アクバル (ペルシア語 ご : جلال الدین محمد اکبر اعظم , Jalāl'ud-Dīn Muhammad Akbar Azam, 1542年 ねん 10月25日 にち - 1605年 ねん 10月27日 にち )は、北 きた インド 、ムガル帝国 ていこく の第 だい 3代 だい 君主 くんしゅ (在位 ざいい :1556年 ねん - 1605年 ねん )。アクバル1世 せい (Akbar I)、アクバル大帝 たいてい (اکبر کبیر , Akbar-e kabīr)とも呼 よ ばれる。
アラビア語 ご で「偉大 いだい 」を意味 いみ するアクバルの名 な にふさわしく、中央 ちゅうおう アジア からの流入 りゅうにゅう 者 しゃ であった祖父 そふ バーブル の立 た てたムガル朝 あさ を真 しん に帝国 ていこく と呼 よ ばれるにふさわしい国家 こっか に発展 はってん させた。そのため、マウリヤ朝 あさ のアショーカ王 おう に並 なら び称 しょう されることもあり[ 2] 、大帝 たいてい の称号 しょうごう を与 あた えられている。
アクバルは、先述 せんじゅつ のアショーカ王 おう やスール朝 あさ のシェール・シャー とともに最 もっと も成功 せいこう した君主 くんしゅ であり、インドの最 もっと も偉大 いだい な王 おう であり融和 ゆうわ の象徴 しょうちょう として、現在 げんざい のインドでも人気 にんき が高 たか い。
アクバルと父 ちち フマーユーン
ゾウ に乗 の る幼少 ようしょう 期 き のアクバル
1542年 ねん 10月15日 にち 、アクバルは西 にし インド のシンド地方 ちほう 、ウマルコート のウマルコート城 じょう で、ムガル帝国 ていこく の第 だい 2代 だい 君主 くんしゅ フマーユーン とその妃 ひ ハミーダ・バーヌー・ベーグム との間 あいだ に生 う まれた[ 3] [ 4] [ 5] [ 6] 。誕生 たんじょう 名 めい はバドルッディーン・ムハンマド・アクバル(Badruddin:満月 まんげつ の意 い 、満月 まんげつ の夜 よる に誕生 たんじょう したため。アクバルの名 な は外祖父 がいそふ のシャイフ・アクバル・アリー・ジャーミー にちなむ)[ 7] 。
皇子 おうじ アクバルの幼少 ようしょう 期 き は多難 たなん であった。アクバルは父 ちち フマーユーンがパシュトゥーン人 じん (アフガン人 じん )でスール朝 あさ の創始 そうし 者 しゃ シェール・シャー に北 きた インド の帝位 ていい を追 お われて流浪 るろう している時 とき に誕生 たんじょう した。また、フマーユーンは帝国 ていこく を再 さい 統一 とういつ するため、弟 おとうと カームラーン 、アスカリー 、ヒンダール と争 あらそ わねばならず、イラン を支配 しはい していたサファヴィー朝 あさ の庇護 ひご を受 う けることにした[ 8] 。
1543年 ねん 11月、フマーユーンはサファヴィー朝 あさ に亡命 ぼうめい するためイスファハーン に向 む かい、アクバルはカンダハールを統治 とうち していた叔父 おじ アスカリーのもとに人質 ひとじち に出 だ された[ 5] 。
1544年 ねん から1545年 ねん の冬 ふゆ 、アクバルはカンダハールのアスカリーのもとからカーブルを統治 とうち していた叔父 おじ カームラーンのもとに移 うつ された[ 5] 。
その後 ご 、1545年 ねん 11月15日 にち 、フマーユーンがアスカリーを打倒 だとう してカーブルに入城 にゅうじょう すると、アクバルは父 ちち と再会 さいかい した[ 5] 。だが、翌 よく 1546年 ねん 11月にフマーユーンがカーブルを追放 ついほう されると、アクバルはふたたびカームラーンの人質 ひとじち となった[ 5] 。なお、フマーユーンによるカーブル奪還 だっかん が行 おこな われているさなか、同年 どうねん 10月8日 にち にカームラーンの命令 めいれい によりカーブル城 じょう の城壁 じょうへき に晒 さら し出 だ され、包囲 ほうい 軍 ぐん の砲撃 ほうげき に会 あ う危機 きき に陥 おちい った[ 5] [ 9] 。このとき、アクバルの姿 すがた を見 み た砲兵 ほうへい 隊 たい 指揮 しき 官 かん のとっさの判断 はんだん により砲撃 ほうげき が中止 ちゅうし され、アクバルは難 なん を免 まぬか れた[ 9] 。
1547年 ねん 4月 がつ 27日 にち 、アクバルは叔父 おじ カームラーンがカーブルから逃 に げたのち、父 ちち フマーユーンと合流 ごうりゅう した[ 5] 。また、その年 とし の11月にアクバルは初 はじ めて家庭 かてい 教師 きょうし の指導 しどう を受 う けた[ 5] 。
だが、1550年 ねん 前半 ぜんはん にカームラーンがカーブルに帰還 きかん してくると、アクバルはまたしてもその人質 ひとじち になった[ 5] 。同年 どうねん 後半 こうはん 、フマーユーンがカーブルを奪還 だっかん し、アクバルは再 ふたた び父 ちち と合流 ごうりゅう した[ 5] 。
1551年 ねん 、アクバルは父 ちち フマーユーンによりガズニー 知事 ちじ に任命 にんめい され、翌 よく 1555年 ねん 7月 がつ に父 ちち がデリーを奪還 だっかん すると、11月にパンジャーブ太守 たいしゅ となった[ 5] 。なお、この間 あいだ 6月 がつ に後継 こうけい 者 しゃ に指名 しめい され、スール朝 あさ との戦 たたか いで戦功 せんこう のあったバイラム・ハーン が後見人 こうけんにん となった。
即位 そくい と第 だい 二 に 次 じ パーニーパットの戦 たたか い[ 編集 へんしゅう ]
翌 よく 1556年 ねん 1月 がつ 、フマーユーンが図書館 としょかん の階段 かいだん から落 お ちて事故死 じこし した。2月 がつ 14日 にち 、アクバルはデリーにおいて13歳 さい の若 わか さで即位 そくい した[ 3] 。なお、宰相 さいしょう のバイラム・ハーンが彼 かれ の摂政 せっしょう として補佐 ほさ にあたることとなった。
だが、即位 そくい 当初 とうしょ 、アクバルの統治 とうち は不安定 ふあんてい そのものであった。シェール・シャーの開 ひら いたスール朝 あさ などの敵対 てきたい 勢力 せいりょく がデリー の近辺 きんぺん にも残 のこ り活発 かっぱつ な活動 かつどう を行 おこな っており、その3人 にん の王 おう ムハンマド・アーディル・シャー 、イブラーヒーム・シャー 、シカンダル・シャー は健在 けんざい であった。だが、スール朝 あさ のヒンドゥー武将 ぶしょう ヘームー は彼 かれ ら3人 にん よりもさらに危険 きけん であった[ 10] [ 11] 。ヘームーはもともと野菜 やさい 売 う りの出 だし であったが、スール朝 あさ の軍 ぐん 総 そう 司令 しれい 官 かん ・宰相 さいしょう にまで上 のぼ りつめた人物 じんぶつ であった[ 10] 。
フマーユーン死後 しご すぐ、ヘームーは混乱 こんらん に乗 じょう じて挙兵 きょへい し、デリーとアーグラを占領 せんりょう した[ 10] [ 11] 。10月にデリーが占領 せんりょう されたとき、アクバルとバイラム・ハーンはパンジャーブ地方 ちほう でスール朝 あさ の残党 ざんとう 討伐 とうばつ にあたっていたが、ジャランダルにいた彼 かれ らにその知 し らせが届 とど くと、皇帝 こうてい の側近 そっきん である将校 しょうこう には恐怖 きょうふ が走 はし った。軍勢 ぐんぜい の数 かず は帝国 ていこく 軍 ぐん 2万 まん に対 たい し、ヘームーの軍勢 ぐんぜい は10万 まん を超 こ していたからだ[ 11] 。
将校 しょうこう らはこの大軍 たいぐん と戦 たたか うことは無理 むり があるとし、ひとまずカーブルに引 ひ き上 あ げたうえで新 あら たに兵員 へいいん を増 ふ やした後 のち 、再 ふたた びインドを征服 せいふく することを提案 ていあん した[ 11] 。だが、アクバルとバイラム・ハーンは今 いま すぐ戦 たたか うべきだとし、バイラム・ハーンは何 なに も抵抗 ていこう せずにデリーを敵 てき に明 あ け渡 わた したタールディー・ベグ を処刑 しょけい したため、退却 たいきゃく を主張 しゅちょう した将校 しょうこう は黙 だま り、軍 ぐん は士気 しき を取 と り戻 もど した[ 11] 。
同年 どうねん 11月5日 にち 、アクバル率 ひき いる軍勢 ぐんぜい はデリー 北郊 ほっこう のパーニーパット でヘームーの軍 ぐん と激突 げきとつ した(第 だい 二 に 次 じ パーニーパットの戦 たたか い )[ 12] [ 13] 。パーニーパットは起伏 きふく が連 つら なる広原 こうげん 地帯 ちたい であり、1526年 ねん にはこの地 ち でアクバルの祖父 そふ バーブルがローディー朝 あさ を破 やぶ り、ムガル帝国 ていこく を創始 そうし した歴史 れきし 的 てき な地 ち でもあった[ 12] [ 13] 。
両 りょう 軍 ぐん の戦力 せんりょく の差 さ は圧倒的 あっとうてき で、帝国 ていこく 軍 ぐん はヘームーの大軍 たいぐん に両翼 りょうよく を包囲 ほうい され、敗北 はいぼく 寸前 すんぜん に陥 おちい った[ 12] [ 13] 。ヘームーが勝利 しょうり したと思 おも われたとき、象 ぞう の上 うえ に乗 の って指揮 しき をしていたヘームーが片目 かため を矢 や で射 い られて意識 いしき を失 うしな い、彼 かれ の軍 ぐん は混乱 こんらん に陥 おちい った。
数時間 すうじかん 後 ご 、ヘームーの大軍 たいぐん は潰走 かいそう し、ヘームー自身 じしん も捕 と らえられ、アクバルの前 まえ に突 つ き出 だ された。バイラム・ハーンはアクバルに(異教徒 いきょうと を自 みずか らの手 て で殺害 さつがい した者 もの に与 あた えられる)「ガーズィー 」の称号 しょうごう を得 え るため、アクバル自 みずか らヘームーを処刑 しょけい するように促 うなが した[ 12] 。だが、アクバルは抵抗 ていこう できない敵 てき に自 みずか ら手 て を下 くだ すことを拒 こば み、バイラム・ハーンにその役目 やくめ を任 まか せ、自 みずか らはその剣 けん に手 て を添 そ えるにとどめた[ 12] 。こうして、ヘームーは処刑 しょけい され、第 だい 二 に 次 じ パーニーパットの戦 たたか いは終結 しゅうけつ した。
宮廷 きゅうてい 内 ない の対立 たいりつ と帝国 ていこく の実権 じっけん 掌握 しょうあく [ 編集 へんしゅう ]
少年 しょうねん 時代 じだい のアクバル
帝国 ていこく 軍 ぐん はヘームーの軍 ぐん を撃破 げきは しながら進 すす み、同月 どうげつ 7日 にち にアクバルは帝都 ていと デリーに入城 にゅうじょう した[ 12] 。また、アクバルの治世 ちせい に敬意 けいい を払 はら っていたアーグラなどデリー周辺 しゅうへん の都市 とし も帝国 ていこく に帰順 きじゅん した[ 12] 。アクバルの母 はは も状況 じょうきょう が安定 あんてい するとカーブルを出発 しゅっぱつ し、彼女 かのじょ らがパンジャーブに近 ちか づくと、アクバルは自 みずか ら一 いち 日 にち かけて母親 ははおや を出迎 でむか えに行 い った。それから2年 ねん 後 ご の1558年 ねん には、帝都 ていと がデリーからアーグラへと遷都 せんと された。
さて、バイラム・ハーンはアクバルの摂政 せっしょう として権勢 けんせい を誇 ほこ った。だが、彼 かれ はいささか傲慢 ごうまん で権力 けんりょく に対 たい して執着 しゅうちゃく するところもあり、またタールディー・ベグの処刑 しょけい は後 ご を引 ひ いたことも相 あい まって、貴族 きぞく らは反感 はんかん を抱 だ いていた[ 12] [ 13] 。そのうえ、彼 かれ が宮廷 きゅうてい で大 だい 多数 たすう を占 し めるスンナ派 は ではなくシーア派 は を信仰 しんこう しており、自身 じしん の彼 かれ が支持 しじ 者 しゃ やシーア派 は の者 もの を高官 こうかん に任 にん じたことは古参 こさん の貴族 きぞく から無視 むし されていると非難 ひなん を買 か った。
また、バイラム・ハーンは後宮 こうきゅう 勢力 せいりょく とも対立 たいりつ していた。それにはアクバルの王室 おうしつ の出費 しゅっぴ や、アクバルが叔父 おじ ヒンダールの娘 むすめ ルカイヤ・スルターン・ベーグム のみならず、カームラーンの親族 しんぞく の女性 じょせい とも結婚 けっこん しようとしたことでアクバルとバイラム・ハーンとの間 あいだ に面倒 めんどう なやりとりがあった。後宮 こうきゅう の女性 じょせい の存在 そんざい はバイラム・ハーンにとっては脅威 きょうい であった[ 14] [ 13] 。
そのうえ、アクバルが自身 じしん の地位 ちい や統治 とうち に責任 せきにん を持 も つようになると、バイラム・ハーンとの対立 たいりつ が鮮明 せんめい になった。彼 かれ はまたバイラム・ハーンを「バーバー・ハーン」(父 ちち なるハーン)
と呼 よ びつつも、皇帝 こうてい を凌 しの ぐ権力 けんりょく を持 も つ彼 かれ を内心 ないしん では恐 おそ れ、その掣肘 せいちゅう を煩 わずら わしく思 おも うようになっていた[ 13] 。アクバルは後宮 こうきゅう を支配 しはい していた母 はは のハミーダ・バーヌー・ベーグム、乳母 うば 頭 あたま のマーハム・アナガ、その息子 むすこ アドハム・ハーンという相談 そうだん 相手 あいて を得 え て、バイラム・ハーン失脚 しっきゃく の陰謀 いんぼう をひそかに企 くわだ てた。
こうして、1560年 ねん 3月 がつ 、ついにバイラム・ハーンの失脚 しっきゃく 計画 けいかく が実行 じっこう された。アクバルはマーハム・アナガらの知恵 ちえ を借 か り、バイラム・ハーンの失脚 しっきゃく 計画 けいかく を実行 じっこう した。まず、アクバルはバイラム・ハーンとともに首都 しゅと アーグラを離 はな れて狩 か りに出 で かけ、マーハム・アナガはデリーにいるアクバルの母 はは が病 やまい に倒 たお れたとの嘘 うそ の知 し らせをアクバルに入 い れた[ 15] [ 16] 。アクバルは病気 びょうき 見舞 みま いを口実 こうじつ にバイラム・ハーンのもとを離 はな れてデリーに向 む かい、バイラム・ハーンはアーグラへと戻 もど った[ 16] [ 15] 。また、ムヌイム・ハーンはマーハム・アナガの要請 ようせい で、バイラム・ハーンがアクバルの代 か わりにミールザー・ハキームを利用 りよう しないよう、彼 かれ を連 つ れてデリー に赴 おもむ いていた[ 15] 。
だが、計画 けいかく したのがマーハム・アナガだと分 わ かった場合 ばあい 、彼女 かのじょ はバイラム・ハーンに報復 ほうふく される可能 かのう 性 せい があった。そこで、彼女 かのじょ はアクバルを一旦 いったん デリーの外 そと に出 だ させ、そこからバイラム・ハーンとのやり取 と りをさせた。こうして、アクバルはバイラム・ハーン解任 かいにん を宣言 せんげん する旨 むね の勅 みことのり 令 れい をだし、バイラム・ハーンもこれを了承 りょうしょう し、クーデターは成功 せいこう したのである[ 16] [ 17] [ 18] 。
アクバルはバイラム・ハーンに彼 かれ は帝国 ていこく を自身 じしん で統治 とうち するという旨 むね を伝 つた え、メッカ 巡礼 じゅんれい を命 めい じて引退 いんたい を勧告 かんこく し、バイラム・ハーンもこれに従 したが って巡礼 じゅんれい に向 む かった[ 13] [ 19] 。だが、バイラム・ハーンは自身 じしん の宰相 さいしょう 位 い が部下 ぶか のバハードゥル・ハーン に与 あた えられたことで屈辱 くつじょく を味 あじ わい[ 16] 、さらにはグジャラートに着 つ いたとき自分 じぶん に恩 おん のある部下 ぶか ピール・ムハンマド・ハーン が追討 ついとう に向 む かってきたと知 し り、パンジャーブに戻 もど ってついに反乱 はんらん を起 お こした[ 18] 。
バイラム・ハーンの反乱 はんらん は半年 はんとし の間 あいだ は続 つづ いた。アクバルはアトガ・ハーン を追討 ついとう に向 む かわせ、バイラム・ハーンはジャランダルの戦 たたか い で敗 やぶ れ、反乱 はんらん は鎮圧 ちんあつ された[ 18] 。その後 ご 、バイラム・ハーンはムヌイム・ハーンに自身 じしん の摂政 せっしょう の称号 しょうごう が与 あた えられたことを知 し り、アクバルに反乱 はんらん を謝罪 しゃざい し、降伏 ごうぶく する旨 むね の文書 ぶんしょ を送 おく った[ 18] 。
バイラム・ハーンはアトガ・ハーンに捕 とら えられ、アクバルの面前 めんぜん に引 ひ き出 だ されたが、アクバルは親切 しんせつ に迎 むか え入 い れ、自身 じしん の私的 してき 顧問 こもん か地方 ちほう の太守 たいしゅ として働 はたら くか、あるいはメッカに巡礼 じゅんれい するか再 ふたた び選択肢 せんたくし を与 あた えた[ 18] [ 19] 。バイラム・ハーンはメッカ巡礼 じゅんれい を選 えら び、グジャラートへと赴 おもむ いた[ 18] 。
1561年 ねん 1月 がつ 31日 にち 、バイラム・ハーンはアフマダーバード 近郊 きんこう のパータン でアラビア半島 はんとう へ出発 しゅっぱつ する手 て はずを整 ととの えていたさなか、彼 かれ に個人 こじん 的 てき な恨 うら みのあるアフガン人 じん によって殺害 さつがい された[ 18] [ 19] 。アクバルは彼 かれ の死 し を悼 いた み、その妻 つま サリーマ・スルターン・ベーグム と息子 むすこ アブドゥル・ラヒーム・ハーン はアクバルに引 ひ き取 と られ、前者 ぜんしゃ はアクバルの妃 ひ となり、後者 こうしゃ はのちにアクバルの大臣 だいじん となった[ 18] 。
だが、アクバルはバイラム・ハーンを追放 ついほう してもまだ実権 じっけん を掌握 しょうあく できなかった。バイラム・ハーン失脚 しっきゃく 後 ご 、その追 お い落 お としを計画 けいかく したアクバルの乳母 うば マーハム・アナガ が最高 さいこう 権力 けんりょく 者 しゃ となったからである。
バイラム・ハーンの後任 こうにん である宰相 さいしょう バハードゥル・ハーンはマーハム・アナガの傀儡 かいらい でしかなく、政権 せいけん は彼女 かのじょ の息子 むすこ アドハム・ハーンやその与党 よとう によって組織 そしき されていた。ヴィンセント・スミス は彼女 かのじょ の一 いち 党 とう で固 かた められた体制 たいせい を「ペチコート・ガヴァメント」と呼 よ んでいる[ 17] 。
騎乗 きじょう するバーズ・バハードゥルとループマティーだが、マーハム・アナガの息子 むすこ でアクバル乳兄弟 ちきょうだい たるアドハム・ハーンがその立場 たちば を危 あや うくした。1560年 ねん にアドハム・ハーンはピール・ムハンマド・ハーンとともにマールワー へと遠征 えんせい に行 い き、1561年 ねん に同 どう 地方 ちほう を占領 せんりょう した。だが、アドハム・ハーンはマールワーの支配 しはい 者 しゃ バーズ・バハードゥル を取 と り逃 に がし、その寵 ちょう 妃 ひ で才色兼備 さいしょくけんび の詩人 しじん としても名高 なだか かったループマティー を自 じ 死 し させてしまった[ 20] 。さらに、アドハム・ハーンは君主 くんしゅ に戦利 せんり 品 ひん を全 すべ て送 おく る慣習 かんしゅう を破 やぶ るという重大 じゅうだい な過 あやま ちを犯 おか した[ 21] [ 20] 。アクバルは当然 とうぜん この権利 けんり を主張 しゅちょう し、自 みずか らマールワーに向 む かいその独善 どくぜん を抑 おさ えたため、アドハム・ハーンとの仲 なか は非常 ひじょう に悪 わる くなった[ 21] [ 22] 。
1561年 ねん 、ジャウンプル を統治 とうち していたウズベク人 じん 貴族 きぞく ハーン・ザマーン が叛意 はんい を示 しめ したため、アクバルは東方 とうほう に軍 ぐん を進 すす めて一時 いちじ 的 てき ではあったものの、これを服従 ふくじゅう させた[ 23] 。同年 どうねん 末 まつ 、アクバルはマーハム・アナガ子飼 こが いの宰相 さいしょう バハードゥル・ハーンを罷免 ひめん し、アトガ・ハーン を宰相 さいしょう に任命 にんめい した[ 21] [ 23] 。先帝 せんてい フマーユーン 以来 いらい の重臣 じゅうしん である彼 かれ はマーハム・アナガ一 いち 派 は に対抗 たいこう しうる存在 そんざい で、彼 かれ の妻 つま ジージー・アナガ もアクバルの乳母 うば だったため、アクバルから彼 かれ は「養父 ようふ 」と呼 よ ばれていた[ 16] 。
一方 いっぽう 、4月 がつ にマーハム・アナガの派閥 はばつ は振 ふ るわず、アドハム・ハーン帰還 きかん 後 ご もマールワー遠征 えんせい を行 おこな っていたピール・ムハンマド・ハーンが川 かわ で溺 おぼ れて死亡 しぼう してしまった。
また、重臣 じゅうしん ムヌイム・ハーン はアトガ・ハーンとの対立 たいりつ から、アドハム・ハーンにその暗殺 あんさつ を唆 そそのか していた[ 16] 。調子 ちょうし に乗 の りやすかったアドハム・ハーンはムヌイム・ハーンに唆 そそのか され、彼 かれ 自身 じしん もアトガ・ハーンが宰相 さいしょう であることが気 き にくわなかったため、その暗殺 あんさつ を計画 けいかく した[ 24] [ 16] 。
処刑 しょけい されるアドハム・ハーン
1562年 ねん 5月16日 にち 、アドハム・ハーンは大勢 おおぜい の部下 ぶか を連 つ れ、アーグラ城 じょう の公 おおやけ 謁殿で会合 かいごう をしていたアトガ・ハーンを短剣 たんけん で刺 さ し殺 ころ してしまった[ 16] 。このとき、アクバルは寝殿 しんでん で睡眠 すいみん 中 ちゅう だったが、騒 さわ ぎで目 め をさまし、事態 じたい を察 さっ して公 おおやけ 謁殿へと向 む かった。一方 いっぽう 、アドハム・ハーンは公 おおやけ 謁殿を後 のち にして後宮 こうきゅう の前 まえ で中 なか に入 い れるよう訴 うった えていたが、テラスでアクバルと遭遇 そうぐう してしまった[ 21] [ 16] 。アクバルは「よくも私 わたし の養父 ようふ を殺 ころ したな」と言 い い、膝 ひざ を屈 くっ したアドハム・ハーンは殴 なぐ られて床 ゆか にたたきつけられた[ 24] [ 25] 。それから、アドハム・ハーンは脳髄 のうずい が流 なが れ出 で るようテラスから逆 さか さにして2度 ど にわたり放 ひ り投 な げられ、あえなく絶命 ぜつめい した[ 20] [ 24] 。
マーハム・アナガはこのときデリーにいたが、アドハム・ハーンの処刑 しょけい を聞 き いてすぐさまアーグラへと駆 か けつけた。彼女 かのじょ はアクバルと面会 めんかい すると、アクバルは自 みずか ら丁寧 ていねい に事 こと の次第 しだい をすべて話 はな した。彼女 かのじょ はただ「陛下 へいか はよくなさいました」と言 い い、そのショックから立 た ち直 なお れずに40日 にち 後 ご に死亡 しぼう した[ 24] [ 20] 。
ムヌイム・ハーンはアーグラから逃 に げたものの捕 とら えられ、アーグラに連行 れんこう された[ 24] [ 23] 。アクバルは彼 かれ を赦 ゆる してその称号 しょうごう も回復 かいふく させたが、その権力 けんりょく はすべて奪 うば い単 たん なる一 いち 武将 ぶしょう とした[ 24] [ 23] 。
こうして、アクバルはようやく帝国 ていこく の実権 じっけん を握 にぎ ることが出来 でき た。マーハム・アナガの排除 はいじょ 後 ご 、皇帝 こうてい の権限 けんげん は格段 かくだん に強化 きょうか された[ 20] 。
アクバルは宰相 さいしょう 職 しょく の大権 たいけん を見直 みなお し、財務 ざいむ 長官 ちょうかん 、観察 かんさつ 長官 ちょうかん 、管財 かんざい 長官 ちょうかん 、司法 しほう 長官 ちょうかん の四 よん 長官 ちょうかん 体制 たいせい を強 し いて宰相 さいしょう に集中 しゅうちゅう した権限 けんげん を4分割 ぶんかつ し、宰相 さいしょう を常設 じょうせつ の官 かん から外 はず して名目 めいもく 的 てき なものとした。アクバルはこれにより、名実 めいじつ ともに[ 20] 実権 じっけん を握 にぎ ると、さまざまな出自 しゅつじ から自身 じしん の信頼 しんらい できる人材 じんざい を登用 とうよう して権力 けんりょく と軍事 ぐんじ 力 りょく を高 たか め、自 みずか ら帝国 ていこく の勢力 せいりょく の拡大 かくだい に乗 の り出 だ した[ 26] 。
だが、アクバルは後述 こうじゅつ のウズベクの反乱 はんらん 鎮圧 ちんあつ やラージプートとの同盟 どうめい 関係 かんけい 構築 こうちく などを行 おこな い、皇帝 こうてい 権 けん を確立 かくりつ する努力 どりょく を継続 けいぞく し続 つづ けた。
ラージプート の王 おう らと面会 めんかい するアクバル
実権 じっけん 掌握 しょうあく 後 ご 、アクバルはヒンドゥー教徒 きょうと である北 きた インドの土着 どちゃく 勢力 せいりょく ラージプート との同盟 どうめい 関係 かんけい の構築 こうちく を本格 ほんかく 的 てき に行 い った[ 26] 。ラージプートはアクバルが帝 みかど 権 けん を強化 きょうか する上 じょう でも重要 じゅうよう な存在 そんざい であった[ 26] 。
すでに実権 じっけん 掌握 しょうあく 前 まえ の1562年 ねん 1月 がつ には、アンベール王国 おうこく の君主 くんしゅ ビハーリー・マル の娘 むすめ と結婚 けっこん し、アンベール王国 おうこく と同盟 どうめい が結 むす ばれていた。また、彼 かれ のこれは実権 じっけん 掌握 しょうあく 前 まえ の皇帝 こうてい にとっては強力 きょうりょく な支持 しじ 者 しゃ となり、マーハム・アナガに対 たい する牽制 けんせい ともなった[ 23] 。
1564年 ねん 、ウズベク人 じん 貴族 きぞく が反乱 はんらん を起 お こした後 のち 、アクバルはそれまでのウズベク人 じん とペルシア人 じん からなっていた貴族 きぞく 層 そう に頼 たよ らず、インド出身 しゅっしん の貴族 きぞく を新 あら たに登用 とうよう する必要 ひつよう 性 せい を確信 かくしん した[ 26] 。それらはインド出身 しゅっしん のムスリムとラージプートであった[ 26] 。
アクバルはラージプートとの同盟 どうめい を特 とく に重視 じゅうし し、彼 かれ らの娘 むすめ を娶 めと っていくことで次々 つぎつぎ と彼 かれ らを貴族 きぞく に加 くわ えた[ 26] 。この政策 せいさく により、1580年 ねん までに貴族 きぞく の構成 こうせい はペルシア人 じん 貴族 きぞく が47人 にん 、ウズベク人 じん 貴族 きぞく が48人 にん 、ラージプート貴族 きぞく が43人 にん となっていた[ 26] 。
このように、アクバルはラージプートとは基本 きほん 的 てき に融和 ゆうわ 的 てき な態度 たいど をとり、大 だい 部分 ぶぶん のラージプートを味方 みかた に付 つ けることに成功 せいこう した[ 26] 。ラージプートの貴族 きぞく らは帝国 ていこく に自身 じしん の王国 おうこく の管理 かんり を委譲 いじょう し、帝国 ていこく の行政 ぎょうせい 官 かん に徴税 ちょうぜい を任 まか せたため、事実 じじつ 上 じょう ラージプートの領土 りょうど は帝国 ていこく の領土 りょうど となった[ 26] 。また、ラージプートはそれと引 ひ き換 か えに帝国 ていこく から俸禄の支払 しはら いを受 う け、帝国 ていこく と結 むす びつくことで名誉 めいよ と権威 けんい が得 え られた[ 26] 。
ゴンドワナの征服 せいふく ・ウズベクの反乱 はんらん 鎮圧 ちんあつ [ 編集 へんしゅう ]
ウズベク人 じん 貴族 きぞく の反乱 はんらん における象 ぞう の激突 げきとつ (ジャウンプル )
1564年 ねん 、アクバルは横暴 おうぼう 的 てき だったフワージャ・ムアッザムを処刑 しょけい したのち、ゴンドワナ地方 ちほう (英語 えいご 版 ばん ) を征服 せいふく するために軍勢 ぐんぜい を派遣 はけん した。この地方 ちほう の征服 せいふく は順調 じゅんちょう に進 すす んだものの、ゴンドワナ太守 たいしゅ のアーサフ・ハーン はこの地域 ちいき に半 はん 独立 どくりつ 的 てき な権力 けんりょく を打 う ち立 た て、2万 まん にも上 のぼ る巨大 きょだい な兵力 へいりょく を養 やしな うようになった。アクバルはこの地方 ちほう が帝国 ていこく の東南 とうなん 隅 すみ にあったため、これに介入 かいにゅう しなかった。
だが、同年 どうねん 7月 がつ にマールワー太守 たいしゅ に任命 にんめい されていたアブドゥッラー・ハーンが反乱 はんらん を起 お こした。帝国 ていこく ではウズベク人 じん は皇帝 こうてい の家臣 かしん であったが、ティムール朝 あさ を滅 ほろ ぼしたのも、祖父 そふ バーブルをサマルカンドから追 お いやったのもまたウズベク人 じん であった[ 26] 。アクバルは自 みずか ら反乱 はんらん の鎮圧 ちんあつ に向 む かい、これにグジャラートに敗走 はいそう させている[ 27] 。
1565年 ねん 、ウズベク人 じん の貴族 きぞく ハーン・ザマーンとその弟 おとうと バハードゥル・ハーンらの帝国 ていこく 東部 とうぶ で反乱 はんらん を起 お こした[ 28] 。バハードゥル・ハーンは宰相 さいしょう 解任 かいにん 後 ご 、ジャウンプルの任地 にんち にいた兄 あに のハーン・ザマーンと合流 ごうりゅう していた[ 28] 。反乱 はんらん の理由 りゆう は互 たが いの勢力 せいりょく 圏 けん の係争 けいそう であり、アクバルの帝 みかど 権 けん は安定 あんてい しなかった[ 28] 。このウズベク兄弟 きょうだい の反乱 はんらん を機 き に、アクバルは帝国 ていこく 東部 とうぶ の統治 とうち を盤石 ばんじゃく にすることを決心 けっしん し、みずからジャウンプルに向 む かった[ 28] 。
だが、ムヌイム・ハーンが間 あいだ に入 はい ったため決戦 けっせん は回避 かいひ され、両 りょう 軍 ぐん の間 あいだ で和 わ 約 やく が結 むす ばれた[ 28] 。また、このとき帝国 ていこく の権臣 けんしん や大 だい ジャーギールダールらの間 あいだ でも二 に 派 は に分 わ かれていた[ 28] 。ゴンドワナ太守 たいしゅ のアーサフ・ハーンは招集 しょうしゅう に応 おう じてアクバルの陣営 じんえい に赴 おもむ いたが、戦利 せんり 財宝 ざいほう を私蔵 しぞう した罪 つみ を追及 ついきゅう されるのを恐 おそ れた彼 かれ はハーン・ザマーンに保護 ほご を求 もと めている[ 29] 。この一時 いちじ 的 てき な和解 わかい はアクバルがハーン・ザマーンを倒 たお す実力 じつりょく を保持 ほじ していないことを意味 いみ していた[ 29] 。
帝都 ていと に戻 もど ったアクバルは軍 ぐん の指揮 しき 権 けん や統制 とうせい 権 けん などを強化 きょうか するなど改革 かいかく を行 おこな い、中央 ちゅうおう 政府 せいふ の強化 きょうか に反発 はんぱつ する東方 とうほう のハーン・ザマーンら半 はん 独立 どくりつ 勢力 せいりょく は恐 おそ れを抱 いだ き、1556年 ねん に反乱 はんらん を再 ふたた び起 お こした[ 30] 。この反乱 はんらん はアクバルの帝 みかど 権 けん に反発 はんぱつ する者 もの たちが一大 いちだい 連合 れんごう の性格 せいかく を帯 お び、アフガニスタンを統治 とうち していた皇 すめらぎ 弟 おとうと ミールザー・ハキームにインド侵略 しんりゃく を持 も ちかけるなどして連携 れんけい を取 と っていた[ 30] [ 26] 。
アフガニスタンを統治 とうち していたミールザー・ハキームはパンジャーブに侵入 しんにゅう してきたが、
アクバルはこれを撃退 げきたい した[ 30] [ 26] 。その後 ご すぐ、ドアーブ地方 ちほう で別 べつ の皇族 こうぞく ら数 すう 名 めい の反乱 はんらん が起 お きたがアクバルはこれを破 やぶ り、彼 かれ らはハーン・ザマーンとも折 お り合 あ いがつかなくなり、流浪 るろう の末 すえ に各個 かっこ 撃破 げきは された。皇帝 こうてい 権力 けんりょく の上昇 じょうしょう は皇族 こうぞく らの立場 たちば に変化 へんか をもたらし、臣従 しんじゅう か反逆 はんぎゃく かの選択 せんたく を余儀 よぎ なくさせていた[ 30] 。
まもなく、ゴンドワナ太守 たいしゅ アーサフ・アハーンが帰順 きじゅん すると、アクバルはウズベク兄弟 きょうだい の討伐 とうばつ に本腰 ほんごし を入 い れ、1567年 ねん に自 みずか らウズベク兄弟 きょうだい にいるマーニクプル を攻撃 こうげき した[ 31] 。帝国 ていこく 軍 ぐん は激流 げきりゅう を渡 わた ってハーン・ザマーンを襲 おそ って殺害 さつがい し、バハードゥル・ハーンも捕 とら えて処刑 しょけい した[ 31] [ 26] 。帝国 ていこく 軍 ぐん はアラーハーバードやヴァーラーナシーにまで示威 じい を行 おこな い、アワド地方 ちほう 一帯 いったい にその威令 いれい が行 い き届 とど いた[ 31] 。
ここにウズベクの反乱 はんらん は鎮圧 ちんあつ されたが、アクバルの行 おこな った戦後 せんご 処理 しょり は比較的 ひかくてき 緩 ゆる やかなものであった。その例 れい として、叛将の一人 ひとり イスカンダル・ハーンは罪 つみ を免 まぬか れ、もとのままのジャーギールを保証 ほしょう されている[ 31] 。また、ハーン・ザマーンのジャーギールはすべてムヌイム・ハーンに与 あた えられ、彼 かれ はジャウンプルの太守 たいしゅ となった[ 31] 。
チットールガル を攻撃 こうげき するアクバル
さて、先述 せんじゅつ したようにアクバルはほとんどのラージプートとの間 あいだ に同盟 どうめい 関係 かんけい を構築 こうちく することに成功 せいこう していたが、一部 いちぶ のラージプートは服属 ふくぞく を拒否 きょひ していた。メーワール王国 おうこく とブーンディー王国 おうこく である。ことにメーワール王国 おうこく はラージプート諸 しょ 王国 おうこく の中 なか で最 もっと も高 たか い家柄 いえがら 、
ラージプート諸 しょ 族 ぞく の宗室 そうしつ を自負 じふ していたため、服属 ふくぞく させることは容易 ようい ではなかった[ 32] デリー・スルターン朝 あさ 時代 じだい も幾 いく 人 にん かの王 おう が攻撃 こうげき したが、結局 けっきょく のところ服属 ふくぞく させることはできなかった。
そのため、1567年 ねん 10月 がつ にアクバルはメーワール王国 おうこく の首都 しゅと チットールガル を包囲 ほうい し、これに猛攻 もうこう を加 くわ えた(チットールガル包囲 ほうい 戦 せん )[ 32] [ 26] 。なお、この包囲 ほうい には先 さき に服属 ふくぞく したアンベール王国 おうこく の王子 おうじ バグワント・ダースも作戦 さくせん 参謀 さんぼう として加 くわ わっていた[ 32] 。
数 すう か月 げつ にわたる猛攻 もうこう の末 すえ 、1568年 ねん 2月 がつ にチットールガルは陥落 かんらく した[ 33] 。同年 どうねん 4月 がつ 、アクバルはアーグラへと帰還 きかん した[ 32] 。
1569年 ねん 3月 がつ 、今度 こんど はブーンディー王国 おうこく の君主 くんしゅ スルジャン・シング が籠城 ろうじょう するランタンボール城 じょう を包囲 ほうい し、数日 すうじつ 砲撃 ほうげき を加 くわ えたのち、ブーンディー側 がわ から和解 わかい の申 もう し入 い れがあった。ブーンディー王国 おうこく はメーワール王国 おうこく の封 ふう 臣 しん であったが、バグワーン・ダースとその息子 むすこ マーン・シングは帝国 ていこく に付 つ くよう説得 せっとく するためにスルジャン・シングと会見 かいけん した。アクバルはこのとき彼 かれ らの従者 じゅうしゃ の一人 ひとり に紛 まぎ れていたが、それが発見 はっけん されても驚 おどろ かずに交渉 こうしょう に加 くわ わり、講和 こうわ が成立 せいりつ した。
だが、メーワール王国 おうこく との戦 たたか いは依然 いぜん として続 つづ くこととなった。メーワール王 おう ウダイ・シング2世 せい はチットールガルが陥落 かんらく する前 まえ にすでに逃 に げており、彼 かれ は自身 じしん の名 な を冠 かん した都市 とし ウダイプル に遷都 せんと して帝国 ていこく に対抗 たいこう しようとした[ 33] 。
1572年 ねん にウダイ・シング2世 せい が死 し ぬと、その息子 むすこ プラタープ・シング が王位 おうい を継承 けいしょう し、ムガル帝国 ていこく に抵抗 ていこう した[ 33] 。彼 かれ はメーワール王国 おうこく の領土 りょうど の大半 たいはん を回復 かいふく したが、首都 しゅと チットールガルを取 と り戻 もど すことはできず、15年 ねん に死亡 しぼう した。
その後 ご 、プラタープ・シングの息子 むすこ アマル・シングが王位 おうい を継承 けいしょう して抵抗 ていこう を続 つづ け、アクバル死後 しご の1614年 ねん 2月 がつ になってようやく講和 こうわ が成立 せいりつ した[ 33] 。
1562年 ねん 、ピール・ムハンマド・ハーンの溺死 できし により喪失 そうしつ したマールワー地方 ちほう を回復 かいふく するため、第 だい 二 に 次 じ マールワー遠征 えんせい 軍 ぐん が派遣 はけん された。指揮 しき 官 かん はアブドゥッラー・ハーン・ウズベクであったが、指揮 しき 官 かん が占領 せんりょう 地 ち に定着 ていちゃく して中央 ちゅうおう の統制 とうせい から離 はな れることを恐 おそ れ、「皇室 こうしつ 直轄 ちょっかつ 領 りょう を確定 かくてい するため」にシハーブッディーン・アフマド・ハーン など多数 たすう の監督 かんとく 官 かん を遠征 えんせい 軍 ぐん に配属 はいぞく させた[ 23] 。
アクバルがマールワー地方 ちほう の獲得 かくとく にここまで重視 じゅうし した理由 りゆう としては、当時 とうじ 帝国 ていこく 東部 とうぶ でハーン・ザマーンが半 はん 独立 どくりつ 的 てき な立場 たちば でいたこと、またジャーギールダールらを結集 けっしゅう していたことがあげられる。石井 いしい 保 たもつ 昭 あきら は「南方 なんぽう のマールワーをしっかり皇帝 こうてい の手 て に確保 かくほ することは戦略 せんりゃく 上 じょう 重要 じゅうよう であった」と述 の べている。
ピール・ムハンマド・ハーンの水死 すいし 後 ご 、マールワーはまたしてもバーズ・バハードゥルの支配 しはい 下 か に入 はい っていた。帝国 ていこく 軍 ぐん は戦闘 せんとう を行 おこな ったが、1564年 ねん にはアブドゥッラー・ハーンが反乱 はんらん を起 お こすなどしたため、遠征 えんせい は長期 ちょうき のものとなった。
1570年 ねん 、アクバルはバーズ・バハードゥルに帰順 きじゅん を誘 さそ い、彼 かれ は帝国 ていこく に帰順 きじゅん を申 もう し入 い れ、マールワー地方 ちほう は帝国 ていこく の一 いち 州 しゅう になった。
スーラト に到着 とうちゃく したアクバル
アクバルはラージャスターンとマールワーを平定 へいてい したのち、グジャラート征服 せいふく へと目指 めざ した。アラビア海 かい に面 めん したグジャラート地方 ちほう は海外 かいがい 交易 こうえき の拠点 きょてん 都市 とし が多数 たすう あったばかりか、メッカ巡礼 じゅんれい の出発 しゅっぱつ 地点 ちてん でもあり、帝国 ていこく の発展 はってん には欠 か かせない地域 ちいき でもあった[ 33] 。1571年 ねん 、アクバルはグジャラート征服 せいふく のため、アーグラからファテープル・シークリー移 うつ った。
アクバルの治世 ちせい 下 か 、グジャラート地方 ちほう を支配 しはい していたのはグジャラート・スルターン朝 あさ (アフマド・シャーヒー朝 あさ )であった[ 33] 。このグジャラート・スルターン朝 あさ は父 ちち 帝 みかど フマーユーンも戦闘 せんとう を交 まじ えた相手 あいて であったが、征服 せいふく はできずにいた[ 33] 。だが、グジャラート・スルターン朝 あさ は混乱 こんらん 状態 じょうたい にあり、大 だい ジャーギールダール(有力 ゆうりょく 者 しゃ )のイティマード・ハーン は政敵 せいてき と争 あらそ うため、アクバルに支援 しえん を求 もと めて介入 かいにゅう するよう促 うなが した[ 34] 。
1572年 ねん 7月 がつ 、アクバルはグジャラートへ出陣 しゅつじん し[ 34] 、11月にグジャラート・スルターン朝 あさ の首都 しゅと アフマダーバードに入城 にゅうじょう した[ 33] [ 34] 。このとき、彼 かれ はイティマード・ハーンをはじめとして帰順 きじゅん してきた者 もの らを厚遇 こうぐう した[ 34] 。
アクバルはその後 ご もグジャラート征服 せいふく を進 すす め、12月グジャラートの港 みなと 市 し カンバート (カンベイ)を制圧 せいあつ した[ 34] [ 35] 。このとき、彼 かれ は船 ふね をカンベイ湾 わん に浮 う かべて海 うみ を見 み たが、そのころにポルトガル商人 しょうにん らが皇帝 こうてい の軍営 ぐんえい にあいさつにやって来 き た[ 34] >。
翌 よく 1573年 ねん 2月 がつ 、アクバルは港 みなと 市 し スーラトを包囲 ほうい し、制圧 せいあつ した[ 34] [ 35] 。この包囲 ほうい のさなか、ポルトガルのゴア副 ふく 王 おう から使節 しせつ が送 おく られ、アクバルに敬礼 けいれい して贈物 おくりもの を捧 ささ げていた[ 34] 。
6月 がつ 、アクバルは首都 しゅと ファテープル・シークリーに帰還 きかん して凱旋 がいせん した。だが、間 ま もなく反乱 はんらん が起 お きたため、8月 がつ に再 ふたた びアクバル自 みずか ら選 え りすぐりの精鋭 せいえい を率 ひき いて首都 しゅと を出 で た[ 35] 。このときの遠征 えんせい 軍 ぐん はインド屈指 くっし の強行 きょうこう 軍 ぐん として知 し られ、一 いち 日 にち 平均 へいきん 80キロで進軍 しんぐん し、わずか11日 にち でアフマダーバードを制圧 せいあつ した[ 35] 。
アクバルは首都 しゅと に帰還 きかん し、その際 さい に腹心 ふくしん のトーダル・マル を首都 しゅと から呼 よ び出 だ して戦後 せんご 処理 しょり にあたらせた[ 36] 。トーダル・マルは半年 はんとし の間 あいだ 、現地 げんち で行政 ぎょうせい の指導 しどう にあたらせたが、このとき得 え た経験 けいけん はその後 ご の帝国 ていこく 制度 せいど における行政 ぎょうせい 改革 かいかく に生 い かされた[ 37] [ 38] 。
グジャラートの征服 せいふく は帝国 ていこく にとって重要 じゅうよう なものであった。この征服 せいふく により、帝国 ていこく は西方 せいほう に領土 りょうど を拡張 かくちょう したのみならず、港 みなと 市 し スーラトなどの西方 せいほう 諸 しょ 港 みなと を通 とお して行 おこな う海洋 かいよう 諸国 しょこく との貿易 ぼうえき
を行 おこな うことが出来 でき るようになり、その関税 かんぜい 収入 しゅうにゅう は莫大 ばくだい なものであった[ 39] 。
グジャラート征服 せいふく 後 ご 、アクバルはベンガル地方 ちほう に目 め を付 つ けた[ 35] 。このガンジス川 がわ 一帯 いったい に広 ひろ がる地域 ちいき もまた、グジャラート地方 ちほう と同 おな じく重要 じゅうよう な地域 ちいき であった[ 35] 。
ベンガル地方 ちほう はベンガル・スルターン朝 あさ によって統治 とうち されており、王朝 おうちょう のアフガン系 けい 君主 くんしゅ らは帝国 ていこく に面 めん 排 はい 服従 ふくじゅう の態度 たいど をとっていた[ 35] 。だが、1572年 ねん にダーウード・ハーン・カララーニー が君主 くんしゅ となると、彼 かれ は金曜 きんよう 礼拝 れいはい の説教 せっきょう を皇帝 こうてい ではなく自身 じしん の名 な で唱 とな えさせ、独立 どくりつ 君主 くんしゅ であるかのように振 ふ る舞 ま っていた[ 35] 。
1574年 ねん 8月 がつ 、アクバルは急遽 きゅうきょ 自 みずか ら遠征 えんせい してムヌイム・ハーンの軍勢 ぐんぜい とも合流 ごうりゅう し、パトナを占拠 せんきょ し、ダーウード・ハーンを追放 ついほう した[ 35] [ 36] [ 40] 。彼 かれ はトーダル・マルを副将 ふくしょう としてムヌイム・ハーンに付 つ け、イティマード・ハーンやラシュカル・ハーンといった官僚 かんりょう も中央 ちゅうおう から派遣 はけん して督戦 とくせん にあたらせた[ 36] [ 40] 。
これにより、アクバルは監察 かんさつ らを通 とお してベンガル遠征 えんせい 軍 ぐん の状況 じょうきょう を知 し りえることが出来 でき た[ 40] 。彼 かれ らは皇帝 こうてい の大輪 たいりん のような役割 やくわり を果 は たし、1575年 ねん 4月 がつ にムヌイム・ハーンがダーウード・ハーンと和議 わぎ を結 むす んだ際 さい には、トーダル・マルは皇帝 こうてい の意志 いし を代弁 だいべん する形 かたち で交換 こうかん 文書 ぶんしょ に署名 しょめい を拒否 きょひ した[ 41] 。
同年 どうねん 10月 、ムヌイム・ハーンがベンガル遠征 えんせい のさなかに死亡 しぼう した。アクバルは後任 こうにん の太守 たいしゅ にハーン・ジャハーン を任命 にんめい し、ビハール太守 たいしゅ ムザッファル・ハーン と協力 きょうりょく して遠征 えんせい を継続 けいぞく した[ 41] 。
1576年 ねん 7月 がつ 、アクバルは新 あら たに大 だい 規模 きぼ な遠征 えんせい 軍 ぐん を派遣 はけん し、ガンジス川 がわ 西岸 せいがん のラージマハル でダーウード・ハーンを敗 はい 死 し させ、ベンガル地方 ちほう を併合 へいごう した[ 35] 。
一方 いっぽう 、ベンガル地方 ちほう の南西 なんせい に続 つづ くオリッサ地方 ちほう はクルダー王国 おうこく やアフガン勢力 せいりょく が割拠 かっきょ していたが、ビハール州 しゅう 太守 たいしゅ マーン・シングにより1592年 ねん 4月 がつ までに併合 へいごう された[ 35] 。
アクバル
カーブルを中心 ちゅうしん としたアフガニスタンは中央 ちゅうおう アジアのウズベク勢力 せいりょく やイランのサファヴィー朝 あさ に対 たい する前線 ぜんせん 地帯 ちたい であり、グジャラートやベンガルとは違 ちが った意味 いみ で重要 じゅうよう な地域 ちいき であった[ 35] 。この地域 ちいき はアクバルの弟 おとうと でカーブル太守 たいしゅ ミールザー・ハキームが支配 しはい していたが、彼 かれ はウズベク兄弟 きょうだい の反乱 はんらん にも参加 さんか するなど中央 ちゅうおう に反抗 はんこう 的 てき であった[ 35] 。
1580年 ねん から1581年 ねん にかけて、ミールザー・ハキームの乳兄弟 ちきょうだい マースーム・ハーン・カーブリー がベンガル・ビハール地方 ちほう で大 だい 規模 きぼ な反乱 はんらん を起 お こした[ 35] 。ミールザー・ハキームもこれに同調 どうちょう し、帝国 ていこく を東西 とうざい から挟撃 きょうげき しようと共謀 きょうぼう した[ 35] [ 42] 。
ベンガル・ビハールの反乱 はんらん はアクバル最大 さいだい の危機 きき でもあり、王座 おうざ が揺 ゆ さぶられるほどの出来事 できごと であった。この反乱 はんらん の原因 げんいん は中央 ちゅうおう 政府 せいふ の行政 ぎょうせい 改革 かいかく の強行 きょうこう や、1579年 ねん にベンガル太守 たいしゅ となったムザッファル・ハーンと中央 ちゅうおう から派遣 はけん された官僚 かんりょう との関係 かんけい 悪化 あっか 、それによる政務 せいむ の停滞 ていたい などがあげられる。
アクバルはトーダル・マルを派遣 はけん し鎮圧 ちんあつ にあたらせ、ベンガル太守 たいしゅ ムザッファル・ハーンを問責 もんせき する命令 めいれい を発 はっ し反乱 はんらん を押 お さえようとした[ 43] 。だが、宮廷 きゅうてい 内 ない でも彼 かれ らへの内通 ないつう 者 しゃ が続々 ぞくぞく と発覚 はっかく したうえ、反乱 はんらん はついにパトナにまで及 およ んだ。
1580年 ねん 4月 がつ 、ターンダーに退 しりぞ いた太守 たいしゅ ムザッファル・ハーンは殺害 さつがい され、鎮圧 ちんあつ を指揮 しき していたトーダル・マル がモンギールで長期 ちょうき にわたり籠城 ろうじょう を強 し いられたこともあった[ 43] 。
1580年 ねん 12月、ミールザー・ハキームの武将 ぶしょう がパンジャーブに侵入 しんにゅう したが、これは直 ただ ちに撃退 げきたい された。だが、今度 こんど はミールザー・ハキーム自 みずか らが15000騎 き を率 ひき いて侵入 しんにゅう してきた。アクバルはこれに断固 だんこ とした態度 たいど を取 と り、1581年 ねん 2月 がつ に大軍 たいぐん を率 ひき いてアフガニスタンへ遠征 えんせい を行 おこな い、カーブルへと向 む かった[ 35] 。軍 ぐん には8か月 げつ 分 ぶん の給料 きゅうりょう が払 はら われ、その総 そう 兵力 へいりょく は5万 まん 人 にん 、象 ぞう 5000頭 とう であった[ 44] 。
8月 がつ 、アクバルはミールザー・ハキームをヒンドゥークシュ山脈 さんみゃく に敗走 はいそう させ、カーブルへと入城 にゅうじょう した。その後 ご 、後任 こうにん のカーブル太守 たいしゅ に妹 いもうと のバフトゥンニサー・ベーグム を任 にん じた[ 35] 。
一方 いっぽう 、ベンガル・ビハールの反乱 はんらん では苦戦 くせん が続 つづ いていた。だが、アクバルのカーブル入城 にゅうじょう からほどなくして鎮圧 ちんあつ された[ 35] 。
1585年 ねん 、ミールザー・ハキームが死亡 しぼう すると、ウズベク系 けい シャイバーニー朝 あさ ブハラ・ハーン国 こく がカーブルに対 たい してさらに圧力 あつりょく をかけるようになった[ 45] 。その君主 くんしゅ アブドゥッラー・ハーン2世 せい はアフガン系 けい 部族 ぶぞく の協力 きょうりょく のもと、バダフシャーンを制圧 せいあつ していた。アクバルはこれを見 み て、首都 しゅと をファテープル・シークリーからラホールに移 うつ し、カーブルを帝国 ていこく 直轄 ちょっかつ 地 ち 化 か した[ 45] 。
また、アクバルはアブドゥッラー・ハーン2世 せい と協定 きょうてい を結 むす んだのち、アフガン系 けい 部族 ぶぞく 、特 とく にユースフザイ族 ぞく の鎮圧 ちんあつ に取 と り組 く んだ[ 45] 。このユースフザイ族 ぞく は強力 きょうりょく であり、1586年 ねん にはアクバルの腹心 ふくしん ビールバル が殺害 さつがい されるなど苦戦 くせん を強 し いられるなどしたが、最終 さいしゅう 的 てき に諸 しょ 部族 ぶぞく を支配 しはい 下 か に置 お いた。この戦 たたか いにより、カイバル峠 とうげ から中央 ちゅうおう アジア・西 にし アジアに抜 ぬ ける交易 こうえき 路 ろ が確保 かくほ できた[ 46] 。
また、同 おな じ1586年 ねん にアクバルはカシミール・スルターン朝 あさ も滅 ほろ ぼし、1589年 ねん までにカシミール地方 ちほう の征服 せいふく も完了 かんりょう した。1591年 ねん にシンド地方 ちほう も同様 どうよう に制圧 せいあつ し、1593年 ねん にはシンド地方 ちほう の君主 くんしゅ がラホールに赴 おもむ いて、アクバルに臣従 しんじゅう の誓 ちか いを立 た てている[ 46] 。こうして、ヒマラヤ山系 さんけい の要衝 ようしょう カシミール、インダス川下 かわしも 流域 りゅういき のシンド地方 ちほう がムガル帝国 ていこく の領土 りょうど に加 くわ えられた[ 46] 。
1598年 ねん 、アブドゥッラー・ハーン2世 せい が死亡 しぼう し、北西 ほくせい 方面 ほうめん におけるウズベクの脅威 きょうい が減少 げんしょう した。アクバルは北西 ほくせい 方面 ほうめん における安泰 あんたい を確保 かくほ すると、アーグラへと帰還 きかん した。
アクバル
こうして広大 こうだい な版図 はんと に多 おお くの非 ひ ムスリム を抱 かか えるようになった帝国 ていこく を支 ささ えるため、アクバルはムガル帝国 ていこく の制度 せいど の確立 かくりつ に乗 の り出 だ し、イスラーム法 ほう 上 うえ 異教徒 いきょうと に対 たい して課 か されていたジズヤ (人頭 じんとう 税 ぜい )を廃止 はいし するなど税制 ぜいせい を改革 かいかく した[ 47] 。
また、軍人 ぐんじん や官僚 かんりょう に、平時 へいじ から準備 じゅんび していることを義務付 ぎむづ けた兵馬 へいば の数 かず に応 おう じた位階 いかい (マンサブ )を与 あた えて官僚 かんりょう 機構 きこう を序列 じょれつ 化 か するとともに安定 あんてい した軍事 ぐんじ 力 りょく を確保 かくほ するマンサブダーリー制 せい を導入 どうにゅう した[ 48] 。1579年 ねん よりこのような一連 いちれん の改革 かいかく に反対 はんたい する動 うご きから大 だい 規模 きぼ な反乱 はんらん が起 お こるが、数 すう 年 ねん でこれが鎮圧 ちんあつ されると、ムガル帝国 ていこく の支配 しはい はかえって安定 あんてい に向 む かっていった。
税制 ぜいせい の面 めん では、スール朝 あさ のシェール・シャーが導入 どうにゅう した税制 ぜいせい を踏襲 とうしゅう した上 うえ でさらに改良 かいりょう したザブト制 せい を施行 しこう した。これは生産 せいさん 能力 のうりょく に応 おう じて土地 とち を4つの等級 とうきゅう に分 わ け、その上 うえ で、平均 へいきん 生産 せいさん 高 だか を算出 さんしゅつ してその3分 ぶん の1から5分 ぶん の1を税 ぜい として銭 ぜに 納 おさめ させるものであった[ 48] 。銭 ぜに 納 おさめ であったため、生産 せいさん 者 しゃ は市場 いちば に作物 さくもつ を販売 はんばい せざるを得 え ず、これにより流通 りゅうつう が盛 さか んになり、また生産 せいさん 力 りょく の増大 ぞうだい を推進 すいしん することとなった。
アクバル自身 じしん は統治 とうち に対 たい してとても責任 せきにん 感 かん を抱 だ いており、それをあらわすいくつかの言葉 ことば を残 のこ している[ 48] 。
「
「君主 くんしゅ のもっとも崇高 すうこう な資質 ししつ は、過 あやま ちを許 ゆる すことである」
」
アクバルは帝国 ていこく の統治 とうち において、かなり宗教 しゅうきょう 的 てき な融和 ゆうわ を重視 じゅうし した君主 くんしゅ であった[ 49] 。宗教 しゅうきょう 的 てき には中央 ちゅうおう アジア系 けい ・イラン系 けい のムスリムのみならず、土着 どちゃく のムスリムやヒンドゥー教徒 きょうと が数多 かずおお い帝国 ていこく の君主 くんしゅ として、アクバルはイスラーム教 きょう のみならず、ポルトガル人 じん がインドで宣教 せんきょう するキリスト教 きりすときょう に至 いた るまで、多様 たよう な宗教 しゅうきょう に対 たい して関心 かんしん を寄 よ せていたといわれる[ 49] 。
とくに神秘 しんぴ 主義 しゅぎ から強 つよ い影響 えいきょう を受 う けつつ諸 しょ 宗教 しゅうきょう を総合 そうごう 的 てき に尊重 そんちょう した彼 かれ 自身 じしん の宗教 しゅうきょう 姿勢 しせい は、アクバルの側近 そっきん アブル・ファズル がアクバルの命 いのち によって執筆 しっぴつ した年代 ねんだい 記 き 『アクバル・ナーマ 』に「ディーニ・イラーヒー (英語 えいご 版 ばん ) 」(「神 かみ の宗教 しゅうきょう 」の意 い )という名前 なまえ で書 か き残 のこ されている[ 50] 。
なお、ディーニ・イラーヒーとはアクバルの創始 そうし した新 しん 宗教 しゅうきょう であったとする説 せつ が非常 ひじょう によく知 し られている。だが、史料 しりょう 的 てき な裏 うら づけがなく、現在 げんざい ではほとんど否定 ひてい されている。
ファテープル・シークリー のディーワーニ・ハース
アクバルは建設 けんせつ 事業 じぎょう を盛 さか んに行 い った。治世 ちせい の初期 しょき につくられた建造 けんぞう 物 ぶつ ではデリーにある父 ちち フマーユーンの霊廟 れいびょう (フマーユーン廟 びょう )が名高 なだか い。1571年 ねん まで帝国 ていこく の宮殿 きゅうでん はデリーと並 なら ぶ北 きた インド の首府 しゅふ であるアーグラ に置 お かれていたが、アクバルは15世紀 せいき にローディー朝 あさ によって建設 けんせつ された旧 きゅう 城砦 じょうさい を1565年 ねん に赤 あか 砂岩 さがん で築 きず かれたアーグラ城塞 じょうさい に改修 かいしゅう し、この城市 じょうし には「アクバルの町 まち 」を意味 いみ するアクバラーバードの名 な が与 あた えられた。
また、1569年 ねん には帰依 きえ するチシュティー教団 きょうだん の神秘 しんぴ 主義 しゅぎ 者 しゃ (スーフィー )の影響 えいきょう を受 う けてアーグラの近郊 きんこう に周囲 しゅうい 11kmに及 およ ぶ市域 しいき をもった新都 しんと 、ファテープル・シークリー (「勝利 しょうり の都 と 」)の建設 けんせつ を始 はじ め、1574年 ねん から1584年 ねん までの10年間 ねんかん にわたって居城 きょじょう とした[ 51] 。
しかしファテープル・シークリーは水利 すいり が悪 わる く、1584年 ねん に首都 しゅと がラホール に移 うつ されると放棄 ほうき された。1598年 ねん までアクバルの都 と であったラホールの城砦 じょうさい もアクバルの造営 ぞうえい になるものを基礎 きそ としている。1598年 ねん 以降 いこう は、帝国 ていこく の首都 しゅと は再 ふたた びアーグラへと移 うつ った。
アクバルとターンセーン
父 ちち の流浪 るろう 生活 せいかつ の最中 さいちゅう に生 う まれ、中央 ちゅうおう アジア出身 しゅっしん の武人 ぶじん に囲 かこ まれて育 そだ ったため、幼少 ようしょう 時 じ に文字 もじ を学 まな んだ経験 けいけん がなく無学 むがく であったが、サファヴィー朝 あさ の宮廷 きゅうてい で絵 え の手 て ほどきをうけたこともあり、芸術 げいじゅつ を愛好 あいこう し学問 がくもん を保護 ほご した[ 52] 。アブル・ファズルを始 はじ め側近 そっきん には優 すぐ れた文化 ぶんか 人 じん が集 つど い、サンスクリット からペルシア語 ご への翻訳 ほんやく 事業 じぎょう も行 おこな われた。
また、アクバルは画家 がか を優遇 ゆうぐう して絵画 かいが にも力 ちから を入 い れ、アクバルの時期 じき からムガル絵画 かいが が最盛 さいせい 期 き を迎 むか えていくこととなった。また、音楽 おんがく も奨励 しょうれい し、ヒンドゥスターニー音楽 おんがく の大 だい 音楽家 おんがくか ミーヤーン・ターンセーン を宮廷 きゅうてい に招 まね いた。ターンセーンの音楽 おんがく は、20世紀 せいき にいたるまでヒンドゥスターニー音楽 おんがく の正統 せいとう となり、その後 ご の音楽 おんがく に多大 ただい な影響 えいきょう を与 あた えた[ 50] 。
晩年 ばんねん のアクバル
アクバル廟 びょう
治世 ちせい の末期 まっき にはデカン 地方 ちほう に進出 しんしゅつ し、1591年 ねん から1600年 ねん にかけてデカンにあったデカン・スルターン朝 あさ (ビジャープル王国 おうこく 、ゴールコンダ王国 おうこく 、アフマドナガル王国 おうこく 、ビーダル王国 おうこく 、ベラール王国 おうこく 、アフマドナガル王国 おうこく )と戦 たたか って版図 はんと を南 みなみ に大 おお きく広 ひろ げた[ 46] 。アクバルはこの時期 じき 、同 おな じくムスリム5王国 おうこく と対立 たいりつ していた南 みなみ インドのヴィジャヤナガル王国 おうこく のヴェンカタ2世 せい と何 なん 度 ど も書簡 しょかん のやり取 と りをしていた。1600年 ねん にはアクバルの使節 しせつ がヴェンカタ2世 せい とヴィジャヤナガル王国 おうこく の首都 しゅと チャンドラギリ で面会 めんかい している。
サリーム、ムラード 、ダーニヤール の三 さん 人 にん の息子 むすこ が生 う まれたが、ムラードとダーニヤールは早世 そうせい し、アクバルの晩年 ばんねん には長男 ちょうなん のサリームのみが生存 せいぞん していた[ 53] 。アクバルはサリームを幼少 ようしょう から甘 あま やかすことはなく育 そだ てたが、サリームは父親 ちちおや に青年 せいねん 期 き から反抗 はんこう 的 てき で、そのため両者 りょうしゃ の関係 かんけい は悪 わる く、サリームはアヘン を吸引 きゅういん していた(その複雑 ふくざつ な関係 かんけい は1614年 ねん ごろに描 えが かれたムガル絵画 かいが からもうかがえる)[ 53] [ 54] 。
そのため、サリームとは仲 なか が悪 わる く、後継 こうけい 者 しゃ 問題 もんだい で失意 しつい の晩年 ばんねん を送 おく ることとなった。1600年 ねん 、サリームはアクバルに反旗 はんき を翻 ひるがえ して挙兵 きょへい し、和解 わかい のために父 ちち が送 おく ったアブル・ファズルを殺害 さつがい した[ 53] [ 55] 。これを受 う けてアクバルは1604年 ねん 、サリームを討伐 とうばつ するためサリームの本拠 ほんきょ であるアラーハーバード へと進軍 しんぐん したが、アクバルの母 はは ハミーダが倒 たお れたことで軍 ぐん を引 ひ き上 あ げ、やがてサリームが謝罪 しゃざい することで和解 わかい が成立 せいりつ した[ 56] [ 55] 。
1605年 ねん 10月3日 にち に赤痢 せきり が発症 はっしょう し、回復 かいふく しないまま同年 どうねん 10月27日 にち に崩御 ほうぎょ した。アクバルの崩御 ほうぎょ 後 ご 、サリームが第 だい 4代 だい 皇帝 こうてい ジャハーンギール として即位 そくい した[ 56] 。アクバルの遺骸 いがい はアーグラ近郊 きんこう のシカンドラーに運 はこ ばれて葬 ほうむ られ、その地 ち にアクバル廟 びょう が建設 けんせつ された[ 57] 。
映画 えいが
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