インド総督 そうとく (インドそうとく、Governor-General of India)は、イギリス政府 せいふ (1858年 ねん まではイギリス東 ひがし インド会社 かいしゃ )が植民 しょくみん 地 ち インド に置 お いていた総督 そうとく である。
1824年 ねん のカルカッタ のベンガル総督 そうとく 官邸 かんてい (英語 えいご 版 ばん ) を描 えが いた絵画 かいが (ジェイムズ・バイリー・フレイザー画 が )
1902年 ねん 12月29日 にち 、象 ぞう に乗 の るインド副 ふく 王 おう 兼 けん 総督 そうとく カーゾン卿 きょう 夫妻 ふさい 。
イギリス東 ひがし インド会社 かいしゃ はエリザベス朝 あさ の1600年 ねん に勅許 ちょっきょ 状 じょう によって成立 せいりつ した勅許 ちょっきょ 会社 かいしゃ であり、東洋 とうよう 貿易 ぼうえき を独占 どくせん する権利 けんり を認 みと められていた[1] 。
1757年 ねん にベンガル太守 たいしゅ にプラッシーの戦 たたか い で勝利 しょうり し、ムガル帝国 ていこく 皇帝 こうてい よりベンガル州 しゅう の徴税 ちょうぜい 権 けん を獲得 かくとく したイギリス東 ひがし インド会社 かいしゃ はいよいよ商人 しょうにん の仮面 かめん を脱 ぬ ぎ捨 す てて政治 せいじ 的 てき ・軍事 ぐんじ 的 てき にインドを支配 しはい することを目論 もくろ むようになり、植民 しょくみん 地 ち 化 か 政策 せいさく を推 お し進 すす めていった[2] 。
イギリス東 ひがし インド会社 かいしゃ がインドに置 お いていた3つの商館 しょうかん (ボンベイ 、マドラス 、カルカッタ )が獲得 かくとく した支配 しはい 領域 りょういき は管区 かんく (Presidency)と呼 よ ばれ、それぞれに知事 ちじ (Governor)が置 お かれた(ボンベイ知事 ちじ 、マドラス知事 ちじ 、ベンガル知事 ちじ )[3] 。この3つの商館 しょうかん と知事 ちじ の権限 けんげん ははじめ同等 どうとう だったが、経済 けいざい 的 てき に最 もっと も重要 じゅうよう なのはカルカッタ(ベンガル)だったため、1773年 ねん 規正 きせい 法 ほう によりカルカッタの商館 しょうかん が「最高 さいこう 商館 しょうかん (Supreme council)」、ベンガル知事 ちじ がベンガル総督 そうとく (Governor-General)に昇格 しょうかく し、他 た の2つの管区 かんく 政府 せいふ の監督 かんとく 権 けん を与 あた えられるに至 いた った[4] 。また同年 どうねん にベンガル総督 そうとく はムガル皇帝 こうてい に臣下 しんか の礼 れい を取 と ることを拒否 きょひ している[5] 。
1803年 ねん に第 だい 2次 じ マラーター戦争 せんそう においてイギリス東 ひがし インド会社 かいしゃ がインド亜 あ 大陸 たいりく 最大 さいだい 勢力 せいりょく マラータ同盟 どうめい に勝利 しょうり すると、イギリス東 ひがし インド会社 かいしゃ のインド支配 しはい はほぼ確定 かくてい した(ムガル皇帝 こうてい にとってはイギリス東 ひがし インド会社 かいしゃ とマラータ同盟 どうめい の戦争 せんそう は「ベンガル徴税 ちょうぜい 長官 ちょうかん 」と「摂政 せっしょう 」という「家臣 かしん 」同士 どうし の争 あらそ いに過 す ぎなかったので介入 かいにゅう しなかったが、この戦争 せんそう 後 ご ムガル皇帝 こうてい はイギリス東 ひがし インド会社 かいしゃ からの年金 ねんきん で細々 こまごま と暮 く らす年金 ねんきん 生活 せいかつ 者 しゃ と化 か す)[6] 。
1833年 ねん の特許 とっきょ 法 ほう でベンガル総督 そうとく はインド総督 そうとく と改称 かいしょう された。ここに名実 めいじつ ともにカルカッタの最高 さいこう 商館 しょうかん がイギリス東 ひがし インド会社 かいしゃ 領 りょう の中央 ちゅうおう 政府 せいふ となった[7] 。
1773年 ねん 規正 きせい 法 ほう ではベンガル総督 そうとく の任免 にんめん は東 ひがし インド会社 かいしゃ 役員 やくいん 会 かい の専権 せんけん 事項 じこう とされていたが、1784年 ねん に首相 しゅしょう ウィリアム・ピット (小 しょう ピット)がインド法 ほう を制定 せいてい し、イギリス政府 せいふ 内 ない に東 ひがし インド会社 かいしゃ の監督 かんとく を行 おこな うインド庁 ちょう (Board of Control )を設置 せっち した。インド庁 ちょう は法律 ほうりつ 上東 うえひがし インド会社 かいしゃ の政務 せいむ にだけ参画 さんかく することになっていたが、実際 じっさい には商務 しょうむ にも口 くち を出 だ すことが多 おお く、やがて会社 かいしゃ 役員 やくいん 会 かい を差 さ し置 お いて会社 かいしゃ を支配 しはい するようになった。総督 そうとく の任免 にんめん もイギリス政府 せいふ が事実 じじつ 上 じょう 決定 けってい し、会社 かいしゃ 役員 やくいん 会 かい はイギリス政府 せいふ の人選 じんせん に都合 つごう が悪 わる いと感 かん じた場合 ばあい に拒否 きょひ 権 けん を発動 はつどう するに留 とど まった。そのため徐々 じょじょ に役員 やくいん 会 かい は不要 ふよう と考 かんが えられるようになり、1833年 ねん 特許 とっきょ 法 ほう では会社 かいしゃ 役員 やくいん 会 かい はインド庁 ちょう の諮問 しもん 機関 きかん に格下 かくさ げされるに至 いた った[8] 。
形式 けいしき 的 てき には東 ひがし インド会社 かいしゃ 役員 やくいん 会 かい も商務 しょうむ や人事 じんじ 権 けん を残 のこ したので、1858年 ねん までインドはイギリス本国 ほんごく 政府 せいふ と東 ひがし インド会社 かいしゃ の二 に 重 じゅう 支配 しはい 状態 じょうたい に置 お かれていたといえる。しかし1858年 ねん のインド大 だい 反乱 はんらん を機 き にムガル帝国 ていこく とイギリス東 ひがし インド会社 かいしゃ の統治 とうち は正式 せいしき に廃 はい され、以降 いこう インドはヴィクトリア女王 じょおう (実質 じっしつ 的 てき には女王 じょおう 陛下 へいか の政府 せいふ )の直接 ちょくせつ 統治 とうち 下 か に置 お かれることになった(英 えい 領 りょう インド帝国 ていこく )。これに伴 ともな い本国 ほんごく のインド庁 ちょう はインド省 しょう に昇格 しょうかく 、またインド総督 そうとく はインド内 ない において副 ふく 王 おう (Viceroy)の称号 しょうごう を使用 しよう するようになった[9] 。
総督 そうとく は英 えい 領 りょう インド帝国 ていこく 時代 じだい 全期 ぜんき を通 つう じて専制 せんせい 君主 くんしゅ も同然 どうぜん の独裁 どくさい 権力 けんりょく を掌握 しょうあく し続 つづ けたが、1947年 ねん のインド独立 どくりつ でインド連邦 れんぽう 総督 そうとく に改組 かいそ され、名目 めいもく 上 じょう の国家 こっか 元首 げんしゅ となった。更 さら に1950年 ねん に共和 きょうわ 政 せい へ移行 いこう する憲法 けんぽう が定 さだ められたことで総督 そうとく ポストは廃止 はいし された[10] 。
インド総督 そうとく の人選 じんせん は基本 きほん 的 てき に首相 しゅしょう がインド担当 たんとう 大臣 だいじん と相談 そうだん して決 き めることが多 おお かったが、インド担当 たんとう 大臣 だいじん の判断 はんだん のみで決 き まったり、王 おう が独断 どくだん で取 と り決 き めるケースもあり、一様 いちよう ではない[11] 。
総督 そうとく に任命 にんめい された者 もの の経歴 けいれき は、政治 せいじ 家 か 、軍人 ぐんじん 、外交 がいこう 官 かん 、インド政府 せいふ 行政 ぎょうせい 官 かん と各自 かくじ ばらばらである[12] 。政治 せいじ 家 か から任命 にんめい された者 もの の中 なか には後 のち に首相 しゅしょう 候補 こうほ となるような大物 おおもの 政治 せいじ 家 か もいたが(ウェルズリー卿 きょう 、ランズダウン卿 きょう 、カーゾン卿 きょう 、ハリファックス卿 きょう など)、実際 じっさい に首相 しゅしょう になった者 もの はいない[13] 。
インド総督 そうとく は、インドにおいて国家 こっか 元首 げんしゅ (儀礼 ぎれい 行為 こうい )と首相 しゅしょう (行政 ぎょうせい )を兼 か ねた役割 やくわり を果 は たす[14] 。内閣 ないかく に相当 そうとう する行政 ぎょうせい 参事 さんじ 会 かい (Executive Council)と軍事 ぐんじ 力 りょく を掌握 しょうあく するインド軍 ぐん 総 そう 司令 しれい 官 かん (英語 えいご 版 ばん ) の補佐 ほさ を受 う けながら、インド統治 とうち にあたる[10] 。一応 いちおう 立法 りっぽう 議会 ぎかい も存在 そんざい し、改革 かいかく のたびに少 すこ しずつその権能 けんのう や公選 こうせん の範囲 はんい が拡張 かくちょう されたものの、結局 けっきょく 総督 そうとく の諮問 しもん 機関 きかん 以上 いじょう の存在 そんざい にはならず、1947年 ねん のインド独立 どくりつ まで総督 そうとく はインドにおいて専制 せんせい 君主 くんしゅ も同然 どうぜん の独裁 どくさい 権力 けんりょく を保持 ほじ し続 つづ けた[10] 。
イギリス本国 ほんごく との関係 かんけい において、インド総督 そうとく はインド担当 たんとう 大臣 だいじん に責任 せきにん を負 お っているが、イギリス議会 ぎかい には責任 せきにん を負 お わない。インド総督 そうとく はインド担当 たんとう 大臣 だいじん に従 したが うべきと考 かんが えられており(ただし総督 そうとく はあくまでイギリス国王 こくおう (インド皇帝 こうてい )の名代 なだい であって、インド担当 たんとう 大臣 だいじん の代理人 だいりにん ではなかった)、両者 りょうしゃ が意見 いけん 対立 たいりつ した場合 ばあい にはインド総督 そうとく が辞職 じしょく するのが慣例 かんれい になっていた。そのため一般 いっぱん 的 てき 傾向 けいこう として1870年 ねん にインドとイギリス本国 ほんごく に電信 でんしん が開通 かいつう した後 のち 、本国 ほんごく からの影響 えいきょう 力 りょく が強 つよ まったと言 い える[14] 。
任期 にんき は基本 きほん 的 てき に5年 ねん である[10] 。
インド総督 そうとく は1773年 ねん 規正 きせい 法 ほう 以来 いらい 、2万 まん 5000ポンドの年俸 ねんぽう を受 う ける高給 こうきゅう 取 と りだった(19世紀 せいき 初頭 しょとう のイギリス閣僚 かくりょう の年俸 ねんぽう は5000ポンド)。そのためインド総督 そうとく 職 しょく は「大 だい 英 えい 帝国 ていこく で最 もっと も魅力 みりょく 的 てき なポスト」と評 ひょう された。この年俸 ねんぽう に惹 ひ かれて総督 そうとく 職 しょく を引 ひ き受 う けた者 もの は多 おお いと見 み られる[15] 。
一方 いっぽう でインドはイギリス人 じん にとって健康 けんこう を害 がい しやすい土地 とち であり、「インドは総督 そうとく の墓場 はかば 」とも評 ひょう されていた。インドで死亡 しぼう した総督 そうとく には、初代 しょだい コーンウォリス侯爵 こうしゃく と第 だい 8代 だい エルギン伯爵 はくしゃく 、それから暗殺 あんさつ された第 だい 6代 だい メイヨー伯爵 はくしゃく の3人 にん がある。またインドで病気 びょうき になり、帰国 きこく 後 ご に病死 びょうし した総督 そうとく に初代 しょだい ミントー男爵 だんしゃく 、初代 しょだい ダルハウジー侯爵 こうしゃく 、初代 しょだい カニング伯爵 はくしゃく 、初代 しょだい ウェーヴェル子爵 ししゃく の4人 にん がいる[16] 。
1885年 ねん から1947年 ねん のインド総督 そうとく 章 あきら
1885年 ねん から1947年 ねん のインド総督 そうとく 旗 はた
1947年 ねん から1950年 ねん のインド総督 そうとく 旗 はた
1773年 ねん にイギリス東 ひがし インド会社 かいしゃ ベンガル知事 ちじ がベンガル総督 そうとく に昇格 しょうかく し、他 た の知事 ちじ より優越 ゆうえつ 的 てき 地位 ちい に立 た つ。任命 にんめい 者 しゃ はイギリス東 ひがし インド会社 かいしゃ 。
1833年 ねん に、ベンガル総督 そうとく をインド総督 そうとく に改称 かいしょう 。任命 にんめい 者 しゃ はイギリス東 ひがし インド会社 かいしゃ 。
インド副 ふく 王 おう 兼 けん 総督 そうとく [ 編集 へんしゅう ]
1858年 ねん 11月にヴィクトリア女王 じょおう (女王 じょおう 陛下 へいか の政府 せいふ )の直接 ちょくせつ 統治 とうち 下 か へ移行 いこう (イギリス領 りょう インド帝国 ていこく )。任命 にんめい 者 しゃ は国王 こくおう (女王 じょおう )であり、以降 いこう 、副 ふく 王 おう の称号 しょうごう も使用 しよう 。
インド連邦 れんぽう 総督 そうとく [ 編集 へんしゅう ]
1947年 ねん 8月 がつ 、インド・パキスタン分離 ぶんり 独立 どくりつ 。マウントバッテンは独立 どくりつ 国 こく インド連邦 れんぽう の総督 そうとく に横滑 よこすべ りする。
インドが憲法 けんぽう の施行 しこう によって共和 きょうわ 国 こく になったことにともない、総督 そうとく ポストは廃止 はいし 。インドの大統領 だいとうりょう がこれを引 ひ き継 つ ぐ。
^ 在職 ざいしょく 中 ちゅう の1792年 ねん にコーンウォリス侯爵 こうしゃく に叙爵 じょしゃく 。
^ 在職 ざいしょく 中 ちゅう の1799年 ねん にウェルズリー侯爵 こうしゃく に叙爵 じょしゃく 。
^ 在職 ざいしょく 中 ちゅう の1816年 ねん にヘイスティングズ侯爵 こうしゃく に叙爵 じょしゃく 。
^ 在職 ざいしょく 中 ちゅう の1839年 ねん にオークランド伯爵 はくしゃく に叙爵 じょしゃく 。
^ 在職 ざいしょく 中 ちゅう の1859年 ねん にカニング伯爵 はくしゃく に叙爵 じょしゃく 。
^ 1904年 ねん の一時期 いちじき 、第 だい 2代 だい アムトヒル男爵 だんしゃく オリヴァー・ラッセル (英語 えいご 版 ばん ) が代行 だいこう 。
^ 在職 ざいしょく 中 ちゅう の1947年 ねん にビルマのマウントバッテン伯爵 はくしゃく に叙爵 じょしゃく 。
英 えい 連邦 れんぽう 王国 おうこく
非 ひ 独立 どくりつ 地域 ちいき ・自由 じゆう 連合 れんごう など
関連 かんれん 項目 こうもく