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ヘリオガバルス

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヘリオガバルス
(エラガバルス)
Heliogabalus
(Elagabalus)
ローマ皇帝こうてい
「ヘリオガバルス胸像きょうぞう」(カピトリーノ美術館びじゅつかん所蔵しょぞう
在位ざいい 218ねん6月8にち - 222ねん3月11にち
べつごう ウァリウス・アウィトゥス・バッシアヌス
Varius Avitus Bassianus

ぜん カエサル・マルクス・アウレリウス・アントニヌス・アウグストゥス
Caesar Marcus Aurelius Antoninus Augustus
出生しゅっしょう 203ねん3がつ20日はつか
エメサ現在げんざいのシリア・アラブ共和きょうわこくホムス
死去しきょ 222ねん3月11にち
ローマ
継承けいしょう アレクサンデル・セウェルス
配偶はいぐうしゃ ユリア・コルネリア・パウラ
  アクウィリア・セウェラ
  アンニア・アウレリア・ファウスティナ
  ヒエロクレス男性だんせい
子女しじょ アレクサンデル・セウェルス従弟じゅうてい養子ようし
王朝おうちょう セウェルスあさ
父親ちちおや セクストゥス・ウァリウス・マルケルス
母親ははおや ユリア・ソエミアス・バッシアナ
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マルクス・アウレリウス・アントニヌス・アウグストゥスラテン語らてんご: Marcus Aurelius Antoninus Augustus[1]204ねん- 222ねん[2])は、マ帝国まていこくだい23だい皇帝こうていで、セウェルスあさだい3だい当主とうしゅヘリオガバルスHeliogabalus )、またはエラガバルスElagabalus )という渾名あだな通称つうしょうばれることがおおく、これはオリエントにおけるヘーリオス信仰しんこうより派生はせいした太陽たいようしんエル・ガバル英語えいごばん(「やまかみ」の)を信仰しんこうしたことに由来ゆらいする[3]歴史れきしじょうまれにみる美貌びぼうと、異常いじょうほど求愛きゅうあい性欲せいよく過激かげき逸話いつわ有名ゆうめいなローマ皇帝こうていである。また確認かくにんされているなか最古さいこ著名ちょめいなトランスジェンダーの人物じんぶつとされる見方みかたもある。かれうつくしい容姿ようしをしており、14さい皇帝こうてい即位そくいして、皇帝こうていでありながら女装じょそうをしておっとつくり、みずからのおっと皇帝こうていにしようとするなど、当時とうじとしてはありない行動こうどう世間せけんさわがせた。また下級かきゅう市民しみんである風俗ふうぞくじょうあねしたって風俗ふうぞくがいせい奉仕ほうししたり、不思議ふしぎ予言よげんしょようなものをのこすなど、数々かずかず逸話いつわから現代げんだいいてもおおくの創作そうさくひん題材だいざいとされる人物じんぶつである。現代げんだいにおいて、イギリスにあるノース・ハートフォードシア博物館はくぶつかんは、皇帝こうてい展示てんじ表示ひょうじを"かれ(He)"ではなく"彼女かのじょ(She)"あるいは"彼女かのじょの(Her)"に変更へんこうし、皇帝こうてい女性じょせいとしてみとめるなど、世界せかいてきにヘリオガバルスの名誉めいよ回復かいふくするうごきがすすんでいる[4]

セウェルスあさ初代しょだい皇帝こうていセプティミウス・セウェルス外戚がいせきにあたるバッシアヌス出身しゅっしんのシリアじんで、もと本名ほんみょうウァリウス・アウィトゥス・バッシアヌスVarius Avitus Bassianus)といった。セウェルスの長男ちょうなんであったカラカラみかど暴政ぼうせいすえ暗殺あんさつされるとバッシアヌスもまたローマより追放ついほうされたが、かれははユリア・ソエミアス英語えいごばんひそかにセウェルスあさ復権ふっけん謀議ぼうぎ画策かくさくした[注釈ちゅうしゃく 1]血統けっとうじょう、カラカラみかど従姉じゅうしにあたるソエミアスは自身じしんおっととのあいだにもうけたアウィトゥス(ヘリオガバルス)が先帝せんていカラカラのかくであると主張しゅちょうして反乱はんらんこした。たたかいはすで帝位ていいにあったマクリヌスがわ敗北はいぼくわり、セウェルスあさ復権ふっけん名目めいもくとしてわずか14さいのヘリオガバルスが皇帝こうてい即位そくいした。

かれ統治とうち如何いかなるローマ皇帝こうていたちをもえる、ローマ史上しじょう、そして世界せかいにもまれもっと特異とくい破天荒はてんこう奇抜きばつ君主くんしゅであったとえる。ヘリオガバルスは求愛きゅうあい色欲しきよくれ、さらはし行動こうどうおおくの大衆たいしゅうおどろかせた[6]宗教しゅうきょうめんでは従来じゅうらい慣習かんしゅう制度せいどはいし、エル・ガバルを主神しゅしんとするなど、きわめて斬新ざんしん政策せいさくおこなった。当時とうじ概念がいねんで、国教こっきょうあたいするようなものを突然とつぜんえてしまうなど異例いれいちゅう異例いれいだった。経済けいざい政策せいさくでは合理ごうりてきなスタンスをり、当時とうじとしては非常ひじょうめずらしく、貧富ひんぷかかわりなく無償むしょう料理りょうりい、貧困ひんこんそう市民しみん女性じょせい装飾そうしょくひん生活せいかつ用品ようひんあたえ、水不足みずぶそくくるしむ農村のうそんかわをひくなどして貧困ひんこんそう救済きゅうさいした。男性だんせい社会しゃかいであるローマで女性じょせい登用とうようするなど、わずか10代にして数々かずかず画期的かっきてき政策せいさく弱者じゃくしゃ救済きゅうさい措置そちすすめるなど、進歩しんぽ主義しゅぎてき善行ぜんこう一定いっていすう女性じょせい貧困ひんこんそう市民しみんから尊敬そんけいされていたこと近年きんねんでは着目ちゃくもくされており、おも祖母そぼ影響えいきょう異様いようわかさ、性別せいべつ違和感いわかんかかえていたことから同情どうじょうてき見方みかたをされることもおおく、かれ主人公しゅじんこうにした作品さくひん舞台ぶたい上映じょうえいされるなど、好意こういてき評価ひょうかけることおおい。

ヘリオガバルスの異色いしょくせい生活せいかつについての話題わだいは、かれ政敵せいてきによって誇張こちょうされた部分ぶぶんがあるとみられているが[7]それゆえかれかんする情報じょうほう文献ぶんけんによっておおきな差異さいがあり、なかにはあきらかに誇張こちょうされているとられる伝記でんきもある。かれたいするあやまった逸話いつわ拡散かくさんされ、現代げんだいいたっても恥辱ちじょくけていることから「てついた永遠えいえん恥辱ちじょくけるもの」と、かたられることがしばしばある。中世ちゅうせいキリスト教きりすときょう保守ほしゅ歴史れきしからもあまり評価ひょうかけている。とりわけヘリオガバルスは近世きんせい歴史れきしきらわれたが、性的せいてき少数しょうすうしゃ処罰しょばつ対象たいしょうとなっていた当時とうじ保守ほしゅてき世相せそうからかんがえれば当然とうぜんであった。[6][8]。『マ帝国まていこく衰亡すいぼう』でられる18世紀せいき歴史れきしエドワード・ギボンにいたっては「みにく欲望よくぼう感情かんじょうゆだねた」として「最悪さいあく暴君ぼうくん」とかなりひど評価ひょうかくだしている[9]19世紀せいき前半ぜんはんドイツ歴史れきしバルトホルト・ゲオルク・ニーブールもまた、主著しゅちょ『ローマ』のなかでヘリオガバルスみかど異常いじょうであったと論評ろんぴょうしている[10][注釈ちゅうしゃく 2]

生涯しょうがい

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ちから皇帝こうてい即位そくい

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皇帝こうていヘリオガバルス(ウァリウス・アウィトゥス・バッシアヌス)は、元老げんろういん議員ぎいんちちセクストゥス・ウァリウス・マルケルス英語えいごばんははユリア・ソエミアス英語えいごばんとして203ねんシリアのエメサ(現在げんざいホムス)でまれた[3][11]ちちマルケルスは騎士きし階級かいきゅう出身しゅっしんで、のちに元老げんろういんりをたした人物じんぶつであり、母方ははかた祖母そぼユリア・マエサはエメサのまちだい祭司さいし[よう曖昧あいまい回避かいひ]ユリウス・バッシアヌス英語えいごばんむすめで、セウェルスあさ開祖かいそセプティミウス・セウェルスすめらぎユリア・ドムナあねであった[6][12]。したがって、かれははユリア・ソエミアスはセウェルスの嫡男ちゃくなんであるカラカラみかどとは従姉じゅうしおとうと関係かんけいにあり、皇帝こうてい一員いちいんであった[11]幼少ようしょうのウァリウス・アウィトゥスは母方ははかた一族いちぞく生業せいぎょうである神官しんかんとして養育よういくされたとみられる。「ヘリオガバルス」とは元来がんらいエメサ土着どちゃく太陽たいようしんであった[3]かれながじて太陽たいようしんヘリオガバルス(エル・ガバル)の司祭しさいつとめ、のちに、そのをそのまま自分じぶん通称つうしょうとした[3]。やがて皇帝こうていとなるヘリオガバルスは美貌びぼうめぐまれていて、まれがちがえばローマ随一ずいいち美少女びしょうじょわしめるほど、とてもうつくしい容姿ようしだった。また、かれはとても美声びせいで、うた上手うまく、かれうたいた市民しみんなみだするほどであったとつたえられている[13]また皇帝こうていになるまえから、ぞく貧民ひんみんがい出入でいりしていたとされている。

残虐ざんぎゃく性格せいかく浪費ろうひとしてられていたカラカラみかど共同きょうどう統治とうちしゃおとうとゲタみかどと、その一派いっぱ2まんにん以上いじょう殺害さつがいするなどの暴政ぼうせいによって元老げんろういんからの信望しんぼううしない、217ねん4がつ8にちメソポタミアハッラーン暗殺あんさつされた[3][8]。カラカラにはどもがなく、あたらしい皇帝こうていにはクーデター首謀しゅぼうしゃであった近衛このえたい隊長たいちょうマルクス・オペッリウス・マクリヌス即位そくいした[3]

即位そくいしたマクリヌスみかどは、きたアフリカマウレタニア出身しゅっしんで、騎士きし身分みぶんはじめて皇帝こうていいた人物じんぶつであったが、セウェルス一族いちぞく宮殿きゅうでんから一掃いっそうすることで、セウェルスあさ復活ふっかつ目論見もくろみふせごうとした[11][13]。それにたいし、中東ちゅうとうぞくしゅうシリアに幽閉ゆうへいされたセウェルス一族いちぞくのうち、カラカラみかど伯母おばユリア・マエサみずからのまごであるヘリオガバルスを帝位ていいける陰謀いんぼうをめぐらした[11]。マクリヌスみかどは、その子息しそくディアドゥメニアヌス共同きょうどう統治とうちしたが、東方とうほう大国たいこくパルティアやぶれて屈辱くつじょくてき講和こうわむすんだため、軍隊ぐんたいからの信頼しんらいうしなっていた[13]

14さいであったウァリウス・アウィトゥス(ヘリオガバルス)はすで先帝せんていカラカラとは女系じょけいつうじて親族しんぞくであったが、未亡人みぼうじんとなっていた少年しょうねんははソエミアスは、帝位ていい継承けいしょうをより正当せいとうしようと、みずか従弟じゅうていカラカラのわらわだったと公言こうげん、ヘリオガバルスは先帝せんてい密通みっつうしてまれたカラカラの落胤らくいんであると主張しゅちょうした[3][6][11]。これは、ヘリオガバルスの祖母そぼにあたるははユリア・マエサの意向いこうけたもので、マエサは自分じぶんむすめ姦婦かんぷにしてでもまご帝位ていいかせたかったのである[3][注釈ちゅうしゃく 3]。マエサは、軍人ぐんじん人気にんきのあったカラカラみかど威光いこう利用りようする作戦さくせんり、つづいてセウェルスとみ駆使くししてだい3軍団ぐんだんガッリカ」の兵士へいし将軍しょうぐん買収ばいしゅうして陣営じんえい戦力せんりょく調達ちょうたつした。

218ねん5月16にちよる少年しょうねんいちぎょうはエメサに駐屯ちゅうとんするローマの軍団ぐんだん潜入せんにゅうした[3]。それにたいし、軍団ぐんだん指揮しきかんヴァレリウス・エウティキアヌス英語えいごばんはウァリウス・アウィトゥス少年しょうねんへの忠誠ちゅうせい正式せいしき宣言せんげんした[14]挙兵きょへいさいして、ヘリオガバルス少年しょうねんは「ウァリウス・アウィトゥス・バッシアヌス」という従来じゅうらいを、カラカラの本名ほんみょうになぞらえて「マルクス・アウレリウス・アントニヌス」と改名かいめいした[15]

ヘリオガバルスの反乱はんらんったマクリヌスみかどただちに遠征えんせいぐん派遣はけんしたが、そのなかで軍団ぐんだんへいによる内乱ないらん発生はっせいした。指揮しきかん暗殺あんさつされ、兵士へいしたちは指揮しきかんくびをローマにおくかえすと、ヘリオガバルスの軍勢ぐんぜい合流ごうりゅうした[16]オリエントしょしゅうへいたちは、ヘリオガバルスを支持しじしたのである[13]

ぐん反乱はんらんまえにマクリヌスみかどはヘリオガバルスを「にせのアントニヌス」と痛罵つうばし、反乱はんらん発狂はっきょうした神官しんかんによる暴挙ぼうきょであるとしるした手紙てがみをローマの元老げんろういんおくった[17]元老げんろういんはマクリヌスみかどのいいぶんみとめて、ぐん意向いこうとはことなり、ヘリオガバルスを僭称せんしょうみかどとする決議けつぎ可決かけつした[18]

元老げんろういん支持しじたマクリヌスみかどみずかぐんひきいてしんせい開始かいししたが、マエサに買収ばいしゅうされただい2軍団ぐんだんパルティカ」の裏切うらぎりによってアンティオキアのたたか英語えいごばんにおいて敗北はいぼくした[16]。マクリヌスはいのちからがら戦場せんじょうからだっしてイタリア本土ほんどもどろうとしたが、カッパドキアらえられ、斬首ざんしゅけいしょせられた[3][16]おなじくらえられたマクリヌスみかどディドゥメニアヌスも処刑しょけいされた[16]

アンティオキアでの勝利しょうりをもとに、ヘリオガバルスは元老げんろういん許可きょかなしに皇帝こうてい即位そくい宣言せんげんした[19]。これは完全かんぜんに、ローマほうさだめる秩序ちつじょ違反いはんした行為こういであったが、3世紀せいき即位そくいしたローマ皇帝こうていにはしばしばみられた行為こういではあった。また同時どうじに、ヘリオガバルスはマクリヌスみかど治世ちせい批判ひはんし、行為こうい正当せいとうする手紙てがみおくっている[20][注釈ちゅうしゃく 4]

結局けっきょくのところ元老げんろういんは、218ねんの6がつ既成きせい事実じじつ追認ついにんするかたちでヘリオガバルスの帝位ていいみとめ、また、かれがカラカラみかど実子じっしであることを承認しょうにんした[22]同時どうじ暴君ぼうくんとそのははとして忌避きひされていたカラカラとユリア・ドムナをかみとしてまつるという要求ようきゅう承諾しょうだく[23]ぎゃくにマクリヌスみかどが「名誉めいよ抹殺まっさつ」(ダムナティオ・メモリアエ)にしょされることになった[19]。また、あたらしい近衛このえ隊長たいちょうには反乱はんらん立役者たてやくしゃヴァレリウス・エウティキアヌス英語えいごばん任命にんめいされた[24]

女帝にょていく 

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ヘリオガバルスみかどえがかれたデナリウス銀貨ぎんか

218ねんふゆ、ヘリオガバルスみかど重臣じゅうしんたちはしょうアジアのニコメディア(げんトルコ共和きょうわこくイズミット)でごしていたが[22]どう時代じだいきた歴史れきしカッシウス・ディオは、この皇帝こうてい特別とくべつ人物じんぶつであることはすであきらかになっていたことしょしるしている。皇帝こうていヘリオガバルスは、皇帝こうていとして「つらことにもえ、おとことしてつよくあるように」と説教せっきょうをした家庭かてい教師きょうしつよ反発はんぱつし、トラブルになってあやめてしまったとつたえられている。皇帝こうていおとこらしくそだてようとした家庭かてい教師きょうし教育きょういくに、女心おんなごころつヘリオガバルスはえられなかったという見方みかたがある。しかし当事とうじ社会しゃかいてき背景はいけいからしてめずらしくはないが、この家庭かてい教師きょうしおとこみこと主義しゅぎてき側面そくめんつよく、ヘリオガバルスがしたっていた家政かせい少女しょうじょたいし、暴力ぼうりょく横暴おうぼうおこなうなど、ヘリオガバルスの価値かちかん美徳びとくからおおきく逸脱いつだつした態度たいどっていたためかならずしもヘリオガバルスの行為こうい絶対ぜったいてきあくとして位置付いちづけられないよう記述きじゅつのこっている。実際じっさいにこの行為こういたいして周囲しゅうい反応はんのう一元いちげんにとてもわるかったとはえないようで、おも一部いちぶ側近そっきんはヘリオガバルスの行為こういかばった。このときたすけた家政かせい少女しょうじょはヘリオガルスとおなどしで、生涯しょうがいヘリオガバルスを裏切うらぎらず、ヘリオガバルスととも処刑しょけいされた女性じょせいであったとされている。さらに、幼少ようしょうからローマの未来みらい世界せかい未来みらいしるした予言よげんしょようなものをいていたり(一部いちぶ的中てきちゅうして話題わだいになった)、当時とうじとしてはめずらしいきず行為こういおこなうなど、周囲しゅういから異常いじょう存在そんざいとしてられていたとされる[25]。ヘリオガバルスがのこした予言よげん関連かんれんする書物しょもつ近年きんねんまで禁書きんしょとされていたこときん現代げんだいさい注目ちゅうもくされることとなったおおきな要因よういんでもある。どう時期じきユリア・マエサ神官しんかんにして皇帝こうていという人物じんぶつ元老げんろういんれるように、女神めがみかんのローブをにまとったヘリオガバルスみかど肖像しょうぞうウィクトーリア女神めがみぞうまえかかげさせた[22]元老げんろういん議員ぎいん議事堂ぎじどうのウィクトーリア女神めがみぞうささぶつをする習慣しゅうかんがあったので、女性じょせい神官しんかん姿すがたのヘリオガバルスみかどささぶつをするかたちになった。これに元老げんろういん議員ぎいんたち憤怒ふんぬしたが、ヘリオガバルスはかいさなかった

このようなヘリオガバルスみかど行動こうどうからか、こうたてであったはんマクリヌス軍勢ぐんぜいはヘリオガバルスを推挙すいきょしたことを後悔こうかいはじ[26]ゲッリウス・マキムス英語えいごばん将軍しょうぐんひきいられただい4軍団ぐんだんスキュティカ」、および元老げんろういん議員ぎいんのウェルスに扇動せんどうされただい3軍団ぐんだんガッリカ」(かれヘリオガバルスの皇帝こうてい就任しゅうにん助力じょりょくした)の兵士へいしがヘリオガバルスみかど裏切うらぎり、ニコメディアからローマにかうヘリオガバルスみかど襲撃しゅうげきする事件じけんこっているが、このときまだヘリオガバルスみかどは14さいであった[27]。しかし、反乱はんらんぐん足並あしなみがそろわずに自壊じかいし、「ガッリカ」は消滅しょうめつした[28]

皇帝こうてい一族いちぞくはシリアからローマをめざしたが、アンティオキアやニコメディアに長期間ちょうきかん逗留とうりゅうし、上述じょうじゅつのように途中とちゅう反乱はんらんがあり、また、てんからってきた(隕石いんせき)としんじられていた、そこたいらでさきとがった円錐えんすいかたち形状けいじょうをもつ巨大きょだいな「くろいし」を神体しんたいとしてエメサの神殿しんでんからはこしたため、いちぎょうのローマ到着とうちゃくおくれにおくれ、219ねん初秋しょしゅう、ようやくローマに到着とうちゃくした[3]。ローマ入城にゅうじょうさいひとびとはしん皇帝こうていちをみて驚愕きょうがくした。少年しょうねん皇帝こうていは、地面じめんとどきそうな長袖ながそでささえる紫色むらさきいろ錦糸きんしをあしらった司祭しさいふく着用ちゃくようし、ネックレス腕輪うでわなど豪奢ごうしゃ装身具そうしんぐをほどこし、頭上ずじょう宝石ほうせきりばめたみかどかんむりをいただいたうえで着飾きかざったうつくしい女性じょせい姿すがたをしていたからである。このヘリオガバルスの姿すがた当時とうじ歴史れきしは、まるで絶世ぜっせい美少女びしょうじょであったと証言しょうげんしている。このときヘリオガバルスみかどは15さいであった[3]

エウティキアヌス英語えいごばんやマエサとともにローマへ入城にゅうじょうしたヘリオガバルスみかどは、腹心ふくしんたちを要職ようしょくけて体制たいせいかためた[29]。たとえば、エウティキアヌスは近衛このえ隊長たいちょうつづいて3執政しっせいかん叙任じょにんけ、さらにぞくしゅう総督そうとくとして2派遣はけんされている[24]皇帝こうてい自分じぶんにおりを次々つぎつぎ要職ようしょくかせた。たとえば恋心こいごころせていた男性だんせい愛人あいじんであった奴隷どれいヒエロクレス共同きょうどう皇帝こうていにしようとしたり[30]べつのおりの愛人あいじんである戦車せんしゃ競技きょうぎ選手せんしゅゾティクスを皇帝こうてい執事しつじちょう任命にんめいしている[31]皇帝こうていこのみの男性だんせい急進きゅうしんてき皇帝こうてい価値かち迎合げいごうする人物じんぶつ、そして女性じょせい登用とうようし、反対はんたい皇帝こうてい否定ひていするものたちとおざけ、粛清しゅくせいした。さらに、まずしい身分みぶん出身しゅっしんである女性じょせい家政かせいであった少女しょうじょ突然とつぜん要職ようしょく登用とうようするなどして、周囲しゅうい混乱こんらんさせた。ヘリオガバルスが自身じしんしたが女性じょせい中心ちゅうしんとして茶会ちゃかいひらき、その茶会ちゃかい自身じしん側近そっきんきら男性だんせい拷問ごうもんしていたとされる逸話いつわ有名ゆうめいである。

財政ざいせいめんでは、カラカラがそうしたようにぎん含有がんゆうりょうらしてデナリウス銀貨ぎんかげをおこなうが、一方いっぽうでカラカラみかど創始そうししたアントニニアヌス銀貨ぎんか廃止はいしした。財政ざいせいてき政策せいさくいては、合理ごうり主義しゅぎてきなスタンスをとった。富裕ふゆうそうたいする増税ぞうぜいおこなっていた。いまでこそ格差かくさ是正ぜせい妥当だとう施策しさくとしておこなわれているが、この時代じだいではめずらしい施策しさくであった。[32]

ヘリオガバルスみかど初期しょき治世ちせいでは外交がいこう軍事ぐんじにおいて、祖母そぼユリア・マエサははユリア・ソエミアス英語えいごばん執政しっせいけんにぎっていたとかんがえられている[33]。ヘリオガバルスはローマ史上しじょうはじめてはは祖母そぼふく女性じょせい議員ぎいん任命にんめいし、ソエミアスは「クラリッシマ」(wiktionary:clarissima)、マエサは「元老げんろういん女神めがみ」(Mater Castrorum et Senatus)をそれぞれ授与じゅよした。[23]一部いちぶ実権じっけん掌握しょうあくし、まるで女帝にょていのようないをみせる祖母そぼははたいしてヘリオガバルスみかど自分じぶん意見いけん表明ひょうめいできない、ただの傀儡かいらいだとおもわれていた。少年しょうねん皇帝こうていは、祖母そぼははつよ影響えいきょうそだち、政治せいじてき能力のうりょくつちかっていないとされていた。皇帝こうていさら独自どくじ政策せいさくすすめるのはこれからすこしたったころである[13]

こいするヘリオガバルス 

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2度目どめつまとしてむかえられ、のちに再度さいど結婚けっこんすることになる「ウェスタの処女しょじょアクウィリア・セウェラ后妃こうひとしてデナリウスにえがかれている。

皇帝こうてい最初さいしょ結婚けっこんした相手あいてユリア・コルネリア・パウラ英語えいごばんという女性じょせいであり、220ねん豪奢ごうしゃ結婚式けっこんしき挙行きょこうされている[3]。このときヘリオガバルスは、ローマ市民しみん兵士へいしたいしても祝儀しゅうぎ大盤振おおばんぶいしたといわれる。コルネリア・パウラは、おなじシリアに領地りょうち有力ゆうりょく貴族きぞくむすめであったことから、皇帝こうてい即位そくい周囲しゅういめた政略せいりゃく結婚けっこんであったとかんがえられている[34]彼女かのじょアウグスタ皇后こうごう)の称号しょうごうたものの、この結婚けっこん生活せいかつながつづかず、そのとしのうちに2人ふたり離婚りこんした。パウラが皇帝こうてい異常いじょうなまでにつよ求愛きゅうあいこたえられないというのが離婚りこん理由りゆうであったというせつ主流しゅりゅう一方いっぽうで、皇帝こうていつまたいし、横柄おうへい態度たいどらず、友人ゆうじんよう目線めせんしくは現代げんだいてき恋人こいびとようあつかっていたともわれている。ヘリオガバルスがユリア・コルネリア・パウラ英語えいごばん護衛ごえいれずにまちちゅうかけ、商人しょうにんたち交流こうりゅうし、ともおどりをおどっていたとされる記述きじゅつもある。[3]

皇帝こうていはパウラと離婚りこんすると、220ねんまつに「ウェスタの処女しょじょ」たる巫女ふじょアクウィリア・セウェラ英語えいごばん再婚さいこんした[34]かまど(かまど)のかみウェスタつかえる巫女ふじょ共同きょうどう生活せいかつおくり、せいなるやさぬことをつとめとしていた[3][35]幼少ようしょう神職しんしょくされた巫女ふじょたちは「かみ々にささげる」という意味いみから、そのきよらかにたもつため、処女しょじょつらぬくことがもとめられ、その禁忌きんきやぶった場合ばあいにはきたまま穴埋あなうめされるというおそろしいおきてがあった[35]。そのにも当時とうじ巫女ふじょ保守ほしゅてき制約せいやくけ、病気びょうきになっても一部いちぶ治療ちりょうけられなかったり、いたみやくるしみをともな伝統でんとうてき儀式ぎしきへの参加さんか強制きょうせいされた。そして巫女ふじょとは全員ぜんいん本人ほんにん志願しがんでなるものではなく、本人ほんにん意思いしはんしてきびしい制約せいやくのある生活せいかつおくらされていたものもいた。ヘリオガバルスは巫女ふじょ境遇きょうぐうあわれみ、周囲しゅういに「自分じぶんむすばれれば、きっとかみのようにうつくしいどもがさずかる」とろんじ、禁忌きんきやぶってでも結婚けっこんしたとつたえられている。政略せいりゃく結婚けっこんのぞけば、アクウィリア・セウェラが最初さいしょ最後さいごみずかえらんで結婚けっこんした女性じょせいだった。結局けっきょくヘリオガバルスは巫女ふじょつくらず、早々そうそう離婚りこんをした。このことについて伝統でんとうみにじる行為こういであると皇帝こうてい非難ひなんする記述きじゅつおおいが、巫女ふじょ皇帝こうていもとつまとして、その不自由ふじゆうく、当時とうじとしては生活せいかつおくったこともまた事実じじつである。[3]

禁断きんだん結婚けっこんたいする周囲しゅうい批判ひはんからほどなく、結婚けっこん半年はんとしでアクウィリアとの婚姻こんいん解消かいしょうされた。理由りゆう諸説しょせつあるが、ヘリオガバルスがふるいしきたりにしばられるアクウィリア・セウェラをあわれみ、彼女かのじょ救済きゅうさいする目的もくてき一時いちじてき結婚けっこんしていたとされるせつや、巫女ふじょかれている環境かんきょう一新いっしんする口実こうじつあるいはそのすすめたヘリオガバルスの女性じょせい解放かいほう政策せいさくはじまりであったとされるせつがある。また、ヘリオガバルスが実際じっさい巫女ふじょ手篭てごめにした(強姦ごうかんした)とされる歴史れきししょ記述きじゅつ根拠こんきょとぼしく、強引ごういん結婚けっこんしたこと批判ひはんするため着色ちゃくしょくして記述きじゅつされている可能かのうせい指摘してきされている。そしてヘリオガバルスが221ねん7がつに3度目どめつまとしてむかえたのは美貌びぼうられたアンニア・アウレリア・ファウスティナ英語えいごばんであった[34]彼女かのじょは、けんみかどのひとりで哲人てつじん皇帝こうていとしてられたマルクス・アウレリウス曾孫そうそんで、そのであり暴君ぼうくんとして暗殺あんさつされたコンモドゥスみかどだいめいであった。これはセウェルスあさぜん王家おうけにあたるネルウァ=アントニヌスあさとの連続れんぞくせい主張しゅちょうする政治せいじてき意図いとがあった政略せいりゃく結婚けっこんとみられる。この結婚けっこんもうまくいかず、221ねんちゅうには離婚りこんし、結局けっきょくヘリオガバルスはアクウィリアとよりをもどして4度目どめ結婚けっこんたした。その、ヘリオガバルスは男性だんせいとの結婚けっこんつよのぞようになる。

ローマの慣習かんしゅう一新いっしん 

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アウレリウス金貨きんかえがかれたヘリオガバルスみかど裏面りめんにはヘロディアヌスがつたえるようにエル・ガバルの化身けしんとされた黒石くろいし戦車せんしゃせられてパレードをおこなっている様子ようすえがかれている。

セプティミウス・セウェルスみかどのとき、マ帝国まていこくのなかでは太陽たいようしん信仰しんこう流行りゅうこうする傾向けいこうにあり[36]皇帝こうてい自身じしんさきべたように太陽たいようしん信仰しんこうひとつであるエル・ガバルほうじる神官しんかんであった。シリアはもともと母系ぼけいせい社会しゃかいであったが、女性じょせい太陽たいようしん祭司さいしにはなれないことになっていた。多神教たしんきょう社会しゃかいであったローマでは宗教しゅうきょう寛容かんようであり、領域りょういき拡大かくだいにともない各地かくち土着どちゃくしんれていた。ふるくからローマでは太陽たいようしんとしてソールられ、しばしばローマ神話しんわにも登場とうじょうしており、また、ペルシャ太陽たいようしんミトラスほうずる密儀みつぎ宗教しゅうきょうミトラきょうしんじられていた。ただ、偶然ぐうぜんなのか必然ひつぜんなのか、ミトラきょう女人にょにん禁制きんせいであるのにたいし、エル・ガバルは両性りょうせい具有ぐゆう両性りょうせい)の神性しんせいゆうしていた。

ヘリオガバルスみかどはローマでのこうした太陽たいようしん信仰しんこう流行りゅうこう好機こうきととらえ、シリアの太陽たいようかみエル・ガバルを古代こだいローマ多神教たしんきょうにおける最高さいこうしん位置いちづけるべく「デウス・ソル・インウィクトゥス」と尊称そんしょうさせ、天空てんくうしんユピテルをもしたがえる存在そんざいとした[37]。さらに、ユピテルにしたがうとされていたカピトリヌスのさん女神めがみをエル・ガバルのつま位置いちづけ、その権威けんいたかめようとした[34]。ここにローマは、かつてのポエニ戦争せんそう以来いらい敵対てきたいしてきたセムけいかみ神官しんかんおよびそれをあやつ女性じょせいたちの支配しはいけることとなった[13]。ヘリオガバルスは、ローマ皇帝こうてい正式せいしき称号しょうごうに「常勝じょうしょう太陽たいようかみエル・ガバルのだい神官しんかん」を追加ついかした[13]

さらに、ヘリオガバルスみかど上述じょうじゅつしたように処女しょじょたも戒律かいりつっていた巫女ふじょアクウィリア・セウェラとの結婚けっこん周囲しゅういみとめさせ、神官しんかん同士どうしまじわりによって「かみ」がまれるとき、それをきっかけに巫女ふじょたいするすうおおくのしきたりや風習ふうしゅう一新いっしんさせた。[13][38]本来ほんらいであれば「ウェスタの処女しょじょ」をはずかしめたものころされ、この禁忌きんきやぶった巫女ふじょもまたかみばちけるためにきたままめられるとめられていたが、皇帝こうてい行為こういはローマにおける宗教しゅうきょうてき慣例かんれい一掃いっそうした挙行きょこうであり、それを皮切かわきりに巫女ふじょたいする待遇たいぐう向上こうじょうさせる法制ほうせいおこなった。上記じょうきのように女神めがみ女神めがみかんあおぎ、巫女ふじょたいするきびしいきたりを廃止はいしするなど、当時とうじとしてはめずらしく、ヘリオガバルスは女性じょせいたいする尊敬そんけいあこがれ、そして比較的ひかくてき女性じょせいたいして寛容かんよう友好ゆうこうてき態度たいどっていた[35][39][注釈ちゅうしゃく 5]

独自どくじ宗教しゅうきょう政策せいさくてに、ヘリオガバルスみかどは「ヘリオガバリウム」とばれる巨大きょだいなエル・ガバルしん宮殿きゅうでんをローマのパラティーノのおか(パラティヌスのおか)に建設けんせつさせ、故郷こきょうエメサからんだくろ隕石いんせきかみとして崇拝すうはいさせ、毎朝まいあさうしひつじにえとしてささげられた[22]一方いっぽう当事とうじ食用しょくようであった野兎やとや、害虫がいちゅう駆除くじょ使つかわれていたねこなどをペットとして愛玩あいがんしていた。歴史れきしヘロディアヌスによれば「黒石くろいしかみかいからのたまわもののごとく崇拝すうはいおこなわれた」とされ、表面ひょうめん文様もんよう太陽たいようかみエル・ガバルの姿すがたえがいているとしんじられていた[11]あらたな崇拝すうはい対象たいしょうへの信仰しんこうしんしめすため、ヘリオガバルスみかど自身じしん割礼かつれいおこなった。そしてまた女性じょせい格好かっこうをして[37]元老げんろういん議員ぎいんたいし、みずからおどとして祭壇さいだんまえ姿すがたせた[22]。そしてヘリオガバルスの善行ぜんこうとしてられているのが、定期ていきてきおこなわれた市民しみんたいする食事しょくじ提供ていきょうだ。ヘリオガバルスはかみからのたまわりとしょうし、老若男女ろうにゃくなんにょ貧富ひんぷかかわらず、食事しょくじった。ローマの民衆みんしゅうは、神殿しんでん皇帝こうていからとしてくばられる食事しょくじ目当めあてに神殿しんでん祝祭しゅくさい殺到さっとうしたとつたえられる[34]さらまずしい市民しみんや、身分みぶんひく女性じょせいしたしげに会話かいわし、ときには衣類いるい生活せいかつ用品ようひんなどを提供ていきょうすることもあった。公共こうきょう娯楽ごらく施設しせつ建設けんせつなどにもちからをいれていたとされる。これを皇帝こうてい気紛きまぐれと当時とうじ歴史れきし論評ろんぴょうされているが、その論評ろんぴょうには個人こじんてき皇帝こうていたいする嫌悪けんおかん影響えいきょうしていたとわざるをえず、近年きんねんでは、ヘリオガバルスにも善意ぜんいやさしさがあったこと明白めいはくであるとする識者しきしゃ存在そんざいする。現代げんだいではヘリオガバルスの貧困ひんこんそうへの救済きゅうさいは「はやすぎた社会しゃかい民主みんしゅ主義しゅぎ」とひょうされており、ヘリオガバルスの蛮行ばんこうとはべつじくさい評価ひょうかすべきという意見いけんもある。そして、この祝祭しゅくさい仕上しあげに、「くろいし」がかね細工ざいく宝石ほうせきるいかざけたうまきの戦車せんしゃせられ、砂金さきんかれたみちはこばれてまちちゅう凱旋がいせんしたようすをヘロディアヌス記録きろくしている。

6とうもの巨大きょだい白馬はくばかれたりん戦車せんしゃ金銀きんぎん細工ざいくかざられる絢爛けんらんなものだったが、異様いようにもだれっておらず無人むじんはしらされていた。しかしその周囲しゅういには護衛ごえい兵士へいし併走へいそうしており、ちょうど無人むじん豪華ごうかなる戦車せんしゃに「かみっている」こと想定そうていしているようであった。ヘリオガバルスみかど戦車せんしゃまえはしり、かみってうま手綱たづなにぎり、かみ見上みあげながらパレードをつづけた[34]

ヘリオガバリウムのもとには帝国ていこくちゅうからかみ神器じんぎあつまり、キュベレー神殿しんでん・ウェスタ神殿しんでん神官しんかん学校がっこうなどの宝物ほうもつひんや「トロイのパラディウムぞう」や「マルスのたて英語えいごばん」、「ウェスタの聖火せいか」などがまれた。こうした事由じゆうはヘリオガバリウムこそがマ帝国まていこく唯一ゆいいつ聖地せいちとなるべきとかんがえることからのものだった[41]

あいもとめた皇帝こうてい 

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急進きゅうしんてき政策せいさく以上いじょうにヘリオガバルスみかど有名ゆうめいにしたのは、当時とうじとしてはかんがえられないようきわめて奔放ほんぽうてきせい生活せいかつかんする逸話いつわである。そもそもヘリオガバルスは、正式せいしき結婚けっこん生活せいかつすら4かい離婚りこんと5かいの「結婚けっこん」をかえしているのである[38]

「ウェスタの処女しょじょ」セウェラとよりをもどし、4度目どめ結婚けっこんをした皇帝こうていであったが、そのとしのうちにまたも離婚りこんした[38]今度こんどは、しょうアジア出身しゅっしんカリアひと奴隷どれいで、男性だんせいであるヒエロクレスの「つま」となることを宣言せんげん[30][42]。これが、5度目どめの「結婚けっこん」であった。さらに『ローマ皇帝こうていぐんぞう』によればおなじく男性だんせい愛人あいじんである戦車せんしゃ選手せんしゅゾティクスとも結婚けっこんしたとつたえられている[43]

皇帝こうていは、みずからは女性じょせいであると宣言せんげんし、貧民ひんみん出身しゅっしん女性じょせい従者じゅうしゃれて公共こうきょう浴場よくじょうってはおんなはいって、当然とうぜんごと女性じょせい会話かいわをし、一緒いっしょ脱毛だつもうほどこしていたという。また、あやしげなものたちをベッドルームにんで淫行いんこうかえした。密偵みっていはなち、ちからつよく、ペニス巨大きょだい容姿ようしととのった男性だんせいさがさせて宮廷きゅうていれてきたさせ、情事じょうじたのしんだ。皇帝こうてい女性じょせいとしていながら全裸ぜんらになり、片手かたてむね片手かたて陰部いんぶててひざまずき、あわれみをさそうようにびてほおなすけ、男性だんせいかってしりしてこし前後ぜんご運動うんどうさせてかおあからめていたという。皇帝こうていかかわりがつよく、えて男色なんしょく興味きょうみがなく、女好おんなずきなおとこさがし、自分じぶんおんなとしててほしいとなみだぐみながら懇願こんがんし、無理むりやりではなく自分じぶん興味きょうみしめしたおとこにだけそのささげていた。また、従者じゅうしゃ女性じょせいこんえて乱行らんぎょうし、従者じゅうしゃ女性じょせいつなぎながらおとこおかされた。[42]

猟奇りょうきてき逸話いつわとしては、浮気うわきをした自身じしん友人ゆうじん従者じゅうしゃ恋人こいびと男性だんせいらにたいして、男性だんせいとして神殿しんでんない飼育しいくしている猛獣もうじゅうにエサとしてあたえたというものもつたわっている。ヘリオガバルスは嫉妬しっとふかいと同時どうじに、自身じしんみとめた女性じょせいたいする仲間なかま意識いしきつよさが異常いじょうだったこと有名ゆうめいである。ヘリオガバルスは恋人こいびと男性だんせいだけでなく、女性じょせい従者じゅうしゃ友人ゆうじんたいしてもつよ愛情あいじょういだき、側近そっきん女性じょせいののしった元老げんろういん議員ぎいん処刑しょけいしたとまでわれている。ヘリオガバルスは自身じしん同性どうせいとしてせっしてくれる女性じょせいたいし、つよ精神せいしんてき依存いぞんをしていたとかんがえられており、従者じゅうしゃ女性じょせいに、愛人あいじんのぞいた通常つうじょう男性だんせい従者じゅうしゃよりも極端きょくたん高額こうがく給与きゅうよわたしたり、当時とうじ貴族きぞくなどえらばれたひとしかれられないよう非常ひじょう高価こうか化粧けしょうひん衣服いふく次々つぎつぎあたえていたことで、男性だんせい従者じゅうしゃつよ不満ふまんっていたとされている。

そして『皇帝こうてい列伝れつでん』は、以下いかのようにつたえる。

皇帝こうてい当時とうじではめずらしく、自分じぶん全身ぜんしん女性じょせいのように脱毛だつもうしていた。さら皇帝こうてい自分じぶん性器せいきとして性別せいべつ適合てきごう手術しゅじゅつほどこそうとかんがえていた。そうしたかんがえにいたるのも内面ないめん(しん)が女性じょせいだったからだ。

元老げんろういん議員ぎいんとして宮殿きゅうでん出入でいりしていたカッシウス・ディオはヘリオガバルスみかど異質いしつ情事じょうじ記録きろくし、女性じょせい姿すがた男性だんせいまじわっていたと実際じっさいにその現場げんばたことを記録きろくしている。また晩年ばんねん娼婦しょうふ女性じょせい交流こうりゅうしていたとされる。カッシウスは、以下いかのようにつたえる。

皇帝こうてい愛情あいじょう欲求よっきゅうし、いつしか酒場さかばびた習慣しゅうかんつようになり、一般いっぱん市民しみん女性じょせいさけわしながらさびしそうになみだながし、人気にんきたか売春ばいしゅんあねしたっておしえをい、おとこつけるや化粧けしょう金髪きんぱつかずらをつけて売春ばいしゅん耽溺たんできした[44]

[45]皇帝こうてい最終さいしゅうてき帝国ていこく中枢ちゅうすうである宮殿きゅうでんおとこんで売春ばいしゅん宿やどにまでしていたと記録きろくしている。

つい皇帝こうてい宮殿きゅうでんまでもみずからの情事じょうじ現場げんばとした。宮殿きゅうでん一室いっしつ性行為せいこういよう場所ばしょ用意よういして、そこをおとずれるおとこ売春ばいしゅんのようにそのった。ヘリオガバルスは売春ばいしゅんがそうするように女性じょせいよう下着したぎをつけて部屋へやまえち、カーテンをつかんでおとこった。そしておとことおりかかるとあわれみをさそうようなやわらかいこえあまえるのだった。皇帝こうてい容姿ようし言動げんどう性質せいしつはもはや男性だんせいとはがたいものであった。[46]

ヘロディアヌスもこのうわさについて言及げんきゅうしており、ヘリオガバルスみかどかお化粧けしょうすることにより、こうした行為こうい相応ふさわしい美麗びれい容貌ようぼうつようになっていたという[34]

皇帝こうてい全裸ぜんら廷臣ていしん警護けいごへいあまこえさそい、売春ばいしゅんする一方いっぽう金髪きんぱつ奴隷どれいヒエロクレスにたいしては「つま」としてしたがくした[42]。ヒエロクレスもヘリオガバルスをつまあいしていたが、ヘリオガバルスはおとことも関係かんけいっていた[42]。それをったヒエロクレスは「つま」である皇帝こうてい不貞ふていをなじり、罵倒ばとうし、しばしば殴打おうだにおよんだ[42]。そして、ヘリオガバルスは旦那だんなであるヒエロクレスが自身じしんつまとしてあいし、嫉妬しっとし、束縛そくばくしていることよろこんだ。男性だんせいよう凛々りりしい容姿ようしをした女性じょせい愛人あいじんおかされてよろここともあった[42]。また、性別せいべつ適合てきごう手術しゅじゅつおこなえる医師いしこう報酬ほうしゅう募集ぼしゅうしていたともいわれている[31]。このことからヘリオガバルスみかどのセクシャリティについて、これを同性愛どうせいあいりょう性愛せいあいというより、トランスジェンダー一種いっしゅとしてかんがえる論者ろんしゃおおい。[47][48]皇帝こうていなん自殺じさつ未遂みすいはかったこともあったとされている。

皇帝こうてい最期さいご 

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度重たびかさなるヘリオガバルスみかど奇行きこう周囲しゅういえかねており[30]近衛このえたい皇帝こうてい異様いよう行動こうどう嫌悪けんおかんかんじていた[29]くわえて宮殿きゅうでんがいでも一部いちぶ民衆みんしゅう元老げんろういん皇帝こうていへの不満ふまんいかりをたかめていた。

エル・ガバルをローマの主神しゅしんにすえ、隕石いんせき神体しんたいとするエラガバリウムをてさせた皇帝こうていは、どこでったのか得体えたいれぬなぞおんな一団いちだんれて楽器がっきらし、自身じしん性器せいきまたはさみながら全裸ぜんらおどり、神殿しんでんかい、屠殺とさつしたししぜたワインささげ、こういた[42]。そしておどりながら神殿しんでん周囲しゅういをめぐり、だれもがトランス状態じょうたいになったとき、当時とうじローマにおいて宗教しゅうきょうてき保守ほしゅだった青年せいねんにえとして神殿しんでんささげたという[42]。この行動こうどうには、多数たすう市民しみんいかりのこえをあげた[42]

王族おうぞくないにおいても、かげ実力じつりょくしゃである祖母そぼユリア・マエサまごたいして見切みきりをけつつあった。しかし、ともに実権じっけんにぎっていたヘリオガバルスのははユリア・ソエミアス英語えいごばんだけは、宗教しゅうきょう政策せいさく格差かくさ是正ぜせい政策せいさく積極せっきょくてき後押あとおし、ヒエロクレスともとの結婚けっこん反対はんたいする元老げんろういん説得せっとくするなど、息子むすこへの協力きょうりょくつづけていた[29]。そこでマエサは、ソエミアスのいもうとである次女じじょユリア・アウィタの息子むすこで、マエサからはべつまごにあたるアレクサンデル・セウェルス後継こうけいしゃとする計画けいかくて、221ねん、ヘリオガバルスみかどたい従弟じゅうていアレクサンデルを養子ようしにするようみとめさせ、アレクサンデルにはカエサルふくみかど)の称号しょうごう名乗なのらせた[29]。アレクサンデルはヘリオガバルスの5さい年下とししたであった[13]。いったん養子ようし縁組えんぐみ承知しょうちしたヘリオガバルスみかどであったが、近衛このえたい兵士へいしたちがアレクサンデルに接近せっきんはじめたことから途中とちゅう危機ききかんおぼえ、養子ようし縁組えんぐみした[49]。アレクサンデルは近衛このえへいからの人気にんきたかかった。

ヘリオガバルスは失脚しっきゃくしたアレクサンデルをめ、近衛このえへいたちにはすで死亡しぼうしたとつたえた[49]。しかし、これがぎゃくかれ命取いのちとりとなった。近衛このえたい激昂げっこうして皇帝こうていたいする反乱はんらんこし、ヘリオガバルスにたいし、アレクサンデルの生死せいし確認かくにんとその責任せきにんるようもとめた[49]恐怖きょうふかんじたヘリオガバルスはあわててアレクサンデルの生存せいぞん発表はっぴょうして、従弟じゅうてい解放かいほうした。3月11にち近衛このえたい城砦じょうさいげたアレクサンデルは歓声かんせいをもってむかえられ、兵士へいしのほとんどがヘリオガバルスを裏切うらぎり、近衛このえへい即座そくざにアレクサンデルを指導しどうしゃとしてはんヘリオガバルスの軍勢ぐんぜいげ、宮殿きゅうでんへと進軍しんぐんした[49]

すべてのうしたてうしなったヘリオガバルスはははソエミアスとともに反乱はんらんぐんらえられた。どう時代じだいきたカッシウス・ディオによれば、2人ふたりそろってはずかしめをけたのちに、処刑しょけいされ、遺体いたい激昂げっこうした市民しみんたちによってテヴェレがわてられたという[42]

おびえたヘリオガバルスは最後さいご気力きりょく衣類いるいばこなかかくれ、宮廷きゅうていからげようとしたが、反乱はんらんぐんつけられて広場ひろばされた。このとき女性じょせい衣服いふくまつわっていたヘリオガバルスだったが、あつめられたかれうらみをった女性じょせい市民しみんによって、性器せいき部分ぶぶんだけあなけられ、ペニス露出ろしゅつさせられたのち複数ふくすうじん女性じょせいられ、られ、さら一部いちぶ女性じょせい挑発ちょうはつするようにヘリオガバルスに女性じょせいせつけ、ながびたかみり、嘲笑ちょうしょうしながらおとこほうむなど、罵声ばせいびながらありとあらゆるはずかしめをおこなった。兵士へいしはヘリオガバルスにはずかしめをあたえるためにわざとうらみのふか女性じょせい市民しみんあつめ、ありとあらゆる羞恥しゅうちてき暴行ぼうこうおこなわせた。女性じょせい平民へいみんたいして友好ゆうこうてきなヘリオガバルスにたいし、支持しじする女性じょせい親交しんこうのある女性じょせいおおかったが、それと同時どうじ旦那だんな息子むすこあやめられ、うらみを女性じょせいおおかった。ソエミアスはわめきながら息子むすこきつき、ヘリオガバルスも必死ひっし命乞いのちごいをしたが、兵士へいしたちはヘリオガバルスの性器せいきとして殺害さつがいした。ソエミアスもおな殺害さつがいされ、このとき皇帝こうていかばった従者じゅうしゃ市民しみん女性じょせいも、皇帝こうてい同様どうようはずかしめをけて殺害さつがいされた。性器せいきいヘリオガバルスの遺体いたい裸体らたいのままうませられて市中しちゅうまわされた。にくまれた18さい皇帝こうてい遺体いたいさらしゃにされたのちくびとされ、かわされた[50]

皇帝こうていによって一部いちぶ皇帝こうてい従者じゅうしゃ愛人あいじん自害じがいし、そしてエウティキアヌスやヒエロクレスなどのき、そして皇帝こうていしたがったもの男性だんせい女性じょせい大半たいはん殺害さつがいされた。[50]唯一ゆいいつっていいほどめずらしい感動かんどうてき逸話いつわとして、ヘリオガバルスが家政かせいからてた女性じょせい従者じゅうしゃや、貧民ひんみん出身しゅっしん女性じょせい従者じゅうしゃなど、一部いちぶ忠誠ちゅうせいしんつよいヘリオガバルスの従者じゅうしゃは、ヘリオガバルスののちをおって自発じはつてき自害じがいしたり、ヘリオガバルスへのはずかしめにたいする加担かたんこば処刑しょけいされることになるなど、非常ひじょうつよきずなかたられている。古代こだいで、これほどつよ忠誠ちゅうせいしんった女性じょせい従者じゅうしゃ存在そんざい文献ぶんけんのこっていることめずらしく、後世こうせい歴史れきしから酷評こくひょうされた事実じじつはあるにせよ、当時とうじ一定いってい人望じんぼうあつめていたこともまた否定ひていがたい。なお、ヘリオガバルスをはずかしめた一部いちぶ女性じょせい市民しみんやそれを指導しどうした下級かきゅう兵士へいしもまた、きわめて卑劣ひれつ蛮行ばんこうおこなったとしてのち処刑しょけいされたといいつたえられておる。太陽たいようしん神体しんたいであったくろ聖石ひじりいしはシリアにおくられ、エル・ガバルしん地方ちほう土着どちゃく信仰しんこうへとおくられた[13][51]女性じょせい元老げんろういんへの関与かんよ明確めいかく禁止きんしされ[33][52]、かつてマクリヌスにした「名誉めいよ抹殺まっさつ」をみずからもけることになった[53]

あたらしい皇帝こうていとして即位そくいしたのはヘリオガバルスの従弟じゅうていで、14さいふくみかどアレクサンデル・セウェルスであったが、かれもまた母親ははおや政治せいじゆだねたあげく、兵士へいしへの手当てあて支給しきゅうおこたって母子ぼしともにころされた[54]

人物じんぶつ評価ひょうか

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『ローマ皇帝こうていぐんぞう

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ヘリオガバルスの薔薇ばらローレンス・アルマ=タデマ(1888ねん

ローマ皇帝こうていぐんぞう』は、帝政ていせいローマ時代じだい人物じんぶつによって叙述じょじゅつされたとかんがえられるローマ皇帝こうてい伝記でんきしゅうであるが、編纂へんさん詳細しょうさい時期じき地域ちいき不明ふめいであり、アエリウス・スパルティアヌス、ユリウス・カピトリヌス、ウルカキウス・ガッリカヌス、アエリウス・ランプリディウス、トレベッリウス・ポッリオ、フラウィウス・ウォピスクスが「6にん著者ちょしゃ」といわれている。

ヘリオガバルスの評伝ひょうでんについては、当時とうじ歴史れきししょにおけるつねとして、のちに即位そくいした皇帝こうていやその支持しじしゃによって誇張こちょうされた部分ぶぶんがあるとかんがえられている。そうした誇張こちょうのなかでとく有名ゆうめいなのが『ローマ皇帝こうていぐんぞう』のなかにある「客人きゃくじん薔薇ばらやまとして窒息ちっそくさせるのをたのしんだ」とする逸話いつわであり、このエピソードは有名ゆうめいローレンス・アルマ=タデマ絵画かいがヘリオガバルスの薔薇ばら」のモチーフとされている[55]。これは、ヘリオガバルスが宴会えんかいまねいたきゃくうえ巨大きょだいまくり、まくうえ大量たいりょう薔薇ばらはなせたうえで宴会えんかいちゅうまくり、はな一斉いっせいとしてきゃく窒息ちっそくさせたという風評ふうひょうにちなんでいるが、真偽しんぎのほどはあきらかでない。

現在げんざいでは『ローマ皇帝こうていぐんぞう』における評伝ひょうでんおなじく、「ヘリオガバルスでん」のほとんどは信用しんようあたいしないとなされている[56]。そもそも『ローマ皇帝こうていぐんぞう』ははるか後年こうねん4世紀せいきころ編纂へんさんされたとかんがえられている伝記でんきしゅうであり[57]くわえて捏造ねつぞう創作そうさくがたいへんおおいことでもられている。ヘリオガバルスでんにおいても当然とうぜんながらそうした虚偽きょぎふくまれているとかんがえるのが自然しぜんである[58]

ただし、だい13せつから17せつまでは例外れいがいてき資料しりょうてき信憑しんぴょうせい存在そんざいするとみられており、現在げんざいでもその意義いぎみとめられている[59]

カッシウス・ディオ

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ヘリオガバルスとはどう時代じだい歴史れきしで、みずからも高名こうみょう元老げんろういん議員ぎいんとして皇帝こうてい動向どうこう立場たちばにあったカッシウス・ディオも、『ローマ皇帝こうていぐんぞう』ほどではないにせよ、上述じょうじゅつのようにかれ異常いじょう性欲せいよくについておおくを記録きろくし、つよ批判ひはんしている。カッシウスがのこした『ローマ』は、『ローマ皇帝こうていぐんぞう』にくらべてはるかにたか信憑しんぴょうせいち、帝政ていせい中期ちゅうきのローマをるうえでだいいちきゅう文献ぶんけん資料しりょうとしてたか評価ひょうかされている。そうしたてんまえれば、『ローマ皇帝こうていぐんぞう』などの後世こうせいにおける書籍しょせき面白おもしろ半分はんぶん誇張こちょうされた要素ようそはありつつも、実際じっさいにヘリオガバルスが統治とうちしゃとして相当そうとう問題もんだいかかえた人物じんぶつであったことうごかしがたい。

ただしカッシウスも歴史れきしとしてなん不誠実ふせいじつさがなかったとだんじるのはいささか中立ちゅうりつてきとはいえない。『ローマ』の評伝ひょうでんかれた時代じだいおおくをかれ現役げんえき元老げんろう議員ぎいんとしてごしたが、それゆえぞくしゅう総督そうとくなどの任務にんむ外地がいちおもむいている時間じかんおおかった。かれ自身じしん、ローマに滞在たいざいしていた友人ゆうじん政治せいじたちからの報告ほうこく資料しりょうとして採用さいようしていることみとめている。またカッシウスはヘリオガバルスみかどのち即位そくいしたアレクサンデル・セウェルスみかど支持しじしており、そのてん加味かみされる必要ひつようはある[60]

ヘロディアヌス

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「ヘリオガバルスのメダル」(ルーヴル美術館びじゅつかん

ぞくしゅうシリアの役人やくにんであったヘロディアヌスはカッシウス・ディオと同様どうよう皇帝こうていおな時代じだいき、目撃もくげきしゃとしてどう時代じだいをつづった歴史れきしで、コモドゥスみかど即位そくいからゴルディアヌス3せい暗殺あんさつまでの記録きろくである『ローマじん歴史れきし』をのこした。カッシウス・ディオの記録きろくとは必然ひつぜんてき重複じゅうふくしているが、それぞれべつ調査ちょうさによって記録きろくのこしているてん資料しりょうてき意味いみゆうする[61]。ヘロディアヌスは宮殿きゅうでん出入でいりできる立場たちばでなかったというてんでカッシウスにおとるが、そのぶん、より中立ちゅうりつてき皇帝こうていたちの動向どうこうのこことつとめている。かれ関心かんしんおおくは皇帝こうていいろあいより宗教しゅうきょう政策せいさくについてけられており、その詳細しょうさい内容ないようはエル・ガバル信仰しんこう調しらべるうえ重要じゅうよう記録きろくとなっている。かれ記録きろくは、実際じっさい後世こうせい文献ぶんけんがくてき研究けんきゅう[62][63]考古学こうこがくてき調査ちょうさ裏付うらづけられている[64]

創作そうさく作品さくひん

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ヘリオガバルスみかど壁画へきがオーストリアフォルヒテンシュタインじょうドイツばん

ヘリオガバルスのいろあい後世こうせいにおけるデカダン運動うんどう注目ちゅうもくされた[48]耽美たんび主義しゅぎしゃというヘリオガバルスのイメージは、その今日きょういたるまですうおおくの創作そうさく作品さくひんへの意欲いよくした。

文学ぶんがく

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絵画かいが

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太陽たいよう司祭しさい、ヘリオガバルス」シミョーン・ソロモン

漫画まんが

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音楽おんがく

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演舞えんぶ

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映画えいが

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戯曲ぎきょく

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語源ごげん

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  • スペインheliogabalo(エリオガバロ[66])は 「暴飲ぼういん暴食ぼうしょくくずひと」のような意味いみである。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ セウェルスあさ初代しょだい皇帝こうていセプティミウス・セウェルスは、ヨーロッパじんはじめて帝位ていいいたセムけいのローマ皇帝こうていで、皇帝こうてい就任しゅうにん以前いぜん財務ざいむかんやシリアぐん団長だんちょう歴任れきにんした。セプティミウス・セウェルスは人気にんきたかかったマルクス・アウレリウスみかど子孫しそん名乗なのることで、みずからの出自しゅつじぞくしゅうてき要素ようそうすめようとした[5]
  2. ^ ニーブールは、19世紀せいき活躍かつやくしたコペンハーゲン出身しゅっしんのドイツの歴史れきしで、しばしば近代きんだい歴史れきしがくのひとりとひょうされる。
  3. ^ ヘリオガバルスを皇帝こうていにすえるというかんがえは、当初とうしょユリア・マエサの愛人あいじんガンニュスがはっしたものといわれている。ガンニュスは皇帝こうていのローマ入城にゅうじょうまえ、ヘリオガバルスによってニコメディアで処刑しょけいされた。
  4. ^ 本来ほんらいてきには、ローマの皇帝こうてい元老げんろういん議員ぎいんであることが所与しょよ条件じょうけんとされ、元老げんろういんより「同輩どうはいちゅう首席しゅせき」として推挙すいきょされることが慣例かんれいとなっていたが、けんみかど以後いごはその慣例かんれい有名ゆうめい無実むじつし、帝位ていいはもっぱら経済けいざいりょく軍事ぐんじりょく左右さゆうされた[21]
  5. ^ ウェスタの巫女ふじょは、6さいから10さいまでの少女しょうじょのなかからローマのだい神官しんかんによってえらばれた6にんによって構成こうせいされ、30年間ねんかん、カマドのかみささげることとされていた。その宗教しゅうきょうせい彼女かのじょたちの処女しょじょせいにもとづくが、その禁忌きんき違反いはんたいするめのけいかんしては類似るいじ民俗みんぞく事例じれいとぼしく、きわめて異常いじょう残酷ざんこくなものである。また、神殿しんでんはローマもふくめほとんどすべて方形ほうけいをなすのにたいし、ウェスタの聖域せいいき円形えんけいをなしており、そのてんでも特異とくいである[40]

出典しゅってん

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  1. ^ In Classical Latin, Elagabalus' name would be inscribed as MARCVS AVRELIVS ANTONINVS AVGVSTVS.
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資料しりょう

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主要しゅよう資料しりょう

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副次的ふくじてき資料しりょう

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伝記でんき

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画像がぞう

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