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東部とうぶ総合そうごう計画けいかく

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東部とうぶ総合そうごう計画けいかく
くろせんナチとう権力けんりょく掌握しょうあく時点じてん国境こっきょう1935ねん
あお緑色みどりいろ:1935ねん時点じてんドイツこく
黒点こくてんせんドイツぐん最大さいだい進出しんしゅつせん1943ねん
あかせん:1943ねん時点じてんのドイツ本土ほんど
あお点線てんせん:1943ねん時点じてん国境こっきょう・ドイツの行政ぎょうせい区分くぶん
青色あおいろ文字もじポーランド総督そうとく国家こっか弁務べんむかん統治とうち区域くいき(OstlandとUkraine。MoskowienとKaukasienは占領せんりょう。)

東部とうぶ総合そうごう計画けいかく(とうぶそうごうけいかく、ドイツ: Generalplan Ost)とは、ナチス・ドイツ策定さくていした、ポーランド侵攻しんこうどくせん占領せんりょうしたポーランドおよ東部とうぶ占領せんりょう地域ちいき東部とうぶ)の再編さいへん計画けいかくあんドイツじん植民しょくみんによるゲルマン達成たっせいするために、スラブじんポーランドじんひとし追放ついほう前提ぜんていとしていた。

策定さくていまでの経緯けいい[編集へんしゅう]

ドイツがウクライナひとしひがしヨーロッパ獲得かくとくしてドイツこく版図はんととする、いわゆる「東方とうほう生存せいぞんけん」の獲得かくとくナチズムにとって重要じゅうよう問題もんだいであった。1939ねん9月のポーランド侵攻しんこうとその勝利しょうりは、ドイツにとって東方とうほう生存せいぞんけん獲得かくとく現実げんじつのものとした。10月7にちドイツ民族みんぞくせい強化きょうか国家こっか委員いいんにんじられた親衛隊しんえいたい全国ぜんこく指導しどうしゃハインリヒ・ヒムラーは、親衛隊しんえいたいにドイツ民族みんぞくせい強化きょうか国家こっか委員いいん本部ほんぶ略称りゃくしょうRKFまたはRKFDV)を設置せっちし、東部とうぶにおける人種じんしゅ政策せいさく監督かんとく実行じっこうたることとなった。

当時とうじポーランド統治とうちにあたっていたのはハンス・フランク総督そうとくとするポーランド総督そうとくであったが、経済けいざいめんにおいてはヘルマン・ゲーリング長官ちょうかんとするよんカ年かねん計画けいかくちょうによって設立せつりつされた東部とうぶ信託しんたく公社こうしゃde:Haupttreuhandstelle Ost)がおおきなちからっていた。東部とうぶ信託しんたく公社こうしゃ官僚かんりょうたちはポーランド総督そうとく府領ふりょう生産せいさんてきな「帝国ていこく隣国りんごく」として再建さいけんしようとかんがえ、ユダヤじん資産しさん収奪しゅうだつや、ポーランドじん・ユダヤじん強制きょうせい労働ろうどう動員どういんしようとかんがえていた[1]。しかしアドルフ・ヒトラー当初とうしょからポーランドを「廃墟はいきょ労働ろうどう奴隷どれい居留きょりゅう以上いじょうにするかんがえはなかった。ヒトラーの意図いとんだ総督そうとく親衛隊しんえいたいはユダヤじん問題もんだいなどをめぐってよんカ年かねん計画けいかくちょうはげしい対立たいりつひろげたが、ヒトラー自身じしんはこの権力けんりょく闘争とうそうをほとんど放置ほうちした[2]

1940ねん12月、ヒトラーはたいせん決断けつだんし、作戦さくせん計画けいかく策定さくてい命令めいれいした。しかしこのころにはイギリスによる海上かいじょう封鎖ふうさ影響えいきょうでドイツの資源しげん食糧しょくりょう事情じじょう悪化あっかはじめていた。1941ねんにはユーゴスラビア侵攻しんこうバルカン戦線せんせん (だい世界せかい大戦たいせん)東南とうなんヨーロッパ侵攻しんこうし、どくせん開始かいしおくれることになったが、この侵攻しんこう資源しげん不足ふそく緩和かんわ目的もくてきのひとつとなっているなど[3]国防こくぼうぐんや4カ年かねん計画けいかくちょうとうでも食糧しょくりょう兵站へいたん問題もんだい喫緊きっきん課題かだいとなっていた。

この状況じょうきょうで、ヒムラーはバルバロッサ作戦さくせん発動はつどう前日ぜんじつである1941ねん6月21にちに、ドイツ民族みんぞくせい強化きょうか国家こっか委員いいん本部ほんぶ計画けいかくどく戦後せんご総合そうごう計画けいかく東部とうぶ総合そうごう計画けいかく」の策定さくてい命令めいれいした[4]責任せきにんしゃベルリン大学だいがく教授きょうじゅコンラート・マイヤーde:Konrad Meyer)はすでに研究けんきゅうすすめており、3週間しゅうかん最初さいしょ計画けいかく提出ていしゅつした[4]。さらに1942ねん7がつにマイヤーは改訂かいていばん計画けいかく提出ていしゅつしている。最初さいしょ計画けいかくあん現存げんそんしていないが、東部とうぶ占領せんりょう地域ちいきしょうエアハルト・ヴェッツェルde:Erhard Wetzel)が鑑定かんていした報告ほうこくしょのこされており、計画けいかく概要がいようしるされている。

計画けいかく概要がいよう[編集へんしゅう]

追放ついほう[編集へんしゅう]

占領せんりょう地域ちいきにドイツじん入植にゅうしょくするためには、先住せんじゅうしゃであるロシアじんはじめとするスラブじん追放ついほう消滅しょうめつさせることが前提ぜんていであった。総合そうごう計画けいかくではポーランドとロシアがその対象たいしょうであり、3せんまんから5せんまん移住いじゅう必要ひつようであると目論もくろんでいた。

しかしこの移住いじゅうには、たんにロシアじん移送いそうすることだけではなく、ヨーロッパ・ユダヤじん絶滅ぜつめつどくせんによるロシアじん戦死せんししゃ200まんにん、そして餓死がしもの発生はっせい前提ぜんていとしていた[5]。すでによんカ年かねん計画けいかくちょう食糧しょくりょう次官じかんヘルベルト・バッケによって、包囲ほういいた地域ちいきから食糧しょくりょう収奪しゅうだつすることで、すうひゃくまんにんのロシアじん・スラブじん餓死がしするという計画けいかく立案りつあんされていた(飢餓きが計画けいかく英語えいごばん))[6]かれらは最終さいしゅうてきに3せんまんにんのロシアじん餓死がしすると見込みこんでいた[6]が、総合そうごう計画けいかくによる移住いじゅう計画けいかくもこれを前提ぜんていとしたものであった。

改訂かいていばん計画けいかくでは移住いじゅう人数にんずうおおきく減少げんしょうしているが、これは労働ろうどうりょくとしてロシアじん・ポーランドじん強制きょうせい労働ろうどうさせる需要じゅようまれたためである[5]

占領せんりょう地域ちいきからの移住いじゅう対象たいしょうしゃ割合わりあい[7][8]
民族みんぞく 移住いじゅう対象たいしょう割合わりあい
ポーランドじん 80-85%
ロシアじん 50-60%は物理ぶつりてき排除はいじょ(恣意しいてき殺害さつがいなど)。15%はシベリアに移住いじゅう
ベラルーシじん 75%
ウクライナじん 65%
リトアニアじん 85%
ラトビアじん 50%
エストニアじん 50%
チェコじん 50%
ラトガリアじん 100%

植民しょくみん[編集へんしゅう]

空白くうはくとなった東部とうぶには、ドイツじん移住いじゅうおこなわれることになっていた。改訂かいていばん計画けいかくでは25年間ねんかんに490まんにん移住いじゅう必要ひつようであるとかんがえられていたが、ドイツけい移住いじゅうしゃをこれだけさがすことは困難こんなんであった[5]。そのためリトアニアじんラトビアじんのうち人種じんしゅてき価値かちたかいとられたもの中層ちゅうそう階級かいきゅう位置いちづけ、さらに現地げんち住民じゅうみん下層かそう階級かいきゅう位置いちづけることで労働ろうどうりょく軽減けいげんしようとした。ゲッツ・アリードイツばんスザンネ・ハイムドイツばん共著きょうちょ絶滅ぜつめつ政策せいさく立案りつあんしゃたち―アウシュヴィッツとドイツのヨーロッパしん秩序ちつじょ計画けいかく』ではこれを「いまや『ドイツじん』は指導しどうそう予定よていされたが、『残存ざんそんする民族みんぞく住民じゅうみん』は『よりひく社会しゃかい階層かいそう』に配置はいちされねばならなかった。」とひょうし、そのれいとして東部とうぶ総合そうごう計画けいかくをめぐる会議かいぎ参加さんかしゃ発言はつげん引用いんようしている[9]。その発言はつげんでは東部とうぶ将来しょうらいぞうスパルタ社会しゃかい構造こうぞうになぞらえ、ドイツじん自由じゆうみんであるスパルタじん、リトアニア・ラトビアじんはん自由じゆうみんであるペリオイコイ[10]現地げんち残留ざんりゅうしたロシアじん奴隷どれいであるヘイロタイ位置いちづけられるべきであるというものであった[9]

予算よさん[編集へんしゅう]

計画けいかくのためにかかる費用ひようは、今後こんご25年間ねんかんに650おくライヒスマルクであると見積みつもられた[9]。しかしドイツ政府せいふ支出ししゅつ最小限さいしょうげんさえられるべきであって、ユダヤじん・ロシアじんからの略奪りゃくだつ資産しさん強制きょうせい労働ろうどうによってまかなわれるべきであるとされた[9]

計画けいかく実行じっこう[編集へんしゅう]

ドイツ本国ほんごく併合へいごう地域ちいき以外いがいではこれらの計画けいかく戦局せんきょく悪化あっかによってほとんど実行じっこううつされなかったが、一部いちぶ計画けいかくは「特別とくべつ実験じっけんしつ」とよばれたザモシチとう実行じっこううつされた。ザモシチに民族みんぞくドイツじん10まんにん移住いじゅうする一方いっぽうで、一部いちぶ住民じゅうみん強制きょうせい労働ろうどう、そして一部いちぶ住民じゅうみんアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制きょうせい収容しゅうようしょなど絶滅ぜつめつ収容しゅうようしょおくられた(de:Aktion Zamość[11]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ たに、659-660、669p
  2. ^ たに、669p
  3. ^ たに、676p
  4. ^ a b たに、678p
  5. ^ a b c たに、680p
  6. ^ a b たに、677p
  7. ^ HITLER'S PLANS FOR EASTERN EUROPE Selections from Janusz Gumkowkski and Kazimierz Leszczynski POLAND UNDER NAZI OCCUPATION Archived 2012ねん4がつ13にち, at the Wayback Machine.
  8. ^ The Baltic States: Years of Dependence, 1940-80 page 48 Romuald J. Misiunas,Rein Taagepera,Georg von Rauch University of California Press 1983
  9. ^ a b c d たに、681p
  10. ^ 土地とち所有しょゆうけんみとめられるが、参政さんせいけんたない
  11. ^ たに、681-682p

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]