エドワード・ブルワー=リットン

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初代しょだいリットン男爵だんしゃくエドワード・ブルワー=リットン
Edward Bulwer-Lytton, 1st Baron Lytton
ヘンリー・ウィリアム・ピッカーズギルによるリットン男爵だんしゃく肖像しょうぞうナショナル・ポートレート・ギャラリーくら
生年月日せいねんがっぴ 1803ねん5月25にち
出生しゅっしょう イギリスの旗 イギリスイングランドロンドンベイカー・ストリート
ぼつ年月日ねんがっぴ (1873-01-18) 1873ねん1がつ18にち(69さいぼつ
出身しゅっしんこう ケンブリッジ大学けんぶりっじだいがくトリニティ・カレッジ
ケンブリッジ大学けんぶりっじだいがくトリニティ・ホール英語えいごばん
所属しょぞく政党せいとう ホイッグとう保守党ほしゅとう
称号しょうごう 枢密すうみつ顧問こもんかん(PC)
配偶はいぐうしゃ ロジーナ・ブルワー=リットン(旧姓きゅうせいウィーラー)
親族しんぞく 初代しょだいリットン伯爵はくしゃく
だい2だいリットン伯爵はくしゃくまご

内閣ないかく だい2ダービーないかく
在任ざいにん期間きかん 1858ねん6月5にち - 1859ねん6月11にち

選挙せんきょ リンカーン選挙せんきょ英語えいごばん
ハートフォードシャー選挙せんきょ英語えいごばん
在任ざいにん期間きかん 1832ねん12月10にち - 1841ねん6月29にち
1852ねん7がつ7にち - 1866ねん7がつ14にち[1]

イギリスの旗 貴族きぞくいん議員ぎいん
在任ざいにん期間きかん 1866ねん7がつ14にち - 1873ねん1がつ18にち
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初代しょだいリットン男爵だんしゃくエドワード・ジョージ・アール・リットン・ブルワー=リットンえい: Edward George Earle Lytton Bulwer-Lytton, 1st Baron Lytton, PC1803ねん5月25にち - 1873ねん1がつ18にち)は、イギリス小説しょうせつげき作家さっか政治せいじ貴族きぞく一時いちじチャールズ・ディケンズ匹敵ひってきするほど人気にんきほこった。小説しょうせつポンペイ最後さいご』(The Last Days of Pompeii )が代表だいひょうさくとしてられており、オカルト小説しょうせつ『ザノーニ』やSFユートピア小説しょうせつたるべき種族しゅぞく』で近代きんだいオカルティズム多大ただい影響えいきょうあたえ、ヒッピーニューエイジにも影響えいきょうられる[2]戯曲ぎきょくリシュリュー』(Richelieu; Or the Conspiracy)に登場とうじょうする文句もんくペンはけんよりもつよ」(“The pen is mightier than the sword”)」は名高なだかい。政治せいじとしては1858ねんから1859ねんにかけて保守党ほしゅとう政権せいけん植民しょくみん大臣だいじんつとめたことが特筆とくひつされる。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

リットン男爵だんしゃく写真しゃしんアンドレ=アドルフ=ウジェーヌ・ディズデリフランス語ふらんすごばん撮影さつえい

1803ねん5月25にちノーフォークヘイドン・ホール英語えいごばん本拠ほんきょとする地主じぬし陸軍りくぐん大将たいしょうウィリアム・アール・ブルワー(William Earle Bulwer)とそのつまでクネブワースのロビンソンとリットン相続そうぞくじんであるエリザベス・バーバラ・ブルワー(旧姓きゅうせいウォーバートン=リットン)(Elizabeth Barbara Warburton-Lytton)のあいだ三男さんなん末子まっし)としてロンドンベイカー・ストリートまれる[3][4]生誕せいたん名前なまえは「エドワード・ジョージ・アール・リットン・ブルワー」(Edward George Earle Lytton Bulwer)[3]。リットンは父親ちちおや母方ははかた祖父母そふぼには完全かんぜん存在そんざい無視むしされてそだち、唯一ゆいいつははのエリザベスがかれ溺愛できあいした[5]彼女かのじょおっとウィリアムの気性きしょうはげしさから、1ねんたないうちに大法たいほういん子供こどもたちの後見人こうけんにんもとめた[6]。ナポレオンぐん侵攻しんこう予期よきしていたイギリス政府せいふは、ウィリアムをランカシャーしゅうぐん司令しれいかん任命にんめいしてどうしゅう防衛ぼうえいたらせたが、1807ねん7がつ祖国そこくへの貢献こうけんみとめられ貴族きぞく昇格しょうかくするまえ死去しきょした[6]

ども時代じだい大半たいはん母方ははかたかんネブワースで読書どくしょ三昧ざんまいそだち、このかんかれにとって理想郷りそうきょうであり、かれがつねに回帰かいきする貴族きぞく主義しゅぎてきロマンてき信念しんねん形成けいせいするみなもととなった(のちはは遺産いさんとして相続そうぞく[5]家庭かてい教師きょうしはつけられたが、さだまった学校がっこうかようことはなく、学校がっこうとおったときは、際立きわだって利発りはつであったためにいじめにあうことがおおく、おおむね独学どくがくだった[5]。イートンこう入学にゅうがくみずかことわっている[5]

1820ねんなつケンブリッジ大学けんぶりっじだいがく進学しんがく準備じゅんびちゅうに、湖水こすい地方ちほうで「ルーシー」という少女しょうじょこいをし、これがかれ理想りそう女性じょせいぞう決定けっていけた[7]彼女かのじょ父親ちちおや不本意ふほんい結婚けっこんをさせられて突然とつぜん姿すがたし、リットンはバイロンふう憂鬱ゆううつおちいった[6]。ルーシーは、まだかれこいしておりもうすぐぬと手紙てがみうったえ、死去しきょした[6]自伝じでんによると、リットンは彼女かのじょはかまえくずれ、作家さっかになる決心けっしんをしたという。彼女かのじょは、リットンの小説しょうせつかええがかれる、保護ほごもとめる孤独こどく女性じょせいのモデルとなった[7]

ケンブリッジ大学けんぶりっじだいがくトリニティ・カレッジ、ついでどう大学だいがくトリニティ・ホール英語えいごばんまな[4]ケンブリッジ大学けんぶりっじだいがくでも、すぐれた才能さいのうにもかかわらず、横柄おうへいさから友人ゆうじんはほとんどできず、孤独こどくふかめる[5]。ケンブリッジ在学ざいがくちゅう一時いちじバイロンのもと愛人あいじんキャロライン・ラム愛人あいじん関係かんけいっていた[8]のちつまとなるロジーナはラムの庇護ひごにあり、ラムとの関係かんけいがロジーナとの結婚けっこん間接かんせつてきにつながっている[6]。ドイツ文学ぶんがくゲーテシラーまなびの基盤きばんとなり、小説しょうせつは「遍歴へんれき」「修行しゅぎょう」がテーマになっているものがおお[5]

パーティーで機知きちんだうつくしいアイルランドじん女性じょせいロジーナ・ドイル・ウィーラー英語えいごばん出会であい、1827ねん結婚けっこんしたが、リットンのはははこの結婚けっこん不満ふまんで、息子むすこへの小遣こづかいをカットした[6]夫婦ふうふ贅沢ぜいたく生活せいかつおくったため、リットンは収入しゅうにゅうのために多作たさく作家さっかとなった[6]

1827ねんにゲーテの『わかきウェルテルのなや』に影響えいきょうけた悲劇ひげきてき小説しょうせつ『Falkland』を出版しゅっぱんした。さらに1828ねん6がつには『ペラム(Pelham)』を出版しゅっぱん[4]。これはベンジャミン・ディズレーリの「ビビアン・グレイ」に多分たぶん影響えいきょうけていた作品さくひんで、ダンディ・ノベルとしてられ、センセーションをこした[8]1830ねんころからディズレーリの友人ゆうじんになった[8]。1830ねんに『ポール・クリフォード英語えいごばん』を出版しゅっぱんし、獄中ごくちゅう犯罪はんざいしゃあつかったニューゲイト・ノベル英語えいごばんはしりとなった[9]。このような社会しゃかい道徳どうとく規範きはん挑戦ちょうせんする小説しょうせつ当初とうしょめいげたが、イギリスの批評ひひょうたちから批判ひはんされ、プライドをきずつけられ、イギリス文壇ぶんだん確執かくしつしょうじ、生涯しょうがい文壇ぶんだん周縁しゅうえんいやられることになる[9]。いったん名声めいせいてからは、むら生活せいかつ単純たんじゅん素朴そぼく価値かち家族かぞくきずな大切たいせつさをうたうといった社会しゃかいもとめる理想りそうてき価値かちかん作中さくちゅうあらわし、無私むし高貴こうき価値かち社会しゃかい調和ちょうわたもった理想りそうてき過去かこへと読者どくしゃさそい、なぐさめをあたえた[9]

社交しゃこうかいではブレッシントン伯爵はくしゃく夫人ふじんマルグリット・ガーディナー英語えいごばん文芸ぶんげいサロンのゴア・ハウスに出入でいりしたが、彼女かのじょのサロンはロンドン社交しゃこうかいでも悪名あくめいたかほう一派いっぱ自任じにんし、イギリスきってのダンディせいぞろいし、リットンのダンディぶりは異彩いさいはなった[10]。ゴア・ハウスにはベンジャミン・ディズレーリチャールズ・ディケンズもおり、リットンは西洋せいよう占星術せんせいじゅつ水晶すいしょううらな[ちゅう 1]専門せんもんとして、うえ世代せだいのイギリスのオカルティストとのパイプ役ぱいぷやくだったジョン・ヴァーリー英語えいごばんかたならべた[12]主流しゅりゅう社交しゃこうかいとゴア・ハウスは完全かんぜんかれており、リットンは社交しゃこうかいでも周縁しゅうえん位置いちすることになり、かれ自分じぶん才能さいのうみとめないイギリスの批評ひひょう読者どくしゃ猛烈もうれつ批判ひはんし、イギリス人嫌ひとぎらいをつよめ、ドイツ・イタリア・フランスの批評ひひょう賛美さんびした[10]

1831ねん4がつ30にちセント・アイヴス選挙せんきょ英語えいごばんから選出せんしゅつされてホイッグとう庶民しょみんいん議員ぎいんとなる[4]1832ねんからはリンカーン選挙せんきょ英語えいごばんから選出せんしゅつされる。1838ねんにはじゅん男爵だんしゃくじょせられた。しかし1841ねんそう選挙せんきょ英語えいごばんでは落選らくせん[4]。リットンは知性ちせい発想はっそうすぐれていても、おおやけでの演説えんぜつ不得手ふえてで、ごく短期間たんきかんのぞき、政治せいじとして一流いちりゅうになることはなかった[10]

このあいだ小説しょうせつ精力せいりょくてき執筆しっぴつし、1832ねんには『ユージン・アラム英語えいごばん』、1833ねんには『ゴドルフィン英語えいごばん』、1834ねんには『ポンペイ最後さいご』と『The Pilgrims of the Rhine』、1835ねんには『Rienzi』、1837ねんには『アーネスト・マルトレイヴァース(Ernest Maltravers)』、1841ねんには『Night and Morning』、1842ねんにはオカルト小説しょうせつザノーニ英語えいごばん』を出版しゅっぱんした[4]。1833ねんから1834ねんのロジーナとのイタリア旅行りょこうが、『Rienzi』『ポンペイ最後さいごとうのイタリアを舞台ぶたいにした作品さくひん研究けんきゅうしょ結実けつじつした[6]

どう時期じきげき作家さっかとしても活躍かつやくし、1836ねんには最初さいしょ演劇えんげき脚本きゃくほん『The Duchess de la Vallière』をいた。これは興行こうぎょうてき失敗しっぱいわったものの、1838ねんの『The Lady of Lyons』ではおおきな成功せいこうおさめた[4]。 さらに1839ねんには『リシュリュー』、1840ねんには『マネー英語えいごばん』といった脚本きゃくほんいた[4]

1841ねん議席ぎせきうしなったのち、ドイツ旅行りょこう[4]1843ねん歴史れきし小説しょうせつ『The Last of the Barons』を出版しゅっぱんした[4]1843ねん12月のははによりリットンネブワース土地とちであるネブワース・ハウス相続そうぞく[4]1844ねん2がつ20日はつかには勅許ちょっきょて「ブルワー=リットン」せい改姓かいせいした[3]1846ねんには小説しょうせつ『Confessions of a Water Patient』、『The New Timon』、1848ねんには歴史れきし小説しょうせつ『Harold』と叙事詩じょじし『King Arthur』、1849ねんには小説しょうせつThe Caxtons: A Family Picture』を出版しゅっぱん[4]1849ねんにはコメディの脚本きゃくほん『Not so bad as we seem』をいた[4]

1852ねんハートフォードシャー選挙せんきょ英語えいごばんから選出せんしゅつされてふたた庶民しょみんいん議員ぎいんとなる。農業のうぎょう保護ほご貴族きぞく主義しゅぎこそがイギリス社会しゃかい伝統でんとうてき特質とくしつであるとつよ主張しゅちょうし、フランスやアメリカりゅう民主みんしゅ主義しゅぎへの移行いこう警鐘けいしょうらし、穀物こくもつほう廃止はいし反対はんたい[13]。そのため保守党ほしゅとう議員ぎいんとなった。以降いこう1866ねん貴族きぞくいん議員ぎいんれっするまでこの議席ぎせき保持ほじしたが[4]、そのかんがえは政治せいじとしては時代遅じだいおくれになっていった[13]

1858ねんから1859ねんにかけては保守党ほしゅとう政権せいけんだい2ダービー伯爵はくしゃく内閣ないかくにおいて植民しょくみん大臣だいじんつとめた[4]植民しょくみん大臣だいじんとしてブリティッシュ・コロンビア植民しょくみん英語えいごばん創設そうせつにあたった。これは金鉱きんこう発掘はっくつ人口じんこう流入りゅうにゅうのため必要ひつようとなったものである。またオーストラリアでは、クイーンズランドしゅうニューサウスウェールズしゅうから分離ぶんりさせた。植民しょくみん各地かくちまちかれにちなむリットンという名前なまえへの改名かいめいおこなわれた[4]

植民しょくみん大臣だいじん退任たいにん政治せいじてき活動かつどうすくなくなった。公職こうしょく引退いんたいは、イギリスの未来みらい不安ふあんいだき、民主みんしゅ主義しゅぎ崩壊ほうかいしていくことを小説しょうせつえがいた[13]1862ねんには『A Strange Story』、さらにのちに『ケネルム・チリングリー(Kenelm Chillingly)』を出版しゅっぱんした[4]

1866ねん7がつだい3ダービー伯爵はくしゃくないかく成立せいりつしたさい連合れんごう王国おうこく貴族きぞく爵位しゃくいリットン男爵だんしゃくじょされて貴族きぞくいん議員ぎいんれつした[4]

1870ねんには、人間にんげんよりすぐれた種族しゅぞくによる民主みんしゅ主義しゅぎえた理想りそうてき地下ちか世界せかいえがいたSFユートピア小説しょうせつたるべき種族しゅぞく』を出版しゅっぱん[13]

1873ねん1がつ18にち死去しきょ[4]爵位しゃくい一人ひとり息子むすこロバート・ブルワー=リットン継承けいしょうした。

爵位しゃくい/じゅん男爵だんしゃく[編集へんしゅう]

1838ねん7がつ18にち以下いかじゅん男爵だんしゃく新規しんきじょされた[3]

  • (ハートフォードしゅうにおけるネブワースの)初代しょだいじゅん男爵だんしゃく(1st Baronet "of Knebworth, co. Hertford")
    (勅許ちょっきょじょうによる連合れんごう王国おうこくじゅん男爵だんしゃく)

1866ねん7がつ14にち以下いか爵位しゃくい新規しんきじょされる[3]

  • ハートフォードしゅうにおけるネブワースの初代しょだいリットン男爵だんしゃく (1st Baron Lytton of Knebworth, co. Hertford)
    (勅許ちょっきょじょうによる連合れんごう王国おうこく貴族きぞく爵位しゃくい)

家族かぞく[編集へんしゅう]

1827ねん8がつ29にちロジーナ・ドイル・ウィーラー英語えいごばん(Rosina Doyle Wheeler)[ちゅう 2]結婚けっこん[2]彼女かのじょとのあいだ以下いかの2もうけた。

結婚けっこん当初とうしょ関係かんけい良好りょうこうだったが、リットンは気性きしょうはげしく、贅沢ぜいたく結婚けっこん生活せいかつのためにおおくの収入しゅうにゅうようと多作たさくで、政治せいじ活動かつどうもあり、いそがしさのためにしばしばいかりっぽくなり、家族かぞくをないがしろにし、不倫ふりんし、夫婦ふうふ関係かんけいには緊張きんちょうしょうじ、二人ふたりはげしい喧嘩けんかかえすようになった[6]たがいにおやがいないという境遇きょうぐうかれっての結婚けっこんだったが、家父長制かふちょうせい身上しんじょうとするリットンと女性じょせい自立じりつかかげる女権じょけんろんしゃロジーナの結婚けっこん生活せいかつは、すさまじい喧嘩けんか衝突しょうとつ連続れんぞくとなり、たがいを身体しんたいてきにも攻撃こうげきしていた[2][7]。さらにリットンの母親ははおやによるロジーナへの軽蔑けいべつが、生涯しょうがいにわたってにん関係かんけい悪化あっかさせた[7]。1833ねんから1834ねん夫婦ふうふでのイタリア旅行りょこう結婚けっこん生活せいかつわりとなり、1836ねん法的ほうてき別居べっきょした[6]。リットンははは遺産いさん相続そうぞくして大金持おおがねもちになったが、ロジーナに離婚りこんみとめさせようと彼女かのじょ金銭きんせん使用しよう制限せいげんし、ロジーナも離婚りこんには賛成さんせいだったが、リットンがしめした離婚りこん条件じょうけんはロジーナの生活せいかつ十分じゅうぶんなものではなく、困窮こんきゅうくるしんだ[15]

リットンは次々つぎつぎ愛人あいじんつくり、ローラ・ディーコン(Laura Deacon)とのあいだむすめを3にんもうけ、ディーコンの名前なまえ遺言ゆいごんにも登場とうじょうする[7]遺言ゆいごんにはじゅうすうめいおよ女性じょせい遺産いさん相続そうぞくじんとして登場とうじょうするが、これはすべてリットンのわす形見がたみだという[7]。ロジーナも愛人あいじんつくった[7]

リットンは離婚りこん成立せいりつさせるためにロジーナと彼女かのじょ愛人あいじんにスパイをけて監視かんししておどし、ロジーナはこれに反抗はんこうして別居べっきょ生活せいかつどもたちの養育よういくようとかれうったえた[7]。ロジーナがはつ小説しょうせつ『チーヴリー、あるいは名誉めいよあるおとこ』(Cheveley, or, The man of honour、1839ねん)で、あからさまにおっとおもわせる主人公しゅじんこうを、攻撃こうげきてき威圧いあつてきおんなたらしにえがいたことで、二人ふたり険悪けんあく別居べっきょはさらに悪化あっかした[14]彼女かのじょ経済けいざいてき困難こんなんもあり、結婚けっこん生活せいかつへの不満ふまんめ、ロマンティック・ラブ女性じょせい結婚けっこんという不平等ふびょうどうなパートナーシップにおとしいれるやりくち探求たんきゅうした小説しょうせつ生涯しょうがい出版しゅっぱんした[7][14][15]。リットンは地方ちほう議員ぎいん選出せんしゅつされた集会しゅうかいでロジーナから公然こうぜん非難ひなんけ、彼女かのじょ精神せいしん異常いじょうめつけ強制きょうせい入院にゅういんさせたが、彼女かのじょ友人ゆうじんたちが大々的だいだいてき抗議こうぎし、世論せろん批判ひはんし、3週間しゅうかん退院たいいんとなった[2][15]文壇ぶんだんおよびロンドン社交しゃこうかい夫婦ふうふどちらの味方みかたをするかで二分にぶんされたとわれ、リットンは彼女かのじょ攻撃こうげきはげしさから政治せいじとしての成功せいこう断念だんねんしている[7]

1839ねんにロンドンで、『チーヴリー、あるいは名誉めいよあるおとこ』にたいする風刺ふうし『チーヴリー夫人ふじん、あるいは名誉めいよあるおんな』(Lady Cheveley, or, The Woman of Honour)が出版しゅっぱんされたが、文学ぶんがく史家しかのマリー・マルヴィー・ロバーツによると、作者さくしゃはおそらくリットン本人ほんにんである[15]本書ほんしょでは、不義ふぎおかしてはいるが実直じっちょくなヴィクトリアあさてきおっとと、安全あんぜん場所ばしょからおっと悪意あくいける卑怯ひきょうしゃつまという夫婦ふうふ関係かんけいえがかれている[15]

二人ふたりおやとしてはどもにたいして自己じこ中心ちゅうしんてきであり、ロジーナはどもたち親友しんゆうのミス・グリーンにあづけて、ヨーロッパ各地かくち転々てんてんとした[7]。リットンの親友しんゆうジョン・フォスター英語えいごばん息子むすこロバートの学校がっこう生活せいかつから私生活しせいかつまで面倒めんどうており、むすめのエミリーはリットンからちちくすよう家父長制かふちょうせいてき厳格げんかく教育きょういくしたがったが、不可解ふかかい状況じょうきょうで10代で死亡しぼうした[7][16]調査ちょうさした子孫しそんは、エミリーはポリオわずらい、女好おんなずきの父親ちちおやとのトラブルや、自身じしんせい関係かんけいたいする呵責かしゃくとうからしょうじた実存じつぞんてき危機ききによって、ロンドンの安宿やすやどでアヘンチンキを過剰かじょう摂取せっしゅして自殺じさつしたと結論けつろんけている[16]。ロバートもまた、精神せいしんてき不安定ふあんていだった[2]

近代きんだいオカルティズムへの影響えいきょう[編集へんしゅう]

リットンは子供こどもころからスピリチュアルに魅了みりょうされ、オカルトや不老不死ふろうふし妙薬みょうやく興味きょうみっており、不死ふしはエリートそうだけにあたえられるものだとしんじていた[2]。オカルトにかんする膨大ぼうだい蔵書ぞうしょ所有しょゆうしおり、メスメリズムみず療法りょうほう英語えいごばん骨相こっそうがくなど、当時とうじ最新さいしんのオカルト科学かがく流行りゅうこうをすべてあさっていた[2]エーテル物理ぶつりがくキリスト教きりすときょう神秘しんぴ主義しゅぎ錬金術れんきんじゅつ統合とうごう提唱ていしょう秘教ひきょうかいおおきな影響えいきょうりょくったメアリー・アン・アトウッド英語えいごばん希少きしょうほんA Suggestive Inquiry into the Hermetic Mystery』(1850ねん)の貴重きちょう原本げんぽん[ちゅう 3]所有しょゆうしていた[12]。また、エリファス・レヴィの『魔術まじゅつ』(Histoire de la Magie、1860ねん)も所蔵しょぞうしており、本書ほんしょでレヴィはメスメリストのデュ・ポテ男爵だんしゃく英語えいごばん称賛しょうさんしており、リットンはかれ魔術まじゅつてきメスメリズムの影響えいきょうけた可能かのうせいがある[19]

霊的れいてき存在そんざいへの関心かんしんえがいた『The Haunted and the Haunters』(1859ねん)や『ザノーニ英語えいごばんZanoni)』(1842ねん)、『不思議ふしぎ物語ものがたりThe Strange Story)』(1862ねん)、『きたるべき種族しゅぞく英語えいごばん』(1870ねんとうは、リットンの小説しょうせつなか一群いちぐんしており、こうしたオカルトとうへの関心かんしん社会しゃかいから奇人きじん変人へんじんられる理由りゆうともなった[13]

『ザノーニ』は、ヨーロッパの上流じょうりゅう社会しゃかい突如とつじょあらわれた金持かねもちの青年せいねんじつ不老不死ふろうふしちょう人的じんてきちからつザノーニを主人公しゅじんこうとするオカルト小説しょうせつで、かれ秘密ひみつのオカルト組織そしきである薔薇ばらじゅうだんのこった2人ふたりのうちの1人ひとりであり、さらにふるい、おそらく聖書せいしょ時代じだいカルデアひとだったことが示唆しさされる[2]かれはオカルトてき優良ゆうりょう人種じんしゅつく計画けいかくてる[2]小説しょうせつ最後さいごでは、革命かくめいフランス流血りゅうけつ惨事さんじえがかれ(霊的れいてきなヒエラルキーをしんじる魔術まじゅつザノーニは革命かくめい支持しじせず、平等びょうどうしんじない)、ザノーニはあいするもののためにみずからを犠牲ぎせいにする[2]

ザノーニの恋人こいびと名乗なの境界きょうかい守護しゅごしゃ英語えいごばんサキュバス登場とうじょうし、これは、永遠えいえんいのちるには精霊せいれい恋人こいびとにしなければならないという薔薇ばらじゅうだん秘密ひみつおしえをあらわしているとわれる[2]境界きょうかい守護しゅごしゃというアイデアはリットンが発明はつめいしたもので、オカルティストのヘレナ・P・ブラヴァツキールドルフ・シュタイナーはこの概念がいねん言及げんきゅうしており、デヴィッド・リンチのドラマ「ツイン・ピークス」にもインスピレーションをあたえた[2]

リットンは、合理ごうり主義しゅぎしゃでありながらオカルトに魅了みりょうされたウィリアム・ゴドウィン(『フランケンシュタイン』の作者さくしゃメアリー・シェリーちち)の友人ゆうじんであり弟子でしで、ゴドウィンやシェリーによる初期しょきの「薔薇ばらじゅうだん小説しょうせつ」に影響えいきょうけた可能かのうせいたか[2]。また、18世紀せいきのパリにあらわれ300さいだと主張しゅちょうしたオカルティストで冒険ぼうけんサンジェルマン伯爵はくしゃく物語ものがたりにも影響えいきょうけている[2]

リットンはとしをとるにつれ大衆たいしゅう民主みんしゅ主義しゅぎへの警戒けいかい貴族きぞく階級かいきゅうのエリート主義しゅぎへの傾斜けいしゃつよめ、このテーマを、最後さいご小説しょうせつである1870ねんのSF小説しょうせつたるべき種族しゅぞく』のなか探求たんきゅうした[2]ほんさくは、チャールズ・ダーウィンの『たね起源きげん』の出版しゅっぱんと、ネアンデルタールじんひとしほか人類じんるい頭蓋骨ずがいこつ発見はっけん触発しょくはつされたものである[2]肉体にくたいてきにも霊的れいてき精神せいしんてきにも人類じんるいよりすぐれ、遺伝いでんてき魔法まほうちからヴリルをあやつ種族しゅぞくヴリル=ヤとの邂逅かいこうえがかれ、ヴリル=ヤが人類じんるいにとって致命ちめいてき存在そんざいであることがしめされる[2]。ヴリル=ヤは貴族きぞくせい共和きょうわこくであり、階級かいきゅうみとめないが、ブリルを使つかえない人間にんげんおとった野蛮やばんじん蔑視べっしし、敵対てきたいすると躊躇ちゅうちょなく絶滅ぜつめつさせてしまう[2]様々さまざまみが可能かのう小説しょうせつであるが、霊的れいてき進化しんかとオカルト優生ゆうせいがくという側面そくめんることができ、神智しんちがくには霊的れいてき進化しんかというかんがえがれられている[2]

ヘレナ・P・ブラヴァツキーははがリットンのオカルト小説しょうせつをロシア翻訳ほんやくし、わかきブラヴァツキーはそれを夢中むちゅうみ、その思想しそう彼女かのじょかみ智学ちがくれた[2]彼女かのじょ小説しょうせつ宗教しゅうきょうてき神話しんわつくえ、人類じんるい進化しんかみちびあたらしいちょう人種じんしゅつくろうとする「マスター」とばれる秘密ひみつ超人ちょうじん組織そしき接触せっしょくしていると主張しゅちょうした[2]黄金おうごん夜明よあだんも、すくなくとも部分ぶぶんてきにはリットンの『ザノーニ』に影響えいきょうけており、アレイスター・クロウリー本書ほんしょ魔術まじゅつ推奨すいしょうした[2]研究けんきゅうしゃのジュール・エヴァンスは、「ちょう人的じんてき存在そんざい秘密ひみつ結社けっしゃ」というアイデアは、黄金おうごん夜明よあだんけいのオカルティスト・小説しょうせつアルジャーノン・ブラックウッドダイアン・フォーチュンから、『スター・ウォーズ』、『デューン』、『ハリー・ポッター』まで、のファンタジー小説しょうせつ影響えいきょうあたえたとべている[2]

かみ智学ちがく協会きょうかい設立せつりつメンバーの一人ひとり霊媒れいばいエマ・ハーディング・ブリテンは、少女しょうじょ時代じだいリットンらが所属しょぞくしていたオカルティストたちのグループの霊媒れいばいだったと主張しゅちょうしている[20]黄金おうごん夜明よあだんモイナ・メイザース英語えいごばんは、リットンは黄金おうごん夜明よあだん設立せつりつ契機けいきとなった暗号あんごう文書ぶんしょいたともいわれるケネス・マッケンジー英語えいごばんだい親友しんゆうであったとべているが、ブリティッシュ・コロンビア大学ころんびあだいがくのアレン・ルーケマは、これはいささかうたがわしいとひょうしている[12]。リットンはその名声めいせい社会しゃかいてき地位ちいたかさから、後世こうせいでは、オカルティスト・ネットワークにおける地位ちい拡大かくだい解釈かいしゃくされる傾向けいこうがある[12]

ゲオルギイ・グルジエフのグループの一員いちいんだったルイ・ポーウェル英語えいごばん化学かがく技術ぎじゅつしゃジャック・ベルジェ英語えいごばんの1960ねんのベストセラー『魔術まじゅつあさ英語えいごばん』(邦題ほうだい神秘しんぴがく大全たいぜん -魔術まじゅつ未来みらいとびらひらく)により、 『たるべき種族しゅぞく』はサイケデリックヒッピーあいだあらたな人気にんきはくした[2]。ヴリル=ヤというスピリチュアルなちょう人種じんしゅ概念がいねんかれらにとって非常ひじょう魅力みりょくてきで、自分じぶんたちをこのちょう人種じんしゅだとかんがえるヒッピーもすくなくなかった[2]小説しょうせつとしての人気にんきおとろえたものの、かれ影響えいきょうりょくニューエイジつづけている[2]

日本にっぽんにおけるリットン[編集へんしゅう]

日本にっぽんでは明治維新めいじいしんによって西欧せいおうしん知識ちしきれることができるようになり、西洋せいよう小説しょうせつ明治めいじ時代じだいから翻訳ほんやくされるようになった。西洋せいよう小説しょうせつさき翻訳ほんやくされたのがリットンやディズレーリ政治せいじ小説しょうせつだった[21]日本にっぽん最初さいしょ翻訳ほんやくされた西洋せいよう小説しょうせつは、リットンがあらわした恋愛れんあい小説しょうせつ『アーネスト・マルトラヴァーズ(Ernest Maltravers)』とその続編ぞくへん『アリス(Alice)』を丹羽にわあつし一郎いちろうやくした『欧州おうしゅうごと 花柳かりゅうはるばなし』(明治めいじ11ねん)である[22][23]河竹かわたけ黙阿弥もくあみ明治めいじ12ねん(1879ねん)にリットンの戯曲ぎきょく『マネー』を翻案ほんあんして歌舞伎かぶき演目えんもく人間にんげん万事ばんじきんちゅう』をいた。

また日本にっぽんでは、まごだい2だいリットン伯爵はくしゃくヴィクター・ブルワー=リットンリットン調査ちょうさだん団長だんちょうとして有名ゆうめいである。

著作ちょさく[編集へんしゅう]

小説しょうせつ[編集へんしゅう]

シリーズ[編集へんしゅう]

  1. 『アーネスト・マルトレイヴァース(Ernest Maltravers)』 (1837ねん)
  2. 『アリス (Alice, or The Mysteries)』 (1838ねん) アーネスト・マルトレイヴァースの続編ぞくへん Available online

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  • 『Ismael』 (1820ねん)[24]
  • 『The New Timon』 (1846ねん)[24]
  • 『King Arthur』(1848–1849)[24]

脚本きゃくほん[編集へんしゅう]

ボヴリルの由来ゆらい[編集へんしゅう]

イギリスなどでメジャーな、うすめて牛肉ぎゅうにくエキス(ビーフ・ティー)ボヴリル(Bovril)の商品しょうひんめいは、開発かいはつしゃ強壮きょうそうてき特質とくしつをアピールするために、『きたるべき種族しゅぞく』にてくる「ヴリル」に、ラテン語らてんごで「うし」や「雌牛めうし」を意味いみする「Bos」(ぞくかくのbovis)の最初さいしょの2文字もじ合体がったいさせて命名めいめいした[26]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 水晶すいしょううらないは19世紀せいきイギリスでメジャーなうらないのひとつで、当時とうじもっと有名ゆうめい水晶すいしょうだまは、ブレッシントン伯爵はくしゃく夫人ふじんがエジプトの魔術まじゅつかられたというものだった[11]
  2. ^ ロジーナはアイルランドで地主じぬしちちフェミニスト哲学てつがくしゃははあいだまれたが、両親りょうしん不和ふわ父親ちちおやのアルコール依存いぞんしょう母親ははおや自分じぶん知的ちてき探求たんきゅう注力ちゅうりょくどもに関心かんしんだったことなどから、ども時代じだい不幸ふこうなものであったようである。両親りょうしん別居べっきょ大叔父おおおじもと教育きょういくけ、そのロンドンの叔父おじもとらし、友人ゆうじんのキャロライン・ラムやリットンがいたボヘミアン文学ぶんがくどおりあつまりに出入でいりするようになった。[14]
  3. ^ 錬金術れんきんじゅつでは16 - 18世紀せいきにかけてなまりかねえることがこころみられていたが、19世紀せいきにはこれが不可能ふかのうであることがられ、学問がくもんとしての錬金術れんきんじゅつはより霊的れいてき精神せいしんてき傾向けいこうびるようになった。錬金術れんきんじゅつ研究けんきゅうしゃたちは、人類じんるいたましい宇宙うちゅう関係かんけい研究けんきゅうするようになり、外界がいかい社会しゃかい影響えいきょうからたましいとおざけ、かみ創造そうぞうした原初げんしょ状態じょうたいにまでたましいたかめようと探求たんきゅうした。この錬金術れんきんじゅつ一派いっぱヘルメス主義しゅぎとしてられており、アトウッドと彼女かのじょ父親ちちおや興味きょうみっていた錬金術れんきんじゅつとはこれである。アウトウッドは長年ながねん研究けんきゅうをまとめ、1850ねんに『A Suggestive Inquiry into the Hermetic Mystery』として出版しゅっぱんした。錬金術れんきんじゅつという学問がくもん分野ぶんや包括ほうかつてき洞察どうさつした最初さいしょ作品さくひんで、現代げんだい流行りゅうこうした錬金術れんきんじゅつ霊的れいてき精神せいしんてき解釈かいしゃく体系たいけいてきいた最初さいしょ著作ちょさくのひとつであり、19世紀せいき錬金術れんきんじゅつとヘルメス主義しゅぎながれにおいて重要じゅうよう著作ちょさくである。黄金おうごん夜明よあだんアーサー・エドワード・ウェイトひとしからたか評価ひょうかされた。父親ちちおや出版しゅっぱん内容ないよう確認かくにんし、かくされるべき秘密ひみつ寓意ぐういてき文章ぶんしょうなかにわかるようにいてしまっているとかんがえ、書籍しょせきだい部分ぶぶん回収かいしゅうした。アウトウッドは錬金術れんきんじゅつ協会きょうかい脱退だったい結婚けっこんしてしずかにらし、生前せいぜん本書ほんしょ再版さいはん打診だしんされたようだが、許可きょかしなかった。彼女かのじょ死後しご友人ゆうじんかみ智学ちがく協会きょうかい黄金おうごん夜明よあだんのメンバーだったイザベル・ド・スタイガー英語えいごばんが1918ねん再販さいはんした。[17][18]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ UK Parliament. “Lord Brudenell” (英語えいご). HANSARD 1803–2005. 2019ねん5がつ29にち閲覧えつらん
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z Jules Evans (2021ねん12月31にち). “7. Edward Bulwer-Lytton and the Coming Race(エドワード・ブルワー=リットンときたるべき種族しゅぞく”. medium. 2024ねん5がつ26にち閲覧えつらん
  3. ^ a b c d e Lundy, Darryl. “Edward George Bulwer-Lytton, 1st Baron Lytton of Knebworth” (英語えいご). thepeerage.com. 2019ねん5がつ28にち閲覧えつらん
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s  この記事きじパブリックドメイン辞典じてん本文ほんぶんふくむ: Stephen, Leslie (1893). "Lytton, Edward George Earle Lytton Bulwer-". In Lee, Sidney (ed.). Dictionary of National Biography (英語えいご). Vol. 34. London: Smith, Elder & Co. pp. 380–387.
  5. ^ a b c d e f 河村かわむら 2005, p. 88.
  6. ^ a b c d e f g h i j Philip V. Allingham. “Sir Edward G. D. Bulwer-Lytton: A Brief Biography”. The Victorian Web. 2024ねん6がつ2にち閲覧えつらん
  7. ^ a b c d e f g h i j k l 河村かわむら 2005, pp. 88–89.
  8. ^ a b c ブレイク 1993, p. 63.
  9. ^ a b c 河村かわむら 2005, pp. 89–90.
  10. ^ a b c 河村かわむら 2005, pp. 90–91.
  11. ^ Mimi Matthews (2016ねん1がつ11にち). “19th Century Fortune-Telling: From the Drawing Room to the Court Room”. The Victorian Web. 2024ねん6がつ2にち閲覧えつらん
  12. ^ a b c d Roukema 2020, p. 34.
  13. ^ a b c d e 河村かわむら 2005, p. 91.
  14. ^ a b c Frances Clarke. “Lytton, Rosina Anne Doyle Bulwer”. DICTIONARY OF IRISH BIOGRAPHY. 2024ねん6がつ2にち閲覧えつらん
  15. ^ a b c d e Cornelia King (2017ねん3がつ26にち). “Getting Even: The Mighty Pen of Lady Bulwer Lytton”. The Library Company of Philadelphia. 2024ねん6がつ2にち閲覧えつらん
  16. ^ a b Breaking open the mausoleum to solve a Victorian mystery – Henry Lytton Cobbold of Knebworth House charts life and death of tragic Emily Bulwer-Lytton in new book”. The Comet (2017ねん3がつ26にち). 2024ねん6がつ2にち閲覧えつらん
  17. ^ Joanna Baines (2020ねん2がつ11にち). “Women and Girls in Science: Mary Anne Atwood, alchemical thinker and spiritualist”. Chasing Down Emma. 2024ねん6がつ2にち閲覧えつらん
  18. ^ A Suggestive Inquiry Into Hermetic Mystery by Mary Anne Atwood”. The Rose Books & Obscurities. 2024ねん6がつ2にち閲覧えつらん
  19. ^ Roukema 2020, p. 45-46.
  20. ^ Marc Demarest (2009ねん3がつ25にち). “A Trout In The Milk: Plotting The Orphic Circle”. Chasing Down Emma. 2024ねん6がつ1にち閲覧えつらん
  21. ^ 平凡社へいぼんしゃ世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん』【イギリス文学ぶんがく】の項目こうもく
  22. ^ 杉原すぎはら四郎しろうへん 1995, pp. 107–108.
  23. ^ 清末きよすえ政治せいじ小説しょうせつ術語じゅつご概念がいねん形成けいせい明治めいじ政治せいじ小説しょうせつとのかかわり寇振ほこさき、 (名古屋大学なごやだいがく, 2007-11-15) 掲載けいさい雑誌ざっしめい:言語げんご文化ぶんか論集ろんしゅう. 29(1)
  24. ^ a b c d e f g h i j k Drabble, Margaret (2000). The Oxford Companion to English Literature (sixth edition), pp. 147. Oxford, New York: Oxford University Press. ISBN 0-19-866244-0 
  25. ^ Lytton, Edward Bulwer Lytton (2001ねん1がつ1にち). “The Lady of Lyons; Or, Love and Pride”. 2014ねん10がつ6にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2014ねん10がつ2にち閲覧えつらん
  26. ^ 竹内たけうち和田わだ 2007.

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

グレートブリテンおよびきたアイルランド連合れんごう王国おうこく議会ぎかい
先代せんだい
ウィリアム・ポール=ティルニー=ロング=ウェルズリー英語えいごばん
ジェイムズ・モリソン英語えいごばん
セント・アイヴス選挙せんきょ英語えいごばん選出せんしゅつ庶民しょみんいん議員ぎいん
1831ねん1832ねん英語えいごばん
同職どうしょくジェイムズ・ハルゼ英語えいごばん
次代じだい
ジェイムズ・ハルゼ英語えいごばん
先代せんだい
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ジョージ・ヘニッジ英語えいごばん
リンカーン選挙せんきょ英語えいごばん選出せんしゅつ庶民しょみんいん議員ぎいん
1832ねん英語えいごばん1841ねん英語えいごばん
同職どうしょくジョージ・ヘニッジ英語えいごばん(1835ねんまで)
チャールズ・シブソープ英語えいごばん(1835ねんから)
次代じだい
チャールズ・シブソープ英語えいごばん
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先代せんだい
トマス・プルーマー・ハルゼイ英語えいごばん
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トマス・ブランド英語えいごばん
ハートフォードシャー選挙せんきょ英語えいごばん選出せんしゅつ庶民しょみんいん議員ぎいん
1852ねん英語えいごばん1866ねん
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アベル・スミス英語えいごばん(1854ねん–57ねん)
クリストファー・ウィリアム・プラー英語えいごばん(1857ねん–64ねん)
アベル・スミス英語えいごばん(1859ねん–65ねん)
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ヘンリー・クーパー英語えいごばん
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(ネブワースの)

1838ねん–1873ねん