この項目 こうもく では、イタリア の古代 こだい 都市 とし とその遺跡 いせき 、その都市 とし を題材 だいざい とした作品 さくひん について説明 せつめい しています。その他 た の用法 ようほう については「ポンペイ (曖昧 あいまい さ回避 かいひ ) 」をご覧 らん ください。
出典 しゅってん は列挙 れっきょ するだけでなく、脚注 きゃくちゅう などを用 もち いてどの記述 きじゅつ の情報 じょうほう 源 げん であるかを明記 めいき してください。記事 きじ の信頼 しんらい 性 せい 向上 こうじょう にご協力 きょうりょく をお願 ねが いいたします。(2020年 ねん 8月 がつ )
ポンペイの想像 そうぞう 図 ず (79年 ねん の噴火 ふんか 前 まえ 。現代 げんだい より山 やま が高 たか い)
現在 げんざい のポンペイの遺跡 いせき 。写真 しゃしん 中央 ちゅうおう の建物 たてもの は劇場 げきじょう 跡 あと 。背景 はいけい のヴェスヴィオは79年 ねん 以降 いこう も噴火 ふんか を繰 く り返 かえ したため、山頂 さんちょう 周辺 しゅうへん が吹 ふ き飛 と び、低 ひく くなっている。
座標 ざひょう : 北緯 ほくい 40度 ど 45分 ふん 3.6秒 びょう 東経 とうけい 14度 ど 29分 ふん 13.2秒 びょう / 北緯 ほくい 40.751000度 ど 東経 とうけい 14.487000度 ど / 40.751000; 14.487000
ポンペイ (羅 ら : Pompeii 、伊 い : Pompei )は、イタリア ・ナポリ 近郊 きんこう 、ヴェスヴィオ山 さん のふもとにあった古代 こだい 都市 とし 。西暦 せいれき 79年 ねん のヴェスヴィオ噴火 ふんか (英語 えいご 版 ばん ) で発生 はっせい した火砕流 かさいりゅう によって地中 ちちゅう に埋 うず もれたことで知 し られ、その遺跡 いせき は「ポンペイ、ヘルクラネウム及 およ びトッレ・アンヌンツィアータの遺跡 いせき 地域 ちいき 」の主要 しゅよう 部分 ぶぶん として、ユネスコ の世界 せかい 遺産 いさん に登録 とうろく されている。
ポンペイの拡張 かくちょう 史 し 。赤 あか - 最古 さいこ の街 まち (サムニウム期 き ) 青 あお - 最初 さいしょ の拡張 かくちょう 。紀元前 きげんぜん 4世紀 せいき 。 緑 みどり - 2度目 どめ の拡張 かくちょう 黄 き - ロ ろ ーマ帝国 まていこく による拡張 かくちょう 。紀元前 きげんぜん 89年 ねん より。
イタリア 先住 せんじゅう のオスキ人 じん (英語 えいご 版 ばん ) によって集落 しゅうらく が形成 けいせい された。紀元前 きげんぜん 7世紀 せいき 頃 ころ はサルノ川 かわ (英語 えいご 版 ばん ) の河口 かこう 付近 ふきん の丘 おか に集落 しゅうらく があった。その後 ご 紀元前 きげんぜん 526年 ねん からエトルリア人 じん に占領 せんりょう されたが、ポンペイ市民 しみん はイタリア南部 なんぶ に居住 きょじゅう していたギリシャ人 じん と同盟 どうめい を組 く み、紀元前 きげんぜん 474年 ねん クマエの海戦 かいせん で支配 しはい から脱 だっ した。ギリシャ人 じん はその後 ご ナポリ湾 わん を支配 しはい した。紀元前 きげんぜん 5世紀 せいき 後半 こうはん からサムニウム人 じん の侵攻 しんこう が始 はじ まった。
この
節 ふし の
加筆 かひつ が
望 のぞ まれています。
(2022年 ねん 2月 がつ )
紀元前 きげんぜん 424年 ねん にはサムニウム人 じん (あるいは「サムニテ人 じん 」「サムナイト人 じん 」en:Samnites )に征服 せいふく されることとなった。サムニウム人 じん はまた、カンパニア全体 ぜんたい を支配 しはい した。この時代 じだい 、ローマがポンペイを征服 せいふく したという説 せつ があったが、現在 げんざい この説 せつ を裏付 うらづ けるものはない。
カンパニアの諸 しょ 都市 とし が同盟 どうめい 市 し 戦争 せんそう と呼 よ ばれる戦争 せんそう をローマに対 たい して起 お こすと、ポンペイも反 はん ローマ側 がわ に加 くわ わった。
紀元前 きげんぜん 89年 ねん 、ルキウス・コルネリウス・スッラ によって町 まち は征服 せいふく されポンペイは周辺 しゅうへん のカンパニア諸 しょ 都市 とし とともにローマ(ロ ろ ーマ帝国 まていこく )の植民 しょくみん 都市 とし となった。ローマの支配 しはい 下 か に入 はい った後 のち のポンペイの正式 せいしき 名 めい は「Colonia Cornelia Veneria Pompeianorum 」(ポンペイ人 じん によるウェヌス 女神 めがみ に献呈 けんてい されたコルネリウスの植民 しょくみん 市 し )となった。ポンペイは港 みなと に届 とど いたローマへの荷物 にもつ を近 ちか くのアッピア街道 かいどう に運 はこ ぶための重要 じゅうよう な拠点 きょてん となり、以後 いご は商業 しょうぎょう 都市 とし として栄 さか えた。
ポンペイは商業 しょうぎょう が盛 さか んな港湾 こうわん 都市 とし であった。整備 せいび された大 おお きな港 みなと があり、海洋 かいよう 都市 とし でもあった(ポンペイ周辺 しゅうへん で火山 かざん 活動 かつどう の地殻 ちかく 変動 へんどう が続 つづ いたことで、現在 げんざい の遺跡 いせき の海抜 かいばつ は上昇 じょうしょう し、水辺 みずべ から遠 とお ざかった状態 じょうたい になっている)。またぶどう の産地 さんち であり、ワインを運 はこ ぶための壺 つぼ が多数 たすう 出土 しゅつど されていることから、主 おも な産業 さんぎょう はワイン 醸造 じょうぞう だったことが窺 うかが える。碁盤 ごばん の目 め 状 じょう に通 とお りがあり、大 おお きな通 とお りは石 いし により舗装 ほそう されていた。市 し の中心 ちゅうしん には広場 ひろば もあり、かなり計画 けいかく 的 てき に設計 せっけい された都市 とし であることも分 わ かっている。
街 まち の守護神 しゅごじん は、美 び と恋愛 れんあい の女神 めがみ ウェヌス であった。
娼婦 しょうふ の館 かん も発掘 はっくつ され男女 だんじょ の交 まじ わりを描 えが いた壁画 へきが が多 おお く出土 しゅつど したので、現代 げんだい ではポンペイは「快楽 かいらく の都市 とし 」と呼 よ ばれることもある。古代 こだい ローマ時代 じだい は性的 せいてき におおらかな時代 じだい であり、ポンペイに限 かぎ らず古代 こだい ローマの商業 しょうぎょう 都市 とし には商人 しょうにん 向 む け(旅商人 たびあきんど 向 む け)の娼婦 しょうふ 館 かん のような施設 しせつ は多 おお かったという。
西暦 せいれき 79年 ねん のヴェスヴィオ火山 かざん 噴火 ふんか [ 編集 へんしゅう ]
79年 ねん のヴェスヴィオ噴火 ふんか による降下 こうか 火山灰 かざんばい の被害 ひがい 地区 ちく (黒色 こくしょく 部分 ぶぶん )。火砕流 かさいりゅう による被害 ひがい 地域 ちいき よりもはるかに広 ひろ い。
噴火 ふんか したのは西暦 せいれき 79年 ねん であることは間違 まちが いないが、その正確 せいかく な日付 ひづけ については一部 いちぶ に議論 ぎろん がありはする (以下 いか の解説 かいせつ では、一般 いっぱん に用 もち いられている日付 ひづけ で解説 かいせつ する)。
西暦 せいれき 62年 ねん 2月 がつ 5日 にち に発生 はっせい したポンペイ地震 じしん により、ポンペイや他 た のカンパニア諸 しょ 都市 とし は大 おお きな被害 ひがい を受 う けた。再建 さいけん 作業 さぎょう はされたが、不完全 ふかんぜん な状態 じょうたい で西暦 せいれき 79年 ねん 8月 がつ 24日 にち 以降 いこう (噴火 ふんか 日 び については後述 こうじゅつ )の午後 ごご 1時 じ 頃 ごろ にヴェスヴィオ火山 かざん が大 だい 噴火 ふんか し[1] 、一昼夜 いっちゅうや に渡 わた って火山灰 かざんばい が降 ふ り続 つづ けた。
翌 よく 8月 がつ 25日 にち (噴火 ふんか から約 やく 12時 じ 間 あいだ 後 ご )の噴火 ふんか 末期 まっき に火砕流 かさいりゅう が発生 はっせい し、ポンペイ市 し は一瞬 いっしゅん にして完全 かんぜん に地中 ちちゅう に埋 う まった。降灰 こうかい はその後 ご も続 つづ いた。軍人 ぐんじん でもあった博物 はくぶつ 学者 がくしゃ のガイウス・プリニウス・セクンドゥス (大 だい プリニウス)は、ポンペイの市民 しみん を救助 きゅうじょ するために船 ふね で急行 きゅうこう したが、煙 けむり (有毒 ゆうどく 火山 かざん ガス?)に巻 ま かれて死 し んだことが甥 おい のガイウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥス (小 しょう プリニウス)による当時 とうじ の記述 きじゅつ から知 し られている。
当時 とうじ 、唯一 ゆいいつ の信頼 しんらい できる記録 きろく は、小 しょう プリニウスが歴史 れきし 家 か タキトゥス に宛 あ てた手紙 てがみ である。これによると、大 だい プリニウスはヴェスヴィオ火山 かざん の山頂 さんちょう の火口 かこう 付近 ふきん から、松 まつ の木 き (イタリアカサマツ )のような形 かたち の暗 くら い雲 くも が山 やま の斜面 しゃめん を急速 きゅうそく に下 お り、海 うみ にまで雪崩 なだ れ込 こ んだのを見 み たと記録 きろく している。火口 かこう から海 うみ までを覆 おお ったこの雲 くも は、現在 げんざい では火砕流 かさいりゅう として知 し られる。これは火山 かざん が噴火 ふんか したときに、高温 こうおん ガスや灰 はい や岩石 がんせき が雪崩 なだれ のように流 なが れる現象 げんしょう である。プリニウスは爆発 ばくはつ 時 じ に地震 じしん を感 かん じ、地面 じめん は非常 ひじょう に揺 ゆ れたと述 の べている。さらに灰 はい がどんどん積 つ もり、彼 かれ は村 むら から逃 に げなければならなかったが、海 うみ の水 みず がみるみる引 ひ いていった後 のち に「津波 つなみ 」がおきた。ただし、当時 とうじ のヨーロッパ人 じん は津波 つなみ という言葉 ことば を持 も っていなかったので、プリニウスの表現 ひょうげん は違 ちが っている。プリニウスの記述 きじゅつ には、太陽 たいよう が爆発 ばくはつ によって覆 おお われてよく見 み えなかったと続 つづ き、大 だい プリニウスはこの現象 げんしょう を調査 ちょうさ するために船 ふね で再 ふたた び陸 りく に向 む かったが、窒息 ちっそく して死 し んだ。
噴火 ふんか 直後 ちょくご に当時 とうじ のローマ皇帝 こうてい ティトゥス はポンペイに役人 やくにん を派遣 はけん するが、市 し は壊滅 かいめつ したあとだった。市民 しみん の多 おお くが火砕流 かさいりゅう 発生 はっせい 前 まえ にローマなどに逃 に げたが、これら一連 いちれん の災害 さいがい により、地震 じしん の前 まえ には2万 まん 人 にん 程度 ていど いたポンペイ市民 しみん の内 うち 、何 なん らかの理由 りゆう で街 まち に留 とど まった者 もの の中 なか から逃 に げ遅 おく れた者 もの 約 やく 2千 せん 人 にん が犠牲 ぎせい になった。
19世紀 せいき に発掘 はっくつ されるポンペイ
発掘 はっくつ された肖像 しょうぞう 画 が 、フレスコ、国立 こくりつ ナポリ考古学 こうこがく 博物館 はくぶつかん
噴火 ふんか によって壊滅 かいめつ した後 のち は二度 にど と集落 しゅうらく が作 つく られることはなかったが、その後 ご 1000年 ねん 以上 いじょう 「町 まち 」という地名 ちめい で呼 よ ばれた他 ほか 、散発 さんぱつ 的 てき に古代 こだい の品 しな が発見 はっけん されたので、下 した に都市 とし が埋 う まっていることは知 し られていた。
1738年 ねん にヘルクラネウム (現在 げんざい のエルコラーノ に所在 しょざい )が、1748年 ねん にポンペイが再 さい 発見 はっけん され、建造 けんぞう 物 ぶつ の完全 かんぜん な形 かたち や当時 とうじ の壁画 へきが を明 あき らかにするために断続 だんぞく 的 てき に発掘 はっくつ が行 おこな われた。いくつかの男女 だんじょ の交 まじ わりを描 えが く美術 びじゅつ 品 ひん (フレスコ画 が )は、最初 さいしょ フォンターナによって発掘 はっくつ されたが、将来 しょうらい 考古学 こうこがく 者 しゃ によって再 さい 発見 はっけん されたほうが重要 じゅうよう 性 せい がわかるであろうと判断 はんだん したフォンターナ自身 じしん が埋 う め戻 もど したとされる[要 よう 出典 しゅってん ] 。ただしこれには明確 めいかく な証拠 しょうこ はない。
ポンペイとその周辺 しゅうへん の別荘 べっそう からは多数 たすう の壁画 へきが が発掘 はっくつ され、古代 こだい ローマの絵画 かいが を知 し る上 じょう で重要 じゅうよう な作品 さくひん 群 ぐん となっている。ポンペイの壁画 へきが の様式 ようしき には年代 ねんだい により変遷 へんせん が見 み られ、主題 しゅだい も静物 せいぶつ 、風景 ふうけい 、風俗 ふうぞく 、神話 しんわ と多岐 たき にわたっている。男女 だんじょ の交 まじ わりを描 えが いた絵 え も有名 ゆうめい で、これらはフォルム(市民 しみん 広場 ひろば )や浴場 よくじょう や多 おお くの家 いえ や別荘 べっそう で、よい状態 じょうたい で保存 ほぞん され続 つづ けていた。1000平方 へいほう メートルの広 ひろ さをもつホテルは、町 まち のそばで見 み つかった。現在 げんざい 、このホテルは、「グランドホテル Murecine」と呼 よ ばれる。
ポンペイが人々 ひとびと の前 まえ にその姿 すがた を再 ふたた び現 あらわ した18世紀 せいき 半 なか ばから、発掘 はっくつ は現在 げんざい に至 いた るまで続 つづ けられている。地中 ちちゅう から次々 つぎつぎ と現 あらわ れるローマ時代 じだい の遺品 いひん の美 うつく しさに世界 せかい が驚愕 きょうがく したが、その美 うつく しさの秘密 ひみつ は火砕流 かさいりゅう 堆積 たいせき 物 ぶつ にあった。火山灰 かざんばい を主体 しゅたい とする火砕流 かさいりゅう 堆積 たいせき 物 ぶつ には乾燥 かんそう 剤 ざい として用 もち いられるシリカゲル に似 に た成分 せいぶん が含 ふく まれ、湿気 しっけ を吸収 きゅうしゅう した。この火山灰 かざんばい が町 まち 全体 ぜんたい を隙間 すきま なく埋 う め尽 つ くしたため、壁画 へきが や美術 びじゅつ 品 ひん の劣化 れっか が最小限 さいしょうげん に食 く い止 と められていた。当時 とうじ の宗教 しゅうきょう 儀式 ぎしき の様子 ようす を描 えが いた壁画 へきが の鮮烈 せんれつ な色合 いろあ いは「ポンペイ・レッド」と呼 よ ばれている。
ポンペイは建造 けんぞう 物 ぶつ や街 まち 区 く が古代 こだい ローマ当時 とうじ のままの唯一 ゆいいつ の町 まち として知 し られている。後 ご の歴史 れきし 家 か たちは、その歴史 れきし 家 か の時代 じだい のローマは古代 こだい ローマをそのまま伝 つた えていると誤解 ごかい していたが、ポンペイこそが最 もっと も純粋 じゅんすい に古代 こだい ローマの伝統 でんとう を守 まも り、ほぼ直角 ちょっかく に交差 こうさ する直線 ちょくせん の大通 おおどお りによって規則 きそく 的 てき に区切 くぎ られ、計画 けいかく 的 てき に設計 せっけい された町 まち であった。通 とお りの両側 りょうがわ には家 いえ と店 みせ がある。建造 けんぞう 物 ぶつ は石 いし でできていた。居酒屋 いざかや のメニューも残 のこ っており、「お客様 きゃくさま へ、私 わたし どもは台所 だいどころ に鶏肉 とりにく 、魚 さかな 、豚 ぶた 、孔雀 くじゃく などを用意 ようい してあります。」と記 しる されている。
石膏 せっこう で復元 ふくげん した遺体 いたい
噴火 ふんか 時 じ に発生 はっせい した火砕流 かさいりゅう の速度 そくど は100km/h以上 いじょう で、市民 しみん は到底 とうてい 逃 に げることはできず、一瞬 いっしゅん のうちに全員 ぜんいん が生 い き埋 う めになった。発掘 はっくつ された際 さい には遺体 いたい 部分 ぶぶん だけが腐敗 ふはい 消失 しょうしつ し、火山灰 かざんばい の中 なか に空洞 くうどう ができていた。1863年 ねん に発掘 はっくつ 総 そう 監督 かんとく に就任 しゅうにん したジュゼッペ・フィオレッリ (英語 えいご 版 ばん ) は、the Alley of the Skeletons(骸骨 がいこつ の路地 ろじ )と呼 よ ばれる場所 ばしょ で死体 したい の周 まわ りが空洞 くうどう になっていることを見 み つけ、石膏 せっこう を流 なが し込 こ む手法 しゅほう を発明 はつめい し[2] [3] 。逃 に げまどう市民 しみん の最期 さいご の瞬間 しゅんかん を再現 さいげん した。顔 かお までは再現 さいげん できなかったが、母親 ははおや が子供 こども を覆 おお い隠 かく して襲 おそ い来 く る火砕流 かさいりゅう から子供 こども だけでも守 まも ろうとした様子 ようす 、飼 か われていた犬 いぬ がもだえ苦 くる しむ様子 ようす が生々 なまなま しく再現 さいげん された。この石膏 せっこう 像 ぞう の制作 せいさく によって遺骨 いこつ が損傷 そんしょう したため、ポンペイ市民 しみん の法医学 ほういがく 的 てき な調査 ちょうさ は長 なが らく滞 とどこお っていたが、オプロンティス荘 そう (英語 えいご 版 ばん ) 近 ちか くの商館 しょうかん と思 おも われる建物 たてもの の地下 ちか 室 しつ から老若男女 ろうにゃくなんにょ 身分 みぶん がバラバラ(居場所 いばしょ は身分 みぶん 別 べつ にある程度 ていど グループを作 つく って固 かた まっていた)な54体 たい の遺骨 いこつ が発見 はっけん された。彼 かれ らは火砕流 かさいりゅう からは難 なん を逃 のが れたが、火山 かざん 性 せい ガスによる窒息 ちっそく で死亡 しぼう して火山灰 かざんばい に埋 うず もれていた。
町 まち は、1世紀 せいき の古代 こだい ローマ人 じん たちの生 い きた生活 せいかつ の様子 ようす をそのまま伝 つた える。焼 や いたままのパンや、テーブルに並 なら べられたままの当時 とうじ の食事 しょくじ と食器 しょっき 、コイン 、クリーニング屋 や のような職業 しょくぎょう 、貿易 ぼうえき 会社 かいしゃ の存在 そんざい 、壁 かべ の落書 らくが きが当時 とうじ のラテン語 らてんご をそのまま伝 つた えている。保存 ほぞん 状態 じょうたい のよいフレスコ画 が は、当時 とうじ の文化 ぶんか をそのまま伝 つた える。整備 せいび された上下水道 じょうげすいどう の水道 すいどう の弁 べん は、水 みず の量 りょう を調節 ちょうせつ する仕組 しく みが現在 げんざい とほとんど変 か わらず、きれいな水 みず を町中 まちなか に送 おく っていた。トイレ が社交 しゃこう の場 ば となっていたらしく二人 ふたり 掛 か けのトイレが存在 そんざい し、トイレは奴隷 どれい とその主 あるじ が共同 きょうどう で使用 しよう しており、壁 かべ には「見事 みごと だ」と奴隷 どれい による落書 らくが きが残 のこ された遺構 いこう がある。発掘 はっくつ された排泄 はいせつ 物 ぶつ や骨 ほね の調査 ちょうさ から、身分 みぶん によって食事 しょくじ の内容 ないよう に違 ちが いはなく、全員 ぜんいん が健康 けんこう 的 てき な食生活 しょくせいかつ を送 おく っていたものとされる。
噴火 ふんか 時 じ の町 まち の人口 じんこう は1万 まん 人 にん 弱 じゃく で、ローマ市 し の富裕 ふゆう 層 そう の別荘 べっそう も多 おお くあり、また彼 かれ ら向 む けのサービスも多 おお くあった。Macellum(大 おお きな食物 しょくもつ 市場 いちば )、Pistrinum(製粉 せいふん 所 しょ )、Thermopolia(冷 つめ たいものや熱 あつ いものなどさまざまな飲料 いんりょう を提供 ていきょう したバー)、cauporioe(小 ちい さなレストラン)、円形 えんけい 劇場 げきじょう などがあり、噴火 ふんか 直前 ちょくぜん までこれらが営業 えいぎょう していた痕跡 こんせき がある。2002年 ねん にはサルノ川 かわ 河口 かこう にボートを浮 う かべ、ヴェネツィア のような船上 せんじょう 生活 せいかつ をしていた人 ひと がいたことが判明 はんめい するなど現在 げんざい も新 しん 事実 じじつ が続々 ぞくぞく と報告 ほうこく されている。
「市民 しみん 全員 ぜんいん が噴火 ふんか で死亡 しぼう し、唯一 ゆいいつ の生 い き残 のこ りの死刑 しけい 囚 しゅう がポンペイの町 まち のことを語 かた ったが、誰 だれ も信用 しんよう しなかった。しかしそれは伝説 でんせつ として残 のこ り、発掘 はっくつ されることになった」という逸話 いつわ が伝 つた わるが事実 じじつ ではないと思 おも われる(とりわけ死刑 しけい 囚 しゅう に関 かん する事項 じこう )。火砕流 かさいりゅう は歴史 れきし 的 てき にはまれな現象 げんしょう であり、目撃 もくげき 者 しゃ は殆 ほとん ど全員 ぜんいん が死亡 しぼう するので伝説 でんせつ としても残 のこ りにくく、一般人 いっぱんじん に理解 りかい されることは困難 こんなん である[独自 どくじ 研究 けんきゅう ? ] 。この逸話 いつわ は1902年 ねん に、西 にし インド諸島 しょとう のフランス 領 りょう マルティニーク島 とう にあるプレー火山 かざん で起 お きた同様 どうよう の火砕流 かさいりゅう 噴火 ふんか を下敷 したじ きにしていると思 おも われる。この噴火 ふんか では火砕流 かさいりゅう 以外 いがい に麓 ふもと のサンピエール市 し で泥 どろ 流 りゅう が発生 はっせい し、警察 けいさつ の留置 とめおき 場 じょう に拘留 こうりゅう されていた囚人 しゅうじん を含 ふく めた3名 めい のみを残 のこ して住民 じゅうみん 約 やく 2万 まん 8千 せん 人 にん が一瞬 いっしゅん にしてほぼ全滅 ぜんめつ した。
一方 いっぽう で、ポンペイの建築 けんちく 物 ぶつ が発掘 はっくつ されて白日 はくじつ の下 した にさらされたことにより、雨風 あめかぜ による腐朽 ふきゅう が進行 しんこう するようになった。2010年 ねん 11月8日 にち には「剣 けん 闘士 とうし の家 いえ 」と呼 よ ばれた建物 たてもの が倒壊 とうかい 、翌 よく 2011年 ねん 10月 がつ 21日 にち には「ポルタノラの壁 かべ 」が倒壊 とうかい している。
噴火 ふんか 日 び についての論争 ろんそう [ 編集 へんしゅう ]
壊滅 かいめつ 的 てき な被害 ひがい を受 う ける噴火 ふんか の発生 はっせい 日 び は79年 ねん 8月 がつ 24日 にち とされているが、18世紀 せいき に発掘 はっくつ が開始 かいし されて以来 いらい 、発見 はっけん された衣類 いるい 、農作物 のうさくもつ などから実際 じっさい に噴火 ふんか したのは8月 がつ 24日 にち より後 のち である可能 かのう 性 せい が示唆 しさ されていた。また、2018年 ねん の発掘 はっくつ 調査 ちょうさ では家屋 かおく の壁 かべ に「11月の最初 さいしょ の日 ひ からさかのぼって16番目 ばんめ の日 ひ 」と書 か かれているのが発見 はっけん された。これにより、実際 じっさい に噴火 ふんか が発生 はっせい したのは79年 ねん 10月 がつ 17日 にち 以降 いこう である可能 かのう 性 せい が指摘 してき されている[4] 。
ポンペイを題材 だいざい にした作品 さくひん [ 編集 へんしゅう ]
ジョン・マーティン 作 さく 『ポンペイとエルコラーノの壊滅 かいめつ 』(復元 ふくげん 版 ばん ),1821年 ねん
カール・ブリューロフ作 さく 、「ポンペイ最後 さいご の日 ひ 」
絵画 かいが
小説 しょうせつ
映画 えいが
ドラマ
音楽 おんがく
漫画 まんが
古代 こだい ローマ大 だい 発掘 はっくつ スペシャル 2000年 ねん の時 とき を越 こ えて謎 なぞ の地下 ちか 遺跡 いせき を世界 せかい 初 はつ 公開 こうかい !(2008年 ねん 11月24日 にち 、日本 にほん テレビ) - ポンペイ発掘 はっくつ を現場 げんば レポート[5] [6]
地球 ちきゅう ドラマチック (NHK教育 きょういく )
ポンペイ“骨 ほね ”が語 かた る真実 しんじつ (2014年 ねん 4月 がつ 5日 にち )[7]
ポンペイ 知 し られざるローマ人 じん の暮 く らし(2016年 ねん 10月 がつ 22日 にち )[8]
ポンペイ 石 せっ こう像 ぞう の新 しん 事実 じじつ (2019年 ねん 4月 がつ 6日 にち )[9]
ポンペイの起源 きげん ~もうひとつの埋 うず もれた歴史 れきし ~(2022年 ねん 11月19日 にち )[10]
ミステリアス 古代 こだい 文明 ぶんめい への旅 たび 「蘇 そ えるポンペイ」(2014年 ねん 9月 がつ 29日 にち 、BSテレ東 ひがし )[11]
WILD NATURE 地球 ちきゅう 大 だい 紀行 きこう ローマ大 だい 発掘 はっくつ 悪徳 あくとく の都 と ポンペイ(2020年 ねん 3月 がつ 20日 はつか 、BS朝日 あさひ )[12]
よみがえるポンペイ(2021年 ねん 1月 がつ 25日 にち 、NHK衛星 えいせい ハイビジョン)[13]
有吉 ありよし の世界 せかい 同時 どうじ 中継 ちゅうけい 幻 まぼろし の古代 こだい 都市 とし ポンペイの最新 さいしん 発掘 はっくつ 現場 げんば をテレビ初 はつ 取材 しゅざい SP(2022年 ねん 4月 がつ 28日 にち 、テレビ東京 てれびとうきょう )[14]
ポンペイ遺跡 いせき 〜 新 しん 発見 はっけん !古代 こだい 都市 とし ポンペイの真実 しんじつ (2023年 ねん 3月 がつ 19日 にち 、TBS)[15]
世界 せかい ふしぎ発見 はっけん ! ポンペイの真実 しんじつ 元祖 がんそ ミステリーハンターは古代 こだい ローマ人 じん ?(2024年 ねん 3月 がつ 9日 にち 、TBS)
ウィキメディア・コモンズには、
ポンペイ に
関連 かんれん する
メディア および
カテゴリ があります。
全般 ぜんぱん 国立 こくりつ 図書館 としょかん 地理 ちり その他 た