初代 しょだい リットン男爵 だんしゃく エドワード・ジョージ・アール・リットン・ブルワー=リットン (英 えい : Edward George Earle Lytton Bulwer-Lytton, 1st Baron Lytton, PC 、1803年 ねん 5月25日 にち - 1873年 ねん 1月 がつ 18日 にち )は、イギリス の小説 しょうせつ 家 か 、劇 げき 作家 さっか 、政治 せいじ 家 か 、貴族 きぞく 。一時 いちじ はチャールズ・ディケンズ に匹敵 ひってき する程 ほど の人気 にんき を誇 ほこ った。小説 しょうせつ 『ポンペイ最後 さいご の日 ひ 』(The Last Days of Pompeii )が代表 だいひょう 作 さく として知 し られており、オカルト小説 しょうせつ 『ザノーニ』やSFユートピア 小説 しょうせつ 『来 き たるべき種族 しゅぞく 』で近代 きんだい オカルティズム に多大 ただい な影響 えいきょう を与 あた え、ヒッピー やニューエイジ にも影響 えいきょう が見 み られる[2] 。戯曲 ぎきょく 『リシュリュー 』(Richelieu; Or the Conspiracy )に登場 とうじょう する文句 もんく 「ペンは剣 けん よりも強 つよ し 」(“The pen is mightier than the sword ”)」は名高 なだか い。政治 せいじ 家 か としては1858年 ねん から1859年 ねん にかけて保守党 ほしゅとう 政権 せいけん の植民 しょくみん 地 ち 大臣 だいじん を務 つと めたことが特筆 とくひつ される。
リットン男爵 だんしゃく の写真 しゃしん (アンドレ=アドルフ=ウジェーヌ・ディズデリ (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) 撮影 さつえい )
1803年 ねん 5月25日 にち にノーフォーク ・ヘイドン・ホール (英語 えいご 版 ばん ) を本拠 ほんきょ とする地主 じぬし で陸軍 りくぐん 大将 たいしょう のウィリアム・アール・ブルワー (William Earle Bulwer)とその妻 つま でクネブワースのロビンソン家 か とリットン家 か の相続 そうぞく 人 じん であるエリザベス・バーバラ・ブルワー(旧姓 きゅうせい ウォーバートン=リットン)(Elizabeth Barbara Warburton-Lytton)の間 あいだ の三男 さんなん (末子 まっし )としてロンドン ・ベイカー・ストリート に生 う まれる[3] [4] 。生誕 せいたん 時 じ の名前 なまえ は「エドワード・ジョージ・アール・リットン・ブルワー」(Edward George Earle Lytton Bulwer)[3] 。リットンは父親 ちちおや や母方 ははかた の祖父母 そふぼ には完全 かんぜん に存在 そんざい を無視 むし されて育 そだ ち、唯一 ゆいいつ 母 はは のエリザベスが彼 かれ を溺愛 できあい した。彼女 かのじょ は夫 おっと ウィリアムの気性 きしょう の激 はげ しさから、1年 ねん も経 た たないうちに大法 たいほう 院 いん に子供 こども たちの後見人 こうけんにん を求 もと めた[6] 。ナポレオン軍 ぐん の侵攻 しんこう を予期 よき していたイギリス政府 せいふ は、ウィリアムをランカシャー州 しゅう の軍 ぐん 司令 しれい 官 かん に任命 にんめい して同 どう 州 しゅう の防衛 ぼうえい に当 あ たらせたが、1807年 ねん 7月 がつ に祖国 そこく への貢献 こうけん が認 みと められ貴族 きぞく に昇格 しょうかく する前 まえ に死去 しきょ した[6] 。
子 こ ども時代 じだい の大半 たいはん を母方 ははかた の館 かん ネブワースで読書 どくしょ 三昧 ざんまい で育 そだ ち、この館 かん は彼 かれ にとって理想郷 りそうきょう であり、彼 かれ がつねに回帰 かいき する貴族 きぞく 主義 しゅぎ 的 てき ロマン派 は 的 てき 信念 しんねん を形成 けいせい する源 みなもと となった(後 のち に母 はは の遺産 いさん として相続 そうぞく )。家庭 かてい 教師 きょうし はつけられたが、定 さだ まった学校 がっこう に通 かよ うことはなく、学校 がっこう に通 とお ったときは、際立 きわだ って利発 りはつ であったためにいじめにあうことが多 おお く、おおむね独学 どくがく だった。イートン校 こう 入学 にゅうがく も自 みずか ら断 ことわ っている。
1820年 ねん の夏 なつ 、ケンブリッジ大学 けんぶりっじだいがく 進学 しんがく 準備 じゅんび 中 ちゅう に、湖水 こすい 地方 ちほう で「ルーシー」という少女 しょうじょ に恋 こい をし、これが彼 かれ の理想 りそう の女性 じょせい 像 ぞう を決定 けってい 付 つ けた。彼女 かのじょ は父親 ちちおや に不本意 ふほんい な結婚 けっこん をさせられて突然 とつぜん 姿 すがた を消 け し、リットンはバイロン 風 ふう の憂鬱 ゆううつ に陥 おちい った[6] 。ルーシーは、まだ彼 かれ に恋 こい しておりもうすぐ死 し ぬと手紙 てがみ で訴 うった え、死去 しきょ した[6] 。自伝 じでん によると、リットンは彼女 かのじょ の墓 はか の前 まえ で泣 な き崩 くず れ、作家 さっか になる決心 けっしん をしたという。彼女 かのじょ は、リットンの小説 しょうせつ で繰 く り返 かえ し描 えが かれる、保護 ほご を求 もと める孤独 こどく な女性 じょせい のモデルとなった。
ケンブリッジ大学 けんぶりっじだいがく トリニティ・カレッジ 、ついで同 どう 大学 だいがく のトリニティ・ホール (英語 えいご 版 ばん ) で学 まな ぶ[4] 。ケンブリッジ大学 けんぶりっじだいがく でも、優 すぐ れた才能 さいのう にもかかわらず、横柄 おうへい さから友人 ゆうじん はほとんどできず、孤独 こどく を深 ふか める。ケンブリッジ在学 ざいがく 中 ちゅう に一時 いちじ バイロンの元 もと 愛人 あいじん のキャロライン・ラム と愛人 あいじん 関係 かんけい を持 も っていた。後 のち に妻 つま となるロジーナはラムの庇護 ひご 下 か にあり、ラムとの関係 かんけい がロジーナとの結婚 けっこん に間接 かんせつ 的 てき につながっている[6] 。ドイツ文学 ぶんがく のゲーテ とシラー が学 まな びの基盤 きばん となり、後 ご の小説 しょうせつ は「遍歴 へんれき 」「修行 しゅぎょう 」がテーマになっているものが多 おお い。
パーティーで機知 きち に富 と んだ美 うつく しいアイルランド人 じん の女性 じょせい ロジーナ・ドイル・ウィーラー (英語 えいご 版 ばん ) と出会 であ い、1827年 ねん に結婚 けっこん したが、リットンの母 はは はこの結婚 けっこん に不満 ふまん で、息子 むすこ への小遣 こづか いをカットした[6] 。夫婦 ふうふ は贅沢 ぜいたく な生活 せいかつ を送 おく ったため、リットンは収入 しゅうにゅう のために多作 たさく の作家 さっか となった[6] 。
1827年 ねん にゲーテの『若 わか きウェルテルの悩 なや み 』に影響 えいきょう を受 う けた悲劇 ひげき 的 てき 小説 しょうせつ 『Falkland』を出版 しゅっぱん した。さらに1828年 ねん 6月 がつ には『ペラム(Pelham)』を出版 しゅっぱん [4] 。これはベンジャミン・ディズレーリ の「ビビアン・グレイ」に多分 たぶん に影響 えいきょう を受 う けていた作品 さくひん で、ダンディ ・ノベルとして知 し られ、センセーションを巻 ま き起 お こした。1830年 ねん 頃 ころ からディズレーリの友人 ゆうじん になった。1830年 ねん に『ポール・クリフォード (英語 えいご 版 ばん ) 』を出版 しゅっぱん し、獄中 ごくちゅう の犯罪 はんざい 者 しゃ を扱 あつか ったニューゲイト・ノベル (英語 えいご 版 ばん ) の走 はし りとなった。このような社会 しゃかい 道徳 どうとく 規範 きはん に挑戦 ちょうせん する小説 しょうせつ で当初 とうしょ 名 めい を挙 あ げたが、イギリスの批評 ひひょう 家 か たちから批判 ひはん され、プライドを傷 きず つけられ、イギリス文壇 ぶんだん と確執 かくしつ が生 しょう じ、生涯 しょうがい 文壇 ぶんだん 周縁 しゅうえん 部 ぶ に追 お いやられることになる。いったん名声 めいせい を得 え てからは、村 むら の生活 せいかつ 、単純 たんじゅん 素朴 そぼく な価値 かち 、家族 かぞく の絆 きずな の大切 たいせつ さを謳 うた うといった社会 しゃかい が求 もと める理想 りそう 的 てき な価値 かち 観 かん を作中 さくちゅう で表 あらわ し、無私 むし で高貴 こうき な価値 かち と社会 しゃかい の調和 ちょうわ を保 たも った理想 りそう 的 てき な過去 かこ へと読者 どくしゃ を誘 さそ い、慰 なぐさ めを与 あた えた。
社交 しゃこう 界 かい ではブレッシントン伯爵 はくしゃく 夫人 ふじん マルグリット・ガーディナー (英語 えいご 版 ばん ) の文芸 ぶんげい サロン のゴア・ハウスに出入 でい りしたが、彼女 かのじょ のサロンはロンドン社交 しゃこう 界 かい でも悪名 あくめい 高 たか い方 ほう の一派 いっぱ を自任 じにん し、イギリスきってのダンディ が勢 せい ぞろいし、リットンのダンディぶりは異彩 いさい を放 はな った。ゴア・ハウスにはベンジャミン・ディズレーリ やチャールズ・ディケンズ もおり、リットンは西洋 せいよう 占星術 せんせいじゅつ と水晶 すいしょう 占 うらな い[注 ちゅう 1] の専門 せんもん 家 か として、上 うえ の世代 せだい のイギリスのオカルティストとのパイプ役 ぱいぷやく だったジョン・ヴァーリー (英語 えいご 版 ばん ) と肩 かた を並 なら べた。主流 しゅりゅう 派 は の社交 しゃこう 界 かい とゴア・ハウスは完全 かんぜん に分 わ かれており、リットンは社交 しゃこう 界 かい でも周縁 しゅうえん に位置 いち することになり、彼 かれ は自分 じぶん の才能 さいのう を認 みと めないイギリスの批評 ひひょう 家 か と読者 どくしゃ を猛烈 もうれつ に批判 ひはん し、イギリス人嫌 ひとぎら いを強 つよ め、ドイツ・イタリア・フランスの批評 ひひょう 家 か を賛美 さんび した。
1831年 ねん 4月 がつ 30日 にち にセント・アイヴス選挙 せんきょ 区 く (英語 えいご 版 ばん ) から選出 せんしゅつ されてホイッグ党 とう の庶民 しょみん 院 いん 議員 ぎいん となる[4] 。1832年 ねん からはリンカーン選挙 せんきょ 区 く (英語 えいご 版 ばん ) から選出 せんしゅつ される。1838年 ねん には準 じゅん 男爵 だんしゃく に叙 じょ せられた。しかし1841年 ねん の総 そう 選挙 せんきょ (英語 えいご 版 ばん ) では落選 らくせん の憂 う き目 め を見 み た[4] 。リットンは知性 ちせい と発想 はっそう は優 すぐ れていても、公 おおやけ の場 ば での演説 えんぜつ は不得手 ふえて で、ごく短期間 たんきかん を除 のぞ き、政治 せいじ 家 か として一流 いちりゅう になることはなかった。
この間 あいだ も小説 しょうせつ を精力 せいりょく 的 てき に執筆 しっぴつ し、1832年 ねん には『ユージン・アラム (英語 えいご 版 ばん ) 』、1833年 ねん には『ゴドルフィン (英語 えいご 版 ばん ) 』、1834年 ねん には『ポンペイ最後 さいご の日 ひ 』と『The Pilgrims of the Rhine』、1835年 ねん には『Rienzi』、1837年 ねん には『アーネスト・マルトレイヴァース(Ernest Maltravers)』、1841年 ねん には『Night and Morning』、1842年 ねん にはオカルト小説 しょうせつ 『ザノーニ (英語 えいご 版 ばん ) 』を出版 しゅっぱん した[4] 。1833年 ねん から1834年 ねん のロジーナとのイタリア旅行 りょこう が、『Rienzi』『ポンペイ最後 さいご の日 ひ 』等 とう のイタリアを舞台 ぶたい にした作品 さくひん や研究 けんきゅう 書 しょ に結実 けつじつ した[6] 。
同 どう 時期 じき に劇 げき 作家 さっか としても活躍 かつやく し、1836年 ねん には最初 さいしょ の演劇 えんげき 脚本 きゃくほん 『The Duchess de la Vallière』を書 か いた。これは興行 こうぎょう 的 てき に失敗 しっぱい に終 お わったものの、1838年 ねん の『The Lady of Lyons』では大 おお きな成功 せいこう を収 おさ めた[4] 。 さらに1839年 ねん には『リシュリュー 』、1840年 ねん には『マネー (英語 えいご 版 ばん ) 』といった脚本 きゃくほん も書 か いた[4] 。
1841年 ねん に議席 ぎせき を失 うしな った後 のち 、ドイツ旅行 りょこう に出 で た[4] 。1843年 ねん に歴史 れきし 小説 しょうせつ 『The Last of the Barons』を出版 しゅっぱん した[4] 。1843年 ねん 12月の母 はは の死 し によりリットン家 か のネブワース の土地 とち であるネブワース・ハウス を相続 そうぞく し[4] 、1844年 ねん 2月 がつ 20日 はつか には勅許 ちょっきょ を得 え て「ブルワー=リットン」姓 せい に改姓 かいせい した[3] 。1846年 ねん には小説 しょうせつ 『Confessions of a Water Patient』、詩 し 『The New Timon』、1848年 ねん には歴史 れきし 小説 しょうせつ 『Harold』と叙事詩 じょじし 『King Arthur』、1849年 ねん には小説 しょうせつ 『The Caxtons: A Family Picture 』を出版 しゅっぱん [4] 。1849年 ねん にはコメディの脚本 きゃくほん 『Not so bad as we seem』を書 か いた[4] 。
1852年 ねん にハートフォードシャー選挙 せんきょ 区 く (英語 えいご 版 ばん ) から選出 せんしゅつ されて再 ふたた び庶民 しょみん 院 いん 議員 ぎいん となる。農業 のうぎょう 保護 ほご の貴族 きぞく 主義 しゅぎ こそがイギリス社会 しゃかい の伝統 でんとう 的 てき な特質 とくしつ であると強 つよ く主張 しゅちょう し、フランスやアメリカ流 りゅう の民主 みんしゅ 主義 しゅぎ への移行 いこう に警鐘 けいしょう を鳴 な らし、穀物 こくもつ 法 ほう 廃止 はいし に反対 はんたい 。そのため保守党 ほしゅとう の議員 ぎいん となった。以降 いこう 1866年 ねん に貴族 きぞく 院 いん 議員 ぎいん に列 れっ するまでこの議席 ぎせき を保持 ほじ したが[4] 、その考 かんが えは政治 せいじ 家 か としては時代遅 じだいおく れになっていった。
1858年 ねん から1859年 ねん にかけては保守党 ほしゅとう 政権 せいけん 第 だい 2次 じ ダービー伯爵 はくしゃく 内閣 ないかく において植民 しょくみん 地 ち 大臣 だいじん を務 つと めた[4] 。植民 しょくみん 地 ち 大臣 だいじん としてブリティッシュ・コロンビア植民 しょくみん 地 ち (英語 えいご 版 ばん ) の創設 そうせつ にあたった。これは金鉱 きんこう の発掘 はっくつ と人口 じんこう 流入 りゅうにゅう のため必要 ひつよう となったものである。またオーストラリアでは、クイーンズランド州 しゅう をニューサウスウェールズ州 しゅう から分離 ぶんり させた。植民 しょくみん 地 ち 各地 かくち の町 まち で彼 かれ の名 な にちなむリットンという名前 なまえ への改名 かいめい が行 おこな われた[4] 。
植民 しょくみん 地 ち 大臣 だいじん 退任 たいにん 後 ご は政治 せいじ 的 てき 活動 かつどう は少 すく なくなった。公職 こうしょく 引退 いんたい 後 ご は、イギリスの未来 みらい に不安 ふあん を抱 いだ き、民主 みんしゅ 主義 しゅぎ が崩壊 ほうかい していくことを小説 しょうせつ に描 えが いた。1862年 ねん には『A Strange Story』、さらに後 のち に『ケネルム・チリングリー(Kenelm Chillingly)』を出版 しゅっぱん した[4] 。
1866年 ねん 7月 がつ に第 だい 3次 じ ダービー伯爵 はくしゃく 内 ない 閣 かく が成立 せいりつ した際 さい に連合 れんごう 王国 おうこく 貴族 きぞく 爵位 しゃくい リットン男爵 だんしゃく に叙 じょ されて貴族 きぞく 院 いん 議員 ぎいん に列 れつ した[4] 。
1870年 ねん には、人間 にんげん より優 すぐ れた種族 しゅぞく による民主 みんしゅ 主義 しゅぎ を超 こ えた理想 りそう 的 てき な地下 ちか 世界 せかい を描 えが いたSFユートピア小説 しょうせつ 『来 き たるべき種族 しゅぞく 』を出版 しゅっぱん 。
1873年 ねん 1月 がつ 18日 にち に死去 しきょ [4] 。爵位 しゃくい は一人 ひとり 息子 むすこ のロバート・ブルワー=リットン が継承 けいしょう した。
爵位 しゃくい /準 じゅん 男爵 だんしゃく 位 い [ 編集 へんしゅう ]
1838年 ねん 7月 がつ 18日 にち に以下 いか の準 じゅん 男爵 だんしゃく 位 い を新規 しんき に叙 じょ された[3] 。
(ハートフォード州 しゅう におけるネブワースの)初代 しょだい 準 じゅん 男爵 だんしゃく (1st Baronet "of Knebworth, co. Hertford")
(勅許 ちょっきょ 状 じょう による連合 れんごう 王国 おうこく 準 じゅん 男爵 だんしゃく 位 い )
1866年 ねん 7月 がつ 14日 にち に以下 いか の爵位 しゃくい を新規 しんき に叙 じょ される[3] 。
ハートフォード州 しゅう におけるネブワースの初代 しょだい リットン男爵 だんしゃく (1st Baron Lytton of Knebworth, co. Hertford)
(勅許 ちょっきょ 状 じょう による連合 れんごう 王国 おうこく 貴族 きぞく 爵位 しゃくい )
1827年 ねん 8月 がつ 29日 にち にロジーナ・ドイル・ウィーラー (英語 えいご 版 ばん ) (Rosina Doyle Wheeler) [注 ちゅう 2] と結婚 けっこん [2] 。彼女 かのじょ との間 あいだ に以下 いか の2子 し を儲 もう けた。
エミリー・エリザベス・ブルワー=リットン (Emily Elizabeth Bulwer-Lytton, 生年 せいねん 不明 ふめい -1848年 ねん )
エドワード・ロバート・ブルワー=リットン (Edward Robert Bulwer-Lytton, 1831-1891) - 初代 しょだい リットン伯 はく 、第 だい 2代 だい リットン男爵 だんしゃく 。インド総督 そうとく
結婚 けっこん 当初 とうしょ の関係 かんけい は良好 りょうこう だったが、リットンは気性 きしょう が激 はげ しく、贅沢 ぜいたく な結婚 けっこん 生活 せいかつ のために多 おお くの収入 しゅうにゅう を得 え ようと多作 たさく で、政治 せいじ 活動 かつどう もあり、忙 いそが しさのためにしばしば怒 いか りっぽくなり、家族 かぞく をないがしろにし、不倫 ふりん し、夫婦 ふうふ 関係 かんけい には緊張 きんちょう が生 しょう じ、二人 ふたり は激 はげ しい喧嘩 けんか を繰 く り返 かえ すようになった[6] 。互 たが いに親 おや がいないという境遇 きょうぐう に惹 ひ かれ合 あ っての結婚 けっこん だったが、家父長制 かふちょうせい を身上 しんじょう とするリットンと女性 じょせい の自立 じりつ を掲 かか げる女権 じょけん 論 ろん 者 しゃ ロジーナの結婚 けっこん 生活 せいかつ は、凄 すさ まじい喧嘩 けんか と衝突 しょうとつ の連続 れんぞく となり、互 たが いを身体 しんたい 的 てき にも攻撃 こうげき していた[2] 。さらにリットンの母親 ははおや によるロジーナへの軽蔑 けいべつ が、生涯 しょうがい にわたって二 に 人 にん の関係 かんけい を悪化 あっか させた。1833年 ねん から1834年 ねん の夫婦 ふうふ でのイタリア旅行 りょこう で結婚 けっこん 生活 せいかつ は終 お わりとなり、1836年 ねん に法的 ほうてき に別居 べっきょ した[6] 。リットンは母 はは の遺産 いさん を相続 そうぞく して大金持 おおがねも ちになったが、ロジーナに離婚 りこん を認 みと めさせようと彼女 かのじょ の金銭 きんせん の使用 しよう を制限 せいげん し、ロジーナも離婚 りこん には賛成 さんせい だったが、リットンが示 しめ した離婚 りこん の条件 じょうけん はロジーナの生活 せいかつ に十分 じゅうぶん なものではなく、困窮 こんきゅう に苦 くる しんだ[15]
リットンは次々 つぎつぎ 愛人 あいじん を作 つく り、ローラ・ディーコン(Laura Deacon)との間 あいだ に娘 むすめ を3人 にん 儲 もう け、ディーコンの名前 なまえ は遺言 ゆいごん にも登場 とうじょう する。遺言 ゆいごん には他 た に十 じゅう 数 すう 名 めい に及 およ ぶ女性 じょせい が遺産 いさん 相続 そうぞく 人 じん として登場 とうじょう するが、これはすべてリットンの忘 わす れ形見 がたみ だという。ロジーナも愛人 あいじん を作 つく った。
リットンは離婚 りこん を成立 せいりつ させるためにロジーナと彼女 かのじょ の愛人 あいじん にスパイを付 つ けて監視 かんし して脅 おど し、ロジーナはこれに反抗 はんこう して別居 べっきょ の生活 せいかつ 費 ひ と子 こ どもたちの養育 よういく 費 ひ を得 え ようと彼 かれ を訴 うった えた。ロジーナが初 はつ の小説 しょうせつ 『チーヴリー、あるいは名誉 めいよ ある男 おとこ 』(Cheveley, or, The man of honour 、1839年 ねん )で、あからさまに夫 おっと を思 おも わせる主人公 しゅじんこう を、攻撃 こうげき 的 てき で威圧 いあつ 的 てき な女 おんな たらしに描 えが いたことで、二人 ふたり の険悪 けんあく な別居 べっきょ はさらに悪化 あっか した[14] 。彼女 かのじょ は経済 けいざい 的 てき 困難 こんなん もあり、結婚 けっこん 生活 せいかつ への不満 ふまん を込 こ め、ロマンティック・ラブ が女性 じょせい を結婚 けっこん という不平等 ふびょうどう なパートナーシップに陥 おとしい れるやり口 くち を探求 たんきゅう した小説 しょうせつ を生涯 しょうがい 出版 しゅっぱん した[14] [15] 。リットンは地方 ちほう 議員 ぎいん に選出 せんしゅつ された日 ひ に集会 しゅうかい でロジーナから公然 こうぜん と非難 ひなん を受 う け、彼女 かのじょ を精神 せいしん 異常 いじょう と決 き めつけ強制 きょうせい 入院 にゅういん させたが、彼女 かのじょ の友人 ゆうじん たちが大々的 だいだいてき に抗議 こうぎ し、世論 せろん も批判 ひはん し、3週間 しゅうかん 後 ご に退院 たいいん となった[2] [15] 。文壇 ぶんだん およびロンドン社交 しゃこう 界 かい は夫婦 ふうふ どちらの味方 みかた をするかで二分 にぶん されたと言 い われ、リットンは彼女 かのじょ の攻撃 こうげき の激 はげ しさから政治 せいじ 家 か としての成功 せいこう を断念 だんねん している。
1839年 ねん にロンドンで、『チーヴリー、あるいは名誉 めいよ ある男 おとこ 』に対 たい する風刺 ふうし 詩 し 『チーヴリー夫人 ふじん 、あるいは名誉 めいよ ある女 おんな 』(Lady Cheveley, or, The Woman of Honour )が出版 しゅっぱん されたが、文学 ぶんがく 史家 しか のマリー・マルヴィー・ロバーツによると、作者 さくしゃ はおそらくリットン本人 ほんにん である[15] 。本書 ほんしょ では、不義 ふぎ を犯 おか してはいるが実直 じっちょく なヴィクトリア朝 あさ 的 てき な夫 おっと と、安全 あんぜん な場所 ばしょ から夫 おっと に悪意 あくい を向 む ける卑怯 ひきょう 者 しゃ の妻 つま という夫婦 ふうふ 関係 かんけい が描 えが かれている[15] 。
二人 ふたり は親 おや としては子 こ どもに対 たい して自己 じこ 中心 ちゅうしん 的 てき であり、ロジーナは子 こ ども達 たち を親友 しんゆう のミス・グリーンに預 あづ けて、ヨーロッパ各地 かくち を転々 てんてん とした。リットンの親友 しんゆう ジョン・フォスター (英語 えいご 版 ばん ) が息子 むすこ ロバートの学校 がっこう 生活 せいかつ から私生活 しせいかつ まで面倒 めんどう を見 み ており、娘 むすめ のエミリーはリットンから父 ちち に尽 つ くすよう家父長制 かふちょうせい 的 てき な厳格 げんかく な教育 きょういく を受 う け従 したが ったが、不可解 ふかかい な状況 じょうきょう で10代で死亡 しぼう した[16] 。調査 ちょうさ した子孫 しそん は、エミリーはポリオ を患 わずら い、女好 おんなず きの父親 ちちおや とのトラブルや、自身 じしん の性 せい 関係 かんけい に対 たい する呵責 かしゃく 等 とう から生 しょう じた実存 じつぞん 的 てき 危機 きき によって、ロンドンの安宿 やすやど でアヘンチンキを過剰 かじょう 摂取 せっしゅ して自殺 じさつ したと結論 けつろん 付 つ けている[16] 。ロバートもまた、精神 せいしん 的 てき に不安定 ふあんてい だった[2] 。
近代 きんだい オカルティズムへの影響 えいきょう [ 編集 へんしゅう ]
リットンは子供 こども の頃 ころ からスピリチュアルに魅了 みりょう され、オカルトや不老不死 ふろうふし の妙薬 みょうやく に興味 きょうみ を持 も っており、不死 ふし はエリート層 そう だけに与 あた えられるものだと信 しん じていた[2] 。オカルトに関 かん する膨大 ぼうだい な蔵書 ぞうしょ を所有 しょゆう しおり、メスメリズム 、水 みず 療法 りょうほう (英語 えいご 版 ばん ) 、骨相 こっそう 学 がく など、当時 とうじ の最新 さいしん のオカルト科学 かがく の流行 りゅうこう をすべて読 よ み漁 あさ っていた[2] 。エーテル 物理 ぶつり 学 がく ・キリスト教 きりすときょう 神秘 しんぴ 主義 しゅぎ ・錬金術 れんきんじゅつ の統合 とうごう を提唱 ていしょう し秘教 ひきょう 界 かい に大 おお きな影響 えいきょう 力 りょく を持 も ったメアリー・アン・アトウッド (英語 えいご 版 ばん ) の希少 きしょう 本 ほん 『A Suggestive Inquiry into the Hermetic Mystery 』(1850年 ねん )の貴重 きちょう な原本 げんぽん [注 ちゅう 3] を所有 しょゆう していた。また、エリファス・レヴィ の『魔術 まじゅつ 史 し 』(Histoire de la Magie 、1860年 ねん )も所蔵 しょぞう しており、本書 ほんしょ でレヴィはメスメリストのデュ・ポテ男爵 だんしゃく (英語 えいご 版 ばん ) を称賛 しょうさん しており、リットンは彼 かれ の魔術 まじゅつ 的 てき メスメリズムの影響 えいきょう を受 う けた可能 かのう 性 せい がある。
霊的 れいてき 存在 そんざい への関心 かんしん を描 えが いた『The Haunted and the Haunters 』(1859年 ねん )や『ザノーニ (英語 えいご 版 ばん ) (Zanoni )』(1842年 ねん )、『不思議 ふしぎ な物語 ものがたり (The Strange Story )』(1862年 ねん )、『来 きた るべき種族 しゅぞく (英語 えいご 版 ばん ) 』(1870年 ねん )等 とう は、リットンの小説 しょうせつ の中 なか で一群 いちぐん を成 な しており、こうしたオカルト等 とう への関心 かんしん が社会 しゃかい から奇人 きじん 変人 へんじん と見 み られる理由 りゆう ともなった。
『ザノーニ』は、ヨーロッパの上流 じょうりゅう 社会 しゃかい に突如 とつじょ 現 あらわ れた金持 かねも ちの青年 せいねん 、実 じつ は不老不死 ふろうふし で超 ちょう 人的 じんてき な力 ちから を持 も つザノーニを主人公 しゅじんこう とするオカルト小説 しょうせつ で、彼 かれ は秘密 ひみつ のオカルト組織 そしき である薔薇 ばら 十 じゅう 字 じ 団 だん の生 い き残 のこ った2人 ふたり のうちの1人 ひとり であり、さらに古 ふる い、おそらく聖書 せいしょ 時代 じだい のカルデア 人 ひと だったことが示唆 しさ される[2] 。彼 かれ の師 し はオカルト的 てき に優良 ゆうりょう 人種 じんしゅ を創 つく る計画 けいかく を立 た てる[2] 。小説 しょうせつ の最後 さいご では、革命 かくめい 期 き フランス の流血 りゅうけつ の惨事 さんじ が描 えが かれ(霊的 れいてき なヒエラルキーを信 しん じる魔術 まじゅつ 師 し ザノーニは革命 かくめい を支持 しじ せず、平等 びょうどう を信 しん じない)、ザノーニは愛 あい する者 もの のために自 みずか らを犠牲 ぎせい にする[2] 。
ザノーニの恋人 こいびと を名乗 なの る境界 きょうかい の守護 しゅご 者 しゃ (英語 えいご 版 ばん ) のサキュバス が登場 とうじょう し、これは、永遠 えいえん の命 いのち を得 え るには精霊 せいれい を恋人 こいびと にしなければならないという薔薇 ばら 十 じゅう 字 じ 団 だん の秘密 ひみつ の教 おし えを表 あらわ していると言 い われる[2] 。境界 きょうかい の守護 しゅご 者 しゃ というアイデアはリットンが発明 はつめい したもので、オカルティストのヘレナ・P・ブラヴァツキー やルドルフ・シュタイナー はこの概念 がいねん に言及 げんきゅう しており、デヴィッド・リンチ のドラマ「ツイン・ピークス 」にもインスピレーションを与 あた えた[2] 。
リットンは、合理 ごうり 主義 しゅぎ 者 しゃ でありながらオカルトに魅了 みりょう されたウィリアム・ゴドウィン (『フランケンシュタイン 』の作者 さくしゃ メアリー・シェリー の父 ちち )の友人 ゆうじん であり弟子 でし で、ゴドウィンやシェリーによる初期 しょき の「薔薇 ばら 十 じゅう 字 じ 団 だん 小説 しょうせつ 」に影響 えいきょう を受 う けた可能 かのう 性 せい が高 たか い[2] 。また、18世紀 せいき のパリに現 あらわ れ300歳 さい だと主張 しゅちょう したオカルティストで冒険 ぼうけん 家 か のサンジェルマン伯爵 はくしゃく の物語 ものがたり にも影響 えいきょう を受 う けている[2] 。
リットンは年 とし をとるにつれ大衆 たいしゅう の民主 みんしゅ 主義 しゅぎ への警戒 けいかい ・貴族 きぞく 階級 かいきゅう のエリート主義 しゅぎ への傾斜 けいしゃ を強 つよ め、このテーマを、最後 さいご の小説 しょうせつ である1870年 ねん のSF小説 しょうせつ 『来 き たるべき種族 しゅぞく 』の中 なか で探求 たんきゅう した[2] 。本 ほん 作 さく は、チャールズ・ダーウィン の『種 たね の起源 きげん 』の出版 しゅっぱん と、ネアンデルタール人 じん 等 ひとし の他 ほか の人類 じんるい の頭蓋骨 ずがいこつ の発見 はっけん に触発 しょくはつ されたものである[2] 。肉体 にくたい 的 てき にも霊的 れいてき ・精神 せいしん 的 てき にも人類 じんるい より優 すぐ れ、遺伝 いでん 的 てき な魔法 まほう の力 ちから ヴリルを操 あやつ る種族 しゅぞく ヴリル=ヤとの邂逅 かいこう が描 えが かれ、ヴリル=ヤが人類 じんるい にとって致命 ちめい 的 てき な存在 そんざい であることが示 しめ される[2] 。ヴリル=ヤは貴族 きぞく 制 せい の共和 きょうわ 国 こく であり、階級 かいきゅう は認 みと めないが、ブリルを使 つか えない人間 にんげん を劣 おと った野蛮 やばん 人 じん と蔑視 べっし し、敵対 てきたい すると躊躇 ちゅうちょ なく絶滅 ぜつめつ させてしまう[2] 。様々 さまざま な読 よ みが可能 かのう な小説 しょうせつ であるが、霊的 れいてき 進化 しんか とオカルト優生 ゆうせい 学 がく という側面 そくめん を読 よ み取 と ることができ、神智 しんち 学 がく には霊的 れいてき 進化 しんか という考 かんが えが取 と り入 い れられている[2] 。
ヘレナ・P・ブラヴァツキー の母 はは がリットンのオカルト小説 しょうせつ をロシア語 ご に翻訳 ほんやく し、若 わか きブラヴァツキーはそれを夢中 むちゅう で読 よ み、その思想 しそう を彼女 かのじょ の神 かみ 智学 ちがく に取 と り入 い れた[2] 。彼女 かのじょ は小説 しょうせつ を宗教 しゅうきょう 的 てき 神話 しんわ に作 つく り替 か え、人類 じんるい の進化 しんか を導 みちび き新 あたら しい超 ちょう 人種 じんしゅ を作 つく ろうとする「マスター」と呼 よ ばれる秘密 ひみつ の超人 ちょうじん 組織 そしき と接触 せっしょく していると主張 しゅちょう した[2] 。黄金 おうごん の夜明 よあ け団 だん も、少 すく なくとも部分 ぶぶん 的 てき にはリットンの『ザノーニ』に影響 えいきょう を受 う けており、アレイスター・クロウリー は本書 ほんしょ を魔術 まじゅつ 師 し に推奨 すいしょう した[2] 。研究 けんきゅう 者 しゃ のジュール・エヴァンスは、「超 ちょう 人的 じんてき な存在 そんざい の秘密 ひみつ 結社 けっしゃ 」というアイデアは、黄金 おうごん の夜明 よあ け団 だん 系 けい のオカルティスト・小説 しょうせつ 家 か のアルジャーノン・ブラックウッド とダイアン・フォーチュン から、『スター・ウォーズ 』、『デューン 』、『ハリー・ポッター 』まで、後 ご のファンタジー小説 しょうせつ に影響 えいきょう を与 あた えたと述 の べている[2] 。
神 かみ 智学 ちがく 協会 きょうかい の設立 せつりつ メンバーの一人 ひとり で霊媒 れいばい のエマ・ハーディング・ブリテン は、少女 しょうじょ 時代 じだい リットンらが所属 しょぞく していたオカルティスト達 たち のグループの霊媒 れいばい だったと主張 しゅちょう している[20] 。黄金 おうごん の夜明 よあ け団 だん のモイナ・メイザース (英語 えいご 版 ばん ) は、リットンは黄金 おうごん の夜明 よあ け団 だん 設立 せつりつ の契機 けいき となった暗号 あんごう 文書 ぶんしょ を書 か いたともいわれるケネス・マッケンジー (英語 えいご 版 ばん ) の大 だい 親友 しんゆう であったと述 の べているが、ブリティッシュ・コロンビア大学 ころんびあだいがく のアレン・ルーケマは、これはいささか疑 うたが わしいと評 ひょう している。リットンはその名声 めいせい と社会 しゃかい 的 てき 地位 ちい の高 たか さから、後世 こうせい では、オカルティスト・ネットワークにおける地位 ちい が拡大 かくだい 解釈 かいしゃく される傾向 けいこう がある。
ゲオルギイ・グルジエフ のグループの一員 いちいん だったルイ・ポーウェル (英語 えいご 版 ばん ) と化学 かがく 技術 ぎじゅつ 者 しゃ のジャック・ベルジェ (英語 えいご 版 ばん ) の1960年 ねん のベストセラー『魔術 まじゅつ 師 し の朝 あさ (英語 えいご 版 ばん ) 』(邦題 ほうだい :神秘 しんぴ 学 がく 大全 たいぜん -魔術 まじゅつ 師 し が未来 みらい の扉 とびら を開 ひら く)により、 『来 き たるべき種族 しゅぞく 』はサイケデリック なヒッピー の間 あいだ で新 あら たな人気 にんき を博 はく した[2] 。ヴリル=ヤというスピリチュアルな超 ちょう 人種 じんしゅ の概念 がいねん は彼 かれ らにとって非常 ひじょう に魅力 みりょく 的 てき で、自分 じぶん たちをこの超 ちょう 人種 じんしゅ だと考 かんが えるヒッピーも少 すく なくなかった[2] 。小説 しょうせつ 家 か としての人気 にんき は衰 おとろ えたものの、彼 かれ の影響 えいきょう 力 りょく はニューエイジ に生 い き続 つづ けている[2] 。
日本 にっぽん におけるリットン[ 編集 へんしゅう ]
日本 にっぽん では明治維新 めいじいしん によって西欧 せいおう の新 しん 知識 ちしき に触 ふ れることができるようになり、西洋 せいよう 小説 しょうせつ も明治 めいじ 時代 じだい から翻訳 ほんやく されるようになった。西洋 せいよう 小説 しょうせつ で真 ま っ先 さき に翻訳 ほんやく されたのがリットンやディズレーリ の政治 せいじ 小説 しょうせつ だった[21] 。日本 にっぽん で最初 さいしょ に翻訳 ほんやく された西洋 せいよう 小説 しょうせつ は、リットンが著 あらわ した恋愛 れんあい 小説 しょうせつ 『アーネスト・マルトラヴァーズ(Ernest Maltravers)』とその続編 ぞくへん 『アリス(Alice)』を丹羽 にわ 淳 あつし 一郎 いちろう が訳 やく した『欧州 おうしゅう 奇 き 事 ごと 花柳 かりゅう 春 はる 話 ばなし 』(明治 めいじ 11年 ねん )である[23] 。河竹 かわたけ 黙阿弥 もくあみ も明治 めいじ 12年 ねん (1879年 ねん )にリットンの戯曲 ぎきょく 『マネー』を翻案 ほんあん して歌舞伎 かぶき 演目 えんもく 『人間 にんげん 万事 ばんじ 金 きん 世 よ 中 ちゅう 』を書 か いた。
また日本 にっぽん では、孫 まご の第 だい 2代 だい リットン伯爵 はくしゃく ヴィクター・ブルワー=リットン はリットン調査 ちょうさ 団 だん の団長 だんちょう として有名 ゆうめい である。
『アーネスト・マルトレイヴァース(Ernest Maltravers)』 (1837年 ねん )
『アリス (Alice, or The Mysteries)』 (1838年 ねん ) アーネスト・マルトレイヴァースの続編 ぞくへん Available online
『Ismael』 (1820年 ねん )[24]
『The New Timon』 (1846年 ねん )[24]
『King Arthur』(1848–1849)[24]
イギリスなどでメジャーな、薄 うす めて飲 の む牛肉 ぎゅうにく エキス(ビーフ・ティー)ボヴリル (Bovril)の商品 しょうひん 名 めい は、開発 かいはつ 者 しゃ が強壮 きょうそう 的 てき 特質 とくしつ をアピールするために、『来 きた るべき種族 しゅぞく 』に出 で てくる「ヴリル」に、ラテン語 らてんご で「雄 お 牛 うし 」や「雌牛 めうし 」を意味 いみ する「Bos」(属 ぞく 格 かく のbovis)の最初 さいしょ の2文字 もじ を合体 がったい させて命名 めいめい した。
^ 水晶 すいしょう 占 うらな いは19世紀 せいき イギリスでメジャーな占 うらな いの一 ひと つで、当時 とうじ 最 もっと も有名 ゆうめい な水晶 すいしょう 玉 だま は、ブレッシントン伯爵 はくしゃく 夫人 ふじん がエジプトの魔術 まじゅつ 師 し から手 て に入 い れたというものだった[11] 。
^ ロジーナはアイルランドで地主 じぬし の父 ちち とフェミニスト 哲学 てつがく 者 しゃ の母 はは の間 あいだ に生 う まれたが、両親 りょうしん の不和 ふわ 、父親 ちちおや のアルコール依存 いぞん 症 しょう 、母親 ははおや が自分 じぶん の知的 ちてき 探求 たんきゅう に注力 ちゅうりょく し子 こ どもに無 む 関心 かんしん だった事 こと などから、子 こ ども時代 じだい は不幸 ふこう なものであったようである。両親 りょうしん の別居 べっきょ 後 ご 、大叔父 おおおじ の元 もと で教育 きょういく を受 う け、その後 ご ロンドンの叔父 おじ の元 もと で暮 く らし、友人 ゆうじん のキャロライン・ラムやリットンがいたボヘミアン 文学 ぶんがく 通 どおり の集 あつ まりに出入 でい りするようになった。[14]
^ 錬金術 れんきんじゅつ では16 - 18世紀 せいき にかけて鉛 なまり を金 かね に変 か えることが試 こころ みられていたが、19世紀 せいき にはこれが不可能 ふかのう であることが知 し られ、学問 がくもん としての錬金術 れんきんじゅつ はより霊的 れいてき ・精神 せいしん 的 てき な傾向 けいこう を帯 お びるようになった。錬金術 れんきんじゅつ の研究 けんきゅう 者 しゃ たちは、人類 じんるい ・魂 たましい ・宇宙 うちゅう の関係 かんけい を研究 けんきゅう するようになり、外界 がいかい や社会 しゃかい の影響 えいきょう から魂 たましい を遠 とお ざけ、神 かみ が創造 そうぞう した原初 げんしょ の状態 じょうたい にまで魂 たましい を高 たか めようと探求 たんきゅう した。この錬金術 れんきんじゅつ の一派 いっぱ はヘルメス主義 しゅぎ として知 し られており、アトウッドと彼女 かのじょ の父親 ちちおや が興味 きょうみ を持 も っていた錬金術 れんきんじゅつ とはこれである。アウトウッドは長年 ながねん の研究 けんきゅう をまとめ、1850年 ねん に『A Suggestive Inquiry into the Hermetic Mystery 』として出版 しゅっぱん した。錬金術 れんきんじゅつ という学問 がくもん 分野 ぶんや を包括 ほうかつ 的 てき に洞察 どうさつ した最初 さいしょ の作品 さくひん で、現代 げんだい に流行 りゅうこう した錬金術 れんきんじゅつ の霊的 れいてき ・精神 せいしん 的 てき な解釈 かいしゃく を体系 たいけい 的 てき に説 と いた最初 さいしょ の著作 ちょさく のひとつであり、19世紀 せいき の錬金術 れんきんじゅつ とヘルメス主義 しゅぎ の流 なが れにおいて重要 じゅうよう な著作 ちょさく である。黄金 おうごん の夜明 よあ け団 だん のアーサー・エドワード・ウェイト 等 ひとし から高 たか く評価 ひょうか された。父親 ちちおや は出版 しゅっぱん 後 ご に内容 ないよう を確認 かくにん し、隠 かく されるべき秘密 ひみつ を寓意 ぐうい 的 てき な文章 ぶんしょう の中 なか にわかるように書 か いてしまっていると考 かんが え、世 よ に出 で た書籍 しょせき の大 だい 部分 ぶぶん を回収 かいしゅう した。アウトウッドは錬金術 れんきんじゅつ 協会 きょうかい を脱退 だったい し結婚 けっこん して静 しず かに暮 く らし、生前 せいぜん 本書 ほんしょ の再版 さいはん を打診 だしん されたようだが、許可 きょか しなかった。彼女 かのじょ の死後 しご 、友人 ゆうじん で神 かみ 智学 ちがく 協会 きょうかい ・黄金 おうごん の夜明 よあ け団 だん のメンバーだったイザベル・ド・スタイガー (英語 えいご 版 ばん ) が1918年 ねん に再販 さいはん した。[17] [18]
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