山崎やまざき正友まさとも

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山崎やまざき 正友まさとも(やまさき まさとも、1936ねん昭和しょうわ11ねん11月26にち2008ねん平成へいせい20ねん12月29にち)は、日本にっぽんもと弁護士べんごし岡山おかやまけん出身しゅっしん京都大学きょうとだいがく法学部ほうがくぶ卒業そつぎょうもと創価学会そうかがっかいふく理事りじちょうもと顧問こもん弁護士べんごし。「やまとも(やまとも)」と略称りゃくしょうされることもある。 池田いけだ大作だいさく名誉めいよ会長かいちょう執筆しっぴつした小説しょうせつしん人間にんげん革命かくめい』の登場とうじょう人物じんぶつ山脇やまわきともせい」のモデルとなる。

人物じんぶつ来歴らいれき[編集へんしゅう]

1936ねん昭和しょうわ11ねん)、岡山おかやまけんまれた。岡山おかやま県立けんりつ岡山おかやまみさおさん高等こうとう学校がっこう卒業そつぎょう1955ねん昭和しょうわ30ねん)に京都大学きょうとだいがく法学部ほうがくぶ入学にゅうがく入学にゅうがく腎臓じんぞうびょうわずら入退院にゅうたいいんかえした[1]病気びょうき大学だいがく在学ざいがくちゅう創価学会そうかがっかい入会にゅうかい創価学会そうかがっかいでは、創価学会そうかがっかいはつきの弁護士べんごしとして創価学会そうかがっかい法務ほうむかかわる。

1970年代ねんだいきた日蓮にちれん正宗まさむねとの「昭和しょうわ52ねん路線ろせん問題もんだい」においては積極せっきょくてきかかわりをち、弁護士べんごしとして日蓮にちれん正宗まさむね創価学会そうかがっかい調整ちょうせいやくつとめた。弁護士べんごしとしての業務ぎょうむから逸脱いつだつした日本にっぽん共産党きょうさんとう宮本みやもと顕治けんじたく盗聴とうちょう事件じけんや、創価学会そうかがっかい対立たいりつする敵対てきたい団体だんたい瓦解がかい工作こうさくなどを計画けいかく主導しゅどう[2]。また、創価学会そうかがっかい顧問こもん弁護士べんごし立場たちばから日蓮にちれん正宗まさむね創価学会そうかがっかいあいだきたしょ問題もんだい調整ちょうせいやくってた。そのさい役務えきむじょう情報じょうほう人脈じんみゃくをたどり、総本山そうほんざん大石寺たいせきじ創価学会そうかがっかいあいだはいり、離反りはん工作こうさく関係かんけい調整ちょうせいかえし「だい1宗門しゅうもん問題もんだい」をかげ主導しゅどうした。信仰しんこうたいしては、その姿勢しせい他者たしゃ容喙ようかいされることをこばみ、創価学会そうかがっかいいん信仰しんこう根幹こんかん位置いちづけられる日蓮にちれん遺文いぶんしょ全集ぜんしゅう)よりも週刊しゅうかん記述きじゅつ重視じゅうしし、「どう、おれってすごいでしょ?」というのが口癖くちぐせであった[3]

のちに、山崎やまざき経営けいえいする冷凍れいとう食品しょくひん卸売おろしうり会社かいしゃ「シーホース」が45おくえん負債ふさいかか経営けいえい危機ききおちいったさい弁護士べんごしとしての立場たちば最大限さいだいげん利用りようし、創価学会そうかがっかい恐喝きょうかつする。1977ねん昭和しょうわ52ねん)から、創価学会そうかがっかい内情ないじょうがマスコミに頻繁ひんぱんほうじられるようになり、1979ねん昭和しょうわ54ねん)には『週刊文春しゅうかんぶんしゅん』が池田いけだ大作だいさく会長かいちょう辞任じにんをスクープした。これらは山崎やまざき原島はらしまたかし内部ないぶ告発こくはつ情報じょうほうげんにしていた。山崎やまざき自身じしん実行じっこうはん1人ひとりとして関与かんよした宮本みやもと顕治けんじたく盗聴とうちょう事件じけん暴露ばくろ材料ざいりょうにし、告訴こくそげの交渉こうしょう創価学会そうかがっかいかさねるが決裂けつれつ。その意味いみで、創価学会そうかがっかいいんにとって山崎やまざきは「獅子しし身中しんちゅうむし」であった。[4]他方たほう経営けいえい危機ききにあるみずからの会社かいしゃすくうために数々かずかず手形てがた詐欺さぎおこなった[5]

岡留おかどめ安則やすのりによると、山崎やまざき原島はらしま自民党じみんとう情報じょうほう提供ていきょう1980ねん昭和しょうわ55ねん11月7にち池田いけだ名誉めいよ会長かいちょう証人しょうにん喚問かんもん要求ようきゅうする、54まんにん(のち134まんにん増加ぞうか)の請願せいがん自民党じみんとう提出ていしゅつした。しかし自民党じみんとううごかず、山崎やまざきらの自民じみんがわ窓口まどぐちとなった三塚みつづかひろしは「国会こっかい公明党こうめいとう協力きょうりょくかすことはできない。こん請願せいがん問題もんだいすことは得策とくさくではないとかんがえているのだろう」との談話だんわ発表はっぴょうした。岡留おかどめは、自民党じみんとう山崎やまざきらから情報じょうほう創価学会そうかがっかい公明党こうめいとうとのうら取引とりひき使つかったのではないかと推測すいそくよく1981ねん昭和しょうわ56ねん)、公明党こうめいとう日米にちべい安保あんぽ条約じょうやく憲法けんぽう9じょうしたでの自衛隊じえいたい容認ようにん発表はっぴょうしたのはそのためと岡留おかどめ推定すいていしている[6]

1981ねん昭和しょうわ56ねん)、山崎やまざき宗門しゅうもんとの問題もんだいをねたに創価学会そうかがっかいから3おくえん要求ようきゅう要求ようきゅうとおると、さらに5おくえん要求ようきゅうした。しかし、この行為こういによって恐喝きょうかつざい逮捕たいほされた[7]裁判さいばんでは、山崎やまざき主張しゅちょうは50すう箇所かしょにわたり虚偽きょぎであると裁判官さいばんかんから指摘してきけている[8]1991ねん平成へいせい3ねん)2がつ懲役ちょうえき3ねん実刑じっけい判決はんけつ栃木とちぎけん黒羽くろは刑務所けいむしょ収監しゅうかんされた。これをけ、日本にっぽん弁護士べんごし連合れんごうかい山崎やまざき弁護士べんごし資格しかく剥奪はくだつした。他方たほう山崎やまざきはこの判決はんけつ創価学会そうかがっかい内部ないぶ告発こくはつふうじるための冤罪えんざいであると主張しゅちょうし、再審さいしん請求せいきゅう意思いし関係かんけいしゃ表明ひょうめいしていたが、言動げんどうのみで実行じっこうはしなかった。1993ねん平成へいせい5ねん)4がつ27にちかり出所しゅっしょ。10月に刑期けいき満了まんりょうとなる。

正信会せいしんかい入会にゅうかいそして脱会だっかい[編集へんしゅう]

1980ねん昭和しょうわ55ねん前後ぜんこう創価学会そうかがっかいから除名じょめいされたのち正信会せいしんかい入会にゅうかい。『週刊文春しゅうかんぶんしゅん』『諸君しょくん!』などで「ふたつの疑惑ぎわくにちたち上人しょうにん遷化せんげ阿部あべにちあらわ相伝そうでん」、「〝相伝そうでん〟そのものは、なされていたかたちが、どこにも見当みあたらない。ひとは、だれもいなかった」のぶん掲載けいさいし、にちたちよりにちあらわへの相承そうしょう法主ほっしゅ役職やくしょく譲渡じょうと)はなかったと主張しゅちょうした[9]当時とうじ徹底てっていして反日はんにちあらわ立場たちばをとり、にちあらわ非難ひなんしていた。にちあらわ管長かんちょうたいして「管長かんちょう宗門しゅうもんない行政ぎょうせい最高さいこう役職やくしょく法主ほっしゅ兼任けんにんする)のみずからついてからの宗門しゅうもん行政ぎょうせいが、まことに信仰しんこうしんのうすい、功利こうり主義しゅぎ権化ごんげごと姿すがたである」とうはげしく攻撃こうげきした[10]。しかしながらのち正信会せいしんかい裏切うらぎのひらをかえしたようににちあらわ盟友めいゆうとなり、はん創価学会そうかがっかい活動かつどう先鋒せんぽうとなる。創価学会そうかがっかい除名じょめい以前いぜんから正信会せいしんかい僧侶そうりょ浜中はまなか和道かずみち一体いったいになり創価学会そうかがっかいへの糾弾きゅうだんつよめていた。ところがその浜中はまなか夫人ふじんとの不倫ふりん発覚はっかく浜中はまなかとは犬猿けんえんなかに。浜中はまなか山崎やまざき行状ぎょうじょうなどを記録きろく非難ひなんする著作ちょさくのこしている。山崎やまざき正友まさとも葬儀そうぎ喪主もしゅつとめた桂子けいこ夫人ふじんは、浜中はまなか和道かずみちもと夫人ふじんである。

山崎やまざき正信会せいしんかい会員かいいんでありながら、正信会せいしんかい最大さいだいてきであるにちあらわさい接近せっきんこころみた。しかし、ぎゃく大石寺たいせきじにおいてにちあらわより「あんたはだいウソつきだ。あんたを絶対ぜったい信用しんようしない」「こちらからいいとうまで、本山もとやま大石寺たいせきじ意味いみする)にることはまかりならぬ」と怒鳴どなられ、さい接近せっきんいち失敗しっぱいした。にちあらわのこの態度たいどたい山崎やまざきは「あの野郎やろう猊下げいか法主ほっしゅたいする敬称けいしょう)なものか。和道かずみちさんもってるでしょう。にちたち上人しょうにんくなるまえには、あいつには相承そうしょうするがなかったってことは」とべた[11]

そのにちあらわさい接近せっきんするチャンスがおとずれ、正信会せいしんかい1995ねん平成へいせい7ねん)に脱会だっかいした。それまで正信会せいしんかい立場たちば攻撃こうげきしていたあらわ管長かんちょうがわ機関きかんとしみょう[12]突然とつぜん登場とうじょうし「わたし相承そうしょうはいしんするにいたるまで」とだいする手記しゅき寄稿きこうした。そこでは「最近さいきんになって、わたしは、にちあらわ上人しょうにん猊下げいかが“相承そうしょう”についてしめされた指南しなんを、活字かつじ拝読はいどくさせていただく機会きかいた。微妙びみょう深遠しんえん問題もんだいであり、また、わたしきょう凡下ぼんげうかがるべくもない事柄ことがら多々たたあるために、難解なんかい婉曲えんきょく表現ひょうげん部分ぶぶんもあったが、くりかえしませていただくうちに、相承そうしょうつたえられるかたちについてのわたし疑念ぎねん氷解ひょうかいしていった」とうと、のひらをかえすように以前いぜんとはまったぎゃく見解けんかいいている[13]

1993ねん平成へいせい5ねん12月9にち山崎やまざき自民党じみんとう民主みんしゅ政治せいじ研究けんきゅうかい勉強べんきょうかい出席しゅっせきし、1968ねん昭和しょうわ43ねん)に創価学会そうかがっかいこしたとかれ主張しゅちょうする選挙せんきょ違反いはん事件じけん新宿しんじゅくだま事件じけん言及げんきゅう創価学会そうかがっかいが13ひょう公表こうひょうしただま投票とうひょう投票とうひょうすう創価学会そうかがっかい虚偽きょぎ偽証ぎしょうとし実際じっさいだま投票とうひょうおこなわれたのは新宿しんじゅくだけで5000ひょうきょう全体ぜんたいではおよそ2まんひょう自分じぶん指揮しきったとかたったが山崎やまざき主張しゅちょうするこの事件じけん司直しちょくによる事実じじつ確認かくにんおこなわれていない。

その創価学会そうかがっかい批判ひはん記事きじ執筆しっぴつ活動かつどうおこない、週刊しゅうかん新潮しんちょうなどの週刊しゅうかん誌上しじょう発表はっぴょうした。しかしながら、2001ねん平成へいせい13ねん以降いこう21世紀せいきはいってからは活動かつどう先細さきぼそりとなっていた。

2008ねん平成へいせい20ねん12月29にち神奈川かながわけん厚木あつぎ愛名あいな自宅じたくたおれ、東海大学とうかいだいがく医学部いがくぶ付属ふぞく病院びょういん緊急きんきゅう搬送はんそうされたが、急性きゅうせい腎不全じんふぜんのため死去しきょ[14]。72さいぼつ

裁判さいばん[編集へんしゅう]

私生活しせいかつでは正信会せいしんかい会員かいいん婦人ふじん女性じょせいとの不倫ふりんとそれにともなやく2せんまんえん借金しゃっきん発覚はっかくし(「中外ちゅうがい日報にっぽう1996ねん5月13にち)、不倫ふりん相手あいておっとから告訴こくそされた。1997ねん平成へいせい9ねん6月3にち大分おおいた地方裁判所ちほうさいばんしょ原告げんこく主張しゅちょう全面ぜんめんてきみとめ、山崎やまざきに550まんえん支払しはらいをめいじる判決はんけつくだした。創価学会そうかがっかい青年せいねん機関きかん創価そうか新報しんぽうとうほうじられた自身じしんかんする記事きじ名誉めいよ棄損きそんするとして創価学会そうかがっかいとう相手あいて損害そんがい賠償ばいしょうもとめていた裁判さいばんで、2009ねん平成へいせい21ねん1がつ28にち東京とうきょう地方裁判所ちほうさいばんしょは、山崎やまざきうったえを棄却ききゃくする判決はんけつをいいわたした。東京とうきょう地方裁判所ちほうさいばんしょはこの判決はんけつなか宮本みやもと顕治けんじたく盗聴とうちょう事件じけん山崎やまざき独断どくだんおこなわれたと認定にんていされ、宮本みやもと委員いいんちょう原告げんこく裁判さいばん教団きょうだん関与かんよ認定にんていされた判決はんけつことなる判断はんだんた。

創価学会そうかがっかいにおける略歴りゃくれき[編集へんしゅう]

  • 1962ねん昭和しょうわ37ねん):(26さい) - 創価学会そうかがっかい学生がくせいグループちょう
  • 1963ねん昭和しょうわ38ねん):(27さい) - 創価学会そうかがっかい学生がくせい部長ぶちょう
  • 1963ねん昭和しょうわ38ねん):(27さい) - 創価学会そうかがっかい学生がくせい常任じょうにん幹事かんじ創価学会そうかがっかい学生がくせい法学ほうがく委員いいんちょう
  • 1965ねん昭和しょうわ40ねん):(29さい) - 創価学会そうかがっかい理事りじ
  • 1965ねん昭和しょうわ40ねん):(29さい) - 創価学会そうかがっかいふく学生がくせい部長ぶちょう
  • 1967ねん昭和しょうわ42ねん):(31さい) - 創価学会そうかがっかい理事りじ
  • 1969ねん昭和しょうわ44ねん):(33さい) - 創価学会そうかがっかい学生がくせい主任しゅにん部長ぶちょう
  • 1969ねん昭和しょうわ44ねん):(33さい) - 創価学会そうかがっかいふく理事りじちょう
  • 1970ねん昭和しょうわ45ねん):(35さい) - 創価学会そうかがっかい学生がくせい参与さんよ
  • 1970ねん昭和しょうわ45ねん):(35さい) - 創価学会そうかがっかいふく総合そうごう学生がくせい部長ぶちょう
  • 1978ねん昭和しょうわ53ねん):(42さい) - 創価学会そうかがっかい参事さんじ
  • 1979ねん昭和しょうわ54ねん):(43さい) - 創価学会そうかがっかい参与さんよ
  • 1980ねん昭和しょうわ55ねん):(44さい) - 創価学会そうかがっかい参与さんよ辞任じにん

著書ちょしょ[編集へんしゅう]

  • 創価学会そうかがっかい公明党こうめいとう犯罪はんざい白書はくしょだいさんしょかん (ISBN 4807401157)
  • やみ帝王ていおう池田いけだ大作だいさくをあばく』さんいち書房しょぼう (ISBN 4380810070)
  • 『「月刊げっかんペン」事件じけんうずもれていた真実しんじつだいさんしょかん (ISBN 4807401106)
  • 平成へいせい獄中ごくちゅう見聞けんぶんろく』ラインブックス(ISBN 9784847012143[15]
  •  『懺悔ざんげ告発こくはつ日新にっしん報道ほうどう (ISBN 4817403195 C0030P1200E)

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 反逆はんぎゃくうらにあるかお」(北林きたばやし芳典よしのりちょ)から。
  2. ^ 当時とうじ山崎やまざき配下はいかであった北林きたばやし芳典よしのり著作ちょさく邪智じゃち顛倒てんとうペテン師ぺてんしにして恐喝きょうかつはん山崎やまざき正友まさとも正体しょうたい」(はまの出版しゅっぱん1994ねん)で、当時とうじ山崎やまざき行状ぎょうじょう詳細しょうさい記録きろくしている。
  3. ^ 実弟じってい山崎やまざき浩三こうぞう手記しゅき(「創価そうか新報しんぽう」1997ねん7がつ)から。
  4. ^ 〈「宗教しゅうきょうはだれのものか」(青山あおやまじゅじんちょおおとり書院しょいんかん)などによる〉
  5. ^ 当時とうじ山崎やまざき配下はいかであった塚本つかもとたかたねがその詳細しょうさいあらわしている。
  6. ^ 岡留おかどめ安則やすのり武器ぶきとしてのスキャンダル』 ちくま文庫ぶんこばんpp.83-93
  7. ^ 逮捕たいほ直前ちょくぜんにも「警視庁けいしちょう捜査そうさよんは、調しらべがあらいからねえ。トンボやチョウチョとちがうから、そうかんたんにつかまってたまるか」とべていた(「週刊文春しゅうかんぶんしゅん1981ねん1がつ29にちごう
  8. ^ 判例はんれい時報じほう」1160ごう東京とうきょう地方裁判所ちほうさいばんしょ昭和しょうわ56ねんけいわ)だい288ごう
  9. ^ 週刊文春しゅうかんぶんしゅん1980ねん11月20にちごうなど
  10. ^ 週刊文春しゅうかんぶんしゅん1981ねん2がつ12にちごうほかにも「にちあらわ私生活しせいかつはゼニゲバであり、遊興ゆうきょう以外いがいなにものでもない」「にちあらわみずからが、わかころよりらぬひとのないゆう蕩児とうじであった」とうしるしている。
  11. ^ 浜中はまなか和道かずみち回想かいそうろく
  12. ^ 現在げんざい株式会社かぶしきがいしゃ
  13. ^ としみょう1995ねん2がつ16にちづけ
  14. ^ 創価学会そうかがっかい恐喝きょうかつ実刑じっけい 山崎やまざき正友まさとも死去しきょ」(「産経新聞さんけいしんぶん2009ねん1がつ3にちごう)ほかによる
  15. ^ 黒羽くろは刑務所けいむしょ服役ふくえき生活せいかつでの見聞けんぶんろく

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]