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ヤン・マサリク

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ヤン・マサリク
Jan Masaryk
ヤン・マサリク(撮影さつえい時期じき不明ふめい
生年月日せいねんがっぴ 1886ねん3がつ10日とおか
出生しゅっしょう オーストリア=ハンガリー帝国の旗 オーストリア=ハンガリー帝国ていこく プラハ
ぼつ年月日ねんがっぴ (1948-03-10) 1948ねん3がつ10日とおか(62さいぼつ
死没しぼつ チェコスロバキアの旗 チェコスロバキア プラハ
出身しゅっしんこう ベイツ大学だいがく
ぜんしょく 外交がいこうかん
配偶はいぐうしゃ Frances Crane Leatherbee
親族しんぞく トマーシュ・マサリクちち

内閣ないかく だい1フィールリンゲル内閣ないかく
だい2フィールリンゲルないかく
だい1ゴットワルト内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1945ねん4がつ5にち - 1948ねん3がつ10日とおか
大統領だいとうりょう エドヴァルド・ベネシュ
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ヤン・ガリッグ・マサリクチェコ: Jan Garrigue Masaryk, 1886ねん3月14にち - 1948ねん3がつ20日はつか)は、チェコスロバキア外交がいこうかん政治せいじ

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

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ヤン・マサリクは、チェコスロバキア初代しょだい大統領だいとうりょうちちトマーシュ・マサリクと、アメリカまれのははシャーロットのあいだに、プラハまれた。マサリクはプラハとアメリカで教育きょういくけた。

外交がいこうかん[編集へんしゅう]

だいいち大戦たいせんなか、マサリクはオーストリア=ハンガリー帝国ていこく軍隊ぐんたい服務ふくむした。1918ねんよりチェコスロバキアは独立どくりつ運動うんどう開始かいしし1920ねん独立どくりつした。マサリクは1919ねんにチェコスロバキアの外交がいこうかんとなり、1922ねんまで、ちゅう米国べいこく代理だいり大使たいしとなった。1925ねんにマサリクはちゅうイギリス大使たいしとなった。

1938ねん9月29にちのイギリスとフランスドイツイタリア各国かっこく首脳しゅのうにより、ズデーテン地方ちほう帰属きぞく問題もんだい解決かいけつするためにおこなわれたミュンヘン協定きょうてい結果けっか、ドイツけい住民じゅうみん多数たすうめていたズデーテンラントのドイツ帰属きぞく主張しゅちょうしたドイツのアドルフ・ヒトラー総統そうとうたいして、イギリスおよびフランス政府せいふは、これ以上いじょう領土りょうど要求ようきゅうおこなわないとの約束やくそくをドイツとわす代償だいしょうとしてヒトラーの要求ようきゅう全面ぜんめんてきみとめることになった。この結果けっか、ズデーテンラントはドイツ国防こくぼうぐんによって占領せんりょうされること決定けっていした。

マサリクはミュンヘンで協定きょうていしょった2人ふたりのチェコスロバキア代表だいひょうであったが、あまりの内容ないようなみだながしたという。その、イギリスにたいする抗議こうぎのために大使たいし辞任じにんしたが、大使たいし辞任じにんロンドンとどまった。

1939ねん3がつにドイツはチェコのこりの地域ちいきぐんおくり、ボヘミアモラヴィア占領せんりょうし、独立どくりつした独立どくりつスロバキアはドイツの保護ほごこくした。これによりチェコスロバキアは事実じじつじょう消滅しょうめつすることとなった。

外務がいむ大臣だいじん[編集へんしゅう]

同年どうねん9がつだい世界せかい大戦たいせん開戦かいせん1940ねんに、チェコスロバキアの亡命ぼうめい政権せいけんがロンドンで設立せつりつされた。マサリクは亡命ぼうめい政権せいけん外務がいむ大臣だいじん就任しゅうにんした。だい世界せかい大戦たいせんちゅう、マサリクはBBCつうじてドイツぐんによる占領せんりょうにあるチェコスロバキアに定期ていきてき放送ほうそうおこなった。1942ねんにマサリクはベイツ大学だいがくから法学ほうがく博士はかせごうった。

1945ねん5月にドイツは連合れんごうこくぐん敗北はいぼくし、ソ連それんぐんによりチェコスロバキアは解放かいほうされマサリクは帰国きこくした。そのもとチェコスロバキア大統領だいとうりょうで、ロンドンのチェコスロバキア亡命ぼうめい政府せいふ代表だいひょうであったエドヴァルド・ベネシュ大統領だいとうりょう復帰ふっきしマサリクは外務がいむ大臣だいじんとなった。

しかし大戦たいせんのチェコスロバキアはソ連それん影響えいきょうつよまり、1946ねん実施じっしされた選挙せんきょチェコスロバキア共産党きょうさんとうが38%の得票とくひょうだいいちとうになった。これをけて共産党きょうさんとう指導しどうしゃクレメント・ゴットワルド首班しゅはんとする連合れんごう政党せいとうである国民こくみん戦線せんせん政府せいふ成立せいりつし、内務省ないむしょうなど治安ちあん機関きかん教育きょういく宣伝せんでんといった重要じゅうようポストを獲得かくとくしたが、マサリクはその一員いちいんとして外務がいむ大臣だいじん留任りゅうにんした。

冷戦れいせん[編集へんしゅう]

アメリカ大使たいしローレンス・スタインハート会談かいだんするヤン・マサリク(ひだり

アメリカソ連それん対立たいりつ、いわゆる冷戦れいせんふかまり、隣国りんごくポーランドハンガリー共産党きょうさんとういちとう体制たいせい成立せいりつしていく国際こくさい環境かんきょう変化へんかは、チェコスロヴァキアの国内こくない政治せいじにも影響えいきょうおよぼし、国民こくみん戦線せんせんつうじて連合れんごう政権せいけんんでいた共産きょうさんけい政党せいとう共産党きょうさんとう政権せいけん亀裂きれつふかまっていった。また1947ねんマーシャルプラン参加さんかをめぐっていったん参加さんか受諾じゅだくしたものの、ソ連それん意向いこう撤回てっかいせざるをなかったことや、コミンフォルム創設そうせつ会議かいぎにおいてユーゴスラビアなどから批判ひはんびたことも国内こくない政治せいじ対立たいりつ拍車はくしゃをかけた。

1948ねん2がつ22にちに、ノセク内相ないしょうかくないでの合意ごうい無視むしして共産きょうさん党員とういん警察官けいさつかん職場しょくば復帰ふっき拒否きょひしたことをけて、12めい共産きょうさんけい閣僚かくりょう抗議こうぎ表明ひょうめいとして辞表じひょう提出ていしゅつした。その全国ぜんこくソ連それん後援こうえんけた共産党きょうさんとう主導しゅどう示威じい行動こうどう発生はっせいし、またソ連それん大使たいしヴァレリアン・ゾーリンがプラハりし、ソ連それん介入かいにゅう可能かのうせいたかまっていく状況じょうきょう、そしてクレメント・ゴットヴァルトによる全国ぜんこくゼネストのびかけといった政治せいじてき圧力あつりょくけて、2がつ25にちにベネシュは最終さいしゅうてき辞表じひょう受理じゅりし、共産党きょうさんとうおやモスクワ社会しゃかい民主党みんしゅとうによりゴットワルドが首班しゅはんとなるしん政権せいけん指名しめいした。マサリクはこの政権せいけんでも外務がいむ大臣だいじん留任りゅうにんした。

殺害さつがい[編集へんしゅう]

ヤン・マサリクの葬儀そうぎ
ヤン・マサリクのあたまぞう

マサリクはソ連それんされモスクワ訪問ほうもんし、ヴャチェスラフ・モロトフ外相がいしょう会談かいだん帰国きこくしたが、帰国きこくあいだもない1948ねん3がつ10日とおか外務省がいむしょう中庭なかにわ浴室よくしつまどしたでパジャマ姿すがた遺体いたいとなって発見はっけんされた。死因しいん転落てんらくであった。

初期しょきの「調査ちょうさ」では、マサリクはまどからりて自殺じさつしたと発表はっぴょうした。冷戦れいせん終結しゅうけつ秘密ひみつ文書ぶんしょ次々つぎつぎ公表こうひょうされるようになった1990年代ねんだい以降いこう有力ゆうりょくせつでは、この自殺じさつせつ否定ひていされマサリクは、政府せいふ大半たいはんめる共産きょうさん主義しゅぎしゃにより、まどからとされ殺害さつがいされたとかんがえられている。マサリクのには不自然ふしぜんてんおお議論ぎろん長年ながねんつづいている(下記かき訳書やくしょもそのひとつ)。

マサリクは殺害さつがいされたととらえるひとたちは、だいさんプラハまどがい投擲とうてき事件じけんんでいる。

文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

先代せんだい
フランティシェク・フヴァルコフスキー
チェコスロヴァキア外相がいしょう
1940ねん - 1948ねん
次代じだい
ヴラディミール・クレメンティス