英国えいこくほう

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イギリス(グレートブリテンおよびきたアイルランド連合れんごう王国おうこく海外かいがい領土りょうどおよび王室おうしつ属領ぞくりょうふくまない)のほう制度せいどは、イングランドほうスコットランドほうおよびきたアイルランドほう英語えいごばんの3つの法体ほうたいけいから構成こうせいされている。

英国えいこくほう(えいこくほう)」ないし「イギリスほう(イギリスほう)」というかたりイングランドほうすこともおおいが、ほんこうではイギリス全体ぜんたい法体ほうたいけいについて解説かいせつする。

概要がいよう[編集へんしゅう]

連合れんごう王国おうこくは、おおまかにえば、グレートブリテンとうみなみ半分はんぶんえるエリアをめる「イングランド」、そのきた位置いちするスコットランド、イングランドの西にし位置いちする「ウェールズ」、そして、グレートブリテンとう西にし位置いちするアイルランドとう北東ほくとうめるきたアイルランドから構成こうせいされる。

ウェールズは、1282ねんにイングランド王国おうこく吸収きゅうしゅうされたのちもウェールズ辺境へんきょうりょうとして独自どくじ法域ほういきでありつづけたが、1536ねんにはウェールズ辺境へんきょうりょう廃止はいしとともに独自どくじ法域ほういきとしての地位ちい喪失そうしつし、イングランドおよびウェールズとして単一たんいつ法域ほういき形成けいせいするにいたった。イングランドおよびウェールズにおけるほうは、英語えいごではEnglish lawthe laws of England and Walesばれる。したがって、日本語にほんごでも「イングランドほう」や「イングランドおよびウェールズほう」などとぶべきであろうが、便宜べんぎてきに「英国えいこくほう」や「イギリスほう」とばれることがおおい。

イングランドほうは、ゲルマンほういち支流しりゅうであるアングロ・サクソンほう背景はいけいとして成立せいりつした法体ほうたいけいである。イングランドは、ドイツアンゲルン半島はんとうからアングルじんくにという意味いみでゲルマンけいであるのにたいし、ウェールズ、スコットランド、アイルランドは、ケルトけい先住民せんじゅうみんくにである。のちノルマンじんによって征服せいふくされた歴史れきしをもつ英国えいこくは、成立せいりつはじめからして民族みんぞく国家こっかであり、言語げんご宗教しゅうきょうことなる。このことが「イングランドほう」の歴史れきしふか影響えいきょうおよぼしている。

イングランドほうは、だいえい帝国ていこく時代じだい植民しょくみん継受けいじゅされ、大陸たいりくほう(シビル・ロー)と対置たいちされるえいべいほう(コモン・ロー)をとる世界中せかいじゅう国々くにぐに法制ほうせい基礎きそとなり、たとえば、(ルイジアナしゅうのぞく)アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくかく州法しゅうほうにも多大ただい影響えいきょうあたえている。

なお、スコットランドやきたアイルランド、海外かいがい領土りょうど王室おうしつ属領ぞくりょうは、イングランドおよびウェールズとべつ法域ほういきであり、したがって、イングランドほう適用てきようされない。もっとも、きゅう植民しょくみんかく法域ほういき同様どうように、ある時期じきのイングランドほう承継しょうけいしていたり、あるいは、イングランドほう影響えいきょうつよけている。

歴史れきし[編集へんしゅう]

イングランドほう歴史れきし[編集へんしゅう]

英国えいこくは、日本国にっぽんこく憲法けんぽうアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく憲法けんぽうのような憲法けんぽうてんゆうさない。のみならず、そもそも英国えいこくほうじょうは、国家こっか権力けんりょく一般いっぱんてき包括ほうかつてき把握はあくする機能きのうゆうする「国家こっか」という概念がいねん存在そんざいせず、そのわりにおう(King)・女王じょおう(Queen)ないし国王こくおう(the Crown)という概念がいねん便利べんりなシンボルとして機能きのうしてきた。英国えいこくは、形式けいしきてきすべての権力けんりょく国王こくおうぞくするとされつつも、それぞれの機構きこう実質じっしつてき権限けんげん行使こうしする、という立憲りっけん君主くんしゅせいをとっている。このような政治せいじ体制たいせいになったのは、英国えいこくとくにイングランド)の歴史れきしそのものが国王こくおうとの権力けんりょく闘争とうそう国王こくおうから徐々じょじょ権力けんりょくうばって国王こくおう大権たいけん制限せいげんしてきた歴史れきしならないからである。

その意味いみでイングランドほう歴史れきしは、1066ねんウィリアム征服せいふくおうによる封建ほうけんせい確立かくりつはじまるとっていい。

ウィリアム1せいは、国王こくおう補佐ほさする「バロン」とばれるちょくしん貴族きぞくからなる「おうかい」(Curia Regis)を設置せっちし、強固きょうこ封建ほうけんてき支配しはい体制たいせい確立かくりつしつつも、古来こらいからのゲルマンてき慣習かんしゅう尊重そんちょうするという妥協だきょうてき政策せいさくをとった。そのため、慣習かんしゅうから「発見はっけん」(discover)されるものであるコモン・ローは、ひとによって変更へんこうすることができないものとされた。このように、イングランドほうにおける「ほう」(Law)とは、成文せいぶんされた「法律ほうりつ」(a law, laws)のことでなく、判例はんれいだいいちてきほうげんとされる不文法ふぶんほう慣習かんしゅうほうのことであり、それゆえに中世ちゅうせい慣習かんしゅうとの歴史れきしてき継続けいぞくせい強調きょうちょうされるのである。

1154ねんヘンリー2せいかみばん禁止きんしして陪審ばいしんせい復活ふっかつさせ、かく地方ちほう国王こくおう直属ちょくぞく多数たすう裁判官さいばんかん派遣はけんする巡回じゅんかい裁判さいばん(assize)制度せいど創設そうせつしたことがコモン・ローの発達はったつうながし、これがイングランドほう固有こゆうの、そして、のちえいべい法体ほうたいけい国々くにぐにがれることになる、特徴とくちょう形成けいせいしていった。その意味いみでイングランドほう歴史れきしは、コモン・ローの歴史れきしでもある。詳細しょうさいコモン・ローえいべいほう特色とくしょく参照さんしょう

1215ねんマグナ・カルタは、コモン・ローが王権おうけんたいしても優位ゆういすることを確認かくにんするものであるが、あくまでその内容ないようは、バロンの中世ちゅうせいてき特権とっけん保障ほしょうするものにぎなかった。にもかかわらず、これがのち歴史れきしてき継続けいぞくせい強調きょうちょうによってほう支配しはいむすびついて復活ふっかつし、基本きほんてき人権じんけん保障ほしょうする近代きんだい立憲りっけん主義しゅぎ理論りろんとして重大じゅうだい役割やくわりたすようになった。

そのおうかいは、だい評議ひょうぎかいしょう評議ひょうぎかいとにかれた。だい評議ひょうぎかいは、のち貴族きぞく王宮おうきゅう議事堂ぎじどう会議かいぎするようになったことから、これが貴族きぞくいん(House of Lords)に発展はってんし、他方たほう庶民しょみんは、ウェストミンスターだい修道院しゅうどういん食堂しょくどう会議かいぎひらくようになり、これが庶民しょみんいん(House of Commons)に発展はってんした。このことが、貴族きぞくのみならず、庶民しょみん(commoner)の政治せいじてき権限けんげん増大ぞうだいして契機けいきとなった。

一方いっぽうしょう評議ひょうぎかいは、のち国王こくおう評議ひょうぎかい(King's council)に発展はってんしたうえで、財務ざいむだい法官ほうかんとにかれた。1272ねんエドワード1せい即位そくいすると、国王こくおうみずか裁判所さいばんしょ主宰しゅさいすることもなくなったことから、財務ざいむは、「王座おうざ裁判所さいばんしょ」(Court of King's Bench)[注釈ちゅうしゃく 1]、「財務ざいむ裁判所さいばんしょ」(Court of Exchequer) 、「人民じんみんあいだ訴訟そしょう裁判所さいばんしょ」(Court of Common Pleas)の3つにかれて発展はってんし、コモン・ロー裁判所さいばんしょ(common-law court)とばれるようになった。

13世紀せいきから15世紀せいきにかけて法曹ほうそうギルドである法曹ほうそういん創設そうせつされてったことで高度こうど専門せんもん教育きょういくされるようになり、法廷ほうてい弁護士べんごし事務じむ弁護士べんごしとの職域しょくいきあらそいで勝利しょうりしていく過程かてい法曹ほうそういちげんせい確立かくりつし、そして、コモン・ローの王権おうけんたいする優位ゆうい根拠こんきょに、国王こくおうから徐々じょじょ独立どくりつして権限けんげん行使こうしされるにいたった。他方たほうで、このことがコモン・ローの形式けいしき硬直こうちょくという弊害へいがいみだし、これがエクイティ発展はってんさせることとなり、現在げんざいのコモン・ローとエクイティとのほう二元にげんせい形成けいせいするきっかけとなった。

また、法曹ほうそういんによる専門せんもん教育きょういく一般いっぱん素人しろうとによる陪審ばいしんいん制度せいどというせい反対はんたい性質せいしつ制度せいどわさることにより、現代げんだいいた様々さまざまなコモン・ローの特色とくしょく形成けいせいされた。陪審ばいしんせいしたでは、素人しろうとでも適正てきせい判断はんだんをすることができるようにする必要ひつようがあり、その判断はんだんのための一定いってい基準きじゅん判例はんれいによって徐々じょじょ形成けいせいされてった。その結果けっか、イングランドほうでは、実体じったいほう手続てつづきほう隙間すきまからにじる、という性質せいしつゆうするにいたり、大陸たいりく法体ほうたいけいにおける総則そうそく規定きてい抽象ちゅうしょうてき法律ほうりつ行為こういひとし専門せんもんてき概念がいねんきらうようになった。同様どうように、この素人しろうとにも適正てきせい判断はんだんができるようにするという見地けんちから、当事とうじしゃ主義しゅぎ(adversarial system)、口頭こうとう主義しゅぎ直接ちょくせつ主義しゅぎ伝聞でんぶん法則ほうそくひとしささえられた高度こうど専門せんもんてき法廷ほうてい技術ぎじゅつ発展はってんしたのである。

1688ねんメアリー、そして、そのおっとオランダみつるりょうウィリアム3せい(ウィレム3せい、この2人ふたりをイングランド王位おうい即位そくいさせた名誉めいよ革命かくめいこり、これをけて、1689ねん権利けんり章典しょうてん1701ねん王位おうい継承けいしょうほう成立せいりつすることにより、議会ぎかい国王こくおうとの権力けんりょく抗争こうそう最終さいしゅうてき勝利しょうりれた。その結果けっか議会ぎかい意思いし国内こくないにおいて絶対ぜったいてき効力こうりょくゆうするものとされ、「おんなおとこにし、おとこおんなにすること以外いがいなにでもできる」と表現ひょうげんされた「国会こっかい主権しゅけん」(議会ぎかい主権しゅけんとも。Parliamentary Sovereignty)が確立かくりつされた[1]。これは、日本にっぽんのように国民こくみん主権しゅけん概念がいねん当然とうぜんとされているくにからするとかりにくい概念がいねんであるが、主権しゅけんをもつ「議会ぎかいにおける国王こくおう」(King in Parliament)とは、国王こくおう貴族きぞくいん庶民しょみんいんならんで議会ぎかい構成こうせいするものとされ、立憲りっけん君主くんしゅせい矛盾むじゅんしない概念がいねんとされていることを念頭ねんとうけば、英国えいこく歴史れきしそくした概念がいねんであることを理解りかいできる。

また、1701ねん王位おうい継承けいしょうほう裁判官さいばんかん身分みぶん保障ほしょう規定きていしたことにより、ほう支配しはい現実げんじつ制度せいどとして確立かくりつされ、ほうした平等びょうどうしたがい、通常つうじょう裁判所さいばんしょつうじて市民しみんてき自由じゆう[注釈ちゅうしゃく 2]保障ほしょうすることが必要ひつようとされ、その結果けっか司法しほうけん役割やくわり重視じゅうしされることになった。以後いごほう支配しはいは、国会こっかい主権しゅけん議会ぎかい主権しゅけん)とならぶイギリス憲法けんぽうだい原理げんりとされるようになった。

英国えいこくでは、権力けんりょく分立ぶんりつは、日本にっぽんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく三権分立さんけんぶんりつのような、立法りっぽうけん行政ぎょうせいけん司法しほうけん三権さんけんかんがえるのでなく、国王こくおう貴族きぞくいん庶民しょみんいんの3つの権力けんりょく議会ぎかい内部ないぶにおける均衡きんこう抑制よくせいとをはかることにより、市民しみんてき自由じゆう保障ほしょうする原理げんりである、とかんがえられている。

英国えいこくでは、立法りっぽうけん司法しほうけんとの分立ぶんりつ厳格げんかくでなく、議会ぎかい裁判所さいばんしょ機能きのう併有へいゆうしてきた歴史れきしがあり、貴族きぞくいん最高裁判所さいこうさいばんしょ該当がいとうする機関きかんであったことや、その議長ぎちょうであっただい法官ほうかん最高さいこう裁判所さいばんしょちょうにも該当がいとうしたことも、英国えいこく独特どくとく権力けんりょく分立ぶんりつのありかたといえる[注釈ちゅうしゃく 3]

貴族きぞくいん判決はんけつは、先例せんれい判例はんれいほう)としてみずから(貴族きぞくいん)をふくすべての裁判所さいばんしょ拘束こうそくし、議会ぎかいによる立法りっぽうによってしか修正しゅうせい廃止はいしをすることができない、という厳格げんかく先例せんれい拘束こうそくせい原理げんり採用さいようされている[2]たとえば、謀殺ぼうさつは、コモン・ローじょう犯罪はんざいであり、裁判所さいばんしょ憲法けんぽううえ権限けんげんおよび先例せんれいによって違法いほうとされる。したがって、謀殺ぼうさつ違法いほうとする成文せいぶんされた制定せいていほうは、英国えいこく存在そんざいしない。謀殺ぼうさつには、従来じゅうらい死刑しけい許容きょようされていたが、1998ねん議会ぎかいによる修正しゅうせいけ、無期むきけい義務付ぎむづけられている。現在げんざい効力こうりょくのこ最古さいこ法律ほうりつは、1267ねん(52 Hen. 3)マールバラほうStatute of Marlborough)の一部いちぶであるthe Distress Actである。マグナ・カルタの3つのふしは、1215ねん調印ちょういんされ、イングランドほう発達はったつにとっておおきな出来事できごとであったが、法律ほうりつ統合とうごうされたのは1297ねんであったとみられる。

内閣ないかく(Cabinet)は、17世紀せいき後半こうはんに、国王こくおう補佐ほさする枢密すうみつ顧問こもんかんあつまってくに方針ほうしんめたことからはじまり、1714ねんジョージ1せい即位そくいすると、国王こくおうみずか出席しゅっせきすることもなくなり、ウォルポール閣議かくぎ主宰しゅさいするようになったことから、徐々じょじょ首相しゅしょうという地位ちい形成けいせいされていった。

以後いご国王こくおうの「君臨くんりんすれど統治とうちせず」との慣行かんこう憲法けんぽうてき習律として不文ふぶん憲法けんぽうとなり、英国えいこく立憲りっけん君主くんしゅせい完成かんせいするのである。

スコットランドほう歴史れきし[編集へんしゅう]

スコットランドほう歴史れきしは、コモン・ロー裁判所さいばんしょ整備せいびしたエドワード1せいによる侵略しんりゃくはじまる。詳細しょうさいは、スコットランドの歴史れきし参照さんしょう

1292ねんにエドワード1せいは、スコットランドに侵略しんりゃくし、これを一時いちじてき隷属れいぞくくことに成功せいこうした。このことを契機けいきにスコットランドほうもコモン・ローの影響えいきょうはじめる。英国えいこくでは、国王こくおうじか登用とうようした有意ゆうい人物じんぶつ各地かくち派遣はけんするシェリフ制度せいどがあったが、これが現在げんざい存在そんざいするシェリフ裁判所さいばんしょ発展はってんする。

その、スコットランドでは、英国えいこくたいする数々かずかず反乱はんらんこり、14世紀せいき初頭しょとうまでにふたた独立どくりつたし、15世紀せいきいたって現在げんざいほとんおな領域りょういき政治せいじてき統一とういつされた。そのため、スコットランドは、英国えいこく対抗たいこうする必要ひつようじょう、たびたびフランス同盟どうめいしたことから、その文化ぶんか交流こうりゅうによって大陸たいりくほうることになる。

16世紀せいきになると、英国えいこく法曹ほうそういん対抗たいこうするかのように、法曹ほうそうのギルドであるファカルティ・オブ・アドヴォケイド高度こうど法曹ほうそう教育きょういくおこなうようになる。スコットランドでは、英国えいこく同様どうよう法廷ほうてい弁護士べんごし事務じむ弁護士べんごしとが区別くべつされていたが、多数たすうのアドヴォケイド候補こうほせいボローニャ大学だいがくパリ大学だいがく留学りゅうがくし、大陸たいりくほうまなんだことから、一時いちじてきにコモン・ローから分離ぶんりして大陸たいりくほう主流しゅりゅうする傾向けいこう顕著けんちょになる。

英国えいこく宗教しゅうきょう改革かいかくおこると、英国えいこく対抗たいこうする必要ひつようからオランダとの交流こうりゅうふかめ、オランダほう積極せっきょくてきれるようになった。

1503ねんにスコットランドおうジェームズ4せいがイングランドおうヘンリー7せいむすめマーガレット・テューダー婚姻こんいんしたことにより、イングランドと同盟どうめいてき関係かんけい移行いこうした。このことを契機けいきふたたびコモン・ローの影響えいきょうつよくなり、併合へいごういたらぬ同盟どうめい関係かんけいという微妙びみょう距離きょりかんが、スコットランド独自どくじ慣習かんしゅうのこした独特どくとく法体ほうたいけい形成けいせいする要因よういんともなる。

きたアイルランドほう歴史れきし[編集へんしゅう]

アイルランドほう歴史れきしは、コモンロー発展はってんのため、全土ぜんど統一とういつてき司法しほう制度せいど裁判さいばんシステムを創設そうせつしたヘンリー2せいのアイルランド侵略しんりゃくはじまる。

12世紀せいきにヘンリー2せいがアイルランド侵略しんりゃく着手ちゃくしゅすると、息子むすこジョンが「アイルランドきょう」の称号しょうごうちちからいでアイルランドを支配しはいするようになった。もっとも、その支配しはいけんはとても完全かんぜんなものとえず、本土ほんど同様どうようにアイルランド古来こらい慣習かんしゅう尊重そんちょうするという妥協だきょうてき政策せいさくいられた。このことが、アイルランドにもなが時間じかんをかけて徐々じょじょにコモン・ローが根付ねつ契機けいきとなった。

1541ねんヘンリー8せいが「アイルランドおう」を自称じしょうし、こののちもアイルランドへの出兵しゅっぺい断続だんぞくてき継続けいぞくしてゆき、ジェームズ1せい治世ちせいにイングランドのアイルランド全島ぜんとう支配しはい確立かくりつした。アイルランドのケルトけい先住民せんじゅうみんカトリック改宗かいしゅうし、徐々じょじょにイングランドのアイルランドへの影響えいきょうおおきなものとなってゆき、17世紀せいきから18世紀せいきにかけてアイルランド支配しはい確立かくりつするが、それでもアイルランドが完全かんぜん同一どういつすることはなかった。アイルランドでは、宗教しゅうきょう改革かいかくこうもカトリックを固持こじしたため、プロテスタント改宗かいしゅうして国教こっきょうかいせい公会こうかい)を樹立じゅりつしていたイングランドからカトリック信者しんじゃのアイルランドじん選挙せんきょけん被選挙権ひせんきょけん制限せいげんされるなど、ながらく差別さべつ抑圧よくあつ時代じだいつづくが、1800ねん合同ごうどうほうによって英国えいこくグレートブリテン王国おうこく)と合併がっぺいする(グレートブリテンおよびアイルランド連合れんごう王国おうこく)にいたる。アイルランド議会ぎかい解散かいさんすることとなる。

1920ねんアイルランド統治とうちほう制定せいていされたことにより、1922ねんにアイルランド北部ほくぶめるアルスター地方ちほうの6しゅうは、英国えいこくにとどまることとなって現在げんざいきたアイルランドとなるが、南部なんぶ26しゅうアイルランド自由じゆうこくとなって英国えいこく自治領じちりょうとなり、のち独立どくりつしてアイルランド共和きょうわこくになる。

きたアイルランドでは、このアイルランド統治とうちほうによってきたアイルランド議会ぎかい設置せっちされ、英国えいこく議会ぎかいから広範こうはん立法りっぽうけん委譲いじょうされた。きたアイルランド議会ぎかいは、英国えいこく同様どうよう国王こくおう代理だいりとしての総督そうとく上院じょういん下院かいんさんしゃ構成こうせいされており、きたアイルランド執行しっこう委員いいんかいばれる内閣ないかく組織そしきされ議院ぎいんないかくせいがとられるようになった。

英国えいこくかく法域ほういき[編集へんしゅう]

連合れんごう王国おうこくは、ことなった法体ほうたいけいゆうする複数ふくすう法域ほういきかれており、それぞれが独自どくじ法体ほうたいけいゆうする。

イングランドおよびウェールズ[編集へんしゅう]

イングランドおよびウェールズは、単一たんいつ法域ほういき構成こうせいする。

スコットランド[編集へんしゅう]

スコットランドは、フランスほうつよ影響えいきょうけただけでなく、教会きょうかいほうやスコットランド固有こゆう慣習かんしゅうもとづく、混交こんこうした法体ほうたいけいゆうしている。現在げんざいでは、イングランドほう影響えいきょうけ、スコットランドほうたいするコモン・ローの優位ゆういみとめられているが、イングランドおよびウェールズとはべつ法域ほういきである。

きたアイルランド[編集へんしゅう]

きたアイルランドは、コモン・ローを基本きほんとしている。にもかかわらず、議会ぎかい停止ていしされ、独自どくじ立法りっぽうみとめられていないあいだもなおそれ自体じたいがイングランドおよびウェールズとはべつ法域ほういきのままであった。

連合れんごう王国おうこくがい関連かんれんする法域ほういき[編集へんしゅう]

Dicey & Morris(p26)によると、ブリテン諸島しょとう(the British Islands)には、以上いじょうの3つの法域ほういきのほかに、マンとうジャージーガーンジーオルダニーサークという5つの法域ほういき存在そんざいする。これらは、連合れんごう王国おうこくぞくしないが、連合れんごう王国おうこく外交がいこうけんふくする。また、そのほかにも、イギリスの海外かいがい領土りょうどである、たとえばケイマン諸島しょとうえいりょうヴァージン諸島しょとうもそれぞれが1つの法域ほういきとされている。

もっとも、法律ほうりつによっては複数ふくすう法域ほういき適用てきよう範囲はんいとするものがあるてんには留意りゅういようする。連合れんごう王国おうこく全体ぜんたい適用てきようがあるものとして、Bills of Exchange Act 1882(1882ねん為替かわせ手形てがたほう)がある。グレートブリテン全体ぜんたい適用てきようがあるものとして、en:Companies Act 1985(1985ねん会社かいしゃほう)がある。

地方ちほうぶん権化ごんげなみ[編集へんしゅう]

サッチャー政権せいけん地方ちほう分権ぶんけんながれがはじまり、1997ねん住民じゅうみん投票とうひょう実施じっしによりウェールズへの権限けんげん委譲いじょう実施じっしされ、ウェールズ議会ぎかいNational Assembly for Wales)にある程度ていど自治じちけんみとめられた。

その2007ねんウェールズそう選挙せんきょによってウェールズ議会ぎかい独立どくりつした立法りっぽうけんみとめられた。これは、2006ねんウェールズ統治とうちほうGovernment of Wales Act 2006)によりウェールズ議会ぎかい政府せいふWelsh Assembly Government)のだい1立法りっぽうけんみとめられたことによるものであるが、民事みんじおよ刑事けいじ裁判所さいばんしょつうじて形成けいせいされる法体ほうたいけいはイングランドとウェールズで統一とういつされたままである。

ウェールズのイングランドとのおおきなちがいとして、ウェールズ使用しようもある。これは、イングランドをのぞきウェールズだけにおいて適用てきようされる法律ほうりつによるものである。連合れんごう王国おうこく議会ぎかい制定せいていほうである1993ねんウェールズ語法ごほうWelsh Language Act 1993)は、ウェールズをウェールズにおいて公共こうきょう領域りょういきかんするかぎりで英語えいごひとしい地位ちいのものとしている。ウェールズはまたウェールズの裁判所さいばんしょにおいても使用しようすることができる。

伝統でんとうてきに、法域ほういきとしてのイングランドおよびウェールズはたんにイングランドとばれてきたが、この用法ようほうは、このすうじゅうねんにおいては政治せいじてきれがたくなってきている。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ おう不在ふざいおうのベンチだけがる、という意味いみである。なお、現在げんざいでも裁判官さいばんかんを「bench」と表現ひょうげんすることがある。
  2. ^ 英国えいこくには、日本にっぽんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくのように人権じんけん規定きていがないのみならず、カタログてき意味いみでの人権じんけんという観念かんねんそのものがなかったとされ、イギリス憲法けんぽうによって保障ほしょうされているのは、人権じんけんでなく、市民しみんてき自由じゆうそのものであるとされている。
  3. ^ 2005ねん憲法けんぽう改革かいかくほう英語えいごにより、2009ねん10がつ1にちになり、ようやく貴族きぞくいん別個べっこイギリス最高裁判所さいこうさいばんしょつくられた。なお、だい法官ほうかんは、従来じゅうらい貴族きぞくいん議長ぎちょうとして立法りっぽうけん司法しほうけんあわせた地位ちいであったのみならず、内閣ないかく一員いちいん閣僚かくりょう)として行政ぎょうせいけん一角いっかくをもめていたが、おなじく2005ねん憲法けんぽう改革かいかくほうにより、内閣ないかく一員いちいん閣僚かくりょう)としての地位ちいのみとなって現在げんざいいたっている。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 1996, p. 92, 『えいべい判例はんれいひゃくせんだい3はん.
  2. ^ 1996, p. 150, 『えいべい判例はんれいひゃくせんだい3はん.

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

日本語にほんご資料しりょう
  • 戒能どおりあつし へん現代げんだいイギリスほう事典じてん別巻べっかん1〈新法しんぽうがくライブラリ〉、2003ねんNCID BA60949476 ISBN 4883840492 べつだい『UK law : past and present perspectives 現代げんだいイギリスほう事典じてん
  • 田中たなか 英夫ひでお藤倉ふじくら あきら一郎いちろう『BASICえいべいほう辞典じてん東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい、1993ねんNCID BN09697616 ISBN 9784130320825
  • 藤倉ふじくらあきら一郎いちろうへん)、木下きのしたあつし高橋たかはしはじめおさむ樋口ひぐち範雄のりお (共編きょうへん)『えいべい判例はんれいひゃくせん』139ごうだい3はん)、有斐閣ゆうひかく別冊べっさつジュリスト no.139〉、1996ねんNCID BN15518438 ISBN 4641114390
洋書ようしょ

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]