(Translated by https://www.hiragana.jp/)
アフガン戦争 - Wikipedia コンテンツにスキップ

アフガン戦争せんそう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
アフガニスタンの地図ちず

アフガン戦争せんそう(アフガンせんそう、英語えいご:Afghan Wars)は、きん現代げんだいアフガニスタン舞台ぶたいこったしょ戦争せんそうのうち、とく19世紀せいきから20世紀せいき初頭しょとうおこなわれたアフガニスタンとイギリスあいださんにわたる戦争せんそうのこと。

アングロ・アフガン戦争せんそうともいう。

概要がいよう

[編集へんしゅう]

だいいち1838ねん - 1842ねん)とだい1878ねん - 1881ねん)のアフガン戦争せんそうは19世紀せいきひろげられたグレート・ゲーム一環いっかんとして、中央ちゅうおうアジア進出しんしゅつしたロシア帝国ていこくインドへと野心やしんばしてくることを警戒けいかいしたイギリスが、先手せんてってアフガニスタンを勢力せいりょくけんおさめるためにった軍事ぐんじ行動こうどうであり、だいアフガン戦争せんそうによってイギリスはアフガニスタンを保護ほごこくとした。

アフガン戦争せんそうは、狭義きょうぎにはこの戦争せんそうした。

だいさんアフガン戦争せんそう1919ねん)はだいいち世界せかい大戦たいせん直後ちょくごおこなわれた戦争せんそうで、アフガニスタンがイギリスりょうインド帝国ていこくんで独立どくりつみとめさせた戦争せんそうである。

だいいちアフガン戦争せんそう

[編集へんしゅう]
だいいちアフガン戦争せんそう

ガンダマクで最後さいご攻撃こうげきける英軍えいぐんのこり。
ウィリアム・バーンズ・ウォーレン
とき1839ねん–1842ねん
場所ばしょアフガニスタン
結果けっか バーラクザイあさ決定的けっていてき勝利しょうり
英軍えいぐん全滅ぜんめつ
衝突しょうとつした勢力せいりょく
バーラクザイあさ

イギリスの旗 イギリス帝国ていこく

イギリスひがしインド会社かいしゃ
指揮しきかん
ドースト・ムハンマド・ハーン
アクバル・ハーン

ジョージ・イーデン (インド総督そうとく

ウィリアム・ヘイ・マクナーテン(ボンベイ総督そうとく) 
ジョン・キーン(インダスぐんそう司令しれいかん
ウィロビー・コットン(ボンベイぐんそう司令しれいかん
イギリス ウィリアム・エルフィンストン少将しょうしょう捕虜ほりょ
被害ひがいしゃすう

やく500

捕虜ほりょやく1,500
やく4,700 + 戦闘せんとういん12,000

現在げんざいのアフガニスタン国家こっか原型げんけいとなったドゥッラーニーあさきずいたパシュトゥーンじんサドーザイ部族ぶぞく王家おうけ1818ねん統一とういつうしなったのち1826ねんにドゥッラーニーけい部族ぶぞく、ムハンマドザイのドースト・ムハンマド・ハーンわって権力けんりょくにぎり、バーラクザイあさくに創始そうし

シク王国おうこくランジート・シングは、ドゥッラーニーあさきゅう王家おうけサドーザイ部族ぶぞくシュジャー・シャー支援しえんし、1834ねんにシュジャー・シャーが最後さいご反撃はんげきバーラクザイあさくわえ、敗北はいぼくはしたもののランジート・シングがペシャーワル獲得かくとくした。

1835ねんにドースト・ムハンマドがアミール・アル=ムウミニーンしょうしてバーラクザイあさアフガニスタン首長しゅちょうこくおこした。

1837ねんen:Battle of Jamrudではアフガニスタン首長しゅちょうこく勝利しょうりした結果けっかシク王国おうこく影響えいきょうりょくカイバルとうげまでとなった。イギリスは、ロシア帝国ていこく南下なんか政策せいさく対抗たいこうするためにアフガニスタン国内こくないへのぐん進駐しんちゅう要求ようきゅうした。ドースト・ムハンマドは、これにたいしてペシャーワル回復かいふくという対価たいか要求ようきゅうした。

これにたいし、イギリスのインド総督そうとくであるだい2だいオークランド男爵だんしゃくジョージ・イーデンはドースト・ムハンマドの権力けんりょく掌握しょうあくきらい、シュジャー・シャーと同盟どうめいしゃのランジート・シングを支援しえんして1838ねんにアフガニスタンにたい宣戦せんせん布告ふこくした(シムラ宣言せんげん - えい: Simlah Manifesto[1])。

1839ねん1がつイギリスひがしインド会社かいしゃぐんは、クエッタからアフガニスタン領内りょうないはいると、カンダハール(4がつ25にち)、ガズナカーブル(8がつ7にち)を次々つぎつぎ占領せんりょうした。国王こくおうドースト・ムハンマドは中央ちゅうおうアジアのブハラ亡命ぼうめいし、1840ねんには帰還きかんしてふたた抵抗ていこうするもののイギリスにやぶれて投降とうこうした。ひがしインド会社かいしゃぐん一旦いったんアフガニスタンを平定へいていし、シュジャー・シャー国王こくおう復位ふくいさせた。

だが、バーミヤーンでバーラクザイあさ勢力せいりょく抵抗ていこうつづけ、またアフガニスタンの各地かくち侵入しんにゅうぐんたいする反乱はんらん勃発ぼっぱつし、1842ねん1がつ、カーブルに駐留ちゅうりゅうしていたイギリスぐん撤退てったいした。カーブル撤退てったい冬季とうきとうげえとアフガンへい襲撃しゅうげきにより、兵士へいし人夫にんぷけい1まん6せんにん全滅ぜんめつ[2]en:1842 retreat from Kabul)、イギリスが擁立ようりつしたシュジャー・シャー国王こくおう殺害さつがいされた。

同年どうねんあき、イギリスは報復ほうふくのためにふたた派兵はへいし、カーブルと周辺しゅうへん村落そんらく破壊はかいと、また捕虜ほりょとなっていたイギリスじん解放かいほうおこなったが、この作戦さくせん最後さいご戦争せんそう継続けいぞく断念だんねんし、えいりょうインドにらえられていたドースト・ムハンマドの帰国きこく復位ふくいみとめられて、だいいちアフガン戦争せんそう終結しゅうけつした。

だいアフガン戦争せんそう

[編集へんしゅう]

復位ふくい1855ねんにイギリスとのあいだペシャーワル条約じょうやくむすんで領土りょうど相互そうご保全ほぜんやくし、きた西にし現在げんざいのアフガニスタンの領域りょういきへと支配しはいひろげたドースト・ムハンマドの死後しご兄弟きょうだいたちをたおして後継こうけいしゃとなった息子むすこシール・アリー・ハーンがイギリスとの関係かんけい軽視けいしし、またロシアが1868ねんブハラ・アミールこく1873ねんヒヴァ・ハンこく保護ほごこくとし、1876ねんにはコーカンド・ハンこく併合へいごうして中央ちゅうおうアジアへと直接ちょくせつ進出しんしゅつする情勢じょうせいはイギリスをおおいに刺激しげきした。

1878ねん7がつ、ロシアがアフガニスタンに使節しせつおくると、シール・アリーは拒絶きょぜつしようとするがカーブルへの到着とうちゃくゆるしてしまい、これにたいしてイギリスのインドふくおうであるだい2だいリットン伯爵はくしゃくロバート・ブルワー=リットンおくった使節しせつ国境こっきょう拒絶きょぜつされる事件じけんこった。ロシアのアフガニスタン進出しんしゅつおそれるイギリスのベンジャミン・ディズレーリ内閣ないかく強硬きょうこう姿勢しせいをとることにけっし、ふたたびアフガニスタンに宣戦せんせん布告ふこくした。

1878ねん11月、イギリスぐんえいしるしぐん)は、ペシャーワル方面ほうめん(ブラウン将軍しょうぐん指揮しきの1まん6せんにん火砲かほう48もん)、クラム方面ほうめん(ロバーツ将軍しょうぐん指揮しきの6せんにん火砲かほう18もん)、カンダハール方面ほうめん(スチュアート将軍しょうぐん指揮しきの1まん3せんにん火砲かほう32もん)の3かれてアフガニスタンへと侵攻しんこうした。戦闘せんとうは、イギリスぐん優勢ゆうせいのうちにすすみ、カーブルなどの要地ようち占領せんりょうした。

やがてシール・アリーは北部ほくぶマザーリシャリーフのがれて同地どうち死去しきょし、後継こうけいしゃヤアクーブ・ハーン英語えいごばんはイギリスにくっして1879ねん5月15にちガンダマク条約じょうやく英語えいごばんむすんで、ひがし南部なんぶ割譲かつじょうとイギリスに外交がいこうけん委譲いじょうして保護ほごこくとなることをみとめたが、依然いぜんとしてアフガニスタンがわ反抗はんこうつよくイギリスぐん苦戦くせんいられ、ヤアクーブ・ハーンも退位たいいしてインドへと亡命ぼうめいした。

1880ねん7がつ27にちにカンダハール郊外こうがいマイワンドのたたか英語えいごばんで、ヤアクーブの兄弟きょうだいアイユーブ・ハーン大敗たいはいきっするなど、イギリスぐんおおきな損害そんがいけながらも、9月1にちカンダハールのたたか英語えいごばんでアイユーブ・ハーンを撃破げきはすると、1881ねんまでアフガニスタンへの駐留ちゅうりゅうつづけた。結局けっきょくイギリスは、混乱こんらんなか亡命ぼうめいさき中央ちゅうおうアジアから帰還きかんしていた王族おうぞく一員いちいんアブドゥッラフマーン・ハーン台頭たいとうしてくるとかれ交渉こうしょう相手あいてとして妥協だきょうすることにし、外交がいこうけんをイギリスにゆだねて保護ほごこくとなることをみとめさせ、イギリスの面目めんぼく当初とうしょ戦闘せんとう目的もくてきたす見返みかえりにかれ庇護ひごあたえ、自立じりつ支配しはいゆる条件じょうけん撤退てったいすることとなった。国境こっきょう結局けっきょくガンダマク条約じょうやくのものが踏襲とうしゅうされ、東南とうなん国境こっきょう現在げんざいのアフガニスタン・パキスタン国境こっきょうせん確定かくていすることになるが、これによってパシュトゥーンじん(アフガンじん)の居住きょじゅうがふたつの国家こっか分断ぶんだんされた。

だいさんアフガン戦争せんそう

[編集へんしゅう]

イギリスのうしたてたアブドゥッラフマーンは従兄弟いとこにあたるアイユーブ・ハーンをって統一とういつ回復かいふくすると、アフガニスタンの近代きんだいし、そのハビーブッラー・ハーンもその政策せいさく継承けいしょうした。

1919ねん、ハビーブッラーが暗殺あんさつされ、アマーヌッラー・ハーン即位そくい宣言せんげんした。アマーヌッラーはだいいち世界せかい大戦たいせんによってイギリスが疲弊ひへいした好機こうきととらえ、イギリスにたいするジハードとなえて5月3にちカイバルとうげ国境こっきょうぐんすすめ、領内りょうないのパシュトゥーンじん呼応こおうして反乱はんらんこすことをおそれたイギリスのインド帝国ていこく当局とうきょくもやむなくこの挑発ちょうはつってイギリスぐん動員どういんだいさんアフガン戦争せんそうはじまった。

5月11にちだい1インド歩兵ほへい師団しだんは、だい1騎兵きへい旅団りょだん支援しえんした、ハイバルとうげのアフガンぐん攻撃こうげきし、これを敗走はいそうさせた。同日どうじつ、イギリスの航空こうくうたいがジェラーラバードを爆撃ばくげきし、この方面ほうめんのアフガンぐん完全かんぜん士気しき喪失そうしつした。しかし、5月23にち、ホスト地区ちくムハンマド・ナーディル・シャー将軍しょうぐん指揮しき部隊ぶたいがインド領内りょうない侵入しんにゅうしてタリえき占領せんりょうし、イギリスぐん2大隊だいたい包囲ほういした。6月1にち、ダウエル将軍しょうぐん歩兵ほへい旅団りょだん反撃はんげきてんじ、アフガンぐん撤退てったいさせた。

この戦争せんそうではアフガンぐんがイギリスりょうかたちはじまったがおもうように戦果せんかがらず、またイギリスが空爆くうばくおこなったことやインド帝国ていこくがわのパシュトゥーンじん支援しえん満足まんぞくられなかったことから開戦かいせん早々そうそう戦線せんせん膠着こうちゃくした。5月まつにアフガニスタンがわ停戦ていせんもうれ、戦争せんそう長期ちょうききらうイギリスもこれにおうじて6月3にち休戦きゅうせんした。

だいさんアフガン戦争せんそう結果けっか、アフガニスタンは8がつ8にちむすばれたラーワルピンディー条約じょうやく外交がいこうけん回復かいふくし、完全かんぜん独立どくりつ達成たっせいした。

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ 1838ねん10月1にちen:Chapslee Estateおこなわれた。
  2. ^ 医師いしであるウィリアム・ブライドン1にんだけが救助きゅうじょされた

アフガン戦争せんそうかんする作品さくひん

[編集へんしゅう]

小説しょうせつ

[編集へんしゅう]

ボードゲーム

[編集へんしゅう]
  • Joseph Miranda【Asia Crossroads】,Strategy & Tactics No.216,Decision Games※19世紀せいきのロシア、ペルシャ、中国ちゅうごく、アフガニスタン周辺しゅうへんでのイギリスとロシアの覇権はけんあらそい。
  • Joseph Miranda【Operation Anaconda】,Strategy & Tactics No.276,Decision Games※2002ねんアフガニスタン戦争せんそうにおけるタリバン・アルカイダ拠点きょてんへの攻撃こうげき

関連かんれん項目こうもく

[編集へんしゅう]