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服部擔風はっとりたんぷう

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服部はっとり 擔風もしくは服部はっとり 担風(はっとり たんぷう、慶応けいおう3ねん11月16にち1867ねん12月21にち) - 昭和しょうわ39ねん1964ねん5月27にち)は、明治めいじ大正たいしょう昭和しょうわにかけて活躍かつやくした漢詩かんしじん書家しょか

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

1867ねん慶応けいおう3ねん尾張おわりこくうみ西郡にしごおり鯏浦うぐいうらまれた[1]戦国せんごく時代じだい土豪どごう服部はっとりともさだ子孫しそんで、だい地主じぬしいえ次男じなんであった。幼名ようみょうは粂之すすむ(くめのじょう)。おさないころから、あにとも尾張おわりはん儒者じゅしゃ森村もりむら大朴おぼそ漢籍かんせきまなび、大朴おぼそは粂之すすむ熱心ねっしんさに感心かんしんし、漢詩かんしをつくるようすすめられ、現在げんざい一宮いちのみや出身しゅっしん漢詩かんしじん大家たいかもり春涛しゅんとうらの影響えいきょうけた粂之すすむは、を擔風とあらため、研究けんきゅうとともに詩作しさくはげみ、1891ねん明治めいじ24ねん)「梅花ばいか唱和しょうわ(ばいかしょうわ)の」を東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん現在げんざい毎日新聞まいにちしんぶん)に発表はっぴょうした。 その弥富やとみ講義こうぎ詩作しさく指導しどうみ、この地域ちいき漢詩かんしさかんになることに尽力じんりょくした[1]。1964ねん老衰ろうすいにより弥富やとみまち自宅じたくで96さいぼっした[2]


かれ使用しようした1902ねん明治めいじ35ねんちくやく20m2木造もくぞう平屋ひらや書斎しょさいあいてい(らんてい)」は弥富やとみ森津もりづにの森津もりづふじ公園こうえん移築いちくされ、2017ねん平成へいせい29ねん)4がつ一般いっぱん公開こうかいされている[1]

年譜ねんぷ[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e 酒井さかい博章ひろあき (2017ねん4がつ19にち). “擔風の功績こうせき 後世こうせい弥富やとみ 漢詩かんし手掛てがけた書斎しょさい 公園こうえん移築いちく”. 中日新聞ちゅうにちしんぶん (中日新聞社ちゅうにちしんぶんしゃ): p. 朝刊ちょうかん 尾張おわり総合そうごうばん 15 
  2. ^ 出版しゅっぱん年鑑ねんかん 1965年版ねんばん出版しゅっぱんニュースしゃ、1965ねん