マルクス・アウレリウス・セウェルス・アレクサンデル・アウグストゥス (ラテン語 らてんご : Marcus Aurelius Severus Alexander Augustus [1] 209年 ねん - 235年 ねん )は、第 だい 24代 だい ローマ皇帝 こうてい で、セウェルス朝 あさ の皇帝 こうてい としては5人 にん 目 め (セプティミウス・セウェルス 、カラカラ 、ゲタ 、ヘリオガバルス )となる。彼 かれ の死 し をもってセウェルス朝 あさ は50年 ねん 程 ほど の歴史 れきし に幕 まく を下 お ろし、軍人 ぐんじん 皇帝 こうてい 時代 じだい とも呼 よ ばれる「3世紀 せいき の危機 きき 」が始 はじ まった。
アレクサンデルは先帝 せんてい ヘリオガバルスの従弟 じゅうてい (母 はは 同士 どうし が姉妹 しまい )として生 う まれた。実権 じっけん を握 にぎ る祖母 そぼ ユリア・マエサ に支持 しじ を失 うしな ったヘリオガバルス帝 みかど の「代 か わり」として担 かつ ぎ出 だ され、ヘリオガバルスの養子 ようし として台頭 たいとう した[2] 。一時 いちじ は危険 きけん 視 し したヘリオガバルスに幽閉 ゆうへい されるが、これが近衛 このえ 隊 たい の反乱 はんらん を引 ひ き起 お こしてヘリオガバルスは処刑 しょけい された[3] 。
即位 そくい したアレクサンデル帝 みかど の治世 ちせい は、東方 とうほう で勢力 せいりょく を増 ま しつつあったサーサーン朝 あさ ペルシア帝国 ていこく の脅威 きょうい に晒 さら されつつも、軍事 ぐんじ 行動 こうどう を控 ひか えて平和 へいわ 路線 ろせん をとっていた。しかし、ゲルマニア 方面 ほうめん での軍事 ぐんじ 作戦 さくせん に消極 しょうきょく 的 てき な態度 たいど を繰 く り返 かえ したことで軍 ぐん の不興 ふきょう を買 か い、最終 さいしゅう 的 てき に軍 ぐん によって殺害 さつがい された。
属 ぞく 州 しゅう フェニキア のアルカ・カエサリア (英語 えいご 版 ばん ) 市 し [4] でマルクス・ユリウス・ゲシウス・マルキアヌス とユリア・アウィタ の子 こ として生 う まれ、マルクス・ユリウス・ゲッシウス・バッシアヌス・アレクシアヌス (Marcus Julius Gessius Bassianus Alexianus)と名付 なづ けられた[5] 。父 ちち マルキアヌスはシリア属 ぞく 州 しゅう の政務 せいむ 代行 だいこう 官 かん (プロマギストラテス(en:Promagistrate ) )を務 つと める貴族 きぞく であった[6] 。母 はは アウィタはセウェルス朝 あさ の外戚 がいせき バッシアヌス家 か の出身 しゅっしん で、ヘリオガバルス帝 みかど の母 はは ソエミアスの妹 いもうと であった[7] 。従 したが ってヘリオガバルス帝 みかど と同 おな じくカラカラ帝 みかど やゲタ帝 みかど 、セウェルス帝 みかど といった同 どう 王朝 おうちょう の皇帝 こうてい 達 たち の血縁 けつえん 者 しゃ という立場 たちば にあった[8] 。但 ただ し、Icksはマルキアヌスが実父 じっぷ という説 せつ に異議 いぎ を唱 とな え、212年 ねん 以前 いぜん にアウィタと結婚 けっこん することができず、アレクサンデルの実父 じっぷ はアウィタの最初 さいしょ の夫 おっと と主張 しゅちょう している。
221年 ねん 、バッシアヌス家 か の女 おんな 当主 とうしゅ である祖母 そぼ ユリア・マエサは暴政 ぼうせい を続 つづ けるヘリオガバルス帝 みかど とソエミアスを見切 みき り、もう一人 ひとり の孫 まご を皇帝 こうてい にすべくアレクサンデルをヘリオガバルスの養子 ようし とした[9] 。翌年 よくねん 、ヘリオガバルスとソエミアスは近衛 このえ 隊 たい に処刑 しょけい され、その遺体 いたい は市中 しちゅう を引 ひ き回 まわ された挙句 あげく にティベレ川 がわ に捨 す てられた[10] 。
即位 そくい したバッシウスはカエサル・マルクス・アウレリウス・セウェルス・アレクサンデル・アウグストゥス (Caesar Marcus Aurelius Severus Alexander Augustus)に改名 かいめい した。
母 はは による補佐 ほさ と軍縮 ぐんしゅく 政策 せいさく [ 編集 へんしゅう ]
アレクサンデル帝 みかど は若 わか く穏 おだ やかな性格 せいかく の持 も ち主 ぬし であったが、同時 どうじ に母 おも や祖母 そぼ の言 い いなりでもあった[11] 。アウィタは姉 あね ソエミアスが息子 むすこ から実権 じっけん を奪 うば っていたのと同 おな じように、アレクサンデルを通 つう じて取 と り巻 ま き達 たち と実権 じっけん を掌握 しょうあく した[12] 。その中 なか には法務 ほうむ 官 かん ドミティウス・ウルピアーヌス などが含 ふく まれた[13] 。アウィタはアレクサンデル帝 みかど の成長 せいちょう に従 したが って実権 じっけん 掌握 しょうあく の程度 ていど を変更 へんこう する態度 たいど を見 み せたが[14] 、権力 けんりょく への執念 しゅうねん は変 か わらなかった[15] 。アレクサンデルの后妃 こうひ となったサッルスティア・オルビアナ (英語 えいご 版 ばん ) とその一族 いちぞく が新 あら たな外戚 がいせき として権力 けんりょく をバッシアヌス家 か から奪 うば うと、激 はげ しい怒 いか りを見 み せて宮殿 きゅうでん から彼 かれ らを追放 ついほう しようとした[16] 。
また、セウェルス朝 あさ の権力 けんりょく の源泉 げんせん であった軍 ぐん から距離 きょり を置 お くことで膨大 ぼうだい 化 か した軍事 ぐんじ 費 ひ の抑制 よくせい を図 はか り[17] 、アレクサンデルも軍 ぐん とは距離 きょり を置 お いた[8] 。しかし結果 けっか として帝国 ていこく の各地 かくち で反乱 はんらん が相次 あいつ ぎ、更 さら に帝都 ていと ではウルピアヌスの振 ふ る舞 ま いが近衛 このえ 隊 たい の不興 ふきょう を買 か った[18] 。近衛 このえ 隊 たい がウルピアヌスへの反乱 はんらん を起 お こすと民衆 みんしゅう や各地 かくち の軍 ぐん もこれに加 くわ わり、帝国 ていこく は騒乱 そうらん 状態 じょうたい に陥 おちい った。幸運 こううん にもアレクサンデル自身 じしん に刃 は は向 む けられず、ウルピアヌスが殺害 さつがい されるに留 とど まったが[16] 、動乱 どうらん の中 なか でカッシウス・ディオ などアレクサンデル帝 みかど に近 ちか い要人 ようじん が宮殿 きゅうでん から追放 ついほう され[19] 、各地 かくち の属 ぞく 州 しゅう でもアレクサンデル派 は の総督 そうとく への忠誠 ちゅうせい 拒否 きょひ が相次 あいつ ぎ、軍 ぐん との対立 たいりつ が顕著 けんちょ となった[16] 。
他 た に治世 ちせい で特筆 とくひつ すべき点 てん には、アレクサンドリナ水道 すいどう の建設 けんせつ が挙 あ げられる[20] 。
ユリア・アウィタ
軍 ぐん との対立 たいりつ を抱 かか えつつも平穏 へいおん な統治 とうち が続 つづ いていたが、サーサーン朝 あさ ペルシア帝国 ていこく との戦争 せんそう が破滅 はめつ の契機 けいき となった[12] 。歴史 れきし 家 か ヘロディアヌス によれば、この戦 たたか いでアレクサンデル帝 みかど はペルシア軍 ぐん に屈辱 くつじょく 的 てき な敗北 はいぼく を喫 きっ したと記 しる されている[21] (一方 いっぽう 、『ローマ皇帝 こうてい 群 ぐん 像 ぞう 』にはペルシアから大 だい 勝利 しょうり を得 え た旨 むね の記述 きじゅつ がある[22] )。その後 ご 、次第 しだい に帝国 ていこく 軍 ぐん は体制 たいせい を立 た て直 なお して反撃 はんげき に転 てん じ[23] 、アレクサンデルはアンティオキアに陣 じん を構 かま えた[12] 。ところがまたもや、アレクサンデル軍 ぐん はペルシア軍 ぐん に大敗 たいはい を喫 きっ してアルメニア王国 おうこく に退 しりぞ き[24] 、しかもそこで更 さら なる追 お い討 う ちを受 う けた[25] 。ペルシア軍 ぐん が引 ひ き上 あ げたことで破滅 はめつ は免 まぬか れたが[23] 、帝国 ていこく 軍 ぐん は異常 いじょう なまでに規律 きりつ を乱 みだ していた[17] 。
232年 ねん 、タウリアヌスという軍人 ぐんじん が属 ぞく 州 しゅう シリアの軍 ぐん に反乱 はんらん を呼 よ びかけ、帝位 ていい 請求 せいきゅう 者 しゃ として蜂起 ほうき した[26] 。どうにかアレクサンデル帝 みかど は反乱 はんらん を鎮 しず め、タウリアヌスは逃 のが れる際 さい にユーフラテス川 がわ で溺死 できし したという[27] 。233年 ねん 、アレクサンデル帝 みかど はペルシア帝国 ていこく と和睦 わぼく してローマに帰還 きかん した[23] 。
234年 ねん 、ライン川 がわ の防衛 ぼうえい 線 せん を破 やぶ った蛮族 ばんぞく が一部 いちぶ ガリア 北部 ほくぶ に侵入 しんにゅう したとの報告 ほうこく を受 う け、アレクサンデル帝 みかど は軍 ぐん を派遣 はけん した[28] 。各地 かくち から援軍 えんぐん を集 あつ めた帝国 ていこく 軍 ぐん はただちに蛮族 ばんぞく をライン川 がわ の向 む こうへ押 お し返 かえ し、勢 いきお いづいた軍人 ぐんじん 達 たち は逆 ぎゃく に渡河 とか して防衛 ぼうえい 線 せん を押 お し広 ひろ げようとした[29] 。しかし、アレクサンデル帝 みかど は母 はは の助言 じょげん もあって、蛮族 ばんぞく 達 たち に賠償金 ばいしょうきん を払 はら って矛 ほこ を収 おさ めさせることにした[17] 。効果 こうか 的 てき であったかどうかにかかわらず、この行動 こうどう は軍 ぐん の中 なか でアレクサンデル帝 みかど への軽蔑 けいべつ を決定的 けっていてき なものにし、軍人 ぐんじん 達 たち は皇帝 こうてい を臆病 おくびょう と嘲笑 あざわら った[30] 。歴史 れきし 家 か ヘロディアヌスは「軍 ぐん が狼藉 ろうぜき を働 はたら いた蛮族 ばんぞく を打 う ち倒 たお さねばならない時 とき 、臆病 おくびょう な皇帝 こうてい は敵 てき を罰 ばっ するどころか金 かね を与 あた えたのだ」と批判 ひはん している[31] 。
軍 ぐん 内 ない にアレクサンデル帝 みかど への不 ふ 服従 ふくじゅう が広 ひろ がり始 はじ め、遂 つい には蛮族 ばんぞく 上 あ がりの下級 かきゅう 軍人 ぐんじん マクシミヌス・トラクス を中心 ちゅうしん にした反乱 はんらん 軍 ぐん が蜂起 ほうき した[32] 。
トラクスの反乱 はんらん 軍 ぐん は、小規模 しょうきぼ なものから次第 しだい に他 た の反乱 はんらん 勢力 せいりょく を取 と り込 こ んで肥大 ひだい 化 か し、遂 つい には第 だい 22軍団 ぐんだん 「プリミゲニア 」が呼応 こおう する事態 じたい となった。アレクサンデルは陣中 じんちゅう で母 はは と共 とも に殺害 さつがい され[32] 、反乱 はんらん 軍 ぐん に加担 かたん した遠征 えんせい 軍 ぐん はトラクスを皇帝 こうてい に推挙 すいきょ する決定 けってい を下 くだ した[8] 。
それまで皇帝 こうてい の失脚 しっきゃく はしばしば起 お きたが、ほとんどは元老 げんろう 院 いん の決議 けつぎ や民衆 みんしゅう 蜂起 ほうき 、あるいは近衛 このえ 隊 たい による暗殺 あんさつ の結果 けっか であった。軍 ぐん の反乱 はんらん で皇帝 こうてい が倒 たお されたことは、元老 げんろう 院 いん 議員 ぎいん 、あるいは市民 しみん の支持 しじ に立脚 りっきゃく した文民 ぶんみん 統治 とうち が終 お わりを迎 むか えたことを意味 いみ した。この時 とき から、プリンキパトゥス (終身 しゅうしん 元首 げんしゅ 制 せい )は役目 やくめ を終 お え始 はじ めたのである[17] 。ただしその後 ご の軍人 ぐんじん 皇帝 こうてい 時代 じだい (3世紀 せいき の危機 きき )においても、形式 けいしき 的 てき には元老 げんろう 院 いん や民衆 みんしゅう の支持 しじ を得 え る態度 たいど が続 つづ けられている。明確 めいかく に終焉 しゅうえん するのは、それらを大義名分 たいぎめいぶん としてすら必要 ひつよう としないドミナートゥス (専制 せんせい 君主 くんしゅ 制 せい )が確立 かくりつ されるディオクレティアヌス の時代 じだい である[17] 。
アレクサンデルは東方 とうほう 属 ぞく 州 しゅう の中心地 ちゅうしんち シリアに縁 えん を持 も つ最後 さいご の皇帝 こうてい であり、セウェルス朝 あさ の最後 さいご ともなった。厳格 げんかく であった母 はは の影響 えいきょう から倫理 りんり 的 てき に(従兄 じゅうけい のヘリオガバルスとは対照 たいしょう 的 てき に)清廉 せいれん な人物 じんぶつ であることに努 つと め、10年 ねん 程度 ていど の治世 ちせい で帝国 ていこく の風紀 ふうき は大 おお きく改 あらた められた[8] 。また、歴史 れきし 家 か でもある元老 げんろう 院 いん 議員 ぎいん カッシウス・ディオやウルピアヌスを重用 じゅうよう したことも、治世 ちせい に良 よ い影響 えいきょう を与 あた えた[18] (同 どう 時代 じだい 人 じん の法学 ほうがく 者 しゃ パウルス も重用 じゅうよう した[33] )。
「ローマ皇帝 こうてい 群 ぐん 像 ぞう 」によれば他 た に多 おお くの改革 かいかく を行 おこな ったとされ、帝都 ていと に駐留 ちゅうりゅう する首都 しゅと 長官 ちょうかん に関 かん する権限 けんげん の改革 かいかく [34] 、破綻 はたん しつつあった帝国 ていこく の国庫 こっこ を建 た て直 なお すために緊縮 きんしゅく 財政 ざいせい 政策 せいさく [35] 。デナリウス などの貨幣 かへい に含 ふく まれる鉱物 こうぶつ 量 りょう を増減 ぞうげん させての貨幣 かへい 価値 かち 調整 ちょうせい などを図 はか っている[36] 。民 みん に対 たい しても減税 げんぜい や文化 ぶんか 学問 がくもん への補助 ほじょ 金 きん などの政策 せいさく を行 おこな い、対立 たいりつ する軍 ぐん にも兵士 へいし 階級 かいきゅう の待遇 たいぐう 改善 かいぜん などを進 すす めた[37] 。そして高利貸 こうりが しを防 ふせ ぐために国営 こくえい の銀行 ぎんこう を開 ひら き、安 やす い金利 きんり で資金 しきん を貸 か し出 だ したとされる[38] 。
宗教 しゅうきょう 的 てき にも善良 ぜんりょう な政策 せいさく を進 すす め、同 おな じエルガバル神 しん への関 かか わりを持 も ちながら、先帝 せんてい とは異 こと なり既存 きそん の宗教 しゅうきょう を刺激 しげき しなかった。そればかりか、迫害 はくがい されていたユダヤ教 きょう やキリスト教 きりすときょう にも寛大 かんだい であったとされる[39] [40] 。
先 さき に述 の べた通 とお りサッルスティア・オルビアナと結婚 けっこん しているが[8] 、 後 のち に一族 いちぞく ごと宮殿 きゅうでん から追放 ついほう している[27] 。その後 ご にスピルキア・マメサという女性 じょせい と再婚 さいこん したが子 こ は無 な かった[41] 。
ウィキメディア・コモンズには、アレクサンデル・セウェルス に関 かん するメディアがあります。
副次的 ふくじてき 資料 しりょう [ 編集 へんしゅう ]
Southern, Pat. The Roman Empire from Severus to Constantine , Routledge, 2001
Benario, Herbert W., Alexander Severus (A.D. 222-235) , De Imperatoribus Romanis (2001)
Canduci, Alexander (2010), Triumph & Tragedy: The Rise and Fall of Rome's Immortal Emperors , Pier 9, ISBN 978-1-74196-598-8
Gibbon. Edward Decline & Fall of the Roman Empire (1888)
^ ラテン語 らてんご では "MARCVS AVRELIVS SEVERVS ALEXANDER AVGVSTVS" 。
^ Dio, 60:20:2
^ Herodian, 5:8:5
^ Historia Augusta, Life of Severus Alexander , 1:2
^ Canduci, pg. 60
^ Benario, Severus Alexander
^ Dio, 79:30:3
^ a b c d e Benario, Alexander Severus
^ Herodian, 5:7:4
^ Southern, pg. 59
^ Zonaras, 12:15:1
^ a b c Southern, pg. 61
^ Zosimus, 1:10
^ Dio, Book 80
^ Herodian, 6:1:9
^ a b c Gibbon, Ch. 6
^ a b c d e Canduci, pg. 61
^ a b Southern, pg. 60
^ Dio, 80:26:2
^ Historia Augusta, Life of Severus Alexander , 25:4
^ Herodian, 6:5-6:6
^ Historia Augusta, Life of Severus Alexander , 55:1-3
^ a b c Southern, pg. 62
^ Herodian, 6:5:10
^ Herodian, 6:6:3
^ Victor, 24:2
^ a b Canduci, pg. 59
^ Herodian, 6:7:2
^ Herodian, 6:7:6
^ Zonaras, 12:15
^ Herodian, 6:7:10
^ a b Southern, pg. 63
^ Historia Augusta, Life of Severus Alexander , 26:5
^ Historia Augusta, Life of Severus Alexander , 33:1
^ Historia Augusta, Life of Severus Alexander , 15:1
^ Tulane University "Roman Currency of the Principate"
^ Historia Augusta, Life of Severus Alexander , 21:6
^ Historia Augusta, Life of Severus Alexander , 21:2
^ Historia Augusta, Life of Severus Alexander , 43:6-7
^ 1901–1906 Jewish Encyclopedia article "Alexander Severus"
^ Historia Augusta, Life of Severus Alexander , 20:3
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