この項目 こうもく では、ローマ皇帝 こうてい マルクス・アウレリウス・アントニヌスについて説明 せつめい しています。シリア のエメサ(現在 げんざい のホムス )で崇拝 すうはい された太陽 たいよう 神 かみ エル・ガバル(El-Gabal;山 やま の神 かみ の意 い )については「ヘーリオス 」をご覧 らん ください。
マルクス・アウレリウス・アントニヌス・アウグストゥス (ラテン語 らてんご : Marcus Aurelius Antoninus Augustus [ 1] 、204年 ねん - 222年 ねん [ 2] )は、ロ ろ ーマ帝国 まていこく 第 だい 23代 だい 皇帝 こうてい で、セウェルス朝 あさ の第 だい 3代 だい 当主 とうしゅ 。ヘリオガバルス (Heliogabalus )、またはエラガバルス (Elagabalus )という渾名 あだな ・通称 つうしょう で呼 よ ばれることが多 おお く、これはオリエント におけるヘーリオス 信仰 しんこう より派生 はせい した太陽 たいよう 神 しん のエル・ガバル (英語 えいご 版 ばん ) (「山 やま の神 かみ 」の意 い )を信仰 しんこう したことに由来 ゆらい する[ 3] 。歴史 れきし 上 じょう 稀 まれ にみる美貌 びぼう と、異常 いじょう な程 ほど の求愛 きゅうあい と性欲 せいよく 、過激 かげき な逸話 いつわ で有名 ゆうめい なローマ皇帝 こうてい である。又 また 、確認 かくにん されている中 なか で最古 さいこ の著名 ちょめい なトランスジェンダーの人物 じんぶつ とされる見方 みかた もある。彼 かれ は美 うつく しい容姿 ようし をしており、14歳 さい で皇帝 こうてい に即位 そくい して、皇帝 こうてい でありながら女装 じょそう をして夫 おっと を作 つく り、自 みずか らの夫 おっと を皇帝 こうてい にしようとするなど、当時 とうじ としてはあり得 え ない行動 こうどう で世間 せけん を騒 さわ がせた。又 また 、下級 かきゅう 市民 しみん である風俗 ふうぞく 嬢 じょう を姉 あね と慕 した って風俗 ふうぞく 街 がい で性 せい 奉仕 ほうし したり、不思議 ふしぎ な予言 よげん 書 しょ の様 よう なものを残 のこ すなど、数々 かずかず の逸話 いつわ から現代 げんだい に於 お いても多 おお くの創作 そうさく 品 ひん の題材 だいざい とされる人物 じんぶつ である。現代 げんだい において、イギリスにあるノース・ハートフォードシア博物館 はくぶつかん は、皇帝 こうてい の展示 てんじ の表示 ひょうじ を"彼 かれ (He)"ではなく"彼女 かのじょ (She)"あるいは"彼女 かのじょ の(Her)"に変更 へんこう し、皇帝 こうてい を女性 じょせい として認 みと めるなど、世界 せかい 的 てき にヘリオガバルスの名誉 めいよ を回復 かいふく する動 うご きが進 すす んでいる[ 4]
セウェルス朝 あさ の初代 しょだい 皇帝 こうてい セプティミウス・セウェルス の外戚 がいせき にあたるバッシアヌス家 か 出身 しゅっしん のシリア人 じん で、元 もと の本名 ほんみょう はウァリウス・アウィトゥス・バッシアヌス (Varius Avitus Bassianus )といった。セウェルスの長男 ちょうなん であったカラカラ 帝 みかど が暴政 ぼうせい の末 すえ に暗殺 あんさつ されるとバッシアヌス家 か もまたローマより追放 ついほう されたが、彼 かれ の母 はは ユリア・ソエミアス (英語 えいご 版 ばん ) は密 ひそ かにセウェルス朝 あさ 復権 ふっけん の謀議 ぼうぎ を画策 かくさく した[ 注釈 ちゅうしゃく 1] 。血統 けっとう 上 じょう 、カラカラ帝 みかど の従姉 じゅうし にあたるソエミアスは自身 じしん が夫 おっと との間 あいだ にもうけた子 こ アウィトゥス(ヘリオガバルス)が先帝 せんてい カラカラの隠 かく し子 ご であると主張 しゅちょう して反乱 はんらん を起 お こした。戦 たたか いは既 すで に帝位 ていい にあったマクリヌス側 がわ の敗北 はいぼく に終 お わり、セウェルス朝 あさ 復権 ふっけん を名目 めいもく としてわずか14歳 さい のヘリオガバルスが皇帝 こうてい に即位 そくい した。
彼 かれ の統治 とうち は他 た の如何 いか なるローマ皇帝 こうてい 達 たち をも越 こ える、ローマ史上 しじょう 、そして世界 せかい 史 し にも稀 まれ に見 み る最 もっと も特異 とくい で破天荒 はてんこう で奇抜 きばつ な君主 くんしゅ であったと言 い える。ヘリオガバルスは求愛 きゅうあい と色欲 しきよく に明 あ け暮 く れ、更 さら に異 い 端 はし な行動 こうどう で多 おお くの大衆 たいしゅう を驚 おどろ かせた[ 6] 。宗教 しゅうきょう 面 めん では従来 じゅうらい の慣習 かんしゅう や制度 せいど を廃 はい し、エル・ガバルを主神 しゅしん とするなど、極 きわ めて斬新 ざんしん な政策 せいさく を行 おこな った。当時 とうじ の概念 がいねん で、国教 こっきょう に値 あたい する様 よう なものを突然 とつぜん 変 か えてしまうなど異例 いれい 中 ちゅう の異例 いれい だった。経済 けいざい 政策 せいさく では合理 ごうり 的 てき なスタンスを取 と り、当時 とうじ としては非常 ひじょう に珍 めずら しく、貧富 ひんぷ に関 かか わりなく無償 むしょう で料理 りょうり を振 ふ る舞 ま い、貧困 ひんこん 層 そう の市民 しみん や女性 じょせい に装飾 そうしょく 品 ひん や生活 せいかつ 用品 ようひん を分 わ け与 あた え、水不足 みずぶそく に苦 くる しむ農村 のうそん に川 かわ をひくなどして貧困 ひんこん 層 そう を救済 きゅうさい した。男性 だんせい 社会 しゃかい であるローマで女性 じょせい を登用 とうよう するなど、僅 わず か10代にして数々 かずかず の画期的 かっきてき な政策 せいさく や弱者 じゃくしゃ 救済 きゅうさい 措置 そち を推 お し進 すす めるなど、進歩 しんぽ 主義 しゅぎ 的 てき な善行 ぜんこう で一定 いってい 数 すう の女性 じょせい や貧困 ひんこん 層 そう の市民 しみん から尊敬 そんけい されていた事 こと が近年 きんねん では着目 ちゃくもく されており、母 おも や祖母 そぼ の影響 えいきょう 、異様 いよう な若 わか さ、性別 せいべつ に違和感 いわかん を抱 かか えていたことから同情 どうじょう 的 てき な見方 みかた をされることも多 おお く、彼 かれ を主人公 しゅじんこう にした作品 さくひん の舞台 ぶたい が上映 じょうえい されるなど、好意 こうい 的 てき な評価 ひょうか を受 う ける事 こと も多 おお い。
ヘリオガバルスの異色 いしょく の性 せい 生活 せいかつ についての話題 わだい は、彼 かれ の政敵 せいてき によって誇張 こちょう された部分 ぶぶん があるとみられているが[ 7] それ故 ゆえ に彼 かれ に関 かん する情報 じょうほう も文献 ぶんけん によって大 おお きな差異 さい があり、中 なか には明 あき らかに誇張 こちょう されていると見 み られる伝記 でんき もある。彼 かれ に対 たい する誤 あやま った逸話 いつわ が拡散 かくさん され、現代 げんだい に至 いた っても恥辱 ちじょく を受 う けている事 こと から「凍 い てついた永遠 えいえん の恥辱 ちじょく を受 う ける者 もの 」と、語 かた られる事 こと がしばしばある。中世 ちゅうせい のキリスト教 きりすときょう 保守 ほしゅ 派 は の歴史 れきし 家 か からもあまり良 よ く無 な い評価 ひょうか を受 う けている。とりわけヘリオガバルスは近世 きんせい の歴史 れきし 家 か に忌 い み嫌 きら われたが、先 ま ず性的 せいてき 少数 しょうすう 者 しゃ が処罰 しょばつ の対象 たいしょう となっていた当時 とうじ の保守 ほしゅ 的 てき な世相 せそう から考 かんが えれば当然 とうぜん であった。[ 6] [ 8] 。『ロ ろ ーマ帝国 まていこく 衰亡 すいぼう 史 し 』で知 し られる18世紀 せいき の歴史 れきし 家 か エドワード・ギボン にいたっては「醜 みにく い欲望 よくぼう と感情 かんじょう に身 み を委 ゆだ ねた」として「最悪 さいあく の暴君 ぼうくん 」とかなり酷 ひど い評価 ひょうか を下 くだ している[ 9] 。19世紀 せいき 前半 ぜんはん のドイツ の歴史 れきし 家 か バルトホルト・ゲオルク・ニーブール もまた、主著 しゅちょ 『ローマ史 し 』のなかでヘリオガバルス帝 みかど は異常 いじょう であったと論評 ろんぴょう している[ 10] [ 注釈 ちゅうしゃく 2] 。
皇帝 こうてい ヘリオガバルス(ウァリウス・アウィトゥス・バッシアヌス)は、元老 げんろう 院 いん 議員 ぎいん の父 ちち セクストゥス・ウァリウス・マルケルス (英語 えいご 版 ばん ) と母 はは ユリア・ソエミアス (英語 えいご 版 ばん ) の子 こ として203年 ねん にシリア のエメサ(現在 げんざい のホムス )で生 う まれた[ 3] [ 11] 。父 ちち マルケルスは騎士 きし 階級 かいきゅう 出身 しゅっしん で、のちに元老 げんろう 院 いん 入 い りを果 は たした人物 じんぶつ であり、母方 ははかた の祖母 そぼ ユリア・マエサ はエメサの町 まち の大 だい 祭司 さいし [要 よう 曖昧 あいまい さ回避 かいひ ] ユリウス・バッシアヌス (英語 えいご 版 ばん ) の娘 むすめ で、セウェルス朝 あさ の開祖 かいそ セプティミウス・セウェルス の皇 すめらぎ 妃 ひ ユリア・ドムナ の姉 あね であった[ 6] [ 12] 。したがって、彼 かれ の母 はは ユリア・ソエミアスはセウェルスの嫡男 ちゃくなん であるカラカラ帝 みかど とは従姉 じゅうし 弟 おとうと の関係 かんけい にあり、皇帝 こうてい 家 か の一員 いちいん であった[ 11] 。幼少 ようしょう 期 き のウァリウス・アウィトゥスは母方 ははかた 一族 いちぞく の生業 せいぎょう である神官 しんかん として養育 よういく されたとみられる。「ヘリオガバルス」とは元来 がんらい エメサ土着 どちゃく の太陽 たいよう 神 しん であった[ 3] 。彼 かれ は長 なが じて太陽 たいよう 神 しん ヘリオガバルス(エル・ガバル)の司祭 しさい を務 つと め、のちに、その名 な をそのまま自分 じぶん の通称 つうしょう とした[ 3] 。やがて皇帝 こうてい となるヘリオガバルスは美貌 びぼう に恵 めぐ まれていて、生 う まれが違 ちが えばローマ随一 ずいいち の美少女 びしょうじょ と言 い わしめる程 ほど 、とても美 うつく しい容姿 ようし だった。また、彼 かれ はとても美声 びせい で、歌 うた も上手 うま く、彼 かれ の歌 うた を聞 き いた市民 しみん が涙 なみだ する程 ほど であったと伝 つた えられている[ 13] 。又 また 、皇帝 こうてい になる前 まえ から、俗 ぞく に言 い う貧民 ひんみん 街 がい に出入 でい りしていたとされている。
残虐 ざんぎゃく な性格 せいかく で浪費 ろうひ 家 か として知 し られていたカラカラ帝 みかど は共同 きょうどう 統治 とうち 者 しゃ で弟 おとうと のゲタ 帝 みかど と、その一派 いっぱ 2万 まん 人 にん 以上 いじょう を殺害 さつがい するなどの暴政 ぼうせい によって元老 げんろう 院 いん からの信望 しんぼう を失 うしな い、217年 ねん 4月 がつ 8日 にち 、メソポタミア のハッラーン で暗殺 あんさつ された[ 3] [ 8] 。カラカラには子 こ どもがなく、新 あたら しい皇帝 こうてい にはクーデター の首謀 しゅぼう 者 しゃ であった近衛 このえ 隊 たい 隊長 たいちょう のマルクス・オペッリウス・マクリヌス が即位 そくい した[ 3] 。
即位 そくい したマクリヌス帝 みかど は、北 きた アフリカ のマウレタニア の出身 しゅっしん で、騎士 きし 身分 みぶん で初 はじ めて皇帝 こうてい 位 い に就 つ いた人物 じんぶつ であったが、セウェルス一族 いちぞく を宮殿 きゅうでん から一掃 いっそう することで、セウェルス朝 あさ 復活 ふっかつ の目論見 もくろみ を防 ふせ ごうとした[ 11] [ 13] 。それに対 たい し、中東 ちゅうとう の属 ぞく 州 しゅう シリアに幽閉 ゆうへい されたセウェルス一族 いちぞく のうち、カラカラ帝 みかど の伯母 おば ユリア・マエサ は自 みずか らの孫 まご であるヘリオガバルスを帝位 ていい に就 つ ける陰謀 いんぼう をめぐらした[ 11] 。マクリヌス帝 みかど は、その子息 しそく ディアドゥメニアヌス と共同 きょうどう で統治 とうち したが、東方 とうほう の大国 たいこく パルティア に敗 やぶ れて屈辱 くつじょく 的 てき な講和 こうわ を結 むす んだため、軍隊 ぐんたい からの信頼 しんらい を失 うしな っていた[ 13] 。
14歳 さい であったウァリウス・アウィトゥス(ヘリオガバルス)は既 すで に先帝 せんてい カラカラとは女系 じょけい を通 つう じて親族 しんぞく であったが、未亡人 みぼうじん となっていた少年 しょうねん の母 はは ソエミアスは、帝位 ていい 継承 けいしょう をより正当 せいとう 化 か しようと、自 みずか ら従弟 じゅうてい カラカラの妾 わらわ だったと公言 こうげん 、ヘリオガバルスは先帝 せんてい と密通 みっつう して生 う まれたカラカラの落胤 らくいん であると主張 しゅちょう した[ 3] [ 6] [ 11] 。これは、ヘリオガバルスの祖母 そぼ にあたる母 はは ユリア・マエサの意向 いこう を受 う けたもので、マエサは自分 じぶん の娘 むすめ を姦婦 かんぷ にしてでも孫 まご を帝位 ていい に就 つ かせたかったのである[ 3] [ 注釈 ちゅうしゃく 3] 。マエサは、軍人 ぐんじん に人気 にんき のあったカラカラ帝 みかど の威光 いこう を利用 りよう する作戦 さくせん を採 と り、つづいてセウェルス家 か の富 とみ を駆使 くし して第 だい 3軍団 ぐんだん 「ガッリカ 」の兵士 へいし や将軍 しょうぐん を買収 ばいしゅう して自 じ 陣営 じんえい の戦力 せんりょく を調達 ちょうたつ した。
218年 ねん 5月16日 にち の夜 よる 、少年 しょうねん の一 いち 行 ぎょう はエメサに駐屯 ちゅうとん するローマの軍団 ぐんだん に潜入 せんにゅう した[ 3] 。それに対 たい し、軍団 ぐんだん 指揮 しき 官 かん のヴァレリウス・エウティキアヌス (英語 えいご 版 ばん ) はウァリウス・アウィトゥス少年 しょうねん への忠誠 ちゅうせい を正式 せいしき に宣言 せんげん した[ 14] 。挙兵 きょへい に際 さい して、ヘリオガバルス少年 しょうねん は「ウァリウス・アウィトゥス・バッシアヌス」という従来 じゅうらい の名 な を、カラカラの本名 ほんみょう になぞらえて「マルクス・アウレリウス・アントニヌス」と改名 かいめい した[ 15] 。
ヘリオガバルスの反乱 はんらん を知 し ったマクリヌス帝 みかど は直 ただ ちに遠征 えんせい 軍 ぐん を派遣 はけん したが、そのなかで軍団 ぐんだん 兵 へい による内乱 ないらん が発生 はっせい した。指揮 しき 官 かん は暗殺 あんさつ され、兵士 へいし たちは指揮 しき 官 かん の首 くび をローマに送 おく り返 かえ すと、ヘリオガバルスの軍勢 ぐんぜい に合流 ごうりゅう した[ 16] 。オリエント 諸 しょ 州 しゅう の兵 へい たちは、ヘリオガバルスを支持 しじ したのである[ 13] 。
軍 ぐん の反乱 はんらん を前 まえ にマクリヌス帝 みかど はヘリオガバルスを「偽 にせ のアントニヌス」と痛罵 つうば し、反乱 はんらん は発狂 はっきょう した神官 しんかん による暴挙 ぼうきょ であると記 しる した手紙 てがみ をローマの元老 げんろう 院 いん に書 か き送 おく った[ 17] 。元老 げんろう 院 いん はマクリヌス帝 みかど のい分 いぶん を認 みと めて、軍 ぐん の意向 いこう とは異 こと なり、ヘリオガバルスを僭称 せんしょう 帝 みかど とする決議 けつぎ を可決 かけつ した[ 18] 。
元老 げんろう 院 いん の支持 しじ を得 え たマクリヌス帝 みかど は自 みずか ら軍 ぐん を率 ひき いて親 しん 征 せい を開始 かいし したが、マエサに買収 ばいしゅう された第 だい 2軍団 ぐんだん 「パルティカ 」の裏切 うらぎ りによってアンティオキアの戦 たたか い (英語 えいご 版 ばん ) において敗北 はいぼく した[ 16] 。マクリヌスは命 いのち からがら戦場 せんじょう から脱 だっ してイタリア本土 ほんど へ戻 もど ろうとしたが、カッパドキア で捕 と らえられ、斬首 ざんしゅ の刑 けい に処 しょ せられた[ 3] [ 16] 。同 おな じく捕 と らえられたマクリヌス帝 みかど の子 こ ディドゥメニアヌスも処刑 しょけい された[ 16] 。
アンティオキアでの勝利 しょうり をもとに、ヘリオガバルスは元老 げんろう 院 いん の許可 きょか なしに皇帝 こうてい 即位 そくい を宣言 せんげん した[ 19] 。これは完全 かんぜん に、ローマ法 ほう の定 さだ める秩序 ちつじょ に違反 いはん した行為 こうい であったが、3世紀 せいき に即位 そくい したローマ皇帝 こうてい にはしばしばみられた行為 こうい ではあった。また同時 どうじ に、ヘリオガバルスはマクリヌス帝 みかど の治世 ちせい を批判 ひはん し、行為 こうい を正当 せいとう 化 か する手紙 てがみ を送 おく っている[ 20] [ 注釈 ちゅうしゃく 4] 。
結局 けっきょく のところ元老 げんろう 院 いん は、218年 ねん の6月 がつ 、既成 きせい 事実 じじつ を追認 ついにん するかたちでヘリオガバルスの帝位 ていい を認 みと め、また、彼 かれ がカラカラ帝 みかど の実子 じっし であることを承認 しょうにん した[ 22] 。同時 どうじ に暴君 ぼうくん とその母 はは として忌避 きひ されていたカラカラとユリア・ドムナを神 かみ として祭 まつ るという要求 ようきゅう も承諾 しょうだく し[ 23] 、逆 ぎゃく にマクリヌス帝 みかど が「名誉 めいよ の抹殺 まっさつ 」(ダムナティオ・メモリアエ)に処 しょ されることになった[ 19] 。また、新 あたら しい近衛 このえ 隊長 たいちょう には反乱 はんらん の立役者 たてやくしゃ ヴァレリウス・エウティキアヌス (英語 えいご 版 ばん ) が任命 にんめい された[ 24] 。
ヘリオガバルス帝 みかど が描 えが かれたデナリウス 銀貨 ぎんか
218年 ねん の冬 ふゆ 、ヘリオガバルス帝 みかど と重臣 じゅうしん たちは小 しょう アジア のニコメディア(現 げん トルコ共和 きょうわ 国 こく ・イズミット )で過 す ごしていたが[ 22] 、同 どう 時代 じだい を生 い きた歴史 れきし 家 か カッシウス・ディオ は、この皇帝 こうてい が特別 とくべつ な人物 じんぶつ であることは既 すで に明 あき らかになっていた事 こと を書 しょ に記 しる している。皇帝 こうてい ヘリオガバルスは、皇帝 こうてい として「辛 つら い事 こと にも耐 た え、男 おとこ として強 つよ くあるように」と説教 せっきょう をした家庭 かてい 教師 きょうし に強 つよ く反発 はんぱつ し、トラブルになって殺 あや めてしまったと伝 つた えられている。皇帝 こうてい を男 おとこ らしく育 そだ てようとした家庭 かてい 教師 きょうし の教育 きょういく に、女心 おんなごころ を持 も つヘリオガバルスは耐 た えられなかったという見方 みかた がある。しかし当事 とうじ の社会 しゃかい 的 てき な背景 はいけい からして珍 めずら しくはないが、この家庭 かてい 教師 きょうし は男 おとこ 尊 みこと 主義 しゅぎ 的 てき な側面 そくめん が強 つよ く、ヘリオガバルスが慕 した っていた家政 かせい 婦 ふ の少女 しょうじょ に対 たい し、暴力 ぼうりょく や横暴 おうぼう な振 ふ る舞 ま い行 おこな うなど、ヘリオガバルスの価値 かち 観 かん や美徳 びとく から大 おお きく逸脱 いつだつ した態度 たいど を取 と っていた為 ため 、必 かなら ずしもヘリオガバルスの行為 こうい を絶対 ぜったい 的 てき な悪 あく として位置付 いちづ けられない様 よう な記述 きじゅつ も残 のこ っている。実際 じっさい にこの行為 こうい に対 たい して周囲 しゅうい の反応 はんのう は一元 いちげん にとても悪 わる かったとは言 い えない様 よう で、母 おも や一部 いちぶ の側近 そっきん はヘリオガバルスの行為 こうい を庇 かば った。この時 とき 助 たす けた家政 かせい 婦 ふ の少女 しょうじょ はヘリオガルスと同 おな い年 どし で、生涯 しょうがい ヘリオガバルスを裏切 うらぎ らず、ヘリオガバルスと共 とも に処刑 しょけい された女性 じょせい であったとされている。更 さら に、幼少 ようしょう 期 き からローマの未来 みらい や世界 せかい の未来 みらい を記 しる した予言 よげん 書 しょ の様 よう なものを書 か いていたり(後 ご の世 よ で一部 いちぶ 的中 てきちゅう して話題 わだい になった)、当時 とうじ としては珍 めずら しい自 じ 傷 きず 行為 こうい を行 おこな うなど、周囲 しゅうい から異常 いじょう な存在 そんざい として見 み られていたとされる[ 25] 。ヘリオガバルスが残 のこ した予言 よげん に関連 かんれん する書物 しょもつ が近年 きんねん まで禁書 きんしょ とされていた事 こと も近 きん 現代 げんだい で再 さい 注目 ちゅうもく される事 こと となった大 おお きな要因 よういん でもある。同 どう 時期 じき にユリア・マエサ は神官 しんかん にして皇帝 こうてい という人物 じんぶつ を元老 げんろう 院 いん が受 う け入 い れるように、女神 めがみ 官 かん のローブを身 み にまとったヘリオガバルス帝 みかど の肖像 しょうぞう をウィクトーリア 女神 めがみ 像 ぞう の前 まえ に掲 かか げさせた[ 22] 。元老 げんろう 院 いん の議員 ぎいん は議事堂 ぎじどう のウィクトーリア女神 めがみ 像 ぞう に捧 ささ げ物 ぶつ をする習慣 しゅうかん があったので、女性 じょせい の神官 しんかん 姿 すがた のヘリオガバルス帝 みかど に捧 ささ げ物 ぶつ をするかたちになった。これに元老 げんろう 院 いん の議員 ぎいん 達 たち は憤怒 ふんぬ したが、ヘリオガバルスは意 い に介 かい さなかった
このようなヘリオガバルス帝 みかど の行動 こうどう からか、後 こう 盾 たて であった反 はん マクリヌス派 は の軍勢 ぐんぜい はヘリオガバルスを推挙 すいきょ したことを後悔 こうかい し始 はじ め[ 26] 、ゲッリウス・マキムス (英語 えいご 版 ばん ) 将軍 しょうぐん に率 ひき いられた第 だい 4軍団 ぐんだん 「スキュティカ 」、および元老 げんろう 院 いん 議員 ぎいん のウェルスに扇動 せんどう された第 だい 3軍団 ぐんだん 「ガッリカ 」(彼 かれ ヘリオガバルスの皇帝 こうてい 就任 しゅうにん に助力 じょりょく した)の兵士 へいし がヘリオガバルス帝 みかど を裏切 うらぎ り、ニコメディアからローマに向 む かうヘリオガバルス帝 みかど を襲撃 しゅうげき する事件 じけん が起 お こっているが、この時 とき まだヘリオガバルス帝 みかど は14歳 さい であった[ 27] 。しかし、反乱 はんらん 軍 ぐん は足並 あしな みが揃 そろ わずに自壊 じかい し、「ガッリカ」は消滅 しょうめつ した[ 28] 。
皇帝 こうてい の一族 いちぞく はシリアからローマをめざしたが、アンティオキアやニコメディアに長期間 ちょうきかん 逗留 とうりゅう し、上述 じょうじゅつ のように途中 とちゅう で反乱 はんらん があり、また、天 てん から降 ふ ってきた(隕石 いんせき )と信 しん じられていた、底 そこ が平 たい らで先 さき の尖 とが った円錐 えんすい 形 かたち の形状 けいじょう をもつ巨大 きょだい な「黒 くろ い石 いし 」を御 ご 神体 しんたい としてエメサの神殿 しんでん から運 はこ び出 だ したため、一 いち 行 ぎょう のローマ到着 とうちゃく は遅 おく れに遅 おく れ、219年 ねん の初秋 しょしゅう 、ようやくローマに到着 とうちゃく した[ 3] 。ローマ入城 にゅうじょう の際 さい 、人 ひと びとは新 しん 皇帝 こうてい の出 い で立 た ちをみて驚愕 きょうがく した。少年 しょうねん 皇帝 こうてい は、地面 じめん に届 とど きそうな長袖 ながそで を支 ささ える紫色 むらさきいろ の地 ち に錦糸 きんし をあしらった司祭 しさい 服 ふく を着用 ちゃくよう し、ネックレス や腕輪 うでわ など豪奢 ごうしゃ な装身具 そうしんぐ をほどこし、頭上 ずじょう に宝石 ほうせき を散 ち りばめた帝 みかど 冠 かんむり をいただいたうえで着飾 きかざ った美 うつく しい女性 じょせい の姿 すがた をしていたからである。このヘリオガバルスの姿 すがた を当時 とうじ の歴史 れきし 家 か は、まるで絶世 ぜっせい の美少女 びしょうじょ であったと証言 しょうげん している。この時 とき ヘリオガバルス帝 みかど は15歳 さい であった[ 3] 。
エウティキアヌス (英語 えいご 版 ばん ) やマエサとともにローマへ入城 にゅうじょう したヘリオガバルス帝 みかど は、腹心 ふくしん たちを要職 ようしょく に就 つ けて体制 たいせい を固 かた めた[ 29] 。たとえば、エウティキアヌスは近衛 このえ 隊長 たいちょう に続 つづ いて3度 ど の執政 しっせい 官 かん 叙任 じょにん を受 う け、さらに属 ぞく 州 しゅう 総督 そうとく として2度 ど 派遣 はけん されている[ 24] 。皇帝 こうてい は自分 じぶん にお気 き に入 い りを次々 つぎつぎ に要職 ようしょく に着 つ かせた。例 たと えば恋心 こいごころ を寄 よ せていた男性 だんせい の愛人 あいじん であった奴隷 どれい のヒエロクレス を共同 きょうどう 皇帝 こうてい にしようとしたり[ 30] 、別 べつ のお気 き に入 い りの愛人 あいじん である戦車 せんしゃ 競技 きょうぎ の選手 せんしゅ ゾティクスを皇帝 こうてい の執事 しつじ 長 ちょう に任命 にんめい している[ 31] 。皇帝 こうてい の好 この みの男性 だんせい や急進 きゅうしん 的 てき な皇帝 こうてい の価値 かち に迎合 げいごう する人物 じんぶつ 、そして女性 じょせい を登用 とうよう し、反対 はんたい に皇帝 こうてい を否定 ひてい する者 もの 達 たち を遠 とお ざけ、粛清 しゅくせい した。更 さら に、貧 まず しい身分 みぶん 出身 しゅっしん である女性 じょせい や家政 かせい 婦 ふ であった少女 しょうじょ を突然 とつぜん 要職 ようしょく に登用 とうよう するなどして、周囲 しゅうい を混乱 こんらん させた。ヘリオガバルスが自身 じしん に従 したが う女性 じょせい を中心 ちゅうしん として茶会 ちゃかい を開 ひら き、その茶会 ちゃかい で自身 じしん や側近 そっきん の嫌 きら う男性 だんせい を拷問 ごうもん していたとされる逸話 いつわ も有名 ゆうめい である。
財政 ざいせい 面 めん では、カラカラがそうしたように銀 ぎん の含有 がんゆう 量 りょう を減 へ らしてデナリウス銀貨 ぎんか の切 き り下 さ げを行 おこな うが、一方 いっぽう でカラカラ帝 みかど が創始 そうし したアントニニアヌス銀貨 ぎんか は廃止 はいし した。財政 ざいせい 的 てき な政策 せいさく に於 お いては、合理 ごうり 主義 しゅぎ 的 てき なスタンスをとった。富裕 ふゆう 層 そう に対 たい する増税 ぞうぜい も行 おこな っていた。今 いま でこそ格差 かくさ の是正 ぜせい は妥当 だとう な施策 しさく として行 おこな われているが、この時代 じだい では珍 めずら しい施策 しさく であった。[ 32] 。
ヘリオガバルス帝 みかど の初期 しょき の治世 ちせい では外交 がいこう 、軍事 ぐんじ において、祖母 そぼ ユリア・マエサ と母 はは ユリア・ソエミアス (英語 えいご 版 ばん ) が執政 しっせい 権 けん を握 にぎ っていたと考 かんが えられている[ 33] 。ヘリオガバルスはローマ史上 しじょう 初 はじ めて母 はは と祖母 そぼ を含 ふく む女性 じょせい 議員 ぎいん を任命 にんめい し、ソエミアスは「クラリッシマ」(wiktionary:clarissima )、マエサは「元老 げんろう 院 いん の女神 めがみ 」(Mater Castrorum et Senatus )をそれぞれ授与 じゅよ した。[ 23] 。一部 いちぶ の実権 じっけん を掌握 しょうあく し、まるで女帝 にょてい のような振 ふ る舞 ま いをみせる祖母 そぼ と母 はは に対 たい してヘリオガバルス帝 みかど は自分 じぶん の意見 いけん を表明 ひょうめい できない、ただの傀儡 かいらい だと思 おも われていた。少年 しょうねん 皇帝 こうてい は、祖母 そぼ と母 はは の強 つよ い影響 えいきょう 下 か で育 そだ ち、政治 せいじ 的 てき な能力 のうりょく を培 つちか っていないと目 め されていた。皇帝 こうてい が更 さら に独自 どくじ の政策 せいさく を推 お し進 すす めるのはこれから少 すこ したった頃 ころ である[ 13] 。
2度目 どめ の妻 つま として迎 むか えられ、のちに再度 さいど 結婚 けっこん することになる「ウェスタの処女 しょじょ 」アクウィリア・セウェラ 。后妃 こうひ としてデナリウスに描 えが かれている。
皇帝 こうてい が最初 さいしょ に結婚 けっこん した相手 あいて はユリア・コルネリア・パウラ (英語 えいご 版 ばん ) という女性 じょせい であり、220年 ねん に豪奢 ごうしゃ な結婚式 けっこんしき が挙行 きょこう されている[ 3] 。このときヘリオガバルスは、ローマ市民 しみん や兵士 へいし に対 たい しても御 ご 祝儀 しゅうぎ を大盤振 おおばんぶ る舞 ま いしたといわれる。コルネリア・パウラは、同 おな じシリアに領地 りょうち を持 も つ有力 ゆうりょく 貴族 きぞく の娘 むすめ であったことから、皇帝 こうてい 即位 そくい 時 じ に周囲 しゅうい が決 き めた政略 せいりゃく 結婚 けっこん であったと考 かんが えられている[ 34] 。彼女 かのじょ はアウグスタ (皇后 こうごう )の称号 しょうごう を得 え たものの、この結婚 けっこん 生活 せいかつ は長 なが く続 つづ かず、その年 とし のうちに2人 ふたり は離婚 りこん した。パウラが皇帝 こうてい の異常 いじょう なまでに強 つよ い求愛 きゅうあい に応 こた えられないというのが離婚 りこん の理由 りゆう であったという説 せつ が主流 しゅりゅう な一方 いっぽう で、皇帝 こうてい は妻 つま に対 たい し、横柄 おうへい な態度 たいど を取 と らず、友人 ゆうじん の様 よう な目線 めせん 、若 も しくは現代 げんだい 的 てき な恋人 こいびと の様 よう に扱 あつか っていたとも言 い われている。ヘリオガバルスがユリア・コルネリア・パウラ (英語 えいご 版 ばん ) と護衛 ごえい を連 つ れずに街 まち 中 ちゅう に出 で かけ、商人 しょうにん 達 たち と交流 こうりゅう し、共 とも に踊 おど りを踊 おど っていたとされる記述 きじゅつ もある。[ 3] 。
皇帝 こうてい はパウラと離婚 りこん すると、220年 ねん 末 まつ に「ウェスタの処女 しょじょ 」たる巫女 ふじょ のアクウィリア・セウェラ (英語 えいご 版 ばん ) と再婚 さいこん した[ 34] 。竈 かまど (かまど)の神 かみ ウェスタ に仕 つか える巫女 ふじょ は共同 きょうどう 生活 せいかつ を送 おく り、聖 せい なる火 ひ を絶 た やさぬことを務 つと めとしていた[ 3] [ 35] 。幼少 ようしょう 時 じ に神職 しんしょく に召 め された巫女 ふじょ たちは「神 かみ 々に身 み を捧 ささ げる」という意味 いみ から、その身 み を清 きよ らかに保 たも つため、処女 しょじょ を貫 つらぬ くことが求 もと められ、その禁忌 きんき を破 やぶ った場合 ばあい には生 い きたまま穴埋 あなう めされるという恐 おそ ろしい掟 おきて があった[ 35] 。その他 た にも当時 とうじ の巫女 ふじょ は保守 ほしゅ 的 てき な制約 せいやく を受 う け、病気 びょうき になっても一部 いちぶ の治療 ちりょう が受 う けられなかったり、痛 いた みや苦 くる しみを伴 ともな う伝統 でんとう 的 てき な儀式 ぎしき への参加 さんか が強制 きょうせい された。そして巫女 ふじょ とは全員 ぜんいん が本人 ほんにん の志願 しがん でなるものではなく、本人 ほんにん の意思 いし と反 はん して厳 きび しい制約 せいやく のある生活 せいかつ を送 おく らされていたものもいた。ヘリオガバルスは巫女 ふじょ の境遇 きょうぐう を哀 あわ れみ、周囲 しゅうい に「自分 じぶん と結 むす ばれれば、きっと神 かみ のように美 うつく しい子 こ どもが授 さず かる」と論 ろん じ、禁忌 きんき を破 やぶ ってでも結婚 けっこん したと伝 つた えられている。政略 せいりゃく 結婚 けっこん を除 のぞ けば、アクウィリア・セウェラが最初 さいしょ で最後 さいご の自 みずか ら選 えら んで結婚 けっこん した女性 じょせい だった。結局 けっきょく ヘリオガバルスは巫女 ふじょ と子 こ は作 つく らず、早々 そうそう に離婚 りこん をした。この事 こと について伝統 でんとう を踏 ふ みにじる行為 こうい であると皇帝 こうてい を非難 ひなん する記述 きじゅつ が多 おお いが、巫女 ふじょ が皇帝 こうてい の元 もと 妻 つま として、その後 ご に不自由 ふじゆう が無 な く、当時 とうじ としては良 よ い生活 せいかつ を送 おく った事 こと もまた事実 じじつ である。[ 3] 。
禁断 きんだん の結婚 けっこん に対 たい する周囲 しゅうい の批判 ひはん からほどなく、結婚 けっこん 半年 はんとし でアクウィリアとの婚姻 こんいん は解消 かいしょう された。理由 りゆう は諸説 しょせつ あるが、ヘリオガバルスが古 ふる いしきたりに縛 しば られるアクウィリア・セウェラを哀 あわ れみ、彼女 かのじょ を救済 きゅうさい する目的 もくてき で一時 いちじ 的 てき に結婚 けっこん していたとされる説 せつ や、巫女 ふじょ の置 お かれている環境 かんきょう を一新 いっしん する口実 こうじつ 、或 ある いはその後 ご に推 お し進 すす めたヘリオガバルスの女性 じょせい 解放 かいほう 政策 せいさく の始 はじ まりであったとされる説 せつ がある。又 また 、ヘリオガバルスが実際 じっさい に巫女 ふじょ を手篭 てご めにした(強姦 ごうかん した)とされる歴史 れきし 書 しょ の記述 きじゅつ は根拠 こんきょ が乏 とぼ しく、強引 ごういん に結婚 けっこん した事 こと を批判 ひはん する為 ため に着色 ちゃくしょく して記述 きじゅつ されている可能 かのう 性 せい が指摘 してき されている。そしてヘリオガバルスが221年 ねん 7月 がつ に3度目 どめ の妻 つま として迎 むか えたのは美貌 びぼう で知 し られたアンニア・アウレリア・ファウスティナ (英語 えいご 版 ばん ) であった[ 34] 。彼女 かのじょ は、五 ご 賢 けん 帝 みかど のひとりで哲人 てつじん 皇帝 こうてい として知 し られたマルクス・アウレリウス の曾孫 そうそん で、その子 こ であり暴君 ぼうくん として暗殺 あんさつ されたコンモドゥス 帝 みかど の大 だい 姪 めい であった。これはセウェルス朝 あさ の前 ぜん 王家 おうけ にあたるネルウァ=アントニヌス朝 あさ との連続 れんぞく 性 せい を主張 しゅちょう する政治 せいじ 的 てき 意図 いと があった政略 せいりゃく 結婚 けっこん とみられる。この結婚 けっこん もうまくいかず、221年 ねん 中 ちゅう には離婚 りこん し、結局 けっきょく ヘリオガバルスはアクウィリアとよりを戻 もど して4度目 どめ の結婚 けっこん を果 は たした。その後 ご 、ヘリオガバルスは男性 だんせい との結婚 けっこん を強 つよ く望 のぞ む様 よう になる。
アウレリウス金貨 きんか に描 えが かれたヘリオガバルス帝 みかど 。裏面 りめん にはヘロディアヌスが伝 つた えるようにエル・ガバルの化身 けしん とされた黒石 くろいし が戦車 せんしゃ に乗 の せられてパレードを行 おこな っている様子 ようす が描 えが かれている。
セプティミウス・セウェルス 帝 みかど のとき、ロ ろ ーマ帝国 まていこく のなかでは太陽 たいよう 神 しん 信仰 しんこう が流行 りゅうこう する傾向 けいこう にあり[ 36] 、皇帝 こうてい 自身 じしん 、先 さき に述 の べたように太陽 たいよう 神 しん 信仰 しんこう の一 ひと つであるエル・ガバル を奉 ほう じる神官 しんかん であった。シリアはもともと母系 ぼけい 制 せい の社会 しゃかい であったが、女性 じょせい は太陽 たいよう 神 しん の祭司 さいし にはなれないことになっていた。多神教 たしんきょう の社会 しゃかい であったローマでは宗教 しゅうきょう に寛容 かんよう であり、領域 りょういき 拡大 かくだい にともない各地 かくち の土着 どちゃく 神 しん を受 う け入 い れていた。古 ふる くからローマでは太陽 たいよう 神 しん としてソール が知 し られ、しばしばローマ神話 しんわ にも登場 とうじょう しており、また、ペルシャ の太陽 たいよう 神 しん ミトラス を奉 ほう ずる密儀 みつぎ 宗教 しゅうきょう のミトラ教 きょう も信 しん じられていた。ただ、偶然 ぐうぜん なのか必然 ひつぜん なのか、ミトラ教 きょう が女人 にょにん 禁制 きんせい であるのに対 たい し、エル・ガバルは両性 りょうせい 具有 ぐゆう (両性 りょうせい )の神性 しんせい を有 ゆう していた。
ヘリオガバルス帝 みかど はローマでのこうした太陽 たいよう 神 しん 信仰 しんこう の流行 りゅうこう を好機 こうき ととらえ、シリアの太陽 たいよう 神 かみ エル・ガバルを古代 こだい ローマ の多神教 たしんきょう における最高 さいこう 神 しん に位置 いち づけるべく「デウス・ソル・インウィクトゥス 」と尊称 そんしょう させ、天空 てんくう 神 しん ユピテル をも従 したが える存在 そんざい とした[ 37] 。さらに、ユピテルに従 したが うとされていたカピトリヌスの三 さん 女神 めがみ をエル・ガバルの妻 つま と位置 いち づけ、その権威 けんい を高 たか めようとした[ 34] 。ここにローマは、かつてのポエニ戦争 せんそう 以来 いらい 敵対 てきたい してきたセム 系 けい の神 かみ 、神官 しんかん およびそれを操 あやつ る女性 じょせい たちの支配 しはい を受 う けることとなった[ 13] 。ヘリオガバルスは、ローマ皇帝 こうてい の正式 せいしき の称号 しょうごう に「常勝 じょうしょう 太陽 たいよう 神 かみ エル・ガバルの大 だい 神官 しんかん 」を追加 ついか した[ 13] 。
さらに、ヘリオガバルス帝 みかど は上述 じょうじゅつ したように処女 しょじょ を保 たも つ戒律 かいりつ を持 も っていた巫女 ふじょ アクウィリア・セウェラとの結婚 けっこん を周囲 しゅうい に認 みと めさせ、神官 しんかん 同士 どうし の交 まじ わりによって「神 かみ の子 こ 」が生 う まれると説 と き、それをきっかけに巫女 ふじょ に対 たい する数 すう 多 おお くのしきたりや風習 ふうしゅう を一新 いっしん させた。[ 13] [ 38] 。本来 ほんらい であれば「ウェスタの処女 しょじょ 」を辱 はずかし めた者 もの は殺 ころ され、この禁忌 きんき を破 やぶ った巫女 ふじょ もまた神 かみ の罰 ばち を避 さ けるために生 い きたまま土 ど に埋 う められると決 き められていたが、皇帝 こうてい の行為 こうい はローマにおける宗教 しゅうきょう 的 てき 慣例 かんれい を一掃 いっそう した挙行 きょこう であり、それを皮切 かわき りに巫女 ふじょ に対 たい する待遇 たいぐう を向上 こうじょう させる法制 ほうせい を行 おこな った。上記 じょうき のように女神 めがみ や女神 めがみ 官 かん を仰 あお ぎ、巫女 ふじょ に対 たい する厳 きび しい敷 じ きたりを廃止 はいし するなど、当時 とうじ としては珍 めずら しく、ヘリオガバルスは女性 じょせい に対 たい する尊敬 そんけい や憧 あこが れ、そして比較的 ひかくてき 女性 じょせい に対 たい して寛容 かんよう 、友好 ゆうこう 的 てき な態度 たいど を取 と っていた[ 35] [ 39] [ 注釈 ちゅうしゃく 5] 。
独自 どくじ の宗教 しゅうきょう 政策 せいさく の果 は てに、ヘリオガバルス帝 みかど は「ヘリオガバリウム 」と呼 よ ばれる巨大 きょだい なエル・ガバル神 しん の宮殿 きゅうでん をローマのパラティーノの丘 おか (パラティヌスの丘 おか )に建設 けんせつ させ、故郷 こきょう エメサから持 も ち込 こ んだ黒 くろ い隕石 いんせき を神 かみ 具 ぐ として崇拝 すうはい させ、毎朝 まいあさ 、牛 うし や羊 ひつじ が生 い け贄 にえ として捧 ささ げられた[ 22] 。一方 いっぽう で当事 とうじ は食用 しょくよう であった野兎 やと や、害虫 がいちゅう 駆除 くじょ に使 つか われていた猫 ねこ などをペットとして愛玩 あいがん していた。歴史 れきし 家 か ヘロディアヌス によれば「黒石 くろいし は神 かみ 界 かい からの賜 たまわ り物 もの のごとく崇拝 すうはい が行 おこな われた」とされ、表面 ひょうめん の文様 もんよう が太陽 たいよう 神 かみ エル・ガバルの姿 すがた を描 えが いていると信 しん じられていた[ 11] 。新 あら たな崇拝 すうはい 対象 たいしょう への信仰 しんこう 心 しん を示 しめ すため、ヘリオガバルス帝 みかど 自身 じしん も割礼 かつれい を行 おこな った。そしてまた女性 じょせい の格好 かっこう をして[ 37] 、元老 げんろう 院 いん 議員 ぎいん に対 たい し、みずから踊 おど り子 こ として祭壇 さいだん の前 まえ で舞 ま う姿 すがた を見 み せた[ 22] 。そしてヘリオガバルスの善行 ぜんこう として知 し られているのが、定期 ていき 的 てき に行 おこな われた市民 しみん に対 たい する食事 しょくじ の提供 ていきょう だ。ヘリオガバルスは神 かみ からの賜 たまわ りと称 しょう し、老若男女 ろうにゃくなんにょ 貧富 ひんぷ 関 かか わらず、食事 しょくじ を振 ふ る舞 ま った。ローマの民衆 みんしゅう は、神殿 しんでん で皇帝 こうてい からとして配 くば られる食事 しょくじ を目当 めあ てに神殿 しんでん の祝祭 しゅくさい に殺到 さっとう したと伝 つた えられる[ 34] 。更 さら に貧 まず しい市民 しみん や、身分 みぶん の低 ひく い女性 じょせい と親 した しげに会話 かいわ し、時 とき には衣類 いるい や生活 せいかつ 用品 ようひん などを提供 ていきょう する事 こと もあった。公共 こうきょう の娯楽 ごらく 施設 しせつ の建設 けんせつ などにも力 ちから をいれていたとされる。これを皇帝 こうてい の気紛 きまぐ れと当時 とうじ の歴史 れきし 家 か に論評 ろんぴょう されているが、その論評 ろんぴょう には個人 こじん 的 てき な皇帝 こうてい に対 たい する嫌悪 けんお 感 かん が影響 えいきょう していたと言 い わざるをえず、近年 きんねん では、ヘリオガバルスにも善意 ぜんい や優 やさ しさがあった事 こと は明白 めいはく であるとする識者 しきしゃ も存在 そんざい する。現代 げんだい ではヘリオガバルスの貧困 ひんこん 層 そう への救済 きゅうさい は「早 はや すぎた社会 しゃかい 民主 みんしゅ 主義 しゅぎ 」と評 ひょう されており、ヘリオガバルスの蛮行 ばんこう とは別 べつ 軸 じく で再 さい 評価 ひょうか すべきという意見 いけん もある。そして、この祝祭 しゅくさい の仕上 しあ げに、「黒 くろ い石 いし 」が金 かね 細工 ざいく や宝石 ほうせき 類 るい で飾 かざ り付 つ けた馬 うま 引 び きの戦車 せんしゃ に載 の せられ、砂金 さきん の敷 し かれた道 みち を運 はこ ばれて街 まち 中 ちゅう を凱旋 がいせん したようすをヘロディアヌス は記録 きろく している。
6
頭 とう もの
巨大 きょだい な
白馬 はくば に
引 ひ かれた
二 に 輪 りん 戦車 せんしゃ は
金銀 きんぎん 細工 ざいく で
飾 かざ られる
絢爛 けんらん なものだったが、
異様 いよう にも
誰 だれ も
乗 の っておらず
無人 むじん で
走 はし らされていた。しかしその
周囲 しゅうい には
護衛 ごえい の
兵士 へいし が
併走 へいそう しており、ちょうど
無人 むじん の
豪華 ごうか なる
戦車 せんしゃ に「
神 かみ が
乗 の っている」
事 こと を
想定 そうてい しているようであった。ヘリオガバルス
帝 みかど は
戦車 せんしゃ の
前 まえ を
走 はし り、
神 かみ と
向 む き
合 あ って
馬 うま の
手綱 たづな を
握 にぎ り、
神 かみ を
見上 みあ げながらパレードを
続 つづ けた
[ 34] 。
ヘリオガバリウムの元 もと には帝国 ていこく 中 ちゅう から神 かみ 具 ぐ や神器 じんぎ が集 あつ まり、キュベレー 神殿 しんでん ・ウェスタ神殿 しんでん ・神官 しんかん 学校 がっこう などの宝物 ほうもつ 品 ひん や「トロイのパラディウム像 ぞう 」や「マルスの盾 たて (英語 えいご 版 ばん ) 」、「ウェスタの聖火 せいか 」などが持 も ち込 こ まれた。こうした事由 じゆう はヘリオガバリウムこそがロ ろ ーマ帝国 まていこく 唯一 ゆいいつ の聖地 せいち となるべきと考 かんが える事 こと からのものだった[ 41] 。
急進 きゅうしん 的 てき な政策 せいさく 以上 いじょう にヘリオガバルス帝 みかど を有名 ゆうめい にしたのは、当時 とうじ としては考 かんが えられない様 よう な極 きわ めて奔放 ほんぽう 的 てき な性 せい 生活 せいかつ に関 かん する逸話 いつわ である。そもそもヘリオガバルスは、正式 せいしき な結婚 けっこん 生活 せいかつ すら4回 かい の離婚 りこん と5回 かい の「結婚 けっこん 」を繰 く り返 かえ しているのである[ 38] 。
「ウェスタの処女 しょじょ 」セウェラとよりを戻 もど し、4度目 どめ の結婚 けっこん をした皇帝 こうてい であったが、その年 とし のうちにまたも離婚 りこん した[ 38] 。今度 こんど は、小 しょう アジア出身 しゅっしん のカリア 人 ひと 奴隷 どれい で、男性 だんせい であるヒエロクレスの「妻 つま 」となることを宣言 せんげん [ 30] [ 42] 。これが、5度目 どめ の「結婚 けっこん 」であった。さらに『ローマ皇帝 こうてい 群 ぐん 像 ぞう 』によれば同 おな じく男性 だんせい の愛人 あいじん である戦車 せんしゃ 選手 せんしゅ ゾティクスとも結婚 けっこん したと伝 つた えられている[ 43] 。
…
皇帝 こうてい は、
自 みずか らは
女性 じょせい であると
宣言 せんげん し、
貧民 ひんみん 出身 しゅっしん の
女性 じょせい の
従者 じゅうしゃ を
連 つ れて
公共 こうきょう 浴場 よくじょう へ
行 い っては
女 おんな 湯 ゆ に
入 はい って、
当然 とうぜん の
如 ごと く
女性 じょせい と
会話 かいわ をし、
一緒 いっしょ に
脱毛 だつもう を
施 ほどこ していたという。また、
怪 あや しげな
者 もの たちをベッドルームに
連 つ れ
込 こ んで
淫行 いんこう を
繰 く り
返 かえ した。
密偵 みってい を
放 はな ち、
力 ちから が
強 つよ く、
ペニス が
巨大 きょだい で
容姿 ようし の
整 ととの った
男性 だんせい を
探 さが させて
宮廷 きゅうてい に
連 つ れて
来 きた させ、
情事 じょうじ を
楽 たの しんだ。
皇帝 こうてい は
女性 じょせい として
振 ふ る
舞 ま いながら
全裸 ぜんら になり、
片手 かたて を
胸 むね に
片手 かたて を
陰部 いんぶ に
当 あ ててひざまずき、
哀 あわ れみを
誘 さそ うように
媚 こ びて
頬 ほお を
擦 なす り
付 つ け、
男性 だんせい に
向 む かって
尻 しり を
突 つ き
出 だ して
腰 こし を
前後 ぜんご 運動 うんどう させて
顔 かお を
赤 あか らめていたという。
皇帝 こうてい は
拘 かかわ りが
強 つよ く、
敢 あ えて
男色 なんしょく に
興味 きょうみ がなく、
女好 おんなず きな
男 おとこ を
探 さが し、
自分 じぶん を
女 おんな として
見 み てほしいと
涙 なみだ ぐみながら
懇願 こんがん し、
無理 むり やりではなく
自分 じぶん に
興味 きょうみ を
示 しめ した
男 おとこ にだけその
身 み を
捧 ささ げていた。また、
従者 じゅうしゃ の
女性 じょせい を
混 こん えて
乱行 らんぎょう し、
従者 じゅうしゃ の
女性 じょせい と
手 て を
繋 つな ぎながら
男 おとこ に
犯 おか された。
[ 42] 。
猟奇 りょうき 的 てき な逸話 いつわ としては、浮気 うわき をした自身 じしん ・友人 ゆうじん ・従者 じゅうしゃ の恋人 こいびと の男性 だんせい らに対 たい して、男性 だんせい 器 き を切 き り落 お として神殿 しんでん 内 ない で飼育 しいく している猛獣 もうじゅう にエサとして与 あた えたというものも伝 つた わっている。ヘリオガバルスは嫉妬 しっと 深 ふか いと同時 どうじ に、自身 じしん が認 みと めた女性 じょせい に対 たい する仲間 なかま 意識 いしき の強 つよ さが異常 いじょう だった事 こと が有名 ゆうめい である。ヘリオガバルスは恋人 こいびと の男性 だんせい だけでなく、女性 じょせい の従者 じゅうしゃ や友人 ゆうじん に対 たい しても強 つよ い愛情 あいじょう を抱 いだ き、側近 そっきん の女性 じょせい を罵 ののし った元老 げんろう 院 いん 議員 ぎいん を処刑 しょけい したとまで言 い われている。ヘリオガバルスは自身 じしん を同性 どうせい として接 せっ してくれる女性 じょせい に対 たい し、強 つよ い精神 せいしん 的 てき な依存 いぞん をしていたと考 かんが えられており、従者 じゅうしゃ の女性 じょせい に、愛人 あいじん を除 のぞ いた通常 つうじょう の男性 だんせい の従者 じゅうしゃ よりも極端 きょくたん に高額 こうがく な給与 きゅうよ を渡 わた したり、当時 とうじ 貴族 きぞく など選 えら ばれた人 ひと しか手 て に入 い れられない様 よう な非常 ひじょう に高価 こうか な化粧 けしょう 品 ひん や衣服 いふく を次々 つぎつぎ に与 あた えていた事 こと で、男性 だんせい の従者 じゅうしゃ は強 つよ い不満 ふまん を持 も っていたとされている。
そして『皇帝 こうてい 列伝 れつでん 』は、以下 いか のように伝 つた える。
…
皇帝 こうてい は
当時 とうじ では
珍 めずら しく、
自分 じぶん の
全身 ぜんしん を
女性 じょせい のように
脱毛 だつもう していた。
更 さら に
皇帝 こうてい は
自分 じぶん の
性器 せいき を
切 き り
落 お として
性別 せいべつ 適合 てきごう 手術 しゅじゅつ を
施 ほどこ そうと
考 かんが えていた。そうした
考 かんが えに
到 いた るのも
内面 ないめん (
心 しん )が
女性 じょせい だったからだ。
元老 げんろう 院 いん 議員 ぎいん として宮殿 きゅうでん に出入 でい りしていたカッシウス・ディオはヘリオガバルス帝 みかど の異質 いしつ な情事 じょうじ を記録 きろく し、女性 じょせい の姿 すがた で男性 だんせい と交 まじ わっていたと実際 じっさい にその現場 げんば を見 み たことを記録 きろく している。又 また 、晩年 ばんねん は娼婦 しょうふ の女性 じょせい と交流 こうりゅう していたとされる。カッシウスは、以下 いか のように伝 つた える。
…
皇帝 こうてい の
愛情 あいじょう 欲求 よっきゅう は
日 ひ に
日 ひ に
増 ま し、いつしか
酒場 さかば に
入 い り
浸 びた る
習慣 しゅうかん を
持 も つようになり、
一般 いっぱん 市民 しみん の
女性 じょせい と
酒 さけ を
酌 く み
交 か わしながら
寂 さび しそうに
涙 なみだ を
流 なが し、
人気 にんき の
高 たか い
売春 ばいしゅん 婦 ふ を
姉 あね と
慕 した って
教 おし えを
乞 こ い、
男 おとこ を
見 み つけるや
化粧 けしょう と
金髪 きんぱつ の
鬘 かずら をつけて
売春 ばいしゅん に
耽溺 たんでき した
[ 44] 。
[ 45] 、皇帝 こうてい が最終 さいしゅう 的 てき に帝国 ていこく の中枢 ちゅうすう である宮殿 きゅうでん に男 おとこ を呼 よ び込 こ んで売春 ばいしゅん 宿 やど にまでしていたと記録 きろく している。
…
遂 つい に
皇帝 こうてい は
宮殿 きゅうでん までも
自 みずか らの
情事 じょうじ の
現場 げんば とした。
宮殿 きゅうでん の
一室 いっしつ に
性行為 せいこうい 用 よう の
場所 ばしょ を
用意 ようい して、そこを
訪 おとず れる
男 おとこ に
売春 ばいしゅん 婦 ふ のようにその
身 み を
売 う った。ヘリオガバルスは
売春 ばいしゅん 婦 ふ がそうするように
女性 じょせい 用 よう の
下着 したぎ をつけて
部屋 へや の
前 まえ に
立 た ち、カーテンをつかんで
男 おとこ を
待 ま った。そして
男 おとこ が
通 とお りかかると
哀 あわ れみを
誘 さそ うような
柔 やわ らかい
声 こえ で
甘 あま えるのだった。
皇帝 こうてい の
容姿 ようし 、
言動 げんどう 、
性質 せいしつ はもはや
男性 だんせい とは
言 い い
難 がた いものであった。
[ 46] 。
ヘロディアヌスもこの噂 うわさ について言及 げんきゅう しており、ヘリオガバルス帝 みかど は顔 かお を化粧 けしょう することにより、こうした行為 こうい に相応 ふさわ しい美麗 びれい な容貌 ようぼう を持 も つようになっていたという[ 34] 。
皇帝 こうてい は全裸 ぜんら で廷臣 ていしん や警護 けいご 兵 へい を甘 あま い声 こえ で誘 さそ い、売春 ばいしゅん する一方 いっぽう 、金髪 きんぱつ の奴隷 どれい ヒエロクレスに対 たい しては「妻 つま 」として付 つ き従 したが い尽 つ くした[ 42] 。ヒエロクレスもヘリオガバルスを妻 つま と愛 あい していたが、ヘリオガバルスは他 た の男 おとこ とも関係 かんけい を持 も っていた[ 42] 。それを知 し ったヒエロクレスは「妻 つま 」である皇帝 こうてい の不貞 ふてい をなじり、罵倒 ばとう し、しばしば殴打 おうだ におよんだ[ 42] 。そして、ヘリオガバルスは旦那 だんな であるヒエロクレスが自身 じしん を妻 つま として愛 あい し、嫉妬 しっと し、束縛 そくばく している事 こと に喜 よろこ んだ。男性 だんせい の様 よう な凛々 りり しい容姿 ようし をした女性 じょせい の愛人 あいじん に犯 おか されて喜 よろこ ぶ事 こと もあった[ 42] 。また、性別 せいべつ 適合 てきごう 手術 しゅじゅつ を行 おこな える医師 いし を高 こう 報酬 ほうしゅう で募集 ぼしゅう していたともいわれている[ 31] 。このことからヘリオガバルス帝 みかど のセクシャリティについて、これを同性愛 どうせいあい や両 りょう 性愛 せいあい というより、トランスジェンダー の一種 いっしゅ として考 かんが える論者 ろんしゃ が多 おお い。[ 47] [ 48] 。皇帝 こうてい は何 なん 度 ど か自殺 じさつ 未遂 みすい を図 はか った事 こと もあったとされている。
度重 たびかさ なるヘリオガバルス帝 みかど の奇行 きこう に周囲 しゅうい は耐 た えかねており[ 30] 、近衛 このえ 隊 たい も皇帝 こうてい の異様 いよう な行動 こうどう に嫌悪 けんお 感 かん を感 かん じていた[ 29] 。加 くわ えて宮殿 きゅうでん 外 がい でも一部 いちぶ の民衆 みんしゅう や元老 げんろう 院 いん が皇帝 こうてい への不満 ふまん と怒 いか りを高 たか めていた。
エル・ガバルをローマの主神 しゅしん にすえ、隕石 いんせき を御 ご 神体 しんたい とするエラガバリウムを建 た てさせた皇帝 こうてい は、どこで知 し り合 あ ったのか得体 えたい の知 し れぬ謎 なぞ の女 おんな の一団 いちだん を引 ひ き連 つ れて楽器 がっき を打 う ち鳴 な らし、自身 じしん の性器 せいき を股 また に挟 はさ みながら全裸 ぜんら で踊 おど り、神殿 しんでん に向 む かい、屠殺 とさつ した獣 しし の血 ち を混 ま ぜたワイン を捧 ささ げ、香 こう を炊 た いた[ 42] 。そして踊 おど りながら神殿 しんでん の周囲 しゅうい をめぐり、誰 だれ もがトランス状態 じょうたい になったとき、当時 とうじ ローマにおいて宗教 しゅうきょう 的 てき 保守 ほしゅ 派 は だった青年 せいねん を生 い け贄 にえ として神殿 しんでん に捧 ささ げたという[ 42] 。この行動 こうどう には、多数 たすう の市民 しみん が怒 いか りの声 こえ をあげた[ 42] 。
王族 おうぞく 内 ない においても、影 かげ の実力 じつりょく 者 しゃ である祖母 そぼ ユリア・マエサ が孫 まご に対 たい して見切 みき りを付 つ けつつあった。しかし、ともに実権 じっけん を握 にぎ っていたヘリオガバルスの母 はは ユリア・ソエミアス (英語 えいご 版 ばん ) だけは、宗教 しゅうきょう 政策 せいさく や格差 かくさ の是正 ぜせい 政策 せいさく を積極 せっきょく 的 てき に後押 あとお し、ヒエロクレスともとの結婚 けっこん に反対 はんたい する元老 げんろう 院 いん を説得 せっとく するなど、息子 むすこ への協力 きょうりょく を続 つづ けていた[ 29] 。そこでマエサは、ソエミアスの妹 いもうと である次女 じじょ ユリア・アウィタの息子 むすこ で、マエサからは別 べつ の孫 まご にあたるアレクサンデル・セウェルス を後継 こうけい 者 しゃ とする計画 けいかく を立 た て、221年 ねん 、ヘリオガバルス帝 みかど に対 たい し従弟 じゅうてい アレクサンデルを養子 ようし にするよう認 みと めさせ、アレクサンデルにはカエサル (副 ふく 帝 みかど )の称号 しょうごう を名乗 なの らせた[ 29] 。アレクサンデルはヘリオガバルスの5歳 さい 年下 としした であった[ 13] 。いったん養子 ようし 縁組 えんぐみ を承知 しょうち したヘリオガバルス帝 みかど であったが、近衛 このえ 隊 たい の兵士 へいし たちがアレクサンデルに接近 せっきん し始 はじ めたことから途中 とちゅう で危機 きき 感 かん を覚 おぼ え、養子 ようし 縁組 えんぐみ を取 と り消 け した[ 49] 。アレクサンデルは近衛 このえ 兵 へい からの人気 にんき が高 たか かった。
ヘリオガバルスは失脚 しっきゃく したアレクサンデルを閉 と じ込 こ め、近衛 このえ 兵 へい たちには既 すで に死亡 しぼう したと伝 つた えた[ 49] 。しかし、これが逆 ぎゃく に彼 かれ の命取 いのちと りとなった。近衛 このえ 隊 たい は激昂 げっこう して皇帝 こうてい に対 たい する反乱 はんらん を起 お こし、ヘリオガバルスに対 たい し、アレクサンデルの生死 せいし の確認 かくにん とその責任 せきにん を取 と るよう求 もと めた[ 49] 。恐怖 きょうふ を感 かん じたヘリオガバルスは慌 あわ ててアレクサンデルの生存 せいぞん を発表 はっぴょう して、従弟 じゅうてい を解放 かいほう した。3月11日 にち 、近衛 このえ 隊 たい の城砦 じょうさい に逃 に げたアレクサンデルは歓声 かんせい をもって迎 むか えられ、兵士 へいし のほとんどがヘリオガバルスを裏切 うらぎ り、近衛 このえ 兵 へい は即座 そくざ にアレクサンデルを指導 しどう 者 しゃ として反 はん ヘリオガバルスの軍勢 ぐんぜい を挙 あ げ、宮殿 きゅうでん へと進軍 しんぐん した[ 49] 。
全 すべ ての後 うし ろ盾 たて を失 うしな ったヘリオガバルスは母 はは ソエミアスとともに反乱 はんらん 軍 ぐん に捕 と らえられた。同 どう 時代 じだい を生 い きたカッシウス・ディオ によれば、2人 ふたり は揃 そろ って辱 はずかし めを受 う けた後 のち に、処刑 しょけい され、遺体 いたい は激昂 げっこう した市民 しみん たちによってテヴェレ川 がわ に捨 す てられたという[ 42] 。
…
怯 おび えたヘリオガバルスは
最後 さいご の
気力 きりょく で
衣類 いるい 箱 ばこ の
中 なか に
隠 かく れ、
宮廷 きゅうてい から
逃 に げようとしたが、
反乱 はんらん 軍 ぐん に
見 み つけられて
広場 ひろば に
引 ひ き
出 だ された。この
時 とき も
女性 じょせい の
衣服 いふく を
纏 まつわ っていたヘリオガバルスだったが、
集 あつ められた
彼 かれ に
恨 うら みを
持 も った
女性 じょせい 市民 しみん によって、
先 ま ず
性器 せいき の
部分 ぶぶん だけ
穴 あな を
開 あ けられ、
ペニス を
露出 ろしゅつ させられた
後 のち 、
複数 ふくすう 人 じん の
女性 じょせい に
引 ひ っ
張 ぱ られ、
蹴 け られ、
更 さら に
一部 いちぶ の
女性 じょせい は
挑発 ちょうはつ するようにヘリオガバルスに
女性 じょせい 器 き を
見 み せつけ、
長 なが く
伸 の びた
髪 かみ の
毛 け を
切 き り、
嘲笑 ちょうしょう しながら
男 おとこ 湯 ゆ に
放 ほう り
込 こ むなど、
罵声 ばせい を
浴 あ びながらありとあらゆる
辱 はずかし めを
行 おこな った。
兵士 へいし はヘリオガバルスに
辱 はずかし めを
与 あた える
為 ため にわざと
恨 うら みの
深 ふか い
女性 じょせい 市民 しみん を
集 あつ め、ありとあらゆる
羞恥 しゅうち 的 てき な
暴行 ぼうこう を
行 おこな わせた。
女性 じょせい や
平民 へいみん に
対 たい して
友好 ゆうこう 的 てき なヘリオガバルスに
対 たい し、
支持 しじ する
女性 じょせい 、
親交 しんこう のある
女性 じょせい も
多 おお かったが、それと
同時 どうじ に
旦那 だんな や
息子 むすこ を
殺 あや められ、
恨 うら みを
持 も つ
女性 じょせい も
多 おお かった。ソエミアスは
泣 な き
喚 わめ きながら
息子 むすこ に
抱 だ きつき、ヘリオガバルスも
必死 ひっし に
命乞 いのちご いをしたが、
兵士 へいし たちはヘリオガバルスの
性器 せいき を
切 き り
落 お として
殺害 さつがい した。ソエミアスも
同 おな じ
時 じ に
殺害 さつがい され、この
時 とき 皇帝 こうてい を
庇 かば った
従者 じゅうしゃ や
市民 しみん の
女性 じょせい も、
皇帝 こうてい と
同様 どうよう に
辱 はずかし めを
受 う けて
殺害 さつがい された。
性器 せいき の
無 な いヘリオガバルスの
遺体 いたい は
裸体 らたい のまま
馬 うま に
乗 の せられて
市中 しちゅう を
引 ひ き
回 まわ された。
憎 にく まれた18
歳 さい の
皇帝 こうてい の
遺体 いたい は
晒 さら し
者 しゃ にされた
後 のち 、
首 くび も
切 き り
落 お とされ、
川 かわ へ
投 な げ
出 だ された
[ 50] 。
皇帝 こうてい の死 し によって一部 いちぶ の皇帝 こうてい の従者 じゅうしゃ や愛人 あいじん は自害 じがい し、そしてエウティキアヌスやヒエロクレスなどの取 と り巻 ま き、そして皇帝 こうてい に従 したが った者 もの は男性 だんせい も女性 じょせい も大半 たいはん が殺害 さつがい された。[ 50] 唯一 ゆいいつ と言 い っていいほど珍 めずら しい感動 かんどう 的 てき 逸話 いつわ として、ヘリオガバルスが家政 かせい 婦 ふ から取 と り立 た てた女性 じょせい の従者 じゅうしゃ や、貧民 ひんみん 出身 しゅっしん の女性 じょせい の従者 じゅうしゃ など、一部 いちぶ の忠誠 ちゅうせい 心 しん が強 つよ いヘリオガバルスの従者 じゅうしゃ は、ヘリオガバルスの後 のち をおって自発 じはつ 的 てき に自害 じがい したり、ヘリオガバルスへの辱 はずかし めに対 たい する加担 かたん を拒 こば み処刑 しょけい される事 こと になるなど、非常 ひじょう に強 つよ い絆 きずな が語 かた られている。古代 こだい で、これほど強 つよ い忠誠 ちゅうせい 心 しん を持 も った女性 じょせい の従者 じゅうしゃ の存在 そんざい が文献 ぶんけん に残 のこ っている事 こと は珍 めずら しく、後世 こうせい の歴史 れきし 家 か から酷評 こくひょう された事実 じじつ はあるにせよ、当時 とうじ 一定 いってい の人望 じんぼう を集 あつ めていた事 こと もまた否定 ひてい し難 がた い。尚 なお 、ヘリオガバルスを辱 はずかし めた一部 いちぶ の女性 じょせい 市民 しみん やそれを指導 しどう した下級 かきゅう 兵士 へいし もまた、極 きわ めて卑劣 ひれつ な蛮行 ばんこう を行 おこな ったとして後 のち に処刑 しょけい されたとい伝 いつた えられておる。太陽 たいよう 神 しん の神体 しんたい であった黒 くろ い聖石 ひじりいし はシリアに送 おく られ、エル・ガバル神 しん も地方 ちほう の土着 どちゃく 信仰 しんこう へと送 おく られた[ 13] [ 51] 。女性 じょせい の元老 げんろう 院 いん への関与 かんよ も明確 めいかく に禁止 きんし され[ 33] [ 52] 、かつてマクリヌスに課 か した「名誉 めいよ の抹殺 まっさつ 」を自 みずか らも受 う けることになった[ 53] 。
新 あたら しい皇帝 こうてい として即位 そくい したのはヘリオガバルスの従弟 じゅうてい で、14歳 さい の副 ふく 帝 みかど アレクサンデル・セウェルスであったが、彼 かれ もまた母親 ははおや に政治 せいじ を委 ゆだ ねたあげく、兵士 へいし への手当 てあて の支給 しきゅう を怠 おこた って母子 ぼし ともに殺 ころ された[ 54] 。
「ヘリオガバルスの薔薇 ばら 」ローレンス・アルマ=タデマ (1888年 ねん )
『ローマ皇帝 こうてい 群 ぐん 像 ぞう 』は、帝政 ていせい ローマ の時代 じだい の人物 じんぶつ によって叙述 じょじゅつ されたと考 かんが えられるローマ皇帝 こうてい の伝記 でんき 集 しゅう であるが、編纂 へんさん の詳細 しょうさい な時期 じき ・地域 ちいき は不明 ふめい であり、アエリウス・スパルティアヌス、ユリウス・カピトリヌス、ウルカキウス・ガッリカヌス、アエリウス・ランプリディウス、トレベッリウス・ポッリオ、フラウィウス・ウォピスクスが「6人 にん の著者 ちょしゃ 」といわれている。
ヘリオガバルスの評伝 ひょうでん については、当時 とうじ の歴史 れきし 書 しょ における常 つね として、のちに即位 そくい した皇帝 こうてい やその支持 しじ 者 しゃ によって誇張 こちょう された部分 ぶぶん があると考 かんが えられている。そうした誇張 こちょう のなかで特 とく に有名 ゆうめい なのが『ローマ皇帝 こうてい 群 ぐん 像 ぞう 』のなかにある「客人 きゃくじん に薔薇 ばら の山 やま を落 お として窒息 ちっそく 死 し させるのを楽 たの しんだ」とする逸話 いつわ であり、このエピソードは有名 ゆうめい なローレンス・アルマ=タデマ の絵画 かいが 「ヘリオガバルスの薔薇 ばら 」のモチーフとされている[ 55] 。これは、ヘリオガバルスが宴会 えんかい に招 まね いた客 きゃく の上 うえ に巨大 きょだい な幕 まく を張 は り、幕 まく の上 うえ に大量 たいりょう の薔薇 ばら の花 はな を載 の せたうえで宴会 えんかい 中 ちゅう に幕 まく を切 き り、花 はな を一斉 いっせい に落 お として客 きゃく を窒息 ちっそく 死 し させたという風評 ふうひょう にちなんでいるが、真偽 しんぎ のほどは明 あき らかでない。
現在 げんざい では『ローマ皇帝 こうてい 群 ぐん 像 ぞう 』における他 た の評伝 ひょうでん と同 おな じく、「ヘリオガバルス伝 でん 」のほとんどは信用 しんよう に値 あたい しないと見 み なされている[ 56] 。そもそも『ローマ皇帝 こうてい 群 ぐん 像 ぞう 』ははるか後年 こうねん の4世紀 せいき 頃 ころ に編纂 へんさん されたと考 かんが えられている伝記 でんき 集 しゅう であり[ 57] 、加 くわ えて捏造 ねつぞう や創作 そうさく がたいへん多 おお いことでも知 し られている。ヘリオガバルス伝 でん においても当然 とうぜん ながらそうした虚偽 きょぎ が含 ふく まれていると考 かんが えるのが自然 しぜん である[ 58] 。
ただし、第 だい 13節 せつ から17節 せつ までは例外 れいがい 的 てき に資料 しりょう 的 てき な信憑 しんぴょう 性 せい が存在 そんざい するとみられており、現在 げんざい でもその意義 いぎ を認 みと められている[ 59] 。
ヘリオガバルスとは同 どう 時代 じだい の歴史 れきし 家 か で、自 みずか らも高名 こうみょう な元老 げんろう 院 いん 議員 ぎいん として皇帝 こうてい の動向 どうこう を知 し る立場 たちば にあったカッシウス・ディオ も、『ローマ皇帝 こうてい 群 ぐん 像 ぞう 』ほどではないにせよ、上述 じょうじゅつ のように彼 かれ の異常 いじょう な性欲 せいよく について多 おお くを記録 きろく し、強 つよ く批判 ひはん している。カッシウスが書 か き残 のこ した『ローマ史 し 』は、『ローマ皇帝 こうてい 群 ぐん 像 ぞう 』に比 くら べて遥 はる かに高 たか い信憑 しんぴょう 性 せい を持 も ち、帝政 ていせい 中期 ちゅうき のローマを知 し るうえで第 だい 一 いち 級 きゅう の文献 ぶんけん 資料 しりょう として高 たか く評価 ひょうか されている。そうした点 てん を踏 ふ まえれば、『ローマ皇帝 こうてい 群 ぐん 像 ぞう 』などの後世 こうせい における書籍 しょせき で面白 おもしろ 半分 はんぶん に誇張 こちょう された要素 ようそ はありつつも、実際 じっさい にヘリオガバルスが統治 とうち 者 しゃ として相当 そうとう の問題 もんだい を抱 かか えた人物 じんぶつ であった事 こと は動 うご かしがたい。
ただしカッシウスも歴史 れきし 家 か として何 なん ら不誠実 ふせいじつ さがなかったと断 だん じるのはいささか中立 ちゅうりつ 的 てき とはいえない。『ローマ史 し 』の評伝 ひょうでん が書 か かれた時代 じだい の多 おお くを彼 かれ は現役 げんえき の元老 げんろう 議員 ぎいん として過 す ごしたが、それ故 ゆえ に属 ぞく 州 しゅう 総督 そうとく などの任務 にんむ で外地 がいち に赴 おもむ いている時間 じかん も多 おお かった。彼 かれ 自身 じしん 、ローマに滞在 たいざい していた友人 ゆうじん の政治 せいじ 家 か たちからの報告 ほうこく を二 に 次 じ 資料 しりょう として採用 さいよう している事 こと を認 みと めている。またカッシウスはヘリオガバルス帝 みかど の後 のち に即位 そくい したアレクサンデル・セウェルス帝 みかど を支持 しじ しており、その点 てん も加味 かみ される必要 ひつよう はある[ 60] 。
「ヘリオガバルスのメダル」(ルーヴル美術館 びじゅつかん )
属 ぞく 州 しゅう シリアの役人 やくにん であったヘロディアヌス はカッシウス・ディオと同様 どうよう 、皇帝 こうてい と同 おな じ時代 じだい を生 い き、目撃 もくげき 者 しゃ として同 どう 時代 じだい 史 し をつづった歴史 れきし 家 か で、コモドゥス 帝 みかど の即位 そくい からゴルディアヌス3世 せい の暗殺 あんさつ までの記録 きろく である『ローマ人 じん の歴史 れきし 』を書 か き残 のこ した。カッシウス・ディオの記録 きろく とは必然 ひつぜん 的 てき に重複 じゅうふく しているが、それぞれ別 べつ の調査 ちょうさ によって記録 きろく を残 のこ している点 てん で資料 しりょう 的 てき な意味 いみ を有 ゆう する[ 61] 。ヘロディアヌスは宮殿 きゅうでん に出入 でい りできる立場 たちば でなかったという点 てん でカッシウスに劣 おと るが、その分 ぶん 、より中立 ちゅうりつ 的 てき に皇帝 こうてい たちの動向 どうこう を残 のこ す事 こと に努 つと めている。彼 かれ の関心 かんしん の多 おお くは皇帝 こうてい の色 いろ 愛 あい より宗教 しゅうきょう 政策 せいさく について向 む けられており、その詳細 しょうさい な内容 ないよう はエル・ガバル信仰 しんこう を調 しら べる上 うえ で重要 じゅうよう な記録 きろく となっている。彼 かれ の記録 きろく は、実際 じっさい に後世 こうせい の文献 ぶんけん 学 がく 的 てき 研究 けんきゅう [ 62] [ 63] と考古学 こうこがく 的 てき 調査 ちょうさ で裏付 うらづ けられている[ 64] 。
ヘリオガバルス帝 みかど の壁画 へきが (オーストリア のフォルヒテンシュタイン城 じょう (ドイツ語 ご 版 ばん ) )
ヘリオガバルスの色 いろ 愛 あい は後世 こうせい におけるデカダン派 は の運動 うんどう で注目 ちゅうもく された[ 48] 。耽美 たんび 主義 しゅぎ 者 しゃ というヘリオガバルスのイメージは、その後 ご も今日 きょう に至 いた るまで数 すう 多 おお くの創作 そうさく 作品 さくひん への意欲 いよく を生 う み出 だ した。
「太陽 たいよう の司祭 しさい 、ヘリオガバルス」シミョーン・ソロモン画 が
「太陽 たいよう の司祭 しさい 、ヘリオガバルス」(Heliogabalus, High Priest of the Sun. 、1866年 ねん 、イギリス画家 がか シミョーン・ソロモン の作 さく 。ソロモンは、退廃 たいはい 的 てき な画風 がふう と、一時期 いちじき アルジャーノン・チャールズ・スウィンバーン の親友 しんゆう であったことでも知 し られる。)
「ヘリオガバルスの薔薇 ばら 」(1888年 ねん 、イギリスに帰化 きか したオランダ人 じん 画家 がか でアカデミー派 は のローレンス・アルマ=タデマ の作品 さくひん )
"Eliogabalo " (1667年 ねん 、ヴェネチアン・バロックの音楽家 おんがくか ピエトロ・フランチェスコ・カヴァッリ のオペラ)
"Heliogabale" (1910年 ねん 初演 しょえん 、フランスの作曲 さっきょく 家 か デオダ・ド・セヴラック のオペラ)
"Heliogabalus Imperator" (「ヘリオガバルス皇帝 こうてい 」、1972年 ねん 、ドイツの作曲 さっきょく 家 か ハンス・ヴェルナー・ヘンツェ のオーケストラ作品 さくひん )
"Eliogabalus" (1990年 ねん 、ロックバンドデヴィル・ドール (英語 えいご 版 ばん ) の音楽 おんがく アルバム)
"Six Litanies for Heliogabalus" (2007年 ねん 、作曲 さっきょく 家 か ・サックス奏者 そうしゃ ジョン・ゾーン の作品 さくひん )
ギルバートとサリバン のコミックオペラ『ペンザンスの海賊 かいぞく 』のなかの早口 はやくち 歌 か 「少将 しょうしょう の歌 うた 」のなかでふれられている。: "I quote in elegiacs all the crimes of Heliogabalus."
Heliogabale はフランスのロックバンド。1995年 ねん よりアルバム5枚 まい をリリースしている。そのなかでスティーヴ・アルビニ が"the full mind is alone the clear"を1997年 ねん にレコーディングしている。
『ヘリオガバルス 』は、モーマス の2001年 ねん のアルバム Folktronic 所収 しょしゅう の歌 うた 。そのなかで語 かた り手 て は「彼 かれ は、"みずからの死 し を引 ひ き起 お こした"といって"責 せ められるべきではない"」とナレーションしてヘリオガバルス帝 みかど を擁護 ようご している。
スペイン語 ご のheliogabalo (エリオガバロ[ 66] )は 「暴飲 ぼういん 暴食 ぼうしょく で身 み を持 も ち崩 くず す人 ひと 」のような意味 いみ である。
^ セウェルス朝 あさ の初代 しょだい 皇帝 こうてい セプティミウス・セウェルスは、非 ひ ヨーロッパ人 じん で初 はじ めて帝位 ていい に就 つ いたセム系 けい のローマ皇帝 こうてい で、皇帝 こうてい 就任 しゅうにん 以前 いぜん は財務 ざいむ 官 かん やシリア軍 ぐん 団長 だんちょう を歴任 れきにん した。セプティミウス・セウェルスは人気 にんき の高 たか かったマルクス・アウレリウス帝 みかど の子孫 しそん を名乗 なの ることで、みずからの出自 しゅつじ の属 ぞく 州 しゅう 的 てき 要素 ようそ を薄 うす めようとした[ 5] 。
^ ニーブールは、19世紀 せいき に活躍 かつやく したコペンハーゲン 出身 しゅっしん のドイツの歴史 れきし 家 か で、しばしば近代 きんだい 歴史 れきし 学 がく の祖 そ のひとりと評 ひょう される。
^ ヘリオガバルスを皇帝 こうてい にすえるという考 かんが えは、当初 とうしょ ユリア・マエサの愛人 あいじん ガンニュスが発 はっ したものといわれている。ガンニュスは皇帝 こうてい のローマ入城 にゅうじょう 前 まえ 、ヘリオガバルスによってニコメディアで処刑 しょけい された。
^ 本来 ほんらい 的 てき には、ローマの皇帝 こうてい は元老 げんろう 員 いん 議員 ぎいん であることが所与 しょよ の条件 じょうけん とされ、元老 げんろう 院 いん より「同輩 どうはい 中 ちゅう の首席 しゅせき 」として推挙 すいきょ されることが慣例 かんれい となっていたが、五 ご 賢 けん 帝 みかど 以後 いご はその慣例 かんれい は有名 ゆうめい 無実 むじつ 化 か し、帝位 ていい はもっぱら経済 けいざい 力 りょく や軍事 ぐんじ 力 りょく に左右 さゆう された[ 21] 。
^ ウェスタの巫女 ふじょ は、6歳 さい から10歳 さい までの少女 しょうじょ のなかからローマの大 だい 神官 しんかん によって選 えら ばれた6人 にん によって構成 こうせい され、30年間 ねんかん 、カマドの神 かみ に身 み を捧 ささ げることとされていた。その宗教 しゅうきょう 性 せい は彼女 かのじょ たちの処女 しょじょ 性 せい にもとづくが、その禁忌 きんき の違反 いはん に対 たい する生 い き埋 う めの刑 けい に関 かん しては類似 るいじ の民俗 みんぞく 事例 じれい に乏 とぼ しく、きわめて異常 いじょう で残酷 ざんこく なものである。また、他 た の神殿 しんでん はローマも含 ふく めほとんどすべて方形 ほうけい をなすのに対 たい し、ウェスタの聖域 せいいき は円形 えんけい をなしており、その点 てん でも特異 とくい である[ 40] 。
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