ジョン・メージャー

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ジョン・メージャー
John Major
生年月日せいねんがっぴ (1943-03-29) 1943ねん3月29にち(81さい
出生しゅっしょう イギリスの旗 イギリス
イングランドの旗 イングランド
サリーしゅうカーショールトン英語えいごばんせいヘラー病院びょういん英語えいごばん
出身しゅっしんこう ラトリッシュ・スクール英語えいごばん
所属しょぞく政党せいとう 保守党ほしゅとう
称号しょうごう ガーター勲章くんしょう勲爵くんしゃく(KG)
コンパニオン・オブ・オナー勲章くんしょうコンパニオン(CH)
枢密すうみつ顧問こもんかん(PC)
旭日大綬章あさひだいじゅしょう
配偶はいぐうしゃ ノーマ・ジョンソン英語えいごばん[1]
子女しじょ 2人ふたり
公式こうしきサイト The Rt Hon Sir John Major KG CH

在任ざいにん期間きかん 1990ねん11月28にち - 1997ねん5月2にち[2]
国王こくおう エリザベス2せい

内閣ないかく サッチャー内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1989ねん7がつ24にち - 1989ねん10月26にち[2]
国王こくおう
首相しゅしょう
エリザベス2せい
マーガレット・サッチャー

イギリスの旗 イギリス
だい65だい財務ざいむ大臣だいじん
内閣ないかく サッチャー内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1989ねん10月26にち - 1990ねん11月28にち[3]
国王こくおう
首相しゅしょう
エリザベス2せい
マーガレット・サッチャー

選挙せんきょ ハンティンドンシャー選挙せんきょ英語えいごばん
ハンティンドン選挙せんきょ英語えいごばん
在任ざいにん期間きかん 1979ねん5月3にち - 1983ねん6月9にち
1983ねん6月9にち - 2001ねん6月7にち[4]
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ジョン・メージャーえい: John Major1943ねん3月29にち - )は、イギリス政治せいじ

概要がいよう[編集へんしゅう]

保守党ほしゅとう所属しょぞくし、マーガレット・サッチャー内閣ないかく財務ざいむ大臣だいじん外務がいむえい連邦れんぽう大臣だいじんつとめたのち1990ねんのサッチャーの辞任じにんわってイギリスの首相しゅしょう在職ざいしょく1990ねん11月28にち - 1997ねん5月2にち)に就任しゅうにんした。1992ねんそう選挙せんきょ辛勝しんしょうして長期ちょうき政権せいけん基盤きばんきずき、6ねんはんわたって首相しゅしょうつとめた。

アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくとの協調きょうちょう維持いじしつつヨーロッパとの関係かんけい改善かいぜんつとめ、マーストリヒト条約じょうやく締結ていけつ欧州おうしゅう連合れんごう(EU)発足ほっそくおおきな功績こうせきたした。

しかし中間色ちゅうかんしょく政策せいさくおおかったため、「理念りねん政治せいじ」との批判ひはんたかまり、また相次あいつ政治せいじのスキャンダルなどで徐々じょじょ人気にんき下降かこうし、1997ねんイギリスそう選挙せんきょトニー・ブレアひきいる労働党ろうどうとう大敗たいはいきっして退陣たいじんまれた。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

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1943ねん3月29にちイングランドサリーしゅうカーショールトン英語えいごばんせいヘラー病院びょういん英語えいごばん誕生たんじょうした[5]ちち俳優はいゆう庭園ていえん装飾そうしょくぶつ職人しょくにんエイブラハム・トマス・ベル英語えいごばんはははグウェンドリン・ミニー(旧姓きゅうせいコーツ)[6][1]

ランベス・ロンドン特別とくべつブリクストンそだつ。グラマー・スクールラトリッシュ・スクール英語えいごばん入学にゅうがくしたが[1]、16さい学校がっこう中退ちゅうたい大学だいがくには進学しんがくしていない[5]

ビジネス経歴けいれき[編集へんしゅう]

電力でんりょく会社かいしゃ保険ほけん会社かいしゃでの勤務きんむて、1965ねんスタンダード・チャータード銀行ぎんこう入社にゅうしゃすると外国がいこく為替かわせ部門ぶもん頭角とうかくあらわし、営業えいぎょう部長ぶちょう会長かいちょう秘書ひしょなどに昇進しょうしんした。

政界せいかい進出しんしゅつ[編集へんしゅう]

わかころから保守党ほしゅとう青年せいねん活動かつどう参加さんかしており、21さいときにはランベス・ロンドン特別とくべつ議会ぎかい英語えいごばん選挙せんきょ当選とうせんたした。どう地方ちほう議会ぎかいにおいてかれ住宅じゅうたく供給きょうきゅう委員いいんかい議長ぎちょうつとめた[5]

2落選らくせんて、1979ねんハンティンドンシャー選挙せんきょ英語えいごばんから保守党ほしゅとう候補こうほとして立候補りっこうほし、庶民しょみんいん議員ぎいんはつ当選とうせんした[1][5]1983ねんどう選挙せんきょ廃止はいしされると新設しんせつされたハンティンドン選挙せんきょ英語えいごばんから選出せんしゅつされるようになった[1]

サッチャーないかく閣僚かくりょうとして[編集へんしゅう]

1985ねんマーガレット・サッチャー内閣ないかく内閣ないかく改造かいぞうさい保健ほけん社会しゃかい保障ほしょうしょう関連かんれん役職やくしょくいた[7]。ついで1987ねん財務ざいむ首席しゅせき政務次官せいむじかん英語えいごばんとしてはつ入閣にゅうかくかくないでは予算よさん削減さくげん継続けいぞく管理かんり能力のうりょくたか評価ひょうかされた[5]

1989ねん7がつにサッチャーと対立たいりつしたジェフリー・ハウ外務がいむえい連邦れんぽう大臣だいじん辞職じしょくともない、わって外務がいむえい連邦れんぽう大臣だいじん就任しゅうにんした[8]

ところが外務がいむえい連邦れんぽう大臣だいじん就任しゅうにんから3カ月かげつ同年どうねん10がつナイジェル・ローソン財務ざいむ大臣だいじんがサッチャーの経済けいざい問題もんだいアドバイザーであるアラン・ウォルターズ対立たいりつして辞職じしょくしたため、わって財務ざいむ大臣だいじん転任てんにんすることになった[8]。サッチャーはメージャーを財務ざいむ大臣だいじん任命にんめいするにたって「ナイジェルほど経済けいざい精通せいつうしていないが、すくなくとも過去かこ政策せいさく失敗しっぱいとらわれて身動みうごきできなくなるようなことはない。かれは、政策せいさく失敗しっぱいからこされた結果けっかにはるかに容易ようい対応たいおうできるはずだから」とかれのことを評価ひょうかしている[9]

メージャーが財務ざいむ大臣だいじんになったころ景気けいきはきわめてわるく、経常けいじょう収支しゅうし大幅おおはば赤字あかじインフレ急速きゅうそく進行しんこうし、金利きんり上昇じょうしょうしていた。メージャーはサッチャーに欧州おうしゅう為替かわせ相場そうばメカニズム(ERM)加盟かめい進言しんげんし、消極しょうきょくてきだった彼女かのじょ説得せっとくして実現じつげんにこぎつけた[10]

首相しゅしょうとして[編集へんしゅう]

ボスニアサラエボ訪問ほうもんしたメージャー首相しゅしょう和平わへい履行りこう部隊ぶたいとして派遣はけんされた連合れんごう緊急きんきゅう対応たいおう軍団ぐんだん司令しれいかんマイケル・ウォーカー英語えいごばん中将ちゅうじょうともに。(1996ねん5がつ24にち

1990ねんあきおこなわれた保守党ほしゅとう党首とうしゅ選挙せんきょにおいて、サッチャーは204ひょうたが当選とうせんには4ひょうりず、だい2かい党首とうしゅ選挙せんきょおこなわれることになった。党内とうない支持しじひろげられそうにないと判断はんだんしたサッチャーは、だい2かい党首とうしゅ選挙せんきょへの立候補りっこうほ断念だんねんした。これをけてメージャーは党首とうしゅせんへの出馬しゅつば表明ひょうめいだいかい党首とうしゅ選挙せんきょにはメージャーのほかマイケル・ヘーゼルタインもと国防こくぼうしょうダグラス・ハード外務がいむえい連邦れんぽう大臣だいじん出馬しゅつばしたが、それぞれ185ひょう・131ひょう・56ひょうという結果けっかになった。メージャーも当選とうせんひょうにはたっしていなかったが、ヘーゼルタインとハードが辞退じたいしたため、メージャーが保守党ほしゅとう党首とうしゅ首相しゅしょう就任しゅうにんすることになった[11][12]

1992ねん4がつ庶民しょみんいん選挙せんきょ事前じぜん予想よそうくつがえかたち辛勝しんしょうしたことで長期ちょうき政権せいけん基盤きばんきずき、1997ねん5月のそう選挙せんきょ労働党ろうどうとうやぶれるまで政権せいけん担当たんとうすることになった[13][14]

外交がいこう[編集へんしゅう]

イギリスの外交がいこうかん親米しんべいおやおうかという2つの路線ろせんがあるが、サッチャーは前者ぜんしゃであり、アメリカのレーガン大統領だいとうりょう親密しんみつ関係かんけいきずきつつ、欧州共同体おうしゅうきょうどうたい(EC)にたいしては強硬きょうこう姿勢しせいのぞんだ[15]。それにたいしてメージャーは首相しゅしょう就任しゅうにん直後ちょくご演説えんぜつで「欧州共同体おうしゅうきょうどうたい(EC)のなかのイギリスについてのわたし目的もくてきは、簡単かんたんべることができる。わたしくに本来ほんらい位置いちくことをのぞんでいる。それはヨーロッパの中心ちゅうしんである。そこでパートナーたちとともに未来みらいをきずきあげていくのだ」とべたため、おやおう路線ろせん転換てんかんするのかと注目ちゅうもくされた[15]

一方いっぽう、メージャーはアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくとの関係かんけい外交がいこうじょうさい優先ゆうせん事項じこうとするイギリス外交がいこう基本きほん方針ほうしん維持いじすべきとかんがえており、「(アメリカかヨーロッパか)何故なぜえら必要ひつようがあるのか。わがくに国益こくえきはアメリカ・ヨーロッパという2つのおおきなブロックにほぼ均等きんとうかたれているなか何故なぜこうした選択せんたくをわざわざしなければならないのか。わたしわせればそれは狂気きょうき沙汰さたである」とろんじて極端きょくたん二者択一にしゃたくいつせまもの批判ひはんした[15]

たいヨーロッパ外交がいこう[編集へんしゅう]

メージャーはサッチャーよりはヨーロッパりだが、それでもイギリスがヨーロッパに吸収きゅうしゅうされて消滅しょうめつするおそれがあるうごきには抵抗ていこうした[16]

1991ねん12月にオランダマーストリヒトでEC理事りじかいひらかれ、マーストリヒト条約じょうやく締結ていけつされた。メージャーも基本きほんてきにその内容ないよう賛成さんせいしたものの、通貨つうか条項じょうこう通貨つうか統一とういつ)と社会しゃかい条項じょうこう社会しゃかい政策せいさく共通きょうつう)についてイギリスを対象たいしょうがい(Opt-out)とすることを明記めいきするよう要求ようきゅうし、外交がいこう交渉こうしょうすえにそれを条文じょうぶんむことに成功せいこうした。またECの連邦れんぽうつながる表現ひょうげんれないことも要求ようきゅうし、それについても成功せいこうした[17][18]

マーストリヒト条約じょうやく批准ひじゅんをめぐっては国内こくないでも意見いけんかれていたが(とく与党よとう保守ほしゅ党内とうない)、1992ねん5月の庶民しょみんいんだい2読会どっかいは、労働党ろうどうとう棄権きけん自由党じゆうとう賛成さんせい可決かけつされた。ところがこの直後ちょくごデンマーク議会ぎかいにおいてマーストリヒト条約じょうやく批准ひじゅん否決ひけつされ、また1992ねん9月に「ブラック・ウェンズデイ事件じけん[注釈ちゅうしゃく 1]があったことで条約じょうやく反対はんたいいきおいをし、その結果けっか、デンマークでの国民こくみん投票とうひょう結果けっかるまでイギリスも条約じょうやく批准ひじゅん延期えんきすることを余儀よぎなくされた。しかし最終さいしゅうてきには1993ねん5月18にちのデンマーク国民こくみん投票とうひょうでデンマークのマーストリヒト条約じょうやく批准ひじゅんまったので、メージャーにとってもそれがかぜとなり、同年どうねん5がつ30にちに46にん保守党ほしゅとう議員ぎいん造反ぞうはんいながらもなにとかマーストリヒト条約じょうやく庶民しょみんいんだいさん読会どっかい通過つうか達成たっせいすることができた[21][注釈ちゅうしゃく 2]

マーストリヒト条約じょうやく1993ねん11月に発効はっこうされ、これにもとづいてECは欧州おうしゅう連合れんごう(EU)に改組かいそされた[23]

しかしこののち保守ほしゅ党内とうないでは欧州統合おうしゅうとうごう反対はんたいあらそいがくすぶりつづけた。メージャーは通貨つうか統合とうごう参加さんかしないことをもとめる党内とうない反対はんたいうごきを牽制けんせいしながらも、1995ねんマドリードでのEU首脳しゅのう会議かいぎでは通貨つうか統合とうごういそぐべきではないとの見解けんかいしめした[24]

たいアメリカ外交がいこう[編集へんしゅう]
アメリカのキャンプ・デービッド記者きしゃ会見かいけんするイギリスのメージャー首相しゅしょうひだり)とアメリカのジョージ・H・W・ブッシュ大統領だいとうりょうみぎ)。(1992ねん6月7にち

アメリカとの関係かんけいでは、サッチャー政権せいけんからつづいて湾岸わんがん戦争せんそう協力きょうりょくした[13]湾岸わんがん戦争せんそう戦友せんゆうである共和党きょうわとうジョージ・H・W・ブッシュ大統領だいとうりょうとは親密しんみつ関係かんけいたもったが、1992ねんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく大統領だいとうりょう選挙せんきょさいにメージャーが公然こうぜんとブッシュを支持しじしたことがきっかけとなり、1993ねん1がつ民主党みんしゅとうビル・クリントン大統領だいとうりょう就任しゅうにんするとイギリス・アメリカあいだ齟齬そごえた[25]

ボスニア紛争ふんそうをめぐってはクリントンが明確めいかくはんセルビア立場たちばったのにたいしてメージャーはたいアメリカ協力きょうりょく基本きほんとしながらもはんセルビアの立場たちば明確めいかくにしようとしなかった[25]。またキューバ投資とうししている会社かいしゃ法的ほうてき措置そちもとめるクリントンにたいして、メージャーは協力きょうりょくしようとしなかった[25]きたアイルランド問題もんだいをめぐってはアイルランドじん移民いみんおおいアメリカはしんアイルランドてき態度たいどをとってイギリスを苛立いらだたせた[26]

このようなちいさな対立たいりつ内在ないざいしつつも、アメリカとの関係かんけい重要じゅうよう事項じこうであるというイギリス外交がいこう基本きほん方針ほうしん維持いじした。1993ねん6月と1996ねんにクリントン政権せいけんおこなったイラク空爆くうばくについても、くに批判ひはんてきることがおおかったなか、メージャーは明確めいかくにアメリカ支持しじ表明ひょうめいした[27]

内政ないせい[編集へんしゅう]

サッチャーの構造こうぞう改革かいかくぎ、公共こうきょう施設しせつ建設けんせつ運営うんえい民間みんかんゆだねる政策せいさくした[12]。この政策せいさくもとづき1992ねんにプライベート・ファイナンス・イニシアティブ(PFI)とばれる政策せいさく手法しゅほう実施じっしした。現在げんざいではこの政策せいさく方法ほうほう英国えいこくのみにはまらず、米国べいこく日本にっぽんといった世界せかい国々くにぐに構造こうぞう改革かいかく手法しゅほうとして実施じっしされている。

他方たほうサッチャー政権せいけん制定せいていされたが、「人頭じんとうぜい」との批判ひはんたかまっていたコミュニティ・チャージ英語えいごばん就任しゅうにん早々そうそう廃止はいしした[28][29]

退陣たいじん[編集へんしゅう]

メージャーは内政ないせいにおいても外交がいこうにおいても、右翼うよく左翼さよくか、サッチャー政権せいけん方針ほうしん継承けいしょうするのかしないのか明確めいかく政治せいじであり、そのためりょう陣営じんえいから「理念りねん政治せいじ」と看做みなされて人気にんきとしていった[13]

また1993ねんから1994ねん相次あいついだ政治せいじ金銭きんせん・セックススキャンダルで政権せいけんへの信頼しんらい失墜しっついした。さらに1996ねん一時いちじ停戦ていせん状態じょうたいだったアイルランド共和軍あいるらんどきょうわぐん(IRA)がはんイギリステロを再開さいかいしたことや、同年どうねんに「狂牛病きょきょうぎゅうびょう問題もんだい発生はっせいしたことも政権せいけん支持しじりつ一層いっそう低迷ていめいさせた[13]

一方いっぽう労働党ろうどうとうは1994ねん7がつに41さいトニー・ブレア党首とうしゅてた。ブレアはとう労働ろうどう組合くみあい優位ゆうい体質たいしつ改革かいかくしていち党員とういん一票いっぴょう制度せいど確立かくりつし、とう規約きやく改正かいせいして国有こくゆう方針ほうしん破棄はきした。こうした労働党ろうどうとう新風しんぷう改革かいかく人気にんきたかめていった[13][20]

その結果けっか1997ねん5月のそう選挙せんきょ労働党ろうどうとうが418議席ぎせき獲得かくとくして歴史れきしてき圧勝あっしょうたした[13]保守党ほしゅとうは165議席ぎせきしかれず、この数字すうじ保守党ほしゅとうなが歴史れきしなかでもアーサー・バルフォア党首とうしゅ時代じだい1906ねん以来いらい惨敗ざんぱいであった[30]。これをけてメージャー内閣ないかくはただちにそう辞職じしょくした。18ねんおよんだ保守党ほしゅとう長期ちょうき政権せいけんわりをげ、わってブレア労働党ろうどうとう政権せいけん発足ほっそくすることとなった[31]

その[編集へんしゅう]

王立おうりつ国際こくさい問題もんだい研究所けんきゅうじょ演説えんぜつするサー・ジョン・メージャー。(2010ねん11月9にち

メージャーはそう選挙せんきょ惨敗ざんぱい保守党ほしゅとう党首とうしゅウィリアム・ヘイグゆずったが、庶民しょみんいん議員ぎいんには2001ねんそう選挙せんきょ引退いんたいするまでとどまった。2002ねんには首相しゅしょう時代じだい女性じょせい議員ぎいんエドウィナ・カリー英語えいごばんと4年間ねんかんわたって不倫ふりん関係かんけいにあったことが判明はんめい実直じっちょくなイメージがあっただけに、このようなはなし退陣たいじん暴露ばくろされたことはイギリス国民こくみんやメディアをさわがせた[32][33]

2005ねん4がつ23にち女王じょおうエリザベス2せいよりガーター騎士きしだんナイト(KG)にじょせられ、「サー」の称号しょうごうた。これは閣僚かくりょうからの助言じょげんによるものではなく、女王じょおう好意こういによりメージャーにおくられたものであった。これについてメージャーは「わたしはとても興奮こうふんし、うれしく、光栄こうえいおもいました」とべている[34]

一方いっぽういちだい貴族きぞくについてはけるつもりがいことを明言めいげんしている[35]

EU離脱りだつをめぐる議論ぎろんにおいてはEU残留ざんりゅうであり、EU離脱りだつ是非ぜひ国民こくみん投票とうひょうさい実施じっし主張しゅちょうしている。2018ねん12月11にちにはEU離脱りだつ手続てつづきは当面とうめん停止ていしする必要ひつようがあると主張しゅちょうするとともに、EU離脱りだつはイギリスの国際こくさいてき影響えいきょうりょく低下ていかにつながると警告けいこくした[36]

逸話いつわ[編集へんしゅう]

  • メージャーが党首とうしゅ選挙せんきょさいには、かれ当選とうせんするとはマスコミかんがえず報道ほうどうもほとんどおこなわれなかった。ところが、ブックメーカーにおける党首とうしゅ選挙せんきょ勝者しょうしゃ予想よそうにおいてかれ有力ゆうりょく候補者こうほしゃとほぼ横並よこならびのだい3りつ設定せっていおこなわれ、世間せけんおどろかせた。メージャーの当選とうせん、あるひとがブックメーカーの担当たんとうしゃになぜ、だれ注目ちゅうもくしていなかったかれ注目ちゅうもくしたのかたずねた。すると、担当たんとうしゃは「かねかかっていれば、他人たにんより真剣しんけんかんがえるものさ」とこたえたと[37]

栄典えいてん[編集へんしゅう]

2006ねん6月19にちガーター・セレモニーひじりジョージ礼拝れいはいどうまで行進こうしんするガーター騎士きしだんいんサー・ジョン・メージャー。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 投機とうきすじのポンドへの攻勢こうせいつよまり、イギリス政府せいふはERMの束縛そくばくのために利子りしりつげをおこなうも効果こうかがなかったため、同年どうねん9がつ16にちにERMからポンドを脱退だったいさせた事件じけん[19][20]
  2. ^ しかし僅差きんさでの通過つうかであり、この直後ちょくご政府せいふしたマーストリヒト条約じょうやく社会しゃかい条項じょうこうのオプトアウトを確認かくにんする動議どうぎは8ひょう否決ひけつされている。また労働党ろうどうとう提出ていしゅつした社会しゃかい条項じょうこうオプトアウトを無効むこうとする修正しゅうせい動議どうぎ賛否さんぴ同数どうすう庶民しょみんいん議長ぎちょう裁定さいていによってかろうじて否決ひけつされるという事態じたいとなった。そのためメージャーは議会ぎかいでの求心力きゅうしんりょく回復かいふくすべく、みずからへの信任しんにん投票とうひょう実施じっしして信任しんにんている(保守党ほしゅとう造反ぞうはんぐみ解散かいさんそう選挙せんきょになって保守党ほしゅとうやぶれることをおそれていたため、メージャーに信任しんにんひょうとうじた)[22]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

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  17. ^ 佐々木ささきはたけ(2005) p.239-240
  18. ^ 小川おがわ(2005) p.253-254
  19. ^ 佐々木ささきはたけ(2005) p.240
  20. ^ a b 小川おがわ(2005) p.254
  21. ^ 佐々木ささきはたけ(2005) p.240-241
  22. ^ 佐々木ささきはたけ(2005) p.241
  23. ^ 佐々木ささきはたけ(2005) p.241-242
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  26. ^ 佐々木ささきはたけ(2005) p.246-247
  27. ^ 佐々木ささきはたけ(2005) p.247
  28. ^ 村岡むらおかはたけ(1991) p.437/439
  29. ^ 小川おがわ(2005) p.232
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  39. ^ イギリス王室おうしつ. “Members of the Order of the Garter” (英語えいご). The official website of the British Monarchy. 2014ねん10がつ19にち閲覧えつらん
  40. ^ “Japanese Government honours The Rt. Hon Sir John Major” (英語えいご). ざいイギリス日本にっぽん大使館たいしかん. https://www.uk.emb-japan.go.jp/en/webmagazine/2012/aug/major.html 2014ねん10がつ19にち閲覧えつらん 

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 小川おがわ晃一こういち『サッチャー主義しゅぎ木鐸ぼくたくしゃ、2005ねん平成へいせい17ねん)。ISBN 978-4833223690 
  • 佐々木ささき佐々木ささき雄太ゆうた, 雄太ゆうたはたけ, 洋一よういち へん『イギリス外交がいこう有斐閣ゆうひかく、2005ねん(平成へいせい17ねん)。ISBN 978-4641122536 
  • 村岡むらおか, 健次けんじはたけ, 洋一よういち へん『イギリス〈3〉きん現代げんだい山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ世界せかい歴史れきし大系たいけい〉、1991ねん(平成へいせい3ねん)。ISBN 978-4634460300 
  • はたいく へん世界せかい諸国しょこく組織そしき制度せいど人事じんじ 1840―2000』東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい、2001ねん平成へいせい13ねん)。ISBN 978-4130301220 

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

公職こうしょく
先代せんだい
ジョン・マクレガー英語えいごばん
イギリスの旗 財務ざいむ首席しゅせき政務次官せいむじかん英語えいごばん
1987ねん - 1989ねん
次代じだい
ノーマン・ラモント
先代せんだい
ジェフリー・ハウ
イギリスの旗 外務がいむえい連邦れんぽう大臣だいじん
だい9だい:1989ねん7がつ24にち - 1989ねん10がつ26にち
次代じだい
ダグラス・ハード
先代せんだい
ナイジェル・ローソン
イギリスの旗 財務ざいむ大臣だいじん
だい65だい:1989ねん10がつ26にち - 1990ねん11月28にち
次代じだい
ノーマン・ラモント
先代せんだい
マーガレット・サッチャー
イギリスの旗 首相しゅしょう
だい72だい:1990ねん11月28にち - 1997ねん5がつ2にち
次代じだい
トニー・ブレア
先代せんだい
トニー・ブレア
イギリスの旗 かげ首相しゅしょう
1997ねん
次代じだい
ウィリアム・ヘイグ
先代せんだい
ロビン・クック
イギリスの旗 かげ外務がいむ大臣だいじん
1997ねん
次代じだい
マイケル・ハワード
議会ぎかい
先代せんだい
デイヴィッド・レントン英語えいごばん
ハンティンドンシャー選挙せんきょ英語えいごばん選出せんしゅつ庶民しょみんいん議員ぎいん
1979ねん - 1983ねん
次代じだい
選挙せんきょ廃止はいし
先代せんだい
新設しんせつ
ハンティンドン選挙せんきょ英語えいごばん選出せんしゅつ庶民しょみんいん議員ぎいん
1983ねん - 2001ねん
次代じだい
ジョナサン・ジャンゴリー英語えいごばん
とうしょく
先代せんだい
マーガレット・サッチャー
保守党ほしゅとう党首とうしゅ
だい16だい:1990ねん11月27にち - 1997ねん6がつ19にち
次代じだい
ウィリアム・ヘイグ
外交がいこうしょく
先代せんだい
ジョージ・H・W・ブッシュ
G7議長ぎちょう
1991ねん
次代じだい
ヘルムート・コール