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プラエトリアニ

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即位そくいせんするクラウディウスみかど』(1867ねんローレンス・アルマ=タデマ
ひだり大勢おおぜいいるのがプラエトリアニ。

プラエトリアニ古典こてんラテン語らてんごpraetoriani、プラエトーリアーニー)は、マ帝国まていこくにおいて皇帝こうていまもるために組織そしきされた直属ちょくぞく精鋭せいえい部隊ぶたいである。日本語にほんごでは「近衛このえたい」、近衛このえ軍団ぐんだん」、「護衛ごえいたい」、「親衛隊しんえいたいなどとやくされる。アウグストゥスによる帝政ていせい開始かいしとともに組織そしきされ、コンスタンティヌス1せいによって解体かいたいされた。プラエトリアニは帝政ていせいローマにおいて、本国ほんごくイタリア駐屯ちゅうとんすることがゆるされた唯一ゆいいつ軍事ぐんじ組織そしきであり、その任務にんむ皇帝こうてい身辺しんぺん警護けいごから不穏ふおん分子ぶんし摘発てきはつまで多岐たきわたった。

「プラエトリアニ」の先駆さきが

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praetoriani は、プラエトル法務ほうむかん)の天幕てんまくあらわす「プラエトリウム」(praetorium)に由来ゆらいする。ローマ軍団ぐんだん司令しれいかんかく階級かいきゅう兵士へいしから自分じぶんたちの護衛ごえいへい選抜せんばつするのが慣習かんしゅうとなっており、すくなくとも紀元前きげんぜん275ねんころにはスキピオものがそのようにしていたのが記録きろくられる。

護衛ごえいへい歩兵ほへいおよび騎兵きへいから構成こうせいされていた。そのうちに大隊だいたいコホルス単位たんい編成へんせいおおきくなり、いつしか「プラエトルの部隊ぶたい」(cohors praetoria)とばれるようになった。共和きょうわせい末期まっきになると指揮しきかんは、たんなる警護けいご部隊ぶたいではなく軍団ぐんだん単位たんいとしての精鋭せいえい部隊ぶたいっているのが通常つうじょうとなる。とくガイウス・ユリウス・カエサルだい10軍団ぐんだんエクェストリスみずからがちょくりつする精鋭せいえい部隊ぶたいとしての名誉めいよあたえ、ガリア戦争せんそうローマ内戦ないせんつうじ、強靱きょうじん部隊ぶたいとして有効ゆうこう活用かつようした。

歴史れきし

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ローマのレリーフ、プラエトリアニ、西暦せいれき50ねんごろ

創設そうせつ

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アウグストゥス帝政ていせい創始そうしすると、このような精鋭せいえい部隊ぶたい戦時せんじだけでなく平時へいじにおいても有効ゆうこうかんがえ、プラエトリアニをつのるようになった。またアウグストゥスは、自分じぶんまもるためにはなんらかの組織そしき必要ひつようとはかんがえていたが、同時どうじ共和きょうわせいという体裁ていさいたもったままあらたな元首げんしゅせいつくげるため、慎重しんちょう増強ぞうきょうかさねた。まず1部隊ぶたい500にんを9つ編成へんせいし、徐々じょじょ部隊ぶたい人員じんいんすうを1000にんにまで増員ぞういんしていった。そして9つの部隊ぶたいのうち3つをローマに、そのうちの1つを皇宮こうぐう配備はいびさせた。そして紀元きげん2ねん騎士きし階級かいきゅうからプラエトリアニの最高さいこう責任せきにんしゃとなるプラエフェクトゥス・プラエトリオ2人ふたりくことを決定けっていした。

ティベリウによる強化きょうか

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アウグストゥスが逝去せいきょしたのち、その養子ようしだいだい皇帝こうてい就任しゅうにんしたティベリウスは、パンノニア駐留ちゅうりゅうぐん暴動ぼうどうたいして親衛隊しんえいたいちょうルキウス・アエリウス・セイヤヌス麾下きかの2親衛しんえい大隊だいたい息子むすこしょうドルスス指揮しき派遣はけんして鎮圧ちんあつたらせ、ゲルマニアではアルミニウスとの戦闘せんとう指揮しきしていたおいゲルマニクス指揮しきに2親衛しんえい大隊だいたいんで戦闘せんとう従事じゅうじさせている[1]。また、ティベリウスはセイヤヌスの進言しんげんもとづきローマ市内しない点在てんざいしていた親衛隊しんえいたい集結しゅうけつさせてその拠点きょてんたるカストラ・プラエトリア(英語えいごばん)建設けんせつし、これにより親衛隊しんえいたい地位ちいおおきく向上こうじょうした[2]

親衛隊しんえいたいちから背景はいけいにセイヤヌスは強大きょうだい権勢けんせいるったが、やがてその権勢けんせい危惧きぐしたティベリウスは排除はいじょ決意けついし、このさいセイヤヌスにわりひそかに親衛隊しんえいたいちょうへと任命にんめいしたナエウィウス・ストリウス・マクロ処断しょだんめいじ、マクロは親衛隊しんえいたい将兵しょうへい掌握しょうあくする一方いっぽう消防しょうぼうたいウィギレス(英語えいごばん)連携れんけいして周到しゅうとう準備じゅんびしもセイヤヌスの捕縛ほばく処刑しょけい成功せいこうし、以後いごセプティミウス・セウェルスだいになるまでセイヤヌスに匹敵ひってきする権力けんりょく親衛隊しんえいたいちょうあらわれることはなかった[3]

クラウディウス擁立ようりつ粛清しゅくせい

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41ねん1がつ24にちだい3だい皇帝こうていカリグラ自身じしんうらみをいだ親衛隊しんえいたい将校しょうこうカッシウス・カエレア(英語えいごばん)らに妻子さいしとも暗殺あんさつされ[4]暗殺あんさつ同調どうちょうする元老げんろういん議員ぎいんたち共和きょうわせい復活ふっかつ目指めざ活動かつどう開始かいししたが、おおくの親衛隊しんえいたいいん皇帝こうていからの報酬ほうしゅう元老げんろういん議員ぎいんたち無能力むのうりょく強欲ごうよく理由りゆう帝政ていせい存続そんぞくのぞみ、カリグラの叔父おじクラウディウス次期じき皇帝こうてい推戴すいたいしてだい4だい皇帝こうてい就任しゅうにん原動力げんどうりょくとなった[5]。クラウディウスは親衛隊しんえいたいいんたち賄賂わいろはら安全あんぜんかためると同時どうじ暗殺あんさつはんのカエレアらを不忠ふちゅうかど処刑しょけいした[6][7]

クラウディウスは皇帝こうてい就任しゅうにん征服せいふく事業じぎょうおこなっていたブリタニア親衛隊しんえいたい派遣はけんして戦闘せんとう従事じゅうじさせる一方いっぽう[8]親衛隊しんえいたいちょうルフリウス・クリスピヌス(英語えいごばん)不穏ふおん分子ぶんし摘発てきはつ功績こうせきたた騎士きしでありながら法務ほうむかん顕彰けんしょうと150まんセステルティウス報償ほうしょう元老げんろういんとおしておく[9]つまメッサリナとその愛人あいじんガイウス・シリウス(英語えいごばん)謀反むほんかど処刑しょけいするさいにも親衛隊しんえいたいをそのにんたらせているが、このとき不信ふしんかんいていた親衛隊しんえいたいちょうルキウス・ルシウス・ゲタ(英語えいごばん)わりに信頼しんらいあつかった解放かいほう奴隷どれいティベリウス・クラウディウス・ナルキッスス親衛隊しんえいたい指揮しきけんあたえ、事態じたい収拾しゅうしゅうさせている[10]

フラウィウスあさ

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68ねん6月28にちだい5だい皇帝こうていネロむかユリウス・クラウディウあさ崩壊ほうかいし、ローマ内乱ないらん勃発ぼっぱつすると親衛隊しんえいたい当初とうしょガルバしたがっていたが、その政敵せいてきであるオト買収ばいしゅうされてガルバを殺害さつがいする[11]内乱ないらん最終さいしゅうてき勝利しょうりしゃとなったウェスパシアヌス帝位ていいくにあたって息子むすこティトゥス親衛隊しんえいたいちょうえて統制とうせいし、秘密ひみつ警察けいさつとして活用かつようすること権力けんりょく確立かくりつ一助いちじょとした[12]

皇帝こうていとなったティトゥスの死後しご帝位ていいについたおとうとドミティアヌスちちウェスパシアヌス以上いじょう親衛隊しんえいたい重用じゅうようし、ダキア戦争せんそうでは親衛隊しんえいたいちょうコルネリウス・フスクスひきいる親衛隊しんえいたい派遣はけんし、フスクスを騎士きし階級かいきゅうでありながら遠征えんせいぐんそう司令しれいかんにんじる異例いれい抜擢ばってきおこなった。フスクスはダキア領内りょうない進撃しんげきしたさいタパエとうげはいし、親衛隊しんえいたいふく麾下きか部隊ぶたい壊滅かいめつしてローマぐん象徴しょうちょうである軍旗ぐんきうばわれおおきな打撃だげきこうむった[13]。その、ドミティアヌスが侍従じじゅうパルテニウスらに暗殺あんさつされたさいには親衛隊しんえいたいちょうティトゥス・ペトロニウス(英語えいごばん)関与かんよしたが、ドミティアヌスをしたっていた親衛隊しんえいたいいんたちによってパルテニウスとも処刑しょけいされている[14]

親衛隊しんえいたいちょうアッティアヌス

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いわゆるけんみかど時代じだいはいると、その2人ふたりであるトラヤヌスおなじヒスパニア出身しゅっしんプブリウス・アシリウス・アッティアヌス(英語えいごばん)親衛隊しんえいたいちょうにんじた。アッティアヌスはパルティア遠征えんせいにも従軍じゅうぐんし、遠征えんせいさきでトラヤヌスがぼっしたさい皇后こうごうプロティナ(英語えいごばん)はか自身じしん後見人こうけんにんつとめていたハドリアヌス後継こうけいしゃとなるようはからったともされ[15]、ハドリアヌスへの権力けんりょく移譲いじょう発表はっぴょうされるとただちにローマへと帰還きかんして執政しっせいかん経験けいけんしゃであった有力ゆうりょくな4にん元老げんろういん議員ぎいん処刑しょけいするきょた。この「4元老げんろういん議員ぎいん処刑しょけい事件じけん」はなぞおおく、ハドリアヌスの指示しじとも、アッティアヌスが独断どくだん脅威きょういとなりうる有力ゆうりょくしゃ排除はいじょしたともされる[16]

セウェルスあさ軍人ぐんじん皇帝こうてい時代じだい

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フラウィウスあさけんみかど時代じだいふたた内乱ないらん時代じだいになると、プラエトリアニはふたた独自どくじ勢力せいりょくとしてあたまをもたげ、皇帝こうていそのものを支配しはいするようになる。そしてペルティナクスころしたのちには、皇帝こうてい公開こうかい競売きょうばいにかけてディディウス・ユリアヌスえらぶという前代未聞ぜんだいみもん行為こういまでおこなうようになった。これらのれいられるように非常ひじょう強力きょうりょく軍事ぐんじ権力けんりょくであったにもかかわらず、皇族こうぞく元老げんろういん官僚かんりょうなどとはちがい、プラエトリアニ自身じしんとしては帝国ていこく統治とうちする能力のうりょくはなく、つねだれかを擁立ようりつせねばならなかった。

そしてセプティミウス・セウェルス皇帝こうてい地位ちいくと、かれはそれまであったプラエトリアニを解散かいさんみずからのパンノニア軍団ぐんだんあらたなプラエトリアニとして編成へんせいする。しかしその、プラエトリアニの統率とうそつれるだけの政治せいじりょく人物じんぶつめぐまれず、さらに軍人ぐんじん皇帝こうてい時代じだいになるとプラエトリアニは皇帝こうてい擁立ようりつ排除はいじょのままにするようになる。無論むろん人選じんせんはそのとき情勢じょうせいによって変動へんどうし、短命たんめい政権せいけんつづいた。そしてプラエフェクトゥス・プラエトリオの地位ちいからディオクレティアヌス帝位ていいくこととなった。

終焉しゅうえん

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ディオクレティアヌスはプラエトリアニ出身しゅっしんであったが、その権限けんげん大幅おおはば削減さくげんした。しかしプラエトリアニはそのままの状態じょうたいで、帝国ていこくは4分割ぶんかつされてゆく。そして最後さいご活躍かつやくは、312ねんマクセンティウスみかど支持しじしてコンスタンティヌス1せいたたかったミルウィウスきょうたたかである。プラエトリアニは戦闘せんとう大半たいはんになったが敗北はいぼく勝者しょうしゃとなったコンスタンティヌスはプラエトリアニを解散かいさんかく兵士へいしすうめいごとにローマぐん分散ぶんさんされた。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ タキトゥス『年代ねんだい』1.24,2.16
  2. ^ タキトゥス『年代ねんだい』4.2
  3. ^ カッシウス・ディオ『ローマの歴史れきし』58.9-14
  4. ^ スエトニウス『ローマ皇帝こうていでん』カリグラ.56-59
  5. ^ ヨセフス『ユダヤ古代こだい』6.19.2-3
  6. ^ ヨセフス『ユダヤ古代こだい』6.19.4
  7. ^ スエトニウス『ローマ皇帝こうていでん』クラウディウス.10
  8. ^ ケッピー, p. 159-160.
  9. ^ タキトゥス『年代ねんだい』11.1-4
  10. ^ タキトゥス『年代ねんだい』11.33-38
  11. ^ 南川みなみかわ, p. 37-38.
  12. ^ スエトニウス『ローマ皇帝こうていでん』ティトゥス,6
  13. ^ 南川みなみかわ, p. 99.
  14. ^ 南川みなみかわ, p. 67.
  15. ^ 南川みなみかわ, p. 130.
  16. ^ 南川みなみかわ, p. 138,155.

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 南川みなみかわ高志たかし『ローマけんみかどかがやける世紀せいき」の虚像きょぞう実像じつぞう講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ、2014ねんISBN 9784062922159 
  • ローレンス・ケッピー しる小林こばやし雅夫まさお梶田かじたともこころざし わけ碑文ひぶんから古代こだいローマ生活せいかつはら書房しょぼう、2006ねんISBN 9784562040261 

関連かんれん項目こうもく

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