第 だい 14代 だい ダービー伯爵 はくしゃく エドワード・ジョージ・ジェフリー・スミス=スタンリー (英語 えいご : Edward George Geoffrey Smith-Stanley, 14th Earl of Derby, KG , GCMG , PC , PC (Ire) 、 1799年 ねん 3月29日 にち - 1869年 ねん 10月23日 にち )は、イギリス の政治 せいじ 家 か 、貴族 きぞく 。
保守党 ほしゅとう とピール派 は の分裂 ぶんれつ 後 ご にロバート・ピール に代 か わって保守党 ほしゅとう 党首 とうしゅ となり、3度 ど にわたって首相 しゅしょう (1852年 ねん 、1858年 ねん - 1859年 ねん 、1866年 ねん - 1868年 ねん )を務 つと めた。しかしいずれも少数 しょうすう 与党 よとう の短命 たんめい 政権 せいけん であり、事実 じじつ 上 じょう 選挙 せんきょ 管理 かんり 内 ない 閣 かく だったため、庶民 しょみん 院 いん 院内 いんない 総務 そうむ の地位 ちい にあったベンジャミン・ディズレーリ が政局 せいきょく を主導 しゅどう するところが多 おお く、影 かげ の薄 うす い首相 しゅしょう だった。1868年 ねん に退任 たいにん し、ディズレーリが保守党 ほしゅとう 党首 とうしゅ ・首相 しゅしょう の地位 ちい を継承 けいしょう した。
1834年 ねん から1844年 ねん まではスタンリー卿 きょう (Lord Stanley)の儀礼 ぎれい 称号 しょうごう を使用 しよう し、1844年 ねん にビッカースタッフのスタンリー男爵 だんしゃく (Baron Stanley of Bickerstaffe)を、1851年 ねん にはダービー伯爵 はくしゃく 位 い を、それぞれ継承 けいしょう した。
第 だい 13代 だい ダービー伯爵 はくしゃく エドワード・スミス=スタンリー の長男 ちょうなん 。イートン校 こう を経 へ てオックスフォ おっくすふぉ ード大学 どだいがく クライスト・チャーチ へ進学 しんがく する(→生 お い立 た ち )
大学 だいがく 在学 ざいがく 中 ちゅう の1820年 ねん に庶民 しょみん 院 いん 議員 ぎいん に初 はつ 当選 とうせん した。はじめはホイッグ党 とう の議員 ぎいん だった。1827年 ねん にトーリー党 とう 自由 じゆう 主義 しゅぎ 派 は のジョージ・カニング を首相 しゅしょう とする内閣 ないかく に陸軍 りくぐん ・植民 しょくみん 地 ち 省 しょう 政務次官 せいむじかん (英語 えいご 版 ばん ) として参加 さんか した。1830年 ねん のグレイ伯爵 はくしゃく を首相 しゅしょう とするホイッグ党 とう 政権 せいけん にもアイルランド担当 たんとう 大臣 だいじん (英語 えいご 版 ばん ) 、のち陸軍 りくぐん ・植民 しょくみん 地 ち 大臣 だいじん として入閣 にゅうかく したが、1834年 ねん にはグレイ伯爵 はくしゃく のアイルランド国教 こっきょう 会 かい の歳入 さいにゅう を社会 しゃかい 保障 ほしょう に回 まわ す政策 せいさく に反発 はんぱつ して辞職 じしょく した(→ホイッグ党 とう 議員 ぎいん 時代 じだい )
その後 ご ホイッグ党 とう 右派 うは を引 ひ き離 はな れて分 ぶん 党 とう し、ダービー派 は を形成 けいせい したが、1837年 ねん 夏 なつ の総 そう 選挙 せんきょ で議席 ぎせき を落 お とす(→独立 どくりつ 会派 かいは 時代 じだい )。以降 いこう 保守党 ほしゅとう (旧 きゅう トーリー党 とう )へ接近 せっきん し、1837年 ねん に同 どう 党 とう に入党 にゅうとう した。1841年 ねん の保守党 ほしゅとう 政権 せいけん ロバート・ピール 内閣 ないかく には陸軍 りくぐん ・植民 しょくみん 地 ち 大臣 だいじん として入閣 にゅうかく 。1844年 ねん には繰上 くりがみ 勅書 ちょくしょ でビッカースタッフのスタンリー男爵 だんしゃく を継承 けいしょう し、貴族 きぞく 院 いん へ移籍 いせき した(→保守党 ほしゅとう 中堅 ちゅうけん 議員 ぎいん 時代 じだい )。
1845年 ねん にピール首相 しゅしょう が穀物 こくもつ 法 ほう を廃止 はいし して穀物 こくもつ の自由 じゆう 貿易 ぼうえき を行 おこな おうとしたことに反対 はんたい した。最終 さいしゅう 的 てき に穀物 こくもつ 法 ほう は廃止 はいし されるも、ピールらがピール派 は を立 た ち上 あ げて保守党 ほしゅとう を去 さ ったため、代 か わって保守党 ほしゅとう 党首 とうしゅ に就任 しゅうにん した。1851年 ねん に父 ちち の死 し でダービー伯爵 はくしゃく 位 い を世襲 せしゅう する(→保守党 ほしゅとう 党首 とうしゅ に )。
ベンジャミン・ディズレーリ を保守党 ほしゅとう 庶民 しょみん 院 いん 院内 いんない 総務 そうむ に任 にん じて、庶民 しょみん 院 いん 対策 たいさく を一任 いちにん し、1852年 ねん にジョン・ラッセル卿 きょう のホイッグ党 とう 政権 せいけん を倒 たお して第 だい 1次 じ 内閣 ないかく を組閣 そかく した。しかし少数 しょうすう 与党 よとう 政権 せいけん だったので、大蔵 おおくら 大臣 だいじん として入閣 にゅうかく したディズレーリの予算 よさん 案 あん が否決 ひけつ されたことで、同年 どうねん のうちに総 そう 辞職 じしょく することとなった(→第 だい 1次 じ ダービー伯爵 はくしゃく 内 ない 閣 かく )。
1858年 ねん 、ホイッグ党 とう 政権 せいけん パーマストン子爵 ししゃく 内閣 ないかく が議会 ぎかい で敗 やぶ れて総 そう 辞職 じしょく したため第 だい 2次 じ 内閣 ないかく を組閣 そかく したが、やはり少数 しょうすう 与党 よとう 政権 せいけん なので1859年 ねん には議会 ぎかい で敗北 はいぼく して総 そう 辞職 じしょく に追 お い込 こ まれた(→第 だい 2次 じ ダービー伯爵 はくしゃく 内 ない 閣 かく )
1865年 ねん にラッセル伯爵 はくしゃく 内閣 ないかく が選挙 せんきょ 法 ほう 改正 かいせい 法案 ほうあん をめぐって議会 ぎかい で敗北 はいぼく したことで、第 だい 3次 じ 内閣 ないかく を組閣 そかく した。第 だい 1次 じ 、第 だい 2次 じ 同様 どうよう に少数 しょうすう 与党 よとう 政権 せいけん であったが、ディズレーリの主導 しゅどう により第 だい 2次 じ 選挙 せんきょ 法 ほう 改正 かいせい を達成 たっせい した。ダービー伯爵 はくしゃく はこの法案 ほうあん の貴族 きぞく 院 いん の通過 つうか にとりわけ大 おお きな貢献 こうけん をした(→第 だい 3次 じ ダービー伯爵 はくしゃく 内 ない 閣 かく )。
1868年 ねん に病気 びょうき のため、ディズレーリに首相 しゅしょう 職 しょく を譲 ゆず って退任 たいにん 、その翌年 よくねん に死去 しきょ した(→死去 しきょ )。
ダービー伯爵 はくしゃく 家 か の自邸 じてい ノウズリー・ホール (英語 えいご 版 ばん ) 。
ランカシャー のダービー伯爵 はくしゃく 家 か の自邸 じてい ノウズリー・ホール (英語 えいご 版 ばん ) に生 う まれる。父 ちち はスタンリー卿 きょう エドワード・スミス=スタンリー (後 ご の第 だい 13代 だい ダービー伯爵 はくしゃく 。この頃 ころ は襲爵 しゅうしゃく 前 まえ でスタンリー卿 きょう の儀礼 ぎれい 称号 しょうごう を使用 しよう していた)。母 はは はウィニック 教区 きょうく 牧師 ぼくし ジェフリー・ホーンビーの娘 むすめ シャーロット[ 3] [ 4] 。
イートン校 こう を経 へ てオックスフォ おっくすふぉ ード大学 どだいがく クライスト・チャーチ へ進学 しんがく [ 5] [ 4] 。学生 がくせい 時代 じだい から作詞 さくし に熱心 ねっしん で、これは生涯 しょうがい にわたるエドワードの趣味 しゅみ となった[ 6] 。
大学 だいがく 在学 ざいがく 中 ちゅう の1820年 ねん にストックブリッジ 選挙 せんきょ 区 く から庶民 しょみん 院 いん 議員 ぎいん 選挙 せんきょ に出馬 しゅつば して初 はつ 当選 とうせん [ 7] 。ダービー伯爵 はくしゃく 家 か は代々 だいだい ホイッグ党 とう 支持 しじ であり、エドワードも公式 こうしき にはそう称 しょう していたが、彼 かれ は独自 どくじ の判断 はんだん で行動 こうどう した。とりわけイングランド国教 こっきょう 会 かい を守 まも りたいと思 おも っていたのでホイッグ党 とう とは相容 あいい れない部分 ぶぶん もあった[ 8] 。
1824年 ねん にエドワード・ブートル=ウィルブリアムの娘 むすめ エマと結婚 けっこん し、彼女 かのじょ との間 あいだ に長男 ちょうなん エドワード (第 だい 15代 だい ダービー伯爵 はくしゃく )と次男 じなん フレデリック (第 だい 16代 だい ダービー伯爵 はくしゃく )、他 た 一女 いちじょ を儲 もう けた。
1827年 ねん にトーリー党 とう 自由 じゆう 主義 しゅぎ 派 は のジョージ・カニング 内閣 ないかく に陸軍 りくぐん ・植民 しょくみん 地 ち 省 しょう 政務次官 せいむじかん (英語 えいご 版 ばん ) として参加 さんか したが、その後 ご 、トーリー党 とう 保守 ほしゅ 派 は のウェリントン公爵 こうしゃく が首相 しゅしょう となったために辞職 じしょく した。この際 さい にエドワードは「私 わたし がトーリー党 とう 政権 せいけん を代表 だいひょう するのはカニングのようなトーリー党 とう リベラル派 は が政権 せいけん を握 にぎ ったときのみである」と宣言 せんげん した[ 9] 。
1830年 ねん 、半 はん 世紀 せいき にわたったトーリー党 とう 政権 せいけん が倒 たお れ、グレイ伯爵 はくしゃく のホイッグ党 とう 政権 せいけん が誕生 たんじょう すると、そのアイルランド担当 たんとう 大臣 だいじん (英語 えいご 版 ばん ) として入閣 にゅうかく した[ 9] 。合同 ごうどう 法 ほう 廃止 はいし を求 もと めるアイルランド独立 どくりつ 運動 うんどう 家 か ダニエル・オコンネル 議員 ぎいん と庶民 しょみん 院 いん において激 はげ しく激闘 げきとう した[ 9] 。一方 いっぽう でアイルランドに無 む 宗派 しゅうは の学校 がっこう を次々 つぎつぎ と創設 そうせつ することでプロテスタントとカトリックの教育 きょういく をめぐる争 あらそ いの解消 かいしょう を目指 めざ した[ 10] 。
1833年 ねん 3月 がつ に陸軍 りくぐん ・植民 しょくみん 地 ち 大臣 だいじん に栄転 えいてん し、大 だい 英 えい 帝国 ていこく 植民 しょくみん 地 ち における奴隷 どれい 貿易 ぼうえき 廃止 はいし に尽力 じんりょく した(イギリス本国 ほんごく における奴隷 どれい 貿易 ぼうえき は1807年 ねん に禁 きん じられていたが、植民 しょくみん 地 ち ではいまだ合法 ごうほう であった)[ 11] 。
しかし1834年 ねん 5月 がつ にはアイルランド国教 こっきょう 会 かい の歳入 さいにゅう を社会 しゃかい 保障 ほしょう 費 ひ に転換 てんかん しようというグレイ伯爵 はくしゃく の政策 せいさく に反対 はんたい して陸軍 りくぐん ・植民 しょくみん 地相 ちそう を辞職 じしょく した[ 12] 。
以降 いこう エドワードはホイッグ党 とう から離 はな れていくことになるが、これは彼 かれ の父 ちち スタンリー卿 きょう 、祖父 そふ 第 だい 12代 だい ダービー伯爵 はくしゃく からも賛同 さんどう を得 え た上 うえ でのことであった。彼 かれ らスタンリー家 か 3代 だい によれば、自分 じぶん たちがホイッグ党 とう の本道 ほんどう から離 はな れたのではなく、ホイッグ党 とう の方 ほう がホイッグ党 とう の本道 ほんどう にいる自分 じぶん たちから離 はな れたのだという[ 13] 。
エドワードがホイッグ党 とう を離党 りとう すると、80名 めい ほどのホイッグ右派 うは がそれに従 したが ってホイッグを離党 りとう した。その後 ご 、彼 かれ らはダービー派 は と呼 よ ばれる独立 どくりつ 会派 かいは を形成 けいせい するようになり、トーリーとホイッグの間 あいだ に立 た つ第 だい 三 さん 党 とう を目指 めざ すようになった[ 14] 。
1834年 ねん 10月に祖父 そふ である第 だい 12代 だい ダービー伯爵 はくしゃく が死去 しきょ し、父 ちち が第 だい 13代 だい ダービー伯爵 はくしゃく 位 い を継承 けいしょう したことで、以降 いこう エドワードはスタンリー卿 きょう (Lord Stanley)の儀礼 ぎれい 称号 しょうごう を使用 しよう するようになった。
スタンリー卿 きょう とその会派 かいは は、1834年 ねん 12月に成立 せいりつ した保守党 ほしゅとう 政権 せいけん の第 だい 1次 じ ピール内 ない 閣 かく を支持 しじ した。しかし同 どう 内閣 ないかく は野党 やとう の結集 けっしゅう で1835年 ねん 4月 がつ にも倒閣 とうかく された[ 15] 。続 つづ いて成立 せいりつ したメルバーン子爵 ししゃく 率 ひき いるホイッグ党 とう 政権 せいけん から入閣 にゅうかく 要請 ようせい を受 う けたが、メルバーン子爵 ししゃく がアイルランド独立 どくりつ 運動 うんどう 家 か オコンネルに譲歩 じょうほ する構 かま えだったのでスタンリー卿 きょう は入閣 にゅうかく を拒否 きょひ した[ 16] 。
1837年 ねん 夏 なつ にヴィクトリア女王 じょおう の即位 そくい に伴 ともな う解散 かいさん 総 そう 選挙 せんきょ (英語 えいご 版 ばん ) が行 おこな われたが、スタンリー卿 きょう の会派 かいは は60議席 ぎせき に落 お ち込 こ んだ。これにより独自 どくじ 会派 かいは のままでは議会 ぎかい のキャスティング・ボート を握 にぎ れる可能 かのう 性 せい が低 ひく くなった。そのためスタンリー卿 きょう は保守党 ほしゅとう と合流 ごうりゅう することを決意 けつい した[ 17] 。
1844年 ねん の肖像 しょうぞう 画 が (トマス・ヘンリー・イリッジ (英語 えいご 版 ばん ) 画 が )
1837年 ねん 12月に正式 せいしき に保守党 ほしゅとう に入党 にゅうとう した[ 11] 。
1841年 ねん に誕生 たんじょう したロバート・ピール 保守党 ほしゅとう 政権 せいけん に再 ふたた び陸軍 りくぐん ・植民 しょくみん 地 ち 大臣 だいじん として入閣 にゅうかく した[ 18] 。阿片 あへん 戦争 せんそう の最終 さいしゅう 局面 きょくめん を指導 しどう して清 きよし に南京 なんきん 条約 じょうやく を締結 ていけつ させることに成功 せいこう した。また英 えい 領 りょう カナダ とアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく の緊張 きんちょう の高 たか まりを緩和 かんわ してアメリカとの戦争 せんそう を回避 かいひ することにも成功 せいこう した[ 18] 。
スタンリー卿 きょう は保護 ほご 貿易 ぼうえき 主義 しゅぎ 者 もの であり、野党 やとう ホイッグ党 とう や首相 しゅしょう ピールが検討 けんとう していた穀物 こくもつ 法 ほう 廃止 はいし には反対 はんたい の立場 たちば であったが、植民 しょくみん 地 ち と本国 ほんごく 間 あいだ の関税 かんぜい を軽減 けいげん することには賛成 さんせい であり、カナダ 産 さん 小麦 こむぎ の関税 かんぜい を下 さ げるカナダ穀物 こくもつ 法 ほう を通 とお している[ 19] 。
1844年 ねん 10月に繰上 くりがみ 勅書 ちょくしょ により、父 ちち のビッカースタッフのスタンリー男爵 だんしゃく (Baron Stanley of Bickerstaffe)の称号 しょうごう で貴族 きぞく 院 いん へ移籍 いせき した[ 20] 。
1845年 ねん 夏 なつ にアイルランド で発生 はっせい したジャガイモ飢饉 ききん により、野党 やとう を中心 ちゅうしん にパンの値段 ねだん を下 さ げるため穀物 こくもつ 関税 かんぜい を定 さだ めている穀物 こくもつ 法 ほう 廃止 はいし の機運 きうん が高 たか まり、11月にピール首相 しゅしょう も穀物 こくもつ 法 ほう を廃止 はいし の方針 ほうしん を表明 ひょうめい した[ 18] 。しかし地主 じぬし が多 おお く所属 しょぞく する保守党 ほしゅとう 内 ない の抵抗 ていこう 勢力 せいりょく から激 はげ しい抵抗 ていこう を受 う けた。スタンリー男爵 だんしゃく もバクルー公爵 こうしゃく とともに反対 はんたい した。ピールは2人 ふたり を説得 せっとく できず、内閣 ないかく は一度 いちど 総 そう 辞職 じしょく した[ 21] 。しかし女王 じょおう が大命 たいめい を与 あた えたホイッグ党 とう のジョン・ラッセル卿 きょう が組閣 そかく に失敗 しっぱい したため、再度 さいど ピールに大命 たいめい があり、12月にスタンリーとバクルー公爵 こうしゃく の2人 ふたり だけを除 のぞ いた以前 いぜん と同 おな じ顔触 かおぶ れの内閣 ないかく を発足 ほっそく させた(スタンリー男爵 だんしゃく の後任 こうにん はウィリアム・グラッドストン だった)[ 22] [ 23] 。
以降 いこう 、スタンリー男爵 だんしゃく は貴族 きぞく 院 いん における反 はん ピール運動 うんどう の中心 ちゅうしん 的 てき 人物 じんぶつ となった[ 22] 。一方 いっぽう 、庶民 しょみん 院 いん でその運動 うんどう を主導 しゅどう したのはベンジャミン・ディズレーリ とジョージ・ベンティンク 卿 きょう だった[ 24] 。
穀物 こくもつ 法 ほう 廃止 はいし 法案 ほうあん は保守党 ほしゅとう 内 ない 自由 じゆう 貿易 ぼうえき 派 は と野党 やとう のホイッグ党 とう や急進 きゅうしん 派 は の賛成 さんせい 多数 たすう により可決 かけつ されたものの、保守党 ほしゅとう 内 ない には埋 う めがたい溝 みぞ ができ、ディズレーリやベンティンク卿 きょう は野党 やとう 勢力 せいりょく と連携 れんけい して1846年 ねん 6月 がつ にアイルランド強圧 きょうあつ 法 ほう を否決 ひけつ することでピール内 ない 閣 かく を総 そう 辞職 じしょく に追 お い込 こ んだ[ 25] [ 26] 。
ロバート・ピール以下 いか 、保守党 ほしゅとう 内 ない の自由 じゆう 貿易 ぼうえき 派 は 議員 ぎいん 112名 めい は保守党 ほしゅとう を離党 りとう してピール派 は を結成 けっせい した。これによってウィリアム・グラッドストン など閣僚 かくりょう や政務次官 せいむじかん 経験 けいけん 者 しゃ はほぼすべてピール派 は に流 なが れていった[ 27] [ 28] 。
7月 がつ 18日 にち の保守党 ほしゅとう 両院 りょういん 議員 ぎいん による晩餐 ばんさん 会 かい が開 ひら かれ、その席上 せきじょう でスタンリー男爵 だんしゃく が保守党 ほしゅとう 全体 ぜんたい の党首 とうしゅ 、ベンティンク卿 きょう が保守党 ほしゅとう 下院 かいん 院内 いんない 総務 そうむ と定 さだ められた[ 29] 。
ヴィクトリア女王 じょおう は辞職 じしょく したピールに代 か わってスタンリー男爵 だんしゃく に大命 たいめい を与 あた えようとしたが、彼 かれ は党 とう の実務 じつむ 経験 けいけん 者 しゃ がすべてピール派 は に移 うつ っていたことから組閣 そかく は不可能 ふかのう と判断 はんだん して、ホイッグ党 とう とピール派 は に連立 れんりつ 政権 せいけん を作 つく らせるよう助言 じょげん し、その結果 けっか ジョン・ラッセル卿 きょう が組閣 そかく することとなった[ 30] 。
1851年 ねん 春 はる に父 ちち 第 だい 13代 だい ダービー伯爵 はくしゃく が死去 しきょ し、52歳 さい にして第 だい 14代 だい ダービー伯爵 はくしゃく 位 い を継承 けいしょう した[ 31] 。
ホイッグ党 とう 政権 せいけん は首相 しゅしょう ジョン・ラッセル卿 きょう とラッセルに解任 かいにん された外相 がいしょう パーマストン子爵 ししゃく の内紛 ないふん にディズレーリが付 つ け入 い る形 かたち で崩壊 ほうかい した。その後 ご を受 う けて1852年 ねん 2月 がつ にダービー伯爵 はくしゃく が大命 たいめい を受 う けた[ 32] [ 33] 。
第 だい 1次 じ ダービー伯爵 はくしゃく 内 ない 閣 かく は大臣 だいじん ・枢密 すうみつ 顧問 こもん 官 かん 経験 けいけん 者 しゃ がわずか3人 にん の内閣 ないかく で、後 のち は全員 ぜんいん 新顔 しんがお だった。そのため「誰 だれ ?誰 だれ ?内閣 ないかく (英語 えいご 版 ばん ) 」と呼 よ ばれた[ 34] [ 35] [ 36] 。
1852年 ねん 7月 がつ の総 そう 選挙 せんきょ (英語 えいご 版 ばん ) で保守党 ほしゅとう は議席 ぎせき を伸 の ばしたが、過半数 かはんすう には今 いま 一 いち 歩 ほ で届 とど かなかったため、11月に議会 ぎかい が始 はじ まれば倒閣 とうかく されることを覚悟 かくご せねばならなかった[ 37] 。
10月にオックスフォ おっくすふぉ ード大学 どだいがく 総長 そうちょう (Chancellors of the University of Oxford)に就任 しゅうにん した[ 38] 。
12月には庶民 しょみん 院 いん でディズレーリの予算 よさん 案 あん が庶民 しょみん 院 いん で否決 ひけつ され、内閣 ないかく 総 そう 辞職 じしょく を余儀 よぎ なくされた。ピール派 は のアバディーン伯爵 はくしゃく 内閣 ないかく にとって代 か わられた[ 39] [ 40] 。
以降 いこう 5年 ねん にわたって野党 やとう 党首 とうしゅ 時代 じだい を送 おく った[ 41] 。この間 あいだ 、保守党 ほしゅとう 庶民 しょみん 院 いん 院内 いんない 総務 そうむ ディズレーリは政権 せいけん に対 たい して徹底 てってい 対決 たいけつ 路線 ろせん をとったが、一方 いっぽう ダービー伯爵 はくしゃく はピール派 は を保守党 ほしゅとう に呼 よ び戻 もど したいという意図 いと から徹底 てってい 対決 たいけつ 路線 ろせん を避 さ けようとした[ 42] 。
クリミア戦争 せんそう については、アバディーン伯爵 はくしゃく がはじめからフランスを支持 しじ するとロシア皇帝 こうてい に通達 つうたつ しておけば、恐 おそ らくロシアはバルカン半島 ばるかんはんとう への侵攻 しんこう など企 たくら まなかったであろうと主張 しゅちょう して、アバディーン伯爵 はくしゃく 政権 せいけん の優柔不断 ゆうじゅうふだん な外交 がいこう を批判 ひはん した。しかし開戦 かいせん 後 ご は挙国一致 きょこくいっち 体制 たいせい のためとして、原則 げんそく として政府 せいふ の戦争 せんそう 遂行 すいこう を支持 しじ するという立場 たちば をとった[ 43] 。
首相 しゅしょう がホイッグ党 とう のパーマストン子爵 ししゃく に代 か わった後 のち の1856年 ねん に勃発 ぼっぱつ したアロー戦争 せんそう については、「私 わたし は弱者 じゃくしゃ を擁護 ようご する者 もの である。強大 きょうだい なイギリスに対 たい して弱 よわ き中国 ちゅうごく のために一助 いちじょ を惜 お しまぬものである」として戦争 せんそう 反対 はんたい を表明 ひょうめい した[ 44] 。一方 いっぽう 、ディズレーリは国民 こくみん の愛国 あいこく ムードを敏感 びんかん に感 かん じており、これを争点 そうてん にしても勝 か ち目 め はないと正 まさ しく予見 よけん していたが、党首 とうしゅ ダービー伯爵 はくしゃく はアロー戦争 せんそう 反対 はんたい で政府 せいふ に闘争 とうそう を挑 いど むことを決定 けってい してしまった[ 45] 。
保守党 ほしゅとう 、ピール派 は 、急進 きゅうしん 派 は の賛成 さんせい 多数 たすう でパーマストン子爵 ししゃく を批判 ひはん する決議 けつぎ が採択 さいたく されると、パーマストン子爵 ししゃく は1857年 ねん 4月 がつ に解散 かいさん 総 そう 選挙 せんきょ (英語 えいご 版 ばん ) に打 う って出 で た[ 46] [ 47] 。選挙 せんきょ は党派 とうは を超 こ えてパーマストン子爵 ししゃく を支持 しじ する議員 ぎいん が大勝 たいしょう し、強硬 きょうこう な戦争 せんそう 反対 はんたい 派 は 議員 ぎいん はほぼ全員 ぜんいん 落選 らくせん した。保守党 ほしゅとう 全体 ぜんたい としては20議席 ぎせき ほど減 へ らす結果 けっか となった[ 48] [ 49] 。
あてが外 はず れてダービー伯爵 はくしゃく は意気 いき 消沈 しょうちん したという[ 43] 。
この後 のち 、パーマストン子爵 ししゃく が殺人 さつじん 共謀 きょうぼう 罪 ざい をめぐる採決 さいけつ で敗 やぶ れて総 そう 辞職 じしょく したことで、1858年 ねん 2月 がつ にダービー伯爵 はくしゃく に2度目 どめ の大命 たいめい があった[ 50] 。しかし保守党 ほしゅとう は、庶民 しょみん 院 いん の総 そう 議席 ぎせき の3分 ぶん の1程度 ていど の議席 ぎせき しか有 ゆう していなかったので、野党 やとう が団結 だんけつ したら即座 そくざ に倒 たお されてしまう不安定 ふあんてい な内閣 ないかく だった[ 51] 。
息子 むすこ のスタンリー卿 きょう (後 ご の第 だい 15代 だい ダービー伯爵 はくしゃく )を植民 しょくみん 地 ち 大臣 だいじん に任 にん じ、前 ぜん パーマストン子爵 ししゃく 内 ない 閣 かく が鎮圧 ちんあつ したインド大 だい 反乱 はんらん 後 ご のインドの統治 とうち システムの構築 こうちく に取 と り組 く んだ。女王 じょおう や野党 やとう との協議 きょうぎ の末 すえ に、インドをイギリス東 ひがし インド会社 かいしゃ 統治 とうち からイギリス女王 じょおう (実質 じっしつ 的 てき には「女王 じょおう 陛下 へいか の政府 せいふ 」)の直接 ちょくせつ 統治 とうち へ移行 いこう した[ 52] 。
また、ユダヤ人 じん がキリスト教徒 きりすときょうと としての宣誓 せんせい を行 おこな えないがために、たとえ選挙 せんきょ で当選 とうせん しても議場 ぎじょう に入 い れない状態 じょうたい を解消 かいしょう すべく、庶民 しょみん 院 いん 院内 いんない 総務 そうむ ディズレーリとともに貴族 きぞく 院 いん と庶民 しょみん 院 いん でそれぞれ新 あたら しい宣誓 せんせい の形 かたち を定 さだ めた[ 53] [ 54] 。
さらに、ディズレーリの主導 しゅどう で選挙 せんきょ 法 ほう 改正 かいせい に取 と り組 く んだ。ディズレーリは賃料 ちんりょう 価値 かち にかかわらず男子 だんし 戸主 こしゅ 全員 ぜんいん に選挙 せんきょ 権 けん を与 あた える制度 せいど を欲 ほっ していたが[ 55] 、保守党 ほしゅとう 内 ない の選挙 せんきょ 権 けん 拡大 かくだい 慎重 しんちょう 派 は を考慮 こうりょ して、10ポンド 以上 いじょう の賃料 ちんりょう 価値 かち の住居 じゅうきょ の所有 しょゆう 者 しゃ 、あるいは20ポンド以上 いじょう の賃料 ちんりょう 価値 かち の住居 じゅうきょ の間借 まがり 人 じん に選挙 せんきょ 権 けん を認 みと めるとの改正 かいせい を目指 めざ した[ 56] 。選挙 せんきょ 権 けん 拡大 かくだい に慎重 しんちょう なダービー伯爵 はくしゃく はさらに10ポンド以上 いじょう のコンソル公債 こうさい を所持 しょじ しているか、あるいは60ポンド以上 いじょう の銀行 ぎんこう 預金 よきん がある者 もの という条件 じょうけん も加 くわ えさせている[ 57] 。
1859年 ねん 2月 がつ にディズレーリが庶民 しょみん 院 いん に選挙 せんきょ 法 ほう 改正 かいせい 法案 ほうあん を提出 ていしゅつ したが、保守 ほしゅ 派 は からは選挙 せんきょ 権 けん を拡大 かくだい しすぎると批判 ひはん され、一方 いっぽう 急進 きゅうしん 派 は からは選挙 せんきょ 権 けん 拡大 かくだい が手 て ぬるすぎると批判 ひはん されて4月 がつ 1日 にち に否決 ひけつ された。これを受 う けてダービー伯爵 はくしゃく は解散 かいさん 総 そう 選挙 せんきょ (英語 えいご 版 ばん ) に打 う って出 で て、30議席 ぎせき ほど保守党 ほしゅとう の議席 ぎせき を上 うえ 済 ず みしたが、過半数 かはんすう には届 とど かず、6月 がつ には議会 ぎかい で敗北 はいぼく を喫 きっ して総 そう 辞職 じしょく する羽目 はめ となった[ 58] [ 59] 。
この退任 たいにん の際 さい に、女王 じょおう より与野党 よやとう の折衝 せっしょう の功 こう を労 ねぎら われてガーター勲章 くんしょう を授与 じゅよ された[ 59] 。
イタリア統一 とういつ 戦争 せんそう については、はじめイタリア・ナショナリズム に強 つよ い不信 ふしん 感 かん をもっていたが、徐々 じょじょ に理解 りかい を示 しめ すようになり、1864年 ねん 4月 がつ にはジュゼッペ・ガリバルディ が主賓 しゅひん になっているロンドンでの晩餐 ばんさん 会 かい に出席 しゅっせき して話題 わだい となった[ 60] 。
プロイセン王国 おうこく 宰相 さいしょう オットー・フォン・ビスマルク の策動 さくどう で始 はじ まった第 だい 二 に 次 じ シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争 せんそう については中立 ちゅうりつ の立場 たちば をとるよう政府 せいふ に訴 うった えた[ 60] 。
1865年 ねん 7月 がつ の解散 かいさん 総 そう 選挙 せんきょ (英語 えいご 版 ばん ) に保守党 ほしゅとう の総力 そうりょく を挙 あ げて臨 のぞ んだダービー伯爵 はくしゃく だったが、結局 けっきょく 20議席 ぎせき を失 うしな う敗北 はいぼく を喫 きっ している[ 61] [ 62] 。
1865年 ねん 10月 がつ 、選挙 せんきょ 権 けん 拡大 かくだい に慎重 しんちょう だった首相 しゅしょう パーマストン子爵 ししゃく が死去 しきょ し、代 か わってラッセル伯爵 はくしゃく が首相 しゅしょう となると、庶民 しょみん 院 いん 院内 いんない 総務 そうむ になったウィリアム・グラッドストン の主導 しゅどう で選挙 せんきょ 法 ほう 改正 かいせい 法案 ほうあん が提出 ていしゅつ されたが、保守党 ほしゅとう や自由党 じゆうとう 右派 うは の反対 はんたい で否決 ひけつ され、ラッセル伯爵 はくしゃく 内 ない 閣 かく は総 そう 辞職 じしょく に追 お い込 こ まれた[ 61] 。
第 だい 3次 じ ダービー伯爵 はくしゃく 内 ない 閣 かく の閣議 かくぎ 。右 みぎ から3人 にん 目 め がダービー伯爵 はくしゃく 。
ラッセル伯爵 はくしゃく 内 ない 閣 かく の総 そう 辞職 じしょく を受 う けて、1866年 ねん 6月 がつ 末 まつ に女王 じょおう より大命 たいめい を受 う けた[ 61] 。この第 だい 3次 じ ダービー伯爵 はくしゃく 内 ない 閣 かく も少数 しょうすう 与党 よとう 政権 せいけん であり、第 だい 1次 じ や第 だい 2次 じ と同様 どうよう に選挙 せんきょ 管理 かんり 内 ない 閣 かく の性質 せいしつ が強 つよ かった[ 63] 。
選挙 せんきょ 法 ほう 改正 かいせい の挫折 ざせつ で国民 こくみん の抗議 こうぎ デモや暴動 ぼうどう が多発 たはつ し、急進 きゅうしん 派 は のジョン・ブライト が国民 こくみん の武装 ぶそう 蜂起 ほうき をちらつかせて政府 せいふ に選挙 せんきょ 法 ほう 改正 かいせい を迫 せま ってきた。保守党 ほしゅとう 内 ない にも暴動 ぼうどう への恐怖 きょうふ が広 ひろ がり、早急 そうきゅう な選挙 せんきょ 法 ほう 改正 かいせい を求 もと める声 こえ が強 つよ まった[ 64] [ 65] 。ダービー伯爵 はくしゃく は基本 きほん 的 てき に選挙 せんきょ 権 けん 拡大 かくだい に反対 はんたい の立場 たちば だったが、ディズレーリからの説得 せっとく で最終 さいしゅう 的 てき には早急 そうきゅう に選挙 せんきょ 法 ほう を改正 かいせい する必要 ひつよう 性 せい を理解 りかい した[ 61] 。
ディズレーリの主導 しゅどう で、1867年 ねん 2月 がつ に選挙 せんきょ 法 ほう 改正 かいせい 法案 ほうあん が庶民 しょみん 院 いん に提出 ていしゅつ された。都市 とし 選挙 せんきょ 区 く については基本 きほん 的 てき に男子 だんし 戸主 こしゅ に選挙 せんきょ 権 けん を認 みと めるが、そこに様々 さまざま な条件 じょうけん (地方 ちほう 税 ぜい 直接 ちょくせつ 納税 のうぜい 者 しゃ に限 かぎ る[ 注釈 ちゅうしゃく 1] 、2年 ねん 以上 いじょう の居住 きょじゅう 制限 せいげん 、借家 しゃくや 人 じん の選挙 せんきょ 権 けん は認 みと められない、有産 ゆうさん 者 しゃ は二 に 重 じゅう 投票 とうひょう 可能 かのう など)を加 くわ えることで実質 じっしつ 的 てき に選挙 せんきょ 権 けん を制限 せいげん する内容 ないよう だった[ 67]
しかし、保守 ほしゅ 的 てき なインド担当 たんとう 大臣 だいじん クランボーン子爵 ししゃく (後 ご のソールズベリー侯爵 こうしゃく )、戦争 せんそう 大臣 だいじん ジョナサン・ピール (英語 えいご 版 ばん ) 将軍 しょうぐん 、植民 しょくみん 地 ち 大臣 だいじん カーナーヴォン伯爵 はくしゃく らは自由党 じゆうとう が強 つよ い大都市 だいとし 選挙 せんきょ 区 く に有利 ゆうり な改正 かいせい になるとして反対 はんたい し、ついには辞職 じしょく した[ 68] [ 69] 。
一方 いっぽう ディズレーリは、庶民 しょみん 院 いん における主導 しゅどう 権 けん を自 みずか らが握 にぎ るため、何 なに としても選挙 せんきょ 法 ほう 改正 かいせい 法案 ほうあん を通 とお す決意 けつい を固 かた めていた。そのためジョン・ブライトら自由党 じゆうとう 急進 きゅうしん 派 は に譲歩 じょうほ を重 かさ ね、条件 じょうけん を次々 つぎつぎ に廃 はい していった結果 けっか 、法案 ほうあん は6月 がつ 15日 にち に第 だい 三 さん 読会 どっかい を通過 つうか した。貴族 きぞく 院 いん では激 はげ しい反発 はんぱつ があったものの、ダービー伯爵 はくしゃく が辞職 じしょく をちらつかせて不満 ふまん を抑 おさ え込 こ んだ結果 けっか 、貴族 きぞく 院 いん もなんとか通過 つうか し、8月 がつ 15日 にち にヴィクトリア女王 じょおう の裁可 さいか を得 え て法律 ほうりつ となった。ここに第 だい 2次 じ 選挙 せんきょ 法 ほう 改正 かいせい が達成 たっせい された[ 70] [ 71] [ 72] 。
可決 かけつ された法案 ほうあん は、都市 とし 選挙 せんきょ 区 く については男子 だんし 戸主 こしゅ であれば選挙 せんきょ 権 けん を認 みと めていた。直接 ちょくせつ 納税 のうぜい の条件 じょうけん は納税 のうぜい 方式 ほうしき を直接 ちょくせつ 納税 のうぜい のみにすることによって廃 はい しており、2年 ねん の居住 きょじゅう 制限 せいげん の条件 じょうけん は1年 ねん に減 へ らされた。また年 とし 価値 かち 10ポンド以上 いじょう の住居 じゅうきょ の借家 しゃくや 人 じん にも選挙 せんきょ 権 けん が認 みと められていた。州 しゅう 選挙 せんきょ 区 く の有権者 ゆうけんしゃ 資格 しかく については年 とし 価値 かち 12ポンド以上 いじょう の土地 とち 所有 しょゆう 者 しゃ が選挙 せんきょ 権 けん を有 ゆう することとなった[ 73] [ 74] 。
この第 だい 2次 じ 選挙 せんきょ 法 ほう 改正 かいせい によって、有権者 ゆうけんしゃ 数 すう は100万 まん 人 にん から200万 まん 人 にん に増 ふ えた。法案 ほうあん が提案 ていあん された当初 とうしょ は誰 だれ も予想 よそう していなかった選挙 せんきょ 権 けん の大幅 おおはば 拡大 かくだい となった[ 67] 。ダービー伯爵 はくしゃく にとってもディズレーリにとっても予想 よそう 外 がい の選挙 せんきょ 権 けん の大盤振 おおばんぶ る舞 ま いになったが、彼 かれ らは政権 せいけん 維持 いじ のための代価 だいか と考 かんが えて割 わ り切 き ったという[ 75] 。
第 だい 2次 じ 選挙 せんきょ 法 ほう 改正 かいせい 法案 ほうあん をめぐる議会 ぎかい での論争 ろんそう の際 さい には、すでにダービー伯爵 はくしゃく の持病 じびょう の痛風 つうふう は相当 そうとう 悪化 あっか していた。閣議 かくぎ もしばしばロンドン ・セント・ジェームズ・スクウェア (英語 えいご 版 ばん ) 23番地 ばんち にある彼 かれ の自邸 じてい で開 ひら かれるようになっていた[ 76] 。1867年 ねん 秋 あき にはオランダ王妃 おうひ を所領 しょりょう の自邸 じてい ノウズリー・ホール (英語 えいご 版 ばん ) に迎 むか えたが、ダービー伯爵 はくしゃく の衰弱 すいじゃく した様子 ようす を見 み た王妃 おうひ は「伯爵 はくしゃく は今 いま にも燃 も えつきそうです。熱 ねつ っぽい目 もく と青白 あおじろ い顔 かお を見 み ていると身 み の毛 け がよだちます」とその印象 いんしょう を語 かた っている[ 76] 。
1868年 ねん 2月 がつ に新 しん 議会 ぎかい が招集 しょうしゅう されたが、ダービー伯爵 はくしゃく はもはや議会 ぎかい に出席 しゅっせき できない状態 じょうたい だった。彼 かれ はまだそれほどの高齢 こうれい ではなかったので引退 いんたい 生活 せいかつ に入 はい ることを渋 しぶ っていたが、医者 いしゃ の薦 すす めで辞意 じい を固 かた めた[ 77] 。女王 じょおう もすでにディズレーリを後任 こうにん にと考 かんが えていた[ 77] 。
1868年 ねん 2月 がつ 24日 にち に女王 じょおう に辞表 じひょう を提出 ていしゅつ した[ 78] 。その際 さい にディズレーリに大命 たいめい を与 あた えるよう助言 じょげん している[ 79] [ 77] 。
1869年 ねん 5月29日 にち の『バニティ・フェア 』誌 し のダービー伯 はく の似顔絵 にがおえ 。
退任 たいにん 後 ご はノウズリー・ホール (英語 えいご 版 ばん ) で過 す ごすことがほとんどだったが、1869年 ねん 3月 がつ には最後 さいご の力 ちから を振 ふ り絞 しぼ って貴族 きぞく 院 いん に出席 しゅっせき し、自由党 じゆうとう 政権 せいけん ウィリアム・グラッドストン 内閣 ないかく が提出 ていしゅつ したアイルランド国教 こっきょう 会 かい を廃止 はいし しようとする法案 ほうあん に反対 はんたい する演説 えんぜつ を行 おこな った(しかしこの法案 ほうあん は可決 かけつ している)[ 78] 。
その後 ご 、1869年 ねん 10月 がつ 23日 にち にノウズリー・ホールで死去 しきょ した[ 80] 。ダービー伯爵 はくしゃく 位 い は長男 ちょうなん エドワード が継承 けいしょう した[ 81] 。
ロンドン ・パーラメント・スクエア にあるダービー伯爵 はくしゃく の銅像 どうぞう 。
貴族 きぞく 主義 しゅぎ 的 てき な人物 じんぶつ で、民主 みんしゅ 主義 しゅぎ を嫌 きら っていた。彼 かれ の理想 りそう とする社会 しゃかい は「貴族 きぞく 」による寡頭政治 かとうせいじ だった。ただし彼 かれ の言 い う「貴族 きぞく 」とは爵位 しゃくい を持 も つ者 もの だけではなく、爵位 しゃくい のない地主 じぬし 層 そう ジェントリ も含 ふく んでおり、つまり地方 ちほう ジェントルマン 全般 ぜんぱん のことであった[ 82] 。その貴族 きぞく 主義 しゅぎ は徹底 てってい しており、大 だい 貴族 きぞく として威張 いば り、庶民 しょみん を見下 みくだ すことを好 この んだ。「成 な りあがり者 しゃ のヘブライ人 じん 」ディズレーリのことも、その才能 さいのう は認 みと めていたが、好 この んではいなかった[ 83] 。
外交 がいこう では孤立 こりつ 主義 しゅぎ ・不干渉 ふかんしょう 主義 しゅぎ を基調 きちょう として、イギリスの名誉 めいよ が傷 きず 付 つ かない限 かぎ り、戦争 せんそう には消極 しょうきょく 的 てき であった[ 60] 。
性格 せいかく は激昂 げっこう しやすかったという[ 84] 。
クラシック音楽 おんがく の愛好 あいこう 家 か であり、『イーリアス 』を詩歌 しか に翻訳 ほんやく したこともある[ 84] [ 83] 。
競馬 けいば を愛 あい し、競馬 けいば 界 かい のパトロン であった[ 84] 。彼 かれ は競馬 けいば のダービー とオークス を創設 そうせつ した12代 だい ダービー伯 はく の孫 まご にあたり、祖父 そふ から競馬 けいば を学 まな んだ。調教 ちょうきょう 師 し ジョン・スコット (英語 えいご 版 ばん ) に所有 しょゆう 馬 ば を任 まか せ、ダービーでの優勝 ゆうしょう を目指 めざ したが、ダービーでの最高 さいこう 記録 きろく は1858年 ねん に出走 しゅっそう させたトキソフィライト(Toxophilite、カーバイン の祖父 そふ )の2着 ちゃく だった[ 85] 。一方 いっぽう オークスにおいては叙爵 じょしゃく 前 まえ の1851年 ねん に所有 しょゆう 馬 ば アイリス (Iris )で優勝 ゆうしょう を果 は たしている[ 86] [ 注釈 ちゅうしゃく 2] 。
公務 こうむ より競馬 けいば を優先 ゆうせん することもしばしばあり、補佐 ほさ 役 やく のディズレーリは頭 あたま を抱 かか えたという[ 87] 。ディズレーリは彼 かれ について「ヨーロッパ、いや世界 せかい が激変 げきへん の最中 さいちゅう にある時 とき でも常 つね にニューマーケット とドンカスター の味方 みかた であった」と評 ひょう している[ 85] 。
1844年 ねん 11月4日 にち の繰上 くりがみ 勅書 ちょくしょ により以下 いか の爵位 しゃくい を継承 けいしょう した[ 4] [ 88] 。
1851年 ねん 6月30日 にち に父 ちち エドワード・スミス=スタンリー の死 し により以下 いか の爵位 しゃくい /準 じゅん 男爵 だんしゃく 位 い を継承 けいしょう した[ 4] [ 88]
1825年 ねん に初代 しょだい スケルマーズデール男爵 だんしゃく (英語 えいご 版 ばん ) の娘 むすめ エマ・キャロライン・ブートル=ウィルブラハム閣下 かっか (Hon. Emma Caroline Bootle-Wilbraham )と結婚 けっこん 。彼女 かのじょ との間 あいだ に以下 いか の3子 し を儲 もう けた[ 4] 。
^ 地方 ちほう 税 ぜい の納税 のうぜい 方式 ほうしき には一括 いっかつ 納税 のうぜい と直接 ちょくせつ 納税 のうぜい があった。一括 いっかつ 納税 のうぜい すると直接 ちょくせつ 納税 のうぜい より安 やす く済 す むため、多 おお くの人 ひと がこちらの納税 のうぜい 方式 ほうしき を選択 せんたく していた。下層 かそう 民 みん が選挙 せんきょ 権 けん を得 え るためだけに高 たか い税金 ぜいきん に切 き り替 か えるとは思 おも えないため、この条件 じょうけん は下層 かそう 民 みん から選挙 せんきょ 権 けん を排除 はいじょ する最大 さいだい の安全 あんぜん 装置 そうち であった[ 66] 。
^ オークス は第 だい 1回 かい に祖父 そふ 12代 だい ダービー伯爵 はくしゃく がブリジット (Briget ) で、第 だい 16回 かい にもハーマイオニ(Hermione)で制 せい しており、彼 かれ の1851年 ねん の第 だい 73回 かい オークスでの優勝 ゆうしょう は伯爵 はくしゃく 家 か としては57年 ねん ぶりの快挙 かいきょ であった。この45年 ねん 後 ご の1896年 ねん のオークスでも次男 じなん 第 だい 16代 だい ダービー伯爵 はくしゃく がカンタベリーピルグリム によってオークスで優勝 ゆうしょう している[ 86] 。
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