(Translated by https://www.hiragana.jp/)
チェコスロバキア亡命政府 - Wikipedia コンテンツにスキップ

チェコスロバキア亡命ぼうめい政府せいふ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
チェコスロバキア亡命ぼうめい政府せいふ
Prozatímní státní zřízení(チェコ
Dočasné štátne zriadenie(スロバキア
チェコスロバキア第二共和国 1939ねん - 1945ねん チェコスロバキア第三共和国
Czechoslovak government-in-exileの国旗 Czechoslovak government-in-exileの国章
国旗こっきくにあきら
くに標語ひょうご: Pravda vítězí(チェコ
真実しんじつ
国歌こっか:
チェコ:Kde domov můj(チェコ
何処どこ


スロバキア:Nad Tatrou sa blýska(スロバキア
稲妻いなづまがタトラのうえはし
公用こうよう チェコスロバキア
首都しゅと プラハ法律ほうりつじょう
パリ(1939ねん - 1940ねん
ロンドン(1940ねん - 1945ねん
大統領だいとうりょう
1939ねん - 1945ねん エドヴァルド・ベネシュ
変遷へんせん
ミュンヘン協定きょうてい 1938ねん9がつ30にち
分割ぶんかつ消滅しょうめつ1939ねん3がつ15にち
解放かいほう1945ねん5がつ
チェコ歴史れきし
チェコ国章
この記事きじシリーズ一部いちぶです。

チェコ ポータル

チェコスロバキア亡命ぼうめい政府せいふ(チェコスロバキアぼうめいせいふ、チェコ: Prozatímní státní zřízeníスロバキア: Dočasné štátne zriadenie)は、ナチス・ドイツによって分割ぶんかつ消滅しょうめつしたチェコスロバキア再建さいけん目指めざした亡命ぼうめい政府せいふ

前史ぜんし

[編集へんしゅう]

1938ねん9がつ30にちおこなわれたミュンヘン会談かいだん結果けっか、チェコスロバキアはズデーテン地方ちほう割譲かつじょう余儀よぎなくされた。大統領だいとうりょうエドヴァルド・ベネシュ責任せきにんって10がつ5にち辞任じにんした。こののちチェコスロバキアでは自治じちもとめるうごきがたかまり、10月6にちにはジリナ協定きょうていによってスロバキアに、10月6にちにはカルパティア・ルテニア自治じち政府せいふ成立せいりつした。11月30にちにはエミール・ハーハ大統領だいとうりょうとなった。

ベネシュ夫妻ふさいはしばらく休養きゅうようをとったのち、10月22にちロンドン亡命ぼうめいした。しかしイギリス政府せいふは「ミュンヘンの平和へいわ」がみだれることをおそれ、ベネシュに活動かつどう自粛じしゅくもとめた[1]。ベネシュはおいいえみ、かつての同僚どうりょう政治せいじ連絡れんらくっていた。1939ねん3がつ15にちにはドイツがチェコスロバキアを解体かいたいし、ベーメン・メーレン保護ほごりょうとし、スロバキアを独立どくりつさせた(スロバキア共和きょうわこく)。しかしベーメン・メーレン保護ほごりょうはドイツの事実じじつじょう領土りょうどであり、スロバキアも保護ほごこくであった。ベネシュはもと大統領だいとうりょう肩書かたがきでイギリスフランスアメリカソビエト連邦れんぽう国際こくさい連盟れんめいにミュンヘン協定きょうてい違反いはんであると抗議こうぎ電報でんぽうおくったが、列強れっきょう連盟れんめいうごくことはなかった。

しかしこのベネシュの行動こうどうにチェコスロバキア駐米ちゅうべい公使こうしフルバン(Vladimìr Hurban)が賛同さんどうし、独立どくりつ回復かいふく運動うんどうのための指導しどうてき役割やくわりたすよう要請ようせいした[2]。ベネシュはこれをけ、チェコスロバキアの在外ざいがい公館こうかんチェコじんスロバキアじん移民いみん団体だんたいなどと接触せっしょくした。フルバン、ちゅうえい公使こうしヤン・マサリクちゅう公使こうしズデニェク・フィールリンゲルen:Zdeněk Fierlinger)などの在外ざいがい公使こうしがベネシュ支持しじにまわり、チェコ民族みんぞく同盟どうめい、チェコ・カトリック教徒きょうと民族みんぞく同盟どうめい、スロバキア民族みんぞく同盟どうめい移民いみん団体だんたいはチェコスロバキア民族みんぞく会議かいぎ結成けっせいしてチェコスロバキア解放かいほう運動うんどうのサポートにたることになった。一方いっぽうでアメリカ・スロバキアじん連盟れんめいのようにベネシュがわ反発はんぱつするうごきもあった[3]。5月まつにはベネシュとアメリカ大統領だいとうりょうフランクリン・ルーズベルト会談かいだん実現じつげんした。ルーズベルトはえいふつ行動こうどう批判ひはんし、チェコスロバキアの現状げんじょう容認ようにんしないという発言はつげんおこなったが、亡命ぼうめい政府せいふ成立せいりつ容認ようにんするなどのうごきはらなかった[4]一方いっぽうイギリス政府せいふは5月にスロバキア共和きょうわこくかり承認しょうにんし、ベネシュにたいして再度さいど行動こうどう自粛じしゅく要請ようせいするなどしていたが、ウィンストン・チャーチルアンソニー・イーデンなど、ベネシュのうごきを支援しえんする政治せいじ存在そんざいしていた[5]

フランス政府せいふはベネシュのうごきとは連絡れんらくらず、エドゥアール・ダラディエ首相しゅしょうちかいスロバキアじんちゅうふつ公使こうしステファン・オススキーen:Štefan Osuský)のグループと連携れんけいをとるうごきをせていた[6]。ベネシュとオススキーのグループは政治せいじてき統合とうごうけてはないをおこなったが、交渉こうしょう難航なんこうした。

また、ズデーテン地方ちほうふくめるチェコスロバキア内部ないぶのドイツじん支持しじ基盤きばんつチェコスロバキア共和きょうわこくドイツ社会しゃかい民主党みんしゅとうen)の亡命ぼうめい組織そしきズデーテン・ドイツ社会しゃかい民主党みんしゅとう戦後せんご自治じちけん拡大かくだい目指めざしてベネシュがわやイギリス政府せいふ交渉こうしょうつづけていた。

国民こくみん委員いいんかい

[編集へんしゅう]

1939ねん9がつ1にちのドイツによるポーランド侵攻しんこう状況じょうきょうおおきくうごかした。ベネシュはポーランド支持しじ電報でんぽうつとともに、イギリスにたいしては亡命ぼうめい政府せいふ承認しょうにんとチェコスロバキア部隊ぶたい設立せつりつ要請ようせいしたが、イギリスは拒否きょひした[7]一方いっぽうでオススキーもフランスにたいして同様どうようもうれをおこなったが、こちらは好意こういてき反応はんのうけた。10月2にちにはオススキーがわ提案ていあんちかかたち合意ごういられたが、イギリス政府せいふはこの合意ごういたいして抗議こうぎもうれ、たいイタリア・ハンガリーを考慮こうりょしたフランス政府せいふ提案ていあん実現じつげんには慎重しんちょうであった[8]。ベネシュは訪仏ほうふつして地位ちい改善かいぜんもとめようとしたが、ダラディエは面会めんかい拒絶きょぜつし、オススキーらも戦後せんごにおけるスロバキアの地位ちい向上こうじょうもとめてきた。チェコスロバキア主義しゅぎるベネシュはスロバキアの自治じちけん拡大かくだいには同意どういできず、この段階だんかいでの両者りょうしゃみぞうずまらなかった[9]。ベネシュは10月17にちにチェコスロバキア国民こくみん委員いいんかいcs:Československý národní výbor)の設立せつりつめ、政府せいふではなく亡命ぼうめいしゃ組織そしきとしての承認しょうにんもとはじめた。オススキーは当初とうしょ参加さんかこばんでいたが、フランスがオススキーの参加さんか承認しょうにん条件じょうけんとしたため、オススキーも参加さんかすることになった[10]。その戦局せんきょく悪化あっかはチェコスロバキア部隊ぶたい参加さんか必要ひつようとし、11月14にちにフランスは国民こくみん委員いいんかいかり承認しょうにんした。11月17にち国民こくみん委員いいんかい正式せいしき発足ほっそくし、12月20にちにイギリスもかり承認しょうにんった[10]

一方いっぽうでスロバキアじんもと首相しゅしょうミラン・ホッジャはベネシュと同調どうちょうせず、11月22にちにスロバキア国民こくみん会議かいぎ設立せつりつし、スロバキアの独立どくりつ目指めざしていた。しかしこのうごきは立場たちばちかいオススキーとも決裂けつれつし、亡命ぼうめい政府せいふ運動うんどう主流しゅりゅうからもはずれていた。しかしホッジャの勢力せいりょくにはベネシュの路線ろせんこころよおもわないチェコじんや、亡命ぼうめい政権せいけんづくりが難航なんこうすることにしびれをきらしたもの参加さんかし、1940ねん1がつ14にちにはチェコ=スロバキア国民こくみん会議かいぎ発展はってんした[11]。イギリス・フランスは2つの亡命ぼうめい組織そしき一本いっぽんもとめ、両者りょうしゃあいだ統合とうごうけてはないがおこなわれることになった。

1940ねん3がつ、ベネシュはアメリカ国務こくむ次官じかんウェルズの要請ようせいで『戦後せんごのチェコスロバキア:その要求ようきゅう構想こうそう』という戦後せんご構想こうそう作成さくせいしたが、この構想こうそうはミュンヘン以前いぜんだいいち共和きょうわこく再建さいけんするものであり、自治じちもとめるスロバキアやズデーテン・ドイツ社会しゃかい民主党みんしゅとうなどにはきびしいものであった[12]

成立せいりつ

[編集へんしゅう]

フランスが休戦きゅうせんし、ヴィシー政権せいけん成立せいりつしたのち、7がつ9にちにベネシュは政府せいふ承認しょうにんをイギリス政府せいふもとめた。7月18にち、イギリスのイーデン外相がいしょう国民こくみん委員いいんかい正式せいしき亡命ぼうめい政府せいふとして承認しょうにんするむね書簡しょかんつたえた[12]。しかし亡命ぼうめい政府せいふがわもとめる国境こっきょうせん不変ふへんや、だいいち共和きょうわこくからの法的ほうてき連続れんぞくせいれなかった[13]。9月30にち、チャーチル首相しゅしょうは「チェコじん・スロバキアじん自由じゆう回復かいふく」が戦争せんそう理由りゆうひとつであるとげたものの、将来しょうらい国境こっきょうせん画定かくていには関与かんよしないという演説えんぜつおこなった[14]。10月にはヴェンツェル・ヤークシュen:Wenzel Jaksch)の指導しどう反発はんぱつするズデーテン・ドイツ社会しゃかい民主党みんしゅとうからの分派ぶんぱれた[15]。この分裂ぶんれつにはベネシュらの策動さくどうがあったとられている[16]

一方いっぽう本国ほんごくのこったドイツ抵抗ていこうグループの一部いちぶは、戦後せんごチェコスロバキアから300まんにんにのぼるチェコ在住ざいじゅうドイツじん追放ついほうもとめていた。11月18にち、ベネシュはナチス支持しじしゃをふくむ100まんにんのドイツじん移住いじゅう計画けいかく書簡しょかんつたえた[17]。これはドイツじん追放ついほう政策せいさくにつながるものであった。

1941ねん7がつ、ベネシュはヤークシュらズデーテン・ドイツ社会しゃかい民主党みんしゅとうに「チェコスロバキア共和きょうわこく」に賛成さんせいするかかという条件じょうけんきつけた。この背後はいごにはアメリカやソ連それんがミュンヘン以前いぜんへの復帰ふっき支持しじしているということがあり、1942ねん8がつ5にちにはイギリスがミュンヘン協定きょうてい無効むこう戦後せんごのチェコスロバキア復活ふっかつ宣言せんげんした[18]。お墨付すみつきをたベネシュはヤークシュらと関係かんけいち、かれらの状況じょうきょうはさらに悪化あっかした。

ポーランド=チェコスロバキア連邦れんぽう構想こうそう

[編集へんしゅう]

ベネシュは1939ねん10がつポーランド亡命ぼうめい政府せいふヴワディスワフ・シコルスキ首相しゅしょう会談かいだんし、たいチェコスロバキア政策せいさく強硬きょうこうだった戦前せんぜんとはことなる感触かんしょくた。11月に再度さいどベネシュとシコルスキは会談かいだんし、チェコスロバキア・ポーランドを中心ちゅうしんとする連邦れんぽう成立せいりつさせることで合意ごういした[19]。1940ねん3がつには連邦れんぽう成立せいりつけた共同きょうどう宣言せんげんおこなっている。しかしイギリスによるベネシュ政権せいけん承認しょうにんどくせん勃発ぼっぱつは、チェコスロバキアの国際こくさいてき地位ちいたかめ、ポーランドにたいしてミュンヘン協定きょうてい割譲かつじょうしたチェスキー・チェシーン返還へんかん要求ようきゅうするなど強硬きょうこう態度たいどるようになった。シコルスキはチェシーン問題もんだい棚上たなあげして連邦れんぽう成立せいりつ優先ゆうせんしようとし、1942ねん1がつ19にちにはだいかい共同きょうどう宣言せんげんめられた。しかしベネシュはこの宣言せんげん評価ひょうかしないなど、次第しだい両国りょうこくあいだみぞふかまっていった[20]

連邦れんぽう構想こうそう破綻はたんのきっかけはだいかい宣言せんげんおこなわれた1942ねん1がつ、ポーランド外相がいしょうエドワルド・ラチンスキen:Edward Bernard Raczyński)が連邦れんぽうバルト侵攻しんこうによってソビエト連邦れんぽう支配しはいいていたリトアニアくわえるべきと発言はつげんしたことであった。ポーランドは連邦れんぽう構想こうそうによってソビエト連邦れんぽうとの国境こっきょう問題もんだい有利ゆうりみちびこうとしていたが、たい接近せっきん意図いとしていたベネシュにとってソ連それんとの関係かんけい悪化あっか歓迎かんげいできない事態じたいであった[21]。ベネシュはリトアニア問題もんだいでの譲歩じょうほをポーランドに勧告かんこくしたが、リトアニア喪失そうしつ許容きょようできないソ連それんちゅうおう連邦れんぽう反対はんたい方針ほうしん転換てんかんした。7月16にちソ連それん連邦れんぽう反対はんたい意向いこう明確めいかく伝達でんたつし、ベネシュも連邦れんぽう構想こうそう消極しょうきょくてきとなった。そのカティンのもり事件じけんなどによるポーランド・ソ連それん関係かんけい悪化あっかにより、連邦れんぽう構想こうそう自然しぜん消滅しょうめつした。

たい接近せっきん

[編集へんしゅう]

1942ねん12月から亡命ぼうめい政府せいふ積極せっきょくてきソ連それんとの相互そうご援助えんじょ条約じょうやく成立せいりつ模索もさくはじめ、1943ねん4がつ交渉こうしょう開始かいしされた。しかしイギリスはこの条約じょうやくがポーランドの立場たちばわるくすること、戦時せんじちゅうこくあいだ同盟どうめい樹立じゅりつ自粛じしゅくするというえい合意ごういはんするとしてもう反発はんぱつし、条約じょうやく締結ていけつ反対はんたいした[22]亡命ぼうめい政府せいふはイギリスとも同様どうよう条約じょうやくむすぶことで反発はんぱつやわらげようとしたが、イギリスのはんおうわるく、ソ連それんたいえい条約じょうやく締結ていけつゆるさなかった[23]。イギリスとソ連それん板挟いたばさみとなった亡命ぼうめい政府せいふ進退しんたいきわまり、えいあいだ交渉こうしょうまかせざるをなくなった。

しかし、チェコスロバキア=ソ連それん相互そうご援助えんじょ条約じょうやく議題ぎだいとなった1943ねん10がつモスクワ会談かいだんen:Moscow Conference (1943))では、イギリス外相がいしょうアンソニー・イーデン条約じょうやく締結ていけつにあっさり同意どういした。この態度たいど変更へんこうにはアメリカがこの条約じょうやく締結ていけつ反対はんたいする意図いとがないことがあきらかになったことなどが理由りゆうであるとられている[24]。12月にベネシュはモスクワを訪問ほうもんし、ソ連それん=チェコスロバキア友好ゆうこう協力きょうりょく相互そうご援助えんじょ条約じょうやく締結ていけつされた。

抵抗ていこう運動うんどう

[編集へんしゅう]

亡命ぼうめい政府せいふはチェコない残留ざんりゅうした抵抗ていこう勢力せいりょく連絡れんらくり、援助えんじょした。とくにベーメン・メーレン保護ほごりょうふく総督そうとくラインハルト・ハイドリヒ暗殺あんさつエンスラポイド作戦さくせん)にはふか関与かんよしたが、この事件じけんはドイツによる報復ほうふく虐殺ぎゃくさつまねことになった。1944ねん8がつ29にちスロバキア民衆みんしゅう蜂起ほうきにも関与かんよしたが、この蜂起ほうき失敗しっぱいした。

終結しゅうけつ

[編集へんしゅう]

1944ねん、スロバキアの大半たいはんとカルパティア・ルテニアはソ連それんぐん占領せんりょうちた。占領せんりょうしゃであるソ連それんぐんはカルパティア・ルテニアにザカルパート・ウクライナを建国けんこくさせた。これは戦前せんぜん国境こっきょうせんもどすという約束やくそく違反いはんであり、亡命ぼうめい政府せいふはげしく抗議こうぎしたがれられなかった。のちにザカルパート・ウクライナはウクライナいちしゅうザカルパッチャしゅうとしてソ連それん併合へいごうされることになる。

1945ねん4がつ4にち亡命ぼうめい政府せいふソ連それんぐん占領せんりょうにあったスロバキア東部とうぶコシツェうつり、チェコスロバキア共産党きょうさんとうとともに臨時りんじ政府せいふ結成けっせいするというコシツェ宣言せんげんおこなった。5月5にちプラハ蜂起ほうきen:Prague uprising)と、そのプラハのたたかて、5月12にちにプラハからナチス・ドイツは駆逐くちくされた。5月16にち、ベネシュはプラハのきゅう市庁舎しちょうしゃ帰還きかん演説えんぜつおこない、亡命ぼうめい政府せいふ帰国きこく宣言せんげんした[25]。しかしベネシュらの勢力せいりょくソ連それんがわ圧迫あっぱくい、ついには1948ねんのチェコスロバキア政変せいへんによって共産党きょうさんとう政権せいけん主導しゅどうけんにぎり、チェコスロバキアは社会しゃかい主義しゅぎこくへのみちをたどることになる。

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ 矢田部やたべ(2004:230-229)
  2. ^ 矢田部やたべ(2004:228)
  3. ^ 矢田部やたべ(2004:228-227)
  4. ^ 矢田部やたべ(2004:227-226)
  5. ^ 矢田部やたべ(2004:226-225)
  6. ^ 矢田部やたべ(2004:224-225)
  7. ^ 矢田部やたべ(2004:222)
  8. ^ 矢田部やたべ(2004:222-221)
  9. ^ 矢田部やたべ(2004:220-219)
  10. ^ a b 矢田部やたべ(2004:218)
  11. ^ 矢田部やたべ(2004:215-214)
  12. ^ a b 相馬そうま(2009-12:160)
  13. ^ 相馬そうま(2009-12:162)
  14. ^ 相馬そうま(2009-12:169-170)
  15. ^ 相馬そうま(2009:167)
  16. ^ 相馬そうま(2009-12:168)
  17. ^ 相馬そうま(2009-12:168-169)
  18. ^ 相馬そうま(2010-12:251-253)
  19. ^ 広瀬ひろせ(1987:115)
  20. ^ 広瀬ひろせ(1987:116)
  21. ^ 広瀬ひろせ(1987:117)
  22. ^ 伊東いとう(1978:149-150)
  23. ^ 伊東いとう(1978:150)
  24. ^ 伊東いとう(1980:166-167)
  25. ^ 矢田部やたべ(2004:213)

関連かんれん項目こうもく

[編集へんしゅう]