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ティトゥス・フラウィウス・ウェスパシアヌス(ラテン語: Titus Flavius Vespasianus, 39年12月30日 - 81年9月13日)は、ローマ帝国の皇帝(在位:79年 - 81年)である。一般的にはティトゥスとして知られる。フラウィウス朝第2代の皇帝である。先帝ウェスパシアヌスの長男、母はフラウィア・ドミティラ、弟はドミティアヌス帝。
幼少期から青年期まで[編集]
39年、ローマにて誕生した。ティトゥスは皇宮で帝国の後継者たちとともに学んでいたらしく、帝位継承者の一人ブリタンニクスと仲がよかった。そのブリタンニクスが毒殺された時、ティトゥスはすぐ隣にいて盛られた毒を少し試し、長い間床に伏せていたという。この事をティトゥスは生涯忘れず、後に皇帝になった時に若くして死んだ旧友の像を建立したと伝えられている。
61年から63年にかけてトリブヌス・ミリトゥムに就任、父ウェスパシアヌスとともにブリタンニアへ赴く。64年にローマに戻りアレキナ・テルトゥラと結婚、しかしすぐ死別、翌65年にマルキア・フルニッラと再婚する。妻の生家は帝位後継者、後のローマ皇帝ネロの対抗勢力に属していた。そして結婚と同年の65年に元老院議員であったガイウス・カルプルニウス・ピソによるネロの暗殺疑惑事件 (en:Pisonian conspiracy) が発生、この件で妻とは離縁する。以来彼は結婚しなかった。
ティトゥスの凱旋門のレリーフ
67年に父ウェスパシアヌスとユダヤ人の反乱鎮圧のためパレスチナに向かう。クァエストル(財務官)となっていたティトゥスは、同地で軍の一指揮官として勤務する。しかし68年にネロが自死、ガルバがローマ皇帝として就任する。この時ティトゥスは、父ウェスパシアヌスの命令で、ガルバに皇帝就任の祝辞を述べるためローマに赴いたが、ガルバ殺害、オト自死、アウルス・ウィテッリウスが皇帝即位と西方の情勢が混乱しているのを知ると、旅程の途中で自らの判断により父の下へ引き返している。そして以降ユダヤ戦争の鎮圧に専念する。このように1年に皇帝が4人も代わるという政権が不安定な「四皇帝の年」に、ティトゥスはシリア属州総督ムキアヌスと共同して父ウェスパシアヌスを支えた。
69年には最初にムキアヌスがウィテッリウスに対する先鋒として、そして次に父ウェスパシアヌスがローマへ皇帝宣言のため赴くと、エルサレム攻略の司令官となり、70年にはエルサレムを占領し、73年まで抵抗を続けたマサダを陥落させユダヤ人の反乱を平定する(ユダヤ戦争)。この時にユダヤ王家の一族に連なるベレニケと恋に落ちた。そしてローマに帰還して凱旋式を挙げる。この凱旋式の様子はフォルム・ロマヌムの東端にティトゥスの凱旋門のレリーフに残っている。その後、父ウェスパシアヌスと共同統治し、親衛隊長(プラエフェクトゥス・プラエトリオ)及び執政官職を数回務め、父の片腕として不穏分子摘発に腕を振るった[1]。
執政官7年目となる79年に、死亡した父の後を継いでローマ皇帝となる。ティトゥスが皇帝になった時、親衛隊長時代の残忍な振る舞いや、愛人であったユダヤの王女ベレニケの存在から、人々は彼がネロのようになるのではないかと心配した[2]。しかし、市民の危惧を悟ったティトゥスはベレニケを妻とすることを諦め、そのため逆に市民の同情と支持を得ることになった。また、剣闘士試合を頻繁に開催したり、先帝ウェスパシアヌスを揶揄する喜劇が上演されても一切咎め立てしなかったので、ローマ市民の間でも人気が高かった。元老院との関係も良好で、反逆罪の罪状を使わないと宣言した。ティトゥスは何も良いことをしなかった時には「一日を失ってしまった」と嘆いたと言う。
在位中にヴェスヴィオ火山が噴火し、ナポリ近郊の都市ポンペイが壊滅したほか、ローマが3日間延焼し続ける大火災が発生した。ティトゥスは精力的に被災地の救済にあたったが、その最中の81年に熱病で死んだ。わずか2年の治世であった。スエトニウスはマラリアでの死、あるいは弟ドミティアヌスによって毒殺された可能性があるとも書いている。
在位が2年にもかかわらず、ティトゥスの評価は高い。後に暴虐な皇帝とされた弟ドミティアヌスと対照的に善良な皇帝として評価され、後世には五賢帝によって皇帝の理想像とされた。ただし「治世が短ければ、誰だって善い皇帝でいられる」という文句がローマ人の間で流行したとの記述もある。暴君とされるローマ皇帝であっても、その長い治世の最初の数年は善政を行っていたことから、ティトゥスの治世も長ければ同様であったかも知れないという評である。
エルサレムをエルサレム神殿もろとも破壊したことからユダヤ人からは憎まれていた。
- ^ スエトニウス『ローマ皇帝伝』ティトゥス.6
- ^ スエトニウス『ローマ皇帝伝』ティトゥス.6-7
- スエトニウス 『ローマ皇帝伝』(国原吉之助訳)(岩波文庫)
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