シャハト(中央 ちゅうおう )とヒトラー。1936年 ねん
メフォ手形 てがた (メフォてがた、ドイツ語 ご : Mefo-Wechsel )とは、ナチス・ドイツ において、軍事 ぐんじ 費 ひ 調達 ちょうたつ のために創出 そうしゅつ された割引 わりびき 手形 てがた 。決済 けっさい のみに用 もち いられる純然 じゅんぜん たる商業 しょうぎょう 手形 てがた ではなく、融通 ゆうずう 手形 てがた や疑似 ぎじ 商業 しょうぎょう 手形 てがた とも形容 けいよう されている。1933年 ねん から1937年 ねん までの軍事 ぐんじ 費 ひ 総計 そうけい 324億 おく ライヒスマルク の内 うち 、メフォ手形 てがた によって捻出 ひねりだ されたのは3分 ぶん の2に近 ちか い204億 おく ライヒスマルクであるなど、ナチス・ドイツにおける秘密 ひみつ 軍備 ぐんび 計画 けいかく において重要 じゅうよう な役割 やくわり を果 は たした。「メフォ(Mefo)」とはこのスキームのために創設 そうせつ されたペーパーカンパニー である「有限 ゆうげん 会社 かいしゃ 冶金 やきん 研究 けんきゅう 協会 きょうかい (ドイツ語 ご 版 ばん ) 、(ドイツ語 ご :Me tallurgische Fo rschungsgesellschaft)」の短縮 たんしゅく 語 ご に由来 ゆらい する。
ライヒスバンクの建物 たてもの (1903年 ねん )
世界 せかい 恐慌 きょうこう 後 ご の失業 しつぎょう 者 しゃ 増加 ぞうか に対 たい し、ライヒ (ヴァイマル共和 きょうわ 国 こく )政府 せいふ には抜本 ばっぽん 的 てき な対策 たいさく を要求 ようきゅう する声 こえ が殺到 さっとう していた。しかし財源 ざいげん 不足 ふそく な上 うえ に、資本 しほん 市場 いちば が停滞 ていたい している状況 じょうきょう では公債 こうさい 発行 はっこう もままならなかった。1932年 ねん 初頭 しょとう より、政府 せいふ 内部 ないぶ では労働 ろうどう 者 しゃ 雇用 こよう 政策 せいさく の財源 ざいげん を手形 てがた によって調達 ちょうたつ することが検討 けんとう されはじめ、9月に発表 はっぴょう されたパーペン計画 けいかく 、1933年 ねん 1月 がつ に決定 けってい した緊急 きんきゅう 計画 けいかく において採用 さいよう された。具体 ぐたい 的 てき には政府 せいふ ・公共 こうきょう 団体 だんたい が発注 はっちゅう した事業 じぎょう を受注 じゅちゅう した企業 きぎょう が、公共 こうきょう 金融 きんゆう 機関 きかん を引 ひ き受 う け手 しゅ とする手形 てがた を振 ふ り出 だ し、ライヒスバンク が再 さい 割引 わりびき を保証 ほしょう し、銀行 ぎんこう または銀行 ぎんこう 団 だん が割引 わりび き、期間 きかん 内 ない にライヒスバンクがこれを決済 けっさい するというものであった。パーペン計画 けいかく では手形 てがた 償還 しょうかん 額 がく を予算 よさん に計上 けいじょう すること、緊急 きんきゅう 計画 けいかく ではライヒスバンクに租税 そぜい 証券 しょうけん が納入 のうにゅう されることが保証 ほしょう となった。ヒトラー内閣 ないかく 成立 せいりつ 後 ご の雇用 こよう 計画 けいかく でも踏襲 とうしゅう され、1933年 ねん 3月 がつ の緊急 きんきゅう 計画 けいかく の拡大 かくだい 、6月1日 にち の第 だい 一 いち 次 じ ラインハルト計画 けいかく 、9月21日 にち の第 だい 二 に 次 じ ラインハルト計画 けいかく でも手形 てがた による資金 しきん 調達 ちょうたつ が行 おこな われた。
首相 しゅしょう アドルフ・ヒトラー はかねてから再 さい 軍備 ぐんび を唱 とな えていたが、1933年 ねん 2月 がつ 9日 にち の政府 せいふ 委員 いいん 会 かい において緊急 きんきゅう 計画 けいかく は再 さい 軍備 ぐんび を実行 じっこう するために最適 さいてき のものであり、軍備 ぐんび を政治 せいじ 的 てき に偽装 ぎそう する手段 しゅだん であると言明 げんめい した。このため雇用 こよう 創出 そうしゅつ 計画 けいかく が再 さい 軍備 ぐんび に流用 りゅうよう されたという説 せつ も唱 とな えられている。1937年 ねん までの財政 ざいせい 関係 かんけい 文書 ぶんしょ の多 おお くは1945年 ねん の敗戦 はいせん に伴 ともな う混乱 こんらん の中 なか で焼却 しょうきゃく されたか散逸 さんいつ してしまったため、このあたりの経緯 けいい は必 かなら ずしも明確 めいかく ではなく、追跡 ついせき も困難 こんなん である。
軍備 ぐんび 費 ひ 手形 てがた の導入 どうにゅう 決定 けってい [ 編集 へんしゅう ]
1933年 ねん に首相 しゅしょう に就任 しゅうにん した際 さい 、ヒトラーはライヒスバンク総裁 そうさい で元 もと 首相 しゅしょう のハンス・ルター に対 たい し、軍事 ぐんじ 費 ひ のためにどれだけ調達 ちょうたつ できるかを問 と いただした。ルターは1億 おく ライヒスマルクが限度 げんど であると答 こた えたが、これはヒトラーを大 おお いに失望 しつぼう させた。3月 がつ 中旬 ちゅうじゅん 、ヒトラーは元 もと ライヒスバンク総裁 そうさい ヒャルマル・シャハト に同 おな じ質問 しつもん をしたところ、シャハトは具体 ぐたい 的 てき な金額 きんがく をあげなかったものの、軍拡 ぐんかく に協力 きょうりょく すると述 の べた。これによりルターは解任 かいにん され、シャハトがライヒスバンク総裁 そうさい の座 ざ につくこととなった。
当時 とうじ 、ライヒスバンクは過去 かこ のハイパーインフレ の経験 けいけん から、信用 しんよう 供与 きょうよ の限度 げんど 額 がく が1億 おく ライヒスマルク、国庫 こっこ 手形 てがた 割引 わりびき は4億 おく ライヒスマルクに制限 せいげん されていた。このため軍拡 ぐんかく の資金 しきん 調達 ちょうたつ には特別 とくべつ な方策 ほうさく が必要 ひつよう であった。4月4日 にち 、政府 せいふ はルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージク 財務 ざいむ 相 しょう に対 たい し、「国防 こくぼう 軍 ぐん の再 さい 編成 へんせい に必要 ひつよう な資金 しきん を、その源泉 げんせん を顧慮 こりょ することなく、意図 いと される措置 そち が国 くに の内外 ないがい の世論 せろん によっていかなる点 てん も見破 みやぶ られることがない規模 きぼ と形態 けいたい において準備 じゅんび し、提供 ていきょう する」指示 しじ を発出 はっしゅつ した。この指示 しじ で意図 いと されていたのは予算 よさん 外 がい による調達 ちょうたつ 、つまり手形 てがた によるものであった。また、この閣議 かくぎ 決定 けってい によって、国防省 こくぼうしょう (ドイツ語 ご 版 ばん ) の支出 ししゅつ は財務省 ざいむしょう の監督 かんとく から離 はな れることになり、ほとんど意図 いと 通 どお りの軍拡 ぐんかく が行 おこな われることになった。
軍備 ぐんび 費 ひ 手形 てがた の導入 どうにゅう が決定 けってい されたのは、1933年 ねん 5月 がつ から6月 がつ の間 あいだ であったと見 み られている。シャハトは軍備 ぐんび 費 ひ として、8年間 ねんかん に350億 おく ライヒスマルクの資金 しきん 調達 ちょうたつ を、以下 いか の条件 じょうけん の下 した で行 おこな うことを約束 やくそく している[10] 。
総額 そうがく が350億 おく ライヒスマルクを超 こ えないこと
短期 たんき 金融 きんゆう 市場 いちば 及 およ び資本 しほん 市場 いちば の統制 とうせい
遅 おそ くとも5年 ねん 以内 いない に軍備 ぐんび 手形 てがた の償還 しょうかん を開始 かいし すること
価格 かかく 及 およ び賃金 ちんぎん の現行 げんこう 水準 すいじゅん を堅持 けんじ すること
総額 そうがく 350億 おく ライヒスマルクについては、軍備 ぐんび 費 ひ 手形 てがた の総額 そうがく であったという意見 いけん もあるが、クロージクは手形 てがた 発行 はっこう 額 がく の総額 そうがく は決定 けってい されていなかったと証言 しょうげん しており、国防 こくぼう 軍 ぐん 経済 けいざい ・軍備 ぐんび 局 きょく のトレーヴスも、350億 おく ライヒスマルクは軍 ぐん の総 そう 支出 ししゅつ であるという見解 けんかい を示 しめ している。
シャハトはこれらの措置 そち が景気 けいき 回復 かいふく の切 き り札 ふだ となると考 かんが えており、さらにライヒスバンクが国防省 こくぼうしょう や財務省 ざいむしょう に対 たい して優位 ゆうい に立 た てるというもくろみもあった。また、ヒトラーの要求 ようきゅう する過度 かど な軍拡 ぐんかく が通貨 つうか を危機 きき に陥 おとしい れ、戦争 せんそう にもつながる危険 きけん があると述 の べている。シャハトはこれを踏 ふ まえ、通貨 つうか 危機 きき を招 まね かない、そして戦争 せんそう を起 お こさない程度 ていど の軍拡 ぐんかく を前提 ぜんてい としてメフォ手形 てがた を考案 こうあん したとしている。シャハトによればメフォ手形 てがた は「危険 きけん 」ではあったが、理性 りせい 的 てき な財政 ざいせい 管理 かんり と結 むす びついていれば制御 せいぎょ は可能 かのう であり、5年 ねん 以内 いない に償還 しょうかん を行 おこな えば成功裏 せいこうり に終 お わったとしている。
メフォ手形 てがた の導入 どうにゅう [ 編集 へんしゅう ]
6月 がつ 上旬 じょうじゅん 、シャハトを中心 ちゅうしん とする少数 しょうすう の指導 しどう 者 しゃ によって、メフォ手形 てがた の創出 そうしゅつ が決定 けってい された。1933年 ねん 8月 がつ 15日 にち 、クルップ 、ティッセン (ドイツ語 ご 版 ばん ) 、シーメンス 、グーテホフヌングスヒュッテ (ドイツ語 ご 版 ばん ) 、ドイツ工業 こうぎょう 企業 きぎょう (ドイツ語 ご 版 ばん ) が20万 まん ライヒスマルクずつ拠出 きょしゅつ を行 おこな い、有限 ゆうげん 会社 かいしゃ 冶金 やきん 研究 けんきゅう 協会 きょうかい (ドイツ語 ご 版 ばん ) (ドイツ語 ご : Metallurgische Forschungsgesellschaft m.b.H. 、略称 りゃくしょう :MEFO)が創立 そうりつ された。この会社 かいしゃ の役員 やくいん 会 かい はライヒスバンク、国防省 こくぼうしょう 、航空 こうくう 省 しょう の代表 だいひょう それぞれ一 いち 名 めい ずつで構成 こうせい されており、職員 しょくいん はライヒスバンクからの出向 しゅっこう 者 しゃ であるという、事実 じじつ 上 じょう のペーパーカンパニー であった。MEFOは創設 そうせつ してまもなく手形 てがた の振 ふ り出 だ しを開始 かいし した。この手形 てがた は冶金 やきん 研究 けんきゅう 協会 きょうかい の略称 りゃくしょう MEFOに基 もと づいてメフォ手形 てがた と呼 よ ばれる。1934年 ねん 5月 がつ にはティッセンにかわって合同 ごうどう 製鋼 せいこう (ドイツ語 ご 版 ばん ) が出資 しゅっし 会社 かいしゃ となっている。
この仕組 しく みは、国防省 こくぼうしょう からの受注 じゅちゅう を行 おこな った企業 きぎょう が手形 てがた を振 ふ り出 だ し、MEFOがその引受 ひきうけ 人 じん となる。ライヒスバンクはその再 さい 割引 わりびき を保証 ほしょう し、ライヒ政府 せいふ が支払 しはらい 義務 ぎむ を負 お うものであった。ライヒスバンクは1924年 ねん の銀行 ぎんこう 法 ほう によって、振出 ふりだし 人 じん と引受 ひきうけ 人 じん のみの署名 しょめい しかない手形 てがた を、全 ぜん 手形 てがた 保有 ほゆう 高 だか の33%までしか引 ひ き受 う けられないという規定 きてい があった。このため、MEFOと人的 じんてき に関連 かんれん のある「工業 こうぎょう 製品 せいひん 会社 かいしゃ 」(ドイツ語 ご : Handelsgesellschaft für Industrieerzeugnisse m.b.H. 、略称 りゃくしょう :Hafi)が裏 うら 書 が きを行 おこな った。また、最初 さいしょ の手形 てがた にくわえて、3ヶ月 かげつ の延長 えんちょう 手形 てがた が複数 ふくすう 枚 まい 発行 はっこう された。手形 てがた の仕組 しく み自体 じたい は雇用 こよう 創出 そうしゅつ 事業 じぎょう の際 さい に取 と られたものと変 か わりないものの、支払 しはらい 保証 ほしょう のための国庫 こっこ 証券 しょうけん の発行 はっこう も行 おこな われず、秘密 ひみつ 保持 ほじ のために手形 てがた の償還 しょうかん 額 がく が予算 よさん に計上 けいじょう されることはなかった。
償還 しょうかん 開始 かいし 時期 じき は延長 えんちょう 手形 てがた によって延長 えんちょう することが出来 でき るが、その時期 じき は1939年 ねん 第 だい 一 いち 四半期 しはんき を超 こ えないこととされた。
1936年 ねん の改訂 かいてい [ 編集 へんしゅう ]
1936年 ねん 1月 がつ 、メフォ手形 てがた の制度 せいど を一般 いっぱん の商 しょう 取引 とりひき 慣習 かんしゅう にあわせるという名目 めいもく で、制度 せいど の改定 かいてい が行 おこな われた。これは当初 とうしょ の仕組 しく みでは1939年 ねん に償還 しょうかん が殺到 さっとう することが見込 みこ まれたこと、さらに軍備 ぐんび 費 ひ のさらなる増大 ぞうだい が見込 みこ まれたことによる。償還 しょうかん 期間 きかん は5年 ねん 以内 いない となり、1939年 ねん を超 こ える償還 しょうかん 延長 えんちょう も可能 かのう になった。さらに雇用 こよう 創出 そうしゅつ 手形 てがた 償還 しょうかん の財源 ざいげん を、メフォ手形 てがた の償還 しょうかん に流用 りゅうよう することも行 おこな われた。
メフォ手形 てがた の実態 じったい [ 編集 へんしゅう ]
メフォ手形 てがた によって調達 ちょうたつ された資金 しきん は、各 かく 軍 ぐん に配分 はいぶん された。ドイツ海軍 かいぐん においては「5月 がつ 計画 けいかく 」と呼 よ ばれている。軍 ぐん の支出 ししゅつ は1933年 ねん の7億 おく 4580万 まん ライヒスマルクから、1937年 ねん の82億 おく 7259万 まん ライヒスマルクと10倍 ばい 以上 いじょう になっている。1935年 ねん までの時期 じき は、多 おお くの部分 ぶぶん がドイツ空軍 くうぐん に渡 わた されたと見 み られている。1941年 ねん に海軍 かいぐん 財政 ざいせい 局 きょく は1933年 ねん 以降 いこう の状態 じょうたい を回顧 かいこ して、困難 こんなん がなかったわけではないが、「(資金 しきん は)常 つね にほとんど無制限 むせいげん に提供 ていきょう された」としている。
メフォ手形 てがた を受 う け取 と った企業 きぎょう 家 か の大半 たいはん は、満期 まんき をまたずに民間 みんかん 銀行 ぎんこう やライヒスバンクで現金 げんきん 化 か した。このためメフォ手形 てがた の多 おお くは金融 きんゆう 市場 いちば に流 なが れたが、銀行 ぎんこう にとっても有利 ゆうり な投資 とうし 手形 てがた だったメフォ手形 てがた は歓迎 かんげい された。当時 とうじ の貯蓄 ちょちく 銀行 ぎんこう の投資 とうし 総額 そうがく の30%はメフォ手形 てがた への投資 とうし に回 まわ されていた。満期 まんき になったメフォ手形 てがた も支払 しはらい 手段 しゅだん として利用 りよう され、流通 りゅうつう していた。
1937年度 ねんど までに発行 はっこう されたメフォ手形 てがた の総額 そうがく は204億 おく ライヒスマルクに達 たっ していた。1938年 ねん 3月 がつ 10日 とおか にライヒ財務省 ざいむしょう が策定 さくてい した文書 ぶんしょ では、120億 おく ライヒスマルクがメフォ手形 てがた で創出 そうしゅつ できる信用 しんよう の限度 げんど であったと明言 めいげん されている。1937年度 ねんど を除 のぞ いてメフォ手形 てがた の償還 しょうかん 額 がく の決済 けっさい 表示 ひょうじ は残 のこ っていないが、この年 とし の年末 ねんまつ 時点 じてん で120億 おく ライヒスマルクのメフォ手形 てがた が流通 りゅうつう していた。これは各 かく 軍 ぐん によって、84億 おく ライヒスマルク分 ぶん のメフォ手形 てがた の早期 そうき 償還 しょうかん が行 おこな われたことによるものであり、1934年 ねん から1937年 ねん までの陸海 りくかい 軍 ぐん の会計 かいけい 上 じょう の支出 ししゅつ は、1937年 ねん では39億 おく 1850万 まん ライヒスマルクが償還 しょうかん 費 ひ であるなど、半分 はんぶん 近 ちか くがメフォ手形 てがた 償還 しょうかん にあてられるという状態 じょうたい であった。しかしこれは政府 せいふ が新 あら たに公債 こうさい を借 か り換 か え、その調達 ちょうたつ 資金 しきん を償還 しょうかん にあてただけのことであり、政府 せいふ 全体 ぜんたい の債務 さいむ としては残 のこ ったままであった。
公債 こうさい 収入 しゅうにゅう と手形 てがた 償還 しょうかん の推移 すいい (単位 たんい :100万 まん ライヒスマルク)
年度 ねんど
1933年 ねん
1934年 ねん
1935年 ねん
1936年 ねん
1937年 ねん
1938年 ねん
公債 こうさい 収入 しゅうにゅう
92.1
1,039.6
2,065.7
3,003.8
3,959.9
7,534.3
メフォ手形 てがた の償還 しょうかん
-
712.4
979.3
2,799.2
3,918.5
5.2
メフォ手形 てがた の流通 りゅうつう 状 じょう 況 きょう (単位 たんい :100万 まん ライヒスマルク)
年度 ねんど
1933年 ねん
1934年 ねん
1935年 ねん
1936年 ねん
1937年 ねん
1938年 ねん
1939年 ねん
年度 ねんど 末 まつ 流通 りゅうつう 在高 ありだか
702.4
2,145.0
4,860.0
9,312.0
12,000.0
11,933.0
11,444.0
ライヒスバンク保有 ほゆう の残高 ざんだか (暦年 れきねん 末 まつ )
60
1,412
3,852
6,305
8,680
11,933
11,448
ライヒスバンク保有 ほゆう の全 ぜん 特殊 とくしゅ 手形 てがた 額 がく (暦年 れきねん 末 まつ )
1,644
3,201
5,460
7,058
9,197
12,426
11,942
メフォ手形 てがた 償還 しょうかん 問題 もんだい [ 編集 へんしゅう ]
1937年 ねん 、ライヒスバンク総裁 そうさい の任期 にんき を終 お えるシャハトの再任 さいにん をヒトラーは望 のぞ んだが、シャハトは留任 りゅうにん の条件 じょうけん として1年 ねん 後 ご のメフォ手形 てがた 発行 はっこう の停止 ていし と、流通 りゅうつう を120億 おく ライヒスマルク分 ぶん に押 お さえることを要求 ようきゅう した。ヒトラーはこれに応 おう じ、メフォ手形 てがた の発行 はっこう は1938年 ねん 3月 がつ 末 まつ で停止 ていし された。しかしシャハトは1937年 ねん 11月に経済 けいざい 相 しょう と全権 ぜんけん 委員 いいん を解任 かいにん されている。
メフォ手形 てがた の発行 はっこう は終了 しゅうりょう したが、納入 のうにゅう 者 しゃ 国庫 こっこ 証券 しょうけん という国庫 こっこ 割引 わりびき 証券 しょうけん が導入 どうにゅう された。この証券 しょうけん は支払 しはらい 延長 えんちょう が認 みと められなかったために、ライヒ政府 せいふ は早 はや めの償還 しょうかん を行 おこな わざるを得 え ず、メフォ手形 てがた の償還 しょうかん は一旦 いったん 延期 えんき された。この頃 ころ には、メフォ手形 てがた はほとんどライヒスバンクと金 きむ 割引 わりびき 銀行 ぎんこう (ドイツ語 ご 版 ばん ) の保有 ほゆう となり、ライヒスバンクと金 きむ 割引 わりびき 銀行 ぎんこう の手形 てがた 保有 ほゆう の90%以上 いじょう がメフォ手形 てがた で占 し められる事態 じたい となった。ライヒ財務省 ざいむしょう および関係 かんけい 当局 とうきょく は出来 でき るだけメフォ手形 てがた が市中 しちゅう に出回 でまわ るように努力 どりょく したものの、効果 こうか はまったく無 な かった。1938年 ねん 中 ちゅう には33億 おく ライヒスマルクのメフォ手形 てがた の再 さい 割引 わりびき がライヒスバンクに求 もと められたものの、政府 せいふ 財政 ざいせい はこれに応 おう じることは出来 でき ず、27億 おく ライヒスマルク分 ぶん の紙幣 しへい が増刷 ぞうさつ される事態 じたい となっている。ライヒスバンクのメフォ手形 てがた を含 ふく む手形 てがた 保有 ほゆう の増大 ぞうだい は市中 しちゅう 紙幣 しへい の増大 ぞうだい を招 まね き、インフレ圧力 あつりょく が強 つよ まった。また、メフォ手形 てがた 及 およ びライヒスバンク・ライヒ政府 せいふ が発行 はっこう した手形 てがた の債務 さいむ は短期 たんき 金融 きんゆう 市場 いちば を圧迫 あっぱく し、さらにヒトラーの拡張 かくちょう 政策 せいさく による軍備 ぐんび 費 ひ の増大 ぞうだい [30] もあり、1938年 ねん 9月 がつ と12月にはライヒ政府 せいふ が支払 しはらい 困難 こんなん になるという事態 じたい に陥 おちい っている。1939年 ねん 1月 がつ 7日 にち 、シャハトらライヒスバンク首脳 しゅのう 陣 じん はさらなる債権 さいけん 発行 はっこう はインフレーション を招 まね く危険 きけん 性 せい を説 と く抗議 こうぎ 文 ぶん をヒトラーの元 もと に送 おく った。ヒトラーは「これは反乱 はんらん だ」と述 の べ、シャハトと理事 りじ 全員 ぜんいん が解任 かいにん された。
1938年 ねん 中 ちゅう には31億 おく ライヒスマルク、1941年 ねん から1943年 ねん にかけては83億 おく ライヒスマルクの償還 しょうかん が決 き まっていたが、実行 じっこう できる見込 みこ みは全 まった くなかった。シャハトの後任 こうにん となったヴァルター・フンク らはヒトラーの要求 ようきゅう に従 したが い、メフォ手形 てがた の償還 しょうかん を当面 とうめん 行 おこな わず、書 か き換 か えで対応 たいおう することとした。ライヒスバンクと財務省 ざいむしょう の交渉 こうしょう の結果 けっか 、1939年 ねん 以降 いこう 、国庫 こっこ によって毎年 まいとし 6億 おく ライヒスマルクずつメフォ手形 てがた の償還 しょうかん が行 おこな われることになったが、1945年 ねん 2月 がつ 末 まつ の段階 だんかい で発行 はっこう 総額 そうがく の3分 ぶん の2に当 あ たる84億 おく 4441万 まん ライヒスマルクの残高 ざんだか が残 のこ っていた。
^ 1938年 ねん の会議 かいぎ で、国防 こくぼう 軍 ぐん 国防 こくぼう 経済 けいざい ・軍備 ぐんび 局員 きょくいん であったドレーヴスが言明 げんめい したもの。ただし、ドレーヴスはこの時期 じき を1934年 ねん としているが、大島 おおしま 通義 みちよし はドレーヴスが記憶 きおく 違 ちが いをしていたと見 み ている(大島 おおしま 通義 みちよし 1986 , pp. 69)
^ 1938年度 ねんど の軍備 ぐんび 費 ひ 支出 ししゅつ は、1937年度 ねんど の1.58倍 ばい 、ライヒ政府 せいふ 支出 ししゅつ の50%に達 たっ していた(大島 おおしま 通義 みちよし 1986 , pp. 87)