さんこく同盟どうめい (1788ねん)

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ウィリアム・ピット(しょうピット)

1788ねんさんこく同盟どうめい英語えいご: Triple Alliance)は、イギリスプロイセンネーデルラント連邦れんぽう共和きょうわこくあいだむすばれた同盟どうめいである。本来ほんらい目的もくてきは、オスマン帝国ていこくとの戦争せんそう優位ゆういったロシア帝国ていこく強大きょうだい対抗たいこうすることであった。またイギリスは大陸たいりく勢力せいりょく均衡きんこうのぞみ、プロイセンは同盟どうめい背景はいけいとした領土りょうど拡大かくだい目論もくろんでいた。両国りょうこくたいロシア宣戦せんせん寸前すんぜんまですすんだが、ロシアの外交がいこう努力どりょく結果けっか、イギリス国内こくないしょうピット政権せいけんたいする反抗はんこうき、結局けっきょくこの同盟どうめいはロシアにたいする軍事ぐんじ行動こうどうはじめるまえ瓦解がかいした。

成立せいりつ[編集へんしゅう]

1788ねん4がつ、プロイセンはたいロシアせんそなえてネーデルラントからの融資ゆうし[1]見返みかえりとして不安定ふあんていなネーデルラント政府せいふ軍事ぐんじてきうしたてとなった[2]。8月13にち今度こんどはイギリスとプロイセンのあいだえい同盟どうめい調印ちょういんされ[1]さんこく同盟どうめい成立せいりつした[1]

イギリスとしては、ヨーロッパの勢力せいりょく均衡きんこうたもつために、この同盟どうめいによってフランスとロシアをさえ、不安定ふあんていしがちなバルト海ばるとかいバルカン半島ばるかんはんとう、ネーデルラントを安定あんていさせるねらいがあった[3]一方いっぽうでプロイセンは、ロシアとの戦争せんそうポーランド・リトアニア共和きょうわこくとの外交がいこうつうじて、バルト海ばるとかい方面ほうめんへの勢力せいりょく伸長しんちょうねらっていた[3]バルカン半島ばるかんはんとうにおいては、さんこく同盟どうめいはロシア・オーストリアのうごきを牽制けんせいし、最終さいしゅうてきには1791ねんごろにおう同盟どうめいとの開戦かいせんるという算段さんだんてていた[4]

展開てんかい瓦解がかい[編集へんしゅう]

イギリスはあまり戦争せんそうのぞんでおらず、こと荒立あらだてずにロシアぐんがオスマン帝国ていこくから撤退てったいして戦争せんそうまえ原状げんじょう回復かいふくおこなうことをもとめていたが、次第しだいにこれが困難こんなんであることに気付きづいた[5][6]。 1790ねん8がつ以降いこう、イギリスとプロイセンのちゅうロシア外交がいこうかんたちはロシア政府せいふ圧力あつりょくをかけてオスマン帝国ていこくから撤退てったいさせようとしたが、うまくいかなかった[7]

イギリスのウィリアム・ピットしょうピット)政権せいけんがロシアにたいして強硬きょうこう姿勢しせいってきたこと、またさんこく同盟どうめいたたかえば自国じこくけるであろうことを理解りかいしていた[8][9]ロシア女帝にょていエカチェリーナ2せいは、ちゅうロンドン大使たいしセミョーン・ヴォロンツォフに、しょうピットのライバルであるチャールズ・ジェームズ・フォックス支援しえんするようめいじた[10]。ヴォロンツォフらは積極せっきょくてき買収ばいしゅうさくによって、イギリス議会ぎかいうちおおくの支持しじしゃつくることに成功せいこうした[11]

ネーデルラントは、さらにたいロシアせん消極しょうきょくてきだった。ロシアはネーデルラントの金融きんゆうたちにとって大口おおぐち債務さいむしゃであり、たいロシアせん債権さいけん回収かいしゅうあやうくするものでしかなかった[12]。イギリスのちゅうネーデルラント大使たいし初代しょだいオークランド男爵だんしゃくウィリアム・イーデンは、ロシアの外交がいこうかんたちとしたしかったこともあり、ロシアに敵対てきたいするようなあらゆる行動こうどう反対はんたいした[13]

さらにイギリスは、たいロシア戦略せんりゃくようとなりうるポーランド・リトアニア共和きょうわこくとの関係かんけい構築こうちくにも失敗しっぱいした。ポーランドはよんねんセイムでの改革かいかく遂行すいこうのためにロシアの支援しえんたのみとしており、さんこく同盟どうめい接近せっきんすることをのぞんでいなかった[14]。そして1790ねんだいいちロシア・スウェーデン戦争せんそう終結しゅうけつし、スウェーデンおうグスタフ3せいさい開戦かいせん否定ひていしたことで、さんこく同盟どうめいはまたもやたいロシアせん潜在せんざいてき協力きょうりょくしゃうしなうことになった[15]

1791ねん2がつごろ、プロイセンはオーストリアと合意ごういむすんだ。オーストリアはさんこく同盟どうめいがわへの加担かたんこそこばんだものの、さんこく同盟どうめいとロシアのあいだ戦争せんそうきたさいには中立ちゅうりつまもることを約束やくそくした[16]。これをけて、イギリスのピットは、バルト海ばるとかい艦隊かんたい派遣はけんすることと、ロシアへの最後さいご通牒つうちょう政策せいさくかることをプロイセンおうフリードリヒ・ヴィルヘルム2せい約束やくそくした。これは、ロシアがオスマン帝国ていこくからかなければイギリスとプロイセンが軍事ぐんじ介入かいにゅうする、というものであった。ピットのあんは3がつ下旬げじゅんおう認可にんかけ、ただちに議会ぎかいでの審議しんぎにかけられた[17]一方いっぽうフリードリヒ・ヴィルヘルム2せいも、3がつ初旬しょじゅんにオスマン帝国ていこく代表だいひょう書簡しょかんおくり、まもなくプロイセンが戦争せんそう介入かいにゅうすること、バルト海ばるとかいイギリス海軍かいぐん展開てんかいするであろうことをつたえ、戦争せんそう継続けいぞくバルカン半島ばるかんはんとう攻勢こうせいるようもとめた[18]。プロイセンは本気ほんき開戦かいせんそなえ、9まんにんもの軍勢ぐんぜい国境こっきょう配置はいちし、さん軍団ぐんだんリガ進撃しんげきさせる計画けいかくてていた[19]。ロシアがわも、バルト海ばるとかい防備ぼうびかためて戦争せんそうそなえていた[20]

一方いっぽう開戦かいせん可否かひ議論ぎろんされていたロンドンでは、ロシアの外交がいこうかんたちがなにとかしてえい開戦かいせん否定ひていてき派閥はばつ組織そしきさせて審議しんぎ妨害ぼうがいしようと奔走ほんそうしていた[21][22]かれらは莫大ばくだい資金しきんとうじて外交がいこう運動うんどうプロパガンダ展開てんかいした[22]じつに20ものイギリスの新聞しんぶんがロシアになびき、ロシアぐん脅威きょういうったえるしょうピットを非難ひなんするリーフレットを大量たいりょう作成さくせいした[23]ロンドン証券しょうけん取引とりひきしょ影響えいきょうりょく商人しょうにんや、ジョン・パラダイス(ドクター・ジョンソン)のような作家さっか学者がくしゃもロシアを支持しじした。そして議会ぎかいないでは、トーマス・ディムズデールチャールズ・ジェームズ・フォックスエドマンド・バークといった数々かずかず議員ぎいん抵抗ていこうしめした[24][25]

イギリスでの論争ろんそうさきんじて、ネーデルラントではすでにロシアとの交渉こうしょうはじまっていた。ちゅうあららぎイギリス大使たいしイーデンは、プロイセンおうフリードリヒ・ヴィルヘルム2せい戦争せんそう必要ひつようせい懐疑かいぎてきでありオーストリアの軍事ぐんじてき動向どうこうにかけているというむね文書ぶんしょんだと本国ほんごく報告ほうこくした。ポーランドの歴史れきしイェジ・ウォイェクは、この情報じょうほうはイーデン自身じしんまたはロシアの外交がいこうかんが、またはその双方そうほうながしたデマであったとしている[26]。イギリス議会ぎかいでの審議しんぎは3がつ29にちはじまった[27]チャールズ・フォックス少数しょうすう批判ひはんはあったものの、庶民しょみんいんたいロシア戦争せんそう承認しょうにんした[28]。しかしわずか2,3にちのうちに、ピット政権せいけん大幅おおはば方針ほうしん転換てんかん余儀よぎなくされた[29]政権せいけんないきた内紛ないふん状況じょうきょうはよくかっていないが、ウォイェクはこれがフォックス、イーデン、そしてロシアの外交がいこうかんたちの暗躍あんやくによるところがおおきいとしている[29]。ピットはさい組閣そかくすることで挽回ばんかいはかったが、根本こんぽんてき解決かいけつとはならず、えい政府せいふ混迷こんめいすえ予想よそうだにしなかった変革へんかくむかえることになった[29]。4がつ中旬ちゅうじゅんから下旬げじゅんにかけて、たい強硬きょうこうだい5だいリーズ公爵こうしゃくフランシス・オズボーンわり、初代しょだいグレンヴィル男爵だんしゃくウィリアム・グレンヴィル外務がいむ大臣だいじん就任しゅうにんしたのである。これ以降いこう、イギリス外交がいこう逆転ぎゃくてんしてしんはんふつ路線ろせんをとっていくことになる[30]

たいロシア最後さいご通牒つうちょうたずさえた使者ししゃすでにロンドンをっており、4がつ3にちよるにベルリンに到着とうちゃくした。しかしかれがロシアにかおうとしていた8にちあらたな使者ししゃがロンドンから到着とうちゃくし、まえ使者ししゃにロシアへの通達つうたつ延期えんきさせた[31]。6がつ初頭しょとう、プロイセンは、イギリスの政治せいじ転換てんかんし、もはやたいロシア戦争せんそうのぞんでいないことにづいた[32]。これをって、さんこく同盟どうめい意義いぎ消滅しょうめつした[32]

その[編集へんしゅう]

1791ねん7がつ26にち、イギリス・ネーデルラント・プロイセン・ロシアの4かこくあいだ条約じょうやくむすばれた。ここにさんこく同盟どうめい消滅しょうめつ確定かくていし、さんこくはロシアのオスマン帝国ていこくたいする領土りょうど主張しゅちょう事実じじつじょうすべてれることになった[33]。まもなくこの4かこくは、革命かくめい勃発ぼっぱつしたフランスとの戦争せんそうおな陣営じんえいってたたかうことになった。

ウォイェクは、この実際じっさいにはこらなかった戦争せんそうさんこく同盟どうめい解体かいたいかんする研究けんきゅうが、どう時期じき世界せかいえたフランス革命かくめいかくれてまばらにしかおこなわれていないと指摘してきしている[23]かれによれば、さんこく同盟どうめい解体かいたいはロシアにとってみればるいまれなだい成功せいこうであり、当然とうぜんイギリスにとってはだい失敗しっぱいであった。その牽引けんいんしゃピットにしても、かれ外交がいこう政策せいさくおおきく転換てんかんせざるをない失敗しっぱいおかしたことになる[34]さんこく同盟どうめい解体かいたいという出来事できごとおおきな影響えいきょうけたのがポーランド・リトアニア共和きょうわこくである。ロシアの強大きょうだいとその対抗たいこう陣営じんえい弱体じゃくたいは、当時とうじロシアに対抗たいこうするべく改革かいかくすすめていたポーランドにとどめをし、その滅亡めつぼう原因げんいんひとつとすらなった[34]。ウォイェクによれば、ポーランドじんなかにはアントニ・アウグストィン・デボリのようにイギリスとの同盟どうめい主張しゅちょうしたものもいたが、ポーランドおうスタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキはロシアに敵視てきしされることをおそれてこのあん却下きゃっかした。この対応たいおうも、ロシアの内政ないせい干渉かんしょう激化げきかとポーランドの消滅しょうめつ遠因えんいんとなった[35]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c Łojek 1986, p. 23
  2. ^ Bauer 1991, p. 48
  3. ^ a b Barnes 1939, pp. 224–225
  4. ^ Łojek 1986, pp. 22–23
  5. ^ Łojek 1986, p. 70
  6. ^ Łojek 1986, p. 73
  7. ^ Łojek 1986, p. 92
  8. ^ Łojek 1986, p. 93
  9. ^ Łojek 1986, pp. 102–103
  10. ^ Łojek 1986, p. 74
  11. ^ Łojek 1986, p. 75
  12. ^ Łojek 1986, p. 76
  13. ^ Łojek 1986, pp. 75–76
  14. ^ Łojek 1986, pp. 90–91
  15. ^ Łojek 1986, p. 94
  16. ^ Łojek 1986, p. 125
  17. ^ Łojek 1986, pp. 96–97
  18. ^ Łojek 1986, pp. 125–126
  19. ^ Łojek 1986, p. 126
  20. ^ Łojek 1986, pp. 100–101
  21. ^ Łojek 1986, p. 97
  22. ^ a b Łojek 1986, pp. 108–109
  23. ^ a b Łojek 1986, p. 109
  24. ^ Łojek 1986, p. 110
  25. ^ Łojek 1986, pp. 111–112
  26. ^ Łojek 1986, pp. 113–114
  27. ^ Łojek 1986, p. 114
  28. ^ Łojek 1986, p. 118
  29. ^ a b c Łojek 1986, pp. 118–119
  30. ^ Łojek 1986, p. 121
  31. ^ Łojek 1986, pp. 128–129
  32. ^ a b Łojek 1986, p. 130
  33. ^ Łojek 1986, p. 143
  34. ^ a b Łojek 1986, pp. 144–145
  35. ^ Łojek 1986, pp. 147–148

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • Bauer, Krzysztof (1991). Uchwalenie i obrona Konstytucji 3 Maja. Wydawnictwa Szkolne i Pedagogiczne. ISBN 978-83-02-04615-5. https://books.google.com/books?id=WLNGAAAAIAAJ 2012ねん1がつ2にち閲覧えつらん 
  • Łojek, Jerzy (1986) (Polish). Geneza i obalenie Konstytucji 3 maja. Wydawn. Lubelskie. p. 23. ISBN 978-83-222-0313-2. https://books.google.com/books?id=kbpFAAAAIAAJ 2011ねん12月17にち閲覧えつらん 
  • Barnes, Donald Grove (1939). George III and William Pitt, 1783-1806:A new interpretation based upon a study of their unpublished correspondence. Stanford University Press. pp. 224–225. ISBN 978-08-047-0192-1. https://books.google.com/books?id=U5maAAAAIAAJ&pg=PA224 2011ねん12月26にち閲覧えつらん 

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]