この項目 こうもく では、連合 れんごう 王国 おうこく 全体 ぜんたい の法 ほう 制度 せいど について説明 せつめい しています。
イギリス (グレートブリテンおよび北 きた アイルランド連合 れんごう 王国 おうこく 。海外 かいがい 領土 りょうど および王室 おうしつ 属領 ぞくりょう は含 ふく まない)の法 ほう 制度 せいど は、イングランド法 ほう 、スコットランド法 ほう および北 きた アイルランド法 ほう (英語 えいご 版 ばん ) の3つの法体 ほうたい 系 けい から構成 こうせい されている。
「英国 えいこく 法 ほう (えいこくほう)」ないし「イギリス法 ほう (イギリスほう)」という語 かたり はイングランド法 ほう を指 さ すことも多 おお いが、本 ほん 項 こう ではイギリス全体 ぜんたい の法体 ほうたい 系 けい について解説 かいせつ する。
連合 れんごう 王国 おうこく は、大 おお まかに言 い えば、グレートブリテン島 とう の南 みなみ 半分 はんぶん を超 こ えるエリアを占 し める「イングランド 」、その北 きた に位置 いち するスコットランド 、イングランドの西 にし に位置 いち する「ウェールズ 」、そして、グレートブリテン島 とう の西 にし に位置 いち するアイルランド島 とう の北東 ほくとう 部 ぶ を占 し める北 きた アイルランド から構成 こうせい される。
ウェールズは、1282年 ねん にイングランド王国 おうこく に吸収 きゅうしゅう された後 のち もウェールズ辺境 へんきょう 領 りょう として独自 どくじ の法域 ほういき であり続 つづ けたが、1536年 ねん にはウェールズ辺境 へんきょう 領 りょう の廃止 はいし とともに独自 どくじ の法域 ほういき としての地位 ちい も喪失 そうしつ し、イングランドおよびウェールズ として単一 たんいつ の法域 ほういき を形成 けいせい するに至 いた った。イングランドおよびウェールズにおける法 ほう は、英語 えいご ではEnglish law やthe laws of England and Wales と呼 よ ばれる。したがって、日本語 にほんご でも「イングランド法 ほう 」や「イングランドおよびウェールズ法 ほう 」などと呼 よ ぶべきであろうが、便宜 べんぎ 的 てき に「英国 えいこく 法 ほう 」や「イギリス法 ほう 」と呼 よ ばれることが多 おお い。
イングランド法 ほう は、ゲルマン法 ほう の一 いち 支流 しりゅう であるアングロ・サクソン 法 ほう を背景 はいけい として成立 せいりつ した法体 ほうたい 系 けい である。イングランドは、ドイツ のアンゲルン半島 はんとう から来 き たアングル人 じん の国 くに という意味 いみ でゲルマン系 けい であるのに対 たい し、ウェールズ、スコットランド、アイルランドは、ケルト 系 けい の先住民 せんじゅうみん の国 くに である。後 のち にノルマン人 じん によって征服 せいふく された歴史 れきし をもつ英国 えいこく は、成立 せいりつ の始 はじ めからして多 た 民族 みんぞく 国家 こっか であり、言語 げんご も宗教 しゅうきょう も異 こと なる。このことが「イングランド法 ほう 」の歴史 れきし に深 ふか い影響 えいきょう を及 およ ぼしている。
イングランド法 ほう は、大 だい 英 えい 帝国 ていこく 時代 じだい に植民 しょくみん 地 ち へ継受 けいじゅ され、大陸 たいりく 法 ほう (シビル・ロー)と対置 たいち される英 えい 米 べい 法 ほう (コモン・ロー)をとる世界中 せかいじゅう の国々 くにぐに の法制 ほうせい の基礎 きそ となり、例 たと えば、(ルイジアナ州 しゅう を除 のぞ く)アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく の各 かく 州法 しゅうほう にも多大 ただい な影響 えいきょう を与 あた えている。
なお、スコットランドや北 きた アイルランド、海外 かいがい 領土 りょうど や王室 おうしつ 属領 ぞくりょう は、イングランドおよびウェールズと別 べつ の法域 ほういき であり、したがって、イングランド法 ほう も適用 てきよう されない。もっとも、旧 きゅう 植民 しょくみん 地 ち の各 かく 法域 ほういき と同様 どうよう に、ある時期 じき のイングランド法 ほう を承継 しょうけい していたり、或 ある いは、イングランド法 ほう の影響 えいきょう を強 つよ く受 う けている。
イングランド法 ほう の歴史 れきし [ 編集 へんしゅう ]
英国 えいこく は、日本国 にっぽんこく 憲法 けんぽう やアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 憲法 けんぽう のような憲法 けんぽう 典 てん を有 ゆう さない。のみならず、そもそも英国 えいこく 法 ほう 上 じょう は、国家 こっか 権力 けんりょく を一般 いっぱん 的 てき ・包括 ほうかつ 的 てき に把握 はあく する機能 きのう を有 ゆう する「国家 こっか 」という概念 がいねん が存在 そんざい せず、その代 か わりに王 おう (King)・女王 じょおう (Queen)ないし国王 こくおう (the Crown)という概念 がいねん が便利 べんり なシンボルとして機能 きのう してきた。英国 えいこく は、形式 けいしき 的 てき に全 すべ ての権力 けんりょく が国王 こくおう に属 ぞく するとされつつも、それぞれの機構 きこう が実質 じっしつ 的 てき に権限 けんげん を行使 こうし する、という立憲 りっけん 君主 くんしゅ 制 せい をとっている。このような政治 せいじ 体制 たいせい になったのは、英国 えいこく (特 とく にイングランド)の歴史 れきし そのものが国王 こくおう との権力 けんりょく 闘争 とうそう で国王 こくおう から徐々 じょじょ に権力 けんりょく を奪 うば って国王 こくおう 大権 たいけん を制限 せいげん してきた歴史 れきし に他 た ならないからである。
その意味 いみ でイングランド法 ほう の歴史 れきし は、1066年 ねん のウィリアム征服 せいふく 王 おう による封建 ほうけん 制 せい の確立 かくりつ に始 はじ まると言 い っていい。
ウィリアム1世 せい は、国王 こくおう を補佐 ほさ する「バロン 」と呼 よ ばれる直 ちょく 臣 しん 貴族 きぞく からなる「王 おう 会 かい 」(Curia Regis)を設置 せっち し、強固 きょうこ な封建 ほうけん 的 てき 支配 しはい 体制 たいせい を確立 かくりつ しつつも、古来 こらい からのゲルマン 的 てき 慣習 かんしゅう を尊重 そんちょう するという妥協 だきょう 的 てき な政策 せいさく をとった。そのため、慣習 かんしゅう から「発見 はっけん 」(discover)されるものであるコモン・ロー は、人 ひと の手 て によって変更 へんこう することができないものとされた。このように、イングランド法 ほう における「法 ほう 」(Law)とは、成文 せいぶん 化 か された「法律 ほうりつ 」(a law, laws) のことでなく、判例 はんれい が第 だい 一 いち 次 じ 的 てき な法 ほう 源 げん とされる不文法 ふぶんほう ・慣習 かんしゅう 法 ほう のことであり、それゆえに中世 ちゅうせい の慣習 かんしゅう との歴史 れきし 的 てき 継続 けいぞく 性 せい が強調 きょうちょう されるのである。
1154年 ねん にヘンリー2世 せい が神 かみ 判 ばん を禁止 きんし して陪審 ばいしん 制 せい を復活 ふっかつ させ、各 かく 地方 ちほう に国王 こくおう 直属 ちょくぞく の多数 たすう の裁判官 さいばんかん を派遣 はけん する巡回 じゅんかい 裁判 さいばん (assize)制度 せいど を創設 そうせつ したことがコモン・ローの発達 はったつ を促 うなが し、これがイングランド法 ほう に固有 こゆう の、そして、後 のち に英 えい 米 べい 法体 ほうたい 系 けい の国々 くにぐに に引 ひ き継 つ がれることになる、特徴 とくちょう を形成 けいせい していった。その意味 いみ でイングランド法 ほう の歴史 れきし は、コモン・ローの歴史 れきし でもある。詳細 しょうさい はコモン・ロー 、英 えい 米 べい 法 ほう の特色 とくしょく を参照 さんしょう 。
1215年 ねん のマグナ・カルタ は、コモン・ローが王権 おうけん に対 たい しても優位 ゆうい することを確認 かくにん するものであるが、あくまでその内容 ないよう は、バロンの中世 ちゅうせい 的 てき な特権 とっけん を保障 ほしょう するものに過 す ぎなかった。にもかかわらず、これが後 のち に歴史 れきし 的 てき な継続 けいぞく 性 せい の強調 きょうちょう によって法 ほう の支配 しはい と結 むす びついて復活 ふっかつ し、基本 きほん 的 てき 人権 じんけん を保障 ほしょう する近代 きんだい 立憲 りっけん 主義 しゅぎ の理論 りろん として重大 じゅうだい な役割 やくわり を果 は たすようになった。
その後 ご 、王 おう 会 かい は、大 だい 評議 ひょうぎ 会 かい と小 しょう 評議 ひょうぎ 会 かい とに分 わ かれた。大 だい 評議 ひょうぎ 会 かい は、後 のち に貴族 きぞく が王宮 おうきゅう の議事堂 ぎじどう で会議 かいぎ するようになったことから、これが貴族 きぞく 院 いん (House of Lords)に発展 はってん し、他方 たほう で庶民 しょみん は、ウェストミンスター 大 だい 修道院 しゅうどういん の食堂 しょくどう で会議 かいぎ を開 ひら くようになり、これが庶民 しょみん 院 いん (House of Commons)に発展 はってん した。このことが、貴族 きぞく のみならず、庶民 しょみん (commoner)の政治 せいじ 的 てき な権限 けんげん が増大 ぞうだい して行 い く契機 けいき となった。
一方 いっぽう 、小 しょう 評議 ひょうぎ 会 かい は、後 のち に国王 こくおう 評議 ひょうぎ 会 かい (King's council)に発展 はってん した上 うえ で、財務 ざいむ 府 ふ と大 だい 法官 ほうかん とに分 わ かれた。1272年 ねん にエドワード1世 せい が即位 そくい すると、国王 こくおう が自 みずか ら裁判所 さいばんしょ を主宰 しゅさい することもなくなったことから、財務 ざいむ 府 ふ は、「王座 おうざ 裁判所 さいばんしょ 」(Court of King's Bench)[注釈 ちゅうしゃく 1] 、「財務 ざいむ 府 ふ 裁判所 さいばんしょ 」(Court of Exchequer) 、「人民 じんみん 間 あいだ 訴訟 そしょう 裁判所 さいばんしょ 」(Court of Common Pleas)の3つに分 わ かれて発展 はってん し、コモン・ロー裁判所 さいばんしょ (common-law court)と呼 よ ばれるようになった。
13世紀 せいき から15世紀 せいき にかけて法曹 ほうそう のギルド である法曹 ほうそう 院 いん が創設 そうせつ されて行 い ったことで高度 こうど な専門 せんもん 教育 きょういく が為 な されるようになり、法廷 ほうてい 弁護士 べんごし が事務 じむ 弁護士 べんごし との職域 しょくいき 争 あらそ いで勝利 しょうり していく過程 かてい で法曹 ほうそう 一 いち 元 げん 制 せい が確立 かくりつ し、そして、コモン・ローの王権 おうけん に対 たい する優位 ゆうい を根拠 こんきょ に、国王 こくおう から徐々 じょじょ に独立 どくりつ して権限 けんげん が行使 こうし されるに至 いた った。他方 たほう で、このことがコモン・ローの形式 けいしき 化 か ・硬直 こうちょく 化 か という弊害 へいがい を生 う みだし、これがエクイティ を発展 はってん させることとなり、現在 げんざい のコモン・ローとエクイティとの法 ほう の二元 にげん 性 せい を形成 けいせい するきっかけとなった。
また、法曹 ほうそう 院 いん による専門 せんもん 教育 きょういく と一般 いっぱん の素人 しろうと による陪審 ばいしん 員 いん 制度 せいど という正 せい 反対 はんたい の性質 せいしつ の制度 せいど が組 く み合 あ わさることにより、現代 げんだい に至 いた る様々 さまざま なコモン・ローの特色 とくしょく が形成 けいせい された。陪審 ばいしん 制 せい の下 した では、素人 しろうと でも適正 てきせい な判断 はんだん をすることができるようにする必要 ひつよう があり、その判断 はんだん のための一定 いってい の基準 きじゅん が判例 はんれい によって徐々 じょじょ に形成 けいせい されて行 い った。その結果 けっか 、イングランド法 ほう では、実体 じったい 法 ほう が手続 てつづき 法 ほう の隙間 すきま から滲 にじ み出 で て来 く る、という性質 せいしつ を有 ゆう するに至 いた り、大陸 たいりく 法体 ほうたい 系 けい における総則 そうそく 規定 きてい や抽象 ちゅうしょう 的 てき な法律 ほうりつ 行為 こうい 等 ひとし の専門 せんもん 的 てき な概念 がいねん を嫌 きら うようになった。同様 どうよう に、この素人 しろうと にも適正 てきせい な判断 はんだん ができるようにするという見地 けんち から、当事 とうじ 者 しゃ 主義 しゅぎ (adversarial system)、口頭 こうとう 主義 しゅぎ 、直接 ちょくせつ 主義 しゅぎ 、伝聞 でんぶん 法則 ほうそく 等 ひとし に支 ささ えられた高度 こうど で専門 せんもん 的 てき な法廷 ほうてい 技術 ぎじゅつ が発展 はってん したのである。
1688年 ねん 、メアリー 、そして、その夫 おっと でオランダ統 みつる 領 りょう のウィリアム3世 せい (ウィレム3世 せい ) 、この2人 ふたり をイングランド王位 おうい に即位 そくい させた名誉 めいよ 革命 かくめい が起 お こり、これを受 う けて、1689年 ねん に権利 けんり 章典 しょうてん 、1701年 ねん に王位 おうい 継承 けいしょう 法 ほう が成立 せいりつ することにより、議会 ぎかい が国王 こくおう との権力 けんりょく 抗争 こうそう で最終 さいしゅう 的 てき な勝利 しょうり を手 て に入 い れた。その結果 けっか 、議会 ぎかい の意思 いし が国内 こくない において絶対 ぜったい 的 てき な効力 こうりょく を有 ゆう するものとされ、「女 おんな を男 おとこ にし、男 おとこ を女 おんな にすること以外 いがい は何 なに でもできる」と表現 ひょうげん された「国会 こっかい 主権 しゅけん 」(議会 ぎかい 主権 しゅけん とも。Parliamentary Sovereignty)が確立 かくりつ された。これは、日本 にっぽん のように国民 こくみん 主権 しゅけん 概念 がいねん が当然 とうぜん とされている国 くに からすると分 わ かりにくい概念 がいねん であるが、主権 しゅけん をもつ「議会 ぎかい における国王 こくおう 」(King in Parliament)とは、国王 こくおう が貴族 きぞく 院 いん や庶民 しょみん 院 いん と並 なら んで議会 ぎかい を構成 こうせい するものとされ、立憲 りっけん 君主 くんしゅ 制 せい と矛盾 むじゅん しない概念 がいねん とされていることを念頭 ねんとう に置 お けば、英国 えいこく の歴史 れきし に即 そく した概念 がいねん であることを理解 りかい できる。
また、1701年 ねん 王位 おうい 継承 けいしょう 法 ほう が裁判官 さいばんかん の身分 みぶん 保障 ほしょう を規定 きてい したことにより、法 ほう の支配 しはい が現実 げんじつ の制度 せいど として確立 かくりつ され、法 ほう の下 した の平等 びょうどう に従 したが い、通常 つうじょう 裁判所 さいばんしょ を通 つう じて市民 しみん 的 てき 自由 じゆう [注釈 ちゅうしゃく 2] を保障 ほしょう することが必要 ひつよう とされ、その結果 けっか 、司法 しほう 権 けん の役割 やくわり が重視 じゅうし されることになった。以後 いご 、法 ほう の支配 しはい は、国会 こっかい 主権 しゅけん (議会 ぎかい 主権 しゅけん )と並 なら ぶイギリス憲法 けんぽう の二 に 大 だい 原理 げんり とされるようになった。
英国 えいこく では、権力 けんりょく 分立 ぶんりつ は、日本 にっぽん やアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく の三権分立 さんけんぶんりつ のような、立法 りっぽう 権 けん 、行政 ぎょうせい 権 けん 、司法 しほう 権 けん の三権 さんけん で考 かんが えるのでなく、国王 こくおう 、貴族 きぞく 院 いん 、庶民 しょみん 院 いん の3つの権力 けんりょく が議会 ぎかい の内部 ないぶ における均衡 きんこう と抑制 よくせい とを図 はか ることにより、市民 しみん 的 てき 自由 じゆう を保障 ほしょう する原理 げんり である、と考 かんが えられている。
英国 えいこく では、立法 りっぽう 権 けん と司法 しほう 権 けん との分立 ぶんりつ が厳格 げんかく でなく、議会 ぎかい が裁判所 さいばんしょ の機能 きのう を併有 へいゆう してきた歴史 れきし があり、貴族 きぞく 院 いん が最高裁判所 さいこうさいばんしょ に該当 がいとう する機関 きかん であったことや、その議長 ぎちょう であった大 だい 法官 ほうかん が最高 さいこう 裁判所 さいばんしょ の長 ちょう にも該当 がいとう したことも、英国 えいこく に独特 どくとく の権力 けんりょく 分立 ぶんりつ のあり方 かた といえる[注釈 ちゅうしゃく 3] 。
貴族 きぞく 院 いん の判決 はんけつ は、先例 せんれい (判例 はんれい 法 ほう )として自 みずか ら(貴族 きぞく 院 いん )を含 ふく む全 すべ ての裁判所 さいばんしょ を拘束 こうそく し、議会 ぎかい による立法 りっぽう によってしか修正 しゅうせい や廃止 はいし をすることができない、という厳格 げんかく な先例 せんれい 拘束 こうそく 性 せい の原理 げんり が採用 さいよう されている。例 たと えば、謀殺 ぼうさつ は、コモン・ロー上 じょう の犯罪 はんざい であり、裁判所 さいばんしょ の憲法 けんぽう 上 うえ の権限 けんげん および先例 せんれい によって違法 いほう とされる。したがって、謀殺 ぼうさつ を違法 いほう とする成文 せいぶん 化 か された制定 せいてい 法 ほう は、英国 えいこく に存在 そんざい しない。謀殺 ぼうさつ には、従来 じゅうらい 、死刑 しけい が許容 きょよう されていたが、1998年 ねん 、議会 ぎかい による修正 しゅうせい を受 う け、無期 むき 刑 けい が義務付 ぎむづ けられている。現在 げんざい も効力 こうりょく を遺 のこ す最古 さいこ の法律 ほうりつ は、1267年 ねん (52 Hen. 3)マールバラ法 ほう (Statute of Marlborough )の一部 いちぶ であるthe Distress Actである。マグナ・カルタ の3つの節 ふし は、1215年 ねん に調印 ちょういん され、イングランド法 ほう の発達 はったつ にとって大 おお きな出来事 できごと であったが、法律 ほうりつ に統合 とうごう されたのは1297年 ねん であったとみられる。
内閣 ないかく (Cabinet)は、17世紀 せいき の後半 こうはん に、国王 こくおう を補佐 ほさ する枢密 すうみつ 顧問 こもん 官 かん が集 あつ まって国 くに の方針 ほうしん を決 き めたことから始 はじ まり、1714年 ねん にジョージ1世 せい が即位 そくい すると、国王 こくおう が自 みずか ら出席 しゅっせき することもなくなり、ウォルポール が閣議 かくぎ を主宰 しゅさい するようになったことから、徐々 じょじょ に首相 しゅしょう という地位 ちい が形成 けいせい されていった。
以後 いご 、国王 こくおう の「君臨 くんりん すれど統治 とうち せず」との慣行 かんこう が憲法 けんぽう 的 てき 習律 として不文 ふぶん の憲法 けんぽう となり、英国 えいこく の立憲 りっけん 君主 くんしゅ 制 せい が完成 かんせい するのである。
スコットランド法 ほう の歴史 れきし [ 編集 へんしゅう ]
スコットランド法 ほう の歴史 れきし は、コモン・ロー裁判所 さいばんしょ を整備 せいび したエドワード1世 せい による侵略 しんりゃく に始 はじ まる。詳細 しょうさい は、スコットランドの歴史 れきし を参照 さんしょう 。
1292年 ねん にエドワード1世 せい は、スコットランドに侵略 しんりゃく し、これを一時 いちじ 的 てき に隷属 れいぞく 下 か に置 お くことに成功 せいこう した。このことを契機 けいき にスコットランド法 ほう もコモン・ローの影響 えいきょう を受 う け始 はじ める。英国 えいこく では、国王 こくおう が直 じか に登用 とうよう した有意 ゆうい な人物 じんぶつ を各地 かくち に派遣 はけん するシェリフ 制度 せいど があったが、これが現在 げんざい も存在 そんざい するシェリフ裁判所 さいばんしょ に発展 はってん する。
その後 ご 、スコットランドでは、英国 えいこく に対 たい する数々 かずかず の反乱 はんらん が起 お こり、14世紀 せいき 初頭 しょとう までに再 ふたた び独立 どくりつ を果 は たし、15世紀 せいき に至 いた って現在 げんざい と殆 ほとん ど同 おな じ領域 りょういき で政治 せいじ 的 てき に統一 とういつ された。そのため、スコットランドは、英国 えいこく に対抗 たいこう する必要 ひつよう 上 じょう 、たびたびフランス と同盟 どうめい したことから、その文化 ぶんか 交流 こうりゅう によって大陸 たいりく 法 ほう を知 し ることになる。
16世紀 せいき になると、英国 えいこく の法曹 ほうそう 院 いん に対抗 たいこう するかのように、法曹 ほうそう のギルドであるファカルティ・オブ・アドヴォケイド が高度 こうど な法曹 ほうそう 教育 きょういく を行 おこな うようになる。スコットランドでは、英国 えいこく と同様 どうよう に法廷 ほうてい 弁護士 べんごし と事務 じむ 弁護士 べんごし とが区別 くべつ されていたが、多数 たすう のアドヴォケイド候補 こうほ 生 せい がボローニャ大学 だいがく やパリ大学 だいがく に留学 りゅうがく し、大陸 たいりく 法 ほう を学 まな んだことから、一時 いちじ 的 てき にコモン・ローから分離 ぶんり して大陸 たいりく 法 ほう が主流 しゅりゅう 化 か する傾向 けいこう が顕著 けんちょ になる。
英国 えいこく で宗教 しゅうきょう 改革 かいかく が起 おこ ると、英国 えいこく に対抗 たいこう する必要 ひつよう からオランダ との交流 こうりゅう を深 ふか め、オランダ法 ほう を積極 せっきょく 的 てき に取 と り入 い れるようになった。
1503年 ねん にスコットランド王 おう ジェームズ4世 せい がイングランド王 おう ヘンリー7世 せい の娘 むすめ マーガレット・テューダー と婚姻 こんいん したことにより、イングランドと同盟 どうめい 的 てき な関係 かんけい へ移行 いこう した。このことを契機 けいき に再 ふたた びコモン・ローの影響 えいきょう が強 つよ くなり、併合 へいごう に至 いた らぬ同盟 どうめい 関係 かんけい という微妙 びみょう な距離 きょり 感 かん が、スコットランド独自 どくじ の慣習 かんしゅう を残 のこ した独特 どくとく の法体 ほうたい 系 けい を形成 けいせい する要因 よういん ともなる。
北 きた アイルランド法 ほう の歴史 れきし [ 編集 へんしゅう ]
アイルランド法 ほう の歴史 れきし は、コモンロー発展 はってん のため、全土 ぜんど に統一 とういつ 的 てき な司法 しほう 制度 せいど 、裁判 さいばん システムを創設 そうせつ したヘンリー2世 せい のアイルランド侵略 しんりゃく に始 はじ まる。
12世紀 せいき にヘンリー2世 せい がアイルランド侵略 しんりゃく に着手 ちゃくしゅ すると、息子 むすこ のジョン が「アイルランド卿 きょう 」の称号 しょうごう を父 ちち から継 つ いでアイルランドを支配 しはい するようになった。もっとも、その支配 しはい 権 けん はとても完全 かんぜん なものと言 い えず、本土 ほんど と同様 どうよう にアイルランド古来 こらい の慣習 かんしゅう を尊重 そんちょう するという妥協 だきょう 的 てき な政策 せいさく を強 し いられた。このことが、アイルランドにも長 なが い時間 じかん をかけて徐々 じょじょ にコモン・ローが根付 ねつ く契機 けいき となった。
1541年 ねん にヘンリー8世 せい が「アイルランド王 おう 」を自称 じしょう し、この後 のち もアイルランドへの出兵 しゅっぺい を断続 だんぞく 的 てき に継続 けいぞく してゆき、ジェームズ1世 せい の治世 ちせい にイングランドのアイルランド全島 ぜんとう の支配 しはい が確立 かくりつ した。アイルランドのケルト 系 けい の先住民 せんじゅうみん はカトリック に改宗 かいしゅう し、徐々 じょじょ にイングランドのアイルランドへの影響 えいきょう も大 おお きなものとなってゆき、17世紀 せいき から18世紀 せいき にかけてアイルランド支配 しはい は確立 かくりつ するが、それでもアイルランドが完全 かんぜん に同一 どういつ 化 か することはなかった。アイルランドでは、宗教 しゅうきょう 改革 かいかく 後 こう もカトリックを固持 こじ したため、プロテスタント に改宗 かいしゅう して国教 こっきょう 会 かい (聖 せい 公会 こうかい )を樹立 じゅりつ していたイングランドからカトリック信者 しんじゃ のアイルランド人 じん が選挙 せんきょ 権 けん ・被選挙権 ひせんきょけん を制限 せいげん されるなど、長 なが らく差別 さべつ や抑圧 よくあつ の時代 じだい が続 つづ くが、1800年 ねん 合同 ごうどう 法 ほう によって英国 えいこく (グレートブリテン王国 おうこく )と合併 がっぺい する(グレートブリテン及 およ びアイルランド連合 れんごう 王国 おうこく )に至 いた る。アイルランド議会 ぎかい は解散 かいさん することとなる。
1920年 ねん にアイルランド統治 とうち 法 ほう が制定 せいてい されたことにより、1922年 ねん にアイルランド北部 ほくぶ を占 し めるアルスター 地方 ちほう の6州 しゅう は、英国 えいこく にとどまることとなって現在 げんざい の北 きた アイルランド となるが、南部 なんぶ 26州 しゅう がアイルランド自由 じゆう 国 こく となって英国 えいこく の自治領 じちりょう となり、後 のち に独立 どくりつ してアイルランド共和 きょうわ 国 こく になる。
北 きた アイルランドでは、このアイルランド統治 とうち 法 ほう によって北 きた アイルランド議会 ぎかい が設置 せっち され、英国 えいこく の議会 ぎかい から広範 こうはん な立法 りっぽう 権 けん が委譲 いじょう された。北 きた アイルランド議会 ぎかい は、英国 えいこく 同様 どうよう 、国王 こくおう の代理 だいり としての総督 そうとく 、上院 じょういん 、下院 かいん の三 さん 者 しゃ で構成 こうせい されており、北 きた アイルランド執行 しっこう 委員 いいん 会 かい と呼 よ ばれる内閣 ないかく が組織 そしき され議院 ぎいん 内 ない 閣 かく 制 せい がとられるようになった。
英国 えいこく の各 かく 法域 ほういき [ 編集 へんしゅう ]
連合 れんごう 王国 おうこく は、異 こと なった法体 ほうたい 系 けい を有 ゆう する複数 ふくすう の法域 ほういき に分 わ かれており、それぞれが独自 どくじ の法体 ほうたい 系 けい を有 ゆう する。
イングランドおよびウェールズ [ 編集 へんしゅう ]
イングランドおよびウェールズ は、単一 たんいつ の法域 ほういき を構成 こうせい する。
スコットランドは、フランス法 ほう の強 つよ い影響 えいきょう を受 う けただけでなく、教会 きょうかい 法 ほう やスコットランド固有 こゆう の慣習 かんしゅう に基 もと づく、混交 こんこう した法体 ほうたい 系 けい を有 ゆう している。現在 げんざい では、イングランド法 ほう の影響 えいきょう を受 う け、スコットランド法 ほう に対 たい するコモン・ローの優位 ゆうい が認 みと められているが、イングランドおよびウェールズとは別 べつ の法域 ほういき である。
北 きた アイルランドは、コモン・ローを基本 きほん としている。にもかかわらず、議会 ぎかい が停止 ていし され、独自 どくじ の立法 りっぽう が認 みと められていない間 あいだ もなおそれ自体 じたい がイングランド及 およ びウェールズとは別 べつ の法域 ほういき のままであった。
連合 れんごう 王国 おうこく 外 がい の関連 かんれん する法域 ほういき [ 編集 へんしゅう ]
この節 ふし は検証 けんしょう 可能 かのう な参考 さんこう 文献 ぶんけん や出典 しゅってん が全 まった く示 しめ されていないか、不十分 ふじゅうぶん です。 出典 しゅってん を追加 ついか して記事 きじ の信頼 しんらい 性 せい 向上 こうじょう にご協力 きょうりょく ください。(このテンプレートの使 つか い方 かた ) 出典 しゅってん 検索 けんさく ? : "英国 えいこく 法 ほう " – ニュース · 書籍 しょせき · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL (2021年 ねん 9月 がつ )
Dicey & Morris(p26)によると、ブリテン諸島 しょとう (the British Islands)には、以上 いじょう の3つの法域 ほういき のほかに、マン島 とう 、ジャージー 、ガーンジー 、オルダニー 、サーク という5つの法域 ほういき が存在 そんざい する。これらは、連合 れんごう 王国 おうこく に属 ぞく しないが、連合 れんごう 王国 おうこく の外交 がいこう 権 けん に服 ふく する。また、そのほかにも、イギリスの海外 かいがい 領土 りょうど である、例 たと えばケイマン諸島 しょとう や英 えい 領 りょう ヴァージン諸島 しょとう もそれぞれが1つの法域 ほういき とされている。
もっとも、法律 ほうりつ によっては複数 ふくすう の法域 ほういき を適用 てきよう 範囲 はんい とするものがある点 てん には留意 りゅうい を要 よう する。連合 れんごう 王国 おうこく 全体 ぜんたい に適用 てきよう があるものとして、Bills of Exchange Act 1882(1882年 ねん 為替 かわせ 手形 てがた 法 ほう )がある。グレートブリテン 全体 ぜんたい に適用 てきよう があるものとして、en:Companies Act 1985 (1985年 ねん 会社 かいしゃ 法 ほう )がある。
地方 ちほう 分 ぶん 権化 ごんげ の波 なみ [ 編集 へんしゅう ]
サッチャー政権 せいけん 下 か に地方 ちほう 分権 ぶんけん の流 なが れが始 はじ まり、1997年 ねん の住民 じゅうみん 投票 とうひょう の実施 じっし によりウェールズへの権限 けんげん 委譲 いじょう が実施 じっし され、ウェールズ議会 ぎかい (National Assembly for Wales )にある程度 ていど の自治 じち 権 けん が認 みと められた。
その後 ご 、2007年 ねん ウェールズ総 そう 選挙 せんきょ によってウェールズ議会 ぎかい に独立 どくりつ した立法 りっぽう 権 けん が認 みと められた。これは、2006年 ねん ウェールズ統治 とうち 法 ほう (Government of Wales Act 2006 )によりウェールズ議会 ぎかい 政府 せいふ (Welsh Assembly Government )の第 だい 1次 じ 立法 りっぽう 権 けん が認 みと められたことによるものであるが、民事 みんじ 及 およ び刑事 けいじ の裁判所 さいばんしょ を通 つう じて形成 けいせい される法体 ほうたい 系 けい はイングランドとウェールズで統一 とういつ されたままである。
ウェールズのイングランドとの大 おお きな違 ちが いとして、ウェールズ語 ご の使用 しよう もある。これは、イングランドを除 のぞ きウェールズだけにおいて適用 てきよう される法律 ほうりつ によるものである。連合 れんごう 王国 おうこく の議会 ぎかい 制定 せいてい 法 ほう である1993年 ねん ウェールズ語法 ごほう (Welsh Language Act 1993 )は、ウェールズ語 ご をウェールズにおいて公共 こうきょう 領域 りょういき に関 かん する限 かぎ りで英語 えいご と等 ひと しい地位 ちい のものとしている。ウェールズ語 ご はまたウェールズの裁判所 さいばんしょ においても使用 しよう することができる。
伝統 でんとう 的 てき に、法域 ほういき としてのイングランド及 およ びウェールズは単 たん にイングランドと呼 よ ばれてきたが、この用法 ようほう は、この数 すう 十 じゅう 年 ねん においては政治 せいじ 的 てき に受 う け容 い れがたくなってきている。
^ 王 おう が不在 ふざい で王 おう のベンチだけが有 あ る、という意味 いみ である。なお、現在 げんざい でも裁判官 さいばんかん を「bench」と表現 ひょうげん することがある。
^ 英国 えいこく には、日本 にっぽん やアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく のように人権 じんけん 規定 きてい がないのみならず、カタログ的 てき な意味 いみ での人権 じんけん という観念 かんねん そのものがなかったとされ、イギリス憲法 けんぽう によって保障 ほしょう されているのは、人権 じんけん でなく、市民 しみん 的 てき 自由 じゆう そのものであるとされている。
^ 2005年 ねん の憲法 けんぽう 改革 かいかく 法 ほう (英語 えいご ) により、2009年 ねん 10月 がつ 1日 にち になり、ようやく貴族 きぞく 院 いん と別個 べっこ のイギリス最高裁判所 さいこうさいばんしょ が作 つく られた。なお、大 だい 法官 ほうかん は、従来 じゅうらい 、貴族 きぞく 院 いん の議長 ぎちょう として立法 りっぽう 権 けん 、司法 しほう 権 けん を併 あわ せた地位 ちい であったのみならず、内閣 ないかく の一員 いちいん (閣僚 かくりょう )として行政 ぎょうせい 権 けん の一角 いっかく をも占 し めていたが、同 おな じく2005年 ねん の憲法 けんぽう 改革 かいかく 法 ほう により、内閣 ないかく の一員 いちいん (閣僚 かくりょう )としての地位 ちい のみとなって現在 げんざい に至 いた っている。
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