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バルビゾン

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ミレー落穂おちぼひろ』(1857ねんオルセー美術館びじゅつかん

バルビゾン(バルビゾンは、École de Barbizon)は、1830ねんから1870ねんごろにかけて、フランス発生はっせいした絵画かいが一派いっぱである。フランスのバルビゾンむらやその周辺しゅうへん画家がか滞在たいざい居住きょじゅうし、自然しぜん主義しゅぎてき風景ふうけい農民のうみん写実しゃじつてきえがいた。1830ねんともばれる。

おも画家がか

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コローミレーテオドール・ルソートロワイヨンディアズデュプレドービニーの7にん中心ちゅうしんてき存在そんざいで、「バルビゾンのななほし」とばれている。広義こうぎにはバルビゾンをおとずれたことのあるあらゆる画家がかふくめてそのようにぶこともあり、総勢そうぜい100にん以上いじょうおよぶ。

なお、写実しゃじつ主義しゅぎ画家がか位置いちづけられるクールベはバルビゾンにはふくまれていないが、同派どうは交流こうりゅうフォンテーヌブローえがいた作品さくひんもあることから、関連かんれんする重要じゅうよう画家がか位置付いちづけられている。

バルビゾン画家がか作品さくひん

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バルビゾンされる画家がか関連かんれん画家がか一覧いちらん

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背景はいけい

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19世紀せいきには絵画かいが文学ぶんがくなど芸術げいじゅつ分野ぶんやにおいて自然しぜん主義しゅぎ風潮ふうちょうこり、それまでの聖書せいしょ神話しんわなど宗教しゅうきょうてき歴史れきしてき画題がだい理想りそうされた風景ふうけいえが伝統でんとうてき風景ふうけいたいして、アトリエでの画面がめん構成こうせいよりも野外やがいでの自然しぜん観察かんさつ重視じゅうしし、それまで画題がだいになりなかったフランス国内こくないもり渓谷けいこく田園でんえん風景ふうけいなどの自然しぜん風景ふうけいえが風潮ふうちょうまれた。このような傾向けいこうしょうじた要因よういんとして、19世紀せいきにはパリなど都市としでの環境かんきょう悪化あっかしょうじていたこともげられる。自然しぜん風景ふうけいイタリアギリシアなど外国がいこくもとめる傾向けいこうもあったが、1820年代ねんだいにはフォンテーヌブローのもり風景ふうけい画題がだいとして着目ちゃくもくされ、サロンへも風景ふうけい出展しゅってんされはじめる。1835ねんには一部いちぶりん地区ちく指定していされ、1852ねんにはパリ-リヨンあいだ鉄道てつどう開通かいつう往来おうらい容易よういになり、名所めいしょしるした地図ちず販売はんばいされていた。20年代ねんだいにはバルビゾンのほかマルロットやシャイイなどへ分散ぶんさんしていたが、やがてバルビゾンへしゅうじゅうし、40年代ねんだいには盛期せいきむかえる。60年代ねんだいには印象派いんしょうは影響えいきょうけ、ノルマンディー地方ちほう沿岸えんがんなど各地かくち分散ぶんさんし、田園でんえん風景ふうけいのほか水辺みずべ風景ふうけいおおえがかれた。

日本にっぽんへの影響えいきょう

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日本にっぽんにはフランスとも共通きょうつうする農村のうそん風景ふうけいや、風景ふうけいおもとする南画なんが伝統でんとうなどバルビゾン受容じゅようされる素地そじがあったことから、明治めいじ以降いこう影響えいきょうけた画家がかおおい。1876ねん明治めいじ9ねん)にこう美術びじゅつ学校がっこう教授きょうじゅとして来日らいにちしたアントニオ・フォンタネージはバルビゾン影響えいきょうけた画家がかで、西洋せいよう絵画かいが技法ぎほうまな教材きょうざいとしてバルビゾン画家がか模写もしゃおこなわれていた。黒田くろだ清輝きよてる久米くめ桂一郎けいいちろう河北かわきたみちかい浅井あさいただしらはフォンテーヌブローをおとずれてグレーむら滞在たいざいした。黒田くろだらはバルビゾン後続こうぞく意識いしきしつつ、主流しゅりゅうであった印象派いんしょうは影響えいきょう独自どくじ画風がふう形成けいせいした。明治めいじにはミレーをはじめバルビゾンかかわる評伝ひょうでん出版しゅっぱんされ、徳富とくとみ蘆花ろか夏目なつめ漱石そうせき文学ぶんがくしゃ紹介しょうかいもあり、一般いっぱんにも紹介しょうかいされ幅広はばひろ受容じゅようされた。大正たいしょうには、ミレーは労働ろうどうへの賛美さんびえが画家がかとして、社会しゃかい主義しゅぎプロレタリア文学ぶんがくとも関係かんけいし、1933ねん昭和しょうわ8ねん)には岩波書店いわなみしょてん商標しょうひょうにも使つかわれている。戦後せんごには山梨やまなし県立けんりつ美術館びじゅつかんがミレーの代表だいひょうさくたねまくひと』を落札らくさつ購入こうにゅうし、ミレーとバルビゾン画家がか中心ちゅうしんとした展示てんじ構成こうせいおこなっている。

関連かんれん項目こうもく

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