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メフォ手形てがた

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
シャハト(中央ちゅうおう)とヒトラー。1936ねん

メフォ手形てがた(メフォてがた、ドイツ: Mefo-Wechsel)とは、ナチス・ドイツにおいて、軍事ぐんじ調達ちょうたつのために創出そうしゅつされた割引わりびき手形てがた決済けっさいのみにもちいられる純然じゅんぜんたる商業しょうぎょう手形てがたではなく、融通ゆうずう手形てがた疑似ぎじ商業しょうぎょう手形てがたとも形容けいようされている[1]。1933ねんから1937ねんまでの軍事ぐんじ総計そうけい324おくライヒスマルクうち、メフォ手形てがたによって捻出ひねりだされたのは3ぶんの2にちかい204おくライヒスマルクであるなど[2]、ナチス・ドイツにおける秘密ひみつ軍備ぐんび計画けいかくにおいて重要じゅうよう役割やくわりたした。「メフォ(Mefo)」とはこのスキームのために創設そうせつされたペーパーカンパニーである「有限ゆうげん会社かいしゃ冶金やきん研究けんきゅう協会きょうかいドイツばん、(ドイツ:Metallurgische Forschungsgesellschaft)」の短縮たんしゅく由来ゆらいする。

前史ぜんし[編集へんしゅう]

ライヒスバンクの建物たてもの(1903ねん)

世界せかい恐慌きょうこう失業しつぎょうしゃ増加ぞうかたいし、ライヒヴァイマル共和きょうわこく政府せいふには抜本ばっぽんてき対策たいさく要求ようきゅうするこえ殺到さっとうしていた。しかし財源ざいげん不足ふそくうえに、資本しほん市場いちば停滞ていたいしている状況じょうきょうでは公債こうさい発行はっこうもままならなかった[2]。1932ねん初頭しょとうより、政府せいふ内部ないぶでは労働ろうどうしゃ雇用こよう政策せいさく財源ざいげん手形てがたによって調達ちょうたつすることが検討けんとうされはじめ、9月に発表はっぴょうされたパーペン計画けいかく、1933ねん1がつ決定けっていした緊急きんきゅう計画けいかくにおいて採用さいようされた。具体ぐたいてきには政府せいふ公共こうきょう団体だんたい発注はっちゅうした事業じぎょう受注じゅちゅうした企業きぎょうが、公共こうきょう金融きんゆう機関きかんしゅとする手形てがたし、ライヒスバンクさい割引わりびき保証ほしょうし、銀行ぎんこうまたは銀行ぎんこうだん割引わりびき、期間きかんないにライヒスバンクがこれを決済けっさいするというものであった[3]。パーペン計画けいかくでは手形てがた償還しょうかんがく予算よさん計上けいじょうすること、緊急きんきゅう計画けいかくではライヒスバンクに租税そぜい証券しょうけん納入のうにゅうされることが保証ほしょうとなった[3]ヒトラー内閣ないかく成立せいりつ雇用こよう計画けいかくでも踏襲とうしゅうされ、1933ねん3がつ緊急きんきゅう計画けいかく拡大かくだい、6月1にちだいいちラインハルト計画けいかく、9月21にちだいラインハルト計画けいかくでも手形てがたによる資金しきん調達ちょうたつおこなわれた[2]

首相しゅしょうアドルフ・ヒトラーはかねてからさい軍備ぐんびとなえていたが、1933ねん2がつ9にち政府せいふ委員いいんかいにおいて緊急きんきゅう計画けいかくさい軍備ぐんび実行じっこうするために最適さいてきのものであり、軍備ぐんび政治せいじてき偽装ぎそうする手段しゅだんであると言明げんめいした。このため雇用こよう創出そうしゅつ計画けいかくさい軍備ぐんび流用りゅうようされたというせつとなえられている[3]。1937ねんまでの財政ざいせい関係かんけい文書ぶんしょおおくは1945ねん敗戦はいせんともな混乱こんらんなか焼却しょうきゃくされたか散逸さんいつしてしまったため、このあたりの経緯けいいかならずしも明確めいかくではなく[4]追跡ついせき困難こんなんである[5]

軍備ぐんび手形てがた導入どうにゅう決定けってい[編集へんしゅう]

1933ねん首相しゅしょう就任しゅうにんしたさい、ヒトラーはライヒスバンク総裁そうさいもと首相しゅしょうハンス・ルターたいし、軍事ぐんじのためにどれだけ調達ちょうたつできるかをいただした。ルターは1おくライヒスマルクが限度げんどであるとこたえたが、これはヒトラーをおおいに失望しつぼうさせた[6]。3がつ中旬ちゅうじゅん、ヒトラーはもとライヒスバンク総裁そうさいヒャルマル・シャハトおな質問しつもんをしたところ、シャハトは具体ぐたいてき金額きんがくをあげなかったものの、軍拡ぐんかく協力きょうりょくするとべた。これによりルターは解任かいにんされ、シャハトがライヒスバンク総裁そうさいにつくこととなった[6]

当時とうじ、ライヒスバンクは過去かこのハイパーインフレ経験けいけんから、信用しんよう供与きょうよ限度げんどがくが1おくライヒスマルク、国庫こっこ手形てがた割引わりびきは4おくライヒスマルクに制限せいげんされていた[7]。このため軍拡ぐんかく資金しきん調達ちょうたつには特別とくべつ方策ほうさく必要ひつようであった。4月4にち政府せいふルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージク財務ざいむしょうたいし、「国防こくぼうぐんさい編成へんせい必要ひつよう資金しきんを、その源泉げんせん顧慮こりょすることなく、意図いとされる措置そちくに内外ないがい世論せろんによっていかなるてん見破みやぶられることがない規模きぼ形態けいたいにおいて準備じゅんびし、提供ていきょうする」指示しじ発出はっしゅつした[8]。この指示しじ意図いとされていたのは予算よさんがいによる調達ちょうたつ、つまり手形てがたによるものであった[8]。また、この閣議かくぎ決定けっていによって、国防省こくぼうしょうドイツばん支出ししゅつ財務省ざいむしょう監督かんとくからはなれることになり、ほとんど意図いとどおりの軍拡ぐんかくおこなわれることになった[8]

軍備ぐんび手形てがた導入どうにゅう決定けっていされたのは、1933ねん5がつから6がつあいだであったとられている[9]。シャハトは軍備ぐんびとして、8年間ねんかんに350おくライヒスマルクの資金しきん調達ちょうたつを、以下いか条件じょうけんしたおこなうことを約束やくそくしている[10]

  1. 総額そうがくが350おくライヒスマルクをえないこと
  2. 短期たんき金融きんゆう市場いちばおよ資本しほん市場いちば統制とうせい
  3. おそくとも5ねん以内いない軍備ぐんび手形てがた償還しょうかん開始かいしすること
  4. 価格かかくおよ賃金ちんぎん現行げんこう水準すいじゅん堅持けんじすること

総額そうがく350おくライヒスマルクについては、軍備ぐんび手形てがた総額そうがくであったという意見いけんもあるが、クロージクは手形てがた発行はっこうがく総額そうがく決定けっていされていなかったと証言しょうげんしており[11]国防こくぼうぐん経済けいざい軍備ぐんびきょくのトレーヴスも、350おくライヒスマルクはぐんそう支出ししゅつであるという見解けんかいしめしている[11]

シャハトはこれらの措置そち景気けいき回復かいふくふだとなるとかんがえており、さらにライヒスバンクが国防省こくぼうしょう財務省ざいむしょうたいして優位ゆういてるというもくろみもあった[11]。また、ヒトラーの要求ようきゅうする過度かど軍拡ぐんかく通貨つうか危機ききおとしいれ、戦争せんそうにもつながる危険きけんがあるとべている[12]。シャハトはこれをまえ、通貨つうか危機ききまねかない、そして戦争せんそうこさない程度ていど軍拡ぐんかく前提ぜんていとしてメフォ手形てがた考案こうあんしたとしている[12]。シャハトによればメフォ手形てがたは「危険きけん」ではあったが、理性りせいてき財政ざいせい管理かんりむすびついていれば制御せいぎょ可能かのうであり、5ねん以内いない償還しょうかんおこなえば成功裏せいこうりわったとしている[13]

メフォ手形てがた導入どうにゅう[編集へんしゅう]

6がつ上旬じょうじゅん、シャハトを中心ちゅうしんとする少数しょうすう指導しどうしゃによって、メフォ手形てがた創出そうしゅつ決定けっていされた。1933ねん8がつ15にちクルップティッセンドイツばんシーメンスグーテホフヌングスヒュッテドイツばんドイツ工業こうぎょう企業きぎょうドイツばんが20まんライヒスマルクずつ拠出きょしゅつおこない、有限ゆうげん会社かいしゃ冶金やきん研究けんきゅう協会きょうかいドイツばんドイツ: Metallurgische Forschungsgesellschaft m.b.H.略称りゃくしょう:MEFO)が創立そうりつされた[14]。この会社かいしゃ役員やくいんかいはライヒスバンク、国防省こくぼうしょう航空こうくうしょう代表だいひょうそれぞれいちめいずつで構成こうせいされており[15]職員しょくいんはライヒスバンクからの出向しゅっこうしゃであるという、事実じじつじょうペーパーカンパニーであった[7]。MEFOは創設そうせつしてまもなく手形てがたしを開始かいしした[15]。この手形てがた冶金やきん研究けんきゅう協会きょうかい略称りゃくしょうMEFOにもとづいてメフォ手形てがたばれる。1934ねん5がつにはティッセンにかわって合同ごうどう製鋼せいこうドイツばん出資しゅっし会社かいしゃとなっている[7]

この仕組しくみは、国防省こくぼうしょうからの受注じゅちゅうおこなった企業きぎょう手形てがたし、MEFOがその引受ひきうけじんとなる。ライヒスバンクはそのさい割引わりびき保証ほしょうし、ライヒ政府せいふ支払しはらい義務ぎむうものであった[16]。ライヒスバンクは1924ねん銀行ぎんこうほうによって、振出ふりだしじん引受ひきうけじんのみの署名しょめいしかない手形てがたを、ぜん手形てがた保有ほゆうだかの33%までしかけられないという規定きていがあった。このため、MEFOと人的じんてき関連かんれんのある「工業こうぎょう製品せいひん会社かいしゃ」(ドイツ: Handelsgesellschaft für Industrieerzeugnisse m.b.H.略称りゃくしょう:Hafi)がうらきをおこなった[17]。また、最初さいしょ手形てがたにくわえて、3ヶ月かげつ延長えんちょう手形てがた複数ふくすうまい発行はっこうされた[16]手形てがた仕組しく自体じたい雇用こよう創出そうしゅつ事業じぎょうさいられたものとわりないものの、支払しはらい保証ほしょうのための国庫こっこ証券しょうけん発行はっこうおこなわれず、秘密ひみつ保持ほじのために手形てがた償還しょうかんがく予算よさん計上けいじょうされることはなかった[16]

償還しょうかん開始かいし時期じき延長えんちょう手形てがたによって延長えんちょうすることが出来できるが、その時期じきは1939ねんだいいち四半期しはんきえないこととされた[18]

1936ねん改訂かいてい[編集へんしゅう]

1936ねん1がつ、メフォ手形てがた制度せいど一般いっぱんしょう取引とりひき慣習かんしゅうにあわせるという名目めいもくで、制度せいど改定かいていおこなわれた。これは当初とうしょ仕組しくみでは1939ねん償還しょうかん殺到さっとうすることが見込みこまれたこと、さらに軍備ぐんびのさらなる増大ぞうだい見込みこまれたことによる[19]償還しょうかん期間きかんは5ねん以内いないとなり、1939ねんえる償還しょうかん延長えんちょう可能かのうになった[20]。さらに雇用こよう創出そうしゅつ手形てがた償還しょうかん財源ざいげんを、メフォ手形てがた償還しょうかん流用りゅうようすることもおこなわれた。

メフォ手形てがた実態じったい[編集へんしゅう]

メフォ手形てがたによって調達ちょうたつされた資金しきんは、かくぐん配分はいぶんされた。ドイツ海軍かいぐんにおいては「5がつ計画けいかく」とばれている[21]ぐん支出ししゅつは1933ねんの7おく4580まんライヒスマルクから、1937ねんの82おく7259まんライヒスマルクと10ばい以上いじょうになっている。1935ねんまでの時期じきは、おおくの部分ぶぶんドイツ空軍くうぐんわたされたとられている[12]。1941ねん海軍かいぐん財政ざいせいきょくは1933ねん以降いこう状態じょうたい回顧かいこして、困難こんなんがなかったわけではないが、「(資金しきんは)つねにほとんど無制限むせいげん提供ていきょうされた」としている[8]

メフォ手形てがたった企業きぎょう大半たいはんは、満期まんきをまたずに民間みんかん銀行ぎんこうやライヒスバンクで現金げんきんした[17]。このためメフォ手形てがたおおくは金融きんゆう市場いちばながれたが、銀行ぎんこうにとっても有利ゆうり投資とうし手形てがただったメフォ手形てがた歓迎かんげいされた[17]当時とうじ貯蓄ちょちく銀行ぎんこう投資とうし総額そうがくの30%はメフォ手形てがたへの投資とうしまわされていた[1]満期まんきになったメフォ手形てがた支払しはらい手段しゅだんとして利用りようされ、流通りゅうつうしていた[1]

1937年度ねんどまでに発行はっこうされたメフォ手形てがた総額そうがくは204おくライヒスマルクにたっしていた[2]。1938ねん3がつ10日とおかにライヒ財務省ざいむしょう策定さくていした文書ぶんしょでは、120おくライヒスマルクがメフォ手形てがた創出そうしゅつできる信用しんよう限度げんどであったと明言めいげんされている[22]。1937年度ねんどのぞいてメフォ手形てがた償還しょうかんがく決済けっさい表示ひょうじのこっていないが、このとし年末ねんまつ時点じてんで120おくライヒスマルクのメフォ手形てがた流通りゅうつうしていた[23]。これはかくぐんによって、84おくライヒスマルクぶんのメフォ手形てがた早期そうき償還しょうかんおこなわれたことによるものであり[24]、1934ねんから1937ねんまでの陸海りくかいぐん会計かいけいじょう支出ししゅつは、1937ねんでは39おく1850まんライヒスマルクが償還しょうかんであるなど、半分はんぶんちかくがメフォ手形てがた償還しょうかんにあてられるという状態じょうたいであった[25]。しかしこれは政府せいふあらたに公債こうさいえ、その調達ちょうたつ資金しきん償還しょうかんにあてただけのことであり、政府せいふ全体ぜんたい債務さいむとしてはのこったままであった[26]

公債こうさい収入しゅうにゅう手形てがた償還しょうかん推移すいい単位たんい:100まんライヒスマルク)[20]
年度ねんど 1933ねん 1934ねん 1935ねん 1936ねん 1937ねん 1938ねん
公債こうさい収入しゅうにゅう 92.1 1,039.6 2,065.7 3,003.8 3,959.9 7,534.3
メフォ手形てがた償還しょうかん - 712.4 979.3 2,799.2 3,918.5 5.2
メフォ手形てがた流通りゅうつうじょうきょう単位たんい:100まんライヒスマルク)[27]
年度ねんど 1933ねん 1934ねん 1935ねん 1936ねん 1937ねん 1938ねん 1939ねん
年度ねんどまつ流通りゅうつう在高ありだか 702.4 2,145.0 4,860.0 9,312.0 12,000.0 11,933.0 11,444.0
ライヒスバンク保有ほゆう残高ざんだか
暦年れきねんまつ
60 1,412 3,852 6,305 8,680 11,933 11,448
ライヒスバンク保有ほゆう
ぜん特殊とくしゅ手形てがたがく暦年れきねんまつ
1,644 3,201 5,460 7,058 9,197 12,426 11,942

メフォ手形てがた償還しょうかん問題もんだい[編集へんしゅう]

1937ねん、ライヒスバンク総裁そうさい任期にんきえるシャハトの再任さいにんをヒトラーはのぞんだが、シャハトは留任りゅうにん条件じょうけんとして1ねんのメフォ手形てがた発行はっこう停止ていしと、流通りゅうつうを120おくライヒスマルクぶんさえることを要求ようきゅうした[21][28]。ヒトラーはこれにおうじ、メフォ手形てがた発行はっこうは1938ねん3がつまつ停止ていしされた[21]。しかしシャハトは1937ねん11月に経済けいざいしょう全権ぜんけん委員いいん解任かいにんされている。

メフォ手形てがた発行はっこう終了しゅうりょうしたが、納入のうにゅうしゃ国庫こっこ証券しょうけんという国庫こっこ割引わりびき証券しょうけん導入どうにゅうされた。この証券しょうけん支払しはらい延長えんちょうみとめられなかったために、ライヒ政府せいふはやめの償還しょうかんおこなわざるをず、メフォ手形てがた償還しょうかん一旦いったん延期えんきされた。このころには、メフォ手形てがたはほとんどライヒスバンクときむ割引わりびき銀行ぎんこうドイツばん保有ほゆうとなり、ライヒスバンクときむ割引わりびき銀行ぎんこう手形てがた保有ほゆうの90%以上いじょうがメフォ手形てがためられる事態じたいとなった。ライヒ財務省ざいむしょうおよび関係かんけい当局とうきょく出来できるだけメフォ手形てがた市中しちゅう出回でまわるように努力どりょくしたものの[22]効果こうかはまったくかった。1938ねんちゅうには33おくライヒスマルクのメフォ手形てがたさい割引わりびきがライヒスバンクにもとめられたものの、政府せいふ財政ざいせいはこれにおうじることは出来できず、27おくライヒスマルクぶん紙幣しへい増刷ぞうさつされる事態じたいとなっている[29]。ライヒスバンクのメフォ手形てがたふく手形てがた保有ほゆう増大ぞうだい市中しちゅう紙幣しへい増大ぞうだいまねき、インフレ圧力あつりょくつよまった[29]。また、メフォ手形てがたおよびライヒスバンク・ライヒ政府せいふ発行はっこうした手形てがた債務さいむ短期たんき金融きんゆう市場いちば圧迫あっぱくし、さらにヒトラーの拡張かくちょう政策せいさくによる軍備ぐんび増大ぞうだい[30]もあり、1938ねん9がつと12月にはライヒ政府せいふ支払しはらい困難こんなんになるという事態じたいおちいっている[31]。1939ねん1がつ7にち、シャハトらライヒスバンク首脳しゅのうじんはさらなる債権さいけん発行はっこうインフレーションまね危険きけんせい抗議こうぎぶんをヒトラーのもとおくった[32]。ヒトラーは「これは反乱はんらんだ」とべ、シャハトと理事りじ全員ぜんいん解任かいにんされた[33][34]

破綻はたん[編集へんしゅう]

1938ねんちゅうには31おくライヒスマルク、1941ねんから1943ねんにかけては83おくライヒスマルクの償還しょうかんまっていたが、実行じっこうできる見込みこみはまったくなかった[35]。シャハトの後任こうにんとなったヴァルター・フンクらはヒトラーの要求ようきゅうしたがい、メフォ手形てがた償還しょうかん当面とうめんおこなわず、えで対応たいおうすることとした[36]。ライヒスバンクと財務省ざいむしょう交渉こうしょう結果けっか、1939ねん以降いこう国庫こっこによって毎年まいとし6おくライヒスマルクずつメフォ手形てがた償還しょうかんおこなわれることになったが[35]、1945ねん2がつまつ段階だんかい発行はっこう総額そうがくの3ぶんの2にたる84おく4441まんライヒスマルクの残高ざんだかのこっていた[37][38]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c 川瀬かわせ泰史やすし 1995, p. 54.
  2. ^ a b c d 大島おおしま通義みちよし 1986, pp. 61.
  3. ^ a b c 大島おおしま通義みちよし 1986, pp. 62.
  4. ^ 大島おおしま通義みちよし 1986, pp. 59.
  5. ^ 大島おおしま通義みちよし 1986, pp. 67.
  6. ^ a b 川瀬かわせ泰史やすし 1995, p. 51.
  7. ^ a b c 川瀬かわせ泰史やすし 1995, p. 52.
  8. ^ a b c d 大島おおしま通義みちよし 1986, pp. 68.
  9. ^ 大島おおしま通義みちよし 1986, pp. 69.
  10. ^ 1938ねん会議かいぎで、国防こくぼうぐん国防こくぼう経済けいざい軍備ぐんび局員きょくいんであったドレーヴスが言明げんめいしたもの。ただし、ドレーヴスはこの時期じきを1934ねんとしているが、大島おおしま通義みちよしはドレーヴスが記憶きおくちがいをしていたとている(大島おおしま通義みちよし 1986, pp. 69)
  11. ^ a b c 大島おおしま通義みちよし 1986, pp. 70.
  12. ^ a b c 川瀬かわせ泰史やすし 1995, p. 57.
  13. ^ 川瀬かわせ泰史やすし 1995, p. 70.
  14. ^ 川瀬かわせ泰史やすし 1995, p. 52、72.
  15. ^ a b 大島おおしま通義みちよし 1986, pp. 70–71.
  16. ^ a b c 大島おおしま通義みちよし 1986, pp. 71.
  17. ^ a b c 川瀬かわせ泰史やすし 1995, p. 53.
  18. ^ 大島おおしま通義みちよし 1986, pp. 76.
  19. ^ 大島おおしま通義みちよし 1986, pp. 77–78.
  20. ^ a b 大島おおしま通義みちよし 1986, pp. 78.
  21. ^ a b c 大島おおしま通義みちよし 1986, pp. 75.
  22. ^ a b 大島おおしま通義みちよし 1988, pp. 5.
  23. ^ 大島おおしま通義みちよし 1986, pp. 71–72.
  24. ^ 大島おおしま通義みちよし 1986, pp. 74.
  25. ^ 大島おおしま通義みちよし 1986, pp. 73.
  26. ^ 大島おおしま通義みちよし 1986, pp. 72.
  27. ^ 大島おおしま通義みちよし 1986, pp. 80.
  28. ^ 川瀬かわせ泰史やすし 1995, p. 59.
  29. ^ a b 大島おおしま通義みちよし 1988, pp. 22.
  30. ^ 1938年度ねんど軍備ぐんび支出ししゅつは、1937年度ねんどの1.58ばい、ライヒ政府せいふ支出ししゅつの50%にたっしていた(大島おおしま通義みちよし 1986, pp. 87)
  31. ^ 大島おおしま通義みちよし 1986, pp. 83.
  32. ^ 川瀬かわせ泰史やすし 1995, p. 62-67.
  33. ^ 川瀬かわせ泰史やすし 1995, p. 67-68.
  34. ^ 大島おおしま通義みちよし 1988, pp. 28.
  35. ^ a b 大島おおしま通義みちよし 1988, pp. 23.
  36. ^ 川瀬かわせ泰史やすし 1995, p. 68.
  37. ^ 大島おおしま通義みちよし 1986, pp. 79.
  38. ^ 川瀬かわせ泰史やすし 1995, p. 69.

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 大島おおしま通義みちよしだいさん帝国ていこくにおける軍事ぐんじ手形てがた金融きんゆう」(PDF)『三田みた学会がっかい雑誌ざっし』79(1)、慶應義塾けいおうぎじゅく経済けいざい学会がっかい、1986ねん、58-90ぺーじNAID 120005354257 
  • 大島おおしま通義みちよし危機きき」のとし(1938ねん)の財政ざいせい過程かてい : 国防こくぼうぐん財政ざいせい中心ちゅうしんとして」(PDF)『三田みた学会がっかい雑誌ざっし』80(6)、慶應義塾けいおうぎじゅく経済けいざい学会がっかい、1988ねん、547(1)-577(31)、NAID 120005350373 
  • 川瀬かわせ泰史やすし「シャハトのメフォ手形てがた」『社会しゃかい経済けいざい史学しがくだい60かんだい5ごう社会しゃかい経済けいざい学会がっかい、1995ねん 

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]