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画家がかのアトリエ

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画家がかのアトリエ:芸術げいじゅつてき(また倫理りんりてき生活せいかつななねんおよいち時期じき定義ていぎする写実しゃじつてき寓意ぐうい
フランス語ふらんすご: L'Atelier du peintre. Allégorie réelle déterminant une phase de sept années de ma vie artistique et morale.
作者さくしゃギュスターヴ・クールベ
製作せいさくねん1855ねん
寸法すんぽう361 cm × 598 cm (142 in × 235 in)
所蔵しょぞうオルセー美術館びじゅつかんパリ

画家がかのアトリエ芸術げいじゅつてき(また倫理りんりてき生活せいかつななねんおよいち時期じき定義ていぎする写実しゃじつてき寓意ぐうい』(フランス語ふらんすご: L’Atelier du peintre. Allégorie Réelle déterminant une phase de sept années de ma vie artistique (et morale))は、1855ねん制作せいさくされたギュスターヴ・クールベ油彩ゆさいフランスパリオルセー美術館びじゅつかん所蔵しょぞうされている。

クールベは『画家がかのアトリエ』をフランスのオルナン英語えいごばん1855ねん制作せいさくした[1]。クールベはこの写実しゃじつてき作品さくひんについて、「わたしのアトリエでえがかれるべくしてやってきた世界せかい」だとべた。ほん作中さくちゅう人物じんぶつたちはアレゴリー(寓意ぐういぞうであり、クールベの画家がかとしての人生じんせい影響えいきょうあたえた様々さまざまなものがあらわされている。画面がめん左手ひだりてには、社会しゃかいのあらゆる階層かいそうあらわした人物じんぶつたちがいる。中央ちゅうおうでは、クールベが風景ふうけい制作せいさくしているが、かれアカデミック美術びじゅつ象徴しょうちょうするヌード・モデルにはけている。画面がめん右手みぎてには、クールベの友人ゆうじん支援しえんしゃたちがおり、おもにパリの社交しゃこうかいのエリートたちであるそのなかには、シャルル・ボードレールシャンフルーリ英語えいごばんピエール・ジョゼフ・プルードンや、クールベのもっと重要じゅうようパトロンであったアルフレッド・ブリュイヤス英語えいごばんらがいる[2]

1855ねんのパリ万国博覧会ばんこくはくらんかい審査しんさいんだんは、クールベの作品さくひん11てん博覧はくらんかい出品しゅっぴん合格ごうかくとしたが、『画家がかのアトリエ』はそのなかはいっていなかった。自己じこ宣伝せんでん抗議こうぎめて、クールベは、ブリュイヤスの支援しえんて、自作じさく展示てんじする施設しせつ写実しゃじつ主義しゅぎパビリオン、Pavillon du réalisme)を公式こうしき展示てんじじょうちかくにもうけ、その様々さまざまかたちかえされることとなった落選らくせんてん先駆さきがけとなった。ほんさく賞賛しょうさんしたものはほとんどおらず、わずかに画家がかウジェーヌ・ドラクロワらごく少数しょうすうほんさく支持しじしたのみであった。ほんさくについてクールベは、『画家がかのアトリエ』は「社会しゃかい最良さいりょう部分ぶぶん最悪さいあく部分ぶぶん平均へいきんてき部分ぶぶん表現ひょうげんしている」とべている[2]

描写びょうしゃ

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ほんさくは、クールベが19世紀せいきなかばの芸術げいじゅつにおける写実しゃじつ主義しゅぎ英語えいごばんかかわっていた時期じき制作せいさくされた。ほんさく制作せいさく時間じかんてき余裕よゆうのなかったクールベは、当初とうしょ構想こうそうおおくを放棄ほうきした。そのもっとあきらかなれいは、ほんさく背景はいけいにある。当初とうしょクールベは、アトリエのおくかべに、自作じさく模写もしゃ多数たすうならべるつもりだった。しかし、それを完全かんぜんえがくには時間じかんがなくなり、あか茶色ちゃいろ下地したじのようないろりつぶすことになったのだが、部分ぶぶんてき完成かんせいしていた画面がめんはそれなりに姿すがたえている[3]

画面がめん左側ひだりがわ

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画面がめん左側ひだりがわには、フランスの日常にちじょう生活せいかつえがいた人々ひとびとえがかれている[4]。クールベがシャンフルーリに、ほんさく構想こうそうおくった書簡しょかんによると、ユダヤじん男性だんせいアイルランドじん女性じょせいは、クールベが1848ねんロンドンおとずれたさいかけた人物じんぶつとされる[5][ちゅう 1]。クールベのイーゼルのすぐ左側ひだりがわには「マネキン人形にんぎょう」ないし「十字架じゅうじかけられた人物じんぶつ」がはいされている。この人物じんぶつは、げられ、ひねつぶされているようにもえる。美術びじゅつ史家しかベネディクト・ニコルソン英語えいごばんジョルジュ・リアフランス語ふらんすごばんは、この人物じんぶつを、フランスの芸術げいじゅつアカデミー芸術げいじゅつの「」を象徴しょうちょうするものと解釈かいしゃくしている[7][8]

中央ちゅうおう

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画面がめん中央ちゅうおうには、風景ふうけい制作せいさくしているクールベが、ヌードの女性じょせいおさな少年しょうねんしろねことともにえがかれている。ちゅうのクールベがカンバスえがいているのはルーかわ英語えいごばん河谷こうだに風景ふうけいである。フランスのフランシュ=コンテ地域ちいきけんながれるこのかわは、クールベの故郷こきょうオルナンんでいる[9]女性じょせい姿すがたは、1854ねんジュリアン・ヴァル・ド・ヴィルヌーヴ英語えいごばん撮影さつえいした写真しゃしんまえており、アカデミーの芸術げいじゅつ表現ひょうげんしたものとも、クールベにとっての写実しゃじつ主義しゅぎミューズとも解釈かいしゃくされている[10]

なお、画面がめん左側ひだりがわみぎえがきこまれた乳飲ちのかかえたアイルランドじん女性じょせいは、中央ちゅうおう構図こうず一部いちぶ解釈かいしゃくする場合ばあいもある[11]

画面がめん右側みぎがわ

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画面がめん右側みぎがわには、多数たすうのパリの「エリート」たちがえがかれており、そのなかには画家がか友人ゆうじんたちもふくまれている。かれらはクールベの芸術げいじゅつとしての経歴けいれきかかわって役割やくわりたした人々ひとびとであったり、なんらかのかたち示唆しさあたえた人々ひとびとであった。こちらがわえがかれた人々ひとびとなかには、クールベのパトロンであったアルフレッド・ブリュイヤスをはじめ、シャンフルーリピエール・ジョゼフ・プルードンシャルル・ボードレール裕福ゆうふく美術びじゅつ収集しゅうしゅうのカップルなど、社交しゃこうかい人々ひとびとえがまれている.[12]ほんさく制作せいさく全面ぜんめんてきにオルナンでおこなわれており、パリに居住きょじゅうしていたこれらの人物じんぶつ肖像しょうぞうだい部分ぶぶんは、既存きそん肖像しょうぞう写真しゃしんもとづいて模写もしゃされたものであった。たとえば、シャルル・ボードレールの肖像しょうぞうは、1847ねんにクールベがえがいた作家さっか肖像しょうぞうから直接ちょくせつ模写もしゃされたものであった[13]。クールベは、ほんさく構想こうそうについてシャンフルーリにてた書簡しょかんなか言及げんきゅうしており、そこから『画家がかのアトリエ』の解釈かいしゃくおおくがされているのだが、その書簡しょかんなかで、画面がめんえがめるよう、哲学てつがくしゃ政府せいふ主義しゅぎものであったプルードンの写真しゃしんおくってほしいと要望ようぼうもしていた。クールベは、シャンフルーリがおくった写真しゃしんもとづいてプルードンの肖像しょうぞうえがいたのである。

解釈かいしゃく

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  • ほんさく副題ふくだいにある、撞着どうちゃく語法ごほう写実しゃじつてき寓意ぐうい (Allégorie réelle)」が意味いみするところについては、この表現ひょうげんをひねりしたクールベの真意しんいとともに、議論ぎろんかれている。
  • クールベがカンバスちゅうのカンバスにルーがわ河谷こうだにえがくことをえらんだのは、挑戦ちょうせんてき地方ちほう主義しゅぎ英語えいごばん表明ひょうめいであった。かれは、フランスのフランシュ=コンテ地域ちいきけんドゥーけんにある故郷こきょう象徴しょうちょうを、まっすぐそのままパリ中心ちゅうしんみ、パリの社交しゃこうかい名士めいしたちである芸術げいじゅつ愛好あいこう収集しゅうしゅうたちのさらしたのである[9]
  • ジュルナル・デ・デバ (Journal des débats)』うえかれた頭蓋骨ずがいこつは、芸術げいじゅつアカデミーの芸術げいじゅつ象徴しょうちょうするものである[5]
  • 画面がめん左手ひだりて猟師りょうし足元あしもとげられた物品ぶっぴんなかには、ギターダガー羽根はねつき帽子ぼうし、バックルくつなどがあり、ロマン主義しゅぎ芸術げいじゅつ運動うんどう象徴しょうちょうとなっている。それは写実しゃじつ主義しゅぎ人気にんきたかまりによってロマン主義しゅぎがもたらされることの象徴しょうちょうとも、クールベの作風さくふうにおけるロマン主義しゅぎ象徴しょうちょうともおもわれる[5]
  • この猟師りょうし姿すがた人物じんぶつは、制作せいさく構想こうそう初期しょきには用意よういされておらず、からくわえられたことがかっているが、これをナポレオン3せい見立みたてる見解けんかいもある[14]
  • リンダ・ノックリンほんさくを、社会しゃかい組織そしき共同きょうどうたい主義しゅぎてきモデルのひとつであるフーリエ主義しゅぎたいする、クールベの傾倒けいとう表明ひょうめい解釈かいしゃくしている[15]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ ただし、クールベが実際じっさいにロンドンへ旅行りょこうしたかかについては、否定ひていてき見解けんかいおお[6]

出典しゅってん

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  1. ^ Riat 2008, p. 93.
  2. ^ a b Nicolson 1973, p. 60.
  3. ^ "Gustave Courbet (1819–1877)", The Metropolitan Museum of Art, accessed September 18, 2015.
  4. ^ Gustave Courbet The Artist's Studio”. Musée d’Orsay. 2021ねん5がつ14にち閲覧えつらん
  5. ^ a b c Nicolson 1973, pp. 23–33.
  6. ^ 今山いまやま 2000, pp. 50–52.
  7. ^ Nicolson 1973, pp. 23, 36.
  8. ^ Riat 2008, p. 94.
  9. ^ a b Nicolson 1973, p. 20.
  10. ^ Nicolson 1973, p. 40.
  11. ^ 今山いまやま 2000, pp. 52–54.
  12. ^ Nicolson 1973, pp. 52–59.
  13. ^ Nicolson 1973, p. 47.
  14. ^ 今山いまやま 2000, p. 50.
  15. ^ Nochlin 1989.

参考さんこう文献ぶんけん

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  • Nicolson, Benedict (1973). Courbet: The Studio of the Painter. London: Allen Lane. ISBN 0-71390370-8 
  • Nochlin, Linda (1989). “The Invention of the Avant-Garde”. The politics of vision: essays on nineteenth-century art and society. New York: Harper & Row. pp. 9-13. ISBN 978-0-06-435854-5 
  • Riat, Georges Michael Loceyやく (2008). Gustave Courbet. New York: Park Stone Press International. pp. 93–107 
  • 今山いまやま, せいいく「ギュスターヴ・クールべさく画家がかのアトリエ》について : じゅうきゅう世紀せいきのシャリテの寓意ぐういかんするいち考察こうさつ」『美学びがくだい51かんだい2ごう美学びがくかい、2000ねん、49-60ぺーじNAID 110003714386 

外部がいぶリンク

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