(Translated by https://www.hiragana.jp/)
青山杉雨 - Wikipedia コンテンツにスキップ

青山あおやますぎ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
青山あおやま すぎ
生誕せいたん 青山あおやま文雄ふみお
1912ねん6月6にち
日本の旗 日本にっぽん愛知あいちけん江南えな
死没しぼつ (1993-02-13) 1993ねん2がつ13にち(80さいぼつ
日本の旗 日本にっぽん東京とうきょう
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん東京とうきょう
研究けんきゅう分野ぶんや 篆書てんしょ隷書れいしょ古文こぶん書体しょたい研究けんきゅう
研究けんきゅう機関きかん 大東文化大学だいとうぶんかだいがく
影響えいきょう
けた人物じんぶつ
西川にしかわやすし
影響えいきょう
あたえた人物じんぶつ
関根せきね薫園くんえん成瀬なるせうつやま
おも受賞じゅしょうれき くんさんとう旭日きょくじつちゅう綬章じゅしょう1985ねん
文化ぶんか勲章くんしょう1992ねん
したがえさん銀杯ぎんぱいいちくみ(1993ねん
プロジェクト:人物じんぶつでん
テンプレートを表示ひょうじ

青山あおやま すぎ(あおやま さんう、1912ねん6月6にち - 1993ねん2がつ13にち[1])は、書家しょか愛知あいちけん葉栗はぐりぐん草井くさいむら大字だいじ村久野むらくのげん江南えなまれ。大東文化大学だいとうぶんかだいがく教授きょうじゅごうすぎ本名ほんみょう文雄ふみお[1][2]

業績ぎょうせき生涯しょうがい[編集へんしゅう]

当初とうしょこうそう得意とくいとしたが、だい大戦たいせん篆書てんしょ隷書れいしょ古文こぶんなどの書体しょたい書法しょほう研究けんきゅうすすめ、金石かねいしあやもとづく篆隷をもちいた多様たよう書体しょたい駆使くしする作風さくふう確立かくりつした[3]しょ規範きはん中国ちゅうごくもとめ、それを日本人にっぽんじん感覚かんかく表現ひょうげんする姿勢しせいつらぬ[3]中国ちゅうごくしょ古典こてん素材そざいとして現代げんだい感覚かんかく融合ゆうごうさせたとひょうされる[3]

すぎ作品さくひん作品さくひんごとにおもむきことなるため、「いちさくいち面貌めんぼう」としょうされる[3]とく篆書てんしょ作品さくひんすぎもっと得意とくいとした書体しょたいであり[3]、その絵画かいがてき要素ようそつよ作風さくふう内外ないがいおおきな影響えいきょうあたえた[3]生涯しょうがいいち個展こてんひらくことがなかった。

しょもちいるすずり印材いんざい水滴すいてきなどにすぐれた鑑識かんしきち、おおくの優品ゆうひん収集しゅうしゅうした[3]。また、教育きょういくしゃとしておおくの弟子でしそだてるとともに、雑誌ざっし書道しょどうグラフ』を主宰しゅさいし、中国ちゅうごく書法しょほう社会しゃかいてき普及ふきゅう尽力じんりょくした[3]

略歴りゃくれき[編集へんしゅう]

1912ねん明治めいじ45ねん愛知あいちけん葉栗はぐりぐん草井くさいむら大字だいじ村久野むらくの[1]次男じなんとして生誕せいたん。1916ねん大正たいしょう5ねん東京とうきょう向島むこうじま上京じょうきょう[4]養母ようぼふとひとし(たに)にそだてられ、旧制きゅうせいしば中学ちゅうがく進学しんがく[5]従兄弟いとこおっと書家しょか大池おおいけ晴嵐せいらん師事しじする[3]

1934ねん昭和しょうわ9ねん)22さいより25さいまで東横ひがしよこ百貨店ひゃっかてん勤務きんむ世田谷せたがや尾山台おやまだい書道しょどうじゅくはじめる。1941ねん昭和しょうわ16ねんだい12かいたいひがし書道しょどういん総裁そうさいひがし久邇くにみやしょう受賞じゅしょう[3]1942ねん昭和しょうわ17ねん西川にしかわやすし師事しじする[6]1945ねん昭和しょうわ20ねん横須賀よこすか海兵かいへいだん入営にゅうえい

1948ねん昭和しょうわ23ねん日展にってんはつ入選にゅうせん[7][8]翌々年よくよくねんから特選とくせん連続れんぞく受賞じゅしょうたし[7]1951ねん昭和しょうわ26ねん毎日まいにち書道しょどうてん審査しんさいん就任しゅうにんだい9かい以降いこう通算つうさん20かい審査しんさいんつとめた。1954ねん昭和しょうわ29ねん日展にってん審査しんさいん就任しゅうにん1955ねん昭和しょうわ30ねん大東文化大学だいとうぶんかだいがく講師こうしとなる。1957ねん昭和しょうわ32ねんだい1かい現代げんだい書道しょどうじゅうにんてん招待しょうたい作家さっかとして出品しゅっぴん1961ねん昭和しょうわ36ねんけんまき書道しょどうかい初代しょだい理事りじちょう選任せんにん[1]1963ねん昭和しょうわ38ねんだい6かい日展にってん文部もんぶ大臣だいじんしょう受賞じゅしょうしゅうえきなかまこと[3]1965ねん昭和しょうわ40ねん全日本ぜんにほん書道しょどう連盟れんめい改組かいそともない、特別とくべつ顧問こもん就任しゅうにん1965ねん昭和しょうわ40ねん日本にっぽん芸術げいじゅついんしょう受賞じゅしょうだい8かい日展にってん出品しゅっぴんさく詩経しきょう一節いっせつ[6][9]1968ねん昭和しょうわ43ねん大東文化大学だいとうぶんかだいがく教授きょうじゅ就任しゅうにん[8](1959ねんからとする記述きじゅつもある[6])。

1969ねん昭和しょうわ44ねん日展にってん理事りじ就任しゅうにん[8]以後いご参事さんじ常務じょうむ理事りじ歴任れきにんした[8]1971ねん昭和しょうわ46ねん中京大学ちゅうきょうだいがく書道しょどうせん組織そしき編成へんせいにあたり、講師こうしつとめる。1974ねん昭和しょうわ49ねん全国ぜんこくしょ美術びじゅつ振興しんこうかい創立そうりつし、顧問こもんとなる。1983ねん昭和しょうわ58ねん)、日本にっぽん芸術げいじゅついん会員かいいんとなる[1]1984ねん昭和しょうわ59ねん読売よみうり書法しょほうかい創立そうりつ[8]総務そうむ就任しゅうにん[8]以後いご審査しんさいん企画きかく委員いいんとう歴任れきにんした。1985ねん昭和しょうわ60ねんくんさんとう旭日きょくじつちゅう綬章じゅしょう受章じゅしょう全日本ぜんにほん書道しょどう連盟れんめい名誉めいよ顧問こもん就任しゅうにん1986ねん昭和しょうわ61ねん日本にっぽん書道しょどう教育きょういく会議かいぎ創立そうりつふく会長かいちょうとなる。1988ねん昭和しょうわ63ねん文化ぶんか功労こうろうしゃ選出せんしゅつ[8]1990ねん平成へいせい2ねん成田山なりたやま書道しょどう美術館びじゅつかん設立せつりつ発議はつぎ1991ねん平成へいせい3ねんだい23かい日展にってん天皇陛下てんのうへいか参観さんかん解説かいせつをする。1992ねん平成へいせい4ねん文化ぶんか勲章くんしょう受章じゅしょう[1][8]1993ねん平成へいせい5ねん西にし泠印しゃ名誉めいよ顧問こもん

1993ねん平成へいせい5ねん肺炎はいえんのため死去しきょ(80さい)。法名ほうみょうひろしさとしいん殿どのぶんほまれすぎだい居士こじ目黒めぐろ高福たかよしいんほうむられる。したがえさんおよび銀杯ぎんぱいいちくみ追贈ついぞうされる[1]

2010ねん遺族いぞく寄付きふにより大東文化大学だいとうぶんかだいがく青山あおやますぎしょうもうけられた(2019ねん終了しゅうりょう[6]

死後しご開催かいさいてん[編集へんしゅう]

  • 1994ねん平成へいせい6ねん)『青山あおやますぎてん』(東京とうきょう名古屋なごや大阪おおさか成田なりた ~1995ねん
  • 1998ねん平成へいせい10ねん学術がくじゅつ論文ろんぶんしょう青山あおやますぎ記念きねんしょう」(青山あおやますぎ記念きねんしょう実行じっこう委員いいんかい実施じっし
  • 2012ねん平成へいせい24ねん特別とくべつてん青山あおやますぎしょ』(東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかん開催かいさい
  • 2013ねん平成へいせい25ねん生誕せいたんひゃくねん青山あおやますぎ時代じだい』(成田山なりたやま書道しょどう美術館びじゅつかん)、「青山あおやますぎのコレクションとしょ」(上海しゃんはい博物館はくぶつかん開催かいさい[7]

役職やくしょく[編集へんしゅう]

自身じしん最高さいこう役職やくしょくのみ記載きさい

著書ちょしょ[編集へんしゅう]

  • 青山あおやますぎ書法しょほう』(1976ねん
  • 中国ちゅうごくしょ法名ほうみょうあと』(1979ねん
  • しょ実相じっそう 中国ちゅうごく書道しょどう史話しわ』(1982ねん
  • 江南こうなんゆう 中国ちゅうごく文人ぶんじん風土記ふどき』(1983ねん
  • あきら清書せいしょどう図説ずせつ』(1986ねん
  • 文字もじせいれい』(1991ねん
  • 青山あおやますぎ作品さくひん』(1994ねん
  • 青山あおやますぎ文集ぶんしゅう』(2005ねん

門弟もんてい[編集へんしゅう]

しょ教育きょういくには熱心ねっしんであり、弟子でしは2000にんほどいたといわれる。しかし、次々つぎつぎ団体だんたいつくきんあつ集団しゅうだんしたとの批判ひはんもある。以下いか物故ぶっこしゃのみ。

  • 関根せきね薫園くんえん
  • 成瀬なるせうつやま
  • 種村たねむらさんわらわ
  • 稲垣いながきすずな
  • 大島おおしま嵓山
  • 吉田よしだらんしょ
  • 松原まつばらゆきくに
  • 中島なかじま蘭山あららぎやま

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e f g けんまき書道しょどうかい なな賢人けんじん青山あおやま すぎ”. www.kensinn.org. けんまき書道しょどうかい. 2022ねん4がつ26にち閲覧えつらん
  2. ^ 上田うえだただしあきら津田つだ秀夫ひでお永原ながはらけい藤井ふじい松一しょういち藤原ふじわらあきら、『コンサイス日本人にっぽんじんめい辞典じてん だい5はん』、株式会社かぶしきがいしゃ三省堂さんせいどう、2009ねん 8ぺーじ
  3. ^ a b c d e f g h i j k にちちゅう国交こっこう正常せいじょう40周年しゅうねん 東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかん140周年しゅうねん 生誕せいたん100ねん記念きねん 特別とくべつてん青山あおやますぎしょ”. www.tnm.jp. 東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかん. 2022ねん4がつ26にち閲覧えつらん
  4. ^ 古木ふるきまこと彦「青山あおやますぎしょ芸術げいじゅつかん : 『書道しょどう研究けんきゅう』<表紙ひょうしのことば>の考察こうさつ」『九州女子大学きゅうしゅうじょしだいがく紀要きようだい48かんだい1ごう九州女子大学きゅうしゅうじょしだいがく、2011ねん、201-216ぺーじ 
  5. ^ 猪熊いのくま建夫たけお (2017-01-31) (2017). “名門めいもん高校こうこう校風こうふう人脈じんみゃく226、しば高校こうこう私立しりつ東京とうきょうみなと)”. 週刊しゅうかんエコノミスト 2017ねん01がつ31にちごう: 44. 
  6. ^ a b c d 2019年度ねんど青山あおやますぎしょうを5にん受賞じゅしょう大東文化大だいとうぶんかだい 文学部ぶんがくぶ”. 大東文化大学だいとうぶんかだいがく. 2022ねん4がつ26にち閲覧えつらん
  7. ^ a b c 古木ふるきまこと彦「青山あおやますぎ作品さくひん年譜ねんぷ(いちきゅうさんろくねん~いちきゅうろくねん) (九州女子大学きゅうしゅうじょしだいがく 創立そうりつ50周年しゅうねん記念きねんごう)」『九州女子大学きゅうしゅうじょしだいがく紀要きようだい49かんだい1ごう九州女子大学きゅうしゅうじょしだいがく、2012ねん、281-297ぺーじ 
  8. ^ a b c d e f g h 青山あおやますぎしょ”. 茂原しげはららし. 茂原もはら. 2022ねん4がつ26にち閲覧えつらん
  9. ^ 朝日新聞あさひしんぶん』1966ねん4がつ7にち東京とうきょう本社ほんしゃ発行はっこう朝刊ちょうかん、14ぺーじ

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]