自主じしゅ独立どくりつ路線ろせん

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自主じしゅ独立どくりつ路線ろせん(じしゅどくりつろせん)とは、ちゅう対立たいりつにおいてソビエト連邦れんぽう共産党きょうさんとう中国共産党ちゅうごくきょうさんとう双方そうほうくみせず、独自どくじ方針ほうしんをとる共産党きょうさんとう社会しゃかい主義しゅぎ政党せいとう路線ろせんである。

日本にっぽんではとく1961ねん以降いこう日本にっぽん共産党きょうさんとう政党せいとう外交がいこう路線ろせんをさし、「他国たこく共産党きょうさんとうには従属じゅうぞくせず、日本にっぽん革命かくめい責任せきにん日本にっぽん共産党きょうさんとうう」というもの。

概要がいよう[編集へんしゅう]

もともと日本にっぽん共産党きょうさんとうは、おやソ連それん親中しんちゅうどもかかえていたが、「ねん問題もんだい」とばれる1950ねんからのとう分裂ぶんれつ回復かいふくする過程かていソ連それんからの干渉かんしょうがあったことや、1964ねん部分ぶぶんてきかく実験じっけん禁止きんし条約じょうやくへの態度たいどをめぐってとう決定けっていから離反りはんした、衆議院しゅうぎいん議員ぎいんであった志賀しが義雄よしおたちの結成けっせいした「日本にっぽんのこえ」グループをソ連それん全面ぜんめんてき支援しえんしたこともあり、1960年代ねんだい前半ぜんはんなか対立たいりつ背景はいけいに、とうとしては次第しだい両者りょうしゃ距離きょりくようになった。くわえて、文化ぶんかだい革命かくめい最中さいちゅう1966ねん中国共産党ちゅうごくきょうさんとうから毛沢東もうたくとう思想しそう強要きょうようされ、毛沢東もうたくとう思想しそう受容じゅようする分派ぶんぱ育成いくせいされると、にちちゅう共産党きょうさんとう対立たいりつ決定的けっていてきとなった。また、朝鮮ちょうせん労働党ろうどうとうとは、1960年代ねんだい末期まっき宮本みやもと顕治けんじきむ日成いるそん会談かいだん朝鮮ちょうせん南進なんしん政策せいさく批判ひはんしたころから関係かんけいがこじれ、1970年代ねんだい後半こうはん関係かんけい断絶だんぜつ、1983ねんラングーン事件じけん公然こうぜん対立たいりつ関係かんけいとなり、その関係かんけい断絶だんぜつ状態じょうたい継続けいぞくしている(ただ、朝鮮総連ちょうせんそうれんじょまんじゅつ中央ちゅうおう常任じょうにん委員いいんかい議長ぎちょう死去しきょしたさいには弔電ちょうでんおくっている)。

なお、冷戦れいせん時代じだいユーゴスラビア共産きょうさん主義しゅぎしゃ同盟どうめい自主じしゅ管理かんり社会しゃかい主義しゅぎチトー主義しゅぎ)やルーマニア共産党きょうさんとうなども同様どうようたい自立じりつ路線ろせんをとっていたが、日本にっぽん共産党きょうさんとうはこれを自主じしゅ独立どくりつとして支持しじした。には、ベトナムキューバなどの共産きょうさん主義しゅぎ政権せいけんとうや、ネパール共産党きょうさんとう統一とういつマルクス・レーニン主義しゅぎなどの資本しほん主義しゅぎこく共産きょうさん主義しゅぎ政党せいとうフランスイタリアなどの西欧せいおう諸国しょこくとうとも交流こうりゅうがあった。また、結党けっとうは「修正しゅうせい主義しゅぎ」と非難ひなんしていたデンマーク社会しゃかい主義しゅぎ人民じんみんとうなどとも関係かんけい樹立じゅりつしている。また、インド共産党きょうさんとうインド共産党きょうさんとうマルクス主義まるくすしゅぎ双方そうほう関係かんけいっている。なお、朝鮮ちょうせん労働党ろうどうとう主体しゅたい思想しそうきむ日成いるそん崇拝すうはい正当せいとうするものであるとして、非難ひなんしている[1]

その中国共産党ちゅうごくきょうさんとうとの関係かんけい改善かいぜんされ理論りろん交流こうりゅうなどもおこなわれたが、2019ねん以降いこうふたたび「大国たいこく主義しゅぎ覇権はけん主義しゅぎ」と批判ひはんするなど関係かんけい悪化あっかしている。

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 日本にっぽん共産党きょうさんとう (2013ねん). “どうかんがえる 北朝鮮きたちょうせん問題もんだい”. 2012ねん1がつ15にち閲覧えつらん

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]