
必要 ひつよう と
考 かんが えている。イギリス
議会 ぎかい でこのギャングどもは「デーニッツ
政府 せいふ 」と
呼 よ ばれている。(
中略 ちゅうりゃく )
反動 はんどう 的 てき な
新聞 しんぶん 『
ハースト 』の
記者 きしゃ はデーニッツの
兵籍 へいせき 編入 へんにゅう を「
政治 せいじ 的 てき に
賢明 けんめい な
行為 こうい 」と
称 しょう した。このように、ファシストの
物書 ものか きどもはヒトラーの
弟子 でし たる
略奪 りゃくだつ 者 しゃ と
協力 きょうりょく することを
正 ただ しいと
考 かんが えている。
同時 どうじ に、ドイツの
右翼 うよく が
差 さ し
迫 せま った
混乱 こんらん に
似 に たおとぎ
話 ばなし を
作 つく り
出 だ したとき、1918
年 ねん のドイツが
条件付 じょうけんづ けたことを
大西洋 たいせいよう 両側 りょうがわ のファシスト
報道 ほうどう 機関 きかん は
広 ひろ めようとしている。その
後 ご 、
降伏 ごうぶく の
直後 ちょくご 、
無傷 むきず のドイツ
軍 ぐん 部隊 ぶたい が
東方 とうほう で
新 あら たな
冒険 ぼうけん に
使 つか われた。
現在 げんざい の
政治 せいじ 活動 かつどう にも
似 に たようなものが
存在 そんざい し、
連合 れんごう 軍 ぐん の
多 おお くの
反動 はんどう 的 てき な
集 あつ まりは
クリミア会議 かいぎ に
基 もと づいた
新 あら たなヨーロッパを
作 つく ることに
反対 はんたい している。これらの
集 あつ まりはファシスト
体制 たいせい の
維持 いじ を
考 かんが えており、すべての
自由 じゆう を
愛 あい する
国々 くにぐに の
民主 みんしゅ 主義 しゅぎ の
成長 せいちょう を
阻害 そがい する
手段 しゅだん を
取 と ろうとしている。・・・(
後略 こうりゃく )
— Dollinger, Hans. The Decline and Fall of Nazi Germany and Imperial Japan , Library of Congress Catalogue Card # 67-27047, Page 239
5月13日 にち 、国防 こくぼう 軍 ぐん 最高 さいこう 司令 しれい 部 ぶ 総長 そうちょう カイテルが連合 れんごう 軍 ぐん に逮捕 たいほ された。5月23日 にち 、イギリス軍 ぐん の連絡 れんらく 将校 しょうこう はデーニッツの本部 ほんぶ へ向 む かい、デーニッツ政府 せいふ の解散 かいさん と全 すべ ての要員 よういん の逮捕 たいほ を命 めい じているアイゼンハワー 将軍 しょうぐん (連合 れんごう 国 こく 遠征 えんせい 軍 ぐん 最高 さいこう 司令 しれい 官 かん )の命令 めいれい を読 よ み上 あ げた。これによってデーニッツ以下 いか の政府 せいふ 要員 よういん は全 すべ て連合 れんごう 国 こく に拘束 こうそく され、フレンスブルク政府 せいふ は解体 かいたい された。
閣僚 かくりょう 構成 こうせい (1945年 ねん 5月 がつ 23日 にち 時点 じてん )[ 編集 へんしゅう ]
降伏 ごうぶく 直前 ちょくぜん という事情 じじょう から、航空 こうくう 省 しょう 、東部 とうぶ 占領 せんりょう 地域 ちいき 省 しょう 、国民 こくみん 啓蒙 けいもう ・宣伝 せんでん 省 しょう が廃止 はいし された。[要 よう 出典 しゅってん ]
役職 やくしょく
氏名 しめい
備考 びこう
大統領 だいとうりょう ・ドイツ国防 こくぼう 軍 ぐん 最高 さいこう 司令 しれい 官 かん ・国防 こくぼう 大臣 だいじん
カール・デーニッツ
海軍 かいぐん 元帥 げんすい
筆頭 ひっとう 閣僚 かくりょう (首相 しゅしょう 代行 だいこう )・外務 がいむ 大臣 だいじん ・財務 ざいむ 大臣 だいじん
ルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージク
財務 ざいむ 大臣 だいじん としては留任 りゅうにん
内務 ないむ 大臣 だいじん ・文化 ぶんか 大臣 だいじん (科学 かがく ・教育 きょういく ・国民 こくみん 文化 ぶんか 大臣 だいじん )
ヴィルヘルム・シュトゥッカート
前 ぜん 内務 ないむ 次官 じかん
司法 しほう 大臣 だいじん
ヘルベルト・クレム (Herbert Klemm)
前 ぜん 司法 しほう 次官 じかん
OKW 総長 そうちょう
アルフレート・ヨードル
国防 こくぼう 軍 ぐん 最高 さいこう 司令 しれい 部 ぶ 総長 そうちょう ヴィルヘルム・カイテルが1945年 ねん 5月 がつ 13日 にち に逮捕 たいほ されたため、その後任 こうにん
海軍 かいぐん 総 そう 司令 しれい 官 かん
ハンス=ゲオルク・フォン・フリーデブルク
海軍 かいぐん 大将 たいしょう 、5月1日 にち 付 づけ で海軍 かいぐん 総 そう 司令 しれい 官 かん に就任 しゅうにん (2月 がつ 1日 にち 付 づけ 遡及 そきゅう )
軍需 ぐんじゅ 大臣 だいじん ・経済 けいざい 大臣 だいじん
アルベルト・シュペーア
軍需 ぐんじゅ 大臣 だいじん としては留任 りゅうにん
農業 のうぎょう 大臣 だいじん ・食糧 しょくりょう 大臣 だいじん
ヘルベルト・バッケ
食糧 しょくりょう 大臣 だいじん としては留任 りゅうにん
労働 ろうどう 大臣 だいじん
フランツ・ゼルテ
留任 りゅうにん
運輸 うんゆ 大臣 だいじん ・郵政 ゆうせい 大臣 だいじん
ユリウス・ドルプミュラー
留任 りゅうにん
行政 ぎょうせい 長官 ちょうかん ・民生 みんせい 国防 こくぼう 委員 いいん 長 ちょう
パウル・ヴェーゲナー (Paul Wegener)