宮本みやもと顕治けんじ

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宮本みやもと 顕治けんじ
みやもと けんじ
前衛ぜんえい』1962ねん12月臨時りんじ増刊ぞうかんごう
生年月日せいねんがっぴ 1908ねん10月17にち
出生しゅっしょう 日本の旗 日本にっぽん山口やまぐちけんひかり
ぼつ年月日ねんがっぴ (2007-07-18) 2007ねん7がつ18にち(98さいぼつ
出身しゅっしんこう 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがくげん東京大学とうきょうだいがく
所属しょぞく政党せいとう 日本にっぽん共産党きょうさんとう
称号しょうごう 日本にっぽん共産党きょうさんとう50ねん党員とういん
日本にっぽん共産党きょうさんとう名誉めいよ役員やくいん
配偶はいぐうしゃ 初婚しょこん宮本みやもと百合子ゆりこ(1951ねん死別しべつ
再婚さいこん宮本みやもと寿恵子すえこ

在任ざいにん期間きかん 1982ねん7がつ31にち - 1997ねん9月26にち

選挙せんきょ全国ぜんこく→)
比例ひれい
当選とうせん回数かいすう 2かい
在任ざいにん期間きかん 1977ねん7がつ11にち - 1989ねん7がつ9にち

在任ざいにん期間きかん 1970ねん7がつ7にち - 1982ねん7がつ31にち

日本にっぽん共産党きょうさんとう書記しょきちょう
在任ざいにん期間きかん 1958ねん8がつ1にち - 1970ねん7がつ7にち
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宮本みやもと 顕治けんじ(みやもと けんじ、1908ねん明治めいじ41ねん10月17にち - 2007ねん平成へいせい19ねん7がつ18にち)は、日本にっぽん政治せいじ共産きょうさん主義しゅぎしゃ文芸ぶんげい評論ひょうろん通称つうしょうミヤケン。

戦前せんぜん非合法ひごうほう政党せいとう時代じだいからの日本にっぽん共産党きょうさんとう活動かつどうであり、戦後せんご、1958ねんとう書記しょきちょう就任しゅうにんしてから40年間ねんかん日本にっぽん共産党きょうさんとう指導しどうした。参議院さんぎいん議員ぎいん(2)をつとめ、日本にっぽん共産党きょうさんとう書記しょきちょうどう委員いいんちょうどう議長ぎちょう歴任れきにん国会こっかい議席ぎせき国政こくせい政党せいとう党首とうしゅでありながら、国会こっかい議員ぎいんではなかった[注釈ちゅうしゃく 1][1][注釈ちゅうしゃく 2][2]時期じきがある。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

学生がくせい時代じだいから入党にゅうとうまで[編集へんしゅう]

山口やまぐちけん熊毛くまげぐん光井みついむらげんひかり出身しゅっしん[3]

旧制きゅうせい徳山とくやま中学校ちゅうがっこうから松山まつやま高等こうとう学校がっこう現在げんざい愛媛大学えひめだいがく)に進学しんがく社会しゃかい科学かがく研究けんきゅうかい創立そうりつ[3]文芸ぶんげいはく亜紀あき』を発行はっこうするなどの活動かつどうをおこなった。

東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく在学ざいがくちゅう1929ねん昭和しょうわ4ねん)8がつ芥川あくたがわ龍之介りゅうのすけろんじた「『敗北はいぼく』の文学ぶんがく」で雑誌ざっし改造かいぞう』の懸賞けんしょう論文ろんぶん当選とうせんし、文壇ぶんだんにデビュー(次席じせき小林こばやし秀雄ひでおの『様々さまざまなる意匠いしょう』)[3]1931ねん昭和しょうわ6ねん)3がつ東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく経済学部けいざいがくぶ卒業そつぎょう。『思想しそう』1931ねん4がつに「同伴どうはんしゃ文学ぶんがく」を発表はっぴょう

1931ねん昭和しょうわ6ねん)5がつ日本にっぽん共産党きょうさんとう入党にゅうとうし、日本にっぽんプロレタリア作家さっか同盟どうめい加盟かめい。そのとう中央ちゅうおうアジテーション・プロパガンダ部員ぶいん就任しゅうにん1932ねん昭和しょうわ7ねん)2がつ作家さっか中條ちゅうじょう百合子ゆりこ結婚けっこん(ただし事実じじつこん)。1932ねん3がつから4がつにかけてのプロレタリア文学ぶんがく運動うんどうへの弾圧だんあつをきっかけに、地下ちか活動かつどうはいる。野沢のざわとおる名義めいぎで『プロレタリア文化ぶんか』1932ねん10がつ-1933ねん1がつに「政治せいじ芸術げいじゅつ政治せいじ優位ゆういせいかんする問題もんだい」を連載れんさい。そのなか1933ねん昭和しょうわ8ねん)1がつ中央ちゅうおうアジ・プロ部長ぶちょう就任しゅうにん。4月、中央ちゅうおう委員いいん候補こうほになり、5月、野呂のろ栄太郎えいたろう最高さいこう指導しどうしゃ就任しゅうにんともな中央ちゅうおう委員いいん昇格しょうかく。また、野沢のざわとおるなどの名前なまえでプロレタリア文学ぶんがく運動うんどう理論りろん問題もんだい論文ろんぶん発表はっぴょうした。リンチ共産党きょうさんとう#経緯けいい参照さんしょう

スパイ査問さもん事件じけん[編集へんしゅう]

1933ねん昭和しょうわ8ねん)12月26にち街頭がいとう連絡れんらくちゅう逮捕たいほされるが、警察けいさつ予審よしん取調とりしらべには黙秘もくひつらぬいた。そのあいだに、逮捕たいほされたほかの人間にんげんへの取調とりしらべから警察けいさつめたアジト捜索そうさくされ、床下ゆかしたより小畑おばた達夫たつお死体したい発見はっけんされた。宮本みやもとらに「査問さもん」の最中さいちゅう暴行ぼうこうけたすえ外傷がいしょうせいショックで死亡しぼうしたと、裁判さいばん認定にんていされた。これがいわゆる日本にっぽん共産党きょうさんとうスパイ査問さもん事件じけんである。宮本みやもと治安ちあん維持いじほう違反いはんだけでなく、この事件じけん加害かがいしゃとしても裁判さいばんさばかれることになる[3][4]

収監しゅうかん[編集へんしゅう]

1934ねん昭和しょうわ9ねん)12月、市ヶ谷いちがや刑務所けいむしょ未決監みけつかんうつりかん同月どうげつ百合子ゆりことの婚姻こんいんとどけとどた。これは、事実じじつこんでは面会めんかいなどに制限せいげんくわえられていたので、それをけるという意味合いみあいもあった。これによって、百合子ゆりことの往復おうふく書簡しょかんのやりとりが可能かのうになった。このやりとりをつうじて、顕治けんじひゃくごう文学ぶんがく生活せいかつについての意見いけん表明ひょうめいして、弾圧だんあつ百合子ゆりこはこの時期じきに2執筆しっぴつ禁止きんし時期じき経験けいけんしている)や戦争せんそう時代じだいに、百合子ゆりこ作家さっかとしての出処しゅっしょ進退しんたい一貫いっかんしたものとするために助力じょりょくした。また、百合子ゆりこも、顕治けんじたいして公判こうはん維持いじのための資料しりょう入手にゅうしゅ作成さくせいちからそそぎ、獄中ごくちゅうでの顕治けんじささえた。そのてんで、この夫婦ふうふ思想しそうてきおおきなぶれもなく戦後せんご時代じだいむかえた。

宮本みやもと病気びょうきのため裁判さいばん開始かいしおくれ、逮捕たいほから7ねん1940ねん昭和しょうわ15ねん)に公判こうはん開始かいしされた。だい世界せかい大戦たいせん末期まっき1944ねん昭和しょうわ19ねん12月5にちに、東京とうきょう地方裁判所ちほうさいばんしょ殺意さつい否定ひていしたものの小畑おばた死因しいんはリンチによる外傷がいしょうせいショックであるとして、治安ちあん維持いじほう違反いはん不法ふほう監禁かんきん傷害しょうがい致死ちし死体したい遺棄いきなどにより無期むき懲役ちょうえき有罪ゆうざい判決はんけつくだした。1945ねん昭和しょうわ20ねん)5がつ大審院だいしんいん上告じょうこく棄却ききゃくされ無期むき懲役ちょうえき判決はんけつ確定かくてい戦時せんじ特例とくれいにより控訴こうそしんし)。6月、網走あばしり刑務所けいむしょうつされ、8がつ終戦しゅうせんとなった。

復権ふっけん[編集へんしゅう]

1945ねん昭和しょうわ20ねん10月4にちGHQ指令しれい政治せいじてき市民しみんてきおよ宗教しゅうきょうてき自由じゆうたいする制限せいげん撤廃てっぱいかんする覚書おぼえがき」がされ、これをけて10月5にち司法省しほうしょう政治せいじはん釈放しゃくほうめいじる。政治せいじはん釈放しゃくほう翌日よくじつひかえた10月9にち出獄しゅつごく10月17にちみことのりれいだい580ごうみことのりれいだい580ごう減刑げんけいれい)により懲役ちょうえき20ねん減刑げんけい1947ねん昭和しょうわ22ねん)、けい執行しっこう停止ていし状態じょうたいづいた東京とうきょう検事けんじきょく出頭しゅっとう要求ようきゅうした。5月15にちにはGHQ民政みんせいきょくより、日本にっぽん政府せいふたいして宮本みやもと復権ふっけんもとめるおぼきが発給はっきゅうされた。5月29にち昭和しょうわ20ねんみことのりれいだい730ごう政治せいじ犯人はんにんとう資格しかく回復かいふくせきスルけん)にもとづく復権ふっけん証明しょうめいしょ発行はっこうされ、宮本みやもと復権ふっけんまった。共産党きょうさんとうがわは、この復権ふっけんにより一般いっぱん刑法けいほうはん有罪ゆうざい判決はんけつ治安ちあん維持いじほう違反いはん一環いっかんとしてなされた不当ふとう判決はんけつであり、無実むじつであることが証明しょうめいされたとしている。

上記じょうきGHQ指令しれいとそれをけた司法省しほうしょう政治せいじはん釈放しゃくほう命令めいれいおよび復権ふっけんは、純粋じゅんすい政治せいじはん適用てきようされるものであって、治安ちあん維持いじほう違反いはんとともに監禁かんきん致死ちしざいなど一般いっぱん刑法けいほうはんでも有罪ゆうざいとされた宮本みやもと本来ほんらい対象たいしょうがいであった。そのため、その両者りょうしゃ復権ふっけん要求ようきゅうしたGHQの手続てつづきが問題もんだいとなった。これはいわゆる復権ふっけん問題もんだいとして、スパイリンチ査問さもん事件じけん存否そんぴとともに、1975ねんまつに『文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう誌上しじょう連載れんさい開始かいしされた立花たちばなたかしの『日本にっぽん共産党きょうさんとう研究けんきゅう』で指摘してきがあり、1976ねんには国会こっかいでもげられた。(復権ふっけん問題もんだい後述こうじゅつ

国際こくさいリーダー[編集へんしゅう]

共産党きょうさんとう指導しどうしゃらとともに、徳田とくた球一きゅういち遺影いえいかこむ(1955ねん8がつ)。
前列ぜんれつひだりから、志田しだ重男しげお野坂のさかさんさん紺野こんの与次郎よじろう後列こうれつひだりから、志賀しが義雄よしお宮本みやもと春日かすが正一しょういち

1950ねん昭和しょうわ25ねん)1がつコミンフォルムが『日本にっぽん情勢じょうせいについて』を発表はっぴょうし、当時とうじ日本にっぽん共産党きょうさんとう平和へいわ革命かくめいろんきびしく批判ひはんした(コミンフォルム批判ひはん)。これにたいし、徳田とくた球一きゅういち野坂のさかさんさんとう主流しゅりゅうは「『日本にっぽん情勢じょうせいについて』にかんする所感しょかん」を発表はっぴょうしてとうかれている状況じょうきょう説明せつめいしつつコミンフォルム批判ひはん反論はんろんした[5]

一方いっぽう宮本みやもと雑誌ざっし前衛ぜんえい』に「コミンフォルム『論評ろんぴょう』の積極せっきょくてき意義いぎ」を投稿とうこうした。内容ないようは、「(レーニンが例外れいがいてき妥協だきょうとしてみとめた平和へいわてき発展はってん可能かのうせい条件じょうけんから)ロシア革命かくめい歴史れきしてき類推るいすいして、日本にっぽん革命かくめいの『平和へいわてき発展はってん』を類推るいすいすることは根本こんぽんてきあやまり」「議会ぎかいつうじての政権せいけん獲得かくとく理論りろんおなあやまりであることはろんたない」などと、平和へいわ革命かくめい路線ろせん否定ひていしてコミンフォルム批判ひはん擁護ようごし、徳田とくた陣営じんえいを「ブルジョワ民族みんぞく主義しゅぎてきな、せまく、ただしくない態度たいど」と攻撃こうげきするものであった[3][5]

これに徳田とくた激怒げきどし、とう徳田とくた中心ちゅうしんとする所感しょかん宮本みやもとをリーダーとする国際こくさいとにわかれたが、党員とういんだい部分ぶぶん所感しょかんいた[6][5]。しかし、中国共産党ちゅうごくきょうさんとうからの批判ひはんけ、1がつ18にちからひらかれただい18かい拡大かくだい中央ちゅうおう委員いいんかいでコミンフォルム論評ろんぴょう積極せっきょくてき意義いぎみとめる決議けつぎされた。その徳田とくた宮本みやもと警戒けいかいして九州きゅうしゅう左遷させんさせた[7]レッドパージ進行しんこうするなか徳田とくたとう幹部かんぶたちは宮本みやもとのこして地下ちかもぐった[6]

文芸ぶんげい評論ひょうろん分野ぶんやでの活動かつどう[編集へんしゅう]

1951ねん昭和しょうわ26ねん1がつ21にちつまひゃくごう死去しきょ(51さい没後ぼつご岩崎いわさき書店しょてんから刊行かんこうされた『宮本みやもと百合子ゆりこ全集ぜんしゅう』の解説かいせつき、それをその単行本たんこうぼん宮本みやもと百合子ゆりこ世界せかい』にまとめた。このほんは、現在げんざいでもひゃくごう研究けんきゅう史上しじょう重要じゅうよう位置いちめるものとされている。

また、獄中ごくちゅうにいたころの百合子ゆりことの往復おうふく書簡しょかん編集へんしゅうして『じゅうねん手紙てがみ』として刊行かんこうした。のち作家さっか渡辺わたなべ淳一じゅんいちが、この書簡しょかんしゅうを、あい記録きろくとしてたか評価ひょうかしている。往復おうふく書簡しょかん全体ぜんたいぞうは、2001ねん平成へいせい13ねん)からの『宮本みやもと百合子ゆりこ全集ぜんしゅう』と、2002ねん平成へいせい14ねん)に刊行かんこうされた『宮本みやもと顕治けんじ獄中ごくちゅうからの手紙てがみ』(ぜん2かんISBN 4-406-02948-6,ISBN 4-406-02949-4)によってあきらかにされた。

1954ねんには、『しん日本にっぽん文学ぶんがく誌上しじょう大西おおにし巨人きょじんと、野間のまひろし作品さくひん真空しんくう地帯ちたい』の評価ひょうかしん日本にっぽん文学ぶんがくかい組織そしき問題もんだいをめぐって論争ろんそうするなど、1950年代ねんだい前半ぜんはん文芸ぶんげい評論ひょうろんとしての活躍かつやく目立めだっていた。なお、宮本みやもとひゃくごう死去しきょ百合子ゆりこ秘書ひしょだった大森おおもり寿恵子すえこ評論ひょうろん翻訳ほんやく高杉たかすぎ一郎いちろう義妹ぎまい)と再婚さいこんしている。寿ことぶき恵子けいこはその、『わか宮本みやもと百合子ゆりこ』をあらわしている。[3]

幹部かんぶかい委員いいんちょう[編集へんしゅう]

1951ねん8がつ、コミンフォルムが所感しょかん事実じじつじょう支持しじし、宮本みやもとらを「日米にちべい反動はんどうする」分派ぶんぱ活動かつどうとして非難ひなんする声明せいめい発表はっぴょうした。宮本みやもと自己じこ批判ひはんしょ志田しだ重男しげおふくすうかい提出ていしゅつし、「ふくとう」をみとめられた[8]

所感しょかんによってまとめげられた日本にっぽん共産党きょうさんとうぜんきょう51ねん綱領こうりょう決議けつぎし、武装ぶそう闘争とうそう突入とつにゅうしたが、だい25かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょではとう公認こうにん候補者こうほしゃ全員ぜんいん落選らくせんという結果けっかにつながる[7]

1955ねん昭和しょうわ30ねん)3がつ中央ちゅうおう指導しどう部員ぶいん就任しゅうにん。7月、ろくぜんきょうだい1かい中央ちゅうおう委員いいんかい総会そうかい中央ちゅうおう機関きかん編集へんしゅう委員いいん任命にんめい。8月2にち常任じょうにん幹部かんぶかい責任せきにんしゃ就任しゅうにん[3]1958ねん昭和しょうわ33ねん)8がつだい7かいとう大会たいかい1ちゅうそうで、とう書記しょきちょう選出せんしゅつされた[3]国際こくさいけい主導しゅどうけんにぎったことにより、以後いごとう宮本みやもと立場たちば基準きじゅんとしたものとなり、所感しょかんは「分派ぶんぱ」としてあつかわれる[6][9]

1970ねん昭和しょうわ45ねん)7がつだい11かいとう大会たいかい1ちゅうそう中央ちゅうおう委員いいんかい幹部かんぶかい委員いいんちょう選出せんしゅつ[3]書記しょきちょうのポストを廃止はいしした。

自主じしゅ独立どくりつへのみち[編集へんしゅう]

宮本みやもと書記しょきちょうつとめていた1950年代ねんだいから60年代ねんだいにかけての時期じき日本にっぽん共産党きょうさんとう朝鮮ちょうせん労働党ろうどうとう友好ゆうこう関係かんけいむすんでいた。戦前せんぜんコミンテルン時代じだいには「いちこくいち共産党きょうさんとう」の原則げんそくがあり、当時とうじ日本にっぽん統治とうちであった朝鮮半島ちょうせんはんとう台湾たいわん日本にっぽん共産党きょうさんとう活動かつどう範囲はんいとされた。

このとき名残なごりもあり、戦後せんご朝鮮民主主義人民共和国ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく建国けんこくされたのち日本にっぽんのこった在日ざいにち朝鮮ちょうせんじんなかには、日本にっぽん共産きょうさん党員とういんとなるもの多数たすういた。かれらは1955ねん在日本朝鮮人総聯合会ざいにほんちょうせんじんそうれんごうかい朝鮮総聯ちょうせんそうれん結成けっせい同時どうじ事実じじつじょう移籍いせきするかたち共産党きょうさんとうはなれるが、その共産党きょうさんとう朝鮮ちょうせん労働党ろうどうとうあいだには朝鮮総聯ちょうせんそうれんつうじた交流こうりゅう関係かんけいがあった。宮本みやもと1966ねん昭和しょうわ41ねん)、きたベトナム中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく朝鮮民主主義人民共和国ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこくさんこく訪問ほうもんする。2番目ばんめ訪問ほうもんさきとなった中国ちゅうごく上海しゃんはい中国共産党ちゅうごくきょうさんとう主席しゅせき毛沢東もうたくとうとの会談かいだんのぞむが、この席上せきじょう日本にっぽん共産党きょうさんとう活動かつどうを「修正しゅうせい主義しゅぎだ」と批判ひはん当時とうじはじまったばかりだった文化ぶんかだい革命かくめい路線ろせん日本にっぽん共産党きょうさんとうしたがうようもとめた。宮本みやもと発言はつげんろくぜんきょう、さらにだい7かいとう大会たいかい自身じしんによって完全かんぜん否定ひていしていた所感しょかん中心ちゅうしんとする武装ぶそう闘争とうそう路線ろせん復活ふっかつにつながるとった。そして意見いけんれることはできないどころか、中国ちゅうごくソ連それんへの追従ついしょうによっていち壊滅かいめつてき打撃だげきけた過去かこ反省はんせいからもとうとしての関係かんけいつべきと宮本みやもと判断はんだんする。にちちゅうりょうとう関係かんけい完全かんぜん決裂けつれつ宮本みやもと議長ぎちょう引退いんたいした翌年よくねん1998ねん平成へいせい10ねん)、いだ不破ふわ哲三てつぞうが「中国共産党ちゅうごくきょうさんとうがわ過去かこあやまりをみとめた」とべて和解わかいするまで30ねん以上いじょう交流こうりゅうたれた。

翌々年よくよくねん1968ねん昭和しょうわ43ねん)に北朝鮮きたちょうせんさい訪問ほうもんして当時とうじ首相しゅしょうだったきむ日成いるそん会談かいだん宮本みやもときむ日成いるそんかんがえていた武装ぶそう南進なんしん政策せいさくたいして批判ひはんをした。

1970年代ねんだい初頭しょとうに、きむ日成いるそん誕生たんじょういわうという『事業じぎょう』がおこなわれるころから、りょうとう関係かんけい冷却れいきゃくし、1983ねん昭和しょうわ58ねん)のラングーン事件じけんにおいて、日本にっぽん共産党きょうさんとう朝鮮民主主義人民共和国ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく当局とうきょく犯行はんこうであると表明ひょうめいしてりょうとう関係かんけい断絶だんぜつした。1987ねん昭和しょうわ62ねん)の大韓航空だいかんこうくう爆破ばくは事件じけんのとき、宮本みやもと即座そくざ朝鮮民主主義人民共和国ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく当局とうきょく犯行はんこうであると認識にんしきしたと萩原はぎはらりょう回想かいそうしている。

査問さもん問題もんだい再燃さいねん[編集へんしゅう]

1974ねん昭和しょうわ49ねん6月26にち民社党みんしゃとう中央ちゅうおう執行しっこう委員いいんちょう春日かすが一幸かずゆきは『毎日新聞まいにちしんぶん』の参議院さんぎいん選挙せんきょ取材しゅざいで、「スパイ査問さもん事件じけんげ、「宮本みやもと小畑おばたをリンチでころした」と主張しゅちょう選挙せんきょでの日本にっぽん共産党きょうさんとう批判ひはん使つかった。日本にっぽん共産党きょうさんとうは「小畑おばた特異とくい体質たいしつにより死亡しぼうしたもの」と抗議こうぎした。1975ねん12月10にち発売はつばいの『文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう』1976ねん1がつごう掲載けいさいされた立花たちばなたかし連載れんさい日本にっぽん共産党きょうさんとう研究けんきゅう」において裁判さいばん公判こうはん記録きろく公開こうかいされた。この記事きじ発端ほったんとして、宮本みやもと復権ふっけんかんする問題もんだいと、事件じけん詳細しょうさい国会こっかいでも論議ろんぎされた。

この影響えいきょうか、同年どうねんだい34かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょでは、共産党きょうさんとう議席ぎせきおおきくらした。

参議院さんぎいん議員ぎいん[編集へんしゅう]

1978ねん

1977ねん昭和しょうわ52ねん)7がつだい11かい参議院さんぎいん議員ぎいん通常つうじょう選挙せんきょ全国ぜんこくからはつ当選とうせんし、1989ねん平成へいせい元年がんねん)まで212ねんつとめる。1982ねん昭和しょうわ57ねん)7がつから8がつにかけて開催かいさいされただい16かい大会たいかい1ちゅうそう中央ちゅうおう委員いいんかい議長ぎちょう選出せんしゅつされた[3]

晩年ばんねん[編集へんしゅう]

1990ねん平成へいせい2ねん)、日本にっぽん共産党きょうさんとうだい19かい大会たいかいでは、ルーマニアチャウシェスク問題もんだい官僚かんりょうてきとう運営うんえい批判ひはんする意見いけんが「赤旗あかはた評論ひょうろん特集とくしゅうばん」に掲載けいさいされたが、反対はんたい意見いけんぬしとう大会たいかい代議員だいぎいん選出せんしゅつされることはなく、「宮本みやもと議長ぎちょう冒頭ぼうとう発言はつげん」をふくむすべての議案ぎあん満場一致まんじょういっち採択さいたくされた。だが、この大会たいかいではじめて、中央ちゅうおう委員いいんじゅん中央ちゅうおう委員いいん選挙せんきょ得票とくひょうすう公表こうひょうし、宮本みやもと顕治けんじ不信任ふしんにんひょうは14ひょうであり、当選とうせん順位じゅんいしたから6番目ばんめであった。

1994ねん平成へいせい6ねん)、日本にっぽん共産党きょうさんとうだい20かい大会たいかいでは、病気びょうき欠席けっせきし、大会たいかいへのメッセージを立木たちきひろし代読だいどくした。宮本みやもと顕治けんじ去就きょしゅう注目ちゅうもくされたが、「余人よにんをもってえがたい」としてつづとう中央ちゅうおう委員いいん選出せんしゅつされ、だい1かい中央ちゅうおう委員いいんかい総会そうかいでも中央ちゅうおう委員いいんかい議長ぎちょう幹部かんぶかい委員いいん常任じょうにん幹部かんぶかい委員いいん選出せんしゅつされた。

1997ねん平成へいせい9ねん)9がつだい21かい大会たいかい欠席けっせきのまま「引退いんたい」し、「名誉めいよ議長ぎちょう」に退しりぞいた。この「引退いんたい」についてふでさか秀世ひでよ著書ちょしょ日本にっぽん共産党きょうさんとう』のなかでこの大会たいかいさいにも宮本みやもとには議長ぎちょう退任たいにんする意思いしがなく、不破ふわ哲三てつぞう大会たいかい期間きかんちゅう東京とうきょう多摩たま宮本みやもとてい訪問ほうもんし、高齢こうれいであるから退任たいにんするよう要求ようきゅうし、宮本みやもと渋々しぶしぶそれをれたと主張しゅちょうするが[10]不破ふわ哲三てつぞうはそれにたいするはん論文ろんぶんなか大会たいかい開催かいさいまえから宮本みやもと説得せっとく完了かんりょうしており(ただその説得せっとくさい宮本みやもとしぶったことは不破ふわれている)、自分じぶん大会たいかいちゅう東京とうきょうもどって説得せっとくにあたったなどという事実じじつはないと主張しゅちょうしている[11]

2000ねん平成へいせい12ねん)11月、だい22かい大会たいかいで「名誉めいよ役員やくいん」にえらばれる(「名誉めいよ議長ぎちょう」のポストは廃止はいしされた)。

晩年ばんねん多摩たま自宅じたく療養りょうよう生活せいかつおくった。2007ねん平成へいせい19ねん7がつ18にち老衰ろうすいのため渋谷しぶや病院びょういん死去しきょ享年きょうねん98。

宮本みやもと死去しきょについて自民党じみんとうもと内閣ないかく総理そうり大臣だいじん中曽根なかそね康弘やすひろは、宮本みやもとたい一定いってい評価ひょうかをしたコメントを発表はっぴょうした。

戦争せんそうわってから、いろいろな困難こんなん妨害ぼうがいにも遭遇そうぐうしながら共産党きょうさんとう骨組ほねぐみをつくり、ちからばしていった。国会こっかいでは野党やとうとして自民党じみんとう内閣ないかく一番いちばんきびしい態度たいどってこられた。かんがかた政策せいさくちがうが、信念しんねんつらぬいて堂々どうどうとおやりになる姿すがた敬意けいいあらわしていた。わたし首相しゅしょうになってもなく国会こっかい質問しつもんけたが、かなりよく準備じゅんびされた質問しつもん論理ろんりてきめてきた。てきながらあっぱれだとかんじていた。

このほか衆参しゅうさん議長ぎちょうやほぼ敵対てきたいてき立場たちばにある創価学会そうかがっかい池田いけだ大作だいさくからも弔電ちょうでんせられた。葬儀そうぎ近親きんしんしゃによる密葬みっそうおこなわれた。これとはべつとうそうおこなわれた。墓所はかしょ小平こだいら霊園れいえん(18-12-2)。

人物じんぶつぞう・その[編集へんしゅう]

  • 現在げんざい日本にっぽん共産党きょうさんとう幹部かんぶかい委員いいんちょう志位しい和夫かずお宮本みやもと家族かぞく家庭かてい教師きょうしであった。そのおし長男ちょうなん太郎たろうである。
  • 政治せいじ以外いがい話題わだいとしては「ポルノ番組ばんぐみ批判ひはん」をしたことがげられる。1975ねん、「11PM」(日本にほんテレビ系列けいれつ)「独占どくせん!おとこ時間じかん」(東京とうきょう12チャンネル)に代表だいひょうされる女性じょせい裸体らたいりにした番組ばんぐみおおいという現状げんじょういきどおり「いま商業しょうぎょうテレビさかいには女性じょせい軽視けいしした番組ばんぐみ、ポルノ番組ばんぐみあふれている」と批判ひはんした。この発言はつげんをきっかけにポルノ番組ばんぐみ追放ついほうキャンペーンが展開てんかいされた。ただしにっかつロマンポルノかんしては批判ひはんおこなわなかった。この背景はいけいにはポルノ移行いこう主導しゅどうしたにっかつ労組ろうそ共産党きょうさんとうけいであったことがあるとされている[だれによって?]が、実際じっさいのところは深夜しんやたいとはいえ18さい未満みまん青少年せいしょうねん視聴しちょうする可能かのうせいたかいテレビ番組ばんぐみと、18さい未満みまん鑑賞かんしょう禁止きんしのR指定していがされている映画えいがとのちがいがある。
  • 2007ねん平成へいせい19ねん)7がつ20にちけの日本にっぽん共産党きょうさんとう中央ちゅうおう委員いいんかい機関きかんしんぶん赤旗あかはた』における宮本みやもとについての記事きじ新潟にいがたけん中越なかこしおき地震じしんけるとう活動かつどうかんする記事きじいでいちめんあつかいであった。このことについて赤旗あかはた編集へんしゅうは「意図いとてき出来事できごとちいさくいたつもりはい」とコメントしている。
  • 1970年代ねんだいには、宮本みやもと顕治けんじたく電話でんわ創価学会そうかがっかい学生がくせい幹部かんぶにより盗聴とうちょうされるという事件じけんこっている。1980ねんには創価学会そうかがっかいもと顧問こもん弁護士べんごしであった山崎やまざき正友まさともが、みずからと創価学会そうかがっかい幹部かんぶすうにん盗聴とうちょうしたと、週刊しゅうかん発表はっぴょうした。同年どうねん宮本みやもと民事みんじ訴訟そしょうこし、創価学会そうかがっかい損害そんがい賠償ばいしょうもとめた。東京とうきょう高裁こうさい創価学会そうかがっかい賠償ばいしょうめいずる判決はんけつくだり、判決はんけつ確定かくていした。判決はんけつでは創価学会そうかがっかい幹部かんぶ関与かんよ認定にんていされている。
  • 宮本みやもと顕治けんじたく盗聴とうちょう事件じけん犬猿けんえんなかられている創価学会そうかがっかいであるが、宮本みやもとたいし、学会がっかい名誉めいよ会長かいちょう池田いけだ大作だいさく弔電ちょうでんおくっており、そのけんは『しんぶん赤旗あかはた』でも事実じじつのみをほうじた。

著書ちょしょ[編集へんしゅう]

文学ぶんがく関係かんけい[編集へんしゅう]

  • 『レーニン主義しゅぎ文學ぶんがく鬪爭とうそうへのみち : 宮本みやもと顯治けんじ評論ひょうろんしゅう木星もくせいしゃ書院しょいん、1933ねん3がつ18にちNDLJP:1127024 
  • 文藝ぶんげい評論ひょうろん』(中條ちゅうじょう百合子ゆりこへん六藝りくげいしゃ、1937ねん2がつ
  • 敗北はいぼく文學ぶんがく』(岩崎いわさき書店しょてん、1946ねん6がつ、のち真理しんりしゃ、1949ねん1がつ河出かわで文庫ぶんこ、1955ねん3がつ
  • 人民じんみん文學ぶんがく』(岩崎いわさき書店しょてん、1947ねん5がつしん日本にっぽん文庫ぶんこ、1975ねん9がつ
  • 批判ひはんしゃ批判ひはん じょう 文学ぶんがく運動うんどう前進ぜんしんのために』(しん科学かがくしゃ、1954ねん1がつ
  • 批判ひはんしゃ批判ひはん あげしおにむかうために』(しん科学かがくしゃ、1954ねん12がつ
  • 未来みらいつく知性ちせいしん評論ひょうろんしゃ、1955ねん2がつ15にちNDLJP:1661465 
  • 『わが文学ぶんがく運動うんどうろん』(しん日本にっぽん出版しゅっぱんしゃ、1983ねん5がつ
  • 日本にっぽんプロレタリア文学ぶんがく評論ひょうろんしゅう5 宮本みやもと顕治けんじしゅう』(しん日本にっぽん出版しゅっぱんしゃ、1990ねん9がつ

宮本みやもと百合子ゆりこ関係かんけい[編集へんしゅう]

  • じゅうねん手紙てがみ』その1~3(宮本みやもと顕治けんじ宮本みやもと百合子ゆりこ筑摩書房ちくましょぼう、1950ねん6がつ~1952ねん10がつ
    • のちしん科学かがくしゃ、1955ねん1がつ筑摩書房ちくましょぼう上下じょうげまき、1965ねん5がつ青木あおき文庫ぶんこ上中かみなか下巻げかん、1974ねん文春ぶんしゅん文庫ぶんこ上下じょうげまき、1976ねん
  • 百合子ゆりこ追想ついそう』(だいさん書房しょぼう、1951ねん、のちしん科学かがくしゃ、1955ねん2がつ
  • 『わたしたちの宮本みやもと百合子ゆりころん』(編著へんちょ私家版しかばん、1953ねん4がつ
  • 宮本みやもと百合子ゆりこしゅう』(編著へんちょ河出かわで書房しょぼう市民しみん文庫ぶんこ、1953ねん
  • 宮本みやもと百合子ゆりこ世界せかい』(河出かわで書房しょぼう、1954ねん9がつ、のち新日本しんにほん出版しゅっぱんしゃ、1963ねんしん日本にっぽん新書しんしょ上下じょうげまき、1975ねん
  • 宮本みやもと顕治けんじ獄中ごくちゅうからの手紙てがみ : 百合子ゆりこへのじゅうねん上下じょうげまきしん日本にっぽん出版しゅっぱんしゃ、2002ねん10がつ

政治せいじ関係かんけい[編集へんしゅう]

  • 人民じんみんてき民主みんしゅ主義しゅぎ革命かくめい展望てんぼう』(真理しんりしゃ、1948ねん、のち改訂かいていばん真理しんりしゃ人民じんみん文庫ぶんこ、1949ねん8がつ
  • 民主みんしゅ革命かくめいしょ問題もんだい真理しんりしゃ、1948ねん7がつ15にちNDLJP:1273661 
  • 革命かくめい展望てんぼう』(真理しんりしゃ、1948ねん
  • 自由じゆう独立どくりつへの前進ぜんしん真理しんりしゃ、1949ねん7がつ31にちNDLJP:1154039 
  • 日本にっぽん革命かくめい展望てんぼう : 綱領こうりょう問題もんだい報告ほうこくろん文集ぶんしゅう』(日本にっぽん共産党きょうさんとう中央ちゅうおう委員いいんかい出版しゅっぱん、1961ねん12月、のち新日本しんにほん出版しゅっぱんしゃしん日本にっぽん新書しんしょ、1967ねん8がつ
  • 『わがとうのたたかったみち』(日本にっぽん共産党きょうさんとう中央ちゅうおう委員いいんかい出版しゅっぱん、1962ねん
  • 現在げんざい課題かだい日本にっぽん共産党きょうさんとう上下じょうげまき日本にっぽん共産党きょうさんとう中央ちゅうおう委員いいんかい出版しゅっぱん、1966ねん
  • あたらしい日本にっぽんへのみち : 日本にっぽん共産党きょうさんとう路線ろせんぜん3かんしん日本にっぽん出版しゅっぱんしゃ、1970ねん
  • 日本にっぽん共産党きょうさんとう立場たちば : 60年代ねんだいから70年代ねんだいへ』(しん日本にっぽん出版しゅっぱんしゃしん日本にっぽん新書しんしょ、1972ねん、のち増補ぞうほ新版しんぱん、1974ねん
  • 現在げんざい課題かだい日本にっぽん共産党きょうさんとう上下じょうげまきしん日本にっぽん出版しゅっぱんしゃ、1974~75ねん
  • 宮本みやもと顕治けんじ現代げんだいろんぜん3かん
    • 1 『自主じしゅ独立どくりつみち』(しん日本にっぽん出版しゅっぱんしゃ、1975ねん
    • 2 『みっつの自由じゆう』(しん日本にっぽん出版しゅっぱんしゃ、1975ねん
    • 3 『救国きゅうこく革新かくしんをめざして』(しん日本にっぽん出版しゅっぱんしゃ、1975ねん
  • 網走あばしり覚書おぼえがき』(大月書店おおつきしょてん国民こくみん文庫ぶんこ、1975ねん増補ぞうほばん、1984ねん4がつ
  • 宮本みやもと顕治けんじ公判こうはん記録きろく』(しん日本にっぽん出版しゅっぱんしゃ、1976ねん10がつしん日本にっぽん文庫ぶんこ、1978ねん7がつ
  • 宮本みやもと顕治けんじ現代げんだい政治せいじろんぜん3かん
    • 1 『逆流ぎゃくりゅうこうして』(しん日本にっぽん出版しゅっぱんしゃ、1978ねん7がつ
    • 2 『革新かくしん統一とういつ戦線せんせんを』(しん日本にっぽん出版しゅっぱんしゃ、1978ねん8がつ
    • 3 『国会こっかい正義せいぎこえを』(しん日本にっぽん出版しゅっぱんしゃ、1978ねん9がつ
  • 宮本みやもと顕治けんじ80年代ねんだいろんぜん9かん
    • 激動げきどう世界せかい日本にっぽん進路しんろ』(しん日本にっぽん出版しゅっぱんしゃ、1981ねん9がつ
    • 国政こくせい革新かくしんへのみち』(しん日本にっぽん出版しゅっぱんしゃ、1981ねん11月)
    • 情勢じょうせいとう建設けんせつろん じょう』(しん日本にっぽん出版しゅっぱんしゃ、1982ねん1がつ
    • 情勢じょうせいとう建設けんせつろん ちゅう』(しん日本にっぽん出版しゅっぱんしゃ、1982ねん4がつ
    • 情勢じょうせいとう建設けんせつろん 』(しん日本にっぽん出版しゅっぱんしゃ、1982ねん5がつ
    • 革新かくしん統一とういつ戦線せんせんろん』(しん日本にっぽん出版しゅっぱんしゃ、1982ねん7がつ
    • 歴史れきしのなかの日本にっぽん共産党きょうさんとう』(しん日本にっぽん出版しゅっぱんしゃ、1982ねん10がつ
    • 地方ちほう政治せいじ革新かくしん じょう』(しん日本にっぽん出版しゅっぱんしゃ、1982ねん12がつ
    • 国政こくせい岐路きろ地方ちほう政治せいじ革新かくしん 』(しん日本にっぽん出版しゅっぱんしゃ、1983ねん3がつ
  • 宮本みやもと顕治けんじ青春せいしゅんろん』(しん日本にっぽん出版しゅっぱんしゃしん日本にっぽん新書しんしょ、1982ねん9がつ
  • ぞく宮本みやもと顕治けんじ80年代ねんだいろんぜん5かん
    • 1 『なぜいま日本にっぽん共産党きょうさんとうか』(しん日本にっぽん出版しゅっぱんしゃ、1983ねん10がつ
    • 2 『核兵器かくへいき廃絶はいぜつへのみち』(しん日本にっぽん出版しゅっぱんしゃ、1985ねん5がつ
    • 3 『非核ひかく合意ごうい非核ひかく政府せいふ : だい反動はんどう攻勢こうせいこうして』(しん日本にっぽん出版しゅっぱんしゃ、1986ねん5がつ
    • 4 『明日あしたへの展望てんぼうって うえ』(しん日本にっぽん出版しゅっぱんしゃ、1987ねん2がつ
    • 5 『明日あしたへの展望てんぼうって した』(しん日本にっぽん出版しゅっぱんしゃ、1987ねん2がつ
  • 回想かいそうひとびと』(しん日本にっぽん出版しゅっぱんしゃ、1985ねん11月)
  • 戦後せんご初期しょき論集ろんしゅうぜん3かん
    • 1 『天皇てんのうせい批判ひはんについて』(しん日本にっぽん出版しゅっぱんしゃ、1987ねん10がつ
    • 2 『民主みんしゅ民族みんぞく戦線せんせん展開てんかい』(しん日本にっぽん出版しゅっぱんしゃ、1987ねん11月)
    • 3 『ねん問題もんだい問題もんだいてんから』(しん日本にっぽん出版しゅっぱんしゃ、1988ねん9がつ
  • 共産きょうさん主義しゅぎ運動うんどう基本きほん問題もんだい』(しん日本にっぽん出版しゅっぱんしゃ、1988ねん10がつ、のちしん日本にっぽん文庫ぶんこ、1990ねん2がつ
  • 国会こっかいじゅうねんから』(しん日本にっぽん出版しゅっぱんしゃ、1989ねん11月)
  • 科学かがくてき社会しゃかい主義しゅぎ不滅ふめつとうとして』(しん日本にっぽん出版しゅっぱんしゃ、1991ねん1がつ
  • 歴史れきしにそむく潮流ちょうりゅう未来みらいはない』(しん日本にっぽん出版しゅっぱんしゃ、1991ねん1がつ
  • 『20世紀せいき社会しゃかい主義しゅぎ生命せいめいりょく』(しん日本にっぽん出版しゅっぱんしゃ、1992ねん5がつ
  • とう史論しろん上下じょうげまきしん日本にっぽん出版しゅっぱんしゃ、1993ねん12がつ
  • 日本にっぽんはどうなっているかこれからどうすすむか』(しん日本にっぽん出版しゅっぱんしゃ、1994ねん4がつ
  • とう建設けんせつ基本きほん方向ほうこう上下じょうげまきしん日本にっぽん出版しゅっぱんしゃ、1995ねん1がつ
  • 日本にっぽん共産党きょうさんとう党員とういんぞう』(しん日本にっぽん出版しゅっぱんしゃ、1995ねん11月)

対談たいだんしゅう発言はつげんしゅう[編集へんしゅう]

  • 宮本みやもと顕治けんじ対談たいだんしゅう』(しん日本にっぽん出版しゅっぱんしゃ、1972ねん、のち新日本しんにほん出版しゅっぱんしゃしん日本にっぽん文庫ぶんこ、1977ねん4がつ
  • 宮本みやもと顕治けんじ記者きしゃ会見かいけんしゅう上下じょうげまきしん日本にっぽん出版しゅっぱんしゃ、1973ねん
  • 池田いけだ大作だいさく宮本みやもと顕治けんじ人生じんせい対談たいだん』(毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ、1975ねん12がつ
  • 宮本みやもと顕治けんじ対談たいだんしゅう つづけ』(しん日本にっぽん出版しゅっぱんしゃ、1977ねん
  • 人生じんせい政治せいじ文学ぶんがく : 宮本みやもと顕治けんじ対談たいだんしゅう』(しん日本にっぽん出版しゅっぱんしゃ、1977ねん3がつ
  • 宮本みやもと顕治けんじテレビ対談たいだん』(しん日本にっぽん出版しゅっぱんしゃ、1981ねん4がつ
  • 世界せかいのこと日本にっぽんのこと : 宮本みやもと顕治けんじ対談たいだんしゅう』(しん日本にっぽん出版しゅっぱんしゃ、1984ねん7がつ
  • 日本にっぽん共産党きょうさんとう立場たちば』(しん日本にっぽん出版しゅっぱんしゃしん日本にっぽん文庫ぶんこ、1990ねん5がつ
    • 毎年まいとし赤旗あかはた」の1がつ1にちごう掲載けいさいされていた新春しんしゅんインタビューをまとめたもの
  • 革新かくしんてき未来みらいをめざして : 日本にっぽん共産党きょうさんとう大会たいかい冒頭ぼうとう発言はつげんしゅう』(しん日本にっぽん出版しゅっぱんしゃ、1997ねん1がつ

著作ちょさくしゅう[編集へんしゅう]

  • 宮本みやもと顕治けんじ文芸ぶんげい評論ひょうろん選集せんしゅうぜん4かん
    • だい1かん(1929-1933ねん)(しん日本にっぽん出版しゅっぱんしゃ、1980ねんISBN 978-4-406-00719-1 「「敗北はいぼく」の文学ぶんがく」ほか
    • だい2かん(1946-1953ねん)(しん日本にっぽん出版しゅっぱんしゃ、1966ねんISBN 978-4-406-00014-7
    • だい3かん(1951-1961ねん)(しん日本にっぽん出版しゅっぱんしゃ、1968ねんISBN 978-4-406-00039-0宮本みやもと百合子ゆりこ世界せかい』ほか
    • だい4かん(1953-1955ねん)(しん日本にっぽん出版しゅっぱんしゃ、1969ねんISBN 978-4-406-00056-7批判ひはんしゃ批判ひはん
  • 宮本みやもと顕治けんじ著作ちょさくしゅうぜん10かん
    • だい1かん(1929ねん-33ねん)(しん日本にっぽん出版しゅっぱんしゃ、2012ねん7がつISBN 978-4-406-05601-4
    • だい2かん公判こうはん闘争とうそう記録きろく)(しん日本にっぽん出版しゅっぱんしゃ、2012ねん9がつISBN 978-4-406-05602-1
    • だい3かん(1945ねん-49ねん)(しん日本にっぽん出版しゅっぱんしゃ、2012ねん11月) ISBN 978-4-406-05603-8
    • だい4かん(1950ねん-54ねん)(しん日本にっぽん出版しゅっぱんしゃ、2013ねん1がつISBN 978-4-406-05604-5
    • だい5かん(1955ねん-61ねん)(しん日本にっぽん出版しゅっぱんしゃ、2013ねん3がつISBN 978-4-406-05605-2
    • だい6かん(1962ねん-74ねん)(しん日本にっぽん出版しゅっぱんしゃ、2013ねん5がつISBN 978-4-406-05606-9
    • だい7かん(1975ねん-80ねん前半ぜんはん)(しん日本にっぽん出版しゅっぱんしゃ、2013ねん7がつISBN 978-4-406-05607-6
    • だい8かん(1980ねん後半こうはん-84ねん)(しん日本にっぽん出版しゅっぱんしゃ、2013ねん9がつISBN 978-4-406-05608-3
    • だい9かん(1985ねん-94ねん)(しん日本にっぽん出版しゅっぱんしゃ、2013ねん11月)ISBN 978-4-406-05609-0
    • だい10かん宮本みやもと百合子ゆりこ世界せかい)(しん日本にっぽん出版しゅっぱんしゃ、2013ねん12がつISBN 978-4-406-05610-6

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 1958ねんから日本にっぽん共産党きょうさんとう実質じっしつじょうのトップ(めい目的もくてきには中央ちゅうおう委員いいんかい議長ぎちょう最高さいこうで、参議院さんぎいん議員ぎいん野坂のさかさんさんがつとめていて、共産党きょうさんとう国会こっかい議員ぎいんだん首班しゅはん指名しめいさいには野坂のさか投票とうひょうしていた)だったが、国会こっかい議員ぎいんになったのは1977ねんから
  2. ^ 国会こっかい議席ぎせき主要しゅよう政党せいとう党首とうしゅ国会こっかい議員ぎいんではない状態じょうたい長期間ちょうきかんつづいたれい宮本みやもと以外いがいでは維新いしんとう橋下はしもととおる松井まつい一郎いちろうがいる。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 日本にっぽん共産党きょうさんとう戦後せんご秘史ひし ,へいもと達吉たつきち,2005ねん9がつ10日とおか
  2. ^ https://web.archive.org/web/20171004194040/https://www.jiji.com/jc/amp?k=2017100401148
  3. ^ a b c d e f g h i j ぶくとみ 2019, p. 145-169.
  4. ^ へいほん 2008, p. 51-56.
  5. ^ a b c へいほん 2008, p. 101-104.
  6. ^ a b c へいほん 2008, p. 114-119.
  7. ^ a b へいほん 2008, p. 129-255.
  8. ^ へいほん 2008, p. 119-122.
  9. ^ へいほん 2008, p. 104-108.
  10. ^ ふでさか秀世ひでよ 2006, p. 219.
  11. ^ 不破ふわ哲三てつぞう (2006ねん4がつ19にち). ふでさか秀世ひでよほんんで”. しんぶん赤旗あかはた. https://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2006-04-19/2006041925_01_0.html 

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • ふでさか秀世ひでよ日本にっぽん共産党きょうさんとう新潮しんちょう新書しんしょ、2006ねんISBN 9784106101649 
  • へいもと達吉たつきち日本にっぽん共産党きょうさんとう戦後せんご秘史ひし新潮社しんちょうしゃ新潮しんちょう文庫ぶんこ〉、2008ねんISBN 978-4-10-136291-5OCLC 269438831 
  • ぶくとみ健一けんいち日本にっぽん共産党きょうさんとう正体しょうたい新潮しんちょう新書しんしょ、2019ねんISBN 978-4-10-610803-7 

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]