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ズデーテン地方ちほう

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緑色みどりいろ地域ちいきがズデーテン地方ちほう

ズデーテン地方ちほうチェコスロバキア: Sudetyドイツ: Sudetenland ズデーテンラントポーランド: Kraj Sudetów)は、ボヘミアモラヴィアシレジア現在げんざいチェコ共和きょうわこく領域りょういき)の外縁がいえんにあたる、ドイツじんおお居住きょじゅうしていた区域くいきチェコスロバキアでは国境こっきょう地帯ちたいチェコ: Pohraničí)ともばれる。北西ほくせいエーガーラント英語えいごばん北東ほくとうのズデーテン(どく: Sudeten)、南部なんぶベーマーヴァルトガウ英語えいごばんどく: Böhmerwaldgau)とツナイムどく: Znaim)で構成こうせいされる。本来ほんらいのズデーテンはきたモラヴィアのズデーテン山地さんち付近ふきん呼称こしょうであったが、コンラート・ヘンライン運動うんどうにより、チェコのドイツじん居住きょじゅう区域くいきすようになった[1]

オーストリア=ハンガリー帝国ていこく一部いちぶであったが、だいいち世界せかい大戦たいせんヴェルサイユ条約じょうやくサン=ジェルマン条約じょうやくによってチェコスロバキア一部いちぶとなった。しかしこの地域ちいきをめぐってナチス・ドイツとチェコスロバキアが対立たいりつし、ミュンヘン協定きょうていによってドイツへの編入へんにゅうみとめられた。だい世界せかい大戦たいせんこうふたたびチェコスロバキアに復帰ふっきし、現在げんざいはチェコりょうとなる。

歴史れきし

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だいいち世界せかい大戦たいせん以前いぜん

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1911ねん時点じてんでのオーストリア=ハンガリー帝国ていこく人種じんしゅ分布ぶんぷあかがドイツじんあおがチェコじんみどりマジャールじん優勢ゆうせい地域ちいき

ボヘミア・モラビアに建設けんせつされたチェコじん国家こっかは、西方せいほうからのドイツじん移民いみん東方とうほう植民しょくみん)を積極せっきょくてきれたため、次第しだいにドイツじん居住きょじゅう増加ぞうかしていった[2]。しかしさんじゅうねん戦争せんそうによってチェコじん貴族きぞくやぶれ、ボヘミアにおけるドイツじん支配しはいけん確立かくりつされると、ドイツじんとチェコじんあいだには対立たいりつ関係かんけいまれた[2]アウスグライヒ以降いこうはチェコじんハンガリー同様どうよう権利けんりのぞみ、一時いちじはオーストリア=ハンガリー=ボヘミアの三重みえ帝国ていこく成立せいりつする可能かのうせいもあったが、ドイツじんマジャールじん(ハンガリー)の反対はんたいによってついえた。

1880ねんにはチェコじん帝国ていこく宰相さいしょうエドゥアルト・ターフェがシュトレマイヤー言語げんごれい(ターフェ言語げんごれい)をし、ドイツじんとチェコじん言語げんごてき平等びょうどうさだめたが、既得きとくけんおかされるとかんじたドイツじんとチェコじん対立たいりつはますます激化げきかした。1897ねんにはカジミール・フェリクス・バデーニによる、ボヘミアとモラビアの官吏かんりドイツチェコ両方りょうほう習得しゅうとく義務ぎむづけたバデーニ言語げんごれいはっせられると、帝国ていこくないのドイツじんがいっせいに反発はんぱつ暴動ぼうどうこした。1899ねんにバデーニ言語げんごれい正式せいしき撤回てっかいされたが、今度こんどはチェコじん暴動ぼうどう頻発ひんぱつした[3]

分離ぶんり運動うんどう失敗しっぱい

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ドイツ=オーストリア共和きょうわこく設定せっていしたしゅうがズデーテンラントしゅうがドイツボヘミアしゅうがオーバーエスターライヒしゅう

だいいち世界せかい大戦たいせん連合れんごうこくがわたたかい、チェコスロバキアの成立せいりつ目指めざしていたエドヴァルド・ベネシュらがひきいるチェコスロバキアどく立派りっぱは、戦後せんご国土こくどとして「ボヘミア王冠おうかんりょうせいヴァーツラフの王冠おうかんしょくに」であるボヘミア・モラヴィア・シレジアの領域りょういき要求ようきゅうしていた。しかしかれのドイツじんはドイツないしはオーストリアの内部ないぶまることを要求ようきゅう。1917ねん9がつ16にちにはこの地域ちいき社会民主労働党しゃかいみんしゅろうどうとう分離ぶんりうごきに反対はんたいする集会しゅうかいおこなった[4]

1918ねん10がつ28にち国内こくないのチェコスロバキアどく立派りっぱ独立どくりつ宣言せんげんおこなうと、よく10がつ29にちにはドイツじん帝国ていこく議会ぎかい議員ぎいん中心ちゅうしんとして、エーガラントときたボヘミアに「ドイツけいボヘミアしゅうドイツばんチェコばん英語えいごばん」の成立せいりつ宣言せんげん。さらに10がつ30にちにはシレジアきたモラヴィア、東部とうぶボヘミアに「ズデーテンラントしゅうドイツばんチェコばん英語えいごばん」が形成けいせいされ、11月には南部なんぶボヘミアと南部なんぶモラビアでベーマーヴァルトガウとツナイム(Zneim、en)のりょう自治じち政府せいふ建設けんせつされた[5]。これらドイツけいしょ政府せいふ地域ちいき正式せいしき確定かくていおこなわれるまで、チェコスロバキア政府せいふとのあいだ行政ぎょうせいかんする暫定ざんてい協定きょうていむすぼうとしたが、チェコスロバキアがわは「反逆はんぎゃくしゃとは交渉こうしょうしない」とこれを拒否きょひした[5]。11月20にちにはチェコ軍団ぐんだんがドイツけいしょ政府せいふいきへの侵攻しんこう開始かいしし、12月18にちまでにドイツけいしょ政府せいふ解体かいたい亡命ぼうめい余儀よぎなくされた。一方いっぽうで1918ねん11月に成立せいりつしたドイツ=オーストリア共和きょうわこく政府せいふは、ドイツけい地域ちいきをドイツボヘミアしゅうde:Deutschböhmen und Deutschmährer)、ズデーテンラントしゅうドイツばんオーバーエスターライヒしゅう区分くぶんし、領有りょうゆうけん主張しゅちょうしていた。

パリ講和こうわ会議かいぎはじまるとオーストリア政府せいふはドイツじん居住きょじゅう地域ちいきのチェコスロバキアへの編入へんにゅう反対はんたいし、もしおこな場合ばあいでも住民じゅうみん投票とうひょうおこなうよう要求ようきゅうした。一方いっぽうでチェコスロバキア政府せいふ実効じっこう支配しはい追認ついにん要求ようきゅうした[5]アメリカ民族みんぞく自決じけつ観点かんてんからドイツへの編入へんにゅう主張しゅちょうしたが、安全あんぜん保障ほしょう観点かんてんからチェコスロバキアの強化きょうかねらうフランスの要求ようきゅうとおり、ドイツじん居住きょじゅう地域ちいきはチェコスロバキアの領土りょうどとなることが確定かくていした[6]。こうして310まんにおよぶドイツじんはチェコスロバキアにおける「最大さいだい少数しょうすう民族みんぞく」となった[7]。しかしサン=ジェルマン条約じょうやくおなにチェコスロバキア政府せいふ連合れんごうこくあいだで、チェコスロバキア国内こくない民族みんぞく平等びょうどうさだめた「少数しょうすう民族みんぞく保護ほご条約じょうやく」が締結ていけつされ、ドイツじんふくめたしょ民族みんぞく権利けんり保護ほごもとめられた[8]

チェコスロバキア時代じだい

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ドイツじん居住きょじゅういき正式せいしきなチェコスロバキアりょうとなり、北東ほくとうKrkonošsko-jesenická subprovincieなどが設置せっちされた。

1920ねん9がつ20日はつか、チェコスロバキア政府せいふ憲法けんぽう不可分ふかぶん構成こうせい部分ぶぶんとして言語げんごほうさだめた。これはチェコとスロバキア同一どういつのものとする「チェコスロバキア」を唯一ゆいいつ公用こうようとし、ドイツ公的こうてき機関きかんなどで使つかえるのは住民じゅうみんの20%以上いじょうがドイツはな地域ちいきかぎられた。またチェコじんがほとんどいない地域ちいきにもチェコ地名ちめい表記ひょうきおこなわれるようになったほか、ドイツじん学校がっこう次々つぎつぎ閉鎖へいさへとまれた。これらの政策せいさくじゅう帝国ていこく時代じだいからても後退こうたいであり、チェコスロバキア共和きょうわこくドイツじん社会しゃかい民主党みんしゅとう英語えいごばんなどのドイツじんしょ政党せいとうはこぞって反対はんたいした[9]。しかしチェコじんも「われわれのドイツじん (naši Němci)」とドイツじんぶようになり、一般いっぱん住民じゅうみん同士どうし関係かんけい比較的ひかくてき良好りょうこうであった[1]一方いっぽうでチェコスロバキア政府せいふはドイツを警戒けいかいして強固きょうこ要塞ようさいせんきずいていた。

世界せかい恐慌きょうこう発生はっせいすると、ドイツじん居住きょじゅういき状況じょうきょう深刻しんこくなものになった。この地域ちいき産業さんぎょう鉱山こうざん・ガラス・せいすえ繊維せんいなど輸出ゆしゅつたよりであり、零細れいさい企業きぎょうおおかったため、失業しつぎょうしゃ割合わりあい地域ちいきの2ばい以上いじょうたっした。さらにドイツじんよりチェコじん雇用こよう優先ゆうせんされているとして、ドイツじんあいだでチェコじんたいする不満ふまんたかまった[10]。さらに隣国りんごくドイツにおけるヒトラー政権せいけん経済けいざい回復かいふくが、ドイツ民族みんぞく民族みんぞく共同きょうどうたい目指めざすという、民主みんしゅてきコンラート・ヘンラインひきいる「ズデーテン・郷土きょうど戦線せんせん」の勢力せいりょく拡大かくだいにつながった。1935ねん郷土きょうど戦線せんせんズデーテン・ドイツじんとう改称かいしょうし、同年どうねん選挙せんきょ最多さいた得票とくひょう獲得かくとくし、だい2とうとなったが政府せいふには参加さんかしなかった。1937ねん9がつ16にちミラン・ホジャ首相しゅしょうとヘンラインの会談かいだんおこなわれ、ヘンラインは将来しょうらいにおける自治じちけんと、それにいたるまでの「自決じけつけん」を要求ようきゅうした。しかし10がつ18にちにズデーテン・ドイツじん集会しゅうかい禁止きんしされ、どうとう幹部かんぶカール・ヘルマン・フランクらが警察けいさつによる暴行ぼうこうけるという事件じけん発生はっせいした[11]。ヘンラインは公開こうかい書簡しょかん早急そうきゅう自治じちけん設定せってい要求ようきゅうし、ドイツ公使こうし支持しじした。ここにいたってズデーテン地方ちほうのドイツじん問題もんだい国際こくさい問題もんだいし、ヘンラインも自治じちけん要求ようきゅうから「ズデーテンのみならずぜんボヘミア・モラヴィア・シレジア地方ちほうのドイツへの編入へんにゅう」に目標もくひょうえ、ドイツの支援しえん要請ようせいした[11]

ドイツへの併合へいごう

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進駐しんちゅうするドイツぐんむかえるズデーテンラントの住民じゅうみん。1938ねん10がつ5にち

チェコスロバキア大統領だいとうりょうベネシュはドイツとの交渉こうしょう拒否きょひしたものの、ドイツ総統そうとうヒトラーはたびたび声明せいめいでズデーテン問題もんだい解決かいけつうったえた。さらにヘンラインとフランクに「チェコスロバキア政府せいふれられない要求ようきゅう」をおこなうよう指示しじした[12]。ホジャ首相しゅしょうとヘンラインはたびたび交渉こうしょうするも、ヘンラインはその都度つど拒否きょひした。1938ねん5がつにはドイツぐんがチェコ国境こっきょう展開てんかいしているという誤報ごほうながれ、チェコスロバキアがわ対抗たいこうしてぐん動員どういんした。またどう時期じき地方ちほう選挙せんきょではズデーテン・ドイツじんとうがドイツじん居住きょじゅういきにおける9わりひょう獲得かくとくしている[13]選挙せんきょの8がつ14にちにはベネシュ大統領だいとうりょう交渉こうしょう参加さんかし、自治じちけんみと譲歩じょうほするも、ヘンラインはドイツに亡命ぼうめい交渉こうしょう決裂けつれつさせた[13]

1938ねん9がつ30にちミュンヘン会談かいだんでは宥和ゆうわ政策せいさくるイギリスのネヴィル・チェンバレン首相しゅしょう、フランスのエドゥアール・ダラディエ首相しゅしょうがズデーテン地方ちほうのドイツ編入へんにゅう容認ようにんした。ズデーテン地方ちほうのチェコじんやユダヤじんぐん官吏かんり退去たいきょ余儀よぎなくされ、1939ねん7がつ1にちまでにやく22まんにん難民なんみん(うち1まんにんはドイツけい)が併合へいごう地域ちいきからチェコにのが[14]おおくの財産ざいさんりにせざるをなくなった。一方いっぽう共産きょうさん党員とういんやチェコスロバキア共和きょうわこくドイツじん社会しゃかい民主みんしゅ党員とういん一部いちぶはチェコ官憲かんけんによって送還そうかんされ、終戦しゅうせんまでの期間きかんふくめて7677にんがドイツによって逮捕たいほされた[14]

ドイツ時代じだい

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ズデーテンラント帝国ていこくだい管区かんく紋章もんしょう

ミュンヘン会談かいだんの10がつ1にち、ヘンラインがズデーテンラント担当たんとう国家こっか弁務べんむかんにんぜられ、軍政ぐんせいかれた。1939ねん3がつ25にちには北部ほくぶのエーガーラントとズデーテンが「ズデーテンラント帝国ていこくだい管区かんくドイツばん」とされ、ヘンラインがだい管区かんく指導しどうしゃとなった[15]。また南部なんぶはバイエリッシュ=オストマルクだい管区かんく(1942ねんにバイロイトだい管区かんく名称めいしょう変更へんこう)、うえドナウ帝国ていこくだい管区かんくしたドナウ帝国ていこくだい管区かんく分割ぶんかつ編入へんにゅうされた。ズデーテンラントにたいする強制きょうせいてき同一どういつすすなかでチェコスロバキア共和きょうわこくドイツじん社会しゃかい民主党みんしゅとうなどの抵抗ていこう組織そしき弾圧だんあつされ、強制きょうせい収容しゅうようしょおくられた。

1939ねん3月1にちにはチェコスロバキアも解体かいたいされ、ボヘミアとモラビアはベーメン・メーレン保護ほごりょうとなり、フランクが親衛隊しんえいたいおよ警察けいさつ指導しどうしゃとなった。保護ほごりょうではチェコじんはげしい弾圧だんあつくわえられ、チェコじんあいだでドイツじんたいする報復ほうふく感情かんじょうたかまった。このためはんナチス運動うんどう亡命ぼうめい政府せいふ連合れんごうこくでは、ドイツけい住民じゅうみん国外こくがい追放ついほう重要じゅうよう政治せいじ問題もんだいとなった[15]

亡命ぼうめい運動うんどう

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ズデーテン割譲かつじょうのチェコスロバキアにたいするドイツの圧力あつりょくつよまるなかで、チェコスロバキア共和きょうわこくドイツじん社会しゃかい民主党みんしゅとう指導しどうしゃ亡命ぼうめい選択せんたくした。かれらはドイツ社会しゃかい民主党みんしゅとう亡命ぼうめい組織そしきソパーデ英語えいごばん連携れんけいをとろうとしたが交渉こうしょう決裂けつれつした。

1939ねん5月30にちにチェコスロバキア共和きょうわこくドイツじん社会しゃかい民主党みんしゅとうヴェンツェル・ヤークシュ英語えいごばんロンドンで「ズデーテン・ドイツ社会しゃかい民主党みんしゅとう亡命ぼうめい組織そしき」を設立せつりつし、ズデーテン地方ちほう代表だいひょうする民主みんしゅ主義しゅぎ勢力せいりょくとして活動かつどう再開さいかいした。9月30にち、ドイツがポーランド侵攻しんこう開始かいしし、だい世界せかい大戦たいせん開始かいしされるとベネシュはチェコスロバキア亡命ぼうめい政府せいふ設立せつりつして、ミュンヘン協定きょうてい無効むこう目指めざしてうごした。ヤークシュはイギリスとも接触せっしょくしたが、かれらがズデーテン住民じゅうみん代表だいひょうしていないとして拒絶きょぜつされた[16]。ベネシュとヤークシュは抵抗ていこう運動うんどう一本いっぽんのためなん折衝せっしょうかさねたが、ボヘミア・モラヴィアのわくにとらわれない連邦れんぽうせい構想こうそうしていたヤークシュにたいし、ベネシュは戦前せんぜんおな単一たんいつのチェコスロバキア共和きょうわこく再現さいげん目指めざしていた。さらに国境こっきょうせん維持いじのため、ドイツじん強制きょうせい移住いじゅうをも視野しやれていた。

1940ねん3がつにズデーテン・ドイツ社会しゃかい民主党みんしゅとう亡命ぼうめい組織そしきは、ズデーテン・ドイツじん自治じちけんもとめるとともに、強制きょうせい住民じゅうみん交換こうかん移動いどう反対はんたいする「ホルムハースト宣言せんげん」を策定さくていした[17]。しかしベネシュとの交渉こうしょう難航なんこうし、一部いちぶ幹部かんぶはヤークシュを見限みかぎって亡命ぼうめい政府せいふがわ合流ごうりゅうした[18]

1941ねんどくせん開始かいしされ、ソビエト連邦れんぽう連合れんごうこくがわくわわった。12月、ソ連それん指導しどうしゃヨシフ・スターリン戦後せんご構想こうそうとして、ベッサラビアひとし領土りょうど要求ようきゅうとともに、ひがしプロイセンダンツィヒ編入へんにゅう東部とうぶソ連それんへの割譲かつじょうふくポーランド国境こっきょう変更へんこう、ズデーテンをふくむチェコスロバキアの再建さいけん提案ていあんした[19]ソ連それん提案ていあんはドイツじん居住きょじゅういきからのドイツじん強制きょうせい移住いじゅう前提ぜんていとするものであり、アメリカやイギリスでもドイツじん移住いじゅう本格ほんかくてき討議とうぎされるきっかけとなった[20]。このうごきはベネシュとう亡命ぼうめい政府せいふがわにとっては好都合こうつごうであったが、ズデーテン・ドイツ社会しゃかい民主党みんしゅとう亡命ぼうめい組織そしきがわにとっては自己じこ存立そんりつおびやかされる事態じたいであった。1942ねん8がつ5にち、イギリスはついにミュンヘン協定きょうてい無効むこう宣言せんげんし、亡命ぼうめい政府せいふ目標もくひょうがひとつたっせられた[21]以降いこうベネシュのチェコスロバキア亡命ぼうめい政府せいふはヤークシュとう関係かんけい断絶だんぜつし、連邦れんぽうせい実現じつげんせいうしなった。

1945ねん2がつヤルタ会談かいだんでは国境こっきょうせんかんするソ連それん要求ようきゅうがほぼ貫徹かんてつされ、戦後せんごのドイツじん強制きょうせい移住いじゅう方針ほうしんかたまった。

戦後せんご

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ドイツじん追放ついほう

1945ねん5月のドイツ降伏ごうぶく亡命ぼうめい政府せいふ母体ぼたいとするチェコスロバキア臨時りんじ政府せいふはドイツけい住民じゅうみん資産しさん凍結とうけつ市民しみんけん制限せいげんなどの布告ふこくベネシュ布告ふこく)をはっした[22]。しかしドイツの権力けんりょく消滅しょうめつし、チェコスロバキア政府せいふ十分じゅうぶん支配しはいけんっていない状況じょうきょうで、報復ほうふくてき殺戮さつりく強制きょうせい労働ろうどうなどがおこなわれた。8月2にちポツダム協定きょうていでドイツじん追放ついほう正式せいしき決定けっていされたことで、混沌こんとん状態じょうたい一応いちおう終結しゅうけつし、250まんにんにおよぶドイツじん公式こうしき移送いそうはじまった。しかしこの過程かていでも25まんにん老人ろうじん子供こども死亡しぼうしたという、ズデーテン・ドイツじんがわ主張しゅちょうがある[22]。1950ねんまでにチェコ在住ざいじゅうドイツじん大半たいはん自主じしゅてき、あるいは強制きょうせいてき東西とうざいドイツやオーストリアにり、チェコスロバキア国内こくない残留ざんりゅうしたドイツじんは16まん5せんにんぎなかった[22]

追放ついほうドイツじんの4わり西にしドイツドイツ連邦れんぽう共和きょうわこく)のバイエルンしゅう移住いじゅうし、チェコスロバキアにたいしてベネシュ布告ふこく廃棄はいき補償ほしょうもとめる活動かつどう開始かいしした。ズデーテン・ドイツじん団体だんたいなかでも最大さいだい組織そしきランツマンシャフトドイツばん郷党きょうとうかい)であり、1990ねんには会員かいいんすう14まんにんかぞえている[23]。これらしょ団体だんたい協議きょうぎ機関きかんとしてズデーテン・ドイツじん評議ひょうぎかいドイツばん結成けっせいしている。ランズゲマインシャフトはバイエルンしゅう保守ほしゅ勢力せいりょくむすびつき、西にしドイツ政界せいかいにも影響えいきょうあたえる存在そんざいとなった[24]

ひがしドイツ(ドイツ民主みんしゅ共和きょうわこく首相しゅしょうヴァルター・ウルブリヒトは1950ねんにチェコスロバキアを訪問ほうもんし、「両国りょうこくあいだ懸案けんあん解決かいけつ問題もんだい存在そんざいしない」としてドイツじん追放ついほうやズデーテン地方ちほう所属しょぞく異論いろんがないとした[25]一方いっぽう西にしドイツがわひがしドイツと国交こっこうむすんでいるくにとは外交がいこう関係かんけいむすばない方針ほうしんをとっていたため、チェコスロバキアとの交渉こうしょうおこなわれるのは1970年代ねんだいヴィリー・ブラント政権せいけんによる「東方とうほう外交がいこう開始かいし以降いこうであった。1973ねん12月11にちに「チェコスロバキア社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこくとドイツ連邦れんぽう共和きょうわこくあいだ相互そうご関係かんけい条約じょうやく」(プラハ条約じょうやくドイツばん)が締結ていけつされ、ミュンヘン協定きょうてい無効むこう領土りょうどてき要求ようきゅう相互そうご存在そんざいしないことを確認かくにんしたが、ドイツじん追放ついほう問題もんだいについてはれられなかった[26]

和解わかいうご

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1989ねんビロード革命かくめいこり、ヴァーツラフ・ハヴェルがチェコスロバキア大統領だいとうりょうとなると、チェコスロバキアと西にしドイツの関係かんけい改善かいぜんがすすめられはじめた。ハヴェル大統領だいとうりょう集団しゅうだんてきざい観点かんてんでズデーテン・ドイツじん戦後せんご断罪だんざいしたことはゆるされることではないとして、ドイツじん追放ついほうについてはじめて謝罪しゃざいした[27]1990ねんからはチェコスロバキアでズデーテン・ドイツじん問題もんだい解決かいけつのため、個人こじんではなくドイツ連邦れんぽう共和きょうわこく政府せいふのみを相手あいておこなうと発表はっぴょうした。この背景はいけいにはランツマンシャフトがベネシュ布告ふこく廃止はいし財産ざいさん返還へんかん、さらに故郷こきょうたいする完全かんぜん権利けんり回復かいふくもとめてきたことがあったという[28]。チェコスロバキア政府せいふはベネシュ布告ふこく廃止はいしには反対はんたいつづけており、その基本きほん方針ほうしんとなった。

1990ねん10がつ3にちドイツさい統一とういつおこなわれてドイツが統一とういつされると、関係かんけい正常せいじょううごきが加速かそくされた。ドイツじん正式せいしき手続てつづきによる「移送いそう」がなされたとするチェコスロバキアと、ドイツじんは「追放ついほう」されたとするドイツの立場たちばことなっていたが、2がつ27にち締結ていけつされたドイツ・チェコ善隣ぜんりん友好ゆうこう条約じょうやくでは「追放ついほう」が採用さいようされた。これにはドイツがわがチェコスロバキアがわ表現ひょうげんすきいてミュンヘン協定きょうてい有効ゆうこうせい議題ぎだいみ、協定きょうてい問題もんだい譲歩じょうほするかわりに補償ほしょう問題もんだい存在そんざいすることと「追放ついほう表現ひょうげんったともわれている[29]1993ねんビロード離婚りこんによって成立せいりつしたチェコ共和きょうわこく善隣ぜんりん友好ゆうこう条約じょうやくいだが、ランツマンシャフトをはじめとするズデーテン・ドイツじん団体だんたい補償ほしょうとチェコ政府せいふとの直接ちょくせつ交渉こうしょう要求ようきゅうつづけていた。

ドイツ=チェコ和解わかい宣言せんげん

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このためドイツ政府せいふとチェコ政府せいふ政治せいじてきな「ジェスチャー」をおこな必要ひつようせいかんじ、1995ねんには両国りょうこくあいだ共同きょうどう宣言せんげん検討けんとうはじめた。しかしランツマンシャフトとドイツキリスト教きりすときょう民主みんしゅ同盟どうめい共同きょうどう宣言せんげん時期じき尚早しょうそうであるとして反対はんたいしたため、交渉こうしょう中断ちゅうだんした[30]1996ねん8がつから交渉こうしょう水面すいめん再開さいかいされ、「ドイツ=チェコ和解わかい宣言せんげんドイツばん」が合意ごういされた。宣言せんげんは12月20にち仮調印かりちょういん1997ねん1がつ21にち正式せいしき調印ちょういんおこなわれた。

和解わかい宣言せんげん概要がいよう
  • ドイツとチェコは善隣ぜんりん友好ゆうこう条約じょうやく友好ゆうこう関係かんけい想起そうきし、平和へいわてき友好ゆうこう関係かんけい構築こうちくする。おこなわれた不法ふほう行為こういくつがえせないが、やわらげることは可能かのうである。
  • ドイツはチェコの欧州おうしゅう連合れんごう (EU)・北大西洋きたたいせいよう条約じょうやく機構きこう (NATO) 加盟かめい支持しじする。
  • ドイツじん追放ついほう遠因えんいんはナチス政権せいけん行動こうどうにある。
  • ドイツじん追放ついほうとベネシュ布告ふこくのうち「1946ねん5がつ8にちづけ法律ほうりつ118ごう」によって是認ぜにんされた「ぎ」について、チェコは「遺憾いかん」の表明ひょうめいする。
  • 両国りょうこく不法ふほう行為こうい過去かこのものであり、未来みらい志向しこう関係かんけい構築こうちくすることに合意ごういする。
  • 「チェコ=ドイツ未来みらい基金ききん」を設立せつりつし、両国りょうこく共通きょうつう利益りえきとなるプロジェクト、とくにナチス・ドイツの犠牲ぎせいとなった人々ひとびと支出ししゅつする。ドイツは1おく4000まんマルク、チェコは4おく4000まんコルナ拠出きょしゅつする (en)。
  • チェコ=ドイツあいだおこなわれている、歴史れきし共同きょうどう研究けんきゅう支持しじする (de:Deutsch-tschechische Historikerkommission)。

ドイツはこれまでチェコがわ体系たいけいてき補償ほしょうおこなってこなかったが、この和解わかい宣言せんげんによって補償ほしょうへのみちひらかれた。一方いっぽうでランツマンシャフトなどのズデーテン・ドイツじん団体だんたいは1996ねん5がつ18にち共同きょうどう宣言せんげんれないと発表はっぴょうしている[31]調印ちょういん参加さんかしたチェコ外相がいしょうヨゼフ・ジェレニッツ英語えいごばんは「宣言せんげんピリオドではなくコロンだ」とべ、関係かんけい改善かいぜん今後こんご課題かだいとなった[32]

そのもドイツのランツマンシャフトは人権じんけんじょう問題もんだいからベネシュ布告ふこく不法ふほうせい主張しゅちょうしている。チェコはベネシュ布告ふこく正当せいとうせい主張しゅちょうつづけており、2002ねんにはミロシュ・ゼマン首相しゅしょうが「ズデーテン・ドイツじんはヒトラーのだいれつスパイ)」であったと発言はつげんし、ドイツやオーストリアからはげしい非難ひなんけた[33]。2009ねんにはベネシュ布告ふこく違法いほうとなりかねないリスボン条約じょうやくへの加盟かめい反対はんたい運動うんどうこっている[34]

脚注きゃくちゅう

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参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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