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セミョーン・ヴォロンツォフ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
トーマス・ローレンスによる肖像しょうぞう、1806ねんさく

セミョーン・ロマーノヴィチ・ヴォロンツォフ伯爵はくしゃくロシア: Семён Романович Воронцо́в1744ねん6月26にち - 1832ねん7がつ9にち)は、ロシア帝国ていこく外交がいこうかんヴォロンツォフロシアばん英語えいごばん1人ひとりで、あににロシア帝国ていこく宰相さいしょうアレクサンドル・ロマーノヴィチ・ヴォロンツォフがいる。

1785ねんから1832ねん死去しきょするまでの47年間ねんかんイギリスにみ、1785ねんから1800ねんまでグレートブリテン王国おうこく駐在ちゅうざいロシア大使たいしを、1801ねんから1806ねんまでグレートブリテンおよびアイルランド連合れんごう王国おうこく駐在ちゅうざいロシア大使たいしつとめた。

生涯しょうがい

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ロマン・イラリオーノヴィチ・ヴォロンツォフロシアばん伯爵はくしゃく息子むすことしてまれた[1]。1768ねんから1774ねんまでの戦争せんそうでは1770ねんラルガのたたか英語えいごばんカグルのたたか英語えいごばん参加さんかして頭角とうかくあらわした[1]

1783ねんウィーン駐在ちゅうざいロシア公使こうし任命にんめいされ、1785ねんロンドン転任てんにんした[1]。ヴォロンツォフはすぐにイギリスの制度せいど慣例かんれい精通せいつうしておおきな影響えいきょうりょくて、1787ねんから1792ねんまでの戦争せんそうでイギリスからオスマン帝国ていこく派遣はけんされた艦隊かんたい武装ぶそう解除かいじょ貢献こうけんした[1]。1793ねんにはえいあいだ通商つうしょう条約じょうやく更新こうしんしたが、そのの3年間ねんかん亡命ぼうめいブルボン熱烈ねつれつ支持しじだい武装ぶそう中立ちゅうりつ同盟どうめいをロシアにとってそんだとして批判ひはんポーランド分割ぶんかつ公平こうへいさにけるとして批判ひはんしてエカチェリーナ2せいをイラつかせた[1]

1796ねんパーヴェル1せいがロシア皇帝こうてい即位そくいすると、ヴォロンツォフは大使たいし昇格しょうかくフィンランドおおきな領地りょうちあたえられた[1]以降いこうはヴォロンツォフがミハイル・コンドラーティエヴィチ・マカロフロシアばん艦隊かんたいをイギリスのみなとめたことも、アレクサンドル・ベズボロドコ死後しご帝国ていこく宰相さいしょう任命にんめい拒否きょひしたこともパーヴェル1せい信頼しんらいるがすことができなかったが、やがてパーヴェル1せい自身じしんしんふつてき傾向けいこうしめすようになり、かれはヴォロンツォフを不適任ふてきにんかんがえて、1800ねん2がつにヴォロンツォフの領地りょうち没収ぼっしゅうした[1]。1801ねんアレクサンドル1せい即位そくいすると領地りょうち回復かいふくしたが、健康けんこう家族かぞく問題もんだいで1806ねん辞任じにん余儀よぎなくされた[1]以降いこう1832ねん死去しきょするまでイギリスにんだ[1]チャールズ・グレヴィル英語えいごばんは1829ねん12月3にち日記にっきで「ろうヴォロンツォフは長年ながねん大使たいしつとめ、以降いこうもここ(イギリス)にんだが、英語えいご一言ひとことまなばなかった」と記述きじゅつした[2]

ヴォロンツォフは『ロシア戦争せんそうについての覚書おぼえがき』『ロシア内務ないむ政府せいふについての覚書おぼえがき』やおおくの手紙てがみ、そして自伝じでんあらわした[1]

死後しごロンドンメリルボーンにあるペンブルック墓地ぼち埋葬まいそうされた。ヴォロンツォフがんだとおりの名前なまえ現代げんだいではかれせいをとってWoronzow Roadばれている。

家族かぞく

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ヴォロンツォフはエカチェリーナ・アレクセーエヴナ・セニャーヴィナ英語えいごばん(1761ねん - 1784ねん)と結婚けっこん、1なん1じょをもうけた。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c d e f g h i j Bain, Robert Nisbet (1911). "Vorontsov s.v. Semen Romanovich Vorontsov" . In Chisholm, Hugh (ed.). Encyclopædia Britannica (英語えいご). Vol. 28 (11th ed.). Cambridge University Press. pp. 212–213.
  2. ^ Charles C. F. Greville, A Journal of the Reigns of King George IV and King William IV, volume I (London, Longmans Green & Co, 1874), p. 250.
  3. ^ Cokayne, George Edward; Doubleday, Herbert Arthur; Howard de Walden, Thomas, eds. (1945). The Complete Peerage, or a history of the House of Lords and all its members from the earliest times (Oakham to Richmond) (英語えいご). Vol. 10 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press. p. 428.