ヒンドゥスターニー

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ヒンドゥスターン
ヒンドゥスターニー
हिन्दुस्तानी, ہندوستانی Hindustānī
はなされるくに インドの旗 インド
パキスタンの旗 パキスタン
フィジーの旗 フィジー
ガイアナの旗 ガイアナ
マレーシアの旗 マレーシア
スリナムの旗 スリナム
トリニダード・トバゴの旗 トリニダード・トバゴ
地域ちいき みなみアジア太平洋たいへいようカリブ海かりぶかい
話者わしゃすう 5おく4000まんにん
言語げんご系統けいとう
インド・ヨーロッパ語族ごぞく
表記ひょうき体系たいけい デーヴァナーガリー
ウルドゥー文字もじ
公的こうてき地位ちい
公用こうよう インドの旗 インド
パキスタンの旗 パキスタン
フィジーの旗 フィジー
言語げんごコード
ISO 639-1 hi(ヒンディー
ur(ウルドゥー
ISO 639-2 hin(ヒンディー
urd(ウルドゥー
ISO 639-3 各種かくしゅ:
hin — ヒンディー
urd — ウルドゥー
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みなみアジアにおけるヒンドゥスターニー使用しよう地域ちいきみどり母語ぼご話者わしゃ地域ちいきみどり公用こうよう地域ちいきうすみどりだい言語げんごとしての話者わしゃおお地域ちいき

ヒンドゥスターニー(ヒンドゥスターニーご)は、インド・アーリアぞくする言語げんごで、一般いっぱんにはインド公用こうようヒンディー、およびパキスタン公用こうようウルドゥーとしてられる複数ふくすう中心地ちゅうしんち言語げんごである。インド大陸たいりく北部ほくぶに「ヒンディー・ベルト」とばれる方言ほうげん連続れんぞくたい形成けいせいしているが、デリー方言ほうげんカリー・ボリー)が中心ちゅうしんてき方言ほうげんであり、標準ひょうじゅんヒンディー標準ひょうじゅんウルドゥーはいずれもデリー方言ほうげん基礎きそとしている。みなみアジアとく北部ほくぶ)のリンガフランカであり、話者わしゃおおフィジーでも公用こうようのひとつとなっている。また、北部ほくぶインドからの移民いみんおおかったトリニダード・トバゴガイアナスリナムにも話者わしゃ存在そんざいする。

概要がいよう[編集へんしゅう]

「ヒンドゥスターニー」というかたりは、いくつものことなった意味いみもちいられる。

  1. デリーふく地域ちいきはなされる自然しぜん言語げんご。インド・アーリア中央ちゅうおうぐん西にしヒンディー諸語しょごのひとつで、カリー・ボーリーともぶ。ウルドゥーヒンディー基盤きばんになった。
  2. 19世紀せいきインド総督そうとくウィリアム・ベンティンクによってインドの官庁かんちょう使つかわれる公用こうようさだめられた言語げんご[1]。ウルドゥーから極端きょくたんペルシア影響えいきょうのぞいて、一般いっぱん民衆みんしゅう言語げんごちかづけたもの。インドの独立どくりつ公用こうようとしての地位ちいうしなった。
  3. 現代げんだいにおけるウルドゥーとヒンディー共通きょうつう部分ぶぶん、または両者りょうしゃなかあいだてき形態けいたい、または両者りょうしゃ総称そうしょう

「ヒンドゥスターニー」の名称めいしょう当初とうしょだい意味いみであり、「インドの言葉ことば」を意味いみした。18世紀せいきまつにベンガル総督そうとくのマクファーソンの時代じだいに、イギリスじんによって命名めいめいされた[2]

しんインド・アーリアのひとつである(だいいち意味いみの)ヒンドゥスターニー基盤きばんとしてウルドゥー成立せいりつしたが、この言語げんごには上層じょうそうとしてペルシャアラビア語彙ごい文法ぶんぽう影響えいきょうがきわめてつよい。これらの借用しゃくようおおくの固有こゆう廃語はいごいやった。の『ヒンディー成立せいりつさい言語げんご純化じゅんかでも、これらの固有こゆう復活ふっかつさせることはせず、わりにサンスクリットからそのままのかたち単語たんごあらたに直接ちょくせつ借用しゃくようするかたちった。これらの分化ぶんか19世紀せいきころこった。

現在げんざいでは、ヒンディーとウルドゥー総称そうしょうとして、またりょう言語げんご話者わしゃ日常にちじょう生活せいかつもちいるりょう言語げんご混交こんこう中間なかま形態けいたいをさす言葉ことばとしてももちいられる。これはおそらくきたインドから西にしインドにかけての事実じじつじょう共通きょうつうであり、かく地域ちいき言語げんごべつ大別たいべつされるインド映画えいがのうち「ボリウッド」とばれるヒンディー娯楽ごらく映画えいがにおいても通常つうじょうもちいられる。

しょ方言ほうげんなかではデリー方言ほうげんがもっとも権威けんいがあり、ヒンディーウルドゥーともにデリー方言ほうげん基盤きばんにしている。 その地位ちいたかさから、インドぞくするきんえん言語げんごのみならず、ドラヴィダ諸語しょごぞくするみなみインドの言語げんごにもつよ影響えいきょうりょくつづけてきた。

上層じょうそう言語げんごとしてサンスクリットペルシアアラビア希有けう言語げんごであり、高級こうきゅう語彙ごい供給きょうきゅうもと豊富ほうふ言語げんごである。

ヒンドゥスターニーとはヒンドゥスターンというインドを別名べつめいからており、ヒンドゥスターニーヒンドゥスターンヒンドースターンヒンドスタンともいう。

歴史れきし[編集へんしゅう]

ウルドゥー成立せいりつ[編集へんしゅう]

ガズニあさのマフムードによるインド侵攻しんこう、およびそのデリー・スルターンあさ以来いらい、テュルク=ペルシャけいのムスリム支配しはいそうペルシア公用こうようとしてもちい、それまでの古典こてんであったサンスクリット地位ちい学術がくじゅつてき文化ぶんかてきなものにとどまるようになった[3]

デリーとその周辺しゅうへんはなされていたカリー・ボーリーばれる言語げんごが、ペルシアアラビア影響えいきょうけて、ウルドゥー成立せいりつした。この言語げんごスーフィー伝道でんどうしゃによって南部なんぶひろがり、そこでバンダ・ナワーズ英語えいごばん(14-15世紀せいき)らによるウルドゥー文学ぶんがく花開はなひらいた[4]。この文学ぶんがく民衆みんしゅうへの布教ふきょう目的もくてきとしており、ペルシア影響えいきょう比較的ひかくてきすくなかった。

ティムール帝国ていこく末裔まつえいバーブルがインドに樹立じゅりつしたムガル帝国ていこくでは、当初とうしょティムールあさ伝統でんとうペルシア公用こうようであった[5]。ほかにチャガタイ公用こうようだったが、ひがしテュルク基礎きそとした言語げんごであったことから、ムガル帝国ていこく遊牧ゆうぼく国家こっかとしての性質せいしつうしなってインドになじむにつれ、急速きゅうそく衰退すいたいしていった。

ムガル帝国ていこくでは、17世紀せいきにウルドゥー文学ぶんがく発達はったつしてゆく。アラビアペルシアからの借用しゃくようはさらに増大ぞうだいし、また学者がくしゃたちによって文法ぶんぽうやつづりが整備せいびされていった。

なお、この言語げんごが「ウルドゥー」とばれるようになったのは19世紀せいき以降いこうであり、それ以前いぜんはしばしば(混乱こんらんすることに)「ヒンディー」とばれていた[6]

近代きんだい以降いこう[編集へんしゅう]

インドに支配しはいひろげたイギリスは、当初とうしょペルシア公用こうようとしていた。しかし、ペルシア民衆みんしゅう言語げんご乖離かいりしているため、ウルドゥーから極端きょくたんなペルシア・アラビア影響えいきょうのぞいてこれを「ヒンドゥスターニー」と名付なづけ、ペルシアにかえて公用こうようとした。イギリスはリチャード・ウェルズリーカルカッタ創立そうりつしたフォート・ウィリアム大学だいがく中心ちゅうしんにこの言語げんご発達はったつさせた。それまでのウルドゥー作品さくひんだい部分ぶぶん韻文いんぶんであり、散文さんぶんは19世紀せいき以降いこう、イギリスの奨励しょうれいによって発達はったつした[7]。ヒンドゥスターニーはインド全域ぜんいきにおいて初等しょとう教育きょういく重要じゅうよう課目かもくになった[1]。1835ねんには英語えいご公用こうようさだめられ[8]、ペルシアわって英語えいごあらたな上層じょうそう言語げんごとしてヒンドゥスターニーうえにかぶさることとなった。

イギリス統治とうち後半こうはんから、イギリスの分断ぶんだん政策せいさくもありイスラーム教徒きょうとヒンドゥー教徒きょうとあいだ確執かくしつふかまった。両者りょうしゃはインドの公用こうようとなるべきヒンドゥスターニー正式せいしき表記ひょうき文字もじデーヴァナーガリー文字もじアラビア文字もじのどちらにするかをめぐってあらそはじめた。そもそも、インドの知識ちしきじんはたいていの場合ばあい両方りょうほう文字もじ使つかえたため、デーヴァナーガリーとアラビア文字もじのどちらで表記ひょうきするかについては本来ほんらいならさほどおおきな問題もんだいではなかった。だが、おりしも世界せかいてきナショナリズム高揚こうようにもたっていたため、文字もじ表記ひょうき問題もんだいはイスラーム教徒きょうととヒンドゥー教徒きょうとあいだ格好かっこう火種ひだねとなり、問題もんだいたんなる文字もじ表記ひょうきにとどまらず、言語げんご規範きはんそのものにまでおよぶことになった。

ヒンドゥー教徒きょうとがわはウルドゥーちゅうのアラビアやペルシアからの借用しゃくようサンスクリットにかえ、ヒンディーという規範きはん構築こうちくしてゆくことになる[9]一方いっぽうイスラム教徒きょうとがわはこうした言語げんご純化じゅんか運動うんどうおこなわず、このためアラビアやペルシアからの借用しゃくようはほぼそのまま保持ほじされた。こうして語彙ごいめんでヒンディーとの差異さいあらわれるようになったウルドゥーは、イスラム教徒きょうと言語げんご政治せいじてき主張しゅちょうされるようになった[10]言語げんご分断ぶんだんすすんでいくなかジャワハルラール・ネルーマハトマ・ガンディーはウルドゥーとヒンディーというふたつの規範きはんさい統合とうごうと、りょう言語げんごなかあいだとしてのヒンドゥスターニー国語こくごうったえた[11]。またかれは、すべてのインド国民こくみんアラビア文字もじデーヴァナーガリー文字もじ両方りょうほうまなぶことを主張しゅちょうした。しかしかれ主張しゅちょうは、あくまでおたがいの文字もじ固執こしつするりょう教徒きょうとがわかられられなかった。このことは独立どくりつ運動うんどうにおけるりょう教徒きょうと関係かんけい疎遠そえんをもまねき、結果けっかてきにはインドパキスタン分離ぶんり独立どくりつという悲劇ひげきてき結末けつまつむかえることとなった。分離ぶんり独立どくりつ、ヒンドゥーとムスリムの融和ゆうわ必要ひつようせいよわまったため、両国りょうこくともにヒンドゥスターニー国語こくごうごきはほぼなくなり、インドはヒンドゥスターニーではなくヒンディー公用こうよう議論ぎろんがなされるようになった[12]

独立どくりつ[編集へんしゅう]

共通きょうつうのヒンドゥスターニー公用こうよううごきこそなくなったものの、分離ぶんりのインド・パキスタン両国りょうこくはいずれもヒンドゥスターニーふくまれる言語げんご公用こうよう目指めざした。インドは首都しゅとデリーを中心ちゅうしんとしてきたインドにひろいヒンディーけんち、国内こくない言語げんごなかもっと話者わしゃすうおおかったことから北部ほくぶもろしゅう選出せんしゅつ議員ぎいん中心ちゅうしんにヒンディー公用こうよううごきがつよまったものの、これはヒンディーけんとくにヒンディーまった言語げんご体系たいけいことなるみなみインドのドラヴィダ諸語しょごけんからつよ反発はんぱつけ、制憲せいけん議会ぎかいにおいて議論ぎろん焦点しょうてんひとつとなり、1950ねん制定せいていされたインド憲法けんぽうにおいては、ヒンディー公用こうようとするとともに、「1965ねんまでは英語えいご公用こうようとして併用へいようする」ことがさだめられた[13]。1956ねんにはどういち言語げんご使用しよう地域ちいきひとつのしゅうとしてさい編成へんせいする「言語げんごしゅうおこなわれたが、ヒンディーけん非常ひじょうこうだいかつ人口じんこうおおかったためにしゅう分割ぶんかつおこなわれ、ラージャスターンしゅうウッタル・プラデーシュしゅうビハールしゅうマディヤ・プラデーシュしゅうの4つのしゅう設置せっちされた[14]。1965ねんには憲法けんぽうにおける英語えいご併用へいよう期限きげんれ、みなみインドを中心ちゅうしんとするヒンディーしゅうでははげしいヒンディー公用こうよう反対はんたい運動うんどうこった。結局けっきょくラール・バハードゥル・シャーストリー首相しゅしょうたん言語げんごから2週間しゅうかん英語えいご広汎こうはん公用こうよう使用しよう確約かくやくし、事実じじつじょう公用こうよう2言語げんごせい継続けいぞくすることでこの暴動ぼうどう収束しゅうそくした[15]。1966ねんにはパンジャーブしゅう東西とうざい分割ぶんかつされ、東部とうぶしんしゅうハリヤーナーしゅうはヒンディーしゅうとされた[16]

パキスタンのウルドゥー公用こうようは、インドよりもさらに困難こんなんともなった。インドでは北部ほくぶ多数たすう住民じゅうみんがヒンディー母語ぼごとしていたのにたいし、パキスタンでウルドゥー母語ぼご話者わしゃとしていた人々ひとびと人口じんこうの1わり以下いかぎなかったためである。西にしパキスタンではパンジャーブシンド話者わしゃ多数たすうめ、ウルドゥー話者わしゃ都市とし少数しょうすうにとどまっていた。しかし、パキスタン建国けんこく推進すいしんしたぜんインド・ムスリム連盟れんめいはウルドゥーをイスラム教徒きょうとがわはしらひとつとかんがえており、またパキスタン総督そうとくムハンマド・アリー・ジンナーをはじめとする政府せいふ首脳しゅのうはほとんどインドがわ地盤じばんっていたウルドゥー話者わしゃであったこともあって、話者わしゃすくないにもかかわらずウルドゥーはパキスタンの国語こくごとされ、国民こくみん統合とうごう中心ちゅうしんになうこととなった[17]

しかし、このウルドゥー国語こくごおおきな問題もんだいかかえていた。最大さいだい問題もんだいは、指導しどうしゃ地元じもと住民じゅうみんことなる言語げんごはなすようになってしまったことである。ほとんどの指導しどうしゃがインドりょうとなった地域ちいきからのがれてきており、地元じもと住民じゅうみんおおくとははなしつうじなかったことは、民主みんしゅ政治せいじ阻害そがい中央ちゅうおう集権しゅうけんによる独裁どくさいせい台頭たいとううながした[18]。それでも西にしパキスタンではウルドゥー公用こうよう摩擦まさつともないつつもれられ、徐々じょじょ話者わしゃ増加ぞうかしていったが、この方針ほうしんひがしパキスタンでははげしい反対はんたいけた。多数たすう言語げんご存在そんざいする西にしたいし、ひがしベンガル話者わしゃがほとんどをめていたうえ、ひがしではウルドゥーにはなじみがなく話者わしゃもほとんどいなかったためである。しかしパキスタン政府せいふ首脳しゅのうひがし要望ようぼう無視むししてウルドゥーのみの公用こうよう方針ほうしん堅持けんじしたため、ひがしではベンガル・ナショナリズムが激化げきかすることとなった[19]。この問題もんだい武力ぶりょく衝突しょうとつまねくなど東西とうざいあいだ対立たいりつ焦点しょうてんとなり、1956ねん制定せいていされたパキスタン憲法けんぽうでは国語こくごをウルドゥーとベンガル言語げんごせいにするなどの譲歩じょうほおこなわれた[20]ものの対立たいりつ激化げきかしていき、最終さいしゅうてきに1971ねんバングラデシュ独立どくりつ戦争せんそうによって国家こっか分裂ぶんれつひがしパキスタン(バングラデシュ)の独立どくりつまねくこととなった。バングラデシュ独立どくりつ、ウルドゥーはパキスタンの唯一ゆいいつ国語こくごとなり、公用こうよう英語えいご地位ちいめるようになった。2015ねんには、公用こうよう英語えいごからウルドゥー変更へんこうするようにパキスタン最高裁判所さいこうさいばんしょめいじた[21]

ヒンディーとウルドゥーともデリー方言ほうげん基盤きばんとして整備せいびされた経緯けいいがあるため、書記しょき言語げんごとしては多少たしょうみぞはあるものの、日常にちじょう言語げんごとしては依然いぜんとして一体いったいせいったひとつの言語げんごである。ウルドゥーは19世紀せいきごろには詩作しさくもちいられるようになっており、すぐれた詩人しじんおお輩出はいしゅつされたが、インド・パキスタン分離ぶんり独立どくりつにこうした詩人しじんおおくは政治せいじてき動乱どうらんけてムンバイの映画えいがかいながみ、インド映画えいが音楽おんがく多用たようするスタイルにおおきな影響えいきょうおよぼす[22]とともに、ボリウッド映画えいが口語こうごてきりょう言語げんご混交こんこうたいをもたらすこととなった[23]

使用しようじょうきょう[編集へんしゅう]

インド[編集へんしゅう]

インドでは1950ねん以降いこうヒンディー英語えいごとともに公用こうようとなっており、使用しよう人口じんこうは4おく2000まんにん(2001ねん)、インドそう人口じんこうの41%が使用しようする国内こくない最大さいだい言語げんごとなっている[24]。またしゅうレベルでも、ラージャスターンしゅうハリヤーナーしゅうヒマーチャル・プラデーシュしゅうウッタラーカンドしゅうウッタル・プラデーシュしゅうビハールしゅうジャールカンドしゅうマディヤ・プラデーシュしゅうチャッティースガルしゅう北部ほくぶにある9つのしゅうと、首都しゅとデリーアンダマン・ニコバル諸島しょとうの2つの連邦れんぽう直轄ちょっかつりょうにおいて公用こうようさだめられている[注釈ちゅうしゃく 1][25]。またウルドゥー話者わしゃ人口じんこうが5150まんにんかぞえ、そう人口じんこうの5%、話者わしゃすうでインド5となっている。憲法けんぽうだい8附則ふそくにおいてさだめられた22の指定してい言語げんごのひとつとされており[24]、またジャンムー・カシミールしゅう公用こうようともなっている[25]

インドのヒンディー話者わしゃすうおおさと、公用こうよう指定していされたことに代表だいひょうされる言語げんご地位ちい向上こうじょうによって、文化ぶんかてきめんでの使用しよう増加ぞうか傾向けいこうにある。ヒンディー新聞しんぶん独立どくりつ以後いご急速きゅうそくにその発行はっこう部数ぶすう拡大かくだいし、1979ねんには英語えいごそう発行はっこう部数ぶすうり、さらに拡大かくだいつづけた[26]。2016ねんのデータでは、Dainik Bhaskar英語えいごばん(381まん世界せかい4)やダイニック・ジャグラン英語えいごばん(330まん世界せかい4)のように発行はっこう部数ぶすうが300まんえるだい新聞しんぶん出現しゅつげんしている[27]。また、インド映画えいがにおいてもヒンディーたす役割やくわりおおきい。インドでは国内こくないかく言語げんご映画えいが製作せいさくされるが、なかでもヒンディー映画えいがテルグならんでもっとも映画えいが作成さくせい本数ほんすうおお言語げんごである。ヒンディー映画えいがおもムンバイ製作せいさくされ、ヒンディーけん北部ほくぶもろしゅう上映じょうえいされる[28]。ムンバイの映画えいがかいボリウッドばれ、インド映画えいがなかでも中心ちゅうしんてき役割やくわりたしている。また、ヒンディー映画えいがやテレビは言語げんごしゅうでも放映ほうえいされ、それらのしゅうにヒンディーひろめることにもなった[29]

パキスタン[編集へんしゅう]

パキスタンのウルドゥー国語こくごとなっているが、母語ぼご話者わしゃ国民こくみんの8%にすぎない[30]。これらの母語ぼご話者わしゃのうちでおおきな割合わりあいめるのが、人口じんこうの7.6%をめる[30]ムハージル英語えいごばんである。ムハージルとは本来ほんらいしるし分離ぶんり独立どくりつさいにインドから流入りゅうにゅうしてきたイスラムけい移民いみんのことをすが、そのうち過半数かはんすうめたパンジャーブじん現地げんち同化どうかしたため、集団しゅうだんとしてのムハージルはおもシンドしゅう定着ていちゃくした人々ひとびとのことをす。ムハージルはきたインド出身しゅっしんものおおく、そのためかれらのおおくはウルドゥー話者わしゃであり、パキスタン移住いじゅうもウルドゥー使用しようつづけ、1970年代ねんだいにはあらたに民族みんぞくとして位置いちづけられるようになった[31]

このようにウルドゥー母語ぼご話者わしゃはパキスタンにはおおくないものの、イスラム教いすらむきょうとともに国民こくみん統合とうごう中心ちゅうしんになうものとされており、初等しょとう中等ちゅうとう教育きょういくでは必修ひっしゅう科目かもくとされ、教授きょうじゅ言語げんごもウルドゥーとなっている[32]。こうしたことから、だい言語げんごとしてウルドゥー使用しようできるパキスタンじんおおい。ウルドゥー新聞しんぶん雑誌ざっしは1999ねんにはパキスタンのそう発行はっこう点数てんすうのうち8わりめており[33]放送ほうそうもウルドゥーによる番組ばんぐみおお[34]一方いっぽうとくシンドはなすシンドじんあいだではウルドゥーたいする反発はんぱつ根強ねづよい。これは、シンドしゅう都市としおもにウルドゥー母語ぼごとするムハージルとの民族みんぞくてき対立たいりつのためであり[35]、1972ねんにシンドしゅうがウルドゥーくわえシンドしゅう公用こうよう指定していしたときにはりょう民族みんぞくあいだ死者ししゃ衝突しょうとつきた[36]。また、ウルドゥー母語ぼご話者わしゃすくないものの、最大さいだい民族みんぞくであるパンジャーブじんはなパンジャーブとウルドゥー文法ぶんぽうてき似通にかよっているために習得しゅうとく容易よういであり[37]、これも地方ちほうからの反発はんぱつまねいている。

フィジー[編集へんしゅう]

フィジーにおいては19世紀せいき後半こうはんにフィジー・ヒンディー成立せいりつ[38]して以降いこう、ポリネシアけいフィジーじんはなフィジーとインドけいのフィジー・ヒンディー大言たいげんとして使用しようされてきた。しかし、かつてフィジーじんをしのぐ人口じんこうほこっていたフィジーのインドけいは、1987ねんのフィジーけいのクーデターによる政権せいけん奪取だっしゅ以降いこう急速きゅうそく海外かいがいへと流出りゅうしゅつし、2007ねんには36%にまで急減きゅうげんした[39]。これによってフィジー・ヒンディー話者わしゃおよび影響えいきょうりょく減少げんしょう傾向けいこうにある。

カリブ[編集へんしゅう]

きたインドからの移民いみんおおかったカリブ海かりぶかい東部とうぶ地域ちいき、とくにトリニダード・トバゴ、ガイアナ、スリナムといった国々くにぐにではインドけい住民じゅうみん最大さいだい民族みんぞくとなっており、ヒンディーやウルドゥーがインドけい住民じゅうみんあいだ使用しようされている[40]。これらは総称そうしょうしてカリブ・ヒンドゥスターニー英語えいごばんばれる。しかしトリニダード・トバゴとガイアナの公用こうよう英語えいご、スリナムの公用こうようオランダであり[40]、カリブ・ヒンドゥスターニー民族みんぞくないいち言語げんごにとどまっている。

正書法せいしょほう[編集へんしゅう]

前述ぜんじゅつ歴史れきしてき経緯けいいから、ヒンディーデーヴァナーガリー文字もじウルドゥーアラビア文字もじけいウルドゥー文字もじ表記ひょうきされる。とくにインドでは、1950ねんに「デーヴァナーガリー文字もじしるされたヒンディー」が公用こうようとして指定していされている[41]たがいの言語げんご話者わしゃ文字もじコミュニケーションおこな場合ばあいハンターしきなどラテン文字もじもちいた代用だいよう表記ひょうきもちいることがあるが、この表記ひょうき標準ひょうじゅんがた確立かくりつされておらず、話者わしゃによってまちまちなつづりとなる。

以下いかにデーヴァナーガリー文字もじおよびウルドゥー文字もじ表記ひょうきをそれぞれしめす。

デーヴァナーガリー文字もじ
ə ɪ ʊ ɛː ɔː
क़ ख़ ग़
k q [kʰ] x ɡ ɣ [ɡʱ] ŋ
ज़ झ़
t͡ʃ [t͡ʃʰ] d͡ʒ z [d͡ʒʱ] ʒ ɲ
ड़ ढ़
ʈ [ʈʰ] ɖ ɽ [ɖʱ] [ɽʱ] ɳ
t [tʰ] d [dʱ] n
फ़
p [pʰ] f b [bʱ] m
j ɾ l ʋ
ʃ ʂ s ɦ
ウルドゥー文字もじ
文字もじ 文字もじめい おと IPA
ا alif
ب be b /b/
پ pe p /p/
ت te t /t/
ٹ ṭe /ʈ/
ث se s /s/
ج jīm j /d͡ʒ/
چ che ch /t͡ʃ/
ح baṛī he h /h ~ ɦ/
خ khe kh /x/
د dāl d /d/
ڈ ḍāl /ɖ/
ذ zāl dh /z/
ر re r /r ~ ɾ/
ڑ ṛe /ɽ/
ز ze z /z/
ژ zhe zh /ʒ/
س sīn s /s/
ش shīn sh /ʃ/
ص su'ād /s/
ض zu'ād /z/
ط to'e t /t/
ظ zo'e /z/
ع ‘ain '
غ ghain gh /ɣ/
ف fe f /f/
ق qāf q /q/
ک kāf k /k/
گ gāf g /ɡ/
ل lām l /l/
م mīm m /m/
ن nūn n /n/
و vā'o v, o, or ū /ʋ/, //, /ɔ/ or //
ہ choṭī he h /h ~ ɦ/
ھ do chashmī he h /ʰ/ or /ʱ/
ء hamza ' /ʔ/
ی ye y, i /j/ or //
ے baṛī ye ai or e /ɛː/, or //

ヒンドゥスターニーさい統合とうごうへのこころ[編集へんしゅう]

ガンジーの夢見ゆめみ統一とういつインドいまだに理想りそうとする一部いちぶ知識ちしきじんなかには、ヒンドゥスターニーさい統合とうごう主張しゅちょうするグループが存在そんざいしている。また、実用じつようてき観点かんてんからこの意見いけん支持しじするひともいる。この意見いけん沿えば、まずはムスリム・ヒンドゥーりょう教徒きょうとにとって中立ちゅうりつ文字もじであるラテンアルファベットもちいた正書法せいしょほうをインドとパキスタンが共同きょうどうさだめ、両方りょうほう国民こくみんにそれをおしえることになる。

この場合ばあい、ウルドゥーとヒンディーの話者わしゃ文書ぶんしょ意思いし疎通そつうするさい表記ひょうきほう標準ひょうじゅんされるため利便りべんせいし、ヒンドゥスターニー一体いったいせいつよたもち、言語げんご分裂ぶんれつ阻止そしするのに役立やくだつとかんがえられる。それにつづいて、ウルドゥーヒンディーというふたつの文語ぶんご規範きはん調和ちょうわさせ、インド大陸たいりくのすべての住民じゅうみんみずからの言語げんごとして使つかうことのできる共通きょうつうとしてのヒンドゥスターニー復活ふっかつさせることになる。

現状げんじょうでも、ボリウッド映画えいがではりょう言語げんご混交こんこうたい使つかわれている[23]ことから、これが共通きょうつう規範きはん構築こうちく参考さんこうになるものとかんがえられている。ヒンドゥスターニーしるしあいだ差異さい参照さんしょう

海外かいがいヒンドゥスターニー[編集へんしゅう]

ヒンドゥスターニーはインド・パキスタンけい移民いみん海外かいがい進出しんしゅつともなってひろ世界中せかいじゅう拡散かくさんした。定着ていちゃくした場所ばしょによって周辺しゅうへん言語げんご影響えいきょうけつつ、独自どくじ変化へんかげている。とりわけフィジーのヒンドゥスターニー同国どうこく公用こうようのひとつとなっており、ヒンディー、ウルドゥーとは別個べっこだいさん言語げんご規範きはんとなる可能かのうせいっている。

海外かいがいのヒンドゥスターニーしょ方言ほうげんでは、たいていの場合ばあいヒンディー同様どうようにデーヴァナーガリー文字もじ正書法せいしょほうさだめ、言語げんご規範きはんはほぼヒンディーしきであるが、これはしるしあいだ国力こくりょくやヒンドゥスターニー話者わしゃ比率ひりつ反映はんえいしているとされている。

フィジー・ヒンドゥスターニー[編集へんしゅう]

インドけい移民いみん子孫しそんおおらすフィジーでは、ヒンドゥスターニーフィジー・ヒンディー)が公用こうようのひとつとなっている。フィジー・ヒンドゥスターニーばれるこの言語げんごは、おも南東なんとう方言ほうげんボージプリー方言ほうげん)を基礎きそ成立せいりつしたため、規範きはんとしてはウルドゥーよりヒンディーちかく、正書法せいしょほうもデーヴァナーガリーのみを採用さいようしている。フィジーピジン英語えいごなどの影響えいきょうけている。

マレーシア・ヒンドゥスターニー[編集へんしゅう]

マレーシアやシンガポールにはえいりょう統治とうち移住いじゅうさせられたインドじん移民いみん子孫しそんおお居住きょじゅうしている。かれらのあいだでは一般いっぱんてきタミルもちいられているが、ヒンドゥスターニーひろ使つかわれている。マレー中国ちゅうごく南方なんぽう方言ほうげんからの借用しゃくようおおられるのが特徴とくちょうである。正書法せいしょほうはほぼヒンディーおなじである。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ ただしチャッティースガルしゅうチャッティースガリーと、アンダマン・ニコバル諸島しょとう英語えいごとの2公用こうようせいとなっている。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b 井筒いづつ (1952) p.175
  2. ^ 井筒いづつ (1952) p.180
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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 井筒いづつ俊彦としひこ ちょ「ヒンドスターニー」、市河いちかわ三喜さんき高津たかつ春繁はるしげ へん世界せかい言語げんご概説がいせつじょう研究けんきゅうしゃ、1952ねん、171-220ぺーじ 
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関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]