ハンス・ハインリヒ・ラマース (Hans Heinrich Lammers、1879年 ねん 5月27日 にち - 1962年 ねん 1月 がつ 4日 にち )は、ドイツ国 こく の政治 せいじ 家 か 、官僚 かんりょう 。ヒトラー内閣 ないかく の無任所 むにんしょ 大臣 だいじん 、首相 しゅしょう 官房 かんぼう 長官 ちょうかん を務 つと めた。マルティン・ボルマン と共 とも にアドルフ・ヒトラー の側近 そっきん として権勢 けんせい を振 ふ るった。姓 せい は「ランメルス 」と訳 やく されることもある。親衛隊 しんえいたい の最終 さいしゅう 階級 かいきゅう は、親衛隊 しんえいたい 名誉 めいよ 中将 ちゅうじょう 。
上 うえ シレジア のルブリニッツ (現在 げんざい のポーランド 領 りょう ルブリニェツ (英語 えいご 版 ばん ) )に出生 しゅっしょう 。父 ちち は獣医 じゅうい であった。ブレスラウ大学 だいがく やハイデルベルク大学 だいがく に通 かよ い、1904年 ねん に法学 ほうがく 博士 はかせ の学位 がくい を取得 しゅとく した[1] 。1907年 ねん に司法 しほう 試験 しけん に合格 ごうかく し、1912年 ねん にはボイテン で裁判官 さいばんかん となった。1913年 ねん 4月 がつ 29日 にち 、グリツィヴェ・エルフリーデ・テペルと結婚 けっこん し、1914年 ねん と1918年 ねん にそれぞれ娘 むすめ を生 う んだ。
第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の際 さい には出征 しゅっせい して一級 いっきゅう 鉄 てつ 十 じゅう 字 じ 章 あきら と二 に 級 きゅう 鉄 てつ 十 じゅう 字 じ 章 あきら を受章 じゅしょう するが、1917年 ねん に戦傷 せんしょう のため左目 ひだりめ を失明 しつめい した。
戦後 せんご は弁護士 べんごし として活動 かつどう し、ドイツ国家 こっか 人民 じんみん 党 とう に入党 にゅうとう 。1920年 ねん に内務省 ないむしょう に入省 にゅうしょう し、1922年 ねん にはヴィルヘルム・クーノ 内閣 ないかく で内務 ないむ 次官 じかん となっている[2] 。保守 ほしゅ 主義 しゅぎ 者 しゃ だったラマースはドイツ社会 しゃかい 民主党 みんしゅとう (SPD)の政治 せいじ 家 か を嫌悪 けんお し、ヴァイマル共和 きょうわ 政 せい に対 たい しても拒否 きょひ 感 かん を抱 だ いており、そのため1928年 ねん に内務 ないむ 大臣 だいじん カール・ゼーフェリンク (SPD党員 とういん )に叱責 しっせき を受 う けた。
1937年 ねん 、執務 しつむ 中 ちゅう のラマース
1941年 ねん 3月28日 にち 、ベルリン 訪問 ほうもん 中 ちゅう の松岡 まつおか 洋右 ようすけ 外相 がいしょう を迎 むか えるラマース(左端 ひだりはし )、ヴィルヘルム・カイテル (中央 ちゅうおう )、ハインリヒ・ゲオルク・スターマー (右 みぎ )
1932年 ねん 3月 がつ 1日 にち に国家 こっか 社会 しゃかい 主義 しゅぎ ドイツ労働 ろうどう 者 しゃ 党 とう (ナチ党 とう )に入党 にゅうとう (党員 とういん 番号 ばんごう 1,010,355)。すぐさま党 とう の幹部 かんぶ となり、9月24日 にち にプロイセン州 しゅう で開催 かいさい された党 とう 集会 しゅうかい にヨーゼフ・ゲッベルス と共 とも に出席 しゅっせき し、党 とう 幹部 かんぶ としての活動 かつどう を開始 かいし する[3] 。1933年 ねん のナチ党 とう の権力 けんりょく 掌握 しょうあく 後 のち には首相 しゅしょう 官房 かんぼう 長官 ちょうかん ・国務 こくむ 長官 ちょうかん の職責 しょくせき が与 あた えられた[4] 。同時 どうじ に内相 ないしょう ヴィルヘルム・フリック の推薦 すいせん で、全 ぜん 政府 せいふ 機関 きかん の主席 しゅせき 法律 ほうりつ 顧問 こもん に任命 にんめい された。
1937年 ねん からヒトラー内閣 ないかく の無任所 むにんしょ 大臣 だいじん に就任 しゅうにん し、1939年 ねん 11月30日 にち には国防 こくぼう 閣僚 かくりょう 会議 かいぎ (ドイツ語 ご 版 ばん ) のメンバーとなった[2] 。同 どう 時期 じき にT4作戦 さくせん にも関与 かんよ している[5] 。ラマースはこうした立場 たちば に基 もと づき、全 ぜん 政府 せいふ 機関 きかん から連絡 れんらく と諮問 しもん を受 う けると同時 どうじ に、全 すべ ての政治 せいじ 文書 ぶんしょ をヒトラーに届 とど く前 まえ に検閲 けんえつ することが出来 でき 、政権 せいけん 内 ない で影響 えいきょう 力 りょく を持 も った。官僚 かんりょう たちにとって、彼 かれ はヒトラーに代 か わりドイツの権威 けんい を代表 だいひょう する存在 そんざい として映 うつ り、歴史 れきし 家 か のマルティン・キチンは、これらの点 てん からラマースを「ナチス・ドイツにおける最 さい 重要 じゅうよう 人物 じんぶつ の一人 ひとり 」と述 の べている[6] 。
1933年 ねん 9月 がつ 29日 にち には親衛隊 しんえいたい (SS)の名誉 めいよ 指導 しどう 者 しゃ ともなり、親衛隊 しんえいたい 上級 じょうきゅう 大佐 たいさ の階級 かいきゅう が与 あた えられた。1935年 ねん 4月 がつ 20日 はつか に親衛隊 しんえいたい 少将 しょうしょう 、1938年 ねん 1月 がつ 30日 にち に親衛隊 しんえいたい 中将 ちゅうじょう 、1940年 ねん 4月 がつ 20日 はつか に親衛隊 しんえいたい 大将 たいしょう と昇進 しょうしん している[2] 。
1944年 ねん 10月 がつ 、国民 こくみん 突撃 とつげき 隊 たい に訓示 くんじ を述 の べるヒムラー(右 みぎ )に同席 どうせき するラマース(中央 ちゅうおう )とグデーリアン (左 ひだり )
1943年 ねん 1月 がつ からはヒトラー不在 ふざい の閣議 かくぎ においては、ラマースが彼 かれ の代理 だいり とすることと定 さだ められた。彼 かれ は党 とう 官房 かんぼう 長 なが マルティン・ボルマン とともにヒトラーの面会 めんかい 相手 あいて をコントロールしたため、強大 きょうだい な権力 けんりょく を持 も った。同年 どうねん の公用 こうよう 文書 ぶんしょ で「大 だい ドイツ国 こく (Großdeutsches Reich)」の国号 こくごう を初 はじ めて用 もち いたのも、ラマースによるものであった[7] 。スターリングラード攻防 こうぼう 戦 せん 後 ご の1943年 ねん 2月 がつ には、ボルマンとラマースは、党 とう を代表 だいひょう するボルマンと政府 せいふ を代表 だいひょう するラマースと軍 ぐん を代表 だいひょう するヴィルヘルム・カイテル による「三 さん 人 にん 委員 いいん 会 かい 」を創設 そうせつ した。しかし、ゲッベルスやアルベルト・シュペーア 、ヘルマン・ゲーリング 、ハインリヒ・ヒムラー など他 た のナチ党 とう 幹部 かんぶ に警戒 けいかい されて、1944年 ねん に解散 かいさん した。さらに、戦局 せんきょく の悪化 あっか で党 とう ・軍 ぐん ・官庁 かんちょう の連携 れんけい が失 うしな われていったことでラマースの影響 えいきょう 力 りょく は低下 ていか し、反対 はんたい にボルマンの影響 えいきょう 力 りょく は増大 ぞうだい していった[8] 。
大戦 たいせん 末期 まっき の1945年 ねん 4月 がつ 24日 にち 、ラマースはゲーリングの「反逆 はんぎゃく 」に関与 かんよ した容疑 ようぎ で逮捕 たいほ された。これはボルマンの陰謀 いんぼう であった可能 かのう 性 せい があるが、ヒトラーは銃殺 じゅうさつ に反対 はんたい したため命 いのち は助 たす かった。彼 かれ は5月にアメリカ軍 ぐん によって解放 かいほう されたが、オーバーザルツベルク にいた妻 つま エルフリーデはこの拘束 こうそく の最中 さいちゅう に自殺 じさつ しており、2日 にち 後 ご には娘 むすめ イルゼも自殺 じさつ した[9] 。解放 かいほう 後 ご 、ラマースはゲーリングをはじめとする党 とう と軍 ぐん の幹部 かんぶ と共 とも に、モンドルフ=レ=バン (英語 えいご 版 ばん ) のアシュカン収容 しゅうよう 所 しょ に収容 しゅうよう された。
ニュルンベルク裁判 さいばん に出廷 しゅってい したラマース
敗戦 はいせん 後 ご の1946年 ねん 4月 がつ 8日 にち から9日 にち にかけて、ニュルンベルク裁判 さいばん の証人 しょうにん として出廷 しゅってい した。その後 ご は彼 かれ 自身 じしん も戦争 せんそう 犯罪 はんざい と人道 じんどう に対 たい する罪 つみ でニュルンベルク継続 けいぞく 裁判 さいばん の1つ「大臣 だいじん 裁判 さいばん 」にかけられ、1949年 ねん 4月 がつ 11日 にち に懲役 ちょうえき 20年 ねん の判決 はんけつ を受 う けた。1951年 ねん 1月 がつ 31日 にち に駐 ちゅう ドイツ高等 こうとう 弁務 べんむ 官 かん ジョン・J・マクロイ の指示 しじ により10年 ねん に短縮 たんしゅく された後 のち 、さらに恩赦 おんしゃ されて12月16日 にち には釈放 しゃくほう された[10] 。
1962年 ねん にデュッセルドルフ で死去 しきょ し、妻子 さいし の墓 はか があるベルヒテスガーデン に埋葬 まいそう された。
^ Dissertation: Die Rentenschuld des Bürgerlichen Gesetzbuchs
^ a b c Robert S. Wistrich, Who's Who in Nazi Germany (London and New York: Routledge, 1995), 149.
^ Lammers, Hans Heinrich (1879-1962) auf Zukunft braucht Erinnerung
^ Hans Heinz Sadila-Mantau, German political profiles , Terramare Publications, Berlin, 1938
^ Raimond Reiter: Hitlers Geheimpolitik. Verlag Peter Lang 2008, ISBN 3-631-58146-7 , S. 92.
^ Martin Kitchen, Nazi Germany at War (New York: Longman, 1995), 11.
^ Erlass RK 7669 E ウィキメディア・コモンズ
^ Klaus Fischer, Nazi Germany: A New History (New York: Continuum, 1995), 312.
^ NNDB
^ Robert S. Wistrich, Who's Who In Nazi Germany (New York: Routledge, 2001), p. 149. Nonetheless, there are conflicting reports about his release date. According to Zentner and Bedürftig, in The Encyclopedia of the Third Reich vol. 1 [A-L] (New York: MacMillan Publishing, 1991), p. 254, Lammers was not released until 1954. Dr. Louis Snyder has him released sometime in 1952 in Encyclopedia of the Third Reich (New York: McGraw-Hill, 1976), p. 204, Gerald Reitlinger reported Lammers free in November 1951 in The SS: Alibi of a Nation, 1922-1945 (New York: Da Capo Press, 1989), p. 470, Tim Kirk claims Lammers was released sometime in 1951 in The Longman Companion to Nazi Germany (New York: Routledge, 1995), p. 222, Roderick Stackelberg has him amnestied at an unspecified 1951 date in The Routledge Companion to Nazi Germany (New York: Routledge, 2007), p. 220, as does William Shirer in The Rise And Fall Of The Third Reich (New York: Simon & Schuster, 1990), p. 965 fn.
(1933年 ねん 1月 がつ 30日 にち – 1945年 ねん 4月 がつ 30日 にち ) 大統領 だいとうりょう
パウル・フォン・ヒンデンブルク (1934年 ねん 8月 がつ 2日 にち に死去 しきょ 。以降 いこう 大統領 だいとうりょう 位 い は空位 くうい だが、ヒトラーが国家 こっか 元首 げんしゅ の地位 ちい を吸収 きゅうしゅう した。)
総統 そうとう 副 ふく 首相 しゅしょう 外務 がいむ 相 しょう 内務相 ないむしょう 財務 ざいむ 相 しょう 経済 けいざい 相 しょう 航空 こうくう 相 しょう 労働 ろうどう 相 しょう 法務 ほうむ 相 しょう 国防 こくぼう 相 しょう 国防 こくぼう 軍 ぐん 最高 さいこう 司令 しれい 部 ぶ 総長 そうちょう 運輸 うんゆ 相 しょう 郵政 ゆうせい 相 しょう 食糧 しょくりょう 相 しょう 宣伝 せんでん 相 しょう 教育 きょういく 相 しょう 軍需 ぐんじゅ 相 しょう 宗教 しゅうきょう 相 しょう 東部 とうぶ 占領 せんりょう 地域 ちいき 相 しょう ベーメン・メーレン保護 ほご 領 りょう 担当 たんとう 国務相 こくむしょう 無任所 むにんしょ 相 しょう
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