日本にっぽんこくとソヴィエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく連邦れんぽうとの共同きょうどう宣言せんげん

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日本にっぽんこくとソヴィエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく連邦れんぽうとの共同きょうどう宣言せんげん
通称つうしょう略称りゃくしょう にち共同きょうどう宣言せんげん
にち国交こっこう回復かいふく共同きょうどう宣言せんげん
署名しょめい 1956ねん10月19にち
署名しょめい場所ばしょ ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦れんぽう
ロシア・ソビエト連邦れんぽう社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく モスクワ
発効はっこう 1956ねん12月12にち
締約ていやくこく 日本の旗 日本にっぽん
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦れんぽう
文献ぶんけん情報じょうほう 昭和しょうわ31ねん12月12にち官報かんぽう号外ごうがいだい49ごう条約じょうやくだい20ごう
言語げんご 日本語にほんごおよびロシア[注釈ちゅうしゃく 1]
おも内容ないよう 日本にっぽんこくソビエト連邦れんぽうとのあいだ戦争せんそう状態じょうたい終了しゅうりょう宣言せんげん両国りょうこくあいだ平和へいわおよび友好ゆうこう善隣ぜんりん関係かんけい回復かいふく宣言せんげん
条文じょうぶんリンク 資料しりょう - 外務省がいむしょう
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日本にっぽんこくとソヴィエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく連邦れんぽうとの共同きょうどう宣言せんげん(にほんこくとソヴィエトしゃかいしゅぎきょうわこくれんぽうとのきょうどうせんげん、ロシア: Совместная декларация Союза Советских Социалистических Республик и Японии昭和しょうわ31ねん12月12にち条約じょうやくだい20ごう)は、1956ねん昭和しょうわ31ねん10月19にち日本にっぽんこくソビエト連邦れんぽうモスクワ署名しょめいし、同年どうねん12月12にち発効はっこう[1]した条約じょうやく。これによって両国りょうこく国交こっこう回復かいふくして外交がいこう関係かんけい正常せいじょうしたが、国境こっきょう確定かくてい問題もんだい北方領土ほっぽうりょうど問題もんだい)は先送さきおくりされた。通称つうしょうは「にち共同きょうどう宣言せんげん」(にっそきょうどうせんげん、ロシアСоветско-Японская Совместная Декларация)とう。

経緯けいい[編集へんしゅう]

交渉こうしょう開始かいしまで[編集へんしゅう]

だい世界せかい大戦たいせん末期まっき1945ねん昭和しょうわ20ねん8がつ8にちソ連それんヤルタ協定きょうていもとづき、大日本帝国だいにっぽんていこくたいにち中立ちゅうりつ条約じょうやく破棄はき通知つうちするととも国交こっこう断絶だんぜつして宣戦せんせん布告ふこくした。これをけて日本にっぽんポツダム宣言せんげん受諾じゅだく決断けつだんするが、ソビエト連邦れんぽうぐんはそれ以降いこう侵攻しんこうつづけ、最終さいしゅうてき満州まんしゅうこく中国ちゅうごく東北とうほく)・朝鮮半島ちょうせんはんとう北部ほくぶ北朝鮮きたちょうせん)・みなみ樺太からふと(サハリン南部なんぶそして帝政ていせいロシアとの国交こっこう樹立じゅりつ以来いらい日本にっぽん固有こゆう領土りょうどとしてみとめられていた北方領土ほっぽうりょうどふく千島ちしま列島れっとう全域ぜんいき占領せんりょうした。とく国後島くなしりとう色丹島しこたんとう歯舞はぼまい群島ぐんとう占拠せんきょは、日本にっぽん降伏ごうぶく文書ぶんしょ署名しょめいした9月2にち前後ぜんごしてなされたものであった[2]

日本にっぽんはこの侵攻しんこうにち中立ちゅうりつ条約じょうやく残存ざんそん期間きかんちゅうおこなわれたと主張しゅちょうし、なかでも北方ほっぽう4とうについては日本にっぽん固有こゆう領土りょうどであるとする立場たちば今日きょういたるまで保持ほじしている(北方領土ほっぽうりょうど問題もんだい)。一方いっぽうソ連それんは、真珠湾しんじゅわん攻撃こうげきによる日米にちべい開戦かいせんの5ヶ月かげつまえ1941ねん昭和しょうわ16ねん7がつ7にち関東軍かんとうぐん特種とくしゅ演習えんしゅうによりにち中立ちゅうりつ条約じょうやく事実じじつじょう失効しっこうしており、法的ほうてきには問題もんだいいと主張しゅちょうした。

また、ソ連それん連合れんごうこく一員いちいんとして日本にっぽん統治とうちへの関与かんよもとめ、連合れんごう国軍こくぐん最高さいこう司令しれいかんそう司令しれい(GHQ/SCAP)への諮問しもん機関きかんとして設置せっちされたたいにち理事りじかい参加さんかしたが、アメリカ陸軍りくぐん将軍しょうぐんでもある最高さいこう司令しれいかんダグラス・マッカーサーたいにち理事りじかいをほぼ無視むしし、日本にっぽん政府せいふ圧倒的あっとうてきアメリカ支配しはいりょく服属ふくぞくしたため、にち両国りょうこく外交がいこうルートはほぼ完全かんぜん途絶とだえていた。

その1948ねん昭和しょうわ23ねん)ににちあいだ民間みんかん貿易ぼうえき協定きょうてい締結ていけつされ、ソ連それん併合へいごう宣言せんげんした樺太からふと千島ちしま列島れっとうなどの日本人にっぽんじん島民とうみん満州まんしゅう朝鮮半島ちょうせんはんとうのこされた居留民きょりゅうみん・さらにシベリアに不当ふとう抑留よくりゅうされた日本にっぽんぐん将兵しょうへい日本にっぽん送還そうかんする事業じぎょうつづけられたが、両国りょうこくあいだ継続けいぞくてき外交がいこう関係かんけいきずかれないままだった。

政治せいじてき混乱こんらん一応いちおう収束しゅうそくしてサンフランシスコ講和こうわ条約じょうやく締結ていけつ政治せいじてき課題かだいになると、国際こくさい情勢じょうせい東西とうざい冷戦れいせんしたにあって、日本にっぽん国内こくないではアメリカを中心ちゅうしんとする資本しほん主義しゅぎ西側にしがわ諸国しょこくとの「単独たんどく講和こうわ」か、ソ連それんなどの社会しゃかい主義しゅぎ東側ひがしがわ諸国しょこくふくんだ「全面ぜんめん講和こうわ」かという論争ろんそうこったが、日米にちべい開戦かいせん反対はんたい一人ひとりでもあった親米しんべい路線ろせん吉田よしだしげる首相しゅしょう単独たんどく講和こうわ路線ろせん採用さいようした。一方いっぽうソ連それん1950ねん昭和しょうわ25ねん2がつ14にち毛沢東もうたくとうひきいる中国共産党ちゅうごくきょうさんとうが、蔣介せきひきいる中華民国ちゅうかみんこく国民党こくみんとう政府せいふ台湾たいわんいやって国共こっきょう内戦ないせん勝利しょうりしたことで、中国ちゅうごく大陸たいりくあらたに支配しはいした中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく1949ねん10月1にち建国けんこく)とのあいだちゅう友好ゆうこう同盟どうめい相互そうご援助えんじょ条約じょうやく締結ていけつしたが、このなかで「日本にっぽん軍国ぐんこく主義しゅぎ復活ふっかつへの反対はんたい」を明記めいきしたことで、日本にっぽん政府せいふたい感情かんじょうはますます悪化あっかした。これは同年どうねん6月25にち勃発ぼっぱつ朝鮮ちょうせん戦争せんそう日本にっぽんが、ソ連それん陣営じんえいがわきむ日成いるそんひきいる北朝鮮きたちょうせん朝鮮民主主義人民共和国ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく1948ねん9月9にち樹立じゅりつ)による先制せんせい攻撃こうげきけたアメリカ陣営じんえいがわ承晩しょうばんひきいる韓国かんこく大韓民国だいかんみんこく、1948ねん8がつ15にち樹立じゅりつ)とともに戦闘せんとうおこなアメリカぐん国連こくれんぐん)の後方こうほう支援しえん基地きちとなり、ソ連それん中国ちゅうごくつうじて間接かんせつてき参戦さんせんした(全面ぜんめんてき軍事ぐんじ援助えんじょ空軍くうぐん兵士へいし参戦さんせん代理だいり戦争せんそうとなったことさらこじれた。

また、ソ連それんシベリア抑留よくりゅうもの一部いちぶ戦争せんそう犯罪はんざいしゃとしてさばき、ソ連それん国内こくない服役ふくえきさせたことや、日本にっぽん政府せいふとアメリカ占領せんりょう当局とうきょくレッドパージにより日本にっぽん共産党きょうさんとう弾圧だんあつし、事実じじつじょう非合法ひごうほうしたというそれぞれの国内こくない事情じじょうも、関係かんけい正常せいじょう阻害そがい要因よういんとなった。

1951ねん昭和しょうわ26ねん9月8にちアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくカリフォルニアしゅうサンフランシスコで「サンフランシスコ講和こうわ条約じょうやく」が締結ていけつされ、日本にっぽん連合れんごうこくとの戦争せんそう状態じょうたい正式せいしき終結しゅうけつしたが、講和こうわ会議かいぎ中国ちゅうごく代表だいひょうとして中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく全権ぜんけん代表だいひょう招請しょうせいしなかったこと反発はんぱつするソ連それん会議かいぎ全権ぜんけん代表だいひょう出席しゅっせきさせたものの、条約じょうやく調印ちょういん拒否きょひした。そのため1952ねん昭和しょうわ27ねん4がつ28にち条約じょうやく発効はっこうともたいにち理事りじかい消滅しょうめつしたのちは、にち両国りょうこく接点せってんうしなわれた。

ただしソ連それんがわにおいても日本にっぽんとの外交がいこう関係かんけい回復かいふくは、戦後せんご処理しょり政治せいじてき経済けいざいてき課題かだいとして存在そんざいしており、1953ねん昭和しょうわ28ねん3月5にちヨシフ・スターリン死去しきょ同年どうねん7がつ27にち朝鮮ちょうせん戦争せんそう休戦きゅうせん西側にしがわ諸国しょこくとの関係かんけい改善かいぜんをより積極せっきょくてきすすめる要素ようそとなった[注釈ちゅうしゃく 2]日本にっぽんでも親米しんべい主義しゅぎ傾倒けいとうする自由党じゆうとう吉田よしだしげる首相しゅしょうだい5吉田よしだ内閣ないかく)が1954ねん昭和しょうわ29ねん12月10にち退陣たいじんし、保守ほしゅながらアメリカ以外いがいくに重視じゅうしした独自どくじ外交がいこう模索もさくする日本にっぽん民主党みんしゅとう鳩山はとやま一郎いちろう政権せいけん交代こうたいしたことで(だい1鳩山はとやま一郎いちろう内閣ないかく)、外交がいこう交渉こうしょう開始かいしへの環境かんきょう徐々じょじょととのっていった。また、日本にっぽん国際こくさい社会しゃかい復帰ふっき完成かんせいさせる国際こくさい連合れんごう加盟かめいには、日本にっぽん加盟かめいあんたいして国際こくさい連合れんごう安全あんぜん保障ほしょう理事りじかい常任じょうにん理事りじこくいちこくとして拒否きょひけん発動はつどうするソ連それんとの関係かんけい正常せいじょう不可欠ふかけつであった。

交渉こうしょう経緯けいい[編集へんしゅう]

鳩山はとやまは、内閣ないかく総理そうり大臣だいじん就任しゅうにん早々そうそう記者きしゃ会見かいけんで「だいさん世界せかい大戦たいせん回避かいひのためにも東西とうざい陣営じんえい貿易ぼうえきさかんにすべきだ」と発言はつげんし、たい交渉こうしょうへの意気込いきごみをせた。これをけてちゅうにちソ連それん代表だいひょうからコンタクトがあり、1955ねん昭和しょうわ30ねん)1がつ7にちと25にちにアンドレイ・ドムニツキー首席しゅせき代理だいりが「音羽おとわ御殿ごてん」を極秘ごくひ訪問ほうもんし、ソ連それんがわしょ懸案けんあんについて交渉こうしょうする用意よういがあるむねもうれた。ドムニツキーは25にちソ連それん政府せいふからの文書ぶんしょ」として発信はっしんしゃ氏名しめい日付ひづけ記載きさいされていない文書ぶんしょ(「ドムニツキー書簡しょかん」)を鳩山はとやま手渡てわたした[4][5]

 ソ連邦それんぽうは、たいにち関係かんけい正常せいじょう熱望ねつぼううながされ、周知しゅうちのごとく、終始しゅうし一貫いっかんして両国りょうこく関係かんけい調整ちょうせいとなえてきた。にち・ソ関係かんけい正常せいじょう用意よういあるむね意思いし表示ひょうじは、なかんずく周知しゅうちいちきゅうよんねんじゅうがつじゅうにちづけなか共同きょうどう宣言せんげんおよ十二月じゅうにがつじゅうろくにちソ連邦それんぽう外務がいむ大臣だいじんヴィ・エム・モロトフ声明せいめいちゅうおこなわれている。

 鳩山はとやま総理そうり大臣だいじん最近さいきん声明せいめいちゅうにおいて、にち・ソ関係かんけい解決かいけつ賛意さんいあらわしていることも世間せけんられている。にち・ソ関係かんけい正常せいじょう希望きぼうは、また重光しげみつ外務がいむ大臣だいじんによつて、いちきゅうよんねん十二月じゅうにがつじゅういちにち声明せいめいおよびそのしょ声明せいめいにおいて表明ひょうめいされている。

 このような情勢じょうせい考慮こうりょれて、ソヴィエトがわは、にち・ソ関係かんけい正常せいじょうのためりうべき措置そちについて、意見いけん交換こうかんおこなうことがことよろしてきするものとしんずる次第しだいである。

 ソヴィエトがわは、モスクワまた東京とうきょうのいずれかにおいておこなわれうべき交渉こうしょうのため代表だいひょうしゃ任命にんめいする用意よういあり、このてんについての日本にっぽんがわ意向いこう承知しょうちしたいとかんがえるものである。
ドムニツキー書簡しょかん[6]

6月3にちから、イギリスロンドンにあるソビエト連邦れんぽう大使館たいしかん国交こっこう正常せいじょう交渉こうしょう開始かいしされた[7]日本にっぽんがわ松本まつもと俊一しゅんいち全権ぜんけん大使たいしソ連それんがわヤコフ・マリクちゅうイギリス大使たいしによる交渉こうしょう北方領土ほっぽうりょうど問題もんだい難航なんこうし、保守ほしゅ合同ごうどうによる自由民主党じゆうみんしゅとう発足ほっそくたい強硬きょうこう活動かつどうという日本にっぽんがわ国内こくない事情じじょうもあって、交渉こうしょう難航なんこう[注釈ちゅうしゃく 3][4]同年どうねん12がつソ連それん日本にっぽんふくんだ国際こくさい連合れんごうへの18ヵ国かこく一括いっかつ加盟かめいあん拒否きょひけん発動はつどうした[8]

1956ねん昭和しょうわ31ねん)3がつ20日はつか交渉こうしょう決裂けつれついたり、翌日よくじつからソ連それん北海道ほっかいどう北方ほっぽう海域かいいき漁業ぎょぎょう制限せいげん区域くいき(「ブルガーニン・ライン」)をもうけ、日本にっぽん漁船ぎょせんしたばかりかその拿捕だほ漁民ぎょみん連行れんこう相次あいつぎ、日本にっぽん水産すいさんぎょう打撃だげきあたえた[5][7]

しかし、ソ連それんとの国交こっこう回復かいふく国際こくさい連合れんごう加盟かめいみずからの政権せいけん中心ちゅうしん課題かだいとする鳩山はとやま首相しゅしょう熱意ねついつよく、モスクワへわたった河野こうの一郎いちろう農林のうりん大臣だいじんニコライ・ブルガーニン首相しゅしょう閣僚かくりょう会議かいぎ議長ぎちょう)とのタフネゴシエーションの結果けっかにち漁業ぎょぎょう条約じょうやくむすばれた。また、にち漁業ぎょぎょう交渉こうしょう決着けっちゃく国交こっこう正常せいじょうへのならしともなった[5][7]

10月12にち鳩山はとやま首相しゅしょうだい3鳩山はとやま一郎いちろう内閣ないかく)は河野こうの農林のうりん大臣だいじんなどの随行ずいこうだんともにモスクワを訪問ほうもん[注釈ちゅうしゃく 4]ニキータ・フルシチョフだいいち書記しょきなどとの首脳しゅのう会談かいだんつづけられた。鳩山はとやまがわは「とう返還へんかん受諾じゅだくした場合ばあい沖縄おきなわをアメリカの領土りょうどにする」としたジョン・フォスター・ダレス国務こくむ長官ちょうかん発言はつげん(「ダレスの恫喝どうかつ」)や「歯舞はぼまい色丹しこたん即時そくじ返還へんかん」「国後くなしり択捉えとろふ日本にっぽん固有こゆう領土りょうど」とする自民党じみんとう党議とうぎ拘束こうそくによる制約せいやくけていたが、焦点しょうてん北方領土ほっぽうりょうど問題もんだいはまず国交こっこう回復かいふく先行せんこうさせ、平和へいわ条約じょうやく締結ていけつソ連それん歯舞はぼまい群島ぐんとう色丹島しこたんとう日本にっぽん譲渡じょうとするという前提ぜんていあらためて平和へいわ条約じょうやく交渉こうしょう実施じっしするという合意ごういがなされた[3][5][7]

10月19にちモスクワおい鳩山はとやま・ブルガーニンりょう首相しゅしょうが「日本にっぽんこくとソヴィエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく連邦れんぽうとの共同きょうどう宣言せんげん」に署名しょめいし、両国りょうこくでの批准ひじゅん12月12にち東京とうきょうにおいて批准ひじゅんしょ交換こうかんされて発効はっこうした[3][4]

宣言せんげん内容ないよう[編集へんしゅう]

  • にち両国りょうこく戦争せんそう状態じょうたい終結しゅうけつし、外交がいこう関係かんけい回復かいふくする。
  • にち両国りょうこくはそれぞれの自衛じえいけん尊重そんちょうし、相互そうご不干渉ふかんしょう確認かくにんする。
  • ソ連それん日本にっぽん国際こくさい連合れんごうへの加盟かめい支持しじする。
  • ソ連それん戦争せんそう犯罪はんざい容疑ようぎ有罪ゆうざい宣告せんこくされた日本人にっぽんじん釈放しゃくほうし、日本にっぽん帰還きかんさせる。
  • ソ連それん日本にっぽんこくたいして一切いっさい賠償ばいしょう請求せいきゅうけん放棄ほうきする。
  • にち両国りょうこくは1945ねん8がつ9にち以来いらい戦争せんそう結果けっかとしてしょうじたそれぞれのくに・その団体だんたいおよ国民こくみんのそれぞれ他方たほうくに・その団体だんたいおよ国民こくみんたいするすべての請求せいきゅうけん相互そうご放棄ほうきする。
  • にち両国りょうこく通商つうしょう関係かんけい交渉こうしょう開始かいしする(同日どうじつにち通商つうしょう航海こうかい条約じょうやく締結ていけつ)。
  • にち両国りょうこく漁業ぎょぎょう分野ぶんやでの協力きょうりょくおこなう。
  • にち両国りょうこくつづ平和へいわ条約じょうやく締結ていけつ交渉こうしょうおこない、条約じょうやく締結ていけつソ連それん日本にっぽん歯舞はぼまい群島ぐんとう色丹島しこたんとうわたす(譲渡じょうと)。

その影響えいきょう[編集へんしゅう]

政治せいじ[編集へんしゅう]

共同きょうどう宣言せんげん締結ていけつによって日本にっぽん国際こくさい連合れんごう加盟かめいへの障害しょうがいくなった。1956ねん昭和しょうわ31ねん12月18にち国際こくさい連合れんごう総会そうかいで、ソ連それんひがしヨーロッパ諸国しょこくとも日本にっぽん加盟かめい賛成さんせいし、全会ぜんかい一致いっちによる日本にっぽん加盟かめい実現じつげんした[8][3]。また、この国際こくさい連合れんごう加盟かめいによりだい3鳩山はとやま一郎いちろう内閣ないかくそう辞職じしょくし、石橋いしばし内閣ないかく石橋いしばし湛山たんざん首相しゅしょう)にがれた。

しかし、平和へいわ条約じょうやく締結ていけつ交渉こうしょう北方領土ほっぽうりょうど全面ぜんめん返還へんかん要求ようきゅうする日本にっぽんと、平和へいわ条約じょうやく締結ていけつの2とう返還へんかん決着けっちゃくさせようとするソ連それん妥協だきょうてん見出みだせないまま、開始かいし延期えんきされた。

ぎゃく1960ねん昭和しょうわ35ねん)1がつだい2きし改造かいぞうないかくきし信介しんすけ首相しゅしょう)が日米にちべい安全あんぜん保障ほしょう条約じょうやく改定かいていおこなったことたいしてソ連それん反発はんぱつし、歯舞はぼまい群島ぐんとう色丹島しこたんとう返還へんかん[注釈ちゅうしゃく 5]撤回てっかいしたため、両国りょうこく政治せいじてき関係かんけいふたた冷却れいきゃくした。1973ねん昭和しょうわ48ねん)10がつ日本にっぽん田中たなか角栄かくえい首相しゅしょうがモスクワを訪問ほうもんするまで、両国りょうこく首脳しゅのう会談かいだんは17年間ねんかん開催かいさいされなかった。その平和へいわ条約じょうやく締結ていけつ歯舞はぼまい群島ぐんとう色丹島しこたんとう日本にっぽんわたすことを明記めいきした)にち共同きょうどう宣言せんげんは、1993ねん平成へいせい5ねん)10がつボリス・エリツィン大統領だいとうりょう来日らいにちに「にちあいだすべての国際こくさい約束やくそくにちあいだでもつづ適用てきようされる」ということが確認かくにんされ(東京とうきょう宣言せんげん)、2000ねん平成へいせい12ねん)9がつウラジーミル・プーチン大統領だいとうりょう来日らいにちに「56ねん宣言せんげんにち共同きょうどう宣言せんげん)は有効ゆうこうであるとかんがえる」と発言はつげんした。2001ねん平成へいせい13ねん)7がつ両国りょうこく発表はっぴょうした「イルクーツク声明せいめい」ではにち共同きょうどう宣言せんげん法的ほうてき有効ゆうこうせい文書ぶんしょ確認かくにんされている[9][10]

一方いっぽうソ連それんにとっては1955ねんたい西にしドイツ国交こっこう樹立じゅりつつづ敗戦はいせんこく[注釈ちゅうしゃく 6]との外交がいこう関係かんけい回復かいふくであり、戦後せんご処理しょり一応いちおう完結かんけつした。フルシチョフにとっては西側にしがわ諸国しょこくとの平和へいわ共存きょうぞん政策せいさく(「ゆきどけ」)の成果せいかの1つとなった。ただし、日本にっぽん西側にしがわ諸国しょこく一員いちいんになること阻止そしできず、領土りょうど問題もんだい日本にっぽん国民こくみんソ連それんへの感情かんじょうわるいままにめる結果けっかまねいた。

経済けいざい[編集へんしゅう]

外交がいこう関係かんけい回復かいふくにより、両国りょうこく経済けいざい交流こうりゅう復活ふっかつした。日本にっぽんシベリア豊富ほうふ森林しんりん資源しげん北洋ほくようざい)に注目ちゅうもくし、シベリア鉄道てつどう経由けいゆしたヨーロッパ諸国しょこくへの連絡れんらくルートも旅客りょかく貨物かもつちゅうおうはんれつ両面りょうめん利用りようされることになった。一方いっぽうソ連それん日本にっぽん北東ほくとうアジアでの経済けいざいてきパートナーとしてなし、国際こくさい見本市みほんいちなどの開催かいさい投資とうしれ、軍港ぐんこうとして外国がいこくじんりを禁止きんししたウラジオストクわるたいにち貿易ぼうえきこうナホトカ整備せいびなどをおこなった。

太平洋たいへいよう北西ほくせいオホーツクかいにおける北洋ほくよう漁業ぎょぎょうは、この共同きょうどう宣言せんげんにより政治せいじてき保証ほしょうがなされて安定あんていてき操業そうぎょうおおきく役立やくだったが、これ以後いご北方領土ほっぽうりょうど付近ふきん海域かいいき中心ちゅうしん拿捕だほ事件じけん多数たすう発生はっせいし、長年ながねんわたって両国りょうこく関係かんけい悪化あっかさせる要因よういんともなった。

文化ぶんか[編集へんしゅう]

外交がいこう関係かんけい回復かいふく両国りょうこくあいだ文化ぶんか交流こうりゅう再開さいかいにもつながった。NHKは以前いぜんから国内こくない学習がくしゅうしゃからの嘆願たんがん署名しょめいけていたが、この国交こっこう回復かいふくくわわったことで1956ねん11月からNHKラジオだい2放送ほうそうロシア講座こうざ追加ついかした。また、1957ねん2がつ28にち昭和しょうわ基地きち設営せつえいしただい1かい南極なんきょく観測かんそく帰途きとに、基地きちのあるオングルとう近海きんかい氷原ひょうげんめられた観測かんそくせん宗谷そうや救援きゅうえんソ連それん砕氷さいひょうせんオビごうおこない、脱出だっしゅつの3がつ13にちみなみアフリカ共和きょうわこくのケープタウンで両船りょうせん乗組のりくみいんによる交歓こうかんかいおこなわれた[注釈ちゅうしゃく 7]ソ連それんせんによる救難きゅうなん日本にっぽん国内こくないでも報道ほうどうされ、日本にっぽん国内こくないソ連それんへの感情かんじょう軟化なんかした。

エピソード[編集へんしゅう]

1955ねん昭和しょうわ30ねんはる鳩山はとやまからにち交渉こうしょうけての内奏ないそうけた昭和しょうわ天皇てんのうは、共産きょうさんこくとの国交こっこう回復かいふくいそぐよりも国内こくない復興ふっこういそぐべき問題もんだい山積さんせきしているのではないかと発言はつげんした。これをけて鳩山はとやま狼狽ろうばいするが、河野こうのが「陛下へいかのお言葉ことばはご質問しつもんであり、ご意向いこう表明ひょうめいではない」と説得せっとくし、にち国交こっこう回復かいふく鳩山はとやま内閣ないかく重要じゅうよう課題かだいとして堅持けんじされた[4]

河野こうの回想かいそう[11][12]によると、1956ねん昭和しょうわ31ねん10月18にち交渉こうしょうちゅう河野こうのフルシチョフおおきく先端せんたんするどペーパーナイフて、されたらたまらないと警戒けいかいしていた。いたずらしんもあってレーニン写真しゃしんりのそのペーパーナイフをってしまおうと、フルシチョフにペーパーナイフをくれるようたのんだ。フルシチョフは気前きまえよく河野こうのにペーパーナイフをくれた。河野こうの会談かいだん鳩山はとやまに「フルシチョフがそれをまわすからヤバくて仕方しかたいから分捕ぶんどった。北方領土ほっぽうりょうどわりに総理そうり進呈しんていしましょう」と、ペーパーナイフを鳩山はとやまにプレゼントした。『鳩山はとやま一郎いちろうかおる日記にっき』にはそれを「ペーパーナイフをくれたゆかり」としるしている[13]河野こうのがさらに翌日よくじつ会談かいだんで「昨日きのうのは鳩山はとやまにあげたから自分じぶんようのがしい」とたのむと、フルシチョフは戸棚とだな大量たいりょうにあるなかから1ほんし、河野こうのにくれた[注釈ちゅうしゃく 8]。それには河野こうのまいってしまったという。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ ほん共同きょうどう宣言せんげんにおいて「ひとしく正文せいぶんである日本語にほんごおよびロシア」と明記めいきされている。
  2. ^ 日本にっぽんおな敗戦はいせんこく西側にしがわ一員いちいんである西にしドイツは、解決かいけつむずかしい問題もんだい棚上たなあげにする「アデナウアー方式ほうしき」により、1956ねん1がつソ連それん国交こっこう樹立じゅりつしている[3]
  3. ^ 8がつ5にちにマリクから歯舞はぼまい群島ぐんとう色丹島しこたんとう二島ふたじまわたむねもうがあり、松本まつもとはこれを肯定こうていてきとらえて東京とうきょう打電だでんするが、外務がいむ大臣だいじんであった重光しげみつまもるによってもみされた[7][5]
  4. ^ 当時とうじ片道かたみち5にち長旅ながたびであり、高齢こうれい病身びょうしん鳩山はとやまにとってはいのちがけであり、つまかおる看護かんご同行どうこうした[4][7]かおる出発しゅっぱつまえに「おじいさまはおほねになってかえってくるかもしれないから、よくておきなさいよ」とまご鳩山はとやま邦夫くにおかたりかけていた[3]
  5. ^ ソ連それんがわは「両国りょうこくあいだ友好ゆうこう関係かんけいもとづいた、本来ほんらいソ連それんりょうであるどう地域ちいきわたし」と主張しゅちょうした。
  6. ^ 国際こくさい連合れんごう憲章けんしょうでの敵国てきこく条項じょうこう適用てきようこくで、きゅう枢軸すうじくこくである。
  7. ^ なお、日本にっぽんだい2世界せかい大戦たいせん開始かいしともな国交こっこう断絶だんぜつみなみアフリカ共和きょうわこくとの領事りょうじ関係かんけいを1952ねんから復活ふっかつさせていたが、正式せいしき外交がいこう関係かんけいく、ソ連それんみなみアフリカ政府せいふによるアパルトヘイト政策せいさくへの抗議こうぎで1956ねん国交こっこう断絶だんぜつしていたため、りょう国共こっきょう正式せいしき外交がいこう関係かんけい第三国だいさんごくでの交流こうりゅうとなった。
  8. ^ フルシチョフのほうから先手せんてって「もう1ほんいりませんか」ともうたとも[7]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 1956ねん昭和しょうわ31ねん12月12にち外務省がいむしょう告示こくじだい131ごう日本にっぽんこくとソヴィエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく連邦れんぽうとの共同きょうどう宣言せんげん効力こうりょく発生はっせい
  2. ^ 北方領土ほっぽうりょうど 屈辱くつじょく交渉こうしょう(3)】密約みつやくにスターリンは狂喜きょうきした べいソのパワーゲームに翻弄ほんろうされた千島ちしま列島れっとう”. 産経さんけいニュース (2016ねん11月26にち). 2022ねん5がつ15にち閲覧えつらん
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  4. ^ a b c d e 三宅みやけ久之ひさゆき三宅みやけ久之ひさゆきけなかったとくダネ』青春せいしゅん出版しゅっぱんしゃ、2010ねん、19-25ぺーじISBN 978-4-413-04293-2OCLC 679421114 
  5. ^ a b c d e 北方領土ほっぽうりょうど 屈辱くつじょく交渉こうしょう(4)】「歯舞はぼまい色丹しこたんの2とうかえす」さぶるソ連それん 窮地きゅうち重光しげみつまもるっていたのは… 米国べいこく恫喝どうかつ「4とう返還へんかんでないと沖縄おきなわかえさない」”. 産経さんけいニュース (2016ねん11月28にち). 2022ねん5がつ15にち閲覧えつらん
  6. ^ にち国交こっこう正常せいじょう問題もんだいかんするドムニツキー書簡しょかん”. データベース「世界せかい日本にっぽん. 東京大学とうきょうだいがく東洋とうよう文化ぶんか研究所けんきゅうじょ. 2022ねん5がつ15にち閲覧えつらん
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  9. ^ 北方領土ほっぽうりょうど 屈辱くつじょく交渉こうしょう(6)=かんちちすすむ太郎たろう命懸いのちがけのたい外交がいこう 安倍晋三あべしんぞう首相しゅしょうあらたなにち時代じだいひらけるか”. 産経さんけいニュース (2016ねん11月30にち). 2022ねん5がつ15にち閲覧えつらん
  10. ^ 外務省がいむしょう:にちソ・にちあいだ平和へいわ条約じょうやく締結ていけつ交渉こうしょう”. 2010ねん11月3にち閲覧えつらん
  11. ^ 河野こうの一郎いちろういまだからはなそう』春陽しゅんようどう書店しょてん 1958ねん2がつ1にち PP.77-80
  12. ^ 豊田とよだみのる英才えいさい家系かけい 鳩山はとやま一郎いちろう鳩山はとやま人々ひとびと講談社こうだんしゃ 1989ねん p534 ISBN 4-06-204152-9講談社こうだんしゃ文庫ぶんこ 1996ねん10がつ。この著作ちょさくは、当該とうがい記述きじゅつ自体じたいには出典しゅってん記載きさいがないが、参考さんこう文献ぶんけんに 河野こうの一郎いちろういまだからはなそう』春陽しゅんようどう書店しょてん をかかげている
  13. ^ 鳩山はとやまかおる鳩山はとやま一郎いちろう鳩山はとやま一郎いちろうかおる日記にっき 下巻げかん 鳩山はとやまかおるへん 』p314 中央ちゅうおう公論こうろんしんしゃ 2005ねん3がつ

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外部がいぶリンク[編集へんしゅう]