日本 にっぽん 国 こく とソヴィエト社会 しゃかい 主義 しゅぎ 共和 きょうわ 国 こく 連邦 れんぽう との共同 きょうどう 宣言 せんげん (にほんこくとソヴィエトしゃかいしゅぎきょうわこくれんぽうとのきょうどうせんげん、ロシア語 ご : Совместная декларация Союза Советских Социалистических Республик и Японии 、昭和 しょうわ 31年 ねん 12月12日 にち ・条約 じょうやく 第 だい 20号 ごう )は、1956年 ねん (昭和 しょうわ 31年 ねん )10月19日 にち に日本 にっぽん 国 こく とソビエト連邦 れんぽう がモスクワ で署名 しょめい し、同年 どうねん 12月12日 にち に発効 はっこう [1] した条約 じょうやく 。これによって両国 りょうこく の国交 こっこう が回復 かいふく して外交 がいこう 関係 かんけい も正常 せいじょう 化 か したが、国境 こっきょう 確定 かくてい 問題 もんだい (北方領土 ほっぽうりょうど 問題 もんだい )は先送 さきおく りされた。通称 つうしょう は「日 にち ソ共同 きょうどう 宣言 せんげん 」(にっそきょうどうせんげん、ロシア語 ご :Советско-Японская Совместная Декларация )と言 い う。
交渉 こうしょう 開始 かいし まで[ 編集 へんしゅう ]
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 末期 まっき の1945年 ねん (昭和 しょうわ 20年 ねん )8月 がつ 8日 にち 、ソ連 それん はヤルタ協定 きょうてい に基 もと づき、大日本帝国 だいにっぽんていこく に対 たい し日 にち ソ中立 ちゅうりつ 条約 じょうやく の破棄 はき を通知 つうち すると共 とも に国交 こっこう を断絶 だんぜつ して宣戦 せんせん を布告 ふこく した。これを受 う けて日本 にっぽん はポツダム宣言 せんげん の受諾 じゅだく を決断 けつだん するが、ソビエト連邦 れんぽう 軍 ぐん はそれ以降 いこう も侵攻 しんこう を続 つづ け、最終 さいしゅう 的 てき に満州 まんしゅう 国 こく (中国 ちゅうごく 東北 とうほく 部 ぶ )・朝鮮半島 ちょうせんはんとう 北部 ほくぶ (北朝鮮 きたちょうせん )・南 みなみ 樺太 からふと (サハリン南部 なんぶ ) そして帝政 ていせい ロシア との国交 こっこう 樹立 じゅりつ 以来 いらい 日本 にっぽん 固有 こゆう の領土 りょうど として認 みと められていた北方領土 ほっぽうりょうど を含 ふく む千島 ちしま 列島 れっとう 全域 ぜんいき を占領 せんりょう した。特 とく に国後島 くなしりとう ・色丹島 しこたんとう ・歯舞 はぼまい 群島 ぐんとう の占拠 せんきょ は、日本 にっぽん が降伏 ごうぶく 文書 ぶんしょ に署名 しょめい した9月2日 にち に前後 ぜんご してなされたものであった[2] 。
日本 にっぽん はこの侵攻 しんこう が日 にち ソ中立 ちゅうりつ 条約 じょうやく の残存 ざんそん 期間 きかん 中 ちゅう に行 おこな われたと主張 しゅちょう し、中 なか でも北方 ほっぽう 4島 とう については日本 にっぽん 固有 こゆう の領土 りょうど であるとする立場 たちば を今日 きょう に至 いた るまで保持 ほじ している(北方領土 ほっぽうりょうど 問題 もんだい )。一方 いっぽう ソ連 それん は、真珠湾 しんじゅわん 攻撃 こうげき による日米 にちべい 開戦 かいせん の5ヶ月 かげつ 前 まえ の1941年 ねん (昭和 しょうわ 16年 ねん )7月 がつ 7日 にち の関東軍 かんとうぐん 特種 とくしゅ 演習 えんしゅう により日 にち ソ中立 ちゅうりつ 条約 じょうやく は事実 じじつ 上 じょう 失効 しっこう しており、法的 ほうてき には問題 もんだい 無 な いと主張 しゅちょう した。
また、ソ連 それん は連合 れんごう 国 こく の一員 いちいん として日本 にっぽん 統治 とうち への関与 かんよ を求 もと め、連合 れんごう 国軍 こくぐん 最高 さいこう 司令 しれい 官 かん 総 そう 司令 しれい 部 ぶ (GHQ/SCAP)への諮問 しもん 機関 きかん として設置 せっち された対 たい 日 にち 理事 りじ 会 かい に参加 さんか したが、アメリカ陸軍 りくぐん 将軍 しょうぐん でもある最高 さいこう 司令 しれい 官 かん のダグラス・マッカーサー は対 たい 日 にち 理事 りじ 会 かい をほぼ無視 むし し、日本 にっぽん 政府 せいふ も圧倒的 あっとうてき なアメリカ の支配 しはい 力 りょく に服属 ふくぞく したため、日 にち ソ両国 りょうこく の外交 がいこう ルートはほぼ完全 かんぜん に途絶 とだ えていた。
その後 ご 1948年 ねん (昭和 しょうわ 23年 ねん )に日 にち ソ間 あいだ の民間 みんかん 貿易 ぼうえき 協定 きょうてい が締結 ていけつ され、ソ連 それん が併合 へいごう を宣言 せんげん した樺太 からふと や千島 ちしま 列島 れっとう などの日本人 にっぽんじん 島民 とうみん ・満州 まんしゅう や朝鮮半島 ちょうせんはんとう に取 と り残 のこ された居留民 きょりゅうみん ・さらにシベリアに不当 ふとう に抑留 よくりゅう された日本 にっぽん 軍 ぐん 将兵 しょうへい を日本 にっぽん に送還 そうかん する事業 じぎょう は続 つづ けられたが、両国 りょうこく 間 あいだ の継続 けいぞく 的 てき な外交 がいこう 関係 かんけい は築 きず かれないままだった。
政治 せいじ 的 てき 混乱 こんらん が一応 いちおう 収束 しゅうそく してサンフランシスコ講和 こうわ 条約 じょうやく の締結 ていけつ が政治 せいじ 的 てき 課題 かだい になると、国際 こくさい 情勢 じょうせい が東西 とうざい 冷戦 れいせん 下 した にあって、日本 にっぽん 国内 こくない ではアメリカを中心 ちゅうしん とする資本 しほん 主義 しゅぎ の西側 にしがわ 諸国 しょこく との「単独 たんどく 講和 こうわ 」か、ソ連 それん などの社会 しゃかい 主義 しゅぎ の東側 ひがしがわ 諸国 しょこく も含 ふく んだ「全面 ぜんめん 講和 こうわ 」かという論争 ろんそう が起 お こったが、日米 にちべい 開戦 かいせん 反対 はんたい 派 は の一人 ひとり でもあった親米 しんべい 路線 ろせん の吉田 よしだ 茂 しげる 首相 しゅしょう は単独 たんどく 講和 こうわ 路線 ろせん を採用 さいよう した。一方 いっぽう のソ連 それん は1950年 ねん (昭和 しょうわ 25年 ねん )2月 がつ 14日 にち に毛沢東 もうたくとう 率 ひき いる中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう が、蔣介石 せき 率 ひき いる中華民国 ちゅうかみんこく の国民党 こくみんとう 政府 せいふ を台湾 たいわん に追 お いやって国共 こっきょう 内戦 ないせん に勝利 しょうり したことで、中国 ちゅうごく 大陸 たいりく を新 あら たに支配 しはい した中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく (1949年 ねん 10月1日 にち に建国 けんこく )との間 あいだ に中 ちゅう ソ友好 ゆうこう 同盟 どうめい 相互 そうご 援助 えんじょ 条約 じょうやく を締結 ていけつ したが、この中 なか で「日本 にっぽん 軍国 ぐんこく 主義 しゅぎ 復活 ふっかつ への反対 はんたい 」を明記 めいき した事 こと で、日本 にっぽん 政府 せいふ の対 たい ソ感情 かんじょう はますます悪化 あっか した。これは同年 どうねん 6月25日 にち 勃発 ぼっぱつ の朝鮮 ちょうせん 戦争 せんそう で日本 にっぽん が、ソ連 それん 陣営 じんえい 側 がわ の金 きむ 日成 いるそん 率 ひき いる北朝鮮 きたちょうせん (朝鮮民主主義人民共和国 ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく 、1948年 ねん 9月9日 にち 樹立 じゅりつ )による先制 せんせい 攻撃 こうげき を受 う けたアメリカ陣営 じんえい 側 がわ の李 り 承晩 しょうばん 率 ひき いる韓国 かんこく (大韓民国 だいかんみんこく 、1948年 ねん 8月 がつ 15日 にち 樹立 じゅりつ )とともに戦闘 せんとう を行 おこな うアメリカ軍 ぐん (国連 こくれん 軍 ぐん )の後方 こうほう 支援 しえん 基地 きち となり、ソ連 それん が中国 ちゅうごく を通 つう じて間接 かんせつ 的 てき に参戦 さんせん した(全面 ぜんめん 的 てき な軍事 ぐんじ 援助 えんじょ 、空軍 くうぐん 兵士 へいし の参戦 さんせん )代理 だいり 戦争 せんそう となった事 こと で更 さら に拗 こじ れた。
また、ソ連 それん がシベリア抑留 よくりゅう 者 もの の一部 いちぶ を戦争 せんそう 犯罪 はんざい 者 しゃ として裁 さば き、ソ連 それん 国内 こくない で服役 ふくえき させた事 こと や、日本 にっぽん 政府 せいふ とアメリカ占領 せんりょう 当局 とうきょく がレッドパージ により日本 にっぽん 共産党 きょうさんとう を弾圧 だんあつ し、事実 じじつ 上 じょう 非合法 ひごうほう 化 か したというそれぞれの国内 こくない 事情 じじょう も、関係 かんけい 正常 せいじょう 化 か の阻害 そがい 要因 よういん となった。
1951年 ねん (昭和 しょうわ 26年 ねん )9月8日 にち にアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく のカリフォルニア州 しゅう サンフランシスコ で「サンフランシスコ講和 こうわ 条約 じょうやく 」が締結 ていけつ され、日本 にっぽん と連合 れんごう 国 こく との戦争 せんそう 状態 じょうたい は正式 せいしき に終結 しゅうけつ したが、講和 こうわ 会議 かいぎ に中国 ちゅうごく の代表 だいひょう として中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく 全権 ぜんけん 代表 だいひょう を招請 しょうせい しなかった事 こと に反発 はんぱつ するソ連 それん は会議 かいぎ に全権 ぜんけん 代表 だいひょう を出席 しゅっせき させたものの、条約 じょうやく 調印 ちょういん は拒否 きょひ した。その為 ため 1952年 ねん (昭和 しょうわ 27年 ねん )4月 がつ 28日 にち の条約 じょうやく 発効 はっこう と共 とも に対 たい 日 にち 理事 りじ 会 かい が消滅 しょうめつ した後 のち は、日 にち ソ両国 りょうこく の接点 せってん は失 うしな われた。
ただしソ連 それん 側 がわ においても日本 にっぽん との外交 がいこう 関係 かんけい 回復 かいふく は、戦後 せんご 処理 しょり の政治 せいじ 的 てき 経済 けいざい 的 てき 課題 かだい として存在 そんざい しており、1953年 ねん (昭和 しょうわ 28年 ねん )3月5日 にち のヨシフ・スターリン の死去 しきょ と同年 どうねん 7月 がつ 27日 にち の朝鮮 ちょうせん 戦争 せんそう の休戦 きゅうせん は西側 にしがわ 諸国 しょこく との関係 かんけい 改善 かいぜん をより積極 せっきょく 的 てき に進 すす める要素 ようそ となった[注釈 ちゅうしゃく 2] 。日本 にっぽん でも親米 しんべい 主義 しゅぎ に傾倒 けいとう する自由党 じゆうとう の吉田 よしだ 茂 しげる 首相 しゅしょう (第 だい 5次 じ 吉田 よしだ 内閣 ないかく )が1954年 ねん (昭和 しょうわ 29年 ねん )12月10日 にち に退陣 たいじん し、保守 ほしゅ 派 は ながらアメリカ以外 いがい の国 くに も重視 じゅうし した独自 どくじ 外交 がいこう を模索 もさく する日本 にっぽん 民主党 みんしゅとう の鳩山 はとやま 一郎 いちろう へ政権 せいけん が交代 こうたい した事 こと で(第 だい 1次 じ 鳩山 はとやま 一郎 いちろう 内閣 ないかく )、外交 がいこう 交渉 こうしょう 開始 かいし への環境 かんきょう が徐々 じょじょ に整 ととの っていった。また、日本 にっぽん の国際 こくさい 社会 しゃかい 復帰 ふっき を完成 かんせい させる国際 こくさい 連合 れんごう 加盟 かめい には、日本 にっぽん の加盟 かめい 案 あん に対 たい して国際 こくさい 連合 れんごう 安全 あんぜん 保障 ほしょう 理事 りじ 会 かい 常任 じょうにん 理事 りじ 国 こく の一 いち 国 こく として拒否 きょひ 権 けん を発動 はつどう するソ連 それん との関係 かんけい 正常 せいじょう 化 か が不可欠 ふかけつ であった。
交渉 こうしょう の経緯 けいい [ 編集 へんしゅう ]
鳩山 はとやま は、内閣 ないかく 総理 そうり 大臣 だいじん 就任 しゅうにん 早々 そうそう の記者 きしゃ 会見 かいけん で「第 だい 三 さん 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 回避 かいひ のためにも東西 とうざい 陣営 じんえい は貿易 ぼうえき を盛 さか んにすべきだ」と発言 はつげん し、対 たい ソ交渉 こうしょう への意気込 いきご みを見 み せた。これを受 う けて駐 ちゅう 日 にち ソ連 それん 代表 だいひょう 部 ぶ からコンタクトがあり、1955年 ねん (昭和 しょうわ 30年 ねん )1月 がつ 7日 にち と25日 にち にアンドレイ・ドムニツキー首席 しゅせき 代理 だいり が「音羽 おとわ 御殿 ごてん 」を極秘 ごくひ に訪問 ほうもん し、ソ連 それん 側 がわ に諸 しょ 懸案 けんあん について交渉 こうしょう する用意 ようい がある旨 むね を申 もう し入 い れた。ドムニツキーは25日 にち 「ソ連 それん 政府 せいふ からの文書 ぶんしょ 」として発信 はっしん 者 しゃ の氏名 しめい も日付 ひづけ も記載 きさい されていない文書 ぶんしょ (「ドムニツキー書簡 しょかん 」)を鳩山 はとやま に手渡 てわた した[4] [5] 。
ソ連邦 それんぽう は、
対 たい 日 にち 関係 かんけい 正常 せいじょう 化 か の
熱望 ねつぼう に
促 うなが され、
周知 しゅうち のごとく、
終始 しゅうし 一貫 いっかん して
両国 りょうこく 関係 かんけい の
調整 ちょうせい を
唱 とな えてきた。
日 にち ・ソ
関係 かんけい 正常 せいじょう 化 か の
用意 ようい ある
旨 むね の
意思 いし 表示 ひょうじ は、なかんずく
周知 しゅうち の
一 いち 九 きゅう 五 ご 四 よん 年 ねん 十 じゅう 月 がつ 十 じゅう 二 に 日 にち 付 づけ の
中 なか ソ
共同 きょうどう 宣言 せんげん 及 およ び
十二月 じゅうにがつ 十 じゅう 六 ろく 日 にち の
ソ連邦 それんぽう 外務 がいむ 大臣 だいじん ヴィ・エム・モロトフ
氏 し の
声明 せいめい 中 ちゅう に
行 おこな われている。
鳩山 はとやま 総理 そうり 大臣 だいじん が最近 さいきん の声明 せいめい 中 ちゅう において、日 にち ・ソ関係 かんけい の解決 かいけつ に賛意 さんい を表 あらわ していることも世間 せけん に知 し られている。日 にち ・ソ関係 かんけい 正常 せいじょう 化 か の希望 きぼう は、また重光 しげみつ 外務 がいむ 大臣 だいじん によつて、一 いち 九 きゅう 五 ご 四 よん 年 ねん 十二月 じゅうにがつ 十 じゅう 一 いち 日 にち の声明 せいめい 及 およ びその後 ご の諸 しょ 声明 せいめい において表明 ひょうめい されている。
このような情勢 じょうせい を考慮 こうりょ に入 い れて、ソヴィエト側 がわ は、日 にち ・ソ関係 かんけい の正常 せいじょう 化 か のため執 と りうべき措置 そち について、意見 いけん の交換 こうかん を行 おこな うことが事 こと 宜 よろし に適 てき するものと信 しん ずる次第 しだい である。
ソヴィエト
側 がわ は、モスクワ
又 また は
東京 とうきょう のいずれかにおいて
行 おこな われうべき
交渉 こうしょう のため
代表 だいひょう 者 しゃ を
任命 にんめい する
用意 ようい あり、この
点 てん についての
日本 にっぽん 側 がわ の
意向 いこう を
承知 しょうち したいと
考 かんが えるものである。
6月3日 にち から、イギリス のロンドン にあるソビエト連邦 れんぽう 大使館 たいしかん で国交 こっこう 正常 せいじょう 化 か 交渉 こうしょう が開始 かいし された[7] 。日本 にっぽん 側 がわ の松本 まつもと 俊一 しゅんいち 全権 ぜんけん 大使 たいし とソ連 それん 側 がわ のヤコフ・マリク 駐 ちゅう イギリス大使 たいし による交渉 こうしょう は北方領土 ほっぽうりょうど 問題 もんだい で難航 なんこう し、保守 ほしゅ 合同 ごうどう による自由民主党 じゆうみんしゅとう の発足 ほっそく と対 たい ソ強硬 きょうこう 派 は の活動 かつどう という日本 にっぽん 側 がわ の国内 こくない 事情 じじょう もあって、交渉 こうしょう は難航 なんこう [注釈 ちゅうしゃく 3] [4] 。同年 どうねん 12月 がつ にソ連 それん は日本 にっぽん を含 ふく んだ国際 こくさい 連合 れんごう への18ヵ国 かこく の一括 いっかつ 加盟 かめい 案 あん に拒否 きょひ 権 けん を発動 はつどう した[8] 。
1956年 ねん (昭和 しょうわ 31年 ねん )3月 がつ 20日 はつか に交渉 こうしょう 決裂 けつれつ に至 いた り、翌日 よくじつ からソ連 それん は北海道 ほっかいどう 北方 ほっぽう の海域 かいいき に漁業 ぎょぎょう 制限 せいげん 区域 くいき (「ブルガーニン・ライン」)を設 もう け、日本 にっぽん の漁船 ぎょせん を締 し め出 だ したばかりかその拿捕 だほ や漁民 ぎょみん の連行 れんこう が相次 あいつ ぎ、日本 にっぽん の水産 すいさん 業 ぎょう に打撃 だげき を与 あた えた[5] [7] 。
しかし、ソ連 それん との国交 こっこう 回復 かいふく と国際 こくさい 連合 れんごう 加盟 かめい を自 みずか らの政権 せいけん の中心 ちゅうしん 課題 かだい とする鳩山 はとやま 首相 しゅしょう の熱意 ねつい は強 つよ く、モスクワへ渡 わた った河野 こうの 一郎 いちろう 農林 のうりん 大臣 だいじん とニコライ・ブルガーニン 首相 しゅしょう (閣僚 かくりょう 会議 かいぎ 議長 ぎちょう )とのタフネゴシエーションの結果 けっか 、日 にち ソ漁業 ぎょぎょう 条約 じょうやく が結 むす ばれた。また、日 にち ソ漁業 ぎょぎょう 交渉 こうしょう の決着 けっちゃく は国交 こっこう 正常 せいじょう 化 か への地 じ ならしともなった[5] [7] 。
10月12日 にち に鳩山 はとやま 首相 しゅしょう (第 だい 3次 じ 鳩山 はとやま 一郎 いちろう 内閣 ないかく )は河野 こうの 農林 のうりん 大臣 だいじん などの随行 ずいこう 団 だん と共 とも にモスクワを訪問 ほうもん し[注釈 ちゅうしゃく 4] 、ニキータ・フルシチョフ 第 だい 一 いち 書記 しょき などとの首脳 しゅのう 会談 かいだん が続 つづ けられた。鳩山 はとやま 側 がわ は「2島 とう 返還 へんかん を受諾 じゅだく した場合 ばあい 、沖縄 おきなわ をアメリカの領土 りょうど にする 」としたジョン・フォスター・ダレス 国務 こくむ 長官 ちょうかん の発言 はつげん (「ダレスの恫喝 どうかつ 」)や「歯舞 はぼまい 、色丹 しこたん の即時 そくじ 返還 へんかん 」「国後 くなしり 、択捉 えとろふ は日本 にっぽん 固有 こゆう の領土 りょうど 」とする自民党 じみんとう の党議 とうぎ 拘束 こうそく による制約 せいやく を受 う けていたが、焦点 しょうてん の北方領土 ほっぽうりょうど 問題 もんだい はまず国交 こっこう 回復 かいふく を先行 せんこう させ、平和 へいわ 条約 じょうやく 締結 ていけつ 後 ご にソ連 それん が歯舞 はぼまい 群島 ぐんとう と色丹島 しこたんとう を日本 にっぽん に譲渡 じょうと するという前提 ぜんてい で改 あらた めて平和 へいわ 条約 じょうやく の交渉 こうしょう を実施 じっし するという合意 ごうい がなされた[3] [5] [7] 。
10月19日 にち にモスクワ に於 おい て鳩山 はとやま ・ブルガーニン両 りょう 首相 しゅしょう が「日本 にっぽん 国 こく とソヴィエト社会 しゃかい 主義 しゅぎ 共和 きょうわ 国 こく 連邦 れんぽう との共同 きょうどう 宣言 せんげん 」に署名 しょめい し、両国 りょうこく での批准 ひじゅん を経 へ て12月12日 にち に東京 とうきょう において批准 ひじゅん 書 しょ が交換 こうかん されて発効 はっこう した[3] [4] 。
宣言 せんげん の内容 ないよう [ 編集 へんしゅう ]
日 にち ソ両国 りょうこく は戦争 せんそう 状態 じょうたい を終結 しゅうけつ し、外交 がいこう 関係 かんけい を回復 かいふく する。
日 にち ソ両国 りょうこく はそれぞれの自衛 じえい 権 けん を尊重 そんちょう し、相互 そうご 不干渉 ふかんしょう を確認 かくにん する。
ソ連 それん は日本 にっぽん の国際 こくさい 連合 れんごう への加盟 かめい を支持 しじ する。
ソ連 それん は戦争 せんそう 犯罪 はんざい 容疑 ようぎ で有罪 ゆうざい を宣告 せんこく された日本人 にっぽんじん を釈放 しゃくほう し、日本 にっぽん に帰還 きかん させる。
ソ連 それん は日本 にっぽん 国 こく に対 たい して一切 いっさい の賠償 ばいしょう 請求 せいきゅう 権 けん を放棄 ほうき する。
日 にち ソ両国 りょうこく は1945年 ねん 8月 がつ 9日 にち 以来 いらい の戦争 せんそう の結果 けっか として生 しょう じたそれぞれの国 くに ・その団体 だんたい 及 およ び国民 こくみん のそれぞれ他方 たほう の国 くに ・その団体 だんたい 及 およ び国民 こくみん に対 たい する全 すべ ての請求 せいきゅう 権 けん を相互 そうご に放棄 ほうき する。
日 にち ソ両国 りょうこく は通商 つうしょう 関係 かんけい の交渉 こうしょう を開始 かいし する(同日 どうじつ に日 にち ソ通商 つうしょう 航海 こうかい 条約 じょうやく を締結 ていけつ )。
日 にち ソ両国 りょうこく は漁業 ぎょぎょう 分野 ぶんや での協力 きょうりょく を行 おこな う。
日 にち ソ両国 りょうこく は引 ひ き続 つづ き平和 へいわ 条約 じょうやく の締結 ていけつ 交渉 こうしょう を行 おこな い、条約 じょうやく 締結 ていけつ 後 ご にソ連 それん は日本 にっぽん へ歯舞 はぼまい 群島 ぐんとう と色丹島 しこたんとう を引 ひ き渡 わた す(譲渡 じょうと )。
共同 きょうどう 宣言 せんげん の締結 ていけつ によって日本 にっぽん の国際 こくさい 連合 れんごう 加盟 かめい への障害 しょうがい が無 な くなった。1956年 ねん (昭和 しょうわ 31年 ねん )12月18日 にち の国際 こくさい 連合 れんごう 総会 そうかい で、ソ連 それん は他 た の東 ひがし ヨーロッパ諸国 しょこく と共 とも に日本 にっぽん の加盟 かめい に賛成 さんせい し、全会 ぜんかい 一致 いっち による日本 にっぽん の加盟 かめい が実現 じつげん した[8] [3] 。また、この国際 こくさい 連合 れんごう 加盟 かめい により第 だい 3次 じ 鳩山 はとやま 一郎 いちろう 内閣 ないかく は総 そう 辞職 じしょく し、石橋 いしばし 内閣 ないかく (石橋 いしばし 湛山 たんざん 首相 しゅしょう )に引 ひ き継 つ がれた。
しかし、平和 へいわ 条約 じょうやく の締結 ていけつ 交渉 こうしょう は北方領土 ほっぽうりょうど の全面 ぜんめん 返還 へんかん を要求 ようきゅう する日本 にっぽん と、平和 へいわ 条約 じょうやく 締結 ていけつ 後 ご の2島 とう 返還 へんかん で決着 けっちゃく させようとするソ連 それん の妥協 だきょう 点 てん が見出 みだ せないまま、開始 かいし が延期 えんき された。
逆 ぎゃく に1960年 ねん (昭和 しょうわ 35年 ねん )1月 がつ に第 だい 2次 じ 岸 きし 改造 かいぞう 内 ない 閣 かく (岸 きし 信介 しんすけ 首相 しゅしょう )が日米 にちべい 安全 あんぜん 保障 ほしょう 条約 じょうやく の改定 かいてい を行 おこな った事 こと に対 たい してソ連 それん が反発 はんぱつ し、歯舞 はぼまい 群島 ぐんとう と色丹島 しこたんとう の返還 へんかん [注釈 ちゅうしゃく 5] を撤回 てっかい したため、両国 りょうこく の政治 せいじ 的 てき 関係 かんけい は再 ふたた び冷却 れいきゃく した。1973年 ねん (昭和 しょうわ 48年 ねん )10月 がつ に日本 にっぽん の田中 たなか 角栄 かくえい 首相 しゅしょう がモスクワを訪問 ほうもん するまで、両国 りょうこく の首脳 しゅのう 会談 かいだん は17年間 ねんかん も開催 かいさい されなかった。その後 ご (平和 へいわ 条約 じょうやく 締結 ていけつ 後 ご に歯舞 はぼまい 群島 ぐんとう ・色丹島 しこたんとう を日本 にっぽん へ引 ひ き渡 わた すことを明記 めいき した)日 にち ソ共同 きょうどう 宣言 せんげん は、1993年 ねん (平成 へいせい 5年 ねん )10月 がつ のボリス・エリツィン 大統領 だいとうりょう 来日 らいにち 時 じ に「日 にち ソ間 あいだ の全 すべ ての国際 こくさい 約束 やくそく が日 にち 露 ろ 間 あいだ でも引 ひ き続 つづ き適用 てきよう される」ということが確認 かくにん され(東京 とうきょう 宣言 せんげん )、2000年 ねん (平成 へいせい 12年 ねん )9月 がつ にウラジーミル・プーチン 大統領 だいとうりょう が来日 らいにち 時 じ に「56年 ねん 宣言 せんげん (日 にち ソ共同 きょうどう 宣言 せんげん )は有効 ゆうこう であると考 かんが える」と発言 はつげん した。2001年 ねん (平成 へいせい 13年 ねん )7月 がつ に両国 りょうこく が発表 はっぴょう した「イルクーツク声明 せいめい 」では日 にち ソ共同 きょうどう 宣言 せんげん の法的 ほうてき 有効 ゆうこう 性 せい が文書 ぶんしょ で確認 かくにん されている[9] [10] 。
一方 いっぽう 、ソ連 それん にとっては1955年 ねん の対 たい 西 にし ドイツ国交 こっこう 樹立 じゅりつ に続 つづ く敗戦 はいせん 国 こく [注釈 ちゅうしゃく 6] との外交 がいこう 関係 かんけい 回復 かいふく であり、戦後 せんご 処理 しょり は一応 いちおう 完結 かんけつ した。フルシチョフにとっては西側 にしがわ 諸国 しょこく との平和 へいわ 共存 きょうぞん 政策 せいさく (「雪 ゆき どけ」)の成果 せいか の1つとなった。ただし、日本 にっぽん が西側 にしがわ 諸国 しょこく の一員 いちいん になる事 こと は阻止 そし できず、領土 りょうど 問題 もんだい は日本 にっぽん 国民 こくみん のソ連 それん への感情 かんじょう を悪 わる いままに留 と める結果 けっか を招 まね いた。
外交 がいこう 関係 かんけい の回復 かいふく により、両国 りょうこく の経済 けいざい 交流 こうりゅう が復活 ふっかつ した。日本 にっぽん はシベリア の豊富 ほうふ な森林 しんりん 資源 しげん (北洋 ほくよう 材 ざい )に注目 ちゅうもく し、シベリア鉄道 てつどう を経由 けいゆ したヨーロッパ 諸国 しょこく への連絡 れんらく ルートも旅客 りょかく ・貨物 かもつ (中 ちゅう 欧 おう 班 はん 列 れつ )両面 りょうめん で利用 りよう される事 こと になった。一方 いっぽう でソ連 それん は日本 にっぽん を北東 ほくとう アジアでの経済 けいざい 的 てき パートナーとして見 み なし、国際 こくさい 見本市 みほんいち などの開催 かいさい や投資 とうし の受 う け入 い れ、軍港 ぐんこう として外国 がいこく 人 じん の立 た ち入 い りを禁止 きんし したウラジオストク に代 か わる対 たい 日 にち 貿易 ぼうえき 港 こう のナホトカ の整備 せいび などを行 おこな った。
太平洋 たいへいよう の北西 ほくせい 部 ぶ ・オホーツク海 かい における北洋 ほくよう 漁業 ぎょぎょう は、この共同 きょうどう 宣言 せんげん により政治 せいじ 的 てき 保証 ほしょう がなされて安定 あんてい 的 てき な操業 そうぎょう に大 おお きく役立 やくだ ったが、これ以後 いご も北方領土 ほっぽうりょうど 付近 ふきん の海域 かいいき を中心 ちゅうしん に拿捕 だほ 事件 じけん が多数 たすう 発生 はっせい し、長年 ながねん に渡 わた って両国 りょうこく 関係 かんけい を悪化 あっか させる要因 よういん ともなった。
外交 がいこう 関係 かんけい の回復 かいふく は両国 りょうこく 間 あいだ の文化 ぶんか 交流 こうりゅう の再開 さいかい にも繋 つな がった。NHKは以前 いぜん から国内 こくない 学習 がくしゅう 者 しゃ からの嘆願 たんがん 署名 しょめい を受 う けていたが、この国交 こっこう 回復 かいふく が加 くわ わったことで1956年 ねん 11月からNHKラジオ第 だい 2放送 ほうそう にロシア語 ご 講座 こうざ を追加 ついか した。また、1957年 ねん 2月 がつ 28日 にち に昭和 しょうわ 基地 きち を設営 せつえい した第 だい 1回 かい 南極 なんきょく 観測 かんそく の帰途 きと に、基地 きち のあるオングル島 とう 近海 きんかい の氷原 ひょうげん で閉 と じ込 こ められた観測 かんそく 船 せん 宗谷 そうや の救援 きゅうえん をソ連 それん の砕氷 さいひょう 船 せん オビ号 ごう が行 おこな い、脱出 だっしゅつ 後 ご の3月 がつ 13日 にち に南 みなみ アフリカ共和 きょうわ 国 こく のケープタウンで両船 りょうせん の乗組 のりくみ 員 いん による交歓 こうかん 会 かい が行 おこな われた[注釈 ちゅうしゃく 7] 。ソ連 それん 船 せん による救難 きゅうなん は日本 にっぽん 国内 こくない でも報道 ほうどう され、日本 にっぽん 国内 こくない のソ連 それん への感情 かんじょう の軟化 なんか に資 し した。
1955年 ねん (昭和 しょうわ 30年 ねん )春 はる 、鳩山 はとやま から日 にち ソ交渉 こうしょう に向 む けての内奏 ないそう を受 う けた昭和 しょうわ 天皇 てんのう は、共産 きょうさん 国 こく との国交 こっこう 回復 かいふく を急 いそ ぐよりも国内 こくない に復興 ふっこう を急 いそ ぐべき問題 もんだい が山積 さんせき しているのではないかと発言 はつげん した。これを受 う けて鳩山 はとやま は狼狽 ろうばい するが、河野 こうの が「陛下 へいか のお言葉 ことば はご質問 しつもん であり、ご意向 いこう の表明 ひょうめい ではない」と説得 せっとく し、日 にち ソ国交 こっこう 回復 かいふく は鳩山 はとやま 内閣 ないかく の重要 じゅうよう 課題 かだい として堅持 けんじ された[4] 。
河野 こうの の回想 かいそう [11] [12] によると、1956年 ねん (昭和 しょうわ 31年 ねん )10月18日 にち の交渉 こうしょう 中 ちゅう 、河野 こうの はフルシチョフ の大 おお きく先端 せんたん が鋭 するど いペーパーナイフ を見 み て、刺 さ されたらたまらないと警戒 けいかい していた。いたずら心 しん もあってレーニン の写真 しゃしん 入 い りのそのペーパーナイフを取 と ってしまおうと、フルシチョフにペーパーナイフをくれるよう頼 たの んだ。フルシチョフは気前 きまえ よく河野 こうの にペーパーナイフをくれた。河野 こうの は会談 かいだん 後 ご 、鳩山 はとやま に「フルシチョフがそれを振 ふ り回 まわ すからヤバくて仕方 しかた が無 な いから分捕 ぶんど った。北方領土 ほっぽうりょうど の代 か わりに総理 そうり に進呈 しんてい しましょう」と、ペーパーナイフを鳩山 はとやま にプレゼントした。『鳩山 はとやま 一郎 いちろう ・薫 かおる 日記 にっき 』にはそれを「ペーパーナイフをくれた由 ゆかり 」と記 しる している[13] 。河野 こうの がさらに翌日 よくじつ の会談 かいだん で「昨日 きのう のは鳩山 はとやま にあげたから自分 じぶん 用 よう のが欲 ほ しい」と頼 たの むと、フルシチョフは戸棚 とだな に大量 たいりょう にある中 なか から1本 ほん 取 と り出 だ し、河野 こうの にくれた[注釈 ちゅうしゃく 8] 。それには河野 こうの も参 まい ってしまったという。
^ 本 ほん 共同 きょうどう 宣言 せんげん において「ひとしく正文 せいぶん である日本語 にほんご 及 およ びロシア語 ご 」と明記 めいき されている。
^ 日本 にっぽん と同 おな じ敗戦 はいせん 国 こく で西側 にしがわ の一員 いちいん である西 にし ドイツ は、解決 かいけつ が難 むずか しい問題 もんだい を棚上 たなあ げにする「アデナウアー方式 ほうしき 」により、1956年 ねん 1月 がつ にソ連 それん と国交 こっこう を樹立 じゅりつ している[3] 。
^ 8月 がつ 5日 にち にマリクから歯舞 はぼまい 群島 ぐんとう と色丹島 しこたんとう の二島 ふたじま を引 ひ き渡 わた す旨 むね 申 もう し出 で があり、松本 まつもと はこれを肯定 こうてい 的 てき に捉 とら えて東京 とうきょう に打電 だでん するが、外務 がいむ 大臣 だいじん であった重光 しげみつ 葵 まもる によってもみ消 け された[7] [5] 。
^ 当時 とうじ は片道 かたみち 5日 にち の長旅 ながたび であり、高齢 こうれい で病身 びょうしん の鳩山 はとやま にとっては命 いのち がけであり、妻 つま の薫 かおる や看護 かんご 師 し が同行 どうこう した[4] [7] 。薫 かおる は出発 しゅっぱつ の前 まえ に「おじいさまはお骨 ほね になって帰 かえ ってくるかもしれないから、よく見 み ておきなさいよ」と孫 まご の鳩山 はとやま 邦夫 くにお に語 かた りかけていた[3] 。
^ ソ連 それん 側 がわ は「両国 りょうこく 間 あいだ の友好 ゆうこう 関係 かんけい に基 もと づいた、本来 ほんらい ソ連 それん 領 りょう である同 どう 地域 ちいき の引 ひ き渡 わた し」と主張 しゅちょう した。
^ 国際 こくさい 連合 れんごう 憲章 けんしょう での敵国 てきこく 条項 じょうこう の適用 てきよう 国 こく で、旧 きゅう 枢軸 すうじく 国 こく である。
^ なお、日本 にっぽん は第 だい 2次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の開始 かいし に伴 ともな う国交 こっこう 断絶 だんぜつ 後 ご に南 みなみ アフリカ共和 きょうわ 国 こく との領事 りょうじ 関係 かんけい を1952年 ねん から復活 ふっかつ させていたが、正式 せいしき な外交 がいこう 関係 かんけい は無 な く、ソ連 それん は南 みなみ アフリカ政府 せいふ によるアパルトヘイト 政策 せいさく への抗議 こうぎ で1956年 ねん に国交 こっこう を断絶 だんぜつ していたため、両 りょう 国共 こっきょう に正式 せいしき な外交 がいこう 関係 かんけい の無 な い第三国 だいさんごく での交流 こうりゅう となった。
^ フルシチョフの方 ほう から先手 せんて を打 う って「もう1本 ほん いりませんか」と申 もう し出 で たとも[7] 。
ロシア
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前身 ぜんしん : 自由党 じゆうとう ・日本 にっぽん 民主党 みんしゅとう
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木曜 もくよう 研究 けんきゅう 会 かい (佐藤 さとう 派 は ) → 周山 しゅうざん 会 かい (佐藤 さとう 派 は ) → 周山 しゅうざん クラブ(保利 ほり グループ → 福田 ふくだ 派 は に合流 ごうりゅう ×)、※七 なな 日 にち 会 かい (田中 たなか 派 は ) → 政治 せいじ 同友 どうゆう 会 かい (田中 たなか 派 は ) → 木曜 もくよう クラブ (田中 たなか 派 は → 二階堂 にかいどう 派 は → ×)、※経世会 けいせいかい (竹下 たけした (登 とう )派 は → 小渕 おぶち 派 は ) → 平成 へいせい 政治 せいじ 研究 けんきゅう 会 かい (小渕 おぶち 派 は ) → 平成 へいせい 研究 けんきゅう 会 かい (小渕 おぶち 派 は → 橋本 はしもと 派 は → 津島 つしま 派 は → 額 がく 賀 が 派 は → 竹下 たけした (亘 わたる )派 は → 茂木 もき 派 は )、※改革 かいかく フォーラム21 (羽田 はた ・小沢 おざわ 派 は → 新生党 しんせいとう に合流 ごうりゅう ×)
水曜 すいよう 会 かい (緒方 おがた 派 は → 石井 いしい 派 は → ×)
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青嵐会 せいらんかい
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83会 かい
水月 すいげつ 会 かい
さわらび会 かい (石破 いしば グループ) → 水月 すいげつ 会 かい (石破 いしば 派 は → 石破 いしば グループ )
無 む 派閥 はばつ
※は派閥 はばつ 離脱 りだつ 、太字 ふとじ は現在 げんざい への系譜 けいふ 、括弧 かっこ 内 ない 矢印 やじるし は派閥 はばつ 継承 けいしょう 。
関係 かんけい
政党 せいとう 間 あいだ 協力 きょうりょく 分派 ぶんぱ 政党 せいとう 合流 ごうりゅう 政党 せいとう
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