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北出きたいでとう次郎じろう

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北出きたいで とう次郎じろう(きたで とうじろう、1898ねん3月8にち[1] - 1968ねん12月12にち)は、日本にっぽん陶芸とうげい九谷焼くたにやき陶芸とうげい作家さっか旧姓きゅうせい坂本さかもと本名ほんみょう北出きたいでふじ治郎じろう[1]さくすえてんじる以前いぜん多様たよう経験けいけん知識ちしきから九谷焼くたにやきあたらしい作風さくふうした。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

1898ねん明治めいじ31ねん兵庫ひょうごけんまれる。1916ねん大正たいしょう5ねん関西大学かんさいだいがく法科ほうか中退ちゅうたい大阪おおさか美術びじゅつ学校がっこう南画なんが矢野やのたかしむらまなぶ。その1921ねん大正たいしょう10ねん)に九谷焼くたにやききた出家しゅっけ婿養子むこようしはいるとさくすえてんじて、板谷いたや波山はざん師事しじ。さらに1936ねん昭和しょうわ11ねん)には九谷焼くたにやき本格ほんかくてきもうとしていた富本とみもと憲吉けんきち[2]師事しじした。

1940ねん昭和しょうわ15ねん紀元きげんせんろくひゃくねん奉祝ほうしゅく美術びじゅつてんに「色絵いろえ陶磁とうじぎょかい文平ぶんぺいはち」を出品しゅっぴん1941ねん昭和しょうわ16ねんだい4かいしん文展ぶんてんには「悠久ゆうきゅううし壁面へきめんパネル」を出品しゅっぴんして特選とくせん受賞じゅしょう。このころまでには石川いしかわけん勅使ちょくしむらげん 加賀かが)にきょうつしている[3]

1946ねん昭和しょうわ21ねん金沢かなざわ美術びじゅつ工芸こうげい専門せんもん学校がっこう講師こうし1949ねん昭和しょうわ24ねん)に同校どうこう教授きょうじゅとなった。そのかたわ日展にってんへの出品しゅっぴんつづけ、のち日展にってん評議ひょうぎいんとなった[4]

1968ねん昭和しょうわ43ねん日本にっぽん芸術げいじゅついんしょう受賞じゅしょう同年どうねん12がつ12にち胃癌いがんのため療養りょうようさき富山とやまけん東砺波ひがしとなみぐん死去しきょした。享年きょうねん70さい

晩年ばんねん自分じぶん作品さくひん一部いちぶ収集しゅうしゅうした作品さくひんなどを金沢美術工芸大学かなざわびじゅつこうげいだいがく寄贈きぞうどう大学だいがくでは北出きたいでコレクションとして収蔵しゅうぞうしている[5]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b 北出きたいでとう次郎じろう』 - コトバンク
  2. ^ 陶芸とうげい 富本とみもと憲吉けんきち作品さくひんコレクション”. 奈良ならけん (2013ねん). 2022ねん8がつ21にち閲覧えつらん
  3. ^ さんよん特選とくせん発表はっぴょう大阪毎日新聞おおさかまいにちしんぶん』(昭和しょうわ16ねん10がつ16にち)『昭和しょうわニュース事典じてんだい7かん 昭和しょうわ14ねん-昭和しょうわ16ねん本編ほんぺんp705 昭和しょうわニュース事典じてん編纂へんさん委員いいんかい 毎日まいにちコミュニケーションズかん 1994ねん
  4. ^ 日本にっぽん美術びじゅつ年鑑ねんかん昭和しょうわ44年版ねんばん p70”. 東京とうきょう文化財ぶんかざい研究所けんきゅうじょ (2014ねん). 2022ねん8がつ21にち閲覧えつらん
  5. ^ 収蔵しゅうぞうひんについて”. 金沢美術工芸大学かなざわびじゅつこうげいだいがく. 2022ねん9がつ2にち閲覧えつらん