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軍人ぐんじん皇帝こうてい

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
マ帝国まていこくぞくしゅう

軍人ぐんじん皇帝こうてい(ぐんじんこうてい)は、マ帝国まていこく3世紀せいき危機ききばれた時期じきに、おも配下はいか軍事ぐんじりょく背景はいけい廃立はいりつされたもろ皇帝こうていをいう。

軍人ぐんじん皇帝こうてい時代じだい

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235ねんから284ねんあいだ軍人ぐんじん皇帝こうてい乱立らんりつした時代じだい軍人ぐんじん皇帝こうてい時代じだい(ぐんじんこうていじだい)としょうする。

具体ぐたいてきには、アレクサンデル・セウェルス暗殺あんさつ(セウェルスあさ断絶だんぜつ)即位そくいしたマクシミヌス・トラクスから、ディオクレティアヌスたれたカリヌスまでのしょ皇帝こうていす。

元老げんろういん容認ようにんした皇帝こうていだけでも、前半ぜんはんの33年間ねんかん(235ねん-268ねん)に14にん擁立ようりつされた。

さらに、各地かくち実力じつりょくしゃがローマ皇帝こうていごう僭称せんしょうすることもおおく、結果けっかとして皇帝こうてい権威けんい失墜しっつい、また帝位ていい頻繁ひんぱんわるためほとんど内乱ないらんわらない状態じょうたい長期間ちょうきかんつづき、これによりマ帝国まていこく国力こくりょく弱体じゃくたいした。

原因げんいん

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古代こだいローマにおいては共和きょうわせい時代じだいより、国家こっか最高さいこう指導しどうしゃがすなわち前線ぜんせんぐん司令しれいかんであった。共和きょうわせい時代じだいにおいては、2人ふたり執政しっせいかんがこの役目やくめになった。執政しっせいかん2人ふたりであることからひとりはぐん司令しれいかんとして前線ぜんせんおもむいても、もうひとりの執政しっせいかん内政ないせいることができ、また2人ふたり執政しっせいかん同時どうじぐん司令しれいかんとして前線ぜんせんたねばならない場合ばあいにも、わって内政ないせい担当たんとうするのはだれであるかの序列じょれつまっていた。1年間ねんかんという執政しっせいかんみじか任期にんきも、国土こくどせま時代じだいには問題もんだい機能きのうした。

しかしながら、古代こだいローマが地中海ちちゅうかい世界せかい全域ぜんいき支配しはいする巨大きょだい領域りょういき国家こっかとなって以降いこうは、1ねん任期にんき執政しっせいかんによる統治とうち軍事ぐんじ指揮しきというシステムでは機能きのうしなくなった。

帝政ていせい移行いこうも、国家こっか最高さいこう指導しどうしゃ前線ぜんせんぐん司令しれいかんどう一人物いちじんぶつであるというシステムはそのまま継承けいしょうされた。初代しょだい皇帝こうていアウグストゥスをはじめ、おおくの皇帝こうてい内乱ないらんいた人物じんぶつであり、軍事ぐんじ政治せいじ両方りょうほう手腕しゅわんっていたことから問題もんだいはされなかった。アウグストゥス自身じしんぐんざいとぼしかったが、腹心ふくしんアグリッパらにまかせることでおぎなった。またクラウディウス病弱びょうじゃく軍務ぐんむ経験けいけん皆無かいむであったが、実際じっさいぐん指揮しきする将軍しょうぐんたちの任命にんめいについて人事じんじ才能さいのう発揮はっきし、ブリタンニア遠征えんせいげ、皇帝こうてい自身じしんぐんざいくてもシステムとしては問題もんだい機能きのうした。

しかしながらマ帝国まていこくがたびたび外敵がいてき侵攻しんこうにさらされる時代じだいになると、国家こっか最高さいこう指導しどうしゃ前線ぜんせんぐん司令しれいかんどう一人物いちじんぶつであるというシステムには弊害へいがいられるようになった。しかし、終身しゅうしん存在そんざいである皇帝こうていは、おいそれと更迭こうてつができる存在そんざいではなく、ぐん司令しれいかんとして無能むのうさを露呈ろていした皇帝こうてい排除はいじょするには、叛乱はんらん・クーデター・暗殺あんさつという非合法ひごうほう強硬きょうこう手段しゅだん以外いがい選択肢せんたくしくなってしまったのである。またぐん司令しれいかんである以上いじょう戦死せんしてき捕虜ほりょになるという事態じたいは、当然とうぜんのこととしてこりるものであり、そのたび皇帝こうていえらなおさなくてはならない事態じたいしょうじた。また選出せんしゅつ手段しゅだんまっていた(市民しみん集会しゅうかい選挙せんきょ執政しっせいかんちがい、皇帝こうてい場合ばあい選出せんしゅつ手段しゅだんさだめられておらず、これも混乱こんらん原因げんいんとなった。事実じじつ軍人ぐんじん皇帝こうてい時代じだい以前いぜんにも、ネロコンモドゥスによってそれまでの皇帝こうてい皇統こうとう断絶だんぜつしたのをけに、地方ちほうぞくしゅう総督そうとく[1]帝位ていいあらそって内乱ないらんこしたれいが2かいある(ローマ内戦ないせん (68ねん-70ねん) (よん皇帝こうていとし) と、ローマ内戦ないせん (192ねん-197ねん) (皇帝こうていとし))。

先立さきだつ2世紀せいき後半こうはん気候きこう寒冷かんれいによる食糧しょくりょう生産せいさんせい低下ていかや、それにともな不満ふまん鬱積うっせきとローマ末端まったん組織そしき支配しはいりょく喪失そうしつ進行しんこう対処たいしょするためカラカラみかどはっしたアントニヌスみことのりれいにより、中央ちゅうおう財政ざいせい悪化あっかする。また、外敵がいてき侵入しんにゅう対応たいおうするためぞく州兵しゅうへい現地げんち徴募ちょうぼえた結果けっかぞくしゅうへのけがかなくなるという悪循環あくじゅんかんまらない時代じだいであった。

特徴とくちょう

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現在げんざいのこアウレリアヌス城壁じょうへき

英語えいごではBarracks Emperror兵舎へいしゃ皇帝こうてい)、ドイツでもSoldatenkaiser兵隊へいたい皇帝こうてい)とばれており、この名前なまえとおり、かれらは以前いぜん皇帝こうていとはことなり、旧来きゅうらい貴族きぞくそうによる擁立ようりつではなくおもローマ軍団ぐんだん軍事ぐんじりょく背景はいけいとしたクーデターによることがげられる。軍人ぐんじん皇帝こうてい身分みぶん比較的ひかくてきひく出自しゅつじおおく、たとえば最初さいしょ軍人ぐんじん皇帝こうていであるマクシミヌス・トラクストラキア出身しゅっしんいち兵士へいしからのたたげであり、マクシミヌス以外いがいにも軍人ぐんじん皇帝こうていたちのおおくが名乗なのるほどの家名かめい祖先そせんたず、かれらの擁立ようりつ軍隊ぐんたい経歴けいれきにより、その影響えいきょうりょくしゅとして兵士へいしであった。また元老げんろういん貴族きぞくそうちからうしなって国政こくせいうごかす影響えいきょうりょくとぼしくなり、軍隊ぐんたい推挙すいきょけた指導しどうしゃ追認ついにんするだけの存在そんざいとなった。よって、ぞくしゅうぐんにより推挙すいきょされ元老げんろういん認定にんていのないまま皇帝こうてい僭称せんしょうするぐん司令しれいかん僭称せんしょう皇帝こうてい)が乱立らんりつした。前線ぜんせんたたか兵士へいしたちにとってぐん司令しれいかんとして有能ゆうのうもの皇帝こうていえらぶのは生活せいかつじょうでも安全あんぜんじょうでも死活しかつ問題もんだいであり、また元老げんろういん形成けいせいする貴族きぞくそうはかつての経済けいざいりょく動員どういんりょく人脈じんみゃくうしな[2]承認しょうにんする以外いがいかったのである。とく軍人ぐんじん皇帝こうていのひとりであるガッリエヌスによって、軍務ぐんむ経験けいけんしゃ元老げんろういんから分離ぶんりされたことが、この傾向けいこう拍車はくしゃをかけた[3]

しかし、軍人ぐんじん皇帝こうていたちのおおくはマ帝国まていこく国境こっきょうぐん司令しれいかんであったため、帝位ていい交替こうたいのたびに国境こっきょう防衛ぼうえい空白くうはくみ、防衛ぼうえい能力のうりょく弱体じゃくたいまねいた。またガリア地域ちいきにおける民心みんしん離反りはん支配しはいりょく喪失そうしつによりゲルマンじん侵入しんにゅう容易よういにし、結果けっかとしてアウレリアヌスみかどふたたびローマに城壁じょうへききずくほどであった。皇帝こうてい要件ようけんはローマにたいする忠誠ちゅうせいしんうしなった知識ちしきそう民衆みんしゅう支持しじではなく、相対そうたいてきたかまった軍属ぐんぞく兵士へいし支持しじと、ぞくしゅう軍団ぐんだんまさ軍事ぐんじりょくであり、これがなくなるとけんによって権力けんりょくけんによってうしなうことになった。また、それぞれのぞくしゅうにおいて兵士へいしがそれぞれ皇帝こうてい候補こうほ僭称せんしょう皇帝こうてい擁立ようりつし、それら皇帝こうてい候補者こうほしゃあらそいによる軍閥ぐんばつないあらそいもしょうじた。

僭称せんしょう皇帝こうていなかには、ローマに進軍しんぐんしてみずからが正規せいき皇帝こうていになることをこころみたものもいた。

ガリアを基盤きばん自立じりつして260ねん皇帝こうていごう僭称せんしょうしたポストゥムスは、そのにおいて事実じじつじょう独立どくりつ国家こっかつくげた。これが「ガリア帝国ていこく」と通称つうしょうされている。また、東方とうほうのパルミラにおいては267ねんに「女王じょおう」としょうされたゼノビアみずからの息子むすこウァバッラトゥス擁立ようりつして皇帝こうていごう僭称せんしょうさせ、ここでも「パルミラ帝国ていこく」と通称つうしょうされる事実じじつじょう独立どくりつ国家こっか成立せいりつした。これにより、ローマ世界せかい本体ほんたい帝国ていこくとガリア帝国ていこくとパルミラ王国おうこくさんふんされたことになる。

284ねんプラエフェクトゥス・プラエトリオであったディオクレスが帝位ていいくと、ディオクレティアヌスえ、帝国ていこくのシステムを改革かいかくする。かれはまた帝国ていこくを4分割ぶんかつするというテトラルキア制度せいどつくげた。

後代こうだいへの影響えいきょう

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軍人ぐんじん皇帝こうてい時代じだい皇帝こうてい背景はいけいには軍事ぐんじりょくかせない要素ようそではあったが、その皇帝こうていには軍事ぐんじしょくうすくなっていく。

ドミナートゥス(専制せんせい君主くんしゅせい)へと帝政ていせい転換てんかんさせたディオクレティアヌスコンスタンティヌス1せいなどは皇帝こうてい権力けんりょく強化きょうかし、みずからもへいひきいたが、その軍務ぐんむたとえばスティリコのようにマギステル・ミリトゥムぐん司令しれいかん)がおこない、かれらが帝国ていこく運営うんえいになとなってゆく。

そして西にしマ帝国まていこくでは、皇帝こうていホノリウスみかどのように権威けんいしょくびるものの実際じっさい政治せいじてき主導しゅどうけん一層いっそううす存在そんざいとなっていき、最後さいごには傭兵ようへい隊長たいちょうオドアケルによって西にしローマ皇帝こうていはいされてしまうことになった。

一方いっぽうひがしマ帝国まていこくではコンスタンティヌス1せい以来いらいつよ皇帝こうてい権力けんりょく維持いじ強化きょうかされ、ユスティヌス1せいのようにぐん出身しゅっしん皇帝こうてい即位そくいしたり、7世紀せいきヘラクレイオスや10世紀せいきバシレイオス2せいなどのようにおやせいおこな皇帝こうていもいた。

軍人ぐんじん皇帝こうてい一覧いちらん

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皇帝こうていめい フルネーム 在位ざいい 備考びこう
ろく皇帝こうてい
マクシミヌス・トラクス ガイウス・ユリウス・ウェルス・マクシミヌス 235–238 アレクサンデル・セウェルスより簒奪さんだつろく皇帝こうてい1人ひとり
マグヌス[英語えいご ガイウス・ペトレイウス・マグヌス 235 ゲルマニアで皇帝こうてい僭称せんしょう。マクシミヌスの反乱はんらんしゃ
クァルティヌス[英語えいご ティティウス・クァルティヌス 235 オスロエネ皇帝こうてい僭称せんしょう。マクシミヌスの反乱はんらんしゃ
ゴルディアヌス1せい マルクス・アントニウス・ゴルディアヌス・センプロニアヌス・ロマヌス・アフリカヌス 238 アフリカぞくしゅう即位そくい息子むすこゴルディアヌス2せい共同きょうどう皇帝こうていろく皇帝こうてい1人ひとり
ゴルディアヌス2せい マルクス・アントニウス・ゴルディアヌス・センプロニアヌス・ロマヌス・アフリカヌス 238 アフリカぞくしゅう即位そくいちちゴルディアヌス1せい共同きょうどう皇帝こうていろく皇帝こうてい1人ひとり
プピエヌス・マクシムス マルクス・クロディウス・プピエヌス・マクシムス 238 バルビヌスは共同きょうどう皇帝こうていろく皇帝こうてい1人ひとり
バルビヌス デキムス・カエリウス・カルウィヌス・バルビヌス 238 プピエヌス・マクシムスは共同きょうどう皇帝こうていろく皇帝こうてい1人ひとり
ゴルディアヌス3せい マルクス・アントニウス・ゴルディアヌス・ピウス 238–244 ゴルディアヌス1せいむすめで、ゴルディアヌス2せい姉妹しまいであるアントニア・ゴルディアナの息子むすころく皇帝こうてい1人ひとり
サビニアヌス マルクス・アシニウス・サビニアヌス 240 アフリカで皇帝こうてい僭称せんしょう。ゴルディアヌス3せい反乱はんらんしゃ
ろく皇帝こうてい以降いこう
ピリップス・アラブス マルクス・ユリウス・ピリップス 244–249 息子むすこマルクス・ユリウス・セウェルス・ピリップス共同きょうどう皇帝こうてい
パカティアヌス[英語えいご ティベリウス・クラウディウス・マリヌス・パカティアヌス 248–249 モエシア皇帝こうてい僭称せんしょう。ピリップスの反乱はんらんしゃ
ヨタピアヌス[英語えいご マルクス・F・R・ヨタピアヌス 248–249 シリアぞくしゅう皇帝こうてい僭称せんしょう同上どうじょう
シルバナックス[英語えいご マルクス・シルバナックス 249?または253? ゲルマニア・スペリオル皇帝こうてい僭称せんしょう?。同上どうじょう
スポンシアヌス[英語えいご しょう しょう トランシルバニア地方ちほう皇帝こうてい僭称せんしょう?。同上どうじょう
デキウス ガイウス・メッシウス・クィントゥス・トライアヌス・デキウス 249–251 ピリップスより簒奪さんだつ息子むすこヘレンニウス・エトルスクス共同きょうどう皇帝こうてい
リキニアヌス[英語えいご ユリウス・ウァレンス・リキニアヌス 250 ローマ皇帝こうてい僭称せんしょう。デキウスの反乱はんらんしゃ
プリスクス[英語えいご (ルキウスまたはユリウス・ティトゥス)・プリスクス 250 マケドニアぞくしゅう皇帝こうてい僭称せんしょう同上どうじょう
トレボニアヌス・ガッルス ガイウス・ウィビウス・トレボニアヌス・ガッルス 251–253 ホスティリアヌス(251ねん)および息子むすこガイウス・ウィビウス・ウォルシアヌス(251ねん-253ねん)と共同きょうどう皇帝こうてい
マルクス・アエミリウス・アエミリアヌス マルクス・アエミリウス・アエミリアヌス 253 トレボニアヌス・ガッルスより簒奪さんだつ
ウァレリアヌス プブリウス・リキニウス・ウァレリアヌス 253–260 アエミリウスより簒奪さんだつ息子むすこガッリエヌス共同きょうどう皇帝こうてい
ウラニウス・アントニウス[英語えいご ルキウス・ユリウス・アウレリウス・スルプキウス・セウェルス・ウラニウス・アントニウス 253–254 シリアで皇帝こうてい僭称せんしょう。ウァレリアヌスの反乱はんらんしゃ
ガッリエヌス プブリウス・リキニウス・エグナティウス・ガッリエヌス 253–268 息子むすこプブリウス・リキニウス・コルネリウス・サロニヌス共同きょうどう皇帝こうてい。ガリアでポストゥムス皇帝こうてい僭称せんしょうしてガリア帝国ていこく建国けんこくセプティミウス・オダエナトゥスパルミラ中心ちゅうしんはん独立どくりつ状態じょうたいとなる。「en:Thirty Tyrants (Roman)」も参照さんしょうのこと
インゲヌス[英語えいご しょう 260 シルミウム皇帝こうてい僭称せんしょう。ガッリエヌスの反乱はんらんしゃ
レガリアヌス[英語えいご プブリウス・C・レガリアヌス 260 パンノニア皇帝こうてい僭称せんしょう。ガッリエヌスの反乱はんらんしゃ
マクリアヌス・マヨル ティトゥス・フルウィウス・ユニウス・マクリアヌス 260–261 息子むすこマクリアヌス・ミノルおよびティトゥス・フルウィウス・ユニウス・クィエトゥスととも皇帝こうてい僭称せんしょう同上どうじょう
マクリアヌス・ミノル ティトゥス・フルウィウス・ユニウス・マクリアヌス 260–261 マクリアヌス・マヨルの息子むすこ同上どうじょう
クィエトゥス ティトゥス・フルウィウス・ユニウス・クィエトゥス 260–261 マクリアヌス・マヨルの息子むすこ同上どうじょう
バッリスタ しょう(カッリストゥス?) 260–264 皇帝こうてい僭称せんしょうしゃ同上どうじょう
テッサロニクス[英語えいご ウァレンス・テッサロニクス 261 アカエア(ギリシア)で皇帝こうてい僭称せんしょう同上どうじょう
ピソ[英語えいご ルキウス・カルプルニウス・ピソ・フルギ 261 アカエアで皇帝こうてい僭称せんしょう同上どうじょう
ムッシウス・アエミリアヌス[英語えいご ルキウス・ムッシウス・アエミリアヌス 260-261 アエギュプトゥス皇帝こうてい僭称せんしょう同上どうじょう
ケルスス[英語えいご ティトゥス・コルネリウス・ケルスス しょう アフリカぞくしゅう皇帝こうてい僭称せんしょう同上どうじょう
トレベッリアヌス[英語えいご しょう しょう しょうアジアで皇帝こうてい僭称せんしょう同上どうじょう
アウレオルス[英語えいご しょう 268 パンノニア皇帝こうてい僭称せんしょう同上どうじょう
クラウディウス・ゴティクス マルクス・アウレリアヌス・クラウディウス 268–270 ガッリエヌスより簒奪さんだつ
サトゥルニヌス[英語えいご しょう 268 クラウディウスの反乱はんらんしゃ
ケンソリヌス[英語えいご アッピウス・クラウディウス・ケンソリヌス 269–270 イタリア本土ほんど皇帝こうてい僭称せんしょう?、クラウディウスの反乱はんらんしゃ
クィンティッルス マルクス・アウレリアヌス・クラウディウス・クィンティッルス 270 クラウディウスのおとうと
ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌス ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌス 270–275 クィンティッルスより簒奪さんだつガリア帝国ていこくパルミラ帝国ていこくほろぼし、帝国ていこくさい統一とういつ達成たっせい
ドミティアヌス2せい英語えいご しょう 270-271 ガリア北部ほくぶ皇帝こうてい僭称せんしょう?。アウレリアヌスの反乱はんらんしゃ
フェリキッシムス[英語えいご しょう 271 ローマ市内しない皇帝こうてい僭称せんしょう?。アウレリアヌスの反乱はんらんしゃ
セプティミウス[英語えいご しょう 271 ダルマティア皇帝こうてい僭称せんしょう同上どうじょう
ウルバヌス[英語えいご しょう 271/272 僭称せんしょうしゃ同上どうじょう
フィルムス しょう 273 アエギュプトゥスで皇帝こうてい僭称せんしょう同上どうじょう
マルクス・クラウディウス・タキトゥス マルクス・クラウディウス・タキトゥス 275–276
フロリアヌス マルクス・アンニウス・フロリアヌス 276 マルクス・クラウディウス・タキトゥスのおとうと
プロブス マルクス・アウレリウス・プロブス 276–282 フロリアヌスから簒奪さんだつ
プロクルス[英語えいご しょう 280/281 ボノスス[英語えいごともゲルマニア・インフェリオル皇帝こうてい僭称せんしょう。プロブスの反乱はんらんしゃ
サトゥルニヌス ユリウス・サトゥルニヌス 281 アエギュプトゥス皇帝こうてい僭称せんしょう同上どうじょう
マルクス・アウレリウス・カルス マルクス・アウレリウス・カルス 282–283 プロブスより簒奪さんだつ
カリヌス マルクス・アウレリウス・カリヌス 283–285 おとうとヌメリアヌス共同きょうどう皇帝こうてい
サビヌス・ユリアヌス[英語えいご マルクス・アウレリウス・サビヌス・ユリアヌス 284–285 パンノニアで皇帝こうてい僭称せんしょう。カリヌスの反乱はんらんしゃ
ドミナートゥス専制せんせい君主くんしゅせい
ディオクレティアヌス ガイウス・アウレリウス・ウァレリウス・ディオクレティアヌス 284–305 カリヌスより簒奪さんだつ一般いっぱん軍人ぐんじん皇帝こうていにはふくまない。
皇帝こうていめい フルネーム 在位ざいい 備考びこう

ちゅう

  •   元老げんろういんよりみとめられた「正式せいしき皇帝こうてい
  •   皇帝こうてい僭称せんしょうしゃラテン語らてんご:usurpatio)
  • 皇帝こうてい僭称せんしょうしゃうち実在じつざいうたがわれている人物じんぶつ小文字こもじ括弧かっこづけ記載きさいしている。
  • 上述じょうじゅつしたように、ディオクレティアヌス一般いっぱん軍人ぐんじん皇帝こうていふくまないが、連続れんぞくせい考慮こうりょして記載きさいしている。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ おもに、国境こっきょう防衛ぼうえいのために軍団ぐんだん配置はいちされている皇帝こうていぞくしゅう総督そうとく
  2. ^ 共和きょうわせいのローマ貴族きぞくは、すうおおくのクリエンテス子分こぶん)をパトロヌス親分おやぶん)であった。この関係かんけいパトロネジ)によって、すうおおくの兵士へいし動員どういん平民へいみんよりもおも兵役へいえき義務ぎむおうじた。しかしながら、このような私的してき上下じょうげ関係かんけいが、ローマの国家こっか運営上うんえいじょう問題もんだいになり、一元いちげんてき上下じょうげ関係かんけい整理せいりする必要ひつようしょうじたのが、ローマが共和きょうわせいから帝政ていせい移行いこうした理由りゆうのひとつである。したがって、帝政ていせいのローマ貴族きぞくは、かつてのような多数たすうのクリエンテスをつパトロヌスではなくなってしまった。
  3. ^ ただし近年きんねん異説いせつている。ガッリエヌス#文武ぶんぶかん分離ぶんり歴史れきしてき意義いぎ参照さんしょう