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ギルバート・エリオット=マーレイ=キニンマウンド (初代ミントー伯爵) - Wikipedia コンテンツにスキップ

ギルバート・エリオット=マーレイ=キニンマウンド (初代しょだいミントー伯爵はくしゃく)

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初代しょだいミントー伯爵はくしゃくギルバート・エリオット=マーレイ=キニンマウンド
Gilbert Elliot-Murray-Kynynmound,
1st Earl of Minto
生年月日せいねんがっぴ 1751ねん4がつ23にち
出生しゅっしょう グレートブリテン王国の旗 グレートブリテン王国おうこく
スコットランドの旗 スコットランドエディンバラグレイフライアーズ
ぼつ年月日ねんがっぴ 1814ねん6月21にちまん63さいぼつ
死没しぼつ イギリスの旗 イギリス
イングランドの旗 イングランドハートフォードシャーしゅうスティーブニッジ
出身しゅっしんこう オックスフォおっくすふぉド大学どだいがくクライスト・チャーチ
エディンバラ大学だいがく
所属しょぞく政党せいとう ホイッグとう
称号しょうごう 枢密すうみつ顧問こもんかん (PC)
王立おうりつ協会きょうかいフェロー (FRS)
配偶はいぐうしゃ アンナ・マリア・アミアンド
親族しんぞく 初代しょだいオークランド男爵だんしゃく義弟ぎてい
だい2だいミントー伯爵はくしゃく息子むすこ
だい4だいミントー伯爵はくしゃく曾孫そうそん

在任ざいにん期間きかん 1807ねん7がつ31にち - 1813ねん10月4にち
国王こくおう ジョージ3せい
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初代しょだいミントー伯爵はくしゃくギルバート・エリオット=マーレイ=キニンマウンドえい: Gilbert Elliot-Murray-Kynynmound, 1st Earl of Minto [ˈɛliət ˈmʌri kɪˈnɪnmənd]1751ねん4がつ23にち - 1814ねん6月21にち)は、イギリス政治せいじ植民しょくみん行政ぎょうせいかん。1777ねんから1797ねんまでは「サー・ギルバート・エリオットじゅん男爵だんしゃく」、1797ねんから1813ねんまでは「初代しょだいミントー男爵だんしゃく」としょうされていた。

1807ねん7がつ31にちから1813ねん10月4にちまでインドの総督そうとく当時とうじ職名しょくめいはベンガル総督そうとく)をつとめた。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

スコットランドエディンバラグレイフライアーズまれ[1]庶民しょみんいん議長ぎちょう候補こうほになったほか海軍かいぐん本部ほんぶ委員いいんLord of the Admiralty)をつとめただい3だいじゅん男爵だんしゃくサー・ギルバート・エリオット英語えいごばん長男ちょうなん[2]母親ははおやアグネス・ダルリンプル=マーレイ=キニンマウンドは初代しょだいステア子爵ししゃくジェイムズ・ダルリンプル英語えいごばん曾孫そうそんちちおとうとニューファンドランド植民しょくみん英語えいごばん総督そうとくジョン・エリオット海軍かいぐん大将たいしょうおとうと外交がいこうかんヒュー・エリオット英語えいごばんいもうとおっと初代しょだいオークランド男爵だんしゃくウィリアム・イーデン英語えいごばんがいるほか、ロバート・ルイス・スティーヴンソンアーサー・セントクレアらと縁戚えんせき関係かんけいにある。

はじ家庭かてい教育きょういくけ、1763ねんごろからパリデイヴィッド・ヒュームしたまなび、オノーレ・ミラボーう。1768ねんオックスフォおっくすふぉド大学どだいがくクライスト・チャーチ、1769ねんリンカーン法曹ほうそういんはいり、1772ねん学位がくいM.A.)を、1774ねん5がつ4にち法廷ほうてい弁護士べんごし資格しかく取得しゅとく[1][2][3]。1793ねんオックスフォおっくすふぉド大学どだいがくから民法みんぽうがく博士はかせごうD.C.L.)を授与じゅよ[1]

1776ねんよりよく1777ねんまでノーサンバーランドしゅうモーペス英語えいごばん選挙せんきょ選出せんしゅつ[4]、1777ねんより1784ねんまでロックスバラシャー英語えいごばんしゅう選挙せんきょ選出せんしゅつ[4]、1786ねんより1790ねんまでバーウィック選挙せんきょ選出せんしゅつ[4]、1790ねんより1795ねんまでコーンウォールしゅうヘルストン英語えいごばん選挙せんきょ選出せんしゅつ庶民しょみんいん議員ぎいん[4]議会ぎかいではホイッグとう所属しょぞくし、したしくなったエドマンド・バークウォーレン・ヘースティングズイライジャ・インピー英語えいごばん攻撃こうげきするのをたすけた[2]。2庶民しょみんいん議長ぎちょう候補こうほとなるが落選らくせん。1793ねん枢密すうみつ顧問こもんかんれっせられる[5]

1794ねんイギリス・コルシカ王国おうこくAnglo-Corsican Kingdom; アングロ・コルス王国おうこく)のふくおう1797ねん、「カウンティ・オヴ・ロックスバラにおけるミントーのミントー男爵だんしゃく」(Baron Minto, of Minto in the County of Roxburgh; グレートブリテン貴族きぞく)に叙位じょい[6]。またせい母親ははおやのものとわせて「エリオット=マーレイ=キニンマウンド」へあらためた。1799ねんから1801ねんまでオーストリア駐箚ちゅうさつ特命とくめい全権ぜんけん公使こうし英語えいごばん[7]。1802ねん王立おうりつ協会きょうかいフェロー選出せんしゅつ[8]1806ねんイギリスひがしインド会社かいしゃ監督かんとくきょく総裁そうさいとなるが、同年どうねんベンガル総督そうとく指名しめい[1][2][9][3]

1809ねんシク王国おうこく君主くんしゅランジート・シングRanjit Singh)とのあいだ不可侵ふかしん条約じょうやく締結ていけつサトレジかわ国境こっきょうとする[2]。1810ねん、インド貿易ぼうえき中継ちゅうけいとして重要じゅうようだったフランスりょうモーリシャスとうレユニオンしま(ブルボンとう)を占領せんりょう[2]。1811ねんナポレオン戦争せんそうによるホラント王国おうこく滅亡めつぼうじょうオランダりょうひがしインドトーマス・ラッフルズ派遣はけんジャワ島じゃわとう征服せいふく

1813ねん、「カウンティ・オヴ・フォーファーにおけるメルガンドのメルガンド子爵ししゃく」(Viscount Melgund, of Melgund in the County of Forfar)および「カウンティ・オヴ・ロックスバラにおけるミントーのミントー伯爵はくしゃく」(Earl of Minto, of Minto in the County of Roxburgh; ともに連合れんごう王国おうこく貴族きぞく)に叙位じょい[10]翌年よくねんハートフォードシャースティーブニッジにて死去しきょウェストミンスター寺院じいんほうむられた[1][2]

家族かぞく[編集へんしゅう]

1777ねん1がつ3にちジョージ・アミアンド英語えいごばんじゅん男爵だんしゃくむすめであるアンナ・マリア・アミアンドと結婚けっこんし、彼女かのじょとのあいだ三男さんなんさんじょをもうけた[2][9][3]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e Cokayne, George Edward [in 英語えいご], ed. (1893). "MINTO.". Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom. Vol. 5 (1 ed.). London: George Bell & Sons. pp. 318–319. 2013ねん11月23にち閲覧えつらん
  2. ^ a b c d e f g h Rigg, James McMullen (1889). "Elliot, Gilbert (1751-1814)" . In Stephen, Leslie (ed.). Dictionary of National Biography (英語えいご). Vol. 17. London: Smith, Elder & Co. pp. 255–257.
  3. ^ a b c Doyle, James William Edmund [in 英語えいご], ed. (1886). "MINTO.". The Official Baronage of England. Vol. 2. London: Longmans, Green & Co. pp. 501–502. 2013ねん11月23にち閲覧えつらん
  4. ^ a b c d Thorne, R. G. (1986). "ELLIOT MURRAY KYNYNMOUND, Sir Gilbert, 4th Bt. (1751-1814), of Minto, Roxburgh.". In Thorne, R. G. (ed.). The History of Parliament: the House of Commons 1790-1820. London: Boydell & Brewer. 2013ねん11月23にち閲覧えつらん
  5. ^ "No. 13576". The London Gazette (英語えいご). 24 September 1793. p. 852. 2013ねん11月23にち閲覧えつらん
  6. ^ "No. 14052". The London Gazette (英語えいご). 7 October 1797. p. 968. 2013ねん11月23にち閲覧えつらん
  7. ^ "No. 15156". The London Gazette (英語えいご). 6 July 1799. p. 682. 2013ねん11月23にち閲覧えつらん
  8. ^ "Elliot; Gilbert (1751 - 1814); 1st Earl of Minto and Viscount Melgund". Record (英語えいご). The Royal Society. 2013ねん11月23にち閲覧えつらん
  9. ^ a b Burke, Bernard, Sir [in 英語えいご], ed. (1869). "MINTO.". A genealogical and heraldic dictionary of the peerage and baronetage of the British Empire (31st ed.). London: Harrison. p. 775. 2013ねん11月23にち閲覧えつらん
  10. ^ "No. 16700". The London Gazette (英語えいご). 2 February 1813. p. 251. 2013ねん11月23にち閲覧えつらん

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

先代せんだい
カースルレー子爵ししゃく
イギリスの旗 イギリス監督かんとくきょく総裁そうさい
1806ねん
次代じだい
トマス・グレンヴィル
先代せんだい
サー・ジョージ・バーロウ代行だいこう
ベンガル総督そうとく
1807ねん - 1813ねん
次代じだい
だい2だいモイラ伯爵はくしゃく
先代せんだい
創設そうせつ
ミントー男爵だんしゃく
初代しょだい: 1797ねん - 1814ねん
次代じだい
ギルバート・エリオット=マーレイ=キニンマウンド
先代せんだい
創設そうせつ
ミントー伯爵はくしゃく
初代しょだい: 1813ねん - 1814ねん
次代じだい
ギルバート・エリオット=マーレイ=キニンマウンド