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エドワード・スミス=スタンリー (第14代ダービー伯爵) - Wikipedia コンテンツにスキップ

エドワード・スミス=スタンリー (だい14だいダービー伯爵はくしゃく)

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だい14だいダービー伯爵はくしゃく
エドワード・スミス=スタンリー
Edward Smith-Stanley
14th Earl of Derby
生年月日せいねんがっぴ 1799ねん3月29にち
出生しゅっしょう グレートブリテン王国の旗 グレートブリテン王国おうこくイングランドランカシャー
ぼつ年月日ねんがっぴ (1869-10-23) 1869ねん10月23にち(70さいぼつ
死没しぼつ イギリスの旗 イギリス、イングランド、ランカシャー
出身しゅっしんこう オックスフォおっくすふぉド大学どだいがくクライスト・チャーチ
所属しょぞく政党せいとう ホイッグとうダービー保守党ほしゅとう
称号しょうごう だい14だいダービー伯爵はくしゃくガーター勲章くんしょう勲爵くんしゃく(KG)、枢密すうみつ顧問こもんかん(PC)
配偶はいぐうしゃ エマ
親族しんぞく だい13だいダービー伯爵はくしゃくちち
だい15だいダービー伯爵はくしゃく(長男ちょうなん)
だい16だいダービー伯爵はくしゃく次男じなん
サイン

在任ざいにん期間きかん 1852ねん2がつ23にち - 1852ねん12月16にち[1]
1858ねん2がつ25にち - 1859ねん6がつ[1]
1866ねん7がつ6にち - 1868ねん2がつ25にち[1]
女王じょおう ヴィクトリア

内閣ないかく グレイ伯爵はくしゃく内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1830ねん11月29にち - 1833ねん3月29にち

内閣ないかく グレイ伯爵はくしゃく内閣ないかく
だいピール内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1833ねん4がつ3にち - 1834ねん6月5にち
1841ねん9月3にち - 1845ねん12月23にち

選挙せんきょ ストックブリッジ選挙せんきょ英語えいごばん[2]
プレストン選挙せんきょ英語えいごばん[2]
ウィンザー選挙せんきょ英語えいごばん[2]
ノース・ランカシャー選挙せんきょ英語えいごばん[2]
在任ざいにん期間きかん 1822ねん7がつ30にち - 1826ねん6月15にち[2]
1826ねん6がつ26にち - 1830ねん12月7にち[2]
1831ねん2がつ10日とおか - 1832ねん12月12にち[2]
1832ねん12月10にち - 1844ねん8がつ31にち[2]

イギリスの旗 貴族きぞくいん議員ぎいん
在任ざいにん期間きかん 1844ねん - 1869ねん[2]
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だい14だいダービー伯爵はくしゃくエドワード・ジョージ・ジェフリー・スミス=スタンリー英語えいご: Edward George Geoffrey Smith-Stanley, 14th Earl of Derby, KG, GCMG, PC, PC (Ire)1799ねん3月29にち - 1869ねん10月23にち)は、イギリス政治せいじ貴族きぞく

保守党ほしゅとうとピール分裂ぶんれつロバート・ピールわって保守党ほしゅとう党首とうしゅとなり、3にわたって首相しゅしょう1852ねん1858ねん - 1859ねん1866ねん - 1868ねん)をつとめた。しかしいずれも少数しょうすう与党よとう短命たんめい政権せいけんであり、事実じじつじょう選挙せんきょ管理かんりないかくだったため、庶民しょみんいん院内いんない総務そうむ地位ちいにあったベンジャミン・ディズレーリ政局せいきょく主導しゅどうするところがおおく、かげうす首相しゅしょうだった。1868ねん退任たいにんし、ディズレーリが保守党ほしゅとう党首とうしゅ首相しゅしょう地位ちい継承けいしょうした。

1834ねんから1844ねんまではスタンリーきょう(Lord Stanley)の儀礼ぎれい称号しょうごう使用しようし、1844ねんにビッカースタッフのスタンリー男爵だんしゃく(Baron Stanley of Bickerstaffe)を、1851ねんにはダービー伯爵はくしゃくを、それぞれ継承けいしょうした。

概要がいよう

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だい13だいダービー伯爵はくしゃくエドワード・スミス=スタンリー長男ちょうなんイートンこうオックスフォおっくすふぉド大学どだいがくクライスト・チャーチ進学しんがくする(

大学だいがく在学ざいがくちゅう1820ねん庶民しょみんいん議員ぎいんはつ当選とうせんした。はじめはホイッグとう議員ぎいんだった。1827ねんトーリーとう自由じゆう主義しゅぎジョージ・カニング首相しゅしょうとする内閣ないかく陸軍りくぐん植民しょくみんしょう政務次官せいむじかん英語えいごばんとして参加さんかした。1830ねんグレイ伯爵はくしゃく首相しゅしょうとするホイッグとう政権せいけんにもアイルランド担当たんとう大臣だいじん英語えいごばん、のち陸軍りくぐん植民しょくみん大臣だいじんとして入閣にゅうかくしたが、1834ねんにはグレイ伯爵はくしゃくアイルランド国教こっきょうかい歳入さいにゅう社会しゃかい保障ほしょうまわ政策せいさく反発はんぱつして辞職じしょくした(ホイッグとう議員ぎいん時代じだい

そのホイッグとう右派うははなれてぶんとうし、ダービー形成けいせいしたが、1837ねんなつそう選挙せんきょ議席ぎせきとす(独立どくりつ会派かいは時代じだい)。以降いこう保守党ほしゅとうきゅうトーリーとう)へ接近せっきんし、1837ねんどうとう入党にゅうとうした。1841ねん保守党ほしゅとう政権せいけんロバート・ピール内閣ないかくには陸軍りくぐん植民しょくみん大臣だいじんとして入閣にゅうかく1844ねんには繰上くりがみ勅書ちょくしょでビッカースタッフのスタンリー男爵だんしゃく継承けいしょうし、貴族きぞくいん移籍いせきした(保守党ほしゅとう中堅ちゅうけん議員ぎいん時代じだい)。

1845ねんにピール首相しゅしょう穀物こくもつほう廃止はいしして穀物こくもつ自由じゆう貿易ぼうえきおこなおうとしたことに反対はんたいした。最終さいしゅうてき穀物こくもつほう廃止はいしされるも、ピールらがピールげて保守党ほしゅとうったため、わって保守党ほしゅとう党首とうしゅ就任しゅうにんした。1851ねんちちでダービー伯爵はくしゃく世襲せしゅうする(保守党ほしゅとう党首とうしゅ)。

ベンジャミン・ディズレーリ保守党ほしゅとう庶民しょみんいん院内いんない総務そうむにんじて、庶民しょみんいん対策たいさく一任いちにんし、1852ねんジョン・ラッセルきょうのホイッグとう政権せいけんたおしてだい1内閣ないかく組閣そかくした。しかし少数しょうすう与党よとう政権せいけんだったので、大蔵おおくら大臣だいじんとして入閣にゅうかくしたディズレーリの予算よさんあん否決ひけつされたことで、同年どうねんのうちにそう辞職じしょくすることとなった(だい1ダービー伯爵はくしゃくないかく)。

1858ねん、ホイッグとう政権せいけんパーマストン子爵ししゃく内閣ないかく議会ぎかいやぶれてそう辞職じしょくしたためだい2内閣ないかく組閣そかくしたが、やはり少数しょうすう与党よとう政権せいけんなので1859ねんには議会ぎかい敗北はいぼくしてそう辞職じしょくまれた(だい2ダービー伯爵はくしゃくないかく

1865ねんラッセル伯爵はくしゃく内閣ないかく選挙せんきょほう改正かいせい法案ほうあんをめぐって議会ぎかい敗北はいぼくしたことで、だい3内閣ないかく組閣そかくした。だい1だい2同様どうよう少数しょうすう与党よとう政権せいけんであったが、ディズレーリの主導しゅどうによりだい2選挙せんきょほう改正かいせい達成たっせいした。ダービー伯爵はくしゃくはこの法案ほうあん貴族きぞくいん通過つうかにとりわけおおきな貢献こうけんをした(だい3ダービー伯爵はくしゃくないかく)。

1868ねん病気びょうきのため、ディズレーリに首相しゅしょうしょくゆずって退任たいにん、その翌年よくねん死去しきょした(死去しきょ)。

生涯しょうがい

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ダービー伯爵はくしゃく自邸じていノウズリー・ホール英語えいごばん

ランカシャーのダービー伯爵はくしゃく自邸じていノウズリー・ホール英語えいごばんまれる。ちちはスタンリーきょうエドワード・スミス=スタンリーだい13だいダービー伯爵はくしゃく。このころ襲爵しゅうしゃくまえでスタンリーきょう儀礼ぎれい称号しょうごう使用しようしていた)。ははウィニック教区きょうく牧師ぼくしジェフリー・ホーンビーのむすめシャーロット[3][4]

イートンこうオックスフォおっくすふぉド大学どだいがくクライスト・チャーチ進学しんがく[5][4]学生がくせい時代じだいから作詞さくし熱心ねっしんで、これは生涯しょうがいにわたるエドワードの趣味しゅみとなった[6]

ホイッグとう議員ぎいん時代じだい

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大学だいがく在学ざいがくちゅう1820ねんストックブリッジ選挙せんきょから庶民しょみんいん議員ぎいん選挙せんきょ出馬しゅつばしてはつ当選とうせん[7]。ダービー伯爵はくしゃく代々だいだいホイッグとう支持しじであり、エドワードも公式こうしきにはそうしょうしていたが、かれ独自どくじ判断はんだん行動こうどうした。とりわけイングランド国教こっきょうかいまもりたいとおもっていたのでホイッグとうとは相容あいいれない部分ぶぶんもあった[8]

1824ねんにエドワード・ブートル=ウィルブリアムのむすめエマと結婚けっこんし、彼女かのじょとのあいだ長男ちょうなんエドワードだい15だいダービー伯爵はくしゃく)と次男じなんフレデリックだい16だいダービー伯爵はくしゃく)、一女いちじょもうけた。

1827ねんトーリーとう自由じゆう主義しゅぎジョージ・カニング内閣ないかく陸軍りくぐん植民しょくみんしょう政務次官せいむじかん英語えいごばんとして参加さんかしたが、その、トーリーとう保守ほしゅウェリントン公爵こうしゃく首相しゅしょうとなったために辞職じしょくした。このさいにエドワードは「わたしがトーリーとう政権せいけん代表だいひょうするのはカニングのようなトーリーとうリベラル政権せいけんにぎったときのみである」と宣言せんげんした[9]

1830ねんはん世紀せいきにわたったトーリーとう政権せいけんたおれ、グレイ伯爵はくしゃくのホイッグとう政権せいけん誕生たんじょうすると、そのアイルランド担当たんとう大臣だいじん英語えいごばんとして入閣にゅうかくした[9]合同ごうどうほう廃止はいしもとめるアイルランド独立どくりつ運動うんどうダニエル・オコンネル議員ぎいん庶民しょみんいんにおいてはげしく激闘げきとうした[9]一方いっぽうでアイルランドに宗派しゅうは学校がっこう次々つぎつぎ創設そうせつすることでプロテスタントとカトリックの教育きょういくをめぐるあらそいの解消かいしょう目指めざした[10]

1833ねん3がつ陸軍りくぐん植民しょくみん大臣だいじん栄転えいてんし、だいえい帝国ていこく植民しょくみんにおける奴隷どれい貿易ぼうえき廃止はいし尽力じんりょくした(イギリス本国ほんごくにおける奴隷どれい貿易ぼうえきは1807ねんきんじられていたが、植民しょくみんではいまだ合法ごうほうであった)[11]

しかし1834ねん5がつにはアイルランド国教こっきょうかい歳入さいにゅう社会しゃかい保障ほしょう転換てんかんしようというグレイ伯爵はくしゃく政策せいさく反対はんたいして陸軍りくぐん植民しょくみん地相ちそう辞職じしょくした[12]

以降いこうエドワードはホイッグとうからはなれていくことになるが、これはかれちちスタンリーきょう祖父そふだい12だいダービー伯爵はくしゃくからも賛同さんどううえでのことであった。かれらスタンリー3だいによれば、自分じぶんたちがホイッグとう本道ほんどうからはなれたのではなく、ホイッグとうほうがホイッグとう本道ほんどうにいる自分じぶんたちからはなれたのだという[13]

独立どくりつ会派かいは時代じだい

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エドワードがホイッグとう離党りとうすると、80めいほどのホイッグ右派うはがそれにしたがってホイッグを離党りとうした。そのかれらはダービーばれる独立どくりつ会派かいは形成けいせいするようになり、トーリーとホイッグのあいだだいさんとう目指めざすようになった[14]

1834ねん10月に祖父そふであるだい12だいダービー伯爵はくしゃく死去しきょし、ちちだい13だいダービー伯爵はくしゃく継承けいしょうしたことで、以降いこうエドワードはスタンリーきょう(Lord Stanley)の儀礼ぎれい称号しょうごう使用しようするようになった。

スタンリーきょうとその会派かいはは、1834ねん12月に成立せいりつした保守党ほしゅとう政権せいけんだい1ピールないかく支持しじした。しかしどう内閣ないかく野党やとう結集けっしゅう1835ねん4がつにも倒閣とうかくされた[15]つづいて成立せいりつしたメルバーン子爵ししゃくひきいるホイッグとう政権せいけんから入閣にゅうかく要請ようせいけたが、メルバーン子爵ししゃくがアイルランド独立どくりつ運動うんどうオコンネルに譲歩じょうほするかまえだったのでスタンリーきょう入閣にゅうかく拒否きょひした[16]

1837ねんなつヴィクトリア女王じょおう即位そくいともな解散かいさんそう選挙せんきょ英語えいごばんおこなわれたが、スタンリーきょう会派かいはは60議席ぎせきんだ。これにより独自どくじ会派かいはのままでは議会ぎかいキャスティング・ボートにぎれる可能かのうせいひくくなった。そのためスタンリーきょう保守党ほしゅとう合流ごうりゅうすることを決意けついした[17]

保守党ほしゅとう中堅ちゅうけん議員ぎいん時代じだい

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1844ねん肖像しょうぞう(トマス・ヘンリー・イリッジ英語えいごばん)

1837ねん12月に正式せいしき保守党ほしゅとう入党にゅうとうした[11]

1841ねん誕生たんじょうしたロバート・ピール保守党ほしゅとう政権せいけんふたた陸軍りくぐん植民しょくみん大臣だいじんとして入閣にゅうかくした[18]阿片あへん戦争せんそう最終さいしゅう局面きょくめん指導しどうしてきよし南京なんきん条約じょうやく締結ていけつさせることに成功せいこうした。またえいりょうカナダアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく緊張きんちょうたかまりを緩和かんわしてアメリカとの戦争せんそう回避かいひすることにも成功せいこうした[18]

スタンリーきょう保護ほご貿易ぼうえき主義しゅぎものであり、野党やとうホイッグとう首相しゅしょうピールが検討けんとうしていた穀物こくもつほう廃止はいしには反対はんたい立場たちばであったが、植民しょくみん本国ほんごくあいだ関税かんぜい軽減けいげんすることには賛成さんせいであり、カナダさん小麦こむぎ関税かんぜいげるカナダ穀物こくもつほうとおしている[19]

1844ねん10月に繰上くりがみ勅書ちょくしょにより、ちちビッカースタッフのスタンリー男爵だんしゃく(Baron Stanley of Bickerstaffe)の称号しょうごう貴族きぞくいん移籍いせきした[20]

1845ねんなつアイルランド発生はっせいしたジャガイモ飢饉ききんにより、野党やとう中心ちゅうしんにパンの値段ねだんげるため穀物こくもつ関税かんぜいさだめている穀物こくもつほう廃止はいし機運きうんたかまり、11月にピール首相しゅしょう穀物こくもつほう廃止はいし方針ほうしん表明ひょうめいした[18]。しかし地主じぬしおお所属しょぞくする保守党ほしゅとうない抵抗ていこう勢力せいりょくからはげしい抵抗ていこうけた。スタンリー男爵だんしゃくバクルー公爵こうしゃくとともに反対はんたいした。ピールは2人ふたり説得せっとくできず、内閣ないかく一度いちどそう辞職じしょくした[21]。しかし女王じょおう大命たいめいあたえたホイッグとうジョン・ラッセルきょう組閣そかく失敗しっぱいしたため、再度さいどピールに大命たいめいがあり、12月にスタンリーとバクルー公爵こうしゃく2人ふたりだけをのぞいた以前いぜんおな顔触かおぶれの内閣ないかく発足ほっそくさせた(スタンリー男爵だんしゃく後任こうにんウィリアム・グラッドストンだった)[22][23]

以降いこう、スタンリー男爵だんしゃく貴族きぞくいんにおけるはんピール運動うんどう中心ちゅうしんてき人物じんぶつとなった[22]一方いっぽう庶民しょみんいんでその運動うんどう主導しゅどうしたのはベンジャミン・ディズレーリジョージ・ベンティンクきょうだった[24]

保守党ほしゅとう党首とうしゅ

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穀物こくもつほう廃止はいし法案ほうあん保守党ほしゅとうない自由じゆう貿易ぼうえき野党やとうのホイッグとう急進きゅうしん賛成さんせい多数たすうにより可決かけつされたものの、保守党ほしゅとうないにはめがたいみぞができ、ディズレーリやベンティンクきょう野党やとう勢力せいりょく連携れんけいして1846ねん6がつにアイルランド強圧きょうあつほう否決ひけつすることでピールないかくそう辞職じしょくんだ[25][26]

ロバート・ピール以下いか保守党ほしゅとうない自由じゆう貿易ぼうえき議員ぎいん112めい保守党ほしゅとう離党りとうしてピール結成けっせいした。これによってウィリアム・グラッドストンなど閣僚かくりょう政務次官せいむじかん経験けいけんしゃはほぼすべてピールながれていった[27][28]

7がつ18にち保守党ほしゅとう両院りょういん議員ぎいんによる晩餐ばんさんかいひらかれ、その席上せきじょうでスタンリー男爵だんしゃく保守党ほしゅとう全体ぜんたい党首とうしゅ、ベンティンクきょう保守党ほしゅとう下院かいん院内いんない総務そうむさだめられた[29]

ヴィクトリア女王じょおう辞職じしょくしたピールにわってスタンリー男爵だんしゃく大命たいめいあたえようとしたが、かれとう実務じつむ経験けいけんしゃがすべてピールうつっていたことから組閣そかく不可能ふかのう判断はんだんして、ホイッグとうとピール連立れんりつ政権せいけんつくらせるよう助言じょげんし、その結果けっかジョン・ラッセルきょう組閣そかくすることとなった[30]

1851ねんはるちちだい13だいダービー伯爵はくしゃく死去しきょし、52さいにしてだい14だいダービー伯爵はくしゃく継承けいしょうした[31]

だい1ダービー伯爵はくしゃくないかく

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ホイッグとう政権せいけん首相しゅしょうジョン・ラッセルきょうとラッセルに解任かいにんされた外相がいしょうパーマストン子爵ししゃく内紛ないふんにディズレーリがかたち崩壊ほうかいした。そのけて1852ねん2がつにダービー伯爵はくしゃく大命たいめいけた[32][33]

だい1ダービー伯爵はくしゃくないかく大臣だいじん枢密すうみつ顧問こもんかん経験けいけんしゃがわずか3にん内閣ないかくで、のち全員ぜんいん新顔しんがおだった。そのため「だれ?だれ?内閣ないかく英語えいごばん」とばれた[34][35][36]

1852ねん7がつそう選挙せんきょ英語えいごばん保守党ほしゅとう議席ぎせきばしたが、過半数かはんすうにはいまいちとどかなかったため、11月に議会ぎかいはじまれば倒閣とうかくされることを覚悟かくごせねばならなかった[37]

10月にオックスフォおっくすふぉド大学どだいがく総長そうちょう(Chancellors of the University of Oxford)に就任しゅうにんした[38]

12月には庶民しょみんいんでディズレーリの予算よさんあん庶民しょみんいん否決ひけつされ、内閣ないかくそう辞職じしょく余儀よぎなくされた。ピールアバディーン伯爵はくしゃく内閣ないかくにとってわられた[39][40]

だい2内閣ないかくまでの野党やとう時代じだい

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以降いこう5ねんにわたって野党やとう党首とうしゅ時代じだいおくった[41]。このあいだ保守党ほしゅとう庶民しょみんいん院内いんない総務そうむディズレーリは政権せいけんたいして徹底てってい対決たいけつ路線ろせんをとったが、一方いっぽうダービー伯爵はくしゃくはピール保守党ほしゅとうもどしたいという意図いとから徹底てってい対決たいけつ路線ろせんけようとした[42]

クリミア戦争せんそうについては、アバディーン伯爵はくしゃくがはじめからフランスを支持しじするとロシア皇帝こうてい通達つうたつしておけば、おそらくロシアはバルカン半島ばるかんはんとうへの侵攻しんこうなどたくらまなかったであろうと主張しゅちょうして、アバディーン伯爵はくしゃく政権せいけん優柔不断ゆうじゅうふだん外交がいこう批判ひはんした。しかし開戦かいせん挙国一致きょこくいっち体制たいせいのためとして、原則げんそくとして政府せいふ戦争せんそう遂行すいこう支持しじするという立場たちばをとった[43]

首相しゅしょうがホイッグとうパーマストン子爵ししゃくわったのち1856ねん勃発ぼっぱつしたアロー戦争せんそうについては、「わたし弱者じゃくしゃ擁護ようごするものである。強大きょうだいなイギリスにたいしてよわ中国ちゅうごくのために一助いちじょしまぬものである」として戦争せんそう反対はんたい表明ひょうめいした[44]一方いっぽう、ディズレーリは国民こくみん愛国あいこくムードを敏感びんかんかんじており、これを争点そうてんにしてもはないとまさしく予見よけんしていたが、党首とうしゅダービー伯爵はくしゃくはアロー戦争せんそう反対はんたい政府せいふ闘争とうそういどむことを決定けっていしてしまった[45]

保守党ほしゅとう、ピール急進きゅうしん賛成さんせい多数たすうでパーマストン子爵ししゃく批判ひはんする決議けつぎ採択さいたくされると、パーマストン子爵ししゃく1857ねん4がつ解散かいさんそう選挙せんきょ英語えいごばんって[46][47]選挙せんきょ党派とうはえてパーマストン子爵ししゃく支持しじする議員ぎいん大勝たいしょうし、強硬きょうこう戦争せんそう反対はんたい議員ぎいんはほぼ全員ぜんいん落選らくせんした。保守党ほしゅとう全体ぜんたいとしては20議席ぎせきほどらす結果けっかとなった[48][49]

あてがはずれてダービー伯爵はくしゃく意気いき消沈しょうちんしたという[43]

だい2ダービー伯爵はくしゃくないかく

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こののち、パーマストン子爵ししゃく殺人さつじん共謀きょうぼうざいをめぐる採決さいけつやぶれてそう辞職じしょくしたことで、1858ねん2がつにダービー伯爵はくしゃくに2度目どめ大命たいめいがあった[50]。しかし保守党ほしゅとうは、庶民しょみんいんそう議席ぎせきの3ぶんの1程度ていど議席ぎせきしかゆうしていなかったので、野党やとう団結だんけつしたら即座そくざたおされてしまう不安定ふあんてい内閣ないかくだった[51]

息子むすこのスタンリーきょうだい15だいダービー伯爵はくしゃく)を植民しょくみん大臣だいじんにんじ、ぜんパーマストン子爵ししゃくないかく鎮圧ちんあつしたインドだい反乱はんらんのインドの統治とうちシステムの構築こうちくんだ。女王じょおう野党やとうとの協議きょうぎすえに、インドをイギリスひがしインド会社かいしゃ統治とうちからイギリス女王じょおう実質じっしつてきには「女王じょおう陛下へいか政府せいふ」)の直接ちょくせつ統治とうち移行いこうした[52]

また、ユダヤじんキリスト教徒きりすときょうととしての宣誓せんせいおこなえないがために、たとえ選挙せんきょ当選とうせんしても議場ぎじょうれない状態じょうたい解消かいしょうすべく、庶民しょみんいん院内いんない総務そうむディズレーリとともに貴族きぞくいん庶民しょみんいんでそれぞれあたらしい宣誓せんせいかたちさだめた[53][54]

さらに、ディズレーリの主導しゅどう選挙せんきょほう改正かいせいんだ。ディズレーリは賃料ちんりょう価値かちにかかわらず男子だんし戸主こしゅ全員ぜんいん選挙せんきょけんあたえる制度せいどほっしていたが[55]保守党ほしゅとうない選挙せんきょけん拡大かくだい慎重しんちょう考慮こうりょして、10ポンド以上いじょう賃料ちんりょう価値かち住居じゅうきょ所有しょゆうしゃ、あるいは20ポンド以上いじょう賃料ちんりょう価値かち住居じゅうきょ間借まがりじん選挙せんきょけんみとめるとの改正かいせい目指めざした[56]選挙せんきょけん拡大かくだい慎重しんちょうなダービー伯爵はくしゃくはさらに10ポンド以上いじょうコンソル公債こうさい所持しょじしているか、あるいは60ポンド以上いじょう銀行ぎんこう預金よきんがあるものという条件じょうけんくわえさせている[57]

1859ねん2がつにディズレーリが庶民しょみんいん選挙せんきょほう改正かいせい法案ほうあん提出ていしゅつしたが、保守ほしゅからは選挙せんきょけん拡大かくだいしすぎると批判ひはんされ、一方いっぽう急進きゅうしんからは選挙せんきょけん拡大かくだいぬるすぎると批判ひはんされて4がつ1にち否決ひけつされた。これをけてダービー伯爵はくしゃく解散かいさんそう選挙せんきょ英語えいごばんってて、30議席ぎせきほど保守党ほしゅとう議席ぎせきうえみしたが、過半数かはんすうにはとどかず、6がつには議会ぎかい敗北はいぼくきっしてそう辞職じしょくする羽目はめとなった[58][59]

この退任たいにんさいに、女王じょおうより与野党よやとう折衝せっしょうこうねぎらわれてガーター勲章くんしょう授与じゅよされた[59]

だい3内閣ないかくまでの野党やとう時代じだい

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イタリア統一とういつ戦争せんそうについては、はじめイタリア・ナショナリズムつよ不信ふしんかんをもっていたが、徐々じょじょ理解りかいしめすようになり、1864ねん4がつにはジュゼッペ・ガリバルディ主賓しゅひんになっているロンドンでの晩餐ばんさんかい出席しゅっせきして話題わだいとなった[60]

プロイセン王国おうこく宰相さいしょうオットー・フォン・ビスマルク策動さくどうはじまっただいシュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争せんそうについては中立ちゅうりつ立場たちばをとるよう政府せいふうったえた[60]

1865ねん7がつ解散かいさんそう選挙せんきょ英語えいごばん保守党ほしゅとう総力そうりょくげてのぞんだダービー伯爵はくしゃくだったが、結局けっきょく20議席ぎせきうしな敗北はいぼくきっしている[61][62]

1865ねん10がつ選挙せんきょけん拡大かくだい慎重しんちょうだった首相しゅしょうパーマストン子爵ししゃく死去しきょし、わってラッセル伯爵はくしゃく首相しゅしょうとなると、庶民しょみんいん院内いんない総務そうむになったウィリアム・グラッドストン主導しゅどう選挙せんきょほう改正かいせい法案ほうあん提出ていしゅつされたが、保守党ほしゅとう自由党じゆうとう右派うは反対はんたい否決ひけつされ、ラッセル伯爵はくしゃくないかくそう辞職じしょくまれた[61]

だい3ダービー伯爵はくしゃくないかく

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だい3ダービー伯爵はくしゃくないかく閣議かくぎみぎから3にんがダービー伯爵はくしゃく

ラッセル伯爵はくしゃくないかくそう辞職じしょくけて、1866ねん6がつまつ女王じょおうより大命たいめいけた[61]。このだい3ダービー伯爵はくしゃくないかく少数しょうすう与党よとう政権せいけんであり、だい1だい2同様どうよう選挙せんきょ管理かんりないかく性質せいしつつよかった[63]

選挙せんきょほう改正かいせい挫折ざせつ国民こくみん抗議こうぎデモや暴動ぼうどう多発たはつし、急進きゅうしんジョン・ブライト国民こくみん武装ぶそう蜂起ほうきをちらつかせて政府せいふ選挙せんきょほう改正かいせいせまってきた。保守党ほしゅとうないにも暴動ぼうどうへの恐怖きょうふひろがり、早急そうきゅう選挙せんきょほう改正かいせいもとめるこえつよまった[64][65]。ダービー伯爵はくしゃく基本きほんてき選挙せんきょけん拡大かくだい反対はんたい立場たちばだったが、ディズレーリからの説得せっとく最終さいしゅうてきには早急そうきゅう選挙せんきょほう改正かいせいする必要ひつようせい理解りかいした[61]

ディズレーリの主導しゅどうで、1867ねん2がつ選挙せんきょほう改正かいせい法案ほうあん庶民しょみんいん提出ていしゅつされた。都市とし選挙せんきょについては基本きほんてき男子だんし戸主こしゅ選挙せんきょけんみとめるが、そこに様々さまざま条件じょうけん地方ちほうぜい直接ちょくせつ納税のうぜいしゃかぎ[注釈ちゅうしゃく 1]、2ねん以上いじょう居住きょじゅう制限せいげん借家しゃくやじん選挙せんきょけんみとめられない、有産ゆうさんしゃじゅう投票とうひょう可能かのうなど)をくわえることで実質じっしつてき選挙せんきょけん制限せいげんする内容ないようだった[67]

しかし、保守ほしゅてきなインド担当たんとう大臣だいじんクランボーン子爵ししゃくソールズベリー侯爵こうしゃく)、戦争せんそう大臣だいじんジョナサン・ピール英語えいごばん将軍しょうぐん植民しょくみん大臣だいじんカーナーヴォン伯爵はくしゃくらは自由党じゆうとうつよ大都市だいとし選挙せんきょ有利ゆうり改正かいせいになるとして反対はんたいし、ついには辞職じしょくした[68][69]

一方いっぽうディズレーリは、庶民しょみんいんにおける主導しゅどうけんみずからがにぎるため、なにとしても選挙せんきょほう改正かいせい法案ほうあんとお決意けついかためていた。そのためジョン・ブライトら自由党じゆうとう急進きゅうしん譲歩じょうほかさね、条件じょうけん次々つぎつぎはいしていった結果けっか法案ほうあんは6がつ15にちだいさん読会どっかい通過つうかした。貴族きぞくいんでははげしい反発はんぱつがあったものの、ダービー伯爵はくしゃく辞職じしょくをちらつかせて不満ふまんおさんだ結果けっか貴族きぞくいんもなんとか通過つうかし、8がつ15にちにヴィクトリア女王じょおう裁可さいか法律ほうりつとなった。ここにだい2選挙せんきょほう改正かいせい達成たっせいされた[70][71][72]

可決かけつされた法案ほうあんは、都市とし選挙せんきょについては男子だんし戸主こしゅであれば選挙せんきょけんみとめていた。直接ちょくせつ納税のうぜい条件じょうけん納税のうぜい方式ほうしき直接ちょくせつ納税のうぜいのみにすることによってはいしており、2ねん居住きょじゅう制限せいげん条件じょうけんは1ねんらされた。またとし価値かち10ポンド以上いじょう住居じゅうきょ借家しゃくやじんにも選挙せんきょけんみとめられていた。しゅう選挙せんきょ有権者ゆうけんしゃ資格しかくについてはとし価値かち12ポンド以上いじょう土地とち所有しょゆうしゃ選挙せんきょけんゆうすることとなった[73][74]

このだい2選挙せんきょほう改正かいせいによって、有権者ゆうけんしゃすうは100まんにんから200まんにんえた。法案ほうあん提案ていあんされた当初とうしょだれ予想よそうしていなかった選挙せんきょけん大幅おおはば拡大かくだいとなった[67]。ダービー伯爵はくしゃくにとってもディズレーリにとっても予想よそうがい選挙せんきょけん大盤振おおばんぶいになったが、かれらは政権せいけん維持いじのための代価だいかかんがえてったという[75]

だい2選挙せんきょほう改正かいせい法案ほうあんをめぐる議会ぎかいでの論争ろんそうさいには、すでにダービー伯爵はくしゃく持病じびょう痛風つうふう相当そうとう悪化あっかしていた。閣議かくぎもしばしばロンドンセント・ジェームズ・スクウェア英語えいごばん23番地ばんちにあるかれ自邸じていひらかれるようになっていた[76]。1867ねんあきにはオランダ王妃おうひ所領しょりょう自邸じていノウズリー・ホール英語えいごばんむかえたが、ダービー伯爵はくしゃく衰弱すいじゃくした様子ようす王妃おうひは「伯爵はくしゃくいまにもえつきそうです。ねつっぽいもく青白あおじろかおているとがよだちます」とその印象いんしょうかたっている[76]

1868ねん2がつしん議会ぎかい招集しょうしゅうされたが、ダービー伯爵はくしゃくはもはや議会ぎかい出席しゅっせきできない状態じょうたいだった。かれはまだそれほどの高齢こうれいではなかったので引退いんたい生活せいかつはいることをしぶっていたが、医者いしゃすすめで辞意じいかためた[77]女王じょおうもすでにディズレーリを後任こうにんにとかんがえていた[77]

1868ねん2がつ24にち女王じょおう辞表じひょう提出ていしゅつした[78]。そのさいにディズレーリに大命たいめいあたえるよう助言じょげんしている[79][77]

死去しきょ

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1869ねん5月29にちの『バニティ・フェアのダービーはく似顔絵にがおえ

退任たいにんノウズリー・ホール英語えいごばんごすことがほとんどだったが、1869ねん3がつには最後さいごちからしぼって貴族きぞくいん出席しゅっせきし、自由党じゆうとう政権せいけんウィリアム・グラッドストン内閣ないかく提出ていしゅつしたアイルランド国教こっきょうかい廃止はいししようとする法案ほうあん反対はんたいする演説えんぜつおこなった(しかしこの法案ほうあん可決かけつしている)[78]

その、1869ねん10がつ23にちにノウズリー・ホールで死去しきょした[80]。ダービー伯爵はくしゃく長男ちょうなんエドワード継承けいしょうした[81]

人物じんぶつ

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ロンドンパーラメント・スクエアにあるダービー伯爵はくしゃく銅像どうぞう

貴族きぞく主義しゅぎてき人物じんぶつで、民主みんしゅ主義しゅぎきらっていた。かれ理想りそうとする社会しゃかいは「貴族きぞく」による寡頭政治かとうせいじだった。ただしかれう「貴族きぞく」とは爵位しゃくいものだけではなく、爵位しゃくいのない地主じぬしそうジェントリふくんでおり、つまり地方ちほうジェントルマン全般ぜんぱんのことであった[82]。その貴族きぞく主義しゅぎ徹底てっていしており、だい貴族きぞくとして威張いばり、庶民しょみん見下みくだすことをこのんだ。「りあがりしゃヘブライじん」ディズレーリのことも、その才能さいのうみとめていたが、このんではいなかった[83]

外交がいこうでは孤立こりつ主義しゅぎ不干渉ふかんしょう主義しゅぎ基調きちょうとして、イギリスの名誉めいよきずかないかぎり、戦争せんそうには消極しょうきょくてきであった[60]

性格せいかく激昂げっこうしやすかったという[84]

クラシック音楽おんがく愛好あいこうであり、『イーリアス』を詩歌しか翻訳ほんやくしたこともある[84][83]

競馬けいばあいし、競馬けいばかいパトロンであった[84]かれ競馬けいばダービーオークス創設そうせつした12だいダービーはくまごにあたり、祖父そふから競馬けいばまなんだ。調教ちょうきょうジョン・スコット英語えいごばん所有しょゆうまかせ、ダービーでの優勝ゆうしょう目指めざしたが、ダービーでの最高さいこう記録きろく1858ねん出走しゅっそうさせたトキソフィライト(Toxophilite、カーバイン祖父そふ)の2ちゃくだった[85]一方いっぽうオークスにおいては叙爵じょしゃくまえ1851ねん所有しょゆうアイリス (Iris)で優勝ゆうしょうたしている[86][注釈ちゅうしゃく 2]

公務こうむより競馬けいば優先ゆうせんすることもしばしばあり、補佐ほさやくのディズレーリはあたまかかえたという[87]。ディズレーリはかれについて「ヨーロッパ、いや世界せかい激変げきへん最中さいちゅうにあるときでもつねニューマーケットドンカスター味方みかたであった」とひょうしている[85]

栄典えいてん

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爵位しゃくい

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1844ねん11月4にち繰上くりがみ勅書ちょくしょにより以下いか爵位しゃくい継承けいしょうした[4][88]

1851ねん6月30にちちちエドワード・スミス=スタンリーにより以下いか爵位しゃくい/じゅん男爵だんしゃく継承けいしょうした[4][88]

勲章くんしょう

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その

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家族かぞく

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1825ねん初代しょだいスケルマーズデール男爵だんしゃく英語えいごばんむすめエマ・キャロライン・ブートル=ウィルブラハム閣下かっかHon. Emma Caroline Bootle-Wilbraham)と結婚けっこん彼女かのじょとのあいだ以下いかの3もうけた[4]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 地方ちほうぜい納税のうぜい方式ほうしきには一括いっかつ納税のうぜい直接ちょくせつ納税のうぜいがあった。一括いっかつ納税のうぜいすると直接ちょくせつ納税のうぜいよりやすむため、おおくのひとがこちらの納税のうぜい方式ほうしき選択せんたくしていた。下層かそうみん選挙せんきょけんるためだけにたか税金ぜいきんえるとはおもえないため、この条件じょうけん下層かそうみんから選挙せんきょけん排除はいじょする最大さいだい安全あんぜん装置そうちであった[66]
  2. ^ オークスだい1かい祖父そふ12だいダービー伯爵はくしゃくがブリジット (Briget) で、だい16かいにもハーマイオニ(Hermione)でせいしており、かれの1851ねんだい73かいオークスでの優勝ゆうしょう伯爵はくしゃくとしては57ねんぶりの快挙かいきょであった。この45ねんの1896ねんのオークスでも次男じなんだい16だいダービー伯爵はくしゃくカンタベリーピルグリムによってオークスで優勝ゆうしょうしている[86]

出典しゅってん

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  6. ^ バグリー(1993) p.292-293
  7. ^ バグリー(1993) p.293
  8. ^ バグリー(1993) p.295
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  13. ^ バグリー(1993) p.300
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  15. ^ 君塚きみづか(1999) p.63
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  25. ^ ブレイク(1993) p.280-282
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参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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グレートブリテンおよびアイルランド連合れんごう王国おうこく議会ぎかい
先代せんだい
ジョン・フォースター・バーラム英語えいごばん
ジョン・フォースター=バーラム
ストックブリッジ選挙せんきょ英語えいごばん選出せんしゅつ庶民しょみんいん議員ぎいん
1822ねん–1826ねん
同職どうしょくジョン・フォースター=バーラム
次代じだい
トマス・グローブナー英語えいごばん
ジョージ・ウィルブラハム英語えいごばん
先代せんだい
サミュエル・ホロックス
エドムンド・ホーンビー英語えいごばん
プレストン選挙せんきょ英語えいごばん選出せんしゅつ庶民しょみんいん議員ぎいん
1826ねん–1830ねん
同職どうしょくジョン・ウッド
次代じだい
ヘンリー・ハント英語えいごばん
先代せんだい
ジョン・ラムズボトム英語えいごばん
サー・ハッセー・ヴィヴィアンじゅん男爵だんしゃく英語えいごばん
ウィンザー選挙せんきょ英語えいごばん選出せんしゅつ庶民しょみんいん議員ぎいん
1831ねん–1832ねん
同職どうしょくジョン・ラムズボトム英語えいごばん
次代じだい
ジョン・ラムズボトム英語えいごばん
サー・サミュエル・ブロック=ペッチェルじゅん男爵だんしゃく英語えいごばん
新設しんせつ選挙せんきょ きたランカシャー選挙せんきょ英語えいごばん選出せんしゅつ庶民しょみんいん議員ぎいん
1832ねん–1844ねん
同職どうしょくジョン・ウィルソン=パッテン英語えいごばん
次代じだい
ジョン・ウィルソン=パッテン英語えいごばん
ジョン・タルボット・クリフトン英語えいごばん
公職こうしょく
先代せんだい
サー・ヘンリー・ハーディング
イギリスの旗 アイルランド担当たんとう大臣だいじん英語えいごばん
1830ねん - 1833ねん
次代じだい
サー・ジョン・ホブハウスじゅん男爵だんしゃく英語えいごばん
先代せんだい
初代しょだいゴドリッチ子爵ししゃく
イギリスの旗 陸軍りくぐん植民しょくみん大臣だいじん
1833ねん - 1834ねん
次代じだい
トーマス・スプリング・ライス英語えいごばん
先代せんだい
ジョン・ラッセルきょう
イギリスの旗 陸軍りくぐん植民しょくみん大臣だいじん
1841ねん - 1845ねん
次代じだい
ウィリアム・グラッドストン
先代せんだい
ジョン・ラッセルきょう
イギリスの旗 首相しゅしょう
1852ねん
次代じだい
だい4だいアバディーン伯爵はくしゃく
先代せんだい
だい3だいランズダウン侯爵こうしゃく
イギリスの旗 貴族きぞくいん院内いんない総務そうむ
1852ねん
次代じだい
だい4だいアバディーン伯爵はくしゃく
先代せんだい
だい3だいパーマストン子爵ししゃく
イギリスの旗 首相しゅしょう
1858ねん - 1859ねん
次代じだい
だい3だいパーマストン子爵ししゃく
先代せんだい
だい2だいグランヴィル伯爵はくしゃく
イギリスの旗 貴族きぞくいん院内いんない総務そうむ
1858ねん - 1859ねん
次代じだい
だい2だいグランヴィル伯爵はくしゃく
先代せんだい
初代しょだいラッセル伯爵はくしゃく
イギリスの旗 首相しゅしょう
1866ねん - 1868ねん
次代じだい
ベンジャミン・ディズレーリ
先代せんだい
初代しょだいラッセル伯爵はくしゃく
イギリスの旗 貴族きぞくいん院内いんない総務そうむ
1866ねん - 1868ねん
次代じだい
だい3だいマームズベリー伯爵はくしゃく
とうしょく
先代せんだい
サー・ロバート・ピールじゅん男爵だんしゃく
保守党ほしゅとう党首とうしゅ
1846ねん - 1868ねん
次代じだい
ベンジャミン・ディズレーリ
先代せんだい
初代しょだいウェリントン公爵こうしゃく
保守党ほしゅとう貴族きぞくいん院内いんない総務そうむ英語えいごばん
1846ねん - 1868ねん
次代じだい
だい3だいマームズベリー伯爵はくしゃく
がくしょく
先代せんだい
初代しょだいウェリントン公爵こうしゃく
オックスフォおっくすふぉド大学どだいがく総長そうちょう英語えいごばん
1852ねん - 1869ねん
次代じだい
だい3だいソールズベリー侯爵こうしゃく
イングランドの爵位しゃくい
先代せんだい
エドワード
だい14だいダービー伯爵はくしゃく
1851ねん - 1869ねん
次代じだい
エドワード
イギリスの爵位しゃくい
先代せんだい
エドワード
だい2だいビッカースタッフのスタンリー男爵だんしゃく
繰上くりがみ勅書ちょくしょにより)

1844ねん - 1869ねん
次代じだい
エドワード