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アクバル

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アクバル
اکبر
Akbar
ムガル皇帝こうてい
アクバル
在位ざいい 1556ねん2がつ14にち - 1605ねん10月27にち
戴冠たいかんしき 1556ねん2がつ14にち
べつごう パードシャー

ぜん ジャラールッディーン・ムハンマド・アクバル
جلال الدین محمد اكبر
出生しゅっしょう 1542ねん10月25にち
ウマルコートウマルコートじょう
死去しきょ 1605ねん10月27にち
ファテープル・シークリー、ダウラト・ハーナ
埋葬まいそう アーグラアクバルびょう
配偶はいぐうしゃ ルカイヤ・スルターン・ベーグム
  サリーマ・スルターン・ベーグム
  マリヤム・ウッザマーニー・ベーグム
子女しじょ ジャハーンギールムラードダーニヤール、シャカルンニサー・ベーグム、アーラム・バーヌー・ベーグム、シャーフザーダ・ハーヌムなど
王朝おうちょう ムガルあさティムールあさ
父親ちちおや フマーユーン
母親ははおや ハミーダ・バーヌー・ベーグム[1]
宗教しゅうきょう イスラームきょうスンナ
ディーニ・イラーヒー英語えいごばん
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アクバルペルシア: جلال الدین محمد اکبر اعظم, Jalāl'ud-Dīn Muhammad Akbar Azam, 1542ねん10月25にち - 1605ねん10月27にち)は、きたインドムガル帝国ていこくだい3だい君主くんしゅ在位ざいい1556ねん - 1605ねん)。アクバル1せい(Akbar I)、アクバル大帝たいていاکبر کبیر , Akbar-e kabīr)ともばれる。

アラビアで「偉大いだい」を意味いみするアクバルのにふさわしく、中央ちゅうおうアジアからの流入りゅうにゅうしゃであった祖父そふバーブルてたムガルあさしん帝国ていこくばれるにふさわしい国家こっか発展はってんさせた。そのため、マウリヤあさアショーカおうならしょうされることもあり[2]大帝たいてい称号しょうごうあたえられている。

アクバルは、先述せんじゅつのアショーカおうスールあさシェール・シャーとともにもっと成功せいこうした君主くんしゅであり、インドのもっと偉大いだいおうであり融和ゆうわ象徴しょうちょうとして、現在げんざいのインドでも人気にんきたかい。

生涯しょうがい

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出生しゅっしょうから立太子りったいしまで

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アクバルとちちフマーユーン
ゾウ幼少ようしょうのアクバル

1542ねん10月15にち、アクバルは西にしインドシンド地方ちほうウマルコートウマルコートじょうで、ムガル帝国ていこくだい2だい君主くんしゅフマーユーンとそのハミーダ・バーヌー・ベーグムとのあいだまれた[3][4][5][6]誕生たんじょうめいはバドルッディーン・ムハンマド・アクバル(Badruddin:満月まんげつ満月まんげつよる誕生たんじょうしたため。アクバルの外祖父がいそふシャイフ・アクバル・アリー・ジャーミーにちなむ)[7]

皇子おうじアクバルの幼少ようしょう多難たなんであった。アクバルはちちフマーユーンがパシュトゥーンじん(アフガンじん)でスールあさ創始そうししゃシェール・シャーきたインド帝位ていいわれて流浪るろうしているとき誕生たんじょうした。また、フマーユーンは帝国ていこくさい統一とういつするため、おとうとカームラーンアスカリーヒンダールあらそわねばならず、イラン支配しはいしていたサファヴィーあさ庇護ひごけることにした[8]

1543ねん11月、フマーユーンはサファヴィーあさ亡命ぼうめいするためイスファハーンかい、アクバルはカンダハールを統治とうちしていた叔父おじアスカリーのもとに人質ひとじちされた[5]

1544ねんから1545ねんふゆ、アクバルはカンダハールのアスカリーのもとからカーブルを統治とうちしていた叔父おじカームラーンのもとにうつされた[5]

その、1545ねん11月15にち、フマーユーンがアスカリーを打倒だとうしてカーブルに入城にゅうじょうすると、アクバルはちち再会さいかいした[5]。だが、よく1546ねん11月にフマーユーンがカーブルを追放ついほうされると、アクバルはふたたびカームラーンの人質ひとじちとなった[5]。なお、フマーユーンによるカーブル奪還だっかんおこなわれているさなか、同年どうねん10月8にちにカームラーンの命令めいれいによりカーブルじょう城壁じょうへきさらされ、包囲ほういぐん砲撃ほうげき危機ききおちいった[5][9]。このとき、アクバルの姿すがた砲兵ほうへいたい指揮しきかんのとっさの判断はんだんにより砲撃ほうげき中止ちゅうしされ、アクバルはなんまぬかれた[9]

1547ねん4がつ27にち、アクバルは叔父おじカームラーンがカーブルからげたのち、ちちフマーユーンと合流ごうりゅうした[5]。また、そのとしの11月にアクバルははじめて家庭かてい教師きょうし指導しどうけた[5]

だが、1550ねん前半ぜんはんにカームラーンがカーブルに帰還きかんしてくると、アクバルはまたしてもその人質ひとじちになった[5]同年どうねん後半こうはん、フマーユーンがカーブルを奪還だっかんし、アクバルはふたたちち合流ごうりゅうした[5]

1551ねん、アクバルはちちフマーユーンによりガズニー知事ちじ任命にんめいされ、よく1555ねん7がつちちがデリーを奪還だっかんすると、11月にパンジャーブ太守たいしゅとなった[5]。なお、このあいだ6がつ後継こうけいしゃ指名しめいされ、スールあさとのたたかいで戦功せんこうのあったバイラム・ハーン後見人こうけんにんとなった。

即位そくいだいパーニーパットのたたか

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よく1556ねん1がつ、フマーユーンが図書館としょかん階段かいだんからちて事故死じこしした。2がつ14にち、アクバルはデリーにおいて13さいわかさで即位そくいした[3]。なお、宰相さいしょうのバイラム・ハーンがかれ摂政せっしょうとして補佐ほさにあたることとなった。

だが、即位そくい当初とうしょ、アクバルの統治とうち不安定ふあんていそのものであった。シェール・シャーのひらいたスールあさなどの敵対てきたい勢力せいりょくデリー近辺きんぺんにものこ活発かっぱつ活動かつどうおこなっており、その3にんおうムハンマド・アーディル・シャーイブラーヒーム・シャーシカンダル・シャー健在けんざいであった。だが、スールあさのヒンドゥー武将ぶしょうヘームーかれら3にんよりもさらに危険きけんであった[10][11]。ヘームーはもともと野菜やさいりのだしであったが、スールあさぐんそう司令しれいかん宰相さいしょうにまでのぼりつめた人物じんぶつであった[10]

フマーユーン死後しごすぐ、ヘームーは混乱こんらんじょうじて挙兵きょへいし、デリーとアーグラを占領せんりょうした[10][11]。10月にデリーが占領せんりょうされたとき、アクバルとバイラム・ハーンはパンジャーブ地方ちほうでスールあさ残党ざんとう討伐とうばつにあたっていたが、ジャランダルにいたかれらにそのらせがとどくと、皇帝こうてい側近そっきんである将校しょうこうには恐怖きょうふはしった。軍勢ぐんぜいかず帝国ていこくぐん2まんたいし、ヘームーの軍勢ぐんぜいは10まんしていたからだ[11]

将校しょうこうらはこの大軍たいぐんたたかうことは無理むりがあるとし、ひとまずカーブルにげたうえであらたに兵員へいいんやしたのちふたたびインドを征服せいふくすることを提案ていあんした[11]。だが、アクバルとバイラム・ハーンはいますぐたたかうべきだとし、バイラム・ハーンはなに抵抗ていこうせずにデリーをてきわたしたタールディー・ベグ処刑しょけいしたため、退却たいきゃく主張しゅちょうした将校しょうこうだまり、ぐん士気しきもどした[11]

同年どうねん11月5にち、アクバルひきいる軍勢ぐんぜいデリー北郊ほっこうパーニーパットでヘームーのぐん激突げきとつした(だいパーニーパットのたたか[12][13]。パーニーパットは起伏きふくつらなる広原こうげん地帯ちたいであり、1526ねんにはこのでアクバルの祖父そふバーブルがローディーあさやぶり、ムガル帝国ていこく創始そうしした歴史れきしてきでもあった[12][13]

りょうぐん戦力せんりょく圧倒的あっとうてきで、帝国ていこくぐんはヘームーの大軍たいぐん両翼りょうよく包囲ほういされ、敗北はいぼく寸前すんぜんおちいった[12][13]。ヘームーが勝利しょうりしたとおもわれたとき、ぞううえって指揮しきをしていたヘームーが片目かためられて意識いしきうしない、かれぐん混乱こんらんおちいった。

数時間すうじかん、ヘームーの大軍たいぐん潰走かいそうし、ヘームー自身じしんらえられ、アクバルのまえされた。バイラム・ハーンはアクバルに(異教徒いきょうとみずからの殺害さつがいしたものあたえられる)「ガーズィー」の称号しょうごうるため、アクバルみずからヘームーを処刑しょけいするようにうながした[12]。だが、アクバルは抵抗ていこうできないてきみずかくだすことをこばみ、バイラム・ハーンにその役目やくめまかせ、みずからはそのけんえるにとどめた[12]。こうして、ヘームーは処刑しょけいされ、だいパーニーパットのたたかいは終結しゅうけつした。

宮廷きゅうていない対立たいりつ帝国ていこく実権じっけん掌握しょうあく

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バイラム・ハーンの追放ついほう

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少年しょうねん時代じだいのアクバル

帝国ていこくぐんはヘームーのぐん撃破げきはしながらすすみ、同月どうげつ7にちにアクバルは帝都ていとデリーに入城にゅうじょうした[12]。また、アクバルの治世ちせい敬意けいいはらっていたアーグラなどデリー周辺しゅうへん都市とし帝国ていこく帰順きじゅんした[12]。アクバルのはは状況じょうきょう安定あんていするとカーブルを出発しゅっぱつし、彼女かのじょらがパンジャーブにちかづくと、アクバルはみずかいちにちかけて母親ははおや出迎でむかえにった。それから2ねんの1558ねんには、帝都ていとがデリーからアーグラへと遷都せんとされた。

さて、バイラム・ハーンはアクバルの摂政せっしょうとして権勢けんせいほこった。だが、かれはいささか傲慢ごうまん権力けんりょくたいして執着しゅうちゃくするところもあり、またタールディー・ベグの処刑しょけいいたこともあいまって、貴族きぞくらは反感はんかんいていた[12][13]。そのうえ、かれ宮廷きゅうていだい多数たすうめるスンナではなくシーア信仰しんこうしており、自身じしんかれ支持しじしゃやシーアもの高官こうかんにんじたことは古参こさん貴族きぞくから無視むしされていると非難ひなんった。

また、バイラム・ハーンは後宮こうきゅう勢力せいりょくとも対立たいりつしていた。それにはアクバルの王室おうしつ出費しゅっぴや、アクバルが叔父おじヒンダールのむすめルカイヤ・スルターン・ベーグムのみならず、カームラーンの親族しんぞく女性じょせいとも結婚けっこんしようとしたことでアクバルとバイラム・ハーンとのあいだ面倒めんどうなやりとりがあった。後宮こうきゅう女性じょせい存在そんざいはバイラム・ハーンにとっては脅威きょういであった[14][13]

そのうえ、アクバルが自身じしん地位ちい統治とうち責任せきにんつようになると、バイラム・ハーンとの対立たいりつ鮮明せんめいになった。かれはまたバイラム・ハーンを「バーバー・ハーン」(ちちなるハーン) とびつつも、皇帝こうていしの権力けんりょくかれ内心ないしんではおそれ、その掣肘せいちゅうわずらわしくおもうようになっていた[13]。アクバルは後宮こうきゅう支配しはいしていたははのハミーダ・バーヌー・ベーグム、乳母うばあたまのマーハム・アナガ、その息子むすこアドハム・ハーンという相談そうだん相手あいてて、バイラム・ハーン失脚しっきゃく陰謀いんぼうをひそかにくわだてた。

こうして、1560ねん3がつ、ついにバイラム・ハーンの失脚しっきゃく計画けいかく実行じっこうされた。アクバルはマーハム・アナガらの知恵ちえり、バイラム・ハーンの失脚しっきゃく計画けいかく実行じっこうした。まず、アクバルはバイラム・ハーンとともに首都しゅとアーグラをはなれてりにかけ、マーハム・アナガはデリーにいるアクバルのははやまいたおれたとのうそらせをアクバルにれた[15][16]。アクバルは病気びょうき見舞みまいを口実こうじつにバイラム・ハーンのもとをはなれてデリーにかい、バイラム・ハーンはアーグラへともどった[16][15]。また、ムヌイム・ハーンはマーハム・アナガの要請ようせいで、バイラム・ハーンがアクバルのわりにミールザー・ハキームを利用りようしないよう、かれれてデリーおもむいていた[15]

だが、計画けいかくしたのがマーハム・アナガだとかった場合ばあい彼女かのじょはバイラム・ハーンに報復ほうふくされる可能かのうせいがあった。そこで、彼女かのじょはアクバルを一旦いったんデリーのそとさせ、そこからバイラム・ハーンとのやりりをさせた。こうして、アクバルはバイラム・ハーン解任かいにん宣言せんげんするむねみことのりれいをだし、バイラム・ハーンもこれを了承りょうしょうし、クーデターは成功せいこうしたのである[16][17][18]

アクバルはバイラム・ハーンにかれ帝国ていこく自身じしん統治とうちするというむねつたえ、メッカ巡礼じゅんれいめいじて引退いんたい勧告かんこくし、バイラム・ハーンもこれにしたがって巡礼じゅんれいかった[13][19]。だが、バイラム・ハーンは自身じしん宰相さいしょう部下ぶかバハードゥル・ハーンあたえられたことで屈辱くつじょくあじわい[16]、さらにはグジャラートにいたとき自分じぶんおんのある部下ぶかピール・ムハンマド・ハーン追討ついとうかってきたとり、パンジャーブにもどってついに反乱はんらんこした[18]

バイラム・ハーンの反乱はんらん半年はんとしあいだつづいた。アクバルはアトガ・ハーン追討ついとうかわせ、バイラム・ハーンはジャランダルのたたかやぶれ、反乱はんらん鎮圧ちんあつされた[18]。その、バイラム・ハーンはムヌイム・ハーンに自身じしん摂政せっしょう称号しょうごうあたえられたことをり、アクバルに反乱はんらん謝罪しゃざいし、降伏ごうぶくするむね文書ぶんしょおくった[18]

バイラム・ハーンはアトガ・ハーンにとらえられ、アクバルの面前めんぜんされたが、アクバルは親切しんせつむかれ、自身じしん私的してき顧問こもん地方ちほう太守たいしゅとしてはたらくか、あるいはメッカに巡礼じゅんれいするかふたた選択肢せんたくしあたえた[18][19]。バイラム・ハーンはメッカ巡礼じゅんれいえらび、グジャラートへとおもむいた[18]

1561ねん1がつ31にち、バイラム・ハーンはアフマダーバード近郊きんこうパータンでアラビア半島はんとう出発しゅっぱつするはずをととのえていたさなか、かれ個人こじんてきうらみのあるアフガンじんによって殺害さつがいされた[18][19]。アクバルはかれいたみ、そのつまサリーマ・スルターン・ベーグム息子むすこアブドゥル・ラヒーム・ハーンはアクバルにられ、前者ぜんしゃはアクバルのとなり、後者こうしゃはのちにアクバルの大臣だいじんとなった[18]

マーハム・アナガの排除はいじょ

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だが、アクバルはバイラム・ハーンを追放ついほうしてもまだ実権じっけん掌握しょうあくできなかった。バイラム・ハーン失脚しっきゃく、そのとしを計画けいかくしたアクバルの乳母うばマーハム・アナガ最高さいこう権力けんりょくしゃとなったからである。

バイラム・ハーンの後任こうにんである宰相さいしょうバハードゥル・ハーンはマーハム・アナガの傀儡かいらいでしかなく、政権せいけん彼女かのじょ息子むすこアドハム・ハーンやその与党よとうによって組織そしきされていた。ヴィンセント・スミス彼女かのじょいちとうかためられた体制たいせいを「ペチコート・ガヴァメント」とんでいる[17]

騎乗きじょうするバーズ・バハードゥルとループマティー

だが、マーハム・アナガの息子むすこでアクバル乳兄弟ちきょうだいたるアドハム・ハーンがその立場たちばあやうくした。1560ねんにアドハム・ハーンはピール・ムハンマド・ハーンとともにマールワーへと遠征えんせいき、1561ねんどう地方ちほう占領せんりょうした。だが、アドハム・ハーンはマールワーの支配しはいしゃバーズ・バハードゥルがし、そのちょう才色兼備さいしょくけんび詩人しじんとしても名高なだかかったループマティーさせてしまった[20]。さらに、アドハム・ハーンは君主くんしゅ戦利せんりひんすべおく慣習かんしゅうやぶるという重大じゅうだいあやまちをおかした[21][20]。アクバルは当然とうぜんこの権利けんり主張しゅちょうし、みずからマールワーにかいその独善どくぜんおさえたため、アドハム・ハーンとのなか非常ひじょうわるくなった[21][22]

1561ねんジャウンプル統治とうちしていたウズベクじん貴族きぞくハーン・ザマーン叛意はんいしめしたため、アクバルは東方とうほうぐんすすめて一時いちじてきではあったものの、これを服従ふくじゅうさせた[23]同年どうねんまつ、アクバルはマーハム・アナガ子飼こがいの宰相さいしょうバハードゥル・ハーンを罷免ひめんし、アトガ・ハーン宰相さいしょう任命にんめいした[21][23]先帝せんていフマーユーン以来いらい重臣じゅうしんであるかれはマーハム・アナガいち対抗たいこうしうる存在そんざいで、かれつまジージー・アナガもアクバルの乳母うばだったため、アクバルからかれは「養父ようふ」とばれていた[16]

一方いっぽう、4がつにマーハム・アナガの派閥はばつるわず、アドハム・ハーン帰還きかんもマールワー遠征えんせいおこなっていたピール・ムハンマド・ハーンがかわおぼれて死亡しぼうしてしまった。 また、重臣じゅうしんムヌイム・ハーンはアトガ・ハーンとの対立たいりつから、アドハム・ハーンにその暗殺あんさつそそのかしていた[16]調子ちょうしりやすかったアドハム・ハーンはムヌイム・ハーンにそそのかされ、かれ自身じしんもアトガ・ハーンが宰相さいしょうであることがにくわなかったため、その暗殺あんさつ計画けいかくした[24][16]

処刑しょけいされるアドハム・ハーン

1562ねん5月16にち、アドハム・ハーンは大勢おおぜい部下ぶかれ、アーグラじょうおおやけ謁殿で会合かいごうをしていたアトガ・ハーンを短剣たんけんころしてしまった[16]。このとき、アクバルは寝殿しんでん睡眠すいみんちゅうだったが、さわぎでをさまし、事態じたいさっしておおやけ謁殿へとかった。一方いっぽう、アドハム・ハーンはおおやけ謁殿をのちにして後宮こうきゅうまえなかれるよううったえていたが、テラスでアクバルと遭遇そうぐうしてしまった[21][16]。アクバルは「よくもわたし養父ようふころしたな」とい、ひざくっしたアドハム・ハーンはなぐられてゆかにたたきつけられた[24][25]。それから、アドハム・ハーンは脳髄のうずいながるようテラスからさかさにして2にわたりげられ、あえなく絶命ぜつめいした[20][24]

マーハム・アナガはこのときデリーにいたが、アドハム・ハーンの処刑しょけいいてすぐさまアーグラへとけつけた。彼女かのじょはアクバルと面会めんかいすると、アクバルはみずか丁寧ていねいこと次第しだいをすべてはなした。彼女かのじょはただ「陛下へいかはよくなさいました」とい、そのショックからなおれずに40にち死亡しぼうした[24][20]

ムヌイム・ハーンはアーグラからげたもののとらえられ、アーグラに連行れんこうされた[24][23]。アクバルはかれゆるしてその称号しょうごう回復かいふくさせたが、その権力けんりょくはすべてうばたんなるいち武将ぶしょうとした[24][23]

皇帝こうていけん確立かくりつ

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こうして、アクバルはようやく帝国ていこく実権じっけんにぎることが出来できた。マーハム・アナガの排除はいじょ皇帝こうてい権限けんげん格段かくだん強化きょうかされた[20]

アクバルは宰相さいしょうしょく大権たいけん見直みなおし、財務ざいむ長官ちょうかん観察かんさつ長官ちょうかん管財かんざい長官ちょうかん司法しほう長官ちょうかんよん長官ちょうかん体制たいせいいて宰相さいしょう集中しゅうちゅうした権限けんげんを4分割ぶんかつし、宰相さいしょう常設じょうせつかんからはずして名目めいもくてきなものとした。アクバルはこれにより、名実めいじつともに[20]実権じっけんにぎると、さまざまな出自しゅつじから自身じしん信頼しんらいできる人材じんざい登用とうようして権力けんりょく軍事ぐんじりょくたかめ、みずか帝国ていこく勢力せいりょく拡大かくだいした[26]

だが、アクバルは後述こうじゅつのウズベクの反乱はんらん鎮圧ちんあつやラージプートとの同盟どうめい関係かんけい構築こうちくなどをおこない、皇帝こうていけん確立かくりつする努力どりょく継続けいぞくつづけた。

だい帝国ていこく建設けんせつ

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ラージプートとの同盟どうめい

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ラージプートおうらと面会めんかいするアクバル

実権じっけん掌握しょうあく、アクバルはヒンドゥー教徒きょうとであるきたインドの土着どちゃく勢力せいりょくラージプートとの同盟どうめい関係かんけい構築こうちく本格ほんかくてきった[26]。ラージプートはアクバルがみかどけん強化きょうかするじょうでも重要じゅうよう存在そんざいであった[26]

すでに実権じっけん掌握しょうあくまえの1562ねん1がつには、アンベール王国おうこく君主くんしゅビハーリー・マルむすめ結婚けっこんし、アンベール王国おうこく同盟どうめいむすばれていた。また、かれのこれは実権じっけん掌握しょうあくまえ皇帝こうていにとっては強力きょうりょく支持しじしゃとなり、マーハム・アナガにたいする牽制けんせいともなった[23]

1564ねん、ウズベクじん貴族きぞく反乱はんらんこしたのち、アクバルはそれまでのウズベクじんペルシアじんからなっていた貴族きぞくそうたよらず、インド出身しゅっしん貴族きぞくあらたに登用とうようする必要ひつようせい確信かくしんした[26]。それらはインド出身しゅっしんのムスリムとラージプートであった[26]

アクバルはラージプートとの同盟どうめいとく重視じゅうしし、かれらのむすめめとっていくことで次々つぎつぎかれらを貴族きぞくくわえた[26]。この政策せいさくにより、1580ねんまでに貴族きぞく構成こうせいはペルシアじん貴族きぞくが47にん、ウズベクじん貴族きぞくが48にん、ラージプート貴族きぞくが43にんとなっていた[26]

このように、アクバルはラージプートとは基本きほんてき融和ゆうわてき態度たいどをとり、だい部分ぶぶんのラージプートを味方みかたけることに成功せいこうした[26]。ラージプートの貴族きぞくらは帝国ていこく自身じしん王国おうこく管理かんり委譲いじょうし、帝国ていこく行政ぎょうせいかん徴税ちょうぜいまかせたため、事実じじつじょうラージプートの領土りょうど帝国ていこく領土りょうどとなった[26]。また、ラージプートはそれとえに帝国ていこくから俸禄の支払しはらいをけ、帝国ていこくむすびつくことで名誉めいよ権威けんいられた[26]

ゴンドワナの征服せいふく・ウズベクの反乱はんらん鎮圧ちんあつ

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ウズベクじん貴族きぞく反乱はんらんにおけるぞう激突げきとつジャウンプル

1564ねん、アクバルは横暴おうぼうてきだったフワージャ・ムアッザムを処刑しょけいしたのち、ゴンドワナ地方ちほう英語えいごばん征服せいふくするために軍勢ぐんぜい派遣はけんした。この地方ちほう征服せいふく順調じゅんちょうすすんだものの、ゴンドワナ太守たいしゅアーサフ・ハーンはこの地域ちいきはん独立どくりつてき権力けんりょくて、2まんにものぼ巨大きょだい兵力へいりょくやしなうようになった。アクバルはこの地方ちほう帝国ていこく東南とうなんすみにあったため、これに介入かいにゅうしなかった。

だが、同年どうねん7がつにマールワー太守たいしゅ任命にんめいされていたアブドゥッラー・ハーンが反乱はんらんこした。帝国ていこくではウズベクじん皇帝こうてい家臣かしんであったが、ティムールあさほろぼしたのも、祖父そふバーブルをサマルカンドからいやったのもまたウズベクじんであった[26]。アクバルはみずか反乱はんらん鎮圧ちんあつかい、これにグジャラートに敗走はいそうさせている[27]

1565ねん、ウズベクじん貴族きぞくハーン・ザマーンとそのおとうとバハードゥル・ハーンらの帝国ていこく東部とうぶ反乱はんらんこした[28]。バハードゥル・ハーンは宰相さいしょう解任かいにん、ジャウンプルの任地にんちにいたあにのハーン・ザマーンと合流ごうりゅうしていた[28]反乱はんらん理由りゆうたがいの勢力せいりょくけん係争けいそうであり、アクバルのみかどけん安定あんていしなかった[28]。このウズベク兄弟きょうだい反乱はんらんに、アクバルは帝国ていこく東部とうぶ統治とうち盤石ばんじゃくにすることを決心けっしんし、みずからジャウンプルにかった[28]

だが、ムヌイム・ハーンがあいだはいったため決戦けっせん回避かいひされ、りょうぐんあいだやくむすばれた[28]。また、このとき帝国ていこく権臣けんしんだいジャーギールダールらのあいだでもかれていた[28]。ゴンドワナ太守たいしゅのアーサフ・ハーンは招集しょうしゅうおうじてアクバルの陣営じんえいおもむいたが、戦利せんり財宝ざいほう私蔵しぞうしたつみ追及ついきゅうされるのをおそれたかれはハーン・ザマーンに保護ほごもとめている[29]。この一時いちじてき和解わかいはアクバルがハーン・ザマーンをたお実力じつりょく保持ほじしていないことを意味いみしていた[29]

帝都ていともどったアクバルはぐん指揮しきけん統制とうせいけんなどを強化きょうかするなど改革かいかくおこない、中央ちゅうおう政府せいふ強化きょうか反発はんぱつする東方とうほうのハーン・ザマーンらはん独立どくりつ勢力せいりょくおそれをいだき、1556ねん反乱はんらんふたたこした[30]。この反乱はんらんはアクバルのみかどけん反発はんぱつするものたちが一大いちだい連合れんごう性格せいかくび、アフガニスタンを統治とうちしていたすめらぎおとうとミールザー・ハキームにインド侵略しんりゃくちかけるなどして連携れんけいっていた[30][26]

アフガニスタンを統治とうちしていたミールザー・ハキームはパンジャーブに侵入しんにゅうしてきたが、 アクバルはこれを撃退げきたいした[30][26]。そのすぐ、ドアーブ地方ちほうべつ皇族こうぞくすうめい反乱はんらんきたがアクバルはこれをやぶり、かれらはハーン・ザマーンともいがつかなくなり、流浪るろうすえ各個かっこ撃破げきはされた。皇帝こうてい権力けんりょく上昇じょうしょう皇族こうぞくらの立場たちば変化へんかをもたらし、臣従しんじゅう反逆はんぎゃくかの選択せんたく余儀よぎなくさせていた[30]

まもなく、ゴンドワナ太守たいしゅアーサフ・アハーンが帰順きじゅんすると、アクバルはウズベク兄弟きょうだい討伐とうばつ本腰ほんごしれ、1567ねんみずからウズベク兄弟きょうだいにいるマーニクプル攻撃こうげきした[31]帝国ていこくぐん激流げきりゅうわたってハーン・ザマーンをおそって殺害さつがいし、バハードゥル・ハーンもとらえて処刑しょけいした[31][26]帝国ていこくぐんはアラーハーバードやヴァーラーナシーにまで示威じいおこない、アワド地方ちほう一帯いったいにその威令いれいとどいた[31]

ここにウズベクの反乱はんらん鎮圧ちんあつされたが、アクバルのおこなった戦後せんご処理しょり比較的ひかくてきゆるやかなものであった。そのれいとして、叛将の一人ひとりイスカンダル・ハーンはつみまぬかれ、もとのままのジャーギールを保証ほしょうされている[31]。また、ハーン・ザマーンのジャーギールはすべてムヌイム・ハーンにあたえられ、かれはジャウンプルの太守たいしゅとなった[31]

メーワール王国おうこくとのたたか

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チットールガル攻撃こうげきするアクバル

さて、先述せんじゅつしたようにアクバルはほとんどのラージプートとのあいだ同盟どうめい関係かんけい構築こうちくすることに成功せいこうしていたが、一部いちぶのラージプートは服属ふくぞく拒否きょひしていた。メーワール王国おうこくブーンディー王国おうこくである。ことにメーワール王国おうこくはラージプートしょ王国おうこくなかもっとたか家柄いえがら、 ラージプートしょぞく宗室そうしつ自負じふしていたため、服属ふくぞくさせることは容易よういではなかった[32]デリー・スルターンあさ時代じだいいくにんかのおう攻撃こうげきしたが、結局けっきょくのところ服属ふくぞくさせることはできなかった。

そのため、1567ねん10がつにアクバルはメーワール王国おうこく首都しゅとチットールガル包囲ほういし、これに猛攻もうこうくわえた(チットールガル包囲ほういせん[32][26]。なお、この包囲ほういにはさき服属ふくぞくしたアンベール王国おうこく王子おうじバグワント・ダースも作戦さくせん参謀さんぼうとしてくわわっていた[32]

すうげつにわたる猛攻もうこうすえ、1568ねん2がつにチットールガルは陥落かんらくした[33]同年どうねん4がつ、アクバルはアーグラへと帰還きかんした[32]

1569ねん3がつ今度こんどはブーンディー王国おうこく君主くんしゅスルジャン・シング籠城ろうじょうするランタンボールじょう包囲ほういし、数日すうじつ砲撃ほうげきくわえたのち、ブーンディーがわから和解わかいもうれがあった。ブーンディー王国おうこくはメーワール王国おうこくふうしんであったが、バグワーン・ダースとその息子むすこマーン・シングは帝国ていこくくよう説得せっとくするためにスルジャン・シングと会見かいけんした。アクバルはこのときかれらの従者じゅうしゃ一人ひとりまぎれていたが、それが発見はっけんされてもおどろかずに交渉こうしょうくわわり、講和こうわ成立せいりつした。

だが、メーワール王国おうこくとのたたかいは依然いぜんとしてつづくこととなった。メーワールおうウダイ・シング2せいはチットールガルが陥落かんらくするまえにすでにげており、かれ自身じしんかんした都市としウダイプル遷都せんとして帝国ていこく対抗たいこうしようとした[33]

1572ねんにウダイ・シング2せいぬと、その息子むすこプラタープ・シング王位おうい継承けいしょうし、ムガル帝国ていこく抵抗ていこうした[33]かれはメーワール王国おうこく領土りょうど大半たいはん回復かいふくしたが、首都しゅとチットールガルをもどすことはできず、15ねん死亡しぼうした。

その、プラタープ・シングの息子むすこアマル・シングが王位おうい継承けいしょうして抵抗ていこうつづけ、アクバル死後しごの1614ねん2がつになってようやく講和こうわ成立せいりつした[33]

マールワーの獲得かくとく

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1562ねん、ピール・ムハンマド・ハーンの溺死できしにより喪失そうしつしたマールワー地方ちほう回復かいふくするため、だいマールワー遠征えんせいぐん派遣はけんされた。指揮しきかんはアブドゥッラー・ハーン・ウズベクであったが、指揮しきかん占領せんりょう定着ていちゃくして中央ちゅうおう統制とうせいからはなれることをおそれ、「皇室こうしつ直轄ちょっかつりょう確定かくていするため」にシハーブッディーン・アフマド・ハーンなど多数たすう監督かんとくかん遠征えんせいぐん配属はいぞくさせた[23]

アクバルがマールワー地方ちほう獲得かくとくにここまで重視じゅうしした理由りゆうとしては、当時とうじ帝国ていこく東部とうぶでハーン・ザマーンがはん独立どくりつてき立場たちばでいたこと、またジャーギールダールらを結集けっしゅうしていたことがあげられる。石井いしいたもつあきらは「南方なんぽうのマールワーをしっかり皇帝こうてい確保かくほすることは戦略せんりゃくじょう重要じゅうようであった」とべている。

ピール・ムハンマド・ハーンの水死すいし、マールワーはまたしてもバーズ・バハードゥルの支配しはいはいっていた。帝国ていこくぐん戦闘せんとうおこなったが、1564ねんにはアブドゥッラー・ハーンが反乱はんらんこすなどしたため、遠征えんせい長期ちょうきのものとなった。

1570ねん、アクバルはバーズ・バハードゥルに帰順きじゅんさそい、かれ帝国ていこく帰順きじゅんもうれ、マールワー地方ちほう帝国ていこくいちしゅうになった。

グジャラートの征服せいふく

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スーラト到着とうちゃくしたアクバル

アクバルはラージャスターンとマールワーを平定へいていしたのち、グジャラート征服せいふくへと目指めざした。アラビアかいめんしたグジャラート地方ちほう海外かいがい交易こうえき拠点きょてん都市とし多数たすうあったばかりか、メッカ巡礼じゅんれい出発しゅっぱつ地点ちてんでもあり、帝国ていこく発展はってんにはかせない地域ちいきでもあった[33]。1571ねん、アクバルはグジャラート征服せいふくのため、アーグラからファテープル・シークリーうつった。

アクバルの治世ちせいグジャラート地方ちほう支配しはいしていたのはグジャラート・スルターンあさアフマド・シャーヒーあさ)であった[33]。このグジャラート・スルターンあさちちみかどフマーユーンも戦闘せんとうまじえた相手あいてであったが、征服せいふくはできずにいた[33]。だが、グジャラート・スルターンあさ混乱こんらん状態じょうたいにあり、だいジャーギールダール(有力ゆうりょくしゃ)のイティマード・ハーン政敵せいてきあらそうため、アクバルに支援しえんもとめて介入かいにゅうするよううながした[34]

1572ねん7がつ、アクバルはグジャラートへ出陣しゅつじん[34]、11月にグジャラート・スルターンあさ首都しゅとアフマダーバードに入城にゅうじょうした[33][34]。このとき、かれはイティマード・ハーンをはじめとして帰順きじゅんしてきたものらを厚遇こうぐうした[34]

アクバルはそのもグジャラート征服せいふくすすめ、12月グジャラートのみなとカンバート(カンベイ)を制圧せいあつした[34][35]。このとき、かれふねをカンベイわんかべてうみたが、そのころにポルトガル商人しょうにんらが皇帝こうてい軍営ぐんえいにあいさつにやって[34]>。

よく1573ねん2がつ、アクバルはみなとスーラトを包囲ほういし、制圧せいあつした[34][35]。この包囲ほういのさなか、ポルトガルのゴアふくおうから使節しせつおくられ、アクバルに敬礼けいれいして贈物おくりものささげていた[34]

6がつ、アクバルは首都しゅとファテープル・シークリーに帰還きかんして凱旋がいせんした。だが、もなく反乱はんらんきたため、8がつふたたびアクバルみずかりすぐりの精鋭せいえいひきいて首都しゅと[35]。このときの遠征えんせいぐんはインド屈指くっし強行きょうこうぐんとしてられ、いちにち平均へいきん80キロで進軍しんぐんし、わずか11にちでアフマダーバードを制圧せいあつした[35]

アクバルは首都しゅと帰還きかんし、そのさい腹心ふくしんトーダル・マル首都しゅとからして戦後せんご処理しょりにあたらせた[36]。トーダル・マルは半年はんとしあいだ現地げんち行政ぎょうせい指導しどうにあたらせたが、このとき経験けいけんはその帝国ていこく制度せいどにおける行政ぎょうせい改革かいかくかされた[37][38]

グジャラートの征服せいふく帝国ていこくにとって重要じゅうようなものであった。この征服せいふくにより、帝国ていこく西方せいほう領土りょうど拡張かくちょうしたのみならず、みなとスーラトなどの西方せいほうしょみなととおしておこな海洋かいよう諸国しょこくとの貿易ぼうえきおこなうことが出来できるようになり、その関税かんぜい収入しゅうにゅう莫大ばくだいなものであった[39]

ベンガル・オリッサの征服せいふく

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グジャラート征服せいふく、アクバルはベンガル地方ちほうけた[35]。このガンジスがわ一帯いったいひろがる地域ちいきもまた、グジャラート地方ちほうおなじく重要じゅうよう地域ちいきであった[35]

ベンガル地方ちほうはベンガル・スルターンあさによって統治とうちされており、王朝おうちょうのアフガンけい君主くんしゅらは帝国ていこくめんはい服従ふくじゅう態度たいどをとっていた[35]。だが、1572ねんダーウード・ハーン・カララーニー君主くんしゅとなると、かれ金曜きんよう礼拝れいはい説教せっきょう皇帝こうていではなく自身じしんとなえさせ、独立どくりつ君主くんしゅであるかのようにっていた[35]

1574ねん8がつ、アクバルは急遽きゅうきょみずか遠征えんせいしてムヌイム・ハーンの軍勢ぐんぜいとも合流ごうりゅうし、パトナを占拠せんきょし、ダーウード・ハーンを追放ついほうした[35][36][40]かれはトーダル・マルを副将ふくしょうとしてムヌイム・ハーンにけ、イティマード・ハーンやラシュカル・ハーンといった官僚かんりょう中央ちゅうおうから派遣はけんして督戦とくせんにあたらせた[36][40]

これにより、アクバルは監察かんさつらをとおしてベンガル遠征えんせいぐん状況じょうきょうりえることが出来でき[40]かれらは皇帝こうてい大輪たいりんのような役割やくわりたし、1575ねん4がつにムヌイム・ハーンがダーウード・ハーンと和議わぎむすんださいには、トーダル・マルは皇帝こうてい意志いし代弁だいべんするかたち交換こうかん文書ぶんしょ署名しょめい拒否きょひした[41]

同年どうねん10月、ムヌイム・ハーンがベンガル遠征えんせいのさなかに死亡しぼうした。アクバルは後任こうにん太守たいしゅハーン・ジャハーン任命にんめいし、ビハール太守たいしゅムザッファル・ハーン協力きょうりょくして遠征えんせい継続けいぞくした[41]

1576ねん7がつ、アクバルはあらたにだい規模きぼ遠征えんせいぐん派遣はけんし、ガンジスがわ西岸せいがんラージマハルでダーウード・ハーンをはいさせ、ベンガル地方ちほう併合へいごうした[35]

一方いっぽう、ベンガル地方ちほう南西なんせいつづくオリッサ地方ちほうはクルダー王国おうこくやアフガン勢力せいりょく割拠かっきょしていたが、ビハールしゅう太守たいしゅマーン・シングにより1592ねん4がつまでに併合へいごうされた[35]

北西ほくせい地方ちほう征服せいふく

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アクバル

カーブルを中心ちゅうしんとしたアフガニスタンは中央ちゅうおうアジアのウズベク勢力せいりょくやイランのサファヴィーあさたいする前線ぜんせん地帯ちたいであり、グジャラートやベンガルとはちがった意味いみ重要じゅうよう地域ちいきであった[35]。この地域ちいきはアクバルのおとうとでカーブル太守たいしゅミールザー・ハキームが支配しはいしていたが、かれはウズベク兄弟きょうだい反乱はんらんにも参加さんかするなど中央ちゅうおう反抗はんこうてきであった[35]

1580ねんから1581ねんにかけて、ミールザー・ハキームの乳兄弟ちきょうだいマースーム・ハーン・カーブリーがベンガル・ビハール地方ちほうだい規模きぼ反乱はんらんこした[35]。ミールザー・ハキームもこれに同調どうちょうし、帝国ていこく東西とうざいから挟撃きょうげきしようと共謀きょうぼうした[35][42]

ベンガル・ビハールの反乱はんらんはアクバル最大さいだい危機ききでもあり、王座おうざさぶられるほどの出来事できごとであった。この反乱はんらん原因げんいん中央ちゅうおう政府せいふ行政ぎょうせい改革かいかく強行きょうこうや、1579ねんにベンガル太守たいしゅとなったムザッファル・ハーンと中央ちゅうおうから派遣はけんされた官僚かんりょうとの関係かんけい悪化あっか、それによる政務せいむ停滞ていたいなどがあげられる。

アクバルはトーダル・マルを派遣はけん鎮圧ちんあつにあたらせ、ベンガル太守たいしゅムザッファル・ハーンを問責もんせきする命令めいれいはっ反乱はんらんさえようとした[43]。だが、宮廷きゅうていないでもかれらへの内通ないつうしゃ続々ぞくぞく発覚はっかくしたうえ、反乱はんらんはついにパトナにまでおよんだ。

1580ねん4がつ、ターンダーに退しりぞいた太守たいしゅムザッファル・ハーンは殺害さつがいされ、鎮圧ちんあつ指揮しきしていたトーダル・マルがモンギールで長期ちょうきにわたり籠城ろうじょういられたこともあった[43]

1580ねん12月、ミールザー・ハキームの武将ぶしょうがパンジャーブに侵入しんにゅうしたが、これはただちに撃退げきたいされた。だが、今度こんどはミールザー・ハキームみずからが15000ひきいて侵入しんにゅうしてきた。アクバルはこれに断固だんことした態度たいどり、1581ねん2がつ大軍たいぐんひきいてアフガニスタンへ遠征えんせいおこない、カーブルへとかった[35]ぐんには8かげつぶん給料きゅうりょうはらわれ、そのそう兵力へいりょくは5まんにんぞう5000とうであった[44]

8がつ、アクバルはミールザー・ハキームをヒンドゥークシュ山脈さんみゃく敗走はいそうさせ、カーブルへと入城にゅうじょうした。その後任こうにんのカーブル太守たいしゅいもうとバフトゥンニサー・ベーグムにんじた[35]

一方いっぽう、ベンガル・ビハールの反乱はんらんでは苦戦くせんつづいていた。だが、アクバルのカーブル入城にゅうじょうからほどなくして鎮圧ちんあつされた[35]

1585ねん、ミールザー・ハキームが死亡しぼうすると、ウズベクけいシャイバーニーあさブハラ・ハーンこくがカーブルにたいしてさらに圧力あつりょくをかけるようになった[45]。その君主くんしゅアブドゥッラー・ハーン2せいはアフガンけい部族ぶぞく協力きょうりょくのもと、バダフシャーンを制圧せいあつしていた。アクバルはこれをて、首都しゅとをファテープル・シークリーからラホールにうつし、カーブルを帝国ていこく直轄ちょっかつした[45]

また、アクバルはアブドゥッラー・ハーン2せい協定きょうていむすんだのち、アフガンけい部族ぶぞくとくユースフザイぞく鎮圧ちんあつんだ[45]。このユースフザイぞく強力きょうりょくであり、1586ねんにはアクバルの腹心ふくしんビールバル殺害さつがいされるなど苦戦くせんいられるなどしたが、最終さいしゅうてきしょ部族ぶぞく支配しはいいた。このたたかいにより、カイバルとうげから中央ちゅうおうアジア・西にしアジアにける交易こうえき確保かくほできた[46]

また、おなじ1586ねんにアクバルはカシミール・スルターンあさほろぼし、1589ねんまでにカシミール地方ちほう征服せいふく完了かんりょうした。1591ねんにシンド地方ちほう同様どうよう制圧せいあつし、1593ねんにはシンド地方ちほう君主くんしゅがラホールにおもむいて、アクバルに臣従しんじゅうちかいをてている[46]。こうして、ヒマラヤ山系さんけい要衝ようしょうカシミール、インダス川下かわしも流域りゅういきのシンド地方ちほうがムガル帝国ていこく領土りょうどくわえられた[46]

1598ねん、アブドゥッラー・ハーン2せい死亡しぼうし、北西ほくせい方面ほうめんにおけるウズベクの脅威きょうい減少げんしょうした。アクバルは北西ほくせい方面ほうめんにおける安泰あんたい確保かくほすると、アーグラへと帰還きかんした。

内政ないせい

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アクバル

こうして広大こうだい版図はんとおおくのムスリムかかえるようになった帝国ていこくささえるため、アクバルはムガル帝国ていこく制度せいど確立かくりつし、イスラームほううえ異教徒いきょうとたいしてされていたジズヤ人頭じんとうぜい)を廃止はいしするなど税制ぜいせい改革かいかくした[47]

また、軍人ぐんじん官僚かんりょうに、平時へいじから準備じゅんびしていることを義務付ぎむづけた兵馬へいばかずおうじた位階いかいマンサブ)をあたえて官僚かんりょう機構きこう序列じょれつするとともに安定あんていした軍事ぐんじりょく確保かくほするマンサブダーリーせい導入どうにゅうした[48]1579ねんよりこのような一連いちれん改革かいかく反対はんたいするうごきからだい規模きぼ反乱はんらんこるが、すうねんでこれが鎮圧ちんあつされると、ムガル帝国ていこく支配しはいはかえって安定あんていかっていった。

税制ぜいせいめんでは、スールあさのシェール・シャーが導入どうにゅうした税制ぜいせい踏襲とうしゅうしたうえでさらに改良かいりょうしたザブトせい施行しこうした。これは生産せいさん能力のうりょくおうじて土地とちを4つの等級とうきゅうけ、そのうえで、平均へいきん生産せいさんだか算出さんしゅつしてその3ぶんの1から5ぶんの1をぜいとしてぜにおさめさせるものであった[48]ぜにおさめであったため、生産せいさんしゃ市場いちば作物さくもつ販売はんばいせざるをず、これにより流通りゅうつうさかんになり、また生産せいさんりょく増大ぞうだい推進すいしんすることとなった。

アクバル自身じしん統治とうちたいしてとても責任せきにんかんいており、それをあらわすいくつかの言葉ことばのこしている[48]

君主くんしゅのもっとも崇高すうこう資質ししつは、あやまちをゆるすことである」

宗教しゅうきょう

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アクバルは帝国ていこく統治とうちにおいて、かなり宗教しゅうきょうてき融和ゆうわ重視じゅうしした君主くんしゅであった[49]宗教しゅうきょうてきには中央ちゅうおうアジアけい・イランけいのムスリムのみならず、土着どちゃくのムスリムやヒンドゥー教徒きょうと数多かずおお帝国ていこく君主くんしゅとして、アクバルはイスラームきょうのみならず、ポルトガルじんがインドで宣教せんきょうするキリスト教きりすときょういたるまで、多様たよう宗教しゅうきょうたいして関心かんしんせていたといわれる[49]

とくに神秘しんぴ主義しゅぎからつよ影響えいきょうけつつしょ宗教しゅうきょう総合そうごうてき尊重そんちょうしたかれ自身じしん宗教しゅうきょう姿勢しせいは、アクバルの側近そっきんアブル・ファズルがアクバルのいのちによって執筆しっぴつした年代ねんだいアクバル・ナーマ』に「ディーニ・イラーヒー英語えいごばん」(「かみ宗教しゅうきょう」の)という名前なまえのこされている[50]

なお、ディーニ・イラーヒーとはアクバルの創始そうししたしん宗教しゅうきょうであったとするせつ非常ひじょうによくられている。だが、史料しりょうてきうらづけがなく、現在げんざいではほとんど否定ひていされている。

建築けんちく

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ファテープル・シークリーのディーワーニ・ハース

アクバルは建設けんせつ事業じぎょうさかんにった。治世ちせい初期しょきにつくられた建造けんぞうぶつではデリーにあるちちフマーユーンの霊廟れいびょうフマーユーンびょう)が名高なだかい。1571ねんまで帝国ていこく宮殿きゅうでんはデリーとならきたインド首府しゅふであるアーグラかれていたが、アクバルは15世紀せいきローディーあさによって建設けんせつされたきゅう城砦じょうさい1565ねんあか砂岩さがんきずかれたアーグラ城塞じょうさい改修かいしゅうし、この城市じょうしには「アクバルのまち」を意味いみするアクバラーバードのあたえられた。

また、1569ねんには帰依きえするチシュティー教団きょうだん神秘しんぴ主義しゅぎしゃスーフィー)の影響えいきょうけてアーグラの近郊きんこう周囲しゅうい11kmにおよ市域しいきをもった新都しんとファテープル・シークリー(「勝利しょうり」)の建設けんせつはじめ、1574ねんから1584ねんまでの10年間ねんかんにわたって居城きょじょうとした[51]

しかしファテープル・シークリーは水利すいりわるく、1584ねん首都しゅとラホールうつされると放棄ほうきされた。1598ねんまでアクバルのであったラホールの城砦じょうさいもアクバルの造営ぞうえいになるものを基礎きそとしている。1598ねん以降いこうは、帝国ていこく首都しゅとふたたびアーグラへとうつった。

文化ぶんか

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アクバルとターンセーン

ちち流浪るろう生活せいかつ最中さいちゅうまれ、中央ちゅうおうアジア出身しゅっしん武人ぶじんかこまれてそだったため、幼少ようしょう文字もじまなんだ経験けいけんがなく無学むがくであったが、サファヴィーあさ宮廷きゅうていほどきをうけたこともあり、芸術げいじゅつ愛好あいこう学問がくもん保護ほごした[52]。アブル・ファズルをはじ側近そっきんにはすぐれた文化ぶんかじんつどい、サンスクリットからペルシアへの翻訳ほんやく事業じぎょうおこなわれた。

また、アクバルは画家がか優遇ゆうぐうして絵画かいがにもちかられ、アクバルの時期じきからムガル絵画かいが最盛さいせいむかえていくこととなった。また、音楽おんがく奨励しょうれいし、ヒンドゥスターニー音楽おんがくだい音楽家おんがくかミーヤーン・ターンセーン宮廷きゅうていまねいた。ターンセーンの音楽おんがくは、20世紀せいきにいたるまでヒンドゥスターニー音楽おんがく正統せいとうとなり、その音楽おんがく多大ただい影響えいきょうあたえた[50]

晩年ばんねん

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晩年ばんねんのアクバル
アクバルびょう

治世ちせい末期まっきにはデカン地方ちほう進出しんしゅつし、1591ねんから1600ねんにかけてデカンにあったデカン・スルターンあさビジャープル王国おうこくゴールコンダ王国おうこくアフマドナガル王国おうこくビーダル王国おうこくベラール王国おうこくアフマドナガル王国おうこく)とたたかって版図はんとみなみおおきくひろげた[46]。アクバルはこの時期じきおなじくムスリム5王国おうこく対立たいりつしていたみなみインドのヴィジャヤナガル王国おうこくヴェンカタ2せいなん書簡しょかんのやりりをしていた。1600ねんにはアクバルの使節しせつがヴェンカタ2せいとヴィジャヤナガル王国おうこく首都しゅとチャンドラギリ面会めんかいしている。

サリーム、ムラードダーニヤールさんにん息子むすこまれたが、ムラードとダーニヤールは早世そうせいし、アクバルの晩年ばんねんには長男ちょうなんのサリームのみが生存せいぞんしていた[53]。アクバルはサリームを幼少ようしょうからあまやかすことはなくそだてたが、サリームは父親ちちおや青年せいねんから反抗はんこうてきで、そのため両者りょうしゃ関係かんけいわるく、サリームはアヘン吸引きゅういんしていた(その複雑ふくざつ関係かんけい1614ねんごろにえがかれたムガル絵画かいがからもうかがえる)[53][54]

そのため、サリームとはなかわるく、後継こうけいしゃ問題もんだい失意しつい晩年ばんねんおくることとなった。1600ねん、サリームはアクバルに反旗はんきひるがえして挙兵きょへいし、和解わかいのためにちちおくったアブル・ファズルを殺害さつがいした[53][55]。これをけてアクバルは1604ねん、サリームを討伐とうばつするためサリームの本拠ほんきょであるアラーハーバードへと進軍しんぐんしたが、アクバルのははハミーダがたおれたことでぐんげ、やがてサリームが謝罪しゃざいすることで和解わかい成立せいりつした[56][55]

1605ねん10月3にち赤痢せきり発症はっしょうし、回復かいふくしないまま同年どうねん10月27にち崩御ほうぎょした。アクバルの崩御ほうぎょ、サリームがだい4だい皇帝こうていジャハーンギールとして即位そくいした[56]。アクバルの遺骸いがいはアーグラ近郊きんこうのシカンドラーにはこばれてほうむられ、そのアクバルびょう建設けんせつされた[57]

関連かんれん作品さくひん

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映画えいが

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 1
  2. ^ ロビンソン『ムガル皇帝こうてい歴代れきだい』、p.185
  3. ^ a b ロビンソン『ムガル皇帝こうてい歴代れきだい』、p.184
  4. ^ クロー『ムガル帝国ていこく興亡こうぼう』、p.165
  5. ^ a b c d e f g h i j k 近藤こんどう近年きんねんのムガル帝国ていこくろんについて』、p.31
  6. ^ Delhi 4
  7. ^ クロー『ムガル帝国ていこく興亡こうぼう』、p.65
  8. ^ ロビンソン『ムガル帝国ていこく歴代れきだい』、p.180
  9. ^ a b 近藤こんどう近年きんねんのムガル帝国ていこくろんについて』、p.32
  10. ^ a b c ロビンソン『ムガル皇帝こうてい歴代れきだい』、p.186
  11. ^ a b c d e クロー『ムガル帝国ていこく興亡こうぼう』、p.74
  12. ^ a b c d e f g h クロー『ムガル帝国ていこく興亡こうぼう』、p.76
  13. ^ a b c d e f g ロビンソン『ムガル皇帝こうてい歴代れきだい』、p.187
  14. ^ クロー『ムガル帝国ていこく興亡こうぼう』、p.78
  15. ^ a b c クロー『ムガル帝国ていこく興亡こうぼう』、p.79
  16. ^ a b c d e f g h i 小谷おたに世界せかい歴史れきし大系たいけい みなみアジア2―中世ちゅうせい近世きんせい―』、p.152
  17. ^ a b 石井いしい『ムガル帝国ていこく』、p.44
  18. ^ a b c d e f g h クロー『ムガル帝国ていこく興亡こうぼう』、p.80
  19. ^ a b c チャンドラ『中世ちゅうせいインドの歴史れきし』、p.236
  20. ^ a b c d e f 小谷おたに世界せかい歴史れきし大系たいけい みなみアジア2―中世ちゅうせい近世きんせい―』、p.153
  21. ^ a b c d ロビンソン『ムガル皇帝こうてい歴代れきだい』、p.189
  22. ^ 石井いしい『ムガル帝国ていこく』、p.45
  23. ^ a b c d e f 石井いしい『ムガル帝国ていこく』、p.47
  24. ^ a b c d e f クロー『ムガル帝国ていこく興亡こうぼう』、p.84
  25. ^ 小谷おたに世界せかい歴史れきし大系たいけい みなみアジア2―中世ちゅうせい近世きんせい―』、pp.152-153
  26. ^ a b c d e f g h i j k l m n o ロビンソン『ムガル皇帝こうてい歴代れきだい』、p.190
  27. ^ 石井いしい『ムガル帝国ていこく』、p.52
  28. ^ a b c d e f 石井いしい『ムガル帝国ていこく』、p.53
  29. ^ a b 石井いしい『ムガル帝国ていこく』、p.54
  30. ^ a b c d 石井いしい『ムガル帝国ていこく』、p.56
  31. ^ a b c d e 石井いしい『ムガル帝国ていこく』、p.57
  32. ^ a b c d 石井いしい『ムガル帝国ていこく』、p.58
  33. ^ a b c d e f g h 小谷おたに世界せかい歴史れきし大系たいけい みなみアジア2―中世ちゅうせい近世きんせい―』、p.154
  34. ^ a b c d e f g h 石井いしい『ムガル帝国ていこく』、p.68
  35. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 小谷おたに世界せかい歴史れきし大系たいけい みなみアジア2―中世ちゅうせい近世きんせい―』、p.155
  36. ^ a b c 石井いしい『ムガル帝国ていこく』、p.71
  37. ^ 石井いしい『ムガル帝国ていこく』、pp.67-68
  38. ^ 石井いしい『ムガル帝国ていこく』、pp.69-70
  39. ^ 石井いしい『ムガル帝国ていこく』、pp.68-69
  40. ^ a b c 石井いしい『ムガル帝国ていこく』、p.92
  41. ^ a b 石井いしい『ムガル帝国ていこく』、p.93
  42. ^ 石井いしい『ムガル帝国ていこく』、p.122
  43. ^ a b 石井いしい『ムガル帝国ていこく』、p.123
  44. ^ 石井いしい『ムガル帝国ていこく』、p.125
  45. ^ a b c ロビンソン『ムガル皇帝こうてい歴代れきだい』、p.191
  46. ^ a b c d ロビンソン『ムガル皇帝こうてい歴代れきだい』、p.192
  47. ^ ロビンソン『ムガル皇帝こうてい歴代れきだい』、p193
  48. ^ a b c ロビンソン『ムガル皇帝こうてい歴代れきだい』、p.196
  49. ^ a b ロビンソン『ムガル皇帝こうてい歴代れきだい』、p.194
  50. ^ a b ロビンソン『ムガル皇帝こうてい歴代れきだい』、p.197
  51. ^ クロー『ムガル帝国ていこく興亡こうぼう』、p.129
  52. ^ ロビンソン『ムガル皇帝こうてい歴代れきだい』、p.198
  53. ^ a b c ロビンソン『ムガル皇帝こうてい歴代れきだい』、p.201
  54. ^ ロビンソン『ムガル皇帝こうてい歴代れきだい』、p.204
  55. ^ a b クロー『ムガル帝国ていこく興亡こうぼう』、p.147
  56. ^ a b ロビンソン『ムガル皇帝こうてい歴代れきだい』、p.202
  57. ^ クロー『ムガル帝国ていこく興亡こうぼう』、p.150

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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