イギリスの首相しゅしょう一覧いちらん

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ロバート・ウォルポールの肖像画
ウィンストン・チャーチルの肖像画
マーガレット・サッチャーの写真
リシ・スナクの写真

イギリスの首相しゅしょう一覧いちらん(イギリスのしゅしょうのいちらん)は、イギリス政府せいふながであり、閣議かくぎ内閣ないかく会議かいぎ)の議長ぎちょうつとめるイギリスの首相しゅしょう一覧いちらんである。

ほんこうでは現在げんざいのグレートブリテンおよきたアイルランド連合れんごう王国おうこく、およびその前身ぜんしんであるグレートブリテンおよびアイルランド連合れんごう王国おうこく、グレートブリテン王国おうこく首相しゅしょうあつかう。

概要がいよう[編集へんしゅう]

イギリスの首相しゅしょうは、(アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく大統領だいとうりょうひとしことなり)ある時点じてんにおいて創設そうせつされたものではなく、なが年月としつき進化しんかしてきたものであるため、イギリスにおいて首相しゅしょうしょく最初さいしょ出現しゅつげんした具体ぐたいてき日付ひづけ存在そんざいしない[2]

首相しゅしょうす「Prime Minister(プライム・ミニスター)」という用語ようごは、1805ねん議会ぎかい下院かいん庶民しょみんいん使用しようされ[3]1880年代ねんだいまでには議会ぎかい使用しようされたことがたしかであり[4]1905ねん首相しゅしょうのポストは宮中きゅうちゅう席次せきじ英語えいごばんにおいて公式こうしきみとめられた[5]

きん現代げんだい研究けんきゅうらは一般いっぱんてきに、1721ねんから1742ねんまでの21年間ねんかんグレートブリテン政府せいふひきいた[6][7]ロバート・ウォルポール初代しょだい首相しゅしょうであるとかんがえている。この定義ていぎしたがうと、ウォルポールはイギリス史上しじょうもっとなが期間きかん首相しゅしょうつとめた人物じんぶつでもある[8]

しかしながら、公式こうしき宮中きゅうちゅう席次せきじ厳密げんみつ言及げんきゅうされる場合ばあいは、ヘンリー・キャンベル=バナマン初代しょだい首相しゅしょうであり、マーガレット・サッチャー在任ざいにん1979ねん - 1990ねん)がもっとなが期間きかん首相しゅしょうつとめたもの(11ねんと209にち歴代れきだい首相しゅしょうでは7番目ばんめ)である[9]首相しゅしょう肩書かたがきを公式こうしき使用しようした最初さいしょ首相しゅしょうは、1878ねんベルリン条約じょうやくで"Prime Minister of her Britannic Majesty"として署名しょめいしたベンジャミン・ディズレーリである[10]

厳密げんみつ解釈かいしゃくすれば、グレートブリテンおよびアイルランド連合れんごう王国おうこく最初さいしょ首相しゅしょうは、しょうピットであった[11]現在げんざいのイギリスである「グレートブリテンおよきたアイルランド連合れんごう王国おうこく」の最初さいしょ首相しゅしょうボナー・ローであったが[12]公式こうしきにはスタンリー・ボールドウィン首相しゅしょうであった1927ねんまでのあいだ国名こくめい改称かいしょうされなかった[13]

首相しゅしょうのポストは漸進ぜんしんてき進化しんかしてきたために、「首相しゅしょう」の称号しょうごう初期しょき首相しゅしょうには遡及そきゅうてきにのみ適用てきようされる[14]。このことは、ときとして学術がくじゅつてき議論ぎろんこしている。初代しょだいバース伯爵はくしゃくウィリアム・パルトニーだい2だいウォルドグレイヴ伯爵はくしゃくジェイムズ・ウォルドグレイヴりょうは、首相しゅしょう一覧いちらん記載きさいされることもある[15]。バース伯爵はくしゃく1746ねんヘンリー・ペラム辞任じにんけて、組閣そかく打診だしんされた[16]。ヴォルドグレイヴ伯爵はくしゃく1757ねんウィリアム・ピットだいピット、だい1デヴォンシャー公爵こうしゃくないかくさい有力ゆうりょく人物じんぶつ)の罷免ひめんけて、同様どうよう打診だしんされた[17]。だが、両者りょうしゃとも政府せいふ組織そしきするために十分じゅうぶん議会ぎかい支持しじることが出来できなかった。バース伯爵はくしゃくはわずか2にち[15]、ウォルドグレイヴ伯爵はくしゃくも4にち[17]、それぞれ退陣たいじんした。現代げんだい学術がくじゅつてき意見いけんは、両者りょうしゃとも首相しゅしょうしょく保持ほじした人物じんぶつとはなされないものとすることで一致いっちしており[18]首相しゅしょう一覧いちらんにも記載きさいされない。

1721ねん以前いぜん[編集へんしゅう]

ハノーヴァーあさ以前いぜんイングランド王国おうこく大蔵省おおくらしょう大蔵おおくらきょう英語えいごばんLord High Treasurer)がひきいていた[19]大蔵おおくらきょうテューダーあさ後期こうきにはすでに国務こくむ大官たいかんの1つとされており[19]度々たびたび政府せいふ主導しゅどうする人物じんぶつとしてあつかわれた。たとえば、1547ねんから1549ねんまでの大蔵おおくらきょう初代はつよサマセット公爵こうしゃくエドワード・シーモア[20]未成年みせいねんエドワード6せい治世ちせい護国ごこくきょうつと[20]、1572ねんから1598ねんまでの大蔵おおくらきょう初代しょだいバーリー男爵だんしゃくウィリアム・セシル[21]エリザベス1せい重臣じゅうしんとして国政こくせい主導しゅどうした[21]。バーリー男爵だんしゃく息子むすこにあたる初代しょだいソールズベリー伯爵はくしゃくロバート・セシルは1598ねんから1603ねんまでエリザベス1せい首席しゅせき大臣だいじんつとめ、ジェームズ1せい治世ちせいでは1608ねんから1612ねんまで大蔵おおくらきょうつとめた[22]

ステュアートあさ後期こうき大蔵省おおくらしょう大蔵おおくらきょう1にんではなく、だいいち大蔵おおくらきょうちょうとし大蔵おおくらきょう委員いいん英語えいごばんLords of the Treasury)で構成こうせいされる大蔵おおくらきょう委員いいんかいひきいることがおおかった[23]最後さいご大蔵おおくらきょうとなった初代しょだいゴドルフィン伯爵はくしゃくシドニー・ゴドルフィン在任ざいにん:1702ねん – 1710ねん)と初代しょだいオックスフォード=モーティマー伯爵はくしゃくロバート・ハーレー在任ざいにん:1711ねん – 1714ねん[24]アン女王じょおう治世ちせい政府せいふひきいた[25]

1714ねんジョージ1せい即位そくいしたのち大蔵おおくらきょう任命にんめいされず、大蔵おおくらきょう委員いいんかい常設じょうせつとなった[26]。そのの3年間ねんかん政府せいふひきいたのは北部ほくぶ担当たんとう国務大臣こくむだいじんだい2だいタウンゼンド子爵ししゃくチャールズ・タウンゼンドだった[27]。タウンゼンド子爵ししゃくのち初代しょだいスタンホープ伯爵はくしゃくジェームズ・スタンホープだい3だいサンダーランド伯爵はくしゃくチャールズ・スペンサー共同きょうどう政府せいふひき[28]、スタンホープが外交がいこうを、サンダーランドが内政ないせい担当たんとうした[28]。スタンホープが1721ねん2がつ死去しきょ、サンダーランドが同年どうねん4がつ辞任じにんすると[28]、タウンゼンド子爵ししゃくロバート・ウォルポール後任こうにんとなった[29]。それ以降いこうだいいち大蔵おおくらきょう官職かんしょく任命にんめいされた人物じんぶつは(非公式ひこうしきながら)首相しゅしょうとされた。「首相しゅしょう」が公式こうしき官職かんしょくとして設立せつりつされたのは時代じだいくだってエドワードあさのことである[14]現代げんだいでは首相しゅしょうだいいち大蔵おおくらきょう任命にんめいされることは慣習かんしゅうほうとして定着ていちゃくしているが[30]、1766ねんから1768ねんまでの首相しゅしょうチャタム伯爵はくしゃくと19世紀せいきまつに3首相しゅしょうつとめたソールズベリー侯爵こうしゃくといった例外れいがいもある[31]

歴代れきだい首相しゅしょう一覧いちらん (1721ねん以降いこう)[編集へんしゅう]

所属しょぞく政党せいとう

1721ねん以降いこうのイギリスの首相しゅしょう一覧いちらん
だい 肖像しょうぞう 氏名しめい
地位ちい/爵位しゃくい
(なま没年ぼつねん)
在任ざいにん期間きかん

選挙せんきょ
兼職けんしょく 所属しょぞく政党せいとう

内閣ないかく
君主くんしゅ
在位ざいい期間きかん
出典しゅってん
1 サー・ロバート・ウォルポール
Sir Robert Walpole
1742ねんまで 庶民しょみんいん議員ぎいん(キングス・リン選挙せんきょ選出せんしゅつ
1742ねんより オーフォード伯爵はくしゃく
(1676-1745)
1721ねん
4がつ4にち
1742ねん
2がつ11にち
だいいち大蔵おおくらきょう
財務ざいむ大臣だいじん
庶民しょみんいん院内いんない総務そうむ
ホイッグとう ジョージ1せい
ジョージ1世 (イギリス王)
1714ねん–1727ねん
1722ねん; 1727ねん;
1734ねん; 1741ねん
ウォルポール=タウンゼンドないかくウォルポールないかく
近代きんだいてき意味いみで、イギリスの初代しょだい首相しゅしょうとされる; 1720ねん南海なんかい泡沫うたかた事件じけんによる混乱こんらん収拾しゅうしゅう; 1737ねん演劇えんげき検閲けんえつほう (Licensing Act 1737; 当初とうしょより対外たいがい宥和ゆうわ政策せいさくをとっていたが、世論せろんされ、スペインたいして宣戦せんせん布告ふこく、1739ねんジェンキンスのみみ戦争せんそう勃発ぼっぱつし、「ウォルポールの平和へいわ」が終焉しゅうえんむかえた; 庶民しょみんいんから貴族きぞくいん移籍いせきしたわずか5にち首相しゅしょう辞任じにん ジョージ2せい
ジョージ2世 (イギリス王)
1727ねん–1760ねん
2 初代しょだいウィルミントン伯爵はくしゃく
スペンサー・コンプトン

Spencer Compton, 1st Earl of Wilmington
(1673–1743)
1742ねん
2がつ16にち
1743ねん
7がつ2にち
だいいち大蔵おおくらきょう ホイッグとう [32]
 — カートレットないかく
1715ねんから1727ねんまで庶民しょみんいん議長ぎちょう (Speaker of the House of Commons)をつとめた; 在任ざいにん期間きかんちゅう健康けんこう状態じょうたい良好りょうこうでなかったためジョン・カートレット内閣ないかく実質じっしつてき指導しどうしゃとなった。首相しゅしょう在職ざいしょくちゅうの1743ねん死去しきょ
3 ヘンリー・ペラム
Henry Pelham
庶民しょみんいん議員ぎいん(サセックス選挙せんきょ選出せんしゅつ
(1694–1754)
1743ねん
8がつ27にち
1754ねん
3月6にち
だいいち大蔵おおくらきょう
財務ざいむ大臣だいじん
庶民しょみんいん院内いんない総務そうむ
ホイッグとう [33]
1747ねん カートレットないかくブロード・ボトムないかく
1745ねんジャコバイト反乱はんらん鎮圧ちんあつ; 1748ねんアーヘンのやくむすんでオーストリア継承けいしょう戦争せんそう終結しゅうけつ; 1749ねんイギリス海軍かいぐん再編さいへん; 1752ねんグレゴリオれき採用さいよう; 1753ねんユダヤじん帰化きかほう制定せいてい廃止はいし; 1753ねん結婚けっこんほう制定せいてい; 首相しゅしょう在職ざいしょくちゅうの1754ねん死去しきょ
4 初代しょだいニューカッスル公爵こうしゃく
トマス・ペラム=ホールズ

Thomas Pelham-Holles, 1st Duke of Newcastle
(1693–1768)
1754ねん
3月16にち
1756ねん
11月16にち
だいいち大蔵おおくらきょう
貴族きぞくいん院内いんない総務そうむ
ホイッグとう [32]
1754ねん 内閣ないかく
ヘンリー・ペラムぜん首相しゅしょうあに; 異論いろんはあったものの、国債こくさいにかかる利子りしらそうとした; 1754ねんきたアメリカ大陸あめりかたいりくにおいてフランスと交戦こうせんフレンチ・インディアン戦争せんそう); ミノルカとう陥落かんらくしたのちななねん戦争せんそう突入とつにゅう; 戦争せんそう成果せいかげられず、内閣ないかくそう辞職じしょく
5 だい4だいデヴォンシャー公爵こうしゃく
ウィリアム・キャヴェンディッシュ

William Cavendish, 4th Duke of Devonshire
(1720–1764)
1756ねん
11月16にち
1757ねん
6月25にち
だいいち大蔵おおくらきょう
貴族きぞくいん院内いんない総務そうむ
ホイッグとう [32]
 — 内閣ないかく1757ねん暫定ざんていないかく
内閣ないかく実質じっしつてき指導しどうしゃウィリアム・ピットだいピット)
6 初代しょだいニューカッスル公爵こうしゃく
トマス・ペラム=ホールズ
Thomas Pelham-Holles, 1st Duke of Newcastle
(1693–1768)
1757ねん
7がつ2にち
1762ねん
5月26にち
だいいち大蔵おおくらきょう
貴族きぞくいん院内いんない総務そうむ
ホイッグとう [32]
1761ねん 内閣ないかく ジョージ3せい
ジョージ3世 (イギリス王)
1760ねん–1820ねん
だいピットと協力きょうりょくしてななねん戦争せんそう遂行すいこう
7 だい3だいビュート伯爵はくしゃく
ジョン・ステュアート

John Stuart, 3rd Earl of Bute
(1713–1792)
1762ねん
5月26にち
1763ねん
4がつ8にち
だいいち大蔵おおくらきょう
貴族きぞくいん院内いんない総務そうむ
トーリーとう [34]
 — 内閣ないかく
はつのスコットランドじん首相しゅしょう; かつてジョージ3せい家庭かてい教師きょうしつとめていたこともあって、国王こくおう寵愛ちょうあいける; ホイッグとう支配しはい終焉しゅうえんさせた; パリ条約じょうやくむすび、ななねん戦争せんそう終結しゅうけつ
8 ジョージ・グレンヴィル
George Grenville
庶民しょみんいん議員ぎいん(バッキンガム選挙せんきょ選出せんしゅつ
(1712–1770)
1763ねん
4がつ16にち
1765ねん
7がつ13にち
だいいち大蔵おおくらきょう
財務ざいむ大臣だいじん
庶民しょみんいん院内いんない総務そうむ
ホイッグとう [35]
 — 内閣ないかく
ななねん戦争せんそう疲弊ひへいした本国ほんごく財政ざいせいなおすために、植民しょくみんへの課税かぜいはじめた; 1764ねん砂糖さとうほう制定せいてい; 1765ねん印紙いんしほう制定せいてい(これに植民しょくみん住民じゅうみん本国ほんごくたいする反感はんかんたかまり、アメリカ独立どくりつ革命かくめいまねいた)。
9 だい2だいロッキンガム侯爵こうしゃく
チャールズ・ワトソン=ウェントワース

Charles Watson-Wentworth, 2nd Marquess of Rockingham
(1730–1782)
1765ねん
7がつ13にち
1766ねん
7がつ30にち
だいいち大蔵おおくらきょう
貴族きぞくいん院内いんない総務そうむ
ホイッグとう [36]
 — 内閣ないかく
アメリカ植民しょくみん住民じゅうみんかれらの影響えいきょうこうむるイギリス本国ほんごく商人しょうにん双方そうほうからの抗議こうぎ喚起かんきされたことおよびその施行しこうむずかしさにより、はげしい論争ろんそうんだ1765ねん印紙いんしほう廃止はいし; それとともに、宣言せんげんほう議会ぎかい植民しょくみんたいする統治とうちけん宣言せんげんした法律ほうりつ)を制定せいてい
10 初代しょだいチャタム伯爵はくしゃく
ウィリアム・ピット
だいピット)
William Pitt ‘the Elder’, 1st Earl of Chatham
1766ねんまで 庶民しょみんいん議員ぎいん(バス選挙せんきょ選出せんしゅつ
1766ねんより チャタム伯爵はくしゃく
(1708–1778)
1766ねん
7がつ30にち
1768ねん
10月14にち
おう璽尚しょ ホイッグとう [37]
 — 内閣ないかく
グレンヴィルもと首相しゅしょう義兄ぎけい首相しゅしょう就任しゅうにんから5にちにチャタム伯爵はくしゃくじょせられ、庶民しょみんいんから貴族きぞくいん移籍いせき財務ざいむ大臣だいじんチャールズ・タウンゼンド主導しゅどうタウンゼンド諸法しょほう制定せいていして植民しょくみん支配しはい機構きこう強化きょうかしたために、アメリカ植民しょくみん状況じょうきょうがさらに悪化あっか
11 だい3だいグラフトン公爵こうしゃく
オーガスタス・フィッツロイ

Augustus FitzRoy, 3rd Duke of Grafton
(1735–1811)
1768ねん
10月14にち
1770ねん
1がつ28にち
だいいち大蔵おおくらきょう
貴族きぞくいん院内いんない総務そうむ
ホイッグとう [38]
1768ねん 内閣ないかく
イギリス本国ほんごくとアメリカ植民しょくみん住民じゅうみんとのあいだ緊張きんちょう状態じょうたいき、アメリカ植民しょくみんとの和解わかいこころみた。
12 ノース男爵だんしゃく
フレデリック・ノース

Frederick North, Lord North
庶民しょみんいん議員ぎいん(バンベリー選挙せんきょ選出せんしゅつ
(1732–1792)
1770ねん
1がつ28にち
1782ねん
3月22にち
だいいち大蔵おおくらきょう
財務ざいむ大臣だいじん
庶民しょみんいん院内いんない総務そうむ
トーリーとう [39]
1774ねん; 1780ねん 内閣ないかく
ぐんひきいてアメリカ独立どくりつ革命かくめい対抗たいこうするも、結局けっきょく失敗しっぱいわる; ジョン・ウィルクス釈放しゃくほう; ゴードン暴動ぼうどう (Gordon Riots; アイルランドにおける改革かいかく; 不信任ふしんにん決議けつぎあん可決かけつされ、辞任じにん
13 だい2だいロッキンガム侯爵こうしゃく
チャールズ・ワトソン=ウェントワース
Charles Watson-Wentworth, 2nd Marquess of Rockingham
(1730–1782)
1782ねん
3月27にち
1782ねん
7がつ1にち
だいいち大蔵おおくらきょう
貴族きぞくいん院内いんない総務そうむ
ホイッグとう [32]
 — 内閣ないかく
アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく独立どくりつ承認しょうにん; 経済けいざい改革かいかく手続てつづきにはいる; 首相しゅしょう在職ざいしょくちゅう死去しきょ
14 だい2だいシェルバーン伯爵はくしゃく
ウィリアム・ペティ

William Petty, 2nd Earl of Shelburne
(1737–1805)
1782ねん
7がつ4にち
1783ねん
4がつ2にち
だいいち大蔵おおくらきょう
貴族きぞくいん院内いんない総務そうむ
ホイッグとう [32]
 — 内閣ないかく
はつアイルランドまれの首相しゅしょうはつ士官しかん経験けいけんのある首相しゅしょう; 政治せいじ改革かいかく推進すいしん計画けいかく; アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくフランススペインとのあいだ平和へいわ実現じつげんした。
15 だい3だいポートランド公爵こうしゃく
ウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンク

William Cavendish-Bentinck, 3rd Duke of Portland
(1738–1809)
1783ねん
4がつ2にち
1783ねん
12月19にち
だいいち大蔵おおくらきょう
貴族きぞくいん院内いんない総務そうむ
ホイッグとう [32]
 — 内閣ないかく
デヴォンシャー公爵こうしゃくもと首相しゅしょう義理ぎり息子むすこ; フォックス=ノース連立れんりつ政権せいけん名目めいもくじょう首班しゅはん; アメリカ独立どくりつ戦争せんそう講和こうわ条約じょうやくとして、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくとのあいだパリ条約じょうやく、フランスとスペインとのあいだヴェルサイユ条約じょうやく正式せいしき調印ちょういん; ひがしインド会社かいしゃ改革かいかくこころみたが、ジョージ3せいにより阻止そしされた。
16 ウィリアム・ピットしょうピット)
William Pitt ‘the Younger’
1784ねんまで 庶民しょみんいん議員ぎいん(アップルビー選挙せんきょ選出せんしゅつ
1784ねんより 庶民しょみんいん議員ぎいんケンブリッジ大学けんぶりっじだいがく選挙せんきょ選出せんしゅつ
(1759–1806)
1783ねん
12月19にち
1801ねん
3月14にち
だいいち大蔵おおくらきょう
財務ざいむ大臣だいじん
庶民しょみんいん院内いんない総務そうむ
トーリーとう [40]
1784ねん; 1790ねん; 1796ねん 内閣ないかく
だいピットの息子むすこで、24さい史上しじょう最年少さいねんしょう)で首相しゅしょう就任しゅうにん; 1784ねんインドほう (Pitt's India Act制定せいてい; 腐敗ふはい選挙せんきょ解消かいしょうこころみる; 個人こじんてき奴隷どれい貿易ぼうえき反対はんたい; きたアメリカ植民しょくみんにおける反乱はんらん原因げんいんで、国債こくさい減額げんがく; オランダおよプロイセンさんこく同盟どうめいむすぶ; 1791ねん植民しょくみん統治とうちほう制定せいてい; ジョージ・マカートニー団長だんちょうとするマカートニー使節しせつだん(1792ねん–94ねん)がイギリスとしてはじめて中国ちゅうごく訪問ほうもん; 1793ねんにフランスとの戦争せんそうはじまる; 1795ねんケープ植民しょくみん占領せんりょう; 世界せかい最初さいしょ所得しょとくぜい導入どうにゅう; 合同ごうどうほう成立せいりつ; 1801ねん3がつだい1かい国勢調査こくせいちょうさ実施じっし; カトリック解放かいほう政策せいさくたいしてジョージ3せいつよ反対はんたいしたため、辞任じにん
17 ヘンリー・アディントン
Henry Addington
庶民しょみんいん議員ぎいん(デビス選挙せんきょ選出せんしゅつ
(1757–1844)
1801ねん
3月17にち
1804ねん
5がつ10日とおか
だいいち大蔵おおくらきょう
財務ざいむ大臣だいじん
庶民しょみんいん院内いんない総務そうむ
トーリーとう [32]
1801ねん; 1802ねん 内閣ないかく
1789ねんから1801ねんまで庶民しょみんいん議長ぎちょうつとめた。フランスとの交渉こうしょうて、1802ねんアミアンのやく調印ちょういん
18 ウィリアム・ピットしょうピット)
William Pitt ‘the Younger’
庶民しょみんいん議員ぎいんケンブリッジ大学けんぶりっじだいがく選挙せんきょ選出せんしゅつ
(1759–1806)
1804ねん
5がつ10日とおか
1806ねん
1がつ23にち
だいいち大蔵おおくらきょう
財務ざいむ大臣だいじん
庶民しょみんいん院内いんない総務そうむ
トーリーとう [32]
 — 内閣ないかく
フランス対抗たいこうするために、ロシアオーストリアおよスウェーデン結成けっせいしただいさんたいふつだい同盟どうめいは、ウルムのたたかアウステルリッツのたたかまでつづいた; トラファルガーの海戦かいせん; 首相しゅしょう在職ざいしょくちゅう死去しきょ
19 初代しょだいグレンヴィル男爵だんしゃく
ウィリアム・ウィンダム・グレンヴィル

William Wyndham Grenville, 1st Baron Grenville
(1759–1834)
1806ねん
2がつ11にち
1807ねん
3月31にち
だいいち大蔵おおくらきょう
貴族きぞくいん院内いんない総務そうむ
ホイッグとう [32]
1806ねん ぜん人材じんざいないかく
ジョージ・グレンヴィルもと首相しゅしょう息子むすこで、しょうピットの従兄弟いとこにあたる。庶民しょみんいん議長ぎちょう経験けいけんした3にん首相しゅしょう奴隷どれい貿易ぼうえき廃止はいし
20 だい3だいポートランド公爵こうしゃく
ウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンク
William Cavendish-Bentinck, 3rd Duke of Portland
(1738–1809)
1807ねん
3月31にち
1809ねん
10月4にち
だいいち大蔵おおくらきょう トーリーとう事実じじつじょう [32]
1807ねん 内閣ないかく
ポートランド公爵こうしゃくはホイッグ党員とういん自称じしょうしていたが、実際じっさいにはトーリーとう政権せいけん指揮しきするためにまねかれた。高齢こうれい病気びょうきがちであったため、内閣ないかく閣僚かくりょうたちのきなようにさせた(だい部分ぶぶんスペンサー・パーシヴァル指揮しきした)。外務がいむ大臣だいじんジョージ・カニング陸軍りくぐん植民しょくみん大臣だいじんカスルリー子爵ししゃく二人ふたり対立たいりつした結果けっか、ついには決闘けっとうにまでなり、政権せいけん不安定ふあんてい状態じょうたいになった。
21 スペンサー・パーシヴァル
Spencer Perceval
庶民しょみんいん議員ぎいん(ノーサンプトン選挙せんきょ選出せんしゅつ
(1762–1812)
1809ねん
10月4にち
1812ねん
5月11にち
だいいち大蔵おおくらきょう
財務ざいむ大臣だいじん
ランカスターおおやけりょう大臣だいじん
庶民しょみんいん院内いんない総務そうむ
トーリーとう [41]
 — 内閣ないかく
もと首相しゅしょうウィルミントン伯爵はくしゃくおい息子むすこ政権せいけんない経験けいけん豊富ほうふ政治せいじ存在そんざいしなかったことでられる。ジョージ3せい回復かいふく不可能ふかのう精神せいしん障害しょうがいおちいると、ジョージ摂政せっしょうおう太子たいしによる摂政せっしょう時代じだいはじまりとなった; イギリスぐん半島はんとう戦争せんそう参戦さんせん; イギリス史上しじょう唯一ゆいいつ暗殺あんさつされた首相しゅしょうとなった。
22 だい2だいリヴァプール伯爵はくしゃく
ロバート・バンクス・ジェンキンソン

Robert Banks Jenkinson, 2nd Earl of Liverpool
(1770–1828)
1812ねん
6月8にち
1827ねん
4がつ9にち
だいいち大蔵おおくらきょう
貴族きぞくいん院内いんない総務そうむ
トーリーとう [42]
1812ねん; 1818ねん;
1820ねん; 1826ねん
内閣ないかく ジョージ4せい
ジョージ4世 (イギリス王)
1820ねん–1830ねん
ナポレオン戦争せんそう終結しゅうけつ; 1812ねんよりべいえい戦争せんそう; ウィーン会議かいぎ; 1817ねん経済けいざい衰退すいたい; ラッダイト運動うんどう; ピータールーの虐殺ぎゃくさつ; 金本位きんほんいせいへの回帰かいき; 1819ねんマラーター王国おうこくめぐだいさんマラーター戦争せんそう勝利しょうり; 1820ねん摂政せっしょう時代じだい終焉しゅうえんおよびリヴァプール伯爵はくしゃくないかく閣僚かくりょう暗殺あんさつ計画けいかくしたカトー・ストリート陰謀いんぼう発覚はっかく; 1827ねん脳卒中のうそっちゅうたおれ、退任たいにん
23 ジョージ・カニング
George Canning
庶民しょみんいん議員ぎいん(シーフォード選挙せんきょ選出せんしゅつ
(1770–1827)
1827ねん
4がつ10日とおか
1827ねん
8がつ8にち
だいいち大蔵おおくらきょう
財務ざいむ大臣だいじん
庶民しょみんいん院内いんない総務そうむ
トーリーとう [32]
 — 内閣ないかく
在任ざいにん期間きかんが119日間にちかん短期たんき在任ざいにんであった首相しゅしょう首相しゅしょう就任しゅうにんしたそのとしに、やまいのため死去しきょ
24 初代しょだいゴドリッチ子爵ししゃく
フレデリック・ジョン・ロビンソン

Frederick John Robinson, 1st Viscount Goderich
(1782–1859)
1827ねん
8がつ31にち
1828ねん
1がつ21にち
だいいち大蔵おおくらきょう
貴族きぞくいん院内いんない総務そうむ
トーリーとう [32]
 — 内閣ないかく
同僚どうりょうからの支持しじられず、首相しゅしょう就任しゅうにんしたのち、すぐに辞任じにん
25 初代しょだいウェリントン公爵こうしゃく
アーサー・ウェルズリー

Arthur Wellesley, 1st Duke of Wellington
(1769–1852)
1828ねん
1がつ22にち
1830ねん
11月16にち
だいいち大蔵おおくらきょう
貴族きぞくいん院内いんない総務そうむ
トーリーとう [32]
1830ねん 内閣ないかく ウィリアム4せい
ウィリアム4世 (イギリス王)
1830ねん–1837ねん
史上しじょう2にんのアイルランドまれの首相しゅしょう、また、士官しかん経験けいけんのある2人ふたり首相しゅしょう(いずれも1人ひとりシェルバーン伯爵はくしゃく); 1829ねんローマ・カトリック信徒しんと救済きゅうさいほう推進すいしん
26 だい2だいグレイ伯爵はくしゃく
チャールズ・グレイ

Charles Grey, 2nd Earl Grey
(1764–1845)
1830ねん
11月22にち
1834ねん
7がつ9にち
だいいち大蔵おおくらきょう
貴族きぞくいん院内いんない総務そうむ
ホイッグとう [43]
1831ねん; 1832ねん 内閣ないかく
1832ねん改革かいかくほう; スウィング暴動ぼうどう鎮圧ちんあつ; 児童じどう雇用こよう制限せいげん; 救貧きゅうひんほう改正かいせい; だいえい帝国ていこく全土ぜんどにおいて奴隷どれい制度せいど廃止はいし
27 だい2だいメルバーン子爵ししゃく
ウィリアム・ラム

William Lamb, 2nd Viscount Melbourne
(1779–1848)
1834ねん
7がつ16にち
1834ねん
11月14にち
だいいち大蔵おおくらきょう
貴族きぞくいん院内いんない総務そうむ
ホイッグとう [44]
 — 内閣ないかく
国王こくおうウィリアム4せい)に罷免ひめんされた最後さいご首相しゅしょう首相しゅしょう就任しゅうにんからもなく辞任じにん。1834ねん10がつ発生はっせいした火災かさいにより、国会こっかい議事堂ぎじどうウェストミンスター宮殿きゅうでん)のだい部分ぶぶん焼失しょうしつ。これをけて、議事堂ぎじどう再建さいけんされて現在げんざいいたる。
28 初代しょだいウェリントン公爵こうしゃく
アーサー・ウェルズリー
Arthur Wellesley, 1st Duke of Wellington
(1769–1852)
1834ねん
11月14にち
1834ねん
12月10にち
だいいち大蔵おおくらきょう
貴族きぞくいん院内いんない総務そうむ
内務ないむ大臣だいじん
外務がいむ大臣だいじん
陸軍りくぐん植民しょくみん大臣だいじん
トーリーとう [45]
 — 内閣ないかく
海外かいがい旅行りょこうちゅうサー・ロバート・ピールがロンドンにもどるまでのあいだ成立せいりつした暫定ざんていないかく主要しゅよう閣僚かくりょうポストのおおくを首相しゅしょう兼任けんにんし、内務ないむ大臣だいじん兼務けんむした史上しじょう唯一ゆいいつ首相しゅしょうとなった。
29 サー・ロバート・ピール
Sir Robert Peel, Bt
庶民しょみんいん議員ぎいん(タムワース選挙せんきょ選出せんしゅつ
(1788–1850)
1834ねん
12月10にち
1835ねん
4がつ8にち
だいいち大蔵おおくらきょう
財務ざいむ大臣だいじん
庶民しょみんいん院内いんない総務そうむ
保守党ほしゅとう [46][47]
1835ねん 内閣ないかく
少数しょうすう内閣ないかく議会ぎかい多数たすう形成けいせいすることができず、辞任じにん
30 だい2だいメルバーン子爵ししゃく
ウィリアム・ラム
William Lamb, 2nd Viscount Melbourne
(1779–1848)
1835ねん
4がつ18にち
1841ねん
8がつ30にち
だいいち大蔵おおくらきょう
貴族きぞくいん院内いんない総務そうむ
ホイッグとう [48]
1835ねん; 1837ねん 内閣ないかく ヴィクトリア
ヴィクトリア (イギリス女王)
1837ねん–1901ねん
国王こくおう罷免ひめんされたのち再選さいせんされて首相しゅしょう復帰ふっき; わか女王じょおうヴィクトリア父親ちちおやてき存在そんざいとなる; 1835ねん都市とし法人ほうじんほう; 寝室しんしつ女官にょかん事件じけん; 均一きんいつペニー郵便ゆうびん; ワイタンギ条約じょうやく; アヘン戦争せんそう勃発ぼっぱつ
31 サー・ロバート・ピール
Sir Robert Peel, Bt
庶民しょみんいん議員ぎいん(タムワース選挙せんきょ選出せんしゅつ
(1788–1850)
1841ねん
8がつ30にち
1846ねん
6月29にち
だいいち大蔵おおくらきょう
庶民しょみんいん院内いんない総務そうむ
保守党ほしゅとう [49]
1841ねん 内閣ないかく
1842ねん鉱山こうざんほう; アヘン戦争せんそう終結しゅうけつさせるため、きよしとのあいだ南京なんきん条約じょうやく締結ていけつ; 所得しょとくぜいふたた導入どうにゅう; 1844ねん工場こうじょうほう; 1844ねん鉄道てつどう規制きせいほう; 穀物こくもつほうとその関税かんぜいほう廃止はいし(アイルランドで発生はっせいしたジャガイモ飢饉ききんがきっかけとなった); メイヌース・グラント (Maynooth Grant
32 ジョン・ラッセルきょう
Lord John Russell
庶民しょみんいん議員ぎいん(シティ・オブ・ロンドン選挙せんきょ選出せんしゅつ
(1792–1878)
1846ねん
6月30にち
1852ねん
2がつ21にち
だいいち大蔵おおくらきょう
庶民しょみんいん院内いんない総務そうむ
ホイッグとう [50]
1847ねん 内閣ないかく
少数しょうすう内閣ないかくであったが、保護ほご貿易ぼうえきろんしゃとピール分裂ぶんれつした保守党ほしゅとうともに、ホイッグとう権力けんりょく保持ほじした; 1847ねん教育きょういくほう; ドン・パシフィコ事件じけん (Don Pacifico affair and case; チャーティスト運動うんどう; オーストラリア植民しょくみん政府せいふほう; だい1かい万国博覧会ばんこくはくらんかいをロンドンで開催かいさい; 救貧きゅうひんほう改善かいぜん; 民兵みんぺい法案ほうあんからめて不信任ふしんにん決議けつぎあん可決かけつされ、内閣ないかくそう辞職じしょく
33 だい14だいダービー伯爵はくしゃく
エドワード・スミス=スタンリー

Edward Smith-Stanley, 14th Earl of Derby
(1799–1869)
1852ねん
2がつ23にち
1852ねん
12月17にち
だいいち大蔵おおくらきょう
貴族きぞくいん院内いんない総務そうむ
保守党ほしゅとう [51]
1852ねん だれ?だれ?内閣ないかく
かれ近代きんだいてきな「保守党ほしゅとうちち」とかんがえるものもいる。ディズレーリ財務ざいむ大臣だいじん予算よさんあん庶民しょみんいん否決ひけつされ、内閣ないかく崩壊ほうかいした。
34 だい4だいアバディーン伯爵はくしゃく
ジョージ・ハミルトン=ゴードン

George Hamilton-Gordon, 4th Earl of Aberdeen
(1784–1860)
1852ねん
12月19にち
1855ねん
1がつ30にち
だいいち大蔵おおくらきょう
貴族きぞくいん院内いんない総務そうむ
ピール/
ホイッグとう
[52]
 — 内閣ないかく
ロシア帝国ていこく宣戦せんせん布告ふこくし、クリミア戦争せんそう参戦さんせん。しかし、戦争せんそう長期ちょうき国民こくみん支持しじうしなって、内閣ないかく崩壊ほうかいした。
35 だい3だいパーマストン子爵ししゃく
ヘンリー・ジョン・テンプル

Henry John Temple, 3rd Viscount Palmerston
庶民しょみんいん議員ぎいん(ティバートン選挙せんきょ選出せんしゅつ
(1784–1865)
1855ねん
2がつ6にち
1858ねん
2がつ19にち
だいいち大蔵おおくらきょう
庶民しょみんいん院内いんない総務そうむ
ホイッグとう [53]
1857ねん 内閣ないかく
アイルランド貴族きぞくで、庶民しょみんいん議席ぎせき獲得かくとく。1857ねんインドだい反乱はんらん対応たいおう; 1858ねんインド法案ほうあん提出ていしゅつ
36 だい14だいダービー伯爵はくしゃく
エドワード・スミス=スタンリー
Edward Smith-Stanley, 14th Earl of Derby
(1799–1869)
1858ねん
2がつ20日はつか
1859ねん
6月11にち
だいいち大蔵おおくらきょう
貴族きぞくいん院内いんない総務そうむ
保守党ほしゅとう [54]
 — 内閣ないかく
1858ねんインド統治とうち改善かいぜんほう (Government of India Act 1858制定せいていし、ひがしインド会社かいしゃ所有しょゆうけん女王じょおう移転いてん; 1858ねんユダヤ教徒きょうと救済きゅうさいほうにより、ユダヤ教徒きょうと庶民しょみんいん議員ぎいんになれるようにした。
37 だい3だいパーマストン子爵ししゃく
ヘンリー・ジョン・テンプル
Henry John Temple, 3rd Viscount Palmerston
庶民しょみんいん議員ぎいん(ティバートン選挙せんきょ選出せんしゅつ
(1784–1865)
1859ねん
6月12にち
1865ねん
10月18にち
だいいち大蔵おおくらきょう
庶民しょみんいん院内いんない総務そうむ
自由党じゆうとう [55]
1859ねん; 1865ねん 内閣ないかく
在任ざいにん期間きかんちゅう自由党じゆうとう結成けっせい; 任期にんきちゅう南北戦争なんぼくせんそうかんする政策せいさく一色いっしょくとなる; ランカシャー綿花めんか飢饉ききんこした苦難くなん軽減けいげんしようとつとめた; 首相しゅしょう在職ざいしょくちゅう死去しきょ在職ざいしょくちゅう死去しきょした最後さいごのイギリス首相しゅしょうであり、かつさい高齢こうれい死去しきょした首相しゅしょうでもある)。
38 初代しょだいラッセル伯爵はくしゃく
ジョン・ラッセル
John Russell, 1st Earl Russell
(1792–1878)
1865ねん
10月29にち
1866ねん
6月26にち
だいいち大蔵おおくらきょう
貴族きぞくいん院内いんない総務そうむ
自由党じゆうとう [56]
 — 内閣ないかく
任期にんき途中とちゅう死去しきょしたパーマストン子爵ししゃくのち首相しゅしょう復職ふくしょく時期じきへだてて、庶民しょみんいんだい1)と貴族きぞくいん今期こんき)からそれぞれえらばれて首相しゅしょうつとめた唯一ゆいいつ人物じんぶつである。さらなる改革かいかく法案ほうあん提出ていしゅつしたが、自身じしん内閣ないかく反対はんたいった。
39 だい14だいダービー伯爵はくしゃく
エドワード・スミス=スタンリー
Edward Smith-Stanley, 14th Earl of Derby
(1799–1869)
1866ねん
6月28にち
1868ねん
2がつ25にち
だいいち大蔵おおくらきょう
貴族きぞくいん院内いんない総務そうむ
保守党ほしゅとう [57]
 — 内閣ないかく
1867ねん改革かいかくほう制定せいてい; カナダだいえい帝国ていこくない最初さいしょ自治領じちりょう (Dominion) となる。
40 ベンジャミン・ディズレーリ
Benjamin Disraeli
庶民しょみんいん議員ぎいん(バッキンガムシャー選挙せんきょ選出せんしゅつ
(1804–1881)
1868ねん
2がつ27にち
1868ねん
12月1にち
だいいち大蔵おおくらきょう
庶民しょみんいん院内いんない総務そうむ
保守党ほしゅとう [58]
 — 内閣ないかく
民族みんぞくてきにユダヤじんであった唯一ゆいいつ首相しゅしょう; 議会ぎかいにおいて保守党ほしゅとう多数たすうでなかったので、議会ぎかい解散かいさんした。
41 ウィリアム・ユワート・グラッドストン
William Ewart Gladstone
庶民しょみんいん議員ぎいん(グリニッジ選挙せんきょ選出せんしゅつ
(1809–1898)
1868ねん
12月3にち
1874ねん
2がつ17にち
だいいち大蔵おおくらきょう
財務ざいむ大臣だいじん
(1873-1874)
庶民しょみんいん院内いんない総務そうむ
自由党じゆうとう [59]
1868ねん 内閣ないかく
陸軍りくぐん公務員こうむいんおよ地方ちほう政府せいふたいする改革かいかく実行じっこう; 平時へいじ鞭打むちう違法いほう; 1869ねんアイルランド教会きょうかいほう (Irish Church Act 1869; 1870ねんアイルランド土地とちほう; 1870ねん初等しょとう教育きょういくほう; 1871ねん労働ろうどう組合くみあいほう; 1872ねん投票とうひょうほう; 1872ねんライセンスほう (Licensing Act 1872; ひろしふつ戦争せんそう阻止そし失敗しっぱい; 1873ねんから1874ねんにかけてのビハール飢饉ききん緩和かんわ
42 初代しょだいビーコンズフィールド伯爵はくしゃく
ベンジャミン・ディズレーリ
Benjamin Disraeli, 1st Earl of Beaconsfield
1876ねんまで 庶民しょみんいん議員ぎいん(バッキンガムシャー選挙せんきょ選出せんしゅつ
1876ねんより ビーコンズフィールド伯爵はくしゃく
(1804–1881)
1874ねん
2がつ20日はつか
1880ねん
4がつ21にち
だいいち大蔵おおくらきょう
庶民しょみんいん院内いんない総務そうむ
(1874-1876)
おう璽尚しょ
(1876-1878)
貴族きぞくいん院内いんない総務そうむ
(1876-1880)
保守党ほしゅとう [60]
1874ねん 内閣ないかく
在任ざいにんちゅう庶民しょみんいんから貴族きぞくいん移籍いせきした最後さいご首相しゅしょう1875ねん煙突えんとつ掃除そうじおっとほう (Chimney Sweepers Act 18751875ねん公衆こうしゅう衛生えいせいほう1875ねん職人しょくにんおよ労働ろうどうしゃ住居じゅうきょ改善かいぜんほう (Artisans' and Labourers' Dwellings Improvement Act 1875など、様々さまざま社会しゃかいてき改革かいかく実行じっこう; 1876ねんから1878ねんにかけてインドで発生はっせいしただい飢饉ききん; スエズ運河うんが会社かいしゃ株式かぶしき購入こうにゅう; ベルリン会議かいぎ参加さんか; 女王じょおうヴィクトリアインド女帝にょてい称号しょうごうさづけることをふくめ、女王じょおう国王こくおう)をふたたおおやけ生活せいかつさせる; だいアフガン戦争せんそう; さんみかど同盟どうめい解消かいしょう; ズールー戦争せんそう; 長期間ちょうきかんおよだい不況ふきょうはじまり
43 ウィリアム・ユワート・グラッドストン
William Ewart Gladstone
庶民しょみんいん議員ぎいん(ミッドロージアン選挙せんきょ選出せんしゅつ
(1809–1898)
1880ねん
4がつ23にち
1885ねん
6月9にち
だいいち大蔵おおくらきょう
財務ざいむ大臣だいじん
(1880-1882)
庶民しょみんいん院内いんない総務そうむ
自由党じゆうとう [61]
1880ねん 内閣ないかく
戸主こしゅ責任せきにんほう(1880ねん)[62]だいいちボーア戦争せんそう(1881ねん)[63]既婚きこん女性じょせい財産ざいさんほう(1882ねん)[62]腐敗ふはい違法いほう行為こうい防止ぼうしほう(1883ねん)[64]スーダンマフディーのらん(1883ねん)[65]だいさん選挙せんきょほう改正かいせい(1884ねん)[64]議席ぎせきさい分配ぶんぱいほう(1885ねん)[64]ハルツーム包囲ほういされたゴードン将軍しょうぐん救出きゅうしゅつ失敗しっぱい(1885ねん)[65]
44 だい3だいソールズベリー侯爵こうしゃく
ロバート・ガスコイン=セシル

Robert Gascoyne-Cecil, 3rd Marquess of Salisbury
(1830ねん–1903ねん
1885ねん
6月23にち
1886ねん
1がつ28にち
外務がいむ大臣だいじん
貴族きぞくいん院内いんない総務そうむ
保守党ほしゅとう [66]
1885ねん 内閣ないかく
アシュバーンほう英語えいごばん(1885ねん)[67]ビルマ侵攻しんこう併合へいごう(1885ねん)[68]
45 ウィリアム・ユワート・グラッドストン
William Ewart Gladstone
庶民しょみんいん議員ぎいん(ミッドロージアン選挙せんきょ選出せんしゅつ
(1809–1898)
1886ねん
2がつ1にち
1886ねん
7がつ20日はつか
だいいち大蔵おおくらきょう
庶民しょみんいん院内いんない総務そうむ
おう璽尚しょ
自由党じゆうとう [69]
1885ねん 内閣ないかく
アイルランド自治じちほうあん失敗しっぱい自由党じゆうとう分裂ぶんれつ[70]
46 だい3だいソールズベリー侯爵こうしゃく
ロバート・ガスコイン=セシル
Robert Gascoyne-Cecil, 3rd Marquess of Salisbury
(1830–1903)
1886ねん
7がつ25にち
1892ねん
8がつ11にち
だいいち大蔵おおくらきょう
(1886-1887)
外務がいむ大臣だいじん
(1887-1892)
貴族きぞくいん院内いんない総務そうむ
保守党ほしゅとう [71]
1886ねん 内閣ないかく
地方ちほう行政ぎょうせいほう(1888ねん)[72]アフリカ分割ぶんかつ無償むしょう教育きょういくほう(1891ねん)[72]しん組合くみあい主義しゅぎ (New Unionismロンドン・ドック・ストライキ[67]
47 ウィリアム・ユワート・グラッドストン
William Ewart Gladstone
庶民しょみんいん議員ぎいん(ミッドロージアン選挙せんきょ選出せんしゅつ
(1809–1898)
1892ねん
8がつ15にち
1894ねん
3月2にち
だいいち大蔵おおくらきょう
庶民しょみんいん院内いんない総務そうむ
庶民しょみんいん院内いんない総務そうむ
おう璽尚しょ
自由党じゆうとう [73]
1892ねん 内閣ないかく
アイルランド自治じちほうあんさい提出ていしゅつ貴族きぞくいん否決ひけつ[70]
48 だい5だいローズベリー伯爵はくしゃく
アーチボルド・プリムローズ

Archibald Primrose, 5th Earl of Rosebery
(1847–1929)
1894ねん
3月5にち
1895ねん
6月22にち
だいいち大蔵おおくらきょう
枢密院すうみついん議長ぎちょう
貴族きぞくいん院内いんない総務そうむ
自由党じゆうとう [74]
 — 内閣ないかく
自由じゆう帝国ていこく主義しゅぎしゃ[75]相続そうぞくぜい(1894ねん)[76]
49 だい3だいソールズベリー侯爵こうしゃく
ロバート・ガスコイン=セシル
Robert Gascoyne-Cecil, 3rd Marquess of Salisbury
(1830–1903)
1895ねん
6月25にち
1902ねん
7がつ11にち
外務がいむ大臣だいじん
(1895-1900)
貴族きぞくいん院内いんない総務そうむ
おう璽尚しょ
(1900-1902)
保守党ほしゅとう [77]
1895ねん; 1900ねん 内閣ないかくⅢ・Ⅳ エドワード7せい
エドワード7世 (イギリス王)
1901ねん–1910ねん
労働ろうどうしゃ災害さいがい補償ほしょうほう(1897ねん)[75]スーダン侵攻しんこう(1898ねん)[78]ファショダ事件じけん(1898ねん)[78]だいボーア戦争せんそう(1899ねん-1902ねん)[79]カーキ選挙せんきょ[80]にちえい同盟どうめい(1902ねん/明治めいじ35ねん)[81]
50 アーサー・バルフォア
Arthur Balfour
庶民しょみんいん議員ぎいん(マンチェスター・イースト選挙せんきょ選出せんしゅつ
(1848–1930)
1902ねん
7がつ11にち
1905ねん
12月5にち
だいいち大蔵おおくらきょう
庶民しょみんいん院内いんない総務そうむ
保守党ほしゅとう [32]
 — 内閣ないかく
ははかいして)ソールズベリー侯爵こうしゃくおいエドワード7せいとの関係かんけいせいわるかった; 自由じゆう貿易ぼうえきかんする是非ぜひについてかくない意見いけん分裂ぶんれつした; 帝国ていこく国防こくぼう委員いいんかい設立せつりつ; えいふつ協商きょうしょう; 1902ねん教育きょういくほう; タフ・ベール事件じけん; ドッガーバンク事件じけん
51 サー・ヘンリー・キャンベル=バナマン
Sir Henry Campbell-Bannerman
庶民しょみんいん議員ぎいん(スターリング・バラ選挙せんきょ選出せんしゅつ
(1836–1908)
1905ねん
12月5にち
1908ねん
4がつ7にち
だいいち大蔵おおくらきょう
庶民しょみんいん院内いんない総務そうむ
自由党じゆうとう [32]
1906ねん 内閣ないかく
議会ぎかい制定せいていされた法律ほうりつなか公式こうしき言及げんきゅうされたてんにおいては、歴史れきしじょう最初さいしょ首相しゅしょう; トランスヴァールおよオレンジ自由じゆうこくたいする自治じちけん回復かいふく; えい協商きょうしょう; ホールデン子爵ししゃくによるイギリスぐん改革かいかく; 1907ねん犯罪はんざいしゃ保護ほご観察かんさつほう; 健康けんこう状態じょうたい悪化あっか理由りゆう辞任じにん辞任じにんから19にち死去しきょ
52 ハーバート・ヘンリー・アスキス
Herbert Henry Asquith
庶民しょみんいん議員ぎいん(イースト・ファイフ選挙せんきょ選出せんしゅつ
(1852–1928)
1908ねん
4がつ7にち
1915ねん
5月25にち
だいいち大蔵おおくらきょう
庶民しょみんいん院内いんない総務そうむ
陸軍りくぐん大臣だいじん(1914)
自由党じゆうとう [32]
1910ねん1がつ; 1910ねん12月 内閣ないかく ジョージ5せい
ジョージ5世 (イギリス王)
1910ねん–1936ねん
ハング・パーラメントとなるも、労働党ろうどうとう閣外かくがい協力きょうりょく; 自由党じゆうとう福祉ふくし改革かいかく; 人民じんみん予算よさん; 1908ねん老齢ろうれい年金ねんきんほうおよ1911ねん国民こくみん保険ほけんほう; 1911ねん議会ぎかいほう; サフラジェットおよネコとネズミほう; 1914ねんアイルランド統治とうちほう; だいいち世界せかい大戦たいせん開戦かいせん; (カラッハ事件じけんからだいいち世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつまでのあいだ陸軍りくぐん大臣だいじん兼任けんにんした最後さいご首相しゅしょう
ハーバート・ヘンリー・アスキス
Herbert Henry Asquith
庶民しょみんいん議員ぎいん(イースト・ファイフ選挙せんきょ選出せんしゅつ
(1852–1928)
1915ねん
5月25にち
1916ねん
12月7にち
だいいち大蔵おおくらきょう
庶民しょみんいん院内いんない総務そうむ
自由党じゆうとう [32]
 — 内閣ないかくⅡ・Ⅲ連合れんごう
イースター蜂起ほうき
53 デイヴィッド・ロイド・ジョージ
David Lloyd George
庶民しょみんいん議員ぎいん(カーナーヴォン・バラ選挙せんきょ選出せんしゅつ
(1863–1945)
1916ねん
12月7にち
1922ねん
10月19にち
だいいち大蔵おおくらきょう 自由党じゆうとう [82]
1918ねん 戦時せんじ内閣ないかく・Ⅱ
ウェールズはなし、英語えいご母語ぼごでなかった唯一ゆいいつ首相しゅしょうで、かつウェールズの選挙せんきょから選出せんしゅつされて就任しゅうにんした最初さいしょ首相しゅしょう。また、保守党ほしゅとういんでも労働ろうどう党員とういんでもなかった最後さいご首相しゅしょう保守党ほしゅとう連立れんりつないかく形成けいせいする。“連合れんごう”のアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくおおくの連合れんごうこくともに、だいいち世界せかい大戦たいせん勝利しょうりして終戦しゅうせんむかえる; パリ講和こうわ会議かいぎ; チャナク危機きき1918ねんに、21さい以上いじょうすべての男性だんせいおよび30さい以上いじょうすべての女性じょせい選挙せんきょけんあたえられた。アイルランド独立どくりつ戦争せんそうわらせるための支援しえんおこない、えいあい条約じょうやくをもってアイルランド自由じゆうこく建国けんこくした; BBC設立せつりつ
54 アンドルー・ボナー・ロー
Andrew Bonar Law
庶民しょみんいん議員ぎいん(グラスゴー・セントラル選挙せんきょ選出せんしゅつ
(1858–1923)
1922ねん
10月23にち
1923ねん
5がつ20日はつか
だいいち大蔵おおくらきょう
庶民しょみんいん院内いんない総務そうむ
保守党ほしゅとう [83]
1922ねん 内閣ないかく
カナダまれ。ニューヨークまれのジョンソンが首相しゅしょうになるまでブリテン諸島しょとう以外いがいまれた唯一ゆいいつ首相しゅしょうだった。カールトン・クラブでの会合かいごう保守党ほしゅとうのバックベンチャー(下院かいん後方こうほうせき議員ぎいんひら議員ぎいん)がロイド・ジョージ連立れんりつ政権せいけんから退しりぞくことを決定けっていしたのをけて、首相しゅしょう就任しゅうにん。20世紀せいきちゅう首相しゅしょうつとめた人物じんぶつなかもっと在任ざいにん期間きかんみじかかった(211日間にちかん)。健康けんこう状態じょうたい悪化あっかにより、辞任じにん。その6ヶ月かげつやまい死去しきょ
55 スタンリー・ボールドウィン
Stanley Baldwin
庶民しょみんいん議員ぎいん(ビュードリー選挙せんきょ選出せんしゅつ
(1867–1947)
1923ねん
5月23にち
1924ねん
1がつ16にち
だいいち大蔵おおくらきょう
財務ざいむ大臣だいじん(1923)
庶民しょみんいん院内いんない総務そうむ
保守党ほしゅとう [84]
 — 内閣ないかく
財務ざいむ大臣だいじん兼任けんにんした最後さいご首相しゅしょう保護ほご主義しゅぎてき関税かんぜい政策せいさくをとるための信任しんにんるためにそう選挙せんきょったが、議会ぎかい多数たすう議席ぎせき獲得かくとくするのに失敗しっぱい。その内閣ないかく信任しんにんうしなって辞任じにん
56 ラムゼイ・マクドナルド
Ramsay MacDonald
庶民しょみんいん議員ぎいん(アベラボン選挙せんきょ選出せんしゅつ
(1866–1937)
1924ねん
1がつ22にち
1924ねん
11月4にち
だいいち大蔵おおくらきょう
庶民しょみんいん院内いんない総務そうむ
外務がいむ大臣だいじん
労働党ろうどうとう [85]
1923ねん 内閣ないかく
ハング・パーラメントとなり、自由党じゆうとう閣外かくがい協力きょうりょくて、少数しょうすう内閣ないかく形成けいせい史上しじょうはつ労働党ろうどうとう政権せいけん首相しゅしょう外務がいむ大臣だいじん兼任けんにんした最後さいご首相しゅしょうだいいち世界せかい大戦たいせんけての賠償金ばいしょうきん支払しはらいをませてドイツと和解わかい; ジノヴィエフ書簡しょかん
57 スタンリー・ボールドウィン
Stanley Baldwin
庶民しょみんいん議員ぎいん(ビュードリー選挙せんきょ選出せんしゅつ
(1867–1947)
1924ねん
11月4にち
1929ねん
6月5にち
だいいち大蔵おおくらきょう
庶民しょみんいん院内いんない総務そうむ
保守党ほしゅとう [86]
1924ねん 内閣ないかく
ロカルノ条約じょうやく(1925ねん)[87]ゼネスト鎮圧ちんあつ(1926ねん)[88]労働ろうどう争議そうぎ組合くみあいほう(1927ねん)[89]年金ねんきんほう(1926ねん)[89]だい5選挙せんきょほう改正かいせい[89]
58 ラムゼイ・マクドナルド
Ramsay MacDonald
庶民しょみんいん議員ぎいん(シーハム選挙せんきょ選出せんしゅつ
(1866–1937)
1929ねん
6月5にち
1931ねん
8がつ24にち
だいいち大蔵おおくらきょう
庶民しょみんいん院内いんない総務そうむ
労働党ろうどうとう [90]
1929ねん 内閣ないかく
ウォうぉル街るがいだい暴落ぼうらく経済けいざい危機きき(1929ねん)[91]失業しつぎょう手当てあてげで労働党ろうどうとう分裂ぶんれつ(1931ねん)[92]労働党ろうどうとう除名じょめいされ、保守党ほしゅとう自由党じゆうとう挙国一致きょこくいっちないかく樹立じゅりつ(1931ねん)[92]
1931ねん
8がつ24にち
1935ねん
6月7にち
だいいち大蔵おおくらきょう
庶民しょみんいん院内いんない総務そうむ
挙国きょこく労働党ろうどうとう英語えいごばん [93]
1931ねん 挙国一致きょこくいっちないかく挙国一致きょこくいっち
金本位きんほんいせい停止ていし(1931ねん)[92]輸入ゆにゅう関税かんぜいほう(1932ねん)[94]だいえい帝国ていこく経済けいざい会議かいぎ英語えいごばん帝国ていこく特恵とっけい制度せいど導入どうにゅう(1932ねん)[94]
59 スタンリー・ボールドウィン
Stanley Baldwin
庶民しょみんいん議員ぎいん(ビュードリー選挙せんきょ選出せんしゅつ
(1867–1947)
1935ねん
6月7にち
1937ねん
5月28にち
だいいち大蔵おおくらきょう
庶民しょみんいん院内いんない総務そうむ
保守党ほしゅとう [95]
1935ねん 挙国一致きょこくいっちないかく エドワード8せい
エドワード8世 (イギリス王)
1936ねん
インド統治とうちほう(1935ねん)[96]エドワード8せい退位たいい騒動そうどう(1936ねん)[97]ジョージ6せいとエリザベスの戴冠たいかんしき英語えいごばん(1937ねん)。たいどく宥和ゆうわ政策せいさく[97] ジョージ6せい
ジョージ6世 (イギリス王)
1936ねん–1952ねん
60 ネヴィル・チェンバレン
Neville Chamberlain
庶民しょみんいん議員ぎいん(バーミンガム・エジバストン選挙せんきょ選出せんしゅつ
(1869–1940)
1937ねん
5月28にち
1940ねん
5がつ10日とおか
だいいち大蔵おおくらきょう
庶民しょみんいん院内いんない総務そうむ
保守党ほしゅとう [32]
 — 挙国一致きょこくいっちないかく戦時せんじ内閣ないかく
たいどく宥和ゆうわ政策せいさく[98]ミュンヘン協定きょうてい(1938ねん)[98]だい世界せかい大戦たいせん開戦かいせん指導しどう(1939ねん-1940ねん)[99]
61 サー・ウィンストン・チャーチル
Winston Churchill
庶民しょみんいん議員ぎいん(エッピング選挙せんきょ選出せんしゅつ
(1874–1965)
1940ねん
5がつ10日とおか
1945ねん
5月23にち
だいいち大蔵おおくらきょう
国防こくぼう担当たんとう閣外かくがい大臣だいじん
庶民しょみんいん院内いんない総務そうむ
(1940-1942)
保守党ほしゅとう [100]
 — 戦時せんじ内閣ないかく
だい世界せかい大戦たいせん指導しどう(1940ねん-1945ねん)[101]ベヴァリッジ報告ほうこくしょ(1942ねん)[102]教育きょういくほう(1944ねん)[103]
1945ねん
5月23にち
1945ねん
7がつ26にち
だいいち大蔵おおくらきょう
国防こくぼう担当たんとう閣外かくがい大臣だいじん
保守党ほしゅとう [104]
 — 暫定ざんていないかく
挙国一致きょこくいっちないかく解消かいしょう(1945ねん5がつ)[105]暫定ざんていないかく発足ほっそく(1945ねん5がつ)[106]そう選挙せんきょ敗北はいぼく辞職じしょく(1945ねん7がつ)[107]
62 クレメント・アトリー
Clement Attlee
1950ねんまで 庶民しょみんいん議員ぎいん(ライムハウス選挙せんきょ選出せんしゅつ
1950ねんより 庶民しょみんいん議員ぎいん(ウォルサムストウ・ウェスト選挙せんきょ選出せんしゅつ
(1883–1967)
1945ねん
7がつ26にち
1951ねん
10月26にち
だいいち大蔵おおくらきょう
国防こくぼう担当たんとう閣外かくがい大臣だいじん
(1945-1946)
労働党ろうどうとう [108]
1945ねん; 1950ねん 内閣ないかくⅠ・Ⅱ
ポツダム会談かいだん[109]イングランド銀行いんぐらんどぎんこう国有こくゆう(1946ねん3がつ)[110]国民こくみん保険ほけんほう(1946ねん8がつ)[111]パレスチナ委任いにん統治とうちけん放棄ほうき(1947ねん2がつ)[112]インド独立どくりつ(1948ねん8がつ)[113]朝鮮ちょうせん戦争せんそう参戦さんせん(1950ねん6がつ)[114]鉄鋼てっこう国有こくゆう(1951ねん2がつ)[110]
63 サー・ウィンストン・チャーチル
Sir Winston Churchill
庶民しょみんいん議員ぎいん(ウッドフォード選挙せんきょ選出せんしゅつ
(1874–1965)
1951ねん
10月26にち
1955ねん
4がつ6にち
だいいち大蔵おおくらきょう
国防こくぼう担当たんとう閣外かくがい大臣だいじん
(1951-1952)
保守党ほしゅとう [115]
1951ねん 内閣ないかく エリザベス2せい
エリザベス2世
1952ねん–2022ねん
国防こくぼう担当たんとう閣外かくがい大臣だいじん現在げんざい国防こくぼう大臣だいじん)を兼任けんにんした最後さいご首相しゅしょう国内こくない政策せいさくとく配給はいきゅう終了しゅうりょうかんして)の執行しっこうは、外国がいこくでの度重たびかさなる紛争ふんそう朝鮮ちょうせん戦争せんそう; アジャックス作戦さくせん; マウマウだんらん; マラヤ非常ひじょう事態じたい)により防止ぼうしされた; 女王じょおうエリザベス2せい戴冠たいかんしき(1953ねん)
64 サー・アンソニー・イーデン
Sir Anthony Eden
庶民しょみんいん議員ぎいん(ワーウィック・アンド・レミントン選挙せんきょ選出せんしゅつ
(1897–1977)
1955ねん
4がつ6にち
1957ねん
1がつ10日とおか
だいいち大蔵おおくらきょう 保守党ほしゅとう [116]
1955ねん 内閣ないかく
エジプト政府せいふスエズ運河うんが国有こくゆうしたことにより、スエズ危機ききこした。健康けんこう状態じょうたい悪化あっかにより辞任じにん
65 ハロルド・マクミラン
Harold Macmillan
庶民しょみんいん議員ぎいん(ブロムリー選挙せんきょ選出せんしゅつ
(1894–1986)
1957ねん
1がつ10日とおか
1963ねん
10月19にち
だいいち大蔵おおくらきょう 保守党ほしゅとう [117]
1959ねん 内閣ないかく
イギリスがはじめて欧州おうしゅう経済けいざい共同きょうどうたいへの加盟かめい申請しんせい。この申請しんせいめぐり、保守党ほしゅとうない意見いけん対立たいりつしたうえ、フランスのシャルル・ド・ゴール大統領だいとうりょう加盟かめい拒否きょひされた; ケインズ主義しゅぎ容認ようにん; 1957ねん家賃やちんほう; ウィンド・オブ・チェンジ演説えんぜつ; 1958ねんノッティングヒル人種じんしゅ暴動ぼうどうとニュー・コモンウェルス移民いみん; BBCテレビジョンセンター開設かいせつ; 徴兵ちょうへいせい廃止はいし; ビーチング・アックスはじまり; 1962ねんながいナイフのよる; キューバ危機きき; プロヒューモ事件じけんのち責任せきにんをとってそう辞職じしょく
66 サー・アレック・ダグラス=ヒューム
Sir Alec Douglas-Home
1963ねんまで ヒューム伯爵はくしゃく
1963ねんより 庶民しょみんいん議員ぎいん(キンロス・アンド・ウェスタン・パースシャー選挙せんきょ選出せんしゅつ
(1903–1995)
1963ねん
10月19にち
1964ねん
10月16にち
だいいち大蔵おおくらきょう 保守党ほしゅとう [118]
 — 内閣ないかく
首相しゅしょう就任しゅうにんヒューム伯爵はくしゃくであったが、貴族きぞくいん議員ぎいん首相しゅしょうになることは忌避きひされる時代じだいとなったため、10月23にち自分じぶんいちだいかぎって爵位しゃくい返上へんじょうし、庶民しょみんいん議員ぎいん転身てんしんきたローデシアニヤサランド独立どくりつ; さい販売はんばい価格かかく維持いじ廃止はいし
67 ハロルド・ウィルソン
Harold Wilson
庶民しょみんいん議員ぎいん(ハイトン選挙せんきょ選出せんしゅつ
(1916–1995)
1964ねん
10月16にち
1970ねん
6月19にち
だいいち大蔵おおくらきょう
国家こっか公務員こうむいん担当たんとう大臣だいじん
労働党ろうどうとう [119]
1964ねん; 1966ねん 内閣ないかくⅠ・Ⅱ
妊娠にんしん中絶ちゅうぜつ合法ごうほう死刑しけい制度せいど廃止はいしきたアイルランドのぞく)およ同性愛どうせいあい刑罰けいばつふく社会しゃかいてき改革かいかく; ローデシア一方いっぽうてき独立どくりつ宣言せんげん; ディエゴガルシアとうぜん住民じゅうみん違法いほう追放ついほうおよ強制きょうせい退去たいきょさせる計画けいかく了承りょうしょう; 経済けいざいのための国家こっか計画けいかく採用さいようされたのち中止ちゅうしされた; ポンド平価へいかげ; オープン大学だいがく設置せっち; 政府せいふ白書はくしょ闘争とうそうえて」と価格かかく所得しょとく政策せいさくめぐ労働ろうどう組合くみあいとの論争ろんそう; きたアイルランド問題もんだいへの対応たいおうとして、きたアイルランドに派兵はへい
68 エドワード・ヒース
Edward Heath
庶民しょみんいん議員ぎいん(ベクスリー選挙せんきょ選出せんしゅつ
(1916–2005)
1970ねん
6月19にち
1974ねん
3月4にち
だいいち大蔵おおくらきょう
国家こっか公務員こうむいん担当たんとう大臣だいじん
保守党ほしゅとう [120]
1970ねん 内閣ないかく
それまでの産業さんぎょう介入かいにゅう政策せいさくを180転換てんかん; 欧州おうしゅうしょ共同きょうどうたい加盟かめいするための交渉こうしょう; きたアイルランド紛争ふんそう激化げきかして日曜日にちようび事件じけんこる; サニングデール協定きょうてい同意どうい; 炭鉱たんこう労働ろうどうしゃによるストライキが頻発ひんぱつして電力でんりょく不足ふそくおちいる (Three-day Week); 1971ねん薬物やくぶつ乱用らんようほう; 付加ふか価値かちぜい導入どうにゅう; きたアイルランドでの死刑しけい廃止はいし; ストライキを頻発ひんぱつする鉱山こうざん労働ろうどうしゃ全国ぜんこく組合くみあい対抗たいこうしようとして、早期そうき選挙せんきょ実施じっししたが、裏目うらめる。最後さいご生涯しょうがい未婚みこん首相しゅしょう
69 ハロルド・ウィルソン
Harold Wilson
庶民しょみんいん議員ぎいん(ハイトン選挙せんきょ選出せんしゅつ
(1916–1995)
1974ねん
3月4にち
1976ねん
4がつ5にち
だいいち大蔵おおくらきょう
国家こっか公務員こうむいん担当たんとう大臣だいじん
労働党ろうどうとう [121]
1974ねん2がつ; 1974ねん10がつ 内閣ないかくⅢ・Ⅳ
ハング・パーラメント; 鉱山こうざん労働ろうどうしゃとの争議そうぎ終結しゅうけつ; 経済けいざいかんして労働ろうどう組合くみあいとの「社会しゃかい契約けいやく」 (Social Contract) 政策せいさく推進すいしん; 1974ねん労働ろうどう安全あんぜん衛生えいせいほう; 欧州おうしゅうしょ共同きょうどうたい加盟かめいこくりするための条件じょうけんについてさい交渉こうしょう、1975ねんEEC加盟かめい残留ざんりゅう是非ぜひ国民こくみん投票とうひょう実施じっしして残留ざんりゅうへの賛成さんせい確認かくにん; 北海ほっかい油田ゆでん; タラ戦争せんそう; 健康けんこう状態じょうたい悪化あっか理由りゆう辞任じにん
70 ジェームズ・キャラハン
James Callaghan
庶民しょみんいん議員ぎいん(カーディフ・サウス・イースト選挙せんきょ選出せんしゅつ
(1912–2005)
1976ねん
4がつ5にち
1979ねん
5月4にち
だいいち大蔵おおくらきょう
国家こっか公務員こうむいん担当たんとう大臣だいじん
労働党ろうどうとう [122][123]
 — 内閣ないかく
IMFから融資ゆうしけてポンドをささえた; 1976ねん人種じんしゅ関係かんけいほう; 労働党ろうどうとう自由党じゆうとう協定きょうてい; スコットランドウェールズくに権限けんげん一部いちぶ移譲いじょうする法律ほうりつ制定せいていされたが、住民じゅうみん投票とうひょうによりめられた; 労働ろうどう組合くみあいとの関係かんけい破綻はたんし、それゆえ不満ふまんふゆ到来とうらいした; 内閣ないかく不信任ふしんにん決議けつぎあんがたった1ひょう可決かけつされ、解散かいさんそう選挙せんきょ実施じっししたが、大敗たいはいきっして辞任じにん四大しだい国務大臣こくむだいじん首相しゅしょう財務ざいむ大臣だいじん外務がいむ大臣だいじん内務ないむ大臣だいじん)のすべてを経験けいけんした、イギリス史上しじょう唯一ゆいいつ政治せいじである。
71 マーガレット・サッチャー
Margaret Thatcher
庶民しょみんいん議員ぎいん(フィンチリー選挙せんきょ選出せんしゅつ
(1925–2013)
1979ねん
5月4にち
1990ねん
11月28にち
だいいち大蔵おおくらきょう
国家こっか公務員こうむいん担当たんとう大臣だいじん
保守党ほしゅとう [124][125]
1979ねん; 1983ねん; 1987ねん 内閣ないかく
はつ女性じょせい首相しゅしょう。1981ねんアイルランドでのハンガー・ストライキ; フォークランド紛争ふんそう; 公営こうえい住宅じゅうたく売却ばいきゃくして賃借ちんしゃくさせる(Right to Buy政策せいさく); 1984ねんから1985ねんにかけての鉱山こうざん労働ろうどうしゃのストライキ; おおくの国有こくゆう企業きぎょう民営みんえい; 労働ろうどう組合くみあい権限けんげん縮小しゅくしょう; 欧州おうしゅうしょ共同きょうどうたい予算よさんたいするイギリスへのはらもど交渉こうしょうわたしのおかねかえして」; ブライトンホテル爆破ばくは事件じけん; 香港ほんこん問題もんだいかんするちゅうえい共同きょうどう声明せいめい; アングロ・アイリッシュ協定きょうてい; ウェストランド事件じけん; グレーター・ロンドン・カウンシル廃止はいし; 1988ねん地方ちほう自治じちほう28じょう; 人頭じんとうぜい地方ちほう負担ふたんきん)と人頭じんとうぜい暴動ぼうどう; ロッカビー事件じけん; 冷戦れいせん終結しゅうけつ
72 ジョン・メージャー
John Major
庶民しょみんいん議員ぎいん(ハンティンドン選挙せんきょ選出せんしゅつ
(1943– )
1990ねん
11月28にち
1997ねん
5月2にち
だいいち大蔵おおくらきょう
国家こっか公務員こうむいん担当たんとう大臣だいじん
保守党ほしゅとう [126][127]
1992ねん 内閣ないかく
1990年代ねんだい初頭しょとう景気けいき後退こうたい; 湾岸わんがん戦争せんそう; ダウニングがい迫撃はくげきほうまれる事件じけん; マーストリヒト条約じょうやく批准ひじゅんとその過程かていきた保守党ほしゅとう議員ぎいん造反ぞうはん; 欧州おうしゅう為替かわせ相場そうばメカニズムからの離脱りだつ強行きょうこう暗黒あんこく水曜日すいようび); ダウニング・ストリート宣言せんげん; イギリス国鉄こくてつ民営みんえい; 全国ぜんこくたからくじ; 市民しみん憲章けんしょう; 1994ねん日曜にちよう営業えいぎょうほう; Back to Basics政策せいさく; 1991ねん危険きけんいぬしゅほう; 大学だいがく卒業そつぎょう学歴がくれきのない最後さいご首相しゅしょう
73 トニー・ブレア
Tony Blair
庶民しょみんいん議員ぎいん(セッジフィールド選挙せんきょ選出せんしゅつ
(1953– )
1997ねん
5月2にち
2007ねん
6月27にち
だいいち大蔵おおくらきょう
国家こっか公務員こうむいん担当たんとう大臣だいじん
労働党ろうどうとう [128][129]
1997ねん; 2001ねん; 2005ねん 内閣ないかく
中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくへの香港ほんこん返還へんかん; ダイアナもとおう太子たいし; イングランド銀行いんぐらんどぎんこう独立どくりつ; タバコのスポンサーシップをめぐエクレストンから労働党ろうどうとうへの献金けんきんスキャンダル; ベルファスト合意ごうい; 1998ねん人権じんけんほう; 死刑しけい制度せいど完全かんぜん廃止はいし; スコットランドウェールズへの権限けんげん移譲いじょう; 貴族きぞくいん改革かいかく; 最低さいてい賃金ちんぎん導入どうにゅう; NATOによるコソボ空爆くうばく; 燃料ねんりょう高騰こうとうたいする抗議こうぎ; グレーター・ロンドン・オーソリティーロンドン市長しちょうしょく創設そうせつ; 2000ねん情報じょうほう自由じゆうほう; シエラレオネ内戦ないせんへのイギリスぐん介入かいにゅう; 2001ねん口蹄疫こうていえき流行りゅうこう; アメリカ同時どうじ多発たはつテロ事件じけん; アフガニスタン紛争ふんそう; イラク戦争せんそう; 大学だいがく授業じゅぎょうりょうたいして裁量さいりょうせい授業じゅぎょうりょう制度せいど導入どうにゅう; 2004ねんシビル・パートナーシップほう; 2005ねん憲法けんぽう改革かいかくほう; ロンドン同時どうじ爆破ばくは事件じけん; 一代いちだい貴族きぞく売買ばいばい疑惑ぎわく; 2006ねんIDカードほう
74 ゴードン・ブラウン
Gordon Brown
庶民しょみんいん議員ぎいん(カーコーディ・アンド・カウデンビース選挙せんきょ選出せんしゅつ
(1951– )
2007ねん
6月27にち
2010ねん
5月11にち
だいいち大蔵おおくらきょう
国家こっか公務員こうむいん担当たんとう大臣だいじん
労働党ろうどうとう [130]
 — 内閣ないかく
グラスゴー国際こくさい空港くうこうでのテロ事件じけん; 児童じどう手当てあてデータ漏洩ろうえい事件じけん; 労働党ろうどうとうへの申告しんこくでの政治せいじ献金けんきん疑惑ぎわく; ノーザン・ロック銀行ぎんこうおよびその銀行ぎんこう国有こくゆう; リスボン条約じょうやく批准ひじゅん; 個人こじん所得しょとくぜいの10%の最低さいてい税率ぜいりつ廃止はいし; 2007ねんから2008ねんにかけての世界せかい金融きんゆう危機きき; 大麻たいま分類ぶんるいをクラスBに移動いどう; 庶民しょみんいん議員ぎいん経費けいひスキャンダル; ロッカビー事件じけん実行じっこうはんアブデルバセット・アル=メグラヒ釈放しゃくほう; ダミアン・グリーン議員ぎいん逮捕たいほ; イラク戦争せんそうかんする独立どくりつ調査ちょうさ委員いいんかい(チルコット委員いいんかい)を設置せっち; そう選挙せんきょ時期じきえらぶことができた最後さいご首相しゅしょう
75 デーヴィッド・キャメロン
David Cameron
庶民しょみんいん議員ぎいん(ウィットニー選挙せんきょ選出せんしゅつ
(1966– )
2010ねん
5月11にち
2016ねん
7がつ13にち
だいいち大蔵おおくらきょう
国家こっか公務員こうむいん担当たんとう大臣だいじん
保守党ほしゅとう [131]
2010ねん; 2015ねん 内閣ないかくⅠ(連合れんごう)
2010ねんそう選挙せんきょ結果けっかハング・パーラメントとなったため、自由民主党じゆうみんしゅとうとの連立れんりつないかくむ。2保守党ほしゅとう単独たんどく政権せいけんとなる; 日曜日にちようび事件じけん謝罪しゃざい; 歳出さいしゅつ戦略せんりゃくてき国防こくぼう安全あんぜん保障ほしょう政策せいさく見直みなおし(公共こうきょうサービスの予算よさんけずったことにより、緊縮きんしゅく財政ざいせい政策せいさく反対はんたい運動うんどうこった); 2010ねん学生がくせい抗議こうぎ活動かつどう; 2011ねんリビアへの軍事ぐんじ介入かいにゅうエラミー作戦さくせん); 選挙せんきょ方法ほうほう代替だいたい投票とうひょうせい (Alternative Vote) に変更へんこうする是非ぜひ国民こくみん投票とうひょう; 2012ねん福祉ふくし改革かいかくほう; 2012ねん保健ほけん高齢こうれいしゃケアほう; 2011ねんイングランド暴動ぼうどう; 欧州おうしゅう財政ざいせい協定きょうてい (European Fiscal Compact拒否きょひ; ロンドンオリンピック開催かいさい; ベルファスト市庁舎しちょうしゃでの国旗こっき掲揚けいようめぐ抗議こうぎ; 同性どうせいこん合法ごうほう(英語えいごばん); 国家こっか犯罪はんざい対策たいさくちょう設置せっち; イギリスぐん兵士へいし刺殺しさつ事件じけん; スコットランドの独立どくりつ是非ぜひ住民じゅうみん投票とうひょう; ロイヤルメール民営みんえい; 政治せいじによる児童じどう虐待ぎゃくたい疑惑ぎわく告発こくはつ関連かんれん文書ぶんしょ紛失ふんしつ; イラクシリア活動かつどうする過激かげきテロ組織そしき「イスラムこくたいする軍事ぐんじ介入かいにゅうシェイダー作戦さくせん); 2015ねん欧州おうしゅう難民なんみん危機きき; イギリスの欧州おうしゅう連合れんごう離脱りだつ是非ぜひ国民こくみん投票とうひょう実施じっし、52%の国民こくみんがEU離脱りだつ投票とうひょうしたため、EU残留ざんりゅううったえていた首相しゅしょう辞任じにんした。
76 テリーザ・メイ
Theresa May
庶民しょみんいん議員ぎいん(メイデンヘッド選挙せんきょ選出せんしゅつ
(1956– )
2016ねん
7がつ13にち
2019ねん
7がつ24にち
だいいち大蔵おおくらきょう
国家こっか公務員こうむいん担当たんとう大臣だいじん
保守党ほしゅとう [132]
2017ねん 内閣ないかく
マーガレット・サッチャー以来いらい史上しじょう2にん女性じょせい首相しゅしょう。2016ねん6がつ実施じっししたEU離脱りだつ国民こくみん投票とうひょう結果けっかけて、イギリスの欧州おうしゅう連合れんごう離脱りだつブレグジット)にかんする事項じこうさだめた欧州おうしゅう連合れんごう条約じょうやく(リスボン条約じょうやくだい50じょう最終さいしゅうてき援用えんようあつかEU離脱りだつしょう設置せっち
77 ボリス・ジョンソン
Boris Johnson
庶民しょみんいん議員ぎいん(アクスブリッジ・アンド・サウス・ライスリップ選挙せんきょ選出せんしゅつ
(1964– )
2019ねん
7がつ24にち
2022ねん
9月6にち[133]
だいいち大蔵おおくらきょう
国家こっか公務員こうむいん担当たんとう大臣だいじん
保守党ほしゅとう [134]
2019ねん 内閣ないかく
まえロンドン市長しちょう。2020ねん1がつイギリスの欧州おうしゅう連合れんごう離脱りだつ(ブレグジット)実行じっこう新型しんがたコロナウイルス感染かんせんしょう (COVID-19) のイギリスでの流行りゅうこう拡大かくだい
78 リズ・トラス
Mary Elizabeth Truss
庶民しょみんいん議員ぎいん(サウス・ウェスト・ノーフォーク選挙せんきょ選出せんしゅつ
(1975– )
2022ねん
9月6にち
2022ねん
10月25にち
だいいち大蔵おおくらきょう
国家こっか公務員こうむいん担当たんとう大臣だいじん
保守党ほしゅとう [135]
 — 内閣ないかく チャールズ3せい

2022ねん在位ざいいちゅう
史上しじょう3にん女性じょせい首相しゅしょうエリザベス2せい崩御ほうぎょ、チャールズ3せい即位そくい内閣ないかく発足ほっそくかかげた減税げんぜい政策せいさく市場いちば混乱こんらん全面ぜんめん撤回てっかい支持しじりつ急落きゅうらくけて辞意じい表明ひょうめい在任ざいにん期間きかん史上しじょう最短さいたんのイギリス首相しゅしょうとなる。
79 リシ・スナク
Rishi Sunak
庶民しょみんいん議員ぎいん(リッチモンド選挙せんきょ選出せんしゅつ
(1980– )
2022ねん
10月25にち
現職げんしょく だいいち大蔵おおくらきょう
国家こっか公務員こうむいん担当たんとう大臣だいじん
保守党ほしゅとう [136]
 — 内閣ないかく
インドけい出身しゅっしん白人はくじんとしてははつ過去かこ200ねんでは最年少さいねんしょう首相しゅしょう就任しゅうにんチャールズ3せいとカミラの戴冠たいかんしき
だい 肖像しょうぞう 氏名しめい
地位ちい/爵位しゃくい
(なま没年ぼつねん)
在任ざいにん期間きかん

選挙せんきょ
兼職けんしょく 所属しょぞく政党せいとう

内閣ないかく
君主くんしゅ
在位ざいい期間きかん
出典しゅってん

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]