インド・パキスタン分離ぶんり独立どくりつ

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インドとパキスタンの分離ぶんり独立どくりつ
だいだい矢印やじるしヒンドゥー教徒きょうとおよびシク教徒きょうと難民なんみんうごき。みどり矢印やじるしイスラム教徒きょうと難民なんみんうごき。
灰色はいいろ当時とうじ帰属きぞく未定みていだったジャンムー・カシミールはん王国おうこくハイデラバードはん王国おうこくカラートはん王国おうこく英語えいごばんジュナーガドはん王国おうこくシッキム王国おうこくおよびオマーンりょうグワーダルポルトガルりょうインドゴアダマン・ディーウダードラーおよびナガル・ハヴェーリー)、フランスりょうインドポンディシェリ

インド・パキスタン分離ぶんり独立どくりつ(インド・パキスタンぶんりどくりつ、英語えいご: Partition of Indiaヒンディー: भारत का विभाजन Bhārat kā Vibhājan または हिंदुस्तान का बटवारा Hindustān kā Batwārāヒンドゥスターニー: ہندوستان کی تقسیم Hindustān ki Taqseemウルドゥー: تقسيم ہند Taqseem-e-Hind)は、1947ねん8がつ14にちおよび15にちイギリスりょうインド帝国ていこく解体かいたいし、インド連邦れんぽうパキスタンこくかれて独立どくりつしたことをす。日本語にほんごではしるし分離ぶんり(いんぱぶんり)、しるし分断ぶんだん(いんぱぶんだん)などとも略称りゃくしょうされる。

イスラム教いすらむきょうムスリム)が多数たすうめるパキスタンからはヒンドゥー教徒きょうとおよびシク教徒きょうとが、インドからはムスリムが難民なんみんとなってのがれ、故郷こきょううしなった人々ひとびとは1500まんにん以上いじょう、それに前後ぜんごして宗教しゅうきょう対立たいりつともな迫害はくがい暴行ぼうこう略奪りゃくだつで100まんにん以上いじょう死亡しぼうしたと推計すいけいされており[1]インド独立どくりつ運動うんどうにおける最大さいだい悲劇ひげきかぞえられる。

この結果けっかインドパキスタン両国りょうこくならつこととなり、両国りょうこく対立たいりつ度々どど戦火せんかしるし戦争せんそう)をふくめて21世紀せいきまでつづき、北部ほくぶカシミール地方ちほう係争けいそうとなっている(カシミール紛争ふんそう)。

パキスタンは当初とうしょ、インドをはさんだ飛地とびちであるひがしパキスタンふくんでいたが、西にしパキスタンによる一方いっぽうてき政治せいじてき支配しはい弾圧だんあつたいする反発はんぱつたかまり、1971ねんバングラデシュとして独立どくりつした。インドはバングラデシュ独立どくりつ戦争せんそう支援しえんして参戦さんせんだいさんしるし戦争せんそう)したため、バングラデシュはおやしるし感情かんじょう比較的ひかくてきつよいとされる。

経緯けいい[編集へんしゅう]

民族みんぞくろん[編集へんしゅう]

だい世界せかい大戦たいせん結果けっかイギリス勝利しょうりしたものの疲弊ひへいしてちょう大国たいこく地位ちいから転落てんらくすることが確実かくじつとなり、だつ植民しょくみんながれがつよまるなかで最大さいだい植民しょくみんであったイギリスりょうインド帝国ていこく解体かいたい不可避ふかひになっていた。

インドとその周辺しゅうへんのイギリス植民しょくみんにおける、宗教しゅうきょうてき多数たすう分布ぶんぷピンク色ぴんくいろがヒンドゥー、緑色みどりいろがイスラム、イギリス統治とうちのビルマ中心ちゅうしんとする黄色おうしょく仏教ぶっきょう

しかし、とうのインドでは多数たすうマジョリティ)のヒンドゥー教徒きょうとと、社会しゃかいてき少数しょうすうしゃマイノリティ)であるムスリムの対立たいりつはげしさをしていた。とくムハンマド・アリー・ジンナー指導しどうしゃとするぜんインド・ムスリム連盟れんめい1940ねんのラホール決議けつぎLahore Resolution)で「民族みんぞくろん[2]Two-Nation Theory)をとなえ、ヒンドゥー教徒きょうととイスラム教徒きょうと分離ぶんり強硬きょうこう主張しゅちょうしていた[3]

ジンナー(ひだり)とガンディー
マウントバッテン総督そうとくひだり)とガンディー(中央ちゅうおう

マハトマ・ガンディーはこうした分離ぶんりうごきにつよ反対はんたいして統一とういつインド実現じつげんとなえており、インド国民こくみん会議かいぎ政教せいきょう分離ぶんり世俗せぞく主義しゅぎ立場たちばから宗教しゅうきょうによる分離ぶんりには慎重しんちょうで、インド共産党きょうさんとうヒンドゥー・ナショナリストもそれぞれの反応はんのうをみせたが、分離ぶんりいきおいがまることはなかった。

分割ぶんかつ確定かくてい[編集へんしゅう]

イギリスも当初とうしょはヒンドゥー教徒きょうとおお地域ちいきヒンドゥスタン、イスラム教徒きょうとおお地域ちいきにパキスタン、そしてかくはん王国おうこくのこし、このさんしゃで「インド連邦れんぽう」を構成こうせいする独立どくりつあん構想こうそうしていたが、合意ごういられなかった[注釈ちゅうしゃく 1]

そこでイギリス最後さいごインド総督そうとくルイス・マウントバッテンはインドを一体いったいとする計画けいかくあきらめ、1947ねん6月4にち、イギリスりょうインド帝国ていこく「インド」と「パキスタン」に分割ぶんかつすることによる独立どくりつインド高等こうとう文官ぶんかんインドぐんインド鉄道てつどう分割ぶんかつふくむ)を、同年どうねん8がつ15にちをもっておこなうあん声明せいめいした。

また、独立どくりつ統治とうち暫定ざんていてき枠組わくぐみをイギリス議会ぎかい制定せいていした1935ねんインド統治とうちほうによっておこなうこともふくまれていた。7がつ18にち施行しこうされた1947ねんインドどく立法りっぽう英語えいごばん(→インド憲法けんぽう#1947ねんインドどく立法りっぽう)は、イギリスりょうインドをインドとパキスタンの2つのあたらしいくに分割ぶんかつし、それぞれのくに憲法けんぽうインド憲法けんぽうおよびパキスタン憲法けんぽうen))が施行しこうされるまでイギリス連邦れんぽう自治領じちりょうドミニオンカナダオーストラリアおな地位ちいで、国際こくさいほううえ独立どくりつこく)とすることをさだめた。

ラドクリフ・ライン[編集へんしゅう]

マウントバッテンが分離ぶんり独立どくりつしめしてから実施じっしうつすまででも2かげつきょう、インドどく立法りっぽう施行しこうからならばわずか1かげつじゃくしかなかったことも問題もんだいだったが、それ以上いじょうだい問題もんだいとなったのは、イスラム教徒きょうと多数たすうめる地域ちいきがイギリスりょうインド帝国ていこく東西とうざいかれて位置いちしていることであった。

このため、西にしパンジャーブ地方ちほうひがしベンガル地方ちほうはそれぞれインド・パキスタン両国りょうこく分割ぶんかつされ、パンジャーブ地方ちほうパンジャーブしゅう (パキスタン)パンジャーブしゅう (インド)のちにそこからさらにハリヤーナーしゅうヒマーチャル・プラデーシュしゅうチャンディーガル分割ぶんかつされる)に、ベンガル地方ちほうひがしパキスタン西にしベンガルしゅう分割ぶんかつされることとなった。この地理ちりてき分割ぶんかつ作業さぎょうは、それまでインドにえんがなかった[4]イギリス首都しゅとロンドン法廷ほうてい弁護士べんごし(バリスター)シリル・ラドクリフCyril Radcliffe)にゆだねられ、このため分割ぶんかつせん分離ぶんり独立どくりつはそのままインド=パキスタン国境こっきょうとなる)はラドクリフ・ラインRadcliffe Line)とばれるようになった。なお、この分割ぶんかつせん独立どくりつ当日とうじつまで公表こうひょうされなかった。

ベンガルでは1905ねんベンガル分割ぶんかつれいちかかたちでの分離ぶんりがなされた(en)が、パンジャーブでは分割ぶんかつ経験けいけんがなかったため、混乱こんらんはよりおおきくなった。

パンジャーブで鉄道てつどう車両しゃりょうからあふれる難民なんみん
暴動ぼうどう調停ちょうていするガンディー
鉄道てつどう車両しゃりょう満載まんさいされる難民なんみん

だい混乱こんらん衝突しょうとつ、そして虐殺ぎゃくさつ[編集へんしゅう]

そしてりょう地方ちほうではヒンドゥー教徒きょうと地域ちいきのイスラム教徒きょうとはイスラム教徒きょうと地域ちいきへ、ぎゃくにイスラム教徒きょうと地域ちいきのヒンドゥー教徒きょうと(およびパンジャーブではシク教徒きょうと)はヒンドゥー教徒きょうと地域ちいきへ、それぞれ強制きょうせいてき移動いどう流入りゅうにゅうによる難民なんみん余儀よぎなくされた。

イスラムほうには、異教徒いきょうと支配しはいにあり、宣教せんきょうジハードによる状況じょうきょう打開だかい当面とうめん不可能ふかのう場合ばあい、イスラム教徒きょうと支配しはいする領域りょういき移住いじゅうすべきという思想しそうがある。その思想しそうもとづき、イスラム教徒きょうとあいだで「ムハージルーン運動うんどう」とばれる移住いじゅう運動うんどう展開てんかいされた。

インド政府せいふ調査ちょうさによる移住いじゅうしゃすうは、パキスタンからインドへがやく840まんにん、インドから東西とうざいパキスタンへはやく715まんにんだった[1]短期間たんきかんでの大量たいりょう人口じんこう移動いどうによってしょうじただい混乱こんらんのため、とくにパンジャーブ地方ちほうではりょう教徒きょうとあいだかぞれないほどの衝突しょうとつ暴動ぼうどう虐殺ぎゃくさつ発生はっせい、さらに報復ほうふく連鎖れんさ各地かくち一説いっせつによると死者ししゃすうは100まんにんたっしたとされる[1]。このときしょうじた両者りょうしゃ不信ふしんかんそして憎悪ぞうおしるし関係かんけい後々あとあとまで影響えいきょうすることとなる。一方いっぽうカルカッタではガンディーの尽力じんりょくにより虐殺ぎゃくさつおさえられた。

結果けっか[編集へんしゅう]

パキスタンの独立どくりつ8がつ14にちに、そしてインドの独立どくりつ8がつ15にちおこなわれた[1]。ジンナーがパキスタンの総督そうとくとなり、またジャワハルラール・ネルー新生しんせい独立どくりつインドの首相しゅしょうとなった。しかし、そこにいたみち、およびその両国りょうこくあゆんだみちけっして平坦へいたんなものではなかった。

独立どくりつのデリーのラール・キラー

大都市だいとしスラムの発生はっせい[編集へんしゅう]

保守ほしゅてきなイギリスじんにとって、この事件じけんはかつてのインド総督そうとくカーゾンきょう予言よげんしたとおりの、だいえい帝国ていこく没落ぼつらく現実げんじつであった。またインドにんだヒンドゥー教徒きょうとおよびシク教徒きょうと難民なんみんデリーボンベイカルカッタに、東西とうざいパキスタンにのがれたムスリム難民なんみんカラチラホールダッカといった両国りょうこく大都市だいとしにおいて巨大きょだいスラムみ、両国りょうこく膨大ぼうだい都市とし貧困ひんこんそうしょうじさせて社会しゃかい不安定ふあんてい要因よういんとなった。

ガンディーの暗殺あんさつ[編集へんしゅう]

ヒンドゥー、イスラムりょう教徒きょうと相互そうご不信ふしんは、両者りょうしゃ融和ゆうわいたガンディーにたいする反発はんぱつ[注釈ちゅうしゃく 2]むこととなった。とく民族みんぞく義勇ぎゆうだんなどのヒンドゥー・ナショナリストからはイスラム教徒きょうとやパキスタンがわたいして譲歩じょうほしすぎるとして敵対てきたいされた。その結果けっかよく1948ねん1がつ30にち、ガンディーは狂信きょうしんてきなヒンドゥー・ナショナリストによってデリー暗殺あんさつされる結果けっかまねいた。暴力ぼうりょくいたガンディーが暴力ぼうりょく連鎖れんさめられず、みずからもそのなかたおれたことは悲劇ひげき象徴しょうちょうとしてとらえられた。

インド・パキスタンあいだ難民なんみん動画どうが

しるし戦争せんそうからかく開発かいはつ[編集へんしゅう]

またおおくのはん王国おうこくはインドがわふく首相しゅしょうヴァッラブバーイー・パテールたくみな交渉こうしょうもありインドに帰属きぞくしたが、大藩たいはん王国おうこくニザームはん王国おうこくジャンムー・カシミールはん王国おうこくはその態度たいど最後さいごまでめかねており、1948ねん9がつにインドはニザームはん王国おうこく強制きょうせい併合へいごうした。ジャンムー・カシミールはん王国おうこくにおいてはその帰属きぞくをめぐってだいいちしるし戦争せんそう発生はっせいした。

そして、パキスタンは東西とうざいかれた領土りょうどつこととなり、国家こっかとして不安定ふあんてい状況じょうきょうむこととなった。これは最終さいしゅうてきバングラデシュ独立どくりつ戦争せんそうだいさんしるし戦争せんそうひがしパキスタンがバングラデシュとして独立どくりつするまでつづくこととなる。

しるしパの対立たいりつ両国りょうこくかく武装ぶそうへとエスカレートし、インドを共通きょうつうてきとする中国ちゅうごくとパキスタンの関係かんけいふかめた。中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくによるチベット併合へいごうとそれにつづ中印なかいん国境こっきょう紛争ふんそう1962ねん~)、はつ中国ちゅうごくかく実験じっけん(1964ねん)をけて、インドのかく実験じっけん (1974ねん)おこなわれた。インドとパキスタンは核兵器かくへいき核弾頭かくだんとうきミサイルの開発かいはつすすめ、1998ねんには両国りょうこくがそれぞれかく実験じっけん実施じっしインドのかく実験じっけん (1998ねん)パキスタンのかく実験じっけん (1998ねん))。みなみアジア地域ちいきにとどまらない世界せかいてき国際こくさい政治せいじ不安定ふあんてい要因よういんしている。

また、両国りょうこく対立たいりつはインドが世俗せぞく主義しゅぎであるのにたいし、パキスタンがイスラム教いすらむきょう国教こっきょうとしているという、両国りょうこく国家こっか理念りねん根本こんぽんてきちがいに起因きいんするという見解けんかいもある[5]。これは、インドではムガル帝国ていこくだい3だい皇帝こうていアクバルが「民族みんぞく融和ゆうわ象徴しょうちょう」とされているのにたいし、パキスタンではだい6だい皇帝こうていアウラングゼーブがイスラームのおしえを遵守じゅんしゅした「英雄えいゆう」とされているてんからもうかがえる。

インドのそう人口じんこう世界せかい最大さいだい規模きぼであり、インドにおけるイスラーム教徒きょうと少数しょうすうとはいえ、1おくにんえている。

しるし両国りょうこくは2020年代ねんだいにおいても原則げんそくとしてたがいの国民こくみん査証さしょう(ビザ)を発給はっきゅうしていないが、パキスタンの旅行りょこう会社かいしゃ手配てはいするなどのかたちで、インドへ移住いじゅうしたひとやその子孫しそんによる故郷こきょう訪問ほうもん限定げんていてきながら実現じつげんしている[1]

脚注きゃくちゅう出典しゅってん[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ イギリスはしんえいてきはん王国おうこくおよびパキスタンをつうじて国民こくみん会議かいぎひきいるヒンドゥー教徒きょうと勢力せいりょく牽制けんせいし、インドに影響えいきょうりょくのこそうとした。これにたいしてイギリスの影響えいきょうりょくはいした中央ちゅうおう集権しゅうけんてき独立どくりつ国家こっかもとめる国民こくみん会議かいぎ反発はんぱつしたのである。「イギリスりょうインド帝国ていこく#ウェーヴェル総督そうとくからマウントバッテン総督そうとく時代じだい 1943-1947」も参照さんしょう
  2. ^ イスラム教徒きょうとがわからはガンディーのく「融和ゆうわ」はヒンドゥー教徒きょうと優位ゆういのものととらえられたことも事実じじつであり、それが分離ぶんり独立どくりつ後押あとおししたこともいなめない。また、ガンディーのヒンドゥー教徒きょうと優位ゆういの(善意ぜんいからではあったが)姿勢しせいたいしては同様どうよう批判ひはんカースト差別さべつくるしんでいた不可ふかさわみん(ダリット)からもあり、ビームラーオ・アンベードカルインド憲法けんぽう起草きそうしゃ)が主導しゅどうするしん仏教ぶっきょう運動うんどうへとつながっていく。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e インド・パキスタン独立どくりつ76ねん 対立たいりつ帰郷ききょう支援しえん/ビザ申請しんせい親族しんぞく連絡れんらく」『読売新聞よみうりしんぶん朝刊ちょうかん2023ねん8がつ10日とおか国際こくさいめん)2023ねん8がつ21にち閲覧えつらん
  2. ^ 「ジンナー(りゃく)・1940ねん民族みんぞくろん」を展開てんかい、ムスリム国家こっか建国けんこく目標もくひょうにかかげた」 - NHK高校こうこう講座こうざ 世界せかい だい35かい みなみアジアの独立どくりつ ~インド、パキスタン、バングラデシュ~(2008ねん~2011年版ねんばん
  3. ^ もっとも、ジンナーもこの時点じてんでは分離ぶんり独立どくりつではなく、分権ぶんけんてきなインドにおけるイスラム教徒きょうと自治じちしゅう創設そうせつ希望きぼうしていたとのせつ有力ゆうりょくである。「ムハンマド・アリー・ジンナー#偶像ぐうぞう批判ひはん研究けんきゅう」も参照さんしょう
  4. ^ 国境こっきょうせん責任せきにんしゃには、インドにはえんもゆかりもないロンドンの弁護士べんごしたりました。かれは、もっぱら統計とうけい資料しりょうだけをたよりにあかせんきました。こうして、そこに人々ひとびと文化ぶんか生活せいかつとは無関係むかんけいに、あたらしい国境こっきょうせんつくられたのです。」 - NHK高校こうこう講座こうざ 世界せかい だい35かい みなみアジアの独立どくりつ ~インド、パキスタン、バングラデシュ~(2008ねん~2011年版ねんばん
  5. ^ [1]

参考さんこう文献ぶんけん資料しりょう[編集へんしゅう]

  • NHKアーカイブス 戦後せんご60ねん 歴史れきしえた戦場せんじょう インド・パキスタン分離ぶんり独立どくりつ 世界せかい火薬かやくまれた [2]
  • ウルワシー・ブターリアちょ藤岡ふじおか恵美子えみこ やく沈黙ちんもくこうがわ インド・パキスタン分離ぶんり独立どくりつかれた人々ひとびとこえ[3]
  • 井坂いさか理穂りほインド・パキスタン分離ぶんり独立どくりつ暴力ぼうりょくをめぐる記憶きおくかた」『アジア・アフリカ地域ちいき研究けんきゅう』2002ねん 2かん京都大学きょうとだいがく大学院だいがくいんアジア・アフリカ地域ちいき研究けんきゅう研究けんきゅう)pp.281-291, hdl:2433/79996, doi:10.14956/asafas.2.281

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]