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ズールー戦争せんそう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ズールー戦争せんそう
Anglo-Zulu War
とき1879ねん1がつ11にち-7がつ4にち
場所ばしょみなみアフリカ
結果けっか イギリスの勝利しょうり
ズールー王国おうこく独立どくりつ喪失そうしつ
衝突しょうとつした勢力せいりょく
イギリスの旗 イギリス帝国ていこく ズールー王国おうこく
指揮しきかん
イギリスの旗 ヴィクトリア女王じょおう
イギリスの旗 ビーコンズフィールド伯爵はくしゃく(ディズレーリ)
イギリスの旗 ヘンリー・バートル・フレア英語えいごばん
イギリスの旗 チェルムスフォード男爵だんしゃく
イギリスの旗 ガーネット・ウルズリー英語えいごばん
セテワヨ・カムパンデ
ニッシングワヨ・カマホール・コンザ
ダビュラメンズィ・カンパンデ
戦力せんりょく

だいいち侵攻しんこう:
15,000-16,000:[1]

  • ヨーロッパへい6,600
  • アフリカへい9,000

火砲かほう17もん
ガトリングほう 1もん
ロケットほう中隊ちゅうたい 1
だい侵攻しんこう:
25,000:[2]

  • ヨーロッパへい16,000
  • ナタール原住民げんじゅうみんへい7,000
  • 輜重しちょう用務ようむ民間みんかんじん2,000-3,000
35,000[3]
被害ひがいしゃすう
戦死せんし1,727
負傷ふしょう256
戦死せんし10,500以上いじょう

ズールー戦争せんそう(ズールーせんそう、英語えいご:Anglo-Zulu War)は、1879ねんイギリス帝国ていこく南部なんぶアフリカズールー王国おうこくとのあいだたたかわれた戦争せんそうである。この戦争せんそういくつかの生臭なまぐさ戦闘せんとうと、みなみアフリカにおける植民しょくみん支配しはいとなったことで有名ゆうめいである。えい植民しょくみん当局とうきょく思惑おもわくにより、本国ほんごく政府せいふ意向いこうからはなれて開戦かいせんしたものの、英国えいこくぐん緒戦しょせんイサンドルワナのたたか英語えいごばんで、やりたておもへいそう火器かきをほとんどたないズールーぐん大敗たいはいきっしておもわぬ苦戦くせんいられた。その帝国ていこく各地かくちからだい規模きぼ増援ぞうえん部隊ぶたいおくまれ、ウルンディのたたか英語えいごばんでは近代きんだい兵器へいきもちいた英軍えいぐんおうみやこウルンディ陥落かんらくさせ勝利しょうりした。戦争せんそう結果けっか、ズールー国家こっか独立どくりつうしなわれた。

背景はいけい

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ズールー王国おうこく勃興ぼっこう

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ズールー王国おうこく存在そんざいしたみなみアフリカ共和きょうわこくクワズール・ナタールしゅう地図ちず

ズールー王国おうこく現在げんざいみなみアフリカ共和きょうわこくクワズール・ナタールしゅうバントゥーけい民族みんぞくくにだった。19世紀せいきはじめに偉大いだいズールーぞくおうシャカによって建国けんこくされ、革新かくしんてき軍事ぐんじシステムを導入どうにゅうした。

1817ねんから1819ねんにかけてのズールー内戦ないせん英語えいごばんでは、en:Zwide kaLangaひきいるen:Ndwandwe王国おうこくやぶった。

1822ねん、シャカおうひきいるズールーじんは、クワズール・ナタールしゅうんでいたンデベレじん英語えいごばんふるくは英国えいこくじんからえい: Matabeleばれた)を攻撃こうげきし(ムフェカネ英語えいごばんだい壊乱かいらん)、ンデベレじんは、現在げんざいトランスヴァール中央ちゅうおうプレトリア近辺きんぺんきたうつした。

シャカは周囲しゅうい部族ぶぞく征服せいふくし、ズールー王国おうこく領域りょういきトゥゲラがわ英語えいごばんからポンゴラがわ英語えいごばんまでひろがっていた。1828ねん暴君ぼうくんとなったシャカは暗殺あんさつされ、暗殺あんさつしゃ一人ひとりであったおとうとディンガネ・カセンザンガコナ英語えいごばんおうとなった。

ボーアじんのグレート・トレック

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このころえいりょうケープ植民しょくみんではボーアじんオランダけい植民しょくみんしゃ)が英国えいこく統治とうちきら集団しゅうだん北上ほくじょうはじめた。1835ねんからはじまったこのグレート・トレック内陸ないりくだい移動いどう)で、ボーアじんたちの集団しゅうだん入植にゅうしょくもとめ、はらじゅうしょ部族ぶぞく衝突しょうとつかえした。1838ねん2がつ17にちウィーネンの虐殺ぎゃくさつ英語えいごばんでディンガネは、フォールトレッカーズ英語えいごばんアフリカーンス: Voortrekkers)のピート・レティーフ英語えいごばんはじめとする250にんボーアじん虐殺ぎゃくさつした。12月16にち、フォールトレッカーズは、ブラッド・リバーのたたか英語えいごばんでズールーぞく撃破げきはし、このナタール共和きょうわこく建国けんこくした。たたかいにやぶれたディンガネおう威信いしんうしな1840ねん退位たいいさせられ、ムパンデ・カセンザンガコナ英語えいごばん即位そくいする。

一方いっぽう英国えいこくはボーアじん独立どくりつゆるさず、ナタール共和きょうわこくぐんおく1845ねんにこれをケープ植民しょくみん併合へいごうした。不満ふまんったボーアじんたちは北東ほくとう移動いどう1852ねんヴァールがわ以北いほくトランスヴァール共和きょうわこくみなみアフリカ共和きょうわこく)を建国けんこくする。オレンジかわ以北いほくにもオレンジ自由じゆうこく建国けんこくされた。費用ひようかる内陸ないりく奥地おくち統治とうちきらった英国えいこく政府せいふはこれを承認しょうにんした。

1856ねん、ズールー王国おうこくではムパンデおう息子むすこムブヤジとセテワヨ内戦ないせんこし、セテワヨが勝利しょうりして正式せいしき王位おうい継承けいしょうしゃとなった。1872ねんにムパンデおう崩御ほうぎょしセテワヨが即位そくいする。

ズールー国王こくおうとなったセテワヨはかれ叔父おじシャカの戦術せんじゅつ可能かのうかぎ復活ふっかつさせ、さらにはいくつかの部隊ぶたい銃器じゅうき装備そうびもさせた[4]かれはトランスヴァール共和きょうわこくとの紛争ふんそうちゅうにトランスカイのコサぞく反乱はんらんこさせ、セククニを援助えんじょしたとしんじられている。

セテワヨはナタール原住民げんじゅうみん問題もんだい担当たんとう長官ちょうかんテオフィルス・シェプストン英語えいごばん親交しんこうがあり、英国えいこくとの関係かんけい比較的ひかくてき平穏へいおんだったが、ヨーロッパからやって宣教師せんきょうしたちの活動かつどうはセテワヨにとっては不愉快ふゆかいなものだった。かれ宣教師せんきょうしたちには危害きがいくわえなかったが、いくにんかの改宗かいしゅうしゃ殺害さつがいしている。宣教師せんきょうしたちは英国えいこくとズールーの敵対てきたい原因げんいんひとつだった[5]たとえば、スフリューダー司教しきょうはセテワヨについて「有能ゆうのうおとこだが、冷酷れいこく自尊心じそんしんつよく、残忍ざんにん不誠実ふせいじつである。これまでのおうなか最悪さいあくだ」とべている。

だいえい帝国ていこく拡大かくだい

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バートル・フレア
セテワヨ・カムパンデ

1874ねん成功裏せいこうりカナダ連邦れんぽう成立せいりつさせたカーナーヴォン伯爵はくしゃく植民しょくみんしょう同様どうよう枠組わくぐみをみなみアフリカにおいても実施じっししようとしていた。この計画けいかくのためにバートル・フレア英語えいごばん高等こうとう弁務べんむかんとしてみなみアフリカへおくられた。この計画けいかく障害しょうがいひとつが独立どくりつした国家こっかであるトランスヴァール共和きょうわこくとズールー王国おうこく存在そんざいだった。

1876ねん9月、ズールー王国おうこくでの女子じょし大量たいりょう虐殺ぎゃくさつ原因げんいん年配ねんぱい連隊れんたい戦士せんしたちと結婚けっこんせよとのセテワヨの命令めいれいはんして同年代どうねんだいおとこたちと結婚けっこんしたことだった)にたいしてナタール行政府ぎょうせいふつよ抗議こうぎおこなうが、現地げんち行政府ぎょうせいふ管轄かんかつのアフリカ諸国しょこく問題もんだいたいして横柄おうへい態度たいど傾向けいこうがあった。セテワヨとトランスヴァール共和きょうわこくとの国境こっきょう問題もんだいつづいていた。セテワヨの友人ゆうじんだったナタール原住民げんじゅうみん問題もんだい担当たんとう長官ちょうかんテオフィルス・シェプストンは国境こっきょう問題もんだいかれ支持しじしていた。1877ねんかれしょう部隊ぶたいひきいてトランスヴァールへおもむきボーアじんたちに独立どくりつ放棄ほうきするよう説得せっとく、これにおうじたトランスヴァールはだいえい帝国ていこく併合へいごうされた。トランスヴァールの行政ぎょうせいかんとなったシェプストンは立場たちばえボーアがわ利益りえきって国境こっきょう問題もんだいたるようになった。かれはズールー王国おうこくこそ英国えいこく脅威きょういであると高等こうとう弁務べんむかん報告ほうこくしている[6]

フレアはズールーとの戦争せんそう連邦れんぽうのために必要ひつよう不可欠ふかけつであるとかんがえ、みなみアフリカ最高さいこう司令しれいかんだい2だいチェルムスフォード男爵だんしゃくフレデリック・セシジャー中将ちゅうじょうもこれに同意どういしていた。だが、1878ねんにカーナーボンにわって植民しょくみんしょうとなったサー・マイケル・ヒックス・ビーチじゅん男爵だんしゃくはズールーとの紛争ふんそう交渉こうしょうによって解決かいけつすべきとかんがえていた。これは当時とうじ英軍えいぐんだいアフガン戦争せんそうたたかっていた事情じじょうにもよる。植民しょくみんしょうにとってはインド隣接りんせつするアフガニスタンほうみなみアフリカよりも重要じゅうようだった。

最後さいご通牒つうちょう

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1878ねん2がつ、トランスヴァールとズールー王国おうこくとの国境こっきょう問題もんだいについて報告ほうこくする委員いいんかいがナタール総督そうとくヘンリー・ブルワー英語えいごばんによって任命にんめいされた。報告ほうこくしょは7がつ提出ていしゅつされ、それはズールーがわ主張しゅちょう沿ったものだった。この報告ほうこくを「一方いっぽうてきでボーアにたいして不正ふせいである」[7]かんがえたフレア高等こうとう弁務べんむかんはズールーにあたえられる土地とちにおいて、ボーアじん退去たいきょするならば補償ほしょうおこなうべきこと、またもしも残留ざんりゅうするならば保護ほごさせるべきことを要求ようきゅうした。セテワヨは英国えいこくがわ挑発ちょうはつてき態度たいどがつき、トランスヴァールおよびナタール国境こっきょうでのズールーによる違法いほう行為こういみとめた。

フレアを支持しじしていたチェルムスフォード中将ちゅうじょうは1878ねん2がつ最高さいこう司令しれいかんとなりコサぞくとの国境こっきょう紛争ふんそう勝利しょうりしていた。チェルムスフォードはクリミア戦争せんそうとインドでの戦歴せんれきがあったものの、ほとんどが参謀さんぼう将校しょうこうとしてであり、野戦やせん指揮しきかん経験けいけんとぼしかった。

フレアはナタールのすべての部隊ぶたい動員どういんした。本国ほんごく政府せいふ予想よそうされるズールーの攻撃こうげきからの防衛ぼうえい方針ほうしん承認しょうにんする。11月11にちにチェルムスフォードはブルワー総督そうとくから7,000にんのアフリカじん募集ぼしゅうする許可きょかけ、アフリカへいから補助ほじょ部隊ぶたい組織そしきされた。

1878ねん、フレアはにんのズールー戦士せんしにんのナタール女性じょせいちしてした些細ささい国境こっきょう侵犯しんぱん口実こうじつとして、ズールーにたい賠償ばいしょうとして500とううし要求ようきゅうした。セテワヨは50ポンド相当そうとうかねおくっただけだった。二人ふたり測量そくりょう技師ぎしがズールーにらえられる事件じけんき、フレアはより一層いっそう賠償ばいしょう要求ようきゅうするがセテワヨはふたた拒否きょひした。フレアは使者ししゃおくかれ要求ようきゅうつたえた。

トランスヴァールが英国えいこく統治とうちはいり、フレアはみなみアフリカを連邦れんぽうするためののこおも障害しょうがい独立どくりつしたズールー国家こっかであると確信かくしんしており、ゆえにこれを破壊はかいすると決意けついしていた。フレアはこれからの行動こうどう本国ほんごく政府せいふから支持しじされないことも予期よきして事件じけん詳細しょうさい報告ほうこくすることをおくらせておき、12月11にちにズールーがわ代理人だいりにんたい不可能ふかのう最後さいご通牒つうちょうはっして31にちまでに返答へんとうすることをもとめた。最後さいご通牒つうちょうには以下いかの13の条件じょうけんふくまれていた。

  1. 測量そくりょう技師ぎしとらえた犯人はんにんをナタール裁判所さいばんしょ裁判さいばんにかけるためにわたすこと。
  2. 上記じょうき犯行はんこうおよびセテワヨが裁判所さいばんしょ命令めいれいしたがわなかった賠償ばいしょうとしてうし500とう支払しはらうこと。
  3. 測量そくりょう技師ぎしへの違法いほう行為こうい賠償ばいしょうとしてうし100とう支払しはらうこと。
  4. スワジ族長ぞくちょうンビリナイをトランスヴァール裁判所さいばんしょ裁判さいばんにかけるためわたすこと。
  5. 即位そくい約束やくそく遵守じゅんしゅすること。
  6. ズールーぐん解散かいさんし、おとこたち帰宅きたくすること。
  7. 従来じゅうらいのズールー軍制ぐんせい廃止はいしし、英国えいこくとの相談そうだんうえべつ軍制ぐんせい採用さいようすること。
  8. 帰宅きたくしたおとこたち結婚けっこんできるようにすること。
  9. 1877ねん以前いぜんにズールーに居住きょじゅうしていたすべての宣教師せんきょうし改宗かいしゅうしゃかれらがのぞむならば帰還きかんし、もと住居じゅうきょまわせること。
  10. 宣教師せんきょうしたちは説教せっきょうゆるされ、おしえをのぞむズールーぞく自由じゆうけること。
  11. 上記じょうき条件じょうけん履行りこう監督かんとくする英国えいこく代理人だいりにん滞在たいざい許可きょかすること。
  12. 宣教師せんきょうしおよびヨーロッパじんかんするすべての紛争ふんそう弁務べんむかん同席どうせきのもとでおうおおやけ聴取ちょうしゅすること。
  13. 弁務べんむかん同意どういなしに、ズールーランドからの追放ついほうけいおこなわないこと。

フレアはズールーとの紛争ふんそうこすことをのぞんでいたとしんじられており、そしてその目的もくてきたっせられた。セテワヨは12月11にち要求ようきゅう拒否きょひしてこのとしわりまで返答へんとうしなかった。1879ねん1がつ11にち本国ほんごく政府せいふからの承認しょうにんあたえられ[よう出典しゅってん]開戦かいせん既定きていのこととなった。

だいいち侵攻しんこう (1879ねん1がつ~5がつ)

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だい2だいチェルムスフォード男爵だんしゃくフレデリック・セシジャー中将ちゅうじょう
ズールー戦士せんし

セテワヨは回答かいとうをせず、1879ねん1がつ11にちにチェルムスフォード中将ちゅうじょうひきいる英軍えいぐん本国ほんごく政府せいふ認可にんかけることなく[よう出典しゅってん]ズールー王国おうこく侵攻しんこうした。

英軍えいぐんはヨーロッパへい11,300、アフリカへい5,800をゆうし、5縦隊じゅうたいからっていた。

  • 英国えいこくぐん (チェルムスフォード中将ちゅうじょう)

このうちだい縦隊じゅうたいはナタール防衛ぼうえいてられ、だい縦隊じゅうたいはユトレヒト地区ちく駐留ちゅうりゅうだいいちだいさんだいよん縦隊じゅうたいがズールー王国おうこく侵攻しんこうした。

ピアソン大佐たいさだいいち縦隊じゅうたいはトゥゲラ川下かわしもりゅう渡河とかし、海岸かいがん沿いを進軍しんぐんしてエショーヴェ目指めざす。

エブリン・ウッド大佐たいさだいよん縦隊じゅうたいはユトレヒト地区ちく出発しゅっぱつし、ブラットがわ渡河とかして北西ほくせい進軍しんぐんしてカンブラかった。

もっと強力きょうりょくだいさん縦隊じゅうたい名目めいもくじょうグリン大佐たいさ指揮しきだが、実際じっさいにはチェルムスフォード自身じしんひきいていた。縦隊じゅうたいロルクズ・ドリフトから侵攻しんこうし、おうみやこウルンディ目指めざす。

ズールーぐんやく4まん兵力へいりょくで、1500から4000にん連隊れんたいからっていた。戦士せんし集団しゅうだんはその規模きぼかかわらずIMPIばれる。

ズールー王国おうこく建国けんこくしゃシャカおうは「もううしかく」とばれる戦術せんじゅつ考案こうあんした。IMPIみっつの集団しゅうだんかれる。

  • かく - てきかこさえる。これはわか経験けいけんすくない戦士せんし構成こうせいされる。
  • むね - 最大さいだい集団しゅうだんで、てき正面しょうめんからめる。
  • 獅子しし - 予備よび部隊ぶたいで、敗走はいそうしたてき追跡ついせきする。これはベテラン戦士せんし構成こうせいされる。

ズールー戦士せんし大型おおがたやり装備そうびしており、戦争せんそう初期しょきには銃器じゅうき装備そうびした戦士せんしわずかしかいなかった。これらのじゅうおも旧式きゅうしき雷管らいかんしきマスケットじゅうであり、しかもズールー国内こくないでは整備せいびができないために、これらの銃器じゅうき状態じょうたいわるかった。セテワヨは銃器じゅうき重要じゅうようせい認識にんしきしており1878ねん命中めいちゅう精度せいどげるための訓練くんれんめいじている。開戦かいせん以降いこう鹵獲ろかくした英国えいこく最新さいしんしきじゅうもちいている。

ズールーぐんへいすう士気しき指導しどうりょくそして機動きどうせいによって兵器へいき劣勢れっせいおぎなっていた。

イサンドルワナとロルクズ・ドリフト

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イサンドルワナのたたか英語えいごばん
ロルクズ・ドリフト防衛ぼうえいせん

3縦隊じゅうたい侵入しんにゅうさまたげられず、1がつ22にちだいさん縦隊じゅうたいはイサンドルワナちかくに野営やえいした。この早朝そうちょう、チェルムスフォードは偵察ていさつたい支援しえんするためかれ部隊ぶたい分割ぶんかつして出動しゅつどうした。チェルムスフォードが野営やえいったのちヘンリー・プレイン中佐ちゅうさ野営やえい指揮しきった。ダンフォード中佐ちゅうさだい縦隊じゅうたい一部いちぶ500にん到着とうちゃくし、野営やえい兵力へいりょくはヨーロッパへい800、アフリカへい900になった。だが、チェルムスフォードは野営やえい防御ぼうぎょ陣地じんち構築こうちくしないよう命令めいれいあたえ(地面じめんかたすぎるためだった[8])、そしてズールーぐん接近せっきん情報じょうほう無視むししてしまっており、すべては手遅ておくれとなった。

午前ごぜん1130ふん、ズールーぐん2まんがイサンドルワナの野営やえい突撃とつげきをかけた。「もううしかく」とばれるズールーぐんさん方向ほうこうからの猛攻もうこう英軍えいぐんささえきれずに蹂躙じゅうりんされ壊滅かいめつする。英軍えいぐんはヨーロッパへい806にん、アフリカへい471にん犠牲ぎせいとなり[9] 全滅ぜんめつ、ズールーぐんも3,000にん死傷ししょうしているが、イサンドルワナのたたか英語えいごばんはこの戦争せんそうちゅうにズールーが最大さいだい勝利しょうりとなった。

23にち未明みめい、イサンドルワナから15kmのロルクズ・ドリフトの伝道でんどうしょあときずかれたとりで英軍えいぐん守備しゅびたいいきおいづいたズールーぐん4,000がおそいかかった。ジョン・チャード中尉ちゅうい守備しゅびたいはアフリカへい逃亡とうぼうしてしまいイギリスへい139にんぎなかった。40たい1の戦力せんりょくにもかかわらず、英軍えいぐん奮戦ふんせんして2日間にちかんちこたえ、イサンドルワナから退却たいきゃくしてきたチェルムスフォードの部隊ぶたい接近せっきんしたためズールーぐんはようやく撤退てったいした(ロルクズ・ドリフトのたたか)。犠牲ぎせいしゃ英軍えいぐん戦死せんし13にん負傷ふしょう14にん、ズールーぐん戦死せんし351にん。チャード中尉ちゅうい以下いか守備しゅびたい将兵しょうへい11めいヴィクトリアじゅうあきら授与じゅよされた。

イサンドルワナの敗報はいほう白人はくじん植民しょくみんしゃあいだ急速きゅうそくひろまった。かれらは防備ぼうびかためるか、より安全あんぜんピーターマリッツバーグダーバンした。英国えいこくはナタール侵攻しんこうおそれたが、ズールーぐんはこれまでの戦闘せんとうで5,000にんうしなっており、戦果せんか拡張かくちょうさせる余力よりょくはなかった。

侵攻しんこう停滞ていたい

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チェルムスフォードのだいさん縦隊じゅうたい交戦こうせんしているあいだ海岸かいがん沿いをすすむチャールズ・ピアソン大佐たいさ指揮しきだいいち縦隊じゅうたいはトゥゲラがわニャーザンがわ襲撃しゅうげきこころかまえていたズールーぐん小競こぜいののち前進ぜんしんつづけ、エショーヴェの放棄ほうきされた伝道でんどうしょまで到着とうちゃくするとここに陣地じんち構築こうちくした。イサンドルワナでの惨敗ざんぱいったピアソンはトゥゲラかわまでの後退こうたい計画けいかくしたが、これを実行じっこうするか躊躇ためらっているあいだにズールーぐん英軍えいぐん補給ほきゅうち、エショーヴェを包囲ほういしてしまった(エショーヴェ包囲ほういせん英語えいごばん)。

一方いっぽう、ユトレヒトを出発しゅっぱつしたエブリン・ウッド大佐たいさだいよん縦隊じゅうたいはズールーラント北西ほくせいのズールーぞく制圧せいあつしてウルンディ占領せんりょう目指めざ中央ちゅうおう縦隊じゅうたい前進ぜんしん援護えんごすることが本来ほんらい任務にんむだった。この目的もくてきのためにウッドはズールーぐん4,000にん布陣ふじんしているフローベンやまから南方なんぽう10マイルのティンタンズむら野営やえい構築こうちくした。かれ1がつ24にち攻撃こうげき計画けいかくしていたが、イサンドルワナの敗報はいほういて後退こうたいした。この結果けっか英軍えいぐん侵攻しんこう開始かいしから1ヶ月かげつにはかれだいよん縦隊じゅうたいだけが有効ゆうこう軍事ぐんじりょくとしてのこるのみとなってしまい、このまま作戦さくせん続行ぞっこうするにはあまりにも戦力せんりょく不足ふそくしていた。

本国ほんごく反応はんのう

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イサンドルワナの敗戦はいせんはズールー戦争せんそうたいする大衆たいしゅう関心かんしんあつめることになり、えい本国ほんごくでは報復ほうふくもとめる世論せろんたかまっていた。

だが、政府せいふ戦争せんそうたいする態度たいど不明朗ふめいろうなものだった。フレア英語えいごばんチェルムスフォード功名こうみょうしんからはじめた戦争せんそうであり、政府せいふではなかった。そのためセント・アルドウィンはくヒックス・ビーチ植民しょくみんしょうはフレアにたいしズールーラントの併合へいごう禁止きんしし、あらためて交渉こうしょうによる解決かいけつめいじた。セテワヨはすで交渉こうしょうもうていたが、フレアとチェルムスフォードは本国ほんごくとの連絡れんらく時間じかんようすることをいことに無視むししていた。一方いっぽうぐんないではイサンドルワナで屈辱くつじょくてき敗戦はいせんきっしたチェルムスフォードを非難ひなんするこえたかまっていた。くわえてロルクズ・ドリフトの将兵しょうへい13めい最高さいこう褒章ほうしょうであるヴィクトリアじゅうあきら授与じゅよされたことにも過剰かじょうであると不満ふまん意見いけんがあった。(たとえばズールー戦争せんそうちゅうに23めいがヴィクトリアじゅうあきら授与じゅよされたが、だい世界せかい大戦たいせんえい本土ほんど航空こうくうせんノルマンディー上陸じょうりく作戦さくせんではかく1めいだけだった)

その一方いっぽうで、だいえい帝国ていこく威信いしんまも植民しょくみん体制たいせいたもつためにはズールーにたいして明確めいかく勝利しょうりることも必要ひつようであった。それゆえ本国ほんごく政府せいふはチェルムスフォードが以前いぜんもとめたよりもおおくの増援ぞうえん部隊ぶたい派遣はけん決定けっていした。

カンブラとギンギンドロブ

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セテワヨはナタール侵略しんりゃくまでは意図いとしておらず、ズールー王国おうこくないでのみたたかっていた。チェルムスフォードはつづく2ヶ月かげつあいだ部隊ぶたい再編さいへんあらたな侵攻しんこうぐん構築こうちくついやし、まずはエショーヴェで包囲ほういされているピアソンの救出きゅうしゅつはかっていた。本国ほんごく政府せいふは2砲兵ほうへい中隊ちゅうたいともなった7連隊れんたい増援ぞうえんだいいたりきゅうでナタールへおくんだ。3月7にち増援ぞうえんだいいちじんがダーバンに到着とうちゃく

この期間きかん3月12にちリューンズブルクかっていた補給ほきゅうたいイントムベがわえい: Intombi River)で襲撃しゅうげきけて全滅ぜんめつ補給ほきゅう物資ぶっしうばわれている(イントムベのたたか)。

チェルムスフォードはヨーロッパへい3,400、アフリカへい2,300から縦隊じゅうたいひきいてエショーヴェ救出きゅうしゅつかった。今回こんかい進軍しんぐんでは毎晩まいばん陣地じんち構築こうちくしつつすすんでいる。チェルムスフォードはウッドの部隊ぶたい(スタフォードシャー連隊れんたいとボーアじんからる675にん)にフロバネにあるズールーのとりで攻撃こうげきするようめいじた。3月28にちフロバネのたたか英語えいごばんでは、レドバース・ブラー中佐ちゅうさがフロバネを攻撃こうげきしたが、ズールーぐん本隊ほんたい2まん6せん来援らいえんえいへい撃退げきたいされ、ズールーぐん勝利しょうりした。アフリカじん部隊ぶたいうしなった(ころされたのではなく逃亡とうぼうした)に400にんのヨーロッパへいうち、100にん死傷ししょうしている。

翌日よくじつ、2まん5せんのズールー戦士せんしがカンブラのウッドの野営やえい(2,068にん)におそいかかった。英軍えいぐんカンブラのたたか英語えいごばんちこたえ、5あいだ激戦げきせんすえにズールーは撤退てったいした。英軍えいぐん損失そんしつは26にん、ズールーぐん損失そんしつはおよそ2,000にんだった。これは決定的けっていてきたたかいとなった。

ウッドがたたかっているあいだ、チェルムスフォードの縦隊じゅうたいはエショーヴェへ進軍しんぐんつづけた。4がつ2にち縦隊じゅうたいギンギンドロブのたたか英語えいごばんでズールーの攻撃こうげきけたが撃退げきたいした。ズールーの損害そんがいおおきくやく1,200にんうしなっている。一方いっぽう英軍えいぐん2人ふたり戦死せんしし52にん負傷ふしょうしただけだった。翌日よくじつ英軍えいぐんはピアソンの部隊ぶたい救出きゅうしゅつし、4がつ5にちにエショーヴェを退去たいきょした。その、ズールーはこのはらっている。

チェルムスフォードの更迭こうてつとウルズリーの任命にんめい

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ウルズリー中将ちゅうじょう

ぐんないでのチェルムスフォードへの非難ひなんつよく、5月22にちにチェルムスフォードにわりガーネット・ウルズリー英語えいごばん中将ちゅうじょう後任こうにんみなみアフリカぐん司令しれいかんになることが決定けっていされた。ウルズリーは過去かこ植民しょくみん戦争せんそうでの豊富ほうふ戦歴せんれきがあり、当時とうじオスマン帝国ていこくからあらたに獲得かくとくしたキプロス高等こうとう弁務べんむかんだった。それ以上いじょうにウルズリーは1875ねんにナタール総督そうとくつとめた経験けいけんがあった。ビーチ植民しょくみんしょう紛争ふんそうのできるかぎはや解決かいけつのぞみ、ウルズリーに武力ぶりょくらない交渉こうしょうによる解決かいけつふくめた全権ぜんけんあたえた。同時どうじにズールーラントの併合へいごうきんじている。最早もはや本国ほんごく政府せいふにとってはフレアの構想こうそうしていたみなみアフリカの連邦れんぽう過去かこのものとなっていた。ウルズリーは5月30にち出発しゅっぱつしたが、任地にんち到着とうちゃくまでは3週間しゅうかんようする。

だい侵攻しんこう(1879ねん6がつ~7がつ

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侵攻しんこう再開さいかい英軍えいぐんにとってかならずしも成功せいこう約束やくそくされていなかった。カンブラ、ギンギンドロブ、エショーヴェでの勝利しょうりにもかかわらず、かれらは1がつはじめに侵攻しんこう開始かいしした地点ちてんまで後退こうたいしていた。だが、チェルムスフォードはみずからの軍事ぐんじてき名声めいせいぐんれきまもるためにウルズリーが到着とうちゃくするよりもまえにセテワヨの軍隊ぐんたい決定的けっていてき撃滅げきめつする必要ひつようがあったのである。よりおおくの増援ぞうえん部隊ぶたい到着とうちゃくするとチェルムスフォードは部隊ぶたい再編さいへんし、6がつ侵攻しんこう開始かいしした。

  • 英国えいこくぐん(チェルムスフォード中将ちゅうじょう
    • だいいち師団しだん - (ヘンリー・フォード・クリロック少将しょうしょう
      • だいいち旅団りょだん - (ピアソン大佐たいさ
      • だい旅団りょだん - (クラーク大佐たいさ
    • だい師団しだん - (エドワード・ニューディーゲート少将しょうしょう
      • だいいち旅団りょだん - (コリンウッド大佐たいさ
      • だい旅団りょだん - (グリン大佐たいさ
      • 騎兵きへい旅団りょだん - (マーシャル少将しょうしょう
    • 別働隊べつどうたい - (ウッドじゅんしょう

クリロックのだいいち師団しだん海沿うみぞいを進軍しんぐん。ニューディーゲートのだい師団しだん別働隊べつどうたいはロルクズ・ドリフトをえて内陸ないりくすすみカンブラをてウルンディへかった。

英軍えいぐんはらわれるウルンディ

初期しょき戦闘せんとうでの英軍えいぐん戦死せんししゃ一人ひとりフランス帝位ていい請求せいきゅうしゃナポレオン・ウジェーヌ皇太子こうたいしだった。英軍えいぐん志願しがん従軍じゅうぐんしていたかれ6月1にち偵察ていさつ部隊ぶたいくわわって出動しゅつどうしたさい戦死せんししている。

セテワヨはあらたに増強ぞうきょうされた英軍えいぐん非常ひじょう強力きょうりょくてきであることを認識にんしきしており、和平わへい条約じょうやく交渉こうしょう打診だしんしてきた。だが、ウルズリー将軍しょうぐん到着とうちゃくせまっており、チェルムスフォードには交渉こうしょう意思いしまったくなかった。かれはズールーぐん主力しゅりょくやぶるべくおうみやこウルンディへ可能かのうかぎはや前進ぜんしんした。

7がつ4にち砲兵ほうへいたいガトリングほうようするだい師団しだんとウッドの別働隊べつどうたい将兵しょうへい5317にんがウルンディ前面ぜんめん到着とうちゃく英軍えいぐんと1まん2せんから2まんのズールーぐん衝突しょうとつし、最後さいご決戦けっせんウルンディのたたか英語えいごばんおこなわれた。英軍えいぐん歩兵ほへいを2れつ騎兵きへい原住民げんじゅうみん補助ほじょへい内側うちがわいた方陣ほうじんんでズールーの攻撃こうげきかまえた。方陣ほうじんはウルンディへけて前進ぜんしんし、午前ごぜん9にズールーぐん突撃とつげきをかけた。ズールー戦士せんしたちの波状はじょう攻撃こうげき小銃しょうじゅう射撃しゃげきによってなぎたおされる。ズールーぐん混乱こんらんしたところへ騎兵隊きへいたい方陣ほうじんから出撃しゅつげきしてらした。戦闘せんとうは2あいだわり、英軍えいぐん完勝かんしょうだった。英軍えいぐん戦死せんし12にん負傷ふしょう70にんだったのにたいして、ズールーぐん犠牲ぎせいしゃは1,500にんおよんだ。ズールーぐん潰走かいそうし、ウルンディははらわれた。

終戦しゅうせん

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ウルンディでの敗戦はいせんによりズールーぐん四散しさんし、セテワヨは逃亡とうぼうする。7がつ17にち現地げんち到着とうちゃくしたウルズリー将軍しょうぐんがチェルムスフォードから指揮しきけんぎ、チェルムスフォード、ブラーそしてウッドは本国ほんごく帰還きかんした。

おもだった部族ぶぞくちょうたち英軍えいぐん帰順きじゅんもうてきた。8がつ28にちにセテワヨはらえられ、ケープタウンおくられた。ズールーぞくたいしてかれ廃位はいい宣言せんげんされ、ウルズリーはこのくに政府せいふあらたな仕組しくみをつくげた。シャカの王族おうぞく退しりぞけられ、ズールー王国おうこくはセテワヨのライバルだったジヘブふくむ11にんのズールーぞく首長しゅちょう白人はくじん冒険ぼうけんしゃでセテワヨの顧問こもんだったジョン・ダンそれに戦争せんそう貢献こうけんしたバストぞく首長しゅちょうフルビの13地区ちく分割ぶんかつされ、英国えいこくによる間接かんせつ統治とうち体制たいせいとなった。

戦後せんご

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分割ぶんかつされたズールー王国おうこくではあらそいがえず、1883ねん英国えいこくわたっていたセテワヨの懇願こんがんれられて復位ふくい実現じつげんした。だが、ジヘブはこれをれずにセテワヨとのあいだ内戦ないせんとなる。ジヘブはウルンディにんではらい、セテワヨは逃亡とうぼうしイギリスの庇護ひごはいり、よく1884ねん死亡しぼうした。

同年どうねん、セテワヨの息子むすこディヌズールー・カセトシュワヨ英語えいごばんがボーアじんちからりて共和きょうわこくきずき、ジヘブに勝利しょうりした。ボーア戦争せんそうなか1885ねんに、ディヌズールーのくにはボーアじんトランスヴァール共和きょうわこく併合へいごうされてしまった。そしてのこりのズールーラントえい: KwaZulu - クワズール)も1887ねんナタール植民しょくみん1843ねん1910ねんナタール共和きょうわこく併合へいごうしたケープ植民しょくみんから分離ぶんりして出来でき植民しょくみんげんクワズール・ナタールしゅう)に合併がっぺいされた。ディヌズールーは英国えいこく逮捕たいほされ、セントヘレナとうながされた。こうして、ズールーぞく独立どくりつうしなわれた。

1906ねんにはバンバサ暴動ぼうどう英語えいごばん勃発ぼっぱつし、ズールーぞく蜂起ほうきしたが、鎮圧ちんあつされた。

1910ねん5月31にち、イギリスの自治領じちりょうみなみアフリカ連邦れんぽう成立せいりつ

映画えいが作品さくひん

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ Colenso, Frances E.; (assisted by Edward Durnford) (1880) History of the Zulu War and Its Origin, London: Chapman and Hall, pp. 263-264 ではだいえい帝国ていこく本国ほんごくおよび植民しょくみんへいが6,669、原住民げんじゅうみん部隊ぶたい9,035としている。
  2. ^ Morris,Donald R. (1994) The Washing of the Spears, reissued: Da Capo Press, 1998, p.498. Colenso, F. E. (1880) History of the Zulu War and Its Origin, London, p.396, では英軍えいぐんの4がつ時点じてん兵力へいりょくを22,545としている。
  3. ^ Colenso, F. E. (1880) History of the Zulu War and Its Origin, London, p.318, ではズールーぐん総数そうすうは35,000とし、そのうち4000にんがセテワヨと守備しゅびにつき、のこりが2縦隊じゅうたいになって進軍しんぐんしたとある。
  4. ^ Barthorp, M. The Zulu War, p. 15
  5. ^ Barthorp, M. The Zulu War, p. 13
  6. ^ みなみアフリカの歴史れきし」(レナード・トンプソンちょ宮本みやもとただしきょう吉岡よしおか恒雄つねおみね陽一よういちどもやく)p228-p229
  7. ^ Martineau, Life of Frere, ii. xix.
  8. ^ 「ズールー戦争せんそう山崎やまざき雅弘まさひろ歴史れきしぐんぞう」2001ねん2がつごう収録しゅうろく p174
  9. ^ 「ズールー戦争せんそう山崎やまざき雅弘まさひろ歴史れきしぐんぞう」2001ねん2がつごう収録しゅうろく p172

参考さんこう文献ぶんけん

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  • Brookes, Edgar H; Webb, Colin de B. (1965). A history of Natal. Brooklyn: University of Natal Press 
  • Laband, John; Knight, Ian (1996). The Anglo-Zulu War. Stroud: Sutton 
  • David, Saul (February 2009), “The Forgotten Battles of the Zulu War”, BBC History Magazine: pp. Vol 10. No. 2 pp 26 - 33 
  • Donald Featherstone: Victorian Colonial Warfare – AFRICA, Cassell, London 1992, ISBN 0-304-34174-6
  • Ian Knight: ZULU WAR, Osprey Publishing, Oxford 2004 ISBN 1-84176-858-8
  • The Illustrated London News, 1879
  • Ian Knight: National Army Museum Book Of The Zulu War, Pan MacMillan, September 2004, ISBN 0283073276
  • Ron Lock, Peter Quantrill: Zulu Vanquished: The Destruction Of The Zulu Kingdom, Greenhill Books, November 2005, ISBN 1853676608
  • Leigh Maxwell: The Ashanti ring: Sir Garnet Wolseley’s Campaigns 1870–1882. London: Leo Cooper, 1985
  • Saul David: Zulu – The Heroism and Tragedy of the Zulu War of 1879, Penguin, London 2005, ISBN 0-141-01569-1
  • Ian Knight: Zulu: Isandhlwana and Rorke’s Drift, 22–23 January 1879, ISBN 1872004881
  • Haythornthwaite, Philip J.: The Colonial Wars Source Book. ISBN 9781854094360

日本語にほんごばん参考さんこう文献ぶんけん

  • Philip J. Haythornthwaite :The Colonial Wars Source Book ,Caxton Editions,2002,ISBN 978-1840672312
  • みなみアフリカの歴史れきし」(レナード・トンプソンちょ宮本みやもとただしきょう吉岡よしおか恒雄つねおみね陽一よういちどもやく明石書店あかししょてん、1998ねんISBN 978-4750310381
  • 「アフリカの歴史れきし侵略しんりゃく抵抗ていこう軌跡きせき」(岡倉おかくら登志とし明石書店あかししょてん、2001ねんISBN 978-4750313726
  • 「アフリカ現代げんだい Ⅰ」(ほしあきらはやしあきら山川やまかわ出版しゅっぱん、1978ねん
  • 「ズールー戦争せんそう」(山崎やまざき雅弘まさひろ、「歴史れきしぐんぞう45ごう」2001ねん2がつごう収録しゅうろく学研がっけん
  • 「ズールー戦争せんそう」DVD 1978ねん:イサンドルワナのたたかいの映画えいが

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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