インドの総督そうとく

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インド総督そうとくから転送てんそう
イギリスの旗 イギリス
インドふくおうけん総督そうとく
インド総督そうとくはた(1885ねん-1947ねん
呼称こしょう閣下かっか
担当たんとう機関きかんインド総督そうとく
庁舎ちょうしゃ
任命にんめい
創設そうせつ1773ねん10がつ20日はつか
初代しょだいウォーレン・ヘースティングズ
最後さいごチャクラヴァルティー・ラージャゴーパーラーチャーリー
廃止はいし1950ねん1がつ26にち

インド総督そうとく(インドそうとく、Governor-General of India)は、イギリス政府せいふ1858ねんまではイギリスひがしインド会社かいしゃ)が植民しょくみんインドいていた総督そうとくである。

歴史れきし[編集へんしゅう]

1824ねんカルカッタベンガル総督そうとく官邸かんてい英語えいごばんえがいた絵画かいが(ジェイムズ・バイリー・フレイザー
1902ねん12月29にちぞうるインドふくおうけん総督そうとくカーゾンきょう夫妻ふさい

イギリスひがしインド会社かいしゃエリザベスあさの1600ねん勅許ちょっきょじょうによって成立せいりつした勅許ちょっきょ会社かいしゃであり、東洋とうよう貿易ぼうえき独占どくせんする権利けんりみとめられていた[1]

1757ねんにベンガル太守たいしゅプラッシーのたたか勝利しょうりし、ムガル帝国ていこく皇帝こうていよりベンガルしゅう徴税ちょうぜいけん獲得かくとくしたイギリスひがしインド会社かいしゃはいよいよ商人しょうにん仮面かめんてて政治せいじてき軍事ぐんじてきにインドを支配しはいすることを目論もくろむようになり、植民しょくみん政策せいさくすすめていった[2]

イギリスひがしインド会社かいしゃがインドにいていた3つの商館しょうかんボンベイマドラスカルカッタ)が獲得かくとくした支配しはい領域りょういき管区かんく(Presidency)とばれ、それぞれに知事ちじ(Governor)がかれた(ボンベイ知事ちじ、マドラス知事ちじ、ベンガル知事ちじ[3]。この3つの商館しょうかん知事ちじ権限けんげんははじめ同等どうとうだったが、経済けいざいてきもっと重要じゅうようなのはカルカッタ(ベンガル)だったため、1773ねん規正きせいほうによりカルカッタの商館しょうかんが「最高さいこう商館しょうかん(Supreme council)」、ベンガル知事ちじベンガル総督そうとく(Governor-General)に昇格しょうかくし、の2つの管区かんく政府せいふ監督かんとくけんあたえられるにいたった[4]。また同年どうねんにベンガル総督そうとくはムガル皇帝こうてい臣下しんかれいることを拒否きょひしている[5]

1803ねんだい2マラーター戦争せんそうにおいてイギリスひがしインド会社かいしゃがインド大陸たいりく最大さいだい勢力せいりょくマラータ同盟どうめい勝利しょうりすると、イギリスひがしインド会社かいしゃのインド支配しはいはほぼ確定かくていした(ムガル皇帝こうていにとってはイギリスひがしインド会社かいしゃとマラータ同盟どうめい戦争せんそうは「ベンガル徴税ちょうぜい長官ちょうかん」と「摂政せっしょう」という「家臣かしん同士どうしあらそいにぎなかったので介入かいにゅうしなかったが、この戦争せんそうムガル皇帝こうていはイギリスひがしインド会社かいしゃからの年金ねんきん細々こまごまらす年金ねんきん生活せいかつしゃす)[6]

1833ねん特許とっきょほうでベンガル総督そうとくインド総督そうとく改称かいしょうされた。ここに名実めいじつともにカルカッタの最高さいこう商館しょうかんがイギリスひがしインド会社かいしゃりょう中央ちゅうおう政府せいふとなった[7]

1773ねん規正きせいほうではベンガル総督そうとく任免にんめんひがしインド会社かいしゃ役員やくいんかい専権せんけん事項じこうとされていたが、1784ねん首相しゅしょうウィリアム・ピットしょうピット)がインドほう制定せいていし、イギリス政府せいふないひがしインド会社かいしゃ監督かんとくおこなインドちょうBoard of Control)を設置せっちした。インドちょう法律ほうりつ上東うえひがしインド会社かいしゃ政務せいむにだけ参画さんかくすることになっていたが、実際じっさいには商務しょうむにもくちすことがおおく、やがて会社かいしゃ役員やくいんかいいて会社かいしゃ支配しはいするようになった。総督そうとく任免にんめんもイギリス政府せいふ事実じじつじょう決定けっていし、会社かいしゃ役員やくいんかいはイギリス政府せいふ人選じんせん都合つごうわるいとかんじた場合ばあい拒否きょひけん発動はつどうするにとどまった。そのため徐々じょじょ役員やくいんかい不要ふようかんがえられるようになり、1833ねん特許とっきょほうでは会社かいしゃ役員やくいんかいはインドちょう諮問しもん機関きかん格下かくさげされるにいたった[8]

形式けいしきてきにはひがしインド会社かいしゃ役員やくいんかい商務しょうむ人事じんじけんのこしたので、1858ねんまでインドはイギリス本国ほんごく政府せいふひがしインド会社かいしゃじゅう支配しはい状態じょうたいかれていたといえる。しかし1858ねんインドだい反乱はんらんにムガル帝国ていこくとイギリスひがしインド会社かいしゃ統治とうち正式せいしきはいされ、以降いこうインドはヴィクトリア女王じょおう実質じっしつてきには女王じょおう陛下へいか政府せいふ)の直接ちょくせつ統治とうちかれることになった(えいりょうインド帝国ていこく)。これにともな本国ほんごくのインドちょうインドしょう昇格しょうかく、またインド総督そうとくはインドないにおいてふくおう(Viceroy)の称号しょうごう使用しようするようになった[9]

総督そうとくえいりょうインド帝国ていこく時代じだい全期ぜんきつうじて専制せんせい君主くんしゅ同然どうぜん独裁どくさい権力けんりょく掌握しょうあくつづけたが、1947ねんのインド独立どくりつインド連邦れんぽう総督そうとく改組かいそされ、名目めいもくじょう国家こっか元首げんしゅとなった。さら1950ねん共和きょうわせい移行いこうする憲法けんぽうさだめられたことで総督そうとくポストは廃止はいしされた[10]

人選じんせん[編集へんしゅう]

インド総督そうとく人選じんせん基本きほんてき首相しゅしょうインド担当たんとう大臣だいじん相談そうだんしてめることがおおかったが、インド担当たんとう大臣だいじん判断はんだんのみでまったり、おう独断どくだんめるケースもあり、一様いちようではない[11]

総督そうとく任命にんめいされたもの経歴けいれきは、政治せいじ軍人ぐんじん外交がいこうかん、インド政府せいふ行政ぎょうせいかん各自かくじばらばらである[12]政治せいじから任命にんめいされたものなかにはのち首相しゅしょう候補こうほとなるような大物おおもの政治せいじもいたが(ウェルズリーきょうランズダウンきょうカーゾンきょうハリファックスきょうなど)、実際じっさい首相しゅしょうになったものはいない[13]

権能けんのう[編集へんしゅう]

インド総督そうとくは、インドにおいて国家こっか元首げんしゅ儀礼ぎれい行為こうい)と首相しゅしょう行政ぎょうせい)をねた役割やくわりたす[14]内閣ないかく相当そうとうする行政ぎょうせい参事さんじかい(Executive Council)と軍事ぐんじりょく掌握しょうあくするインドぐんそう司令しれいかん英語えいごばん補佐ほさけながら、インド統治とうちにあたる[10]一応いちおう立法りっぽう議会ぎかい存在そんざいし、改革かいかくのたびにすこしずつその権能けんのう公選こうせん範囲はんい拡張かくちょうされたものの、結局けっきょく総督そうとく諮問しもん機関きかん以上いじょう存在そんざいにはならず、1947ねんのインド独立どくりつまで総督そうとくはインドにおいて専制せんせい君主くんしゅ同然どうぜん独裁どくさい権力けんりょく保持ほじつづけた[10]

イギリス本国ほんごくとの関係かんけいにおいて、インド総督そうとくはインド担当たんとう大臣だいじん責任せきにんっているが、イギリス議会ぎかいには責任せきにんわない。インド総督そうとくはインド担当たんとう大臣だいじんしたがうべきとかんがえられており(ただし総督そうとくはあくまでイギリス国王こくおうインド皇帝こうてい)の名代なだいであって、インド担当たんとう大臣だいじん代理人だいりにんではなかった)、両者りょうしゃ意見いけん対立たいりつした場合ばあいにはインド総督そうとく辞職じしょくするのが慣例かんれいになっていた。そのため一般いっぱんてき傾向けいこうとして1870ねんにインドとイギリス本国ほんごく電信でんしん開通かいつうしたのち本国ほんごくからの影響えいきょうりょくつよまったとえる[14]

任期にんき基本きほんてきに5ねんである[10]

待遇たいぐう[編集へんしゅう]

インド総督そうとくは1773ねん規正きせいほう以来いらい、2まん5000ポンドの年俸ねんぽうける高給こうきゅうりだった(19世紀せいき初頭しょとうのイギリス閣僚かくりょう年俸ねんぽうは5000ポンド)。そのためインド総督そうとくしょくは「だいえい帝国ていこくもっと魅力みりょくてきなポスト」とひょうされた。この年俸ねんぽうかれて総督そうとくしょくけたものおおいとられる[15]

一方いっぽうでインドはイギリスじんにとって健康けんこうがいしやすい土地とちであり、「インドは総督そうとく墓場はかば」ともひょうされていた。インドで死亡しぼうした総督そうとくには、初代しょだいコーンウォリス侯爵こうしゃくだい8だいエルギン伯爵はくしゃく、それから暗殺あんさつされただい6だいメイヨー伯爵はくしゃくの3にんがある。またインドで病気びょうきになり、帰国きこく病死びょうしした総督そうとく初代しょだいミントー男爵だんしゃく初代しょだいダルハウジー侯爵こうしゃく初代しょだいカニング伯爵はくしゃく初代しょだいウェーヴェル子爵ししゃくの4にんがいる[16]

紋章もんしょう [編集へんしゅう]

歴代れきだい総督そうとく[編集へんしゅう]

ベンガル総督そうとく[編集へんしゅう]

1773ねんイギリスひがしインド会社かいしゃベンガル知事ちじがベンガル総督そうとく昇格しょうかくし、知事ちじより優越ゆうえつてき地位ちいつ。任命にんめいしゃはイギリスひがしインド会社かいしゃ

だい 写真しゃしん 在任ざいにんちゅう爵位しゃくい
氏名しめい
(なま没年ぼつねん)
在任ざいにん期間きかん 事績じせき特筆とくひつ事項じこう
1 ウォーレン・ヘースティングズ
(1732–1818)
1773ねん10がつ20日はつか
- 1785ねん2がつ1にち
だい2マイソール戦争せんそう
はんえい連合れんごうくず[17]
臨時りんじ 初代しょだいじゅん男爵だんしゃく
サー・ジョン・マクファーソン英語えいごばん
(1745–1821)
1785ねん2がつ1にち
- 1786ねん9月12にち
2 初代しょだいコーンウォリス侯爵こうしゃく[注釈ちゅうしゃく 1]
チャールズ・コーンウォリス
(1738–1805)
1786ねん9月12にち
- 1793ねん10月28にち
だい3マイソール戦争せんそう[18]
政府せいふ要職ようしょくからのインドじん排除はいじょ[18]
永代えいたいぜい制度せいど導入どうにゅう[18]
3 サー・ジョン・ショア英語えいごばん
(1751–1834)
1793ねん10月28にち
- 1798ねん3月18にち
臨時りんじ サー・オーレッド・クラーク英語えいごばん
(1744–1832)
1798ねん3月18にち
- 1798ねん5月18にち
4 初代しょだいウェルズリー侯爵こうしゃく[注釈ちゅうしゃく 2]
リチャード・ウェルズリー
(1760–1842)
1798ねん5月18にち
- 1805ねん7がつ30にち
だい4マイソール戦争せんそうマイソール征服せいふく[18]
だい2マラーター戦争せんそう勝利しょうり
5 初代しょだいコーンウォリス侯爵こうしゃく
チャールズ・コーンウォリス
(1738–1805)
1805ねん7がつ30にち
- 1805ねん10月5にち
再任さいにん
在職ざいしょくちゅうにインドで死没しぼつ[19]
臨時りんじ 初代しょだいじゅん男爵だんしゃく
サー・ジョージ・バーロウ英語えいごばん
(1762–1847)
1805ねん10がつ10日とおか
- 1807ねん7がつ31にち
6 初代しょだいミントー男爵だんしゃく
ギルバート・エリオット=マーレイ=キニンマウンド
(1751–1814)
1807ねん7がつ31にち
- 1813ねん10月4にち
ジャワ遠征えんせい[20]
摂政せっしょう皇太子こうたいしジョージ圧力あつりょく解任かいにん[20]
7 初代しょだいヘイスティングズ侯爵こうしゃく[注釈ちゅうしゃく 3]
フランシス・ロードン=ヘイスティングズ
(1754–1826)
1813ねん10月4にち
- 1823ねん1がつ9にち
グルカ戦争せんそう[20]
だい3マラータ戦争せんそうマラータ同盟どうめい征服せいふく[20]
シンガポール獲得かくとく[20]
臨時りんじ ジョン・アダム英語えいごばん
(1779–1825)
1823ねん1がつ9にち
- 1823ねん8がつ1にち
8 初代しょだいアマースト伯爵はくしゃく英語えいごばん
ウィリアム・ピット・アマースト
(1773–1857)
1823ねん8がつ1にち
- 1828ねん3月13にち
だい1えいはる戦争せんそう[20]
臨時りんじ ウィリアム・バターワース・ベイリー英語えいごばん
(1782–1860)
1828ねん3月13にち
- 1828ねん7がつ4にち
9 ウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンクきょう
(1774–1839)
1828ねん7がつ4にち
-
サティー禁止きんし[20]

インド総督そうとく[編集へんしゅう]

1833ねんに、ベンガル総督そうとくをインド総督そうとく改称かいしょう任命にんめいしゃはイギリスひがしインド会社かいしゃ

だい 写真しゃしん 在任ざいにんちゅう爵位しゃくい
氏名しめい
(なま没年ぼつねん)
在任ざいにん期間きかん 事績じせき特筆とくひつ事項じこう
9 ウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンクきょう
(1774–1839)

- 1835ねん3がつ20日はつか
臨時りんじ だい3だいじゅん男爵だんしゃく
サー・チャールズ・メトカーフ英語えいごばん
(1785–1846)
1835ねん3がつ20日はつか
- 1836ねん3月4にち
10 初代しょだいオークランド伯爵はくしゃく[注釈ちゅうしゃく 4]
ジョージ・イーデン
(1784–1849)
1836ねん3月4にち
- 1842ねん2がつ28にち
だいいちアフガン戦争せんそう[20]
11 初代しょだいエレンボロー男爵だんしゃく
エドワード・ロウ
(1790–1871)
1842ねん2がつ28にち
- 1844ねん6がつ
シンドグワリオール遠征えんせい[20]
臨時りんじ ウィリアム・ウィルバーフォース・バード
(1784–1857)
1844ねん6がつ
- 1844ねん7がつ23にち
12 サー・ヘンリー・ハーディング
(1785–1856)
1844ねん7がつ23にち
- 1848ねん1がつ12にち
だい1シク戦争せんそうペシャワールカシミール獲得かくとく[21]
13 初代しょだいダルハウジー侯爵こうしゃく
ジェイムズ・ラムゼイ
(1812–1860)
1848ねん1がつ12にち
- 1856ねん2がつ28にち
だい2シク戦争せんそうパンジャブ併合へいごう[21]
だい2えいはる戦争せんそうしもビルマ併合へいごう[21]
失権しっけん原理げんりはん王国おうこく併合へいごう推進すいしん[22]
14 初代しょだいカニング子爵ししゃく
チャールズ・カニング
(1812–1862)
1856ねん2がつ28にち
-
インドだい反乱はんらん鎮圧ちんあつ[21]

インドふくおうけん総督そうとく[編集へんしゅう]

1858ねん11月にヴィクトリア女王じょおう女王じょおう陛下へいか政府せいふ)の直接ちょくせつ統治とうち移行いこうイギリスりょうインド帝国ていこく)。任命にんめいしゃ国王こくおう女王じょおう)であり、以降いこうふくおう称号しょうごう使用しよう

だい 写真しゃしん 在任ざいにんちゅう爵位しゃくい
氏名しめい
(なま没年ぼつねん)
在任ざいにん期間きかん 事績じせき特筆とくひつ事項じこう
14 初代しょだいカニング伯爵はくしゃく[注釈ちゅうしゃく 5]
チャールズ・カニング
(1812–1862)

- 1862ねん3月21にち
女王じょおう直接ちょくせつ統治とうちへの移行いこう[21]
15 だい8だいエルギン伯爵はくしゃく
ジェイムズ・ブルース
(1811–1863)
1862ねん3月21にち
-1863ねん11月20にち
在職ざいしょくちゅうインドで病死びょうし[21]
臨時りんじ サー・ロバート・ネイピア英語えいごばん
(1810–1890)
1863ねん11月21にち
-1863ねん12月2にち
臨時りんじ サー・ウィリアム・デニソン英語えいごばん
(1804–1871)
1863ねん12月2にち
- 1864ねん1がつ12にち
16 初代しょだいじゅん男爵だんしゃく
サー・ジョン・ローレンス
(1811–1879)
1864ねん1がつ12にち
- 1869ねん1がつ12にち
ブータン保護ほごこく[23]
17 だい6だいメイヨー伯爵はくしゃく
リチャード・ボーク
(1822–1872)
1869ねん1がつ12にち
- 1872ねん2がつ8にち
暗殺あんさつされた唯一ゆいいつ総督そうとく[23]
臨時りんじ サー・ジョン・ストレイチー
(1823–1907)
1872ねん2がつ9にち
- 1872ねん2がつ23にち
臨時りんじ だい10代ネイピアきょう
フランシス・ネイピア
(1819–1898)
1872ねん2がつ24にち
- 1872ねん5月3にち
18 だい2だいノースブルック男爵だんしゃく
トマス・ベアリング
(1826–1904)
1872ねん5月3にち
- 1876ねん4がつ12にち
インド担当たんとうしょうソールズベリーこう対立たいりつ辞職じしょく[23]
19 だい2だいリットン男爵だんしゃく
ロバート・ブルワー=リットン
(1831–1891)
1876ねん4がつ12にち
- 1880ねん6月8にち
ダルバール英語えいごばん挙行きょこう
だいアフガン戦争せんそう[23]
20 初代しょだいリポン侯爵こうしゃく
ジョージ・ロビンソン
(1827–1909)
1880ねん6がつ8にち
- 1884ねん12月13にち
唯一ゆいいつカトリック総督そうとく[24]
フリーメイソンのグランドマスター[24]
21 初代しょだいダファリン伯爵はくしゃく
フレデリック・ハミルトン=テンプル=ブラックウッド
(1826–1902)
1884ねん12月13にち
- 1888ねん12月10にち
だいさんえいはる戦争せんそううえビルマ併合へいごう[24]
シッキムからチベットじん追放ついほう[24]
シムラー総督そうとく官邸かんてい建設けんせつ[24]
22 だい5だいランズダウン侯爵こうしゃく
ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス
(1845–1927)
1888ねん12がつ10日とおか
- 1894ねん10月11にち
シッキム保護ほごこく[24]
23 だい9だいエルギン伯爵はくしゃく
ヴィクター・ブルース
(1849–1917)
1894ねん10がつ11にち
- 1899ねん1がつ6にち
チトラル遠征えんせい英語えいごばん[25]
24 初代しょだいカーゾン男爵だんしゃく
ジョージ・カーゾン
(1859–1925)
1899ねん1がつ6にち
- 1905ねん11月18にち[注釈ちゅうしゃく 6]
北西ほくせい辺境へんきょうしゅう英語えいごばん新設しんせつ[24]
ベンガル分割ぶんかつ計画けいかく推進すいしん[26]
イギリスのチベット遠征えんせい[27]
25 だい4だいミントー伯爵はくしゃく
ギルバート・エリオット=マーレイ=キニンマウンド
(1845–1914)
1905ねん11月18にち
- 1910ねん11月23にち
1909ねんインド政府せいふほう制定せいてい[28]
26 初代しょだいペンズハーストのハーディング男爵だんしゃく
チャールズ・ハーディング
(1858–1944)
1910ねん11月23にち
- 1916ねん4がつ4にち
カルカッタからデリー遷都せんと[26]
だいいち世界せかい大戦たいせん開戦かいせん
27 だい3だいチェルムスフォード男爵だんしゃく
フレデリック・セシジャー
(1868–1933)
1916ねん4がつ4にち
- 1921ねん4がつ2にち
1919ねんインド政府せいふほう[29]
ローラットほうアムリットサル事件じけんなど強圧きょうあつ統治とうち[30]
だいさんアフガン戦争せんそう[26]
28 初代しょだいレディング伯爵はくしゃく
ルーファス・アイザックス
(1860–1935)
1921ねん4がつ2にち
- 1926ねん4がつ3にち
唯一ゆいいつユダヤじん総督そうとく[31]
ローラットほう廃止はいし[32]
ヒンズーとイスラムの抵抗ていこう運動うんどう分断ぶんだん[33]
29 初代しょだいアーウィン男爵だんしゃく
エドワード・ウッド
(1881–1959)
1926ねん4がつ3にち
- 1931ねん4がつ18にち
ガンディーしお行進こうしん
はんえい運動うんどう弾圧だんあつ[34]
円卓えんたく会議かいぎ開催かいさい決定けってい
30 初代しょだいウィリングドン伯爵はくしゃく
フリーマン・フリーマン=トーマス
(1866–1941)
1931ねん4がつ18にち
- 1936ねん4がつ18にち
円卓えんたく会議かいぎ決裂けつれつ[35]
だい服従ふくじゅう運動うんどう弾圧だんあつ[35]
31 だい2だいリンリスゴー侯爵こうしゃく
ヴィクター・ホープ
(1887–1952)
1936ねん4がつ18にち
- 1943ねん10月1にち
独断どくだんでインドをだい世界せかい大戦たいせん参戦さんせんさせる[36]
インドから運動うんどう英語えいごばん」を弾圧だんあつ[37]
32 初代しょだいウェーヴェル子爵ししゃく
アーチボルド・ウェーヴェル
(1883–1950)
1943ねん10がつ1にち
- 1947ねん2がつ21にち
戦時せんじ体制たいせい強化きょうか[38]
戦後せんごにはインド自治じち政府せいふ発足ほっそくさせる[38]
33 初代しょだいビルマのマウントバッテン子爵ししゃく
ルイス・マウントバッテン
(1900–1979)
1947ねん2がつ21にち
-
唯一ゆいいつ王族おうぞく総督そうとく[38]
インド連邦れんぽう創設そうせつ

インド連邦れんぽう総督そうとく[編集へんしゅう]

1947ねん8がつインド・パキスタン分離ぶんり独立どくりつ。マウントバッテンは独立どくりつこくインド連邦れんぽう総督そうとく横滑よこすべりする。

だい 写真しゃしん 在任ざいにんちゅう爵位しゃくい
氏名しめい
(なま没年ぼつねん)
在任ざいにん期間きかん 事績じせき特筆とくひつ事項じこう
33  初代しょだいビルマのマウントバッテン伯爵はくしゃく[注釈ちゅうしゃく 7]
ルイス・マウントバッテン
(1900–1979)

- 1948ねん6月21にち
34  チャクラヴァルティー・ラージャゴーパーラーチャーリー
(1878–1972)
1948ねん6月21にち
- 1950ねん1がつ26にち
唯一ゆいいつのインドじん総督そうとく
最後さいごのインド総督そうとく

インドが憲法けんぽう施行しこうによって共和きょうわこくになったことにともない、総督そうとくポストは廃止はいしインドの大統領だいとうりょうがこれをぐ。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 在職ざいしょくちゅうの1792ねんにコーンウォリス侯爵こうしゃく叙爵じょしゃく
  2. ^ 在職ざいしょくちゅうの1799ねんにウェルズリー侯爵こうしゃく叙爵じょしゃく
  3. ^ 在職ざいしょくちゅうの1816ねんにヘイスティングズ侯爵こうしゃく叙爵じょしゃく
  4. ^ 在職ざいしょくちゅうの1839ねんにオークランド伯爵はくしゃく叙爵じょしゃく
  5. ^ 在職ざいしょくちゅうの1859ねんにカニング伯爵はくしゃく叙爵じょしゃく
  6. ^ 1904ねん一時期いちじきだい2だいアムトヒル男爵だんしゃくオリヴァー・ラッセル英語えいごばん代行だいこう
  7. ^ 在職ざいしょくちゅうの1947ねんにビルマのマウントバッテン伯爵はくしゃく叙爵じょしゃく

出典しゅってん[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 坂井さかい秀夫ひでお『イギリス・インド統治とうち終焉しゅうえん 1910ねん~1947ねんそうぶんしゃ、1988ねんISBN 978-4423710401 
  • 長崎ながさき暢子ようこ『インドだい反乱はんらんいちはちななねん中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ中公新書ちゅうこうしんしょ606〉、1981ねんISBN 978-4121006066 
  • はまうず哲雄てつおだいえい帝国ていこくインド総督そうとく列伝れつでん イギリスはいかにインドを統治とうちしたか』中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ、1999ねんISBN 978-4120029370 
  • 世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん平凡社へいぼんしゃ、1988ねんISBN 978-4120029370 

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]